2010年11月30日

誹謗中傷と言うが

net_hibou.jpg
相手から不愉快な言葉を受けた時、よく誹謗中傷という言葉が出てくる。
しかし、誹謗中傷という言葉の意味を知って使っているのだろうか?

「誹謗中傷」を国語辞典で調べても、誹謗、中傷とそれぞれの意味は出てくるが「誹謗中傷」という四字熟語では出てこない。
それで、フリー百科事典「ウィキペディア」で調べてみると、
「誹謗中傷」という四字熟語はもともとは存在せず、「誹謗」と「中傷」は以下のように別個に存在する概念であった。違いは、「誹謗」は「根拠」のあるなしにかかわらないのに対して、「中傷」は根拠なしであること。

* 「誹謗」=対象をそしりけなすこと。正法をそしることにも用いる。
* 「中傷」=根拠もなく悪口を言うこと。

これら二語の意味はどちらも「悪口を言う」という意味において重なっており、並列して用いられているうちに、「誹謗中傷」という四字熟語としても用いられるようになった。さらに、一つの熟語であるという認識が広まることにより、サ変動詞化して「誹謗中傷する」という用法も見られるようになった。

誹謗中傷を受けた人の多くは、多大な精神的苦痛を被り、ストレスが蓄積される。誹謗中傷のつもりで発した言葉ではなくても、人によってはその言葉を誹謗中傷として受け止める場合も数多くある。

明確な根拠がある場合、すなわち事実を表明することで他人の悪事などを暴露し、結果的にその人の名誉を失墜させることは、誹謗ではあっても、中傷や悪口とは言わない。特に公共の利害に関する目的で、例えば組織などの悪事を暴露する事は内部告発などのように法的にも正当な行為として認められる。ただしその目的が公共の利害に関係したことでなければ、公表したことが事実であったとしても名誉毀損に該当する。

「注」として「この記事には「独自研究」に基づいた記述が含まれているおそれがあります。これを解消するためにある情報の根拠だけではなく、信頼可能な解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。」とあるものの、なかなかうまく説明してあると思う。

「誹謗」も「中傷」もともに、相手を悪く言うという意味があるが「中傷」には「根拠なく」という意味が加わっている。
だから、ただ悪く言うという意味で使うなら「誹謗」だけでもいいわけである。というより、根拠がなければ単に「誹謗」と言わなければならない。
根拠のある時「中傷」を使うように区別するのが正しいことになる。

誹謗中傷という言葉が出てくると、それは名誉毀損に発展する場合もあるが、そういう場合は「根拠」が何か確認する必要がある。
ただ法律的には、根拠があっても相手を悪く言って何らかの損害を与えるような場合は名誉毀損罪は成立する。
ここは注意すべきところである。相手が何らか悪いことをしていても、それを根拠にして名誉を傷つけるようなことを言いふらしたりしてはいけないということだからである。

ところが、これが人ではない場合、すなわち法人や社団、財団の場合は違ってくる。つまり、名誉毀損罪は成立しにくい。
ただ、名誉毀損罪で訴えられないように気をつけなければならないのだが、公共の利害に関することでの告発は事実が証明されることにより、免責となることが定められている。

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2010年11月29日

教科書のiPad化に反対する

iPad.jpg孫正義氏は盛んに、教科書のiPad化を叫んでいるが、これには反対する。
氏は学校現場がわかっていないのではないかと思う。

教科書がiPad化したら、まず管理が大変である。
学校で子どもが使うものは、丈夫さが大切である。
iPadが机から落下することを想像したことがあるだろうか?

バッテリーの管理はどうする?
充電体制はどのように整えるのか?

何でも電子化すればよいというものではない。
一見便利そうで流行らなかったものもある。
電子手帳がそうである。

私も外出時に手帳は必須のものである。
自分の環境はかなりIT化しているが、手帳だけは紙のものである。
ツールとしては、電子化より紙の方が優れている場合もある。

自分で書くということが大切な場合もある。
電子手帳では、故障という不安もある。
電子手帳では大切なデータが一瞬にして消滅する不安もある。

スマートフォンのXperiaは持っているが、用途はナビとパソコンに入力したデータとのリンクである。
大切な情報をXperiaに頼っていることはない。

教科書をiPad化したら、書き込みもできない。アンダーラインも引けない。
いや、正確には引けるだろうが、それはあくまでも「仮想のアンダーライン」だ。

教科書をiPad化するくらいなら、中学生に全員ノートパソコンを配布した方がよい。
その前に、学校環境を改善することはある。

小学生と言えば、ランドセルを背負って通学するのがおきまりのようだが、こういう固定概念は捨てるべきである。
学校にも教科書を常備すれば、ランドセルは廃止できる。
その方が、よほど通学時の交通安全に寄与できる。

それでも、カバンが必要だとする考えもあるかと思うが、勉強は学校だけで完結するという考えを持てばよい。

もちろん、それでも何らかのバッグは必要だろう。でも、教科書とそれに付随するものだけでも学校に常備すれば、持ち物の負担はかなり減る。

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2010年11月29日

スマートフォンの活用



スマートフォンが盛り上がっている。
さて、その有効な使い方とは?
posted by edlwiss at 13:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報処理(IT)

2010年11月27日

司法改革


日本の国で司法ほど不透明なところも他にないだろう。
戦後のGHQによる改革で、この分野の改革がほとんどされなかったことを知る人は少ないと思う。

信じられないことだが、明治時代に作られた「大審院」の法律が未だに生きているねのもある。

司法の世界は、戦前状態と言える。
だから、最高裁は国民を「下々の者」と思っているのだろう。
憲法には、公務員は国民の奉仕者であるとか、主権は国民にあるという意識はないのではとさえ思われる。

どなたかの意見によると、ここにいる人たちは民主主義を最も嫌っている人たちということになる。
日独裁判官物語という映画があるが、一度は観ておきたい映画である。

ビデオやDVDが販売されているかどうかはわからない。
この映画をみる機会のない人は市民としての裁判官―記録映画「日独裁判官物語」を読むを読んでみるのもいいだろう。

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posted by edlwiss at 16:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 司法

2010年11月27日

2010年11月24日

いい先生と好きな先生

iisenseisukinasensei.jpg好かれる先生がいい先生とは限らない

子どもが将来、なりたいと思う職業に、しばしば先生が挙がる。
そういう子どもの言葉に「先生になって、子どもたちに好かれたい」というのがあった。

しかし、実際、先生になってみるとそうもいかない。
現実には、いい先生であるがために好かれないという場合もある。

私が大学生の時の経験だが、先生の中には、比較的単位がとりやすいということで人気のある人もいたが、逆に厳しくて人気のない先生もいた。

なるべく単位を取りやすい先生の講義を選んで、授業を受けるようにするのであるが、必修のためどうしても特定の先生しか講義がないというものもあった。
その先生が厳しい場合は大変だ。

A先生はそういう先生であった。
試験をやって、70点未満は落とすと言っていた。
実際に落ちて、2回目3回目という人もいた。

私はどうにか試験はパスしたものの、この先生はやはり好きではなかった。
講義はきちんとしていて、ほとんど休講があった覚えもない。
そのうえ、70点未満は容赦なく落とすというこの先生の性格が冷たいように思えた。

大学卒業してからは、その先生のことは忘れていたが、ある本屋でそのA先生の著書を目にした。
私は懐かしく思って、手にとって見た。
「家庭学習のさせかた」
というタイトルであったが、母親を「教育ママゴン型」とか「ケセラセラ型」とか分類してあった。
ケセラセラ型というのは「ケーセラセラー、なるようになるわ」と言う歌詞の歌が流行っていたのでそこからとったものだ。

あの堅物で、70点未満は容赦なく落とすという冷酷にも見えた先生が、ユーモアを交えて、本質をズバリついたことを書いているのを読んで、私は先生に対するイメージが変わった。
よく考えてみれば、大学へ入ったからと言って甘くなるなと厳しく学生に対処してくれる先生はいい先生なのだ。

小中高の先生とて同じだ。
教師は厳しく児童生徒と対処しても、甘くやっても月給に変わりはない。
どうせ同じなら、児童生徒とうまくつき合って嫌われることはないと考えるのは人情かも知れない。

タバコを吸っているのに、いかにも生徒の心を理解しているかのように、振る舞っているとしたら、人気があったとしても、それはいい先生とは言えない。
まあ、そこまでいかないとしても、先生自身が社会常識に照らし合わせて、反することをやっていれば、いくら人気があったとしてもいい先生とは言えない。

実際、児童生徒のために熱心に取り組んでいるのに、それとは反対に心が離れていくような気がして苦しんでいる先生は多いように思う。

親孝行をしたいと思ったときには親はなし

という言葉があるが、先生にも似たようなところがあると思う。
親心にも似た心で実践している教師こそ、本物の教師なんだろう。

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posted by edlwiss at 20:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2010年11月24日

果たして、いい先生なのか?



こういう問題を、多くの者から好かれているからよいとすべきではない。
セクハラに関する問題は、される側の立場に立ってみなくてはいけない。

身体的接触を伴う行動は、嫌か嫌でないかには個人差がある。
こういう問題を10人中9人までが許容しているとしても、1人が嫌がるのなら、それを重くみなければならないと思う。

そうでなくても、ことが常識に照らしてどうかである。
先生は常識を教える人であり、教養も必要である。
posted by edlwiss at 00:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2010年11月24日

思っていることは口に出る

大臣の失言問題で国会が停滞している。
柳田法務大臣は、東大卒の経歴を持っているが、東大を卒業しても教養は身につかなかったらしい。

小学生の頃、私の家は狭かったので食卓も勉強する机も同じだった。
だから、勉強をしている私の前にはたいてい母親が座っていた。
今思うと、親の前で勉強していることに特別窮屈さを感じなかった。
というより、それが当たり前の生活だった。

私が漢字の書き取りをやっていた時、手本の字がきれいだったので

「これ、すごく上手な字だね」

と言うと、母は

「三千回書かないと、自分の字にはならんわ」

と言った。

その言葉は、以来、強く心に残っていて、練習とは身につくまでやらないと意味がないのだと悟った。

何のために進学するのか?
自分の経歴を飾るためなのか?

本当はそうではないだろう。

東大に入れない者が「東大出たって」と言っても、みっともない。
東大卒には、歴史に残る立派な人物がたくさんいる。
東大とは、本来そういうところなのだろう。

大学に限らず、高校も本来「高卒」としての何某を身につけて卒業すべきところなのだろう。
だが、今日、専門課程を卒業しても、専門が身についていない者もいる。

そういうことが多くなったから、高卒も昔ほど価値がなくなった。
東大も、教養のない人が卒業してくることによって、価値が下がるのだろう。

いくら立派な経歴を持っていても、内面が立派になっていなければ、それはメッキと同じでいつかは剥がれる。

教員も、上っ面だけで「子どものために」と言ったところで、本当にそう思っていないのなら、どこかで「失言」となって表れる。
いや、失言でなくなくとも、メッキが剥がれるようにどこかで中身が見えてしまう。

子どもと接するとき、本人は気づかなくても、簡単な言葉が子どもを傷つけたりもするし、反対にやる気にさせたりするのだろうと思う。

そう言えば、私が中学二年生の三学期にもらった通知表のコメントには「努力すればまだ伸びる」と書いてあったことを覚えている。
簡単で、当たり前と言えばごく当たり前の言葉だが、何かしら嬉しかったのは、ただそのこと場だけでなく、先生の人柄プラスその言葉の力だったのだろうと思う。
だから、三年生では無意識のうちにも頑張れたのではないかと思う。

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posted by edlwiss at 00:12 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会時評

2010年11月22日

2010年11月21日

毎日考えていること

田舎の家に住んでいる頃は、いつも猫がいた。
あるおばさんが、その猫を見て「この子たちは、毎日何を考えて生きているんだろうねえ?」と言ったことを覚えている。

どうなんだろう?
何か考えているんだろうか?
そのうち、脳波を調べると考えていることがわかる時代がくるかも知れない。
猫の行動からすると、いつも「食うこと」が頭にあるのかも知れない。

猫に首輪をつけて、散歩させている人がいたが、そういうのは珍しい。
ほとんどの猫はかなり自由で、特に田舎の猫は外出も自由で帰宅も自由だ。
こんなにも、気ままな生活はないだろうと、猫がうらやましくなることがある。

ところで、人間の場合はどうなんだろう?
脳の中がわかってしまっては、困る人もいるに違いないだろう。

他人の脳の中を調べるという興味はないが、学校の先生は少なくとも教育のことを考えていてほしいと思う。
もちろん、四六時中考えろというわけではない。

まあ、関心が子どものこと、教育のことにあるかということだ。
結局、一番大切なのはそれで、ただ公務員は安定しているからという理由だけで、サラリーマン的教員生活をして欲しくない。

私は「何を考えているか」というのは、とても大切なことだと思う。

憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむぞ

これは、山上憶良の有名な歌である。

あるいは、

から衣きつつなれにし妻しあれば はるばるきぬる旅をしぞ思ふ

を詠んだ、在原業平のように、家族のことを、家を離れても思っていることが大切なのだと思う。

そういうことが、電波ではないが、何かしら伝わるのだと思う。
オーケストラの指揮者は、その人格が楽団員に伝わり、それが演奏に結びつくし、指揮者への尊敬にもなる。

先生もそういうところがあるように思う。
そうでなければ、どんなに優れた教育のマニュアルの通り実践したとしても、教育の成果は上がらないものだと思う。

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posted by edlwiss at 22:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年11月19日

小粒偏狭

かつて、軽薄短小(意味:内容が薄っぺらく、中身の無いさま)という言葉が聞かれたが、最近は小粒偏狭と言える。

NHKや民放では、歴史上の大人物が紹介されたり、ドラマになったりするのだが、それらの人々とは対照的に最近では、人間のスケールが小さく(小粒)、かつ狭い(偏狭)者が多くなったと感じる。

好むと好まざるに関わらず、こういう人物と対話する機会があるごとに、がっかりする。
こんなのが増えたら、国は滅ぶだろうなとも考える。

例えば、今書いているブログを読んで、誤字脱字を探す。
そして、発見すると、鬼のクビをとったように騒ぎ立てる。
もちろん、誤字脱字はよくない。
ブログの目的の一つは、作文を通して意見を発表し、その内容で人々に問いかけているということにある。

しかし、内容について考えるということはせずに、誤字脱字のみに執着し「間違えました。訂正させていただきます」と言っても、なんとかかんとか言って、いつまででもそのことのみに粘着する。

また、別の例ではある人が、関数でないものを「関数の関係にある」と言っていたので、それを訂正させるべき目的で、関数とは、例えばE=R・Iのようにオームの法則のようなものだと言ったら「電圧の記号にEを使うのはおかしい」と言い出した。
Vを使うべきだと言うのである。
私が、どちらでもいいと言うと「教科書はVを使っているから、Vが正しい」と言い出す。
再び、私が「Eを使っている本もありますよ」と言うと「どこに、そういう本があるのだ。その本の名前とページ数を言え」と言い出す。
こうして、肝心の関数の話はどこかへ行ってしまった。

EかVか好きな方にすればいいと思うが、一番大切なところに時間を使わなくなってしまって、一体、何が目的なのだろうと思う。

要するに、自分の言い出したことを修正するのが嫌なのだろうか?
昔でも、こういう人はいたと思うが、最近、この手の人物が多くなってきたような気がする。
「何でも好きなようにやってくれ」と私としては言いたいのだが、一番の不安は「果たして、この人たちは仕事ができるのか?」というところだ。

最近はペットを飼う人も多くなってきた。
人間関係の疎外感からペットに癒しを求めるのかも知れないが、あるお宅を訪問すると、猫のために障子や唐紙がビリビリだった。
「大変ですね」と言うと
「猫のやることなら・・・」
と、とても寛大な心。
人に対してもこうあって欲しいと思う。

少なくとも、人を育てる学校の教師にあっては、大きな心の、スケールの大きな人であって欲しいと思う。

子どもが真剣に取り組んだ結果、失敗したような場合、寛大であって欲しい。
最近、これもおかしいと思うのだが「子どもを叱ってはいけない」という変な信念を持っている人がたまにいる。
それは、もちろんおかしいのであって「子どもは叱られる権利がある」と言われるぐらいなのだ。

もちろん、叱るといっても、それは誰のために叱るのかということを間違えてはいけない。
「あなたは、何で子どもを叱るのですか?」と問われたとき「それは子どものため」でなければならない。
間違っても「自分のため」に叱ってはいけない。

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posted by edlwiss at 21:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2010年11月18日

形式的な研修をやめよう

学校にはいろいろな研修がある。
しかし、形式的な研修のための研修が多いのも問題だ。
本来、研修というのは、現在一番問題になっていることを取り上げるべきだと思う。

学級崩壊というのは大きな問題なのだが、研修はそういう問題には目もくれず。
授業では、児童生徒が行儀よく座っている環境を前提にしている。

そんな環境なら誰でも授業ができるとも言える。
実のある研修をやろうと思うなら、崩壊状態と言われるクラスをモデルにして行ったらどうだろう。

普通ではどうしようもないと思われるクラスを研究対象にして、我こそはプロ教師と自認する者が授業をやったらいいのではないか。
そこで、さすがと思わせる授業をやってみせたら、誰もが認めるだろう。
また、そのような教師が校長となっていくことが望ましい。

いじめについても同様、いじめが起こってからああだこうだ騒ぐ前に、教師の方から積極的にいじめをテーマに研究授業なり研究発表をやるべきだ。

目の前の問題に、見てみぬふりをする「学校ごっこ」をやめなければいけない。

指導的立場にある教師(例えば、指導主事)は、偉そうなことを言うのはやめて、自分がやってみせるのがいい。

そういうのが、教育改革と言えるのだろう。

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2010年11月18日

非常識というより幼稚



18才成人論が浮上する中で、こういうニュースがあると、考えてしまいます。
もっとも、20才以上でも大人の行動ができない人もいます。

単純に年齢だけで、成人と認定していいのかという意見もありますが、社会を形成していくには精神的な個人差を考慮するのは難しいわけです。

選挙では一人一票という権利を持っていますが、社会常識のある人もない人も等しく一票というのが、選挙制度の欠点かも知れません。

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posted by edlwiss at 09:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2010年11月17日

学級崩壊〜担任自殺

先生になりたいという夢がかなって、めでたく小学校に赴任した女性が、荒れたクラスに手を焼いたあげく自殺した。
女性の母親へのインタビューを見ていると、気の毒でやり切れなかった。

教育熱はないが、公務員は安泰だからなんて動機だけで先生をやっている者が、要領よく渡っている一方で、熱意のある者が苦しむというのは矛盾している。
学級崩壊は、親の躾の悪さと責任転嫁したところで、何も問題は解決しない。

人間は言いやすい人へモノを言う、わがままが言える人にわがままを言うという傾向がある。
これも、弱い者いじめと共通するものがあるような気がする。

子どもはストレスを抱えていても、恐い先生の前ではおとなしい。
それが、たまりにたまって優しい先生の前で爆発するということはないだろうか?

体罰は禁止されているが、殴る先生は現実に存在する。
誰のために殴るのか?
子どものためか?

殴られた子どもが人を殴るようになると言われている。
ということは、殴る先生は、殴ることを子どもに教えていることになる。

子どもは腕力でかなわないうちは、反抗しない。
いや、反抗したい心はあるのだが、実力行使しないだけだ。

私がかつて中学生を指導したとき、男子で何かにつけて反抗的な生徒がいた。
彼とは初対面であったし、私が特に反抗されるという理由も考えられなかった。
暴力こそふるわなかったが、ことあるごとにつっかかってきた。
私は、人格的に自分が問題があるので、反感を持つ者もいるのかとも考えた。

保護者会で、母親と話ができる機会ができた。
母親が言うには、父親が、彼をすぐ殴るということだった。
言って聞かせるより、すぐ手が出るという話をした。
私は、殴るのは絶対止めるようにと言った。

覚えているのは、バスを使って行く遠足の時だった。
帰りにバスの中で、生徒から歌を歌ってほしいというリクエストがあった。
私は少し恥ずかしかったが、リクエストに応えることにした。
歌謡曲を歌ったら、生徒たちはたいそう喜んで盛り上がった。
恐らく、歌謡曲など歌わない堅物と思われていたからだろう。

生徒達の喜びようは、かなりのものだったが、私はいつも父親に殴られているという生徒の声を感じ取った。
彼がはしゃいでいる声が聞こえたので、余計に気をとめたのだ。

今まで、先生のいるところでは難しそうな顔をして、あまり騒ぐことのなかった彼の声が元気に聞こえるのだ。

バスを降りるとき、彼は私に笑顔を見せた。
今までそんなことは一度もなかった。
笑顔は打ち解けた自然な笑いであった。

私は彼と心が通じたような気がした。
恐らく彼の方もそう思ったに違いない。

彼の母親は、私が「殴るのは絶対いけません」と強く言ったことを、父親に伝えたらしい。
そして、父親も、先生がそう言うならということで守ってくれたらしい。

遠足後は、彼の顔はごく普通の少年の顔になっていて、私は嬉しい気になった。
大したことではないかも知れないが、私には印象に残っていることだ。

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posted by edlwiss at 23:44 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題

2010年11月16日

子どもの能力

知人の家を訪問したときのこと。
小2の女の子が任天堂のDSで遊んでいた。
私が、どんなことやっているのと聞くと、いろいろ見せてくれたが、その中で県名を覚えるものがあった。

はたして、そういうことに、小2の女の子が興味を持つものかと見ていたら、それは機械的に県名を覚えるものではなく、県ごとに県境でバラバラに切り取られた図形を、正しい位置にあてはめていくものだった。
大人の常識としては、日本の県名ぐらいはわかるものだが、県ごとにバラバラにされると、特徴のある県はわかるが、にわかにはわからないものもある。

しばらくは、いっしょに、これはここかな、あそこかなとやっていたが、繰り返すうちに子どもの覚えるのが早いのに驚いた。
時間が短いほど点数がいいのだが「すごいね」と言ってほめると、ますます子どもの方は上達し、ごく短い時間に日本地図の県の位置を覚えてしまった。

文章では説明しにくいのだが、小2の子どもがわずかな時間に覚えてしまったことに、改めて子どもの能力のすごさを知った。

子どものやる気を加速させたのは、私が驚いて、ほめたことが力になっていたと思う。
「すごい、すごい」と言うと、子どもは夢中になってやる。
いかに、ほめることの大切さが大きいかを知らされた。

子どもの方は、勉強しているという意識はなかっただろう。
その小2の子が、勉強が好きか嫌いかはわからないが、恐らくその時は勉強しているという意識はなかっただろう。

とかく学校は形式が優先し、堅苦しく勉強のパターンのようなものを作りがちだが、ブレーンストーミングという言葉があるように、一度既成概念を捨てて、子どもの意欲を喚起し、素晴らしい力を引き出すことを考えてみるべきだと思う。

DSが学習効果を高めるのなら、採用してもいいのではないか。
「そんなものを学校に持ち込んで」なんていう堅いことを言わず、柔軟に考え、それこそいいものは何でも取り入れようという空気を作ってほしいものだ。

「できない子はやらない子」なんて頓珍漢なことを言わず、学習の場が、あるいは先生が子どものやる気を削いでいないか考えてみるべきだ。

まちがっても、子どもの前で「できない子はやらない子」なんて言うべきではない。
なぜなら、その言葉自体がやる気をなくさせるものだからである。

「大丈夫、できるよ」「頑張ったじゃない」とか「すごいね」という言葉の方が、子どものやる気を出すものだと思う。
また、教師たるものは、そういう言葉のかけ方が上手な人であってほしい。

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2010年11月16日

国益と国民の幸福

中国のGDPが日本のそれを上回るのは、時間の問題だと言われている。
しかし、私はそんなことには関心がない。

国益という言葉はよく出てくるが、問題は国益が国民の幸福につながるのかということだ。
中国にGDPで追い抜かれるって、何か大変なのか?

私は、日本にはまだ民主主義が根付いていないと思う。
それは長い間、為政者と国民の間には主従の関係があって、それが身についてしまっているからかも知れない。いわゆるお上意識というやつかも知れない。

いざとなったら、国が何とかしてくれるという考えも困るが、お上の言うことに逆らうなという意識もよくない。
また、行政側からしたら権力を持つことによって、国民に何かをしてやる、施してやるという意識が少なからず見受けられるのも、民主主義が根付いていない証拠だろう。

交通違反で切符を切られても、国民には不服があれば訴える権利がある。
だからといって、文句を言わなけりゃ損のような低レベルでは困るが、自分に正当性があれば聞いてもらえるという、国民にとっては基本的な権利を踏みにじられても困る。

実状は、権利があると言いながら「文句を言うやつは許さない」という形が横行しているように思える。

話を始めに戻すが、あまり国益、国益と叫ぶのはやめよう。
それより、国民の満足度、幸福感を大切にしたい。

国民の側も利己主義と個人主義の区別がつかないようでは困るが、組織の犠牲になって個人が死ぬようなことは止めよう。
そこは、個人主義のアメリカにもっと見習うべきだと思う。

そういえば、国家と個人を考えたとき、アメリカと日本では国民性の違いかと感じさせられることがある。

日本とアメリカはバンド、つまり吹奏楽が盛んだが、上手い下手は別にして、日本とアメリカでは大きな違いがある。

アメリカのバンドは、全員で演奏している部分では、どちらかと言うと淡々と演奏しているが、ソロになるとすごくやる気になってアピールする。
日本の場合はまるで反対で、みんなといっしょというところでは熱心にやるが、ソロになると不安気で心許ない、表情を出さないという風である。

こういう対比を見ると、日本人は集団ではものを言えるが、一人では主張できないように思える。
「赤信号みんなで渡れば恐くない」は、もっぱら日本人の国民性か?

近年、選挙が政治を動かすのだということを知るようになったと思う。
それも、やっとという感じである。
ということは、日本の民主化もまだこれからか?

そう言えば、日本の国体は現在、立憲君主国である。

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2010年11月15日

もしかしたら、ボケのせいかも?

boke.jpg
気象情報によると、日本列島には紅葉がきれいな地域がたくさんあるようだ。
今日も、その紅葉見学に出かけた人も多いのだろう。

見事な紅葉を見て感動するのは、誰かから教えてもらったからではない。
人が生まれつき持っている、美しいものに感動する心があるからだ。

ところで、年とともにボケが始まる人がいる。
最近、物忘れが多くなったから、もしかしたらボケかも知れないなんて不安を感じる人もいるかも知れない。

ボケに関しては、判断基準として、ものに感動しなくなることだと聞いたことがある。
美しいものを見て感動するというのは、人間として最も高度な感受性であり、ボケが始まるとその高度な感覚がマヒするというのである。

ある知人の家を訪問したら、玄関に猫がたくさん群れていて驚いた。
「何ですか」
と聞いたら
「娘がかわいそうだと言うもんで・・・餌をやるもんで」
と言われた。

飼い主のいない猫を哀れんで、餌をやるというのも、誰に教わったのでもない人が生まれつき持っている心だ。

子どもが自殺したと聞くと、心を痛めるのが普通だ。
まして、自分の学校の児童生徒が死んでも、顔の表情一つ変わらないのは、もう人としての高度な感情がマヒしているのかも知れない。
それは、もしかしたらボケではないかと思うのである。

薬害エイズ問題が大きく報道されたとき、あれは過失から起きたことなのだろうかと思っていた。
だが、そうではなかったと知ったときの衝撃は大きかった。

元厚生官僚の一人が追及されていたが、なんと、自分の扱った書類の中に、もしかしたら危険かも知れないというリストがあったのを知っていたというのである。
何人かの人名リストがあり、もしこれを放置したらエイズの危険性があるかも知れないということを知りながら「これは、当時、このように処理しました」と問題視せず倉庫へしまったというのである。

そのやりとりの一部始終が映されているのを見たのだが、表情一つ変わらないのには驚いた。

この人は、国民を何と思っているのだろう?
官僚というのは、始めから国民なんて下々の者と思っている人が就く仕事なのか、それとも勤めて年をとっていくうちにボケが始まり、人間としての感動がなくなるのか?

いずれにしても、上に立つ者が感覚を失っているのは問題である。

いくら制度をいじったところで、上に立つ者が人間らしい心を持っていなければ、どうにもならないのではないかと思うのである。

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posted by edlwiss at 00:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2010年11月13日

ヒラメになって知能の低下が始まる

いい大人が何であんなバカなことをやるんだろう、という事件が時々報道される。
それは人格の問題というより、知能低下が原因と思われる。

人の知能の発達は、生まれてから上昇していくものの、自然的な発達は21歳ころが頂点であると、ものの本にあった。
その頂点からは頭を使う人(研究などをする人)は、続けて伸びていくが、何もしない人、つまり勉強しない人は徐々に退化し、60才で6才と同じぐらいになるとあった。
図に示してみよう。

chino21.gif


教員であれば、大学を卒業して就職したころが頂点と言える。
そこから、勉強をしなくなって、ヒラメになると知能は低下していく人生になると言えるのではないだろうか?

不適格教員という言葉があるが、自身は数学の先生であるのに、数学の問題が解けないという例が報告されたことがある。
若いときは優秀だった人が、就職してからは頭を使わなくなったために、だんだんバカになったという話は聞く。

校長も教育に関心があり、常にそういう方面に頭を使ったり勉強したりしておれば、知能も高まるのだろうが、そうでない人は子ども並にしか頭は働かなくなるのだろう。
それでは、非常時に適切な判断が働かなくなるのだろう。

40代の男性教師が女子中学生にデートを申し込んだが、断られ逆上し女子中学生の家の周りに、落書きして回ったり誹謗中傷するビラを蒔いたという事件もあったが、これなどは、自身の頭が中学生並になってしまっているのだろうと想像できる。

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posted by edlwiss at 19:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2010年11月12日

先生次第の生徒

子どもには、いろいろなタイプがある。
ここで言うタイプとは、先生次第で伸びる生徒と、先生はあまり関係ない生徒ということである。
どちらの生徒がいいかという問題ではない。

先生も長年やっていると、慣れで授業がいいかげんになっていくる人がいる。
それは、教えるべきことを教えないということではない。

長年やっていると、教える方の自分は、教えるべき内容のことはよくわかってくる。
それで、授業が簡略化されるのである。

「この問題は、簡単です、かくかくしかじかで、こうやって・・・・こうなります」

自分は何回もやっているので、よくわかっている。
しかし、これは、自分はわかっていても、教わる生徒の方は始めてだということを忘れている

初心忘るべからず

教わる生徒の方はいつも初めてだということを、忘れてはいけない。
慣れで、指導過程が簡略化される先生は、生徒の立場に立っていない。

学校は、先生が勉強するためにあるのではない。
いや、正確に言うと「教えることは学ぶことである」という言葉があるように、先生の方も学ぶということはある。
でも、その順序は、生徒が1番であり、2番目が先生ということである。

授業の大きな流れは、通常、導入〜展開〜整理とあるが、何回も同じ授業をやる度に、その過程を反省しより充実した内容にしていかなければならない。
授業が終わったあと、生徒に充実感が残る授業をしなければならない。

特に、先生を信頼している生徒ほど、先生の授業次第という影響が大きい。
そして、先生は何度もやり直しができるが、生徒の方は一回きりである。
そういう意味で、失敗の授業は先生にとっては、ためになるが、それを受けた生徒は犠牲者である。

先生次第ではない生徒というのは、先生を信頼していない生徒である。
教えても教えなくても、始めから先生をあてにしていない。
もしかしたら、先生をあてにしたらダメだなんて誰かに言われているかも知れない。

しかし、プロ教師なら、そういう先入観を跳ね返さなくてはならない。

生徒がその教科が好きになる授業をすることができたら、過程はどうあろうとも成功と言える。
少なくとも、嫌いにさせることがあってはいけない。
嫌いにさせるようだったら、やらないほうがましということになる。

生徒が勉強を好きになるには、少なくとも、教える人が好きでなくてはならない。
でなかったら、おもしろさは伝わらないと思うからである。

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posted by edlwiss at 22:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

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