2011年01月31日

学校は文化の先駆者であり続けられるか?

claud.jpg
昔は学校には子どもを刺激する物が多く存在した。テレビが高価で一般家庭にはまだという時にも学校にはいち早く備えつけられた。
先生の言葉も子どもにとっては新鮮であり、常に先生が文化を伝えてくださる人で、尊敬という言葉を持ち出すまでもなく、先生といえば尊敬の的でもあった。

今日の学校は、国がかつてかけていたほどの予算はない。
私が指導に行っていたある県立高校では、10万円の備品を買うのでさえ苦労していた。
視聴覚機器も、今日では一般家庭が買った後学校に入った来るというような感じがする。

夏休みになると、昔は教師の行動にはかなり自由があって「学校の先生は夏休みがあっていいなあ」とうらやましがられたものだが、最近は子どものいない学校へわざわざ出かけて職員室で仕事をすることになる。
それでもいいのだが、仕事をするにも学校より自宅の方が機材も揃っていてやりやすいのに、わざわざ学校へと言うのも変な気がする。

いろいろな機材が導入されることだけが文化ではないが、先端を行く文明の機器が入ってくるということは、それを扱う知識が必要になるので、自然に新しいことを学ぶことになる。
新しいことを学ぶということは、単に機器の操作を学ぶということだけでなく、その機器にこめられた人間の発想に接することになり、それが扱う者の知的レベルアップにもなる。

今日の社会でパソコンは革命であると言える。
それが如何に革命的であるかということは、単にパソコンをいじっているだけでは理解できないと思う。
パソコンの処理能力は驚くべき早さで進歩してきたが、パソコンがスーパーコンピュータ並になると世の中はどうなるかと問われたとき、どのような回答を出すか、そこには想像力と創造力が必要だと思う。

ある学者は「電話代が限りなくタダに近づく」と言った。
なぜ、パソコンが進歩すると電話代がタダになるのか?
文明の利器は進歩するのに、人々はこのような質問に答えられなくなってきている。
それが、目の前の一点にしか考えが及ばない、私的な用語を使うとワンポイント思考が原因であると思う。

私がある話で「柔道や剣道などの格闘技は・・・」と話し始めたら「柔道と格闘技とどんな関係があるのですか?」という質問があって驚いた。
一つ一つの言葉がバラバラで連携がないのだ。だから、何度も言うように「こういう問題の場合は、こう答えを書けば良い」式の指導に懸念を抱いている。

さて、パソコンの進歩はドッグイヤーと言われるように加速的である。
エクセルやアクセスを使って成績処理をするということは、新鮮でも何でもなくなったが、私は今年からはクラウドという言葉がかなり顕在化されてくると思う。
クラウドコンピューティングのクラウドである。
この用語を聞いたことがないと言う人はいないと思うが、どうもピントこないという人は調べておいた方がよいと思う。

私は割と早くからパソコンを使い始めて、自分に関わる仕事の能率化を考えてきた。
そして、LINUXを使って自宅にサーバーを置き、外出先でもデータのやりとりをするように考えた。
そのため、固定アドレスを取得するにも苦労することもあった。
それが、最近では大容量のストレージとしてのハードディスクが売られるようになり、そのハードディスクに外部からアクセスできる機能とサービスがついてくるようになった。

ところが、昨年ころからiPadが登場し携帯端末の話題が多くなって新しい時代の予感がするようになった。
私も携帯端末には予てから関心を持っていて、タイミングをうかがっていたが、iPadは頭にはなかった。
というのはGoogleという企業の先進性と、そのGoogleがAndroidという携帯OSを無償で提供するということをかなり前から知っていたからだ。

それで、Android搭載の端末を買うことにしたのだ。
具体的にはXperiaとGALAXY-Tabを手にした。
そして、これらの端末をいじっているうちに、クラウドの可能性というものにいっそう驚きを感じるようになった。

少し前からDropboxは知っていて、5台のパソコンをほとんど常時使う私にとっては非常に便利なツールとなっているが、XperiaとGALAXY-TabにインストールされていたEVERNOTEというアプリケーションを使ってみてまさにクラウド時代の到来を実感した。
今は、このEVERNOTEは私のツールとしては必須のものになりつつある。

学校の教員にとっても、概念がわかった人にはとても便利なものになるだろうというより、仕事の効率化にで使う人と使わない人では大きな差が出ると思われる。

かくして、デジタルデバイドという言葉が登場して久しくなるが、クラウドによりデジタルデバイドはさらに加速されるだろう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 16:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年01月30日

2011年01月29日

お詫びだけで済むのか?



すでに多くの人が気づき始めたように、この事件はたまたま検察の捏造という事件が発覚し、というものではない。

元裁判官が語っているように、検察の捜査というのは「始めにストーリーありき」で、作ったストーリーを上に見せて、上の意見を聞き、修正があったりして承認を受けてスタートするというのが、検察の実態であるということである。
だから、当然上(上司)はどう捜査を進めて、どういう結末に持っていくかというシナリオを知っているわけで、部下が勝手にやったということはないわけである。

たまたま、捏造が大きくクローズアップされてしまったので、なんとか検察全体の信頼を守らなくてはならないという心理が働き、部下が勝手にやったことにして蓋をしようと考えたというのが順当な考えと思われる。

検察の信頼を守るためには誰かが犠牲にならなければならないので、部下だけに罪を着せて決着を試みようとしたわけだが、そうはいかなかったので、今もくすぶっているということだろう。

内部の事情を知っている部下としては「全面対決」を宣言したわけである。
以前は、取り調べの録音、録画を、理屈をつけて認めなかったのに、今回録音、録画をしろと言っているのも、自ら組織の裏の部分を暴露してしまったことになる。

検察としては、今回の事件を「たまたま」こういうことが起きたにしたいのだろうが、問題はもっと根深いところにある。

今まで、検察のシナリオライターによるストーリーで冤罪に追い込まれた人たちに波及する恐れがあるからである。
トカゲの尻尾切りをやられた元検事はその鍵を握っているとも言えるので、今は裏での綱引きが行われているのだろう。

しかし、国民にとっては社保庁解体のように、検察も一度解体して再出発をさせることが、今まで溜まった垢を流すことになるし、冤罪被害者救済に進むことが一番良いと言える。

それは、これからも冤罪被害者を出さないという意味においてである。

posted by edlwiss at 21:26 | Comment(1) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年01月29日

裁判に備える

教師が保護者を訴えたことがニュースになりましたが、この際裁判について備えをしておくこともよいかと思います。
テレビの刑事、検事、裁判官の活躍するドラマで司法の世界をイメージすることはよくないと思います。
ドラマはどちらかというと理想を描いたようなものが多く、実際はかなり泥臭い部分があるからと思うからです。

警察の不祥事があると、その後、警察をよいしょしたような番組があるように、刑事、検事、裁判官を正義の味方のように描いたドラマも多いので、いつしか、国民はそのようなイメージを描いてしまいやすいのではないかと思います。
このようなことを言うのは、私が子どものころ、戦争中に憲兵をやっていた叔父が「警察は犯罪製造株式会社だ」と言っていたことが何のことか、わかってきたような気がするからです。
戦争が終わって、日本は新しく再出発したのだと考えている人がいるかも知れませんが、司法の世界だけはGHQの改革が及ばなかったところで、この世界だけは依然として戦前を引きずっているところが多いというか、体質は変わっていないと思うからです。
以前紹介した、新版 裁判の秘密 (宝島SUGOI文庫)は参考になると思いますが、この本に書いてあることで印象深いのは最後に「トーストの焼け具合が悪いと、死刑判決が出やすい」というところです。
最近の著書では美談の男―冤罪袴田事件を裁いた元主任裁判官・熊本典道の秘密も、裁判官があたかも神のように考えている人には、一度読んでもらうといいと思います。

要するに、裁判官も人間であるということです。そういう意味では警察官も検事も弁護士も普通の人間なのです。
いくら司法試験が難しいと言っても、人格の試験はありません。
最近有名になった、厚生労働省の村木さんの事件、菅谷さんの足利事件は真実を追及するするのではなく、誰かの都合のようようにストーリーを作るのだということが浮き彫りになりました。

できることなら、裁判所というところと関わりたくないとほとんどの人は思っているでしょう。
しかし、どうしても裁判をしなければならない。あるいは訴えを起こさなくても相手が訴えてくるということもあります。
そうした時、周りの知ったかぶりの意見に左右されたり、テレビドラマのイメージで対処すると、とんでもないことになるとも限りません。

■著名な弁護士が著書に書いていることで、ぜひ覚えていた方がよいこと2つ


1.正義が勝つとは限らない

2.たとえ勝訴が見込める裁判でも、やった方が得か損かを考えるべき

1の正義が勝つとは限らないというのも困ったものですが、これが裁判の実態なのです。
2の勝ったとしても、例えば民事の場合、賠償金がとれるということになっても、相手に資力がなければとれません。それまでにかかった費用の方が多いということもあります。もっとも、弁護士にとっては商売になりますが。

■刑事と民事

これは基本中の基本で、裁判には刑事と民事があるということは、常識です。
ニュースになった、小学校教師が保護者を訴えたのは、慰謝料の請求で民事裁判です。
だから、この裁判の結末は、勝訴か敗訴かのどちらかであり、有罪、無罪を争う刑事裁判とは違います。
なお、刑事裁判は必ず弁護士が必要ですが、民事裁判はかならずしも弁護士を必要としません。

私が厄介だと思ったのは、名誉毀損で争うことになった時、これは刑事裁判ですが相手が告訴してきた場合、相手が正常者でない場合です。
実はこれには経験があります。
普通の人では考えられないことと思うのですが、私に関する事実でないことを書き立てて公表した者がいて、普通なら私が訴えるかどうかを考えるところですが、なんと相手の方が訴えてきたのです。

私に関する事実でないことを書き立てているので、私が「それは事実に反する」と根拠を示して反論したら、それに腹を立てて名誉毀損で告訴したのです。
どうも変だと思って調べたら、その人物は精神病院の入院歴がありました。恐らく病名は統合失調症だったろうと思います。
彼は一応、治療が済んだということで退院してきたのですが、この統合失調症というのは完治したのかしないのかわかりにくいようで、退院しても再発したり、日常生活で正常と異常を行ったり来たりしているという波もあるのです。

しかし、医者が一応、完治したと診断を下せば日常生活に戻されるわけです。
精神的におかしく、家族にも迷惑がかかるような場合は、法律で市民権を停止することもできます。これを制限行為能力者(昔は禁治産者と言った)と言いますが、法律行為は制限されます。そして役所にも記録されます。
治療を受けて医者が完治したと言えば、正常人として役所に解除を願い出て市民権も復活するのですが、先に述べたように、こういう者が時に異常になったりする時です。seisinizyo.jpg

そういう者が弁護士を立てて警察へ告訴状を提出したので、警察は受理し、警察は検察庁へ書類を送りましたが、警察も検察もそういう人物だということを知っていましたので、調書は形式的に終りそれ以上は進展しませんでしたが、警察は「困っている」と言っていました。

だから、当たり前のことが当たり前として通用しない者が相手の時は困るわけです。
私はそういう経験を通じて、統合失調症という病名、またそれがどんなものかということがわかったわけです。

異常の主たるものは妄想です。
誰かが話をしていて、笑い声がすると「オレのことを笑っている」と思ったり、何か落ちている物を見て、そこから想像をたくましくして「オレを馬鹿にしている」と思ったり、一つ一つのことはわかってもそれらを総合して判断できない、だから矛盾も平気といったことがおこります。統合できないから統合失調症という病名がついたのかも知れません。
もし、あなたの周りに当然のことを何度説明しても理解できないというような人がいたら、それは可能性があるかも知れません。なにしろ1%程度はいると言われているのですから。

先に挙げた例の他に、身近でこの症例に合致する教員がいました。
彼は納得できないと、告訴するという態度には出ませんでしたが、5人そろって演奏するというものを、それぞれの予定の都合上「今日は3人しか集まれないので今日のところは3人で」というのに対して、どうしても5人でなければと譲らないというところがありました。

興奮すると告訴するというのは、精神科の患者の中にいて、院長先生が患者に訴えられたという話も聞きました。こういうのを「控訴妄想」と言うそうですが、今日は争っても理解させようとしても仕方がない相手もいるという話をしました。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 18:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年01月29日

2011年01月28日

モンスターペアレントとの戦い

非常識、論理破綻でも教師に文句をつけてくる保護者をモンスターペアレントと言っていますが、そのような場合、校長の冷静な対応が望まれます。
しかし、事なかれ主義の校長では、保護者を敵に回したくないという心理が働いて、事の良し悪しを判断することなく教師の方を波風を立てる厄介者と捉えて、担任外しをしたり転勤させたりすることがあります。

ここで、気をつけなければならないことは、校長という職はヒマそうにも見えますが、実は校長がヒマということは良いことであるとも言えます。
私は電気回路や、コンピュータのプログラムに親しんできたせいか、すぐそういうものを連想するクセがついてしまったようにも思いますが、電気回路や機械は人間が作ったものであり、そこには人の発想が盛り込まれていると思うのです。

人の脳は複雑に見える電気回路やコンピュータよりはるかに複雑な働きをします。
だから、それらしかけのあるものは、人間の動作のどこかを真似して、人間の行動の一部をシンプル化して作ったものだと思えます。

電気回路にはサーボという回路がありますが、学校における校長というのはこのサーボのようなものだと思います。
下の図はそのイメージをごく簡単に表したものです。

servo.jpg極めて滑らかに回ることを目的とされたモーターでは、サーボという機構がついていて、回転状態を検出しています。検出された信号が反対回路に送られて判断されます。ここで「遅い」と判断されたら、モーターにもっと速く回転をするように指令を送ります。
速くも遅くもない場合は、何の指令も送られません。
この、判断をし指令を送るか送らないかが司令官の役目、つまり学校の校長にあたるわけです。
モーターが正常に回転している状態では、司令官は何もすることがないのと同じことです。

モーターは毎日仕事をしている教師にあたるでしょう。
その教師の仕事を判断し、適切な指令を送ったり送らなかったり校長は送らなければいけませんが、モーター自体が壊れていてはどうにもなりません。

ところで、機械では部品が壊れていたり、回路が故障していたのでは、修理しなければなりませんが、修理が可能かどうかも問題です。

人も時に、壊れている人が現実には存在して、壊れた者を相手にしていても拉致があきません。
ここでも、念の為に断っておきますが、この文章を読んでいるあなたのことを言っているのではありません。
まれに、オレの悪口を言っていると抗議してくる人がいるので、断りをいれておきたいのです。

私は実際に会社というところに数年間入社して、社員として働いたことがあります。
ファイナンシャル・プランナーという資格もその時取ったものです。
企業では利益を得るために、いろいろ勉強しています。
そして、企業内教育はシビアであり、学校の先生にも役立つことがたくさんあります。
視聴覚機器を使っての説明も、先端を行っていると言えるでしょう。

企業の前線は営業です。
営業が優秀でなければ、いくら良いものを作っても売れないので、会社は儲かりません。

人は店に行くと、お客さんですが、あまり「オレは客だ」という顔をする人は歓迎されません。
もちろん、そういう客が来ても嫌な顔は見せません。
店や会社はお客に選ばれなければなりませんが、そういう意味で、威張った客もいますが、一流企業では、店や会社の方が客を選びます。

あるお客さんには、丁寧にアプローチするが、別のお客さんには失礼のないような態度を心がけるだけということもあります。
ある保険のトツプセールスから聞いた、忘れない言葉があります。

tougousittyousyo.jpg

それは、売る方からして、客の格付けがあるというのです。
S&Pとかムーディーズといった会社がつけるような格付です。
そのセールスが言うには「BBB」の客には売らないというのです。
この「BBB」とは「病気」「貧乏」「馬鹿」だというのです。

保険を売るのだから「病気」の人に売らないのはわかります。
「貧乏」の人は支払いが滞ることがあるので売らないということです。
おもしろいのは「馬鹿」には売らないというのです。

なぜ、馬鹿には売らないか、それは説明がよく理解できない。売ってもあとから変な理屈をつけられてトラブルになりやすいということです。

話が長くなってしまいましたが、この企業の論理からすると、馬鹿と話をしてもしょうがないということです。
そして、馬鹿というか本当に頭の壊れた人はいるのです。
それも、かなりの確立でいるのです。
精神科へ行くと「欝(うつ)」と診断される人の中には「統合失調症」という診断される人がいます。
昔は「精神分裂」と言われましたが、この患者は1%程度いるということです。
医者が言うには「あなたの友だちの中にも(多分)いますよ」ということですから、身近にいる可能性が高いということです。

私が言いたいのは、モンスターと呼ばれる人の中にこういう人がいる可能性があるということです。
いや、先生にもいる可能性はあります。

大切なことは、それを見抜いて相手にしないということです。
私の経験でも、今まで二人います。一人は学校の先生でした。

どんな状態かというと、いろいろな類型がありますが、専門の医者の言葉で特に参考になる部分を参照してみます。

認知障害は、集中力、記憶力、整理能力、計画能力、問題解決能力などに問題が生じます。例えば、<他人の話を聞いても、単語の意味は理解できるのですが、文章全体の意味は理解できないという状態が起こりやすくなります。
・・・・
「みんなが自分の悪口を言う。非難中傷されている」などの幻聴と妄想は、統合失調症の代表的な症状です。
本当は誰も悪口なんて言っていない、操られているわけがない。普通の人には見えないものが見えたり、聞こえるはずのない声 が聞こえたりするこれらの症状は、統合失調症の急性期に生じることが多く、このような言動が特に強く見られる症状を「陽性症状」と呼んでいます。陽性症状 には、「幻覚(幻聴、幻視など)」「妄想」のほかに、「思考障害(洞察力の欠如、支離滅裂な会話など)」「イライラと落ち着かない」「激しく興奮する」な どの症例があげられます。
・・・・
認知障害は、陰性症状同様、前頭葉の機能低下であると考えられています。そのため「集中力」「記憶力」「整理能力」「計画 能力」が著しく低下し、「注意力散漫」「抽象的に考える能力」「問題解決能力の欠如」といった、陰性症状と酷似した症状が現われます。具体的に言うと、本 が読めなくなったり、映画やテレビ番組のストーリーが途中でわからなくなったり、指示通りの作業ができなくなったりします。
言語、動作、運動などのあらゆる面において、正確な把握が困難になるような症状は、日常生活はもちろんのこと、社会生活に も大きな支障をきたします。注意力が散漫になり、集中力が持続できないことで、意思決定が必要な仕事、複雑な作業といったことができなくなる可能性が考え られます。
また、他者との協調性も取りにくくなります。意思の疎通ができないため、会社や学校でも一人だけ浮いてしまうこともあるで しょう。中には問題が起こっても本人は何とも感じなかったり、思考が全く別な方向に向いてしまう人もいて、このような状況が続くと、社会的な責任が十分に 果たせなくなり、就業が難しくなる場合も大いにあります。


これらは、一例であり程度の高いものから低いものがあります。

あまりにも、話しが通じない、会話が成立しないということがあったら、この統合失調症を疑ってみることも必要だと思います。
モンスターが保護者だったり、教師だったりすることもあるのです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村
posted by edlwiss at 19:17 | Comment(19) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年01月28日

YouTubeの可能性

posted by edlwiss at 12:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年01月28日

2011年01月27日

討論ができない思考レベルの問題

chinou.jpg前回、記憶していることしかできないのは、知能の働きがないからだということを述べた。
知能というのは、記憶されたデータを結びつける、つまり類推する、推論すると言ってもよいが、そういうことができて、新たな結論を導くことができることだということも述べた。
具体的には「ポチは犬である」「犬はワンと鳴く」という2つの記憶を持っていて「ポチは何と鳴きますか」と聞かれたら「ポチはワンと鳴く」と答えられる能力である。
suiron.jpg
よく、意見が対立してまとまらないということを聞くことがあるが、この意見の対立というのは高度な知能の働きであり、たとえまとまらないにしても、討論の意味はあると思う。

しかし、そういうレベルに達しない「単発思考レベル」の範囲だけで、話が進まないレベルというのは、事実の認識ができないというか推論ができないレベルの問題で、この範囲での停滞は時間の浪費だけだと思うのである。

具体的に、かつて話題になった「出張」をとりあげてみよう。

A:「出張があるんだが、どうしても自習になってしまう」
B:「そんなら、出張を代行してもらえばいいじゃない」
A:「それが、認定講習なんだ」

という話になった時、Bが普通の知能を持ったひとであれば

B:「そうか、それじゃ行くしかないな」

と、誰も代行できないということを理解する。
つまり、本人がいかなければ意味がない、認められないというものだからだ。

sikohrevel.jpg


ところが、この本人が行くしかないという推論ができない人は「何で代わってもらえないのか?」とか「生徒を犠牲にしてまでも出張するな」とか「拒否すればいいじゃないか」などと言う発言をして、本人が行くしかないとか、欠席すれば単位が習得できない、それは資格が喪失するということまで推論が及ばない。
はっきり言ってしまえば知能がないということなのだ。

この種の段階で話が止まっているのは、意見の違いとか対立するというレベルではなく、知能の問題なのだ。思考障害と言えるのかも知れない。

こういう人との話では、何も得るものがない。
反対されるからとか意見が合わないという高度なレベルではないだからだ。
当たり前の事実が認識できないからだ。

話し合いというのは、互いに事実の認識をして、それから始まるものである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村
posted by edlwiss at 20:57 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年01月26日

知能とは何か?

有名なSNSのmixiでは「パソコンがないと生きていけない」というトピックがあってにぎわっている。
まさに、パソコンは現代の必需品である。
また、パソコンの記憶量は膨大である。

そのビジネスに威力を発揮するパソコンにも弱点はある。
それは知能がないことだ。

もっとも、コンピュータに知能をつける、人工知能の研究はかなり早く行われていて、何年か前には小学校3年生程度の知能はあると記されていた。
しかし、まだ人工知能型のコンピュータ(パソコン)が、我々の日常生活で使われるようになるにはまだ時間がかかりそうである。

速く仕事をこなすという点では、我々が使っているパソコンは人間の能力の比ではない。
そんなすごいパソコンだが、知能を有していないというところが、唯一人間にかなわないというところと言える。

ということは見方を変えれば、人間としては知能がないことには、仕事はパソコンにとって代わられてしまうとも言える。
現実に、パソコンにより人間の仕事はずいぶんとって代わられてきた。
今後も、知能のない、低い人間の仕事がなくなっていくということが予想される。

ところで、知能とは何なのか?
これをわかりやすくまとめてみた。

chinoutowa.jpg


上図のように、ただデータを記憶するだけのロボットと、記憶するだけでなく知能を持ったロボットを比べてみる。
ただデータを記憶するだけのロボットは「ポチは何と鳴く」と質問されても、ポチが何と鳴くかは記憶されていないので、何も答えられない。

それに対して、知能を有するロボットでは、記憶されているデータは同じでも、記憶しているデータ同士を結びつけ、類推して答えを出す
つまり、データがなくても答えられるのである。
「ポチはワンと鳴く」ということを直接教えられていなくても、答えられるのである。
kangaerukoputer.jpgこのことを頭において、人間を考えてみると、教えられたことしか答えられないとか、できないのは知能がないロボットと同じであるということが言える。

今の子どもに対する指導はどうだろうか?
試験にはこう解答を書くのだということを機械的に教えているのであれば、知能のないロボットにデータを詰め込んでいるのと同じではないか?

だから、職場でも「今の人は、教えたことはきちんとやるが・・・」という声がよく聞かれるというのは、知能が働いていないと言えるのではないか?

人間は人間としての特徴である知能を使うために、知能を鍛える指導にもっと重点をおくべきではないかと思うのである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村


posted by edlwiss at 22:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年01月25日

教師は勉強が好きなのか?

chokosokubenkyo.jpg
ある中学校で学年主任が、生徒たちに言っていました。

「勉強が好きな人なんていません・・・でもやらなゃしょうがないんです」

と、これを聞いて私はハッとし、印象深かったので依頼強く記憶に残っています。

学年主任も勉強が嫌いなんですね。
勉強の嫌いな人が勉強を教えて、教わったものは勉強が好きになるものなのでしょうか?

勉強を教えるなら、やはり勉強の好きな人が教えるべきだし、そうでないと教わる人も好きにならないのではないかと思うのです。
好きになるということは、感動があったりおもしろいと感じることがなければと思うんですね。

また、ここで断っておきたいのは、こうしてブログに書くということは、自問自答していることでもあります。

「あ、オレのことを言っている、コノヤロー」

というのはおかしいです。
だって、これを誰が読んでいるのか、私にはわからないからです。

「それじゃあ、お前は、受験勉強は教えないのか」

と言われると、困ります。それは、教えるからです。

「じゃあ、お前は、受験勉強が好きなのか?」

と言われると、好きじゃありません。

じゃあ、好きでないものを教えるべきではないというのはウソになるじゃないかということになります。

私にとって、受験勉強を教えるのは、道に困っているのを教えてあげるようなものです。
道に迷って困っている人を助けてあげようというような感覚です。

困っている人がいるなら、助けてあげようとというものです。
受験勉強の指導に身を入れて、生きがいとしてやるなんてことは、とてもできないわけです。

母子家庭であったせいか、中学生時代は受験というものを、私はアウトサイダーのような感覚で見ていたように思います。
受験一辺倒の生活を送らなかったために、勉強嫌いにならなかったのだと、大学へ行くようになってからそう思いました。

それは、受験勉強とは関係なく好きなことをやっていたことが、大学へ行ってからはすごく役立ったからです。

例えば「半田付け」は、もう小学生の時からやっていたので、半田がうまく乗っているかどうかは、色を見ただけでわかっていました。

大学の試験で、先生がラジオをわざと故障させておいて、それを見つけるというのがありました。
試験当日は一人ずつ呼ばれて、先生の前で故障を判断するというものでした。
私の番になって、試験の部屋に入ると、先生は

「君か、君はもういいよ・・・でもやってみるか」

と言われたのを覚えています。
故障はすぐわかりました。

こういうわけで、先生の印象にも残って、大学では先生によくしてもらいました。
こんなことを言うと自慢しているようですが、小学生のころからやっていれば、誰でもできることではないでしょうか?

大学というところは、自分の興味を持ったことは、何の気兼ねもなくできるところで、私にとっては天国のようなところでした。

ところで、私が言いたいのは、勉強と言うのはおもしろいもので、興味を持ったことをどんどん追究できるものだということです。

先日、NHK-hiVisionでガリレオ・ガリレイのことを放映していました。
彼は天文に興味を持ち、生涯、天文学を勉強したのです。

勉強とは本来そういうものではないかと思うのです。
それが、今日では受験勉強に比重がおかれ、勉強とは受験勉強であり、それが教育であるかのように錯覚してしまっているきらいがあると思うのです。

美術を教えてもらうなら、自身も絵を描いたり彫刻をやったりしているような先生に教えてもらった方がいいと思うのです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村
posted by edlwiss at 21:51 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年01月25日

児童の両親を訴えた小学教諭



こういうニュースで気をつけなければいけないのは、事実を知っているのは誰かということだと思う。
裁判というのは、事実を明らかにしていくものであるから、裁判が進むことにより、事実が判明していくと言える。
そういう意味では、裁判が公平であって欲しいと思う。
公平というのは、どちらかが勝って欲しいというものではなく、裁判により事実が事実として記録されるように願うということである。
なぜ、そんなことを言うかだが、それは裁判官とて人間であるからだ。

ほとんどの人は、報道されていることからしか情報を得ていない。
その情報だけで、あたかもすべてを知ったかのように、あるいは感情的にどちらかにかたを持つということのないようにしなければならないと言うのが、私の考えである。

特に、日本人は感情に支配されると言われる。
感情が先立って、情報が十分でないにも関わらず結論づけてしまうということだ。

教員が裁判をするということは、通常は勇気がいることだと思う。
それは、周りから「してほしくない」という圧力がかかることは、予想されるからである。

周りが止めたのか、止めたにも関わらず振りきって裁判に出たのかはわからないが、納得がいかないことに対しては、裁判で決着をつけるというのは、国民の権利であるから、こういう先生の行動そのものが児童生徒への教えと言えるのかも知れない。

学校教育というのは、通常、教室で先生が大勢を前にして授業をするというイメージを描くが、教えというのは、そういうことだけでなく「先生の生き方」そのものも教えだと思う。

ところで、このニュースに対して、バンキシャのコメンテーターの河上和雄氏は「裁判官は大変ですよ」と言い、裁判に訴えるのがいかにも迷惑と言わんばかりのコメントをしていた。

大変かどうかわからないが、裁判官の仕事なのだから、裁判をすることは当たり前である。
どうも、この人は民主社会の感覚がなく、すべてオレの考えで取り仕切るという思想で固まっているような気がする。
posted by edlwiss at 11:35 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年01月24日

心打たれます



涙が出ます。
子どもたちにこういう気持ちが出てくるのは、温かい思いやりのある環境で育っていると想像する。
施設の方々の子どもたちへの愛情が察せられる。

教師はとかく「口で言う」ことが伝わると錯覚しがちだが、教師の愛情が子どもを育てるということを忘れてはならないと、あらためて認識させられた。

私は施設で育ったわけではないが、施設へ行くことになったかも知れない境遇で、引きとってくれた人がいるので、あまり他人ごとという感じがしない。
posted by edlwiss at 21:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年01月24日

文脈がないと言われるが

defrag3.jpg


この図は何でしょう?
パソコンでデフラクグをやったことがある人は、すぐわかると思います。

私はかなり前からパソコンをやっています。
パソコンは機械ですが、人間がつくったものであるせいか、どこか人間や人間の社会に似ているところがあるなと、思う時があります。

図の□の集まりは、ハードデイスクの記憶の1ブロックを表していて、これをセクタと呼びます。
図では、同じ色のセクタがかなりバラバラに点在しています。
1セクタには収納できるデータが限られているので、大きなデータては、いくつものセクタを使ってデータを収納するわけです。

一部屋が3人定員のホテルだと、10人泊まるには4つの部屋が必要です。これに似ています。
4つの部屋を予約する場合、できればなるべく近い隣り合った部屋を予約したいところですが、あいにく近くの部屋は他人が予約していたら、どうしても離れた部屋にしなければなりません。

部屋は離れていても、ホテルの管理としてはこの4部屋を同じ団体と記録して扱うわけです。
セクタも離れていても、そういう関連性を持たせて記録しています。
一つのセクタを読んだ時、続きはどのセクタなのかという情報が記録されているわけです。

人の脳の中はどうなっているかわかりませんが、記憶量としては膨大なものらしいです。
人生の長さに応じて、その記憶は莫大なものになり、恐らく、示した図よりもっと複雑に点在していることでしょう。

しかし、その断片的に点在している記憶も、コンピュータがやるように、あるデータを読み込んだ時、その関係のデータを連鎖的に読み込んでくることが必要で、人の脳でも同じように働かねばならないと思います。
そのイメージが下の図です。

kiokunorensa.jpg


仮にこれを記憶の連鎖と呼ぶことにします。

ある作家は、現代人の思考の欠点として、文脈がないと言っていました。
それはこのような記憶の連鎖がないことではないかと思います。

芥川賞受賞者の朝吹真理子さんは、将棋がお好きなそうですが、私も将棋は好きで、囲碁将棋専門チャンネルをよくみます。
将棋はこの記憶の連鎖が大切なゲームで、過去のデータはもちろん何手か先も読まなければなりません。

最近はコンピュータのプログラムもよくなり、将棋プログラムも賢くなりました。
コンピュータと人間の対戦もなかなかのものになってきましたが、人間が凄いと思うのは、コンピュータがかなり時間をかけて計算しているのに、人間の方がかなり早く判断してしまうことです。

私も最近、というかここ何年前からか人との対話において、なぜこの人はこんなにも記憶の連鎖がないのだろうと思うことが増えました。
記憶の連鎖がないから、難しいとかわからないと言われる時、順を追って説明しようとすると、一つ一つは納得してもそれらが繋がらないというか忘れてしまうので、結論まで到達しないのです。
数学の証明問題が理解できないようなものです。

記憶の連鎖がない。これは思考の連鎖がないとも言えますが、とにかく繋がらないので言うことも単発であり、結論も単発であり、その単発と単発の間に乖離があって「何でそういうことが言えるのですか?」と言うものが多い。
何の関連性もないないことを、単発的に主張する。

要するに知識がバラバラなわけです。それで関連性がない。
こういう単発にしかものを言えないのを、私はワンポイント思考と呼んでいる。
どうしてこんなになってしまったのかと、あれこれ考えていたのだが、もしかしたら記憶して解答欄に書くだけの試験中心のやりかたが染みこんでしまったかなと思っている。

思考の訓練になるのは、答えに至る過程が大切だと思うのだが、点が取れる解答の仕方だけが中心になってしまったのか?
これは、いざ社会に出てからの実践には困る。実社会では応用が大切だから。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村
posted by edlwiss at 09:35 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年01月23日

子どもへの影響力低下は教師の知能低下

良い演奏は確かな技術に支えられてこそのもので、その上に気持ち(情熱)がこもっていなければならないということを述べた。

教育にも似たところがあり、確かな指導技術の上に情熱がなければ効果は少ないとも述べた。
指導技術だけ、情熱だけでも何ともならないということで、これはそれぞれが必要条件であって、どちらかが欠けても十分条件ではないとも述べた。

私の先輩が過去を振り返って「昔は指導技術はおぼつかなかったのに、子どもは意外に伸びた、が、現在は指導にもある程度自信がついてきて余裕もあるんだが・・・」というのは先輩の自己評価であり、評価には相対評価、絶対評価があるように、第三者から見た評価、すなわち絶対評価はどうなのか?

先輩はもともと素晴らしい指導技術を持っていて、その上に一年生が輝いているように、新鮮なもの情熱があったので、教師としては新米であっても、効果をあげていた。

子どもたちも、教生の先生がくるとはりきるように、新鮮味を感じていた。
やがて、時が経つと慣れというものが出てきて、新卒のような時の緊張感はなくなってきたのだ。
良い意味での緊張感がなくなり、先が見えるようになると、つい横着になりがちでそれが良い意味では子どもたちへの安心感にもつながるが、新鮮味も欠けるようになる。
教師の指導力も知っているので「先生がなんとかしてくれる」というような期待感まで出てくるようになる。

もちろん、子どもたちの到達点が以前より劣ることはないが、ふと振り返ってみると「これでいいのか」という反省から、ただ子どもの学力を目的までに持っていけばよいのかという疑問が出てきたのである。
ここで、新卒時の心構えを忘れてはいけない、まさに「初心忘るべからず」を思い出したのである。

部活動の指導者でも、ある指導者はどこへ転勤しても「そのレベル」に持っていってしまうし、そういう人は培ってきた指導技術へあぐらをかいているということはなく、常に研究を怠っていない。常に精進に努めているわけである。chino21_2.jpg

この常に研究を怠らない、精進に努めているということが大切であり、それがなくなると子どもたちにとっては魅力がなくなる。
魅力がないのは、指導者自身の知能低下、能力低下があげられる。

ある大学の先生は

「学校の先生には、年をとるにつれ優しくなる人と怖くなる人がいる」

と言った。

簡単に言えば、優しくなる人とは、指導にも知的にも充実している人であり気持ちが安定しているが、怖くなる人とは反対に指導技術や知的レベルが低下し自信喪失でこころにゆとりがない。子どもも思うようにならないので、権力的に子どもを威圧して動かそうとするということである。

ここで、断っておきたいのは、こういうことを書くと、読んだ人の中に、反発を感じるのか、抗議にも似たコメントを寄せる人がいるが、私はここで特定の誰かを指して言っているのではない。
なぜなら、私には誰が読んでいるかわからないからである。
だが、中には「オレのことを言っている」と短絡的にカッとなる人もいるのかも知れない。
まあ、おもしろい現象であるとは思うが。

私はプロフィールにも書いたように、吹奏楽の指導を行なっている。指導の対象は主に中高生、一般社会人、仕事として吹奏楽の演奏に携わっている人たちである。

それぞれ特徴があっておもしろいが、簡単に言うと、中学生は純粋な感じがするが精神的不安定さもある。
高校生となると、大人に近づいたという感じで、小さなことで精神的にピリピリすることはない。
中学校でどのような指導を受けてきたのか、出身中学校の特徴が出る。
吹奏楽の好きな先生に教わって来た者は、音楽が非常に好きで、教わった先生の熱気も感じる。

大人の団体は、ひたすら音楽そのものの指導に専念できるところはいいところだが、一般の団体は運営がしっかりしていないと、出席が無責任になる。

仕事でやっている人は、部活動ではないので、嫌だったら辞めるという気持ちにはなりにくい。当然、生活がかかっているからである。

いずれの団体に接しても、指揮台に立って棒を振るわけだが。クルト・レーデル氏が言うように「拍に合わせて棒を振ることぐらいプロの指揮者ならすぐできますし、アマチュアでも少しの訓練でできるようになります」ということで、格好をつくることは難しくない。

しかし、相手(メンバー)が良い緊張感を維持してくれるのは、それなりに棒に「意味」が現れていないとダメで、凄いと思うか大したことないと思うのかはそこにかかってくる。

具体的な演奏についても、中高生は若いので、練習とともに指はよく動くようになる。
しかし、時には「ここはこうしてやるんだよ」と具体的に演奏してみせることもある。
すると、自分では意識していないのだが、子どもたちは大抵、驚いた表情を見せる。
どうも、よく指が動くことに驚いているらしい(私としても、子どもたちには負けない自負もあるが)。

スポーツの指導者は年とともに体力的問題もあるが、技の凄さの片鱗はみえるので、教わるものは影響を受ける。

指導される相手に、影響を与えられない人は、数学の先生でありながら数学の問題が解けないとか、理科の先生なのに間違ったことを言っているとか、若いときはそうではなかったが、レベルの下がった人である。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村
posted by edlwiss at 12:36 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。