2009年11月09日

犯人捜し

学校で物がなくなったなどの事件が起きた時、誰がやったのかということが問題になると思うが、犯人がわかれば問題解決なのかということを問いかけてみたい。

何かがなくなれば、探すのだろうが、持ち主自身の過失でなくて、盗難に遭ったとなれば、盗んだ者への怒りを持つのは人情だろう。

しかし、学校とは特別の場所だということを忘れてはいけない。
学校も特別だが、

成人が何かを盗めば、窃盗罪に問われる。
だが、未成年については事情が違う。
それは、少年法という法律があるからだ。

触法少年に対する行政機関による保護処分について定めた1922年に制定された旧少年法(大正11年法律42号)を戦後期に全面改正して成立した。

少年法では未成年者には成人同様の刑事処分を下すのではなく、原則として家庭裁判所により保護更生のための処置を下すことを規定する。ただし、家庭裁判所の判断により検察に逆送し刑事裁判に付さしめることもできるが、その場合においても不定期刑や量刑の緩和など様々な配慮を規定している(51条、52条、58条、59条、60条等。少年保護手続の項目も参照)。なお、少年に対してこのような規定をおくのは、未成年者の人格の可塑性に着目しているためとされている。

2007年改正で、少年院送致の対象年齢は「おおむね12歳以上」となる。法務省は「おおむね」の幅を「1歳程度」とするため、11歳の者も少年院収容の可能性がある。

本法でいう「少年」とは20歳に満たない者を、「成人」とは満20歳以上の者をいい (2条1項) 、性別は無関係である。
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
未成年は社会的に未熟で、未熟なうちに刑事罰を科してはかわいそうだというのが趣旨と言えるだろう。

remizerable.jpg学校においては法律があるから、というより、学校はあくまで教育の場であるということを忘れてはならないだろう。

未成年が少年法で守られていても、場合によっては成人と同じ刑事罰が科されることもある。
だからと言って、そういう方向に追いやるのは、学校の敗北と私は考える。

罪を憎んで人を憎まず

という言葉があるが、犯人を憎む前に、どうしてそういう事態に至ったかを考えてみるべきだろう。

そういえば、先生たちの昼食が盗まれたことがある。

土曜日に会議を行い、出前の置いてある隣室に行ってみると、カツ丼がなくなっていた。
犯人は、間もなくわかった。

教室のゴミ箱から、器が出てきた。
そこから探っていって、1人の生徒が盗み出して食ったということがわかった。

親を呼ぶと、母親がきれいに着飾って「ウチは仕事が忙しいので、子どもの弁当まで・・・」と言い出した。

盗みはいけないことだが、そんなに飢えに耐えかねるまで放っておく親に腹が立った。

この話を思い出すと、ユーゴーの「レミゼラブル」も思い出す。
小説ではあるが「人間とは・・・そうなのだ」とつくづく感じさせられる。

kozetto.jpg

ミリエル司教は実に偉大な人だ。
教師は、この司教のような心を持つべきだと思った。

世の中には、本当に本人の責任なのかと思われる事件もある。


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posted by edlwiss at 20:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒指導

2009年11月08日

普天間基地問題

それぞれの言い分がわからないでもないが。

okinawa.jpg自分にとっての都合だけで意見を言っていても、話はまとまらない。
沖縄の人の立場、行政側の立場、政党の主張を聞いていても疑問が出てくるばかり。

沖縄の人が基地は迷惑といのは理解できる

だが、沖縄から出ていってくれたらそれでいいというわけでしょうか?

子どもに、大会で「基地はいらない」「他へ行ってください」と言わせているが、子どもは本当に理解して言っているのでしょうか?

基地は必要ないと言う人がいるが

基地がなくてよいなら、そんなにいいことはありません。
話をもう少し拡大して考えるなら、世界中にある軍事基地、兵器がなくなれば、どれだけよいでしょうか?

日本に基地をなくしても大丈夫だという、説得力のある考えはありますか?

米軍基地が日本からなくなり、それで日本の安全が守られるのなら、私も大賛成です。

基地問題の本質は何か

基地がなくなることが目的でしょうか?
そうではなく、危険、生活騒音といったことではないでしょうか?

日本の安全上、米軍基地は必要というなら、どこかの県、住民が負担しなければなりません。

オレのところから出ていってくれれば、それでいいんだというエゴはどうかと思います。
どこかで妥協点を見いださなければなりません。

とすると、危険や騒音を回避する手段は、基地を移転してもらうというのも一つの案ですが、住民の方が移動するというのも案ではないかと思います。

基地周辺に住む人々に対しては、特別の対策、つまり防音対策、生活特別手当の他、移住してもよいと言う人については、国が責任を持って土地、家を斡旋するというのも案だと思うのですが。

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posted by edlwiss at 19:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治

2009年11月06日

川口順子・元外相の質問に唖然

国会中継を視聴した。

自民党の、桝添要一・元厚労相、脇雅史・議員、荒井広幸・議員らの質問は厳しくも的確な質問で聞き応えがあった。

西田昌司・議員(自民)は鳩山首相と小沢代表の献金、資金問題を追及したが、パフォーマンスを意識しすぎたようで、かえって感心しなかった。

「今の発言では、国民は誰1人として納得していません」

と言い切ったり、事実関係はわからないのに「もし〜だとしたら」と始めて、そのうちそれが勝手に断定となり責任を迫った。

この人は、考え方の論理に問題があるとと思った。
また、口調が強ければ、説得力があるというものではない。

鳩山首相は例の調子で、淡々と答えていたが、原口大臣は論理性を欠く西田議員の質問にムッとした表情で「事実を明らかにして言ってください」と切り捨てた。

それでも、国会の質疑応答は政変後、まともになったと感じた。
麻生政権の時は、首相からして人を見下げたような、文句あるかというレベルの低い調子だったが、与党も野党もはるかにまともな発言をするようになったと感じた。

だが、呆れた人もいた。
それは、川口順子・元外相の質問だ。
以前はテレビにたまに映る姿を見ただけで、この人がどういうことを言うのだろうと言うことはわかっていなかったが、今回はこの人の考え方がわかるきっかけとなった。

出身校 東京大学 エール大学大学院
前職 通商産業省 外務大臣 サントリー株式会社常務取締役


という経歴を見ると、頭がいいんだなという先入観を持ってしまうが、今回の国会の発言は呆れたものである。

「給油の継続をやめる代わりに、どういう援助を考えていますか?」

との質問をし、鳩山首相、岡田外相は

「民政支援で援助を検討しています」

と答えていた。

川口氏はこれに満足せず。

「給油補給は、テロ対策の援助だから、答えになっていない」

と言う。

やりとりを聞いていると、この川口氏の頭では、武力の援助は武力を持ってしなければ代わりにならないと思っているらしい。

日本は憲法制約上、もともと戦力を行使することはできない。
補給活動も後方支援で間接的なものであるが、考え方によっては戦闘を支援していると考えられなくもない。

その論争はともかくとして、兵士に対する援助とは直接に武力を行使することだけが援助ではなく、食料援助や道路などのインフラ整備だって援助と考えられると思うが、川口氏の頭では給油活動の援助の代わりは、何か戦闘にかかわるものでなければ、援助と考えられないらしい。

要するに、思考の幅が狭いのである。
この人はもともと狭いのか、歳とともに狭くなってきたのかと考えながら表情を見ると「この人は老けたなあ」と思った。

怒ったような、老人特有の頑固な表情が見えた。
中継しているのに、説明の図表の前をチラチラ動いたり、何か心の余裕もないという感じで「ああ嫌だ」という気になってきた。

難関の東大も入学試験で入れる。
その入学試験は一定の範囲の問題である。
つまり、答えのわかっているものへの回答である。

社会に出れば、どこかに答えが書いてあるというものばかりではない。
そんな時、要求されるのは、創造力、応用力である。

改めて、経歴に惑わされず

「この人は、今、何を言っているんだ」

と冷静に受け止めることが大切だと思った。

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posted by edlwiss at 19:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治

2009年11月03日

悪いのはバレたこと

日本は経済的復興とともに、心を失ってきたと言われてきました。

よく言われることは、自分さえよければよいという利己主義の考え方。

ただ、この利己主義個人主義とよく間違われています。

このことは前にも述べました。
個人主義というのは、自分さえよければいいと言う考えではありません。

個人主義(こじんしゅぎ、英: individualism)は、国家や社会の権威に対して個人の権利と自由を尊重することを主張する立場。あるいは共同体や国家、民族、家の重要性の根拠を個人の尊厳に求め、その権利と義務の発生原理を説く思想。ラテン語のindividuus(不可分なもの)に由来する。対語は全体主義・集団主義。

個人主義は、個々の人間の人格の独自性と自律性[1]を重んじる立場であり、その時々に形成された場の雰囲気に流されることのない、一個人としての一貫性のある深く統合された思想と責任ある行動を高く評価する。

個人主義は、他者の拒絶や排除によって成り立つ利己主義とは異なり、自己のみならず他者の人格をも尊重することをもって初めて達成しうるものである。他人に対するように自分を尊重し、自分に対するように他人を尊重しなければこういった考え方は十分に機能せず、エゴイズムの暴走を招くことになる。そのため高度な知性と自己統制を必要とするスタイルであるといえよう。
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

利己主義は問題ですが、私がそれに伴って問題だと思うようになったのは

悪いのはバレること

という考えの台頭だと思います。

特に、この考え方は汚職など公務員の犯罪によく見られることだと思います。

汚職が明るみに出るたびに、関係者が記者会見で

「二度とこのようなことが起こらないように・・・」

と言いますが、言葉だけで、本当に反省しているという気持ちが伝わってきません。

むしろ、ぴったりする言葉としては

「バレてしまってすみません」

ではないかと感じるのです。

この、悪いことは、悪いことをしたことではなくて、バレたのが悪いという風潮が社会に浸透してきたのだと思います。

子どもはあたなたのコピーです

という政府の公報が、かつてありましたが、子どもは社会の鏡ではないかと思います。

だから、わたしが子どもたちを対象にアンケートをとったことがありますが、驚いたことは、やはり

バレるからいけない

わからなければいい

という答えがかなり多かったことです。

最近、明るみになった冤罪の足利事件もそんな感じだと思います。

捜査関係者で謝罪した人はいますが、どうみてもマスコミを通じてのポーズと見えてしまいます。

本当に悪かったと反省しているなら、菅谷さんが要求している検察側の捜査の問題点を振り返って、洗い直すことを行うべきだと思います。

しかし、どう見ても、バレてしまったからには仕方がない、早く終わりにしたい、捜査の中身を追及されたくないという感じです。

最高裁で菅谷さんに有罪の判決を出した裁判官のコメントにも呆れます。

裁判官は、間違って出した判決に対して、謝る必要はないと言っています。


そして、理由として「法廷では提出された資料によって判断するしかないから」と言っています。

これでは、ウソでも検察が出した資料によって判決が決まるということになってしまいます。
ということは、裁判所や裁判官は必要ないということになってしまいます。

これは、いい訳にならないいい訳をしているのであって、やはりバレちゃしょうがないと言っているのが本音でしょう。

今年は大分県で教育の事件がありましたが、これもどうでしょう?
たまたまバレただけと思っている人は多くないでしょうか?

東国原知事が当初「裏金はないですね」と何度も念を押したにもかかわらず、裏金問題は出てきました。
この時、多くの人はやはりそうかと思ったんではないでしょうか。

uragane.jpg現在は名古屋市も2億円の裏金問題が追及されています。
これも、一度や二度の話ではないので、やはりバレたか、という感じでしょう。

このような社会の空気、つまり大人が作っている社会で子どもは教育されないはずがありません。

だから、学校においても、先生がいくらきれいな言葉を並べても、子どもはウラがあると思っていると見た方がいいでしょう。

子どもは、先生が言う表向きの言葉をそのまま真に受けるのではなく、むしろ、そういう先生の、普段は見えにくい生活場面を見て、表向きとどのくらい矛盾があるかを観察していると見た方がよいと思います。

ということは、子どもが普段は見えにくい先生の姿を見たとき、ウラも表もないと知った時、逆にいい意味での、子どもの驚きは大きいと言えるでしょう。

つまり、先生が、子どもに言う言葉の説得力を持つということは、そういうことだと思います。

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posted by edlwiss at 17:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2009年10月30日

本音を見抜かないと時間のムダ

こちらがどんなに真剣に話しかけても、いっこうに話が進展しない場合があります。

肝心な話題はどこかに行ってしまって、言葉尻をつかんだり、ちょっとしたミスにつけ込んで、そんなことばかりに時間をとられる場合があります。

こういう場合は、そのやっかいな相手の本音を疑ってみる必要があります。

その本音とは

1.自分が偉いと認めてもらいたい
2.相手に嫉妬している
3.相手にコンプレックスを感じていて、相手をやり込めることが目的
4.とにかく否定されることが嫌だ
などです。

相手の本音が上記のような場合、まじめに討論しようとしてもムダであると言えます。

1.自分が偉いと認めてもらいたい

こういう人は、なるべく自分を知らない人の集まりで、自分から話題を切り出します。

私の知っている人で、自分はいっぱしの音楽家であると、いつも認めてもらいたいと思っている人がいます。

彼はクラシック音楽にあまり詳しくない人の集まりで、例えば

「僕は、かつてヨーロッパにいたとき、ロリン・マゼールがチェコフィルの常任指揮者をやっているとき、助手をしていました」

などと言います。

彼はアマチュアの楽団で、指揮のまねごとのようなことをやっていますから、素人は指揮ができる人と思っています。

だから、話を聞いている人が感心して、すごいんだと思っていれば、彼は満足なのです。

しかし、こういう人の話におかしなところを発見したとしても、質問してはいけません。
ごまかしの答えが返ってきて「ああ、そうなんですか」と納得したり、納得したふりをして納めればよいですが、決して

「あの−、マゼールってチェコフィルの指揮者になったことはないと思うんですが?」

などと、質問してはいけません。
嫌われることを承知の上での質問なら、構いません。

逆に飲み代を全部持たせようと思ったら

「凄いんですねえ、演奏会での指揮ぶりを見たら、この人はただ者ではないと思っていました。さすがですね」

などとやった方がいいでしょう。

近年、ネットの充実で、あちこちに掲示板が増えてきたので、そこに進出する人もいます。
掲示板では、なかなか正体がわかりませんから。

当然、こういう人から実りある対話はできないですから、真剣にならないことです。
それより、相手を褒めておいた方が、あとあと都合がよいかも知れません。


2.相手に嫉妬している

心の中では相手が凄いので、うらやましくてしょうがないというのが本音。

こういう人の前では、自分の優れた業績などちらつかないようにすべきです。
何かで入選したなんて話は禁物。

同席した友人が、あなたの功績を話題を出したら、火消しに努めるべきでしょう。

3.相手にコンプレックスを感じていて、相手をやり込めることが目的

2の相手に嫉妬しているに似ているが、自分が他人より劣っているということが我慢ならないので、相手をこき下ろして降参させたいという気持ちを持っている。

こういう相手には、降参して、反論しない方がよろしい。

4.とにかく否定されることが嫌だ

わがままな子どものようである。

間違いを指摘しても納得しなかったら、それ以上何も言わないことが肝心。
相手の口から「間違っていました」と言わせるまでがんばろうと思わないこと。

逆に、間違っていることを指摘したら「間違っていました」とか「そうですか、ありがとう」なんて言う人はとてもいい人ですね。

とにかく、最近は「オレは凄いんだ」とか「自分以外はみんなバカ」の風潮も多くなってきましたから、相手の本音をよく見極めて、適当に切り上げることも必要だと思います。

taninwomikudasu2.jpg

他人を見下す若者たち (講談社現代新書)
という本もありますが、他人を見下すのは若者とは限りません。
というより、結構、歳のいった人にも多い。つまり、年齢には関係なく、そうういう風潮が多くなってきたようです。

歳の多い人の場合は「そうなりたかったのだけれど、なれなかった」と言う人「いつしか歳を取ってしまったが、歳を取っただけなのに、何か自分が凄いと勘違いしている人」がいます。

いや、勘違いだけの人は問題ありません。
自分が未熟でしたと認めますから。
また、自分が未熟だと気づくことは、自分のレベルが低いということでもないと思います。

むしろ、それは、ソクラテスの「無知の知」に通ずるところがあるのではないでしょうか?

ものごとに秀でた人はみな謙虚です。
凄いことをやっているなあと思うのに、態度は謙虚です。
それどころか「もっと勉強しなければ」と言います。

私は音楽が好きなのですが、昔、少し尺八を習ったとき、山本邦山という都山流の名手を知りました。

尺八でヴィヴァルディのピッコロ協奏曲を吹いてしまうのには驚きました。
この方が後、人間国宝となられましたが、その頃「やっとわたしも、みなさんといっしょに演奏ができるレベルになってきたかなあと思います」と言ってみえたのにはびっくりしたものです。

学校の先生も、歳を取るにつれ怖くなる人と優しくなる人がいると言った人がいます。

ここで言う怖くなる人とは、厳しい人ではなく、だんだん衰えて怒りっぽく人を指しています。

優しくなる人とというのは、歳とともに自分の未熟さを知り、他人にやさしくなるという意味です。

まさに、実るほど頭を垂れる稲穂かなです。

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posted by edlwiss at 21:28 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2009年10月29日

そんないい方法があるのなら・・・

実際、私はクラスでお金がなくなったということを経験したことがある。

その時は非常に困った。

途方にくれたと言ってよい。

だが、最終的にはよい結末でホッとした記憶が、今でも強く残っている。

それでは、どんな方法をとったのか?

クラスでお金がなくなった時は○○するなどというマニュアルはない。

しかし、ふと気がついたときは、大人ともあろう者、先生ともあろう者が

「そんなにいい方法があるなら、教えてくれ」
とか「ここに書いてくれ(書け)」

などと言う人が増えてきて、呆れるやら驚くやらである。

率直に言って、頭は大丈夫かと思う。

さらに嫌気がさすのは、そこにやっかみとか嫉妬が存在する。

学芸会で出演者が全員主人公という教育の効果か「オレは」という自尊心の強い人が増えてきたように思う。

昨年亡くなったのだが、私より20以上年上のおばちゃん先生が、昔
「私にも、その教え方を勉強させてください」
と新米の私に言われたのはすごいと思う。

逆に、私が、いいことは誰からも謙虚に学ぼうという姿勢を教えてもらったと思う。

知らないことは、誰にでも

「すみません。知らないので教えてください」

と言おうと思うようになった。

さて、なくなったお金の問題はどう解決したかということだ。
いや、人によっては、それは解決ではないという人がいるかも知れないが、私は今でも最良の解決ではないかと思っている。

困った時は偉そうにせず、子どもにも正直に困った態度を示そう

というのは、どうしようもなく困った時は、いつも子どもが助けてくれたというか解決してくれたと思っているからだ。

これは、問題の解決を子どもに丸投げすることではない。
ともに、一緒になって解決に取り組むということだ。
それぞれが、観客にならず一体となって取り組むということである。

時間をかけて話し合う

学級会を開いて、様々な意見を出し合った。

自分によい案があるわけではなかった。

授業では、最終的には先生が答えを示すことができるが、こういう問題では、そんな答えはどこにもない。

不安に駆られながら、子どもと何時間も話し合った。

わかってきたことは、盗まれたらしいということだった。

誰も傷がつかない方法

なぜ、困るかというと、犯人がわかればよいということでもなく、なくなった金を弁償すればよいということでもない。

話し合いをしているうちに、ふと、私にあることが思いついた。

子どもに言った。

「もし、そのお金を持っている人がいたら、そのお金は先生のところへないしょで持ってきてほしい」
「そうしてくれたら、先生はその人の名前を誰にも言わないと約束する」
「みんなも絶対に犯人捜しをしないと約束してほしい」

と、この3つのことを言った。

これが、うまくいくかどうかは、もちろん自信などなかった。

私は子どもたちに、本当に真剣に心をこめて語った。

それだけだ。

その後、期待もせず、ほとんど忘れかけていた頃、私は入院している母の病院に行った。

母が

「今日ねえ、2人子どもが来てねえ」

と言い出した。

話を聞くと、お金を盗った子どもがお姉さんに連れられて、お金を返しに来たと言うのだ。

もちろん、私にはそれが誰かはわかった。

翌日、私は子どもたちの前で

「約束を守ってくれて、お金は返ってきた。だからみんなも約束を守って欲しい」

という意味のことを言った。

みんな納得したように思えたし、それから、犯人を追及する空気もなかった。

着地点はこういうことだが、人によっては、これをいろいろな思いでみるひとがいるだろう。

でも、私はよかったと思っているし、あのときの子どもたちに感謝している。

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posted by edlwiss at 18:26 | Comment(1) | TrackBack(0) | 生徒指導

2009年10月28日

クラスでお金がなくなった、どうしますか?その2

honkinokyoiku.jpgクラスでお金がなくなるというのは厄介な問題である。

では、この問題をどう解決すべきか?
あるいは、どうしたら解決できるのか?

1.問題の捉え方

2.問題解決のあり方(着地点)

の二つを指導する側が正しく共通理解しておく必要がある。

お金がなくなったというのも、問題だが、こういう問題の場合、人によって捉え方が違うことがある。

不要なお金を持ってくるやつが悪い

「不要なお金をもってこない」という決まりがあるのだから、持ってくる者が悪い。
これだけでよいのだろうか?

こう考える中にも「決まりを守らない者が悪い」で押し通そうとする人と「いや、それだけで教師の責任は逃れられるのか?」という方向に考えがいく人がいるかも知れない。

いずれにしても、これは指導者である教師が自分の責任追及に考えが及ぶという心配をするということであって、そういう姿そのものが子どもに影響を与えるものである。

少々の金なら弁償して終わりにしたい

たとえば、1000円ぐらいなら、担任の自分が出してやって解決としたいという考え。


盗んだやつが悪い、徹底的に調査して、犯人を捜す

こういう考えになると、犯人捜しの手段を考えることになる。

すると、犯人捜しの手段は?

(1)1人1人個室に呼んで面接をやる。

(2)犯人らしいと思う者の名前を書かせる。

などの手段をとりますか?

そして、

(1)犯人が見つかった場合

(2)見つからなかった場合

(3)犯人だということになった者が否定している場合

(4)犯人ではないが、誰かの圧力で「私がやりました」
  と言っているかも知れない

犯人が見つかった場合、それで解決

犯人が見つかったのだから、事件は解決だととの考え。

さあ、どうしましょう?

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posted by edlwiss at 15:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒指導