2011年03月15日

ちょっとおかしいんじゃない?〜学力をつけないでどうするんだよ?

入試不正事件

驚いたことに「あれぐらいのことで、騒ぎすぎじゃないか」という考えのあったことだ。
そして、マスコミが悪いと言った意見もあった。
この事件は犯罪として捜査が行われたが、犯罪とは大げさだと言った意見もあった。

私は呆れた。

入試不正は重大事件である。
しかし、その認識がない。

考える力がないのだろう。
例によって「ワンポイント思考」の影響もあるか?

なぜ重大事件なのか?
他人に不利益を与える行為は大事件なのである。

人は同じ社会に生きている以上、みな平等であり公平でなければならない。
試験の時、ある者は参考書を見てもよいが、ある者は何も参考にしてはいけないであれば、公平ではない。

そもそも、競争である以上、公平な条件で行わなければならない。
こんなことまで、教えなければならないというのであれば、誠に情けない世の中だと思わざるを得ない。

ピント来ない者もいるかも知れない。

ある入試で合格定員が100名だったとしよう。
それで、君は101位だったとしよう。

しかし、100位までの者の中に不正を行った者がいたとしたら、君は納得できるか?
「入試のカンニングぐらいいいじゃないか」で済ませられるか?

自分の身にふりかからないから、他人ごとだから「それくらい、いいじゃないか」と言っていないか。

次に、犯罪とは大げさなと考えている社会常識のない君に言いたい。

犯罪になるかならないかは、警察が決めるものでもない。
日本には法律というものがあり、刑事訴訟法というものがある。
犯罪になるかならないかは、その刑事訴訟法のどれかの罪に該当するか否かの問題だ。

重大だと思うから、犯罪にするわけではない。
これ、社会常識だよ。
犯罪になるかならないかと、悪いか悪くないかはまた別の問題でもある。

まだ、呆れたことがある。
この不正事件とは何の関係もないのに、現代の入試制度の問題を取り上げて、これと関係づけようとする意見だ。

そりゃあ、今の入試制度はいろいろ問題があると思うよ。
でもねえ、問題があるから、不正は許されるってものじゃないんだよ。

hontounogakuryoku.jpg学力とかなんとか言っている人もいたなあ。
学力を云々する以上、学力の意味はわかっているのか?

私は学力は非常に大切なものだと思うよ。
学力をつけないで、どうするんだよ。

そうだよ、教育の目的は学力をつけるためだよ

いまどき、内申で脅す教師なんているの?
そんなことすれば、教師のほうが脅されるんじゃない?

入試で人の全能力が測れるものでもないし、大学はそんなことをしようともしていない。
それぞれの大学が必要とする人材を集めようとしているだけだ。

プロ野球の球団が、入団テストをするようなものだ。
各球団が欲しいと思っている選手は、みな同じとは限らない。
入りたいと思う球団があったら、その球団が望む力を持つようにしなければならない。

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posted by edlwiss at 22:39 | Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2011年03月15日

寃罪を生む思考と同じではないか

厚生労働省の郵便不正事件に絡む捜査で、寃罪があったことは大きく報道されたが、果たしてこれは、検察だけの問題だろうか?

私たちはよく、学校が何々という言葉を使うが、学校という人間はいない。
同様に、検察官をやっている人間はいるが、検察庁という人間はいない。

寃罪を生む思考というのは、始めに自分の希望の結論を決めておいて、あとからその結論に合うようにストーリーを作ってしまうやり方である。

正しくは、事実に基づいて、事実と矛盾がないように類推し、類推の幅が広い場合は、証拠を積み重ねて、幅を狭めていく方法をとらなければならない。

enzainokohzu2.jpgでは、なぜ先に結論を決めるというやり方をするのだろう?

それは、組織などの仕組みの問題ではなく、その人の人間性に寄与するところが大きいと思う。

その人間性とは、公平・公正、正義感に欠け、理性的にことを処理することができず感情に支配される性格と言えよう。
こういう性格は、教師には最も向かない性格と言える。
残念なことに、ブログを通じて、そういう性格の人を見たような気がする。

そういう人は、意識してそのような性格を矯正しないことには、何も始まらないだろう。
寃罪を生む思考を他山の石としたいものである。

学級担任をすると、何十人もの子どもを預かるわけだが、子どもたちの側からすると、先生が自分のことをどう思っているか不安なものである。

bakaoya.jpg「やっぱり、先生は僕(私)のことが嫌いなんだ」と思わせないようにしなければならない。

私は何かの折に、ある生徒から「先生、この組みの子で嫌いな子ってだれ?」と聞いたことがある。
私は「みんな好きだよ」と言った。
そうしたら、驚いたように「エーッ、みんな好きなんだって!」と言った。

教師は、みんな好きだというふりをするのではなく、もし、どうも好きになれないとか嫌いだという子どもがいたら「なぜ、私は〇〇がきにいらないんだろうと、自問自答しなければならない」と思う。

自問自答してみると、それは子どもが悪いのではなく、自分が悪いのだと気がつくのではないかと思う。

「どの子も立派になる」は、教師が「どの子も好きになる」から始まるのだと思う。

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posted by edlwiss at 21:47 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月13日

どの子も立派になる

毎日のように、万引きだ決斗だと生活指導に問題のある中学校では、休日の部活はまず出席確認が必須です。
来ていない場合は、家庭に連絡する必要があります。

「部活だと行って家を出ていきましたが?」

と言われたのに来ていない。
たいていは、別のところへ出かけています。
いや、別のところに出かけたのならまだいいのですが、事故があったら大変です。

家族なら、夕方、食卓を囲んだ時、いつも隣や前に座っている家族がいないのに平気ということはないはずです。
それは、互いに心と心が結びついているからです。

kyouikuhasinazu.jpg
集まっても、ただ集まっているだけで心の通い合いのない集団ではよい活動はできないと思っています。
まして、音楽の部活動であれば良いハーモニーなどできないと思います。

ではどうしたら、皆が心の通い合う集団を作ることができるのでしょうか?

「君たち、みんな仲良くするように」

と言ったら、できるようになるのでしょうか?

教師がそういうことを言うのは、ムダではないと思いますが「言う」だけでは指導としては脳がないような気がします。

まず、教師自体がやる気を持っていることは大切です。
教師のやる気は、生徒に伝わると思います。

部長は女子でしたが、教師のやる気を感じたのか、部室に「力いっぱい」というポスターを作って部室に貼りました。
これには、今度来た先生はやる気なんだという意気込みを感じたのかも知れません。
同時に、期待感があったのかも知れません。

集まった時、ポツンと席が空いていたら、どうしていないのかとみんなが気にするような部であって欲しいと私は思いました。

だから、空席があると「どうしていないのだ?」と私は聞きました。
「知りません」という返事が返ってくると、私はすぐに電話をするように言いました。

私が電話をするのではなく、生徒に電話をさせるようにしました。
練習に来ないで、家にいた者も電話がかかってきたことで、それから来た者もいました。

「先生、今から来るそうです」

と生徒が言った時はいいのですが、

「どこかへ出かけたそうです」

との時は大変です。
どこへ行ったのか調べなければなりません。

女子の場合、大きな店の洋服コーナーをうろうろしていることが多かったようです。

こんなことは、ウチでもやっているという人がいるかも知れませんが、一人も原因不明な欠席がないという意味で大切だと思います。

その本質は、管理がしっかりしていると言えば、教師側の評価に関わることかも知れませんが、そんなことより、生徒が「いつも、私を気にしている人がいる」ということを感じさせることが大切だと思っています。
リンゴ一箱の中の、どうでもいいリンゴではないのです。

とかく、全体の戦力にはあまり関係がないと思われがちな生徒は、みんなから忘れられやすいし、本人も入部当時は何か希望を持っていても、次第に「オレなんか、私なんかいなくても」という気持ちになりやすいものだと思います。

ただ、出席を管理するというだけでなく「君は大切な人なのだ、みんなが心配している」という気持ちが本人に伝わることが大切と思います。
それも、そういうポーズをとるのではなく、指導者たる教師が「どの生徒も立派になる」との信念を持って、本当に信じていなければダメだと思うのです。

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posted by edlwiss at 22:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月13日

自分にできることを考えてみたい



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災害用ブロードバンド伝言板


災害用伝言ダイヤル 171


パーソン・ファインダー http://google/sagas


NHK総合テレビの放送は

インターネットの「USTREAM」「ニコニコ動画」にて放送しています。


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ニュースを見るたびに涙が出そうになります。




posted by edlwiss at 12:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年03月12日

指導とは何か

田植えの時期は沖縄が最も早く、3月だそうだ。最も遅いのが佐賀県で、6月下旬となっている。
ところで、山田さんの家が田植えを終わったところで「今年の不作の原因は何だったのでしょう?」と声をかけたら、どう思われるだろう。
また、同じく田植えの終わった鈴木さんの家に行って「今年は豊作でしたね」と言ったら、これまたどう思われるでしょうか。
想像は読者に任せたいと思うが、世の中にはそんな声をかける人がいるんだなあと、最近知った次第である。

スポーツでは試合後、勝因や敗因を分析することはできるが、人の人生を勝ち負けや成功失敗という評価ができるのだろうか?
できるとしても、それはいつできるのだろうか?
また、人生の勝ち負けや成功失敗はどうして判定するのだろうか?
これは、判定する人の価値観にも大きく関係することだと思う。
さて、もっと身近な話題に転じて、学校における「指導」について考えてみたいと思う。

学校ではやたらと指導という言葉が多く使われるところではないかと思う。
だが、指導とは何か?指導の実体は何かと考えた時、さまざまな疑問が湧いてくる。

「指導」という言葉を辞書で調べると

**************************************
ある目的・方向に向かって教え導くこと。
**************************************

との説明がある。

すると、

1.「目的・方向」は何であるか
2.どのような方法を用いて、教え導くのか

の2点がはっきりしていなくてはならない。

例えば、野球の試合であれば、ある人は

目的・・・・・・・優勝
教え導く方法・・・練習の方法

sinrai.jpg
と考えるのかも知れない。
また別の人は、目的は優勝ではなく「実力を発揮することができたか」とか「悔いのない試合ができたか」などになるのかも知れない。

私は、ある荒れた中学校の吹奏楽部の指導を急に頼まれたことがあり、外部から指導者として3年間通ったことがあった。

行ってみると、私が指揮している最中なのに、遅れてきたある女子が

「やあ、お前なあ・・・」

と行って、座っている生徒に声をかけ、私の前を堂々と通って行った。
顔つき服装は、いわゆる不良じみた感じである。

ここで、粗探しを狙っている人のために断っておくが、一応、顧問はいるし、私としては一体ここの部員は何人いるのかさえつかめていなかった。

練習が進んでいくと、今度は入り口で中に入ろうとしないでグズグズしている生徒が見えた。
泣いているようにも見えた。
すると、顧問が私に「ちょっとお願いしますね」と行って、その生徒の方へ行った。
そして、何をやっているのだろうかと思って見ると、顧問がなにやらなだめているようだった。

私は吹奏楽部の活動は、コンクールだけではないと思っているが、出たことのない部にとっては、いつも出ているところに対して何かコンプレックスがあるようにも感じていた。

練習に出て来るのか来ないのかわからないような部、人間関係に問題が渦巻いている部で目標らしい目標もない部に「オレたちだって」という気持ちを持たせようと思って、私はコンクールに出させようと思った。
私が部の活動の主導権を持って、改革することにした。

乱れた部をきちんとするには、という問題を顧問たちに話すと、多くは「部を乱すやつはクビにしろ」と言う。
理由は「一部の悪い生徒のために、まじめな生徒までもが犠牲になる」と言うのだ。

でも、私はこの考えには反対だった。

やっかいものの部員を切り捨てるというのは、腐ったリンゴは捨てるという発想に似ているような気がする。
しかし、人間は腐ったリンゴではない。
私の基本的な考えは、全員を幸福にするという考えだ。一人も切り捨てることはしないという考えだ。

「ねばる餅 似たような人生の繰り返し」

これは、少年院にいたある少年が、正月に雑煮が出された時作った歌だ。
人は誰でも幸せな人生を送りたいと思っていると思う。

疎まれている者だって、だれかが手を貸してやればきっとみんなと仲良くやれると、いつも私は思っていた。

会社は景気が悪くなると、リストラと言って、従業員をクビにしていく方法をとる会社がある。
やり方はいろいろあるが、仕事の下手な者、営業成績の悪い者から切り捨てていく会社がある。

残った従業員は精鋭で、会社がよくなるかと思うと、まずよくならないということを知った。
それは、残った者は、次はオレの番かと考えて落ち着かないというのが、理由らしい。
そうなると、経営者が思ってもいない者が、自分から辞めたりして、会社の業績は低下するらしい。

今は成績が良いので、評価が高いのでクビにならないが、悪くなったらどうなるかわからないという心理が働くらしい。

部活動も時に迷惑をかける者に対して、悪く言ったりする者がいるが、そういう厄介者がいなくなると、自分が不安になってくるという心理がある。
それは、人はドラマのように善人はいつも善人、悪人はいつも悪人とはいかないからだ。

夏目漱石の小説「虞美人草」だったと思うが「善人だと思っていた人が、ある日突然悪人になるから怖いんですよ」という節が出てくる。

子どもの心理テストにも、いつか自分は悪い人になってとんでもないことをしてしまうという不安が出てくる。

人間というのは不安定なのだ。
だから、君がどうなったって、君を捨てることはない、どんな時も信じて支えてやるよというところが必要だと思う。

そして、活動を通じて、どんな困難があっても自分はへこたれないという自信をつけさせてやる援助が必要であると思う。

私は部活動をこんな考えで運営してきた。

具体的にはどう指導していくのかということが問題だが、以前にも述べたが一体、指導の中身は何なのか?
日々の活動の中に、願いをどう具体化して指導するのか?
これが最も大切なことだ。

だが、驚いたことに指導というと、問題があるとたいていは「○○するな」とか「長いお説教をする」だけだ。
そのお説教というのは、本当に生徒のためになる話をしているのかと思うと、実は先生の憂さ晴らしであったり、ヘタをすると返って反感をかっているような場合もある。

私は指導の実体が、口で言うだけのそういうやり方だけはしないと、決めていた。
人のやり方のアラを探して批判することは易しい。
批判したり否定する以上は、代案を示してほしいし、その代案も架空のものではなく、実践で示してもらいたいと思う。

===============================================


さて、日曜日の練習を変更した例の部活動の続きである。

遅刻は完全になくなった。
だが、ここでハッと気がついたことがある。

それは、部活動の練習に入ると、つい夢中になって終りの時間を過ぎてしまうことだった。
気がつくと、変な顔つきをしている生徒がいた。
おそらく終了の時間を気にしているのではないかと思った。

終了の時間を無視するつもりはないが、つい集中すると知らぬ間に延長してしまう。
だからと言って、時間を気にしながらやっていると、練習に集中できない。

それで、私は「時間係」なるものを作った。
時間係というのは、終了時間近くになったら「先生、時間です」という係である。
時間係が「先生時間です」と言ったら、どんな途中でもパタッと練習を止めることにした。

開始時刻を厳しく言う以上、終りも厳しくしなければならないのは当然である。
そうしないことには、生徒たちの信頼を得られないだろう。

私は終了時間を、時間係の言葉で即座に止めることを約束し、ずっとそれを守った。

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posted by edlwiss at 23:57 | Comment(5) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月09日

心が通じなければ指導も実を結ばない〜生徒を信じる

遅刻の指導について、あまりにも浅はかな考えしかできない人がいるので、改めて詳しく解説してみようと思う。

長い人生の中では、不可抗力の遅刻もあると思うが、最もいけないと思うのは遅刻の習慣だと思っている。
子どもが遅刻グセをつけて社会に出ていくことは、人生について大きなマイナスと思う。

さて、転勤して初めての日曜日の練習のことである。

実はこの中学校への転勤には驚いた。
ある日、いきなり校長から「おい、お前今から○○中学校へ行って来い」と言われた。
「何ですか?」と言うと「行けばわかる」と言われた。

行ってみると、校長室に通されて、そこには教育長がいた。そして、あまり言葉を交わすまでもなく「君、ここへ来てくれないか」といきなり言われた。

その中学校は荒れていて大変な状況で、教育長は立て直しに苦慮していた。
そして、教育長はあちこちの地区へ日参して、生活指導のできる先生を集める決心をしたのだ。
転勤してみると、1学年8クラスの全校で900人ぐらいの大きな中学校であった。

配属されたのは、2年生で、8クラス中、転勤して来た先生が6人だった。
毎日のように、万引き、バイク盗み、喧嘩などで学年会だった。
学校は先生対生徒という具合で対立しているという雰囲気だった。

生徒指導主事は、はっきりいって指導力はなかった。
毎日、生徒の問題で怒っているだけだった。
全校の前で、お説教をしても生徒たちはしらけていた。
職員会が遅くなって、帰ろうとすると、車のタイヤが全部パンクしているようなこともあった。

そういう空気の中で、転勤してきた先生には、生徒たちは警戒感のみならず、信用もしていなかった。
そういう状況で初めての日曜日の練習だった。

あらかじめ、生徒に日曜日の練習の時刻を8時30分と聞いていたので、それに間に合うように行った。正確には40分ほど前に行ったと思う。
前にも話したように、遅刻者がかなりいた。

私が指揮者の席に座っていると、遅れてきた生徒たちはびっくりした顔をして入ってきた。
だが、顔つきは「何だこの先公」という感じだった。挑戦的な態度にも見えた。
何か言われたらという挑戦的な気持ちもあったかも知れない。
どうも、遅刻してきても平気な習慣になっていたらしい。

私が

「遅いじゃないか」

と言うと、一人の男子が怒ったような口ぶりで

「だって、こんな早い時間に来れん」

と言った。

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ここで、私の生活指導の考え方を話してみよう。
生活指導てどうやっているんだろうとある指導を見た時、生徒たちの前で先生が、なにやらごたくを並べた後「そういうことは絶対しない!」と大きな声で言うだけだった。
まあ、生活指導というとみなこんな風だった。

時には、悪いことをした生徒を個室に呼んで、お説教をタラタラ言うのだが、そんな間生徒は神妙にしていても、あまり効き目があるとは思えなかった。

生活指導って何?
「言う」んですか?
「言うだけじゃあね」
というのが、私の気持ちだった。
では、どうすればいいのか?

人が聞いてくれるようになるには「心を動かさねばならない」と考えた。
それからは、私は「どうしたら心を動かせるのか」を考えた。

1時間のテレビドラマでは、45分ぐらいになると、不良生徒が「先生わかった」と涙をこぼしてめでたしめでたしになるが、現実はそう簡単にはいかない。

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時間が早いから来れないという生徒の挑戦的態度。

私はこれに対して、理屈で応戦してもだめだと思った。
たとえ。理屈でいい負かせたとしても反感を持っていたらダメだと思ったからである。
しかし、生徒は、先生が応戦してくると考えたようだ。

予想されることは、生徒は「8時30分をきまりだと、たてにとって先生は応戦してくるだろう」ということだ。

そこで、私は

「そんなら、守れる無理のない時間ならいいのか?」

と言った。
これには、生徒は意外と思ったらしい。
またグダグダとお説教が始まると思っていたのかも知れない。

他の生徒たちの表情も変わった。
顔をあげて、少し明るくなったようでもあった。

(何、この先生変わってるなあ)

と思ったのかも知れない。

部長が司会をして

「何時がいいですか?」

と言い、意見を聞いた。

静かだった生徒たちに、少し活気が出て、開始時間について意見が出て、候補の時間が出るたびにいろいろな反応があった。
次第に、それぞれの性格が感じられるようでもあった。
私はその様子を見て、各生徒の性格をとらえようとした。

最終的に9時30分という意見に集約されたとき、生徒たちは、果たして先生は承知するのだろうかというような様子で私の方を見たようであった。

私は

「じゃあ、9時30分なら守れるんだな」

と言った。

生徒たちは、無言でうなずいた。

「じゃあ、そうしよう」

と私が言うと、生徒たちはホッとしたようだった。

======================================================


私は、それでも遅刻してくるのではないかと思っていた。
それは、遅刻というのは習慣になってしまっている者がいるのではないかと思ったからである。
学習の意味にあるように、ある行動が繰り返されると、それが体に染みついてしまうという学習効果ができてしまっていると思ったからである。

だから、この悪い習慣をなんとか直したいと思っていた。
しかし、一度染みついてしまったものは、そう簡単に直せるものでもないと思っていた。
次の日曜日、かなり時間通りに生徒たちは来たが、やはり遅刻してくる者がいた。

前の時と違うのは、あわてた感じで入ってきたことだ。
時間通りに来ていた生徒たちは、わざと遅刻者に無関心を装っているようであった。
先生が何を言うかと思っていたのかも知れない。

私は黙っていた。
なぜか、遅れてきた生徒があわてた様子で入ってきて、神妙な顔をしていたからである。
おそらく、開始時間の問題ではないと身をもって感じ、前より向上した様子が見えたからである。

このようなことを繰り返すうちに、遅刻者は減っていった。
だが、どうしても遅れてしまう者が一人いた。

ある日、生徒たちは、またその彼が遅れてくるに違いないと思っていたのだろうが、時計を見ながら、今日はどのくらい遅れてくるかと思っていた時、彼が間に合う時間に入ってきた。

「オーッ」

という声があがった。

彼は少し照れくさそうに、自分の席に着いた。

私は

「えらいなあ」

と言った。
彼は私の方を見て「うん」というような表情を見せた。

生徒たちと、私は同じ仲間という気がして、みんなの表情も柔らかくなったような気がした。
変な対立の空気もなく、私は嬉しくなった。

======================================================


甘いという人もいるかも知れないが、これが私がやってきた指導である。
この指導が一番だと言うつもりはない。

しかし、なにやら先生に反抗的な生徒とも普通に話ができるようになりたいと思っていたし、それができるようになったことが何より嬉しかった。

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posted by edlwiss at 23:06 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月09日

バカもほどほどにして欲しいな〜これが指導主事?

 形式主義者の最大の特徴は,自分が形式主義者だという自覚がないことです。
これに気づけたら,形式主義から抜けられるのですが・・・。[1]


[1]

まさに自分のことを言っているんですね。
こういうのが、あたなの言う「ミラー現象」ですか?

だってね、あなたは「○○は□□だ」っていう、一般論にしてしまうパターン(形式)が多いですよ。
そんなに簡単に一括りにできのか?と思ってしまいますね。

(dolceさん)
>これって、何を考えているのだろうと思いますね。
>8時半開始をこれからは9時半にしようと決めただけで、以後いじらないですよ。

(私)
>「いじらない」と決めるのも,おかしい。「一度決めたんだから,この変更は許さない」というメッセージに聞こえます。形式主義者の典型的な発言です。

(docleさんの解説)
>なぜ『一度決めたんだから,この変更は許さない』というメッセージに聞こえます」になるんですか?
>開始時刻が早過ぎるという意見が出たのだから、話しあって「これなら守れるという時刻」に決めたんだから、その後、変更の意見が出るわけがないでしょう?
>だいたい、この人の思考は支離滅裂。

 dolceさんは,なぜ「変更の意見が出るわけがない」と言い切れるのですか?[2]


[2]

中学生に笑われるんじゃないかと思うよ。
希望通り変更したから、それを変更したいという意見が出るわけないでしょう?


それは,dolceさんが話し合いの後, 

>「9時30分でいいんだな?、絶対守れるんだな?」

 と脅したからですか?[3]

 どっちにしても,同じことですよ。

 「変更は許さない」「変更の意見が出るわけがない」というのは。

 変更があり得ないという意味で。

 でも,私は変更はあり得ると考えています。[4]

 理由はいくつかありますが,たとえば,以下の理由で。[4]

dolceさん>不合理なきまりを変更することは、構わないし、必要とも思いますが、大切なのは変更する手続きだと思います。

 私は,遅刻の生徒をめぐる指導で,「絶対に守れる時間」を設定させる行為,そして,そうやって決まった1時間遅れの時間こそが,「不合理なきまり」だということ[5],そして,そういう「話し合いの持っていき方」も望ましい「変更の手続き」ではない[6],ということを主張しているのですが,それは理解されないとしても,

 一度変更したことは二度と変更されない[7]

 dolceさんの言葉では, 

>話しあって「これなら守れるという時刻」に決めたんだから、その後、変更の意見が出るわけがないでしょう?

という考え方は,おかしいのでは?[8]


[3]

何か「脅した」と感じられる根拠があるんですか?
私は子どもを脅すなんてことは、大嫌いですが。

[4]

どこに「私は変更はあり得ると考えています」の理由が書かれていますか?

[5]

その「不合理」の根拠を示してください。

[6]

「望ましい『変更の手続き』ではない」という根拠を示してください。

[7]

誰がそんなことを言っていますか?
どこかに書いてあるとしたら、示してください。

[8]

そう思うなら「おかしい」と思う理由を述べるべきです。


 第一,「これなら守れる時刻」に遅刻してくるんですから・・・。

 だいたい,8時30分というのは,そのときだけ,気まぐれで早く設定された時間なんですか? 前の顧問から,日曜日の練習は,いつも何時何分から始まる,って聞いていなかったのですか?

 dolceさん自身が決めた形跡はないようなので,8時30分は,そもそも生徒の話し合いで決まった時刻ではないのですか?[9]
 
 8時30分に開始できた部活動が,9時30分を過ぎても開始できない結果に・・・でも,こんなのもどうでもいいんですよね・・・なにしろ,時間はいくらでもあるんですから・・・。[10]


[9]

さあ、わかりませんね。
私の思考回路は、選択肢がいくつかある時、どれを選択するか根拠のないときは「わからない」と答えが出ます。

[10]

以前にも確認しましたが、一日は24時間です。
あなたは「時間はいくらでもある」とお考えのようですね。
それは、人間にとっての時間のことですよね?
つまり、人間が活動するという。
だったら、人間は永遠に生きますね。
私は人間にとって「時間はいくらでもある」なんて考えていませんよ。


 学級崩壊をおこす担任の典型的な例ですよ。



「典型的」と言うほどだから、たくさん実例を知っているんだろうね?
いくつか紹介していただけますか?

そして、指導主事(元?)という具合だから、あなたがしっかり学級をまとめた、具体的実践例を紹介していただけないでしょうか?

学級崩壊で困っているところが多いようだから、あなた指導に行ったらどうですか?

どういうわけか、私は自分のやり方で学級崩壊したことはないんですよ。
(どうも、ご期待にそえないようですね)



 「どうして授業中にマンガばっかり読んでるの!」

 「だって授業つまらないんだもん」

 「マンガ読むの,やめなさい」

 「やだー」

 「じゃ,何分て,決めなさい」

 「20分!」

 「絶対に,守りなさいよ!」
 
 「はーい」

 ・・・・次の授業で

 「こら!何で20分すぎてるのに,まだ読んでるの!」

 「絶対に守るって,約束したでしょ!」

 「でも,おもしろいんだもん」

 「どうして約束が守れないの?」

 「だって,授業よりマンガの方がおもしろんだもん」

  ・・・・・


これって、ノンフィクションですか、フィクションですか?
ノンフィクションだとしたら、ここまでに至る学級指導が非常に問題ですね。

授業中に子どもがマンガを読んでるって経験は私には全くありません。

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posted by edlwiss at 21:06 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月09日

オレがオレがでは大切な事を見失う〜実れば実るほど頭を垂れる稲穂かな

教員だったら、正しい文章を書くのはもとより、その使命は何か考えてもらいたいですね。

今回も次のことがらに問題があります。

1.事実想像をきちんと区別して書くこと
2.結論を言うなら根拠をはっきりすること
3.「思考する時の(集合の)要素」が足りないから、間違った結論に達する
4.常に「オレが教えてやる」「オレが正解を知っている(それしかない)」という姿勢が問題


浅い思考のミラー現象 (2)

 
 dolceさんは他人を批判しているように見せかけながら[1],自分のことをネタ[2]にしているすごいブロガーです。


[1]

これはどのような根拠でそう判断したんでしょう?
オレ様がそう思うからそうだということですか?

[2]

本人としては、そんなつもりは全くありません。
これも、根拠を示してください。

私は吹奏楽の指導というのは,全国で金賞の常連校にいたときのことしか分からない(嫌な教師を相手にしてしまいましたね[3]・・・私は子どもをけなしたくはないので,何も言いませんでしたが[4])んですが,朝,部活動が始まっていきなり「合奏」という練習形態ではありませんでした。[5]


[3]

この「嫌な教師」とは誰なんですか?

[4]

この「子ども」とはどんな子どものことですか?

[5]

そうですか?
で、それが何と関係があるのですか?


これ,専門家に聞くのも失礼かもしれませんが,
 
>私は,ただ全員が集まらないと合奏ができないから,開始時刻に集まるような指導がしたかっただけ

>その生徒とコミュニケーションとっている間,他の生徒はどうするんですか?

 dolceさんの吹奏楽の指導は,はじめから合奏なのですか?・・・ということはつまり,生徒が自主的に(パートの)練習をするということは,あり得ないのですね???[6]


[6]

あり得ますけど、何でこんな質問をするのかわかりません?

「音楽室」としか書いてなかったので,ちょっと心配になったのですが。

 遅刻してきた生徒の指導は,他の生徒が個別の練習をしているときにすればよいのでは?


[7]

個別の問題ではないと判断したから、個別にはしなかったということです。

なぜ,朝,学校に来た生徒から,パート練習を始めていてはいけないのですか?[8]

 個別の練習は存在しないのですか?

 全員一斉でないと,始めない,という主義なのですか?

 教師がそこまでコントロールしないといけないのですか?


[8]

いけないとは言っていませんが。
練習に集まる時、たとえ遅刻しないとしても、来る時刻には個人差があります。
開始時間まで、何もしないなんてことはあり得ません。早く来た生徒は自分の練習をしています。そういう姿が想像できないんですか?

「全員が集まらないとできない」って,もし遅刻ではなくて家の都合で生徒が来なくなったら,練習は中止になるのですか?????


[9]

何とも言えませんね。来ない理由にもよりますから。


遅刻者は除いて,合奏を始めるというのは不可能なのですか???[10]

 疑問だらけですみません。[11]


[10]

遅刻者を除いた練習はできますが、いない者の練習にはなりませんね。

[11]

そりゃあ、あなたの思考力の貧困からくるものでしょう。
質問が幼稚すぎます。


>dolceさんの学校のレベルの吹奏楽の活動が想像できないのです。[12]


[12]

これは、まずあなたに鑑賞能力(聴く力)があるかどうかの問題です。
それと、実際に活動の様子を見ないことには、超能力のある人以外は無理というのが常識でしょう。
想像できないことが何か問題になるのでしょうか?


dolceさん>野球の試合で,9人集まらなくても始めますか?

なぜいきなり本番の話を始めるのですか?[13]


[13]

本番の話をしたかったからです。
ナイター中継は、本番から放映しますけど。
あなたは、放送局に「なぜ、本番から放映するんですか?」と質問しますか?
食事の話をするとき、あなたはいつも調理するところから話すんですか?

こういうのを「浅い思考」というのではないですか??[14]?


[14]

そうですね。あなたの質問は「浅い思考」の典型でしょう。


野球の試合の前には,必ずアップをするんですよ。高校野球なら,シートノックもあります。試合開始よりずっと前に集合は完了しているんです。

 この話を日曜日の吹奏楽部の練習に当てはめると,全員が集まるのを待って,いきなり「合奏」なのですね・・・。[15]


[15]

吹奏楽部には当てはまりませんね。
全員でそろってウォーミングアップはよくやりますし。
一人ではハーモニーは出せませんからね。
全国で金賞の常連校にいたにしては、知識がないですね。

dolceさんは,この失敗事例から,何を学ばれたのですか???[16]


[16]

「この失敗例」とは具体的に何を指していますか?
私が学んだのは、東京にはおかしな教師がいるんだということです。

話し合いの結果,遅い方がいいという子どもに,早くから来ている子どもが合わされる結果になってしまいましたね。[17]


[17]

「合わされる」というのは適切な表現ではないですね。
なぜなら、生徒は全員承諾したのですから。

この指導の失敗[18]は,「絶対に守れる時間」を決めさせたことにもあります。

 学級崩壊を起こす教師の典型は,まず教師自身がわがままな子どもの要求を飲んで,きちんと約束を守っている子どもにもわがままな子どもの要求を飲ませるような行動をとることです。
 
 時間を遅らせれば,その前にできることが生まれてしまいますから,ますます時間に遅れる子どもが出る可能性も出てくるということに想像が及んでいない。


[18]

なぜ失敗なんですか?
失敗かどうかは、その後の活動の様子をみなければわからないと思うんですけどね。
あなたの思考回路の欠陥は、実践や事実に関係なく結論を決めていて、それにストーリーを妄想するという、最近問題になった検察の冤罪事件の話題にそっくりと思います。

あなたの思考力が貧困なのは本質がわかっていないことです。
本質がわからないということは、生徒の心理が読み取れないということにもなります。

この開始時刻の問題の本質は、すでに、この一連の問題のブログを読んでいる賢明な方々にはおわかりだと思いますが「開始時刻が早いから、遅刻をするという問題ではない」のです。
遅刻する者は、集合時間が何時であれ遅刻をするのです。

それを納得させるために、お説教するより、身を持って経験させるという指導をしたのです。

・・・私の知っている吹奏楽のレベルと全然違う[19]ようなので,そもそも噛み合わなかったのもしれませんね。


[19]

ここで言う「レベル」とは何のレベルなんですか?
あなたの文章を読んで、教員のレベルは間違いなく低いということはわかりましたが。
「ラベル」の間違い(笑)

>・・・あなたは考えが足りなさすぎですよ。
>練習場所をいくつかの部活で,時間を割り振って使っている場合は,その時間を・・・吹奏楽部の音楽室は一日中空いているんですよ。

 dolceさんの指導法には,パート練習の場所をいくつかの教室に分けて,始めさせる,というのはないのですね?[20]


[20]

ありますけど。
また、そういうことはないという妄想が浮かんだのですか?

>遅刻に厳しいから,遅刻させないような手立てを考えている

 どうしてばらしてしまうのでしょう???[21]


[21]

何をばらすんですか?
あなたは、人には誰にでもわかるような主語が「わからない」と言うのに、あなた自身は全く目的語のわからない文章を書くんですね?

dolceさんは,スピード違反の例を出すことで,「ルール違反(時間に遅れること)」を犯さないようにするために,「ルールを緩める(時間を遅らせる)」ことをその手立てと考えていることを告白してしまったのですよ!!![22]


全く思考回路がおかしいね。
ルールを緩めるのではなく「適切なルールを作る」ことにより「決まりを守る意識を高める」のですよ。

決まりを守ることを要求する以上、決まりも適切でなければいけない
ことを教えるんですよ。

あなたは、確か、社会科の先生だと言いましたね。
荘園制が崩壊したのは、税のきまりが納税可能な範囲でなかったからではないですか?

これ,本当に「遅刻に厳しい」って言えるんですかね。・・・全然厳しくない。[23]


[23]

これは、あなたの思考回路が狂っている証拠ですね。
一般に「〇〇に厳しい」という意味は、許容度が少ないということですよ。

何に対する許容度かと言うと「決めたことに対する許容度」ですよ。

例えば、ある部品を作る許容度というのは、決まっている寸法が100mmなら、許容度±1mmより±0.1mmの方が厳しいと言うのです。

先生が、そんなことじゃ困りますね。

時間に厳しいというのは、早くこなきゃいけないのではなく、決まった時刻に1分でも1秒でも遅れてはいけないというようなものです。

大学時代、ある先生は「5秒遅れたら教室へは入れない」という人がいて、厳しいという評判でした。

だって,時間を遅らせることには何の抵抗もないのですからね。[24]


[24]

この言い方は「一般論」ですね。一般論にすり替えるという姑息な考えともとれます。
一般社会の活動においても、いつでも「時間を遅らせることに抵抗はない」ということはないですよ。

時と場合により、妥当な時間を決めるというところに人間の知恵が働くのであって、あなたのように、一般論にしてしまうことこそワンパターンの形式主義じゃないですか?


そういう教師は,ただ「ルールは守らなければいけない」ということだけを主張する,形式主義の人間として,生徒からくくられることになるんですよ。「ルールだから,守れ」と。[25]


[25]

これも一般論化ですね。
つまり「○○というのは□□だ」といういい方と同じです。
それは「○○というのは□□だ」と言っているのと同じなのですよ。

あなたは、「そういう教師は、みな・・・だ」という検証をしていますか?
根拠を問われたら答えられますか?
でなかったら、何の根拠もなく勝手に結論を決めていることになりますね。

何の根拠もなく結論を決める先生というのは、子どもに対処することを考えると、教員の適正に疑問を感じますね。


制限速度が上がれば,さらにそれ以上の速度で車が走ってるって,自分でも書いているでしょう・・・[26]。。。それで事故が起こった場合,制限速度を上げたことが原因だと追及されるから,めったなことでは制限速度は変わらないですよ[27]・・・というか,人間などはめったにいない道路なのですかね・・・。


[26]

誰がどこに書いていますか?

[27]

めったにかどうかは知らないが、私は「変わった」という事実だけ報告しただけです。


>各家庭にはいろいろな事情があるんですよ。

 この考え方のちょっと浅いところは,遅い時間に始まったら困る子どももいる[28]ということです。終わりの時間がいつも通りなら,いいのでしょうが。


[28]

考えが浅いのは誰でしょうか?
賢明な読者ならわかりますね。

生徒全員が納得して決めた時刻だから、困る子どもはいないでしょう?

>dolceさんの指導では,家の都合で早退したいと言ってきたら,どうするのですか?

 また,家の都合で遅刻する,と言ってきたら?[29]


[29]

やむを得ない事情なら承諾しますが。
当たり前のことでしょう?
よくこんな質問するなあと思います。

「希望をきく」「話し合わせる」というのは,ただ混乱を招く結果に陥る可能性もあるわけですよ。


[30]

これなんか、思考がパターン化(形式化、硬直状態)している証拠ですね。
これで、人に形式主義ってよく言うね。

じゃあ「希望をきく」「話し合わせる」ってよくないことなんですか?
あなたは、そういうことをしないんですか?

また、混乱を招くということもあるかも知れません。
しかし、それは悪いことですか?
もし、あなたが「希望をきく」「話し合わせる」ということで懸念を抱いているとしたら、これこそ学校は事なかれ主義と言われる原因になりませんか?

火中の栗を拾うとか雨降って地固まるという言葉を知りませんか?


全員の希望を聞いて,しかも,全員がそろう時間に行うって・・・これ,何人くらいの生徒で練習していた話なんですかね。まさか,数人程度???[31]


[31]

60人くらいですけど。
 
何が何でも,全員がそろわないと練習ができない,という発想というか指導法でなければ,すぐに解決する問題だったのですが。[32]


[32]

あなたの性格からすればそうかも知れませんね。
でも、私の考えは違います。
あなたの考えは、いい方を変えれば一人や二人はどうでもいいともとれます。

子どもは、リンゴ一箱とは違いますよ。

先生から見たら60人は大勢かも知れませんが、各家庭から見たら、みんなかけがえのない大切な子どもですよ。

「一人や二人乗り遅れたって」のような考えは、教師としてはもってのほかと思いますね。
保護者が読んだらどう思うでしょうね?

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posted by edlwiss at 18:40 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月09日

民主主義だって?呆れるね

この人、社会科の先生だと言うんだが大丈夫か?
民主主義の意味がわかっているの?

誰が部活で民主主義をやってるって?

************************************
【民主主義】
人民主権のもとに政治が行われること。
************************************

欠陥オンパレードの文章だ。

民主主義を部活動で展開する必要はありません。[1]

 部活動によって,民主主義が成立するための基礎を固めるのです。[2]

 民主主義が成立する基礎がない限り,民主主義は本物にはなりません。[3]

 民主主義ごっこを民主主義が成立する基礎がない人間同士で行うとどうなるか。

 将来にわたって,民主主義が根付かなくなります。[4]

 「民主主義が成立するための基礎」とは何でしょう。[5]

 これが分からない人が部活動の指導にあたると,民主的な国家・社会を形成する人が育ちにくくなります。[6]

 変な言動に惑わされることはありません。[7]

 中学校の部活動では,民主主義の基礎をつくることが大事なのであって,民主主義のまねごとをするのは時間の無駄です。[8]

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

民主主義の原理を導入して,「おかしくなった」という自覚ができない人間が多いことが,建前第一主義,民主主義「絶対主義」の教師の典型的な姿なんですよ。[9]
そして,「おかしくなるとは限らない」という言葉に,「おかしい状態はあってはならない」という価値観がにじみ出ているのです。[10]
「おかしくなるのは当然」なんですよ。
それは,封建制でも,民主制でも,同じ。

「依拠する」の主語は何ですか?[11]

主語をかかないですむ日本語の最大の特徴を悪用して,自分の責任を回避する,これも教師特有の語法です。[12]

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

何とか主義者ってもうあまり聞かなくなっていますが,パターンにあてはめて物事を考えようとなさる。[13]


[解説]

[1]

誰か民主主義を部活動で展開していますか?

minsyusyugi.jpg確認しておきたいんだが、民主主義というのは、組織の一番下に属するものに主権があるんだよね。
部活動で民主主義を行うということは、生徒に主権があることになりますね?
教師をさしおいて、生徒が何でも決定できますかね?

[2]

「部活動で民主主義が成立するための基礎を固める」って?
いったい、それはどのように行うんですか?
あなたの実践を紹介していただけませんか?

[4]

「民主主義ごっこ」の例を紹介していただけませんか?

[5]

「民主主義が成立するための基礎」って、わかりません。教えてください。

[6]

そうなんですか?
部活動やっている人って、民主主義のこと考えてやっているのかな?

「民主的な国家・社会を形成する人が育ちにくくなります」って、どのようなメカニズムでそうなるんですか?

[7]

「変な言動」とは、具体的に何ですか?

[8]

「民主主義の基礎」を教えてください。
「民主主義のまねごとの例」を教えてください。

[9]

「民主主義の原理を導入して,『おかしくなった』」という例を教えてください。

[10]

これって日本語ですか?
何を言いたいのか、わけがわかりません?

[11]

普通に読解力のある人なら、この主語の省略はわかりますよ。
高校入試のレベルの問題ですね。

[12]

責任の回避じゃなくて、あなたの読解力の問題です。

[13]

「パターンにあてはめる」って、あなたそのものじゃないですか?
あなたは、勝手に、部活動で民主主義をやっているって、あてはめているじゃないですか?
あなたこそ、形式主義者じゃないの?

[総評]

この人の文は、口から出まかせというか、無責任そのもの。
出てくる用語に対して、責任を持たない。

どこかの爺さんが、何もわかっていないのに「哲学の欠如」なんて言葉をやたらに使っているのを思い出した。

秋になると、稲刈りが始まるが、稲籾を押さえてみたら中身がカラだったというようなもの。
格好だけつけているが、この人の頭の中は空っぽ。

私が部活動の実践で、練習開始時刻について、生徒たちの意見を聞く話し合いを行ったら、それを「民主主義」と勝手に決めつけた。

「ある形式をもってきて当てはめようとする」ということを批判した自分自身がやっているんじゃないか?

部活動をよりよく運営するには、生徒ひとりひとりの性格、環境をつかむことが大切だ。
だから、誰でも自由に意見が言える空気をつくることは大切だ。
また、部活動は教師と生徒が一体となって作っていくものだ。
それには、なるべく大勢から意見や発想を求めた方がいい。

ひとりひとりを大切にし、ひとりひとりの幸福を願うためにやっているわけであって、民主主義をやろうなんて思っているわけじゃない。

本当にこの人の頭、大丈夫なの?

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posted by edlwiss at 10:04 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月08日

自分の指導評価をどうする?

学校では、研究授業を行うと反省会を行って、本人の反省はもとより様々な意見を聞いたり、講師の指導・高評を伺ったりする。
これは、ひとつの形式にのっとったやり方で、それも意味があると思う。

しかし、道徳の研究授業では、よく言われることだが、授業の体裁がどんなによくても、その後の児童生徒の実践がなければ、授業は形だけのものになってしまう。

私の部活指導について、あれこれ憶測で語った人がいたが、私は部活動の指導をどう考えているかというと、

1.楽しく
2.個人が生き生きとしている
3.個人が進んで参加している

ということを念頭におき、上記の1〜3はみな関連があるのだが、一言で言えばひとりひとりの幸せを願っているということである。

理屈を考えれば、あとからいろいろ考えることもできるが私自身の性格として、人はもちろん身の回りにいる猫や犬など動物、植物が輝いていることが好きということがあり、そういう状況を見ると自分も幸せな気分になるのである。
これは、私自身が生まれながらに持っている性格なのか、生育歴によるものかはわからない。

もう20年ぐらいは前のことだが、正月に都会の楽器店へ出かけた時のことだった。
用事を済ませて、地下鉄に乗ろうと歩いて橋にさしかかった時、橋の傍らにござを敷いて座っている年の頃60後半から70前半の女性が座っていた。
私はドキッとしたが、無関心を装いそれとなく様子を見た。

女性は身ぎれいで、周りに何か物を置いていたが、人から物乞いをする乞食のようには見えなかった。
表情を見ると、私にそれとなく見られているという意識があったのか、少し薄ら笑いをしているように見えた。

その日は天気が良く、自宅の庭か、そうでなくても人が座っていても不自然でない場所なら特に気にすることもないのだが、橋の上に座っているというのはどうにも無視できる様ではなかった。

私は心にひっかかるものを感じながらも、地下鉄の駅の方へ向かった。
引き返して「どうしました?」と声をかけたいという気持ちもあった。
しかし「他人のこと、余計なおせっかい」とか「声をかけたことで様がわるくなっても」などという気分もあって、そのまま帰ってしまった。

でも、その女性が何か不幸をかかえて薄ら笑いでカモフラージュをしているのではないかと思うと、未だに気にかかっている。
別に恥をかいたっていいじゃないか、なぜ声をかけなかったのだともう一人の自分が時おり責めるのである。

とにかく、私は人が沈んだ顔をしているのを見るのが嫌いで、笑われるかも知れないが野良猫に遭った時も「おい、どうした」と声をかけてしまう。

猫はびっくりした顔つきでこちらを見る。
「なんだ、この人は」という表情で足早に去る猫。時おり振り返りながら去っていく猫。
ごくまれに「ニャア」と鳴いて寄ってくる猫もいる。

そんな珍しい猫のうちで、トラ猫がいた。
私はそのトラ猫に「ミーちゃん」と名づけて、時々ミーチャンに会うのが楽しみだった。

そのうちミーちゃんはなれなれしくなって、ある日、私が車を止めると、なんと車に乗り込んで来て、探索を始めることもあった。

とにかく、私は笑顔が好きで、人を笑わせるためによく洒落を言うのでそれが有名になってしまった。

つまり、私は子どもたちと楽しい時を過ごしたのである。
楽しいと言っても、指導をするからには有意義な時間でなければいけない。

その有意義かどうかの評価が問題であって、その時の指導過程がよかったかという反省もあるのだが、私が最も大切にしているのは指導後の子どもの変化である。

授業でも部活動でも、生徒がいやいや参加しているのではあまり意味がない。
「あまり」というのは、始めは嫌でも、だんだん好きになったとか、時には辛抱の必要なこともあるだろうという意味である。

言い換えれば、少なくとも嫌いにしないということで、嫌いにしているのならやらない方がいいということになる。
指導の効果としては、より好きになったということが大切である。

こう言うと、表面的な楽しさに視点をおいて批判する人がいるかも知れないが、ここでいう楽しさとは充実感を感じる楽しさであって、そういうことは子どもの作文を読んでみたりするとよくわかる。

例えば「テレビで好きな番組を見たりするのは楽しいが、何か足りない気がする」というようなことが書かれている。

「今まで、こんなに長い時間集中して練習をしたことはなかったが、長続きできなかった自分ができた」という喜びや「自分がこんなにできるようになった」というような嬉しさが表現として感じられることもある。

それに、音楽の場合なら「音楽そのものが持つ魅力」によって惹きつけられるということもある。

「そのものが持つ魅力」とは、他の教科でも同じである。
だから、国語の先生であれば、国語の魅力が伝わる指導が大切だということである。

大学で教わったある先生が「家庭学習のさせ方」という本を出版したが、その中で「英語を好きになるようにさせたいなら、大学教授クラスの先生の家に遊びに行かせなさい」ということが書かれていた。

その意味は、大学教授程度のレベルの先生なら、単に英語を教えることが仕事というレベルではなく、先生自身が英語のおもしろさを感じているに違いない。だから、遊びに行かせるだけで、子どもは英語が好きになるだろうということだった。

これは、子どもに好きにさせるのなら、教える方が好きでなければならないということを示唆しているとも言える。

先生は何年も同じことを繰り返しているうちに、マンネリズムに陥りやすい。
そうなった時は、教わる方からしたら魅力を感じないだろう。

前置きが長くなったが、指導後に子どもがどう変化したかを観察することで、指導の影響力を知ることができる。

荒れた学校はとかく生徒が教師に大して反抗的ということもあるが、それでも、部活動終了後、生徒たちは帰りながら練習した曲を口ずさんでいたことがあった。
これなどは、意識的か無意識的かわからないが、影響があったということと理解できる。

音楽コンクールでたいていは全国一をとっているのに、中学校へ行ったらほとんど音楽の部活に入部しないというのは、何か問題があると考える。

「ウチの娘は、某先生についてから、パタッとピアノを弾かなくなった」という声を聞いたこともある。
また、ある生徒は先生に対する不満を時々漏らしていた。
理由を聞くと、自分の練習が足りなかったせいか、今日はうまく弾けなかった時でも合格にしてしまうから嫌だというのだ。
○をよくくれる先生がいいとも限らないのだ。

私自身のことに触れるなら、私が音楽を教える資格などとてもないと思っていた。
だが、いつの間にか「音楽の先生にされてしまった」という経緯がある。

しかし、周りの人達がよくしてくれて、勉強をする機会を与えてくれたことには感謝しなければならないと思っている。
私が専ら音楽が好きで一生懸命やっているということで、いろいろな先生を紹介してもらったり、その他応援してもらった。

ある日、部活で生徒たちに「今度、パリ音楽院から先生が来てくれるということだ」と言ったら、そんなわけはないと全く信用されなかった。
でも、本当にダニエル・デファイエ氏が来てくれた時は、私も生徒も驚いた。
ダニエル・デファイエ氏はあの有名なヘルベルト・フォン・カラヤンがサックスのソロを必要とする時、いつも呼んでいた人だ。

夢中になってやっていたら、いつしか音大へ行く生徒も多くなり、それは生徒自身の力だが、音大へ行った生徒たちが同級生に「おもしろい先生がいる」などと話したらしい。
それで、夏休みなどに、それではそのおもしろい先生を見に行こうということになり、よく練習を見に来たことがあった。
それで、生徒たちは刺激を受けたりして、より音楽に夢中になっていった感じがする。

私は自分が指導したなどと言うより、生徒たちから教わるという感じになっていったように思う。
例えば、かつて吹奏楽部にいてドイツへ指揮の勉強に留学した生徒から、帰国してから、話を聞く中で「レコードやCDを聞くな」ということが出てきた。

彼は私にそのことを直接言ったわけではないが、私には「先生、レコードやCDを聴かないでください」と言われたような気がした。

それは、楽譜からイメージすることが大切であり、恥をかいてもレコードやCDに頼るなということであった。
つまり、レコードやCDを聴くことで楽譜を読まなくなるということなのだ。

これは、かつて教わった先生からも似たようなことを聞いたことがあった。
少なくとも「先にレコードーを聴くな」ということだった。

先に聴くと、どうしても聴いたもののイメージが残ってしまって、自分の解釈かどうかわからなくなってしまうからである。

私は改めて、かつての生徒から「レコードやCDを聴くな」という言葉を戒めとして、今も守っている。つまり、聴くのは自分でさんざん楽譜から読み取って解釈してからのこである。

そういう点では、コンクールは気をつけなければいけないと思うようになった。
コンクールのことをしばしば批判して「そつなく、ミスなく、おもしろくなく」と言われる。

課題曲が発表されると、模範演奏なるものが出回る。
そして、良い賞をとるところは、この模範演奏に近いとも言われる。

その理由は、コンクールでは個性的な演奏は点数を稼ぎにくいからである。
演奏はあまりおもしろくなくても、減点のない演奏がよい点に結びつくということである。

また、コンクールの課題曲を仕上げるには、模範演奏を聴かせてしまった方が早い。
コンクールは大会までの期間に、いかに完成度を高めるかという勝負でもあるから、練習の中身にあまり教育的なものを盛り込むより形を早く作ってしまった方がよいからである。

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posted by edlwiss at 14:10 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月07日

思考回路の問題〜浅い思考と矛盾する思考

おかしな文章のサンプルには事欠かない状況ですが、今回もその解説をしてみます。
囲みの文章がサンプルです。

数字とゴシック体は私のつけ加えです。

ちょっと細かい話をすると,たるんだ部活は別として,学校での練習時間というのは,「許可されている時間のぎりぎりめいいっぱい全部」が当たり前では?[1]・・・もちろん,他に使う部がないからと言って,延々と活動するということは問題ですが・・・。
 「何時なら遅刻しないで来れるんだ」なんていう「開始時刻を遅らせる」ことが前提の話し合いではなく,もっとましな話し合いはできないのか?というのが私の考えです。[2]
 開始時間という形式の問題ではなく,しょうさんも指摘されていましたが,活動の中身の問題,遅刻してくる生徒の意識の問題などです。[3]


[解説]

[1]

日曜日に音楽室使う部活はないので、一日中空いていますけど。この人は、想像する集合の要素が欠けている事が多い。例えば、動物園を想像した時、トラとライオンしかしないと思っているようなもの。

[2]

「時間を変更してもいい」という提案が、必ずしも「『開始時刻を遅らせる』ことが前提」になるとは限らないじゃないの?
意見の出る可能性は、@今までの時刻でいいA開始時刻を遅らせるの二通りの可能性があるんじゃないですか?
とにかく、この人は集合の要素が足りないんだよ。

[3]

この文章の意味がわかる人いますか?
まず、開始時間って形式なんですか?
開始時刻に練習が始められないというのは「活動の中身」の問題ですか?
だったら、どういう活動の中身なのですか?

「開始時間という形式の問題ではなく」と言っていますが、開始時間の問題ではないから、私は開始時間を変えてもいいという指導をしたんですが、誰が開始時間を問題にしていましたか?

空想していることがおかしいんだよね。


(dolceさん)
>これって、何を考えているのだろうと思いますね。
>8時半開始をこれからは9時半にしようと決めただけで、以後いじらないですよ。

→「いじらない」と決めるのも,おかしい。「一度決めたんだから,この変更は許さない」というメッセージに聞こえます。形式主義者の典型的な発言です。[5]


[解説]

[5]


あなたが「しょっちゅう開始時刻を変えている」と勝手に妄想したから、以後変えていないと返信したのであって、それがなぜ『一度決めたんだから,この変更は許さない』というメッセージに聞こえます」になるんですか?
ここにはワンポイント思考が出ている感じがします。

開始時刻が早過ぎるという意見が出たのだから、話しあって「これなら守れるという時刻」に決めたんだから、その後、変更の意見が出るわけがないでしょう?

だいたい、この人の思考は支離滅裂。
開始時刻は形式だとい言い。形式を守るのは人間的ではないと言っている。
ということは、時間(時刻)は守らなくていいと言っているようなもの。

吹奏楽部の練習をするのに、全員が集まらないと合奏はできないですよ。
だから、時刻を守って集合しないと中身のある練習はできません。
それを、時刻の問題ではなく、中身の問題だというのはおかしくありませんか?
多分、具体的な場面が想像できないから、こういう矛盾したことを言うんでしょうね。

それに、この人は、たまたま職員朝会が長引いて、朝の会に遅れたことをすごく問題したのに、開始時刻は形式であって、守る必要はない。中身の問題だと言っていました。
言っていることに、矛盾がありませんか?

この人は、形式やきまりを批判し、中身が大切といい。中身を大切することは、形式や決まりを守らないことだと言っている。
こういう思考回路がおかしい。どうおかしいかというと、形式やきまりと中身を二者択一で考えていることだ。
つまり、@形式やきまりを重んじることは、中身をいい加減にすることで、A中身を重んじることは形式やきまりを無視していいという二者択一の思考しかない。

OR_AND.jpgそうではなくて、形式やきまりも中身も大切という考えが正常なのだ。
だから、私は思考回路がおかしいというのだ。OR回路とAND回路の使い方がおかしいようなものだ。


私が問題にしていたのは,形式主義者による形式主義的な「話し合い」の投げかけであって,こんな指導では「民主主義の精神」は子どもに根付きませんよ[6]

 dolceさんの形式主義者らしさ[6]は,最新の記事にも反映されています。

(私)
>遅刻した生徒が「集合時間が早い」せいにしたこの件は、個別指導をすべき場であって、そういうのが苦手な教員が、生徒全員に投げてしまうんですよ。「話し合え」って・・・。

(dolceさん)
>結局、何が何でも8時半に来るように認めさせるということでしょうか?

 ・・・だから,形式主義者だって言われてしまうのに・・・。

 「何が何でも時間を守れ」なんて言うよりも,その生徒としっかり面と向かったコミュニケーションがどうしてとれないのでしょう?[7]

 どうして

>では、どのように個別指導するのでしょうか?

 なんて寝ぼけたことが言えるのでしょう?

 時間を守って登校し,早く活動したい生徒はただでさえ待たされているのに,遅れてきた生徒のために,さらに活動時間を奪われて,「話し合い」に入る・・・。

 中学校の部活動というのは,時間は宝石より貴重なものなんですよ。[8]

 部活にもよるかもしれませんが,時間になったら,開始されるのが普通なのが部活動です。[9]



[解説]

[6]

gennjitsutokuusou.jpg誰が民主主義の精神を子どもに根付かせようと、しているんですか?
あなた、自分の頭の中の妄想を事実と混同していませんか?

私は、ただ全員が集まらないと合奏ができないから、開始時刻に集まるような指導がしたかっただけなんですけど。

全員揃って練習するのが、形式主義者なんですか?
笑えますね。

[7]

その生徒とコミュニケーションとっている間、他の生徒はどうするんですか?


[8]

これこそ、紋切り型の形式主義じゃないんですか?
時と場合によって、どういう指導をすべきかを柔軟に考えるのが指導者の指導者たる所以だと思いますが。

時間は、中学校の部活に限らず、あらゆる場面で大切ですよ。
あなたは「時間は宝石より大切」と言いますが、1億円のダイヤを落としても、探さないで時間の方が大切だと言って、探すのを放棄しますか(笑)

そうじゃなくて、臨機応変に対処することが大切じゃないかと思うんですがね。

[9]

決まりは守らなくていいと言う人にしては、矛盾していますね。
それに、全員集まらなくても合奏を開始するのが、普通ですか?
あなたが指導者の時はそうしてください。
どういう状態であろうと始めるという考えこそ形式主義じゃないですか?

集まらないと、始めようにも始められないってことがあること知らないんですか?
野球の試合で、9人集まらなくても始めますか?


でも,dolceさんは,本当に遅刻に甘い。[10]

 理由は,授業に遅刻する自分がいるからです。自習になる例もはじめとして,いくつ例をあげてくれましたっけ?

 遅刻してくる生徒に,「正当に遅い時間」を創造するチャンスを与えるって,ちょっと考えられない発想です。このセンスは,しょうさんにもないようですが。

 顧問と生徒との会話で,その子どもがどうしても「9時30分でないと来られない」というのであれば,遅刻してくるその子どもが「1時間遅れでも参加させるかどうか」の話し合いというか許可をとればいいのです。全員を巻き込む必要はありません。


[解説]

[10]

逆じゃないですか?
遅刻に厳しいから、遅刻させないような手立てを考えているんですよ。

きまりに厳しいという例をあげてみます。

私の住んでいる街で、車がスピード違反よく捕まる道路がありました。
そのことで、住民から文句が出ました。
なぜって?
「スピード違反は悪いけど、速度制限があまりにも実情に合っていない」
という文句です。

現場検証した結果、警察もその抗議に納得して、速度制限を変更したんですよ。
それから、違反も減ったし、守らなかったら守らない者が悪いと住民も納得したんですよ。

部活動の開始時間が適当かどうかは、どのように決めるべきか、あなたは考えが足りなさすぎですよ。
練習場所をいくつかの部活で、時間を割り振って使っている場合は、その時間を何が何でも守らなければならないが、吹奏楽部の音楽室は一日中空いているんですよ。

日曜日は、家の仕事を手伝って来る者もいる。
弟や妹の面倒をみなければいけない者もいる。
各家庭にはいろいろな事情があるんですよ。

だから、今まで決まっていた時間が本当に適切かどうか調べるためにも、全員の事情を聞くということは大切だと思います。
あなたは、民主主義とか何とか言っているけど、そんなことはあなたが勝手に妄想しているだけです。

中身が大切ということは、生徒たちの生活環境を掌握することも含むんじゃないでしょうか?
自分の妄想だけで決めるということこそ、形式主義でしょう。


時間がありあまるほどある人ほど,時間を大切にする感覚は失われていくというのは,「妄想」ではないですよね。[11]

 最後に一言。

 時間を遅らせることにする・・・私が冷静さを保てるぎりぎりいっぱい,最大のラインはせいぜい30分ですかね。本当は10分と言いたい。[12]

 それが何と,1時間!

 驚愕の数字です。「重症」だと言いたいことが伝わらない人が顧問をやっていることが,哀しくてなりません。


[解説]

[11]

これって、何が言いたいのかわかりませんね。
多分、あなたには別な妄想があるんでしょうね。

部活開始時刻を1時間送らせたからこういうんですか?
だから、時間がありあまるほどあるって考えるんですか?

だったら、頭が悪いですよ。
開始時間が1時間遅れたら、その日が23時間になるというのなら別ですがね。

この意味わかりますか?
以前は部活終了後に勉強していたら、今度は部活に行く前に勉強をするなど時間の使い方を変えるだけですよ。
こんなことも、頭が働きませんか?

[12]

これなんか妄想の最たるものですね。
いったい、30分とか10分とかの考えは何の根拠で出てくるんですか、あなたの勝手な妄想だけでしょう?

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posted by edlwiss at 22:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月06日

思考回路の問題〜文章を組み立てる要素

tadasiibunnsyo.jpg正しく動作する機械を組み立てるには、機械を組み立てる部品に欠陥がないことが大切である。

欠陥のない部品によって組み立てられた機械によって、欠陥のない製品ができるように、思考を構成する言葉の意味(用語)も正しく使われないと、説得力のない、中身のない文章になってしまって、それは説得力のある意見とはなり得ない。

ことさら粗探しをするつもりはないが、下の文章を読むと空疎な感じがする。
訴えかける力のない文章である。
その原因は何であろうか?
また、この文章を読んで、なるほどと感じられる人はどのくらいいるんだろうか?


しょうさんの一面的な見方を批判する


 形式主義者[1]は,パターンにはまりがち,というか,例によってミラー現象[2]でご自分のことを書いてしまったdolceさんの言葉によれば,ワンポイント思考に陥りますね。

 しょうさんの場合は,次の言葉にあるように,「民主的」が絶対的に「封建的」よりも勝っていると考えている[3]。何とか主義者ってもうあまり聞かなくなっていますが,パターンにあてはめて物事を考えようとなさる。

>その危険性は顧問が強力な指導力・リーダーシップを発揮していく「封建的な部活指導」の方が、「生徒自身の力に依拠する民主的部活指導」の場合よりも大きいのでは、と思いますね。

 この言葉を裏返せば,「封建的な部活指導」とは「強力な指導力・リーダーシップ」を発揮する顧問が行うのが前提となっています。

 さらに,「生徒自身の力に依拠する」なんて,丸投げ体質丸出しの言葉[4]をつかっている。

 まさか,強力な指導力・リーダーシップが民主政治で発揮されることはないと思っているわけではないはずだし,民衆自身の力に依拠する封建領主が存在しないとは言えない[5]ことも,分かっているはずなのです。

 しかし,自分の主張がこうだから,こういうパターンに当てはめてものを言う,まるめて言えば自分の都合のいいように解釈する[6]のが当然のように[7]行われているのです。

 こういう見方や考え方は,考え直したほうがよろしいと思われますが,いかがでしょうか。


[解説]

[1]

猫を見て「あ、犬だ」と言えば、猫が犬になるわけではない。
この人の言い方は、まるで猫でも「犬だ」と言って、実体が何であろうが、自分が犬にしたいと思っていれば、犬というレッテルを貼ってしまいたいらしい。
ここに、この人の性格(あるいは無知)、わがままさが垣間見えるような気がする。

形式主義者とは「内容よりも形式を重んずる考え方をする人」という意味だが、形式主義者と決めつける以上、内容が何であって、何が形式であるかを明示しなければ、読み手にはわからない。

この人の本心は、そういう中身はどうでもよく、始めから形式主義者と決めつけたいという意思を感じる。その意味では自身が形式主義者ではないか?

[2]

「ミラー現象」とはどういう意味なんだろうか?
この言葉は用語ではない。
造語である。造語であるからには、その定義を説明しておかなければ、他人には正しい意味が伝わらない。
この人の文章は、この造語に限らず、自分で勝手に想像している部分を外に向かって、他人にわかるように説明しないので、一体、何が言いたいのかわかりにくい。
もしかすると「伝えたいものがない」のに、あるように見せかけたいから、そうなるのかも知れない。そういう意味では、やはり自身が形式主義者ではないか?

パターンに当てはめて考えるって、どんなパターンなの?わからんなあ?

[3]

「民主的」が「封建的」よりも勝っているとどうして解釈できるんだろう?、
しかも
絶対的とはそれ以外にはないという場合に使うべきだが、この場合、それ以外にはないと解釈する根拠がどこにあるのだろう?

[4]

丸投げとは「ある仕事を丸ごと全部委託すること」という意味である。

BukatsuTeritori.jpg生徒自身の力に依拠するとは、言葉をかえて表現すれば生徒自身の力をよりどころとするという意味であるが、学校の部活動をすべて丸ごと生徒に全部委託するなんてことを考えること自体、非常識である。
これは、集合の概念がわかっていない例でもある。
生徒は未成年であるから、部活動全体の責任を負うことはできない。

家族でレストランに行った時、子どもに何を食べてよいか、自由に選ばせるというのが、子どもに任せるというような例であり、それはレストランで家族が食事をすることを子どもに丸投げするということではない。

[5]

何を依拠するかという、依拠の部分の概念がはっきりしない。
意見を言う時は相手に概念がはっきりわかるように書く(言う)べきである。
その場合も、意見を言おうとする者は、集合の概念をはっきりしておくべきである。

[6]

自分の都合のいいように解釈するの都合とは何だろう?
この場合の都合がはっきりしない。
この人の文章は、目的語の中身がはっきりしないことが多い。
「自分の都合」と言っているが、相手は、自分の都合とは思っていないかも知れないので、自分が思っている「自分の都合」をはっきりさせなければならない。

[7]

「当然のように」という、何で当然なのかわからない(自分の頭の中にあるだけでは他人にはわからない)。

==============================================


仮にも、学校の先生だと言うなら、もっときちんとした文章を書くべきである。
これでは、保護者からの信頼も得られないのではないか?

それに、教育委員会にいた(?)とも書いてあったようで、指導主事であったとしたら、指導する資格すらないのではないか?

一体、何が指導できるのだろう?

指導できるできないに関わらず、指導主事という肩書きを与えることこそ、形式主義そのものではないか?

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posted by edlwiss at 13:13 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月05日

思考回路の問題〜集合概念の欠如

壊れた機械からは、不良品が生産されてしまう。
同様に、人も思考回路が壊れていては、討論に値する意見は出てこない。
このような状態では、思考回路を修復することの方が先決問題である。
ここでは、壊れた思考回路を相手にしてもムダであると考え、壊れた思考回路とはどんなものであるのか、研究対象にしてみようと思う。

次の考え方も、思考回路のおかしい例である。

よい指導を応用できる人なら,特に人の成功話は聞く必要もないし,そんなことには興味はないはず。
よい指導が応用できない人は,基礎がないのに表面的なマネだけして失敗する。そんな失敗には意味はありませんし,子どもが犠牲になります。

失敗報告なら,学べることも多いでしょうが,「自慢話」を聞いて,何になるのですか?


[解説]

人は、ある事象を考えるとき、その事象の具体的場面をいくつか想像してみるものである。
NHKの「新感覚ゲーム クエスタ」は、あるヒントを元に具体物を想像し当てるゲームである。
ヒントが少ないほど、想起させるものは多く、1つに絞りにくいが、ヒントが増えるに従い対象は絞られてくる。
つまり、集合の範囲が狭くなるわけである。

人の思考にはこういう集合の概念が大切である。
しかし、こういう概念を形成する回路が壊れていると思われる人がいる。

先の例についてみると「人の成功話(自慢話)」「失敗談」が話題になっている。
そして「人の成功話(自慢話)」を聞いても得るものはない(有用ではない)と言っている。本当にそうだろうか?

普通に思考ができる人なら、そんなことはないと気がつくはずである。
また、自慢話かどうかは聞く人の受け取り方にもよる。

この話題を集合のチャートで表してみると次のようになる。

SippaiJimanYuuyou.jpg

成功話はすべて有用ではないと言えず、成功話も失敗談にも有用な話が存在する可能性はある。
この人は、しばしば「無い」という言葉を使うが「無い」という言葉は十分注意して使う必要がある

それは思考の基本的な考え方として「一般にあることの証明はできても、無いことの証明は非常に困難と言われ、これを俗に悪魔の証明と言われている」からである。

自分が相手に「無い」という場合には、相当に注意して言うべきである。

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posted by edlwiss at 20:05 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年03月05日

思考回路の研究

これも、一種の発達障害なのかも知れないが「意見が違う」と言っても、そもそも、意見を言う段階までいっていないものがある。
つまり、意見ではないものまで意見だと言っている場合だ。

例えば、ごくわかりやすく言うと「2+3=5だと思う」と言ったって、それは意見ではない。また「2+3=4だと思う」というのも意見ではない。意見ではなくて間違いである。
でも、こういうレベルで言い争って、意見が合うとか合わないとか言っている場合がある。
真理や事実は認めるしかない。なのに、異論を唱えるのは単に知識がないかバカである。

nekodemowakaru.jpg
私は電気を勉強したり、プログラミングを勉強したりしてきたせいか、人の考え方について、電気回路やアルゴリズムをイメージすることが多い。
実際、人の脳はシナプスという神経細胞が関係して思考を司っていると言われるし、そこには電流が流れると説明されいる。

最近は理科離れだと言われるが、これは理科が嫌いということだろうか?
それとも、論理的な考えを敬遠する傾向であろうか?
でも、論理的な考えが苦手だから、文系だというのもおかしい。文系だから言うことに論理性がなくてもいいということはない。

今やパソコンは大事な道具となったが、パソコンを利用するには、昔はプログラムを自分で作らねばならなかった。
それで、教員同士の間でも毎日のようにプログラムに関する話題が多かったし、便利なプログラムを作ると交換し合ったりした。

プログラムは専ら論理のかたまりであって、一分の矛盾も許されない世界である。
試験なら99点は優秀な成績だが、プログラムの世界では不合格である。100点のみが許される世界である。
それで、厳しすぎて素人にはとっつき難いので、ある程度特に断らなくても許されるBASIC(Beginner's All-purpose Symbolic Instruction Code)というプログラミング言語が開発された。

かくして、プログラミングの敷居は低くなったわけで、パソコン教室でもBASICを使ったプログラムを教える教室ができた。
それでも、かなりの人たちは落後したようだった。
かなり論理には強いと思う人でも、完成したと思うプログラムを走らせるとエラーの連続で、人間とはこうも間違いを犯すものかと考えさせられた人は多いと思う。

こんな具合なので、実用プログラムを作ることはなかなか大変だったが、それでも副産物はあった。
それは、論理的思考の訓練になったからだ。

BASICはまだよかったが、PASCALとなると非常に厳格で、なかなかプログラムが通過しない。
C言語は、昔は20万円以上も出して買ったものだが、今はタダで提供されている。
猫でもわかるC言語プログラミング (猫でもわかるプログラミングシリーズ)という本が出版されているが、今はこの本を買って勉強すればC言語でのプログラミングの勉強ができる。
パソコンがあれば、必要なものはこの本とネットからダウンロードするC言語だけである。

プログラミングを勉強すると、ある処理をする時、あらゆる場面を漏れなく想定して条件を設定しなければならないことに遭遇する。
条件に漏れがあると、とんでもない結果が出てきてしまう場合がある。

だから、このあらゆる場合の想定というのは非常に重要で、ここは人間が考えるしかない。
例えば、人間の場合は、男か女しかないから想定は2通りでよいが、ものによってはもっと多いものがあって、それらのもの全部にあたってみて、どの条件に合うかを考えねばならない。

ここで言いたいのは、この条件を漏れなく当たるという思考が近年欠けている人が多くなったということである。
Sikohkairomoderu.jpg左の電気回路を考えてみてほしい。
この回路が正常であれば、4つの電球すべてが点灯しなければならないのだが、切れている電球があって一つしか点灯していない。
つまり、4つ考える要素があるのに、一つしか答えが出てこないようなものだ。
人間の脳であれば、シナプスが老化して電流が流れないのかも知れない。

あるいは、下の図のように、スイッチで5つの電球を切り替えて点灯させなければいけないのに、スイッチの故障か電球に切れいるものがあって、点灯しない電球が存在するようなもの。
これは、答えに5つ選択肢があるのに、sikohkirikaekairo.jpg5つ全部を考えてみることができない脳のようなものだ。

今回は思考回路の研究という題で、選択肢の数が漏れている思考をモデル化してみた。
現実の電気回路は故障したら、自力で回復するということはない。人の場合、シナプスが再生して回復したり修正したりする希望があるのだが、再生の希望がないほどダメージを受けている脳にあっては、まともな会話が成立しない。





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2011年03月03日

こうなることを予想していたか



思考回路が問題だで述べたように、予想できなかったのでしょうね。

車の運転は、衝突しないように予想して運転しなければなりません。
しかし、衝突してから反省するというのが、多すぎます。
posted by edlwiss at 14:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年03月03日

思考回路が問題だ



このニュースの顛末は、関係者、警察の動きを見守るとして、こういうのは、やはり現代病とも思える思考回路の問題ではないかと思うのである。

その犯罪を行うことで損か得かなんていうことは私は言わない。
わからなければいいという考えの者は相当数多いようだが、悪いことでもわからなければいいとか、得だからという考えは、人格のレベルの問題であると思うので、そういう観点から犯罪を見たくない。

それでも、損得で行動を決めるという、レベルの低い人間のやったこととしても、頭が悪すぎると思うのである。

その頭の悪さは、私が勝手に名前をつけたワンポイント思考の部類ではないかと思う。

syogiset.jpgワンポイント思考とは、1点にしか考えが及ばない思考力のことを言う。
囲碁将棋はワンポイント思考では強くなれない、
そこにおく一つの石が、あるいは一つの駒の動きが、如何にその他の石や駒に影響し、ひいては大勢に影響するかを考えねばならないからである。
そういう意味では、現代には教育の一環として碁や将棋を取り入れたらどうかと思う。
NEW スタディ将棋 (リニューアル)


もうずいぶん前になるが、どこかの大学へ不正入学した者が、バレずに卒業したものの、後に発覚してその大学に関する履歴をすべて取り消されたということがあった。

そのことを知らずとしても、不正がバレずに入学したとしてもいつ取り消しになるかというおそれはついてまわるのである。
とにかく、現代のワンポイント思考は問題である。

人は年とともに成長するが、外見こそその様子はわかるものの、精神的な面はわかりにくい。
外見だけは立派な大人に見えても、中身は子ども並という人に会うことも少なくない。

体と精神面がアンバランスに成長しているのだろう。言葉を変えれば、精神の発育不全と言えるのだろう。

ワンポイント思考は、受験のための訓練で、どうしたら○がもらえるかという、いわば穴埋めに代表される訓練で培われたものだろうか?
しかし、救いがないわけでもない。

電気回路は、間違って配線してしまったら、それ自体が自然に治るものではない。
だが、人の思考回路は正しい思考を繰り返すことで、正しく修正される可能性がある。
それでも、通常「固まった」と言われる脳では不可能になる。

絶えず正しい思考をしていないと、人の思考回路はどんどん狂ってくるのだろうと思う。
狂った状態で固まらないよう気をつけたいものだ。

ところで、今回の思考回路が変だと感じたところから、変な(と思う)思考回路の例を思い出してしまった。
そのことについて、触れたいと思う。

==========================================================


ブログというのは自己責任で好きなように書けばいいと思いますが、この人、そもそもの始まりは「ダメなブログの・・・」とか言って、私のブログのことを批評していたことです。
私のブログに対してだから、本人は私に責任を感じてもらわなければなりません。
つまり、喧嘩を売ってきたとも言えるかも知れませんから。
そういう意味では「勝手にやっていなさい」では済まされません。

しかし、問題はそういうことだけでなく、この人のブログ記事は意味不明なことがあり過ぎる。
東京の教員と言っているのだが、私には、まじめな話、これで教員として通用するのかと思うのです。
かつて、その疑問に答えていただいた人がいますが、それでもまだ、私としては、現役の教員として通用するのかと疑問でならないのです。

だから、相手にするしないの問題ではなく、このブログを読んだ方で、東京の人もそれ以外の地域の人も、よろしかったらご意見をいただけるとありがたいです。

当地域も、変な先生は全くいないとは言いませんが、こういう方は非常に珍しいと言えます。
こちらのある保護者の人は、このブログを読んで怒っていました。
「こんなんだったら、絶対文句を言って行く」と言っていました。

太字[番号数字]は私がつけ加えたものです。
「囲み」の文章が原文です。


「典型的な迷惑教員・行政の介入の仕方 」
というタイトルだが、このタイトル自体が意味不明です。
「迷惑」というのが、誰に対して、どういう迷惑なのか?
「行政介入」ってどんな行政?
わけわからんです。

>例えば部活動であれば顧問の判断で『子どもたちを信じて自ら決定できる権限を(部分的にせよ)与える』ことが大切だ、」というのが、dolceさんの述べようとされたことでしょう。

>私は、上記の意図については「まっとうなもの」として支持します。そして、部活動や生徒会活動などにおいて「決められているから守る」というだけでなく、「生徒を信じて決めさせる部分を作る」という発想は大切だと考えるのです。

 しょうさんはちょっと好意的にとらえすぎですね。

 理由は、自分が主張したいことをこの場に「あてはめたい」からです。[1]

 その前の話などはお読みになっていましたか?

 いかにおかしな指導かを自覚しなければいけないのに、「ああ、これにも意味があったんだ」と誤解させることは危険です。

 自分の発言に都合のよいように解釈するのも、中途半端なカウンセリングの知識をもった迷惑な養護教諭の典型ですよ。


[1]こういうことがどうして、わかるのでしょう?
この人は、他人の頭の中がわかるんでしょうか?
(だから、私は妄想癖があると思うんですけどね。だいたい、他人が「○○と考えている」と勝手に決めつけることは失礼だと思います)



 でも、せっかくのコメントですから、そこには目をつぶって、ご提案を吟味することにしましょう。


 まず、部活動単位で、休日の活動の開始時刻等が生徒の提案でいくらでもいじれるような学校は、そうはないですよ。[2]先生も、人によってかもしれませんが、そんなに暇じゃありません。

 あまり早く来すぎないように学校側が歯止めをかけることもありますし。

 顧問の都合もありますから、「子どもが自由に決定できる」という考え方は、あまり中学校レベルではなじまないですね。


[2]これって、何を考えているのだろうと思いますね。
「生徒の提案で、いくらでもいじれる」って、どこから来たんでしょう?
いくらでもいじってはいないですよ。8時半開始をこれからは9時半にしようと決めただけで、以後いじらないですよ。
どこから、そんなことが読みとれるんだろうと思いますね。
子どもが自由に決めると言っても、当然、教師の許容範囲内のことであり、教師の許容範囲内とは、学校全体で決めた許容範囲内であることは常識です。
この人は、思考するときに、数学で言う集合の概念がないんでしょうね。
中学校の先生に聞きたいんですけど、部活動を行う時間というのは、学校全体で決めた範囲内で顧問が自由に決めていないんでしょうか?
さらに、顧問の考える時間内で、子どもに提案させることは何か問題があるのでしょうか?

 遅刻した生徒が「集合時間が早い」せいにしたこの件は、個別指導をすべき場であって[3]そういうのが苦手な教員が、生徒全員に投げてしまうんですよ。「話し合え」って・・・。[4]


[3]では、どのように個別指導するのでしょうか?
具体的に語ってもらいたいですね。結局、何が何でも8時半に来るように認めさせるということでしょうか?
[4]遅刻という問題を、生徒全体で話しあわせることは、教師が指導を放棄し「生徒に投げる」ことになるんですか?
じゃあ、教師が決めれば指導になるんでしょうか?

部活動の指導のあり方は、中学校と高校、運動部と文化部、顧問との関係など、それぞれ違いがあると思いますが、「生徒が話し合いで決める自由な時間(それもときによって変更可能)に始められて終わることができる」というのは、ちょっと特異なことではないですかね。[5]


[5]何で特異なんだろう?この人は何を考えて、こういう結論を出しているのだろう?この人の頭の方が特異なんじゃないかな?

 そもそも私がここで批判していたのは、もっと違うレベルの話でした。

>「自分たちが約束して決めたルールはやはり大切にしなければならない(大切にしなければならなかった)」という気持ちが芽生えたと読み取ることも出来ます。少なくとも部活動が「無秩序に荒れる」方向に向かってはいない、という点を押さえておくことは大切でしょう。

 中学校では、こういう指導を部活動に自ら持ち込める教師は、よほど優秀な教師か、こういう指導でしか部活動に貢献できないような教師かのどちらかです。[6]


[6]これも、どうしてこういう結論になるのだろう?不思議な思考回路をしていると思います。


 まず、ここでは、開始時間を遅らせる決定をした、ということですが、もうこの時点でかなり重症だという感じがしています。[7]


[7]何が重症なの?わからんことを言うね。あなたの頭が重症じゃないの?

 これ、終了時間も遅くなったのですかね。それとも、練習時間の短縮も含んでいるのでしょうか。

 練習時間が増えたり減ったりしても効果には何の影響もないようなレベルの部活もあるでしょうが、単に「開始時間が遅くなった」というだけのことではすまないでしょう。[8]


[8]何ですまないのでしょうか?どういう思考過程を経るとこういう結論になるんでしょうか?


部活動はそもそもやる気のある子が来るものですから[9]、それが「無秩序に荒れる」ことはあり得ません。日ごろより授業が成立しない教師でも、部活動の指導だけは何とかできるのです。[10]


[9]考え方が、ちょっと単純じやないかな?始めはやる気があっても、やる気をなくする場合や、どこかの部活動に入らなければならないということで、入った場合なども考えられると思うが。

[10]そうなの?じゃあ、あなたはどんな部活動でも指導できるのですか?吹奏楽部でも指導できますか?

「自分たちが決めたルールは大切にする」という意識よりも、部活動の場合には「先輩たちが守ってきたことは、後輩としてもしっかり守り抜く」という意識の方が大事でしょう。[11]


[11]伝統は大切だと思うが、以前決まっていることは、すべて守り続けなければならない伝統なのですか?そんなことを言っていたら、何にも変えられないことになりますね。また、開始時間もどうやって決まったのかもわからないんじゃないですか?

もちろん、遅刻者が減った後、練習時間の確保のためにまた開始時刻を変更にするような話し合いを設けるのも意味があることでしょうが、こんなことで「法教育」をしている余裕のある部活動は少なくとも中学校には存在しないでしょうね。[12]


[12]法教育とは大げさだね。ここでいう「余裕」とは何なのでしょうか?

実態に合わないことを平気でアドバイスしてくる[13]しょうさんはますますあの養護教諭のイメージに重なってきます。


[13]実態に合わないとは、何がどう合わないんですか?


 しょうさんはどんな部活動を高校でもっているのでしたっけ?

>ルールの本質や、それが話し合いによって変更しうるものだ」ということを教えたいと考えた場合、「集合時間が早すぎる」という声が子どもたちから出た時、それを「単なるわがまま」として退けるのではなく、「ルールや約束について考えていくチャンスにしていく」という発想は大切だ

法教育の教科書まるうつしの提案ですね。[14]


[14]それって、どんな法教育の教科書なの?知りたいですね。

 しょうさんの「建設的な提言」というのは、言葉を変えて言えば、「自分がその価値を重視する教育のおしつけ」にすぎません。[15]


[15]どうして「おしつけ」になるのか、そこのところを論理的に説明する必要があると思いますね。

 生活指導の一般的指導方法を部活動に適用させようとする提言と解釈してよいのだと思いますが、私としては賛成しかねます。[16]


[16]あなたが賛成しないからといって、何の問題も生じないと思うが、それより、生活指導って、生活のあらゆる場面に関係するから生活指導って言うんじゃないですか?それに「生活指導の一般的指導方法」とは何なのですか?特別な生活指導なのですか?

 部活動で活動の「ルール」を個別に検討していくことが可能な範囲は、そもそも限られています。[17]


[17]何を言いたいのかわからん文章です。特に「部活動で活動の『ルール』を個別に検討」という意味がわからんですね。

 学校全体で決まっているルール、たとえば週の活動日数や活動場所の調整、活動延長の制度などを生徒会が中心になって検討していくような取り組みは考えられますが、限界が見えすぎている[18]ため、「もっと他でやってくれ」といいたいですね。


[18]ここもわからん文ですね。「限界が見えすぎている」って、何の限界なんですか?
 
>一見わがままと見える意見も頭から退けるのではなく「一つのチャンス」ととらえること、「ルールの目的も考えながらいろいろな意見が出るようにしていくこと」が大切だと思うのです。

 中学校の部活動の場合、「わがままと見える意見」が出てくるということは、すでにその集団全体か一部の生徒が病気にかかっている[19]ことを意味します。


[19]じゃあ、あなたも病気ですね。しかも重症でしょう。
わがままと見える意見を言う者は病気なんですか?なんという病気でしょう?
子どもって、元来わがままで、教育によって変わっていくものなんじゃないでしょうか?
あなたの考えからすると、子どもは元来病気だということになりませんか?

これは、そもそも「民主的解決」=ほぼ責任の丸投げを目指す指導[20]を入れ込んだ結果だと考えられます。


[20]民主的な解決とは責任丸投げを目指す指導なのですか?すると、民主国家は責任の丸投げをやっている国家なんですね?ところで、丸投げって、どこに丸投げしてるんでしょうか?そして、責任は誰にあるんでしょう?どんな方法をとっても、指導者たる教師は責任を免れないと思うのですが、まさか責任までどこかへ丸投げできるなんて思っていないでしょうね?
だって、大人と子どもがいれば、大人に責任があるのは当たり前ですからね。

新しい部活動を一から立ち上げるときなどは、年齢も同じ集団が中心に話し合うのでしょうから、意味はあると思われますが[21]・・・。


[21]どんな意味があるのでしょう?意味がわかりません。

 ・・・というのが、中学校の普通の部活動指導者の考え方[22]でしょう、という意味で記事にしました。

 しょうさんに私がお願いしたのは、dolceさんへの提案ですよ。

 それができることが、しょうさんの実力の証明[23]になるのです。

 今はチャンスのときです。ぜひチャレンジしてみて下さい。


[22]あなたが普通と思っても、他の人々は普通と考えるでしょうか?

[22]何の実力なの?

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posted by edlwiss at 07:43 | Comment(4) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年03月02日

指導者自身も磨いていないと錆びてしまう

taninwomikudasu.jpg教科に限らず、何ごとでも指導者は自身も磨いていないと鉄のように錆びてしまう。
年数を経ると、それだけで自分が偉くなったように錯覚しやすいのではないかと思う。
何だ、結局年を取っただけじゃないかとならないように、自問自答し、錯覚に陥らないようにしたいものだ。

以前にも紹介したが、ある方から頂いた他人を見下す若者たち (講談社現代新書)を読んだ時、笑えてしまった。
こういう人は若者に限らずいることを経験している。

オレはすごいと思っている人で、他人が認めてくれないので、イライラしているのか、わざわざ自分から言う人もいる。
言わないにしても、そういう空気が漂っている人もいる。

そういう人を見たとき、自分はああなりたくないと思う。
服装が安物だということは恥ずかしいことではないと思うが、エライが漂っている人、わざわざ自分から言う人は、私には恥ずかしく映る。

何が恥ずかしいかは、その人の人生観、価値観に関わるものだから、その人が好きなら他人がとやかく言うことはない。
ただ、私はそういう生き方が嫌だと思うからである。

一流のスポーツマンにアナウンサーがインタビューをすると、例外なく謙虚な言葉が出てくる。
サヨナラ満塁ホームランを打ったような時でも「みなさんのおかげです。フアンの皆さまの後押しがあって」という。

これは誰かが教育しているのだろうかと思ったこともあるが、まあ、教育もあるかも知れないが、やはり本人の本心から出た言葉だと思う。

それは何故かと考えてみると、本人がまだ未熟と感じている、成長の途上と考えているからだと思う。

ということは、エラそうな態度が出てくるということは、進歩は止まっていると考える。
自分の心にそういうものが出てきたときは、自分は止まっていると考えた方がよいと思った。
それは、自分の過去の記録をみてもわかる。

音楽について言うと、クルトレーデル氏は「拍を間違いなくとること(指揮をすること)は、少しの訓練でアマチュアでもできます」と言っている。
だが、指揮にまつわる諸々は難しいと言い、70歳ぐらいになってやっとこんなものかとわかるのが関の山だと言っている。
歴史に残るような偉大な指揮者が70歳〜80歳台に名演と言われるものを残していることからもわかる。

近年、昔と変わって様々なメディアが登場し、便利な機械も登場した。
それは、バロック時代〜ロマン派の時代などのような時と音楽に対するアプローチも違ってきたと言える。

富田勲氏がシンセサイザーで、世をアッと言わせた時からそんなに経っていないと思われるのに、氏が数千万円も投じて準備された機器が今は数十万円で揃う時代になった。

また、こういう環境が整ってきたことで、従来、楽譜などで創造力が発揮できない人にもチャンスが出てきたと思う。
YouTubeという発表の場所もタダで提供されているので、大いに使うべきだ。

発表というと、完成度でためらう場合もあるが、完璧さを考えていたらいつまでもできない。言い訳などせず勇気をもって発表したいものだ。

私はシーケンサーを使い始めて、1年ほどになる。
シーケンサーというと「打ち込み」と言って、ポップスの世界の人の使うものだと思っていたが、使ってみるとクラシックもいける。
次の例はSONAR8というシーケンサーを使って作った。
これを、いかに人間らしくするかというのが、これからの課題である。

グノー:歌劇「ファウスト」よりバレエ音楽 1ヌビア人の娘の踊り


練習にも、シーケンサーを使ってみた。
クラリネットを吹いている者にとっては、ブラームスの室内楽は憧れである。
昨年、ブラームス 《クラリネット三重奏曲 イ短調》 作品114
を、トリオ・ミンストレルの方々と共演させていただく機会を得たので、その前に打ち込んで試してみた。



これをカラオケにしてみて、練習でも使った。
役に立つと思われる方は、使ってみてください。



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posted by edlwiss at 21:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年03月01日

IT活用で仕事の能率化〜子どもに先を越されぬように

私が仕事でパソコンを使っているのを見たある人が

「ああ、パソコンか、次から次へいいやつが出るから、もう少し待った方がエエ」

と言った。

dropboxPoket.jpg傍でそれを聞いていた人が「ニヤッ」とした。
たぶん、パソコンは待つものではないという認識だから、思わずニヤッとしたんだろう。

パソコンは好むと好まざるに限らず、サラリーマンなら使うことを強制されるような社会になった。
そういう意味では、人がパソコンに使われるようになったのかも知れない。

自営業でパソコンを使うことを強制されないような立場でも、オレには関係ないという立場でいたら、競争力は低下する。

どこやらのSNSで「パソコンがないと生きていけない」というトピックがあって、盛んに討議が行われていた。

パソコンは必須の道具となったが、強制されて使うという消極的な立場では少し寂しい気がする。
特に教員にあっては、積極的に応用を考えたいものである。
パソコンの機能、特徴を知って自分の仕事の能率化や創造力を高める道具にしたい。

先のブログ記事「おもしろくない材料がありました」で少し述べたが、私がパソコンを使い始めたきっかけは、期末テストなどの採点の効率化を考えた時からである。

とにかく、テストとなると500枚近い答案を採点しなければならない。
それも、テストの最後の日に割り当てられていると、採点はなお大変だ。
それに採点ミスがあれば、順位の変動もある。

これをなんとか能率化しようと思い、自動採点機、すなわちカードリーダーを使って採点することを考えた。
読み取り機を買って、プログラムを自分で開発した。
できてみると、1分間に150枚の採点能力。やったねと思った。

自分のテストの採点だけでなく、不合理を感じたことがあった。
テスト週刊になると、生徒は試験勉強に忙しくなり、部活動もない。
先生は試験問題の作成で忙しい。
つまり、お互いに忙しい時間が一致していて、時間的には不合理はない。

evernoteKtsuyou.jpg
ところが、テストが終わると生徒は解放されヒマができる一方、教員は採点ですごく忙しくなる。
この生徒が試験から解放されたときこそ、部活動の指導には絶好の時間なのだ。

それで、自動採点機が役に立った。
ある生徒が、何かに「恐ろしく部活の出席のいい先生」と書いていたのを見たことがある。
そりゃそうだ、なにしろ1分間に150枚だから。その上、成績はプログラムが作ってある。

ということで、私は時間を生み出すということにパソコンを使ってきた。
今、時代はクラウドコンピューティングの時代になった。

教員もクラウドを利用して、仕事を合理化したいものだ。
というか、ビジネスマンの間では今やDropboxやEVERNOTEは常識のようなものになっている。

おなじみのYouTubeは子どももよく使っている。
なにしろ、無料で無制限のデータ容量を使えるわけだから、これはすごいサービスである。

学校教育もクラウドを研究の対象にしたらどうかと思う。
先生たるもの、少なくとも子どもに先を越されぬようにしたいものだ。



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posted by edlwiss at 23:23 | Comment(1) | TrackBack(0) | 情報処理(IT)

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