2011年08月31日

教務力って何ですか

kyoumu.jpgネットで検索すると、教務力という言葉が出てくる。
教務という言葉は知っていたが、教務力となると違和感がある。

教務と言えば、フリー百科事典「ウィキペディア」では次のような説明がある。

教務(きょうむ)とは、

1.学校、予備校、学習塾等において、教育や学習に関する事務のこと
2.教団、宗派などでの宗門上の事務のこと

をいう。

以下、学校等に関する教務(特に学校に関する教務)について述べる。

学校、予備校、塾等において教務(きょうむ)とは、教育や学習に関する事務を指す。特に学校においては校務分掌の1つとしてほぼ全ての学校で位置づけられている。
概要 [編集]

教務は基本的に、学校等において、その運営に関する事務の全般を受け持つ。生活指導・進路指導に比べると、直接的に児童・生徒・学生に関わる部分が薄いため、普段児童・生徒・学生が意識する機会は少ないであろうが、学校等の運営の根幹となる分掌である。

学校等によって異なるが、具体的には以下のような仕事が挙げられる。

教育課程(カリキュラム)の検討・作成
年間(月間)行事予定の作成
時間割の作成
授業・チャイム(時程)の管理(授業の交換・変更など)
学籍・成績評価に関する事務処理
指導要録・調査書・通知表などの作成・管理
転学、編入学、退学等の対応
出席簿の管理
学級名簿の作成・管理
定期考査の運営
教科用図書・副教材に関する事務処理
視聴覚機材の管理
入学式・卒業式等の儀式的行事の運営
教育実習の受け入れ
その他学校運営に必要な事務

学校等によっては庶務を兼ねていることもあり、その場合は特に職員室や印刷室など、教職員が使用する施設・設備の管理を請け負うこともある。具体的には

職員室のレイアウトの検討
印刷室内の紙類の整備

などである。

特に近年、学校等のコンピュータの普及も手伝って、コンピュータに関する機材の管理を教務で扱う学校等が多い。


教務とは事務である。

教務力となると、教務の力なのだろうと思う。
しかし、ネット検索では、成績を上げる力とか授業力などと言っている言葉が目につく。

教務力って塾の業界用語ですか?

成績を上げる力とか授業をする能力なら、ただ指導力でいいじゃないですか?
学校の教師が教務力と聞いたら(教務をする)事務能力のことだと思うでしょうね。

では、塾での事務は何と言うのでしょう?

やはり、教務力という言葉は誰かが作ってしまったのでしょうか?

私が問題だと思うのは、このように一般化されていない、つまり辞書にない言葉を作ってしまうと、塾の関係者同士が教務力という言葉の意味について、解釈がどうのこうのと争っても全く無意味なことになるだけだということです。

塾長と塾講師が意味が違うと論争することが、全く意味のないことです。
もともと、辞書にない言葉、社会的に認知されていない言葉を作っても、解釈なんてことすら存在しないのです。

もし、独特の用語を作りたいのなら、最高権限者が用語の定義をしなければなりません。
具体的には、塾の場合は塾長が「我が塾では○○の意味については□□という意味で使う」と言えばいいだけです。

勝手に作った用語で、勝手に解釈して論争しているということは、そもそも学問の基本がわかっていないということにもなります。

物理で、何かを説明するとき

R:抵抗(Ω)、I:電流(A)、E:電圧(V)

と断ってから説明するのと同じです。

しかし、なるべくなら新語は作らない方がいいと思います。
人に説明する場合、なるべく平易な言葉を使うべきだと思います。

でも、教育界では新語を作りたくなる世界があるようです。
例えば、昔「形成的評価」という言葉がありました。

私は「形成的評価って知っていますか?」と聞かれたことがあります。
私は「知りません」と答えました。
そうしたら、いかにも「君は遅れているねえ」という態度でした。
しかし、何のことはない。形成的評価って、今まで使っていた評価と何も変わりませんでした。

どうも、新しい言葉を作ることで、さも新しいことをやっている、先を行っていると格好をつけたいのが本音だったようです。
教育関係者が、教育的でないことをやっていると感じました。

コンピュータの世界では、シリコンバレーに代表されるように、どうしても新語を作らざるを得ない場合もあります。
それは、あることを命名しなければ説明が難しくなるからです。
つまり、新語は、新語を作ることによって説明が容易になる場合に作るべきです。

まして、必要ないのに、誤解を生むような言葉やわざわざことを難しくするような言葉は作るべきでないと思います。

権威付けをするために、新語を作ったりして、説明をわかりにくくするなどということは厳に慎むべきことであり、非教育的でもあると思います。

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posted by edlwiss at 19:42 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年08月30日

クズはいません

kyouikutekisien.jpg人間にクズはいません。
「かけがえのない命」というのは、そういうことを表しているとも言えます。
ところが、クズがいるという人がいるんですね。
驚きです。

さらに、そういう人が自分を(教育の)プロだと言っているのは驚きです。
教育のプロとかプロ教師、あるいはプロ家庭教師って何でしょう?

プロという言葉には、それで生計を立てているという意味があります。
もう一つの意味は「専門的」であるという意味があります。

教師はプロか否かを問われることはあります。
しかし、一般に学校の先生のことをプロ教師とは言いません。
もちろん、わざわざそういう人はいます。

学校の先生は教諭とか、教員、ただ(学校の)教師と言えばそれで通じます。
家庭教師に至っては、ただ「家庭教師」でいいと思うのですが、なぜわざわざプロ家庭教師と言うのでしょうか?

「オレは家庭教師をやっているが、並の家庭教師とは違うぞ」と言いたいのでしょうか?

他人が、自分の仕事ぶりを見て「さすがプロ」と言ってくれるのは、一種のほめ言葉であり、その仕事を認めてくれる証であるとも言えます。

その意味では、他人からプロと言ってもらえるのは嬉しいことですが、自分からわざわざプロというのはどうでしょうか?
恥ずかしくないですか?

もし、家庭教師の方が読んでみえるなら、お聞きしたいですね。
あなたは、他人に「プロ家庭教師」と言いますか?
プロ教師とかプロ教育者と言いますか?

話を始めに戻して「人間にはクズがいるものです」と言う人がいるとしたら、それは、それだけでプロ教師とは言い難いです。

なぜなら、プロ教師なら、教育の対象がどんな人だって関係ないからです。
普通なら、あきらめてしまう人を、可能性を見出して伸ばすことができるのがプロ教師だからです。

それに「人間にはクズがいる」という人は、何を持ってクズと判定しましたか?
これは、オレには指導できないという限界を感じて、つまり自分の手に負えない人はクズと分類することによって、指導の対象から除外するということが本音でしょうか?

三重苦のヘレンケラーを教育したサリバン先生のような人こそ、プロと言えるのでしょう。
つまり、第三者は「プロと感じる」わけです。

教育の対象がどんな人であれ、自分の能力の最善を尽くして、その人の能力を開花させる、それがプロと呼ばれる人です。
全くきれいごとなんか言っているわけじゃないです。

どんな人に対しても、指導の手を差しのべる。それは、公平という概念じゃありません。
教育者、プロとしては当たり前の行為です。
自分の手に負えない対象を、クズと切って捨てるのは、間違いなくズブの素人です。

入塾してこなくても、あるいは、家庭教師として指導しなくても、もともと合格する能力のある子どもに携わって「有名校に合格させた」と自慢するのはプロじゃあありません。

できない子をできるようにしてこそ、やる気のない子をやる気にさせてこそプロなのです。
だから、本当にプロと言える人は、恥というものを知っています。
だから、自分の実績を自慢するなんてことはありません。

自称プロは恥を知らない人で、自分でプロと言わなければ、プライドを保てないんじゃないでしょうか?

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posted by edlwiss at 22:56 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年08月24日

幼児教育の大切さ

6才までの教育は非常に大切と思います。

人とサルはある時期までの発達は全く同じと言われています。
しかし、ある時期から顕著な違いが出てきます。

人が誕生してから3才ぐらいまでをよく注意して観察していると、毎日変化していると思うときがあります。
ある時期から加速度的に知恵がつき、行動も変わってきます。
発達の仕方が右肩上がりの正比例の線ではなく、二次関数のように変わっているように感じます。

教育というと、大人が何か子どもに対して、教えたりすることを想像する人がいるようです。
そういう人は、大人が教えたことだけ子どもは身につけるように思っているフシがあります。

しかし、生まれてから子どもは、誰に教わることもなく自ら学び始めます。
自分の周りの環境から、学んでいくのです。
幼児は手でつかんだものは、何でも口に入れたがります。
そうやって、確かめているのでしょう。

子どもは自ら環境から学んでいくので、環境が大切になります。

次の動画は、小林愛美さんが三歳の時にピアノを弾いているところです。
恐らく、まだピアノを習いだして間もないところだと思います。



これをみると、普通にピアノを習いだしたんだなと思います。
三歳でこのぐらい弾く子は、普通にいるということです。

ところが、1年後の4歳の動画を見てみましょう。



これは普通ではありません。尋常ではないです。
しっかり練習はしたでしょうが、普通は1年間猛練習したとしてもここまで弾けるものではありません。

それは、指がよく動くという単純なものではなく、音を感じ取る力、音楽のメッセージを感じ取る力がもう成人と同じなのです。

ここまでできるようになったのは、音楽的環境もあるのでしょうが、生まれつき持った本人の音に感じるという個性もあったと思います。

そういう個性を周りの大人も阻害することなく育てたのだと思います。

個性という言葉に関しては「個性は持つべきか、持たざるべきか」とか「個性を持てる人は・・・」などと奇妙なことを言う人がいます。

まあ、広い世の中には変な人もいますが、個性という言葉の意味をまるで違った意味に勝手に考えている人がいるようで、困ったことにそういう人の中に、自分が人にものを教えるプロだと自認している人がいることです。
そういうオレガオレガ人が子どもをダメにしないことを祈るばかりです。
オレガオレガ人はえらそうに、人には「わからないことは辞書で調べろ」というクセに、自分は辞書で調べないようです。

個性(こせい)とは、個人を個人たらしめる特徴である。

日本では往々にして肯定的な意味で用いられるが、本来は存在する上での差異を指しているだけに、必ずしも有益であったりするものばかりではない。近年では、身体障害者の身体的特徴や精神障害者の症状をも、その人の個性であるという考え方も生まれている。いずれにせよ、たとえ客観的には不自由を強いる特徴であっても、それがその人らしさを形成する上で、必要不可欠な要素となっているのであれば、立派に個性の一端と呼ぶ事ができる。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

少し脱線しましたが、個性の尊重とは、生まれつき通常の他人とは違った特徴を持っていることを発見し、それを生かすように考えることだと言えます。

犬や猫の子どもを見ても、生まれたときから押しの強いもの、反対に引っ込みがちなものなど5匹いれば、5匹がみな違います。

だから、介護犬によいとか番犬によいなどこれも個性を生かすことと同じようなものではないでしょうか。

■家庭環境の悪さは、就学前にハンディを負うことになる

親に経済的な余裕がなく、食うだけで一生懸命な場合、ろくに子どもと話しもできなかったり、子どもの顔を見る時間もない、一緒に食事をすることもめったにない。

そんな状況では、決まった時間に食事をするなどの生活習慣も確立できないだろうし、文化的なことに投資する余裕もないでしょう。

親の愛情を感じるときもないのかも知れません。

就学するまでの6年間は大きなハンディになりかねません。
だから、幼児教育の大切さを感じるのです。

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posted by edlwiss at 11:53 | Comment(8) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年08月24日

やる気のない子を見たら

やる気のない子を見たら、あの子はどうしたんだろうと思うのが教師です。
中学校は教科担任制ですから、それぞれの先生が職員室で「A君て最近おかしくないですか?」と言ったりする。

「できないのは、やらない本人が悪い」などと言っているのは、教師ではありません。
そんな思考回路でオレはプロ教師だなんて言っているとしたら、笑止千万です。

「できない子はかわいそうではない、やらないからだ」と言っているのは「植物が生長しないのは育たないからだ」と言っているようなものです。

米を作っている人は、稲の生長が悪かったら「育たない稲が悪い」なんて言いません。
土に問題があるのか、水が悪いのか、肥料が悪いのかなどと考えます。

米作りはもみの選別から始まり、苗代を作り、さらに選別された苗が田植えされます。
しかし、教育は「できない子は、やらないからだ」という選別を行うことではありません。

すべての子どもに可能性を見出すことです。
これは「人を信じる」ことであるとも言えます。

人はひとりひとり違うから、かけがえのない存在であるとも言えます。
これは、子どもが100人いれば百通りの指導があるとも言えるのです。

だから、優れた教師は何通りもの引き出しを持っているのです。

斎藤喜博氏は「教育学のすすめ」で「君の可能性」というテーマで島秋人のことを紹介しています。これは、かつて、このブログでも紹介しました(教育学のすすめ)。

最近「水泳界に14歳の新星が・・・」と渡部香生子さんが紹介されました。
平泳ぎで3冠を達成したということで、ロンドンオリンピックへの期待がかかっています。

渡部香生子さんは、なんと平泳ぎは不得意だったそうです。
泳ぎ方も、普通に教えられる泳法とは違っていて、指導者によってはこれを矯正したかもしれないようですが、麻積(おみ)隆二コーチはあえてそれを矯正せず「これはおもしろいんではないか」と考えたそうです。

渡部香生子さんの素質や努力もあったでしょうが、麻積隆二コーチの優れた見識があったからこそ、その素質や努力が実ったとも言えるでしょう。
麻積隆二コーチはまさにプロ教師と感じるところです。

学校はすべての子どもの可能性を考えて、ひとりひとりはかけがえのない存在として、教育を考えるところです。
「やらない子」がいたら、何が原因なのか、やる気を出させるにはどうしたらいいかを考えるのも学校の範疇であり、それらを実現してこそプロ教師と言われるのです。

私は、素人教師によって「できないのは、やらない本人が悪い」などと言って切り捨てられる不幸な子どもが出ないことを祈っています。



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posted by edlwiss at 10:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年08月23日

言葉を大切にしない人は信用できない

論文を書くときは、用語の定義をきちんとする。
そうしなければ、家を建てるにも土台がないようなものだ。
数学だって、用語の意味が定義してなければ、証明はできない。
学問をするということは、言葉の意味がはっきりしているということである。

討論する時も、言葉の意味が曖昧では討論にならない。
しかし、今日、自分の使っている言葉の意味が不明、自分勝手という人がいる。

だから「あなたの使っている○○という言葉は辞書で調べると違いますが」と言うと「辞書というのは、それぞれの人の頭の中にあるものだ」と答えた人がいる。

これは、使われている言葉の意味は、各人が勝手に決めてよいと言っているようなものだ。
そして、これは同時に言葉が機能を失うということになる。
なぜなら、言葉は人と人がコミュニケーションをするための橋渡しをするものだからだ。
こんなことは、教師なら常識である。

言葉を大切にしない人は、教師とは言えない

国語はすべての教科の基礎である。
すべての教科は国語を通じて、展開する。
だから、国語力のない人は、どんな教科もまともに教えられないということになる。

論理のおかしい人は、教師とは言えない

例えば「いろいろな意見があっていい」と言う人がいる。

確かにそうだが、意見でないものまで意見として主張する人がいる。

1+1=3だと思う」

これは意見と言えるだろうか?
これは極端な例だが、同様なことを平気で主張する人がいる。

真理と違うことを主張しても、それは意見とは言えない。

音楽を演奏する時、いろいろな解釈があって、いろいろな演奏スタイルがあることはいい。
しかし、音程やリズムの間違いがあったら、それは解釈ではなくて、あくまで間違いである。

間違いを、いろいろな意見のうちに含める人は、頭の悪いバカである。

別な言い方をすれば、間違いと意見の区別ができるかどうかはバカかバカでないかの区切りと言えるのかもしれない。

学力の意味が本当にわかっているのか

例えば、漢字の書き取りテストでよい成績を取る者は学力が高いのか?
計算問題に強い者は学力があると言えるのか?

「学力テスト」と名前をつければ、学力を試すテストになるのか?

「学力」という言葉をフリー百科事典「ウィキペディア」で調べてみよう。

学力

学力(がくりょく)とは、人間活動における基礎となる学ぶ力のことである。

概要

学力は、人間の基礎的な能力の1つである。人間は、「学力」を駆使することによって、さまざまなことを経験し、その経験から新しいことを学ぶことができる。人間活動の質に差違をもたらすものの1つに学力もあると考えられており、近代以降において学力は、十分な施設(校舎・運動場など)・人材(教員など)などを有する学校によって保証されなければならないという思想が広がった。そのために義務教育の制度が定められた。

学力を狭義に捉えれば、学校教育(就学前教育・初等教育・中等教育・高等教育)によって修得した能力とされるとともに、学校教育によって得ていなくても学校教育で得られる能力と同質のものも学力とされる[1]。

学校における教育には、目的(なぜ行うのか、why)および目標(何を行うのか、what)が規定されており、学力検査は、教育の「目的および目標」に基づいて学力を測定する。しかし、測定できる事項には限りがあり、主体性・自律性・協調性・感受性などの測定は、困難である


この説明(定義)からすると、学力とは「学ぶ力」のことであり、測定が困難な学力もあると言える。

単に記憶したことをどれだけ忠実に再生できるかというのは、記憶力テストであり、学力とは言えないだろう。

未知の体験に遭遇した時、そこから自主的に学ぶ力こそが学力であり、学んだこと、言われたことだけしかできないのは学力があるとは言えない。

今日「今の若い人は、言われたことはしっかりやるが(言われないことを自主的に考えてやることができない」と企業経営者などから言われるのは、学力がないと言われているのと同じではないか?

「若い人」と言ったが、これはもう何年も前から言われてきたことである。
ということは、今や「言われたことしかできない」は若い人に限ったことではないと言える。

言われたことを忠実にこなすのは、コンピュータの得意とするとすることであり、これは記憶中心のテストで人を選別している以上、仕事は人からコンピュータ、ロボットへ移っていくことを示しているのではないだろうか。

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posted by edlwiss at 23:46 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年08月22日

学校とは

gakkoutte.jpg
今さら学校とは何だという人も多いだろう。
学校の先生は、当然、学校とは何かわかっていると思うが、学校関係者以外では、案外わかっていない人がいるようだ。

私は日本は教育に力を入れなければならない。教育立国でなければならないと思っている。
その意味では、多くの人が教育に関心を持ち、それを担っている学校にも関心を持つのはいいことだと思う。

私は学習塾や家庭教師に反対するものではない。
しかし、それらが学校に対抗しようとするのは間違いだと思う。

そこで、改めて学校とは何か、簡単ではあるが整理してみようと思う。

教育基本法

教育の憲法と言われるものが教育基本法であり、これが日本の教育の土台となっている。
では、教育基本法には何が書かれているのか、ここでは全文を紹介する余裕はないので、基本となる「教育の目的」を見てみよう。

第一条  教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

(教育の目標)
第二条  教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一  幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二  個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三  正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四  生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

(生涯学習の理念)
第三条  国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。

(教育の機会均等)
第四条  すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2  国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3  国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。


学校教育法

教育基本法を具現化するために、学校を設立し、その学校の運営の指針を示したものが学校教育法と言える。

だから、学校は学校教育法に基づいたものである。
第三条  学校を設置しようとする者は、学校の種類に応じ、文部科学大臣の定める設備、編制その他に関する設置基準に従い、これを設置しなければならない。

学習指導要領

教育内容について、具体的な指針を表したものが学習指導要領である。
ここでは、中学校の学習指導要領の総則を見てみよう。

第1 教育課程編成の一般方針
1 各学校においては,法令及びこの章以下に示すところに従い,生徒の人間として調和のとれた育成を目指し,地域や学校の実態及び生徒の心身の発達段階や特性等を十分考慮して,適切な教育課程を編成するものとする。
 学校の教育活動を進めるに当たっては,各学校において,生徒に生きる力をはぐくむことを目指し,創意工夫を生かし特色ある教育活動を展開する中で,自ら学び自ら考える力の育成を図るとともに,基礎的・基本的な内容の確実な定着を図り,個性を生かす教育の充実に努めなければならない。
2 学校における道徳教育は,学校の教育活動全体を通じて行うものであり,道徳の時間をはじめとして各教科,特別活動及び総合的な学習の時間のそれぞれの特質に応じて適切な指導を行わなければならない。
 道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,人間尊重の精神と生命に対する畏(い)敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心をもち,個性豊かな文化の創造と民主的な社会及び国家の発展に努め,進んで平和的な国際社会に貢献し未来を拓(ひら)く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。
 道徳教育を進めるに当たっては,教師と生徒及び生徒相互の人間関係を深めるとともに,生徒が人間としての生き方についての自覚を深め,家庭や地域社会との連携を図りながら,ボランティア活動や自然体験活動などの豊かな体験を通して生徒の内面に根ざした道徳性の育成が図られるよう配慮しなければならない。
3 学校における体育・健康に関する指導は,学校の教育活動全体を通じて適切に行うものとする。特に,体力の向上及び心身の健康の保持増進に関する指導については,保健体育科の時間はもとより,特別活動などにおいてもそれぞれの特質に応じて適切に行うよう努めることとする。また,それらの指導を通して,家庭や地域社会との連携を図りながら,日常生活において適切な体育・健康に関する活動の実践を促し,生涯を通じて健康・安全で活力ある生活を送るための基礎が培われるよう配慮しなければならない。


学校は組織である

俗に知・徳・体をバランスよく考えて運営するのが学校であり、これは教育基本法〜学校教育法〜学習指導要領を受け継ぎ、さらに具体的な教育活動を遂行するために、学校には管理案(経営案)というものがある。管理案の中身は大きく分けて教務部校務部事務部とあり、教務部は教科、道徳、特別活動、生徒指導、保健安全指導、環境美化指導、課外活動、特別委員会、教育課程編成などの教務などに分かれる。
校務部は庶務、管材、渉外などに分かれる。

これらの仕事を、学校に配属される教職員ですべて受け持つ。
教育を実現するための仕事は多い。現実の教職員数と仕事量を比べてみると、教職員一人一人が受け持つ仕事は多く、過重労働の傾向が強いと言える。

しかし、教職員の定数は教育予算と関係があり、簡単には増員できない。

いわゆる広い意味での教育活動を具現化しようとすると、一人の人間や半端な人材では実現できない。

学校は予備校ではない

戦後になって、新しい学校制度が整備されると、父母は我が子を進学させたいと要望が強くなった。
それは、同年齢でも職場では学歴が上の人がどんどん出世し、高校へ行かないとくやしい思いをするということで、我が子だけはという意識が強くなったからだ。

ということは、高校や大学へ進学する人が少なかった時期がある。
学校は上級の学校へ進学することを前提に教育課程を編成していない。

だから、進学希望者が多くなってきた当初、学校は授業後の課外、すなわち補習授業として対応してきた。
進学熱の過熱とともに学校間の競争という意識が強くなり、受験指導の時間が不足し、正規の教育課程に受験指導が割り込む形となり、学校は本来の教育活動に支障を来すようになってきた。

いつしか、受験指導が学校の教育活動の主体と考える勘違い人間も出てきた。

教師はティーチングマシンではない

ウィネトカプランはウオッシュバーンという小学校へ勤務したアメリカの教師が、すべての子どもの知的能力を高めようと意図して考えた指導方法である。
これがもとになってプログラム学習が考えられ、大きな学習効果を上げることから、有名になった。

プログラム学習自体はすばらしいアイデアであるが、この指導法は学校教育にはなじまないところがある。
それは、個別学習であるため、ひとりひとりが自分のペースで進むため、子ども同士の連携、つまり社会性が欠如するからである。

私も電気回路やラプラス変換などを勉強するとき、プログラム学習を用いた。
そして、その効果を実感した。

プログラム学習は、優れた教材があれば教師は必要ない。
学習者が低年齢で、管理が必要なら、監督者がいればよい。
監督者は普通の常識人なら、特に学習指導をする必要もない。

つまり、プログラム学習はティーチングマシンのようなもので、教師を必要としないとも言える。
しかし、本来の「教育」ということを考えると、ティーチングマシンでその要求に応えることはできない。

生活指導の重要性

生活指導と言うと、人によっては、子どもたちを集めて「交通規則を守りなさい」とか「・・・をしない」と演説をすることをイメージする人がいるかも知れないが、生活指導はそんな安易なものではない。

生活指導の目的は、第一法規・教育学大事典・木原孝博によると

生活指導の目的は、子どもの問題解決能力を高めることである。問題解決能力は自己解決能力と言い換えてもよい。人間の一生は、問題の生起と解決の連続である。問題がある、問題をもっているとは、生きていることのあかしである。この問題に、自分の力で取り組んでいく。この解決していく能力が、問題解決能力、生きていく力である。・・・<中略>・・・問題解決能力は、次のような要素から成り立っている。@情緒的感動性、A知性、B実践能力、この三要素の全面的調和的発達が問題解決能力である。・・・<後略>・・・


とある。

それでは、@の情緒的感動性をどう発達させるか。Aの知性をどう高めるか。Bの実践能力をどう高めるか、と考えたとき、他の様々な教科との連携が欠くべからざるものだと気づくことができるだろう。

そのためには、知識を詰め込んだりすることだけでなく、集団での活動も必要だとわかるはずである。

学校には様々なプログラムがあり、それらを調和的に遂行していくわけである。

書道という授業があるが、もっと書道について学びたいと思うなら書道教室がある。
ピアノ教室、バレエ教室なども同様である。

それらの教室は学校の延長、補完とも考えられるが、それらの教室は教育の一部を担っていると言えるかも知れないが、それだけで教育と言うわけにはいかないだろう。
学習塾においても同様である。

就学時に、すでに差がついている

gakkounosonzai.jpg現在は何でもかんでも学校に持ち込む傾向がある。
夏休みの宿題でも、外部のいろいろな団体からの要請のポスター、習字、作文などでいっぱいである。

また、学習指導から生活指導まですべて学校の責任にする傾向もある。
しかし、義務教育の就学年齢である6才の時点では、すでにかなり差がついていると言える。

例えば、音感は4才ころ最も敏感になり、絶対音感もこのころまでに訓練しないと身につかない(絶対音感を身につけることが必ずしも必要という意味ではない)。
また、6才ではすでに大人の脳の90%が完成していると言われる。

実感としても、3才頃までの教育的刺激はかなりのものであると思う。

就学時までの影響は、子どもを取り巻く地域的環境家庭環境が大きく影響している。

私の経験ではA地区の中学生とB地区の中学生では、完全に1学年の違いがあると感じたことがある。
それらの地区の平均年収を比較すると、約100万円ほど違っていた。

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2011年08月20日

実践した人には具体性がある〜試験を突破する勉強法〜

NHK-Gの番組に「鶴瓶の家族に乾杯」という番組がある。この間はゲストに、元広島カープ監督の山本浩二氏が出演していた。

氏がある中学校を訪問したとき、女子ソフトボール部と野球部の指導をする場面があった。
自分が現役として活躍し、監督までやった人の言葉はさすがと思った。

指摘が具体的でわかりやすい。
だから、すぐに実践できて、効果を実感できる。そして自信がつく。

受験指導のプロを自負するなら、自身も受験を「さすがプロ」と言われるぐらい体験してきて、どのようにして困難を克服してきたというプロセスがなければならない。

抽象的なことば、精神論でしか語れないのであれば、とてもプロとは呼ばれないであろう。

例えば、私が実践した受験対策としての勉強法の概略を紹介してみる。

これは、母子家庭だから就職して母親を楽にしてやろうと思っていたが、高校三年の三学期になって、やはり大学を受験したいと思い、自宅から1時間半ほどで行ける国立大学に願書を出した時のことである。
試験当日まで約三ヶ月という期間を前にして実践した、受験対策の概略である。

1.試験は点取りと割り切ること
2.いつも実践を考える
3.問題集から始める
4.問題集の使い方
5.問題集を終えたら
筆記用具を考える
時間の管理

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2011年08月20日

資格なき医療行為は当然問題だが



医師の資格なしで治療行為をすることは、もちろん許されない。

最近はおかしな考え方をする人もいて、力量があれば資格はなくてもよいとか、不正合格でも実力があればいいなどと言う、思考回路の狂った人もいる。

だいたい、無資格だが力量があるという場合、誰がその力量を判定するのかとか、同様に不正合格でも実力があると言う場合に、誰がその実力を判断するのかという疑問がある。

そもそも、なぜ試験をやるのかと言えば、資格や実力を判断するためにやるのであり、ある個人が認めればよいというものではない。

以上、非常識と考えられる意見は論外として、それでは、資格があればよいのかということについても考えてみる必要がある。

アメリカの教員は、教員免許を取得しても更新期間があり、更新できないと資格がなくなるということはよく知られている。

私が取得した、ファイナンシャル・プランナーの資格も、期限がアメリカだったせいか、免許は更新制度になっている。
2年間の間に、所定の単位を取得しないと、免許は無効になる。

更新期間を設けている理由は、一度資格をとっただけで、勉強も実践もしていないならば力は衰退するだろうという考えである。

それで、日本でも教員の資格更新制度を考えようとしたのだろうが、その内容はともかく、教師にとって指導力の低下は望ましいことではない。

日々鍛えていないと錆びる

現役の教員とて、自ら勉強をして鍛えていないと力量は落ちる。特に30代ともなれば、何もしなければ衰えるのが一般的である。
ただ、自分の教える教科のみを惰性で教えていたら、教わる方の児童生徒からは魅力のない先生と映るだろう。

資格があるからといって油断しないようにしたいものだと思う。

無資格治療と同じレベルではないかと問いかけてみたいものだ

学校の先生になるには、教職の単位取得と採用試験に合格という関門があるが、自分で塾を開いたり家庭教師をやるにおいては何も資格は必要としない。

教員になりたかったのだが、目が悪くて採用されなかったという人がいた。
しかし、この人は子どもを教えるということが好きで、自宅で何人かの子どもを教えていた。
塾によっては、入塾テストをやったりして、できの悪い子どもを切っている。
しかし、その人は本当にできの悪い子を集めて指導していた。

子どもたちはみるみる勉強ができるようになったので、その塾の先生は評判になった。
学校の先生からも尊敬されることとなった。

一方、情けないのは、先生になれなかったコンプレックスか何かはわからないけど、学校の先生のアラ探しばかりして、それを鬼の首でもとったように言いふらしている人もいる。
そういう態度こそが、指導者としてはふさわしくない。

ひどい勘違いをしている人もいる。
学習塾や家庭教師はテスト対策に特化した指導である。
なのに、それをまるで教育をしているかのように錯覚している人もいる。

学習塾や家庭教師が学校のむこうを張って、教育ができるものではない。
学校は学校教育法にのっとり、文部科学省の学習指導要領に準拠して行われている教育活動である。

だから、学校のむこうを張って教育に対する情熱を持つならば、学校法人としての認可が受けられるような準備をすべきである。

歴史的に名のある私立学校は、そういう教育に情熱を持った人が設立した学校である。
本当に教育がやりたかったら、私立学校を作るべきなのである。
すぐにそういうことが実現できないとしても、一人二人の子どもを育てることから出発して、それを発展させ各種学校から学校への認可という過程もある。

本当に優れた指導者ならば、スポンサーがつくかも知れない。

教育の世界にプロはない

プロという言葉には二通りの意味がある。それは、その仕事で生計を立てているという意味と真に専門家という意味である。

後者の専門家であるというプロは、自分以外の第三者が認めるものであり、他人が、さすがと認めるだけの力を持った人のことである。

そういう意味では、自称プロは恥ずかしい限りである。

もし、自分が教育のプロと自称するからには、一通りの教育書は読破していなければならないし、自分の周りに教育書があるのは当然である。

弁護士事務所には、六法全書をはじめとし法律書が並んでいる。
自称プロと言いたいあなたの部屋には教育学事典はおいてあるか?

何らかの教育に携わっていて、その指導ぶりを他人が見て「さすがプロですね」と言ってもらえるのはとてもうれしいことではあるが、教育の仕事はやればやるほど、本当に児童生徒を伸ばすことができたか、自分が芽をつみ取ったのではないかと、後悔や反省の連続であり、そういう意味では、永久に教育のプロにはなれないと感じるのが本音ではないかと思うのである。

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2011年08月18日

近代教育の行き詰まり

kyoikumondo.jpg教育と言えば、本来、小原國芳によって唱えられた教育理念である全人教育のようなものを指すものと考える。

「のようなもの」というのは、全人教育という言葉の解釈をめぐっていろいろな意見があるようなので、ここでは断定を避けた。

小原國芳の全人教育とは

知識・技能教育に偏することなく、感性・徳性なども重視して、人間性を調和的、全面的に発達させることを目的とする教育。


と辞書には説明がある。

学校と塾は違う

少なくとも、今日盛んな学習塾や家庭教師による受験対策のための指導を教育と言わないことだけは確かだと思う。

あえて、狭い意味で言えば「受験教育」と言えないでもないかと思うのだが、それは教育と言うより、単なる指導の方がふさわしい気がする。

いずれにしても、高校や大学の門をくぐることだけに目的をおいた指導を、教育とか勉強と同一化することが混乱を招いているし、悲劇をも生んでいると思うのである。

通過儀礼としての高校、大学

今日、高校や大学を出なかったとしたら、どのくらい困るのだろう?
困るとすれば、高校や大学を卒業していないという学歴の問題だけではないだろうか?

一部の例外を除いて、高校や大学を出ていないからと言って生活できないということはないだろう。

kindaikyouiku.jpg昔は高校や大学を出ることで、明らかに能力に差が出た。
高卒は中卒とは違う能力を持っていたし、大卒は高卒とはまた違っていた。

違いというのは個人差があるので、その個人差をとらえて重箱のすみをつつく、いわゆる揚げ足取りには関知しない。

ここで言いたいのは、高等教育はそれなりに質の違いがあったが、今日では本来の高校教育ではついていけないために、小学校レベルまで学習内容を落としているということも少なくない。
大学においても、学力低下が問題になっている。

勉強に興味がわかないのも当然

単に入試の門を通過することだけにテクニックを労する、塾や家庭教師と学校は根本的に違いがあるのだが、ただ合格点を取ることだけに目的化している訓練を勉強だと勘違いさせていることで勉強嫌いの子どもを作っていると言える。

小学校で、円の面積を求める学習の場面では、円を細かく細分化し三角形の集合体として円の面積を求める方法を考えるのだが、ここにはすでに積分の概念が持ち込まれている。
積分という言葉こそ使わないが、積分の考え方を学ぶのである。

学校が重視しているのは「考え方」であり、考え方を重視するということは、過程を重視しているということである。

そもそも、学校は多量の知識を詰め込んで、それをはき出させる訓練をするところではない。
あることを学ぶことによって、それが別のことに応用できる力、つまり転移を期待して学習活動をするところなのである。

ところが、どういうわけか点取りだけの効率化を目指す塾のようなことをする教師も出てきて、その結果、記憶したことだけしかできない、答えられないという人間を育ててきたとも言える。

テストの点を上げることの効率化を目指すなら、実験をやめて問題集の問題を解く繰り返しをした方がよい。
しかし、そうすることで理科嫌いの子どもは増えるであろう。

教育は手間暇がかかるものである

今日、日本の作るロボットは世界的に見ても優秀と言われる。
特に、人型をしたロボットはかなりのものらしい。

このロボットを作った人たちは、昔、手塚治虫の鉄腕アトムを読んで、いつかアトムのようなロボットを考えた人たちが多いという。

人間には心を揺さぶるものが大切であり、偉人の伝記を読むと幼少時代、少年時代に心を動かされる体験をしたことが書かれている。

教育が全人教育(のようなもの、方向)を目指すのは、人間がより人間らしく自己実現をするために、

知識・技能教育に偏することなく、感性・徳性なども重視して、人間性を調和的、全面的に発達させることを目的とする教育。


を目指すことが、人類の幸福につながると考えるからである。

種明かしをすることが教育ではない

手品は手品である以上種がある。
人が手品を見て喜ぶのは、種を知るからではない。

いち早く種明かしをしてしまうのが、入試対策のためだけの塾や家庭教師である。
塾と言ってもピアノを教える塾は学習塾とは違う。

能率を考えて、その指導過程をパスすることはできない。
家庭教師も、現代では入試対策ためだけの指導者をイメージすることが多いと思うが、私が理想とする家庭教師とは、有名なミュージカル「サウンド オブ ミュージック」に出てくるマリアのような家庭教師である。

彼女こそ教育者であり、本来、家庭教師とはそうありたいものだ。

遅々として進まない教育改革

思春期以降の青春時代を、現行のつまらない受験競争に押し込めているのはもったいない。
ひたすら、記憶してそれを答案に書き写すだけというロボットにやらせればよいようなことを生身の人間に課している、日本の教育の現状は罪深いものがある。

それは、ひたすら文科省官僚の罪である。
どうも、官僚は機械的な訓練のテストによる序列が好きなようで、人間本来の可能性を閉じこめる政策を推し進めている。

ビル・ゲイツがマイクロソフト社を作ったのは19才の時である。
誰もがビル・ゲイツのようになることがいいとは言わない。
しかし、十代のエネルギーをもっと活躍させることのできるような教育政策に舵取りをしないと、日本は世界の舞台から取り残されていくような気がする。

もし、現在の点取りのみの受験対策から舵を切ったら、現代の学習塾は崩壊するだろうが。

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posted by edlwiss at 15:47 | Comment(10) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年08月17日

知事の独断専行ですか?



**********************************************************
※【独断専行】の意味については、下記の意味で使っています。
物事を独断で勝手に推し進めること。
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独断専行とは、本来「独断専行は臨機応変に近い意味」と説明している人もいますが、辞書には上記の意味とありますので、ここでは「物事を独断で勝手に推し進めること」の意味で使っています。

高橋はるみ知事は、知事としての権限を発揮されたのでしょうが、ご自身の身辺に原発関係で原発を推し進めることで、知事ご自身の利益に関係する人たちはいないでしょうね?

知事自身が原発の安全性を十分確認されたのでしょうか?
住民の納得は得られてのことでしょうか?

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posted by edlwiss at 17:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年08月14日

単純化はいいが、単純思考はダメ

kiminokanousei.jpgプロトタイプという言葉がある、これは何か製品を開発するときの試作品という意味である。
プログラミングではC言語の関数やサブルーチンの宣言の意味にも使われる。

試作品というと、私が思い浮かぶのは、ユニバーサル基盤に電子回路を配線することである。
実験的に製作してみて、果たして予想通りに動作するか検証してみるのである。

これで、期待通りの動作をすれば完成のメドが立つ。
その後は、効率を考えてできるだけムダを省くようにする。

ムダを省くと言うことは、性能を維持しつつも、できるだけ単純にするということである。
単純化のメリットは、部品が少なくなるだけでなく、故障率も少なくなる。

ここで、私が何を言いたいのかというと、隙のない思考というのは、全体像がわかっていてそれがなるべく多くの人に理解できる言葉になっているということである。

毎日、テレビやラジオで放送される天気予報は3分程度であっても、元は何時間分にも相当する資料を切りつめていったものだという。

教育を語るときも、全体像を把握し、一度プロトタイプを頭の中に作って、それをわかりやすく語るという姿勢が望ましいと思う。

やらないからできない

ピアノも練習しないから弾けるようにならない、これは当たり前だが、同様に勉強しないから成績も上がらない。

では、教師たる者、生徒に向かって、やらないからできないというだけで、教師としての意味があるだろうか?

何のための教師か

「ウチの娘は小学生の頃からピアノを始めたが、中学校の時、Tというピアノ教師に会ってからピタリとピアノをやめた」

という話を聞いたことがある。
詳しく聞いてみると、Tというピアノ教師に相当な嫌みを言われたらしい。
その言われ方が彼女の自尊心を傷つけたらしい。
教師なら生徒のやる気にどう影響を及ぼすのか考えることが必要だ。

誰それの弾くショパンを聴いてから「私もあのようにショパンが弾けるようになりたい」と感じたことが動機になって、ピアニストになった人もいる。

人間は機械ではない

機械は動かせば仕事をする。仕事をしないのは機械が動いていないからである。

人間は機械ではない。
感情に左右されるのである。

元プロ野球監督の野村氏は「野村再生工場」と言われた。

野村さんが監督になったことで、活躍するようになった選手がいるからだ。

中日を負われた山崎選手は、楽天に行ってからも不振にあえいでいた。
40才だからそろそろ野球人生も終わりかと思っていたらしい。
そんな時、野村監督から一言何か声をかけられた。

それから、山崎選手はよく打つようになり、ホームラン王を獲得した。
野村監督の一言が、山崎選手を復活させたのだ。
以後、山崎選手の表情も明るくなり、まだまだ現役で活躍できるという感じになった。

こういう野村監督のリーダーシップに、私は教師としてのお手本を感じる。

「できない子はやらないからだ」としか言えないようなヤツは子どもの前に立つな

「できない子はかわいそうではない、やらないからできないのだ」としか言えないようなヤツは子どもの指導をしようとするな。

なぜなら、そういう思考しかできない単純思考が子どものやる気をなくさせているからだ。

教師をやるからには、子どものやる気を喚起させる感動を与えられる者でなければならない。

一度も感動を与えてくれるような、大人に会ったことがない子どもは不幸だ。

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posted by edlwiss at 18:37 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年08月11日

ミスではなく、常識の問題



テロップが誤って出てしまったというミスの問題ではない。
仕事に携わっている人間の、人格の問題である。

見えないところだから何を言ってもいい、何を書いてもいいということにはならない。
民間放送であっても、放送は公器の性格は強い。

報道期間というのは、常識の基準でなければならないし、そこに勤める人も、常識はもとより教養人でなければならない。

テレビ局の堕落ぶりを露呈した事件である。

地デジ化はいいけど、見る番組がないと言われる訳がわかるような気がする。

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posted by edlwiss at 12:57 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年08月08日

Dropbox使っている人、使っていない人

Dropbox.jpgDropboxと名前を出したところで「何それ?」という人もいれば「知ってる、聞いたことがある」「使ってるよ」と人さまざまだろう。

私はここで、Dropboxの説明をしようとするのではない。
Dropboxというものを一つ例に出したところで、現在の情報戦争の中で、その人がどの程度の戦士であるかがわかるだろうと思ったということである。

現在、私は仕事を3つほど持っているが、従業員をおくほどの規模ではない。
しかし、もし人を雇うほどの余裕が出てきたら、間違いなくDropboxを使うように言うだろう。

いや、採用にあたって、面接で、すでに使っていますと答えが返ってきたらなおよい。
そこまでいかなくとも、私が使い方を教えたらそれを柔軟に受け入れることのできる人であってほしいと思う。
だから、どうせ仕事をするなら秘書でも雇えるぐらいにしたいものだと思ったりもする。
美人秘書ならなおよい(笑)

DropboxSite.jpg現在、多くのビジネスは情報戦争である。
企業は競争であるから、相手より一歩でも抜きんでたいと日夜考えている。
その代表的な企業としては保険会社が挙げられる。

私はファイナンシャルプランナーという資格をとってから、それまで無関心であった経済の分野に関心を持つようになった。
保険はファイナンシャルプランナーが扱う一つの分野でもある。

その保険というものを勉強していく時、私は「何か変」という感じを持った。
それは保険を商品と呼ぶ違和感であった。

商品というと、何か形のあるものという先入観があったからだ。
例えばスーパーで野菜や果物を買うとか、家電店でテレビを買うとかである。

ところが保険商品と言うが、実態はというと、買ったところで、契約書という紙が送られてくるだけだ。
家や土地を買えば、登記簿という書類が渡されるが、保険はただの紙切れだけだ。

つまり、保険は約束を売っているのであり、商品開発と言っても、実態は数学の世界である。
大数の法則がもとになっていて、統計と経済学に巧みな人材が開発をしている。

自動車や家電が部品を調達して組み立てている、いわゆるものづくりの世界と比べると、ずいぶん違う世界である。

DropboxGuide.jpgものを売っている世界とは営業の形も大いに異なる。
約束を売る保険会社では、情報を売っているとも言えるので、コンピュータの導入で営業が革命的に変わった。

私は保険会社で3年間修行したことがある。
3年間ではあるが、身分は一応正社員であった。
そこでは、親方日の丸ではないので、企業の最前線の厳しさを肌でかんじたことは、大変勉強になった。

ある日突然、会社が変わる

橋本内閣以前では、金融機関(銀行、保険会社)がつぶれるということはなかった。
それは護送船団と言って、大蔵省がすべての金融機関を保護していたからである。
護送船団の時代はかなりのんびりしていた。
大蔵省に守られて、絶対につぶれないという保証があったからだ。
だから、そのころは、はっきり言って素人でも銀行の頭取は務まった。

しかし、金融ビッグバンでそうも行かなくなってから、金融機関にはライバルが急に存在することになった。

私がある日、いつものように出勤すると、会社の中の景色が一変していた。
それは、全員の机の上にパソコンが置かれ、LANが構築されていたからだ。
社員は好むと好まざるにかかわらず、ITに飲み込まれたのである。

ここで私が言いたいのは、世の中には企業の最前線の影響を受ける人と受けない人がいるということである。

そして、その影響とはもっぱらIT化の波である。
IT化の影響度を受ける人たちを分類してみると。

(1)ITの蚊帳の外にいる人
・・・完全に仕事を引退した人、無関心な人。

(2)IT化の波に飲まれた人
・・・企業の従業員、企業と関係のある代理店

(3)ITを積極的に利用して、一歩先に抜きんでることを考えている人

ところで、学校は上記(1)(2)(3)のどこに属するのだろうか?

私がかつて勤めていた中学校では、1981年には成績処理、進路指導、生活指導、会計はパソコンを使って処理していた。
高校への提出書類をプリンターで打ち出した用紙で持って行くと、高校側で「おたくの学校ではこんな風にやっているのですか?」と言われたそうである。
そのころの印刷は、ドットインパクトプリンターというやつである。

私が言いたいのは、何も新しいことをやりたい、新しい物好きでIT化を取り入れるのではないということ、それは発想である。
そして、そういう波が来たから、それに従うという受動的な立場ではなく、新しい技術を見たとき、それが何に使えるかという創造性が大切であると言うことである。

日本は教育立国でなければならないと思うのだが、それは単に教育予算を増やせということだけではなく、学校の先生が新しい技術を能動的に使ってリードしていく態度が欲しいということである。

例えば、インターネットは現在、光の100Mが普通でもう少し先には1Gになり、さらに加速する。
そうすると、何が変わる、変えられるのかという想像力である。

それは、テレビ局とインターネットの区別がなくなるということを意味する。
さらに、それは誰でもテレビ局が開局できるということでもある。

そして、これからはほとんどの機械はLAN化が進むと思う。
それが何を意味するのか、想像できる人でありたいと思うのである。

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posted by edlwiss at 19:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報処理(IT)

2011年08月06日

2011年08月05日

再び、デジタル・デバイドを考えてみる

digitaldevide.jpgデジタル・デバイドの意味については2つある。

情報格差(じょうほうかくさ)とは、対象間における放送・通信の情報量に差があること。また、情報技術 (IT) を使いこなせる者と使いこなせない者の間に生じる格差のことを指す。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

ここでは、後者の「情報技術 (IT) を使いこなせる者と使いこなせない者の間に生じる格差のことを指す」の意味で用いる。

ITと言えば、パソコン、インターネットと言った言葉が浮かぶが、これらの名前が出てきただけで、拒否反応を示す人がいる。

使っても使わなくてもいいというのなら別だが、世の中は社会生活に必須のものになりつつある。
私は他人に対して、自分の好みを押しつけることは嫌いであるが、ITの進歩につれて、相手が好みを押しつけられていると考えても、メールぐらいは受信できるようにしてくださいと言いたい人がいる。

自分自身、メールをそんなに使うわけではないが、今の生活においては環境としては必要なものだと思う。

メールすら用意する気持ちのない人

もう隠居生活をしている人なら別だが、何らかのビジネスをやっている人なら、今時、メールぐらい使えなければ困るのだが

私:「メールを使えるようにしていただけませんか?」
相手:「・・・・」
私:「メールが使えたら、わざわざ出かけなくてもすむことがありますよ」
相手:「あ、ボク、人とと直接会わないとダメなんです」

と、メールなんてもので対人関係を保とうとするのは、間違っていますよと言いたいようだ。

先に結論を決めている

私はメールの良さについて説明するのはムダだと悟った。
メールを使うということで、相手と会うことの代用にするというつもりは毛頭ない。
人と対面して話をすることはとても大切だということは、当然のごとく感じている。

メールは世界中の人と通信できる。
アメリカへ行こうと思っても、スーパーへ買い物に行くごとく気楽にできるものでもない。
そんなとき、メールは便利だ。

人と対面したあと「本日はありがとうございました」とメールを送っておけば、なおいいと感じることもあるだろう。
あるいは、言い忘れたことを伝えたり、文字として相手に伝えた方がいいこともある。

メールが使えると、より人間関係、ビジネスの効率化に役立つということなど、長所を説明しようとすればたくさんある。

しかし、ここで相手との論争に勝ったとしても意味がない。
なぜなら、いい悪いに関係なくやらないという結論を先に決めているからである。

やらなくてもいい理由を探す

世の中が合理化していくということは、機械が増えていくことでもある。
機械だけでなく、ソフトウエア、つまりプログラムで代行していくことが増えるとも言える。

そうすると、機械の使い方、ソフトウエアの使い方に人間の方が合わせなければならないことになる。
人が使われると言ってもよいかもしれない。
学ぶことがめんどうと感じる人、自尊心の強い人にとってはやっかいな時代かも知れない。

パソコンが世の中に出始めのころ「やり方を強制する」と不満を漏らしていた大学の先生がいた。
大学の先生が集まる会議は、なかなかまとまった結論が出ないと聞く。
オレは一国一城の主だという、自尊心の強い人が多いのかも知れない。

いや、小中高の先生も気をつけなければいけない。
先生をやっていると、ついつい自分が法律になってしまいやすいということもある。
これは、相手に合わせるということをなくしていると言えるだろう。

始めから結論を決めている人は、反論のために「やらなくても理由」や「欠点」を探す。
こういう人をやりこめたところで、何の利益もないと悟るべきだろう。

知らないものを説明する不思議な心理

メールを勧めても、否定的なことを言うのは変である。
それは、メール自体がどんなものか知らないからである。
もちろん、メールを使ったことがあって、その経験に基づいて欠点を言うのなら話は別だ。

こう考えてくると、メールだけでなく、知らないものをああだこうだと説明する不思議な人は、意外にいると気がつく。

食べたことがないのに、美味いとかまずいとか言うようなものだ。

デジタル・デバイドは心の問題

ITになじめないデジタル・デバイドの問題は、先進国の深刻な問題になりつつある。
パソコンなどの通信機器が買えないという人たちには、国から支援するという方法もあるが、デジタル・デバイドの最も大きな問題は「使いたくない」とか「やり方を強制されたくない」とか「今さら新しいことを学びたくない」という心の問題だと思う。

周りが迷惑をする

自分の主義のように、メール環境を拒否する人は、その人を取り巻くビジネスに携わる人たちに迷惑をかけているということに気づかない。
年をとると、なかなか意見を親身になって言ってくれる人は少なくなる。
あえてトラブルの元、気まずくなる原因を作りたくないと考えるからだ。

「あの人、メールを持っていないのか、やっかいだなあ」

と思われていることに気づかない。

「メールさえ使えれば、エクセルのデータを送ってもらうだけなのに」

と思われていることを知らない。

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posted by edlwiss at 18:34 | Comment(2) | TrackBack(0) | 情報処理(IT)

2011年08月04日

放射能汚染 除去の課題



原発事故が他の事故と大きく違うところは、放射能汚染という被害をもたらすことである。

このことは誰もが知っていることであるが、原発推進派とみられる人たちは、なぜか、事故ということで交通事故、あるいは隕石の衝突などと同列にして語りたいようだ。

今もなお、原発の事故処理に手間取っているが、この先、放射能汚染の除去や賠償問題も含めると、数百兆円の資金が必要と言われる。

これで、原発が安い電気エネルギーの供給元になれると言うのだろうか?
また、それだけの巨費を投じたとしても、この先何十年、何百年と問題は残るらしい。

私は偏った考えを持つことが嫌いである。
だから、原発推進派、原発反対派の意見を幸平に聞きたいと思っている。

そのためには、情報公開をしっかりやってほしいと思う。

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2011年08月01日

放射能の心配はまったくありません

というのは稲 恭宏(いな やすひろ)氏。

稲 恭宏(いな やすひろ、1967年(昭和42年) - )は日本の医学者、医学博士(東京大学)。病因・病理学、免疫学者 で、低線量率放射線療法を世界で初めて発見確立し 、福島原発事故における誤った放射線線量率パニックを科学的に批判 、エネルギー安全保障を確保した上での安定的脱原発、世界中のすべての放射性廃棄物の平和的安全処理を強く訴えている。その一方で、恒久的世界平和を維持しながらの核廃絶・核兵器開発の即時中止・核実験の全面禁止・広島や長崎の原爆被爆者や全世界の核実験被爆者への手厚い支援などに努力を続けるなど、平和運動家としての一面もある。
フリー百科事典「ウィキペディア」より



要するに、この先生の言うには、生活は原発事故前の生活で何ら差し支えないということである。
だったら、世の中は何で大騒ぎしているのかと言うことになる。
住民は住み慣れた自宅を離れる必要もなかったわけである。

それなら、国会で証人として発言してもらいたいと思う。
また、この先生は、別なところでは「少量の放射線は体によい」とまで言っている。

その一方では、次のような番組もある。
これをみると、稲恭宏先生の話とは相容れない。

稲恭宏先生にはこの番組に出ていただいて、辛坊 治郎氏と対談してもらいたいものだ。





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posted by edlwiss at 20:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

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