2010年12月31日

手を出すべきか出さざるべきか

学校には給食がある。
学校教育における給食の位置づけはどうなっているのだろう?

学校給食の目標は学校給食法第2条に書かれている。

学校給食については、義務教育諸学校における教育の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない(学校給食法第2条)。

一  適切な栄養の摂取による健康の保持増進を図ること。
二  日常生活における食事について正しい理解を深め、健全な食生活を営むことができる判断力を培い、及び望ましい食習慣を養うこと。
三  学校生活を豊かにし、明るい社交性及び協同の精神を養うこと。
四  食生活が自然の恩恵の上に成り立つものであることについての理解を深め、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五  食生活が食にかかわる人々の様々な活動に支えられていることについての理解を深め、勤労を重んずる態度を養うこと。
六  我が国や各地域の優れた伝統的な食文化についての理解を深めること。
七  食料の生産、流通及び消費について、正しい理解に導くこと。


第二次大戦直後、日本の国民は飢えにあえいでいた。食糧不足から栄養失調という言葉も聞かれ、現在の飽食の時代からすると想像できないことだろう。

そういう国民の状況を知った当時の昭和天皇は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のマッカーサーに会って「私はどうなってもいいから、日本国民を救って欲しい」と頼んだ。
この天皇の言葉にマッカーサーはいたく感激し、なんとかしようと決意した。

macarthur2.jpg写真はウィキペデイア「フリー百科事典」より

この話は子どもの頃、母から聞いたことがある。
母はマッカーサーは「本国(アメリカ)では、家畜にやる餌なんだ」と嘘をついて、日本へ食料を運んだと言っていた。

事実、このマッカーサーと天皇との会談後、日本へ食料が多量に持ち込まれるようになったと言う。
戦後開始された学校給食を経験した人は「脱脂粉乳」という牛乳に似た飲み物が、給食に出されたことを知っているだろう。

給食は戦後の学校に通う子どもたちの栄養を確保するために行われたと言える。
そういう意味からすると、今日、学校給食の意義はなくなったと言う人もいる。

だが、先に挙げたように、学校給食法に明示されている目標は、栄養の保持だけではない。
例えば「学校生活を豊かにし、明るい社交性及び協同の精神を養うこと」とあるように、教育活動の大切な基盤となっている。

現場の教師の中には、給食は空腹を満たす昼食の役目とぐらいしか捉えている人もいるかも知れない。
というのは、給食指導という言葉は知っていても、指導の実態が教育目標として捉えられていない状態を見るからである。

前置きが長くなったが、給食は平日において毎日のように実施されている。
この給食活動を通して、教育活動の目標を実現させる場面としては大変有効である。
ただ、食の準備をして食べればよいということではなく、クラスが快適な空気をもたらす上では、給食指導は大きなカギを握っていると思うのである。

私は何も給食担当の先生のカタを持って言っているのではない。
食べるということは、人間が生きていくためには必ず必要とする活動であるから、有効性は高いと思うのである。

当番活動、協力、合理性、感謝、人と人とのふれ合いなど、非常に大切な活動が盛り込まれている。
この活動の中で、教師はどこを援助して、どこは手を出さないということを意識して指導しているかということである。

教師によっては、かなりの部分を教師が支度してしてしまって、ただ準備ができて食べられればよいと考えている人もいるようだ。
そういったクラスでは、必要な作業はやる気のある者だけがやればよいのだという空気ができて、要領のいいものは責任を果たすということはせず、ただ食べるという恩恵にあずかっているだけということもある。

また、配膳についても行き当たりばったりで能率が悪く、いざ食べる寸前になって足りないなどのトラブルをいつも起こしているというクラスもある。

スムースな準備と公平に責任を持たない習慣は、クラス全体の空気を悪くし、そういう中では快適な食事ができるわけがない。

教育活動を給食活動を例に挙げて述べたが、給食活動に限らず、学校における子どものすべての活動は教育活動であり、大切なことは外見的にことが進んでいればよいというものではなく、子どもが生きていくための大切な能力を身につけるために、教師が手を出すべきところと、手を出してはいけないことを意識して行わなければならないと言いたいのである。

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2010年12月29日

子どもの幸福を願っているって言えますか?

K君は医者の息子である。父親にとっては、大切な後継ぎである。
高校入試の日になった。
その翌日、高校から「K君というのはどういう生徒さんですか?」という問い合わせの電話がかかってきた。

入学試験を受けた高校から、このような問い合わせがあるのは珍しいことだと思う。
当然、中学校としては何だろうと思った。
問い合わせの内容は「K君は解答用紙に車の絵を描いて出しました」というものだった。
車の絵以外は何も書いてなかったとのこと。

それでわかったことは、志望校について、K君は最後まで父親と折り合わなかったということである。
K君が切り札として、抵抗できたのが答案に絵を描いて提出することだったのである。

多くの人間は、自分のおかれている環境に流されると思う。
人によっては、他人がそうするように自分も流れに沿って生きることに、何の疑問も持たない人もいるだろう。
いや、多くの人がそうだと言った方がよいかも知れない。
また、多くの人はたとえ疑問を持ったとしても、それに抵抗するエネルギーなどないのかも知れない。

ゴールデンリトリバーという犬が人気があって、多く飼われているようだが、その理由は飼いやすいということなんだろう。
性格がおとなしく、人に危害を与えるという恐れがないということは、飼いやすいということなのだろう。

我々大人も、こういう犬のように飼いやすい子どもを求めている、ということはないだろうか?
もちろん、子ども自身が周りの大人の言うように、何の疑問をもたず、ゴールデンリトリバーのように尻尾を振っているならいいだろう。

役者は演技をするのが仕事だが、役者以外の人も、実は演技をして生きているのだと思う。
それも、ほとんど無意識のうちにである。
人と対面するとき、自分がどう見られているか、どう見られたいのかという意識が、大きく作用していることは想像できる。

そして、本来の自分と演技している自分とのギャップが大きいほどストレスは溜まると考えられる。
学校という場面で見ると、授業中に児童生徒の本来の姿が出ることはまれである。
そういうことを意識しておかないと、子どものとらえ方を間違うことがある。

私は、教員はなるべく教室にいるようにと勧めている。
それは、子どもの本来の姿は授業中より放課の方が出やすいからである。

日本が何か閉塞感に包まれているように感じるこのごろは、制度疲労が起きてきていると感じる。
戦後、復活をするためには、従順なサラリーマンを育てることが国策であったとも言えるし、事実それはそれは成功してきたと言える。
日本は世界の工場として、質の良い製品を作るようになったことは、その成果である。

しかし、それもかげりが見えてきたのは、製品だけでなく、労働者もまるでロボットのように均質な従順な人を排出してきたやり方では通用しなくなったと言える。

ビル・ゲイツは19歳の時、友人とともにマイクロソフト社を作った。
そのマイクロソフトは世界中に影響力を持つようになった。

日本が閉塞感を脱するには、ビル・ゲイツのような人間も育つ環境が必要だと思うが、現状では難しいと思う。

それは、普通とは違った考え方をする者、めんどうをかける者を排除する力が働くからである。
従順な子どもは育てやすいかも知れないが、将来、社会を牽引していくようなパワーを持つ者は、むしろ扱いにくい子どもの中にいるかも知れないということも考慮していくべきだろう。

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posted by edlwiss at 22:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2010年12月28日

何か忘れていませんか?

子どもの頃は父親がよく将棋の相手をしてくれた。
しかし、今は相手がいないので、将棋ソフトを買ってきてそれを相手にしている。

地デジ対策でテレビを換えた際、CATVを申し込んだので、将棋専門チャンネルが見られるようになった。
何段というプロ同士の対決はさすがにすごいと思う。
その凄さというのは、何手も先を読んでいることだ。
プロの世界で「羽生ゾーン」という言葉があるのだということを知った。
それは、今までの常識を打ち破って打った銀が勝ちに繋がったということから、伝えられていることである。

いきなり、将棋の話を持ち出したのは、今日の人々の中で一番失われてきたのが、将棋でいう何手も先を読む思考ではないかと思うからである。

有名な川柳に「ヘボ将棋 王より 飛車を可愛がり」というのがあるが、まさにそういう感じである。

先が読めないから起こる犯罪かなと思うものもある。
腹が立って、あいつ殺してやりたいと思っても、普通は殺した先がどうなるかということを考えると、それが抑止力になるということがあると思う。
最近では、死んでも頑張れば生き返るという、ゲームのリセット、そして再スタートできると考えている子どもいるとか。
そんな風に思えば、途中でオレの人生は失敗だ。これはリセット。だから、みんなを殺して再挑戦という考えも出てくるのだろうか。

ところで、世の中が近代化されてくると、高度に分業制が進み、高度に管理されることにもなる。
管理が進むということは、失敗は誰の責任かということもはっきりするということであり、その中に組み込まれた人間は、全体を考えるより自分の守備範囲だけミスのないようにと神経を使うことになる。

工場で自分がネジを作っているとしても、自分は目の前のネジだけを基準に合った、文句を言われないようなものにすれば良いだけである。
結局、そのネジは何に使われているかというと、車を作るのに使われているとしても、その車の完成とか性能を考える必要はないのである。

リコールがあったと言えば、真っ先に、自分の作ったネジは大丈夫かということさえ考えれば良いのであって、その原因がブレーキにあったとしたら、ホッとするのである。

教育も同様、誇張して言うなら、子どもの将来の成功などどうでもよく、受験の失敗は自分の指導のせいではないかを心配するだけでよい。

だが、指導にぬかりがなかったかどうかは、必要とされている指導の要素をもれなく行ったからよかったというものではない。
そこが、工場の部品作りと違うところなのだ。

「できないい子は可愛そうではない、やらないのがいけないのだ」と言った人がいた。
もちろん、勉強しなければテストで点をとることはできないであろう。
だが、やらないのがいけないのだという考えに賛同する人には、何か忘れていないかと問いたい。

「できないい子は可愛そうではない、やらないのがいけないのだ」で終わっているのは指導者ではない。
教育の意味について、

人間形成に作用するすべての精神的影響をいう

というのがあった。

やらないからいけないではなく、では、なぜやらないのだろうを考えてみなければ、指導者としてはほとんど何もしていないと言えよう。

つまり精神的影響という要素を忘れているのである。

機械は正しく操作すれば、故障していない限り望み通り動作するが、人間というのは精神的影響を受けるもの、また、それが人間だということを忘れてはいけない。
だから、人間(性)を忘れた指導は指導ではない。教育もしかりである。

では、子どものやる気を阻害する精神的影響とは何か?

もしかしたら、指導者であるあなた自身の存在であるのかも知れない。
口に出しては言わないが、もしかしたら、子どもは「あいつがいるからやる気がしない」と言っているのかも知れない。

同じ言葉を吐いても、人により、受ける方には精神的な違いが出る。

ゲーテは、死の間際に「もっと光を」と言ったそうである。
この言葉に、周りにいた人たちは、ゲーテさんの言葉(もっと光を)は、我々に何か示唆を与えてくださったのだと真剣に考えたそうである。

だが、ある文献によると、ゲーテは自分が寝ているベットの場所が暗かったので、カーテンを開けて明るくしてほしいと言ったのが真意ではないかとあった。

どちらが真実であるかということより、ここでは人が違うと、言葉の重みもそんなに違うのだということを我々は心しなければならないと思うのである。

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2010年12月26日

教育の目的

大人が目的とする教育は

1.粘土細工をするように子どもを育てる
2.植物を育てるように、生育する
3.国家の望む産業システムに組み込まれる人間として育てる

何らかの環境で子どもの教育に携わっている人に、あなたは上記3つのどれをイメージして教育の仕事をしていますかと問いてみたい。

1.の粘土細工モデルは、例えば教育ママにみられるように、子どもの将来像を親が決めてしまうようなやり方である。
2.は「子どもは自ら成長していく素質を内に持っているものであり、大人が外部から強制するようなやり方はよくない」としたルソーの「自然に帰れ」である。
3.は国家が国家を繁栄させるため、維持させるために都合の良いシステムに当てはめて子どもを教育しようとするやり方である。

学校の先生の場合「あなたは、何のために教育をしているのですか?」と問われたら、教員は公務員で生活が安定しているからとか、仕事だからとか、給料をもらうためなどと答えるのは情けないし、論外である。

自分がなぜこの仕事をしているのかということを、ただ、自分の生活のためだけという意識でしているとしたら、それがなぜいけないのですかと言う前に、子ども側から見たら教育者としての刺激を受けないであろう。
そういう人が「少年よ大志を抱け」と言ったって、ただ虚しいだけである。

教育というのは、どんなに素晴らしいカリキュラムに沿って行ったところで、それがうまくいくかどうかのカギは、人間である先生が握っていると思うのである。

ルソーが、粘土で自分の好みの人形を作るように行う教育を批判して「自然に帰れ」と言ったのは、子どもは大人の望むモデルの材料(粘土)ではない。子どもの意思に反して行う教育は不自然であり、人間性の否定であると考えたからであろう。

1.や2.の歴史的背景の後、国家主義ともとれる3.の産業モデルが支配的となってきた。
多くの人は、子どもの将来を考えた時、子どもが社会の中で一定の地位を得て自立して生活ができるように望んでいると思う。

だが、国家は途上国から先進国へと変化する中で、国家が望む国民には、たくさんの知識や能力を要求することになる。
それは、我が国の昔から今日の人々の生活を振り返ってみるとわかる。

昔は、中学卒で就職することは多くの人にとって当たり前のことであった。
これは、親にとっては中学校さえ卒業させれば、家を支える力になるということでもあった。
だが、日本の経済発展とともに今日では、義務教育でもないのに高校卒業は当たり前になってきた。

国が発展するということは、こうして子どもの教育期間がどんどん伸びるということでもある。
問題は、それに伴って増加する教育費を誰が負担するのかということである。
今日では、高等教育は国家の要請であるにもかかわらず、国民の負担の増加でまかなわれている。
もう一つの問題は、国家が近代化することにより、子ども自身の人生の選択の余地が限られてくるということである。
人生の成功は、いい大学に入り、いい会社に入り・・・と考えるのは典型的な例である。

こう考えてくると、教育とは、はたして子どものためなのかという疑問も湧いてくる。

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posted by edlwiss at 22:19 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2010年12月25日

誰のための教育か

kyoikugakunyumon.jpg教育とは、
他人に対して意図的な働きかけを行うことによって、その人を望ましい方向へ変化させることとあります。
この文中で「望ましい方向」というのが特に重要です。

なぜなら、望ましいとは誰にとって望ましいかという疑問が出てくるからです。

1.親にとって望ましい
2.先生にとって望ましい
3.本人にとって望ましい
4.国家にとって望ましい

など、いろいろ挙げられます。
そして、この1〜4の望ましいが必ずしも一致しないのです。

しかし、こういうことを考えないで、当然のように語る人が、語る人にとって望ましいと考えている人がいるようです。

例えば、受験勉強によって、ある学校へ合格するということは誰にとって望ましいのでしょう?

教育のモデル

大人が望ましいと考えるイメージを教育のモデルと考えると、それは3つのモデルに分けられる。

1.粘土細工で物を作るように、子どもを大人が望ましいと考える人形を作るような粘土モデル
2.子どもは自ら育つ要素を持っており、その自主的な成長を妨げないようにするという、植物を育てるような農耕モデル
3.社会の発展のために望ましい力をつけさせる、生産モデル

教育に携わってている人は、自分が子どもをどういうモデルに見立てて教育をしているかを考えてみたことがあるだろうか?
そして、そのモデル化は子ども自身の幸福に繋がっているのであろうか?

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posted by edlwiss at 22:57 | Comment(5) | TrackBack(0) | 教育研究

2010年12月24日

2010年12月24日

教育をまじめに考えてみる

私は社会的に影響を与える活動で、自己流を極力嫌う。
教育活動はその代表的なものである。
だから、多数の子どもたちを相手に、自己流の教育論をふりかざし、自分勝手にやることは、罪であるとさえ思う。

自分で好きなように考え、結果が自分に返ってくること、すなわちそれが害であった場合他人に及ばないものであるなら、どうぞ勝手にやってくださいと言える。

自分さえよければという考えが蔓延してきたと思う人は多いだろう。
何らかの環境で教育に関わりのある人が、あるいは教育に関心を持っている人が、自己流の教育論で実践することは、それ自体が、自分さえよければよいという、利己主義であると言える。

では、自己流の教育、あるいは自己流の教育観を持たないようにするにはどうしたらよいか?
それは、先人の実践や理論に学ぶことである。
もちろん、その実践や理論は市民権を得たものでなくてはならない。

何か楽器を学ぶ時、先生についた方がよいというのも、自己流にならないためである。
楽器の場合は、実際に音を聴く、楽器を演奏するという実技を伴うものであるから、直に先生から学ぶことは必須である。

教育についても、優れた実践者に会って直接学ぶことは大切なことであるが、楽器を学ぶような型のようなものはないので、文献にあたることで学ぶことができる。
偉そうに教育論を展開したいなら、教育の文献にあたって教育学を学んでおくことは、当たり前のことである。

今、私の目の前には、第一法規教育学大事典がある。
この本で「教育」を調べてみると、さすがに国語辞典で調べるのと違って、かなり長い文章で解説してある。

「子どもが自分の生活課題を達成していくことができるようにする影響の公子である」

とはランゲフェルトによる定義である。

これは一例であり、その他の定義もある。
しかし、子どもや若い世代を「善く」しようとする親や大人の意欲から生じたはたらきかけである点では、教育は歴史を通じて変わりないのであるとある。

ここは、教育を語る出発点とみることもできるが、問題は「善く」しようとするの善くとは誰にとって、誰からみた善くなのかという疑問もわいてくる。

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posted by edlwiss at 15:38 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2010年12月23日

教育を語る前に

言葉は人と人がコミュニケーションをとるために存在するものである。
例えば「ネコ」と言った場合、それぞれの人が共通のイメージを持たないことには、その先話を進めても意味が無い。

ひの言葉については、養老孟司・氏が著書「バカの壁」の中で、語っていたことが印象に残っている。

「2つと同じリンゴは存在しないのに、われわれは『りんご』と言うと、共通の認識を持つ」

というところだ。
なるほどと思った。
もちろん「ネコ」だって同じことである。世の中のネコは全部違うだろうに、我々は「ネコ」と言っただけで互いに同じ認識をする。
これは、人間が抽象化する思考力を持っているからだ。

しかし、暗記一辺倒の学習の強制が続いたせいか、思考力が衰えてきて、初歩的な認識の段階でコミュニケーションの問題が起きて、肝心の議論に至らないでしまうという現象をみるようになった。

年をとるだけで、思考力は幼児のままなのだ。
だから「幼児化する日本人」とか「バカ化する若者」などという本が刊行されるのかも知れない。

これらについても、言及してみたいと思うが、自己流の教育論を展開しないためにも、論議の中で使う言葉ぐらい確認したいものだと思う。
だから、教育を語るなら、座右に教育学事典ぐらい置いておけと言いたいのである。

いや、国語辞典でも参照してもらいたいと思う。
今、ここで「スーパー大辞林3.0」で「教育」を調べてみると、以下のように説明してあった。kyoiku_taibetsu.gif

他人に対して意図的な働きかけを行うことによって、その人を望ましい方向へ変化させること。広義には、人間形成に作用するすべての精神的影響をいう。その活動が行われる場により、家庭教育・学校教育・社会教育に大別される。


最近は電子辞書という便利な物もある。私も、これをいつも手に届くところに置いている。
こんな便利な時代になっても、辞典を活用せず、自己流の勝手な意味で議論をしないように望みたい。

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posted by edlwiss at 23:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2010年12月23日

2010年12月22日

自己流の教育論

kyoikugaku.jpg
世の中でパソコンが活躍するようになってから、パソコンでハッタリをきかす人も増えてきたように思う。
パソコンでハッタリをきかす人のひとつの手は、やたらに専門用語を使うことである。
専門用語を使う割に、本人は意味がわかっていないのだが、パソコンがほとんどわかっていない人にとっては、専門用語を聞いただけで「この人は凄いんだ」と感じてしまう場合がある。
まあ、術中にはまったわけである。

ハッタリかどうかは、その人の家を訪問してみるとわかる。
パソコンでハッタリを言う以上、パソコンそのものは当然あるのだが、パソコンに関する本がほとんどない。本棚にはマンガばかりというのは、それだけでウソとわかってしまう。

私はある企業へパソコンの研修に言ったことがある。
その企業は、機械をつくる会社だったが、機械に知能をつける必要があるということで、社内にパソコンを学ぶための教室を作った。
その教室を、時に外部にも公開していた。
それで、私は泊り込みで勉強に行ったのだ。

全国からパソコンを利用するための知識をつけるために、集まって来た人たちがいた。
講義の中で、質問した人がいた。
「どうしたら、先生のような知識が身につくんでしょうか?」
と、先生の答えは
「そりゃあ、何百冊と本を読むことですよ」
だった。

まさに「学問に王道なし」である。
その先生自身、社長からパソコンを使って機械を動かすようにと命じられた時は、まるっきり知識はなかったそうである。

パソコンをいじっているだけでなく、原理から理解し、プログラムも作れるぐらいでないと、応用はきかないし、トラブルへの対応もできない。
また、ドッグイヤーと言われるほど進歩の速い分野でもあるから、周りに参照する本がないなんてことは考えられない。

弁護士先生の事務所に行けば、六法全書は当然置いてあるし、書棚には法律に関係する本はぎっしり並んでいる。
パソコンを専門と言えるほどの力を持っているのなら、同様に関係の本はぎっしりのはずである。

前置きが長くなったが、教育でも同じことである。
教育を語ることはいい、だがそれは自己流ではないかと疑ってみることも必要である。
自分が教育論を専門家同様と自負したい、あるいは自分が語る教育論に説得力を持たせたいなら、用語は自己流の意味づけでなく、論文でも通用するように正しく使わなければいけない。
例えば、私がしばしば例に出すのだが、個人主義利己主義の意味を正しく理解している人は意外に少ない。

説得力のある教育論を語りたいなら、常に、自分が述べる言葉の土台自体がおかしくないか、確認することを忘れてはならない。
それは、確認するための書物が自分の周りにある必要がある。
教育学事典ぐらいは持っていなければ、六法全書も持っていない弁護士、つまりそれはウソの弁護士ということになる。

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posted by edlwiss at 23:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2010年12月20日

2010年12月20日

塾講師が教育を語るって?

ここで言う塾とは学習塾のことである。
塾講師が教育を語るのは悪いことではない。
いや、塾講師でなくても、誰でも教育を語ってよい。

しかし、ちょっと待ったと言いたいことがある。
塾教師になったから、教育者になったと勘違いしている者がいないかということである。

もっとも、教員採用試験が受かって教師になったからと言って、教育者とと言えるかどうか疑わしい人もいる。
これは、医者にも名医もいるが、ヤブ医者もいるのに似ている。
弁護士だって、難しいと言われる司法試験が受かったにもかかわらず、この人本当に専門家ですかと疑いたくなる人もいる。

そういう意味では、学歴や資格が実力を表しているとも言えない。
しかし、塾講師になっただけで、自分を教育者と錯覚し、現役教員を批判する者は、一応、教育学の勉強をしたことがあるのか?

比較的新しい、名著と言われる、教育の再興 (村井実著作集)
は読んだことがあるのか?
いや、読んだことがなければ、これからでも読んでいただきたい。そして、内容が理解できるか?感想が書けるか?

私が知っている某塾講師は、学校の教員を批判していた。
ひどい教員の例を挙げて、それらを読んでいるとまるで今日の公立学校は変な教師ばかりと錯覚する。
まあ、結局アラさがしの域を出ない。
結局、現役の教員にコンプレックスを持っているのかも知れない。

「そんなに言うなら、あなたが採用試験を受けて現場の学校の改革をしたらどうか」
と言ったら、自分が教員になったところで、現状に流されてしまうだろうとの情けない回答だった。
改革は、自ら良い実践をすることだということがわかっていない。

大体、学習塾というところは教育をするところではない。
こういうと、塾も教育をやっているという反論をするものがいるかも知れない。
ここで言うのは広い意味の教育であって、狭い意味の受験教育のことではない。

現役の悪い教師の例を挙げてつるし上げをすると、これは痛快と思って、そうだそうだと賛意を表す者もいる。
現状の学校の批判をすることは、学校にいい思い出がなかった者については痛快かも知れない。

では、現状の学校を批判する君は具体的に、どういう教育理念を持っているのか、そしてその理念を実現してどういう人を育てるのだ?

まさか、試験に合格することだけが理念の実現ではないでしょうね?
また、どんな子どもでも可能性を切り開くだけの実践力を持っているのでしょうね。

教育は誰もが語ってよい、でも自分の「語り」は素人論ではないか振り返ってみてほしい。

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posted by edlwiss at 18:57 | Comment(34) | TrackBack(0) | 教育問題

2010年12月18日

飲み食い、金の出所

忘年会のシーズンである。
その予算はいかほどであろうか?
3000円?
5000円?

500円、1000円だったらどうか?
誘われたら喜んで参加するか?

私だったら、警戒する。
普通のというか、世間の一般常識として、500円、1000円の予算の忘年会は考えられないだろう。

私は数年前、ある団体に属していた。
そうしたら、1000円で忘年会に誘われたことがある。
恐らく、一人当たり5000円はかかっただろうと思われる。
では、超過分の金の出所はどこかと探ったら、どうも公的な金だと判断した。
公的な金とは、つまりは税金である。

政界では小沢氏の金の問題が追求されている。
そこで問題となっている額と比べたら、話にならない額かも知れないが、人はどうしてこうも食うことに卑しいのだろうと思うのだ。

汚職事件が摘発される時、料亭でもてなしを受けたことが摘発の対象になっていることがある。
億単位の不正も、数千円のもてなしも、受ける方の感覚は同じだと私は思っている。

1000円の忘年会に誘われ、得だと思って参加しているのだろうか?
公費を補填して宴会をやれば、それも汚職である。

政治家は金の出所でしばしば失職したりもする。
そういった時、世論の批判を浴びるのだが、自分たちの身の回りの小さな世界では、同じ感覚はないのだろうか?

安い宴会に誘われて断る私は変人と思われているかも知れない。

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2010年12月17日

2010年12月10日

異例の判決

検察が起訴した事件で無罪判決が出るのは極めて珍しい。これも、裁判員裁判制度の影響だろうか?
なぜ、珍しいかと言うと、検察が起訴すると有罪率99.9%、つまり限りなく100%有罪だからである。
だから、外国からは「日本は検事が裁判をやっている」と言われている。

このことについては、前にも触れたことがあるので詳しくは論述しないが、なぜこれほど有罪率が高いかという理由について「それは、有罪とわかっている事件しか起訴しないからです」というアホな理由を述べている者がいた。
検事が起訴する段階で有罪がわかっているのなら、裁判制度自体が必要なくなる。

裁判は、裁判官、検事、弁護士で行われるが、裁判官と検事は同じ公務員、弁護士は公務員ではなく自営業者あるいは弁護士事務所に勤めるサラリーマンのようなもので、バランスがとれない。

一度起訴した事件で無罪判決が出ると、検事は「なぜ無罪判決を防げなかったか」と言われ、ペナルティになるから、裁判官は同じ公務員としてどうしても仲間意識が働く。
まあ、出世にも響くというわけである。

また、検事は事件があって、立件し多くの者を有罪にしなければ、成績が上がらないという事情もある。
だから、一度起訴した以上は何があっても有罪にしてしまうという意識が働いている。
無理矢理起訴が問題になった事件は、厚生労働省の村木氏の事件が話題になったところだ。

今回の事件で注目されるところは、裁判官が「現場で被告の指紋が検出されたとしても、証拠としては疑わしい」と述べたことだ。
こんなことは、今まででもわかっていたことだ。
警察や検察の提出する証拠が信用できるとは限らないということは、司法関係者の中では周知のことである。
それは、警察や検察は必要な証拠は作ってしまうとは既成の事実だからだ。
戦前、警察官をやっていた叔父が「警察は犯罪製造株式会社だ」と言っていたことが、実感としてわかってきたということも、以前述べた。

どういうことにしたら、自分たち(の組織)に都合がよいかでことは進む。
学校が、事実はどうあろうとも「いじめはなかった」とすることが都合が良いのと同じだ。

裁判の大原則に「疑わしきは被告人の利益に」という無罪推定の原則があるが、事件を担当した弁護士にしてみれば「そんなことは守られたことはない。疑わしきは有罪です」と怒りをこめて言う。

だから、今回の判決の注目は、この国に何か変化の兆しがあるのだろうか?
内部では何がおこっているのだろうかと注目されるところである。

それにしても、これまで無実の罪で死刑になった人の可能性はないのだろうかと思うと、やりきれない気持ちになる。

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posted by edlwiss at 13:42 | Comment(2) | TrackBack(0) | 司法

2010年12月09日

計算されません

昔、宇宙家族ロビンソンという映画が、深夜のテレビにもかかわらず人気だった。
セットは決して立派なものではなかったが、人々をひきつける魅力があった。

ストーリーもワンパターン化していて、番組の終わり頃には、危機が迫って、さあどうなるんでしょう次回をお楽しみという古いやり方であった。
それでも、人気があったということは、人の心に触れるものがあったということだ。

ドクタースミスという、悪賢い博士が一家に混じっていて、彼の作ったロボットのフライデーは、危険を察知すると「キケン、キケン」と警告を発する。
一家の安全を守る大切なロボットなのだ。

ドクタースミスは時に、ロボット、フライデーに難しい要求を出す。
フライデーが答えを出さないと「ええい、この役立たずのロボットめ」と怒りをぶつける。
それに対して、フライデーは「計算されません」と返事をする。
あまりにも、人間的な情報なのでロボットには何のことかわからないのだ。

「この役立たずのロボットめ」・・・「計算されません」

ここが笑いをよぶのだ。

ところで、日本の子どもは、このほど学力テストでやや順位は上がったものの、考える力がないという。
出題に対して、即座に回答するようなものに対しては得点はよいが、考えて答えを出すものに弱いという。
まさに、学習塾隆盛の結果を反映しているような結果だと思う。
「こういう問題が出たら、こう答える」という訓練に終始しているので、考える力は育たない。

フライデーを笑っていたが、そのうち笑えなくなるかも知れない。



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posted by edlwiss at 23:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2010年12月09日

裁判官のさじ加減

posted by edlwiss at 15:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 司法

2010年12月07日

出る釘は打たれる

教師の仕事は本来創造的な仕事である。しかし、創造的な仕事をしようとすると、大なり小なり目立つことになる。

目立つことは「出る釘」になり出る釘は打たれるということになるのである。

では、でる釘を誰が打つのだろうか?
それは「あいつだけが目立つのは気に入らない」という、教師独特の狭い世界もある。
嫉妬、やっかみといった感情もある。
決して、嫉妬だとかやっかみだということは、口に出して言わないが、本音に居座っているということはある。

本音にそういう感情があると、いくら正論で説明しても打開することはない。
学校で、児童生徒にとって、先生のランクはない。良い指導をしてくれる先生が最良なのだ。
しかし、会社での役職の概念を持ち込む勘違いがいるので、教育の場を汚すことになる。

バカな校長になると、自分の学校の先生たちのことを部下と呼んでいる。
何度も言っていることだが、こういうバカ校長にゴマをすっているヒラメ教師が、教育の場であるはずの学校を汚している。

学校に企業である会社の論理を持ち込むのは無理がある。
それは、一般の会社であれば、構成員はみな大人であるが、学校には子どもがいる。
子どもは未成年であり、成人としての権利も持っていない。
権利がないということは、抵抗力もないということである。

子どもの前では、教師は権力者である。
会社では、たとえ上司であろうとも、部下は成人としての対抗できる権力を持っている。

教師は権力のない子どもの前で、権力を振るうことにより抑えつけることもできる。
しかし、本来学校は師弟関係という区別はあるものの、人間的には対等であり、権力のないものに対しては、そのハンディを考慮してことを進めなければいけない。

簡単に言えば、学校というところは、抵抗するすべのない子どもをいいことにして、大人が私物化できる組織でもある。

本来、創造的活動があって、子どもを生き生きとさせるものであるが、出る釘を打つ人間がいること、定年まで何事もなく過ごしたいと考える校長のいることで、学校はつまらないものになり、育ち盛りの子どもたちにとってはストレスの溜まるところになるのだろう。

地域によっては、教育委員会までも情けないところがある。
新しい提案を持って行くと「何かあったらどうするんだ」という返事をする教育委員会がある。

彼らにとっては、何か新しい企画があるということは、厄介なことなのだ。
何もないということが最良なのだ。

こういう空気が、教育の場に蔓延すると、教師はみな事務的になり、校長もただ定年までの日数を数えるだけになってしまう。
その間に、何事かあってはいけないので、いじめもないことにしたいということになる。

いくら制度をいじっても、力量のある情熱を持った先生が活躍できる場でなければ、教育の再生はできない。

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posted by edlwiss at 20:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2010年12月05日

教師の適性とは

憧れて教師になったものの、現実では思うようにいかず自殺に追いやられた事件があった。
本人も気の毒だが、残された母親の顔が映し出されたとき、胸がつまるような思いであった。

自分のことは、自分の意思でどうにかできても、対人関係となるとそうもいかない。
他人の心はわからないし、またわかったところで、何ともならないことは多い。

人生はフィクションの小説のようにはいかない。
先生と児童生徒の関係も例外ではない。

初めて一つの集団を目の前にしたとき、初対面にもかかわらず、半分は好意的に迎えてくれても、後の半分は反感を持っている。
と、これはあるプロの指揮者が語ったことだ。

反感を持っている者は、常にあら探しをする。
人は相手に対して何も悪いことをしていないからと言って、相手から憎まれないということはない。

いつもあら探しをされて、次第に精神的に苦痛を感じるようになる。
そうすると、せいぜい持つのが2年ぐらいだと語ったのもプロの指揮者だ。

まじめに働き、何も悪いことをしなければ人生順調にいくというものでもない。
対人関係がある限り、自分の想像を超えたことがおこる。

教師は大勢の者を相手にし、わけのわからない心を相手に生きていかなければならない仕事でもある。
いや、たった一人の相手でも人間はわからない。
そういう意味では、人はどこまで行っても孤独であると言える。

現世で愛が成就できないからといって、心中する男女もいるが、あの世で幸せになれるという保障はない。
人は生まれながらにして孤独であり、死んでも孤独である。

しかし、どういうわけか、一人の相手でも難しいのに、大勢の心をひきつけてしまう人もいる。
これは名指揮者に似ている。

私は教師はオーケストラの指揮者に似ていると思う。
クルト・レーデル氏は「音楽をしっかり学んだからと言って、指揮者になれるとは限らない」と言っている。
それをさらに詳しく語っている言葉が以下である。

拍を正確に叩くだけなら、プロの音楽家なら誰でもすぐにできますし、アマチュア音楽であっても少しの練習をすればできるようになります。
しかし本当に「指揮をすること」にまつわる諸々は、それにひきかえ、はるかに多面的かつ複雑で、70歳になってどうにかわかってくるのが関の山なのです。
確かに、芸術家としてのカリスマ性や存在感、人間的魅力となると、まさに天性の素質という他ななく、人から学ぶことも人に教えることもできるものではありません。


しかし、彼はこうも言っている。

誰でも指揮者になれるとは限らないが「学べることは学ぶべきであると。

これらの言葉は、教師という仕事にもほとんど当てはまるような気がする。

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posted by edlwiss at 23:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

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