2011年03月31日

教員は自覚を持って投稿しましょう

大臣は失言で辞職に追い込まれることがある。
学校の先生で、そういう状況になったということを聞いたことはないが、教員という立場上、言葉には気をつけるべきではないでしょうか。

先生は聖職かどうかという議論は別にしても、やはり、子どもたちの尊敬の的になってほしい。
それは、子どもにとっては人生の師として、良い先生と巡りあったという、後々の思い出となるようであって欲しいと言う意味においても。

私の中学生時代には、毎日、研究を続けられ博士号を授与された先生の思い出がある。
先生は口数の少ない人であった。
通知表のコメントに「努力すればまだ伸びる」とだけ書いてあったことを覚えている。

コメントとしては実に簡単なものである。
考えてみれば、当たり前のことである。しかし、私にはその言葉が重みとして残っている。
なぜ、そんな簡単な言葉が心に残るのだろうか?

私はずっと不思議に思っていた。そして、ずいぶん年を取ってわかった。
それは、言葉の重みというより、その先生の重みなのだ。

その先生が言われるから、先生の重みが言葉に移るのだと思った。
そして、その重みというのは、その先生に出会ってその先生と学び舎を同じくしたことで生じたことであり、それはかけがえのない出会いだったと思うのである。

その先生に「努力すればまだ伸びる」ということで、何か自分に希望を見出し、自信が持てたのだと思う。

3年生の時の先生は、中学校最後の通知表に、部活動を3年間続けたことがすばらしいと書いてくださった。
何ごとも三日坊主で終わる私に「そうだ、自分も続けられるんだ」という自信が湧いた。
それ以後、自分には途中で放棄せず続けられる力があると思うようになった。
私は先生には恵まれていたと思う。

今回の震災で過酷な境遇に陥った子どもも、ある先生の一言で元気が出るという先生がいて欲しいものだと思う。

ところで、ブログにもたくさんの先生が投稿しているようですが、ブログは仮名で投稿できるにしても、何となく「あ、あれは○○先生だ」とわかっていくものではないかと思う。
そういう意味では、先生は学校で会うだけでなく、下校後も影響があると思ってよい。

また、このネット時代は、それまでは知らなかった遠くの先生、日本の先生という範囲で、学校の先生が何を考えているかということが、広く一般にも知られることになる。

今日、先生は自分の校区だけでなく、日本中の人たちにその発言は影響する時代である。
先生のイメージが高まるかどうかは、ブログを持たない先生たちにも影響がある。

警察官が泥棒をして、国会でも取り上げられたことがある。
ある議員は「最近は、警官を見たら泥棒と思えと言うじゃないですか」と言っていた。
一人の行動が、警察官全体のイメージ低下になった。

私はことさら、他人のブログを見てあらさがしをするという趣味はないが、これはどうにも問題だと思うものがあって、我慢ができなかった。

「私は約束を守ります」とかいう教師を子どもは本能的に信じません。


これを読まれた方に感想を聞きたいと思う。

本当にそうなんですか?
どうして、そんなことがわかるのですか?
子どもに、そういう本能(的なもの)があるって、どうして知ったんですか?

などという疑問が湧いてきませんか?
それとも、あなたには、子どもの内面(能力)を知ることができる不思議な能力があるのですか?

こんなことを言っているから、学校の先生のイメージは悪くなると思うのです。
いや、私はこれは学校の先生ではなく、だれかが先生のフリをして投稿していると思いたい。
頭のくたびれてきた、どこかのプライドだけは高い爺さんが、好きなことを言っていると思いたい。

本当に「約束を守る」人間は「約束を守ります」などという宣言は軽々しく行いません。


これもひどいと思いますねえ。
「軽々しく」というのは、どうしてそう感じるのかわかりません。
そういう回数が多いというところから感じるのか、それとも別な人格からそう思うのか?

いずれにせよ、約束というのは未来のことです(未来に結果が出る)。
未来のことを約束できる人なんて、どこにもいません。

金融商品を扱っている人たち、例えば株の売買などを行う証券会社の人たちには、顧客に対して、将来未確定の商品をあたかも確定的であるかのように説明してはいけないという法律があります。

「この株は絶対値上がりします」

なんてことを言ってはいけないのです。

そんなことがわかれば、確実に大儲けができます。
未来を保証できる人なんていないわけです。

いや、占い師や霊能者はそう言うでしょう。

占い師や霊能者ならそういう言葉を使うことも許されるでしょう?

reinousya.jpg
そして、占い師や霊能者を信じる人は、そういう人について行けばいいわけです。
そういう人たちが集まって宗教ができるのでしょう。

でも、学校は宗教ではありません。
だから、学校(教育)に占い師や霊能者は要らないというのです。

約束が守れたかどうかは、未来にしかわかりません。
だから、何人も約束が守れるという保証はできません

なのに、人はどうして約束するのでしょう?

それは、約束することによって信用を得たいからではないでしょうか?

だから、それはある時は決意の表明であり、またある時は人を信用させて、騙すためでもあると思うのです。

「今度は絶対に優勝します」

というのは決意でしょう。
たとえ、優勝を約束しますと言っても、それは決意でしかないわけです。

子どもに限らず、他人の心(心理)がわかるなんてことを堂々と発言できる人は、占い師か霊能者です。
そして、そういう人を信じていけば、そこは宗教の世界のようなものではないでしょうか?

教育心理学では、例えば、5歳ぐらい子どもの場合は「動いている物は生きている」と言うそうです。
それは、学術的手法を用いて調査した結果です。これは、占いや霊能の世界ではありません。


まとめ


約束と信用の関係は、約束を守るか守らないかでしょう。
約束を守らない人は信用が低下するわけです。

また、約束するかしないかは、自信の度合いでしょう。
自信のある人は約束するし、自信のない人は約束をためらうでしょう。
約束しないほうが、約束を守らないと言われないわけですから、約束をあまりしない人は非難を恐れているのかも知れません。

いずれにしても、約束と人の関係はそんなに簡単なものではないでしょう。

もし、占い師、霊能者になりたくなかったら「私は・・・のような気がする」とか「・・・のように思う」ぐらいは付け加えましょう。
まあ、私には他人にはない超能力があると思わせたい人は別ですが。

気になる資料は以下です。

霊能力を扱っている学問的な領域を挙げるとすれば、超心理学がある。超心理学では、霊能力も含めて、様々な不可思議な現象を科学的に解明しようとした歴史がある。

現時点の科学では、そのメカニズムについては、はっきりしたことは分かっていない。

最近の医学者などからは「霊能力というのは、心因反応・感情障害・統合失調症・脳の器質的疾患・重度の神経症的病状を有するものが、いわゆる霊能者の"霊能力"と関係があるのではないか」指摘されることがある。それらの症状が霊能力者の言動などと類似することがあるためである。例えば、統合失調症の、幻聴、幻覚、妄想などの症状に似ている面もあるため、「いわゆる巷で言われる霊能者の霊能力ととりわけ関係が深いのではないか」「重度の心因反応・感情障害・統合失調症・脳の器質的疾患などがある場合がある」あるいは「霊能者とされる者には脳の共感覚がある」とする仮説を提示する者もいる。だが、その説もあくまで仮説や推測どまりであって、それによってたしかに一部の事例の説明がつくことはあるが、大規模で網羅的な調査が行われているわけでもなく、世に存在する霊能者とされている人々全体のことはよく分かっていない。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 22:13 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月29日

先生が人格を問われる時

ある高校で、吹奏楽の指導者として雇われた先生が辞めたいと言っているということで、その後任をやって欲しいという依頼があった。

練習を見に行ったら、生徒は二人しかいなかった。
練習に出て来る生徒が減っていったらしい。
何があったのかわからないが、指導の先生と生徒たちとうまくいっていなかったらしい。

とにかく引き受けてみることにした。
新学期が始まった。
この高校は八割が女子生徒で、女子高のようなものであった。
部員も全員女子だった。

全員女子というのは、男子もいるところや、全員男子というところとはまた違った雰囲気がある。
多少とも男子がいる場合は、女子は大人しくなるが、全員女子高生となると、元気がいいというか強くなるようだ。

やがて練習が始まった。
欠席者もなく、練習は普通に進んだ。
すると、何を目標にということになったが、吹奏楽部の場合はやはりコンクールという話が出てくる。
10年ぐらいは出場したことはなかったらしい。
それで、出場するということになった。
目標ができたせいか、まとまりも出てきた。

高校生の場合、少し大人になっているせいで、コンクールへの参加は中学生より神経を使わないで済む。

出てみると、どういうわけか1位で代表になってしまった。
念のために断っておくが、ここで私の指導がいいなんてことを言うつもりは全くない。
器の小さい人が読むと、すぐそういうところに目をつけるからである。
前にも言ったが、私は吹奏楽コンクールというものを、そんなに重要視していない。

ここで言いたいのは、代表になってどうのこうのということではない。
問題はその後のことである。

翌日、学校へいくと教頭がやや真剣な顔をして、私のところへやってきた。
開口一番

「ウチの学校は楽器なんか買えんからな」

だった。
そして

「会社を回っても、寄付なんかしてもらえん『お宅の学校だけじゃないですよ』と言われる」

などと、まるで、私が楽器を買ってくれとねだっているような口ぶりで、説得のような語り口でとくとくと話た。

私は、楽器を買って欲しいなんてひとことも言っていない。
そんなことより「ごくろうさんでしたね」と一言ぐらい、言ったらどうだと思った。

それが、常識的な言葉遣いではないのか?
私は「話の仕方」というものがわかっていない。これが生徒を導く先生かと思った。
口には出さなかったが
「あんたみたいな人が、お願いに行くから聞いてくれないんじゃないの?」
と思った。

最終的には、かなりの楽器が購入されたのだが、私は全く要望はしていない。

生徒たちは練習に慣れてくると、わがままが出てきた。
その内容は、ここでは紹介しないが、私はそのわがままを断固として聞き入れなかった。

理由は、頑張ればわがままは通せるということを身につけてはいけないと思ったからだ。
生徒の意見に耳を傾けることは大切だが、明らかにわがままとわかることは、許してはいけないと思う。
こういう感覚は、幼児が買い物の途中で母親におねだりをするのと同じような感じがする。
しかし、女子高生となると、幼児と違ってそのパワーはかなりのものである。

私が部員と何かもめている、ということを聞きつけた別な教頭がやってきた。
教頭は、私に妥協するように説得した。
私が妥協しないと思うと「ここまで作ってきたものを、今収めないとダメになってしまう」と何回も言った。

私は生徒を導くには、時には絶対に譲ってはいけないポイントというものがあると思っている。
嫌われようが何だろうが、間違っている路線に妥協しないようにしなければ、何のための指導者なのかということになる。
また、ここは譲るべきでないという自信を、現場で感じ取ることが指導者として力を発揮する場面だと思う。
だから、実践の場にいなくて「これこれはこうすべきものです」などと、何でもわかったような口をきく人は信用しない。教育の場に占い師は要らない。

教頭の説得に私は屈しなかった。
教頭のメンツは立たなかったかも知れない。

結果、どうなったかというと、生徒たちの方が謝ってきた。
私は怒って、しばらく練習へは行かないと言っておいた。

そうしたら、生徒たちだけでワイワイ議論していたららしい。
そして、結論は、先生にみんなで謝って復帰してもらうしかないということになった。

謝りたいので、来て下さいという連絡があったので、行ってみると、ドアを開けた瞬間全員がこちらを向いて頭を下げた。
何だか、私は体裁が悪かった。

私を説得に来た教頭は、私に会っても一言も何も言わなかった。
私は「どうだ、教頭」なんて言う気持ちは毛頭なかった。そんな失礼なことを言う気はない。
しかし、教頭は「やあ、よかった。君の言う通りだったな」ぐらいは言うべきではないのかと思った。
いや、そういうことを言って欲しいのではなく、教頭という上に立つ者はそういうべきでないのかと思ったのである。
ここでも、先生とはどうあるべきかという人格を感じた。

年度末になると、学校は就職のことで慌ただしくなってきた。
このところ、高校生の就職は難しくなってきている。

「就職先がなかったら進学する」という生徒の声も、何か変な時代だなあと違和感を持ったが、問題は進学もできないし、就職もできないという生徒だ。

私は就職係でもないので、何も心配することはなかったが、部員の中に進学もできない、就職もできそうもないという生徒がいた。
先生が大変心配していたので、つい「よかったら、私も力になりましょうか?」と言ってしまった。

余計なことと言われるかと思ったら「お願いします」と、渡りに船のように言われたので、すごく責任を感じた。
私とて、絶対就職させられるという自信があるわけでもなかった。

でも、言った以上はと思い、パソコンで援助しているある会社の重役に思い切ってお願いしてみた。
断られるかと思ったら、重役は少し考えていて

「その生徒は、ちゃんと通う生徒ですかねえ」

と言った。
即断るのは悪いと思って、少しクッションを置いたのかと思ったが、話しているうちにまんざらでもないという気がしてきた。
本当に、すぐ辞めてしまわないかという心配をしていたようだ。

そこで、私はその生徒を少し指導することにした。
通勤経路や定期券の買い方までしていた。
仕事は、あこがれの多い事務員だから問題はなかった。
学校に行くと、担当の先生に「雇ってもらえるそうです」と言ったら、大変喜んでくれた。

やれやれと思ったら、先生が私のところへやって来た。何を言うのかなと思ったら

「会社から学校に求人があると、就職希望の生徒には平等に知らせなければならないのです」

と言った。
なるほど、そうすると、必ずしも「あの生徒」が就職できると限らないのだ。
先生は、話を続けた。

sonkei.jpg「そこでですね」

「はあ」

「あの生徒を、会社から指名してもらえるようにお願いできませんか?」

ということだった。
その要望を聞き入れてもらって、その生徒はやっと就職が確定した。
まあ、それでいいのだが、吹奏楽部の顧問がやってきた。
お礼を言われるのかと思ったら、いきなり言われた言葉は

「あのう、吹奏楽部に入ると就職ができるという噂が立ってもまずいですから」

だった。
私としたら、それはないでしょうと言いたい。
まず、礼儀として一言「今回はありがとうございました」と言うべきではないかと思ったのである。
もちろん、そんなことを言って欲しいのではない。

大人としての当たり前の礼儀を知らない人が、先生をやっているということに違和感を持ったのである。

先生は先生である前に先生でなければならない

生徒は言葉で教わるだけでなく、日常触れ合う先生という人格からも学んでいくということを忘れていないかと思った次第である。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

posted by edlwiss at 23:08 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月28日

約束を守る〜それが信頼のもと

時間は早い遅いではなく、守ることが大切

私は数年前、あるボランティア団体の代表を急遽務めることになった。
始めは依頼されてお手伝いをしているだけだったが、いろいろな成り行きでそういうことになってしまった。

大人の団体を取り仕切るのは、子ども相手とは違っているところがある。
まず、会議への出席だが、午後1時半と決まっている時刻に遅刻する人たちがいた。

始めの会合で、時刻通りに始めて時刻通りに終わりたいから、遅刻のないようにとお願いした。
しかし、どうしても遅れてくる人たちがいた。
いわゆるおばさん連中である。

お化粧はきちんとしても、時刻に遅れてくる人がいる。
こういう大人の人たちをどうするか?

結論、遅刻が身についてしまっている人はあてにしないで事をすすめるしかない。
早い話が、学校のように教育する場ではないと考えていかねばならない。
そうしないと、いろいろなことに差支えが出てくる。

大人の場合、会議後、仕事などの都合がある人もいる。
開始時刻が曖昧だと、どうせ時刻通りに始まらないのだからという空気ができてしまって、遅刻する人が増える傾向もある。

ボランティアだからとかサービスだからという空気は困る。
何であろうと、引き受けた以上はいい加減は許されないと思う。

いわゆる一流企業などでは、遅刻は厳禁である。
きちんとした服装で参加することも要求される。
遅刻したら、入れてもらえない場合もある。

トヨタ自動車はカンバン方式で有名だが、決まった時刻に部品が納入されない場合は取引停止になる。

オーケストラでは、遅刻するとクビの対象になる。
実際、プロオーケストラで遅刻してクビになった人を私は知っている。

プロでなくても、オーケストラの遅刻は禁物である。
私はクラリネットを演奏しているが、参加するときは少なくとも1時間前には会場に行く。

オーケストラはざっと100人位の集団だが、フルート、オーボエ、クラリネット、バスーンといった楽器は二管編成といって二人ずつの場合が多い。
100人いるのだから、一人や二人という感覚は許されない。
例えばクラリネットは二人といっても、二人が同じことをやっているのではない。
自分のパートは自分しかやっていないことが多い。

つまり、オーケストラにおいて管楽器はソリストであり、一人欠けることでも演奏会はパーになる。
だから、遅めに行ったり、遅刻したりすれば、他のメンバーに非常に不安を与える。
オーケストラのメンバーは自分のことしか考えていない人は、参加できない。

これはオーケストラの話だが、チームで仕事をするということは、結局そういうことである。
会社において、時刻をいい加減にする人は、信頼がなくなり結局、仕事がなくなる。

ボランティア団体においても、同様である。
私が参加していたボランティア団体は、市の認定団体で、少しだが予算化されていた。
少しの予算といっても、元は税金だから会計はきちんとしなければならない。
年度末には会計監査があり、これには神経を使う。

市の認定のボランティア団体は10ほどあったが、毎月代表者会がある。
いい加減な団体は、卑近な言葉で言えばナメられる。

いい加減な団体とは、活動のいい加減な団体であり、それは開始や終わりがいい加減な団体である。

時刻について甘い人は、公的な活動をしたことがないか、責任ある立場で仕事をした経験がないのだろうと思う。

会場を使う場合、開始と終りはきちんと決められており、延長すれば延長料金になるし、後に別な団体が控えておれば、絶対に延長できない。

kimaritosinrai.jpg時間を守るということは、約束を守るとかきまりを守るという最も基本的なことであり、それをルーズにすることは、如何に悪影響をもたらすかということは、まともな活動をしている人たちはよく周知している。
企業では最終的には営業利益に結びつく。

トヨタではカイゼンという言葉もあり、改善により何秒短縮できたかということも見直しの成果としている。
トヨタと同じことをやれということではないが、失われた時間は取り戻せないということを考えれば、時間にルーズではそれが他にも悪影響をもたらす。

これは決まったことを守らないということに通じ、信頼をなくすことになる。
大切なことは、約束を守るということであり、特に、高度にシステム化されてきた今日の社会では非常に重要である。

今日の高度なシステム化は何かとつきつめると、コンピュータ化であり機械化である。
コンピュータも機械も信頼性が増す中で、最も不安要素は人間である。

簡単にいえば、機械はあてになるが人間はあてにならないかも知れないということである。

そういう不安を持たせない人とは、約束を守る人ということである。

部品の納入が早いので、納入先と交渉し、納入先が納入時刻を遅くしてくれたとしたら、その時間を守るということが大切であり、納入先としてはその時刻をあてにして計画を組むのである。

取引先と単価を交渉する場合、受け入れる方はなるべく安く、収める側はなるべく高くが常である。
これも、納入予定という時刻が関わってくる。
予定通り納入しない取引先はダメな会社である。
単価が高くでも、予定通り納入する会社の方が選ばれる。

情報デザイン

組織された社会や団体は、成員にきまりを浸透させることが大切である。
そのために、表や図を使ったりして直感的に認識できるように掲示したりする。

文章を読んで、理解しというのは時間がかかって効率が悪いからである。
交通標識はいい例である。
直感的に、停止するということがわかってもらわなければ、事故につながる。

デパートやスーパーに行けば内部の構造、つまり店舗がわかりやすいように図示してある。
トイレは「便所」と書いてあるところは少なくなった。直感的にわかるシンボルが多い。

このように、いかに効果的に情報を伝えるかという工夫を情報デザインと言う。
情報デザインという言葉は、高校の情報Aという分野で出てくる。

私も文章だけではなく、読者に伝えたいことを、できるだけ効率よく伝わるように図示する工夫をしている。

ところが、驚いたことに、こういう図示を形式だと言い、さらに形式主義だという人がいたのに驚いた。
情報デザインは形式ですか?

図示することは、視覚に訴えることで曖昧なことをはっきりさせる効果があるのだが、きまりを図示することが形式主義だとは呆れた。
しかも、きまりを守ることは人間味がないなどというようなことを言い。きまりを守らないことが思いやりで、守らなくてよいとまで言うのには、もはや、驚きを通り越して壊れているのではないかと思った。

こんなことを言っている限り、学校の信頼はどんどん低下するであろう。
学校と言ったが、学校という人間がいるわけではないので、一人の無責任な発言が学校全体の信頼低下に繋がるのは罪が深いと思う。もちろん、学校の教師でない人の発言なら、非常識な人がいるものだで済むだろうが、教師だったら非常に問題だ。
もっとも、今日、学校の地位は低下しているのかも知れないが。

さらに、輪をかけて驚いたのは、形式を重んじることは内容(中身)を軽んじることだという。
本当にそうなのか?

いや、ちょっと考えて見ればわかると思うが、形式と中身は関係ない。
形式重視が中身の劣化になると言うなら、形式をいい加減にしたら中身はよくなるか?ということだ。

結論は言うまでもない。
これは、もともとAかBかという話ではない。

教員はもっと社会に目を開くべき

ボランティアのような社会活動に参加すると、いろいろな職業の人が集まってくる。
そこで、気になる話題は概して、教員、元教員は使いにくいということである。
これは、聞くたびに耳が痛い。
そして、決まり文句のように言われるのが「先生、先生と言われ続けられてきたのがいけないのではないか」ということである。

具体的に何が問題になるかと言うと「一度言い出したことは、変えない」ということである。
言葉を変えれば「オレが法律だ」と言っているようなものだ。
とにかく、先生が入っていると、話がまとまりにくいということである。
これは、協調性が悪いということになる。

だから、定年後、使う人材において、警察官と教員の使い古しは役に立たないと言われるのだろうか?

もちろん、全ての先生がそうであるとは言わない。そういう先生がいるから「先生は」と言わせてしまう原因になるのである。

でも、私の知っている元校長は大変頭が低く、世間の評判がいい。
定年後も能力を買われて引っ張りだこである。
頭がいいと感じる人で、まさに「実れば実るほど垂れる稲穂かな」を思い出す。

細木数子さんのような人は、凡人ではわからないような何かを知っているのだろうから、ああいう言い方になるだろうが、そういう人は学校に必要ないのではないか?

もっとも、職員室の前列に水晶玉を持った人が、指示するような学校はおもしろいかも知れないが。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 22:33 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月27日

時間が足りない時はどうする〜パソコンを活用しよう

私のブログを読んでいただいて、音楽に携わってみえる方は、スコアを作る時どうしてみえるでしょうか?

吹奏楽やオーケストラ、アンサンブルを編曲したりする時、フルスコアを書くまではいいのですが、その後パート譜を作るのが大変です。

手書きのスコアをコピーし、ハサミとノリでパート譜を作るなんてことを、始めはやっていましたが、なかなか大変だし、手書きの楽譜は見にくい。

私は元来、怠け者なので、めんどうなことにあたると、なんとか「しかけ」で合理化できないかと考えるクセがあります。

そして、パソコンでなんとかしようと思ったとき、周りにそういう人がいないので、必然的に自分で孤独になって取り組むことになります。

ワープロなんか、今はパソコンでというのは当たり前の時代ですが、私が始めたときは、今のワードや一太郎とかいうワープロソフトはありませんでしたから、もっと原始的なプログラムを使っていました。

それで指導案を書いていたら、校長が横目で見て、その時は何も言いませんでしたが、ある印刷物に「今の若い人は機械を使って怠けようとしている」なんて書かれました。
その校長が、何年も立つと「ワープロぐらい使わない人は・・・」なんて言っていましたから勝手なものだと思いました。

音楽関係の方、楽譜は何で作ってみえますか?

Finale.jpg
私の場合はFinaleというソフトを使っています。もし、使ってみえるという方は情報交換をお互いにしたらどうでしょう。

私がFinaleを使い出した頃はWindows版はなくてMacintosh版でした。しかも、日本語版なくて、国内では売っていませんでしたから、アメリカから買いました。
16万円ほどしました。
ダンボールに英語の解説書が5冊ほど入っていました。

現在はWindows版もMacintosh版も同梱されていて、ずっと安くなったし、教員、学生はアカデミックパックでさらに安くなるからいいですね。
ただ、Finaleも最近はSibeliusという強力なライバルが出てきて、こちらもなかなかいいと思います。
でも、私は使い慣れたFinaleをバージョンアップしています。

Finaleに落ち着くまで、いろいろな楽譜制作ソフト(ノーテーションソフト)を使いましたが、結局、使えるのはFinaleかSibeliusのどちらかしかないと思います。
プロ用で耐えうるのはこれしかないということです。

下の動画はFinaleで書いてみたものです。
その下はカラオケ版を作ってみたものです。





教員をやっているなら、文書を作ることは多いので、印刷物を制作するのにそれなりのソフトに投資することは意味があるというより、今や道具の一つでしょう。
エクセル、ワード、パワーポイントといったところは、当たり前に使われていると思います。

しかし、教員だったらもう一歩進んで、ワードではなく、Illustrator、Photshop、Indesignを使う方がいいと思います。
使ったことがない人は、高いと思われるでしょうが、それなりのものです。
使い慣れるにも少し手強いですが、これから何十年も教員をやっていく人なら、有効な投資だと思います。

Photoshopの代わりにGimpというフリーのソフトでも十分間に合います。
Gimpはフリーなのに、Photoshopにひけをとりません。
私はGimpを常用しています。

作業はパソコンで効率化し、創造的なことに時間をかけることが時間の有効活用だと思います。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 22:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | パソコン

2011年03月27日

完璧を求めるあまりに人をダメにする

完璧を求めるあまりに人をダメにするとは、セルの元で演奏していたことのあるヴァイオリニストの言葉であるが、私はこの言葉にドキッとした。

それは、プロの世界だから、指揮者に気に入らなければクビになってもしょうがないと片付けられることではないと感じたのである。

よく、読書をするように勧められることがある。また、音楽に携わっている教師であれば、たくさんの音楽を聴いたり、自ら演奏活動の経験をすることは大切なことだろうと思う。

しかし、馬の耳に念仏という言葉があるように、自分が馬の耳であったら何にもならない。

それはプロの世界のことだとか、ネコとクジラがどうして同じなんだなという思考回路では、いくらたくさんの情報を得ても無意味だろう。

「あいつは、いい生徒を集めている」

とは、私がよく言われたことである。

この言葉の中身を追求すれば

「あいつは、いい生徒を集めているからできるんだ。オレのところはいい生徒が集まらんからうまくいかない。いい生徒さえ集まれば、オレなんかもっと・・・」

ということなのだろう。

これは、裏をかえせば、自分の指導力のなさは考えてみないということではないか?

こう言うと、穿った見方をする人の中には、自分の自慢だととる人もいるようだが、私は自分の指導が優れているなどと思ったことは一度もない。
私の指導の基本は、前にも述べたが伸びる芽を摘まないということである。いかに指導者が邪魔をしないかということである。
だから「オレがオレが」という人は好きではない。

ある中学校で、成績のプログラムを依頼されたことがある。
成績のプログラムと言っても、テストの結果やその他のデータを合わせて、ちょうど病院の患者のカルテのようなものを作る考えだった。

言われるように作ってみると、A4の用紙に成績一覧と偏差値やグラフなど、その生徒の概要が印刷されて出てきた。

その出てきたものを見た時、私が即座に感じたことは「こんな風に生徒を見るのはかわいそうではないか」ということだった。
いい悪いというより、直感的にである。

まるで、車の性能評価のように見えた。

一見、便利なもののように思えるが「これが人間の全てか?」と思ったこと、そうではないと否定したところで、これが一人歩きしたらかえって否定する材料、欠点は何かというところばかり探すものになりはしないかと思ったのである。

いいところも出ていると言っても、それでは、励ます材料に使うのかというとはなはだ疑問に思った。

aa_kantoku.jpg
教師は保護者と懇談するとき、どんなことを話すのだろう?
成績を見れば、当然、親子ともども気になる。
何が気になるか?
だいたい、悪いところが目につくように思う。

「あら、よかったねえ」

という母親は、私の経験ではまれだった。

指導の基本として叱るよりほめろという言葉があるが、いいところを見つけてほめるというのはやさしいことではない。それに、もっとという欲があるせいか、ほめていては生ぬるいという気持ちがあって、つい叱るというか悪いところをつくということになってしまう。

指導に長けた人はほめ方がうまいと思う。
ほめ方がうまいというのは、ほめる技術ではない。
ほめている言葉に説得力があり、迫力を感じる。

これは、私自身、恩師から経験している。
厳しかったが「そうだ、それでいいんだ」とはっきり言われると、驚くと同時に、すごく自信がついたものだった。

それは、内容がすごくわかっていて、その変化にすごく敏感で、すかさず良い変化を指摘するというようなものだ。
だから、ほめる効果というのは、ほめる人がよくわかっていなければ効果がない。
よくわかってもいない人から、ほめられてもあまり嬉しくないのだ。

それをわかっていない人は「むやみにほめてもダメだ」なんて言う。

sonotoki.jpg間もなく、プロ野球も開幕であるが、プロの世界では監督、首脳陣のお目にかなわない人は、トレードや戦力外通告されたりする。

しかし、プロというのは、ある一定以上のレベルを持っている。
だから、本当に実力を発揮したら、平凡とみえる選手でも驚くほどの活躍をすることがある。

楽天の山崎選手は、戦力外通告を受けてから楽天に入団し、野村監督の元でワームラン王をとった。
元・読売巨人軍の広岡達郎氏は監督した球団すべてを優勝させたように思う。

学校の教師と生徒の関係は、このようなプロの世界ではないが、名監督、名指揮者、つまり名リーダーの人格と采配、その配下で働いた人の活躍や言葉は、指導者たる教師にも得るところが多いと感じている。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 15:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月26日

見失ってはいけないもの

ikikata.jpg
世の中にはいろいろな人がいて、うまくいったときに「よかったね」といってくれる人がいるかと思えば、皮肉めいた嫉妬のようなことを言う人もいる。

嫉妬でも「そうなりたいねえ」という類のものはいいが、何かアラ探しをしようとしているとしか思えない発言や、自慢をしているように言う人もいる。

私はスケールの小さなことが嫌いで、このように「人間が小さい」「器が小さい」と感じる人が大嫌いである。

学校の先生は、それぞれ担当の教科があって、それを唯一の自分の砦にしているように見える人もいる。
そして、よく「専門」という言葉が出てくる。
私は、小中高の先生が、教科について専門というのには違和感を感じる。

誤解のないように断っておくが、違和感を持つというのは、私がそう感じるということであって、言いたい人がそう言うことについて異論を唱えるものではない。

中学校時代の恩師で、毎日理科室で研究をしていて博士号を取った先生がいた。
凄い先生だなあと思ったし、こういうのは専門だなあと感じる。

知人で、教科は音楽なのだが、英語にめっぽう強い人がいて、吹奏楽部の指導をしていたが、英語がわからないという生徒に英語を教えていた。
それで、生徒は英語の成績が上がったのだが、それを不愉快に思っている英語の先生がいた。

こういうことを知ると、先生という社会は狭い社会だと感じる。
教科がなんであろうと、いい指導している人がいたら、それを学ぶという姿勢がいいと思う。
でも、先生という社会は、互いに他の教科の砦に入ることはまずいらしい。

そういう私も、大学での専攻は音楽ではない。
ただ音楽が好きでやっていただけだ。
しかし、先生になったら使う方が「こいつは音楽ができるらしい」と感じて、使われてしまっただけだ。
力をつけたいなら、狭い教科の砦に閉じこもることなく、学べるところはどこからでも学んだ方がいいと思うのが私の生き方で、音楽の先生と思っている人もいるがそんなことはどうでもいいと思う。

子どもの頃から工作が好きで、それが電気工作の方に特に興味を持つようになった。
中学校では、工学部の電気科出身の先生がいて、その先生がオーディオの自作をしていたので、その影響を受けた。
理科の先生だが、音楽が好きな人で、自分の作った装置でたくさんの曲を聴いていた。

私もアンプをたくさん作ったが、音源がクラシックの録音なので、必然的に私もそれを通して音楽を聴くようになった。

日本の電気製品は世界的に有名だが、オーディオとなると必ずしも強くなかった。
それは、日本ではオーディオ製品を測定器だけで作っているだけだからと言われ、技術者が音楽を知らないからだとも言われてきた。

だから、専門ばかりに閉じこもっていると、よい製品が作れないように、指導者もいろいろなところから学ぶ方がいいと思うようになった。

ところで、指導者となると「オレが教えた」とか「オレが育てた」とか言う人がいるが、私は、恥ずかしくてとてもそんなことは言えない。
前に書いた記事で、運良くコンクールを通過したというのも、運も重なったのだろうが「捨ててかかれ」と言われた生徒たちを見たとき、これは素晴らしい子達たちだ、嫌われても精一杯やらなければいけないと感じただけで、私の信条「誠実」に基づいて行ったことだ。
精一杯やっただけで、生徒たちの能力をどれだけ生かせたのかはわからない。
いや、むしろもっとわかっている指導者なら、もっといい結果を出せたのだろうと思う。

「誠実」は信条だが、指導の理念は生徒の伸びる芽を摘まないことである。
私にとって「オレが教えた」というのはとんでもないことである。

だから、生徒の中には「オレが教えていたんでは、いけないのではないか」と思う生徒もいる。
それで、先生を探してお願いした場合もある。
その結果、生徒が才能を伸ばして立派になって有名になると、たまに、私が教えたと勘違いする人もいるが、これは生徒にとって、とても迷惑な話である。

==========================================================


吹奏楽コンクールと言うと、吹奏楽の世界を知らない人からしたら、何か凄いコンクールのように思う人がいるかも知れないが、そんなに凄いものでもない。

「吹奏楽の甲子園」と言われると紹介していた人がいたが、とてもそんなものとは言えない。
高校野球は、プロへの登竜門になり得るが、吹奏楽コンクールは全くそうはならない。
全国大会金賞だったら、プロから声がかかるかと言ったら、全くそういうことはない。

子どもたちがそのコンクールで賞をとることに、価値を感じていたら、目標として価値があるかも知れないが、広い意味で音楽を目指すとしたら、そうでもない。

たまたま、代表になって嬉しかったという時もあるが、そうでない時もある。
あるコンクールでは、演奏後「○○中学校は、絶対に3位までには入るからいいねえ」なんて囁かれていたとき、結果、全くそのランクでない時もあった。
発表で、自校の生徒ではなく他校の生徒が泣いていたのが印象的であった。

この時は、私もさすがに頭に来て、翌日の練習にやる気が出なかったので、生徒たちに「今日は練習止めようか」と言おうと思っていたら、いつもと同じように楽器を準備する生徒たちを見て、自分が励まされた。

いわゆる、教育ママは多い地域だと聞いていたが、学習塾に通う生徒は部活内にはほとんどいなかったように思う。
しかし、先生についてレッスンを受ける生徒が多くなった。
私が勧めたということは全くなかった。

つまり、生徒が音楽を好きになったということは確かであり、そういう意味ではコンクールの賞はあまり関係ないと感じました。
むしろ、賞にこだわる先生の方が恥ずかしいと思いました。
スポーツでも同様なことが言えるのではないでしょうか。
昔から「勝負は時の運」と言います。負けたからと言って、嫌いになるものではないのではと思います。

ある日の土曜日、今日は練習時間があると思って音楽室に行ったら、生徒が一人しかいないということがあった。

「みんなどうしたんだ?」

と言うと

「レッスンです」

というので、まさかと思って調べてみると、レッスンのない生徒一人をおいて、あと全員がレッスンに行っていたのでびっくりした。

子どもの方が親にお願いして、レッスンに行かせてほしいと言ったらしい。
親もそれをよく承知したものだと思った。

そんなわけで、進路に音楽を目指す者が多くなって、私も驚いた。

==========================================================


吹奏楽は行事には便利だが、いわゆる大作曲家の作品が非常に少ないのが欠点だと思う。
必然的に、編曲が多くなるが、バッハの「トッカータとフーガ」とかワーグナーの
作品とか、チャイコフスキー、ラヴェル、近年ではバルトークの「中国の不思議な役人」
などやっているが、無理をしていると感じる。
余談だが「中国の不思議な役人」を中高生にどう指導しているのか、私には想像がつかない。

それに、吹奏楽はどうも変ロ長調の臭いが強く、吹奏楽自体を否定するつもりはないが、いくら好きなカレーでも1週間以上も食べていると・・・という感じがないわけでもない。
変ロ長調の臭いが強いというのは、楽器自体が変ロ長調が多く、転調しても変ロ長調の倍音が出てしまうからだと思う。
そのせいか、最近ではトランペットにC管を使ったりするところもある。
また、編曲の時、原調ではない調に移調してしまうことがあって、これがなんともしっくりこないことがある。

そういうせいか、先輩たちは、吹奏楽をやめてオーケストラに移行した人たちがいる。
当市でも、吹奏楽だけでなく、オーケストラを推進していく傾向はこのところ多くなっている。

私の場合は、オーケストラに興味は持っていたが、生徒や保護者の意向が吹奏楽という方向だったので、そのまま続けていた。

ところが、部活が安定してきたところで、オーケストラから声がかかった。
オーケストラの指導でなくて、演奏者としての勧誘だった。

==========================================================


このブログは私の体験をもとに書いているものであって、私のやり方がいいなどと言うつもりは毛頭ありません。

たとえ、部活は違っても、あるいは指導においていろいろ体験を積まれた方、そうでない方でも、誹謗中傷を目的としない方のご意見は率直に賜り、勉強させて頂きたいと思います。

しかし、無責任な空想を元にした意見や占い師のような意見には関わりませんので、よろしくお願いします。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 16:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月25日

教育に占い師が必要か?

駅の近くなどで易者と言われる、人の運勢を占う人を見かけることがあります。
どのくらいのお客さんがあるのかわかりませんが、易者の言い方は

「今の仕事はお続けになった方がいいですね。来年の春頃から、順調になります」

といった風です。
特徴は、なぜそうなるかという理由を言わないことです。

でも、占ってもらった人は信じるようです。
なぜ信じるのでしょうか?

それは権威を感じているからではないでしょうか?

あの独特な帽子のようなものをかぶって、黒い服を着て、ちょっと薄暗い照明で、何というんですか竹の束を持って、それを束ねたり広げたりして、おもむろに話をする。

いや、そういう人を私は軽蔑しているわけではありません。

私なりに冷静に考えてみると、占っている人がどういう人か知っているわけではありません。
初対面なわけです。
しかし、ああいう格好をすることで、何か未来を予測できるとか、世の中の仕組みを知り得ている人と信じてしまうという威厳や権威をかんじるのではないでしょうか?

だから、占い師の言葉に根拠は要らないのだと思うのです。
まあ、たまに

「あなたの家には、庭に井戸があるでしょう?」

「はい」

「その井戸が原因なのです」

のように、一見、根拠のようで根拠でないようなことを言ったりします。

これは占いのプロの世界ですが、学校にこういう人が必要でしょうか?
教育にこういう人がいたら便利でしょうか?
でも、教育界が必要としているかしていないかに関わらず、こういう人はいるものですね。

しかし、私は「こういう人はどこの学校にもいるものです」なんてことは言いません。
だって、私は日本中の学校を知らないですから。
それでも、見たこともない日本中の学校のことや、会ったこともない人間のことがわかる人がいる。
そして、こういう方は、教育を「お告げ」のように語っているように、私は感じます。

「生徒を○○すると、将来□□のようになります」

何かひらめくんですかね。未来の予言までできてしまう。
テレビで、事件解決のために、インスピレーションで、誰々が何処にいるなんて予想してしまう外人を観たことがあります。
霊能捜査官と言うんだそうですが、教師だったら霊能教師とでも言うんでしょうか?

私にはそういう、お告げを言えるような不思議な力はありませんから、試行錯誤で実践するしかありません。
しかし、試行錯誤でやっていると、全然違った方向のことをやっているかなと思ったりして不安になります。
だから近隣の中学校4校で、一緒に演奏会をやったり、お互いに指揮を交代したり、日頃の活動のことを話し合ったりして、自分のやっている方向が間違っていたり自己満足に陥らないようにやってきました。

それでも、先生が4人いるとみな性格も違うし、指導方法も違うし、目のつけどころも違います。
それがいいところなのですが、指導方法を真似してもうまくいくものではありません。
その先生とそっくりとって代わるようなことは出来ません。
よく、厳しいとか優しいとか言いますが、厳しいと言われる人の中にも、いろいろなタイプがいます。

先に例を挙げた指揮者セルは厳しいと言われましたが、トスカニーニも厳しさで有名だったようです。
でも、トスカニーニは叱るときは、あっさりした叱り方だが、セルの場合は執拗な叱り方をしたそうです。
厳しいと言えば、ソ連にムラヴィンスキーという指揮者がいました。
この指揮者は練習が多く、非常に細かいところまでこだわったと聞きます。

ショスタコーヴィチが自分の作品の練習を見に行ったとき、ムラヴィンスキーの練習を見て「私は、あの指揮者が何であそこまでこだわるのかわかりません」と言ったそうです。

厳しい指揮者がいる一方で、穏やかな、優しいと感じる指揮者もいます。
それはそれで、またいい演奏があります。

これらは名指揮者の世界ですが、いろいろな個性があり、意地の悪い指揮者など性格的には問題があると思われる人でも、人気があります。

もちろん、名指揮者のように練習はできませんが、普通だったら非難されるような性格でもなぜ通用するのかと考えると、それはスーパースターだからだと思いました。

choBakanokabe.jpg養老孟司・氏の「バカの壁」を読むと、バカな人ほど「知っている」と言うし、単純に結論を出してしまうということがわかります。
これは、ソクラテスの「無知の知」に繋がるところがあると思います。

また、学問とは「共通な部分を見つけることでもあり、それが人間の高度な知的働き」であるということが書かれています。
知人に何でも「知っている」とすぐ口を出す、バカ殿のような人がいます。
周りの人は、その態度を軽蔑しているようですが、本人は、それで偉くなったように勘違いしているようです。

「ネコとクジラが似ている」と言ったら、どう感じるでしょう。
人様々な反応を示すことが予想されます。

「そんなわけはない」と言う人にも「どちらも、乳を飲んで育つ」と言うと、なるほどと大抵の人は理解しますが「似ているわけないじゃん」から一歩も変わらない人もいます。

学問では、乳を飲んで育つ動物を哺乳類として分類しているわけです。
すなわち「哺乳類という集合」なわけです。
最近は、こういう集合の概念が理解できないか、集合の概念がめちゃくちゃになっている人が多くなったと感じています。

「同じわけない」という人たちに対して、養老氏は答えを準備しています。

「それでは、同じリンゴは一つもないのに、それらのリンゴを一括りにして、我々はなぜリンゴと呼んでいるのだ」

と。

スーパースターの指揮者は、もちろん我々とは違います。
4人の先生のやり方も違います。
優れたセールスマンの話を聞いたところで、同じようにはできません。

でも、そこから共通な部分を発見することで、勉強になります。
数学で言えば、最大公約数を探すようなものかも知れません。

私は優れた指導をしている先生に共通なところを発見しました。

それらの先生に共通したところは「学生時代にクラブ活動のリーダー」を経験してきているということです。
そして、その活動の中で、様々な苦労をしてきているということです。

それに対して、親があれこれめんどうを見て、お坊ちゃんのように育ってきた人はうまくいっていません。
こういう人がグチを言う中身は、大抵「生徒がよくない」ということです。
将来、中学校の先生になって行ってバンドの指導がしたいという本人が目標を持っている。
だから、力をつけるために、いろいろな先生のレッスンを受けて、本人は大学のクラブ活動には、時間のムダだ、俺は違うなどという意識で参加しない人です。
人間関係の難しさを経験してきていないので、苦労がないわけです。

ある学校へ、大学でもリーダーの経験をし、クラブを率いていた人が先生になってきました。
部活はまったく酷い状態の学校でした。
その先生によって改革が始まりましたが、それは素晴らしいものでした。
演奏が素晴らしいものではなく、これは将来素晴らしくなるぞと予感させるものでした。

コンクールへ出場したので、私は関心を持って聴いていました。
演奏は御世辞にも良いと言えるものではなかったが、その先生の良い指導は感じられるものでした。

審査の結果は、最下位でした。

生徒たちはショックで少しは反省するのかなと思っていたら、聞こえてきたのは「私たち指揮者がわるいもんで、いい賞がとれない」というものでした。

先生の気持ちを察するものがありましたが、この先生はただ者ではないと感じている人は多かったと思います。
5年ぐらい経ったかなあと思いますが、この学校は全国大会の常連になりました。

火中の栗を拾わないような、実践のない人、特に人間関係の苦労をして来なかった人ほど、自分は何でも知っているような言い方をするし、それはあたかも占い師のように見えます。

学校に占い師が必要なのでしょうか?

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 13:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月24日

組織の高め方

オーケストラの指揮者は非常に強い権限を持っています。
似たように、先生と生徒の関係でも、先生は強い権限を持っています。
少し違うなと思うのは、指揮者は絶対なのに対し、先生はそこまで行きません。

ここで、絶対というのは抽象的です。
指揮者が絶対というのは「オレがこうだ」と言えば、理由なんか要らないということです。
もちろん明らかな違いを曲げることはできませんが、指揮者が「オレはこうしたい」と言えば、みんなは従うだけです。

音楽監督となれば、通常、人事権まで持っていますから、気に入らない奏者はクビにすることができます。
一例を挙げると、アメリカのクリーブランド管弦楽団を世界の一流までに育てた、ジョージ・セルという指揮者がいました。

彼は演奏の旅行中、ナチを恐れて、帰国するのをあきらめアメリカに永住することを決意し、クリーブランド管弦楽団の音楽監督になることを決意し、クリーブランド市も彼の要望を聞き入れました。
セルが就任すると、間もなく楽員の2/3が入れ替わったと言われます。

冷たいほど完璧主義者で、同オーケストラにいたあるヴァイオリニストは「セルは完全を求めるあまり、奏者をダメにする」と言っていたそうです。

一切、妥協を許さない態度は非人間的とも思えますが、セルが就任してから間もなく、オーケストラは評判になり、CBS-SONYが録音を申し出るなど、財政も豊かになりました。

harusai1.jpg「クリーブランドを知らない人は、音楽を知らない人だ」のようなキャッチコピーがあったような気がします。
残念ながら、私はセルの生演奏を聴くチャンスには恵まれませんでしたが、完璧主義者としてセルと気があって、よく同行していたピエール・ブーレーズの指揮でストラヴィンスキー「春の祭典」を聴いた時は驚いたというより衝撃を感じました。

指揮者は独裁者のようなものであり、そのような振る舞いをしている先生がいるかも知れませんが、全く同じではないと思います。
しかし、共通点は多いと思います。

さて、私はコンピュータのようにはいかない、集団を統率するということに興味を持ちましたが、基本的な指導の流れは、集団が混乱している時、いわゆる荒れている時には、直接あらゆることのリーダーシップを取りましたが、集団(ここでは部活動)が平和になるに従い、生徒たちに権限をなるべく譲るという方法を取りました。

リーダーは、チームの大勢を整え、制度を作り、人材を育てる。
そうしないと、継続的に部活動の活動は向上しない。
既存システムを見直し、現状のよくないところ、目標を睨みながら重要なところから手をつける。
部活動が順調に動き出したら、生徒でできるところは生徒に任せて、先生は先生でなければできない創造的な部分にエネルギーを費やすようにする。
士気が低下していると感じたら、コミュニケーションを取りながら改善をする。
活動の中で有能な生徒を発見したら、そういう生徒を生かすようにする。


まとめるとこのようになる。

吹奏楽部では、活動の状態がよくなってくる。具体的には音がきれいになってくると、おもしろいことに、部屋もきれいになってくることに気がついた。

ゴミは落ちていないようになるし、椅子のカバーが切られていたものが、縫ってある。
誰かが花を飾ったりする。
来客があると、自然に接待が行われる。

ある人にこんなことを言われたこともある。

「先日、お伺いしたときには、子どもがお世話になりまして」

私は全然知らなかった。
その人は、小さい子を連れてきたのだが、その子の世話を生徒がしたことでお礼を言われたのだ。

行きつけの楽器店に寄ったとき、こんなことも言われた。

「この間、学校の帰りに生徒さんたちが寄られて、部屋を貸してほしいと言うんですよ。何かなあと思いましたら、今日の練習で、先生が気に入らなかったようなので、練習をしたいと言われるんです」
楽器店の部屋は有料なのだが、楽器店の主人は、生徒たちの気持ちを汲んで貸してくれたようで、恐縮してしまった。

しかし、この学校に赴任した当時は順調とはいかなかった。
先輩や、吹奏楽の先生たちからは

「今度、○○中学校へ転勤だそうだな。でも、今いる生徒は捨ててかからなきゃだめだぞ」

と言われていた。
初めての年は、一生懸命やっても生徒たちには受け入れられないというのだ。
経験談を聞くと、例外なくひどい反発を食らったようである。
私は肝に命じて、適当に仲良くやっていこうと考えていた。

ところが、音楽室で並んだ生徒たちを見たとたんに「捨てるなんてことはできない」と思った。
何と言うか、表情とか目つきを見て、とてもそんなことはできないと感じた。

いろいろ頭で考えていても、人というものは、実際に面会してみないとわからないものだ。
だから、見たこともない会ったこともない人間を想定して、あれこれ言う人を私は信用しない。

変な話だが、我が家にはメス猫がいて、子どもを産んだ。
一度に5匹生む。これが1年に3回だから、毎年15匹の子猫が誕生する。
子猫をなんとしても、誰かにもらってもらわなければならない。

小さな商売をやっていたので、来るお客さんに。

「猫、もらってくれない?」

「ネコお〜!?」

欲しくないけどという感じだ。
すると、聞こえたのかどうかわからないが、親がスタスタとやってくる。
お客さんがそれを見て、

「このネコの子!?」

「そうです」

「ほんならちょうだい!!」

と、こんな具合で子猫がもらわれて行った。
我が家は猫の親戚がいっぱいになった。

猫、そんなものはいらない、と考えていても、実際に見ると気持ちが変わる場合があるのだ。

人が受け入れる情報は、文字や言葉だけではない。
実践者ならこういう感覚はよくわかるはずだ。

私は反発されても、部活動を真剣にやろうと思った。
まだ、コンクールで一度も代表になったことはなかった学校だった。
生徒たちは、そのことで近隣の学校にコンプレックスを感じていたようだった。

私としては、吹奏楽のコンクールは何か変と感じていたので、コンクールそのものはどうでもよかったのだが、代表になって喜ばしてやれないかと考えた。

それで、本気を出して練習にかかった。
そうしたら、先輩たちの言った通り、かなりの反発に遭った。
部活ノートというものを作っていたが、いろいろと書いてあった。

困ったことに、男子の部長は、先生が張り切っているということを喜んでいて

「先生は、練習を厳しくやると言っていたが、甘い。たるんでいるヤツは運動場を走らせると言ったが、全然やっていない」

と書いてきたが、女子は逆に練習が厳しいと批判した。
特に、女子はこういう時、グループになって団結するようだ。

ある日、準備室に行ってみると、机の上に封筒がおいてあった。
開けてみると、ある女子が書いたものだった。
「練習が厳しすぎるとか非人間的だ」などということが書かれており「これからもこういう練習を続けるなら、顧問として認めません」ということも書いてあった。

それは三年の生徒だったが、もうすぐ修学旅行という時だった。
私は、こんなことを書いて、修学旅行に行って、もし思い出して気にするようなことがあったら、楽しくないだろうとと思って、彼女を準備室に呼んだ。

彼女は深刻な顔つきでやってきた。
私は次のように言った。

「読んだよ。それで、先生は反省した。自分のよくないところがわかった。ありがとう。
直すようにしたいと思うので、これからもよろしくお願いしたい」

彼女がどう受け取ったかはわからないが、私としては一応、けじめをつけたつもりだった。

その後、国語の先生から「オー、やっとるな」と言われた。
何かなあ、と思ったら生徒たちは、作文で私の批判を相当書いたらしい。
その内容は見せてもらわなかったが、なかなか激しいものだったようだ。
そのせいか、生徒たちの作文力の向上に私はいくらか寄与したようだった。

この時は、まだ部員が少なかったので、コンクールのメンバーの半分は1年生で埋めなければならなかった。全員が1年生というパートもあった。
こういう状況だから、生ぬるい練習では勝てないと思ったので、練習はかえって厳しくなった。

それでも、なんとかコンクールの日を迎えた。
この地区は強豪が多かったが、結果は、なんと先輩たちの学校を差し置いて代表になってしまった。
発表のあと、3年生の女子たちがロビーで泣いていた。

私の指導がいいというわけではない。
私は、生徒たちと初めて会ったとき、この子たちはなかなかの者と感じたのだ。
真剣にやればかなりの力を発揮すると感じていたのだ。
中学生にしては、大人っぽいなあと感じていた。

次の日から、生徒たちの態度は一変した。
しかし、私は内心、代表になれなかったらどうしようと思っていたので、ホッとした。

女子生徒たちとも仲よくなれて、よかったと思った。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 19:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月23日

使わない歯車は錆びる

機械は使わないと、歯車は止まったままで錆びついたりする。
同様に、いくら立派な組織を作っても、その組織を使うことがなければ、組織は機能しないのはもちろんのこと、組織の存在自体が忘れ去られてしまう。

新学期になって、組織づくりは行ったが、活用されず組織票表が掲示されているだけに終わったことはないだろうか?

このところ、私は部活の運営に関わることを書いているが、これは部活動の運営について、研究報告をするように言われたことがあるので、その時のことを思い出して、また新たな何かを見つけたいと思っているからである。

また、部活動が研究の対象になると思ったのは、80〜90人ほどの部員を、中学校入学時から卒業まで追跡できるというメリットがあるからだ。

部は吹奏楽部なのだけれど、コンピュータのようにはいかない人という不確定要素の多い対象をいかに統率するかというノウハウを身につけたいと思った。

「思うようにはならない」というのは、一般にやっかいなものというふうに捉えられやすいのかも知れないが、私はこの「思うようにならない」というところに魅力を感じている。

思うようにならないというところには、自立というものも感じるし、他人が何でも言う通りになるということ自体不自然に思う。

だから、時に私の考えに異議を唱える生徒には魅力を感じる。

中学校にはテスト週間というものがあって、テストの何日か前は部活動中止と決めているところが多いと思う。

期末テストの時は、一週間前から部活中止だった。
しかし、中間テストの時は3日前からだった。

ある日、私は部活の練習をするつもりで、音楽室へ行った。
すると、生徒たちは帰り支度をしていたので「今日は練習日なのにどうしたんだ」と言ったら、生徒は「テスト一週間前です」と言った。
生徒は、中間テストの時も一週間前から練習がないと勘違いしていたのだ。

間違いがわかった生徒たちは、いつも通り練習の準備を始めた。
しかし、どことなくやる気がしない気配も感じた。

準備の間、私が準備室で待っていると、一人、女生徒が入ってきた。

「先生、私は練習に反対です」

と言った。
それは、日頃はおとなしく、口数は少ない生徒だった。
成績は非常によい生徒で、練習が何日前であろうと、何の影響も受けないような生徒だった。

その生徒が、練習に反対と言ってきたのだ。
きまりから言えば、当然、私の練習をするという方に正当性がある。
そんなことは、彼女も知っているはずだ。

それに、自分の都合で言ってきたのではなく、他の者たちのために言ってきたということで、私は無視できない気持ちになった。

私は全員が集まっている前に行って「みんな、いつも帰宅してからどれぐらい勉強しているんだ」と聞いた。

そうしたら、いつもかなり遅くまで勉強しているのに驚いた。
私は練習をする気持ちが失せてきた。

「わかった。練習は止めよう」

と言うと

「やりましょう」

と言ったのは部長だった。
彼が一番遅くまで勉強していた。

彼は音大を目指していたので、楽器の練習があって、それから学校の勉強もするので遅くなるのだ。
部長がそう言ったせいか、空気は練習の方向だった。

しかし、私は中止することにした。
それは、生徒たちの健康が心配だったからである。

恥ずかしいことに、私は生徒たちがかなり無理な日課をこなしているということを知らなかった。
多分、彼女もそういう配慮で私のところへ言ってきたのだろうと思った。

教師だけがやる気で暴走しないためにも、生徒が意見を言いやすい空気を作っておくことは大切だと思った。

歯車が錆びるというのは、この話ではなく、前置きが長くなってしまった。

なるべく、生徒の自由時間を多くするためにも、効率のよい練習を考えねばならない。
一体、音楽の練習というのはどれくらいやったらいいのか、と考えると目標のレベルいかんにもよるが、時間はどうしても足りないと感じた。

あるヴァイオリニストがテレビで「一日、どれくらい練習されますか?」と聞かれていた。
そうしたら「12時間ですね」と答えた。
これは驚きである。

ちょうど手元に、ピアニスト、仲道郁代さんの著書があるが、大学生の頃は1日10時間練習したと書いてある。

12時間という練習時間はとてつもない時間で、アナウンサーは「そんなに練習するんですか?」と懐疑的に聞いた。
すると「私は楽器を持っていない時も、ヴァイオリンのことを考えているので、それらを合わせると12時間ぐらいになります」と答えた。

私はなるほどと思った。
何ごとも、練習時間というのは、そのことをどれくらい考えているのかということなのだと。

すると、たとえ1時間の練習と言っても、他のことを考えていたら、それは実質1時間にはならないわけだと思った。

それで、密度の高い練習を考えた。

吹奏楽部は、いくつかの楽器が集まって、音を出すのだが、いくつかの楽器がグループを作ってパート単位でアンサンブルをしている。
そして、パートにはそれぞれパートリーダーがいる。
パートリーダーをもっと活用しようと考えた。
パートリーダーに責任を持たせて、パート練習をさせるというものではない。

練習は早めに終わって、ミーティングの時間をとるのだが、全員への連絡時間のあと、パートごとのミーティングがある。
その時、パートリーダーはその日の練習の反省の司会をする。
パートリーダーは必ず、その日の連勝について何かを言うことにした。

そうすると、練習中にパートリーダーは音をよく聞いていなければ、何かを言う材料がなくなってしまう。

簡単に言えばこういうことなのだが、これで、パートリーダーは一層、リーダーとしての意識が高まったような気がした。

音楽的なことだけでなく、下級生に対して相談相手にもなってやる。
休みをもらいたいと思っている下級生は、ここで上級生に話して、上級生はそのサポートをするというようなことも、自然に行われるようになった。

全部を書くと大変な量になるので、この辺にするが、要するに係を作る以上は、必ず係が活躍する場面を考え、それが全体にうまく波及するように考えたということである。

生徒たちは、私の意図をよく理解してくれて、いろいろな面で主体的な活動がみられるようになった。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 22:04 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月23日

ジャベールのような〜人を見る目

ヴィクトル・ユーゴーの小説「レ・ミゼラブル」(ああ無常)にジャベールという刑事が出てくる。

re_mizerable.jpg一切れのパンを盗んだために、投獄されたジャン・ヴァルジャンが刑期を終えて出所すると、ジャベールは「あいつは、また盗みをするに違いない」としつこく後をつけ回す。

夜の道を、飢えでさまよい歩いたあげくたどり着いた教会で、親切なミリエル司教にご馳走してもらうが、銀の食器に目をつけたジャン・ヴァルジャンは司教の恩も忘れて、懐に食器を隠しそっと教会を出る。
ところが、後をつけていたジャベールに見つかって、司教の前に突出される。

「司教、こいつ、不届きにも食器を盗んで逃げていました」

ジャンはもう観念していた(今度は何年刑務所に入ることになるのだろう)。
すると司教は

「いいえ、その食器は、その人が盗んだのではありません。私がさし上げたものです」

そう言われては、ジャベールも引き下がるを得なかった。

ジャンはその時から人が変わったようになった。

・・・・・

re_mizerable_book.jpg感動的な場面である。

しかし、いつかきっと捕まえてやるとジャベールは、なおもジャンの後を追い回す。

私たちの周りに、このジャベールのような人はいないだろうか?

人を信用することができない。
ものごとを、ことごとくマイナス思考で見る。

「そんなことをすると、○○になるぞ」

の○○がよくないこと、マイナスばかり。

ジャベールのような人は、教師には向かないと思う。

私が、学校からの用事で、ある駅を経由して行かなければならないことがあった。
駅まで車で行って、そこから電車に乗ると都合がいいのだが、どこか車を置けるところはないかという話になった。

それを聞きつけた、中学生のいわゆるワルと言われている生徒が「そんなら、先生、オレの家駅に近いから置いとけよ」と言った。
私は、ありがたいと思ったので、それじゃあお父さんお母さんによろしくと言った。

その話をある先生に話したら「そんなことをしたら、車がどんなになるかわからんぞ、やめといた方がいい」と言った。
私は全くそんな心配はしていなかった。
彼は本当に心配して気をつかってくれたと思ったからだ。
もちろん、問題は何もなかった。

私はブログには実際に自分が経験したことを書いている。
部活動の運営についても、実際に行なったことを書いている。

だから「そんなことをすれば〇〇になるぞ」と言うのは意味がない。
なぜなら、これからこうしようと思うという未来のことを言っているのではなく、すでに済んだ過去のことを言っているからである。

小学校に赴任しているとき、特別活動の実践報告をしたことがある。
その時も、実際の報告をしたにも関わらず「そんな風にはならない」と言った人がいる。

そんな風にはならないとは、なぜ言えるのだろう?
なるとかならないではなく「なったこと」をこちらは報告しているのである。

学校の先生は指導計画とか指導案なるものを書いて、実践に移す。
しかし、計画したようにならない事はよくある。
それはなぜか?

相手は「生きている」からである。
感情のある人間だからである。

コンピュータのプログラムなら、間違いがなければ、コンピュータは間違いなく動いてくれる。
でも人間は機械ではない。

コンピュータは誰が操作しても、操作に間違いがなければ、人に関係なく全く同じ動作をする。
しかし、そうもいかないのが人間である。

ある人が非常にうまくやった指導案を、別な人が全く同じように実行したとしても、同じ結果が出るとは限らない。

人間の場合は不確定要素が多いからである

先生という不確定要素。
生徒という不確定要素。

教える人が同じでも、生徒が違えば違う結果になる。
教える人が違えば、生徒は同じでも違う結果が出る。

議論をするとき、忘れがちなのが教える人の違いを考慮に入れていない
だから教育は人だと言う人もいる。

「そんなにいい方法があるのなら、ここに書いてくれ」という人がいるが、そういう人は自分という存在を忘れていないか?
どこどこで素晴らしい指導をした人と、自分は違う人間だということを忘れていないか?

SidoKekkaFukakutei.jpg


========================================================


さて、私は部活動において、誰でも許可を得たら、理由に関係なく休むことができるきまりを作ったと言った。
そして、これを部活におけるゆとりとも言った。

ゆとりとは何ぞや?

自由時間があるという時間のゆとりか?

私は、ゆとりの本質は精神的ゆとりだと思っている。

なぜなら、時間時なゆとりは個人によって違いがあるからだ。
あることをするのに、早い者もいるし、遅い者もいる。
ある者は10分でもいいと言うが、ある者は30分でも足りないという。
30分でも足りないと感じている者に、20分なら十分だろうと言っても通用しない。

休みは、特にやむを得ない理由でなくても、取れるんだということで、精神的ゆとりがもてるというのが、一番大きな効果だと思っている。

実際に実施してみて、休みたいという要望は思ったほど多くなかった。
でも、きちんと練習していれば、好きな時に休みがもらえるという効果は大きかったと思う。

また、このきまりを作る前には前段階があった。

新入部員が入ってくると、個々の新入部員の面倒をみる上級生を割り当てた。
割り当てたというと、機械的に思えるかも知れないが、こういうことを私が提案し、上級生たち話すと、彼らは賛成し進んでその役を買って出た。

これは、新入生にとってお兄さんやお姉さんができるようなものである。
新しい環境で不安のある生徒たちにとって、頼れる人ができるのは安心感があるし、上級生にとってはより上級生としての自覚ができるものと思う。

========================================================


教師がいろいろなプランを考えて実施に移そうとしても、生徒たちがこれを受け入れなければ、何にもならない。
生徒たちに反感を持たれていたら、教師の意図はことごとく砕かれる。
つまり、信頼関係が必要ということである。

ジャベール刑事のように、いつもマイナス思考の人は、実践してきたことがことごとく失敗して、悲観的に考えるようになったのか、それとももともとそういう性格なのか考えてみる必要があると思う。

ある人が言うことは聞くが、自分の言うことは聞いてくれない、響いていないと感じたら、自分に原因があるのではないかと考えてみることも必要だと思う。

・・・次の記事「使わない歯車は錆びる」へ続く。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 20:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月23日

教師が介入すべき時

gakkougausinatteha.jpg学力をつけるということは、間違いなく教育の目的の一つです。
しかし、学力という意味を正しく理解していない人がいるのか、これを批判する人もいるようです。

学力をつけるということは、知識を丸暗記することではありません。
得た知識をもとにして、予期せぬことに遭った時にも対応できる力、すなわち知能を高めることでもあると言えます。
簡単にいえば、独り立ちできる力を養うとも言えます。

独り立ちできるかどうかは、時にひとりでやらせてみなければわかりません。
その点を踏まえないで、目の前のことをただ処理することだけに目を奪われていては、何のための活動の場なのかわからなくなってしまいます。

ある小学校でのできごとですが、4年生の隆君(仮名)が帰宅したところ、頬が赤いのを母親が見て原因を問いただしたところ、クラスの者全員から頬を殴られたということがわかりました。

母親は驚いて、担任にこのことについて聞きました。
そうしたら、クラスの話し合いで、宿題を忘れた子はこんなで頬をたたくということが決まったということでした。

母親はびっくりして、どうしてそんなことをするのかと問いただしたら、担任は「みんなで、多数決で決めたことですから」と答えたそうです。

これでは、何のために指導者たる担任がいるのか、意味がないわけです。

日本では年齢に応じて、責任の度合いが決められていて、20歳になれば何でも自分で自由に決められる代わりに、責任も全部自分で負わなければなりません。

逆に20歳までは、大人の誰かが責任を持つということです。
そして、20歳になるまでに自由に振舞っても社会の一員として、間違いないように育てるように大人が責任を持つとも言えます。

だから、時と場合によっては、子どもに自由に自治権を渡してみて、それが誤った方向にいく場合は、教師は介入しなければなりません。

時に、子どもは自分たちが多数決で決めたことは絶対に通ると勘違いし、教師が介入すると「先生は、僕たちを思うようにしたいんでしょう」などと反論してくることもあります。
しかし、そういう時こそ教師の出番であり、力の見せどころでもあると思います。
これが、かつて述べた「サーボ機構」と似ていると言ったことです。

この宿題の問題はよくない例ですが、逆に素晴らしい例もあります。
これは、山奥の学校の例ですが、自分たちも海へ行って海水浴がしたいという提案がありました。
それで、話し合いの結果、大多数の子どもが賛成して可決しました。

大多数というのは、5人だけ反対者がいたからです。
その子たちは「海は嫌いだから行きたくない」などと行っていたそうです。
しかし、他の子どもたちは、それで終りにしませんでした。

5人の反対理由に納得できず、調べたら、5人の子たちは親に経済的負担がかかるからと思って反対したのだということがわかりました。

理由を知った子たちは、みんなで栗拾いをやろうと提案し、栗を拾ったお金で海水浴の費用を作って全員海水浴に参加しました。

誠に、大人が手本にしなければならないようなことを子どもがやったと思いますが、これが子どもの提案でできたということは、下地に家庭や教師のそれまでの教育の成果が出たとも言えます。

今回の東北の地震では、小中高生が自分たちでボランティアに参加しようと決めて参加し、お年寄りたちが涙を流して喜んでいる姿がありました。

アナウンサーが子どもの一人に「どうして、参加する気になったの」と聞いたら、女の子が「気がまぎれるかと思って・・・」と答えていました。しかし、もっと調べてみると「逃げる時、命を助けてもらったから、みんなのために何かをしよう」ということだったということです。

今、指示待ち人間が多いと言われていますが、この子たちは自分たちも被災者でありながら、誰に言われることもなく、多くの被災者の中で自分たちでやれることを見つけて手伝っていたというのは、すばらしいことだと思いました。

これも、急に身についたことではなく、親に育てられる中で培われてきたものだと思います。学校の先生の日頃の教育の影響もあるかも知れません。

「人を見て法を説け」ということで、前に記事を書きましたが、こういう風土のところへ「人を疑うことばかりに慣れた人」が来ると、逆に戸惑うかも知れません。

最近KYという言葉が流行っていますが、教師はKYをよく掴んで指導をすべきだとも言えます。

集団には、集団の集まった空気というものがあり、うまい空気、まずい空気があります。
うまい空気の時は、子どもを信頼し任せてみることも必要だと思いますし、それがまずい方向、暴走しそうだったら、教師が介入しなければなりません。
特に教師があれこれ言わなくてもうまく行った時は、ほめることで子どもたちはますます自信を持つのではないでしょうか?

「任せてもいいかなあ」と感じるようになるには、それまでの先生の学級経営、生活指導、教科指導の下地があるのだと思います。

私は部活動の指導において、自由に休める制度を作ったと言いましたが、それも空気を感じてやったことで、別な言い方をすれば生徒たちが信じられると思ったからやったことです。また、生徒たちは任せられたということで、よけいに真面目に取り組むようになったと思います。

欠席の承認を得るのは、賛成を得るまでもなく、当然、やむを得ない理由もあります。
そういうことで、忘れられない思い出もあります。

欠席の承認を得るのは、コンクールや演奏会が近づいた時は、当然のことながら許可を申し出ないという常識を生徒たちは持っていました。

しかし、部員の中に時々生活指導上問題のある者が生徒がひとりいて、彼は1年の時からしばしば問題を起こしていました。
よく見ると、シャツの開いたところからネックレスが見えていたこともあります。
隠れてタバコを吸っていたこともあったようです。

しかし、そういう彼もみんなが認めていることがありました。
それは、彼はトランペットだったのですが、やすやすとハイトーンを出してしまうことです。
それで、不安をかかえながらも、彼を頼っているという状況でもありました。

部活は、夏休みに入って始めのコンクールを通過し、次の大会に備えて練習にも熱が入ってきて、大会も間もなくという時に、彼が休みが欲しいと申し出ました。

みんなはびっくりして、シーンとなりました。
気持ちは、当然、常識がないという思いでした。
だが、誰も意見を言いません。不良じみた彼が怖いという気持ちもむあったと思います。
みんなのガッカリしたような気持ちも感じられました。

私は、みんなのことを考えない利己的なやつだと思いました。
ここは、ひとつ出なければいけないかなと思いましたし、みんなもそれを期待していたかのようでした。

しかし、少し間があいた時、彼が突然「違う、違う」と言い出しました。

何だろうと思うと、彼が話し始めました。

「オレ、今度の○○のキャンプでボーイスカウトのリーダーでやらなきゃいかん仕事があるので・・・責任があるので」

と説明しだしたのです。
彼は、自分の申し出が、気まぐれで無責任と思われたと悟ったのです。
続いて彼は

「オレ、責任果たしたら、途中で絶対戻ってくる。○日の練習には絶対くる」

と言いました。

結局、休みは認められましたが、私は正直なところ、半信半疑でいました。
おそらく、部員の多くもそうだったと思います。

やがて、彼が戻ってくるという日になりました。
練習の途中で、部屋のドアがみんなは気になっていたいたようです。
私も気になりましたが、努めて平静にしていました。
少し、重苦しい空気でした。

突然、パッとドアが空き、勢い良く彼が入ってきました。
すると、一斉にみんなが拍手をしました。

私がホッとしたのももちろんです。

たわいないことかも知れませんが、素行上問題のある彼が、みんなの気持ちを大切にしてくれたことが嬉しかったのを覚えています。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 08:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月22日

久米宏さんすばらしいです



私も見習いたいですが、そんなにお金がありませんので「貧者の一灯」ということでお許しください。
posted by edlwiss at 23:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年03月22日

部活動におけるゆとり教育

部活動でゆとり教育なんて、変な気がするかも知れません。
ゆとり教育と言うと、ずいぶん批判もされ、賛否両論あるようですが、固い話は別として人間にはゆとりが必要だと思っています。

大勢の人が集まって何かをするほど、それぞれの者が勝手なことを言っていてはまとまりません。
お互いに譲りあうという気持ちがなければ、ひとつの目的に向かっていくことはできません。
しかし、そこには必然的にストレスも生ずると思うのです。
家庭環境も違い、様々な個性が集まるところではなおのことです。

サラリーマンだって、有給休暇というものがあって、年間何日という休みが、会社の仕事に差し支えない範囲で自由にとることができます。

私はこの仕組に興味を持ちました。

生徒に有給休暇なんてことはありませんが、私は部活動でも個人が自由に休みをとることができる制度を作ろうと思いました。

具体的にどう実施したかというと、部活動の練習は終わりの時間ぎりぎりまで行うのではなく、15分前に終わって、連絡の時間とミーティングの時間を取りました。

連絡の時間には、練習を休みたい日がある者は申し出ることにしました。
理由は何でも構いません。
今度の日曜日は、どこどこへ遊びにいきたいので、休ませてくださいとみんなに許可を得るのです。

部長が「どうでしょうか?」と言います。
すると、時に、日頃練習が進んでいないから、よくないと思いますなどの意見が出ることがあります。

最終的に、部長が「休んでもいいと思う人は手を挙げてください」と言います。
それで、過半数の者が手を挙げてくれたら、休みを許可してもらえるというものです。

kiminokanousei.jpg私は始め、こんなことうまく行くかなと思っていましたが、生徒たちは非常にまじめに取り組みました。

部活動の練習の参加をあまりにも厳しくすると、時に嘘をついて休みをもらおうと考えることがあるとわかったことも、こういう制度を作った理由でもあります。

つまり、嘘をついて休みをもらおうとする気持ちをなくしたいと思ったのです。
そして、まじめに練習をしていたら、休みがもらえるということで、練習の集中度を高めようというねらいもありました。

実行してみると、このねらいは非常によく達せいされたと思います。

休みがもらえた生徒は、予定表の黒板に名前が書かれます。
練習中に、なぜ欠席しているのかもわかりますし、あらかじめ誰が欠席するかということで、練習の予定も立ちます。

私はこういう方法がいいと言っているのではなく、実践したことを発表しています。
実践もしないで、架空のことを、さもそれが絶対のように言う人は信用しません。

時々「そんなにいい方法があるのなら、教えてくれ」などと言う人がいますが、たとえ、同じ方法をとったとしても、指導者(言う人)が違えば、それだけで効果は違ってくると思います。

ゲーテは死の間際に「もっと光を」と言ったそうで、それが何を示唆したことなのだろうかと話題になりました。
いろいろな人がいろいろな意味付けをしたようですが、ある人は「カーテンが閉まっていて暗いから、明るくして欲しい」と言ったんだよと言います。

真実はわかりませんが、真実が「カーテンを開けて欲しい」であったにしても、ゲーテだからそれだけの影響力があるわけです。

人に物を売るという営業の仕事は難しいと思います。
優秀なセールスマンであっても「日本人に何かを売ることは、エスキモーに冷蔵庫を売るより難しい」と言っています。

企業は販売力を高めるために、優秀なセールスマンを講師に招いて講演会などを行っていますが、参考にはなるものの、優秀なセールスマンと同じ方法をとったところで、売れるようになるとも言えません。

何か共通した大原則は学べるのかも知れませんが、現場に即したやり方、その人に適したやり方はその人自身が発見しなければならないものだと思います。

しかし、実践したものは生々しいものがあって、イミテーションではありませんから、その生きたものの中から何か感じるものはあると思います。
そっくり真似してもうまくいくとは限らないが、実践報告には掴みどころのない人間というものを知る手がかりになると思っています。

そういう意味で、私は実践者の報告に興味を持っています。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 22:24 | Comment(0) | TrackBack(1) | 教育研究

2011年03月22日

シャーロック・ホームズのように

gaibu_naobu.jpg学生時代に教育工学という本を買ったことがある。
はじめに、人間の内部活動外部活動について説明があった。

人間の活動には、内部活動と外部活動があり、内部活動は決して見えないものである。
つまり、これは他人が本当に何を考えているのかという本心を直接知ることができないという説明であった。
それで、人は他人が何を考えているのかを知るために、外から見える外部活動を通して想像するのだということか書かれてあった。
だから、人は他人を見誤ることがしばしばあるのだ。

自殺が報道されると、決まってというぐらい「そんな様子は感じられなかった」とか「前日まで明るく振舞っていた」とのコメントがあり「だから、とても死ぬとは信じられなかった」という報道がなされる。
これなど、内部活動と外部活動が一致していない例だろう。

よく考えてみれば、人が本当に死を決意していたら、おそらく、自分が死ぬことを他人に知られたくないと思うのではないか?
だから、死の決意を悟られないために、逆にカモフラージュする行動に出ることも考えられる。

辛いことや不幸があって、楽しいはずがない。なのに、それと一致しない時の行動こそ不自然であり、要注意ではないかと思うのである。

homes.jpg
だから、言葉で言ったことをそのまま鵜呑みすると、本心を取り違えることもあると心得ておかねばならないのである。
言葉を表面的にとらえるだけでなく、その他の状況も観察して、何かチグハグなところがないかを読み取る感受性が教師には必要である。
しかし、何の苦労もなく、人の痛みも察しられない平々凡々と暮らしてきた人には、なかなか難しいことなのかも知れない。

名探偵を主人公にした、シャーロック・ホームズはコナン・ドイルの小説であるが、コナン・ドイルは学生時代に恩師である外科医・ジョーゼフ・ベルをモデルにこの小説を書いたとされている。

ヘルは観察力に鋭い医者であったと言われ、次のように言われている。

ベルは病気の診断には観察力が重要だと学生に説き、訪れる患者の外見から病名だけでなく、職業や住所、家族構成までを鋭い観察眼で言い当てて学生らを驚かせた。コナン・ドイルは学生時代にベルの助手を務め、その所業を日頃から目の当たりにしていた※。

※一方でエイドリアン・コナン・ドイルは実際にいくつかの事件で冤罪を晴らしたことのある父アーサー・コナン・ドイルこそがホームズのモデルであると主張していた。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

名探偵と言えば「刑事コロンボ」も人気だったが、コロンボ刑事は、鋭い観察力で犯人の不自然さを見逃さず鉄壁のアリバイを崩す。

学校の先生は刑事や探偵ではないが、一連のデータから不自然さを読み取ったり、本心は何かをつきとめる力が必要だと思うのである。
特に、相手の心については鈍感であってはならないと思う。

中二の啓子(仮名)はしばしば非行を働いて、先生によく注意されていた。
体格がよく、小学校ではスポーツではよく活躍していた。
中学校ではバレー部に入ったが、サボることが多かったせいもあってレギュラーになれなかった。
成績はオール1に近く、本人にとっては、中学校に入って大きく挫折感を味わったことと思う。
先生たちにも次第に反抗的になり、頭を赤く染めてパーマをかけていたりした。

その啓子を三年で担任することになった。
部活には全く出席していなかった。

家に電話をすると、いきなり反抗的な口答えをした。
そして「私なんか、どうせバカだから」などという言葉が繰り返し出てきた。
「ほっといて欲しい。先生なんか嫌いだから」という言葉もよく出てきた。

彼女が「私なんかバカだから」という度に、私は「そんなことはない。啓子にもいいところはある」と答えた。
そういう言葉など全く響かないと思ったが「ほっといて」とか「嫌いだから、話したくない」と言いながら、1時間以上も電話を切らなかった。

嫌われているのはいいのだが、話したくないと言いながら、電話を切らないのは何かを求めているのだと私は思っていた。

その後の経過はここでは省略するが、卒業式が終わって数日経ったころ、突然職員室にやってたきた。
何やら紙袋を持ってきた。
何かなあと思っていたら、クッキーを焼いて職員室の先生たちに持ってきたのだ。

私は何があったのかと思って狐につつまれていたが、私のところへも来て「先生ありがとうございました。先生大好きです」と言った。

ますます、私にはわからなかった。
しかし、どうやら、わかってきたことは、反抗する啓子に「ダメなんてことはない。啓子には啓子のいいところがある」と繰り返し言っていたことが響いていたらしいということである。

中学生にとっては、成績が人間の序列のように思われて、そこに「こんな成績で」と言われたらさらに、落ち込むに違いない。
一番いけないのは、先生が、成績を人間の序列のように思うことだ。

誰かが、現在の入試制度を批判して「人間の能力を全部測れるものではない」と言った。
確かに、私もそう思う。だから、入試なんてものは「人間の能力のごく一部を試しているのに過ぎない」と私は思っている。

しかし、試験の序列で人を見るということが、体に染みついていると、言葉に出さなくても何かしら相手に、そういうことが伝わってしまうと思っている。

中学校に来て、すっかり自信を無くしてしまった男子生徒もいた。
私は放課後、彼を別の部屋に連れて行って、数学や英語を1年生からやり直させたことがある。
勉強にコンプレックスを持っていたいたせいか、始めはかなりの抵抗があったが、少しずつできるようになって行った。

彼も卒業すると、しばしば職員室へやってきた。
そして、車が好きだった彼はモータースで働いて、その様子を話してくれた。
その彼は、やがて2級整備士の資格を取ったと行って報告に来た。

私が誰でも立派になれると思ったのは、斎藤喜博の「教育学のすすめ」を読み「君の可能性」という章に刺激されてからだった。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 16:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月21日

言葉だけで伝わるものではない

多くの人が経験していると思いますが、犬には、近づいていくと、こちらを睨んでウーッと低い声で唸っている犬。
しっぽ振って喜んで飛びついてくる犬など、犬には様々な性格のものがいます。

また、ある人には吠えるが、別な人には全く吠えないという人を犬が選ぶということもあります。

私があるお宅を訪問したとき、家の中から突然、小型犬が走ってきました。
その犬とは初対面でしたが、何か嬉しいようで、飛びついて来て顔をペロペロ舐めたがります。私が触ってやると喜んで、静かになります。

それを見た家の人が

「まあ、珍しい」

と言いました。

私はこの犬が誰に対しても、こういう風かと思っていましたが、そうではなかったようです。
何かわかりませんが、その犬には気に入られたようです。

犬には、人の耳では聞こえないような高い音を感じとったりする聴覚があります。
いや、聴覚だけでなく、他のものも感じ取る感覚を持っているのかも知れません。
人を区別するということは、それぞれの人が発している固有の何かがあるのかも知れません。

犬だけでなく、人間も何かを感じるものを持っているのかも知れません。
それで、無意識のうちにそれを感じているのかも知れません。

私の母親代わりになってくれたおばは、小さな雑貨屋をやりながら、自分の旦那さんが亡くなったにもかかわらず、私を高校へやってくれました。

私は高校へ行けるなどとは思っていませんでしたから、受験勉強などということはやらず、部活動は3年生の終わりまでやっていました。

何だか知らないうちに、受験することになっていて、それがどんな高校かも知らなかったのですが、おばや先生の言うままに受けました。

受験勉強はしませんでしたから、合格する自信は全くなかったのですが、友だちが発表を見てきてくれて知ったということでした。

おばのおかげで高校へ行けることになったのですが、おばは食卓で、時々

「今日はどうしたの? 何があったの?」

と言いました。

「いや、何もないよ」

「そんなことはない。何があったの?」

「何かあったって、わかるの?」

「わかる」

「どうして? わかるはずないじゃん」

「わかる。顔に書いてある」

こんな会話が続いて、おばには隠せないなと思っていました。
いくら、何も無い装いをしても感づかれてしまうのです。
親との間で、こういう経験をした人はいるのではないでしょうか?

おばは、他人の気持ちにとりわけ敏感だったような気がします。
いや、飼っている猫に対しても、今売っている「ねこのきもち」のように、猫の気持ちもわかるようでした。

高校に合格したということで、おばは、つましい中から、合格祝いとしてレコードを買ってくれました。
それが、ブルーノ・ワルター指揮/コロンビア交響楽団/ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」で、私はこのレコードを、もらった小さなプレーヤーでよく聴きました。
このレコードが偶然、名盤と言われる録音(演奏)で、クラシックファンの中でも有名でした。

コロンビア交響楽団という、あまり知名度のないオーケストラで、人の心を揺さぶる名演が誕生したのです。
どこがすばらしいのかと言うと、ごく自然な演奏なのだけれど、人が演奏しているというより楽器に生命が吹き込まれ、楽器たちが生き生きと楽しさを表現している演奏なのです。

denen.jpg
演奏の評価の一つとして「よく歌っている」というのがありますが、確かによく歌っているわけで、このワルターという指揮者は歌わせることが得意なのだと思っていました。

しかし、いろいろ調べてみると、ワルターは練習で「もっと歌うように」と言ったことはなく「もっときちんと弾きなさい」と言っていたということを知りました。

きちんと弾くということを徹底していくと、次第に精密機械のような演奏になりがちだと思うのですが、それが、ワルターの場合は生き生きとオーケストラが歌い出すわけです。

ワルターは時に83歳だったと思います。
すでに引退表明をしていて、健康上の理由からも仕事をやめていました。

しかし、関係者がこの大指揮者の録音を何としても残したいと思い、ワルターが動けないなら、ワルターのいるところでオーケストラを作ろうと言って作ったのが、コロンビア交響楽団だったのです。

普通、オーケストラ作りは10年かかると言われています。
しかし、このような事情で作られた臨時のオーケストラでありながら、歴史に残る名演が誕生したというのは、ワルターの音楽性はもとより、人格に他ならないと思うのです。

指導というと、何かを話さないことには始まらないのですが、相手に伝わるのは表面的な音声だけではなく、何か他のものも伝わっているのだと感じます。
言葉というのは、相手とのコミュニケーションの手段の一つですが、それだけで全てが伝わるものでもないと思うのです。

何が伝わっているのか?
無意識のうちに、指導者の人格その他までもが伝わっていると考えるべきだと思います。

私が今まで見てきたうちでの経験ですが、担任が歳の多い人の場合、子どもが落ち着いているように見えます。
プロのオーケストラの場合も、指揮者が70を超えて80歳ぐらい年齢になると、演奏に集中力のあるものが多いように思います。

こう考えてくると、指導者というのは人格的に歪がある部分が、欠点として指導にも現れると考えるようになりました。

自分を客観的に見るということは、なかなか難しいことです。
先に、部活動での指導を紹介しましたが、吹奏楽部員はいつも80〜90人ぐらいいて、それは全校生徒の約1割を占めていました。

ということは、それだけ学校全体への影響力も大きく、まず全部のクラスに部員がいるという状態でした。
それで、部活で決めたことなどはすぐに全校に広まるということにもなります。

小学校では学級王国という言葉も聞かれますが、中学校では似たように、部活王国ということもあります。
吹奏楽では、先生によっては、練習を外部の者に見せず、部活王国のような運営をしている人もいます。

優秀な指導者であればいいかも知れませんが、それは時に指導者の客観性をますますなくすということにもなりかねません。

そこで、近隣の中学校4校で吹奏楽部は研究会を作り、時々、指導者をローテーションしました。
合同で演奏会を行い。その際、課題曲を決めて、講師を招き批評していただくということを行いました。

日頃からそういう活動をしていると、それぞれの指導者の長所短所もわかり、子どもにとっても指揮者が交代するということで、よい緊張感ももたらしたと思います。
春休みに指導に行った学校が、翌年の赴任校だったということもあります。

4校演奏会の後は、演奏の評価だけではなく、運営に関わる生活指導の問題も話し合ったりして有意義な時間になったと思います。
これも、各校の校長や保護者の理解があってできたことだと思います。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 21:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月20日

指導の本質〜人を見て法を説け

人を見て法を説けという言葉があるが、人間は機械とは違って、その人と実際に対面しなければわからないところがたくさんある。
また、それが人間が人間たる所以でもあると思う。

私はゴルフが好きなのだが、以前は先入観として、ゴルフはお金持ちのやるものだと思っていたので、自分とは縁のないものと思っていた。

ところが、ある時からどうしても始めなければならない事情ができて、これは大変と勉強することにした。

書店に行くと、ゴルフの解説書はたくさんある。
それらの本のほとんどというものを買い込んで、すべてを読みつくした。
そして、幸いなことに、近くに打ちっぱなしがあったので、毎日のように通った。

それも昔のことだが、まず驚いたのが非常にうるさいことであった。
今は、かなり閑散としていてそんなことはないが、昔はただにぎわっているというだけではなく、人の話し声がうるさかった。

年の頃、大学生ぐらいの若者がたくさんいて、打ち方についてあれこれ指南をしているのだ。
つまり、アマチュアコーチが非常に多いのだ。

ちょっと耳をすまして聞いていると、とてもゴルフをよく知っているという感じでコーチをしているのである。
初心者の私としたら、それらアマチュアコーチは相当上手いんだなと思った。

ところが、そのアマチュアコーチが打つとなると、とても下手なのである。
要するに知識ばかり詰め込んで、実践が伴わないわけである。

すごく立派なことを言っているのに、いざ自分がやってみるとさっぱりという姿を見て、彼らのコーチにうんざりした。

二階席に行ってみると、端の方に離れて、誰かが打ち方を教えてもらっている様子を見た。
それはプロのコーチに教わっている姿だった。
プロのコーチは静かな語り口だった。

私はゴルフ歴も腕もベテランの域にある人に聞いてみた。

「ゴルフのマニュアルもたくさんあるし、ビデオ教材もあるのに、わざわざプロにコーチしてもらう意味はあるんですか?」

すると、ベテラン氏の答えはこうであった。

「アマチュアコーチとプロコーチの違いは、その人に合った指導ができるかどうかだ」

なるほど。アマチュアコーチは知識として、情報はたくさん持っているのかも知れないが、それは固定化した知識や指導法でしかない。
だから、大枠としては役に立つかも知れないが、個々の人にあたった場合、具体的な指導にあたって当てはまるかどうかという問題がある。

Koyunosidouhou.jpg


人一人の命は地球より重い

という言葉がある。
それは、一人一人はかけがえのない命であり、みな違うということを表しているものだと思う。

クラブはこう持つべきでるとか、スウィングはこうあるべきだという基本的な指導法はあるが、身体も性格もみな違う個人に対してはそれぞれに合った指導を行うべきであるし、それができるのがプロコーチだと思う。

そういう観点から有名人を見ると、イチローの振り子打法は彼独特のものであるし、ホームランの世界記録を作った王貞治氏の一本足打法も彼独特のものであり、コーチの指導があってつくられたものだと思う。

中には一般的な指導法と、個人に合った指導法の意味がわからず、混乱している人もいる。
私が楽器の奏法について「これこれ云々でなければいけない」という説明をしていたら、横槍を入れてきた女性がいた。
彼女が言うには

「ギターリストの村治佳織さんは、父親に教わるとき『お前の奏法はそのままで言われた』ということです。だから、あなたの言うようにしなければというのは間違いではないですか?」

と言う強い口調であった。
なぜ、しばしば、興奮して言うのだろうかと思うのだが、質問者の勘違いは、楽器の奏法はその人その人で、自分がやりたい方法でやればいいと、一般化してしまっていることなのだ。

最近は、しばしばこういう自分勝手解釈が目につく時もある。
村治佳織さんの場合は、たまたまあえて直すところがなかったから、父親はそのままでいいと言ったのであり、誰もが自分の好きなやり方でいいと言ったわけではない。

一般的な指導と固有の指導がよくわかる例として、指揮者とオーケストラの関係がある。
sinsekai.jpgレコードやCDには名盤(名演奏)というものがあって、比較的ポピュラーなクラシックで例を挙げてみると、イストヴァン・ケルテス指揮/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/ドヴォルザーク:交響曲第9番ホ短調作品95『新世界より』という、クラシックファンにはなじみの盤がある。

ウィーン・フィルは世界最高のオーケストラの一つで、代々、世界的な名だたる指揮者が務めたが、この「新世界より」を録音するのに、何人もの指揮者が代わったという。
そして、最後に落ちついたのがケルテスで、ウィーン・フィルのやる気満々の演奏でファンを魅了した。

世界屈指のオーケストラで、指揮者も世界的なら、問題ないだろうと思われがちだが、そこが人間の難しいところである。
現実に、指揮者が来て、オーケストラのメンバーと対面し、指導が成立するかしないかである。

機械は、設計に問題がなければ、その通り作ればきちんと作動する。
そういう意味では、相手が機械なら計算が立つわけだが、いくら考えていっても計算が立たないのが人間である。

これは、人間対人間が対面するところでは必ず起こることであり、たとえ指導者が何の問題もない言葉や、良いとされる発言をしたところでうまく行くとは限らない。

斎藤喜博氏の著書の中では「教師は実践者でなければならない」という言葉がよく出てくる。
それは、実践して肌で感じ取る経験を積まなければ、指導者は上達しないし、実践者は、あれこれ前もって空想していったことが無力であったという経験も持っているということだと思う。

だから、どうしてもその場で直感的にインスピレーションを働かせ、臨機応変な指導展開ができなければ、意味のない時間の経過に終わってしまうものなのだと思う。

つまり、指導者が指導のプロと言えるのは、実践現場で如何に直感力を働かせ適切な対処ができるかにかかっていると思うのである。

教師というのは、指揮者と似ているところがあり、それは「どうしたら教師になれますか」という問に対し「どうしたら指揮者になれますか」に答えるのと似ている。

指揮者になるには、何の資格も必要ない。
なりたかったら「オレは指揮者だ」と叫べばなれる。
ただし、どこかから要請があるかどうかはわからない。

学校の先生になるには、教員の資格をとり、採用試験に合格すれば、形の上では先生になれるが、本当にプロ教師になれるかどうかは別問題である。

クルト・レーデル氏は「棒を振るぐらいは、アマチュアでも少し練習すればなれますが、本当に指揮をすることにまつわる諸々は、それにひきかえ、はるかに多面的かつ複雑で・・・」と述べ、早い話が、勉強したところでなれるかなれないかは何ともいえないと答えている。
全く教師においても同様なことが言えると、私は感じている。

では、勉強してもなれるかどうかわからないなら、勉強する必要もないではないか?
という考えがおきるかも知れないが、これには、クルト・レーデル氏は「学べることは学ぶべきである」と答えている。

あるプロの指揮者は「あるオーケストラで、指揮者が務まるのはせいぜい2年ぐらいですよ」と言っていた。
そのわけは「初対面でも、半分ぐらいのメンバーは好感を持っていてくれても、あとの半分は反感を持っている。反感を持っている人間はアラ探しばかりやるから、それに耐えうるのが2年ぐらい」だと言うのである。

実は、指導に行っても一番怖いのがこれで、中学生でも高校生でも「どんな人だろう」と、好奇心と好意で迎えてくれる者と「なんだ、このおじさんは」という感じで迎える者がいるだろうということである。
反感を持っている者を好感に持っていくということは、一部可能としても、全員をそうさせることができるのかとなると、非常に難しいことである。
名指揮者となると、そこが素晴らしいところで、全員をファンにしてしまうのである。

潰れそうだったプロオーケストラを再建したある指揮者は、楽員から「神様と音楽ができて、おまけにお金までもらえるなんて」と言われた。
これは、もう最高の賛辞で、指導者たるものも「先生と勉強できて・・・」なんて一度でも言われてみたいものだ。

長々と書いてきたが、ひとことで言えば、指導者には「人格の壁」というものがあると思うのです。

教えることの専門的な勉強はもちろん必要だが、生身の人間と接することで、湧いてくる手だてがあるかどうか、いかにに全ての者をファンにできるかが課題であると思う。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 18:21 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月19日

性格の見分け方

seikakunomiwakekata.jpg
猫を飼ってみると、生まれたばかりの小猫たちも、すでに個性を持っていることがわかる。
とかく、雌猫は子どもを生むということで敬遠されがちだが、飼ってみるとかわいい。

雄とは明らかに違うと思う。なんとなく、心優しいところがあり、雄と比べるとデリケートでもある。
子どものころのことだが、家には代々いろいろな猫が来て、それぞれに思い出がある。
商売をやっていたせいか、猫がいないと何か家の調子が悪いような気がしていた。

悲しいのは、死別だ。
とてもつらいので、その度に、もう猫は飼うまい。こりごりだと思うのだが、やはり猫がいないとおかしい。
それで、どこからか縁があってまた猫がやってくる。

ペコちゃんは、我が家にとっては初めての雌猫だった。
将来、子どもをどうしようという不安をかかえていたが、ペコちゃんを見た時、どうしても飼いたいという気になった。

おじさんが亡くなって、おばさんと二人だけの暮らしと、そこへ猫がいるのとでは大きな違いがあった。

雌猫は自分だけの時は飼い主に甘えているが、子どもができて母親になると「やはりお母さんなのだ」と感じるようになる。
自分のことはさておき、子どもが第一になる。
そういう雌を見ていると、何だか偉くなったようにも見える。

「あれあれ、大事でしょうがないんだね」

おばさんは、ペコちゃんが子どもにかかりきりになっているところを見てそう言った。
雄猫しかいなかったころと比べると、一家の雰囲気がずいぶん変わったような気がした。

子どもは大きくなるにつれ、少しずつ行動範囲が広くなる。
それらの子どもを見ていると、みな個性がある。
成長していろいろなことを経験して、身につけていくこともあるが、生まれつきの個性は変わらないような気がする。

人はどうなんだろうか?
私は幼いころから、しかけのあるものというか機械に興味を持っていたようで、そのせいで失敗もある。

いまでこそ、時計は至る所にあるが、昔は貴重なもので、時計を買うということ自体大変でもあった。
そんなころ、小さな商売を始めた我が家に、あるところから時計のプレゼントがあった。

私はそのしかけに興味を持って、分解したくなった。
ところが、分解したもののもとに戻せなくなって、ずいぶん叱られたことを覚えている。

私の分解好きというのは、大人になって、機械だけでなく人間にも興味が移った。

性格の病気

知人に、Aという、どうも変だという人がいた。

ハッタリが強く、やたらにエライ人を知っているという言葉が出てくる。
普通の人なら恥ずかしいと思うことさえ、平気で言えてしまうという人物で、演技とも思えない態度で言えてしまうので、若い女の子などすっかり信じてしまう場合もあった。

こりゃあ変だなあと思って、調べているうちにふと見つけたのが、性格の見分け方という本で、見つけたのはずいぶん前だったのだが、まだ発売されていた。

この本のある部分を読むと、これはと思う部分があったので、別な人に「これ、誰だと思いますか?」と言って読んで聞かせたところ「そりゃあAさんでしょう」と即座に返事が返ってきた。

「性格の病気」というところに「わざとらしいことを言っても、みっともないことをしても平気」というタイトルがあって、そこには次のようなことが書かれていた。

1.自分を価値あるものに見せるため、人より優位に立つためには、普通の人なら自尊心が傷ついてしまういやらしいことでも平気で行う。

2.人の功績を自分のものであるかのように印象づける。

3.たとえ嘘がバレても悪びれることはなく、・・・・虚栄の世界を堂々と生きることができる。

4.哲学者であり精神医学者であるヤスパースは、このタイプを現にそうである以上の者であるかのように見えることを望む人であるとしている。

5.たとえ、自分の非を指摘されるようなことがあっても、自分が正しいと信じこんでいるため、反省することがない。

6.周囲は翻弄され、混乱を来すこともある。だが、その場しのぎの嘘もやがて破綻し、周囲の人たちもいったんおかしいという目で見れば多くの矛盾やいかがわしさ、異常なほどの自己中心性に気づくようになる。その矛盾をあえて指摘せざるを得ない人が出てきて、トラブルになる。

7.はじめのうち効力を発するこのタイプの生き方も、頻繁に接する関係の中ではやがて無効となる。したがって、信頼関係に基づいた人間は築きにくい。



実際、会社では彼はアブナイと見られているようで、一応役員としての身分にはなっているが、実質仕事はもらっていない。
しかし、自尊心が強いため、オレすごいんだとという振る舞いがいっそう強くなっている。

私はあきれて、このA氏からは遠ざかっているが、別な人からハッタリが聞こえてくる。
問題はまことしやかに、ハッタリや何でも知っている風に言えてしまうので、本当に信じこんでしまって犠牲になる人がいることである。

ある女性は、本当にプロ歌手になれると思って、くっついていて、ついにいい歳になってしまった。

これは、一つの例だが、ほかにも変な人がいる。
先生で、やっぱりおかしいのではないかと思える人がいたが、ついにある校長が子どもへの被害を心配してのことか、休職させて精神科へ入院させた。

1年経って復職したが、普通の時もあるが、やっぱり変だという時もあり、正常と以上の間を行ったり来たりしている感じである。


誇大妄想

この手のタイプは自信過剰である。
ある精神科の医師は「誇大妄想は他人が非を唱えても決して揺がない程、強い信念です」と言っている。

オレが教えてやる、オレは何でも知っているというものの言い方をする人は、自信過剰でこの類の人だろうと思う。
聞いている方としては「オマエ、何でそうエライの?オマエの言うことなんか信じていないよ」と思っているのに、何を勘違いしているのか、常にものの言い方は「オレ様」である。

普通ではとてもできそうもないと思えることを、自分には特別な力があると思い込み、平気で人前で言えてしまう性格である。
医師の言葉を借りれば

妄想性障害 妄想性障害は精神症状が主に妄想に限局している心の病気です。妄想性障害では妄想の内容が、誇大妄想である場合もあります。妄想を除くと精神機能にほぼ問題はないので、社会的機能は比較的保たれますが、やはり、人間関係、仕事面でのトラブルは生じやすいです。社会的機能を改善する為には治療が望ましいのですが、本人は治療の必要性をほとんど自覚していないという難しい問題があります。


SeijoIjo.jpgということであるが、別な専門家の言葉では、世の中に全く正常だという人はいないそうで、問題はその人がどの程度異常な方向に振れているかだそうである。

学校においては、校長は子どもへの影響を最も心配するのであり、私が知っている教師の場合は校長が思い切って休職させたが、そういう決断に踏み切れない場合、なるべく影響の少ない仕事に持っていくしかない。
時に自尊心を傷つけないように配慮しなければならないことも、悩みの種である。

一般の大人への影響は、A氏のようにまことしやかに、もの知りであり、何でも相談に乗ってやる、エライ人も知っている、芸能界に通じているというハッタリをきかせている場合、若い女の子は騙されやすい。
現実に、犠牲になった女の子がいると言ったが、A氏の話を冷静によく聞けば、話は軽いし、そんなに経験があるわけがないと察知することも不可能なことではないが、うまい話にのぼせ上がってしまっていると、周囲の忠告も耳に入らないので、犠牲になりやすい。

だいたい、本当にエライ人ほど話は謙虚であるということを忘れてはならないと思う。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 09:18 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月18日

平凡な生活

家族3人と猫1匹が食卓を囲んでいる。
決して豊かではないが、幸せな一家である。

でも、この家族は普通の家族とはちょっと違っていた。
3人と1匹はそれぞれ数奇な運命をたどり、偶然寄り合ってできた家族だった。

母親代わりの女は、満州からの引き上げ者で夫とは生き別れで、すべて財産をなくして日本へ帰ってきた。
父親代わりの男は、戦争中憲兵だったが召集され、中国のソ連との国境近くで任務についていた。

女は両親がいない少年を連れてきた。
猫は土砂降りの日、橋の上で泣いていた子猫を女が拾ってきた。
かくして、不思議な家族ができた。

貧しかったが、男と女には急に子どもができて、生きる張り合いが出てきた。
知らない人が見たら、3人と1匹のごく平凡な家族に見えた。

男と女は、子どもを小学校に通わせるために、一生懸命働いた。
家の軒先のようなところを改造して、小さな店を始めた。
客を待っているだけでは稼ぎが少ないので、男は自転車で行商に出かけた。

家では、夜になると、女と少年と猫は男の帰りを待つというのが毎日の平凡な暮らしだった。
何もなかったが、男の帰りを待って小さな食卓を囲むことが、何よりも幸せなことだった。

その日は、男の帰りが遅かった。
いつもなら、いくら遅くても9時には帰ってくるはずの男が帰らなかった。
ちゃぶ台の上には、いつものようにみんなの茶碗が伏せて置いてある。

「じゃ、ご飯にしようか?」

女が言った。

男は行商の途中で、トラックに轢かれて亡くなっていた。
それは、もう何日も前のことだった。
葬式が終わり、みんなが帰り、女と少年と猫が残され、またいつもと同じ平凡な生活が始まると思っていた。

ningennokizuna.jpg
だが、食卓に伏せた普通よりやや大きな茶碗の主は現れない。
死というのは突然やってくる。
それでも、残された者にとっては納得がいかない。

「そんな馬鹿なことが」

女は男の死を受け入れることができない。
少年も、いつかまたいつもの生活が戻ってくるに違いないと思っていた。

過ぎてみれば、つかの間の幸福であった。

「神様はそんなひどいことをするはずがない」

でもこれが現実なのだ。

地震のニュースで、壊れた家、家族を探して歩き回る人、体育館で無邪気な顔をした子ども見ると、昔の生活が蘇ってきて自然に涙が出てくる。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 21:45 | Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2011年03月17日

なぜ日本の教育は変わらないのですか?

41THCD12B8L._SL500_AA300_.jpg今回の記事タイトルは、グレゴリークラーク著のなぜ日本の教育は変わらないのですか?そのものである。

この本をよんでみると、なるほどそうだと納得できる。

大学入試不正問題に関わる意見の中で、不正を厳しく糾弾することを批判を批判する者があることには驚いた。

人が大勢暮らす中で、もっとも大切なものは公平、平等である。
どんな競争であるにしても、公平性が担保されなかったら、それは競争自体に意味がなくなる。

さらに驚くのは、現在の入試制度に問題があるからと言って、これを不正行為と結びつけている者がいることだ。
入試制度に問題があるからと言って、不正が許されるとでも言いたいのだろうか?

だいたい、制度というものに完璧なものはないだろう。
制度の問題をついて、不正が許されるというなら、あらゆる競争において不正が許されることになってしまう。

こういう論理が通るなら、きまりの欠陥を通じて、きまりを無視していいという論理にも発展しかねない。

hitsuyounouryoku.jpgところで、入試制度の問題とは何のことを言っているのだろう?
そこのところを注意してみると、入試では人の能力をすべては測れないというものであった。

これには驚いたというより、呆れた。
入試に限らず、人の能力がすべて測れるという手段があるのだろうか?

これは、穿って考えれば、自分が試験に落ちたのは、自分が悪いのではなく、試験が悪いのだ。試験がオレの持っている能力を測れないのだ。だから、試験が悪い。
とでも言いたそうにも思える。
こう考えるとすれば、全く勘違いである。

そもそも、大学は入学試験で、人の能力のすべてを測ろうとはしていない。
また、そんな必要もない。

そもそも、人の持つ能力のすべてとは何だ?

例えば、弁当が早く食べられるというのだって、能力の一つである。
万引きがうまいというのだって能力である。

そういう能力を誰が必要とするのか?

大学はそれぞれ、ウチの大学では、これこれこういう能力を持った学生を必要とするという運営方針に合わせて、入試の問題を考えるのだ。

例えば、音楽大学では筆記試験に加えて、楽器の演奏能力をテストする。
美術大学ではデッサンの能力もテストするようなものだ。

人の持つ全能力のうち、必要とする能力に合わせて選抜試験を行うのだ。
つまり、組織によって必要とする能力は違う場合は、大いにある。
(「必要とされる能力は様々である」の図を参照)

日本の大学入試の問題は、もっと別なところにある。
それは、大きく分けて次の2つである。

1.大学がレジャーランド化していること

2.入学したものの、適正に欠ける者が毎年問題となる

gohkaku_line.jpg1.は入試さえ突破すれば、遊んでいても卒業できると言われる大学があること。
これは、入試はもっと基本的な基礎学力に絞って選別し、入学後、それ相応な力をつけなければ、卒業できないようにすることで解決できる。
つまり、入りにくく卒業しやすいから、入りやすく卒業しにくいにすることである。

2.は、たまたま入試は突破したのだが、どうも大学の教育に合わない。ついてこれないという問題である。
グレゴリークラーク氏はこの解決方法として、合格者を定員いっぱいできちんと切ってしまうのではなく、ある幅を持って合格させ、1年後に大学に留まるか、去るかを決める方法をとったらどうかと提案している。

氏の著書を読んでみて、私もなるほどと思った。
では、そういう改革ができないのだろう?
それが、文部科学省の官僚の抵抗なのである。

何の問題もない改革だと思うのに、なぜ抵抗するのか、私も今ひとつそういう官僚が抵抗する心理がわからない。

もう一つ、言っておきたいことがある。
ブログを書くにしろ。言葉で意見を発表するにしろ。

的外れや頓珍漢な意見にならぬよう、キーとなる用語ぐらい、正しい意味を確認しろというものである。
用語が正しくなければ、正しいコミュニケーションはとれない。
基本中の基本である。
自分で勝手に考えた意味に変えてはいけない。

今回大切な用語は「学力」である。
国語辞典で調べて使っているか?

**************************************************************
がく‐りょく【学力】
学習して得た知識と能力。特に、学校教育を通して身につけた能力。
**************************************************************

学力は、人が生きて行くために大切な能力である。
もしかしたら、受験教育のことと間違えていないか?

動物であれば、親が子離れする前に、子にエサの採り方などを教えて、子どもはその能力を身につけて独り立ちするようなものだ。

学力を身につけることに反対する者は、いつまでも親のスネカジリでいたいのだろうか?

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 11:53 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月17日

原発の安全性は?



心配なことだが、無責任な発言には注意したいものだ。



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 07:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。