2011年04月29日

スカンクおじさん

スカンクは悪臭を放ち、自分を防御することで知られている。

スカンクとはネコ目(食肉目) スカンク科に属する哺乳類の総称である。肛門の両脇にある「肛門傍洞腺(肛門嚢)」から、強烈な悪臭のする分泌液を噴出し、外敵を撃退することで知られている。

sukanku.gifカナダ南部からアメリカ合衆国にかけての北アメリカ、および、中央アメリカ、南アメリカに生息している。

スカンク科には3属13種が属する。どの種も白黒まだらの体色をし、模様は種によってそれぞれ異なる。よく目立つ模様は外敵に対する警戒色となっている。

体長は40〜68cm、体重は0.5〜3kg。ふさふさとした長い尾をもつ。雑食性であり、ネズミなどの小型哺乳類、鳥の卵、昆虫、果実などを食べる。地中に巣穴をつくる。冬などは巣穴にこもることが多いが、真の冬眠をするわけではない。

スカンクは狂犬病の媒介者として知られている。テキサス州やカリフォルニア州などのアメリカ中西部では、人間が狂犬病にかかる感染源のトップに挙げられる。狂犬病に感染したスカンクはあらゆる動物に攻撃を仕掛けるため、これによって感染した家畜を介して、人間にも感染すると考えられる。なお、スカンクが肛門傍洞腺(肛門嚢)から放出した分泌液を介して狂犬病に感染した例は知られていない。
フリー百科事典「ウィキペディア」より


こういう動物を飼うという物好きな人もいないだろうが、いろいろな動物を見せる動物園はどうなのだろうか?

調べてみると「動物園のスカンクは臭わないのですか?」という質問があった。
ということは、動物園にはスカンクがいるということなのだ。
肝心な答えだが、動物園のスカンクは臭わないように、肛門の両側にある臭嚢(しゅうのう)というところを手術で取り除いて臭わなくするのだそうだ。

ところで、また、何でスカンクの話題など?と思う人もいるかも知れない。
それは、好奇心の強い私は、いろいろなものを探索するうちに「似ているなあ」と思うことがしばしばあって、今回もスカンクと似ているものを発見したからである。

動物好きがスカンクに興味を持っても、飼おうとしない。それは刺激すると、やたらに悪臭を発散するからである。
それも、何か役に立つなら別だが、何の役にも立たない。

skankpuchan.jpg何の役にも立たないばかりか、刺激すると悪臭を発散する。

そう考えたとき、どこかにそういう人間がいたような気がすると思ったのである。

何も仕事はできないのに、やたらと何かうんちくを言いたがる。それも、何の役にも立たないうんちくである。
刺激すると、臭いうんちくを垂れるだけだから、関わりのないようにそっとしておく。
そういう立場におかれるオッサンが、スカンクおじさんなのである。

養老孟司・氏は学問は共通性を見つけることでもあると書いてみえた。
動物も、哺乳類とか鳥類とかいろいろ分類する。
人間も性格的に分類すると、スカンク類という分類ができるかも知れない。

スカンクおじさんは役に立たないのに、強烈な悪臭を放って周りに迷惑をかける。
強烈な悪臭は何か威力があるのかと思うと、

ほとんどの捕食者はスカンクを襲うことはないが、ワシやフクロウなど、頭上から襲いかかる嗅覚の鈍い捕食者には効果がなく、餌食となることが多い。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

と説明がある。
本人は威力あると思っている悪臭も、通用しない相手がいるようだ。

ともあれ、スカンクを発見したら、当たり障りの無い対応が賢明である。

スカンクおじさん、スカンク爺さんにはなりたくないものだ。

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posted by edlwiss at 18:11 | Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2011年04月28日

難航が予想される天変地異の免責解釈



riken.jpg東電ばかりが目立つ原発事故のニュースだが、そもそも悪いのは東電だけなのか?
エネルギー政策ではなく、始めに原発ありきの利権の構造が指摘されているが、この辺りの情報をもっと国民の前に明らかにしてほしいと思う。

政権交代は、こういう不信感を持つ、国民からしたら見えにくいところを情報公開することも目的ではなかったのか?

それにしても、原子力安全・保安院というのはよくわからない組織だ。
原発の許可について、最も強い権限を持っていながら、専門知識のない部署だという。
専門知識がなくて、監督ができるのか?
原子力安全・保安院は定年で、東電に天下りしているらしい。

かつて、ゼネコンの談合、闇社会がドラマ化された。
裏は大臣までつながっていて、窮状では、ゼネコンのある社員が自殺することで、責任回避という終幕であった。

今回も、表に立つのはすべて東電で、巨悪は隠れているのではないか?
また、誰か自殺者が出るのか?
組織のために誰かが死んで、解決するというのが、日本社会の特徴であるような気もする。

天変地異と言うが、確かに天変地異に違いないが、天変地異の言葉に隠れて人災を隠そうとしているということはないのか?




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posted by edlwiss at 17:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年04月27日

えんぴつけずりは手回しです

私はシャープペンシルより鉛筆の方が好きです。
経済的にはシャープペンシルを使ったほうがいいですが、書くときの感触が鉛筆の方がいいので、極力鉛筆を使います。

uni.jpgクレペリン検査という適性検査がありますが、自分で試した結果ですが圧倒的に鉛筆のほうが有利でした。

シャープペンシルはどうしてもガタを感じるし、芯が強くなったとは言え、強度に不安を感じます。
それで、どうしても筆圧を加減してしまうのです。
この筆圧を加減するというところが、クレペリン検査では速度に差が出てしまうのです。

私はいろいろな資格試験を受けましたが、速度が問題にならないような試験でも鉛筆がいいと思います。
そして、鉛筆は贅沢なものを使います。
書く仕事において、筆記具はプロの道具と考えていますので、鉛筆もプロ用と考えて、いいものを使います。

具体的には、三菱ユニが好みです。
芯が紙の上を滑る感触が心地よいので、書いている時も気分がよくなってきます。

シャープペンシルは試験では不安要素もあります。
芯は忘れないように、余分に持って行くとしても、故障すると非常に困ります。
もちろん、シャープペンシルも余分に持って行けばよいですが、実際、予備を持って行かなかったため、試験中に故障して困ったという話を聞いたことがあります。

一本100円の鉛筆は高いですが、筆圧が強くても折れないという安心感があり、勉強の時もこの安心感は大きいと考えています。
子どもも勉強に集中して、特に数学などで計算するときは、折れないという安心感は大きいと思います。

気のせいかも知れませんが、なんとなく勉強に自信のない子どもはシャープペンシルで弱々しく書いているように思います。

enpitsukezuei.jpg鉛筆で試験に臨むときは、5本ぐらいは用意して、携帯用鉛筆削りも忘れないようにしなければなりません。

自宅では、手回しの鉛筆削りを使っています。
伯母に高校生の時に買ってもらったものです。
貧乏でしたので、高校生の時、始めて手回しの鉛筆削りを買ってもらった時は嬉しくて、以後大切に使っています。
驚くことに、未だに切れ味は衰えません。

今では、手回しの鉛筆削りぐらい気軽に買える時代かも知れませんが、伯母が大切なお金で買ってくれたことを思うと、粗末にできません。それに、なんとなく温かみを感じるのです。一生使うことになるかも知れません。

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2011年04月26日

思考が偏向した人は問題〜バランス思考に努めよう

sikohkairo.jpg間違った配線をしてしまった電気回路は、自動修復するということはありません。
コンピュータのプログラムも同様です。

人間の場合、思考回路のおかしい人がいますが、電気回路などと違うところは、修正がきくというところです。

学問というのは、この人間の思考回路を正しく形成していくためにあると言ってもよいのではないかと思います。

最近テーマにした「強制」の問題について、考え方を分析しています。

まず、この問題は強制がいいか悪いかという問題ではありません

強制権は公務員である以上、好むと好まざるに関わらず付帯しているものです。
それは、公務員というのは、行政を執行する立場に関わっているからです。

日本は法治国家であり、国会で法律を作り、それが行政機関により執行されます。
国会は、国を治めるために、いろいろなことを決議する最高機関です。

この最高機関の決定が実行されなかったとしたら、国を治めることができません。
だから、行政を執行する立場に関わる公務員には、必然的に強制権が付帯しているのです。
こういうことは、常識のある大人にとっては当たり前のことですが、中には理解できない大人もいるようです。

例えば、道路で事故があった時、交通警察官が進行方向を変更するように合図をしていることがありますが、これは守らなければいけません。
気に入らないので、守らないという場合は、強制執行がなされますが、場合によっては公務執行妨害で逮捕される可能性もあります。

学校の教師も強制権を有していますが、警察官ほど強いものではありません。
通常は教師の指示に児童生徒が問題なく従いますが、まれに従わないという場合も考えられます。
例えば、授業中に騒いで授業の進行の妨げになる行為をする者。
こういう者に対して、強制的にその場を離れるように指示することのできる強制力があります。
体罰を課すとか、授業を受けさせないという手段は許されません。

強制と聞くとそれだけで悪いと考える人は、すでに思考が偏っていると思います。
強制自体には良いも悪いもありません。

最近は、ある特定の言葉だけに反応して、関係ない議論を発展させる人がいます(こういう人を、私なりに「ワンポイント思考」と言っています)が、強制の言葉が出てくると「強制によって人格が蝕まれる」などと偏った方向へ勝手に話を持っていく人がいます。
もしかすると、特定の言葉に異常に反応して、誇大妄想を起こす人かも知れません。

強制力の働く顕著な例としては、犯罪少年が収容される鑑別所や少年刑務所があります。
これらの施設は刑罰を与えるところではありません。
更生を目的とした、規則的な生活や教育をするところで、まさに矯正をする強制の場所です。

そういう施設の話ではなくても、よくない癖のついた場合、厳しい強制力で指導する先生のおかげで立派になったという話もあります。
私も、親から楽器の指導を頼まれた中学生を、悪い癖を取るためにずいぶん強制的な指導をしたことがあります。
悪い癖は習慣になっていますので、その度に指摘するわけです。
そういう意味で、悪い癖が出た時は、いつも同じ注意の言葉を発するわけで、これが指導の一貫性です。

強制という言葉だけに敏感に反応する人の中には、そもそも教育について議論するつもりがあるのか?と疑問を持つ人もいます。
言い分を聞いてみると、とにかく反対したい、反対のためのアラ探しではないかと思える場合があり、これが教師だとすると、人格そのものを疑いたくなります。

特に教師にあっては、バランスのとれた思考ができることが望まれると思います。

ここで、強制力を有する教師の指示について、図に表してみました。
矢印の上も下も両方考える思考が正しいと思います。

sizitokekka.jpg


通常の教師の指示については児童生徒が強制力を感じることは少ないでしょう。
図では上の矢印の場合です。
しかし、強制力に抵抗を感じる場合もあります。
ここで、大切なことは、強制力を感じる指示がすべて悪いわけではないということです。
例えば「グランドを○周しなさい」と指示した場合、中には不平を言う児童生徒がいるかも知れません。しかし、教師が運動として適切と、自信を持って指示する場合、強制する場合もあります。

しかし、教師による不当な強制もあるかも知れません。
公務員には強制力がありますが、それを不当に行使するのを防ぐために対抗する法律があるわけです。
だから、教師の指示に従わない場合は、指示の正当性が問題になります。
公務員職権濫用罪や特別公務員暴行陵虐罪などがありますが、教育委員会による懲戒もあります。

強制力というのは、教師にあっては表立って出てくることは少ないですが、強制と聞くと、図の下側の方向しか連想しないのは、思考回路に問題があると思います。

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posted by edlwiss at 22:08 | Comment(6) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年04月26日

吹奏楽部の魅力

私は受験教育の改革をしてほしいと思っています。
それは、ひとことで言うと、青春時代を受験ゲームで終わってほしくないと思うからです。

受験ゲームと言うと、塾関係者や受験で志望校突破を目的化しているような人には反感を買うかも知れません。
しかし、私の印象ではどうしても受験ゲームとしか映りません。

要するに、如何に効率よく点数を稼ぐかであり、それが全く悪いとは言いませんが、青春時代のほとんどをそのために費やすのは残念な気がします。

自分の人生は自分の好きなように生きればいいわけですから、私と違う生き方の人を否定するなんてことはありません。
そういうお断りをした上で、私の考えを進めるとします。

学習塾の講師が、時に教育を語っている場合がありますが、それ自体は何も悪くないと思いますが、中には学習塾が学校のように教育をやっているように勘違いをしているのではないかと思われるものもあります。

これは学習塾の否定ではありません。
ある外国人が「日本には学歴という階級がある」と言ったように、形だけでも学歴がないとハンディがあるのは事実です。
その意味で、学歴を取得するために、効率的に受験を考える産業があることは、意味があることと思います。

受験勉強の比重が大きい今日では、その世界にどっぷり浸かってしまうと、それが教育と勘違いしてしまうのかも知れません。
そして、試験で良い点がとれることがいいことで「やればできるのに、やらないからできない」だから、やらないやつは怠け者だという短絡的な考えがあたかも正論のように、横行してしまうことは、生徒たちにとっては悲劇だと思います。

6bq5Amp2.jpg塾が本当に教育を行うとしたら、現行の塾の環境では足らない部分がたくさんあり、教育としての環境を満たすためには相当な準備が必要です。
要するに、学校法人としての認可を受ける環境を作らなければならないわけです。

さて、タイトルとずいぶんかけ離れたような話になってしまいましたが、それというのも、現在、学校そのものが予備校化してしまって、本来、学校とは勉強の楽しさを伝えるところであってほしいと思うのに、教科書と資料、ドリルで訓練し、どのくらい覚えたのかをテストし、点数がすべての価値のように埋没化してしまっているのは、学習塾とあまり変りがないのではないかと思うのです。

簡単に言えば、教科書で試験範囲を発表し、その範囲でテストを作りその点数の結果を価値観に結びつけているということが、勉強なのかということです。
それで、国語が社会が数学が理科が英語が・・・好きか嫌いかと言っても何か勘違いしていないかという気がするのです。

6BQ5memo2.jpgシュリーマンの「トロイの発掘」はシュリーマンが子どものころ父親から話を聞いたことがもとになり、歴史的な発掘をするわけですが、現在の学校教育で、子どもの心にそのような灯をともす環境があるのかと思うのです。

学校の教師は決められた教科書を、繰り返し使うことで仕事は済んでしまいます。
テストと言えば、業者からもらった既製の問題集を切り貼りして作っている人もいます。
数年も先生を経験すれば、新鮮味のない全く同じ繰り返しで仕事は済んでしまうことを覚え、手抜きを覚える人もいます。
「やらないやつが悪いのだ」と叱咤するだけで日は暮れます。
教師がそういう惰性のような生活を送るようになったら、それで、教師としての魅力はないと、私は思います。
そして、何年も過ぎると、それだけで何か偉くなったように勘違いする人もいるようです。

私はオーディオが好きですが、もとはと言えば中学時代の先生の影響だと思います。
先生は、ある名門の大学の工学部を卒業してきた理科の先生でした。
初対面の時から、何か雰囲気を持っている先生でしたが、何かの用で職員室に行った時、ふと先生の机の上を見ると、作りかけのアンプが乗っていました。
それを見てドキドキした覚えがあります。
ひっくり返してあるシャーシーの内部の配線が、すごく綺麗だったのを覚えています。

真似をしようとしたわけでもないですが、私はいつしかアンプを作ることに興味が移っていきました。
中学生ですから、お金もないので大したことはできませんでしたが、小遣いはほとんど部品を買うことに費やしました。
6bq5AmpUra2.jpg写真は中学生ころに作ったアンプです。メモも残っていました。

先生はクラシック音楽が好きで、音楽の話が出た時「君たちは、いい音で音楽を聴かないから音楽のよさがわからないのだ。・・・ウチへ来たら、これがステレオだというやつを聴かせてやるから、来てみろ」と言われました。
クラスの何人かがこの言葉に刺激を受け、それではと先生の家に行くことになりました。

その時、先生の家で聴いた、音の衝撃はずっと記憶に残っています。
ウィーンフィルという名門のオーケストラを知ったのもその時です。
「なんという美しい音だ」
と夢ごこちで聴いていました。
その時、聴かせてもらった曲は、チャイコフスキーの交響曲第六番でした。
トータル40分を超える曲も長く感じませんでした。

こういうきっかけがあって、私はクラシック音楽の世界へ入っていったと思いますが、来る日も来る日もアンプ作りと部活に明け暮れたように思います。
進学ということも、ほとんど頭の中にはなく、部活も中学校3年の終わりまで続けました。

音楽は私の趣味でしたが、いつしか音楽の先生にされてしまったようで、昔は「私は音楽の先生ではない」といちいち断っていましたが、そのうち面倒になり、そんなことはどうでもいいという気になりました。

「吹奏楽部の魅力」というタイトルですが、特に吹奏楽部でなくても、それぞれの分野で魅力はあると考えています。
ただ、私の場合は吹奏楽を通して探求する楽しさを感じ、私自身は趣味でという意識でしたが、生徒たちはどうも音楽の魅力に引き込まれたようで、教えるものが好きなものが伝わるのだと実感しました。

次の写真はメンゲル・ブルクという有名な指揮者のスコアです。

ScoreMengelberg2.jpg


時々、人は「指揮者というのは必要なのか?」とか「楽譜があるので、みんなその通り弾けばそれでいいじゃない?」と言います。

これは、何かの教科を勉強するとき、教科書があってそれを読めばそれで理解できるのではないか、それで事実もわかるのではないかと言っているようなものかも知れません。
その後、テストをして100点でもとれば、それでもう完璧ということになるのかも知れません。

確かに、今日では楽譜通りコンピュータに入力すれば、それで忠実に演奏します。
しかし、それでは音楽にならないのが、何かが欠けている証拠と言えます。

写真のスコアに見られるように、メンゲル・ブルクの書き込みがずいぶん目立ちます。
何百年も経った楽譜も、しかも大指揮者でもこのように勉強しているのです。
つまり、ただ音符を読むのではなく、解釈(アナリーゼ)が必要なわけです。一つの音符、音符と音符との関係をどう解釈するかが大切なわけです。
そういうことで、大指揮者も悩むわけです。

先日、指揮者の小澤征爾・氏が20年前に演奏した時の楽譜を見て、その書き込みを見ながら、当時はまだ考えが未熟だったと言っていました。

指揮者は、練習に臨む前によく勉強しておいて、自分がどう音楽を表現したいのかを楽員に伝えなければいけません。
どうあるべきかとか、疑問などを解決しておかなければいけません。

私の経験では、相当な時間をかけているにも関わらず、演奏が何を言いたいのかよくわからない、完成度が低いと感じるのは、指揮者が(指導者が)スコアをよく勉強しないからだと感じました。

何も訴えを感じない演奏は、練習の度に指揮者の言うことが違う、方針がよく変わる、練習中に指揮者が考え込むというようなものが多いと思います。

だから、私は解釈が確立して演奏者を迷わせない人は「同じことを言う」つまり「いつも考えは変わらない」というのです。

練習に際して、プロの場合は指揮者の解釈(考え)を一度言えば済みますが、中学生の場合はそうもいきません。
相当に鍛えられたバンドでは、何回も同じことを言わなくても済みますが、通常はそういきません。

バンドの指導に慣れた人は、このことをよく知っていると思います。
反対に、慣れていない人は、一度言ったから伝わっていると思っています。

中学生の意識としては、練習で先生が言うことは、一応その場で承っておけばよいという感覚なのかも知れません。
これは、一斉授業で聞き流しているようなものに似ているのかも知れません。

一斉授業を行い、次の時間に「先生が、前の授業で○○のところを何といいましたか?」と質問したら、どれくらいの生徒が覚えているのでしょうか?
やってみると、かなりの生徒が覚えていないことがわかると思います。
ただ、いつもそういう問いかけをする先生の場合は、生徒の意識化が進み、覚えるようになります。

そうです。意識化が進むような授業が大切だと思うのです。
そして、意識化が進むようにするには、先生は行き当たりばったりではなく、授業の進め方なりポイントがきちんとしていないといけないわけです。

行き当たりばったりの授業では、その時その時により何を言ったか不明になりがちです。
そういう意味で、教師はいつも同じ回答ができなければならないと思うのです。

吹奏楽部では、楽譜に書いてあることをすべて守るのは当たり前です。
その上に、一つの音符、音符と音符の関係の解釈が共通理解されていなければなりません。

テストをやったら、40人中30人が百点だったではだめで、40人中40人が百点でなければならないのです。
そこまで、徹底するということは、普通の授業ではなかなか困難です。
ひと通り、教科書を学んでテストをして、何点だったという世界ではなく、徹底して満点を目指すという姿勢が、吹奏楽部の魅力であるとも言えるのです。
そういう体験が、学ぶことの楽しさを感じ取っていくとも言えます。

そのために、指導者はブレてはいけない。解釈は確立していて、前回と違うところは違うと同じように指摘できなければならないと思うのです。

ウィレム・メンゲルベルク[ヴィレム・メンヘルベルフ](Willem Mengelberg, 1871年3月28日 - 1951年3月22日)は、オランダの生んだ20世紀前半における大指揮者の一人。フランツ・ヴュルナーの弟子であるため、ベートーヴェン直系の曾孫弟子ということもでき、ベートーヴェン解釈には一目を置かれた。

甥にルドルフ・メンゲルベルク(音楽学者)とカレル・メンゲルベルク(作曲家)、カレルの息子にジャズピアニストのミッシャ・メンゲルベルクがいる。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

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2011年04月25日

誠実でない人は成功しない

何か格好をつけたようなタイトルですが、教師は、結局自分に嘘をついていないかが大切だと思います。

メッキが剥がれるように、本物の地金はどこかで見えてしまうものだと思います。

ほとんどの人間は聖人ではないので、見栄、煩悩が宿っていて、それが教育という仕事に携わるとき本心と相反することで、自分は心にもないことを言っていると悩まされることがあります。
そういう意味では、教育は自分との戦いであると思います。

どんなに演技しても、中身とは違うチグハグは覆えないもので、本物の指揮者と俳優の指揮者では違うようなものだと思います。

私は、かつて「なりたい自分と現実の自分」というタイトルでT氏のことを書いたことがあります。
結局、T氏は徹底してメッキでいこうと決断し、最後までメッキし続けて終わったように思います。
そのメッキを本物と思った人もいると思いますが、ひとりだけそれはメッキであると知っている人がいて、それはどうしようもないものだったということだと思います。

相反する自分と戦うと決断すると、人は謙虚になるような気がします。
少なくとも、私はメッキではなく、自分と毎日戦っています。

すると、自分が教師の立場であっても、生徒の偉さを感じることが多くなったような気がします。
だから「オレが教えてやる」などとは言えなくなったのです。

教師って、草野球で、今度は誰が審判をやるかのようなもので、時には生徒が教師役をやるようなことだってあると思います。

miristin.jpg有名なヴァイオリニストのナタン・ミルシテインは名教師、ストリヤルスキーの門下生であって、同僚にはダヴィッド・オイストラフもいた。さらに自分を磨くために、レオポルド・アウアーに習い、さらに師を求めてこれまた有名なユジェーヌ・イザイにつくためにベルギーに行ったところ、イザイには「君に教えることが何もない」と言われたそうである。
ナタン・ミルシテインの学ぶ姿勢も凄いと思うが、イザイの言葉もすばらしいと思う。

ナタン・ミロノヴィチ・ミルシテイン(1903年12月31日、オデッサ - 1992年12月21日、ロンドン)はウクライナ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。英語読みではネイサン・ミルスタイン(Nathan Milstein)。1942年にアメリカ合衆国の市民権を取得。89歳の誕生日を目前にイギリスで没した。

母親の奨めでヴァイオリンを学び始め、11歳のときレオポルト・アウアーの招きでペテルブルク音楽院に入学、アウアーのロシア時代の最後の弟子の一人となる。ロシア革命により1917年にアウアーがノルウェーに脱出してしまうと、キエフに戻り、ウラジミール・ホロヴィッツと知り合い、意気投合し、しばしば共演するようになり、1925年には西ヨーロッパでの演奏旅行も一緒に行なった。この頃にはウジェーヌ・イザイの門も叩いている。1929年にストコフスキー指揮のフィラデルフィア管弦楽団によりアメリカ・デビュー。ついにニューヨークに居を構えるが、たびたびヨーロッパで演奏旅行にとり組んだ。

しばしば20世紀の傑出したヴァイオリニストのひとりに数えられており、ロマン派の作品ばかりでなく、バッハの無伴奏ヴァイオリン作品の解釈で定評があった。多くの協奏曲のために独自のカデンツァを作曲しただけでなく、ヴァイオリンのために多くの編曲を手掛けている(中でもショパンの夜想曲の編曲は有名)。オリジナル作品では、パガニーニの主題による無伴奏ヴァイオリン作品≪パガニーニアーナ≫が近年とりわけ注目を浴びつつある。1975年にはグラミー賞を受賞、1968年にはレジオン・ドヌール勲章を受章。

傑出した超絶技巧の持ち主ではあったが、それを前面に押し出す演奏には消極的だった。むしろイザイを通じて身につけた、歌心と美音を尊重するフランコ・ベルギー楽派の優美な演奏スタイルが際立っている。そのためしばしばミルシテインは、「ヴァイオリンの貴公子」と称される。
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2011年04月24日

教師の強制力

私が教師の強制力について述べた時、最も大切なところが理解されていない懸念を感じました。

教師の強制力は、好むと好まないに関わらず存在するものです。
だから、強制はいいとかよくないとか言う討論をしているのではありません。

このテーマの要点を簡単にまとめると次のようにあります。

1.教師が指示することには、自ずから強制力があるから、児童生徒は従わなければならない

・・・だから、教師は指示を明確にし、責任を感じて言葉を発しなければならない。

2.教師の自信を持った指示により、児童生徒は育つ

・・・指導のうまい教師は、指示する言葉にメリハリがあります。また、褒め方もうまい。それは指導力の自信の表れでもある。

3.児童生徒から見たら、信じている教師に対して強制を意識していることは少ない

・・・少ないというのは、時に強制力を感じることもあるということです。それは、教師があえて高い目標を目指す時、現状より負荷を感じる指示を出すことが多いからです。

4.児童生徒に話し合いをさせるとき、好ましくない結論(教師の好みではない)を出したとき、教師は強制力を行使しても止めなければなりません。話し合いでなくても、日常の行動が好ましくない時や非常時も同様、強制力を発揮しなければなりません

・・・人を傷つけたり、危険が予想される時などです。こういう時は、なりふり構わず止める行動に出なければなりません。
以前「ビンタをする」という結論を出した学級会の例を出しましたが、こういう時、教師の指導力を云々している場合ではありません。教師が反対だから、子どもたちがどう考えなおすかどうかは、それまでの教師と子どもの人間関係、学級経営によります。
時間があれば、どう指導すべきかをゆっくり考えればいいですが、そうでない場合は、とにかく防止することが最良の結果です。

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私は自分の実践結果から、反省も含めて投稿しています。

現在、指導と言えば、吹奏楽の指導、クラリネットの指導が多いです。
昔は、吹奏楽や楽器の指導については、専門家の間でも一致していないことがありましたが、近年、指導法は確立してきた感があります。

昔、世界最高の吹奏楽団と言われる、フランスのギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団が来日したことがありました。
その影響で「トランペットは唇の赤いところで吹いてはいけない」と言った、日本の専門家がいます。
それを聞いて、唇を巻口にして吹くようになったことがありましたが、これなんか間違いの典型で、フランス人の唇の赤い部分があまり見えなかったので、そう誤解したのです。

吹奏楽は小さい音(pp)が汚いと批評され、その理由は「日頃からppの練習をしていないからだ」と言った専門家もいました。
これも間違いで、楽器を十分鳴らさない(振動させない)から美しいppが出ないというのも、今では常識です。

クラリネットの指導で、今でも間違っているのは厚いリードほどよいと、まるで信仰のように指導している人がいることです。
そのため、そういう指導を受けた生徒は、だんだん楽器が鳴らなくなっています。

昔は、外国のオーケストラのクラリネット奏者が顔を赤くして吹いているのを見て、厚いリードを苦労して力で吹いているのだと誤解した人たちがいます。
外人は、顔が白く、音楽に浸ってくると感情の高まりで顔が赤くなるのを見て、勘違いしたのです。

sidousyanoutsuwa.jpg今は、正しい教育を受けた人、正しく勉強した人の間で指導が不一致と言うことはないのですが、どういうわけか、稀に、指導者自身が独特の世界を持って変わった指導をしているところもあります。

強制というと、具体的にどういうところに表れるかというと、現実には指示が守られないことがあります。
それは、人間には習慣がありますから、新たな習慣を身につけさせようとしても、次の日には忘れて、また同じ習慣に戻ってしまうということがあります。

だから、まず楽器を出したら始めにやること、次に・・・と指導しても一度でうまくいくということはないと考えなければなりません。
つまり、習慣を変えるには一回の指導で足りるということはないということです。

それで、しばらくは毎回のように同じことを言うわけで、前に言った指示が守られないから「強制を守らなかった時の仕打ちがある」なんてことはありません。
そんなことを言っている人は、勝手にそういう世界を空想しているだけで、実践者でないからそんなことが言えるのだろうと思います。

同じことを言うをわざわざ太字で強調したのは、優れた指導者は、毎回同じことを言うということで、これは指導がブレないということです。
(毎回、新鮮味のない同じことしか言えないという意味ではありません)
指導方針がブレると教わる側には、何も身につきません。

指導者は自信を持って強制できるだけの、確信を持たなければなりません。

このように、現在、考えながら指導しています。

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2011年04月23日

原発で思い出したこと

hitsuginorettou.jpg
原発事故の処理が停滞している。

今回の原発事故で、私がすぐ頭に浮かんだのは、広瀬隆・著「柩の列島」(光文社・1995)だ。

原子炉が10基まとめて爆発する
阪神大震災が発生する前に、地震と人権について日本全国の原子力問題をまとめていた矢先に、実際に大地震が発生しまったからである。
・・・・・・・・・・・・・・・
現在、鹿島、清水組、大成建設などの大手ゼネコンの技術者たちは、ひどいショックを受けている。
もちろん、彼らは本心から鉄筋コンクリート構造の耐震性に自信を持っていたからだ。
また電力業界でも、広報担当者が「原子力発電所は大丈夫」と発言しながら、次は原発の大事故だ、という危機感でうちのめされている。ひどく自信を失っているのだ。
つまり、明日にも原子炉の大爆発が起こってもおかしくないことを、内心で知っているのである。
しかしいまだに、原子炉が日本の全土で停止されて、点検される気配はどこにもない。なぜなのか。この国民は、何かを知らされていないのではないだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・

原子力安全委員会の怪
兵庫県南部地震が発生した時に、原子力安全委員会の会合がすでにあったそうである。
しかもその席で、テレビのニュースを見ながら、次のような会話が交わされた。
「もしもこのような直下型が、原発を襲ったら危ないでしょうな」
「その周囲の人間は、100万人ぐらいが犠牲になるでしょう」と。
・・・・・・・・・・・・・・・

四国電力は、コンクリートの天井を落とすほどの中央構造線の活断層が動くことを知っているのだ。

高速増殖炉"もんじゅ"の危険性
この原子炉には、運転する目的さえない。
まともな電力を永遠に生み出さないことが、すでに電力業界では分かっている。
・・・・すでに「増殖しない」と動燃自らが発言しているからだ。
ところが、1兆円という利権をねらって、三菱重工などの原子炉メーカーと、全政党に闇献金を続けてきたゼネコン各社が、強引にこれを建設してしまい、面子のために運転を強行して、日本人を壊滅させる直前にある。
・・・・・・あまりに核暴走の確率が大きいため、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツのすべてが、このタイプの原子炉の運転を次々と断念した。
が、頭のおかしくなっている国家が一つだけ地球上にある。それがおそろしいことに、われわれの日本である。


つまり、我が国では、国民の安全を優先して原子炉を作っていないということになる。
かくも安全性に疑問のある原発の建設に対し、政治は国民に対してほとんど説明もしていないし、同意も得ていない。
建設地の住民だけに納得してもらえばよいというものではない。
ゴミ処理場とはわけが違うのである。

地デジ放送開始については、かなりの予告をしているのに、生命の危険のある原発については説明がない。
資源のない我が国にどれほど原発に頼らなくてはいけないのか、他にエネルギーを得る方法はないのか国民には説明がない。

エネルギー確保のためというより、先に原子力推進のための予算を決定し、その予算ぶんどりのための利権合戦なのだ。
そのために、与野党全部を含む政党に献金をするのは、法の網をくぐる大々的な汚職と言ってもよい。

政府が何をやっても、大人しい国民性をいいことに、やりたい放題と言えるのではないだろうか?

この本が出版されたのは1995年、今から16年も前のことだ。
日本の学者には正義感はないのか?
「日本の経済は危機的で、子や孫に借金を残すな」というが、原発の危険性は例外なのか?





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posted by edlwiss at 19:46 | Comment(5) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年04月22日

若い人から学ぶ姿勢も大切

4月は新しいスタートの月で、学校にも新しく採用された先生が教員としてスタートする。
企業と違って、学校の先生は新卒も何十年のベテランもいきなり同じ仕事をする。

少しは見習い期間があって、担任を持ち、授業もベテランの補助を務めた後、本格的に先生としての仕事をした方がよいのでは、という考え方をする人もいるだろう。

新卒教員がいきなりベテランと同じ仕事を要求されるということに、私は兼ねてから関心を持っていた。
結論から言うと、指導力は新卒もベテランも変りがないということである。

そんなことはないと思う人は、よく調べてみるといい。
ベテランがみなよい授業をしているのか?
ベテランがみなよい指導をしているのか?
逆に、若い人はみな授業、指導が下手なのか?

そんなことはないと気がつくはずである。

違いは「慣れ」である。
慣れで、あたかも上手に見える場合があるかも知れない。
しかし、要領よくやっているベテランのやり方が、児童生徒の側に立った場合、良いのか悪いのか?

「慣れ」というのは、よい方にも悪い方にも作用する。
悪い方の例としては「手を抜く」「年数を経て上手くなったと錯覚する」などである。

若い人は経験年数が少ないから、能率が悪く不器用に見える場合があるかも知れない。
しかし、若い先生と、ベテラン先生と、児童生徒はどちらがよく覚えるか、どちらが上達するかを考えてみたら、これはどちらとも言えない場合がある。

大学時代に、ある先生が「先生と乞食は三日やると辞められないという言葉があります」と言っていた。
私にはあまりピンと来なかったが、妙に頭にこびりついていた言葉だった。

だから、教員は就職してどういう経過をたどっていくのだろうということに関心を持っていた。

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私が吹奏楽部の指導をしていると、練習をよく見に来るA君という学生がいた。
A君は、いわゆる名門の音大生だった。

それで、A君には時々指揮をさせてみたり、指導させてみたりした。
彼は指導が上手であった。
それは、音大生だから音楽の指導が上手いということではなく、生徒の心理状態をうまく捉えて話をしたり、興味付けをしたり指導力を感じるものだった。

やがてA君は卒業したら教員になりたいと言い出した。
そして、採用試験に合格し、先生になった。

私が予想したように、彼が赴任した中学校はかなり短い期間に上手くなった。
私は彼の中学校へ時々、練習を見に行ったが、よい緊張感で練習が行われていた。

よい指導が行われている場は、空気までが違うように感じる。
生徒の目も生きていて感動するものがある。
先生はいいなあと感じる瞬間でもある。

何年か経つと、彼は別の中学校に転勤した。
その中学校も、それまでは大していい演奏をする学校ではなかったが、彼が行ってから上手くなった。

彼はもう学校という空気に慣れて、ゆとりも出てくるようになった。
そんな頃、ある日、私は練習を見に行った。

すると、その日は何かちがうなあと感じた。
音楽室へ行ってみると、彼はいなくて生徒だけで練習していた。

生徒の練習を見ると、練習が遊びのようになっていた。
つまり、有意義な練習になっていないということである。
知らない人から見ると、音はよく聞こえてくるので、練習もよくやっているように見えるのかも知れないが、吹奏楽の指導者から見れば練習の質はすぐわかるものである。

私は職員室へ行ってみた。
するとA君は他の先生と話をしながら、雑談をしていた。

彼は学校に慣れてきたら、すぐに音楽室に行かず職員室で、どうでもよい時間を費やして、しばらくしてから練習に向かうようになっていたのだ。

その中学校の演奏は次第に落ち目になって行った。
彼としては同じように指導しているつもりだったようだが、ジワジワと病魔に侵されるように、レベルの下がっていることには気がつかなかったようだ。

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寿司屋へ行くと、戸を開けるなり「いらっしゃい」という威勢のいい声が聞こえてくる。

これは気分がいい。

こういう声が聞こえない店では、ネタが古いように感じてしまう。
そして、そういう店では入り口に子どもの遊具、三輪車などが放置してあって、何か生活感を感じる。
入り口の戸は手をかけるところが汚れていて、掃除が行き届いていない。
こういう店には、二度と行く気がしない。

先生も新鮮味がなくなったら、寿司屋のネタのようにいただけなくなる。

新米先生であっても、どぎまぎしながら不器用にやっていても、児童生徒から見たら新鮮で、けっこう上手くいっているという場合もある。

だから、ベテランは新米をなめてはいけない。
自分が古いネタになっていないか、来る日も来る日も退屈な授業と、偉そうな態度で接していないか振り返ってみることが必要だ。

吹奏楽の指導をしていると「今度、あいつが卒業して先生になってくるな」と感じる者がいて、関係者は脅威を感じている。

そういう彼は、すでに卓越した指導力を持っているのである。
ただ、学校という環境に慣れていないだけである。
その指導力は部活だけではない、当然、授業もすばらしい。

運動部でも同じたと思う。
ある先生が転勤した学校が、必ず強くなる。
そういう先生たちは、みな謙虚で新鮮である。
いつも勉強しているからである。勉強しているから、いつも自分の足りなさを感じていて、それが態度に表れるのだと思う。

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本当に指導力があるのかどうか、試すのにいいと思うものがある。

教員の世間知らずが、とかく話題にのぼり、企業内研修を実施しているところもあるようだが、私がそのような研修に好適と思うのは、携帯電話の販売である。

今日の携帯電話には、非常にたくさんの機能が盛り込まれている。
その携帯電話を売るのには、当然ひと通りの操作ができるように学んでおかなければならない。

取り扱い説明書を読むのは当然である。
先生だったら「携帯電話の取り扱い説明書ぐらい読まないと」と思う。
(それを面倒と感じるようだったら、頭の退化が始まってると考えた方がいいだろうと、私は思う)

次々と出る携帯電話の新製品を理解し、店頭で客に売る経験をしてみたらどうだろう。

普通は20代そこそこの女の子が、よく説明してくれるなあと、私はいつも感心している。
そういう女の子に、ある時、いろいろ質問してみた。

結論、頭がいい。

もちろん、頭がいい子しか企業は採用しない。
「給料はいいでしょうね」
と言ったら
「いいです」
という返事が返ってきた。

オレは何十年も先生をやっていて、指導力には自信があると自負している先生は、一度、携帯電話の販売をやってみるといいのではないか。
(特に、いつも上から目線でものを言う習慣の先生には、やらせてみたいと思う)

大卒そこそこの女の子に勝てるだろうか?

新卒を侮ってはいけない。

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posted by edlwiss at 14:03 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年04月22日

精神疾患を持ちながら勤務している教員も問題




【補足】
このニュース記事を取り上げたのは、今回の地震とは関係ありません。
そんなことを意識して、とりあげたのではありません。

たとえ、そうであったとしても、過重労働で苦しんでいる教師が非難されるわけはないでしょう。
また、一般の学校にあっても、同様です。
問題が追及されるべきは、どうしてそのように教師を追い込んでいるのかという実態です。
特に、今日では指導に熱心な教師が悩んでいるという実態もあります。

非難されるべきは、火中の栗を拾おうとしないで、観客や評論家になっている教師。
めんどうな場面では逃げる教師。
以下のように常識のない教師。
・児童生徒に「きまりは守らなくていい」という教師
・職務命令は気が気に入らないときは拒否してよいという教師
・採用試験は筆記試験に合格しなくても、コネで入ればよいという教師
こういうのは、精神がおかしい(精神疾患)と思います。
posted by edlwiss at 10:23 | Comment(15) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年04月21日

教師が強制力を発揮しなければならない時

教師は教育目標に照らし合わせて、指導計画を作ります。
その指導計画を実行するためには、指導の場面では具体的に何をするのか児童生徒に指示をしなければなりません。

教師が何も言わないのに、児童生徒が教師の意図を汲んで自主的に行動するなんてことは考えられません。

例えば、国語の授業において、ある文章を読んで解釈をするという場合、教師が何も指示をしなければ、児童生徒は何処を読んでいいのかわかりません。

教師が何をしたいのか、児童生徒が察知して、教師の意図する文章を読み始めるなんてことはあり得ません。

だから、教師が児童生徒に何も指示しないということはあり得ないし、何も指示しないのであれば、学校へ行く必要もありません。
それどころか、教師が何も指示をしないということは、職場放棄と同じです。

教師が何も指示しないで、ことが進んでいくのなら、教師は必要ないし、教員を採用する必要すらなくなります。
ということで、教師が指示をしない学校なんて問題外です。

教師の指示には強制力がありますが、通常は強制力を行使しないでも児童生徒は、教師の指示に従います。
しかし、時には強制力を行使しなければならないこともあります。

それは、以前、取り上げた例ですが、ある小学校の学級会で児童が、宿題をやってこない者にはみんなでビンタをするということを決めました。
この決議は、ある保護者の子どもが頬を赤くして帰宅したことから、母親が担任と連絡をとりわかりました。

「なぜ、そんなことをするのですか?」

という母親の抗議に対し、担任は

「みんなで、多数決で決めたことですから」

と返事をしました。

いくら、多数決とは言え、そのような決議を認める担任が間違っていることは明白です。
こういう場合は、担任が「今の決議は間違っているから、もう一度よく話し合いなさい」というような指示をするとか、実行させないようにする必要があります。

話し合い活動以外でも、教師が目標を達成させるために、時には強制的に課題を実行させる場合もあります。
もちろん、その強制には指導者としての自信が必要です。
言葉を変えれば、児童生徒の考えと教師の指導が違った場合、強制できない教師は指導に自信がないとも言えます。

時に、児童生徒の反対にあっても、嫌われても押し通せるだけの自信が指導者には必要であるとも言えます。
児童生徒との摩擦を避けたいがために、妥協する教師は決してよい指導者とは言えないでしょう。

よい指導者の例としては、私には忘れられない思い出があります。
それは、先生ではなく生徒でしたが、私がある中学校に転勤して、吹奏楽部の指導をすることになった時、3年生のある女子生徒が、私の意気込みを感じてくれたのか、すごく張り切って下級生の指導をしました。

それは、打楽器のパートでしたが、打楽器は運動部のような訓練が必要です。
打楽器の基本は、スネアドラムで右手と左手に持ったバチで交互に叩くとき、左右の音色の区別がわからないように聞こえるのが理想です。
これは、なかなか辛い練習と言えます。

大抵は、あるレベルで妥協してしまうのですが、3年の彼女は妥協しませんでした。
彼女もいい子だったし、下級生もみなまじめないい子たちでした。

先生たちが「あの、このごろよく聞こえてくる、雨がふるようなバラバラという音は何だ?」という声が聞こえてきました。
今まで聞いたことのないような、練習の音が聞こえてきたのです。

私も、音を聞いて「ウーン、いい練習やっとるな」と感じていました。
そして、3年の彼女には頼もしさを感じていました。

ところが、ある日、その3年の彼女が私のところにやってきました。
そして、突然泣き出しました。
何だろうと思ったら

「先生、私寂しい」

と言い、涙がポロボロ出ていました。

彼女の指導が厳しいので、下級生たちの顔つきがおかしいと言うのです。
時に、彼女を睨むようなこともあると言いました。
彼女は、かなり孤独感を感じていました。

私は、彼女のやり方は間違っていないと、励ましました。
彼女はなかなか芯の強い子で、それからも同じように指導を続けました。
私は、内心心配していましたが、分裂状態になるのでもなく、ずっと続きました。

厳しい練習の成果があって、打楽器の音は他校と比べても際立って聞こえるようになりました。

卒業式が近くなり、彼女は下級生との別れが近くなってきました。
そんなある日、また彼女が私のところにやってきました。

「先生」

と言って、また彼女は泣き出しました。

今度は何かなと思ったら、彼女は手に何かを持っていました。
きれいなリボンがかけられた箱でした。
彼女は、すっかり下級生に嫌われていたと思っていたのに

「先輩、ありがとうございました」

と言われ、プレゼントをもらったのでした。
彼女の今度の涙は、嬉し涙だったのです。

このようにして、打楽器パートは「ある水準」が伝統になったのです。

彼女の満面の嬉しさをたたえた表情は、今でもよく覚えています。

生徒なのですが、私に身を持って指導の手本を示してくれたと思いました。

彼女は「打楽器の音はこうでなければならない」という明確な基準を持っていたのです。
そして、こういう手順を踏んでいけば、必ず上手くなるという自信も持っていたのです。

彼女の教えた生徒の中には、その後プロになった者もいました。

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posted by edlwiss at 22:38 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年04月20日

学校教育内での教師の指示には強制力が伴う

私が教員になると決まった時、伯母は「あんたみたいな者に、先生がやれるのかねえ?」と言った。
そして、何ヶ月か経った時、どうやら順調に先生を務めていると思ったのか「よう、あんたに子どもがついてくるわ」なんて憎まれ口を叩いた。

私としては、言葉を返したかったが「まてよ、子どもは私の言うことをどうして聞くんだろう?」と思った。

gakkou_seito2.jpg結論として、子どもは私の言うことを聞いているのではなく「先生の言うことを聞いているのではないか」と思った。

つまり、そこには「先生の言うことは聞かねばならない」という、意識、無意識に関わらず、そう教育されてきたからではないかと思ったのである。

だから、子どもが先生である私の指示を聞くということは、私の力ではないかも知れない。
私は、子どもが、先生だから聞いてくれるのではなく、私だから聞いてくれるというのでなければいけないと思うようになった。
では、子どもが私の言うことを聞いてくれるというのは、どうしたらわかるのだろうか?

子どもが学校にいる間、つまり、学校教育の範囲内では先生の強制力が働く場であるから、そこでの子どもの行動は何の影響で動いているのかはわかりにくい。

わかりやすく言えば、子どもの自由時間や学校を離れてから、子どもがどう行動するのかで、子どもが何の影響を受けて活動しているのがわかると思った。

何か理屈っぽい言い方になったが、指導の成果は教師の指導を離れてからわかるということだ。
これは、授業だけでなく、部活でも同じことである。
だから、私は、自分の指導の評価を、子どもの自由時間や学校外の行動で評価しようと考えた。

部活動においては、日照時間の少ない時期では練習時間が短くなる。
練習時間が少なくて悩むのだが、たとえ短い練習時間でも子どもが楽しいと感じたら、自分の自由時間に練習したりするのではないかということである。

それは、実際に楽器を用意して練習するということでなくても「そのことを考えている」ということでも、練習時間の拡大に繋がるわけである。

これは、学校だけでなく、社員が仕事に取り組む姿勢についても同様である。
会社で働くということは、当然、報酬のために働くという側面があるが、社員が仕事にやりがいを感じているかどうかは、会社の繁栄には違いが出てくると思うのである。

人はやりがいを感じると、報酬のことは考えないと言った人がある。
また、ある研究では、人はやる気がないと、その能力の20%ぐらいしか力を発揮しないとの報告もあった。
そういう場合は、本来、頭のいい人でもバカに見えることがあるそうだ。

会社のトップは、社員にやる気を出させる経営ということに、力を注ぐ必要があると言える。
やはり、義務、強制としての仕事でなく、社員がいかに会社の仕事について関心を持っているかということである。

仕事帰りの飲み会でも社員の姿勢がわかるのかも知れない。

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「強制」は国語辞典で調べると、簡単な説明しかありませんが、フリー百科事典「ウィキペディア」では詳しく説明されています。
強制(きょうせい)とは、相手が快諾しない物事を有無を言わせずに押し付ける事。また、その物事を行うように命令する事。その物事を相手の許可なく行使すること。 通常、相手が快諾しない物事は押し付けるべきではないが、正当な理由がある場合はその理由の下に命令、または行使する事ができる。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

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posted by edlwiss at 20:48 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年04月19日

死の権力と生の権力

死の権力とは

フランスの哲学者、フーコーによれば、前近代的な権力は絶対的な権力を持つ国王や君主が力で人々を服従させていた。
逆らう者には死刑という罰を課して、恐怖による支配をしていたと言える。

生の権力とは

一方、近代的な民主社会は、別な形で権力が生じて、これによって人々を支配している。
例えば、学校では時間割があり、それに従って勉強させられ、様々な行動が規制される。
サラリーマンは会社で働き、時間を守り、規格にそった仕事が要求される。

===========================================================


フーコーが考えたように、現代では一見、国民は自由のように見えても、人々は眼に見えない権力に支配され、多くの「強制」が存在する。

人は、国籍を離脱しない限り、民主社会においてもいろいろな場面で、眼に見えない権力によって強制を受ける。

社会の先生には、釈迦に説法ですね。

****************************************************************
[参考]
日本国憲法第22条:
2.何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。」
****************************************************************

学校の先生が「何かを押し付ける(強制する)」と文句をいう人がいますが、学校の先生も権力を持っているのです。

ある先生に教わるということは、その先生のやり方に従えということになります。
もし、それを拒否したいならば、学校を辞めるなり先生の権力の及ばないところへ移るしかないわけです。

日本国民は、日本国憲法に守られている反面、国家権力に従わなければならないのです。
それも嫌だというなら、国籍を離脱するしかないわけです。

強制力は至る所に存在し、強制する側、強制される側という関係が成り立ちますが、それを意識しないことが多いだけです。

強制とは、固く言えば権力の行使でありますが、それは必ずしも、力で相手を屈服させるという形のものではありません。

自主的に先生を見つけて、何かを習いに行く場合でも、そこにはやはり強制と被強制の関係が生ずるわけで、習う人は強制を受け入れることを受容することを承知で行くわけです。

私がこのように「強制」について言及したのは、最近「何で、先生がやり方を押し付けるのだ」と不満をいう人がいるからです。
こういう人は、多分、気分だけでいい悪いを決めてしまっているのではないでしょうか?

幼児は自分に対する刺激、情報を快不快だけで、受容したり拒否したりします。
しかし、やがて成長するに連れ、理性が働き客観的にものごとを判断できるようになります。
だから、ある時、先生のやり方が厳しいと感じても「先生は自分のために一生懸命やってくださっているのだ」などという判断ができるようになるのだと思います。

ミシェル・フーコー(フコ)(Michel Foucault 発音例、1926年10月15日 - 1984年6月25日)は、フランスの哲学者。『言葉と物』(1966)は当時流行していた構造主義の書として誤って読まれた。代表作はその他『狂気の歴史』『監獄の誕生』『性の歴史』など。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

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posted by edlwiss at 16:22 | Comment(7) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年04月18日

教師が何も指示しない学校ってあるんですか?

私は「教育は強制だ」と言いました。
しかし、この意味がわからない先生(?)がいるようです。

「教育は強制」というのは、何も学校だけではないです。
教育を受ける子ども側から見たら、大人はみな強制していると言えます。

親は躾をします。これも強制です。

以前「コネ」の問題が話題になりましたが、コネそのものは何も悪くないと、私は言いましたが、それを理解できなかった人がいるように、今回も「強制」自体は悪いとは言えないのに、やはり強制という言葉だけが独り歩きして「強制が悪いように」捉えてしまっている人がいるようです。

強制でないと成立しない公立学校の悲哀


教師が子どもに何かを指示すること、つまり強制することが何で悲哀になるんですか?
(むしろ、教師が何も指示してくれない学校があるとしたら、その方が子どもにとって可哀想でしょう)
これなんか、完全に「強制は悪い」と決めつけてしまっているのではないでしょうか?

大体、教師が何も指示しなくて、学校が運営されていくのでしょうか?

例えば「朝8時までに登校する」だって強制です。
児童生徒を、所定の時刻までに登校させるという強制がなくて、うまく行きますか?


 dolceさんの記事とは全く別次元の話を書いたつもりだったのですが,反論?をいただいたのでお答えしておきます。

 dolceさんのおっしゃる通り,教師による強制でないと物事が何も進まない公立学校が実在します。それを豊橋市の元教員,dolceさんがきちんと証明してくれました。

 こういう学校で,生徒が教師の「強制」にあくまでも従わなかった場合,どういう「仕打ち」が待っているか,容易に想像できますね。

 豊橋市の教育を受けた方が,今度は証明してくれるでしょうか。

 2006年の段階では,「小突いた程度は体罰ではない」というのが豊橋市教育委員会の見解だったようですが・・・。

 
これは、何を言いたいのか意味不明です。([注]私は豊橋の教育を受けておりません。あなたの頭に浮かんだのですか?)
豊橋に限らず、教師の指示に従わない子どもがいる可能性はあるでしょう。
しかし、この例では、まるで豊橋だけが教師が指示(強制)をしているところのような書き方です。

豊橋以外の日本の学校では、教師が児童生徒に何かを指示しないのですか?
それとも、教師が何かを指示すると、それを守らない児童生徒がいるので、教師は何も指示をしないのですか?

どうも、この人の勘違いは「教師が指示すること(強制すること)」と、それに児童生徒が従わないという問題が一体になってしまっているように思います。

この方は、児童生徒が従わなかった場合、どうするのでしょう?

教師による強制でないと物事が何も進まない公立学校が実在します。


というより、教師が指示をしないでも物事が進むという学校を私は知りません。
あなたの学校違うんですか?

問題の捉え方が間違っているのです。
「強制したからどうのこうのという問題」ではなく「強制した時、聞かなかったらどうする」という手段の問題なのです。

長い人生の間には、子どもが大人の言うことを聞かないということはあります。
そういう時、どうするかの問題です。

こういう学校で,生徒が教師の「強制」にあくまでも従わなかった場合,どういう「仕打ち」が待っているか,容易に想像できますね。


全然想像できません。
「こういう学校」ってどういう学校ですか?

体罰のことを問題にしたいのかも知れませんが、それは「学校の問題」ではなく「体罰を行った教師の問題」です。
あなたの考えがおかしいのは、教師に従わなかった子どもがいたとき、ある一人の教師が体罰を行ったら、その学校では全部の教師が同様なことをする言い方をしていることです。
(一応、念のために断っておくと、ここでは「体罰」という言葉を便宜的に使いましたが、体罰になるかどうかは現状を知らない者ではわかりません。)

それに、やはり気になるのは、大げさな言葉を使う傾向のある人、すなわちここでは「仕打ち」です。

******************************************************************************
【仕打ち】
他人に対する行為や態度。人の扱い方。多く、悪い意味に用いる。「むごい―を受ける」
*******************************************************************************

という意味であって、悪い意味に用います。
つまり、わざわざこういう言葉を使ったということは「教師が子どもをひどい目に合わせた」というような意味を含みます。
そう印象づけたかったのかも知れませんが。

 私の実践に関して質問がありましたので,具体的な事例ですが,一つだけお答えしておきましょう。

>「では、教科書の○○ページを開いて」

 という指示を,私はほとんどいたしません。

 どのページを開くかは,生徒が自ら考えます。

 それぞれの学習場面で,教科書を読んだり見たりする必要があるかどうかを判断するのは生徒です。

 本時の内容は最初に言いますから,その内容が示された頁を開くのは,生徒自らの判断によるもので,強制ではありません。

 
問題の本質は、あなたが生徒に「○○ページを開きなさい」という指示をするかしないかということではありません。

あなたは、生徒に対して何かの指示をすることは一切ないのか

ということです。

 こういう聞き方をすることはあります。

 「○○のことが分かる資料は何頁にあるだろう」

 ・・・生徒が,「○○頁」です,と答えて,「そうだね」と返すと,

 他の生徒はみんなそこを開こうとします。

 
それでは、これがあなたの指導のすべてなのですか?
一切、生徒に指示することはない。
さらに、あなたの学校では教師が生徒に指示をすることはない?

 
 dolceさんとは別の次元の話をしているということはご理解いただけたでしょうか。


本質から逸脱して、次元の違う話をしているのは、あなたです。
「ページを開く指示をするかしないか」は本質的な問題ではなく「生徒に指示をすることはないのか」という問題です。



今回は,タイトルで使いながら,めずらしく

 「辞書にある意味をコピーしておく」ことはしませんでしたね。

 あまりにもえげつないのでやめたのでしょう。

 
何を言いたいのか、さっぱりわかりません。
「えげつない」とは何のことでしょう?
辞書云々は必要ないからしなかっただけですが。
でも、今回その必要が出てきました。

******************************************************************************
【えげつない】
ものの言い方ややり方が露骨・無遠慮で節度を超えているさま。ずうずうしく、いやら
しい。あくどい。
******************************************************************************

「えげつない」とは何を指しているのでしょう?
大げさな言葉が好きですね?


「強制の教育」。

 これ,公立学校では常識なのかもしれませんが,それを覆そうとして私は努力をしています。

 
そうですか。常識ではなく、教師が何ごとか言わなければ始まらないと思いますがね。
どうぞ、努力はなさってください。できたら凄いことだと思います。

しかし,「形から入る教育」の代表である愛知県の豊橋市などでも,


そうなんですか?
そういうことを、どこでお知りになったんですか?

>教師の指示が強制でなかったら、どういうことになるだろう?

>それは、教師の指示に従わなくてよいということになる

 こんな発想の教師ばかりではないことをお祈り申し上げます。

 
教師の指示に強制権がなかったら、大変だと思います。
まあ「きまりは形式だから守らなくてよい」と主張されるあなたにとっては、違和感があるかも知れませんね。

しかし,お気の毒様です。

 「今の豊橋は,そんな場所ではないですよ!」というコメントをお待ち申し上げております。

 
ということは、あなたは如何なる手段で、豊橋の教育を掌握されたんですか?
どんな調査をされたんですか?

一人の教師の行動で、すべてがわかってしまう超能力をお持ちなんですか?

私には、豊橋のすべてはわかりません。

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posted by edlwiss at 23:11 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年04月18日

教師は実践者でなければならない

後で示す、囲みのブログ記事は、私のブログ「教育は強制である」に反応して書かれたものだと思う。

この方は、元はと言えば、私のブログを見て「ダメな教育ブロガーの見分け方」と題して記事を書いたことが始まりである。

批判でも何でもいいのだが、肝心なことは、それが当たっているか、的確性があるかということである。

それより、この方は、自称、中学校の社会科教師でしかも元か現在もそうかはわからないが、指導主事だと言っている。

無責任な一般人が勝手に語っている記事なら、変な人がいるということで済ませられるが、
現役の教師でしかも指導主事というのでは、問題が大きいと思う。

この方の過去の主張でも、驚いたのは「きまりは形式だから、必ずしも守らなくてよい」と発言したことである。
遵法精神を教えなければならない学校が、しかも社会科の教師がこんなことを言っているとしたら大問題である。
今回は、先ほど述べたように、私の「教育は強制である」に呼応したものと見られる。

私が「教育は強制である」と言うのは、具体的に指導場面に立った場合、教師は児童生徒にあれこれを指示をすることで指導が進んでいくことで、そう思うわけである。

例えば、授業で教師が教室に入る「起立、礼」の声が聞こえる。
教師は教壇に立つ。

次に何が起こるか?

教師が何ごとか言うだろう。例えば

「では、教科書の○○ページを開いて」

と言う。
これは、教師が学習を進める上での指示である。
教師の指示は強制である。

教師の指示が強制でなかったら、どういうことになるだろう?
それは、教師の指示に従わなくてよいということになるから、生徒は指定されたページを開かなくてもよいわけである。

再度言うが教師の指示は強制である
そうでなかったら、生徒は教師の指示を無視してよいということになる。

この人の授業では、生徒は好き勝手なことをしてよいのだろうか?
果たして、この方はどうやって授業を進めているのだろうか?

こう思うから、この方は、現役の先生ではないのでは?という疑問を持つのである。
いや、先生の経験もないのではないか?
あれば、生徒に何らかの指示をするわけだから。

生徒が先生の指示に従わない授業ってあるのだろうか?

実はないわけではない。
しかし、私の知っている「生徒が教師の指示に従わない」授業の例と同じだとしたら、これも大変である。

私の知っているその授業というのは、A先生である。
A先生は精神的に病んでいた。
それで、変だと気づいた校長が1年間休養させた。
A先生は1年間入院していたのだが、病名は「うつ病」ということになっていた。
だが、それは表向きの病名で、本当は「統合失調症」であった。
A先生は1年後に退院してきたが、まだ治っていなかった。

A先生が教壇にたっても、支離滅裂で、話を聞いていてもまとまりがないので、生徒はA先生の話を全く聞かなくなった。
それで、A先生の授業になると、生徒たちは勝手に好きな自習を始めて、A先生は一切無視されるようになった。

このような状態では、もはや授業とは言えないだろうが、教師による指示もなく、当然強制もないわけである。
先生はマイペースで教科書を読んでいくだけである。
私が知っている、唯一の強制のない授業(?)である。

今回のブログ記事が、そのようなものかどうかは私にはわからない。
しかし、変だと思うのは、この人の記事では「実践の臭いがしない」「現場の臭いがしない」ことである。
具体的実例もなく、すべて空想の世界をさまよっている感じを受ける。

それでは、具体的に見てみよう。
(この方は、当初から私の記事を勝手にコピペしているから、私も「お互い様」ということで、そっくりコピペさせてもらった)

※ 囲み記事が原文で、()の番号は、説明の便宜上、私がつけたものである。
まず、原文を全部掲載する。

(1) 強制の教育によって破壊された人格


(2) は,修復不可能だとあきらめてはなりません。

(3) 気づくことができるようになります。

(4) よき人との出会いによって。

(5) そして,自律的な人間に成長できる日がやってきます。


(6) しかし,強制の教育を堂々と推し進める人間たちの人格は,修復は難しいでしょう。

(7) 強制の教育によって成功する人間もいて当然ですが,

(8) 思い通りにならない子どもが大部分です。

(9) そういう子どもたちが,「頭が悪い」とか「頭がおかしい」と攻撃され,

(10) 自己肯定感,自分の存在意義を見失っていきます。

(11) 子どもたちを救うには,強制の教育に固執する人間から離れるか,

(12) そのような人間を子どもから遠ざける必要があります。

 

(13) 日本の「道徳」に「強制色」「価値観の押しつけ感」が強いのは,強制の教育を是とする教師が多いからです。

(14) 直接的な周囲の人間的には非常に礼儀も正しく道徳的で,一見すると公共心が高そうでも,組織的な犯罪に容易に手を染める人間がいるのは,強制の教育がもたらした日本の欠点です。



(15) Nさんと吟遊詩人さんの音楽の授業が決定的に違うのがこの点であり,子どもにとっては幸不幸の分かれ道です。

(16) 「基本」は強制によってでしか身に付かないものではありません。

(17) 「基本」が強制によってしか身に付かないような人間は,いつまでたっても

(18) 「自律」的な人間になれず,他人を頼って生きることしかできなくなります。

(19) 応援する人間を自ら作り出さないと安定できないような人間は,「自律」的な人間ではありません。

(20) 強制の教育を常時行いたい人間は,そういう自分に都合のよい,「常に従う」人間像を理想とします。

(21) 批判や非難はもってのほかです。想像を超える逆襲が待っていることでしょう。

(22) そういう方法でしか自分を守ることができないからです。


(23) もしこの手の人間の教育が避けられないのであれば,じっと耐えている自分を自覚しながら毎日を過ごすことです。

(24) 一生つきあわなければならない相手ではありません。



【解説】

まず(1)〜(5)を読むと、私は奇妙な感じになる。
それは「強制によって破壊された人格」という実例を、この人は知っているのだろうかと思うからである。

ナチの収容所の強制労働とか、シベリア送りになった人たちの生活のような環境では考えられるかも知れない。
しかし、今日の日本の学校教育の中でそういうことが考えられのだろうか?

もし、あるというなら、実例を挙げて説明すべきである。でないと、この平和な日本ではピンとこないではないか?

それとも、先生に「○○ページ」を開いてと言われた生徒が、人格破壊を起こしたなんてことがあるのだろうか?

私は楽器を教えるということをたくさんやってきたが、楽器の持ち方から始まって、指使いなどを教えたが、それらはすべて「強制」である。
こちらが指示した通りやってねらわなければ困るのである。

私の経験では、その指示が守れなかった生徒は一人もいなかったし、その指示(強制)が原因で人格破壊を起こした者もいない。


(6) しかし,強制の教育を堂々と推し進める人間たちの人格は,修復は難しいでしょう。


教師が指示するのは強制である。そういう教師たちの人格をなぜ修復しなければならないのだろう?
修復とは壊れたものを直すことである。
当たり前のことをやっている人に、修復するところなどあり得ない。
そういう人が壊れていると見えるのだったら、自分が壊れているからそう見えるのではないか?

私が「教育は強制である」と言ったのは「教師は指示を、自信持って、児童生徒に明確に伝えるべき」という側面を強調したかったからだ。

明確に指示ができるということは、指導に自信があるということの裏付けである。
指導に自信が持てるには、よく勉強しておくこと、よい体験をしていることから生まれると思う。

優れたコーチは指示を明確に伝えるし、指示に対するチェックも厳格である。

また、コーチの明確な指示の響きが、教わる者からの信頼を得る。


(7) 強制の教育によって成功する人間もいて当然ですが,


当然じゃなくて、教師が自信持って指示をしなければ(強制しなければ)、教わる者も自信がつきません。

(8) 思い通りにならない子どもが大部分です。


「教科書の○○ページを開いて」と言うと、開かない子どもが大部分ですか?

私は、楽器の持ち方を指示し、指使いを指示し、つまり強制し、その通りできなかった子どもは未だかって一人もいません。
だって、楽器は人が使うように、使いやすいように作られていますからね。

そりゃあ「宙返りをしろ」と言ったら、思い通りにならない子どももいたでしょうね。


(9) そういう子どもたちが,「頭が悪い」とか「頭がおかしい」と攻撃され,
(10) 自己肯定感,自分の存在意義を見失っていきます。


こう言っている以上、そういう例を知っているわけですね。
だったら、具体的に説明すべきですね。

私の経験ではそういうことは全くありませんでした。
だって、できないことを強制した(指示した)ことは一度もありませんから。

教師は、できないことを強制してはいけません。
ある目的に到達するために、いくつか段階を踏んで、少しの努力で実現できる目標を順に指示していく(強制していく)のが教師の仕事じゃないですか?
跳び箱の高さを順に高くしていくようなものです。


(11) 子どもたちを救うには,強制の教育に固執する人間から離れるか,

(12) そのような人間を子どもから遠ざける必要があります。


ということは、子どもを学校に行かせない方がいいってことですね。
この指導主事はすごいですね。
きまりは守らなくてよいとか、あれこれ指導で指示する教師から子どもを離すということを推奨するんですから。
もしかしたら、この国を破壊する目的をもっているんでしょうか?

ピアノ教室の先生なんか、いつも強制してますよ。
子どもは、強制をしてもらうために、わざわざお金を出して通っているんですがね。

「○○日まで、この曲を練習してきなさい」

これは、強制ですよ。

(13) 日本の「道徳」に「強制色」「価値観の押しつけ感」が強いのは,強制の教育を是とする教師が多いからです。


というのは、統計があるとか、あなたが指導主事だから、日本中の学校をまわって得た資料に基づくものですか?

私の見た道徳の授業では、そんなのはなかったですね。
あなたの言っているのは、戦前の教育勅語の強制のように思えます。


(14) 直接的な周囲の人間的には非常に礼儀も正しく道徳的で,一見すると公共心が高そうでも,組織的な犯罪に容易に手を染める人間がいるのは,強制の教育がもたらした日本の欠点です。


と言うことは、言葉を変えれば、両者の間に相関があるということですね。
そういう研究結果や資料がありますか?
それとも、あなたの研究ですか?

しかし、指導というのは何度も言いますが、強制の連続のようなものですから、そういうことなら、教師は一切、指示をしてはいけないということですね?

一体、先生は学校に行って何をしたらいいんですか?
子どもの前では黙っているんですか?


(15) Nさんと吟遊詩人さんの音楽の授業が決定的に違うのがこの点であり,子どもにとっては幸不幸の分かれ道です。


そうなんですか?
すると、吟遊詩人さんと言う人は、生徒に何も指示しないんですか?
それとも、指示しても、生徒はその通りにしないんですか?

とると、吟遊詩人さんは、私が先に例を挙げたA先生のようかなと思ってしまうんですが。

でも、吟遊詩人さんは確か、指揮している動画を載せましたよね。
あれは、吟遊詩人さんではないのか、それともあの指揮はただの飾りですか?

指揮というのは、すごく強制力のあるものなんですけどね。
指揮しても、コントロールが効かない?

(16) 「基本」は強制によってでしか身に付かないものではありません。

(17) 「基本」が強制によってしか身に付かないような人間は,いつまでたっても

(18) 「自律」的な人間になれず,他人を頼って生きることしかできなくなります。

(19) 応援する人間を自ら作り出さないと安定できないような人間は,「自律」的な人間ではありません。

(20) 強制の教育を常時行いたい人間は,そういう自分に都合のよい,「常に従う」人間像を理想とします。


これは、教師は児童生徒に対して何もするなと言っているようなものですね。
つまり、学校に先生は要らないと言っているわけです。

それで、あなたは、これを実行しているわけですね。
だから、現場の臭いがしないんですね。

教師としては、言ったようにやってくれない子どもは困りますね。
こういう子どもを、通常「躾の悪い子ども」と言っているわけですが、そういう先生の指示に従わない子どもがいいわけですか?

あなたの考えだと、この国は破滅の方向だと思いますがね。
あなたが、反日のように見えてきました。


(21) 批判や非難はもってのほかです。想像を超える逆襲が待っていることでしょう。

(22) そういう方法でしか自分を守ることができないからです。


これって、矛盾してませんか?
あなたは「『常に従う』人間像」を否定したんでしょう?

常に従う人間がいけないということは、批判する人間がいいということですよ。
分裂してませんか?

笑えるんですけど「想像を超える逆襲」って何ですか?
テポドンが飛んでくるってことですか?
それとも、ゴジラの逆襲?

「守る」って何を守るんですか?
誇大妄想狂みたいに思えます。


(23) もしこの手の人間の教育が避けられないのであれば,じっと耐えている自分を自覚しながら毎日を過ごすことです。

(24) 一生つきあわなければならない相手ではありません。


一体、これって何ですか?
わけがわからなくなって来ました。

どなたか、翻訳していただけますか?

=========================================================================


タイトルの「教師は実践者でなければならない」の実践とは、教師は目標を設定し、目標を設定するためのいくつかの段階を設定し、それらを順番に指示していいくことで、児童生徒を目標にまで近づけていくことだと思うのです。

この実践における指示とは、強制に他ならないと思うのです。

教師と生徒の関係は、学校のようなスタイルだけではなく、個人的に先生を見つけて指導を賜るという場合もあります。
この場合は生徒の方が、望んで、教師の指示、すなわち強制を望んで行くわけです。

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2011年04月17日

教育は強制である

syusyokuno_okite.jpg
個性の尊重は大切であるが、個性とは何かが理解されていないせいか、子どもがやりたいようにやらせることが良い教育であるかのような錯覚されている場合がある。

このことを象徴的に示す例は、かなり前に紹介したことがあるが、ある子ども先生についてピアノを習い始めた。

しばらく、練習が進んだところで、先生が指使いの間違いを直そうとした。
すると、その場面を見ていた子どもの母親が

「あなたは、子どもを型にはめようとしている」

と言った。
母親としては、私は教育がわかっているというつもりで言ったらしい。

プライドの高い、うるさい母親だったので、ピアノの先生はその子どもにはやりたいようにやらせていた。
その結果、子どもは8年も通ったのに、レパートリーが1曲もなかった。

「型にはめる」という言葉は聞こえが良くないかも知れない。
しかし、よく考えてみると、教育(指導)とは「型にはめる」という側面を持っている。
そして、型にはまらないものを、あえて型にはめようとすることは強制であるとも言える。

「子どもを型にはめる」と言えば、それはよくないと即座に反応する人は、指導というものの実体がわかっていないと言える。

ある言葉だけ持ってきて、何にでも当てはめようとするのは、適用間違いである。

このような言葉の適用間違いは、会話で見られることもある。
例えば「いろいろな意見があっていいのだよ」と、相手の話に同意したくない時に使う人がいる。
意見の入る余地がない、規則を守る場合とか、計算結果で認めるよりしかたがない場合にも「私が間違っていました」と言えなくて「いろいろな意見があっていい」で通そうとする人もいる。

「いろいろな意見があっていい」はそれだけでは、一見よさそうに見えるが、やはり使う場面によってである。

話を元に戻して、あることを先生について学ぼうということは「その先生のやり方に従う」ということである。
それは、その先生なりの指導法で、目標まで育てるという指導体系を持っているからである。
そういう意味では、先生の指示に従うことは当然であり、教育は強制であるとも言える。

プロ野球が始まったところだが、どの選手も野球を始めたころはそういう経験を経てきているものだと思う。
しかし、プロ野球を見ていると、それぞれの選手たちはみな独特のフォームでプレイしている。
これを勘違いして、初心者が自分の好きなやり方でいいのだと思ってしまったら、進歩は期待できないだろう。

つまり、基本が身につくまでは先生(コーチ)に従うべきであり、好きなようにやっていいいのは基本が身についた人たちの話である。

指導者側から見たら、言ったことをいかに素直に聞き入れられるかが素質のある生徒であるかとも言える。

このことは、一流と言われる人たちが、謙虚で素直であることからもうかがい知ることができる。

この謙虚で素直であるということは、何かを習うという世界だけで大切というものでもない。
社会でビジネスをするときも、取引関係で大切である。
わかりやすい一例が、会社と代理店の関係である。

会社は代理店が営業成果を挙げてくれることが大切である。
だから、代理店研修制度を設けている会社がある。

代理店というのは、いくら小さくても大きな会社とは対等な関係であることが多い。
そのせいか、代理店は一国一城の主というイメージでもある。
そして、代理店主の性格が営業に反映する。

中には、威張っているだけで、バランス感覚がない代理店もある。
だから会社側は、代理店を選別していて、偏った性格の代理店を避ける方向にある。

それは、会社に対して意見を言わない代理店を好むわけではない。
むしろ、よい会社は会社に対する積極的な求めているわけで、避けるのは当たり前の話ができない代理店である。

人は年をとると一般に、教育がしにくくなるものであり、次第に意見を言ってくれる人が少なくなる。
だから、基本的なものを身につけるまでは、我を出さず「学べるものは何でも学ぶ」という姿勢が大切だと思う。

近年、若者の就職が難しくなっているわけだが、一部の若者の中には「オレの個性を理解してくれる会社がない」とか「オレの実力がわからない会社が悪い」などの考えを持っている者もいるという。

「個性や実力は基本を学んでからのことだ」と気がつかない限り、いつまで経っても事態は変わらないではないかと思うのである。

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posted by edlwiss at 22:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年04月16日

知能とコミュニケーション不全

kokorohapuroguram.jpg
ロボコップという映画がありました。
頭脳だけが人間で、他の部分はロボットという警官が主人公でした。

なかなかおもしろいアイデアで、私も楽しませてもらいました。
ロボコップがダウンした時、MS-DOSのプロンプトが出てきたのには笑えました。
「そうか、ロボコップはMS-DOSで動いているのか?」
と思い、制作者のユーモアを感じました。

ロボットが進化していますが、最大の難関は知能だと思います。
ロボットが人間と同等になるには、知能と心に如何に迫れるかだと思います。

ということは、裏を返せば、人間は優れた知能と心を持つ限り、ロボットに仕事を奪われることはないと考えられます。

起承転結の例としてよく出される次の唄を、コンピュータが理解するのは難しいと思います。

京で一番糸屋の娘
姉は十六妹は十四
諸国大名は弓矢で殺す
糸屋の娘は眼で殺す

ところが、近年、人間でもこの意味わからない人がいる。

私がかつて、何かの話にこれを例に出したところ、娘の年齢がどうのこうのとか、眼で殺せるわけがない。殺人光線が出るのかなどと言った話に終始し、呆れたことがあります。

人工知能が進歩して、これをコンピュータ(ロボット)が理解するようになったら、変な解釈をしている人間は危うしです。

日本語変換のFEPも進化してきましたが、ジャストシステムのATOKは有名です。

きしゃのきしゃがきしゃできしゃした

を、見事に

貴社の記者が汽車で帰社した

と一発で変換します。
大学生に書かせてみて、果たしてどのくらいの人が正解できるでしょうか?

のらねこのはらにはのみがいっぱい

も、貧弱なFEPでは「野良猫」を「乗らね」としたり「野良猫野原」などとなってしまいます。

これらを的確に変換するには、文章の前後の意味から判断するという、知能的な仕組みが必要と思います。

変換の能力だけでなく、よくつかう「子ども」という言葉の場合、話の展開から、それは世界中の子どものことを言っているのか、日本の子どもに限定して言っているのかを解釈するのも知能的な働きが必要だと思います。

つまり、私がよく言う「集合の概念」をどういう範囲、どういう分類で捉えるのかも知的な判断だと思います。

かつて取り上げた、自動販売機でジュースを買うという例でも、ジュースのボタンを押したはずが、コーヒーが出てきてしまったという例で、原因は「人間か機械か」と言う場合、これはつまるところ、前回のブログで取り上げたように「ユーザーとメーカー」の問題を言っているわけです。
機械と言っても機械という人格があるわけではないので、この場合は販売者側すなわちメーカーないし販売会社と捉えるのが知能の働きなわけです。

しかし、今まで挙げた例のように、知的な働きがないために、変な論争になってしまうことで、なかなか本質論にまで話が展開しないという場合があって、これがコミュニケーション不全になっています。

人間の知能が後退すると、やがて、社長が「お茶」と言っても「お茶の葉」だけ持ってくる従業員が表れるかも知れません。

これが、私の言う「ロボットが人間化し、人間がロボット化する」です。

一流企業では、ペーパーテストの成績も良く、それ以外の人とのコミュニケーションが優れている人が雇われているのは、今まで挙げたような知的判断を何らかの方法でテストしているのかも知れません。

最後に、頭がいいなと感じた小六の女の子の話を紹介します。
果たして何がおもしろいのか、わからない人がいるのでしょうか?

中年の女性の先生:「恵子ちゃん、死んだら天国と地獄とどっちがいいの?」
恵子ちゃん   :「私、地獄の方がいい」
中年の女性の先生:「どうして!?」
恵子ちゃん   :「だって、みんなに会えないもん」

周りは大笑いでしたが・・・・。

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posted by edlwiss at 20:39 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年04月16日

人と機械

手塚治虫氏の「鉄腕アトム」の世界では、ロボットが人格を持ったように行動しています。
この世界では、ロボットの過ちはロボットに責任があるように見えます。
確か、ロボットが守る法律ができていたように思います。

「ロボットは人に危害を加えてはならない」

という法律があったと思います。

しかし、これは現代の社会ではまだ考えられないことです。
なぜかというと、ロボットも人間が作ったものだからです。

最近、衝突しない自動車が発売されたようですが、自動車も次第に事故を起こさないように改良されていくだろうと思います。
(以下、自動車を簡単に「車」と言います)

ところで、衝突しない車を作って販売して、その車が衝突事故を起こした場合、責任はどこにあるのでしょうか?

「それは車が悪い」

と言えるでしょうか?
ここはよく考えないと、誤った結論を出す場合があると思います。

と言うのは、衝突しない車でなくても、人対車の場合、事故があった場合。

「それは車が悪い」
「車の過失が・・・割」

などと言います。
この場合は、車と言われているのは正確には車を運転している人のことをいっているわけです。

では、車を運転している人が全面的に責任を追うのかと言うと、必ずしもそうでない場合もあります。
それは、車が欠陥車であった場合です。
その場合は、車を作ったメーカーに責任がいくわけです。
近年、このメーカーが負う責任が大きくなりました。

PL法という法律が、細川内閣の時、可決され、例えばテレビから火が出て火災になった場合、以前はテレビが原因と主張したい場合は、所有者が証明しなければなりませんでしたが、この法律の成立後は、メーカー側が欠陥のないことを証明しなければならなくなりました。

だから、取り扱い説明書の意味が大きくなりました。
テレビそのものに欠陥がなくても、使用者の誤った使い方で事故が起こることもあると思います。
その時、取り扱い説明書に注意書きがあったかどうかが、裁判になった時、大きく影響します。

どちらにしても、テレビが火災の原因であった場合、これは「テレビが原因」と言いますが、テレビそのものに責任を負わせるわけにはいきません。

責任は誰かと言うと、メーカーか使用者かということになります。
また、メーカーと言っても、メーカーという人間はいませんから、メーカーに務めている誰かということになります。

話を元に戻して、衝突しない車の場合、衝突防止装置が働かなかった時は、メーカーの責任になります。

だから、これから事故が起きにくい車が作られると、今まで運転者の責任だったものが、メーカーの責任に移っていくので、メーカーとしては「安全」を売り物にしたいのだが、そうすると責任を負うことになるというジレンマが起きます。

super_robot.jpg
鉄腕アトムの世界では、完全にロボットが人間から自立しているので、ロボット(機械)に責任を負わせることができるのでしょうが、そこまで発達していない現代では「人か機械か」と言ってもそれはすべて、人の問題になるわけです。

私たちは暮らしの中で、機械や道具を使い、何か事があると「この電子レンジ調子悪いねえ」とか「包丁が悪いので指を切ってしまった」など、あたかも機械や道具が悪いように言いますが、責任はすべて人間だと言うことを忘れてはならないと思います。

「人と機械」と言うのは、言い換えれば「ユーザーとメーカー」という構図でしょう。

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posted by edlwiss at 15:47 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2011年04月14日

コミュニケーション能力

komyunikeshon.jpg
自動販売機で、ジュースを買おうと思ってお金を入れ、ボタンを押したらコーヒーが出てきたとします。

人はどのような反応を示すでしょうか?

A. 「あれ? なんだこの機械は?」
B. 「あれ? 押し間違えたかな?」

この2つの反応が考えられるのではないでしょうか?
AかBかのどちらの反応するかで、その人の性格が表れるのかも知れません。

ここで、はっきり言えるのは、可能性としてAかBかの2つです。
だから、考える順序として、

1.AなのかBなのかと頭の中で考える
2.確認作業をする

という順序になると思います。
これが人間としての正常な思考回路だと思います。

しかし、この順序を踏まず、希望のジュースが出てこない瞬間から「何だこの機械は」とか「機械が悪い」と決めつける考えは、思考回路がおかしいと私は考えます。

現代では機械の不良率というのは非常に少なくなっており、正しい操作をしたのに意図した反応を機械がしないというということも少なくなっています。
つまり、機械の信頼性が高まっているということです。

人と機械の間で情報をうまくやりとりできるように、人間の特性を応用していこうという技術をヒューマンインターフェースと言いますが、これは、人間と機械のコミュニケーションをいかにうまくとるかという技術であると思います。

パソコンも昔は人がコマンド(命令)をタイプしてやりとりしていたものが、Macintoshの登場で、グラフィック・ユーザー・インターフェース(GUI)が実現し、パソコンと人間のコミュニケーションを容易なものにしました。

ところで、人と機械のコミュニケーションが進歩している一方で、人と人とのコミュニケーションはどうでしょう?
必ずしも進歩しているとは言えないのではないでしょうか?

人と人がコミュニケーションをとる手段で一番多く使われるのは、言語(言葉)
です。
通常、人は言語を通じてコミュニケーションをとっているわけです。

言語を介在してコミュニケーションを取る限り、そこで使われる言葉の意味は互いに同じでなければなりません

しかし、この肝心な言葉の意味が、人と人との間で必ずしも同じ意味でなくなっていると思うことが多くなってきたような気がします。
これが、原因で、人と人とのコミュニケーション不全が起こっているように思います。

言葉を通してコミュニケーションをとるのに、その言葉の意味が互いに違っていたら、言葉はその価値を失います。
だから、言葉の意味が互いに同じであるということが、大前提であると思うのです。

どうも話が通じないなあと思って、言葉の意味を確認すると、違っている場合があります。
そういう時、私は辞書で確認することにしています。
あらかじめ、キーになる言葉があるとわかっているときは、前もって辞書で確認しておきます。

それで、相手の方が違う意味で使っていた場合「違いますよ」と言うと、人によっては訂正しない場合があります。
ある人は「言葉の意味とは、それぞれの人の頭の中にある辞書の意味だ」と言いました。

しかし、これをよしとすれば、人と人とのコミュニケーションの橋渡しがなくなってしまいますから、その人とはコミュニケーションはとれないということになります。
こういう場合は、話し合いそのものがムダになると考えるしかないように思います。

次に、言葉がいくつか組み合わされてできているのが文章ですが、文章を構成している言葉の意味が違っていなくても、文章の理解が誤っていても、当然コミュニケーションは取れません。

mousou_monku.jpgどうして、そんな解釈になるんですか?
そんなことは言っていませんよ。
あなたの文章からは、そんな風には解釈できませんよ。

といったコミュニケーション不全もあります。

コミュニケーション不全の酷いのは、こちらがそんなことを言っていない、そんなことを考えていないのに、勝手につくりあげてしまって、批判してくる人がいることです。

注文もしていないのに、品物がどんどん送られてきて、金を払ってくださいと言われているようなものです。
もし、コンピューターの注文システムがそのような状態であったら、機械が狂っているということでしょう。
「狂っている」という言葉は人に対してはきつい言葉かも知れませんが、論理的には「狂っている」が当てはまると思います。

しかし、人間はミスをしますから、時に勘違いということがあったりします。
だから、人が間違いをしたからと言って、直ちに狂っているとは思いませんが、毎回のように、こちらが思ってもいないことを「思っている」と決めつけられたり、ひどい場合は、
相手が言ったことを、こちらが言ったことにされたのでは、やはり狂っていると感じざるを得ません。

怖い病気に「ガン」がありますが、疑いのある症状があっても、人によってはガンと思いたくないという心理が働いて「ガンではない」という否定の理由ばかり探すようです。
それで、手遅れということにもなるようですが、何ごとも客観的にみるようにすることが大切だと思います。

ネットが普及したせいで、コミュニケーション不全の人がたくさん発見できるようになったのか、そういう人が増えてきたのかわかりませんが、コミュニケーション能力と言うと、大げさにみえるかも知れませんが、そんなに高度なコミュニケーション能力を期待するわけでもありません。

正しい言葉の意味と、正しい作文力、正しい読解力を、最低でも小学生レベルぐらいで持ってほしいと思います。

有名な掲示板サイトの2ちゃんねるでは、参加者が多いということもあって、管理者がおやくそくと称して注意を書いていました。なるほどと思いました。

特に「頭のおかしな人には気をつけましょう」には、笑えてきましたが、実際にそういう人がいるということは、ある意味深刻な問題だと思います。

私は、こういう人たちにある特徴があるようにも思いました。
それは、大げさな言葉を使いたがる傾向があると言うことです。
例えば(前が普通の表現で、後が大げさ)

隠す・・・・・・・・・隠蔽(いんぺい)
言った・・・・・・・・告白した、自供した、自白した
会員制の掲示板・・・・検閲制の掲示板
批判、質問・・・・・・攻撃

==============================================================


機械の信頼性が高まる中で、人間のコミュニケーションの問題は、システムがますます人間排除の方向に行くような気がすることです。

ウラを返せば、基本的なコミュニケーションを持った人が採用されるのではないかと思います。

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posted by edlwiss at 21:56 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年04月13日

とても正常とは思えませんが〜本当に現役の教員でしょうか?

ここに紹介するブログ記事は、当サイトのdolceに関して語っています。
そういうわけで、証拠保全の意味でも掲載します。

誹謗する意図ではなく、私としては、こういう人が現役で先生をやっているということが信じられません。
その理由等は、後で述べます。

※ ()の数字は説明のために付加しました。ブロック内の記事が原文です。

***************************************************************


(1)dolceさんは,せっかく下手に出て「話を聞いてもらおう」と思った吟遊詩人さんに,正面切って非難されてしまったので,とても怒ってしまって,今度は正直に「不愉快です」と表現されていましたね。

(2) 可愛がっていた生徒に裏切られてしまった教師によく見られるような「攻撃」満載の記事を書いていらっしゃいます。

(3) dolceさんにはある特定の教師像のモデルになってもらっていますので,こういうタイプの教師をどう「料理」するかをこちらで公開しなければなりません。


(4) まず,dolceさんの心情を理解しましょう。

(5) 簡単に言えば,「怒っています」。その理由まで書いてくれています。

(6) こういう人に,「そういうつもりではなかった」と言っても,絶対に通用しません。

(7) 相手が一度「そういうつもりで書いた(言った)」と頭にインプットしてしまったら,手遅れです。

(8) 言い訳をするのをいっさいやめて,とにかく言いたいことを黙って聞いて(聞き流して)いきましょう。

(9) 「頭が悪い」という断言をされても,「はい,そうです」と素直に認めましょう。

(10) 嫌な気持ちにはなるでしょうが,嫌な気持ちにさせるために言っているわけですから,抵抗せずに,嫌な気持ちになりましょう。

(11) 相手の目的がはっきりわかれば(わかったつもりになれば),心理的な負担は減ります。

(12) 言っているうちに,相手の怒りはおさまってきます。

(13) 怒りの度合いと垂れ流される言葉の多さは比例します。

(14) 人間なら,これも自然な感情なので仕方ないとあきらめましょう。

(15) かりかりしているのは,自分の親と同じだと思えばいいのです。

(16) 「頭が悪い」と言われて,反発してはいけません。

(17) 相手は,嫌な気持ちにさせるために言っているので,嫌な気持ちを抱いていないと思われてしまうと,さらにエスカレートしてしまいます。
 

(18) そして,次の段階は,それを聞いているうちに,相手が「そういうつもりではない」という言い分を聞き入れようとしない理由を考えてみましょう。

(19) 予想でかまいません。

(20) 今回は,教師の指導力の話をdolceさんが避けたがっています。

(21) これはなぜでしょう。

(22) 理由は簡単でしょう。

(23) 指導力を比較されたら,自分が負けてしまうとおそれてしまうからです。

(24) 指導の事例をたくさん紹介されてしまって,もうお手上げ状態になってしまいました。

(25) だから,そこではないところで攻撃するしかありません。

(26) コネで入った疑いのある(肉親がとてもよく知られている優秀な指導者である)人で指導力のある人と,コネで入る余地のない(これは決して,肉親が優秀ではない,という意味ではありません)人で,指導力が劣る人を比べたとき,どちらに子どもを育ててもらいたいと親は思うか,という質問をされたとき,dolceさんは,「指導力のあるなしは分からない」という逃げ方しかできませんでした。

(27) でも,親や子どもはやっぱり指導力のある人を選びたいでしょう。

(28) そういう教師が多い学校を選びたいでしょう。

(29) せっかく難しい試験をくぐって教育公務員になれたのに,なぜ予想以上の犯罪者が生まれてしまうのか。

(30) 今,行政が,教育公務員などの犯罪防止にどれだけの予算をかけているか,ご存じですか??? 

(31) 人によっては・・・これ,あくまで人によっては,ですよ・・・コネがある人の方が,その人への迷惑も考えて,行動をしっかり自己制御する・・・そうでない人は,自分がつぶれても誰にも迷惑をかけないので犯罪への抑止力がない・・・なんて考え方の人もいないではないでしょう。

(32) こうやって,相手の弱点を理解すれば(理解したつもりになれば),余裕をもって「お説教」を聞き流すことができるのです。

  
(33) これが,いじめで苦しまない技の一つでもあります。


***************************************************************


【解説】

(1)dolceさんは,せっかく下手に出て「話を聞いてもらおう」と思った吟遊詩人さんに,正面切って非難されてしまったので,とても怒ってしまって,今度は正直に「不愉快です」と表現されていましたね。

(2) 可愛がっていた生徒に裏切られてしまった教師によく見られるような「攻撃」満載の記事を書いていらっしゃいます。
 

(1)の「下手に出て」とは、誰が「下手に出た」んでしょう?主語がわかりません。
この文章は、教師の日本語としてはとても不適切だと思います。主語述語の関係がわかりにくい。
子どもも読んでいると思って書いたほうがいいと思います。

(2) 可愛がっていた生徒に裏切られてしまった教師によく見られるような「攻撃」満載の記事を書いていらっしゃいます。


これも酷い日本語だと思います。
「可愛がっていた生徒に裏切られてしまった教師によく見られるような」と例を出していますが、ここで言う「可愛がっていた生徒」に相当するのは誰なんでしょう?
「『攻撃』満載の記事」とは具体的にどの記事のことでしょう?

この人は、自分の頭の中だけで、勝手に空想し、いや、勝手に空想するのはいいのだけれど、空想の中に登場する人物の考えや心理状態まで勝手に断定しまっています。
だから「占い師」「霊能力者」と思うのです。
要するに、冗談なしに完全な、妄想癖だと思うのです。

========================================================================
[参考]
<妄想>
妄想(もうそう)とは、非合理的かつ訂正不能な思いこみのこと。妄想を持った
本人にはその考えが妄想であるとは認識しない(病識がない)場合が多い。精神
医学用語であり、根拠が薄弱であるにもかかわらず、確信が異常に強固である
いうことや、経験、検証、説得によって訂正不能であるということ、<内容が非現
実的である
ということが特徴とされている。
========================================================================
フリー百科事典「ウィキペディア」より

(3) dolceさんにはある特定の教師像のモデルになってもらっていますので,こういうタイプの教師をどう「料理」するかをこちらで公開しなければなりません。


「公開しなければなりません」と言っているが、どこにそんな必然性があるのでしょうか?
頭の中で、何か空想が巡っているのかも知れません。
モデルとか料理とか、勝手に妄想するのはいいが、他人から見たら変と思われるじゃないでしょうか?

(4) まず,dolceさんの心情を理解しましょう。

(5) 簡単に言えば,「怒っています」。その理由まで書いてくれています。

(6) こういう人に,「そういうつもりではなかった」と言っても,絶対に通用しません。


この、他人の頭の中のことを「絶対に通用しません」と言い切るところに、私は異常さを感じます。
占い師か霊能力者の言葉みたいです。妄想でもあります。

(7) 相手が一度「そういうつもりで書いた(言った)」と頭にインプットしてしまったら,手遅れです。


ここの「相手」とは誰で「手遅れ」とはどういう状態を言うんでしょう。
勝手に空想し、勝手に結論づけてしまっているので、他人にはわかりません。

(8) 言い訳をするのをいっさいやめて,とにかく言いたいことを黙って聞いて(聞き流して)いきましょう。

(9) 「頭が悪い」という断言をされても,「はい,そうです」と素直に認めましょう。

(10) 嫌な気持ちにはなるでしょうが,嫌な気持ちにさせるために言っているわけですから,抵抗せずに,嫌な気持ちになりましょう。

(11) 相手の目的がはっきりわかれば(わかったつもりになれば),心理的な負担は減ります。

(12) 言っているうちに,相手の怒りはおさまってきます。

(13) 怒りの度合いと垂れ流される言葉の多さは比例します。

(14) 人間なら,これも自然な感情なので仕方ないとあきらめましょう。

(15) かりかりしているのは,自分の親と同じだと思えばいいのです。

(16) 「頭が悪い」と言われて,反発してはいけません。

(17) 相手は,嫌な気持ちにさせるために言っているので,嫌な気持ちを抱いていないと思われてしまうと,さらにエスカレートしてしまいます。
 

(18) そして,次の段階は,それを聞いているうちに,相手が「そういうつもりではない」という言い分を聞き入れようとしない理由を考えてみましょう。

(19) 予想でかまいません。


たくさんの妄想のオンパレードです。
一体、誰に対して話をしているのでしょう?
もしかしたら、自分の頭の中で何かを発して、頭の中で誰かが反応しているのが聞こえてくるのでしょうか?
わたしには、とても、まともな思考とは思えません。

(20) 今回は,教師の指導力の話をdolceさんが避けたがっています。


どこにそういう事実があるのでしょうか?
この人の頭の中にだけ、見えているのかも知れません。
(今まででも「どこにそういう事実があるのか」と聞いても、答えが返ってきたことは一度もありません)

とにかく、この人は他人が何を考えているのかわかってしまうらしいです。
「どうして、他人の頭の中がわかるんですか?」と聞いても、返事がないところをみると、自分には見えているのかも知れません。
そうだとすると、現実と非現実の区別がつかなくなっているのかも知れません。

「教師の指導力の話」と言っていますが、ここでのテーマはそんなことじゃありません。教員のコネ採用が、いいか悪いかの話です。
(請託があれば、法律違反だから悪いに決まっています)

教師の指導力の討論がしたかったら、別にそういうテーマを設ければいいだけの話です。
この人の場合、特にそうしないと(テーマを別にしないと)、テーマとは関係ない方にどんどん話がずれます。

(21) これはなぜでしょう。

(22) 理由は簡単でしょう。

(23) 指導力を比較されたら,自分が負けてしまうとおそれてしまうからです。


これは「教師の指導力の話を私が避けたがっている」という勝手な思い込み(妄想)から来ています。
そして(23)の「指導力を比較されたら,自分が負けてしまうとおそれてしまうからです」とは、まさに妄想そのものです。

この書き方で、私はこの人の「幼児性」を感じます。
指導力の話を勝ち負けに持って行っているところなんか、子どもっぽく思うのです。

指導力の論議をしたかったら、別に指導力のテーマを設ければいいことです。
それより、この方、自分の指導力を考えてみたことがあるんでしょうか?
この方の作文力をみただけでも、私はハテナと感じます。

(26) コネで入った疑いのある(肉親がとてもよく知られている優秀な指導者である)人で指導力のある人と,コネで入る余地のない(これは決して,肉親が優秀ではない,という意味ではありません)人で,指導力が劣る人を比べたとき,どちらに子どもを育ててもらいたいと親は思うか,という質問をされたとき,dolceさんは,「指導力のあるなしは分からない」という逃げ方しかできませんでした。


ここは、この人の思考の稚拙さを感じます。

sensei_fusawasii.jpg特別に異常な保護者でない限り(社会常識を持った人である限り)、自分の子どもを指導してもらいたいと思う先生は

A 先生という人格に値する人で、不正採用でない人
B 指導力がある人

であり、AかBの二者択一ということはありません。

しかし、この人の思考には「両方」という思考がなく「二者択一」の思考しかないようです。

(29) せっかく難しい試験をくぐって教育公務員になれたのに,なぜ予想以上の犯罪者が生まれてしまうのか。


突然、話題が変わりました。
何を言いたいんでしょう?

また「予想以上の犯罪者」と言っていますが、犯罪者を予想しているんでしょうか?
どこかに、教員の採用にあたって、将来の犯罪者を予想しているという資料があるんでしょうか?
犯罪というのは、人間がいる限り起こり得るでしょう。


(30) 今,行政が,教育公務員などの犯罪防止にどれだけの予算をかけているか,ご存じですか???


知りません。
本テーマと何の関係があるのでしょう?

(31) 人によっては・・・これ,あくまで人によっては,ですよ・・・コネがある人の方が,その人への迷惑も考えて,行動をしっかり自己制御する・・・そうでない人は,自分がつぶれても誰にも迷惑をかけないので犯罪への抑止力がない・・・なんて考え方の人もいないではないでしょう。


つまり、コネで採用された人は、コネを使ってくれた人に恩を着て、犯罪を行う可能性が少ないと言いたいんですか?

反対にコネのない人は、迷惑をかける人がいないので、犯罪に走る可能性が高いと言いたいんですか?

だとしたら、非常にお粗末というか非常識、極まりないですね。

まず、教員が犯罪を起こしたら、誰の迷惑を一番考えなければならないのかと言えば、コネで便宜をはかってくれた人じゃなくて、児童生徒でしょう。

教員が犯罪を起こした場合の犠牲者は、児童生徒ですよ。

そういうことが考えられないあなたは、それだけで教師失格だと思います。

コネでお世話になった人のことに頭がいくなんて最低です。
ひどい、指導主事ですね。

コネで採用されたという人は、すでに犯罪を犯しているんですよ。
犯罪を犯して採用されてきた人の方が、モラルが低いと考えるほうがまともじゃないですか?

(32) こうやって,相手の弱点を理解すれば(理解したつもりになれば),余裕をもって「お説教」を聞き流すことができるのです。

  
(33) これが,いじめで苦しまない技の一つでもあります。


(32)も(33)も全く意味不明です。

「相手の弱点」て何ですか?
ここで言う「お説教」とは何ですか?

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【まとめ】

とにかく、レベルが低すぎます。
こういう人が、なぜ教員として採用されてしまったのかということが、問題じゃないかと思うのです。

教員のコネ採用を推奨しているところなんか言語道断です。
(犯罪を推奨しているわけですから)

コネ採用の人の方が、コネでお世話になった人に気を遣うからいいといっているわけですから。

[刑法 第百九十七条]
 公務員又は仲裁人が、その職務に関し、賄賂を収受し、又はその要求若しくは約束をしたときは、五年以下の懲役に処する。この場合において、請託を受けたときは、七年以下の懲役に処する。
 2  公務員又は仲裁人になろうとする者が、その担当すべき職務に関し、請託を受けて、賄賂を収受し、又はその要求若しくは約束をしたときは、公務員又は仲裁人となった場合において、五年以下の懲役に処する。

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posted by edlwiss at 17:43 | Comment(6) | TrackBack(0) | 教育問題

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