効率化と誤りのないという信頼性のため、加速しているのだと思います。
信頼性とは、予測したような動きをするということですが、唯一、予想したように動くとは限らないのが人間です。
また、そこが人間の良さでもあり悪さでもあり、人間がまさに人間と言われる所以なのかも知れません。
優れた経済学者が投資に長けているとも言えません。
それは、投資の難しさを表しているとも言えますが、予測不可能なのは、人の心理が要素にあるからです。
誰かの一言で、株も上がったり下がったりします。
結局、投資のプロもアマチュアもトータルでの勝率は同じぐらいだそうです。
どんなに経済学を学んだとしても、人間が介在する限り、計算しきれない部分があるのです。
■人の心に注目する必要
シェークスピアの小説「ジュリアス・シーザー」では「ブルータス、お前もか」が印象的な言葉ですが、シーザーを支持していた群衆の前で、ブルータスがシーザーを暗殺します。
ブルータスに対して群集は猛烈な怒りを持ちますが、直後のブルータスの名演説により、群集の心理は変わります。
群衆は「ブルータス万歳」と言うようになるのです。
この場面は、人間がいかに不確定なものかを知らされるところです。
昨日の敵は今日の友
なんて言葉もあります。
だから、人間は恐ろしいとも言えます。
人の心の中は、決して見えないものですから、よけいに不安があります。
(超能力者は別ですが)
人の心の中は見えないというところから、様々なドラマができるとも言えますが、フィクションでない実在の夫婦でも互いの心はわかりません。
無事定年を迎えたサラリーマンが、これからは、苦労をかけた妻と海外旅行をしてみたいと、ハワイ旅行の切符を買って帰宅すると、食卓で妻から「別れたい」という言葉を発せられたというドラマを見ました。
■人の心はわからないからどうする?
唯一、計算に入らない人間をどうするか?というのが、私にとっては課題でした。
それで、私が出した答えは、ひとことで言えば人を束縛しないということでした。
人が動く時(仕事をする時)、それは義務で動いているのか、自主的に動いているのかでは、内容や能率に違いが出てくると思います。

部活動を全入制にして、きまりとして参加しなくてはならないことにしている学校もあります。
そういう場合、生徒がきまりだから参加しているのか、自主的に参加しているのかは見えにくい場合があります。
「もし、参加が自由だとしたら、練習に来るだろうか?」ということも考えてみます。
また、個々の生徒の生活考えた場合、やはり個々の生徒の生活事情というものもあります。
だから、あまりにも参加を厳しくすると、休むときには理由が必要ということで、練習に出たくないと思った時は理由を作って休む、つまりサボるということになります。
私は生徒に「ウソをつく」とか「サボる」という経験をして欲しくないと思いました。
(人は、ウソをつくことによって、ウソつきになると思います)
ウソをついたりサボったりすると、それがバレなくても、人の心は悪くなると思います(自分にウソはつけませんから)。
「休みたい」と思ったら、あれこれ理由を探さなくてもいい「休みたいです」と正直に言えばいいと私は言いました(指導しました)。
それに「サボリたくなるというのは、何か部活におもしろくないところがあるのではないか」という面も考えました。
つまり「部活動の運営に問題があるのではないか」という反省の機会が持てるようにという意味でも、きまりで厳しく縛ったり、例外を一切認めないというやり方をしないように考えました。
特に休むための理由がなくても、時には休んでみて、部活動を外から見るのもいいのではという考えもあります。
音楽の部活なら、本来、音楽が楽しくて参加するというのが、一番良いと考えます。
それだけでなく、入部当初はそれほど興味はなかったが、続けるうちに熱が入ってきたとなるように運営をしたいと思ったのです。
会社で言えば、第一志望で入った会社でなくても、勤めるうちに会社が好きになったという会社が理想だと思うのです。
部活でも会社でも部員や社員が、どれほど自主的に参加しているかということが、結果の質に影響してくるのだと思うのです。
以前に紹介しましたが、私は部活動の運営において開始時間を厳格にしました。
そうする以上は終わりの時間も厳しく守るようにしました。
部活動の時間の終わりには、練習時間を打ち合わせの時間(ミーティング)をとりました。
パートごとのノートを作り、そこに思ったことは何で書けるようにしました。
もちろん、顧問に対しても意見を書けるようにしました。
これらの策は、成員が「やらされる」から「やる」という心に向かうことと、指導者自らも運営に対する反省材料を得るためです。
これが、私の言う「忠誠心」を高めるということでもあります。
この意図が、少なくともある程度は成功したと思えるのは、サボリはなかったこと、休める権利はあってもあまり使われなかったことにも表れていると思います。
また、部活動終了後にも、生徒たちは「今日の練習は思わしくなかった」と思った時、楽器店で部屋を借りて練習していったことがあったということでも、自主性は感じられます。
今年も、夏に部活動の同窓会が計画されています。
同窓会には、もう親になっている者も集まるので、そこでは本音が聞けるかも知れません。
【参考】
ちゅう‐せい【忠誠】Yahoo辞書
忠実で正直な心。また、忠義を尽くすこと。「国家に―を尽くす」「―を誓う」
ちゅう‐せい【忠誠】日本大百科全書(小学館)Yahoo!百科事典より
一般的には自我を超えた客観的な大義名分や理念、または自我の属する上級者、集団、制度などに対する愛着・傾倒の感情・態度をいう。この感情がもたらすものは、忠誠の対象を相対的に長期的に喜んで支持し、そのために行動することであり、ある程度の道徳的・感情的・物質的犠牲を払うことをいとわないという態度である。政治的忠誠とは、政治的共同社会の生活において重要な政治的対象に向けられた忠誠であり、その対象には、公式的制度、政党、利益集団、政治指導者、階級、軍隊、憲法、伝統、象徴や神話、歴史と民族的使命などが含まれる。政治的忠誠は、愛国(郷)心patriotismと法的義務obligationとの中間に位置する。それは愛国心と比べると、感情的にはよりクールで、その基礎においてより合理的で、その対象において包括性の度が低く、義務と比べると、より暖かで、合理性の度が低く、より包括的である。政治的忠誠はある政治システムの政治文化の一部を構成し、その諸対象とその相互連関、強度、影響範囲、パターンは、それぞれの政治システムの作動能力や安定―不安定に重要な影響を及ぼす。
政治的忠誠のパターンは、歴史的に変化してきている。たとえば古典古代のギリシア、ローマにおいては、市民のポリス的共同体への全人格的忠誠は、最高の価値とされた。古代末期から中世にかけては、一方ではカトリック教会とその教義への宗教的忠誠が最高の価値とされ、他方では封建主義の地方的で半人格的な忠誠が存在したが、一般的には前者が後者に優越していた。近代、とくに18世紀以降になると、「国民」ないし「民族」の概念が、もっとも包括的な大衆的政治的忠誠の対象となるが(とくにフランス革命以降の「ナショナリズムの時代」)、他方、近代資本主義の展開に伴って、労働運動等においては社会主義思想の影響もあって「階級への忠誠」が「国民・国家への忠誠」と相克するようになった。第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)に伴ういわゆる第二インターナショナルの崩壊は、この相克の劇的事例である。
今日、発展途上国においては、国民的忠誠と国民的自己同定感情(アイデンテイフイケーシヨン)の創出が、最重要政治課題となっているが、それとは対照的に、先進工業諸国家においては、個々人の忠誠の、多元化、部分化、道具化の傾向が強いといわれる。いずれにせよ、洋の東西南北を問わず、急速な社会変化と危機の時代においては、忠誠の多元化が忠誠の相克に進み、忠誠紛争の重要性をクローズアップする。忠誠が信従に、批判が不忠誠に等置される危険な傾向をどう防止するかが、今日のグローバルな重要な政治課題であるゆえんである。
[ 執筆者:田口富久治 ]












