2011年05月30日

君が代訴訟に最高裁判決



高裁も最高裁も地裁と異なる判決を出した。
制度上、上級審の判断が有効だが、職務命令と思想信条の自由とどちらが優先するかは、難しい問題だと思う。

上級職は職務命令を発し、それには強制力がともなうものだが、だからと言って何でも職務命令を出すことができるというものでもない。

反対に思想信条の自由と言っても、自己の思想信条のそぐわないから気に入らない命令は無視してよいとも言えない。

最高裁の判断基準、根拠をよく検討してみたい。

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posted by edlwiss at 17:41 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年05月30日

日曜プログラマーはどこに?

日曜大工の店があって、けっこう流行っているようだ。
工作道具もたくさん展示してあるし、板材など工作に必要なものは大抵そろう。
知人にも、そういった道具をたくさん揃えていて、自分で家の修理から家具まで作ってしまう人がいる。

一方、日曜プログラマーというのは、もう死後になってしまったのか?
ずっと、この何年間はプログラムについて話し合う人にも会わなくなった。

エクセルやアクセスといったアプリケーションで、かなりのことは済んでしまうせいか、プログラミングの必要もないということか?

私もデータベースはファイルメーカーやアクセスを使っていたが、これらのアプリは進化したが、それでもかゆいところにも手が届くとまでいかないところもある。

そこで、最近、すべてコードを書いてアプリそのものを作ることにした。
以前は、ボーランドのDELPHI(言語はPASCAL)を使っていたが、最近、MicrosoftのVisual Studioを使い始めた。

Visual Studio は、ご存じの方も多いと思うが、いくつかの言語がパッケージになったものである。
C#、C++、Basic、その他がパッケージされている。

言語が違っても、Basicは昔のような仕様ではなく、オブジェクト指向という言語の仲間入りをし、予約語が違うだけで、C++と同じランクになった。
だから、昔Basicをやったよという人が触ってみると驚くだろう。

C#はMicrosoftが作った言語で、CやC++のいいとこどりをしたような言語だ。
最近は工業高校で、ロボットを動かすのによく使われているようだ。

プログラムをやりだすと、時間の節度がなくなる。
だから、このところブログを書く時間がない。

このブログも真夜中に書いている。

ごあいさつ程度にも書いておかないと、忘れられてしまうかもしれないので、書いてみた。

受験勉強だけでなく、プログラムをやろうとする中高生に出会いたいものだ。
先生の日曜プログラマーが、もしこれを読んでみえたら、ご連絡ください。

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posted by edlwiss at 00:21 | Comment(2) | TrackBack(0) | パソコン

2011年05月26日

学力調査中止



学力調査そのものにも論点がある。

学力調査と言えば「学力調査」という言葉が一人歩きしてしまうが、学力とは何かとか本当に学力が調査できるのかといった議論も十分でないように思う。

今回の学力調査中止は、震災の被害に配慮してのことらしいが、この際、学力とその調査の議論を深めてもらいたいものだ。

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posted by edlwiss at 19:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年05月25日

ついに「君が代起立条例」が成立か



大阪では、国旗の掲揚及び職員による国歌の斉唱の条例が可決の見通しだが、東京では反対者や、従わなかったとして処分問題があった。

わざわざ条例まで作らなくてはならないのかという気もする。

国旗掲揚や君が代斉唱に反対する人たちって、理由は「思想信条の自由を侵す」ですか?

職務命令に反するのもまずいだろうが、だからと言って何でも思想信条の自由をタテに、気に入らないことは従わなくてよいというのもおかしい。

いろいろな人の意見を聞きたいものだ。

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posted by edlwiss at 16:34 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年05月24日

内部進学の約束不履行は契約違反か



当初、進学を約束して募集していたのに、進学できなかったのは契約違反か?
裁判ではどう判定されるか注目。
posted by edlwiss at 00:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年05月23日

2011年05月20日

クラスがまとまる時とは

私は先生をやってよかったと思うことがいくつかある。

そのうちの一つは、いまだに私が新任当時の学校の先生の会が毎年かかさず続いていることだ。
30年はとっくに過ぎた今も続いている。

私は先生をやるかどうか、正直迷っていた。
子どもの頃から好きだった、電気に関係する仕事に就きたいと思う気持ちがあったからだ。

迷う気持ちがあったが、一応ということで採用試験を受けた。
小学校へ赴任するとなった時、また迷いが出てきた。
つまり、小学校で先生をやる気がなかったからである。

しかし、親一人子一人の家庭(実際は伯母と私の二人暮らし)で、ほそぼそと暮らしている家の子どもが就職もしないでは、苦労をかけた伯母には申し訳ないという気持ちがあって、先生をやることにした。

でも、今思うとこの選択は私の人生にとってかけがえのない大切なものを与えてくれたと言える。

小さな田舎の小学校だった。
学校と言えばほとんど鉄筋だったが、私の赴任した小学校は木造で、なんと明治時代に建てられたものだった。

廊下を歩くと、ギシギシという音がした。
でも、そんな校舎で先生がやれたということは、そういう木造の校舎に趣があるなどという趣味の話ではない。
そこにいた先生たちや校区の保護者の方々の気持ちが、古いけど何かあたたかいという校舎とマッチしていた。
それら全てが一体となって、日々、私の心に沁み込んできた。

先生たちは「仕事だから先生をやっている」という気持ちはなく、保護者は「先生様」と本当に教師を尊敬してくれるところだった。

それで、私はすっかり先生にのめりこんでしまったのだが、他の先生たちも同様に感動が忘れられないので、いまだに会が続いているのだと思う。

その後、中学校へ転勤した私だったが、某中学校は荒れていて80〜90人の部員の吹奏楽部を受け持ったという話は以前の記事に書いた。

学級経営はどうなっているの?という人もいたようだ。

新学期に新しく担当したクラスの生徒たちは、荒れた学校のせいで、心は擦り傷だらけという感じだった。
学校が荒れた状態というのは、先生不信感という印象をいろいろなところで感じる。

kinpachi.jpgその頃の生徒たちは、すでに40歳を過ぎ、親になっている。
同級会で再会した時は、また昔のクラスに戻ったようで嬉しかった。
本当にタイムマシーンで戻ったような錯覚さえ感じた。
本当にいいクラスだった。
始めはギスギスしていたが、次第にクラスがまとまってすばらしいクラスとなった。

こういう話をしてくると、自慢をしているとかなんとか、いちゃもんをつけ、嫉妬とも妬みともいうような感情をぶつけてくる人がいる。
こういう人は小心者が多いと思うし、人間のスケールがだんだん小さくなってくるようで、私が一番嫌うところである。

「すばらしいクラスになった」と言ったって、私の指導がすばらしかったなどという気持ちは微塵もない。
それどころか「私は何をしたのだろう?・・・何もしていないなあ」というのが正直な気持ちである。

ではなぜ?
偶然そういう生徒たちが集まった?

そう片付けられないこともないかも知れない。

でも、よく考えてみると、それだけで割り切れるものでもないと思う。

中学生はテレビドラマの影響を受け、例えば金八先生のような先生、クラスに憧れているところもあるようだ。
そこへ、金八先生が教師のあるべき姿と信じてやまない先生がやってくると、そのクラスはすっかり金八先生のクラスになってしまう。

それも一つのやり方かも知れない。
でも、私には恥ずかしくて、とても金八先生はできない。
自分の地でいくしかない。

金八先生のクラスはよくまとまる。
外から見ていると、本当にテレビドラマのようで、悪と言ったってはみ出す生徒もいない。

「生活指導は金八先生を手本にすべきだ」という主張も成り立つたつかも知れない。
でも、そう言い出す人がいなくてよかった。

私はとても金八先生にはなれないから。

でも、そういう教育方針が打ち出されたら、学校中のクラスが金八クラスになって、想像しただけで何か気味が悪いような気分になってくる。

金八先生になれない私は、何をしたのだろう?

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2011年05月20日

なかなか届かぬ義援金



もっと柔軟に対処できないものか?
posted by edlwiss at 10:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年05月18日

IT難民という言葉があるが

いつ誰が言い出したのかわからないがIT難民という言葉がある。

ITというと、すぐにコンピュータを思い出す人がいるかも知れないが、ITそのものはInformation Technologyの略で、情報技術と訳されている。

フリー百科事典「ウィキペディア」の解説を示す。
情報技術(じょうほうぎじゅつ、英: Information Technology、インフォメーション・テクノロジー、略称:IT(アイティー))は、情報処理(コンピュータ処理)および情報伝達(通信処理)の、工学およびその社会的な応用技術の総称。

ITAAの定義では「特にソフトウェアによる業務やコンピュータのハードウェアなど、コンピュータをベースとした情報システムの、教育、設計、開発、適用、実装、保守、管理」である。ITは電子的なコンピュータやコンピュータソフトウェアを使用して、情報に対するセキュリティ、変換、保管、処理、転送、入出力、検索などを取り扱う。

ほぼ同義語として、「通信」を明示した情報通信技術(英: Information and Communication(s) Technology、略称: ICT(アイシーティー))も用いられる[


情報伝達の効率化を研究することで、コンピュータとは関係が深いことが理解できる。

そうすると、コンピュータはどうも苦手でという人がいるが、私はコンピュータそのものが理解できないということが問題ではないと思うことが多い。

仕事を除外して考えても、合理化は常に大切なことである。

ある会社で、仕事を効率化しようと思ったとき、困難にぶつかるのはコンピュータが使えないということではない。
原因は常日頃の仕事にゆきあたりばったりが多かったり、指揮系統が混乱している。

一体、この会社は誰がリーダーシップをとっているのかと思う会社がある。
「そんなことはないだろう。会社というからには、社長がいるから社長がリーダーに決まっている」

確かに形式的にはそうだ。
だが、形式と実態がともなっていない会社もある。

意外なことに、経理についてはわかっていない社長がいる。
事務に任せっきりなのである。

社長は次第に経理から遠ざかる傾向があるのも確かだ。
だから、知らぬ間に大きな赤字を出していても、無頓着な社長がいる。
気がつくのは、銀行が融資を停止するとか、今まで貸した金を返してくれと言ってきた時だ。

無借金経営の会社は別だが、多くの会社は銀行と一心一体である。
「銀行は、天気のいい時には傘を貸しましょうと言ってくるが、雨の時は傘を貸すとは言ってこない」
という言葉もよく聞かれる。
銀行も企業だから、自分のところが倒産してはかなわないので、危なくなると自分を守る。

会社は大変である。
何が大変かというと、従業員を抱えていれば、儲かっても儲からなくても毎月決まって、従業員の給料は出ていくからである。

足りないときは、銀行からほぼ自動的に融資があるが、借りたものは返さなくてはならない。
返済が滯ると、黄信号になり、それが赤信号で融資が止まれば、手形を切ってなんとかしのぐということもできなくなる。

ちょとした中小企業でも、危ないとささやかれたときは数億円以上の負債を抱えているのが普通だ。

話が脱線した。

要するに私が言いたいのは、IT化が進まないのは仕事のシステム化ができないということだ。

これは、会社でなくても、学校の先生の仕事もフローチャートが書けないようなやり方をしていたらシステム化ができないし、そこへコンピュータをと言っても、コンピュータに何をどうやらせたらいいのかわからないので、ITには向かないということである。

人間関係も親しい間柄なら、お互いに「あうん」の呼吸でコミュニケーションがとれるが、相手が機械ではそうはいかない。

「おい、あれ」では何も動かない。

もっとも、機械も進化し人口知能が発達して「あうん」も理解するようになるのだろうが、それを理解するにも日頃の業務が支離滅裂だと、うまくはいかないだろう。

猫や犬でも飼い主の気持ちを理解するようになるのは、飼い主の行動が読み取れるような習慣がなくてはならない。

IT難民はコンピュータに弱いではなく、システム化できないような習慣、仕事をやっている人の問題であると言いたい。

Twitterの何がよいのか、Facebookが何に使えるのか閃くには、自分の仕事の合理化を考えているような生活が大切で、ただ命令されていることをこなすだけでは無縁の存在だろうと思う。

学校は文明の先端を切っていくべきと思うが、意外に学校は情報が入ってこないところである。
その証拠に、パソコンと言えばワード、エクセルだと思っている人が多いということである。

昔は成績処理プログラムを作るために、職員室では毎日のように話し合いをしたものだが、現在、プログラムを作る教員はどのぐらいいるのだろうか?

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posted by edlwiss at 16:28 | Comment(5) | TrackBack(0) | 情報処理(IT)

2011年05月15日

原発の可否は国民レベルで考える時



震災の体験を無駄にしないためにも、原発の可否は国民全体で考えるべき時にきている。
あわせて、エネルギー問題をどうするかも課題である。

自然エネルギー、地熱発電も含めて討論が望まれる。

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posted by edlwiss at 12:17 | Comment(4) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年05月14日

雑誌の特集に気をつけよう〜間違った保険説明

私は書店の近くに住んでいることもあって、よく立ち読みをする。
(ご高齢の店主が店番をしているので、たまには買ってあげないと思って、結局はよく買っている。)
seimehoken.jpg

もう10年ぐらいになるかと思うが、私はファイナンシャル・プランナーなる資格をとった。
きっかけは、金融ビッグバンで経済、金融の話題が多く、それに刺激されてとったものである。

周りの人からは「先生だから、試験のプロでしょう?」と言われ、嫌味に聞こえた。
まあ、合格して当然だと言われているようなものだ。

合格の手順は、所定の講義を受けて単位をとる。次に筆記試験とレポートである。
試験とレポートの合計点で合格が決まる。

一応合格したのだが、ファイナンシャル・プランナーは一度合格すればずっと資格があるわけではなく、2年毎に所定の単位をとらないと継続できない。
単位をとる方法は、単位が認定される講習や試験による。

こういう資格をとったせいで、以来、経済や金融に関心を持つようになった。
テレビも経済に関する番組をよくみるようになったし、為替レートなどのニュースも気になるようになった。

ところで、近年、国民の保険に対する関心が高くなったようで、単行本もかなり出版されている。
雑誌も特集を組むことが多くなったようだ。

それで、知識の補充ということもあって、立ち読みをするのだが、最近は記事を読むとドキッとすることがある。
それは「あれっ、おかしくないか?」と思うからである。

本に間違いはないだろうという先入観があるから、読みなおしてみるのだが、やっぱりおかしい記事がある。
それも、基本的なことの間違いである。

例えば、今回、驚いた間違い記事は「終身保険は得というのは間違い、保険は(安い)定期保険に入っておくのがよい」と堂々と大きな見出しで出ている。

日本人の保険加入率は非常に高く、現在は少し減ったと言われるが、それでもかなり高い。
ところが、自分の保険がどういう保険であるかを理解している人は10人中1人程度と言われている。

つまり、自分が買ったものが何であるか、ほとんどの人が知らないというのが、保険という買い物なのである。

そこで、今回、ファイナンシャル・プランナーとして、終身保険をできるだけわかりやすく説明してみようと思った。
(これも、説明のトレーニング)

保険は、三種類のお金が関係しているということを理解することがポイントである。

保険金・・・被保険者(保険の対象となる人)が死んだ場合、もしくは余命6か月以内と医師から宣告された場合にもらえるお金(リビングニーズ契約)。

保険料・・・保険に加入することで毎月、あるいは半年、一年という単位で保険会社に支払うお金。

解約返戻金・・・加入していた保険の契約を解消する(解約する)ことでもらえるお金。

どうだろう。この三種類のお金の違いはわかっていただろうか?

銀行に毎月一定額を払って、お金を積み立てていく定期積立をやっている人もいるだろう?
毎月、お金を払っているのに、保険と定期積立はどう違うのだろう?

毎月1万円ずつ払うことを考えると、定期積立では1年で12万円、8年で96万円払うことになる。
それだけ払ったところで、銀行が100万円にして返してくれたら、4万円銀行が利子をつけてくれたことになる。
(現在はそんなに利子をつけてくれないが)
いわゆるこれは貯金なのである。

保険も同様に毎月1万円払って行ったら、8年間では同じく96万円払うことになる。
では、保険会社はこの8年後にいくら払ってくれるのか?

答えはいくらも払ってくれない。1円も払ってくれない。
でも、この8年間の間に被保険者(保険のターゲットになっている人)が死んだら、500万円払ってくれるのである。
8年の間にいつ死んでも500万円払ってくれるのである。

契約した始めの月は1万円しか払っていない、その直後死んでも500万円払ってくれる。
8年後の96万円払ったところでも、死んだら500万円払ってくれるということである。

では8年経過後はどうなるのだろう?

銀行の場合・・・100万円もらったところで、銀行との関係は終わる。
保険の場合・・・終身保険では以後も、死んだら500万円もらえるという関係は続く。

ということである。
払い終わった後は、保険会社には1円も払う必要がないのに死んだら500万円払ってくれるわけだ。

さあ、どちらが得と考えるか?

500万円は魅力だが「死んだら」ではね。自分が死んだらじゃあもらったって・・・という考えになる。

でも、保険には、もうひとつのお金「解約返戻金」というものがあるのです。
解約返戻金は、死ななくてももらえるお金です。

ということは、解約したらいくら保険会社から払ってもらえるかが問題なのです。

払ったお金よりたくさん払ってもらえたら得ですね?

いつ死んでも500万円払ってくれて、解約しても払ったお金より多く払ってくれるなんてあるはずがないって思いますか?

あるはずがない?

いやあるんです。

図を参照してください。

syusinhoken.jpg


自分が毎月払う保険料の積立額の線と、解約返戻金の線を比べてみてください。

いつか、自分の払ったお金(保険料)より解約返戻金の多くなる時期があるってわかるでしょう?

それは、保険会社も銀行と同じように払ってもらった、保険料で運用するからです。
終身保険では、保険料、払込終了後も積み立てられたお金に利子がつくのです。

だから、終身保険では長生きすれば解約しても、払ったお金よりたくさん戻ってくる時期があるのです。

私が立ち読みした、保険特集の雑誌はここのところが間違っていました。
専門家が書いているんだから、間違いないだろうという先入観は捨てることが必要と思いました。

でも、専門家がそんな初歩的なことを間違えるでしょうか?

いや、専門家だったら間違えないと思います。
おそらく、雑誌記者のにわか勉強で書いた記事ではないかと想像します。

専門家の先生に書いてもらうと、原稿料を払わなくてはなりません。
それを節約しているのではないかと、私は想像しています。

単行本なら、専門家本人が書いているでしょう。

<補足>

払ったお金より、たくさん戻ってくる解約時期はいつになるかは、保険会社の運用能力によります。
このことは、保険会社選びの一つの目安になるでしょう。

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posted by edlwiss at 00:41 | Comment(1) | TrackBack(0) | 保険

2011年05月11日

間とか溜めと言われても、さっぱりわかりません

何度も読み返してみたのですが、私にはさっぱりわかりません。
頭のいい人たちの議論なんでしょうね。

哲学の講義を聞いているみたいで・・・いや、哲学の本は読みましたが、そちらの方はわかります。

まず、使ってある言葉の意味が、私にとっては意味不明なので、文章全体で何をいいたいのかわからないのです。

「間」はどういう意味に使っているんですか?
間という哲学的な意味を探求しているのですか?
通常、私たちが使っている間という意味と違うんですか?

しょうさんの"しょう"のブログにある「間の必要性 〜イールさんと湯浅誠とウロコ先生〜 」の文章から引用させていただきます。

「歴史的な転換期の今もっとも大切なものは、間であることを、再認識させていただきました」


ここに出てくる「歴史的な転換期」って何ですか?
経済のことでしょうか?

ソヴィエトが崩壊したように、共産主義が行き詰まったこと、しかし民主主義も貧富の格差が問題となりつつあるというようなことでしょうか?

もっと身近な、日本国内の問題でしょうか?

「間が大切」と言われても、抽象的でわかりません。
それは「話し合いの時間が大切」ということでしょうか?
それとも、あせらずに「待て」ということでしょうか?

もう一つ参照させていただきます。

1、自分の意見に自分の人格を埋没させない。真剣に意見を主張しながら、でもどこかで「反論をどうぞ」という余地("溜め")を残しておく。

2、意見を交わす相手の"溜め"を増やす。一方的に説き伏せても、相手の"溜め"は増えない。"溜め"が増えれば関心が広がる。それが、自分が大切にしているテーマに対する討論につながる。

 イールさんの強調された「間の必要性」は、湯浅のいう「溜め」(こちらは少し広い概念ですが)と深くかかわる問題提起だと私は感じたのです。

 
ここで「溜め」という言葉が出てきますが、この言葉の意味がわかりません。
辞書では「ためておくこと。また、ためておくところ。」と説明してあります。

ということは「何かをためておく」わけで、何をためるのかという疑問が出てきますが、引用の文中「1、」に「『反論をどうぞ』という余地("溜め")を残しておく」とあるので、ここでいう溜めとは「相手が意見をまとめるまで待つ」という意味なのでしょうか?

「自分の意見に自分の人格を埋没させない」って、この文章の意味が何度考えてもわかりません。
「人格を埋没させる」ってどういうことですか?

人と対話するとき、こちらが一方的にまくしたてるのではなく、相手の意見を聞く余裕が大切というのはわかります。

ここで言う「間」とはそういうことではないんでしょうか?
間がないと、相手も意見をまとめる余裕がないでしょうから、相手が意見をまとめるまで待つ、つまり意見を溜めるのを待つという意味の「溜め」ですか?

私は頭が悪いので、これくらいしか考えられません。
どなたか、わかりやすく解説していただけないでしょうか。

「えんぴつけずりは回しで」「溜め」と「残心」〜「休符」について考える「間」も何度か読みましたが、同様によくわかりません。


私は「間の大切さ」を言われると、すぐに思い浮かぶのは、演奏するとき次のフレーズに移る時間です。

例えば、次のビデオはドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の第一楽章ですが、静かに弦楽器の序奏が始まり、次にホルンが出る、そして木管が出る(指揮者の合図を待って、フルートの主席がリードする)といった「間」は非常に大切です。
聴衆は息を止めていると思います。

そして、また間をおいて全員が一斉に音を出します(「テュッティ」と言う)。
この全員が一斉に音を出すまでの、空間のような時間にエネルギーがたまるわけです。
これが、いわゆる「溜め」なのだと思うわけです。



音楽は時間の流れですから、間のとりかた、溜めの作り方は大切です。
それは、独りで演奏する場合も、何人かで演奏する場合も同様です。

楽譜では数学的に音符が割り当てられていますが、同じ種類の音符は数学的には同じでも、演奏する場所(経過)によって価値が違うわけです。
それは、音の出ている音符であっても、音を出さない休符であっても同じことが言えます。

自分が音を出していない場合は、誰かが音を出しているかも知れませんので、自分が音を出している時だけに関心を持っていてはいけません。
音を出していても、自己主張をしたら、もっと大切な主役の邪魔をするかも知れません。

そういう意味ではアンサンブルは対話であって、口で言葉を喋るのか楽器で音を出して表現するのかの違いだけだと思います。

次の動画は、ブラームスのクラリネット三重奏曲 イ短調 作品114です。
ブラームスが晩年になって、引退を決意したころ、すばらしいクラリネット奏者と出会い感激して作曲した名曲です。

クラリネット、チェロ、ピアノが対話をする様子が楽譜でもわかるように作成したものです。
互いに相手を尊重し、また、自分が言うべき時はきちんと言う。人と人との会話と同じです。
間の取り方、溜め方を考えて演奏する必要があります。



初対面の外国人とでも、一緒に演奏することで、すぐに気持ちは通じ合いますし、人柄もわかります。

音楽には人生が凝縮されています。
子どもも、よい音楽に接することで、人生を体感していくようなところがあります。

楽器を持たせて音を出させると、どんな性格の子どもなのかわかります。
また、子ども同士も感じ合っていると思いますし、指揮の先生とも心が通じ合います。
そういうところは、音楽のすばらしさだと思います。

口では喧嘩していても通じ合っているということもあります。

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posted by edlwiss at 18:27 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年05月11日

明るい兆しを感じます



明るい兆しを感じて、嬉しい気持ちになりました。


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posted by edlwiss at 16:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年05月10日

教員養成のあり方_その2

前回、日本は教育予算が少ないということを述べた。
どのくらい少ないか国際比較では、2005年の統計でOECD28か国中最低である。
GDP比で見ると、以下の通り。

■主なOECD加盟国対GDP比教育予算(%)

アイスランド  7.2
デンマーク   6.8
スウェーデン  6.2
フィンランド  5.9
フランス    5.6
イギリス    5.0
アメリカ    4.8
カナダ     4.7
オランダ    4.6
韓国      4.3
オーストラリア 4.3
イタリア    4.3
ドイツ     4.2
日本      3.4

今や、経済的にゆとりのない家庭では、国立を目指せと言っても難しくなった。
昔は貧しくても成績優秀ならば、国立へ入って奨学金をもらって卒業するという道もあったが、その道も閉ざされたと言ってよい。

日本の貧困率は2007年の統計では15.7%である。
貧困率というのは、国民の平均所得の半分以下の人の割合である。
これでは、ピンと来ないかも知れないが、年収200万以下の人が労働人口の三分の一を超えたと言ったらどうだろう。

一家の収入が200万以下の家庭も増加している。
こういう家庭の高校生の教育費だけで、支出が100万円を超すという例もある。

また昔の話になるが、貧乏だが勉強がしたいという者は、学費の安い師範学校を目指すというのが、伝統になっていた。その流れを汲むのが今の教育大学である。
昭和40年ころは授業料も安く、一か月1000円で、奨学金をもらうと月4500円だったので、学校へ行きながらお金をもらっているという具合だった。
もちろん、教員になれば奨学金の返納の義務もなかった。

それに、教育大の学生ととなると、家庭教師のアルバイトもあって、これが一か月5000円ぐらいだったので、家が貧乏でも親の世話にならず大学へ通えたのだ。

再びこの水準にまで戻す必要があるとと思う。
そして、経済的にゆとりのない家庭からも、教員の人材を求めるようにしなければならない。
苦学して先生になるということは、人格形成においても望ましいことだと思う。

教育改革を行うには、まずは予算の裏付けが大切である。
何ごとも、金がなければ絵に描いた餅になる。

国民は、もっと国の予算に関心を持つべきで、特別会計のごまかしに黙っていてはいけない。
一般会計と特別会計を合わせると、2022年では215兆円という数字が出ている。
215兆円が我が国の国家予算なのだ。
総予算の半分以下だけ審議している国というのは、おそらく日本以外はないだろう。

日本のGDPはこのところ、約500兆円ぐらいである。
その3.4%が教育予算ではなく、少なくともOECDの平均の5%にはすべきである。
コスタリカは憲法で、6%を下回らないことと決めたということだ。
日本がそれに対抗して、倍増したところで、アイスランドやデンマークには追いつかない。

まずは、よく勉強する者、成績優秀者はお金の心配をしなくても大学が卒業できるシステムにすべきである。

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2011年05月08日

教員養成はどうあるべきか

国の教育を担う教員の養成はどうあるべきか?

これは、なかなか難しい問題である。

子どもは、早期に、ある意図を持って育てれば、そのようになるということがある。

つまり、マインドコントロールである。

また、マインドコントロールという言葉が出てくると、洗脳という言葉が思い浮かぶ。

だから、ここでそれらの違いをはっきりするために、フリー百科事典「ウィキペディア」による説明に従うことにする。特に太字の部分に注意されたい。

一般に「洗脳」というと、特定の主義・思想を持つように仕向ける事、またはその方法を指す。

洗脳はマインドコントロールとは違い、主に物理的暴力(拷問のほか、薬物の利用や電極を埋め込む手術を含む)あるいは精神的圧迫(罪の意識の植え付け)などの強い外圧があるとされる。

これらを基に通常、児童からの教育段階で偏った情報を与えて、特定の(一部の者に都合の良い)思想や価値観を持たせてしまう場合はマインドコントロールに、既に成長して主義・思想を持つ人間に働き掛けて、特定の主義・思想に(本人の意思に関わり無く強制的に)変更してしまう場合は洗脳に分類される。特に後者では、薬物の使用や過酷な環境下において、人間の精神が極めて受動的になることを利用して行われる。

洗脳は何らかの論理体系を与えて特定の方向付けや条件付けを行い、ある思考様式を持たせると云う、いわゆる「マインドコントロール」と混同されがちだが、洗脳の場合には、より実質的な意味で価値観や記憶すら改竄(かいざん)する事を指し、文字通り「別人にしてしまう」といえる。また記憶の改竄により、洗脳の際に不当な扱いを受けたという記憶すら失っている場合には、主観的に「洗脳を受けた」という事を認識する事も不可能である。

場合によっては、記憶にある事実関係を誤認識させたり、特定の方向性を持たせる等の点で、マインドコントロールに類似した点もあるが、いずれにしても「元々のその人」または「本来は違ったであったであろう人格」を破壊した上で、違う人物を作り上げてしまうため、人道上においては殺人行為と同質であると見る事ができる。

洗脳とマインドコントロールは一般的にネガティブなものだと思われがちだが、累犯者の犯罪衝動抑止や、精神的な依存の問題の解決に役立つという考えもあり、個々人のためといった面と、社会福祉や理論的な可能性のうえで、いくつかの問題が提起されている。

情報で思想を染めあげることから、染脳という言葉が適切だとする論者もいる[誰?]。洗脳とは、もともとは悪い意味ではなかった(古い観念を洗い流すという意味)という説もある。


kanryokokka.jpgどちらにも共通するところは、特定の者(一部の者に都合の良い)思想や価値観を持たせてしまうということである。

実は、私はこれが最も嫌なところである。
もう少し詳しく考えてみよう。

国の教育政策ということを考えてみよう。
国は教育をどう考えるべきか?

「そりゃあ、国が栄えるような教育をやるべきだよ」

と言えば、正論なのだろうか?
そうとも言えないところがあるから、私は問題と思うのだ。

しばしば、私が口にすることは「国という生き物はいない」ということだ。
「国が・・・する」と言うが、国という生き物がいて何かをするのではなく、実体は「国という権力を利用した人間が何かをやる」ということなのだ。

だから、国が栄えるということは、気をつけないと「国の権力を利用した人間の利益になることもある」ということなのだ。
国が栄えるということが、国民の幸せに繋がるかどうか?

よく、国益という言葉が使われるが、この言葉はしばしば「国民の幸せ」の代名詞で使われている。
言いたいのは、必ずしもそうはならないということに注意せよということなのだ。

では、誰の利益なのか?

それは、悪名高い官僚が国の権力を私物化している以上、わが国では「国が栄えるは官僚が栄える」と同義語なのだ。

だから、私が国の教育政策と言う言葉を用いたとき、それは官僚にとって都合のよい教育になりはしないかと、監視することが大切だと言いたいのだ。

そこまで、私が言うのは、この日本という国はかつてほど経済大国ではないとしても、教育予算が少なすぎると思うからだ。
塩川正十郎氏が「こちらで、おかゆをすすっているのに、あちらではすき焼きを食べている」と言ったことに象徴されている。

この国は、国民主権なのに、国がサイフの中身をすべて国民に見せたことがない
大体、日本人は人が良すぎると思うのである。
震災の被害者に対して、すぐに義援金が集まるということをいいことにして、行政は復興費をケチッていないか、国民はもっと疑ってみる必要があると思うのだ。

教員ももっと国のサイフに関心を持てと言いたい。
さしあたって、教員も確定申告をやってみたらどうだ?
そして、税金の使い道に関心を持ってほしいと思うのである。

教員養成の問題は、教員そのものの人材を云々する前に、国家としての土台を考えるべきである。
我が家のポチのように、ご主人からいただいた食事だけで、喜んでいていいのかという視線で見てもらいたいと思うのである。

このテーマ、続く。

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posted by edlwiss at 22:18 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年05月08日

よい文章の書き方

まず、次の文章はどうだろうか?

日常の習慣的起床は、ソクラテス瞑想をはぐくみ、爽快な気分を模索しながら朝食は日本の伝統的回帰に沿ったものとし、ゲーテのように思想に帰結するような味わいをもってよいとするようなものが理想である。


いったい、何を言いたのか、わかりますか?
そして、このような文書を見たことがないだろうか?

前々から気になっていたことだが、私は、このような文章を書く人は、教員に多いように思う。

なぜなのだろう?
知識がいっぱい詰まっていて、頭がいいからだろうか?

いや、そうではなくて、逆に頭の中に何もないからではないかと思う。
ないから、あるように見せたい。
それが、心理ではないか。(もちろん、教員がすべてそうだと言っているわけではない)

冒頭の例文は、私が言わんとするところがわかってもらえるように、極端に誇張して書いた。
だから、驚かれる人もいると思うが、意図を理解してもらいたいと思う。

ところで、教員はインテリなのかということだが、どうだろう?

【インテリ】
インテリゲンチャ(intelligentsiya〔露〕)の略語。

「インテリゲンチャ」自体には知識階級、知識階層の意味がある。

この略語の場合は明確な定義が無く、「賢そうな人」や「知識階級を気取った人」を指したスラング的用法も多い。
はてなキーワードより

そこで、

「教員はインテリである」

という文章はどうだろう?

この文章自体が乱暴であり「教員」という大きな集合体を一括して「インテリ」と言えるのかという疑問が湧いてくる。
日本中のすべての教員をがすべて、知識のある人と言えるのかということである。

「どちらとも言えない」というのが正解ではないか?

インテリという言葉にふさわしいと感じる人もいるし、そうでもない人もいる。
また、インテリという言葉にふさわしい人の方が、文章も平易であり、一度読んだだけで抵抗なく頭の中に入ってくるように思う。

omoidetranpu.jpg
もっとも、学術書は別の話である。
ここでは、会話をするという場合の文章のことである。

「指導力不足の教員は・・・」などと言った言い回しには気をつけてもらいたいと思う。
(「指導力不足の教員」の意味自体が曖昧で、その曖昧さを元にして論じてもらっても、結論自体、納得できない)

始めに戻って、冒頭の例文のような文章はインテリぶっている人が多いのではないか。
そして、抽象的な部分が多く、自分で勝手に頭の中の迷想(瞑想ではない)を文にしているだけという感じがする。

しかし、有名な作家の文章は洗練されていてわかりやすい。
例えば、私の好きな作家、向田邦子の文章は、普通の人が書いた日記のようである。
難しい言葉や言い回しは一切出てこない。

それでいて、読み手をひきつける魅力を持っている。
なんと言っても、読んだ後、後味がよい。

私の例文は、嫌味な後味の悪い典型である。

文学的作品を意識しなくても、わかりやすい文章を書いてもらいたものだ。

busyoujitaekata.jpg
それでは、どうしたらよい文章(わかりやすい文章)が書けるのだろうか?
教師にとっては、自分の書いた文章そのものが、児童生徒たちへのお手本と意識して書くべきだと思う。

そこで、つい最近、発刊された文章力の鍛え方 (中経の文庫)を推薦したい。

こういう本だから読みやすいことはもちろんだが、要点がゴシック体で強調されていて、そこを拾い読みするだけでも役に立つ。

例えば、いくつかを挙げてみよう。

・文章を書くということは、根拠を明確に発信することです。

・なぜ自分がそう思うのかを常に意識する。

・根拠を言わない人、言えない人はたくさんいます。そういう人たちは、文章力がどうのこうのという以前に、会話の組み立てができない・・・議論ができないことが多い。

・人は自分の立場で思考しています。だからこそ、その人らしさが出るのですが、その反面、当然のように視野が狭くなります。

・一文を短くすることを意識する・・・長くなれば長くなるほど、文法的におかしくなりがち。

・すべてを語るのは無理・・・文章を書くのであれば、読み手があなたと同じ風景を想像したり、描けるのが理想です。


少なくとも一文に、あれもこれも盛り込まないでほしいと思う。
そして、主語述語の関係がわかりやすい文章にしてほしい。

私はこの本を常に傍におき、少しの時間でもあれば、読み返したいと思う。

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posted by edlwiss at 13:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年05月08日

言うだけの人になりたくない

人間にはいろいろな欲があるのだが、私はこのところ食欲が旺盛なので、メタボに気をつけなければいけないと思うようになった。
そんな矢先、携帯電話を新機種に変えたら、こんなものをサービスでいただいた。

EW-NK30.jpg何だろうと思ったら、活動量計というもので、一日の活動量を測定してくれるものだった。
使い方は、はじめに身長や体重など自分の体のデータを入力しておく。
そして、身につけておくと、目標の活動量がわかるというものなのだ。

最近の携帯電話は、万歩計が内蔵されているので、歩くだけなら携帯電話でも役に立つのだが、カロリー消費量まではわからないので、この活動量計なるものが役に立つということだ。

せっかくだからと思い、毎日、このところずっと使っているのだが、連日、目標値の半分程度しか数値が達していないので、これはいかんと思っている。

ところで、欲と言えば名誉欲というのも、なかなか強い人がいて、こういう人の話を聞いていると、結局は「オレはエライんだ」と言いたいんだと感じる。
そのエライを聞いて、オレだってなんて対抗心を持つのは大人げない気がするので、逆に相手に「凄いですねえ」と持ち上げるようにしている。そのほうが場も円満におさまるというものだ。

私はクラリネットを吹いているが、それも、中高生に「先生、言うだけじゃないの?」と言われたくないという気持ちがあるからだ。
ピアノの先生でも、時々、生徒に模範演奏を示すのだから、自分もやって見せるべきだということと同じである。

実際、中高生あたりが楽譜の難しいところで、指使いで苦労していたりするところを「そこはね、例えばこのようにね」と言って、演奏して見せる。
生徒の顔つきを見て、驚きの顔をしていれば、あとは何も言うことはない。

しかし、昨日は招待券でコンサートに行ったのだが「ちょっと、これはオレより凄いなあ」という人が出てきたので、もっと練習をやらなければという刺激を受けてきた。これからは、毎朝練習をするという、決意をした次第である。

学校の部活を指導するにも、指導者たるものは生徒から「さすが」と思わせるものは必要ではないかと思っている。
そして、その「さすが」はなるべくレベルが高いに越したことはない。
だから、アンサンブルなどは、なるべくプロの仲間に入れてもらってやるようにしている。



スポーツは体力的に、若い人と競争は無理になってくるが、音楽はそうでもないところがある。
よく、私の伴奏をして下さる方(ピアノ)は74歳だが、手の動きが衰えているとは全く感じさせない。実際、頭の働きも若々しいと感じるし、すごくピアノは上手なのだが、非常に謙虚である。
頭が充実しているので、稲のように垂れてくるのだろう。

そういえば、大学の先輩で国語の先生だが、文章をよく書いている人がいた。
そうこうしているうちに、この方、文学賞までとってしまった。そして、小説家が本業になってしまった。
高校の先生から、大学の先生になられて、先日、わざわざ退官のご挨拶の文章が届き、一度会いたい旨のことが書かれていのには恐縮してしまった。
ぜひ、お会いして文章の書き方指南を受けたいものだと思っている。

やはり、本当に凄い人は謙虚だと思う。

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posted by edlwiss at 01:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年05月05日

教育改革って何を変えたいんですか?

kyoikugensou.jpg
私も、今の日本の教育の現状がいいと思っているわけではないですが、時々用いられるこの「教育改革」の中身って何ですか?

個人のブログにある意見を読むと、かなり個人的な意見があります。
例えば「学力中心でいいのか?」という意見です。

こういう場合、そもそも学力とは何ぞやということがわかっていないのではないかと思います。多分、受験中心の今の学校のことを言っているのではないかと思います。

家を作るときは、土台から作りますが、すぐに家具を買ってくるような話をしてもしょうがないと思うのですが、そんなイメージの意見もあります。

現在の教育に不満を持っている人は多いと、想像しますが、個人的な不満のような話は教育改革の名にそぐわないと思います。

たたき台として、私が考える教育改革を挙げてみます。

教育予算の増加

我が国の教育予算は次第に減少しているように思います。
金額で言えば減っていませんが、インフレや国民所得を考えると昔よりかなり少ないと思います。

例えば、昭和40年ころの国立大学の1ヶ月の授業料は1000円でした。
その頃の4大卒の先生の給料は約3万円ぐらいです。
家庭教師は、週2回で1ヶ月5000円ぐらいでした。

その倍率で現在を考えると、大卒の初任給は100万円ぐらいでないと釣合いません。
そうでなければ、国立の月の授業料は7000円ぐらいでなければなりません。

経済大国と言われても、家計は昔より苦しくなっていると思います。
ちなみに、昭和40年ころの教員養成大学での奨学金は月4500円でした。
その割合でいくと、現在、奨学金は月18万円ぐらい支給されないと釣合いません。

国家予算の割合から言っても、日本は低いと思います。
計算の仕方にもよると思いますが、国家予算に占める教育費は4%程度だと思います。
中南米のコスタリカは20%です。

ソフトウエアに力を入れる

日本は製造業が強いと言われてきました。
しかし、物をつくる力は次第に全世界で平均化し、日本だけの強みではなくなると思います。
資源を輸入し加工して輸出するという加工貿易が日本の中心ですが、資源のない日本は次第に競争力をなくすと思います。

天然資源はなくても、日本は人が資源だと思います。
だから、無から有を生み出す、ソフトウエアで世界と競争するようにすべきだと思います。
そのためには、受験中心の学校の仕組みを変革し、教科全般に渡って平均的に得点する者をよしとするのではなく、若くても一つのことに秀でた人材を育てるシステムにすべきだと思います。
そのためには、飛び級の制度も考えたらと思います。
優秀な学生には、奨学金を十分給付し、返還の義務をなくす。

学校は午前中にし、午後からは社会教育に力を入れる

義務教育は基礎的な学習に精選し、現在課外でやっている部活動を廃止し、社会教育を整備し専門家から指導が受けられるようにする。

以上、大ざっぱに私の構想を述べましたが、読者のご意見をお待ちしたいと思います。

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posted by edlwiss at 23:27 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年05月04日

情報発信は慎重に、受け取る側もよく考えて



ブログで個人が簡単に情報発信できるようになった。

言いたいことがいつでも言えるという便利な半面、発信する内容には責任を持つ必要がある。
ブログにツィッターやFacebookが連動されたら、情報の波及効果は大きい。

その影響力で、人が救われるという良い面もあるが、発信してしまった情報は取り戻せない。
悪意はなくても波及してしまった情報を、訂正する場合どうしたらよいか、これも課題である。

また、ハンドル名で個人名を伏せることができらからと言って、無責任な発信も許されない。
信頼関係を高めるという点では、Facebookの普及が高まるかも知れない。

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posted by edlwiss at 14:40 | Comment(3) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年05月03日

不適格教員と指導力不足教員

不適格教員と指導力不足教員は分けて考えるべき

法律や条例で、不適格教員や指導力不足教員の定義が示されている。

法律となると、一般に使う用語と意味が違う場合があるので、注意しなければならない。
従って、ここでは法律を云々ではなく、一般に言う、不適格とか指導不足という意味について考えてみたいと思う。

まず、教員に不適格というのと指導力不足とは一緒にしないで、区別する必要があると思った。
それは、不適格と言えば人格に関係することだと思うし、指導力は必ずしも人格とは関係ないと思うからである。

futekikaku.jpg指導力不足教員とは

指導力不足って言うけど、それはどういう状態なんだろう?

・字が読めない?
そんなことはないだろう。

・知識がない?
自分の教える教科について、そんなことはないだろう?

・児童生徒の統率ができない?
要するに、リーダーシップがとれないってことなんでしょうか?
児童生徒が言うことを聞いてくれないんでしょうか?

指導力不足って、どこで線を引くんでしょう?
また、線引きの項目は何ですか?
誰が決めるんですか?
ある人が指導力不足と言っても、別の人から見たら違うかも知れない。

考えていくと、指導力不足ってわからないです。

不適格教員とは

これはわかるような気がします。
児童生徒に接してはよくない(害になる)性格の人だろうと思います。

不適格教員として、裁判の結果、解雇された人の例を挙げてみます。

・係から再三、出席簿の提出を求められたが、提出しなかった。
・指導主事らに対して、「教科書は使わない」、「学習指導要領に定められた音楽教育はしない」などと言った。
・5段階評価法を、職員会議で確認された後も、無視する。
・わき見運転で追突事故を起こした。 そのために 口頭訓告処分をうけたが、その後、職員室で 「教育長のバカヤロー、ドアホー」などといった。
・職員室で バレーボールを床についたり、他の職員の机に腰をおろして電話をしたり、雑談したりした。
・女性教員の体に触った。
・女子児童の体に触る。
・Tシャツ、ポロシャツ の上着にトレパンをはいて授業、それについての校長の指示にも従わなかった。
・上司の命令に従わない。
・男子生徒の授業妨害を理由に、5分で授業 打ち切り、「 ドアホー お前ら人間か 」といった。また 特定の生徒を非難することが多い。


要するに、素行が悪いのです。

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筆記試験に受かったが、指導力がないという教員より、コネで採用されたが指導力のある教員の方がいいと言った人がいますが、これもおかしいと思います。

理由は以下の2つです。

1.不正を容認している
2.指導力があるかないかは、誰がどのようにして判定するのか不明
・・・この人は、指導力があるかないかを、自分が勝手に判断しているように思います。

コネ合格は、大分県で表面化し大きなニュースになりましたが、まだ、コネを容認する人がいるというのは問題だと思います。
指導力のある教員がいいという考えは、一見まともに聞こえますが、そのことが理由で、筆記試験は不合格でもモグリで採用していいという理由になりません。

指導力を云々するなら、それも試験に含めて、筆記試験と両方の成績で合否を決めるべきです。

システムに不備があるからと言って、法律(きまり)を破ってもいいという論理は成り立ちません。

「きまりは守らなくてよい」という先生も、不適格だと思います。
そういうことを、児童生徒に指導する先生も同様です。

また、教員のコネ合格と、民間会社のコネ合格を同列に考えている人がいますが、これは間違いです。

公務員の採用に関わるコネが「請託」ということで、問題になるのです。

せい‐たく 【請託/請×托】

[名](スル)内々で特別の計らいを頼むこと。特に、公務員に一定の職務行為を行うように依頼すること。「―を受ける」


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posted by edlwiss at 21:23 | Comment(17) | TrackBack(0) | 教育問題

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