2011年09月30日

過去の事件で冤罪の疑いのあるものはどうする?




厚生労働相、村木さんの冤罪事件に端を発した検察改革。
もし、村木さんの事件が発覚しなかったらどうなっていたのだろう。

「日本は検事が裁判をやっている」と外国からはずいぶん前から言われていた。

だから、今さらという感じがしないでもない。

しかし、今までの事件で冤罪の疑いの濃いものはそのままなのか?
もう過ぎてしまったことは、どうでもいい?

運が悪いで済むのか?

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2011年09月29日

教育は数字がすべてではない


こんなにわかりきったことが、理解できない人がいるんですね。

世の中にはいろいろな人がいますから、普通の人が理解できることを理解できない人もいるのでしょうね。。

それは仕方がないのかもしれません。

でも、そんな基本的なことが理解できないひとが、教育の仕事に携わることだけはないように願っています。

下のグラフは前回の記事で紹介した、2006年臨床教育研究所「虹」によるものです。

親の願いは学力よりも「心」というのがよくわかります。

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今、若者の就職難と言われていますが、偏差値の高い大学の就職率がよいとは限りません。

大学通信によれば、2011年、大学就職率ランキングベスト40は右の表の通り。best40.jpg

また、PRESIDENT (プレジデント) 2011年 10/17号 [雑誌]によれば就職異変と題して、偏差値50以下有名企業が欲しがる15校という特集ページがある。

ここで、また、武田邦彦教授の言葉を借りよう。

私は大学院の講義をしていた。教室の中程にいた学生の私語がとまらない。一度、注意をしたが、それでも5分もするとまた私語を始める。「教室の中で私語して、何が悪い」という態度だった。

私はその学生のところに行くと、机の上に論文が置いてある。その論文は英語のもので、内容的にもかなり高度なものだった。

私は言った。

「君は大学教育を終わった大学院の学生だ。しかも、そこにおいてあるように難しい英語の論文を読むことができるほどの学力がある。でも、講義中に注意されても私語を続ける。

人間として大切なのは、第一に人のことを思うことだ。そして難しい論文を読むことができる力があれば、なおさら態度も立派でなければならない。

先生が一所懸命、講義をしているときに、大きな声で私語をするようなことでは、君はまだ教育を受けていないのだろう。だから、教室を出なさい。もう一度、中学校ぐらいからやり直すのだ。」


といって、教室から出した。

現代の教育は荒れている。教師は教育基本法に従って、生徒や学生を指導する勇気も持つことができず、また実施もできない。私語を注意しようとしてもなかなかむつかしいし、講義中に飲食することすら止められない。もちろん、「個性を明らかに越える服装」などはまったく注意できない。

それは、「教育基本法は学校の規則より上位にある」ということになっていないからだ。私語に対する私の措置も、学則に書いてあるかは微妙だ。「学生は教室の中で私語をしたら、教育を受けることができない場合がある」という規定が無いかも知れない。

だから、私の措置は「学則にないことをした」という点では「不適切」であると言える。でも、学則の上には教育基本法があるのだ。それを乱用してはいけないが、それを怖れて教育基本法を無視するのは良くない。

今回の事件をキッカケにして、「人格の形成に著しく阻害要因になることについては、規則に記載されていなくても教育的指導ができる」という原則をたてた方が良いと私は思う。

そして、もし私が教室内の私語を注意しても止めない学生を放置すると、「人が話していても、自分のしたいことをしてもよい」ということを認めることになるからだ。

日本人は礼儀正しく、誠実であって欲しい。「規則に明記していない」という理由で行為の判断をするのは、全体を見ることができない契約社会の悪弊である。

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この武田教授が注意したような学生を、企業は採用するだろうか?

いくら、頭脳は優秀でも性格が悪い、常識がないでは採用しても困るだろう。

入社テストが筆記で行われても面接がある。

会社によっては筆記テストを行わないところもあるが、面接をしないというところはない。

偏差値が50以下でも企業が欲しがる大学というのは、学力だけでなく人間として信頼のおける学生を送り出していて、企業から信頼もあるのだろう。

私はかつて高校生の就職の面倒をみたことがあるが、それは某企業の専務と私の人脈の関係でできたことである。

そう、人が社会に出るには人脈も大切なのだ。

その人脈も、専務と私との信頼関係でできたものである。

紹介した私としても、果たしてしっかり仕事をしてくれるかという不安はあった。

しかし、紹介してもよいと思ったのは、その高校生は吹奏楽部に所属していて、どういう性格の生徒か、私自身がよくわかっていたからである。

目立たないが、練習をサボるということはなく、まじめな女子生徒であった。

数年経って、彼女の働きぶりを専務に聞くと「会社にはなくてはならない人だ」と言うことだった。

近年、塾通いが盛んだと言うが、統計でもわかるように、親はテストができるようになるということを第一義に思っていない。

では、どういう理由で塾通いをするのかという動機を知る必要がある。

これについては、まとまった資料がないので、全体像が見えないが、私の地域の様子から判断すると、まず、中学から高校への進学では、生徒も親も公立高校への進学を希望するのが圧倒的に多い。

それは、レベルの高い高校がほとんど公立ということもあるが、それ以上に学費の負担が違うという理由が大きいと思う。

だから、公立を第一希望にし第二希望に私立というのがほとんどである。

保護者と話をすると「公立へ行って欲しい」という声がほとんどで、もし私立になった場合のために、入学金を貯金しておくというのが普通のようだ。

だから、公立へ合格したのでお祝いとして、楽器を買ってやったという声も聞く。

中学校も高校も部活動が盛んで、熱心に活動していると塾へ行く暇はないように思われる。

ということは、部活動をやっていない生徒、やっていても塾へ行く時間のある部活ということになる。

ネットで見ると、塾経営者や家庭教師の中に公立学校の悪口を言う人がいるが、私の地域ではそういう人を知らない。

私は、かなり幅広く塾をやっている(今、16教室)経営者を知っているが、公立学校の悪口は絶対に言わない。

それは、塾は学校の補完であるという役目を認識しているからだ。

学校の悪口を言えば、学校の情報は入らなくなるし、場合によっては「あの塾へは行くな」と言われかねない。
学校の悪口を言う人は、悪口を言うことによって、塾に生徒が集まるとでも思っているのだろうか?

最近読んでいて、おもしろいと思った本がある。

吉松隆の楽勝!クラシック音楽講座という本で
「エデュケーション(education)というのはそのまま訳せば<教育>なんだけど、最近では芸術団体などが行う子どもや一般の人たち向けのワークショップや講習会などのプログラムのことをそう呼ぶらしいね」・・・つまるところ教育の原点は、子どもにまず「あ、面白そう」と思わせることなのだ。それさえあれば、あとは知識欲と好奇心とがまるで吸い取り紙のように何もかもを吸収し始める。練習は楽じゃないけど「それでも面白い」、いろいろな困難はあるけど「それでも面白い」。そういう「生涯を賭けられる面白さ」に出会えたら、人生でこれほど幸福なことはない。それは何ものにも替えがたい貴重な一生の宝になるからだ。


というところだ。

そう言えば、私が中学校の吹奏楽部の指導をしていた時、入部してきた生徒たちはほとんど音楽に夢中になった。

そのせいだろうと思うが、楽譜を読むことなんか、どの生徒も平気でできるようになる。

大人と話す時

「ほう、音楽をやってみえるんですか?・・・私はあの楽譜というやつが読めなくてね」

という人に、よく会う。

そりゃあ、楽譜だけ見せられて、これを覚えなさいと言われたら、それは苦痛以外の何ものでもないたろう。

しかし、吹奏楽部に入ってしばらくすると「えっ、あの子信じられない。何であんなに楽譜がわかるの?」との声を聞くこともしばしばだ。

教育原点は、子どもにまず「あ、面白そう」と思わせることなのだ。それさえあれば、あとは知識欲と好奇心とがまるで吸い取り紙のように何もかもを吸収し始める。

ここは真実を語っていると思った。

親も、企業も円満な人格を求めています。

勉強は子どもが「面白い」と感じたら、それで半分以上は成功だと思います。

それには、塾の先生も人格者で、自身が勉強の面白さを知っている必要があると思います。

質門をするだけで怒る人、私が言ってもいないことを捏造する人、公立学校のアラさがしをする人、そういう人格では子どもを惹きつけることはできないのではと思います。

数字ではない部分も大切にしてください。


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2011年09月27日

教師格差 「ダメ教師はなぜ増えるのか」


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「教師格差」とは教育評論家・尾木直樹 氏の著書である。

尾木直樹氏の略歴は以下の通り。
滋賀県伊吹町(現米原市)出身。高松市立高松第一高等学校、早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)卒業後、私立海城高校の教員、練馬区立石神井中学校教員等を歴任。東京大学教育学部非常勤講師等を経て法政大学キャリアデザイン学部教授、早稲田大学大学院教育学研究科客員教授。大学では「臨床教育相談論」「キャリアガイダンス論」等(法政大学)の講義を担当している。

教育現場で20年を超えるキャリアを持つ。元日本教師教育学会常任理事、日本精神保健社会学会理事。184冊の教育関連著作を執筆。生徒へ発行した学級通信類は4000号を超える。教育関連の執筆・講演・インタビュー取材多数。引きこもり・いじめ等の人数調査を日本で初めて行った人物でもある。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

ネットサーフィンしてみると、学校の教師の悪口が好きな人がいるようだ。
そういう人からみると、この著書のタイトルは喜ぶべきものかも知れない。

どんなことがらでも「批判」はいいと思う。しかし、私はあえて「悪口」と「批判」は区別する。
悪口とは別の言い方では「誹謗中傷」である。誹謗は「悪く言う」ことであり、中傷は「根拠のない悪口を言い。他人の名誉を傷つけること」であり、法律的には名誉毀損罪に相当する可能性もある。

それに対して「批判」は「物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと」であり、意見は批判に耐えることにより、より説得力のあるものとなる。

だから、私は批判は大いに歓迎という立場である。

ということで、誹謗中傷、つまり悪口というのはなんとも品位を欠く行為で、人間性の低い人のやることと思う。

ヒトラー型人間

ヒトラーは、プロの画家になれなかったがため、権力を握ってからは芸術的には価値のない駄作を描く絵かきばかり擁護して、真の芸術家をひどく弾圧した。
これにはヒトラーの強いコンプレックスが働いていたように思う。

このようなヒトラー型の性格を有する人間はいるもので、以前、そういう人、M氏のことを話したことがある。
M氏はプロのミュージシャンに憧れていた。
しかし、その才能がないと自身が認めざるを得ないと感じた時、まるで転びバテレンのように裏社会から工作して、権力を利用して自分がボスとして君臨しようとした。
やがて、それなりに資金調達に成功し、他人の権力を利用して人の上に立つことに成功した。

プロの優れたミュージシャンの悪口を言い、自分に尻尾を振ってくる人間を贔屓した。
プロでも尻尾を振ってくる者に対しては優遇したので、それで、うまく儲けていたプロミュージシャンもいた。
彼が一番恐れていたのは、彼の地位を脅かしそうな人間だった。
優れた腕を持っているのに、そういう彼のコンプレックスのために、徹底的にいじめられたかわいそうな人もいた。

こういうことを思い出したのは、同じように、学校の教師になれなかったがために、そのコンプレックスから、ことさら教師の犯罪などをほじくり返し、あたかも学校では教師が日常茶飯事、性犯罪を行っているかのように錯覚させようとしているかのようである。
それが、学習塾の講師や家庭教師であるなら、逆に自ら品位を落としているようなものである。
逆に、立派な学習塾講師や家庭教師の敵である。

塾講師や家庭教師の本音は?

教育の仕事がしたいと思う者が、自分の職業として塾講師や家庭教師を第一志望にするとは考えがたいのだが、どうだろう?

なぜなら、ここで尾木直樹氏の「教師格差」から引用させていただくと

授業の上手い下手について、学校の教師と塾の講師はよく比較されます。しかし、この両者を比較すること自体がナンセンスである気がします。
その理由の一つは、塾の講師というのは"講義をするエキスパート"だという点にあります。塾の講師は、決められた時間内に効率よく教えることを目的としており、受験勉強や補習を指導することに特化された職業と言えます。
そのためのエキスパート、すなわち専門家なのですから、効率よく生徒に受験学力をつけさせることについては、そもそも学校の教師よりすぐれていることを前提に成り立っている職業だといえるでしょう。親もそこに期待して高い費用を払っているのであって、学校と同じだと誰も考えていません。
また、抗議に特化した仕事だから「講師」といわれるのであり、一般に塾の講師は「教員」や「講師」とは呼ばれません。講師自身も自分のことを「○×塾で教師をしています」などとは言いません。教師ではないことをはっきり自覚しているからです。
一方、学校の教師は、授業をすることのみ特化した職業ではありません。授業に限らず。生活面なども含めた生徒指導はもちろん、運動会などの行事や部活動の仕事も積極的にするなど、様々な領域で子どもたちと接して、子どもの全体的な成長に責任を負っていきます。
ですから、そうした授業以外の行事や活動は子どもの人としての成長に果たす教育的役割と子ども自身の学校生活の充実にとって、重要なポジションを占めているものばかりです。
たとえば、中学校の生徒が何を楽しみに学校に来るかといえば、部活動を挙げる声が圧倒的に多くなります。全国の中学校の入部者は八〇パーセントを超えています。そのため、生徒にとっては、部活が楽しければ学校に行くことも楽しくなるといったケースが珍しくはないのです。


とあるように、塾や家庭教師の行う受験指導と学校の教育活動には大きな違いがあるからです。
だから、教育の仕事に就きたいと思ったら、学校の教師になるべきでしょう。

私の知る限りでは、教師志望で採用試験を受けたが不合格で、初任者研修の補助教員をするか、その口がない場合は学習塾の講師や家庭教師をするというのがほとんどです。

統計でみると、学習塾の講師の平均勤続年数は6.8年と、職業としてはかなり短いです。
これは、学習塾の講師になったものの、一生の仕事としようとする人は少ないとみるべきではないでしょうか。
収入の面からみても、平均年齢33.9歳で372万円(平成22年)は、公立・小中学校教員の742万円と比べると約半分です。

学習塾の講師や家庭教師は大学生のアルバイトとしてはよい方かも知れませんが、正業とするには収入の面からは恵まれているとは言えません。

私の知っている人で、教員採用試験に7年かけて合格した人がいます。
7年かかってもあきらめなかったというのは大したものだと思いますが、何度もチャレンジしたが挫折してしまったという人もいると思います。

もし、その挫折が原因で、現役の教師を悪く言うのはみっともないことで、そういう心こそ教育者としてはふさわしくないと思います。

一度、教員になったものの、自分には合わないとして辞めて学習塾の経営をした人も知っています。
それはそれで立派だと思いますが、教員の経験もなく、外から見た想像だけで教師の不祥事だけとりあげて、それがあたかも現状、実態のように言うのはいかがなものでしょうか?

だから、私は教員志望の挫折者の中に、ヒトラー型の人がいるのではないかと思うのです。
自分の力量を認めず、自己顕示欲ばかり強いのはみっともない感じがします。
力量がないと感じるのは「教育論」と題して、論じてみたものの、吹き出物に絆創膏を貼って治すがごとくの意見しか言えないのは情けない限りです。
教育論を語るにしては、あまりにも本を読んでいない、実践もないということがみえみえです。

私は次の、釈迦の言葉を思い出しました。

世間では、自らを賢者であると自負している者が多い。しかし、愚か者であるのにそれに気づかず、自らを賢者であると思いこんでいる。その者こそが愚か者である。お前は自分が愚か者であるということに気づいている。だから、お前は愚か者ではないのだ。


これを読むと、他人を二流、三流と呼ぶのは、自分が二流、三流であり、自分を二流、三流と自覚する者は一流であるということになります。

親の希望する教師像

親が教師に希望するのは、尾木直樹氏の言葉を借りれば

「親が最も教師に期待するのは、子どもの心が理解でき、子どもたちとのコミュニケーションがしっかりとれる感性を持っている人」

です。

そして、親が我が子の成長に対して願うことは

1.人の心の痛みや辛さがわかる人になってほしい
2.健康な体と体力をつけてほしい
3.自立心を身につけてほしい
4.モラルを身につけてほしい
5.何ごとにも粘り強く努力する子になってほしい
6.多くの友人に恵まれてほしい
7.学力を身につけてほしい


が順位であり、学力はなんと7位(8.6%)です。
(2006臨床教育研究所)

本当に教育をやりたいなら教師を目指すべき

本当に教育に情熱を持つならば、粘り強く教員の道を目指してもらいたいと思います。

現役の教師に嫉妬し、粗探しをするのはみっともないです。
むしろ、受験の専門家として学校との連携を考えるほうが立派です。

現代の学校は疲弊しています。
その理由は、尾木直樹氏の「教育格差」・・・ダメ教師はなぜ増えるのかを読んでみてください。これが、学校の現状です。

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2011年09月24日

何のために塾へ行くのか?


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ある塾の経営者は、学校の先生は勉強のプロだが、受験のプロではないと言っていました。
確かにそう言えるのかも知れません。

学校の起源とは、江戸時代の寺子屋に遡るのでしょうか、商人が読み書きそろばんを習いたいというところから始まったと言われています。
時代の要求がそうさせたわけです。

では、現代はどうでしょうか。
現代の教育の目的は国が定める教育基本法にある。

人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。(教育基本法第一条)

しかし、塾通いはこの目的のために行くのだろうか?
ほとんどそうではないと思う。

学校教育は教育基本法の目的達成のために様々なカリキュラムを作成し、実施されているのである。
ところが、いつしか学校は進学のための予備校化してきている面があるし、学校の中の先生もそれが当たり前のように思っている人がいないだろうか?

昔は高校進学者すら少なかった時代がある。
それが、進学希望者の増加で、学校は課外として進学者のためのサービスを行うようになった。具体的には補習授業という名のもとに行われた。

つまり、進学対策は課外だったのだ。

学校は受験サービスのために評価を行っているのではない

学校のカリキュラムは、あくまでも教育基本法の目的を遂行するために作られ実行される。
高校が中学生を受け入れる受験のための資料として、中学校は生徒を評価をするのではない。

この度改定された絶対評価も、教育基本法の趣旨に基づいて改定されたと考えるべきである。

ここで、中部大学教授・武田邦彦 氏の「教育の目的」の文章を紹介させていただく(引用はご自由にどうぞとある)。

2008年10月29日、複数のメディアが神奈川県のある高等学校の「不祥事」を伝えた。
「・・・平塚市の神田高校はここ数年の入学試験で、成績順位は合格圏に入っていたのに、願書受け付け時の服装、態度などが悪いことを理由に選考基準に入っていない理由で22人を不合格にしていた・・・」
これに対して、校長先生が
「先生方の生徒指導の負担軽減とまじめな子をとっていきたいという思いだけだった。大変申し訳なく思っている」
と陳謝した。
そして、神奈川県の教育委員会は、「受験者、保護者の希望があれば入学させることも検討する。」とコメントした。
この問題は教育の基本にかかわることであり、基準に書かれていないことで選抜した高等学校側も「小さな」問題はあるが、「大きな視点」からは正しいと考えられる。
・・・・・・
教育はなんのために行われるのだろうか?
「教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値を尊び,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」
(少し前の教育基本法第一条)
これは(少し前の)教育基本法第一条である。つまり教育問題を論じるときに、まず第一に意識しなければならないし、私たちが教育に当たるとき、または講義に行くために教授室を出るときに、いつも心の中で唱えなければならない文章である。
教育の第一義的な目的は、「学力や知識」ではない。理科や社会がわからなくても、英語ができなくても、「成績のよい子」というのは「真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身共に健康な国民の育成」である。学校の成績はこの順番に採点しなければならない。
成績の付け方が間違っている。


武田氏は高校側の判断が正しいと言っている。
それは、教育基本法の趣旨に照らし合わせたら、服装、態度などが悪いということは「人格の感性を目指し」に反するというわけだ。

いくら学科の点数がよいからと言っても、人格的に劣る者、平和な国家の形成者として、真理と正義を愛しない者、個人の価値を尊ばない者、勤労の精神を尊ばない者、自主的精神のない者、心身ともに健康でない者が、取り立てられるような社会では国家が破滅する。

(私は大震災の救済が遅々として進まないのは、行政に携わる人たちが、上に挙げた教育基本法の精神に欠けるからではないかと思っている)

学校教育が大切にしているもの

人はこの世に生を受け、生きていくということは問題解決の連続に対処していくということである。
syouraitekikekka.jpgそれは、自分の前に立ちふさがる困難に対して、自力で解決できる能力を高めていかなければならないということである。

そのために、学校は児童生徒たちに、様々な課題を課すことで解決能力を高める練習をしていると言ってよいと思う。

それは、答えを出すこと、正解であることより、そこに到達するまでどう取り組んだかという過程が最も大切ということである。

そういう意味では、今回の絶対評価に舵を切ったということは、理解できる。
(これを「愚民政策と言う人もいるが、私はそうは思わない)

私は、ある統一した基準で評価することをすべて否定するものではない。
例えば、自動車の運転免許証を与える場合、個人としてよく頑張ったからということで合格にすることは問題がある。

しかし、義務教育であるからこそ、個人の立場に立って、個人として頑張ったことを評価することは意味があると思う。
もし、それは甘いと考える人がいたら、人間の心理がわかっていない人だろうと思う。

実際、ある(超)一流企業では、営業に対して成績が悪かったからといって叱ったりはしない。むしろよい点をほめることで、営業成績を上げている。
これは、教育心理学にも合致していることである。

子どもに対しても、私の経験では一人一人に焦点を当てて、その子どもとしての頑張りをほめてやった方が、意欲的になり成果も上がるし、決して低いランクでもよいとは考えない。
そういう意味では、子どもを信用できない指導者は、いつまで経っても指導のツボが掴めないような気がする。

学校の授業はなぜ一斉指導が中心なのか

塾では個別指導が流行りのようだが、学校は依然として一斉指導(授業)が中心である。

ウィネトカプランで有名なウォッシュバーンは、子ども一人一人の、つまり個別指導を考え、それはそれで大きな成果を収めた。
ウィネトカプランはプログラム学習として世に知られるようになったが、私もプログラム学習で学んだ分野があり、優れた方法であることを実感した。

しかし、そんなに優れたプログラム学習が、なぜ学校では採用されないのだろうか?
それは社会性の欠如である。

一斉指導では、一人の発言が大勢の者に影響を与える。教師の発言によって、それが大勢のものを通じて深まったり、他人の考え方がわかったり社会的交流がある。

全く発言をしなかった者にも影響を与える。

子どもは家庭に帰れば個人だが、学校に行くと大勢の中の一員となる。
集団の中で、社会的な基準を身につけたり、みんなである目標に向かうことで協力するということを身につける。

学校は子どもが社会に飛び立つ前の訓練の場所とも言える。
昔は集団就職と言って、中卒で多くの者がすぐ社会に出た。
そういう時、学校の成績云々ではなく、学校のカリキュラムの中で様々な経験をし、揉まれたことが役だっていったのだ。

教育は息の長いものである

学校教育の評価はいつ、どこでされるものなのだろうか?
教育の目的が理解できたのなら、それは中間テストや期末テスト、高校入試が評価であるという答えは返ってこないはずである。

何年か前、中学校の教え子が同窓会を開いてくれたことがあった。
彼らの学年は非常に荒れた時であった。
私はその時の、いわゆる番長を担任したことがある。

あの独特の髪型をし、長い上着を着ていた。
何人かで徒党を組み、悪いことしたい放題だった。
いちいち書かないが、そのすじの悪いことはみなやったと言えば、大抵の人にはわかるだろう。
テスト週間はゲームセンターに行ったり、バイクを乗り回したりで、登校は10時過ぎで、腹が減れば給食の準備してあるもののつまみ食いで、よく給食が足りないということがあった。

頻繁に警察にもお世話になったというか、警察の少年課は彼らにナメられていた格好だった。

番長の通知表には全部1が並んでいたが、私が悲しく思ったのは、入学してから、彼の進路希望が次第にしぼんでいたことだった。
高校にはとても行けないと思っていたが、それでも最後の進路希望には定時制と書かれてあった。
彼はその定時制へ行くこともなく卒業して行った。

だが、先生たちは学校がやるべきことは誠心誠意やっていた。
でも、彼らには何も通じないようで、虚しい時の流れを感じていた。
夜の2時過ぎまで職員会をやっていたこともあった。

その、番長の彼は同窓会の時は、会社の社長になってたいた。
写真入りの立派な名簿ができていたが、後ろの方の広告欄を見ると、彼の会社の広告が載っていた。
そして、同窓会を開くにあたっての役員の一人になっていた。

彼にとって、中学校は何だったのだろう。

私が思うには、彼が荒れ狂っている中にも、先生たちが心を尽くしてやっていたことが、表にはでないが彼の心に刻まれていたのだと思う。
彼の心に刻まれたものが、時を経て熟成し、それが彼を社長にしたのだと思う。

本当に思い出に残る同窓会であった。

教育とは息の長いものであると思うようになった。

sokkou_chikou.jpgそれは、植物を育てる時、すぐに必要な即効性の肥料と、ずっと後で効いてくる遅効性の肥料が必要だというイメージに似ているのではないか。

受験対策は課外である

私は学習塾や家庭教師を否定するものではない。
しかし、まじめに塾や家庭教師をする気があるなら、学校教育とは何かを理解し、受験対策、テストの点数アップの対策は教育の本質ではないことを理解してやってほしいと思うのである。

現行の制度下の子どもが生きていくには、点取り虫にならざるを得ない面がある。
学校の教師は点取り虫のプロではないのである。
いや、点取り虫のプロにはなれないのである。
しかし、点取り虫が必要な世の中だから、学校外で点取り虫のプロを必要としていることを忘れないで欲しいと思うのである。

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2011年09月20日

学力って何ですか?

gakuryokuteikaronsou.jpg私はこれまでに、学力を論じる時、デジタル大辞泉を参照し「学習して得た知識と能力。特に、学校教育を通して身につけた能力」との説明を見てきましたが、未だしっくりしない感じを持っています。

それで、第一法規の教育学大事典で調べてみました。すると、

学力の概念は、一義的に規定されうるような教育学的コンセンサスを確立していない。・・・学力の一般的概念規定としては「学習によって獲得された能力」「生徒の学業成績としてあらわされる個人および集団の能力」などと定義されている。しかし、これらの定義は形式的・操作的な定義であって、学力の内実を教育目的・教育方法・教育方法とのかかわりあいにおいて具体的・実践的に明らかにしているとはいいがたい。

とある。
その後、かなりの字数によって論じられている。

私が一番問題にしたいのは、学力ということを問題にし、学力テストと称するテストによって測っていることの価値がどのくらいあるのかということである。

今、学力テストの名において、成績の良いことが人間の何を表していることになるのかということである。

もっと具体的に言うならば、学力テストの成績がよかった子どもが、その後社会に出てどのような活動しているのかという相関はどうなっているのかということである。

学力テストはペーパーテストである。
その問題の妥当性はどれほど吟味されたことがあるのだろうか?
そして、何のためにそういう学力テストをしているのだろうか?

このことは、学校教育の成果が、学力テストと称されるペーパーテストで測れるのかという疑問を生み出す。

私が懸念するのは、学力テストという現行のペーパーテストそのものに何の疑問を持たず、学力テストの点数のみを重視し、過熱し、意味のない競争に発展しないかということである。

gakuryokukateide.jpg
それは、テストの結果のよくなかった地域が、点数を上げたいがために、教育を理解しないまま学校や教師に圧力をかけ、その結果、受験戦争のような状態を作り、学力テスト実施のたびに一喜一憂することである。

大切な活動がおろそかにされ、教師は学力対策に日夜追われ、どんな価値があるのか定かでないテストの結果を上げることのできる教師がよい教師と言われるようになったら、逆に子どもの学ぶ意欲を減退させるようになるのではないか。

一体どんな価値があるのか、まともに吟味されたことのないテストに躍起になるのは、それこそ、誰かの言う素人の世界であろう。

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2011年09月19日

我流を教える罪

speaker_box.jpg私は小学生の頃から電気工作が好きで、中学生の頃になるとアンプ作りに夢中になりました。
音楽が好きだったことと相まって、次第に良い音を求めるようになりました。

スピーカーはきちんとした箱に入れなければ、良い音がしないとなんとなく理解し、箱にも関心を持つようになりました。

始めは、スピーカーから出た音が箱に伝わって、よく響くようになり、それで良い音になると思っていました。
同様な趣味を持つ仲間もそのように感じていたと思います。

だから「・・・・のようにしなければ、ここで音が止まってしまう」なんて言葉を、先輩が言っていたような気がします。

しかし、ある時、オーディオ専門誌を読んだらそれは間違いだったことがわかりました。
スピーカーの箱は共振しないのが理想であることがわかったのです。

私はそれ以来、調べることの大切さを感じました。
そう言えば、電流だって、当初、回路を流れる電流は一定であるとは思っていませんでした。
電線の細い部分には少し、太い部分にはたくさん、同様に抵抗の大きい部分には少しで、少ないところにはたくさんと思っていました。

先入観やイメージとは理論が一致しないことがあるとわかり、きちんと学ぶことの大切さを感じました。

自分の勝手な思いだけでことを処することは、いわゆる我流になる恐れがあり、特に子どもを教える先生は気をつけなければなりません。

実際、高校へ教えに行くと、間違ったことを教わってくる生徒がいます。
間違ったことを身につけてしまうと、これを直すのは大変です。
知識なら訂正するだけで済むとも考えられますが、それも、誤った考えが持続していたということを考えると、その期間は何だったのだということになります。

身についたことは、俗に「体が覚えている」と言うように、これを直すには習った時間、あるいはそれ以上の時間がかかります。

これから新しく習う人より、これまで身につけたことを壊すという余計な時間や努力が必要になってしまいます。

garyudassyutu.jpgそういう意味では、先生を選ぶということは大切と言えます。
お金まで出して、間違ったことを教わり、間違ったことを身につけてしまったのでは笑い話にもなりません。

医師の場合は免許が必要ですから、いい医者、悪い医者と言っても歯止めがありますが、学習指導の場合、学校の先生でない限り免許は必要ではないので、注意が必要でしょう。

だから、塾の講師や家庭教師の場合も検定制度があった方がよいとも言えます。
仮に、それを塾講師検定とか家庭教師検定としましょう。
そういう資格を持たなければ、人に何かを教えることはできないのではなく、そういう検定制度を設けることで、教わる方は一定の安心感を持つことができます。

プロという言葉を好きな人がいるようですが、学習指導も検定が受かった人をプロ講師とかプロ家庭教師と言った方がよくわかるのではないでしょうか?

社会に目を向けてみると、その資格は必要でないが持っていた方がよいというものがあります。

例えば、私が取得したファイナンシャルプランナーという資格もそうです。
この資格がないと何かができないというものではありません。
しかし、今日、この資格の取得の需要は大きくなっています。

例えば、銀行員です。
銀行員、証券会社社員、税理士、不動産会社などでは取得を勧められますし、資格を持っていた方が就職に有利になるようです。

学習塾の講師でも、大学の教職課程の単位を取得し教員免許状を持っている方がいいでしょう。

ファイナンシャルプランナーという資格は、2年間の間に一定の単位を更新しないと資格がなくなってしまいます。
それは、一度試験に合格しただけでは、勉強していないと力が衰退してしまうだろうという考えからです。

使わない機械が錆びついてしまうように、人間の頭も使わないと錆びついてしまうように思います。
だから、たとえ単位を更新する必要がないとしても、教える立場の人は自身が常に勉強している必要があると思います。

もっとも危険なのは、学校などを卒業し自由な立場になると、自由な発言をするのはいいが、何か自分は偉くなったと錯覚してしまうことです。
そして、自分の発する言葉が何でも正しいと思い込んでしまう。また、それで固まってしまう。

正しい意見というのは、数々の反論に耐えてこそより正しく完璧なものになると言った人がいます。
しかし、反論を嫌う人がいます。いや質問すら拒否する人がいます。
こういう人は「正しさ」を拒否していると言えるのではないでしょうか。

と言うことから、先生選びはまず質問や反論を拒否しない人という目安があると思います。

自分を疑ってみることの大切さ

プロ野球やプロゴルフなどプロのスポーツ選手は、一流と感じる人はインタビューでは謙虚です。

同様に、知識人や先生も一流と感じる人は謙虚です。
それは、いつも勉強している人は、自分の不完全さを感じているからではないでしょうか?

そして、自分はこれでいいのか、何か間違っていないのか、もっとうまくやっている人はいないのかと耐えず自問自答しているからではないでしょうか?

milsitin.jpg私は音楽が好きなので、つい音楽関係の話題が多くなりますが、ある日、古いレコードをかけたら、素晴らしいヴァイオリンの演奏が聴こえてきたので、この演奏者はどういう人だろうと、ジャケットにある解説を読んでみました。

ナタン・ミルシテインという奏者でした。
彼は色々な先生に習い、その才能を広く認められていたが、なお勉強が必要と感じ、有名なイザイに習うためにベルギーに行ったところ、イザイに「君に教えることが何もない」と言われたことで、また有名になってしまったということが書かれていた。

「俺は凄いんだ」とか「俺は偉い」と感じ、そのようなもの言いになった時は、成長が止まっているのだろう。
「実れば実るほど頭を垂れる稲穂かな」はまさに名言と思う。

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2011年09月15日

天才バカボン

kyoikujissen.jpg
赤塚不二夫さんの「天才バカボン」で、バカボンのお父さんが、テレビの故障を見て「これは、きっとテレビの中の小人が怠けているんだ」と言って、テレビを叩くような場面がありました。

笑える場面ですが、これは見方によっては皮肉ともとれます。

それは、何かよくない現象を見た時、表面的な判断しかせずあれこれ論じたり対処しようとする人へのものではないかと思うのです。

表面的な対処のことを対症療法というわけですが、教育も対症療法であってはいけません。

腰痛で休んでいた生徒がいました。
あちこちの診療所や医者へ行っていましたが、痛いという部位の手当をしてもいっこうによくなりません。

何人もの医者めぐりをしているうちに、ある医者は様態を診て「椎間板ヘルニア」と言いました。
ただちに、脊椎のX線写真を撮り、その見立てが確かであることを確認しました。

その医者は名医ということで有名でしたが、脊椎の原因を取り除くことで腰痛はすぐに治りました。

教師も、この名医のようでありたいものです。

例えば、子どもに落ち着きがない。集中力がないとと言った場合。

子どもはもともと集中力がないものですが、それを「そういうものだ」だけで見過ごしてよいものか、叱りつけるだけでよいものか見極めることが大切と思います。

子どもの精神的な安定は、何よりもまず家庭の状況にあると思います。
中でも、夫婦仲が悪いということは子どもの心に大きな不安を与えます。

教師が家庭の問題に割って入るということは、そんなにできることではありませんが、いつもこどもの様子を観察し、普通ではないと感じるような鋭敏な神経が教師には必要と思います。

原因がつきとめられた場合、限界があってもできるだけのことはしなければなりません。

子どもは精神的安定さえあれば、自らすくすく育つ力を持っていると思って差し支えないと思います。

私の比較的新しい経験ですが、これは高校生の場合です。
部活の終了直後、女子生徒が不満そうな顔つきで、私のところへやってきて

「先生は自分の言うことは、何でも正しいと思っているんですか!」

と言いました。

その反抗的な態度に、私は驚きましたが

「いや、そんなことはないよ。だから、間違いがないように、なるべく下調べは欠かさないようにしている」

と答えました。

生徒は、不満そうでしたが、それ以上何も言わず帰っていきました。

その様子を見ていた生徒たちは驚いていました。

私は自分の指導のどこかに、生徒の心に差し支えることを言ったかどうかをいろいろ考えてみました。
「なんていきなり失礼なことを言うんだ」という気持ちも全然なかったわけでもありません。
でも、自分が年取って冷静に対処する気持ちが出てきたのか「まてよ」と一呼吸おく余裕もありました。

私が指導中に何かまずいことを言ったかどうかは、自分ではわからずその日は過ぎました。

翌日、その生徒がまた私のところへやってきました。

「先生、すみません。昨日は、朝、家を出る時、母と喧嘩して気分悪かったものですから」

と言いました。

私はホッとしました。

「そうか、そうか、仲直りはできたんだね」

「はい」

「よかったじゃないか」

で終りました。

tensaibakabon.jpg私の正直な気持ちとしては「教師は、つい上から目線でものを言うものだから、勝手な持論を言ってしまうことがある。自分が何でも法律のような言い方をしないようにしなければならないなあ」と思い、いい反省の機会を作ってくれたと考えました。

その女子生徒は、以後、暑い時にはお茶を持ってきたり、いろいろサービスをしてくれるようになりましたが、彼女としては先生に対して失礼なことをしたと思っていたのかも知れません。

学校で学ぶことは、つい教科書や紙の上でのことに限られやすい面があります。
しかし、現実に起きることこそ「生きた教科書」だと思うのです。

教師は毎日起きることを、題材として実践力を養うことが大切と思います。

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2011年09月14日

2011年09月13日

勉強の好きな人から教わりたい

自分が好きでないものを教えて、教えられる者が好きになるわけはないと思うし、伸びるわけもないと思う。

こと勉強、いわゆる成績を気にして、みんなのやっている勉強というものをした覚えがない。
唯一、やったと思うのが大学入試の前、約三ヶ月の勉強だ。

それまでは、私は勉強嫌いだ、怠け者だとずっと感じていた。

だって、自分の好きなことばかりやっていたと思うからである。

だから、無意識のうちに「自分の好きなことをやるというのは勉強ではないのだ」と思うようになった。

ところが、大学へ入ってからはこの考えが一変した。
それは、好きなことをやっているのに、なぜか勉強熱心のように周りから言われたからだ。

「そうか、オレは勉強好きなのか?」

とか

「好きなことをやっていても、勉強なのだ」

と思うようになった。

大学はいいところだと思った。

でも、大学へ入るまで好きでやっていたことは、ほとんど入試には役立たなかった。
なのに、大学へ入ってからは、その生活がまるで逆転してしまった。


同級生の多くは、電気回路に苦労していた。
だが、私としては何でもないことだった。

だって、小学生の頃からやっていたものだから、私にとっては生活そのものであり、試験のために特別勉強するというものではなかった。

ハンダ付けにしろ、やはり小学生の頃からやっていたから、何でもないことだった。

試験を意識することなく、好きなことを研究する。
それが大学では勉強熱心ということになる。

gakuryokumonndai.jpgこういうところが、今の受験戦争と言われる中での努力と、それ以後(大学入学後)の努力が違いすぎるというのが、日本の学校制度の歪ではないかと思うのである。

入試問題が学力を測っているとも思えないし、理科の実験をやめてドリルをたくさんやった者の方が得点がよく合格するというのもおかしな話だと思うのである。

この「点取り虫」が入試に強いという制度は、有能な人材を切り捨てているのではないかと思うのである。

私が教師をやってもいいかなと思うようになったのは、大学へ入ってから「オレは勉強嫌いではないのだ。いや、むしろ好きなのだ」と思うようになったからである。

私は何かそれまでの呪縛から解き放たれたような気がして、明るく青空が見えたような気がした。

そんな気分で教育実習に行ったものだから、おそらく、子どもたちにも少しは勉強好きが感じてもらえたのではないかと思う。


今の入試のための勉強というのは、私から言わせれば「点取ゲーム」である。
何を勘違いしているのか、この点取ゲームを教育だと言っている者がいる。

そんなものが教育であるはずがない。

音楽の記号をたくさん試験問題に出して、それで高得点の者が音楽に優れているというのはおかしいだろう。

昔、ある作家が、自分の作品が入試問題に出されたので、解いてみたら4問中正解が2問だったという。作家は怒っていた。
そんな風に解釈してもらっては困ると言っていた。

「あのねえ、国語のテストってさあ、自分の考えを書いちゃダメなのよ。このテストがどんなことを考えさせたいか、先生が答えてほしい答えを書かなくちゃダメなの。私もね、前はあなたとおなじだったのよ」

これは小笠原善康・著「学力問題のウソ」(なぜ日本の学力は低いのか)のプロローグに著者の娘さんが弟に話した言葉の紹介である。

テストのためのテクニックに明け暮れるような制度から脱皮し、本当に学問の楽しさを教えられるようなしくみに、日本の教育政策の舵取りをしてほしいと思うのが私の願いである。

そのためには、高校は全入制でもよいと思う。
もちろん、希望者の入学制度でよい。

平野一郎先生の著書「家庭学習のさせ方」に、英語の先生を選ぶなら、大学教授級の人にしなさいというところがあった。
そのわけは、そのくらいの人なら、きっと自身が英語の好きな人に違いないと言うのだ。
そして、そういう人のところへ行かせれば、特に英語を教わろうと構えなくても、英語の楽しさ、面白さを子どもが感じるに違いないというのだ。

その論から言うと、子どもを教える立場の人は中途半端な学問ではなく、相当なレベルまで自分の力を高める必要がある。
自分が数学好きでないのに、数学を教えるなんていうのはもってのほかということになる。

そう言えば、以前に紹介した、私の中学時代、博士号を授与された理科の先生の授業は非常にわかりやすかったし、楽しくもあった。

もう一人の理科の先生は、世界で初めてテレビを開発した、高柳健次郎氏の大学で学んだ先生で、非常に電気の好きな先生だったということが伝わってきた。先生御自身がアンプを作ってみえて、聴かせていただいたことがある。ウィーンフィルというオーケストラの素晴らしさを知ったのもこの時である。

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posted by edlwiss at 21:44 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年09月12日

人はどのようにしてやる気を起こすか

学校の教師は時には視野を広げて、企業にも目を向けたらどうだろうかと思う。

人が集まるところには、心理学が存在するし、教育も存在する。
企業では、人の働き方が直接に収益に影響することから、その真剣さも強いと考えられる。

実は私がこういう視点に立ったのは、もうずいぶん昔のことだった。
と言うのは、最近、本を整理していて、そう言えばこの本を読んだのだと発見したのが「人間性と創造性の開発・・・やる気を起こす内発的経営の道・・・日本生産性本部・創造性開発委員会・委員長 西堀栄三郎」という本で、1971年12月10日発行、1978年4月20日 15刷とあった。

西堀栄三郎氏と言えば、南極観測で有名な人だ。

西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36 年)1月28日 - 1989年(平成元年)4月13日)は、日本の登山家、無機化学者、技術者。従四位。

京都府出身。京都一中、三高を経て、京都帝国大学理学部化学科卒業。京大講師、助教授を歴任した後、東京電気(東芝)に移る。

東芝技術本部長時代には海軍の要請を受けて真空管ソラを開発し、技術院賞を受賞した。材料不足の状態でも大量生産できるように、微細な部分に至るまで製造マニュアルを完備し、"新橋の芸者を集めてでも製造可能"とされた。

戦後は独立コンサルタントとして統計的品質管理手法を日本の産業界に持ち込み、デミング賞や電電公社総裁賞を受賞。戦後日本の飛躍的な工業発展の礎の1つとなった。

京大に助教授、教授として復帰してからも精力的に活動し、第一次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長や日本山岳協会会長を務める。日本初の8000m級登山であるマナスル登山計画時にはネパール政府との交渉役として活躍。日本原子力研究所理事や日本生産性本部理事も務めた。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

アマゾンで検索してみると、まだこの本、手に入ることがわかった。

ningenseito.jpg
この本の始めの方には人間は本来、仕事の目的と価値がわかれば「仕事をしたがる動物である」。むしろ、仕事をさせないようにすると、苦痛に耐えられず、悪いことをするようになってしまうものであると書かれていた。

これは、そっくり勉強についても言えることではないかと思ったのである。
仕事勉強にそっくり入れ替えることで、言えることではないかと思ったのである。

人間は本来、勉強の目的と価値がわかれば「勉強をしたがる動物である」。むしろ、むしろ勉強をさせないようにすると、苦痛に耐えられず、悪いことをするようになってしまうものである。

私は、これだと思い、これが私の取り組みの起点になったような気がする。

歴史的に有名な学者たちも、勉強好きであったと言える。
今日、ノーベル賞を受賞した人たちもそうであるに違いない。

なのに、勉強嫌いと言われる子どもが存在すると言われるのはなぜだろう。

自分のことで考えてみると、子どもの頃は遊んでいた。小学校、中学校、いや高校でも遊んでいたと思う。
あまり、進学には関心を持たず、ひたすら好きなことをやっていたと思う。

だから、試験勉強をやっていた他人を見ると、自分は勉強嫌いの怠け者のように思っていた。
しかし、この状況は大学へは入ってから一変した。

その矛盾のようなものが、現在の入試制度の歪みのように私は感じている。

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posted by edlwiss at 22:36 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年09月12日

事実と真実の違い

ある著名なニュースキャスターの講演を聞いたとき、なるほどと思ったことがある。

かつて、食品の賞味期限等の不正表示で事件がよく報道された時期があった。

そういう事件で、記者が取材するとき、やったことは許せないことだが、どの程度反感を買うかは事件の当事者の態度によって温度差があるということだった。

例えば、社長が「私は知りませんでした。やったのは従業員です」という態度であれば、記者たちの怒りは大きいという。
こういう場合は、徹底的に叩いてやろうという気持ちにもなるという。
その結果、倒産に追い込まれるということも少なくないらしい。

しかし、即、社長が「悪うございました。ひたすら、私に責任があります。従業員は何も悪くありません」なんて態度なら、悪いことは悪いが、一定の期間が過ぎたら許してやろうじゃないかという気持ちにもなってくるというのだ。

すぐに許してやるという気持ちにもならないにしても、人の噂も75日というように、ある一定の期間が過ぎれば、報道の仕方も違ってくるという。

「◯◯製菓、営業再開、初日、2時間で商品売切れ」

なんて報道の見出しがつく。

これを見た人たちは「ほう、すごいな」と感じ、多くの人たちは、あんな事件があったが、みんな好感を持っているんだとの雰囲気が広がる。

だが、◯◯製菓はかつては一日に1000個以上は菓子を売り出していた。
再開の日は100個しか作らなかったのだ。
だから、売り切れは当たり前と言えば当たり前。

もし、これを一般人が知ったら「報道がおかしいんじゃないの」と言うかも知れない。
これに対しては、報道側にしてみれば「何もウソは報道していません」と言う。
つまり事実を報道しているのだ。

しかし、これは事実は報道しているが、真実を報道していないということになる。

このように、報道というのは、報道の仕方によって、それを見たり聞いたりする人たちの感情をコントロールできるという面がある。

さて、このことを教師の世界に当てはめてみたらどうだろう。

教育とは真実を教えることであるとある人が言った。

そうなると、教師は事実を利用して、真実を教えないことはもってのほかということになる。

真実を教えない人は教育者の資格がないとも言えるだろう。

私が、なぜニュースキャスターの講演を思い出したかというと、どうも、現職の教員に反感を持っていて、教員の不祥事を利用して、教員に対する一般人の感情を誘導しようと企んでいる者がいると感じたからだ。

「公立学校の現状」と称して、ことさら教員の性犯罪をとりたてて書いている人がいる。

そりゃあ、教育に携わる者として、性犯罪は許せないものである。
しかし、公立学校の現状として、犯罪、特に性犯罪だけを取り出して書き立てるのは、真実を伝えているのかということになる。

公立学校の現状を、教員の性犯罪として書きたてれば、まるで公立学校の教員は性犯罪者ばかりの集まりのように思う人もいるかも知れない。

それは、◯◯製菓が菓子の販売を再開したら、たちまち売り切れというような報道と同じで、事実ではあるが、真実を伝えていないことになるだろう。

ちなみに、教師の性犯罪を警察庁の統計から調べてみた(古い統計だが・平成15年:その後特に増加はないというので参考になるだろう)。

職業別の性犯罪統計から割り出してみると、教員の犯罪率は0.8%で、特に他の職業と比べて多いということはない。むしろ、非常に少ない。

教員の犯罪を糾弾するのならわかるが、現状と題して発表する限り、根拠を示して全体像がわかるようにしなければ、現状を示していることにならないばかりか、書いた人の人格が疑われる。

prokyosi.jpgむしろ、教員になれないばかりに、ひどいコンプレックスを抱いているのではないかととられかねない。

そう言えば、プロの音楽家になれなかったため、プロの音楽家となるとひどく腐す人がいた。その姿は情けなかった。

ヒトラーも始めは画家になりたかったそうである。しかし、美術学校に入れなかったか何か知らないが、結局プロとしての画家になることを断念せざるを得ず、あのように強大な権力を握ってからは、有能な画家たちを苦しめ、反対に何の価値もないくだらない絵を描く者たちだけを擁護したという。

プロになれない人は、とりわけプロという言葉に敏感かも知れない。

教育にあって、プロと言われるのは褒め言葉のように私は思う。

子どもが「あの先生プロだよ」という時は、子どもが教わって、その先生の凄さを感じた時のように思う。

誰からもプロと言われないので、自ら(教育の)プロと名乗るのは恥ずかしくないか?

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posted by edlwiss at 18:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年09月10日

よくわかっている人が合格するとは限らない

私が某中学校に勤めていた時、危険物取扱者の資格をとってほしいと言われました。
その中学校は地下に重油タンクがあり、重油を燃料として使っていたのです。

少量の石油類なら無免許でも保管できるのですが、大量の石油を保管するとなると危険物取扱者の資格が必要となるのです。

私は「久しぶりに試験か」と思って、受験準備をしました。
準備は、私が約3ヶ月で国立大を突破した時に編み出した「試験突破法」です。

その方法で私は難なく合格しました。

これは、私が試験に合格したことを自慢したいために書いているのではありません。

翌年、新卒の若い先生が赴任してきました。
彼は理科で、大学では主に化学を勉強してきました。

その彼も、危険物取扱者の資格をとるように言われました。
この試験は、法律問題の他には石油などの危険物の性質を中心とした、ほとんど化学の問題とと言えるものです。

だから、彼はタカをくくっていました。
しかし、結果は不合格でした。

化学の知識や学力、経験は彼のほうが私より明らかに上です。
でも、彼は試験に失敗してしまったのです。

受験指導のベテランの先生にはわかりきったことですが、わかっていることと試験に合格することは別物なのです。

大学の恩師で、教育史を教えていただいた平野一郎という先生がいました。
この先生は、ヒトラーの「わが闘争」を完訳したことで有名になりました。

また、この先生は、客観テストの批判をしていました。
ですから、受講した学生たちは「この先生はテストをやらないんだ」と喜びました。
しかし、先生は「私はよくないと思っている、その客観テストをやりたいと思う」と言われたので、みなががっかりしたのを覚えています。

先生はきちんとした試験問題を作り、点数が70点に満たない学生は容赦なく不合格にしました。
教育史は進級に必須の単位だったので、落ちて、先生を恨んでいた人もいたようです。
私も、いつも「もっと勉強せよと言われているみたいで」ちょっと苦手意識を持っていました。

近寄りがたい雰囲気を持っていた、平野先生を好きだという学生はいなかったと思います。

これは以前にも書きましたが、ある本屋で物色していると「平野一郎」と書かれた本がありました。
書名は「家庭学習のさせかた」とありました。

「あの堅物の先生が、こんな本書くんだと」と思いながら、買いました。

教育ママの分類がしてありました。

・教育ママゴン型
・ケセラセラ型
・・・・・・・・

などなど。
笑えてきて、先生の別な側面を見たような気がしました。

話はだいぶ脱線しました。

その本の中で「ムリ・ムダ・ムラをなくす」という言葉があり、以後、受験にはこれが大切だと思うようになりました。

受験は時間との勝負でもあるわけです。

つまり、サッカーの試合のように、決められた時間に、いかに中身を濃く試験に特化した勉強をするかなのです。

ひたすら、点が取れるか取れないかの世界なのです。
このことに向かって一切のムダをなくして、時間を効率的に使うかなのです。

その方法に特化した私の方法を、私より年下のいとこが受験する時にアドバイスしたら、彼は怒りました。

「そんなの勉強じゃないじゃないですか」

と。

「そんなことわかりきっている」

と私は返しました。
なお不満そうな彼に

「これは、本来の勉強じゃないことはわかりきっている。だけど、お前がその大学に入りたいなら、その大学が入れてくれるように点を取らなきゃならないんだ」

と。

心構えとして大切なのは、試験は孤独な戦いということです。
これは、誰も頼れないということです。

だから、わからなかったら塾の先生に聞く、家庭教師に聞くというのは、その場限りの何かの解決になるかも知れませんが、試験で点が取れるかどうかわからないということです。

わからない子には、どういう説明がよいだの何だの言う人がいますが、そんな説明しているヒマがあったらまだやることがあると思うのです。

試験は人に頼れないですから、よい塾講師、よい家庭教師とは先生を頼らないように子どもを導く人だと思います。

学習塾や家庭教師を求めるほとんどの親は、点数をあげてほしいのであって、教育をしてもらおうとは思っていないでしょう。

だいたい、片手間の時間で教育なんて大それたことはできません。

テストの点を上げたいと思っている子どもに「教育ごっこ」などしないことです。
それこそ、ムダをやっているのだと思います。

教育がしたかったら、採用試験を受けて学校の先生になるか、自分で学校を作ることです。

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2011年09月07日

学校と塾

学習塾へはどういう子どもが行くのでしょうか?
私の受け持った吹奏楽部の生徒を思い出してみました。

その中学校は親が進学に対してては敏感で、部活動もほどほどにした方がよいと聞かされていました。

土曜日、日曜日は練習時間がたくさんとれる日です。
ある土曜日、午後、練習時刻に音楽室に行ってみたら、生徒は一人しかいませんでした。

私は一瞬、不安になり、一人いる生徒に他の生徒たちはどうしたのかと聞きました。
すると

「レッスンです」

という返事でした。

私は「えっ、レッスン?何のレッスン」と思いましたが、それは各自が受け持っている楽器のレッスンのことだとわかりました。

しかし、一人残っているだけなので、レッスンを口実にサボリかなと思いましたが、本当に一人を残してあとは楽器のレッスンに行ってしまったのです。

学校で吹奏楽部に入って、楽器を練習し始めたら、それぞれ専門の先生について習いたいと生徒が思うようになったわけです。
それで、親に頼んで許可を得たわけです。

いわゆる教育ママの多いところだと聞いていましたが、それは進学のための勉強でピリピリしているわけではなく、文化的なことには理解があるという感じを受けました。

生徒たちは音楽が好きになって、もっと習いたいと思うようになったわけです。
だから、音楽ばかりやっていて勉強をしないと言われたくないので、勉強もよくやりました。

夏休みには、午前中から午後の日没近くまで練習をやっていたので、運動部の者から

「あんたたち、よう練習やるねえ」

と皮肉っぽく言われているのを聞いたことがあります。
正直、私はちょっとやり過ぎかなと思っていました。
しかし「あんたたち、よう練習やるねえ」に対して

「私たち、練習やるけど、勉強もやりますから」

と言い返しているのも聞こえてきました。

私はこの生徒の言葉に感動し、充実した時間にしなければならないと考えるようになりました。
それで、吹奏楽部に入った以上は進学をはじめとして、生活に不安を持たないようにしなければならないと考えました。

jukueikanai.jpg学習塾は学校の補完でなければならないと思います。
学校の勉強で個人的に足りないところを補うのがいいと思います。

塾によっては、学校とは関係なく独自のカリキュラムで行っているところがあります。
その場合、生徒にとっては学校と塾の二重の負担になる場合があります。

英語の先生が「授業中に塾の勉強をやっている」と怒っていたことがあります。

私の吹奏楽部の場合、生徒たちは学習塾に行かず、音楽教室に行ったわけです。
先生はほとんどプロのオーケストラの人たちで、学校の一斉指導を補う形で個人指導をしていただけました。
だから、生徒たちの基本はしっかりしていました。

一人だけ行かなかった生徒は、コントラバスで、その先生だけいなかったからです。

生徒たちの中には、音大へ進みプロになった者も何人かいましたが、レッスンを受けている者みながプロを目指したわけではありません。
楽器が弾ける技術を身につけたいとの考えで、親たちもそれを理解していたわけです。

中学生時代は、習うことがよく身につく年齢であるとも言えます。
そういう人生として、大切な時期に音楽に限らず、一生の財産となるようなことを身につけることは大切なことだと思っています。

私は情報処理係だったということもあって、成績処理を始めとしたプログラムを作っていましたが、部活動別成績もわかるようにしました。
そして、部活にいる生徒の成績がどうなっているか把握するようにしていました。

経済的な問題で進学が苦しい家庭の生徒には、特待として高校へ行けるように考えました。
高校側も吹奏楽が盛んな学校は、いい生徒が欲しいので中学校の活動を見ているというところがあります。

私が赴任して2年目から、高校側から特待で採りたいと言ってくるようになったので、それで進学した生徒もいます。





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2011年09月07日

クラシックを好む人は頭がいい

こんなタイトルを書くと、じゃあオレはクラシックが好きでないので、頭が悪いのかとお叱りを受けそうな気もする。
そういう人は、早まらないで、冷静に読んでほしい。

音楽は数学的に構築されている

下の楽譜はベルリオーズの「幻想交響曲」の一部である。

genso_gakufu.jpg


楽譜は指揮者が見る、スコア(総譜)で各楽器の楽譜がすべてわかるようになっている。
横軸は時間軸で、各奏者は自分の楽譜(パート)を正確に演奏しなければ、時間軸がずれて全体として正しいリズムが聞こえてこない。

例えば次のようなリズムは、音楽にはよく出てくる。
3_1Rythm1.jpgこの曲でも楽譜の右の方に記されている。

では、このリズムが正しく演奏され、いくつかの楽器が重なっても、あたかも一つのように聞こえるようにするには、どのように練習するか?

これは、音楽の指導者にとっては釈迦に説法のようなものなので、失礼をお許しください。

CDなどで聞いてみて、真似をするというのも方法かも知れない。
でも、それはプロとか素人とかの言葉が好きな人の言い方に習えば、素人になるでしょう。

オーケストラでも吹奏楽でも、その他どんな音楽でも同じなのだが、まずリズムがどのようになっているのか理解するところから始まる。

3_1_Rythm.jpg図の付点8分音符と16分音符の長さの比が、何対何になるのか理解していなければならない。
そこで「この音符の長さの比は何対何ですか」と聞くと、アマチュアでは答えが返ってこないことが多い。
多いというのは、答えが返ってくる場合もあるということで、それは素晴らしい団体である。指導がよく行き届いていると言えるでしょう。また、それだけの水準の演奏をしているということにもなります。

長さの比は図に示すように3:1になるわけだが「あるものを3:1」に分けるにはどうしたらよいだろうか?」という問に答えるには、数学的な力の裏付けが必要である。

このように、音楽は、リズムだけでなく至るところで数学と言えるものが存在する。
そういうわけかどうか知らないが、スイス・ロマンド管弦楽団を50年以上にわたって指揮をしていた、名指揮者エルネスト・アンセルメは数学者から転向した人である。



非常に人気の高い、やはり名指揮者のカルロス・クライバーは工学部の出身者である。



「クラシックを好む人は頭がいい」というのは、クラシックでは追究することが多く、よく考える、頭を使うということでそういう印象を持つのかも知れない。

吹奏楽部においても、練習といえば何かと言えば、楽譜上のきまりを正確に守ることは当たり前として、その音楽が作られた背景、歴史、民族性など非常に多くの要素があり学ぶべきことが多い。

atama_classic.jpg「勉強嫌い」という言葉を耳にするが、よい音楽を奏でるための勉強は楽しいものであり、時に苦しくてもその成果が音になって表れることで、人間が生まれつき持っている情緒的感動性を刺激し、子どもたちは音楽が好きになっていく。
間違いなくクラシックを好きになっていく。

だから、子どもたちは決まりきった問題を、きまりきったように解答すれば点数がもらえる試験のための勉強に興味を示さないが、別な見方をすれば、楽な作業とも言える。

人は生まれつき好奇心を持っており、探求することが好きであり、感動する心を持っている。
アインシュタインが入試に失敗したことは有名であるが、それでアインシュタインが頭が悪いとか勉強嫌いだと思う人はいないだろう。

今、いちばん問題なのは、入試ゲームのための努力が勉強だの学力だの、もっと酷いのはそれを教育と勘違いしている人たちに会って、ダメにされている子どもたちだろう。

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2011年09月06日

覚えるということ

保護者同士の話で「今年は当たり」とか「はずれ」ということを聞いたことがあります。
それは、わが子の担任の話です。

新学期というのは、担任発表があって児童生徒は喜怒哀楽を表しますが、保護者にとっても新しい担任は関心事です。

今年も9月になりました。
「はずれ」と思っていた先生が、とてもよかったということもあって、新学期の印象が必ずしも当たっているとは限りません。

きびしくて、あまり表情を表さない、一見、おもしろくなさそうという先生が、実は教育熱心で、心の子どもを捉えていて、表面上は人気がなくても、実際、担任になって過ごしてみるといい先生ということもあります。

そういう先生は、きっと、チャラチャラした学園物語のようなものが嫌いなのかも知れません。

自分のことを振り返ってみると、先生運はよかったと思います。

毎日、マイペースで研究を続けて博士号を大学から授与された理科の先生。めっぽう電気に強くて、授業では自信が感じられた先生など、今も影響を受けていると言えます。

吹奏楽部は私にとっても、人生を左右する大きな影響があったと思います。

全員男子の部でしたが、すごく厳しく、練習をサボルなどということはとてもできなかったせいで、何をやっても長続きしない私に自信を与えてくれました。

中学校の最後の通知表に、担任の先生が、3年間部活動を続けた私のことを褒めて書いてくださって、この言葉はしばしば思い出します。

「そうだ、きっと私にもやれるんだ」という自信をつけてくれたと思います。

そういう私が吹奏楽部を指導するようになり、今度は子どもたちの幸せを考えて指導するように、自分なりに一生懸命考えました。

それは、ただ音楽を演奏する部活ではなく、学校の教育活動と結びついた運営を考えるようにしました。
部員は大体70〜90人ほどいて、全校生徒数のかなりを占めるということでも、影響力は大きいだろうと考えました。

私は先生になってからも、いろいろな教育書を読みましたが、それは、学校教育に関するものだけでなく、企業の教育について書かれたものも読みました。
理由は、自分の思考が狭い範囲に留まることを恐れたからです。

例えば、貝のマークで知られているロイヤル・ダッチ・シェルの研究は印象に残っています。

「人はやる気がないと、その能力の20%ぐらいしか発揮せず、他人から見るとバカに見えてしまう」

というところです。

このことは、バカに見える人間でも、本当はバカでないかも知れないという考え方を私に植えつけました。
それで、私は成績がどんなに悪い児童生徒も何か才能が隠されているのではないかと見るようになりました。

これは、こどもの側から見たら、成績で先入観をもって見られていないという意識があり、心理的には大きな影響を与えているような気がします。
子どもを白紙の状態で見るということは大切なことだと思います。

株式会社は株をたくさん持っている株主に強い発言権があります。
具体的には50%を超える株を持っていれば、その会社を自由にできるということになります。
しかし、実際は10%持っていれば、会社に対してかなり強い影響力を発揮すると言われています。

学校では自分が何人の生徒に関わっているかということが、会社で言えばどれだけ株を持っているのかに相当するように考えました。

そういう考えでいくと、吹奏楽部は全校の10%ほどの部員を抱えているわけですから、顧問である私は、かなりの部分学校を支配することになると考えました。

だからこそ、部活動の運営は、それこそ全人的な視野で子どもを育てるという意識が必要と思いました。
図で表せば、下のようになるかと思います。

gakkoh_kozo.jpg



徹底的に教え込むってどういうことですか?

ところで、学習活動においては「覚える」ということがよく出てきます。
記憶には短期記憶と長期記憶があると教育の本に書かれていますが、実際に子どもがよく覚えてくれるとはどういうことでしょうか?
何回も繰り返すですか?

確かに反復練習は大切な時がありますが、よく覚えるというのは反復練習しかないですか?

例えば、次の場合はどうでしょうか?
色と数字の関係を覚える場合です。

Color_Code.jpg学校の先生(指導経験のある先生)の場合は「なあーんだ」という問題ですが、ここでは「人はどうしたら記憶するのか」というテーマの例として取り上げました。


この色と数字の関係を覚える必要がある場合、どのようにして覚えるか(覚えさせるか)ということです。
無条件に「覚えろ」で何回も繰り返すというのも確かに一つの方法でもあります。
しかし、これを授業で行う場合「これから、色と数字を関連づけて覚えてもらいます」というと、子どもの反応はあまり前向きになるとは言えません。

「勉強だから覚えなきゃ仕方がないか」

といった消極的な態度でしょう。
問題は、それで、覚えるのにどれだけ時間がかかるでしょうか?
また、一週間後にはどれだけ覚えているでしょうか?

指導経験のある先生なら知っていると思いますが、ある先生の発言によって、子どもたちがにわかにやる気を出して、時間にして数分ぐらいで覚えてしまいます。
その方法はここをクリックしてください。

覚えるには心理が影響する

先ほどの色と数字の問題は、古典的とも言えるやり方で、子どもは笑いながら興味を持って覚えます。

私は色と数字の記憶法を紹介することが目的ではなく、人が何かを覚えるには心理が影響すると言いたいのです。
だから、指導には心理学が必要だと言いたいのです。

必要感、責任感が記憶力を高める

子どもによっては、試験のための勉強が必要と感じていても「悪い成績をっても叱られておけばいいや」とか「テストを返してもらった時の一瞬の辛抱だ」と考えて、試験勉強に積極性を示さない子どももあります。

ゲームならやるなと言ってもやるのに、試験勉強となるとおもしろくないからでしょう。

昔、テトリス風英単語の覚え方というゲームを使ったら、子どもが夢中になって取り組んだことを覚えています。
また、教室の後ろにパソコンのゲームを用意しておいて「できた人から、ゲームをやってよろしい」と言ったら、勉強がはかどったということもあります。

しかし、そういった動機づけを考えるのも一つの方法ですが、何か、おもしろいと感じさせなくても子どもが前向きになることはあります。

gakufu.jpg


これは、楽譜の一例です。
楽譜にはいろいろな記号、約束ごとがたくさん書かれています。

吹奏楽部に入ってきて間もないころは「楽譜に書いてあることは、全部守りなさい」と言っても、子どもの心理としては「こんなの、全部覚えられないや、できるだけということでいいんじゃないの?」という程度だろうと思います。

しかし、音楽を演奏するということは「楽譜に書いてあることを守ることが最低限必要なこと」というのが常識です。

一人で勝手に好きなように演奏するのだったら、誰にも迷惑をかけないのでよいのですが、複数の人と一緒に演奏する場合は、自分だけ記号を忘れていたとか、守らないというのは迷惑になります。
その迷惑の程度は、例えば50人で演奏する場合、守らない一人が全体のアンサンブル(演奏)を壊してしまうということは簡単にできてしまいます。

みんなが協力してよい音楽を作ることは、なかなか大変ですが、壊す方は一人でも簡単にできてしまうのです。

人は話を聞く場合、とりわけ重要でもないこと、自分だけにふりかかることには緊張感がなく、説明を漏れなく聞きとろうという意識に欠けます。

「今から、大切なことを説明します。説明後、すぐにテストをします」

と言ったら、聞く態度は真剣になるでしょう。

つまり、人はふつう、ボーッと聞いていると言えるわけです。
特に、今の子どもの心理テストを行うと、特徴的な欠点が2つ現れます。
それは、集中力根気強さです。

だから、子どもを伸ばすには集中力根気強さを高めることがポイントであるとも言えます。

吹奏楽部では1年生はボーッとしていて、始めの頃は楽譜に書いてあることを忘れたりしてみんなに迷惑をかけます。
しかし、練習が進んでいくと、迷惑をかけないためにも「守ることは守って当たり前」という良い意味での精神的プレッシャーを感じることになります。
そのプレッシャーは上級生からも感じるので、子どもにとってもかなり強い力として感じると思います。

音楽自体にも人を魅了する力がありますから、みんなで音楽をすることで守るべき当たり前のことを身につけることにに加えて、指導者の音楽的レベルが高ければ、子どもたちをいろいろな意味で高い次元に引き上げていくことになります。

吹奏楽部にいて、中には将来プロを目指している者もいます。
そういう子どもたちは、学校の成績も例外なくすばらしいです。
では、よく勉強しているのかというと、そうでもありません。

と言うより、勉強する時間はほとんどないのに成績はいいのです。
将来プロになるためには、楽器の練習だけで毎日6時間ぐらいはします。
だから、わざわざ学校の勉強をする時間を割くことができないのです。

それでも成績がいいのは、集中力が高いのと「いつか覚えようとか、いつか勉強しようという気持ち」はなく「今、この瞬間にやるという気持ちが強い」からです。

入部当初、ボーッとしている子どもも1年経つとずいぶん変わります。
顔つき自体が変わります。
だから、演奏会でのわが子の姿を見て感動する保護者もいます。

「ウチの子があんなに真剣にやっているところ、見たことありません」

という言葉はよく聞きます。
そして、20万〜30万ぐらい、時にはもっと高い楽器を親は買ってやるわけです。
子どもに楽器を買ってやるために、お父さんは晩酌をやめたという人もいました。

子どもは指導の仕方で、短期間に能力が飛躍的に伸びます。
それには、正しい知識を持った指導法と、子どもの心理をよく考えた指導が必要と感じています。

子どもはスイッチが入ると、猛烈な勢いで飛んでいくロケットのようなところがあります。
しばしば、オレが育てたなどとオレを自慢したい指導者がいますが、私は恥ずかしくて、とてもそんなことは言えません。
それより、子どもの伸びる芽を摘んだのではないかという反省をすることが多いというのが正直なところです。

以下の動画は、かつて紹介したものですが、新年度始まって最初の部活動(4月28日)ですから、中学校に入って楽器を始めて1年経った者と2年経った者です。

有名なピッコロのソロが出てきますが、この女子生徒は始めの練習で、全部間違いなく演奏しました。
全員に前もって楽譜を渡してありましたから、各々の責任で楽譜を読み、曲がりなりにも一応音が出せるのは当たり前という雰囲気になっています。

だから、一回目の練習日から、一応演奏はできるわけです。
それより、子どもたちは指導者である先生が、どう曲作りをするか、どのように指示があるのかに関心を持っているわけです。



著作権の関係で上記の曲を掲載しましたが、この日は演奏会という形で発表会を行いました。
その日のプログラムを以下に示します。

1.スーザマーチ集
・星条旗よ永遠なれ
・エル・キャピタン
・雷神
2.トランペット協奏曲 ハイドン
3.海の歌 ミッチェル
4.ポップス変奏曲「数え歌」 岩井直溥
5.ピアノ協奏曲 第3番 ベートーヴェン
6.歌劇「ローエングリン」よりエルザの大聖堂への行列
7.夏の思い出 中田喜直(藤田玄播 編曲)


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2011年09月04日

30年以上続いている教師の会

先月、30年以上続いている教師の会がありました。

大学の同級生が半分は企業へ就職した中で、私も教師になるかどちらかを迷っていました。
結局、教師になったもののそれでも当初は迷っていました。

大学では、講義の後、よろしかったらと企業への就職を世話していただける話もあり、給料もかなり違っていたからです。
だから、一旦は教師になっても悪かったら考え直そうとも思っていたからです。

しかし、教師をやってみると、次第に学校の良さに惹かれて続けてしまうことになりました。
その最初の小学校は、今思えば夢のような時であり、その時勤めていた人たちもみな同じように感じていました。

だから、始めは誰が言い出したのか忘れましたが、その小学校に勤めていた人たちの会が30年以上続いています。
みんな、再会するとまた次の年を楽しみにしており、当然また来年があると思っています。

まあ、思っていますと言っても他人の心はわからないですが、誰もが確信を持っていると感じるわけです。

思えば、学校としての条件が理想的にすべてが揃っていたと思います。
その意味では、自分の人生にそういう時があった幸福を、しみじみ感じています。

学校としての良い条件がすべて揃っていたということは、どんなことだろうと思う人もいるでしょう。

それは

校長
職員
子ども
PTA(地元の人たち)

です。

設備は?
という言う人がいるかも知れません。

先日、今年の会がある前に、私が当時、図工の時間に子どもと一緒に描いた絵が出てきました。
会に持って行ったら、みんな非常に喜んでくれました。
特に、今はこの校舎は残っていませんから、貴重な絵になりました。

Nissinsyo2.jpg


なんだ、これはひどい学校ではないかと思う人がいるかも知れません。
それは、ひどいと言えばひどかったです。
この校舎は明治時代に作られたもので、相当に古いものでした。

廊下を歩くとギシギシ音がするし、板と板の間もあちこちに隙間がありました。
ある日、授業をしていると、その日は若干、風が強く窓がガタガタいっていました。
すると、そのうちパラーンという音がしてガラスが落ちました。

そんな校舎でも、誰一人として苦情を言った者はいません。

清掃の時間には、子どもが廊下のぞうきんがけをすると、ささくれで刺がささり、保健室へ行くのを見たことがあります。

誰も苦情を言わなかったのは、そんなに古い校舎でもみんなが愛着を持っていて、暖かさを感じていたのだと思います。

私自身も、そんなに、珍しいほどの校舎でも不満に思ったことはありません。

校長はというと、理想のリーダーだったと思います。
意見を聞くということでは、若い先生から年のいった先生からも公平に聞くという感じでした。
年の多い先生も、若い先生の意見を生意気だととる雰囲気もありませんでした。

子どもはこどもらしく天真爛漫で、どの先生も毎日楽しく先生をやっていました。

学校ですから、転勤がありますが、それで泣く泣く転勤して行った人がいます。
しかし、その先生が翌年の転勤でまた戻ってきました。

Nizyusinohitomi.jpg何でも、教育委員会の言うには、その先生の強い希望があったので、熱意に負けてまた戻したというのです。

今は、難しい保護者に悩んでいるということをよく聞きますが、地域の人たちは、昔風に言うと「先生様」と言ってくれるところで、大変、先生を尊敬してくれるところでした。

時に、子どもが不満を家で言おうものなら、親は「それはお前がいけないいんだ」と子どもが叱られるという具合でした。

ですから、先生たちもそういう親たちの心を強く感じていて、ますます誠意を込めて教育活動をするというふうでした。

そう言えば、校門をくぐると正面に大きな碑があり、そこには「誠実」と刻まれていました。

私が始めに担任したのは5年生でした。
クラスの人数は28人で、よく目が届きました。

具合のいいことに、人クラスでは定員をオーバーするので、2クラスにするとどの学年も28〜29人ということでした。

私はそういう学校に勤めたたために、すっかり教師という仕事に埋没してしまいました。
また、そこから学んだことはその後の私の人生には貴重な経験となりました。

あの、二十四の瞳を思い出すと、そんな学校にいたような気もします。
ただ、私が大石先生ほどになれなかっただけです。

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2011年09月01日

公立学校の深刻な問題

はじめに断っておくが、ここでいう公立学校とは私が知った公立中学校のことである。
だから、全国の中学校がそうであるとは言わない。

所用で、ある中学校の女性のA先生と待ち合わせした時である。
約束の時刻までに私は到着したものの、初めての場所ということもあって、約束の場所でうろうろしていて数分遅れてしまった。
それで、A先生からは約束の時刻に遅刻したことを咎められた。

私は、きつい先生だなあと思った。
でも、遅れたことは確かなので返す言葉もなかったが、初対面としては印象が悪かった。

しかし、話を始めると、A先生はとても教育熱心な先生だとわかった。
A先生は50そこそこの年齢であると思われた。
話が進むうちに、私は

「でも、A先生、定年までにはまだしばらくあるじゃないですか」

という話をした。
するとA先生は

「いや、私、定年まで勤めないかもしれません」

と言った。

教育熱心なA先生が、なぜそんなことを言うのだろうと思ったが、話をしていくうちに、それはわかってきた。

学校が好きで、子どもが好きで、とても教育熱心なA先生は、長年勤めてきて、やる気が失せる経験をするようになったのである。

昔はそんなことはなかったが、あることで子どもを叱ると、親が

「なぜウチの子を叱るんだ」

と学校へ文句を言う。

hosin.jpgでも、A先生はそんなことではへこたれない。
しかし、A先生のやる気をなくさせるのは、親が文句を言ってきた時の校長の対応である。
校長が親に「行き過ぎのところがあって、申し訳ありません」と対応をするぐらいのことはいいが、熱心なA先生に対して、親に文句を言わせるような指導は悪いと咎めたことである。

つまり、校長はとにかく、外部から文句を言われるのはごめんだという対応をする。
いわゆる保身に熱心なわけである。

やる気のある先生は、とかく摩擦を生みやすい。
しかし、ことのいきさつを正しく認識せず、熱意をそぐようなことをすれば、先生はやる気をなくす。

まして、教育の仕事を天性のように思ってやってきた先生にしては、いいことをして叱られるのでは何も目標がなくなってしまうだろう。

さらに、摩擦のある先生を、波風立てないようにと転勤させてしまうようであれば、ますますやる気が失せてしまうのである。

かくして、A先生のみならず、全部の先生にもそういう雰囲気は波及し、最小限の仕事だけこなして、余計なことはしないようにしようと、サラリーマン的空気を助長することになる。

めんどうな親が増える中で、校長がめんどうの防波堤にならないと、学校は元気をなくす。
そういう意味では、公立学校には真のリーダーである校長がのぞまれる。

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2011年09月01日

勉強とは何だろう

勉強が好きとか嫌いとか言いますが、その実体は何なのでしょう?

まず、勉強の意味を大辞林で調べてみます。

1. 学問や技芸を学ぶこと。学習。
「―部屋」「おそくまで―している」
2. ある目的のための修業や経験をすること。
「何事も―だと思ってやってみる」
3.(商人が)商品の値段を安くして売ること。
「―しますのでお買い下さい」
4.物事にはげむこと。努力すること。
「職業に―する精神あること/西国立志編(正直)」
5.気が進まないことをしかたなくすること。
「―して櫓を揺しゐたれば/甲子夜話」


「4」が原義とありますので、本来、物事にはげむこと。努力することととらえておけばよいようです。

「勉強ができない子」と言う人がいますが、これは「物事にはげむこと。努力することができない子」という意味になります。

果たしてそういう子がいるでしょうか?
何も一生懸命になることができない子、何にも熱中できない子っているでしょうか?

学校の算数、国語などの教科には熱が入らなくても、ゲームには夢中になる。そしてすごい得点を上げる。
そういう子っていませんか?

もし、テストのための勉強や成績を上げるための勉強ができない子を「勉強のできない子」と決めつけるのは、少なくとも、教育に関しては素人でしょうね。

まして、人にものを教える立場であったなら、間違いを教えることがないようにしなければなりません。
だから、自分がプロと自負するなら、あるいはプロとして責任を感じるなら用語を正しく使わなければいけません。
だから、たとえ知っていると思っても確認する、調べてみるという態度は大切でしょう。

言葉に慎重でないのは素人の証です。
試験の成績を上げる指導者としても素人です。

なぜなら、試験の怖さを知っている人は、自分はわかっていると思って解答を書いても、採点では○にならなかったという経験をしているからです。
例えば、8割ぐらいはできたと思っても、実際は6割だったということを知っているからです。

だから、私は子どもに教えるとき、子どもが「わかりました」と言うのを信用していません。
問題を出して、それを実際に紙に書かせて、その書かせたものが正当と照合して、合っていてはじめてよしとするのです。
子どもが「だいたいわかった」というのは「わかっていない」に分類します。

本当にわかっていても、テストとなると○にならない子もいます。
ちょうど、マラソンで、ゴールが見えて、まさにテープを切ろうとしている。
あ、優勝するんだなと思っても、それはまだ優勝ではありません。
実際にテープを切るまで優勝ではないのです。

野球で言えば、いくら勝っていても、9回の最後のバーッターをアウトにしなければ勝ちは確定しないのと同じです。

私は、ある父親から中学校3年生の数学の家庭教師を頼まれたことがあります。
彼の学校は大きな学校で、学年300名ほどいました。
彼の数学の成績は280番を切ったことがありませんでした。

benkyouhou.jpg私が彼の家に行って、さて、今から数学の勉強をしようと意気込んでも、数学の教科書がありません。

仕方がないので、教科書を探すまで待ちます。
それが、かなりの時間を要するのです。

彼はまじめな中学生で、私が行ったときはきちんと座って勉強をする態度を示しますが、途中で居眠りをしてしまうこともありました。

数学の成績が悪いので、教科書なんか見たくないわけです。
だから、視界から消えてほしいわけです。
家庭教師が来たから、仕方なく取りかかるのですが、全く興味がわかないので、数式やらがいっぱい並んでいると眠気を催すのです。

さて、2回目は教科書が早く用意できるのかなと思ったら、また同じです。
数学の教科書がどこに行ったのかわかりません。
また探します。1回目の時と全く同じです。

実はあまり上手くない(要するに下手な)吹奏楽部へ指導に行った場合も、同様なことが起こります。

いざ、合奏をしようとしても楽譜がありません。
仕方がなく、準備をするのを待ちます。
なんと、毎回毎回、こんなことが3か月も続く学校もあります。

指揮台に立って、時刻になったらすぐに指揮棒が振り下ろせる吹奏楽部、つまりすぐ合奏が始められる吹奏楽部は間違いなく上手です。
逆に言うと、準備が早くできるようになると、グングン上手になります。
指揮者の一挙手一投足まで、生徒はよく見るようになります

さて、数学の苦手の彼ですが、私はどうしたものかと考えました。
彼の生活を見ていると、パソコンに興味を持っていました。
そして、パソコンに関しては、オレはよく知っているんだという自負がありました。

恐らく、学科ではコンプレックスがあるものの、オレはパソコンには強いんだという気持ちをクラスメートの中では、それとなく示していただろうと思われます。
パソコンのことになると、私にも生意気に感じる言葉も出てきました。

夏休みになって、研究作品を提出するという宿題がありました。
私はパソコンに関するもので、何かをさせようと考えました。
そして、ジャンケンゲームのソフトを作ることを提案しました。
彼は乗ってきました。

言語はC言語です。
もちろん、彼にとっては初めての経験です。
言語のインストール、基本的な操作を教えました。

プログラム中には、どうしても数式を入れたり、計算させたりするするところが出てきます。
そういうところになると、しばしば行き詰まります。
そういう時、私が驚いたのは、あれほど彼は数学の教科書に嫌気がさしていたのに、いつの間にか数学の教科書を片手にし、行き詰まりを打開しようとページのあっちこっちを盛んにめくるようになりました。

彼の作ったジャンケンゲームは、学校からさらに広域の大会に提出され、なんと一位になりました。
彼は校内でもパソコンに強い生徒ということで、有名になったということは言うまでもありません。
数学も彼の強い味方となったわけです。

「できない子はやらない子」ではなくて、人間は本来、何かに燃えるものがあるはずなのに、その燃えるもの(やる気を出させるもの)に出会えないだけだと思うのです。

やらないからできないのだと言っている人は、指導者でも何でもなく、ただの平凡な人であり指導に関しては全くの素人です。

ヘレンケラーを教育したサリバン先生も、ヘレンケラーがやる気をなくして何度も投げ出すところを、辛抱強くめんどうを見て、最終的にはヘレンケラーが自らやる気を出すところを見つけたと言えるのでしょう。

プロ教師と自負するなら「えっ、信じられない、あのやる気のない子が、なぜあんなに熱中するの?」と周りに言わせたいものです。

少しでも、多くの子どもがそういう先生に出会えることを、私は願っています。

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