2011年02月28日

おもしろくない材料がありました

音楽の指導というのは、言葉や文字で語るだけでなく、それではどんな演奏なのかということに興味がある。
特に自分の指導を自負する人の演奏はぜひ聴いてみたいのだが、なかなか発表がないようだから、それでは「隗より始めよ」ということで、自ら発表してみるので、後に続いていただけることを期待する。
断っておくけど、心の狭い人はすぐ何か難癖をつけるが、そういう人は「言うは易く行なうは難し」という言葉を思い出していただきたい。
ここに紹介できるものは、決して自慢できるものでもないが「言うだけ」というのは好きでないから、あえて発表するものである。
なお、紹介するものは、著作権の関係で発表できないものを除いた差し支えないものの中から一部を選択した。

中学校2、3年生による吹奏楽の演奏です。
なお、バックのビデオは、徳川家康ゆかりの岡崎城の前を流れる菅生川(すごうがわ)近辺を撮影したものです。
ドビュッシー作曲 夜想曲より「祭り」




もうすぐ、中学校も卒業式ですが、3年生が卒業すると1,2年生で新しく編成することになります。
次の演奏は、新しい2,3年生により4月に演奏会を開いて、保護者を招待して市民会館で行った演奏です。
生徒たちは、楽器を持ってちょうど1〜2年経ったことになります。
保護者に聴いていただくことは大切だと思っています。
スーザ 行進曲「星条旗よ永遠なれ」




学校での音楽指導については、保護者によってはどうせ2〜3流だろうという意識はあると思う。
そういう意識を払拭するためにも、自分も演奏会に出演して発表するという活動をしている。
あまり大勢の中に混じって演奏すると、本当に先生が演奏しているかどうかわかりにくいので、演奏しているパートがわかりやすい室内楽のような小編成、もしくはソロの演奏会を行います。
グノー作曲 「ファウスト」よりバレー音楽 5.若いトロイ娘たちの入場




DTM_NS2.jpg音楽の分野へもパソコンの進出は著しい。
印刷分野でも、DTP(Desk Top Publishing)が発達したが、音楽分野でもDTM(Desk Top Music)は、シンセサイザーの利用から始まり、映画音楽のBGMや演奏者の代わりに使われることは多い。
私は左の写真の環境で、SONARというシーケンサー(わかりやすく言えば、音楽創作ソフト)により、伴奏に使っている。
次のビデオは、自分の演奏の伴奏をシーケンサーで行ったものである。
アントニオ・カルロス・ジョビン作曲 イパネマの娘 クラリネット ソロ演奏




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 22:50 | Comment(7) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年02月27日

専科教員の思い出

私は一度だけ専科教員をやった経験がある。
それは、中学校から小学校へ転勤した時である。

それまでは、ずっと担任があったので、転勤先でも担任があるものと思っていた。
だから、突然、音楽の専科教員を頼まれた時は、寝耳に水という感じで、専科教員なんて言葉があったなあと思い出したぐらいだ。
3年生から6年生までの音楽の授業をやってほしい、というものであった。
一体、これはどういう意味だろうかと考えた。

小学校の先生は、すべての教科を指導するというのが基本であるから、音楽の授業を担任が行うことは何ら問題はない。
しかし、音楽の授業となると苦手意識を持っている教員は意外に多い。

だから、以前、家庭科の授業をやるから、音楽をやってくれないかなどと交換授業の申し出があったこともある。

ともあれ、音楽の専科教員という初めての経験に、戸惑ったのだが、担任がないというのは、何か半分、先生でなくなったような気分でもあった。

さて、学校が始まると、朝の職員朝会から始まるのだが、それが終わると、多くの先生は一斉に教室の方へ向かってしまう。

すると、職員室はガランとして、残っているのは前列のエライ人たちと、事務職員、そしていつもは担任の先生たちが座っているたくさんの席の中に、私だけがポツンと座っているわけだ。
何か、陸の孤島へ来たような感じでもある。

みんな、黙々と自分の仕事をやっている。
私も何か仕事をしようと、考えていると、事務職員がコーヒーを持ってきた。

担任たちが、教室へ行くと事務員さんは、コーヒーを入れるのだ。
エライ人たちに出すのだが、私のところへも持ってきてくれるのだ。
これも初めての経験だった。
毎日、これが続くのだ。
私は、なんだか心が豊かになったような気がして「この生活も悪くないな」と考えるようになった。

sensei.jpg
6時間目が終わると、帰りの会というものがあるが、担任は当然クラスにいるのだが、私は職員室にいる。
いや、それだけでなく、学期始め、学期末、それに行事ごとに担任は忙しい。
しかし、専科教員はヒマとまでいかなくても、ずいぶん楽なのだ。
まあ、子どもたちとは、少し距離を置いたような感じではあったが。

学校の先生は、あれこれと忙しいのだが、これはゆとりある生活と感じたのは、初めての経験だったし、担任がない寂しさはあつたものの、これはなかなかいい生活だと思った。
そして、これも悪くないと思いながら1年が過ぎた。

2年目になると、また専科教員ということに何ら抵抗を感じなくなっていた。
ところが、新学期開始にあたって、職務の発表があったとき、今度はいきなり5年生の学年主任を命じられた。
せっかく、専科教員に慣れて身も心もすっかりそのペースになってたいたのに「今度は何?」という気分だった。

どうして、今度は一変して5年生の学年主任なのかと探ってみたら、その真相は、どうやら新5年生はかねてから、生活指導で先生たちを悩ます子どもたちが何人かいて、5年生の担任だけはしたくないと思っている先生たちが多かったということらしかった。

よい方に考えれば、荒れた中学校を経験してきた私が適任と思われていたのかも知れない。
悪く考えれば、新参者にやっかいをなすりつけたとも言える。

始まってみると、子どもたちはなんということはなかった。
みんな子どもらしく活発で、私は久しぶりにふるさとに戻ったような気分になった。
忙しくとも、やはり、楽しい生活であった。
しかし、私の知らないところで、思いもよらないことが進行していた。

ある日、帰宅して食事も終え音楽でも聴こうかと思っていたら、校長から電話がかかってきた。
喫茶店への呼び出しだった。

私は何だろうと思いながら、これは多分何かいい話かなと期待していた。
喫茶店について、席に着くと、校長の方から口を切った

「あのなあ、お前、子どもの連絡帳に『死んじまえ』と書いたそうだな」

私は、突然の話に耳を疑った。

「そんなことしませんよ」
「だってな、きれいな赤い字で書いてあったぞ」

赤い字で書いてあったと言われたが、私はあいにく赤インクを切らしていたので、黒色の万年筆で書いていた。たから、赤い字でかくわけがない。つまり、それは私の字ではないことは明らかだ。
それで、私は校長にその旨を話した。
校長は即座には信用しなかったようだが、話をしているうちに、私の言うことを信用したようだった。

事の起こりは、私が前年は専科教員だったのに、今度は学年主任で担任を持ったことだった。
保護者たちの間で、専科教員のようなものが担任ができるのかという話が持ち上がっていた。
そして、母親たちが集まると、その話題が出て、ウチの子は専科だった人が担任になったんだよという話をしていたらしい。

つまり、専科教員というのは、保護者の間ではランクの低い先生とみられていたのだ。
「担任もできないような先生」がやる仕事という認識だったのだ。
それで、不愉快になった保護者たちが策を練って、担任を辞めさせようと工作したのだった。

非常に驚いた事件であったが、私は専科教員の認識がそういうものであるということを初めて知った。
先生たちの間では、専科教員についての話題を聞いたことはなかったので、先生たちの認識はわからなかったが、少なくともその地域の保護者たちの認識では、専科教員というのは何か一人前の先生ではないような扱いであった。

しかし、それ以上問題が発展することはなかったが、私は次の年、中学校への転勤することになった。
私はなんだが名残惜しい気分でその学校を去ることになった。

退任式の後、校門を出ると「先生」と叫ぶ声が後ろから聞こえてきた。
振り返ると、生活指導で一番厄介をかけた益男が泣きそうな顔をしていた。

保護者会で益男の母親は、いつも申し訳なさそうな態度で私の前に座ったが、私は

「いい子ですよ。おかあさん、心配なさらないで」

と言っていた。
益男は腕白で、他のものとはちょっと外れていて、私はよく世話をやいたが、私は彼を嫌っていたわけではなかった。
彼の人並み外れた、時にクラスを乱す行動が改まることはなかったが、何か心に感じるものがあったのかも知れない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 09:20 | Comment(35) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年02月25日

想像を事実にすり替えるやつは性格が悪い

semaisiya.jpg教師は文章を書くことが多い仕事である。
だから、文章が苦手な人は苦労するだろう。

文章を書くということは、創造的な仕事だから、文法に精通している、漢字をたくさん知っているというだけではできることではない。

音楽の仕事をしている友人が、かつて、作曲は、楽典をよく知っているというだけではできないとと言っていたことと似ていると思う。

作文も作曲も、頭の中に素材がないことには、どうしようもない。
その素材も、オリジナルでなければ盗作になってしまう。

盗作はしばしば、オリジナルの素材が枯渇してしまった人が行うことで、創作活動を仕事にしている人にとって、オリジナルの素材の枯渇は命取りにもなる。

オリジナルの素材とは、自分の想像力の源泉とも言えるが、その源泉が貧弱であると説得力のある表現とならない。

抽象的な話になってしまったが、要するに自分の考えのもととなる観察力や視野、思考回路に問題のある人の文章は説得力がないし、社会に受け入れられない。

少なくとも教師にあっては、それらの問題を抱えている人がならないようにしなければならない。

ここで、最近私が非常に問題と感じる思考回路を持った人について言及したい。
それは、まず、事実と想像の区別がきちんとできていない人のことである。
具体的な話を元にして、考えてみよう。

先に、先生がいないときは、学級委員の判断で進めてよいと言う話を私がした。
(学級委員を知らない人がいるようだが、地域によっては級長と言っているところもある。要するに、クラスのリーダーのことだ。名前は何でも、リーダーのことを言っているんだなぐらいわからない人は、はっきり言って、頭が悪い)

この状況をもう少し詳しく紹介する。

朝の職員会(職員朝会)が、その日は大切な議題のため伸びた。
学校では、生活指導で「次の授業の準備をしておく」ということになっていたが、いつもより遅れて教室に行くと、生徒たちは1時間目の英語ではなく、数学をやっていた。

それで、私は「数学じゃなくて、英語だろう?」と言った。
そうしたら、ある生徒が「だって、高橋くん(学級委員)が・・・」と言ったので、高橋の方を見たら、彼は暗い表情になっていた。

私は、その表情を見て、何だろうと思った。
そして、間もなく、その理由に気がついた。
その日は、数学の授業で、テストをやることになっていたのである。
それで、生徒たちは少しでも数学の勉強がしたかったのだ。

廊下側の窓を開けると、職員室の方が見える。職員室の様子から、先生はまだ来ないのではと生徒は思ったらしい。
そこで、学級委員の高橋に誰かが、数学をやっていいかと言ったのだ。
高橋も、その気持が理解できたので、自分の判断でみんなに、いいと言ったのだった。

本来英語の準備をすべきところを承知で、数学を許可したので、先生に叱られるのではという不安を持っていたのに違いないと私は思った。
そして、ここで「何で、英語の準備をしないんだ」などと言って叱ったら、高橋の立場もないし、これから先、学級委員としてのリーダーシップを妨げるのではないかと思い、高橋をサポートしなければならないと考えた。

それで「いや、先生が遅くなったので、悪かった。高橋がそう言った、今回の指示は正しい。これからも、もしこういうことがあったら、学級委員(高橋)の言う通りでよい」と言ったわけである。

「高橋、悪かったな」

とも言った。

これが、その時の状況である。

ここでの、私の行動の意味は、普通の大人なら理解してもらえると思ったのだが、予想もしないことを考えている人がいたのは、驚いた。

「教師の管理を生徒に任せる(とんでもないことだ)」

とか

「教師に殴られたことがあるので、学級委員は教師に反感を持っていて、教師の指示(先生がいない時は、学級委員の指示でよい)など聞かない」

などと言う意見(考え)だ。

この話は、教師が学級委員に指示(命令)したという話ではない。
生徒の立場、気持ちを尊重して行った行動なのだ。

また、そこへ、教師が殴ったので反感を持っているから、教師の言うことは聞かないなどと言う話を持ち込むというのは、ズレている(見当違い)だということがおわかりになるだろうか?

だいたい、生徒がやりたがっていたことを、教師の方が追認したわけだから、ここで「教師の言うことを聞かない」なんて話が出てくること自体、頓珍漢である。

さらに、輪をかけて、話にならないのは「教師に殴られたのは、子どもの頃の私の実体験だ」というのである。

それがどうしたの?と言いたいし、私からすれば

「あなたが子どもの頃体験したことが、私の子どもの指導にどう影響するのですか?」

と言いたいわけである。

「あなたが、子どもの頃、教師に殴られ、教師に反感を持つようになったので、私が指導する子どもたちににそれが乗り移るとでも言いたいのですか?」

と言いたい。
さらに、そうでなければ

「子どもたちは、みな、教師に殴られた経験を持ち、みな教師に反感を持って育ってきているから、どこの子どもも教師の言うことを聞かない」

とでも言いたいのですか?
ということである。

正常な考え(正しい思考回路を持つ人)ができる人なら、この人が考えていることはおかしいとわかるはずである。

ここで、もう一つ問題なのは「殴られた子どもが先生に反感を持っている」と考えたことが「私も同様に、子どもを殴っていると(勝手に)想像した」ことである。

想像まではいいとしても、話が続いていくと「殴られた子どもは、反感を持っているから、教師(あなたの言うことは聞きませんよ」に発展して行ったことである。

つまり、ここで、想像がいつの間にか事実になってしまっていることである。

あることを想像する時、その想像のターゲットが全体でどれだけあるのか、また、それらの中で「それらしいと想像する確率」はどれほどなのかを考える必要がある。

本テーマにおいては、私が子どもを殴る先生であるか、殴らない先生であるかを想像したとき、それらの確率はどれほどであろうか?

私が殴る先生であるという方に傾く、何か根拠があるのだろうか?
あるわけはないでしょう?
しかし、私が殴る先生であるという前提のもとに話を進めているのは、公平に見る力はなく「殴る先生と決めたい」という勝手な意思に基づいているだけである。

ある人が

「人は信じたいことを信じる」

と皮肉ったが、まさにこれもそうだろう。
教員の資質には欠ける態度ではないだろうか?

呆れたことに、話は「体罰は禁止されているのに、教師は殴っても許される」なんて妄想を発揮して、話は泥沼化。ちょっと異常じゃないと思うようになった。

さらに、ここへバカが登場したのには呆れた。

「殴らなくても、精神的ないじめは暴力(体罰)と同じで、そういうことをやっている教師がいる」

と割って入った。
そして「どうしてくれるんだ」と言わんばかりの態度。

私は知らないです。そんなことは私に関係ないですと言いたいが、このバカも、私が殴っていないにしても、まるで子どもたちに精神的な暴力をやっていると言いたいみたいだった。
そして、これも発展すると、想像しかないのに「私がやっている事実」にいつしかなってしまうのである。
これも、思考回路の異常だろう。

東京の人に聞きたいが「東京の先生って、こういうのが普通」なんですか?

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 18:06 | Comment(7) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年02月25日

またおもしろい材料がありました

と言うか、正直なところ、読んでいると、頭が変になりそうな気がします。

chonouryokusya.jpg
他人の文章を材料に、参照させていただきますが、私に関係あることが書かれているようなので、素材として使わせていただきたいと思います。

素材の文中、[太字]ならびに[数字]は私がつけ加えたものです。

まず、素材となる原文です。

音楽はもともと自然な表現から生まれ、やがて形式とい う共通の安心感[1]を求め、そしてその形式から脱却して再び表現があふれるのを楽しもうというような大きな流れがあると思います。したがって、形式も音楽の一 面ですし、表現は本来の姿です[2]。もちろん形式至上主義の音楽作品は、生きた表現として認められず、そのまま歴史に埋もれてしまうことが多いです[3]壊すため の形式[4]があると言えばわかりやすいかもしれません。

 一方、再現するとき、つまり演奏するときなんですが、指揮者というより指導者によっては、非常に形式的な人がいます。表現も指導法も練習体制も何もかも その人の型にはめないと気が済まないという人[5]、これは学校の部活の指導者である程度の業績を上げる人の相当数がこのタイプです[6]

 だから、そういう部活では音楽をやっているというよりは、形式主義的で組織的な音の組み合せ活動の訓練の成果を出している[7]のです。

 どうして楽譜があるのかどうしてみんなと合わせなければならないのかどうしてこんなことをしなければならないのか、などというと、組織から悪者にされてしまうのです[8]。自分を持っていると、残念ながらうまくできないのです。

 もちろん優れた指導者は、個々の自分[9]を大切にしますが、表面的にはそうでも、実際はそうではない人が多いですね[10]

 クロゾーさんは音楽に根本的な疑念を持っていますから[11]音楽に向いていると思います[12]表現主義的[13]と言えると思います。

 一方dolceさんは、これまでの記事内容やコメントの仕方などからすると、根本的には部活タイプ[14]の人のような気がしています。以前への私へのコメント の流れや言葉を見ると、楽譜は読めても音楽が読めないタイプ[15]反応が紋切り型[16]で、相当にまじめで固い人のように思われています。言うこととやっていること がズレている[17]のに、それへの自覚ができない指導者の典型のようです[18]。これはあくまでも指導者としての話ですので、普段の生活はどうなっているのかわかりま せん。
 こんなところでしょうか。


== [解説] ==

[1]「共通の安心感」って何でしょう。私には意味不明です。この方の文章は、ほとんど抽象に終始しているので、読む方が想像力を働かさなければなりません。想像力を働かせる必要があるのはいいとしても、その想像が合っているのかどうかの、確認のしようもありません。まあ、合っていなくても良いのかもしれません。互いに想像し合って、合っていようがいまいがお互いにストレス解消になればいいってことで、解読しようとする必要はないのかも知れません。

[2]「表現は本来の姿です」と言うのは「人の心の動き(感情)を優先する、あるいは重んじる表現」のことでしょうか?
古典派ロマン派のことを言っているのかな?
どちらにしても「形式だけの音楽」とか「感情だけの音楽」あり得ないと思っています。どちらの比重が大きいかとということだと思います。

[3]具体的にどんな音楽なのか知りたいです。形式上主義の音楽ってあるんですかね?逆に興味があります。

[4]これもわからないね。「壊すための形式」ってどんなものなんですか?

[5]ここは単純にはいかないところだと思いますね。「その人の型」というのが何を言おうとしているのか、本当に具体的なイメージを持って語っているのか?だとしたら、こういうところは例示が欲しいですね。指揮者によって音楽は違ってきます。その違いを言っているのか?「型」というから「はてな」と思ってしまう。指揮者ってどんな指揮者だって、その人のやりたい音楽というのがあって、それがおもしろいから、同じ曲でも指揮者の違う録音を集めるのだが「型にはめないと気が済まない」と言っているが、指揮者というのはその人のやり方でいいんじゃないの?

[6]「ある程度の業績を上げる人の人の相当数がこのタイプ」って言うけど、指揮者自身が思っている音楽をどれだけ徹底できるかが仕上がり具合であり、プロアマ問わず、そういう仕上がり具合の高い演奏がいいと思うんだけど、よくわからないなあ。ムラヴィンスキーやセルは魅力あるけどねえ。

[7]よくトレーニングされ、指揮者の意図がよく徹底された演奏を「形式主義的」と言っているのだとしたら、全く違うと思います。では、そうでない演奏ってどんなの?演奏者各々が勝手に演奏するものなの?

[8]確かにそうだな。「どうして楽譜があるのか」というのは「どうして楽譜に忠実でなければいけないのか?」という意味かな、そんなことに疑問を持っている者は、アンサンブルには向いていないな。「みんなと合わせなければいけないのか」なんて疑問持つやつも困る。「どうしてこんなことをしなければならないのか」なんて言うやつは論外。そんなことを言うなら、みんなと一緒にやらないでくれと言いたくなるな。だって、音は合わないし、リズムも出だしも揃わないだろう?第一、そんな演奏を聴きたいって思う人いるのかな?

[9]「個々の自分」ってどういう意味?自分って「個」に決まっているだろう?

[10]まことにわからん文だな。

[11]「音楽に根本的な疑念」って何だよ?わからんなあ。また、それが[12]「音楽に向いていると思います」って何だよ?音楽に疑念を持っている人が音楽に向いているんだって?逆じゃないの?そして、もっとわからないのが、それが[13]「表現主義」だって?
「音楽に根本的な疑念を持っている人が音楽に向いていて、それが表現主義」だって?ものすごく難解な文章だな。

[14]「部活タイプ」って、一体何だよ。この意味わかる人いますか?

[15]「音楽が読める」ってどういう意味なんですか?それに、私の音楽を聴いたこともないのに、私のやる音楽がどうのこうのってわかるんですか?まるで超能力者ですね。

[16]「反応が紋切り型」って、具体的にどの部分のこと言っているの?そういう時は「・・・の部分」て具体的に示すものだよ。こういう場合「それは、具体的にどの部分のこと言っているのですか?」と聞いても、一回も返事が返ってきたことがありません。本当に一回もないのです。

[17]これも「言うことと、やっていることがズレているところ」ってどこか、具体的に教えてよ。

[18]それにしても、この方は凄い。超能力者みたいですね。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 02:33 | Comment(5) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年02月24日

形式主義とご都合主義

絶対間違っているのにどう説明しても、修正されないものはROMかも知れませんので、無意味と判断することも必要だと思います。

しかし、今回のコメントの中に、参考になるものがあると思いましたので、これを材料に意見を書いてみます。(意見というより、解説と言った方がよいかも知れません)

「太字」[数字]は私がつけたものです。


まずはじめに、材料となる文章を紹介します。

同じ日本語を使っている人間でも,私とdolceさんのように,全く考えが異なっているというのもおもいろいものですね。[1]

これ,文化圏が異なる人間同士だと,本当に殺し合いになりかねない。絶対に相手が理解できないから。コミュニタリアニズムの考え方は,あって当然のものです。[2]

でも,私は,dolceさんを理解できる。
そういう考え方の教員をたくさん見てきましたから。
どこがおかしいのかを説明します。[3]

まず,上の文章を読んで,そこに「教育への情熱」を期待できる人は,どのくらいいるでしょう。少なくとも,私には感じることはできません。形式を守ることへの情熱は非常に強く感じますが。[4]

>何事もまずルール(形式)を守って行われていることが、先

ではなく,物事の内容的側面の意味や意義を重視することが先で,ルール(形式)は絶対ではない,というのが,正しい教育方針です[5]

ルール(形式)は,物事の内容的側面の意味や意義を考えてながら,教育実践を重ねていく過程で,実情に合わないものは変わっていくものなのです[6]

ここで,形式絶対主義者は,では,ルールを守るなというのか?というワンパターンの質問を繰り返すわけですが,要は,形式と,意味や内容の優先順はどちらにあるのか,ということです。形式は,あくまでも本当の意味や内容を「かたち」にしたに過ぎない[7]から「形式」なのであって,

>いわば形式を徹底するように、図や表によっていつでも参照できるように環境を

つくればいいのではなく,内容を徹底するように,わかりやすいかたちに整えるのが大事なのです[8]。「形式の徹底」が,どれだけ形式主義に陥っている人間の言葉かすら分からないのですね[9]

>スポーツの試合でもそうでしょう?
>形式(ルール)を守って行わなければ、話にならないでしょう?

守る,守らない,という発想がだめなのです。
一生懸命やっていると,ルールを破る=反則を犯すことはあり得るのです。
サッカーやバスケットボールのように身体的接触が多い競技なんて,反則ばっかりでしょう。[10]

また,今のルールだと,うまくいかない,ということが分かってくることがあるのです。
内容重視なのです。だから,形式(ル―ル)は変わるのです[11]

「ルールだから守れ」という形式的な言葉を生徒に浴びせるのは指導ではないのです[12]
指導とは,どうしてそういうルールがあるのか。どんな価値や中身がそこにあるのかを考えさせ,それを理解した上で行動させるのが指導なのです[13]

形式主義者には,「心」と「芯」がありません[14]



== [解説] ==

[1]考えが違うというのは、イデオロギーの違いを言うのであって、誤った考えに基づく対立は意見の違いではありません。
コペルニクスやガリレオの地動説とそれに異を唱える人たちの対立は、意見の違いではなく、真実の理解ができなかった人たちの問題です。

[2]私からしたら、話にならないというレベルで、そんな高級なものではないと言いたいです。それは[1]に述べた理由からです。

[3]おかしいと思ったとき「もしかして、自分の方が間違っていないか?」と考える心の余裕は大切だと思います。
それでは、お前はどうなのだと言われれば、当然、そういうことはいつも考えています。
だから、辞書は傍において参照できるようにしていますし、辞書以外の文献などでも確認します。
音楽に携わっている人間、特に他人と音を合わせるアンサンブルことをやっている人間には「もしかしたら、自分が間違っていないか?」と考える習慣は体に染みついていると言ってよいでしょう。

[4]私は、別のところにも書きましたが「形式を守ることが情熱」だとは思いませんし、情熱は、通常、形式を守った後の中身の問題だと思います。
逆に、この人の文章を読むと「形式を無視することが人への情熱や思いやりと思っている」フシがあります。

厚生労働相の役人(村木さん)が寃罪で逮捕された事件は、検察が「確かな証拠に基づいて捜査を行わなかった」という形式を無視したやり方のため、起こったと言えます。

逆に、形式(ルール)を互いに守っていると信じ合っているからこそ、安心な社会生活が送れているのだと思います。

通行中の車が、自分の都合で信号無視するかも知れない、自分の都合で信号を無視してよいと考えたら危なくて車を運転できません。
この方は社会の先生と言っていたと思いますが、大丈夫なのでしょうか?

[5]ここは、この種の誤りをおかしている人を考えると、非常に重要な部分だと思います。
再掲します。

ルール(形式)は絶対ではない,というのが,正しい教育方針です


教育に限らず「ルール(形式)は絶対ではない」というのは、この文にに注目する限りは正しいと思います。

[6]実情に合わないものは変わっていくというのも「そうだ」と思います。
むしろ、実情に合わないものは変えなければいけません。
しかし、この方の考えは、次の段階が非常に問題なのです。

それは、実情に合わないものを、どうやって変更するかということです。
私の体験を通じて説明します。
私がある中学校へ転勤してから初めての日曜日の部活動の練習日のことです。

練習開始の時刻は8時30分でした。
私としては、少し早いなと思いましたが、そう決めてあるのだから遅刻しないようにと思い、早めに行きました。
そして、生徒たちを待っていると、遅刻者が何人もいました。
それで、私は「遅刻はいけない。時刻は守るように」と言いました。

すると、遅刻してきた生徒から「こんな早い時間では守れない」と文句が出ました。
一瞬シーンとなったところで、私は言いました。

「わかった。それでは、絶対無理がないという時刻に変更しよう」

と。

ところが、それでも何かブツブツ言っている生徒がいました。
少し、ワイワイとざわめいて生徒たちの間で話し合いがありました。
どうも、気分的にしっくりこないという生徒がいたようです。
ある生徒が

「でも、それでも・・・早いじゃないか・・・?」

と意見になるのかならないかのようなことを言いました。
私が

「いや、これから、これなら絶対守れるという時刻にすればいいんだから、まだ決めてもいないのに、早いという考えはおかしいだろう?」

と言ったら、生徒たちはそれでもしっくりしないという気分を残しながら「そりゃそうだな」という雰囲気を示しました(うなづいている生徒もいました)。

多分、生徒たちの中には「本当に、遅くしてもいいの?、あまり遅いと、先生はそれじゃあダメだと言うんじゃないの?」と考えているような空気が伝わってきました。

私は「教師を信じていないんだ」と考えました。だから、ここはさらに強力な指導が必要だと考えました。そして、次のように言いました。

「いや、君たちが、これなら絶対無理がない、守れるという時間なら、先生は反対しないよ。約束する」

そうしたら、先生は本気なのか?と思い始めたようで、意見が出始めました。
そして、結局、開始時刻はも生徒たちの考えで「9時30分」と言うことになりました。

部長が「9時30分」ということになりました。
と言うと、生徒たちが一斉に私の方を見ました。
私は次のように言いました。

「9時30分でいいんだな?、絶対守れるんだな?」

生徒たちの表情を見ると、それなら守れるという感じでした。
それで、私は

「よし、9時30分でいいんじゃないか、そうしよう。そのかわり守ってください」

と言いました。
生徒たちの、空気が変わったように感じました。

次の日曜日、9時30分開始でしたが、また何人もの生徒が遅刻してきました。
その者たちは、少し暗い表情で部屋に入ってきました。
私は特に叱るとか、注意するということはしませんでした。
でも、時間はかかりましたが、注意はしませんでしたが、遅刻は徐々になくなっていきました。

不合理なきまりを変更することは、構わないし、必要とも思いますが、大切なのは変更する手続きだと思います。

[7]この言葉は「だから、形式は無視してよい」と考えているようにとれます。
また「本当の意味や内容を『かたち』にしたに過ぎない」と言っていますが、図や表は私たちの生活環境の中の至るところで使われています。
何のために、図や表にするのかというと、それは直感的に人が内容を理解できるためだと思います。
長々と文章で説明していたのでは、時間がかかる。時間がかかってはまずいと考えるので、いかに人に直感的に内容を伝えることができるかという工夫がされているのだと思います。
そして、その図表によって、人は想起するのであって「内容を思い出す」ということが本質であり、図表は目的ではありません。つまり「見ればよい」というものではなく、想起する内容が問題であり、想起する内容は個人差、個人の責任の問題です。

「一方通行」の標識があったら、瞬時にその内容の意味を理解し、行動するのは個人の責任です。
単なる形式だから、見るだけでよい、自分の考えを優先してよいということはないと思います。
その場所の一方通行に不合理があると思うなら、警察に意見を寄せ、それが世論となり公安委員会が認めて変更されるという手続きを取らなければなりません。
個人の段階で、勝手に、形式だからといって変えることは許されません。
手続きは民主主義の大切な仕組みの一つです。社会の先生がこういうことを理解できないというのは困りものです。

[8]その通りです。ですが、次の[9]とどういう関連があるのか、意味不明です。
図表は、本質的な内容をいかに直感的に伝えられるかが大切です。社会科にも、たくさん図表が出てきますが、その重要性をわかってみえないようですね。困ったものです。

[9]これなんか、この人の思考回路の大きな欠陥を表しているところだと思います。
この人は、スポーツを例に出して、反則が多い(ルールに反した行為が多い)と言っています。そして、反則が多いということを、ルール違反をしてもよいという論拠にしているように思えます。
[10]これは多いことは許されるという考えが元にあると思われます。
それは、当然、非常にまずいということは明らかでしょう。
つまり「みんなやってるよ」は正論になるという考えに通じるのです。

ルール違反は許されないから「反則をとられる」のでしょう?
反則が多いと、退場にもなるわけです。
日本は、昔、オリンピックに出場したとき、反則が少ないということで表彰されたことがあります。

多いから、反則もよい、それがいかにも人間的であるかのように言うのは、先生としてもまずいでしょう。

[11]ルールが変わることがあるのは、誰でも知っていることです。
しかし、ルール変更にあたっては、変更前に関係者に知らせなければなりません。
個人が、不都合というだけで、勝手に変えることは許されません。
大勢の人が社会生活を行っていく上で、最も認識していなければならない基本です。
社会の先生がこれでは困りますね。

ルールを変更することは、それなりに合理的な理由があればかまわないことです。
しかし、手続きを経るということが大切なのです。
今、行われている放送の地デジかもそうでしょう?
地デジマークは、多くの人に直感的にわかってもらうための図(シンボル)です。

[12]大切な指導です。
しかし、ルールも人間が作ったものであるから、話し合って変更することは差し支えないことです。

[13]だから、ルールは大切だということ、そのルールの意味を理解させ、ルールを守らなくてはいけないという教育をしているのでしょう。
免許書き換えの講習も、その例でしょう。
ルールの意味を知らなかったら、守らなくてもよいという考えは通用しません。
この国は「法治国家」です。法治国家とはルールを中心に国家を治めるやり方です。
社会の先生が、こんなことを知らないのですか?
それこそ、社会の教科書の文章を表面的になぞっているだけで、中身をきちんと教えていないといことではないでしょうか?

[14]この人は、形式と形式主義の違いがわかっていません。
自分の都合を中心にして、自分の矛盾さえ気がつかない、自分の気分、わがままを中心にするご都合主義と言えます。

sikasunosikohkairo.jpgかえって、人を不幸にするでしょう。
これで、社会を教えるのは非常にまずいと思うし、社会科の教科書の本旨、本質とはズレているので、授業は文字をたどっているだけで、自己の考えと、社会科の教科書の本質が一致していないという矛盾を続けているのではないかと想像します。
ご自分が、自ら形式主義を実践しているのではないでしょうか?

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 11:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年02月23日

形式と形式主義

形式を守るということと、形式主義の違いがわからない人がいるから、話にならない。
話題は異なるが「貧困」と「貧困率」を区別できていないのと似ている。

こういうことが、知識としてきちんと整理できていない人が、教員をやるのは、はっきり言って問題があると思う。

自分が勝手に間違った意味づけをしないように、辞書で確認することが必要だ。
教員なら、身近に辞書をおいて置くことは必要だ。そして、努めて確認する習慣が必要である。
こういうことは、先生自身が子どもに指導しいるのではないか?

***********************************************************************************
【形式】
物事を行うときの、則るべき一定の手続きや方法・様式。また、その一群の物を特徴づける、
共通して備えているかたち。

【形式主義】
一般に、物事の内容的側面を軽視して、形式的側面を重視する立場。
***********************************************************************************

学校は学校として決められた形式によって、教育活動が行われているのであり、それらの形式を守ることが形式主義と言うのであれば、活動は混乱に陥る。

教育課程があり、始業時間などが決められており、それらのきまりによって活動が実施されているのである。

それらのきまり、いわば形式を徹底するように、図や表によっていつでも参照できるように環境を作っているのである。

一般に文章に記述するだけでは、直感的にわかりにくいので、図を使うわけで、図によって学校教育の形、形式を表すことを形式主義だというのはとんでもないことであり、まして、学校の先生が、正しい認識をしていないのは、子どもの教育を任せている国民の立場からしたら不安だろう。

形式主義というのは、形式を守るだけで、中身をないがしろにすることであり、形式主義かどうかの評価は、形式に沿ってことが行われているかどうかより先のことである。

別な言い方をすれば、何事もまずルール(形式)を守って行われていることが、先でありルールを守らないのは、評価の対象にすらならない。

スポーツの試合でもそうでしょう?
形式(ルール)を守って行わなければ、話にならないでしょう?

ただ試合をやっているだけで、見る価値もないような試合が形式主義でしょう。
今、問題になっている相撲の八百長の取り組みが形式主義の例ですよ。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 22:40 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年02月22日

この日本語、何とかならないのか?

bakahanaoseru.jpg

dolceさんの思考の課題 その1

dolceさんを歴史像にあてはめると,「律令制」に最も近い。

 実例にあてはめると,「終戦間際の軍部」の傾向もある。

 平安時代の実態は,武家政権を生み出す必然性を備えていました。

 軍部の実態は,「こうあるべき」「こうでなければならない」という考え方で,「実際にはどうだ」「現実的にはどうなんだ」と問うことを禁じられていた[1]ので,破滅の道をたどったのです。

 そのあたりのところを指摘してみたいと思います。

 dolceさんは,私が「体罰が実際に容認される」ことと「体罰を可とする意見がある」ということの区別ができない,と主張しています。

>あることがらが容認されるかどうかは,きまり(法律)に照らし合わせて判断すること

>きまりで決まっている以上,自分がどういう考えを持っていようと,現行のきまりは守らなくてはなりません

 体罰の場合は,だれもが体罰は法律で禁じられていることは分かっているが,それが必要だという考え方の人,体罰を容認できる人がいるので,実際に起こってしまうのです。[2]


[1]へえ、そうなの?
具体的にその根拠を教えて欲しいなあ。
しかし、それはともかく、私の考えるところでは、この人の書いているものは現実感(リアリティ)がないと思います。
教育実践が乏しく、いかにもいいことを書いているようですが、テレビの1時間ドラマを観ているような感じがするところがあります。
45分ぐらいになると、暴れん坊将軍が出てきて「予の顔を見忘れたか」と言うと、皆の者が「ハハア」と言ってひれ伏す、チャンバラが始まって間もなくことが解決するというアレです。
「そんな簡単にいくの?」と思いながら視聴者は楽しんでいるのです。
でも、この人のドラマはちっともおもしろくありません。

[2]そんなことはないなあ。
じゃあ、殺人が起こるのは、殺人は禁じられているということが分かっているが、殺人を容認できる人がいるので起こってしまうのか?

まあ、中には現代にも、必殺仕事人のような人がいるとしたら、そういう人たちはそう考えているのかな?
でも、殺人を可とする人たちがどのくらいいるんだろう?

スピード違反は、必要だと考えている人はどのくらいいるんだろう?

私は「悪法でも、法は法」という言葉があるように、気に入らない法律なら破っていいと思う人(容認する人)がいるとは思えないんだけど。

私は体罰は反対であるし、もちろんやったこともありません。
だから、体罰は必要だと考えている人たちと、時に論争になります。

体罰を行なっている人の心理を想像してみると「きまりとしてはいけないと分かっているが、自分は容認する考えを持っているから、行なっている」とは思えません。
先生たちが「きまりはあるが、自分がきまりを守るつもりはないので、やってもいいと考えて」やっているほど人間のレベルとして低くないと思います。

体罰を行うときの心理は「指導に行き詰まっている」「感情的」のどちらか、あるいは双方だと思っています。

「うちの子どもは,悪いことをしたら,気にしないでどんどん殴って下さい」という親も,現実にはいるのです。[3]


[3]そういう親はいますね。でも、実際にはそういう親の方が、いざ子どもが殴られると文句を言ってくる傾向が高いと感じています。

dolceさんの思考の欠点は,「あるべき姿」と「現実の姿」が区別できないことです。
「あるべき姿」の通りに「現実の姿」はなっていると誤解している。
あるいは,「あるべき姿」の通りに「現実の姿」はあるべき・・・というループ思考になってしまっている。
「現実の姿」は,多くのケースで,「あるべき姿」とは異なっているのです。
それは,「ルールがあるから,ないから」という理由ではありません。[4]


[4]これは「体罰は禁止」という法律と「体罰の行われている現状はどうか」のことを言っているのだろうと思います。
しかし、こういうところが、この人の読解力のなさ、思考力のなさを表していると思います。

「体罰禁止の法律」があるから、体罰は行われていないと、私が思っているのでないかと考えているのではないかと思われます。
正しく読み取れたら、そんな風には解釈できないはずです。

体罰は禁止されているということは、教員なら知っているはずです。
なのに、自分は体罰には賛成(容認の立場)だから体罰は行っていいいと、考えてはいないと思うのです。

体罰を行う人の心理は次の1か2のどちらか、あるいは双方だと思います。

1.「指導に行き詰まって」あるいは「言葉で言ってもわからないから」体罰に頼って指導しようとする。

2.感情的になって(腹が立って)、体罰を行う。

私は、ある時から、私の想像以上に体罰もしくはそれに近いことが行われているのではないかと考えてことがあります。
(実際には、体罰になるかどうかのボーダーラインで、法廷闘争になることもあります。だから、ある人は体罰と考えても、別な人は体罰と考えていないケースも考えられます)

それで、私が学年主任を務めた時、学年集会で生徒たちに、次のように言いました。

「先生が体罰を行ったら、いかなる事情があろうとも、それは先生の方が悪い」と。

生徒たちの方から歓声が上がったので、やはり、体罰が行われているのだなと思いました。

 dolceさんの発想では,「体罰は禁止」というルールがなかったら,「体罰はやってよい」と言いかねません。[5]


[5]これは、単なる妄想なのか、そういう根拠があるのかどちらでしょう。
根拠があるのなら、具体的に示すべきですね。
とにかく、この人は、結論は言うのだが、根拠は言いませんね。

 dolceさんは,「形式だけを重んじ,内容を問題にしない」人であると批判できるのは,そういう考え方をもっているためです。[6]


[6]この文の「そういう考えを持っているためです」の根拠は何ですか?
何だかわからないが、あなたが勝手にそう思っているということだすか。だとしたら、そういうのを「妄想」と言うんですよ。とにかく、根拠がないんだなあ。

「きまり(法律)に照らし合わせて判断する」「現行のきまりは守らなくてはなりません」という指導の方法は,最低なレベルですよ。[7]


[7]ええっ?そうなの?これは驚きだなあ。教員がこんなことを言うなんで信じられないですがねえ。
「きまりは守らなくてはなりません」と指導するのは最低なんですか?
では「きまりは守らなくてよい」と指導するのが最高なんですか?
悪いが、狂っているとしか思えませんね。


「どうして殺人はいけないのですか?」

 「法律で禁止されているからです。」

 こんな当たり前のことを答えて,それでよしとする教師がニセ教師なのです。[8]


[8]あなたが「当たり前のこと」を理解できないから聞いてみたんですよ。
「よしとする」も何も、あなたの常識を確認しただけですよ。
法律を守るのは当たり前、でもそれでよしなんて私は言っていません。捏造だなあ。

「あるべき姿」とは異なる姿を容認する考え方があるから,あってはならない「現実の姿」があるのです。[9]


[9]もう少し、まともな日本語にならないものですかねえ。

[添削例]
きまりは守らなければいけないのだが、実際は、必ずしも決まりが守られていないという現実があるのです。

これでどうですかねえ。

きまりを守らない人の根絶の方法を知っているのなら,ぜひ教えてほしい・・・というので私なりに答えますと,体罰の根絶には,体罰を容認する考え方をなくす,それが第一だと考えています。[10]


[10]ふむ、ふむ。私はこれを読んで「ネコとネズミ」の話を思い出しましたよ。
ネコの恐怖におののいているネズミが考えた、よく知られている案ですよ。
「いい案がある。それは、ネコのクビに鈴をつければいいんだよ」というやつだよ。
「では、鈴をつけるのは誰がやるんだね?」というのと同じ。

「体罰を容認する考え方をなくす」のはどうやって実現するんですか?

「世の中から悪をなくすには、悪いことをことを考える人をなくす」と言っているみたいだな。

学校の先生が、こんなことを言っていていいのかなと思うんだが・・・寂しくなってくるね。
もう、お笑いを通り越しているよ。

ちょっと意味がとりにくいのは,

>残念ながらこれは人間が作っている社会は,きまりを守らない人がいるというのが現実で,きまりを守らないということが許されているのではなく,努力はしているが根絶できないという問題です

 この「努力」とは,何を指すのか?[11]


[11]そうなんですか?
こんなことがわからないとはねえ。学校の先生なんでしょう?
例えば「飲酒運転はいけない」という決まりがあるでしょう?それで、飲酒運転を撲滅するポスター、呼びかけ、検問などをしていますね。こういうのを飲酒運転をなくす「努力」と言うんです。あなた知らないんですか?

「現実」を分かっているようなのですが,「自分も力を貸さなければ」・・・という姿勢ならば,たとえば,体罰を根絶すべきだともし思っているとすれば,岡山市の「体罰は可とする考え方が多い」という情報を垂れ流すことに,何の意味があるのか分かりません。[12]


[12]あなたが「体罰を可と考える人が多いのか少ないのか」わからないと言っていたから、客観的データを出したんですよ。あなたみたいに、妄想で決めつけていないから、大いに意味はあると思うよ。

「あるべき姿」と「現実の姿」が区別できていない最たる言葉が,

>組織図って内容をわかりやすくしたものであるのですから,「内容を問題にしない」なんてあり得ません。

 というものです。校長と教員の関係が上下関係として作られていますが,国旗・国歌の問題にふれるまでもなく,「建前」と「実態」がいかに異なっているものであるか,知らない教員はいないでしょう。

 校長の意向通りにいかないことなど,学校現場ではいくらでもあるのです。[13]


[13]これを読むと、私はどうしても正常とは思えないですが、今はこういう人が先生をやっているのですか?

国旗、国家とか、建前と本音とか言っていますが、図で内容をわかりやすく説明していることとは何の関係もないと思いますが。
図で示してあるが、実際はそのようになっていない場合って、現実にはありますよ。
あなた、社会科の先生でしょう?
メルカトール図法なんて、平たく世界図を表しているけど、地球はあんなふうじゃないでしょう?

dolceさんは出張の話のときに,軽々しく「職務命令」という言葉を出しましたが,東京都の都立高校の教員以外で,「職務命令書」を管理職から手渡された教員がどれだけいると思われますか?[14]


[14]さあどうですかね。調べたことがないので知りません。そんなこと、何か意味があるんですか?

企業であれば,管理職の指示に従わない部下など考えられないでしょうが,学校現場では違うことくらい,だれでも分かることです。[15]


[15]学校と企業が違うなんて、常識があればわかることでしょう。
管理職の指示に従わない人って、企業だっていますけど。だからクビになるんですけどね。
学校現場では管理職の指示に従わない人っているんですか?珍しくないんですか?
そうしたら、懲戒されませんか?

あんな「建前」としての「当たり前のこと」を示している組織図を示して,「学校はこういうことになっています」と言っても,意味はないのです。[16]


[16]何度も言うんだが、結論だけ言いっぱなしにしないで、根拠(理由)を言ってよ。
一応、断っておくけど、図なんか利用しなくてもわかっているという人は、別に見なくてもいいんだよ。
トイレへ行く時、トイレの場所がわかっていれば、いちいちトイレのある場所を示した図を見なくてもいいんだよ。

学校が「形式的に逃げていく」典型は,「いじめ自殺」の件で「学校でいじめがあったかどうか」と聞かれたときに,「いじめはなかった」と回答するパターンです。[17]


[17]おいおい。学校って逃げていくんですか?あなたの学校は「学校の怪談」ですか?
「形式的に逃げていく」ってどういう逃げ方なのかわからんですね。

dolceさんは,ご自分で認めてしまっています。[18]


[18]えっ、私が何を認めているって?
私は逃げていく学校なんて見たことがないから、そんな学校認めていませんよ。
私が認めているとかどうかって、どうしてあなたにわかるんですか?
結局、妄想ですか?
  
私の「そう書いていないから,そうは言っていないから,そう考えているわけではない,という理屈が通らないのは,だれでも分かることでしょう」という言葉に対して,

>びっくりします。これでも日本語かなあと思ってしまいます。この意味がわかる人がどのくらいいるんでしょう?

 次の文なら意味は分かりますか?

 私はAさんが好きとはどこにも書いていないし,だれにも言っていないから,私がAさんが好きだと考えているわけではない。

・・・って,おかしいでしょう。[19]


[19]これでも日本語なの?
一体、何が言いたいの?
どなたか、通訳お願いします。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 20:12 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年02月21日

添削がいいかな、と思うようになりました

bunsyonokakikata.jpg
方針を添削中心に変更することにします。

それで、私がこの人に要望したいのは、

1.きちんとした日本語を書くこと

2.事実と自分の想像が読み手にわかるように書く

ということです。

以下、青字は「このように書き直したらいいのではないか」と私が思う添削例です。

 もはや,学校現場や子どもには目が向いていない,というdolceさんの姿勢は,明らかですね。


意見を述べる場合は「結論を先に述べてから、理由を述べる」というのは、小学校3年で習うのではなかったかなと思います。
でも、この文章では、結論だけで理由がありません。
次のように直しましょう。

dolceさんの姿勢は、学校現場や子どもには目が向いていないと思います。
それは・・・・・だからです。・・・という事実から見ても明らかです。


 なぜこんなに弱い敵に,全力で攻撃をしかけるのか,という疑問の声も伝わってきそうですが,このような弱小な敵でも,教育現場に一人でもいる学校が,正常な教育ができずに苦しんでいるのです。どういう教師は決して許してはいけないのか,理解を得られない限り,教育の再生はできません。いえ,再生ではなく,正しい教育の創造です。


ちょっと意味を判断しかねる部分もありますが、これは次のようにしたらいかがでしょうか?

私は弱い人間です。そんな私に、あなたは、なぜそんなにも攻撃的な態度で意見を言われるのでしょうか?
つまらないと思われる教師でも、みなさんのご理解、支えで暖かく見守っていただくということがないことには、今の学校を良くすることはできないと思うのです。


(以下、原文、私の添削案(青字)の順に記載します)

教育は失敗の連続でした。それは,おそらくこの世で最も難しい仕事だからでしょう。


私の経験ですが、過去を振り返ってみると、私の指導は失敗ばかりだったと思います。
それで、人を導くことの難しさを感じました。今では、先生という仕事は最も難しい仕事のうちの一つではないかと思っています。


 しかし,現場の人間が失敗の責任を子どもや親や行政になすりつけて,自分の過ちを認めないことは,決して許してはなりません。


でも、教員は自分の仕事の失敗を自分以外の、子どもの保護者や行政のせいに責任転嫁してはなりません。

 私は,dolceさんが岡山市における「体罰は必要だという考えが多い」という調査結果をあげ,「体罰は必要だと考えているだけで,体罰を容認しているわけではない」という考えを述べていることに対して,「教育公務員」という名で以下のようなコメントを書いたのです。

>ある行為をした子どもに対して,学級委員が暴力をふるえば,暴力行為として学級委員は指導を受ける。

>教師が暴力をふるえば,体罰といって容認される。

>そういうことを子どもは知っているので,「非常時は学級委員の指示に従え」って教師が言っても,「なぜ責任を押しつけるのか」と思う学級委員はいて当然なのです。

 これは,私の実体験であり,現実の教育現場で繰り返されてきた事実なのです。


私自身、子どもの頃を振り返ってみると、先生からしばしば体罰を受けたことがあります。
私はそういう先生に反感を持っていました。
体罰はいけないとわかっているのに、なぜ先生は体罰を行うのだろうと考えると、先生の言うことを素直に聞くという気持ちにはなれませんでした。

だから、体罰をふるう先生に対しては、反感を持つ子どもは他にもいるのではないかと、私は思います。
禁止されている体罰を行う先生が、なぜ見過ごされているのでしょうか?


これまでの体罰による教員の処分が,氷山の一角であることは,40歳代以上の人間ならば,知らない人間はいないでしょう。


体罰の行使で懲戒を受けている教員は、おそらく、実数からするとごく少ないのではないかと思います。そう思っている人は、私だけではないと思います。

問題行動の生徒に対する「指導」には,「体罰」を伴うものであったことを,「そんな事実はなかった」と言い切れる教師が,どれだけいることでしょう。


生活指導の中で「私は体罰をしない」と言い切れる先生が、いったいどれほどいるのでしょうか?

dolceさんは,現場の子どもの苦しみを知らない・・・いえ,理解しようとしない,そういう人にしか感じられません。


私が想像するに、dolceさんは子どもたちの心を理解しょうとしない人であり、だから子どもたちの苦しみもわからないのではないかと思います。

事実としてあったことでも,なかったことにできる,そういう人間なのです。


事実はわかりませんが、私にはそういう人間に思えてなりません。

>教師が暴力を容認されるってところがあるんですか?
>もし、先生で読んでいる方がみえたら、教えていただきたいものです。

 dolceさんは今,何歳の人なのか知りませんが,高齢であることは確かでしょう。

 よくもこんな白々しいことが書けるのかと,憤りを感じている人は多いはずです。


教師が体罰を行っているのに、それが黙認されているという事実をdolceさんは知らないのでしょうか?
教師の体罰に怒りを感じている人は、おそらくたくさんいると思います。


>私が知っているのは、教師の暴力(体罰)がいけないこと(法律違反)であると、子どもは知っているので、裁判沙汰になった

そういう事例を,いくつ知っていらっしゃるのでしょうか。
そして,裁判沙汰にならなかったことは,本当に一つも知らないのでしょうか。


教師の体罰を問題にして、裁判に訴えたという事実がどれほどあるのか、ご存知なのでしょうか?
体罰が行われた時、そのすべてが裁判に訴えられたとでも思っているのでしょうか?


繰り返しになりますが,もはや,dolceさんの目が,実際に苦しんでいる子どもの方に向いていないことは明らかです。


重ね重ね思うのですが、dolceさんという人は、子どもの心が理解できない人ではないかと私には思えてなりません。

その醜い姿は,学校を荒廃させた教員の典型的な姿です。


そのように想像すると、学校を荒廃させる教員とは、このような人ではないかと思います。
それは非常に醜い人間の姿を想像してしまいます。


そういうニセ教師の本性を暴くことが,この教育ブログにおける使命だと考えています。


子どもに目を向けない教師、子どもの心が理解できない教師こそニセ教師であり、私はそういう醜い教師の本性を暴き、糾弾することこそ使命であると自覚しています。
そのために、私はブログを書き続けたいと思っています。


蛇足ながら,教員をしていないのに,教員をしていたことを装う,そういう意味のニセ教師ではなく,本当の意味で大切な教育を追求する本物の教師ではない人間,それがニセ教師です。


私が言う「ニセ教師」とは現実に教師をしていない人のことではなく、教師としての本来の使命感に欠けた人のことを言っています。

教師だったら、子どもに見られても恥ずかしくない文章を書きたいものです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 21:02 | Comment(11) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年02月21日

これが現役の先生とはね〜先生に対する信頼が気になる

ronriatama.jpg「dolceさんの決定的な失言」と題して、プログに記されていたので、何だろうと思って読んでみました。
ですが「何が失言」なのかさっぱりわかりません。
この人、よくわからない人でしたが、これまでにやりとりした文章から判断すると、間違いを訂正できない頭(ROM)であると思いました。
ですから、誤りを訂正できるという期待は持っていませんが、他の読者の参考という意味から解説してみたいと思います。
しかし、何よりの問題は、この人は「勝手に作ってしまう」つまり捏造がかなり多いですから、このような論法で児童・生徒に接するということであれば、子どもたちにはかなり精神的ストレスを与えるのではないかという懸念です。

解説はいくつかの段落に分けて行います。
[1]〜の数字は、説明のため、便宜上つけたものです。


「反論不能=敗北」という観念を植え付けるのに成功したため,議論が続けられています。[1]

反論できる部分が限られていることが残念でなりませんが[2],それは自分が間違っていたことを示す証拠でしょう。[3]

組織図のような形式的なことに逃げていく[4]のは,公務員の悪い癖ですが[5],教師の態度にも見られる代表的な醜態[6]です。

私はそのことを言った,言わない,という逃げ方も最悪[7]です。

その言葉は言っていなくても,そういう考え方をもっていることは,間違いないのです[8]。


[1]ここ、まず誰が誰に敗北したというのかさっぱりわかりません。私は自分が違っていると思ったところは、率直に間違いを認め返信します。沈黙したりはしません。
[2]これも、私にはさっぱり何のことかわかりません。
[3]私の場合は、間違っていたところは率直に認めて、返信します。しかし、どこが間違いとされているのかさっぱりわかりません。具体的な指摘もありませんし、私が返信しても返ってきません。
[4]「組織図のような」とは組織図のことと解していいのでしょうか。それにしても、組織図が形式的とはどういう意味でしょうか?この方は意味不明なことを言いますね。
「形式的」を辞書で調べると「形式だけを重んじ、内容を問題にしないさま。」とあります。組織図とはそういうものなんでしょうか?そんなことはあり得ません。組織図って内容をわかりやすくしたものであるのですから「内容を問題にしない」なんてあり得ません。だって、内容をわかりやすくするために図示するのですから、内容がわからない図なんて意味がないからです。こういうこと言うから、私はこの人の頭はおかしいと思ってしまうのです。それにしてもここで「逃げていく」ってどういう概念でしょう。
[5]これなんか全く驚きますね。「組織図のようなものに逃げていく」という言葉も意味不明ですが、公務員がそういう意味不明なことをしているとは聞いたことがありません。
[6]さらに、そういうことを教師がやっていると言っていますが、すごいですね。私は「○○は□□だ」という言い方に要注意と言いましたが、この人は「教師は形式的に逃げていくということをやっている」と言っています。日本中の教師に失礼だと私は思います。そして、それが「代表的な醜態」だとも言っていますが、ご自分が醜態をさらしていると、私からは見えます。
[7]これってわからない文ですね(子どもっぽい)。
[8]何で間違いないんだろう?率直に言って、この人の妄想の中で間違いないと決めているだけだと思います。なぜなら、間違いというなら、第三者も納得できる説明が必要だからです。「この人の間違いない」は単に「自分の頭の中で、間違いないと決めるだけ」のようです。これが、先生とはね。


そう書いていないから,そうは言っていないから,そう考えているわけではない,という理屈が通らないのは,だれでも分かることでしょう。[9]
しかし,そういう実態になってしまっていることも,間違いないのです。[10]


[9]びっくりします。これでも日本語かなあと思ってしまいます。この意味がわかる人がどのくらいいるんでしょう?
[10]出ましたね。この人のクセが。自分の妄想だけで「間違いない」と決めている思考回路が。
この人の問題は「事実」と「想像」の区別が曖昧で、どこまでが事実で、どこまでが想像なのかわからないことです。そして、勝手に想像するのはいいとしても、いつしか勝手な想像が事実にすり変わるということです。この文章でも「そういう実態になってしまっている」という事実はどこで確認できる(できた)のでしょうか?


体罰の問題もそうです。

>体罰は禁止されていますが、体罰を可とする考えは多いです。

>自分の意見として「考えている」だけであって、それが容認になるわけないでしょ?

この二つの文で言いたいことがつかめません。゜゜

体罰容認につながるのが,体罰を可とする考え方なのではないですか?[11]

法律では禁止されているのに,体罰がなくならない,処罰が徹底できないのは,だれもが知っていることでしょう。

そういう逃げを繰り返していくだけでなく,「頭がおかしい」「狂っている」「バカだ」という言葉で自分の鬱憤を晴らしている。

現職時代の姿も目に浮かぶようです。


[11]私がバカだと思うのは、そういう根拠があるからです。
この人は「体罰が実際に容認される」ことと「体罰を可とする意見がある」ということの区別ができないのです。
あることがらが容認されるかどうかは、きまり(法律)に照らし合わせて判断することです。それに対して、この場合「体罰を可とする考え」は「現実に体罰を行ってもよいと言っている」ということではありません。
きまりで決まっている以上、自分がどういう考えを持っていようと、現行のきまりは守らなくてはなりません。
この文章で、もうひとつバカだと思ってしまうのは

「法律では禁止されているのに,体罰がなくならない,処罰が徹底できないのは,だれもが知っていることでしょう。」

と言っていますが「体罰」を「飲酒運転」に変えて書いてみると

飲酒運転は禁止されているのに、飲酒運転がなくならない,処罰が徹底できないのは,だれもが知っていることでしょう。

となって、なくならない、徹底できないは何も体罰に限ったことではなく、残念ながらこれは人間が作っている社会は、きまりを守らない人がいるというのが現実で、きまりを守らないということが許されているのではなく、努力はしているが根絶できないという問題です。もし、そういう方法(きまりを守らない人の根絶)を知っているのなら、ぜひ教えてもらいたいですね。
こういう問題(遵法精神の徹底)は「徹底できない」ではなく、国民全員が努力することであって、自分を観客の位置において「何で徹底できるようにしないのだ」と言っているのではなく、自分も力を貸さなければいけないことでしょう?
まして、先生であり、社会科の先生であったら責任を感じなければいけません。何十年も先生をやっているのなら、教え子は社会に出ているわけです。だから、遵法精神が低いと思ったら、それは自分の教育のせいではないかと考えてみることも大切でしょう。


>"管理を子どもに投げる"なんてことは、できようがありません。常識のある大人が言うことではありません。子どもは未成年ですから、管理権限を持てません。

権限があるなしではなく,実態として,

>先生(大人)が全くいない状況では、統制が乱れないようにその場のリーダーである学級委員が判断すると読めるはずです。

このように学級委員の判断に委ねるとしている以上,管理は任されてしまっているのです。[12]


[12]こういうことを言うから、やっぱり「バカだ」と思ってしまうのです。確かに、学級委員に権利を譲っているわけです。管理権限を任せると言ってもよいです。
それは、責任をとれと言っていることとは違います。権限の譲渡、管理責任の譲渡と合わせて考えねばならないのは、責任がどこにあるかということです。
子どもに管理を譲り、同時に責任も課すのでしたら問題です。しかし、子どもは未成年ですから、どんなに管理を子どもに譲ったとしても、責任を課すことはできませんし、法律的にも認められません。

子どもたちに、広場を貸して「ここを自由に使ってもいいよ。何をして遊んでもいいよ。リーダーが決めなさい」と言えば、好きなことをやりたいと思っている子どもたちにとっては嬉しいことだと思います。
しかし、そういう状態のもとで起こった問題は、大人が責任を持たなくてはならないのです。
通常、大人が子どもに対してあれこれ制限をつけたり、指示を待つように言うのは、子どもたちだけでは責任が持てないからです。大人は、大人自身の責任を持つことを認識して選択の自由(管理の自由)を子どもに与えるのです。
この説明で理解できますかねえ?
社会科の先生でありながら、こんな簡単な、管理の問題と責任の所在の関係ができないとは、驚きます。せんせいが、こんな風であったら、保護者から不安に思われかねないと思います。

dolceさんは,「先生(大人)が全くいない状況」を教室で,学校で,つくるのは,安全管理上問題がある,ということに対して反論ができていません。[13]


[13]反論するも何も、そんなことを聞くこと自体がバカらしいということがわかっていないことがバカと言われる所以でもあります。
子どもが活動する中で、大人の管理が行き届かないのは、誰が説明するかは関係なく「問題」ですよ。
しかし、よく言われることですが「紐をつけておけるわけじゃないですから・・・」と説明されるように、大人が子どもの行動の一部始終を見ているわけにはいかないことはあるわけです。しかし、それは管理を放棄しているわけではありません。
もし、何らかの事故があったりして、管理責任が問われるのは状況によるわけです。
安全上、教育上問題はないと考えられる場合は、大人の責任において、子どもに自由を与えること(管理を任せること)は何ら差し支えないことです。

また、先生の指示がなければ動けない、動かないという習慣が身につかないとしたら、災害が起こったとき、先生が建物の下敷きになって子どものところまでに行けないという状況があるのに、先生を待っていて犠牲に遭うということさえ考えられるのです。
何のために教育をしているのかというと、それは、先生の言うことをなんでもかんでも聞くという従順な人間を育てるのが目的ではないはずです。
このくらいの説明で理解できるのかなあと思いますが、これで理解できないとすれば、相当なバカだと思いますがね。社会科の先生でしょう?

シンナーを吸って死にそうになっている子どもは放っておけない。

それは分かりますが,「根気強く説得している間」に,教室が荒れたら,学級委員が管理責任を負わなければならないわけでしょう。

どのように指導するんですかね。「お前たち,どうして学級委員の指示に従わなかったんだ!」と言うんでしょうか。[14]


[14]全くバカらしいですね。こういうことを言って恥ずかしいと思わないようだから、この人の思考力は子ども並と思います。
「たら」というのは仮定の話であり、一般に、人の行動が評価されるのは、というか試されるのは非常時の場合だと言えます。
その場の状況を見て、どう行動するのかが適切であるかというのが、知能のある人間の行動なわけです。
場に即して最大限の知能を使って行動するのであり、ある集団を見て信頼できるか、問題ないかの判断は日頃からその学校で蓄積してきた経験から判断して行動するわけで、その行動の適切さは場面や状況、先生のとった行動を合わせて管理者が判断することです。
アラ探しで「たら」を連続させたらきりがないです。それこそ、宇宙人が来たらどうしますかにもなりかねない(笑)。

管理能力はないから,「とりあえず,静かにしろ,と指示した学級委員は,責任を果たした」というのでしょうか。

学級を荒れた状態にする原因をつくるのは,現場から離れる教科担任の教師の責任ですよ。[15]


[15]これも子どもっぽいですね。とても、現場の教員の言葉とは思えません。
その子どもが管理能力があるのかどうかは、現実の人間(生徒)を知らない限りわかりません。
学校では、普通は職員朝会というものが行われているでしょう。
その時も教室に誰か先生がいるのですか?
たまたま職員朝会が長引いて、朝の会に遅れた場合、子どもがてんでバラバラになっているか、自主的にまとまって活動しているかということですよ。
教室に先生がいなくて、職員室にいても、当然、管理責任は先生にあります。当たり前です。


「だから学校が荒れるんでしょう」という話が,どうにも通じない,「荒れから抜け出せない」学校はいたるところにあったのです。[16]


[16]全くバカらしい。すると、いつも先生が子どもにくっついていないから、学校が荒れるんですか?実に単純ですね。

dolceさんが,言った,言わないではなく,そういう事実はない,実態はない,という反論がなぜできないかというと,問題の事実や実態がありすぎるからでしょう。[17]


[17]先生だったら、子どもの手本になる文章を意識して書きましょうね。
一体、何が言いたいんですか?
そもそも「そういう事実はない,実態はない,という反論」というところなんですが、具体的に何に対する反論のことを言っているんでしょう。あなたが、頭の中で妄想していることまで、私にはわかりませんよ。
「反論がなぜできないかというと,問題の事実や実態がありすぎるからでしょう。」
とうところですが問題の事実や実態がありすぎると、なぜ反論ができないと考えるのですか?全くこの人の思考は理解できませんね。
そりゃあ、プライバシーは公開できませんよ。

どうあっても「先生(大人)が全くいない状況」を作り出さないと,「自主的に判断する場面」が想定できないことも残念です。[18]


[18]まず、今までの経過を含めて考えて「幼稚さ」を感じずにはいられません。大体、そんなことは言っていませんよ。どこにそれがあるんですか?捏造がありますね。


先生がその場にいても,子どもが自主的に判断する場面はいくらでもつくれるのに。[19]


そりゃそうですね。でも「その場にいても」というのは、どこまでの範囲なんですか?
生徒は教室にいても、先生は学校という場にいますよ。全く生徒しかいない学校だったら問題でしょうがね。

>先生がその場にいたら、先生が判断するに決まってる

これが,指導の実態を表す典型的な,そして決定的なdolceさんの失言です。[19]


[19]この狂った思考回路はどうしようもないね。先生がいたら、先生は判断しているでしょう?
学校の先生は、生徒と一緒にいる場合、判断をしていないんでしょうか?
何が失言なのかわかる方がいたら教えていただけませんか?

一般的な指導の場合,学級委員や学級の子どもたちには,判断をする機会がないことを証明しているし[20],緊急避難が必要な場合は,その場にいる先生が判断するのではなく,放送などで学校全体が正しく動けるような指示が担当者から出るのです。[21]


[20]どこをどう読むと、証明しているのでしょう?
[21]緊急非難すべき状況によるんじゃないでしょうか?
その場の子どもを先生がまとめて非難させた場合もあるだろうし、放送が使えない状況もあるだろうし。
この人は捏造や妄想は多いんだが、想像力は貧困なようです。非難は「放送などで」とインプットされてしまっているようです。


>わけわからんですね。狂ってるのかと思ってしまいます。
>先生がその場にいたら、先生が判断するに決まってるじゃないですか?
>ボケの心配はないですか?

この反応は,

緊急避難をすべきときでも,教師の指示がでない場面を想定して下さい。

これは,学級委員が判断を下さないといけない。dolceさんからの「指示」だから。それに「従う」のが学級委員の義務。

そして,子どもたちはその学級委員の「指示」に「従う」ことが義務。なぜなら,それはdolceさんからの「指示」で,それに「従う」のが子どもの義務だから。

という私の言葉を受けたものですが,教師の指示がでない場合というのは,緊急避難をすべきときに,教師がそこにおらず,指示もでないことを想定しています。教師がいないときには学級委員に判断を任せるという話の流れでこうなっているのですから,当然の前提です。

しかし,見当外れのことを書いてしまいましたね。

理由は,自分の指導が,結局,子どもの「自主性を育てる」ことには結びついていないことに気がつ[22]き,動揺したからか,その欠陥に気づかれないように[23]努力した結果なのでしょう。


[22]誰が気がついたの?私だったらそんなこと気がついていませんよ?(この人の悪いクセは事実と想像の区別がないこと)
[23]勝手にあなたが「欠陥」とい言っていますか、私は何も欠陥など感じていませんよ。
それに、気づかれないように努力なんてしてませんが、またも妄想ですね。


dolceさんのような勘違い教師の多い学校だから,廊下を自転車が走るし,教室に臭いが漂うほどのシンナーを吸う生徒が出てくるし,自転車置き場で段ボールを燃やす生徒が出てくるし,集団で遅刻してくる生徒が出てくるんですよ。[24]


[24]どう想像(妄想)するかは、あたなた自身のことだから、他が何も言うことはありません。でも、あなたの妄想する因果関係が、誰に対しても説得性を持つかは疑問です。

私の学校再建の話を紹介してくれましたが,教師ではなく,生徒が動いてくれるようになったことが,学校が変わる大きなきっかけでした。[25]


[25]そうですか。それは幸運でしたね。だから、あなたのような無能な先生でも務まったんでしょうね。教師が動かなくて、生徒が動いてくれたんですか、考え方次第では、生徒が先生をあてにしてなかったともとれますね。

もし廊下を自転車が走ってきたら,私と一緒に止めてくれるような生徒が増えました。

トイレに向かうのは,私だけではなく,だれが吸っているか知っている生徒たちもです。

やっぱり,「待っていて」が指示としては正しいのでしょうが,そんな教師の言うことも聞かず,動いてくれるようになるのが,自主的な判断ができる子どもの姿なのです。[26]


[26]またも、事実と想像との区別がないというあなたの文章の特徴が出ましたが、この中で事実が何であり、想像は何なのでしょう。
「もし」というのは、当然想像ですね。
当たり前ですが、自主的な判断と言うのは、誰から言われなくてもすると言うことですよ。

最後に,dolceさんは私が孫子の兵法をいくつ応用したか,お分かりになりますか?

あなたは,戦う前からすでに敗れていることに,どうしてもっと早く気づけなかったのですか。[27]


[27]凄いですね。あなたは勝手に何か「戦い」を妄想していたんですね。いや、妄想は止められませんよ。だから、勝手に妄想はやってください。
「どうして」って言われましたもね、困りますよ。ほとんど、あなたの文章の添削やっているようなものですから。
少なくとも、もう少しきちんとした文章をかいてください。
そしてしばしば言っていることですが、事実と想像を区別して書いてください。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 12:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年02月20日

これって、何ですか?子どもの作文?

@ある行為をした子どもに対して,学級委員が暴力をふるえば,暴力行為として学級委員は指導を受ける。

A教師が暴力をふるえば,体罰といって容認される。

Bそういうことを子どもは知っているので,「非常時は学級委員の指示に従え」って教師が言っても,「なぜ責任を押しつけるのか」と思う学級委員はいて当然なのです。


率直に言って、何よりも、まず学校の教師がこういう作文を書いていていいのかなと?思います。
中学校の教師と言うのだが、これで入試の指導なんかできるの?と思います。
悪く言いたいのではないですが「知的レベル」を疑います。

(※丸数字@〜Bは私が便宜的につけたものです。)

一つずつみていきます。まるで、添削みたいです。

@ある行為をした子どもに対して,学級委員が暴力をふるえば,暴力行為として学級委員は指導を受ける。


まあそうでしょうね。暴力はいけないですね。学級委員に限らないですね。
で、どうなんでしょう、学級委員が暴力を振るうって私はそういうことに出会ったことはないですが、そういう学級委員がいるってことでしょうか?

A教師が暴力をふるえば,体罰といって容認される。


これが、わけわからないんです。
何回読んでも意味不明です。
文法的にみると、主語、述語の関係は
taibatsuhaikani.jpg

教師が・・・暴力をふるう。・・・・(1)

教師が・・・容認される。・・・・・・(2)

となります。

(2)の目的語は「暴力を」でしょうね。

だから、(2)は

教師が暴力を容認される。

となりますね。

ここで、この文章全体で、言いたいことは

「教師が暴力を容認される。」

と言うことになります。

しかし、教師って暴力を容認されるんですか?

日本中で教師が暴力を容認されるってところがあるんですか?

もし、先生で読んでいる方がみえたら、教えていただきたいものです。

もう少し、詳しくみてみましょう。
つまり、教師が(例外的に)暴力を容認される場合があるのでしょうか?

そう思って、文章を改めてみると

「体罰といって」というのがあります。

この「体罰といって」は「容認される」を修飾していますから(2)は

「教師が体罰といって容認される。」

となります。

これが不思議なんですね。

「体罰といって」は「容認される条件」なのでしょうか?

そして「体罰といって」はそう叫ぶんでしょうか?
そういうことなら(1)も含めて、

教師が暴力をふるった時は「体罰」と言って叫べば、体罰は容認される

と言うことになります。
そうなんですか?
そんな学校とか、地域とかありますか?

それとも「体罰といって」は本人が叫ぶのではなく、誰か他の人が言うのでしょうか?
それにしても、それで体罰が容認されるのですか?

Bそういうことを子どもは知っているので,「非常時は学級委員の指示に従え」って教師が言っても,「なぜ責任を押しつけるのか」と思う学級委員はいて当然なのです。


ますます、わからないのがこれです。
「そういうこと」というのは「教師が体罰を容認される」ことでしょうか?
すると「子どもは、教師が体罰を容認される」ってことを知っているということになりますね。

そうなんですか?
私はそんなことを聞いたことがないです。
いや、私が知っているのは、教師の暴力(体罰)がいけないこと(法律違反)であると、子どもは知っているので、裁判沙汰になったということです。
逆なんじゃないでしょうか?

「学級委員の指示に従え」って教師が言っても、「なぜ責任を押しつけるのか」と思う学級委員はいて当然なのです。

と書いていますが、学級委員は「なぜ責任を押しつけるのか」って思いますか?
例えば、昼近くの時「先生が来なかったら、学級委員の指示で昼食にしてよろしい」と言った場合、「なぜ責任を押しつけるのか」と思う学級委員はいて当然なのですか?

まるで、子どもの作文のようで、なんとも言えない変な気分になってきます。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 17:54 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年02月20日

やっぱりバカだ

管理を逃れられるなんてできっこないです

また、子どもに管理を任せるなんて捏造がありました。
どんなに考えても、子どもに管理を任せるなんてできないんですよ。
なぜって、子どもは未成年ですから、管理能力がありません。

たとえ「まかせる」って言ったって、任せられないんです。
大人の常識でしょう。

まさか、子どもに「任せる」と言ったら、子どもに管理責任が移ったなんて考える先生はいないでしょう?

先生が職場放棄すれば別ですがね。
そんなことしたら、懲戒されますね。

こどもに任せたから責任ありませんって言えますか?

万引きした子どもの親が「子どものやったことだから知りません」て言いますか?
モンスターペアレントなら言うかも知れませんね。

そうか、モンスター先生がいるのかも知れません。

学校を管理する関係は次の通りです。

toukatsuhani.jpg


しかし、子どもに任せると言っても次のような管理になることはあり得ません。

toukatsuhani2.jpg


解説編

「自主的に判断する機会を増やす」という「教員の任務」として,「管理を子どもに投げる」ことを,この記事の中でもふれています。 


ここに"「自主的に判断する機会を増やす」という「教員の任務」"って誰かが言っているんですか?
少なくとも、私は言っていません。
私が言っているというのなら、捏造、でっちあげです。でなかったら妄想でしょう。

子どもが自ら判断する機会を増やすというのは、田中熊次郎氏の「教材の池」という考えを基盤にしたものです。
教師は「教材の池」を管理しているわけですから、管理を放棄しているわけではありません。

子どもがプールで自由に泳いでいるのを、プールの外で安全管理するのと同じです。

tomodachi.jpg

管理を子どもに投げることが,教員の任務を果たすことである,という論理ですから,「教員は任務を放棄していない」という主張が可能なのです。


"管理を子どもに投げることが,教員の任務を果たすことである"って言っている人は誰でしょう?
少なくとも、私は言っておりません。私が言っているというなら、捏造です。でなかったら妄想です。

だいたい"管理を子どもに投げる"なんてことは、できようがありません。
常識のある大人が言うことではありません。子どもは未成年ですから、管理権限を持てません。

こういう論理で,教員がどのくらい責任逃れをしてきたことか。


これを読んで、私は「エッ」と思いましたね。
だって、少なくとも、私はそういう事実は知りません。
この国のどこかに、そういう事実があるのでしょうか?
もしかしたら、これも妄想でしょうか?
それとも、自己都合で「作ってしまう」というシナリオライターかな?

「授業」をしていること自体が「安全」の確保につながっている,


エッ、非常時って授業中なんですか?
私は「安全の授業」の話なんかしてませんよ。私の文章の中に「安全の授業」の話なんて全く出てきません。
出てくると考えたら、妄想ですし、別な見方をするとこういうのを「詭弁」というのではないでしょうか?

それとも、国語、数学、・・・などの授業は「安全の確保」ですか?
知識が増えるんですから、全く関係ないと言わないにしても、あまりにもこじつけじゃないでしょうか?

非常時の対応を学級委員=子どもの判断に任せるというのはおかしなことで,これは教師の指示をしっかり受けるべきです。

>「非常時の対応を子どもの判断に任せる」なんて、どこにも書いてありません。つまりこれも捏造です。

 いえ,書いてあるのです。dolceさんの論理にのっとると,そうなってしまうのです。


これにも驚きましたね。
まず、"非常時の対応を学級委員=子どもの判断に任せる"と、この人は勝手に一般化しました。
一般化することで、あたかも私は非常時は何でも子どもに判断させると誤解させるように仕組んでいるように見えます。
でなかったら、この人の誤った思考回路がそうしてしまうんでしょう。

私の文章の真意を正しく読み取れる人は、先生(大人)が全くいない状況では、統制が乱れないようにその場のリーダーである学級委員が判断すると読めるはずです。
常識から考えても、先生がいるのに先生自らの判断を放棄し子どもに投げるなんて考えるのはおかしいでしょう。
念のためにつけ加えておきますが、リーダーが判断するというのは「まとめる」という意味であり、意見を集約し結論を出すという意味もあります。

dolceさんの論理にのっとると,そうなってしまうのです。


そうじゃないでしょう。
あなたが、勝手にそうしているだけの話です。
そうでないとしたら、どんな論理なんですか?
あなたの言い方が通用するなら「リンゴを食べると犬になる」なんてのも通用してしまうようなものです。
悪意がないとしたら、またも妄想ですね。
妄想ならどんな話でも作れますね。

緊急避難をすべきときでも,教師の指示がでない場面を想定して下さい。

 これは,学級委員が判断を下さないといけない。dolceさんからの「指示」だから。それに「従う」のが学級委員の義務。

 そして,子どもたちはその学級委員の「指示」に「従う」ことが義務。なぜなら,それはdolceさんからの「指示」で,それに「従う」のが子どもの義務だから。


これって、何ですか?
わけわからんですね。狂ってるのかと思ってしまいます。

先生がその場にいたら、先生が判断するに決まってるじゃないですか?

この人は大事な条件を忘れるようですね。ボケの心配はないですか?

次のも呆れますがね。

私が批判していたのは,「校内で子どもが活動しているのに,どの教師の指示も受けられない」という状況が起こる学校はおかしい,ということです。


阪神大震災、あるいはあのようなことが起きた場合、"私が批判していたのは,「校内で子どもが活動しているのに,どの教師の指示も受けられない」という状況が起こる学校はおかしい,ということです。"となるのですか?

あなたの頭がおかしいんでしょう。

あとも、バカバカしい話が続いていますが、またヒマがあったら説明しますが、あらためて「常識」という言葉が浮かんできます。

体罰に関する意識調査

taibatsuchosa2.gif体罰は禁止されていますが、体罰を可とする考えは多いです。
左図は岡山市における調査です。

【しつけや教育の一環としての体罰を認める意見が多くなっています】 「児童虐待防止法(児童虐待の防止等に関する法律)」が施行され、子どもへの虐待が社会問題として広く認識されるようになったのは最近のことである。家庭という外から見えにくい場所で、「しつけ」という言葉に隠されて、多くの子どもの人権が侵害されていることが知られるようになった。
 親がしつけの一環で体罰を加えることについて聞いたところ、「時と場合によっては必要だ」と答えた人の割合が79.4%を占めている。
 性別にみると、男性で体罰を容認する人の割合が高くなっている。
 年齢別に見ると、30歳代と50歳代で、「子どもに対する体罰は認められない」と答えた人の割合が若干高くなっている。「時と場合によっては必要だ」と答えた人の割合が40歳代で高くなっている。
岡山市の調査による

>体罰賛成という意見を述べている人はたくさんいます。しかし、自分の意見として「考えている」だけであって、それが容認になるわけないでしょ?

やっぱり体罰賛成の人が多いんですね。ばらしてしまった。
 体罰賛成の人が多いことが,体罰が日本からなくならない原因なんですよ。
 体罰賛成と考えている人が,体罰をしている教師を命がけで止められるんならいいのですがね。
 やっぱり体罰を止めるには,体罰反対の人間にならなければ。
 体罰賛成の教師が多いことをばらしてしまうことは,愛知県の恥なのでは。

あなたの無知ということでしょう。
あなたは恥を感じないですか?


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 08:47 | Comment(8) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年02月19日

スマートフォンを持っているなら

スマートフォンとパソコンがあるなら、EVERNOTEは必需品でしょう。

Evernote2.jpg

Evernote(エバーノート)は、パーソナルコンピュータやスマートフォン(高機能携帯電話)向けの個人用ドキュメント管理システム、および同システムの提供会社である。

2010年9月時点の登録ユーザーは約450万人(国別割合:1位が米国で57%、2位が日本で18%、スペインが4%)[1]とし、直近では一日あたり1万人以上のアカウント登録があり、2010年11月にはユーザー数が500万人を超えたとの報告がある。

2010年3月3日に日本語版のサービスを開始しており、2010年6月23日には日本法人を発足、今後、日本語認識機能の強化などを図る。また、ソニーのVAIOやNTTドコモから発売されるソニー・エリクソンのXperiaにもプリインストール、さらにはiモード端末などスマートフォン以外の従来型携帯電話でも利用ができるよう準備している。
ウィキペディア「フリー百科事典」より


Evernote1.jpg

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 23:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | パソコン

2011年02月19日

インターネットを長くやっていると

長くって、何年、いつ頃からという問に対しては、平成4年からと答えておきます。
その頃は、最も速い回線がISDNでした。
モデムは14400bpsでした。現在の光は100Mbpsですから、
100Mbps=100000kbps=100000000bpsとなるから、14400対100000000の差があるわけだ。

こんな具合だから、画像はなるべくダウンロードしないとか、ホームページを表示するために10分以上かかったこともあった。

以来、ネット環境は急速に発展し、Yahooはその並に乗って大きな会社になった。
やがてYahooの掲示板も作られたが、現在、一時の勢いはない。
何と言っても、書き込みの質が落ちた。

始めの頃は、読んだ記事について「子どもっぽいですね」なんて批評を書くと「子どもっぽかったですか?」なんて返事が来て、こちらの言葉が悪かったなと思ったりしたことがある。
また、不意に「あなたの投稿を読んでためになりました」なんて言葉がわざわざ返信されることもあった。

それが、年とともに質が低下し、言葉の意味も自分勝手なものが多くなり「意味が違いますよ」と言うと「言葉の意味は、それぞれの人の頭の中にあるものだ」と開き直るようなものが出てきた。

私はホームページの開設も平成4年だった。
そのころは、専らHTMLをテキストで書くしかなかったが、それだけに構造がよく勉強できた。

ホームページで思い出すのは、私のホームページから記事を勝手にコピーしていってそれを改作して載せているやつがいた。
それは、私の記事への批判だった。
批判はいいとしても、全くあることないことを作って説明しているのである。

それで、今度は私の方がその説明の誤りをこちらが載せた。そうしたら猛烈に怒った。
私の方は事実でないことを修正して載せたのだが、それが気に入らなかったのだ。
だいたい、本人しかわからないことを、あたかも知っているように書いているんだからおかしい。

すごく変だと思ったのは、やつは正義面しているくせに、やっていることは全く正義に反することをやっていたことだ。
やつは、相当怒れたらしく、こちらのサイトそのものの消滅を企てた。
どういうことをやったかというと、弁護士を使ってプロバイダーを脅し、私のサイトの接続を切断させたのだ。
もちろん理由は勝手な創作である。
プロバイダーの対応は、面倒を避けたかったのか、こちらの意見を聞くまでもなく、一方的にこちらが悪いように言ってきたので、私は腹が立ったので契約を解除した。

次のプロバイダーと契約して、ホームページを復活するまでしばらくの空白があったが、その間にやつのサイトを見たら、また勝手なことが書いてあった。
あたかも、こちらが悪いことをしてプロバイダーから解除されたようなことや「これが、○○の隠していたものです」とコンテンツを載せていた。

私はサーバーを契約し、サイトを復活させた。そして、またヤツのおかしさを書いた。
笑えたのは「お前、私が隠していたと言って載せたものを、どうして手に入れたんだ」と言ったが、しばらく自分のやった矛盾がわからなかったらしいことだ。
だいぶ後になって、誰かに言われたのか、それは削除された。
しかし、本人としては相当腹が立ったらしい。ヤツがやっていることの方がおかしいのに怒っている。前から、こいつは何か変だと思っていたが、相当おかしいと私は思うようになった。

今度はサイトの消滅ができないと感じたら、別の手に出てきた。
なんと、今度は弁護士を使って警察に告訴したのだ。
そんなことをやっているとは私は知らなかったが、ある日、突然警察から電話がかかってきて、ヤツが警察に告訴したことを知った。
書類は検察庁に行き、今度は検察庁から連絡があった。tougousittyousyo2.jpg

私は裁判になるかなと思っていたら、警察も検察もヤツはおかしいと感じていたらしく、調べたらやはり精神的におかしいということがわかった。
それで、警察からは「彼については、これからかまわないようにしてほしい。それで彼についての記述は削除して欲しい。確認したら何も無いことにする」と言ってきた。
私は警察の言う通りにし、それからは彼のサイトは無視することにした。

要するにヤツは頭のおかしいやつだったのだ。
思い出すと、始めの頃はそんな異常さを感じることもなく、私のサイトの掲示板に普通の文章を投稿していたのだが、途中からおかしくなった。

彼と同じ地域に住んでいる人からメールが来てわかったのだが、彼はパソコンを指導してやると言って女に近づき、何かしようとして断られるということを繰り返していて、迷惑がられていたということだが、それだけに女性と仲良くしている人とか女性に近い者にはひどく嫉妬するということだった。
そういえば、私はある時から女子高へ指導に行くようになった。どうも、その時期と一致するということがわかった。

そういうことがあってから、私は精神疾患のある人間に関心を持った。そして統合失調症なる病名があって、これは100人に1人という確率で存在し、そんなに珍しいことでもないということを知った。
問題はその異常の程度が、普通人と異常者の間を行ったり来たりすることがあって、境界性人格障害と呼ばれていると言うことも知った。

他人に危害は加えないものの、同様な症状で学校の先生をやっている者を知った。
ある校長が療養のため1年休職させたことがあったが、未だに完治はしていない。学校に行ってはいるが、大切な仕事はさせてもらっていない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 22:24 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2011年02月19日

こうなると病的ですね

ことさら、ある人をターゲットにして、批判するようなことは好まないのですが、あまりにも酷いので、取り上げてみました。
byotekiseikaku.jpg
以前にも解説しましたが、この人は「捏造する」というクセがあると思っていましたが、それは一時的な現象ではなく、この人に染みついたもののような気がしてきました。
そういう意味ではハンドル名をNETSUZOHとしたほうがよいのではないでしょうか?

@〜Cは捏造です。
(1)〜(6)は思考力の貧困が原因(わかりやすく言えば「頭が悪い」)

お待たせいたしました。

せっかく記事に取り上げていただいたので,どのような恥の上塗りをdolceさんがやってしまったか,まとめておきます。

まず,学校における活動の優先順位ですか。

「授業」ではなく,「安全」である。

これはその通りとも言えるし,おかしい点もあるとも言える。

@ 教室にいる子どもの安全管理を任されているのは担任の教師,授業担当の教師であって,この人が非常時にどこかに行ってしまっていない,というのは,教室にいる子どもの安全を脅かす恐れがあるので,まずいことです。

非常時対応は,必ず現場に行く人間と,教室にいる生徒を落ち着かせる,安全を確保する人間の役割分担があるはずです。

A 非常時の対応を学級委員=子どもの判断に任せるというのはおかしなことで,これは教師の指示をしっかり受けるべきです。自主性に任せるとかいって,勝手に安全かどうか分からない方向に避難してもらっては困ります。

B 非常事態に備えて,「困ったときは学級委員に従え」って・・・。

これ,対策でも何でもないでしょう・・・

「指示待ち人間をなくす」指導の事例が,これではあまりにおかしいでしょう・・・という話が,dolceさんには通じない。

自分で告白してしまっています。

>偏りが大きい人は病気に近く,問題は自分がおかしいとは思わないから修正できない

・・・それにしても,Cdolceさんは不思議な人で,授業のない放課後には教室にいるんですけれど,授業のときにはいなくなる話がたくさん出てくる。

またまたdolceさんがやってしまったのは,「授業が自習になってしまう事例」「先生が始業時に教室にいない事例」の紹介です。

その1

ソフトの使い方の講習会を他校で行って出張し,自習。

なぜ,自分の学校でやらなかったのでしょう?

学びたい人には,来てもらえばいいのでは?

そんなに出張したいの?

でも,(1)このケースは授業日のかなり前から分かっているはずであり,具体的には「自習」ではない(ようにできる)。

他の教師が授業すればいい話です。そういう話もちゃんと書いていらっしゃる。

しかし,あまりにも特異な例ですね。

そもそも,ソフトを自分で開発している人はどのくらいいるのでしょう???

その2

(2)授業中にシンナーの臭いがしてきた。(授業を中断し)臭いのする方向=トイレへ。

そして「根気よく説得して,別室に連れて行って話をします」???

授業はどうしたの???

ちなみに,なんで愛知の中学生はそんな効率の悪い吸い方をするのでしょう???

シンナーは,ビニール袋を使うんですよ。

教室まで漂うほど拡散させてどうするんでしょう???


その3

(3) 朝の打ち合わせのとき,自転車置き場で火事。そこで,指導。1時間目に遅れる。

これは許しましょうか。さすがに毎日火事は起こらないでしょう。それに,1時間目に授業のない教員が対応すればすむ話でしょう。


その4

(4) 何人かの生徒が徒党を組み,遅れてくる。

対処しなければならない。

これで自習。

ほったらかしを容認する態度をついに言葉にしてしまいました。


>他の生徒たちはしっかりしていて,何も言わなくてもしっかりやっているのですが,あえて言っておいた方がいいと思うわけです。

(5) 残念ながら,この学校が落ち着くようになるのは難しいでしょうね。

なぜなら,「荒れ」を理由として,教師が簡単に授業の場から離れてしまう,遅れてしまうのですから。


その他,ちょっと突っ込みたくなったのは,

>「○○は□□だ」というような単純な言い方しかできないのは,頭が単純になって単純にしか思考できないからでしょう。

ミラー現象。これ,自己分析ですね。こんな文がありますよ。

>非行生徒をなんとかするには,殴るしかないと考える人が多いからです。

>職員室から出ると,生徒たちにいつ殴られるかわからないからです。

(6) 愛知県は,今でも体罰容認の自治体なんですかね。

もうこの方には,「県民不名誉賞」を与えていただいた方がよろしいのでは・・・?



[解説]

@〜Bの文章は「やっぱりおかしい思考回路」のどこに書いてあるのでしょう?
具体的に指摘してもらいたいものです。

以下捏造について、解説してみます。

@ 教室にいる子どもの安全管理を任されているのは担任の教師,授業担当の教師であって,この人が非常時にどこかに行ってしまっていない,というのは,教室にいる子どもの安全を脅かす恐れがあるので,まずいことです。


この文章を読むと、まるで、教員は任務を放棄して、管理を子どもに投げているように解釈できます。
しかし、文意からはそんなことは読み取れないはずです。
下の図のように、学校内の管理は統括責任者の管理する範囲というものがあって、組織の動きは統括責任者の指示によって動くものです。

toukatsuhani.jpg


教員も校長の指示によって仕事をしているのであって、校長が特に指示を出さない場合は、教員が各々の判断で行動しているわけです。
生徒の場合は、通常、先生の指示のもとに活動しているわけですが、特に具体的な指示がない場合、リーダーである学級委員が統括する(判断する)ということなのです。

>この人が非常時にどこかに行ってしまっていない

これなんか全くひどいですね。どこから、そんなことが言えるのですかね。
もちろん、この人の創作です。創作でないと言い張るなら、完全に妄想と現実の区別がなくなっていると考えられます。

A 非常時の対応を学級委員=子どもの判断に任せるというのはおかしなことで,これは教師の指示をしっかり受けるべきです。自主性に任せるとかいって,勝手に安全かどうか分からない方向に避難してもらっては困ります。


これなんか、完全に頭がおかしいとしか思えません。
「非常時の対応を子どもの判断に任せる」なんて、どこにも書いてありません。つまりこれも捏造です。
それに、思考がおかしいのは「これは教師の指示をしっかり受けるべきです」と言っていることです。
教師の指示を仰ぐことができない場面と言っているのに、教師の指示を受けるべきとは、天に向かって「先生!」って叫ぶのでしょうか?

自主性を育てたいということで、何から何までいちいち指示を待つという習慣をなくしたいということでなるべく、自主的に判断をする機会を作ってやりたいという趣旨がこの人は理解できないのですね。

非常時でなくても、遠足に行って行動範囲を決めて解散した場合「グループごとで、いつ弁当を食べていいか決めてよい」と言っておくような場合も同じです。
そういう時、微に入り細に入り先生の目は届きません。子どもが自主的に判断するのです。

あってはいけないことですが、誰か転んで怪我をしてしまった場合、先生に知らせるでしょうが、それまでにも子どもたちで判断しなければならない場合があるかも知れません。
それも非常時のひとつです。

B 非常事態に備えて,「困ったときは学級委員に従え」って・・・。


こんなことも書いていません。捏造です。
先生と連絡がとれる時は、当然連絡します。その時でも、とりあえず、何かの指示が必要な時のことを私は言っているのであり、この人のこの書き方だと、「非常時には、先生は管理を放棄して、生徒だけでやれ」と私が書いているようにねじ曲げています。

Cdolceさんは不思議な人で,授業のない放課後には教室にいるんですけれど,授業のときにはいなくなる話がたくさん出てくる。


全くの捏造です。どこに、そんな話がたくさん出てきますか?
(具体的に、示してください)
本当にそう思っているのなら、頭の中にそういう妄想ができているのでしょう。

(1)このケースは授業日のかなり前から分かっているはずであり,具体的には「自習」ではない(ようにできる)。


この人は、やはりROM頭と言われる部類なんでしょうか。
計画を練って、授業への影響をなくすように考えるのは当たり前です。
研究会、学習会に集まる学校は約20校です。
その20校あまりの学校の、通常の計画になるべく支障を来さないように考えた結果の実施なのです。
当然、前もってわかっていることだから、自習計画も綿密にしておくわけです。交換授業ができるところはそうするわけです。
この人は、最大公約数ということが理解できないようですね。頭の中が、何が何でも「授業、授業」なんですね。地震が起きて校舎が崩れている時でも「授業、授業」と言って授業をしているのかも知れません。授業がROMに書きこまれているから修正や融通が効かないのでしょう。

(2)授業中にシンナーの臭いがしてきた。(授業を中断し)臭いのする方向=トイレへ。

そして「根気よく説得して,別室に連れて行って話をします」???

授業はどうしたの???

授業はどうしたの???

ちなみに,なんで愛知の中学生はそんな効率の悪い吸い方をするのでしょう???

シンナーは,ビニール袋を使うんですよ。

教室まで漂うほど拡散させてどうするんでしょう???


この人の思考には現実感がありませんね。

「授業はどうしたの???」って、何をおいても、またしても授業が出てきました。しっかりROM化されているようです。

授業を優先するのか、シンナーを吸っている子どもの対処を優先するのかは、その時の状況によります。

この人の場合は、それしか(授業しか)プログラムされていないロボットのようなものだから、真っ先に「授業はどうしたの???」が浮かぶのでしょう。

シンナーを吸ってメロメロになっている生徒を放置できないので、これらの生徒を連れて行くのを優先したのです。
シンナーを吸いすぎて死んだ者もいますし、シンナーの勢いで暴れるかもしれないと考えたので、別室に連れて行ったわけです。

当然、教室の生徒には「ちょっと待ってて」と伝えて行ったわけです。
でも、この方(NETSUZOHさん)は「授業、授業」なんでしょうね。

ちなみに,なんで愛知の中学生はそんな効率の悪い吸い方をするのでしょう???
シンナーは,ビニール袋を使うんですよ。


これを読んで、私は「そんな効率の悪い吸い方」とは、何を想像しているんだろうか?と思いました。結局、またも勝手な想像、つまり妄想になるわけですね。

実際は、ビニール袋を使っていました。しかし、臭ってきました。
ビニール袋を使えば臭わないんでしょうか?
ビニール袋には関係なく、シンナーの容器があったり、こぼしたりすればかなり臭いますよ。
でもNETSUZOHさんは想定場面が狭く、自分の都合のよい妄想するんだから、わからないんでしょうね。

(3) 朝の打ち合わせのとき,自転車置き場で火事。そこで,指導。1時間目に遅れる。

これは許しましょうか。さすがに毎日火事は起こらないでしょう。それに,1時間目に授業のない教員が対応すればすむ話でしょう。


これって、この人は場面を自分で見ているか、知っているように言いますね。
まあ、わずかな材料で、勝手に妄想してしまうんだからそうかなあと思いますが。
近所で「火事だ」って言った場合「用事のない人が対応すればよいでしょう」ってことになりますか?
みんな仕事を放っておいて駆けつけるんじゃないでしょうか?
そして、ある人達で十分であると確認したら、戻るとか別の援助を考えるのではないでしょうか?
このように、この人は「現実感」がないんですね。大人であり、こんな考えをしているとしたら「間に合わない人」です。だから、私は「戦力外にされている」と考えるんですがね。


(4) 何人かの生徒が徒党を組み,遅れてくる。

対処しなければならない。

これで自習。

ほったらかしを容認する態度をついに言葉にしてしまいました。


これを読むと、やはり何をおいても「授業」が頭の中にROM化されていることがわかります。

私は「対処しなければならない」と書いているだけです。
でも、NETSUZOHさんの頭脳は、真っ先に「授業」とROM化されている記憶を読みに行けとプログラムされているから、そこから次にまた妄想が始まるんでしょう?

(5) 残念ながら,この学校が落ち着くようになるのは難しいでしょうね。

なぜなら,「荒れ」を理由として,教師が簡単に授業の場から離れてしまう,遅れてしまうのですから。


ここでも、ROM化された「授業」が支配していますね。何が起ころうと「授業、授業」それしかプログラムがない。

>ほったらかしを容認する態度をついに言葉にしてしまいました。

どうすると、こういう解釈ができるんでしょう?
第一「ほったらかしを容認する」って、常識で考えられますか?

「対処する」から「ほったらかしを容認する」の妄想でしょうね。

この人の言う「この学校が落ち着くようになるのは難しいでしょうね。」は勝手にそう考えればいいですが、そう考えられる必然性はどこにもありません。だから「そう考えたい」という意地悪い考えを述べているということになるでしょう。
現実には、感動的な卒業式を迎えることになり、大勢の人たちが涙しました。
このことは、かつて書きました。

頭のプログラムに常識がないようです。
常識がないと言えば、この人は

小学校の学級担任の気色悪さ

なんて、ことが平気で言えてしまうんですから、どうひいきめに見てもおかしいと思ってしまいます。小学校の先生たちに失礼でしょう。
(気色悪いのは、お前だろう)

(6) 愛知県は,今でも体罰容認の自治体なんですかね。

もうこの方には,「県民不名誉賞」を与えていただいた方がよろしいのでは・・・?


愛知県は日本国の中にありますよ。
日本の法律で、体罰は禁止しているんだから、日本の中で「体罰容認の自治体」があるわけないでしょ?(頭がおかしい)

体罰賛成という意見を述べている人はたくさんいます。しかし、自分の意見として「考えている」だけであって、それが容認になるわけないでしょ?
どこかに、体罰を行なっていると私が書きましたか?
本当に妄想が多いですね。


ご期待にそえなく、私は教育研究で表彰されました。

それより、私はこの人が一度精神科へ行ってみることをおすすめします。

これは、想像ですが、おそらく学校では「戦力外」で、他の人はあたりさわりのない接触で済ませているんではないかと思います。
それは、仕事をしているという現実感もないし、出張で自習を考えねばならないほどの重要な仕事がないと考えられるからです。

出張で自習にすることは望ましいことではないですが、一方で、どうしても自習にして出張しなければならないことのある人というのは、それだけ重要な仕事をしているとも考えられるからです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 16:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年02月18日

やっぱりおかしい思考回路

雨漏りがする家屋があって、そこだけの修復だけで済むかと思っていたら、なんと土台がシロアリにやられていて、家全体がおかしくなっているというような印象を受けました。
家が土台からいかれているとなると厄介です。もっとも基本的なことがダメなわけですから。

まちがいをどれだけ説明してもわからない、頭の中の思考の誤りを修正できない人はいるということは、精神科のお医者さんから学びましたので、そういう人になんとかわからせようとするのではなく、ブログは大勢の人が見ていると思いますから、そういう人たちを意識して記事を書いています。

優先順位とは何か

学校における活動の優先順位(プライオリティ)とは何でしょうか?
コンピュータの、なにかしら実用的なプログラムを作った人ならわかると思いますが、処理を考える時、優先順位は大切です。
それで、フローチャートを書き、次にコーディングと進むわけですが、フローチャートの段階で何か漏れていると、そのプログラムは間違った答えを出す可能性が高くなります。
そういう意味では、あらゆる場面を漏れ無く想定するということは大変重要になってきます。

学校において、一番優先順位の高いのは何でしょう?kyoukaisei.jpg

授業ですか?
何をおいても授業に優先するものはないですか?

中には、それは授業だと頭に刷り込まれ、その固定概念は微動だにしない人がいます。
しばしば、こういう人はいて、概して年をとってくると頑固と言われ、その傾向が強くなる人もいるようです。
そして、昔は石頭と呼ばれたようですが、最近はROM頭なんて言葉で称されることもあるようです。

ズバリ学校において、最優先は「安全」でしょう。
活動の原点では、何をおいても安全が確保されなければなりません。
地震が起きているのに、火事になっているのに、最優先は授業だなんて言っていたらお笑いじゃないでしょうか?

また、民主主義においては最大多数の最大幸福と言われるように、授業ひとつとってもより大勢の者に影響を与える授業が優先されるべきでしょう。
じゃあ、少数はいいのかということになると、いいわけではありません。
目的としては「全員に」ということがあるわけで、恩恵を受けられない少数の者には、別の方法など考えて補うわけです。
具体的な例として、私が経験したことを紹介してみます(要点だけかいつまんで紹介します)。

パソコンを授業に取り入れるという研究がありました。
業者の作ったものでは、現場にしっくりこないということで、私が作ることになりました。
現場の先生が作れば、先生同士で要求を盛り込みやすくなります。
それで、一応完成ということになり、全市に普及させる前に研究授業を行い、それでまた検討し修正すべきところを考えるという段階になりました。

それで、実際の授業で試し、ソフトの使い方にについても説明する、つまり講習会が必要なわけです。
それで、私が制作者ですから、研究授業にも参加しその後反省会と説明会を行うことになったわけです。
しかし、通常の授業時に研究授業を行うので、私は自分の授業と重なった時は、自分の授業を自習にして出張しなければならないわけです。

ここで、念のために確認しておきますが、自習にして出張と言っても、誰も先生がいない教室で生徒だけが自習するということはないわけで、あらかじめ補欠担当という先生に自習計画を提出し、補欠担当はその時間に授業のない先生を割り当てるわけです。
こういうことは、どこの学校でも行われていると思います。補欠割り当てになった先生は、補欠依頼の計画書を見てそれに従って生徒に指示を出すわけです。
自習の計画書は綿密に書きますから、自習と言ってもその時間がムダになる要素は少ないです。
まれに「あなた、私の授業の続きやっていただけますか?」と言って、相手が引き受けてくれたら、その先生が授業を行うということもあるわけです。jikoaito.jpg
こんなことは、いつも学校に勤務している先生には言うまでもないことと思いますが、何かわからない人がいるんですね。
だから、その理解できない人というのは「本当に仕事しているのかな?」と思ってしまうわけです。

非常時とは何か

非常とは、普通でない差し迫った状態。また、思いがけない変事。緊急事態であり、非常時とはそれらのことが起こった時です。
先に述べたように、学校において最も優先する事項は安全です。それは人の命を優先的に守ることです。

非常時に備えるの意味からして、めったに起こらないことに対処するようにあらかじめ考えておくことです。
そういう訓練として、学校では時々、避難訓練を行うわけです。
多くの平和な学校では、通常、避難訓練をして非常時に備える心構えで済むでしょう。

こういう人がいます。
めったに起こらないこと(非常時のこと)なのに,

>「先生がいなくて全く指示がわからないような時は学級委員の指示に従うこと」とはっきり明示しておく

必要はあるんですかね。


これって、どうなんでしょう?
言っていること自体がおかしいということは、常識ある人ならわかると思います。

めったに起こらないことだから、起こったらどうしたらいいか迷わないために備えておくわけです。
めったに起こらないことにたいしては、どうするかを「明示しておかなくてもよい」ですか?

めったに起こらないことに対して、対処することを準備しておこなければいいことと言うなら、避難訓練なんて必要ないということになります。
まるで、子どもに対する説明のような気もしますが、こんなことをあえて取り上げなければならないということ自体、相手が大人だということを想定していませんでした。

めったに起こらないことに対しては備えなくてもよいのなら、バスに乗った時に見るあの非常扉は必要ないってことになりますね。
最近設置されるようになった、AEDも必要ないし、人工呼吸の練習も必要ないってことになります。

非常事態に備えることは、そういう備えが必要なかったということか一番いいのです。
万一のことがあった時、というのを人はできる限り漏れ無く考えようとします。
しかし、それでも漏れているかも知れません。そんな時、だれかが漏れていたことを教えてくれたら、それを取り入れることにより、より対処できるわけです。
こんなこと、当たり前のことでしょ?
「また、授業開始の時、もし先生がいなかった時」というのは「仮に」の話であり、だから「〜とします」と断っているわけで、そういうことがあっていいと言っているわけでもありません。
また、そう受け取ったとしても「・・・という意味でしょうか?」と聞けばよいことであり、一番の問題は「決めつけ」です。そして、修正できない(しない)という特徴があります。

ここで大切なことは「先生の指示がないから、待っている」ということをなくしたいということが本質的なことです。
活動場面は、教師だけでなく野外学習ということもありますから、時にはいくつものグループを同時に指導できない場面もあるかも知れません。
先生を待っていたら、困ってしまうという場面がないとも限りません。そういう場合、だれかがリーダーシップをとらなければなりません。


次の意見はどうでしょう?

>先生がいなくて全く指示がわからないような時は学級委員の指示に従うこと

という指示を出しているから,教員が授業に遅れていくのが常態化している,教室にいるべき時間に教員が教室にいないことが多いのではないか,と考えているのですよ。



これをお読みになっている方々もそうお考えになりますか?

「先生がいない事態」というのはない方がいいし、そんなことはないように万全を尽くすべきです。
しかし、万一そういうことがあったらということで、そうしておいた方がより気がきいているということです。

想像するということは、通常、ある事実をもとに想像するものです。
どのように想像するかは個人の自由であり勝手ですが、必然性のない想像をして、それを確定してしまうのは、予めその結論にもっていきたいという悪意があるか、想像性に乏しいか精神に異常がある(妄想)かです。
(悪意のあるのは、シナリオライターですね)

ところで、この方は荒れた中学校に行ってそれを再生させたと言って見えました。
どうやって再生させたかというと、前からいる先生たちはろくに授業もせず、映画をみせているだけだった。それで子どもたちは授業を受けること学ぶことに飢えていた。それで授業を行ったら、子どもたちは学ぶ喜びを知り、学校が再生できたと言っていましたが、さあ、ここにリアリティを感じられる方はどのくらいいるんでしょう?
いや、それは要約して言ったのだというなら、その再生過程を詳しく知りたいですね。

人というのは、経験すると、そこで学ぶことがありそれが次の行動に役立つものです。
ですから、経験の乏しい人はノウハウが少ないとも言えます。
だから、その荒れた中学校での経験というのは、私には疑わしいと感じます。
いや、たとえ実際にそういう中学校へ行ったことがあるとしても、荒れた状態に真剣に取り組んだのかどうかは疑わしく思います。

私の経験では、荒れた中学校では、生徒が自転車で廊下を走っていました。
毎日、どこかのガラスが割れていました。
上の方から、机や椅子が降ってくることもありました。

授業をしていると、なにやら臭ってきました。

私:「おい、何か臭わないか?」

生徒たち:「・・・・・・」

私:「おい、臭うぞ、お前たち臭わないか?」

生徒たちは、シーンとして頭を低くします。

シンナーの臭いがしてきたのです。

「ちょっと待て」

と言って、臭いのする方向へたぐって行くと、トイレで何人かが集まってシンナーを吸っていました。
開けようとしてもつっかい棒がしてあって入れません。

根気よく説得して、別室に連れて行って話をします。
こんなふうです。

このような状態では、先生たちはなるべく職員室から出ないようにしています。
授業に行っても、すぐに職員室に帰ってきます。
日頃、われこそはと教育論を得意になってぶちまけていた人ほど、職員室に閉じこもる傾向にあります。
それは、非行生徒をなんとかするには、殴るしかないと考える人が多いからです。
職員室から出ると、生徒たちにいつ殴られるかわからないからです。
先生たちも、まじめな生徒たちもピリピリしていました。

私は逆に、なるべく教室にいるようにしました。
放課になると、頭にパーマかけたり染めた生徒が突然戸を開けて大きな声をかけて、誰かを呼びにくる者もいました。
仲間を誘いに来るのです。
そんな時、私がいると、思わず「ギョッ」とした顔をして去っていくなんていうこともありました。

殴られるおそれのある人は先生だけではありません。
何人かのグループを作った生徒たちは、生徒の中に気に入らない者がいると、誘い出して校舎の影などに連れて行って殴ります。

放課にも先生が教室にいるというのは、生徒たちにとってうっとおしいのかも知れません。
しかし、私がいつも教室にいることで、生徒たちの気分は何かしら安心感を持ったように思いました。
教室にいるのですから、授業に遅れるなんてことはあり得ません。

非常時の例で火事の例を出したのは、頭に浮かんだことがあったからです。
(非常時の例なら何でもいいのすが)

朝の職員打ち合わせの時

「外で何か燃えている」

という声が聞こえました。

先生たちがそちらを見ると、自転車置場で何か燃えていました。
(自転車置場で何か燃えていても、火災報知器は鳴りません。火事でなくても、荒れた学校では時々、火災報知器は鳴ることがあります)

8人ぐらい生徒が集まって、ダンボールを集めて燃やしていました。
ラジカセのようなもので音楽をかけて踊っていました。

早く駆けつけた先生たちは、注意したのか怖くて注意したのか静観しているだけでした。
少し遅れて行った私は、正直怖かったですが、注意しないのは先生としてまずいと思い、勇気を出して

「おい、やめろよ」

と言いました。

すると、リーダーの生徒が、ラジカセの方へ歩み寄り、ボタンを押して音楽を止めました。
そして、私の方を見ました。そして

「ああ、わかった。先生がそういうなら止めるよ」

と言って片づけ始めました。

テレビドラマを見ているようなシーンですが、本当に止めたんです。
私は何で止めてくれたんだろうと不思議に思いました。
決して自分を美化しようとして言っているのではなく、本当にあったことで、止めてくれた理由をそれからしばらく考えることになりましたが、その後、ある時、理由がわかりました。
この時は、一時間目には遅れました。

学校が荒れると、何人かの生徒が徒党を組み、学校へは遅れてきます。
その時、対処しなければならない時があり、それは時を選びません。
他の生徒たちはしっかりしていて、何も言わなくてもしっかりやっているのですが、あえて言っておいた方がいいと思うわけです。

家庭で、もしお母さんの帰宅が遅れたときは、冷蔵庫にある・・・と、・・・でなんて子どもに言っておくようなことも、小さな非常時の例だと思います。

めったにないことだからいいという考え

これについては、今思い出しても笑えることがあります。

それは、ある女性が

「医療保険は高いから、貯金して金を貯めたほうがいいよ」

と言っていたのを聞いたことです。

私は

「でも、300万円ぐらい貯まったとき、病気で500万円出費することがあったらどうするんですか?」

と言ったら

「そういうことはめったにないし」

と言ったのです。

保険て、めったにないことに対処するためにかけるんでしょう?と言っても理解できないようでした。

そういう考えなら、自動車保険だって必要ないって考えが成り立つんじゃないでしょうか?

「〇〇は□□だ」という言い方

これは注意しなればならないと思っています。

「公立学校の先生は公務員だ」と言うのはいいですが
「小学校の先生はなまけている」なんて言い方には抵抗があります。というより、言う人がバカじゃないかと思うんです。
確かに、そう言いたくなる先生がいないわけじゃないですが、日本中の先生がそうだとは思えません。
小学校の先生がすべて、学級王国の弊害を作り出していると思われかねない言い方もおかしいし、第一失礼です。
そのように「〇〇は□□だ」というような単純な言い方しかできないのは、頭が単純になって単純にしか思考できないからでしょう。
想像は勝手にすればいいですが、根拠のない想像は自分の頭の中だけにして、また、自分の都合よいように決論を持っていきたいがために、あたかも事実であるかのごとき、勝手に「事実の捏造」をするヤツはバカだというより、教員としては不適格と思います。

秋の話ですが、
「柿が実ってきましたねえ」
「子どもの頃、柿の畑に入って柿をとろうとして、おじさんに叱られたことがあります」
と言ったら
「もし、その子どものことが私のことだったら」
と話しかけてきて
「いや、昔の自分のことを言っているんですよ」
と返事をしたんだが
「どうして、俺を柿どろぼうにするんだ」
と怒りだし、収拾がつかなくなったことがあります。

「もし・・・だったら」とか「だとすると」と言いながら、途中でそれが事実にすりかわってしまう人がいます。

本質がどこかに行ってしまう、または捉えられない

うどん作りの講習会で、うどんの作り方を教えてもらい、試食の段階になったとき。
箸が気に入らないと言い出し、この箸はエコに反する、大事な資源をおろそかにしていると展開し
「今日は、うどん作りの講習だから」
と言っても「今は、エコを考えなきゃいけない時だぞ、何で箸はなんでもいいと言うんだ」
とどんどん、話が本質からずれて言ってしまう人がいる。

「へぼ将棋王より飛車を可愛がり」という川柳があるが、
「火事の時、半鐘の音がうるさい」と文句をつけていると評した人もいるように、文脈がない。あるいは文脈をたどって何が本質か捉えられない人にしばしば遭遇する。
何かこういう人が増えてきたんじゃないと思ったら、YouTubeで偶然こんなものを見つけた。

世の中に全く正常な人間というのはいないんだそうだ。問題はその割合が正常か異常かどちらに偏っているかということであり、偏りが大きい人は病気に近く、問題は自分がおかしいとは思わないから修正できないとあった。
機械は、壊れたら自然に修復する力はないが、人間の思考回路は修正してどんどん正しい方向になることも可能だそうだが、そういう機能まで壊れないようにしたいものだ。






終わりに

時間を守るということは、すべての基本であり、私が厳しくしてきたことでもあります。
これは、すでに書いたブログ記事にもあります。

私がかつて務めた小学校でも、校舎の新築時にこういうことに配慮し、職員室の他に教室の隣ごとに控室を作りました。
朝の打ち合わせは簡単にすませて、先生たちはその準備室にほとんど常駐していました。
だから、放課にも子どもたちはよく入ってきましたし、授業開始をおろそかにするなんてことはなかったです。
電話も全ての部屋に常備し、連絡であちこちに行くということをなるべくなくしました。

中学校でも、個々の先生たちは授業をきちんとやるということにはプライドを持っていましたし、公開授業に限らず始業はきちんとしていました。
というのは、他の学校から常に意識されるという存在だったということもあります。

きちんと授業を開始するというのは、当地域では常識です。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 15:47 | Comment(7) | TrackBack(1) | 教育研究

2011年02月17日

どうにもおかしい思考回路

どうにも、お粗末で酷いと思ったのでとりあげてみました。
まず、題材の文章を示しましょう。

指示待ち人間にしないようには、なるべく子どもが判断できる場を多くしてやることだと思います。
ということは、差し支えない範囲で子どもの自治権を増やすことです。

例えば「先生がいなくて全く指示がわからないような時は学級委員の指示に従うこと」とはっきり明示しておくことです。
当たり前のようなことですが、意外に徹底されていないように思います。

やむを得ない理由で教室へ行くのが遅れた時に、行ってみると生徒たちが好きな本を広げていたとします。


上記の文を読んで、次のようにこたえている人がいます。

まず,この話を読んで疑わしかったのは,教員が授業に遅れていくのが常態化している学校がある(あった)のではないか,ということです。


いかがでしょう。
上記の題材の文を読むと、上のように解釈できるのでしょうか?

わかりやすくするために、思考論理を図にしてみます。

yamuwoenai.jpg


教師がやむを得ない事情で遅れていくときを想定すると、人の思考では、A、B、Cの選択肢が浮かぶと思います。
それで、A、B、Cのいずれかの選択をするために、その根拠を探すはずです。

題材の文からはどれを選ぶべきでしょうか?
特にAを選ぶ根拠があるでしょうか?

やむを得ない事情とは、言い換えれば非常時ということです
非常時とはめったに起こらないことを言います

上の文章で常態化していると解釈するなら、非常時に遅れるわけですから、いつも非常時が起こっていなければなりません
しかし、いつも起こっていることを非常時とは言いませんから、いつもと言うには矛盾があります。

では、もう少しわかりやすくするために、非常時を具体的にしてみましょう。
それで、非常時は火事だったとしましょう。

それで、もう一度題材と、それに対する解釈を改めて示します。

指示待ち人間にしないようには、なるべく子どもが判断できる場を多くしてやることだと思います。
ということは、差し支えない範囲で子どもの自治権を増やすことです。

例えば「先生がいなくて全く指示がわからないような時は学級委員の指示に従うこと」とはっきり明示しておくことです。
当たり前のようなことですが、意外に徹底されていないように思います。

火事で教室へ行くのが遅れた時に、行ってみると生徒たちが好きな本を広げていたとします。


(解釈)

まず,この話を読んで疑わしかったのは,教員が火事で授業に遅れていくのが常態化している学校がある(あった)のではないか,ということです。


どうですか?
変ではないですか?
どうみても「常態化している」なんて解釈は出てこないはずです。enzai.jpg

学校の先生なら、こんな国語は理解できるでしょう。
もし、わからないとしたら(そんな人はいないと思いますが)まずいと思います。
文章の読解は教師として、基本ですからね。

では、なぜあんな解釈をしたのでしょう。
そこには、恣意的な心を感じずにはいられません。

教師はすべての子どもに公平・公正でなければなりません。
選択肢も公平に考えなければなりませんが、どうしても根拠のない結果にもって行ったということは、始めからそれ(A)を選択すると決めていて、あとからなんとか理由をつけようと考えた(もっとも、ここには理由もありませんが)と思います。

こういうのが、始めにシナリオありきで、根拠もないのに、犯人と決めておいてあとから理由をつけたり、証拠をくっつけようとした事件、村木さんを寃罪に陥れた検事と同じではないかと思うのです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 20:23 | Comment(6) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年02月17日

指示待ち人間をなくしたい〜その2

ningenkankei.jpg指示待ち人間をなくすには、学校においては「教材の池」がなくてはならないということを述べた。
人によっては、考え方がYesかNoかのどちらかのような人がいる。
突然こういうことを言うのは、私が「教育学」を学ぶことは大切だというと、真っ向からこれに反対する人がいる。
かと思うと、全く思いつき的な自分の感情だけで語ったり、ことを処して自画自賛しているようなものもある。

教育学に関わる論理と自己流の自画自賛のどちらかに、わかれてしまうような対立をしばしば見る。
なぜ、どちらかになってしまうのだろうと思うと、そこから、多分頭のbit数が少ないんだろうなんて考えが及ぶ。

教師の活動は「どちらか」ではなく、理論を勉強しそれを頭において実践に挑むということが大切だと思っている。
これは、しばしば例に出すオーケストラの指揮者に似ている。

音楽は作曲家が作る。その楽譜を見て演奏で音にするという形に持っていくのが指揮者である。
その楽譜が理論みたいなもので、それを解釈し実行してみる。
その実行する中で、作曲家の意図を汲み取ったり、もしかしたらここはこうしたかったのではないかと、考えに及ぶことがある。

いや、音楽より料理のレシピの方が合っているのかも知れない。
レシピに沿って料理を作ってみる。レシピ通りにやってみることで、美味しい料理を作ることを学んだり、レシピ通りの材料がない場合代替品での応用という考えが浮かんだりする。
もちろん、料理はレシピがなくても、自分の勝手でもできる。
最近は、男も料理教室に行く人が増えたと言うが、先生について一応料理の基本、論理を学んでおこうというものなのだろう。
どちらにしても、我流にならないために理論を学ぶということだと思う。

さて、指示待ち人間をなくしたいということで、これは、指示がなくても判断力が働いて何か行動ができるようにしたいということである。
「何か行動」というのはその行動自体の評価は別として、指示がなくても自ら行動できたということを大切にするということである。

家族で食卓を囲んだ時、子どもがお父さんの方を見たとき、箸がないことに気がついたとしよう。
その時、子どもが台所の方へ行ってスプーンを持ってきたとしよう。
その場合「ご飯を食べるのに、何でスプーンを持ってくるのだ!」なんてことを言わないことである。
まだ、子どもが幼い場合は自分がいつもスプーンで食べているからそうしたのかも知れない。

だから、そういう時は否定的なことを言わないで、うんとほめなければいけない。
実際、心ある人なら喜んでほめられるはずである。
そんな時「なんだこんなものを持ってきて!」なんて言う人は、よほど心が貧しいのか、本来的に意地が悪い性格なんだろう。

子どもが自発的に、感じて行動したことにケチをつければ、心に傷をつけるだろう。
もし、そんな場面に遭遇したなら「お父さん、それは酷いですよ。せっかく、○○ちゃんが気をきかしたのですから」とフォローしなければならない。

指示待ち人間をなくすということは、自発性を喚起するということでもある。
その場面は、部活動において工夫できる場面が多いと思う。

部活動での特徴は、クラスが同年のメンバーであるのに対し、部活動では上級生、下級生という関係があることだ。
これを生かす場面を考えてみた。

毎年、新入生が入部してきた時、その新入生の面倒をみる係をつくるのである。
新入生に対し、上級生がお兄さんやお姉さんになってやるようなものである。
新入生は、新しい環環になって不安があるものと考えられるので、入部してお兄さんお姉さんができるのは心強いのではないかと思う。
また、上級生は弟や妹ができたようなもので、上級生の自覚がより高まると考えられる。

私は部活動の際は、終了時間ギリギリまで練習をするのではなく、話し合いの時間が持てるように余裕を持って終わった。
その余裕の時間に、上級生は下級生の相談にのったり、自分たちの経験からどうしたらよいかなどの話ができるようにした。
このようなことを考えることにより、サボリということはなくなったし、部員全員でひとりひとりに目が届くようになった。
これは、校外に出かけるときにも、部員の掌握や事故防止に役立ったと感じている。
上級生が卒業するときにも、下級生は上級生に感謝を込めて送り出している気持ちもよく現れていた。

※ お断り
コメントをいただいた場合、明らかに、アラサガシ、見当違い、偏見、バランス感覚を欠くようなものには、必ずしもレスしませんのでよろしくお願いします。
読者は、コメント自体の適切性についても、お読みになってご判断ください。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 00:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年02月16日

指導者のプライド

指導者には様々な性格の人がいますが、とかく指導的立場に立つと錯覚に陥る人がいるような気がします。
私も一応指導的な立場はありますが、錯覚に陥らないようにとこころがけているつもりです。
それは、錯覚した立場の人を見ると非常にみっともないと思うので、自分はそうなりたくないと思うからです。

では、ここで言う錯覚とは何かということですが、ひとことで言うと「自分は偉大な指導者」だと思ってしまうことでしょう。偉大というところまでではなくても、何かエライと思い込んでしまうということです。

よく、先生が「世間知らず」と言われますが、その理由を先生以外の人に聞くと、決まって返ってくる理由が「先生というのは、日頃から『先生、先生』と呼ばれ続けられているから、エライと錯覚されてしまうのではないか」というものです。
こう言われるのは、大したことはないと思われているのに、本人の態度がエラそうに見えるということだ゜ろう。

こういう言葉を聞くせいか、私は「先生」と呼ばれるのが好きではない。
「先生と呼ぶな」と言ったら、子どもは困ったらしいので、好きにさせたがとにかく「先生」という言葉には注意しなければならないと思っています。
もっとも「先生と呼ばれるほどの馬鹿じゃなし」という言葉もあるが。

音楽が好きで、プロにはなれなかったが、アマチュアオーケストラを作って自分がそのトップに立って取り仕切っていた人がいる。
自らを音楽監督と名乗り、集めたメンバーの中でよく持論を展開していた。
でも、そんな姿を見た私にはなんとなく「ままごと」をやっているように見えて、みすぼらしい印象が強かった。

自分の指揮するオーケストラは凄いと、メンバーには洗脳するような感じだった。
自分が凄いのだというのも、折にふれて洗脳しているという感じだった。
見事、洗脳されてしまった者もいたが、本当に力のある者は冷静に見ていて、チャンスをみてはその音楽監督とのトラブルがないように離れていった。

音楽監督は、ウィーンフィルを聴きに行ったことがあった。
その感想は「大したことはない」というものだった。
私は「へえーッ」と思ったが、大したことないか、あるのかは本人の主観であると思ったから、驚くこともないかと考えた。
彼が本当にウィーンフィルを大したことないと思ったのか、内心では凄いと思ったのだがコンプレックスでそう言ったのかはわからない。
しかし、ウィーンフィルより凄いことをやっているのなら、社会は放っておかないだろう。

私は音楽監督氏の指揮するオーケストラをほとんど買っていなかった。
まあ、泥んこという感じの音で、音質が気になる私にとっては耐えられないものがあった。
オーケストラは大勢でやればやれるほど、中身はいい加減でも一見「らしく聴こえてしまう」ところがある。
それに、何と言ってもクラシック人口が少ないせいか、この国あっては鑑賞力のある人は少ないようで、誰かが凄いと言えば凄いと思ってしまうというか、自分も凄いと言わなければはずれてしまうという危機感から、わからないのだが「のような」フリをするということもあるだろう。

プロのオーケストラはコンサートまでの練習回数は、たいてい2回ぐらいである。
2回というのは、プロの場合、練習と言ってもアマチュアのように楽器そのものの奏法まで教えるということはなく、ひとりひとりが自立した奏者を集めているので、指揮者の仕事は自分の意図する音楽を伝えるということが仕事だからである。

しかし、そういうプロであっても、本当はもっと練習回数は欲しいのだろうと思う。
実際、オーケストラの事務局としては2回ぐらいの練習回数で経費を考えているのに、中にはもっと練習回数を要求する指揮者もいる。
だから、指揮を依頼しても6回という練習回数の要求に応えられないので、断念するというケースもある。

練習回数の多い指揮者で有名だったのに、故、ソ連のレニングラード管弦楽団を指揮していたエフゲニ・ムラヴィンスキーがいるが、彼がショスタコーヴィチの交響曲を練習しているとき、ショスタコーヴィチがその練習風景を見ていて「私は、あの指揮者がなぜあそこまでこだわるのかわからない」と言ったという逸話がある。

練習を通じてどこまでやったら、気にいるかというのは、それぞれの指揮者の主観の世界であり、他の人から見たらもう十分じゃないかと思っても、本人としてはまだまだということはある。jibunwotaniagete.jpg

さて、もっと身近な自分の世界のことを考えてみると、相手はアマチュアが多いので、コンサートまで2回でよいということはない。
まして、相手が中学生となれば練習をしてもしても足らないという感じである。

たまに、自称でなく本当に偉い先生を指導に招く場合でも「先生、練習時間はどれくらい・・・」というと「まあ、3時間ぐらいはないとね」と言われる。
これは驚く時間ではない。

どのような音楽にしたいのかということを伝えるには、大した時間を要しないが、それを徹底するには時間が必要で、その徹底度がどのくらいで満足できるのかは、まさに聞く人の主観である。

どこそこに上手いバンドがあるというので、その学校も出演するというコンクールを聴きに言ったことがある。
私はホールの3階の後ろの方で聴いていたが、あまりにも耳が痛い演奏に閉口した。
こんな大きなホールで聴いてももこんな音なのに、日頃、音楽室で練習しているのを想像してどんなだろうと思った。
音が大きいというより、うるさいのである。それは、音が合っていないというのもあるが、楽器が共鳴していなくて力んでいる状態である。

私は学校の先生だけの評判で、素晴らしいと言われている評価は懐疑的にみている。
もちろん、それは学校という枠の世界を軽蔑しているのではない。すばらしい指導をしていて、すばらしい音がしているところもあるからだ。
しかし、先に述べたように、鑑賞力のある人が少ないのか、気をつけないとその評価が当てにならないことがあるということである。

先日も、ある人のお嬢さんがヴァイオリンを演奏していて、すばらしく上手いと言い、将来はチャイコフスキーコンクールにでも出るのではないかなんて言うので、聴きに言ったら、先生についてまじめに練習したら到達するというレベルで、プロはちょっと無理ですねというものだった。

決して軽蔑して言っているのではないが、日頃、あまりクラシックになじみのない人の評価ではそういうことがある。
また、娘を将来プロのヴァイオリニストにと夢を見て、一生懸命つぎ込んだあげく、悲劇になったという例も知っている。

少しクラシックをに憧憬のある人なら、そういうレベルかどうかはわかると思うが、親が一生懸命になりすぎている姿を見ると「やめた方がいいんじゃない」とは言えないのが人情なんだろう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 22:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年02月16日

自分の職務が何たるかを忘れている



難しい試験を突破しても、最終的には性格

検事になるには、一般的に司法試験に合格し、司法修習期間を経なければなりません。
司法試験は合格率3%と言われてきて、難関の試験として有名です。
司法試験に10年も挑戦している人もいるようです。

しかし、その難しい司法試験を突破し検事になったとしても、それで立派な検事になれたということでもないのです。
試験には人格のテストはないのですから、人格はどうであれ、ペーパーテストによって選別されているからです。

検事という仕事は、社会正義のために働く仕事のはずです。
そして、そういう心構えは司法修習期間に学習するはずです。
ですが、頭で学んだからといって、必ずしも身につくとは限りません。
だから、厚生労働省の村木さんの冤罪事件のようなことも起こるのだろうと思います。

検事に任官して昇進を目指すのはいいのですが、事件で多くの人を有罪にすることが成績になるため、真犯人を探すという目的より、何人有罪にしたかということが目的化し、犯人は誰でもよいとにかく点数を上げることだとなり無理やり犯人を作ってしまうという寃罪が起こりやすいのだと思います。
人によっては、今や寃罪犠牲者は1万人ぐらいいるのではないかという人もいます。

学校の先生とて、考えるべき問題

よく批判の的になる官僚や、この例のような検事だけにあてはまることではありません。
学校の先生も試験を受けて仕事に就くわけですが、いろいろな性格の人が先生になり、その性格が教育現場に影響をもたらします。siitekisikohsentaku.jpg

例えば、あるクラスでお金がなくなったという事件があったとします。
こういう例を出すと、しめたと思い、また「あの学校では、盗難が常態化しているおそれがあります」とか言って、どんどん妄想が発展する人がいるかも知れません(笑)。

こういう事件は困ったものですが、こういう非常時(異常時)に先生の性格が現れると思います。
先生も、正義を大切にし、なんと言っても子どもの前では、公平・公正でなければなりません。
しかし、中にはそのようなことを理性的に考えず感情優先で事を解決しようとする人がいるとしたら、それは先生の適正に照らし合わせた時、問題があると思うのです。

公平・公正の観点で見たら、可能性はいくつかあります。
でも、感情を優先すると、図に示したように、理屈こそつけて正当化しようとしても「日頃、教師に反抗的な子ども」を犯人しようとしたりする考えが浮かんでしまう可能性があります。

つまり、厚生労働省の村木さんの事件にあったように、検事はシナリオライター
と批判され、理性的に客観的証拠に基づいて追い詰めるのではなく、始めにターゲットを決めて、そのターゲット(犯人にしたい人)にたどり着くようにシナリオを作ってしまうのです。

もし、途中で犯人とは思えないという証拠が出てきた場合は、シナリオに合うように証拠を改ざんしてしまったり、犯人ではないという証拠を発見しても隠してしまうということをしてしまう。
もはや、そこには検事の本来の使命はないわけです。
難しい司法試験に合格したから、正しい仕事ができるというものは何もなく、結局、その人の性格がそうしまっていると言えると思います。

教員も何かに遭遇したとき、教師本来の使命を忘れず行動したいものです。
子どもの場合、盗難事件かも知れないというようなことが起こった場合、自分は嫌われているから犯人にされてしまうのではないかという恐れを抱く子どもがいないとも限りません。
難問題に最しては、その問題の解決だけではなく、先生がどう行動するのかはクラス全体の子どもに与える影響が大きいと思います。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 12:27 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年02月14日

指示待ち人間をなくしたい

以前、ブログに指示待ち人間のことを書いたことがあります。
会社の経営者に聞くと「今の人は言われたことはちゃんとやって優秀なのだが、言われないことができない」と言われるということです。

これは、あちこちでよく聞いた言葉です。
それが「指示待ち人間」という言葉によって、象徴されるようになったのです。

それで、私は「指示待ち人間」という言葉が頭から離れず、どうしてそうなんだろうかと考えるようになりました。
その結果、それは教育に原因があるのではないかと考えるようになりました。
そして、私は指導の中で意識的に「指示待ち人間」をなくすように考えてきました。
また、それは学校での教育目標とも合致するということで、よけいに力をいれるようになりました。

今の子どもは、親が何でもしてやるせいか、ゲームなどの遊びには積極的ですが、自分の生活のこととなると「待っている」のです。
「今から体重を測りますから、服を脱いでくださいね」と言ったら、即座に両手を上げて待っていたという子どもの話を聞いたことがあります。
話は子どもだけでなく、わが子の新婚旅行について行ったというお母さんの話を実際に聞いたこともあります。

最近の就職難の話では、大学生が苦労していると言いますが、韓国の場合は有名大学を卒業しても、日本よりもっと就職の苦労はあるようです。
しかし、韓国の場合は雇っている会社がないと、大学生たちが自分たちで会社を作ってしまおうという動きがかなりあって、政府もそういうことに支援するそうです。

それに比べると、日本の学生はやはり「待っている」ような気がします。就職できないのは不景気なせいだとか、政策がわるいだの他の責任に話がいくようです。
こういう他人に転嫁する意識、待っている意識は今の日本人の大きな欠点だと私は考えています。

私がつたない実践をした結果、人に頼る、待っているというのは、日本人の特性ではなく何かしらそういう教育がされてきてしまっているのだと思いました。
指導の仕方によっては、子どもの中にはものすごいエネルギーが隠されていて、それを発揮させた場合、予想もしない力を出すことを経験してきました。

動物の子育てを見ていると、感心するのは親が熱心に子どもを育てているところも感動がありますが、ある日、巣の周りを飛び回っても餌をやらない時期や、親がついてくる子どもを振り払うところは感心します。
親に拒否されてもついていく幼い子どもを見ていると、かわいそうになりますが、やがて子どもは一人で(一匹で)なんとか餌を探したりして自立していきます。
テレビでしかみたことはないですが、動物はすばらしいなあと思います。kodomoni_jisin.jpg待っているということをなくすには「子どもに、何でもかんでもしてやらない」ということはひとつのポイントだと思います。
何にもしてやらないということは、放任とは違います。

子どもは独立心が出てくると、自分でやりたくなるとという気持ちも高まってきます。
そんな時は、やらせてみることはいいことと思いますが、ことによっては責任感を持たせることも大切だと思います。

さて、指示待ち人間をなくすにはどのような指導をこころがけたらよいでしょうか?

リーダーが指示を出し、それを受けて実行するという形として、オーケストラの指揮者と楽団員の関係があります。
この人間関係にもおもしろいものがあって、指揮者には独裁的なタイプとそうでないタイプとわかれるようです。
独裁的なタイプは完全主義者とも言われ、非常に細かく指示を出し、メンバーを統率するタイプです。
一方そうでない指揮者は、大きな流れは指揮者が指示をしますが、部分的、場合によってはメンバーの意思に任せるというものです。
では独裁的なタイプの指揮者のもとでは、指示通りやればいいのかというと、そうはいきません。

どちらのタイプ指揮者のもとでも、個人の自発性は大切であり、自発性のないような奏者はクビの対象になるというか、レベルの高いオーケストラほど自発性のない奏者は採用されません。

自発性が高いと、調和がとれにくいようにも思いますが、オーケストラのメンバーとして最も重要視されるのは協調性です。

これら、リーダーの指示とメンバーの行動の間には一見矛盾があるように思いますが、それらの要素が高度に調和されたものがオーケストラなのです。
私がオーケストラを例に出すのは、音楽好きということもありますが、集団のまとまりを考えるとき参考になることが多いのでイメージしやすいからです。

指揮者と楽団員の関係で、私が最も印象に残っている話があります。
それは、あるプロのオーケストラの収益が悪化して潰れそうになったことがありますが、そこに就任したある指揮者は手腕を発揮して見事に再生させました。
印象的なのはそれだけでなく、楽団員たちはその指揮者の音楽性にすっかり感動し、音楽がやれることの幸福感を味わったのです。
それで「神様と音楽ができて、おまけにお金までもらえるなんて」と言ったのです。
指導者としては最高の賛辞をもらったと思います。

これが会社なら「すばらしい社長(神様)と仕事ができて、お金までもらえるとは」と従業員が言っているようなものです。

教師は子どもにお金をあげるような立場ではありませんが「素晴らしい先生と一緒に勉強できて幸せだ」と感じてもらえるようにしたいものです。

さて、話が脱線したようです。
指示待ち人間にしないようには、なるべく子どもが判断できる場を多くしてやることだと思います。
ということは、差し支えない範囲で子どもの自治権を増やすことです。

例えば「先生がいなくて全く指示がわからないような時は学級委員の指示に従うこと」とはっきり明示しておくことです。
当たり前のようなことですが、意外に徹底されていないように思います。

やむを得ない理由で教室へ行くのが遅れた時に、行ってみると生徒たちが好きな本を広げていたとします。

先生:「何で勝手なことをしているんだ。これからやる授業のところを予習していなきゃいけないじゃないか」

生徒A:「でも、学級委員が、好きな勉強でいいといいました」

学級委員:「・・・(気まずい顔をしている)」

先生:「そうかそうか、先生が悪かった。学級委員の考えでいい」

とフォローしないと、学級委員のやる気が失せて、自主性を失わせることになります。
むしろ、先生がいないときに、黙っていないで指示を出した学級委員をほめるようにしなければいけません。

長くなったので、今回はここまでにします。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 18:12 | Comment(9) | TrackBack(0) | 教育研究

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。