2010年10月31日

虎穴に入らずんば、虎子を得ず

諺というものは、誠に本質をずばり表現していると感心するものである。

ただ、最近は諺が通じない人が増えてきていると感じるので、話す相手によっては厄介である。

「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」

はどのくらい通用するんだろう?

「虎の穴に入らなければ、虎の子を捕獲することはできない」という、直訳ぐらいはわかるだろう?
でも、それが何?という返事が来たら、あ、これは幼児化する日本人―戦後日本の大衆心理の類の人かと思ってしまう。

この種のダメだなあ、と思う人は、こういう諺では「虎はどうでもいいんだよ」と言っても、虎の話に終始する。

ところで、教育論はいいんだけど、勘違い教育論も困ったものだ。
教育について語るのはいい。
多くの人が教育に関心を持って、現状の教育について分析し、批判し、案を出すのはいい。

一番問題なのは、素人が教育を語るなという素人の教育論で、本人が自称教育のプロ、いや自称だけならいい、語っていることはまるっきり当を得ていないし、本質に迫っていないのにすべて教育がわかっているかのように勘違いしている者の発言だ。
輪をかけてまずいのは、こう言う人と話をしたとき、間違いを認めないことだ。

受験勉強は教育の本質ではない

勘違いの一つは、受験勉強を教育と同一化していることである。

受験勉強は、専ら試験を突破することが目的の勉強である。
試験というものは、本来、資格を問うものであることが望ましい。
しかし、今日の受験勉強のターゲットにされる試験は、それが形骸化し、理解云々ではなく点がもらえる解答をすればいいというものになっている。

それらの試験は、何度も繰り返すという訓練によって「こういう問題が出たら、こう回答欄に書けば良い」ということを習得することにより得点できることになってしまっている。

だから、数学ですら暗記科目と考えねば入試を突破できないと言われたりする。
笑えたのは、ある作家が、自分の小説を使って入試問題を作った大学があったので、作家自身がその問題をやってみたところ、4問中、正解が2問だったという。

作家は怒っていた。
点が取れないことの怒りより「私の作品を、そんな風に考えてもらっては困る」ということだった。
だから、受験勉強には独特なものがある。

理科の実験を行うより、問題集を数多くこなした方が点数は上がる。
それで、理科の学力が高いと評価するのは勘違いであるし、何より問題なのは理科嫌いが増えることである。

教育の土台は生活指導

このように言うと、校則を作ったり、校則違反を取り締まったり、お説教をすることだと勘違いする人がいるが、そういうことではない。

学校はいくつかの教科に分けて、学ぶようにしているが、それらの教科の土台になっているのは生活指導である。

生活のお説教をしてから、国語の授業に入るとか算数、数学の授業を始めるのではない。
各教科を指導する中で、生活指導が行われていくのである。

わかりやすい例では、理科の授業であれば、実験器具を用意したり片づけたりするのは、即生活に結びつくことがらである。

だが、すべての教科に共通している生活指導とは「時間を守る」ことである。
人々の生活、すなわち社会は時間に支配されて動いているし、時間を守るということは、最も基本的な「約束事」である。

だから、教師は時間通り始めて、時間通り終わらなくてはならない。

nakmusi2.jpg
プロ教師ならやってみせる

NHKのプロジェクトXで放映された、山口先生のような人を、まさにプロ教師と言うのである。自ら荒れた高校の教師になって、非行で明け暮れるツッパリたちを率いて、ラグビー部を指導することにより、生徒たちを立派に育てたこのように、現場に飛び込んで「やってみせる人」がプロと呼ばれる教師にふさわしい。
まさに「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」
である。

現状の学校を批判しているだけで「ただ考えよう」と言っているのは何だろう。
何を考えるのか?

自分は虎穴に飛び込まず、環境を整えてくれたらやりますなんて、誰がそんな人に依頼するかと思う。

そんなに現状を嘆いているのなら、あなた自身現場へ飛び込んで改革したらどうかと言ったら、次のような返事があった。
ですから私は(現役教師に)プロ教師になれとさんざん記事で述べ続けているのです。第一、私が公立学校へ赴任したところで、現状が変わるなら最初からそうしてます。そんな事しても無意味です。システムの波にもまれるだけです。
だから、みんなで変えていこうと訴えているわけです。


そして、学校を作りたいとも言っている。
どんな学校かと言うと、

・基礎学力の試験をする。
・子どもに早起きをさせ、宿題がチェックできる。一緒に食事ができる。
・最低一時間は家庭学習をさせる。

等々、これらを守れると約束できる親の子どもを入学許可するんだそうです。

現状の公立学校を批判するには、勘違いもはなはだしい。
そりゃあ、ニュースになるとんでもない公立学校の教師はいるけど、みんなそんなじゃない。
公立学校は子どもを選べないんだよ。
どんな家庭の子どもも受け入れ、それを育てていくんです。

公立学校を批判するのに、条件のいい家庭の子どもだけを選抜し、それならやりますじゃ、批判になっていないじゃない。

大変な公立の現場に入って指導もできない、気がないでは先生はできませんね。
鋭い教育論かと思ったら、がっかりしました。

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2010年10月30日

2010年10月29日

言語道断

posted by edlwiss at 22:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治

2010年10月29日

勉強と受験勉強


kyoikumondai.jpg
私は中学生時代から、なんとなく受験勉強に振り回されるのを拒否してきたように思う。
小学校の時代、忘れられない先生の思い出がある。
私の小学校時代は、今の子どものように忙しくなかったし、私の家は貧しかったので、おけいこごとに通うということもなかった。
だから、学校の授業が終わったあとは結構、時間があった。

私の担任の先生は理科の先生だった。
清掃は授業後だったので、清掃が終わればすぐ帰宅できるという日課だった。
清掃の当番はいろいろなところへ、一週間ごとに回っていく仕組みだった。

その中でも、私が一番好きだった清掃場所は理科室だった。
そのわけは、理科室にはいろいろな標本や、実験器具などが置いてあり、それらが好奇心をかきたてたからである。
それだけではない、さらに私が理科室を好きになったのは、先生はたいてい理科室の机のところにいて、清掃が済んでから先生と話ができることであった。

先生は、理科室にあるいろいろなものをいじらせてくれた。
化学の実験器具では、器具を使ってみたいという気持ちになって

「先生、水素の入っている風船が作りたいです」

と言うと、先生はその準備をしてくれて、できた水素入りの風船を運動場で飛ばしてみたりした。
そんな風で、私はすっかり理科好きになり、帰宅すると、親が買ってくれた全一冊の百科事典を愛読書にしていた。

だから、あまり勉強しなかった私だが、理科のテストだけはほとんど100点だった。
中でも、みんなが驚いたのは、全国規模の理科のテストがあったとき、300点満点中295点をとった時だ。
私自身は、そんな点がとれるなどとは思っていなかったが、夢中になってやっていたらそうなったということだった。

中学校へ行ってからも、理科は得意で、試験勉強していかなくても100点かそれ近くをとっていた。
だが、高校入試を考える時期になってくると、そのための試験が多くなってきたが、もともと試験のための勉強はきらいだったので、テストの点はさんざんだった。

だから、高校入試は先生と親の納得する高校で、自分は何も希望を言わなかった。
それで、なんとか高校は合格したものの、入った高校は普通科の進学校だったので、大学入試を目指して勉強する高校だった。
私はこれには参った。
どうにか、赤点はとらないものの、成績は常に低空飛行でコンプレックスを感じていた。

でも、家は母一人子一人の貧乏生活だったので、就職すればいいと考えていた。
ところが、3年の終わりごろになってくると、クラスの雰囲気は進学一辺倒になってきたので、自分も大学入試に挑戦したくなった。
家庭の事情を考えると、もし合格したとしても通学できるかどうかはわからない。
でも、受けるだけは受けてみたいと思い、一番近い国立大学へ願書を出した。
しかし、受験勉強はみんなから遅れているので、並のことでは追いつかないと思い、点さえ取ればいいだろうということで、最も効率よく点をとる受験勉強のやり方を考えた。

生活パターンは、就寝を早くして夜中の1時に起きて勉強することにした。
とにかく、点取り虫に専念してわずかな時間も惜しんで受験勉強をした。
そして、ほとんどの者が予想しなかったと思うが、合格することができた。
私は、この経験を通じて試験に突破する方法というのを編み出したように思う。

以来、大学卒業後もいろいろな試験に挑むたびに、自分で編み出した専ら「点取り虫」方なる試験勉強ですべて突破してきた。
今思っても、青春時代をつまらない受験勉強に支配されるのはもったいないと思っているし、自分の好きな勉強を中心に、試験は片手間に効率よく点を取るやり方がいいと思っている。

今、振り返って、猛烈にその点取り虫の勉強やっていた時、ある受験参考書に「学問は人をつくるためにある」と欄外に書いてあったことが強く印象に残っている。
受験参考書に書いてあったので余計印象深かった。

もし、私が青春時代に受験一辺倒の生活を送っていたのなら、大学に合格したとしても、入学後、先生方から褒めていただいたような勉強はできなかったと思う。

最近出版された、出井和彦・田中吉左右・著「教育の根本問題と教育立国への道」に「理科離れ:子供と教師]という項で、文科省が"ゆとり教育"を開始し、理科の時間が3割減ったことで、理科は理屈抜きの現象だけ覚えればよい暗記物と化して、子どもは考える興味を失ってしまった。とある。
このゆとり教育を受けて育った者が教員になり、約半数は理科を教えるのが苦手と思っているとある。

試験に合格するために、ひたすら点をとるためだけの受験勉強を、おもしろいと思う者がどれくらいいるのだろうか?
我が国の教育政策は、受験勉強を勉強と錯覚させる方法をとって、本来の勉強嫌いの子どもを増やしていると言える。

レジャーランド化している大学を、本来の勉強をするところにし、高校は全入にし、本来の勉強を中心にして進級させるように改革すべきである。
人間は心を持っている。感動のない勉強で勉強好きな子どもが育つわけはない。

現在の学習塾は、点を取るだけの訓練をする企業であって、勉強をするところ、教育をするところという錯覚をしないようにして欲しい。

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posted by edlwiss at 17:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2010年10月28日

詰め込みはいいか悪いか?

saitokihaku.jpg
ある塾講師の意見を引用する。

B×詰め込みは悪 → ○詰め込みは教育
これもしつこいようだが、基礎知識もなしに人間は考える事は不可能。
教育者がヒントを与えながら誘導しても考えた事にはならない。
むしろ、誘導されないと考えられない癖がつくという弊害がある。
基礎知識はほとんど定義、あるいはたいした理屈がないものであり、詰め込み以外の方法で教える意味は全くない。
詰め込みが悪なんて言っている教育者は一生1流にはなる事はない。
教師はほとんどがそうである。


「詰め込み」はいいか悪いか、結論を先に言うと、どちらとも言えない。
この人が、まず大きな勘違いをしているのは「詰め込み」と「詰め込み教育」の違いだ。
一般に批判されているのは「詰め込み教育」のことであって「詰め込み」が批判されているわけではない。
自分以外を(教育の)素人のように言っているが、それは身の程知らずであって、生意気な若者が狭い見識だけで、いかにも教育がわかっているように思っているだけで、こう言う場合の問題は、自分は知っていると思っている壁を作ることにより、その壁から一歩も出られなくなってしまうことである。
こういうことを、養老孟司・氏はバカの壁 (新潮新書)と言っているのであり、恐らくこの人はバカの壁 (新潮新書)も読んだことがないのだろう。

学問を身につけるためには、無条件で詰め込まなければならないことはある。
それが早々と出てくるのが「九九」であり、日本人なら機械的な反復練習で覚えたはずである。
それでも、教師による動機づけの違いで、子どもがどのくらい一生懸命にマスターするのかには違いが出る。

九九は理屈抜きで覚えさせなければならないことがわかっているのは、大人の方であり、これから覚えるという小学校低学年にはその必然性はわかっていない。
その動機づけをするのが教師であり、子どもが教師を信頼していれば「先生が言うんだから必要なんだ」と感じて取り組ということもあって、それも動機づけの一つである。
同じ大人である親がやれと言ってもやらないが、先生が言うのでやるということもある。先生というのはそういう存在でありたい。

まず、教育を語りたいなら、それらの分野の本を読んでみるべきである。医者などと違って、教育は誰もが語りやすいせいか、わかったつもりが多い。
この人も「詰め込み教育」を語りたいのなら、自分の狭い思考で壁を作る前に「詰め込み教育」を調べてみることだ。すぐやれることでは、ネットで検索してみればよい。

まず、フリー百科事典「ウィキペディア」を読んでみるといい。
詰め込み教育(つめこみきょういく)とは、機械暗記による知識量の増大に比重を置く、あるいは知識の増大を目指す教育方法とされるが、多量の勉強による基礎学力の早期習得を目指す教育や、短期間にできるだけ多くの事柄の学習を目指す教育のことを指す場合もある(後者の場合、知識の増大に比重を置いたり、目標とするとは限らない)。単に学習カリキュラムの内容の増減(や変化)の観点からのみ、「詰め込み教育」と「ゆとり教育」が対語として用いられる場合もある。

[概説]
詰め込み教育は試験の点数は上がる反面、児童・生徒の学習の動機付けに欠ける短所があると一般には言われている。

普通教育の最終目標が大学入学試験突破にあった日本では少なくとも1970年代まではこの教育方法が一般的であった。だが、詰め込み教育の一番の問題として、「テスト過ぎたらすべて忘れる」といった成績のための暗記が一般的になったことがある。また、膨大な量の知識だけをひたすらに暗記させた結果、「なぜ、そうなるのか」といった単純な疑問や創造力が欠如してしまう点も問題である。

1980年代以降、詰め込み教育の短所に対する反省から、児童・生徒の学習の動機付けに重点を置くゆとり教育が導入された。しかし、「ゆとり教育」政策導入後しばらくして(明確な証明は為されていないながら)、「ゆとり教育は学力低下を招く」という世論が力を増し、文部科学省は「ゆとりの教育」の見直しを検討するに至った。


詰め込み教育の欠点を端的に言えば「試験が終われば忘れてしまう」ということであり、それが、会社へ入ってから「今の若い人は、言われたことはしっかりできるのだが・・・」と言われることに結びついている。
教育とは試験に受かればそれでよいのではなく、学習の転移という理論を土台にしている。
例えば、自転車に乗れるようになったA君は、バイクを乗るための練習がスムーズに進んだというのが学習の転移の例である。

斎藤喜博・氏がその著書で紹介した「島秋人」のことは、教育に携わる者はみな心にとどめておくべきことである。

島秋人はいわゆる学校では劣等生で、みなから疎んじまれ、叱られると学校を飛び出して近くの川原で遊んでいたということがよくあった。
その秋人は学校を出てからは仕事もなく、ある日、飢えに耐えかねて農家に入り込み、物色していたところをお婆さんに見つかった。
そして、お婆さんを殺してしまった。

秋人は裁判で死刑の判決を受けた。
収監され、執行の日を待つばかりになっていたある日、人生を回想する中で、小学校5年生の時、図工の時間に「構図がよい」とほめられたことを思い出し、その先生に手紙を出した。
以後、その先生とは文通が続いたが、秋人はある時から詩(うた)を手紙に書くようになった。
それを読んだ先生は、なかなかすばらしい詩と感じ、プロの詩人に紹介したところ、詩人からは「天賦の才能」と評価され、詩集を発刊する話が進む。
詩集は、秋人が処刑された後「遺愛集」として発刊された。

基本を身につけるために、詰め込みも必要だが、教師は子どもが持っている才能を埋もれさせないようにしなければならない。

この塾講師は「誘導されないと考えられない癖がつくという弊害がある」と言っている。
そういうデータがあるのか?
誘導って何だ?

少なくとも、学校で行われる授業は、意味があって時間をかけているのだ。
一度、斎藤喜博教育の演出 (1963年)
を読んでみたらどうか?

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posted by edlwiss at 18:03 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2010年10月27日

分かりやすい授業より訓練が大切ですか?

kyoikusinrigaku.jpg
A×分かりやすさが最も大事 → ○分かりやすさ以上に訓練が大事

分かりやすさは、授業の食いつきと記憶の残り具合が変わる。
しかし、授業は分かりやすさだけでは不十分。そのままでは子供はすぐ忘れる。
分かりやすさ以上に大事な事は訓練。
理解させた知識を何度も確認させ、解かせる事で記憶は定着する。
当然、分かりやすく教えるという研究は常にすべきだが、同時にいかに効率よく訓練を行えるかという研究もそれ以上にすべきである。
教育者でもこれを理解していない人はかなり多い。
教師はかなりひどい。分かりやすさばかりを追うわりに、分かりにくく訓練をしない授業が展開される。


この人は、訓練の必要性ばかり強調しているが「分かりやすい指導」は了解するとしても、あとは訓練だけだろうか?
それで必要十分だろうか?
では、分かりやすい授業をするということを前提として、あとは機械的に訓練のみという考えに邁進してよいのだろうか?

これでは、何かが足りない気がする。いや足りないものがあるのだ。
それは「人間というものを忘れている」ということだ。
この人の意見を読んでいると「まるで血が通っていない」という気がするのだ。
だれかがかつて「スパッと切ったら、血が吹き出してくるような教育(授業)がしたい」と言ったことがある。
そういう感覚が、この人に欠けているような気がする。

こう言っていても、具体例がなければ納得できない人がいるかもしれない。
特に、私は「言うだけ」は嫌いであり「そんなに言うなら、やってみろ」とか「あなたの言うのは理想だ」と言われると、反発してやって「どうだ」と言わせたくなる。
それで、自分の実践例を出しても、見せつけられても納得しない人がいる。なぜか?それは「認めたくない」という心理が働いているのに過ぎない。
私に言わせれば、教師の問題とは「見せつけられても、認めたくない」というのが一番のガンであると思っている。そういう人は多い。

でも、例外の人がいた。もうその人は他界されたが、私がある小学校へ新卒で赴任した時、その方は、いわゆる「おばさん先生」であり学年主任だった。
そのおばさん先生は、私がやっていることを見て「私も若い頃はあなたのように熱を入れてやった、でもね・・・」と皮肉った。
でも、そのおばさん先生は、ある日「どうやって、しどうしてみえるんですか?私にも教えてください」と言ったことがある。
ベテラン教師が新米の教師になかなか言えることではない。
私は、そのおばさん先生の言葉に、いい意味で衝撃を受けた。以来、尊敬している先生の一人である。私はそういう先生からこそ教わりたいと思うのだが、残念なことにその先生は2年前に他界された。

私の実践例の一つというのは、小学校3年生を担任したとき、音楽でリコーダーが出てくるので、どう指導しようかと思案した結果、例のウォッシュバーンの「すべての子どもが救われるように」を思い出し、それぞれの子どもが自分の能力に応じて伸びていくようにということを考えた。
それで、教室とは別にリコーダーの練習書を配った。
そして、1番から順番にやるように言い「練習してきたら聞いてあげるよ。それでよかったら合格の印を押します」と伝えた。

はじめは音楽の得意な子が「先生、練習してきました。みてください」と言ってきた。
よく練習してあって、上手だったので、私は「すばらしい」と言って、合格の印を押してやった。
始めは、パラパラと来るだけだったが、次第に人数が増えて、ついに来ない子は一人もいなくなった。
子どもたちは「すばらしい」と言われ、合格の印をもらえるのが嬉しいらしく、音楽の授業のない日でもリコーダーを持ってくるようになった。
そして、ちょっとした時間があっても、リコーダーを取り出して練習をしていた。
野外学習、つまり遠足の時も持ってきた。

曲集は進むに連れ難しくなる。反復練習しなければできるようにならない。
でも、子どもたちはそれに耐えてどんどん練習してきた。誰に強制されることなくである。
私はこの「誰に強制されることなく、自ら苦しい練習に耐える」ということに価値があると思っている。

ただ、言われるがままロボットのように強制されて反復繰り返しは効果が薄いと思う。
いや、むしろ嫌いになってしまうことさえある。

音楽での例を出したが、他の教科でも同じである。
何が同じかというと、人間にはもともと「向上心」というものがあり「成功体験」を積むことにより自信を持ち、さらに「できるようになる喜びを経験をすること」により勉強が好きになるということである。
私はここに教員の本質があるのであり、どんな子どももそういう「可能性」を持っていると信じて実践するのがプロ教師だと思うのである。
反復練習は大切であるが、それを意義を感じてやるのかやらないのかでは大きな違いがあり、その意義を感じさせてやるのもプロ教師の務めである。

新美南吉が教師をしているとき、英語の授業で

「単語の中で一番長い単語は何でしょう?」

と言ったという。

生徒たちは、一生懸命考えて、あれこれ候補を出したが、南吉はにっこり笑って黒板に

「smiles}

と書いた。

生徒たちが不思議そうな顔をしていると、南吉は

「smilesという単語は、sとsの間が1マイルもある」

と言ったそうだ。

新美南吉にその時教わった生徒たちは、晩年になってもそのことを思い出して、懐かしそうにしばしば語ったということである。

生徒たちは、新美南吉という人柄を感じ、英語の授業に親しみを持ったというのは言うまでもない。

人はロボットではない、心があり、感情がある。だから教育において、教育心理学という学問が存在するのである。

colorteiko.jpg左の図は、電気回路の勉強では覚えなければならない、カラー抵抗の色と数字の関係である。

茶・・・1
赤・・・2
燈・・・3
黄・・・4
緑・・・5
など、色と数字の関係を覚えなければならない。
訓練で機械的に覚えるしかないのだろうか?

「試験に出るから覚えること」と言えば、覚えるしかないかと受け止めるのが生徒である。
中には「そんな問題は出たら捨てる」と開き直る者もいるかも知れない。

だが、やれやれと言った生徒たちの表情を見ながら「ある方法を教える」と、生徒たちは面白がって数分で覚えてしまう。
実際、笑いながら一生懸命覚える。
その方法とは、

0・・・「黒い礼服」
1・・・「お茶を一杯」
2・・・「赤いにんじん」
3・・・「第3の男」
4・・・「岸恵子」
5・・・「みどりご」
6・・・「青二才のろくでなし」
7・・・「紫七部」
8・・・「ハイヤー」
9・・・「ホワイトクリスマス」

何でもゴロ合わせをせよと言うのではない、人間は心を持っているから、教え方によって印象が違う。やり方でおもしろくも感じるということである。

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posted by edlwiss at 19:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2010年10月26日

あなたは、教育のプロですか?

「親や素人教育者にありがちな教育に対する勘違いをまとる」と題して、ある塾講師が意見を書いていた。そして、この塾講師は以下のようなまとめを書いていた。
私は教育の現状を憂う、鋭い批判はいいことだと思っている。それで、読んでいったところが「まてよ?」と疑問符が出てきたので、私が感じたことを書いてみる。

できない子はかわいそうな子ではなく、できない子はやらない子である

(1)できない子はやらない子である。
(2)頑張ってもできないという子は、かわいそうではなく、頑張るということがどういうことか知らない。
(3)頑張ることが何であるかわかるまで、何度も言うことが必要である。
(4)できない子に同情して甘やかすと、何もできない子になる。

(5)以上(1)〜(4)までを、素人で理解している人はほとんどいない。。
(6)教師も(1)〜(4)のことを理解していないから、できない子をほったらかしにしている。


まず、できない子はかわいそうではなく、やらないからできないのであってかわいそうではないと言っている。
しかし、頑張っているという子は、一応自分なりに努力していると言えるのではないか?
「頑張るということがどういうことか知らない」と言っているのだが、私も知らない。
「頑張ることが何であるかわかるまで、何度も言うことが必要である」とは、何を言いつづけるのだろう?
「頑張らなければだめだ」と言いつづけるのだろうか?(ますますダメになるような気がする)
「頑張るということがどういうことか知らない」なら、それ(頑張り方)を教えてやらなければ「頑張れ」と言ってもわからないのではないか?
「できない子をできない子と思って甘やかすと・・・」と言っているが、そりゃかわいそうな気がします。
「(1)〜(4)までを、素人で理解している人はほとんどいない」とまとめているが、そうすると、私も理解していないので、この方から言わせると素人になるわけだ。
この人は、自分がプロと思っているのだろうか?
「教師も(1)〜(4)のことを理解していない」って、そりゃあなたの言うことが理解できない人は多いでしょうね。
「できない子をほったらかしにしている」と言うが、そういう事実はあるかもしれないが、できない子のめんどうを見ている教師がいることを私は知っている。

この人は、自分の言っていることが、プロ教師たる自分の正しい考えだと錯覚していると思う。
私に言わせれば、できない子はどこでつまずいているのかを探り、原因を解明をし、次に指導の手段を考えられる人がプロ教師だと思う。
この人は、自分こそプロだという自覚があるようだが、プロとはそんなものではない。
教育あるいは指導者としてのプロというには、あまりにもおこがましい。
野球のルールを知らないで、おれはプロ野球の選手だと言っているようなものだ。

プロとは、一例を挙げると、教育史を勉強する中で登場する「ウォッシュバーン」のような人のことを言うと思う。
ウォッシュバーンは小学校に赴任したとき、子どもたちが学習における個人差があまりにも大きいことを気にして、すべての子どもが自分のペースで学習を成就できるようにと、プログラム学習を考案し、後にウィネトカプランと呼ばれる教育課程を考えた人である。
すべての子どもを救おうと、現場から実践を通じて方法を編み出した。これこそプロ教師である。
プロ教師にとって、目の前の子どもができる子かできない子か、やる気のある子かない子かは関係ない。どんな子どもも引き上げることのできる教師がプロ教師だ。

この塾講師は「教育に関する勘違いをまとめます」と言いながら、自分自身が大きな勘違いをしている。
私は、この「勘違い」を読みながら、またある本を思い出してしまった。

jibunigaibaka.jpg


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posted by edlwiss at 20:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2010年10月25日

先生はどこにいる?

jisatsu.jpgまた、いたましい子どもの自殺があった。ご両親の悲しみを察すると、胸が痛くなる。
学校は「いじめを把握していなかった」だって?
まことにお粗末。
把握していなかったというより、把握する気がなかったのだろう。

一体、先生はどこにいるのだ?
いつも職員室に引っ込んでいるからいけないのだ。

子どもの実態が最もよくわかるのは、放課だ。

授業中に本来の姿が見えることはほとんどない。

まして、いじめが行われている状況では、いじめをする側は、よりバレないような環境を作ろうとする。
もっとも、本当にベテランと言われる教師なら、そういう状況でも不自然さを把握することはできるだろう。

授業が終わると、先生はどこにいる?

教育実習に行くと、子どもと遊ぶことの大切さを教えられる。
教生にそう指導するのに、現役の先生はそうしているか?

えっ、仕事が忙しい?
確かに、先生の雑用の多さはしばしば問題になるものの、あまり改善はないと思う。

教生のように、放課に遊んでやるというのは難しいかも知れない。
だったら、教室で仕事をしたらどうか?

特に子どもにかまってやることはできなくても、先生が教室にいるということだけで、教室の空気は変わる。
はじめは、先生を意識した行動をするが、毎日、そういう習慣にすることで、子どもたちは先生の存在を意識しなくなる。
忘れて遊ぶようになる。その時、子どもの真の姿がわかる。

担任は、通知表のコメントを書くのに苦労するというが、それは子どもの実態をしらないからだ。
放課も教室で仕事をすることにより、教室の空気も良くなるし、いじめそのものの種がなくなる。
先生と子どもの距離が短くなり、より子どもたちが先生に親しみを持つようになる。
子どもたちが、嫌だと思っていた先生も、意外に先生の人間性を感じて、先生が好きになることだってある。

私は小学校での教員の経験があるが、すばらしい校長がいた。
その校長はすでに他界されたが、校舎建設の時、教室の隣に先生の準備室を作った。
職員室は別にあったが、先生たちは朝の朝礼と帰り以外はほとんどその準備室にいた。
教室内の机で仕事をしている先生もいた。

子どもとの距離を近くする学校の作りは、とても効果があったと思う。
子どもたちは、毎日先生のところに寄ってきては、友だちのことや家のことをいろいろ話をして、先生も子どもも互いに楽しい生活をしていた。

なぜ、すぐ職員室へ帰ろうとするのか?
子どもといたくないのか?

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posted by edlwiss at 22:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2010年10月25日

そりゃあ、あなたの価値観でしょ?

roka.jpg
国語や数学、物理など退屈なだけです。
窓の外の世界には興味のある事が腐るほどあるのですから


こんなコメントは意外に多いと感じる。
でも、私は「そりゃあ、あなたの価値観でしょ?」と言いたくなる。

まあ、そう言われて「そうですね」と素直に認めると言うか気がつく人はまだいい。
しかし「どうしてですか、そんなん面白くないですよ」と一歩も、自分の世界から出られない人がいる。

国語や数学、物理に興味を持って熱中する人はいくらでもいる。
そういうことは、普通に常識ある人ならすぐにわかることだが、こういう、自分の世界にだけに閉じこもって出られない人が増えてきたら、世の中大変だなと思う。

これは

「井の中の蛙、大海を知らず」

かなと思うが、ちょっと違う気もする。
思考構造がもとから狭いんではないか、いや、コンピュータにしたらビットが少ない。

ビットが少ないというのは、2進数が理解できている人ならすぐに想像がつくと思うが、

4ビットは2の4乗で、16通り
8ビットは2の8乗で、256通り
・・・・
とコンピュータのCPUはビット数によって組み合わせが増える。

右か左か位しかわからない人は1ビットだ。
それに、前後が加われば4通りだから2ビットだ。

私が、なぜ思考の狭い人をみるとCPUのビットを想像するかと言うと、4ビットのCPUは16通り、これを10進数に当てはめれば、0〜15までで、最大15までの数しか理解できないのだ。
これを人に例えると、8ビットの人が(8ビットは最大255)がいくら4ビットの人に、15より大きな数の話をしても、そもそも構造的に15を超える数値は存在しないので、理解不可能なのだ。

このことは、優秀なセールスマンと話をすると、ピンとくることがある。
優秀なセールスマンは見切りが早い。
具体的に、ある優れた保険の外交員と話をすると

「バカに保険はすすめない」

と言う。

いきなり「バカ」というのは卑近な言葉だが、要するに説明しても理解できない人のことである。
自分で都合よく解釈しているので、いざ支払いの時トラブルが起きやすいということである。
そして、そういう人が「保険会社は勧誘する時だけ調子のいいことを言って、支払いは渋る」というわけだ。

「勉強が好きな人なんていないですよ」

とは、自分の世界だけである。
特に「受験勉強」というのは、勉強という名があるものの、これは特殊な勉強である。

自動車の免許を取得しようとするときにも試験がある。
こういう試験が好きだという人がどのくらいいるのだろう?
好き嫌いにかかわらず、こういう試験に挑むのは、自動車を運転できるようになりたいという強い目標があるからだ。

あるいは、自分は車の運転などには興味がない、したがって免許はいらないと思っていたとしても、入社の条件に、自動車運転免許が必要とあった場合、入社したいという目的のために勉強することになる。

このように、ある目的のための条件を実現するための勉強と、そういう外的条件に関係なく自発的に勉強する勉強とは意味が違う。

小説家は文章を書くことが好きなのだろう。
これは国語が好きな人なのである。

2001年にNHK教育テレビ「人間講座」で放映された、藤原正彦「天才の栄光と挫折」にはニュートン、関孝和、ガロワ、ハミルトン、ソーニャ・コワレフスカヤ、ラマヌジャン、アラン・チューリング、アンドリュー・ワイルズと言った数学者が登場する。
これらの人は数学が好きだった人たちである。

コンピュータのCPUは製造されたものが進化することはない。
つまり、16ビットCPUがコンピュータの内部で、ある日32ビットに進化することはない。

だが、人間の場合、脳が固定的ではなく進化するという魅力がある。
なのに、固定概念で自ら壁を作ってしまう人は、それこそ「バカの壁」の人である。

固定概念で一歩も外に出ないと感じる人、こういう人を見ると「この人は年取ってしまったなあ」と思ってしまう。
コンピュータのICには書き換え可能なRAM(Random Access Memory)と、一度作られたら書き換え不能で内部の情報を読み出すことにしか使えないROM(Read Only Memory)があり、これをイメージして、頭の思考が固定化されている人のことを、最近はROM頭とも言う。

生きている限り、頭はROM化したくないものだ。

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posted by edlwiss at 11:18 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究

2010年10月25日

そんな先生いないよ


zetsubosensei.jpg
小学校低学年ならいざ知らず、子どもも学年が上がるにつれ、社会性も発達し自分だけの世界から、大人を含めた世界を見るようになる。

その大人の中に、学校の先生もいるわけだが、頼る大人としての先生の限界も感じるようになる。
「先生も先生個人の生活があるんだ」
とわかってくるし、自分の親とは違うということを見せつけられるようになる。
そして、先生が児童生徒を叱る基準は、先生自身の不利益に基づいたものだと思うようになる。

ある小学校で、親から、子どもが帰宅しないという連絡があった。
一度は帰宅したものの、何かのことで親に叱られて家を飛び出して帰宅しないというのだ。

通報を受けた学校は、校長が緊急に職員を集め対策を考えた。
校長はビクビクしていた。
親としては、学校に何か責任を問うというものでなかったし、当然、学校に責任があるというものではない。
だが、校長は気が小さい人で、評価を気にしていた。

もし、子どもに何かあったら、教育委員会から日頃の生活指導について報告をしなければならないということになるからだ。
校長が考えたことは、生活指導には怠りはなかったという弁解がほしい。

校長は職員に向かって、子どもを探すように指示した。
職員たちは、大変だなあと思いながらも、その気になっていた。

ところが、校長の探せという指示の範囲が、あまりにも狭いもので、そんなところに子どもがいるはずはないというところであった。
それには、職員たちは唖然として、逆にやる気をなくした。

ある正義感の強い先生が

「校長先生、そんなところ探してもムダですよ。それとも、探すふりをせよと言うのですか?」

と言った。
校長は

「そうだ」

と答えた。

校長は、とかく校長室で新聞を読んでいるだけだなどと、批判する人がいるが、学校が平和で暮れているのならそれでも良いと思う。
校長が毎日、新聞を読んで暮れていく学校なんて、とてもいい学校だと思う。
だが、いざという時、緊急事態の時、どう判断力を示すかということで価値が問われるものだと思う。

校長でなくても、一般の先生とて同じである。
大事件でなくても、日常の生活の中で、こんな時先生はどうするのか?と試されている時はある。

特に、子どもが失敗した時、先生がどんなことを言うか気にする。
その声のかけ方一つで、信頼関係は大きく変わることがある。

本当の教育というのは、非常時に作られていくとも言えるように思う。

「そんな先生いないよ」

との子どもの言葉は、先生と子どもの距離を端的に表している言葉とも言える。

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posted by edlwiss at 01:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒指導

2010年10月24日

生徒に言われて、悔しかった言葉


ijimekozo.jpg
ある先生の文章に「生徒に言われて、悔しかった言葉」と言うのがあった。
その言葉というのは

「先生、ヤクザに注意できますか?」

というものであった。

この先生は、生徒指導主事をやっていた。
それで、生徒にあれこれ注意することが多いのだろうと思う。

生徒としては、注意されたことはもっともなことなので、反論の余地はない。
しかし、生徒としては注意された先生に対して、何か抵抗したいという気持ちがあって考えたことだろうと思う。

その先生が、どう答えたのかはわからなかったが、私がその先生の立場だったらどう答えただろう?

それは「ヤクザには注意できない」と答える。

こう答えたら、生徒としては「相手によっては(恐い者に対しては)、注意できないだろう。先生は俺たちを弱いとみるから注意するんだろう?」と言いたいのだろうと思う。
先生は不公平だとも言いたいのかも知れない。

相手がヤクザでなくても、荒れた中学校では、いわゆる突っ張った生徒には注意しない先生がいるというより、注意する先生はいないだろうと思われる。

ある用事で、荒れていることで有名な中学校へ行ったことがある。
ちょうど清掃の時間だった。

ほとんどの生徒は清掃をしていなかった。
それでも、背の小さい、真面目そうな顔をした女子が黙って黙々とほうきで掃いているのは見えた。

廊下を歩いて、職員室の前に行った時、後ろから髪の毛は逆立ち、学生服は例の突っ張り風の生徒が3人歩いてきた。
ちょうど、職員室から男の先生が出てきた。
その先生は、彼らに

「おう、お前たち」

と言って、ご機嫌をとっていた。

学校がこうなる前だったら「なんだ、お前らッ・・・」という風だったかも知れない。
だが、こういう状況では、心ではクソッと思っても主導権は生徒が持っているようなものだから、どうしようもない。

いじめでも、荒れた学校でも、どうしたらその状況を正常化できるのだろうか?
そんなことを真面目に考えるより、毎年、転勤願いを出して一刻も早く正常な学校へと考えた方がよいか?

突っ張った生徒に注意できないのも、ヤクザに注意できないのも同じだ。
だが、注意しないのと許容するのとは違う。

まず、出発点は、そういう状況を許さないという強い心を持つことだ。

ああだこうだ手を打つのはそれからである。

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posted by edlwiss at 11:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒指導

2010年10月22日

孤独に耐えられる者は最強者である



「孤独に耐えられる者は最強者である」とは、偉人の残した諺集に出ていたような気がする。

退職を境にして、パッタリと人との交流がなくなる人もいる。
校長の職に就いていたときは、ペコペコされたり、ご機嫌をとられたりでチヤホヤされていた人が、退職後はさっぱり誰からも声をかけられなくなっただけでなく、再会したときにはろくに挨拶もされなくなって、その格差に衝撃を受けているということも、耳にしたりする。

そんな例をあげるまでもなく、最近は人間関係が希薄になって、人々の孤独化は進んでいるのではないだろうか。

だから、ペットを飼う人が増えてきたのかも知れない。
唯一心を許せるものがペットだったりするのかも知れない。

どこかのご主人は、退職したら奥さんと旅行をしようと楽しみにしていたら、奥さんから離婚話を持ちかけられ、これもショックというドラマで見た話が現実にある。

奥さんの言い分は

「今までさんざん辛抱してきました。これでやっと私の人生が送れます」

だそうだ。

私がある中年の女性に、このことを話したら

「だって、みなさんそうじゃないですか?」

と言われ、私も少なからずショックを受けた。

私の想像では、今まで夫婦で苦労してきたから、これから二人の人生をもっと充実させてと考えるのではないかと思っていた。

もっとも、離婚までいかなくても、事実上心は別れていて、お互いに下宿人のような生活をしている夫婦もある。

じゃあ、仲のいい夫婦は孤独ではないか?

と言うと、結局どちらかが早く先立つわけだから、残された方は孤独だ。

瀬戸内寂聴さんが言っていた言葉がよみがえってくる。

「人間は孤独だから、寂しいから誰かを求めるんですね、でもどこまで行っても人間は一人なんです」

そうなのだ。

生まれてくる時は一人、死ぬときも一人、どんなに財産を作っても死んだら平等にみんな何もないのだ。

では、人生、どう生きたらいいか?

こう人間が悩むのは、クリスチャンに言わせたら、もとはアダムとイヴが神のいいつけを守らなかったからだという。

「おい、おれたち、あとせいぜい20年ぐらいじゃないか?」

という話をしていた人がいる。

そう言えば、60歳ならあと20年ぐらいということになるのか?
まれに長生きしても200歳ということもない。

でも、あと何年生きられるとか、孤独とか無縁ではないかと思われる人もいるようだ。

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posted by edlwiss at 21:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2010年10月22日

子どもは不安を感じている

ishibumi.jpg
ある本でのモーツァルトに関する自伝の中に、子どものモーツァルトが叔父さんのもとで遊んでいる時、ふと遊びを止めると

「叔父さん、ぼく好き?」

と言ったそうだ。
叔父さんは

「ああ、好きだよ」

と言うと、また、モーツァルトは安心して遊びに夢中になる。
でも、またしばらくすると

「叔父さん、ぼく好き?」

と言う。

こんなことをしばしば繰り返したとある。

この伝記の信憑性を、私としては調べようもないが、子どものこういう心理はわかるような気がする。

口に出さないまでも、子どもは、いつも愛されていると感じていることが大切なのだ。

特に、子どもは、失敗した時、叱られた時、親や先生から嫌われるのではないかという不安を持つ。

親や担任であったら、どんな時も、クラスの子どもを大きな心で包んでやることが、いじめをなくすことの出発点だと思うのである。

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posted by edlwiss at 20:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2010年10月22日

真相は未だ闇の中



証拠なり、根拠なりを示せと言われれば示すべくもないが、事の真相はおそらく、検察のトップも今まで「そうやって出世してきた」ということだろう。

だから、検察の内部をよく知っている、今回の(今は)元検事は徹底抗戦に出ているのだろう。
手の内もよく知っているから、勝算ありと見ているのだろう。
いざとなれば伝家の宝刀をということでもあるかなと考える。

となると、ここは検察が元検察を取調べているということではなく、駆け引きなんだろう。
お互いにどういう利益をもたらすかによって、取引成立ということか?

免職にしても、その後の処遇を考えてやるとか、そうならば、一応の決着がついた後も関係者がどういう地位に着いたかは注目である。

もう古い事件となったが、事件の捜査中に警察のある幹部が温泉で酒盛りをやっていたということが、バレたことがある。

その幹部は退職金を返上して「申し訳なかった」と表向きには謝罪した。
しかし、何のことはない、退職後、退職金と同額の見舞金をもらっていた。
退職金は課税されるが、裏でもらった秘密の見舞金には課税されなかったので、何のことはない、結果的に退職金を返上して得をしたのである。

江川紹子はマスコミに出るたびに、元検察庁何某という人たちが「今回の事件は、彼ら単独のあってはならない特異な事件だった」と盛んに強調する中で「これは、旧来からの検察の体質である」といいかけるところで、時間になるとか、司会が別な方向に話題をふっている。

バンキシャに出てくる河上和雄も、自らは「検察は確固たる証拠と裏付けにもとづいて、正義を実現するために起訴をしているんです」というクセに「問題って、え、彼らだけがやった事件でしょ?」と言っている。

河上さん、その発言に対する「確固たる証拠と裏付け」を示してくださいよと言いたくなる。
全く、一人の人間の中に、これだけ矛盾した発言が同居するとは呆れる。
それが、エリート(?)と言われた元検察だ。

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posted by edlwiss at 11:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 司法

2010年10月21日

いじめの原因を考えてみたことはあるか?

kouhuku.jpgプロ教師なら、いじめをする生徒を見つけたら「なぜ、そういうことをするんだ」などと言って徹底的に傷めつけてやるなんて考えは持たないだろう。

対症療法という言葉があるように、素人は目の前に見える現象にしか対処をしない。
考え方そのものが短絡的なのだ。

あることがわからなくなったら、原点に戻れという言葉があるが、いじめも原点に戻って考えてみることが必要だと思う。

いじめに関して、原点に戻ってみるとはどういうことだろう?

それは、人間というものを考えてみるということだろうと思う。

人はこの世に生をうけた以上、誰でも幸福な人生を送りたいと思うだろう。

これが原点だ。

幸福に満たされた人間は、人をいじめようとは思わないのではないか?
いや、自分の幸福を人に分け与えようとさえ思うことだってある。

「こんな美味しいもの、そうだお爺さんにもあげよう」
なんて考える。

ところで、幸福かどうかということは、その人が感じるものであるから、他人からは見えにくい。

10万円で満足をする人もいれば、1億円でも満足しない人がいる。

10番以内の成績でも喜ばない者もいる反面、50番以内でも喜ぶ者もいる。

まず、いじめを考えるとき、その原因を追究するなら、人の幸福というものから考えてみて欲しいと思う。

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posted by edlwiss at 23:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2010年10月20日

いじめは他人ごとですか?

kyositsunoakuma.jpg「いじめをしないように!」って言っていますか?
それで、いじめはなくなりますか?
なくならないにしても、少しは効果があると思いますか?

いじめをするなと言っただけで、いじめがなくなれば簡単でいいですね。
いや、そんなことはどうでもいい、一応、指導をしたという実績が大切なんだ、ですか?

それでは、よく言われる「お役所仕事」みたいですね。
子どもの前で、お役所仕事(みたいなこと)をすると「いじめをするな」と言っても、いじめはやめようとという気持ちにはならず「先生は、いじめをなくすことに熱心ではないんだ」という気持ちが伝わると思うのです。

だから、本当にいじめをなくしたいなら「本当にいじめをなくしたいという気持ち」が持てなければ、子どもにはその熱意は伝わらないと思うのです。

そうです。まず熱意だと思うのです。
「熱」という字があるように、熱がなければ、熱はどこにも伝わらないと思うのです。

学校で起こるいじめを解決するためには、先生だけでどうこうしようとしても、どうにもならないと思います。
学校は先生と生徒の共同体です。

だから、学校を変えようとするなら、生徒の強力がなければ絶対だめです。

先生が偉そうにしているうちはダメだと思うのです。
先生が生徒の高さまで歩み寄って「本当に困った。君たちの力が借りたい」という姿勢にならなければ、いじめ解決に向かって動き出すことはないでしょう。

学校がいじめで困っている時、悩んでいる人は誰ですか?

いじめられる子、もちろんそうですね。当たり前です。
他には誰が悩んでいるでしょう?

「どうせ、ここ数年のうち転勤だから、下手なことにクビ突っ込まない方がいい」

と白けている先生はいませんか?

校長先生はどうですか?

「もうじき退職だから、それまではなんとか表沙汰は防ぎたい」

という守りの姿勢ですか?

どういうわけか、そういう空気は生徒に伝わるものです。

「所詮、先生は他人なんだ。オレたちのことに真剣になってくれる人なんかいない」
「先生なんかあてにならない。相談なんかしたら、余計に秘密が漏れるだけだ」

こういうところが壁で、いじめはわからないところで進行し、なくならない。

生徒に関心を持っていないから、何かおかしいという空気もつかめない。
給食中に誰かいない、なんてことも気がつかない先生がいたぐらいですから。

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posted by edlwiss at 17:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒指導

2010年10月19日

クマもかわいそうだ

kuma.jpgこのところ、熊が出没して射殺されたというニュースが多い。
撃たれた熊が映し出されるたびに、悲しくなる。
熊だって、きっと食べるものがなくて人里まで降りてくるのだろう。
これももとはと言えば、人間が開発を行ったせいだ。熊に何の責任もない。

熊と言えば「クマのプーさん」は子どもたちに人気がある。
そのプーさんが、人に撃たれて死んだとしたら、子どもたちにはショックだろう。

プーさんは、家族のために食べ物を探しにやってきて、撃たれて死んでしまったのかも知れない。

ある日、私が自宅をすぐ出たところの歩道を少し歩きかけたら、すずめが路上で羽をヒクヒクやっているのを見た。
おそらく、何かに衝突して墜落したのだろう。
鳥は時々、ガラスが見えなくて衝突することがあると言う。

親すずめは巣で待っている子どものために、一生懸命に餌を探している。
あの大きな口を開けて、子すずめたちが待っていると思うと、なんとかこのすずめ助からないかと手をさしのべたところ、それを見ていた老人が「まあ、ダメだなあ」と言った。

そう言えば、子どもの頃にも、たまたま落ちていたすずめを拾ってきたことがある。
鳥かごに入れて、毎日餌をやっていたら、ずいぶん元気になった。
入り口を開けると、元気よく飛び立って行った。

今回のすずめは見ているうちに、グターとなって目を閉じてしまった。

「なかなかお母さん来ないなあ」

と子すずめたちは待っているに違いない。

子どものころは、あまり考えなかったと思うが、年をとってきたら、命あるものは、それが人でなくても心を打つようになった。
ここに引っ越して来る前には、8階に住んでいたことがある。

寝室に大きなエアコンをつけて、この夏は快適に過ごせると思っていたら、室外機にやはりすずめが巣を作ってしまった。

おかげで、せっかくのエアコンは使えず、暑い夏をがまんすることになった。

「すずめらに クーラー取られ 暑い夏」

くまのプーさんとその家族、人間とも平和な共存関係ができるように、願っている。

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posted by edlwiss at 22:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2010年10月19日

また精神論ですか?

沈黙は金という言葉がある。
いっそ黙っていた方が、指導効果があるんじゃない?と思われることがある。

いや、プラスもマイナスもなければよいのだが、しゃべることによって、かえってマイナスになっていることだってある。

それは、毎日毎日、愚痴のような演説を子どもの前で言って、士気を低下させている教師もいるからだ。
それで、本人も指導した気になっているんだからどうしようもない。

「今日もか、うんざり」

なんて子どもは口に出さないが、内心そう思っているということはないか?
特に早朝から、愚痴を聞かされた日には「今日はいいことなさそうだな」という気分になってしまう。

何か、言わなきゃならないような悪いことが子どもにありますか?

そりゃあるでしょうね。
人間だから、探せば悪いところは出てくる。

では、良いところはないんですか?
これも探せばあるでしょう?
なぜ、良いところを探さないんですか?

悪いところを探して指摘していくという指導法もあるけど、よかったところも認めてあげないと「あれでよいのだ」という自信がつかないと思う。

私は、良い指導者は「それでいいんだ。よくできた」ということをはっきり言うと思う。

良いところをはっきり言えない指導者は、指導に自信がないのだと思う。
それは、スポーツの優れたコーチの指導を見ているとわかります。
コーチが望ましい姿を知っているから、その姿が見えたとき「それでいい。今のはよかった」とはっきり言えるのです。

指導というのは、具体性が大切だと思う。
指導者が自信を持って、具体的なことを言える。
具体的に好ましい姿が見えたら、すかさず認める、ほめる。
これができる指導者が、優れた指導者だと思う。

精神論は大切だが、それは愚痴を言うことではない。
精神論とは、指導者そのものの姿ではないかと思う。

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posted by edlwiss at 09:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒指導

2010年10月18日

社会人に朗報



これはすばらしい企画だ。
勉強しない人は卒業できないように、内容は厳しくして、このような制度を増えることを希望する。

大学は卒業したものの、社会に出てから、振り返ってみるともっと勉強しておけばよかったと思うことがある。
そういうときに、通学できそうな大学があることは喜ばしいことだ。

特に日本は教育に力を入れ、教育立国を目指すことが正しい道であると思う。
さらに、国から、優秀な者には補助や奨学金制度を設けてもらえたら、励みも出る。

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posted by edlwiss at 14:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年10月17日

相変わらずバランス感覚のないコメント



どうしてこういう人が、コメンテーターをやっているのか不思議に思う。
特に、河上和雄は元検事なのだ。
検事は最もバランス感覚を必要とする仕事だ。

「検事は確かな証拠、裏づけがあって起訴する」という最も基本であること、これがなくては検察の信頼はないということが今回の事件で崩れたわけだ。

特捜はなくていいじゃないか、権限が集中しすぎるという意見に対して、河上和雄は

「じゃあ、(悪いことをした)政治家をのさばらしていいのか?、国民がそう考えているのなら特捜を潰すのもいいでしょう」

なんて言っている。

誰がそんなことを言っているのか?saibannohimitsu.jpg

政治家に限らず、悪いことをした人をのさばらしていいなどと、まともな人が考えるわけがない。

悪いことをした人間をのさばらしていいから、特捜をいらないと言っているのではなく、現在の特捜のあり方に問題はないのか?と言っているわけだ。

悪い人は取り締まって欲しい。しかし、証拠を捏造してまで、自分たちの成績をあげようとする組織はおかしいと言っているのだ。

極論から極論に展開し、核心を曖昧にするなと言いたい。

今回の問題は何かと問われたのに対し

「問題?、(それは)バカげたことをやった人でしょ?その人以外に何があるの?」

と答えている。

これは、今回の事件が証拠改ざんした検事だけの問題であって、他は問題ないと言っているわけだ。

そういうことが、河上和雄さん、あなたにどうしてわかるの?
今、組織的に問題がなかったか調査中でしょう?

なのに、あなたがどうしてそういう結論が出せるの?

簡単に言えば、この人の本音は「つべこべ言わず、オレの言う通りにしろ、今回の問題はやった本人だけの問題だ。それ以外は悪くない」と言っているようなものだ。

この人は、他の事件でも、容疑者が逮捕されると

「やったんだから・・・になるのは当然」

のような言い方をする。
どうして、やったってあなたが知っているの?
あなたは神様か?

あなたが、何でも知っていて、真犯人を知っているのなら、裁判所の必要はないですよ。

いつまで、こういう人をコメンテーターにしておくんでしょうか?

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posted by edlwiss at 21:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 司法

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