2011年10月31日

絞首刑は合憲という判決



「絞首刑が残虐な刑罰を禁じた憲法36条に反するかどうか」について、このほど合法であるとの判断が下された。

私はこういう判断について、どうも割り切れない感情が残る。

それは「残虐な刑罰」といっても、残虐かどうかは個人の感じ方について差があるのではないかと思うからである。

こういうことを複数の人間で判断して、過半数が残虐でないと判断すれば、以後、残虐でないということになるのだろうか?

個人によって感情の違う問題を決めてしまうことに違和感を持たざるをえない。

私個人としては、死刑そのものに残虐性を感じる。
どんな手段で死刑を行おうと、残虐でない死刑はないと思うのだ。

これは、死刑制度に賛成か反対かという議論とは別問題である。

死刑制度、賛成、反対の意見は混乱している

すべての議論を知ったわけではないので、私が得た情報の範囲内の話であるが、混乱していると思うのは

1.死刑制度は必要か
2.誤審の問題

の2点を同時に議論していることである。

(1)人を殺したら、当然、自分も責任とって死の償いをすべきだ。
(2)遺族の感情を察すれば、死刑は当然だ。
(3)死刑制度があるということで、殺人という犯罪の防止効果がある。

(1)〜(3)の意見と、誤審の問題をどうするかの議論は相容れないものだ。

人を殺したら死刑になって当然という意見は理解できる。
しかし、無実の人を誤った判断で死に追いやっていいのかと言われたら、そういう間違いがあってもよいとか、仕方がないという意見は納得できるのだろうか?

それでも仕方がないというのは、自分だけは誤審の犠牲にならないと思うからではないか?

実際に死刑判決が確定した人の中で、再審で無罪になった人が4人はいたと思う。
この人たちは、再審を受理されることなく、死刑が執行されていたら、訴えるすべまでが葬られていたことになる。

死んだ奴は誤審であろうとなかろうと、仕方がないでよいのか?

「人を殺したら死刑になって当然だ」という意見を受け入れたところで、一番肝心なところは「人を殺した」ということを、絶対に間違いなく判断できるかということである。

そもそも、絶対に間違いを起こさないという人間が存在するのか?
というところが焦点になる。

それが裁判官であると答える人がいるとしたら、あまりにも、裁判官という身分を知らないと言えるだろう。
裁判官は神ではないし、普通の人間である。

裁判官という身分についたら、真実が見えるようになるなんてことはない。

誤審をしても何の責任も問われないという制度にも問題がある

ある著名な弁護士は、いろいろな事件に携わった経験の中でくやしい思いをしたと語っていた。
そして「トーストの焼け具合が悪いと死刑判決が出やすい」という言葉を残した。

念のため、説明しておくと、
裁判官が判決を出す日、朝食のパンの焼け具合が悪く気分がよくなかった。それで、ストレス解消の方向に精神が動いて、死刑判決を出した
ということである。

その信憑性を云々するということではなく、裁判官から見たら、被告を死刑にするかしないかの判断は、そのぐらいの軽さだと言いたいわけである。

裁判官が自分の判決に重みを感じないのは、もし間違った判決、誤審をしたとしても何のペナルティもないからだと言われる。

ある裁判官によって、ある家族の父親が誤審によって死刑判決を受けたとしたらどうだろう。
「人を殺したから自分も死刑になって当然」という考えに当てはまらないだろうか?

その考えによれば、誤審の裁判官は業務上過失致死に問われてもよいのではないか。
その結果、その裁判官は死刑になるという道もあるのではないか?

誤って人を死刑に追いやった裁判官は、責任をとって死刑になるとしたら、死刑制度存続でも、裁判官は慎重に裁判を行うのではないかと思うのである。

自分の一言で、人を生死の境に立たせるのであるから、そのぐらいの厳しさは必要ではないか?

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posted by edlwiss at 17:47 | Comment(4) | TrackBack(1) | 社会時評

2011年10月31日

インサイダー疑惑



インサイダー疑惑は、時々ニュースになるのだが、会社の中枢にいる人や会社の重要な情報を手にできる立場の人は常に手を出しやすい環境にある。

企業における背任や不正経理はいけないことだと、当然知っているわけだが、人は目の前の現金を見たり、重要情報を見たりすると誘惑にかられやすい。

教育を論じる時、しばしば「子どものうちに、良い悪いを教えてやらないから・・・」という意見を聞くが、実際、どのようにそれを指導するのかと言うと、実態は「口で言う」だけというような気がする。

また、ニュースに出たからと言って「たまたま発覚した」という印象を免れない。

歴代首相の中でも疑惑のあった人がいる。

そうすると、ニュースに出るかどうかとか、捜査が及ぶというのは力関係なのだと思われてしまうということを、我々は学習させられてきたようにも思う。

だから悪いのは行いではなく、バレたのが悪いと子どもにも教えたことになってしまう

アンケートを取ると、悪いのはバレたからと答える子どもが多いのに驚いたというのは前にも述べた。

機械の設計は、それが危険性のあるものの場合、人間はミスをするものだという前提で考えなければいけないということになっている。

この考えを、ビジネスや行政にも適用し、人間は誘惑に負けることもあるということを前提に組織する必要があると思う。


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2011年10月28日

自称プロはプロなのか?

私はオーディオが好きである。
しかし、マニアとは呼ばれたくない。
「オーディオマニア」とはどういう定義なのかわからないが、私がそう呼ばれたくないのは、ひたすら装置に関心があり、音楽を聴く方は二の次というイメージがつきまとうからである。

それはそれとして、このオーディオに長く携わってきたであろうと思われる人、また自身もそういう関係の商売をしている人の発言に次のようなものがあった。

ケーブルはむしろ細めの方がよい。細い方が電流の立ち上がりがよい。電流は水流によく似ていて、水鉄砲のように、口径は細いほうが勢い良く水が出る。水鉄砲で口径を大きくすると、強く引き金を引いても水の勢いは小さくなる。引き金を引く力はドライブ力であり、電源の力である。 ※1


想像するに、この人は来客にもこのような説明をするのだろう。
そして、説明を聞いた人の中には、このように長く店をやっていて、長くオーディオにも経験があるのだから、本当のことを言っているのだろうと思ってしまうのではないかとも想像できる。

しかし、電気回路の基本を身につけている人なら、いかにおかしなことを言っているのか気がつくはずである。

水道管なら、細くすれば水流は速くなる。
しかし、電線は細くすれば電流は小さくなる。

電線を細くすれば、水道管を流れる水のように電流が速くなる(電流が大きくなる)ということはない。

そういう結論は、自分で勝手に想像しているだけだ。
いわゆる妄想である。

そんな妄想をしてしまうのは、オームの法則を知らないからだ。

電気回路の基本中の基本であるオームの法則を知らずに、電気回路を語っているようなものである。

この人は、細いケーブル(電線)で音が良くなると実感したと言っている。

ohm_housoku.jpg音が良いか悪いかは、個人の好みの問題だから、細くして直流抵抗が大きくなったた方の音を好んでいるのかも知れない。
あるいは、ケーブルの導体そのものが変わって、細くしたのだが抵抗自体は小さくなったのかも知れない。
あるいは、単なる思い込みかも知れない(そうすると、この人の耳はあてにならないことになる)。

さらに、この人のデタラメは続く。

ケーブルが細くなれば、直流抵抗が増える。それは音量の低下になるから、その分だけボリュームを上げてやればよい。


こんなことを言っているから、この人は直流回路しかわからないのかと思ったら、インピーダンスという言葉が出てきた。

インピーダンスがわかっているのなら、なぜ直流抵抗しか問題にしないのかと疑問に思う。
位相という言葉が出てきても、容量リアクタンスや誘導リアクタンスについては触れていないので、結局、この人はインピーダンスや位相という言葉を知っているだけで、意味については理解できていないと思われる。

専門用語は知っているが意味については理解できていないという人はいる(私は、誰かのように、そういう人は多いですとは言わない・・・調べたこともないですから)。

全くの部外者からしたら、専門用語をちらつかせる人に会うと、この人はその専門分野(誰かの好きなプロ)に詳しい人と思ってしまうこともあるらしい。

まあ、言う方からしたらそう思わせてしまうのがつけ目らしいとも思われるのだが。

私はそういう人に会ったことがある。これも、多いとは言わないがたまに会う。

ある人は、人がたむろするパソコンショップにかなりの頻度で現れて、コンピュータに関する専門用語をこれもかなりの頻度でまくし立てる。

「おお、コンピュータに詳しい人がいるな」

とかなりの人が思ったようだった。

「環境変数が・・・」

などと言っているところを聞いて「プロ」と思ってしまうのかも知れない。

先ほどのオーディオ氏の話はまだ続きがある。

細いコードは抵抗値が多くなる。
すなわち、スピーカーに直列に抵抗が入ると考えれば、
(1)定電流駆動になる。
(2)アンプの負荷として見れば、スピーカーがより抵抗に近付くから、普通のアンプの負荷としては位相特性が良くなる。


よくこれほどのデタラメを堂々と語れるものだと、感心するほどである。
これを、ありがたく聞いているひとがいるとしたら、それはもう宗教の世界みたいである。
何の関係もないことを、勝手に作り上げてしまっている。

ケーブルの抵抗分は、確かにスピーカーに対して直列になる。
だけど、それがなぜ定電流駆動になるのだ?
だって、性能の良いアンプは定電圧で駆動するのですよ。

アンプが定電圧駆動で、スピーカーも定電流だったらどうなるの?
それって、音声信号の変化にかかわらず、消費電力は一定ということになってしまいますよ。
ということは、全然、増幅作用がないってことです。
全くバカバカしい。

「スピーカーがより抵抗に近づく」って何ですか?
さっぱりわかりませんね。

スピーカーってね。ボイスコイルというものが巻いてあって、もともと抵抗(インピーダンス)を持っているんですよ。

そして、それがなぜ位相に関係あるの?

専門用語の単なるバラマキですね。

※1
この人の言う、「引き金を引く力はドライブ力であり、電源の力である」とは何だろう。
ドライブ力という測定値はない。それでは「ドライブ力とは電源の力である」と言いたいのか?
また、電源の力とは電圧のことか?

オーディオは個人の趣向の部分を含んでいるので、抽象的になる部分のあることは免れない。
しかし、電気回路という論理的な部分が土台になっているので、その部分での説明に曖昧さがあるのは、語る人が本当は理解できていないのか、それとも、専門用語で煙に巻く意図があるのだろうか?

ドライブ力という言葉は、オーディオの話の中には時々出てくる。
ドライブ力とは負荷(この場合はスピーカー)のインピーダンス変動に対し、アンプの出力電圧がいかに変動しないかという能力である。

それは具体的に、アンプのインピーダンスと電源の容量に関係する。
アンプのインピーダンスが負荷(スピーカーのインピーダンス)より小さいほど、負荷にかかる電圧の変動は少ない。
だが、電源の容量が小さいと[電圧×電流]の供給能力が低下するので、消費電力の要求に対して十分に余裕があることが大切である。

[スピーカーのインピーダンス]/[アンプのインピーダンス]のことをダンピングファクターと言うので、アンプのドライブ能力はダンピングファクターと電源の容量に依存するわけである。

何かを追究するということは、問題とする要素を分解し具体化していくことだと思う。
その作業の過程で思考停止してしまわないことが大切である。



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私がなぜこんなことを取り上げたかというと、それは教育をネタにしている人たち(早い話が、塾経営者や家庭教師の一部の人たち・・・私は塾や家庭教師が嫌いと言っているのではないので誤解なきよう)の中で、似たような形で教育論をぶちまけている人がいる

まあ、自分一人で「宇宙人と会って会食をしました」なんて言うのは勝手ですが、自称プロと言って、他人を素人だの二流とか三流とか言いながら、デタラメ教育論で子どもを犠牲者にすることは大変な罪ですよと言いたいわけです。

オーディオの彼氏が、オームの法則も知らないで語っているように、教育学の素養なしでオレは教育のプロだなんて言っていませんか?

[結論]

どんな人の話も、冷静に聞くことです。

専門用語をちらつかせて、話す人には要注意です。そして、その専門用語がわからなかったら、わかったフリしないで質問してみることです。

長年やっている人だから、とか、それを商売にしているからいいだろうという先入観は持たないことです。

その人を中心として何か宗教のようになっていないか、よく観察することです。
(例えば、質問は禁止とか、教祖様の悪口を言うと猛烈な反対を食らうとか)

天地創造という映画がありましたが、天地捏造になっていないか気をつけましょう。
(私の経験では、私が質問したり、矛盾を指摘したら、あることないこと私について捏造をして(つまり悪者にされて)、それを言いふらした人がいます・・・そういう人が教育者にふさわしいわけはないでしょう)

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posted by edlwiss at 23:45 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年10月22日

「多いです」とは何人か?

例えば、学校の話になると「・・・という教師は多いです」という言葉が出てくることがある。
こういう場合、多いとは何人ぐらいのことを言っているのかと思う。
さらに、その多いというのはいかなる方法で調べたのかと言いたくなる。

それは、この「多いです」は、まずよくない場合に使われているからです。

例えば

「わかりやすい説明ができない教師は多いです」

との根拠はどこからきているのか?

「わかりやすい説明ができない教師は多いと思います」

としたところで、そう思う根拠は何か?

交渉は三人で行け

ある心理学の本によると、あることを頼みに行く時に、一人で行くと交渉相手にはあまり圧力を感じさせることはできないので、大勢で行った方がよいとあります。
それは、なんとなく理解できることです。

では、大勢とは具体的に何人ぐらいにしたらよいかということですが、二人では、一人よりもましだが、それほどの力にはならないということです。

しかし、三人となると、相手は大勢の者がそう思っているのだと感じるのだそうです。
ということは、二人と三人では大きな違いがあり、裏をかえせば三人以上人数を増やしても、それほどの効果は期待できないということになります。

だから、どうせ交渉に行くのなら何とかして三人にするとよいということになります。
自分が具体的に話をするということで、後の二人はただの付き添いでもいいということにもなります。

真実を知るには具体的に実態を調べろ

秋は文化祭のシーズンでもありますが、学校ではその準備に忙しい時でもあります。
そのため、しばしば生徒の下校時間が遅くなることもあります。

生徒は学校全体で組織した活動のために、クラスを離れて活動をすることもあります。
そして、各部署の活動の終了時間がバラバラになるので、クラスに戻ってくる生徒も時間がバラバラになります。

そういう生徒たちを、私は教室で待っていたことがあります。
なかなか全員が揃わない。

大人の活動なら、各々の仕事が終われば帰宅してもよいということもできますが、中学生ではそうもいきません。
クラスの生徒の下校を確実に確認したいわけです。

校内のあちこちに散っていた生徒たちは、仕事のきりがつくと自分の教室に戻ります。

私が教室に行ってみたところ、室内にいる生徒、廊下や外の庭にいるものなどいろいろで、誰がいて誰がいないということを掴めません。

それで、私は「みんな席に着くように」と言いました。
すると、ある生徒が

「みんな、帰っちゃったよ」

と言いました。
「じゃあ、集めてもムダか」と、私は考えないで

「何でもいいから、みんな一旦席につけ」

とやや大きな声で言いました。
それで、生徒たちが席についてみたら、空席は一つしかありませんでした。
そして、しばらくすると、一人の生徒が入ってきて、席は全部埋まりました。

これで、全員間違いなく確認して下校させることができるわけですが、ここで私が言いたいのは、もちろん確認することは大切なのですが

「みんな」

という言葉に惑わされない、ということです。

大きな声に惑わされず、実態を知ることが判断を誤らないもとになる。


中身は汚い、それでいて一方通行は何かに似ていないか?

説得力のある意見は、中身を精査したとき、根拠がしっかりしていて、曖昧さが少ない。
主張のためには、捏造までするというのは最低である。

公立の学校では受験指導は行っていない。
公立学校では裁量問題はとりあげません。
公立学校の教師は多忙なので忙しいので、補習授業はしません。
生徒の勉強の出来不出来は学校や教師の責任ではない。
公立の学校は学力を高めるところではありません。


上記のように、公立学校が言っていると意見を述べている人がいる。
一体、そういう根拠は何なのだろう?
どこかの公立学校の校長がそう言ったのか?

この意見を言っている人は、どうも塾経営者らしい。
私は、この人に質問したことがある。
それは、この人の文章が文法に沿っていないので、意味がわからず質問したのだが、返事は

「わからないことは、自分で調べるのが勉強の基本でしょう」

というものだった。

言葉の意味なら辞書で調べられるが、他人の書いた文法に沿わない文章を調べられる手段とは何があるのだろう?

書いた本人に聞くしかないのではないか?
そういう意味では「自分で調べる」とはこの場合、文章を書いた当の本人に聞くことではないか?

この人の思考は

[わからないこと]→[自分で調べる]

という単純思考がパターン化されているような気がする。
この人の頭では、何でもかんでもわからないことは調べるという思考みたいだ。

アライグマという動物は、食べ物を洗うというおもしろい習慣を持っているということが知られている。
そこで、アイスキャンデーを与えてみたら、これも洗ってしまってなくなってしまったという話を聞いたことがある。

私は[わからないこと]→[自分で調べる]というパターン化された、いかにも単純な思考ということから、このアライグマの習慣を思い出してしまった。

さて、公立学校が言っているという先の文だが、どうもこれはこの人の捏造ではないかと疑っている。

というのは、私が単にこの人の言いたいことを質問しただけで、ずいぶん気に触ったらしく、この人は他の人との対話で、私のことをこきおろしたあげく「塾と家庭教師が大嫌いだそうです(と私が言っている)」と紹介していた。

私は全くそんなことは言っていない。つまり、この人は捏造しているのだ。

だから、この人は自分の言いたいことを強調する時は、あることないことを捏造するのだと思ったのである。

私のしたことは、重ねて言うが、意味のわからない文章の真意を質問しただけである。

この方は、どうも質問されることがかなり嫌いらしく、自分が言いたいことを一方的に言いまくることが好きらしい。
しかも、その際に捏造までしてしまう。

こんな態度て、子どもを教えていていいのかと思う。

それは、子どもが学ぶのは指導者が言う言葉ではなく、指導者の行いそのものをより強く学ぶと思うからである。

言っている中身に疑問があり、主張は一方的で、一方通行ならそれは、汚れたものを吐き出すだけの排泄行為と同じだ。

説得力のある意見は、優れた工業製品と同じ

優れた工業製品は、数々の耐久テストに耐えて、商品として市場に出てくる。

説得力のある意見(優れた意見)というのは、数々の批判、反論に耐えてなお消滅しないものだと思う。

だから、説得力のある意見は、優れた工業製品と同じと私は言いたいのである。

自分は言いたいことだけ言うというのは、先に述べたように排泄行為と同じだ。

オレの言うことは黙って聞け、質問は禁止、議論になるようなことも言うな、ではまじめに良いものを作っていくという態度に欠けるばかりか、子どもに対してはファッショであり、話し合い活動そのものを否定する態度であり、民主主義に反するものでもある。

こんな態度で、子どもに一体何を教えるというのだ。

しかも、それを教育だというのは勘違いもはなはだしい。

jukunohajimekata.jpg感情にとらわれず、客観的に相手の意見の真意を確かめよう

ブログというものができて、個人が言いたいことをより発表しやすくなった。
そのため、無数とも言えるブログがある。

それだけに、中には何の価値もないゴミ情報もある。

正しく情報を受け取るには、感情を抑えて冷静かつ客観的に判断する頭脳が必要である。

新美南吉の「おじいさんのランプ」にあるように、主人公の巳之助が、自分の商売が成り立たなくなることを恐れ、電気の悪口を言って歩きまわるような態度はいただけない。

もし、自分の塾が流行らないことを恐れて、公立学校の悪口を言うなら、巳之助の態度と同じである。

ただ、巳之助は最後には自分で時代の流れに気づき、自分の愚かさに気づく。

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posted by edlwiss at 22:51 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年10月21日

損害賠償を求められる恐れ



誤って済むものかと思っていたら、損害分を関係者に求められるらしい。

学校施設の管理、点検は怠りなく。

posted by edlwiss at 08:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育

2011年10月21日

eラーニングの衝撃

elarnning.jpgすでに気づいている人も多いと思いますが、このネット社会の拡大で、eラーニングの影響が大きくなってきたように思います。

アメリカではeラーニングの方が学習効果が高かったという報告もあると聞きました。

私自身も資格更新のために、eラーニングにより合格点をとることが義務付けられているものがあります。

eラーニングが万能だとは思いませんが、優れている面もたくさんあり、学習に関する分野ではこれからますます拡大するように思います。

学校でも教育の面にどう取り入れていくか研究が必要だと思います。

学習塾ではかなり影響をうけるのではないかと思います。
eラーニングを主体とした学習塾や家庭教師とeラーニングを組み合わせたやり方も出てくると思います。

そういう意味では、学習塾や家庭教師は後追いにならないように、先行して取り入れる工夫をしなければ、取り残されていくのではないかと思います。

詳しいことについては、あらためて機会を設けて、考察してみたいと思います。

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posted by edlwiss at 01:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年10月18日

こういうのが子どもへの教育になるんですね



教室で、こどもに立派なことを言っても虚しい。

本音と建前が現れているできごとでしょう。

つまり「姑息な手段」を身を持って教えているわけです。

「バレなければよい」を手本にしているようなものです。

報道規制も考えられることから、この取材はもしかしたら「必要悪」かも知れない、と勘ぐりたくもなります。


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posted by edlwiss at 07:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年10月17日

新しい転入者

posted by edlwiss at 22:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年10月14日

混合診療の意味がわからない人は要注意です



日本は国民皆保険で、すべての国民が国の保険(公的保険)に加入していることになっている。
そのため、ちょっとした病気なら、こういう公的な保険で間に合うと思っている人もいるだろう。

ところが、治療によっては公的保険の適用外のものもある。
はじめ、公的保険を利用して治療を開始しても、公的保険適用外の治療を行うと、すべての治療が自由診療になってしまうのである。

つまり、公的保険と保険適用外の治療を混合して治療することは、認められていないということである。
そういう意味では、民間の保険会社の医療保険に加入しておく意味はあると言える。
posted by edlwiss at 19:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年10月14日

バレたのが悪いでは改善しない



子どもにアンケートを行う環境がある人は、一度、アンケートを実施してみるとよいと思います。

社会で起こる犯罪に対して「どう思うか」というようなアンケートをとってみて驚いたことがあります。
予想外に「バレたのが悪い」という回答をする子どもが多いのに、驚いたことがあります。

本音と建前という言葉がありますが、建前で悪いことをするなと言っても、教育にならないのだということを、大人たちは知るべきです。
何が教育になっているかと言えば、子どもは大人の本音を見て学んでいるのだ思います。

教育に本音も建前もあってはいけません。

「子どもの時に、良い悪いをきちんと教えてやらなければ」という人がいますが、そういう自らが子どもの手本を示すことのほうが大切と思います。

やらせがニュースになって、一体、どれほどの人が驚いたのでしょう?
「やっぱりね」と感じた人が多いのではないでしょうか?

こういうことで、愛国心を持つようにと言っても、それは無理に話ではないですか?

正直者がバカを見る国では、愛国心は育たないと思います。

posted by edlwiss at 13:35 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年10月13日

捏造するあなたは信用できない

教育に関するホームページやブログは多い。
インターネットの普及によって、情報発信は多くなり、今や非常に多くの情報があふれている。

便利な一方で、情報を得る側としては、その情報がどの程度信ずるに値するのかという判断が大切ということになってきた。

そこで、正しく情報を受け止めるためには、どうすべきかを考えてみた。

根拠が不明な意見は疑いを持つべし

「〜は〜だ」という言い方に注意しよう。

「警察は民事事件を受け付けてくれない」
「学校は病気の治療をしてくれない」
という言い方は正しい。
しかし
「学校は子どもたちに、理解させることができない」
というのは、どうでしょう?
学校という「集合体」全部を指して、そういうことが言い切れるのでしょうか?
もし、そう言い切れるとしたら、その根拠は何でしょうか?
そのようなことが言える調査をしたのでしょうか?

「学校の教師は人間だ」
というのは正しいですが
「学校の教師は指導力がない」
というのも、何かそのような根拠があるのでしょうか?

そういう人の経験で、たまたまそのように感じる場面を見たというのなら、気持ちはわからなくもないですが、一般的な意見としてそのように言えるのかどうか疑問です。

日本という国を紹介する時
「日本は殺人のある国だ」
と言ったら、言っていることは間違いないですが、真実を伝えていることになるのでしょうか?

同様に
「学校では教師の犯罪がある」
と言ったら、確かにそういう事実はあるでしょうが、印象としては学校の中では教師がよく犯罪を行なっているという印象を与えないでしょうか?
やはり真実を語っているとは言えないでしょう。

意見をいう時には、誤解を与えないように気を配ることが大切です。
しかし、言い方によっては、誤解を与えるように意図し、印象を誘導することもできます。
つまり、悪意を持っているということです。

もし、そういう悪意で語る人が子どもを何か指導する立場にいるとしたら、それは指導者としてふさわしいでしょうか?

以下の例は、あるブログである人が語っていることで指摘したものです。
「すべての学校を指してととられる『学校は・・・だ』という言い方はおかしいのでは」と意見を言ったら、そんなことは言っていないというので、具体的に指摘したわけです。

>学校は理解を大事にと言いながら、実は子供たちに理解すらさせられないというのが現状です。

>これは学校が、理解させる説明すなわち「分かりやすい説明」というものを大きく勘違いしているからです。

>子供たちに学校で行われている授業内容を聞けば、学校はどうやら、ゆっくり・丁寧・詳しく・奇抜であればよいと思っているようです。

これらは、すべて「学校は・・・だ」という言い回しですよ。


これに対に対して「これは引用であり、私が言っているのではない」と言うのです。
引用であっても、賛成の意向で引用したなら、自分も言っているのと同じだと思います。

批判や反論を受けつけない意見に説得力なし

もし、自分が正々堂々と自信を持って意見を述べようとするなら、批判や反論を受けつけないという態度はおかしいと思います。
批判や反論、質問といったものは、いわば耐久テストのようなものだと思います。

批判や反論を受けつけないというのは、防水時計ですよと言っているのに、防水テストを拒否しているようなものです。
防水に自信がなければ、防水テストはまずいということになります。

同様に、批判、反論拒否は自分の意見に自信がない表明のようなものだと思います。

稚拙な教育論では説得力がない

自分は教育のプロだと言って、大見得を切っているのに、学習指導は「何回も反復練習させる」それで効果がない場合、言ったことをやらない場合は「体罰」という程度のことしか言えないのは情けない感じがします。

これでは、親が、自分の教え方に自信をなくして、塾へ行かせたり、家庭教師をつける意味がないと思います。
プロと自負したいなら、親が手こずっているのに「さすが」と思わせる指導ができることでしょう。

基本が大切と言いながら、自分の子どもを教える基本はどうなのでしょう?

抽象的な言葉の羅列に注意

抽象的な言葉に終止する話(意見)も問題だと思います。

公立学校の現状ブログを運営しているときに数名の教師と議論しましたが、正直全て不毛なものでした。この記事に書かれている教師と同じような感じで、話がずれたり、現実に即さない理想論を語ったりで、話が前に進みませんでした。


これは一例ですが「不毛」というのは、誰が判断してのことなのかということです。
自分が不毛と思っても、他からみたらそうでないかも知れない。
自分の理解不能な部分や嫌な部分を「不毛」の一言で片づけてしまっていると思われても仕方がない。
自分が不毛と判断したら不毛なんだというのなら、驕りでしょう。

「話がずれたり」というのは、ずれる原因が何かを知りたいと思う人はいるでしょう。
ずれる原因は、相手なのか自分なのか具体的にどういう内容なのかがわからなければ、まるで相手が悪くて話がずれると決めつけているようなものです。

「現実に即さない理想論」というのも個人の見解であって、その具体的な話がどうなのかは他からみたらわかりません。自分の独断かも知れません。

人の話を捏造する

これも実際にあった話。

とかく、学校の悪を言いたい塾の経営者に「すべての学校がそうとは言えないでしょう」と意見を述べたら、何か気に触ったとみえて、他人との会話の中で

「(彼の人)は塾や家庭教師が大嫌いだそうです」

と言っていた。
これで、この人は自分の話の都合では、他人が言ってもいないことを勝手に創作してしまう、つまり捏造する人なのだと思った。
(もちろん、私は塾や家庭教師が嫌いだなどとは言っていない。
ちなみに、私は家庭教師の経験もあるし、知人に塾経営者もいて、時々相談を受ける)

自分が言いたいことを主張するのはいいが、捏造はいけない。それだけで子どもに教える資格はないと思う。

そうすると、この人が意見を言う時に持ち出す例は、すべてが疑わしくなってしまう。

真意はどこに?

学校教育の実態をみるに、ひどい事例もあれば、いい事例もある。
とかく悪い事例は目立ちやすく、マスコミにも取り上げられやすい傾向は否めないと思う。

反対に、よい事例(実践)は目立ちにくく、地味であるという傾向があると思う。
(パフォーマンスで良いとみせかけている実践もあるが)

siawase_gakusyuuzyuku.jpg子どもが好きで、子どもの笑顔が見たい、子どもの成長を心から喜ぶことのできる教師たちによって、教育は支えられていると私自身は感じている。
教育は数字だけではわからない部分がある。

しばしば、例に出すのだが、私が小学生の時、放課後理科室に遊びに行くと、いろいろな実験器具を使わせてくれたり、一緒になって水素を作り風船を飛ばした先生。

中学生の時、毎日毎日どじょうの観察をして、博士号をとった先生。
自分でアンプを作って聴かせてくれた先生。
何でも信用して任せてくれた先生。

そういう先生方の思い出は強く心に残っていて、大人になってからも、私のエネルギーになっている。

試験を通過するには点を取らなければならない。
点を取ることだけに意味を見出す人はどのくらいいるのだろうか?

点を取ることだけに、家畜にムチ打つようにされたなら、子どもはますます勉強嫌いになるのではないか?

私は受験そのものだけに、目標を持つやり方に抵抗を感じた。

しかし、高校三年の三学期になって、大学へ行くということはどういうことなのかを感じた時、それは自分の好きなことがやれるんだとわかった時、エネルギーが湧いてきた。

そうしたら、一年以上かかってダラダラとやっていた参考書が、わずかの間に、瞬く間に終わってしまった。
入試まで三か月足らずだったのに、自分でも驚くほど受験勉強がはかどった。

これは、中学時代、オール1だった生徒が、卒業後間もなく整備士の国家試験に合格して私のところにやってきたのと同じようなものだと思った。

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他を悪く言うことで、自分の地位が上がるとでも勘違いしている人はいないか?
受験指導が教育と勘違いしている人はいないか?
わざわざプロという言葉を使わないと、自分のプライドが保てないという人はいないだろうか?
ただ、自分がボスとして君臨したいだけで、子どもをダシにしている人はいないだろうか?

何ごとにも言えることだが、人を選ぶ時は、その人の本音、真意を知ることが大切だろう。

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posted by edlwiss at 15:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年10月13日

特別会計の話はどうなった?

震災の復興をもとにして、税金を上げる案が出されたのはついこの間と思っていたら、今度は年金の受給年齢の引き上げ案が浮上している。
それらの案を練っている人たちは、一体どんな人たちなのだろう。

nihonwokuitsubusu.jpg
そう考えた時、頭をかすめるのは「やらせ」の話だ。
国民に負担を強いる話が出ると、疑心暗鬼を生ずるようになってしまった。

税や年金の案を考える時、会議に集まる人たちはどんな人たちなのか知りたい。
肩書きだけでなく、その人たちの経歴を知りたい。

もっとわかりやすく言うなら、税収を増やす、年金受給年齢を引き上げることによって、利益を得る人たちではないでしょうね。
直接的でなくても、例えば御用学者と呼ばれるような人たちは、案が可決される方向で間接的に得をするわけです。

ある雑誌が「詐欺」の特集をした時「国そのものが詐欺じゃないですか」と言った人がいる。

民主党は政権を取る前は、特別会計に手を入れると言っていた。
国民に負担をお願いする前に、やることがあると言っていた。

今は、全くと言ってよいほど、その言葉は聞かれない。

国の会計全体を見た時、税収をどう振り分けるかは、重要度の高いものから順位をつけて配分するのが妥当だということは、誰もが理解できることである。

塩川正十郎氏が財務大臣の時「こちらはお粥をすすっているのに、あちらではすき焼きを食べている」と言った。
nenkinnouso.jpg国の財政いかんによっては、皆がお粥でも仕方がないと思うのだが、果たしてそういう状況にあるのかどうか、国の財布と使い道を正直に公開してもらいたいものである。

それには、国会で無審査の特別会計の中身と特殊法人の実態を明らかにすべきである。

国会で審議する予算より、はるかに多い特別会計が無審査で使い放題は異常と思う。

疑心暗鬼のついでに、震災復興をネタにその税金がいつのまにか特別会計にとか、年金資金は足りているのに、ごく一部の人たちが潤うための策ではないかと疑いを持ちたくなる。

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posted by edlwiss at 11:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年10月13日

ローカル線の廃止は寂しい



経済的な問題は大きな障害だが、それでローカル線が廃止になるのは寂しい。

人はパンのみにて生くる者に非ずという聖書の言葉が思い出される。

外国に目を移してみれば、SLなど経済効率だけを考えたら存続は難しいものも、人々の知恵と協力によって存続している例を見る。

経済効率だけを考えて、ものごとを処理していくのは、人間を数値だけで区別するような感覚に似ているような気がする。

心だけで何ごともうまくいくわけではないが、心をなくしたら、人間は生きる意欲をなくしていくというのも事実である。

経済的には日本より小さい国が、うまくやっているのに、日本はなぜかだんだんつまらない国になるような気がする。

何がちがうのだろうか。
posted by edlwiss at 10:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年10月12日

子どもが転落しそうなところを再点検したいものです



まさかと思うようなことをするのが子どもとも言えます。

学校もそうだが、高層建築では、こどもが登って転落するようなところはないか点検したいものです。
posted by edlwiss at 14:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年10月12日

頭の中が退化しているのでは?



歳をとるにつれ、頭の中が退化する人はいます。
経歴や肩書きで人を選ばないことが大切と思います。
posted by edlwiss at 00:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年10月11日

学力テストは一体、何を測っているのですか?

gakuryokuteikaronso.jpg学力の向上とか、学力が低いとか高いとか言いますが、学力って一体何ですか?

誰かが主観で作ったテストに「学力テスト」と名づければ、それは学力テストになるのですか?

学校で通常、行われているテストは学力テストですか?

学力テストって、一体、何の目的で何を測っているのですか?

学力という言葉が出る度に、こういう疑問が次々と出てくる。

それは、学力とは何かがはっきりしていないことに原因があると思う。

学力を問題にする人は、学力とは何かわかっているのですか?
そして、学力テストと称して、どれほどの意義があるのかわからないテストの点をなぜ、そんなに気にするのですか?

点数を気にすれば気にするほど、それが学校教育へのプレッシャーになって、点数を気にするあまり、点数を稼ぐことのみに学校の指導が過熱することに懸念を感じます。
それが、過度の競争を生むという不安なのだと思うのです。

それを{競争]=[良いこと]という単純思考で処理されたのではたまったものではないと思うのです。

競争の原理を活用することは、時と場合によっては意味のあることだと思いますが、短絡思考でそれを用いたら「キチガイに刃物」になりかねません。

だから、テストを競争に用いるのなら、一体、それは何のために、何を競争させているのかを明確にしておかなければならないと思うのです。

学力、学力と大騒ぎするのに、学力テストそのものに「このテストは何を測っているのか」とか「テストそのものの妥当性」に焦点をあてて考えるということをしていないのではないでしょうか?

人の能力を測るとしたら、それは国語、社会、数学、理科、英語だけでいいのですか?
なぜ、音楽、美術、家庭、体育はテストしないのでしょうか?

学力テストは記憶力テストか?

学力テストと称するものが、記憶力のよい者に有利に働けば、それは記憶力テストと言えるでしょう。
記憶力のいいことは、いいことに違いないと思いますが、それがすべてではないと思います。

記憶力がすべてならば、コンピュータが最もよいということになり、人間の出る幕はありません。
今日では、記憶力に優れているコンピュータを活用する能力が人には求められています。

学力テストの結果がいいとはどういう効果をもたらすのか

学力テストの結果というのは、車のカタログに載っている、スペック(性能)のようなものなのですか?

人間の場合は、性能というより能力と言うべきでしょうが、学力テストというのはその人の能力を表しているのでしょうか?

私の教え子の中に、中学時代は通知表がオール1で、しかも悪いことばかりして大勢の人に迷惑をかけていた者がいます。
その彼は、現在、会社の社長で会社をうまく経営しています。

彼の中学時代の通知表は何を表していたのでしょう?

学校時代の成績がその人の能力を表しているとは限らない

進学するとしたら、偏差値の高い学校がいいですか?
いいとしたら、なぜいいのですか?
学歴ですか?

(1)A校は偏差値は高くないが、卒業生の就職率もよく、社会で有用な人がたくさん出ている
(2)B校は偏差値は高いが、就職率は悪く、社会に出てからも活躍している人は少ない

(1)と(2)のどちらがいいでしょうか?

偏差値も高い、就職率も高い、社会に有用な人が多いという場合もあると思いますが、私は結果的に、社会に有用な人物が多く出ている学校がいいと思うのです。

では、どういう学校がいいのでしょうか?

それを一言でいうなら、よい教育を行なっている学校と言えるでしょう?

よい教育とは何か、これは非常に難しい問題です。
簡単に答えは出ません。

でも、はっきり言えることは、

(1)よい教育を行なっているかどうかは、現行の学力テストと言われるものではわからない

(2)学力テストや偏差値にかかわらず、卒業生が社会に出て活躍している学校は、よい教育を行なっているだろうと推察できる

ということではないでしょうか。

単純な考えで、教育改革が教育改悪にならないように

強烈なリーダーが、多くの国民の心を掴んで、ファッショに走った例としては、ナチのヒトラーは有名です。
そして、多くのユダヤ人虐殺を行ったわけです。

この日本で、政治による虐殺が起こる恐れはないですが、単純思考のファッショが台頭し、多くの有用な子どもの未来を抹殺することのないように望みます。

それには、大人の「変な煽動者」に注意すべきだと思います。

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posted by edlwiss at 14:20 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年10月10日

人にモノを教える者としての良心

私は音楽大学を卒業していないが、音楽の指導者(吹奏楽)として<
ある団体を指導している。

ある団体というのは、ここでは公的な団体と言っておこう。
メンバーはクラブ活動ではなく、本業として演奏活動を行なっている。

私がこの仕事にに就くにあたっては、履歴書を提出する必要があった。

しかし、音大を出ていない私がなぜこういう仕事をしているのかということだが、それは音大出身者の推薦があったからである。

今、私は自分のことを何か自慢したからこんな話をしているのではない。

資格を必要としない仕事には注意する必要がある

医者に医師の免許が必要なように、仕事には資格が必要なものと必要でないものがある。

私があえて言いたいのは、資格が必要な仕事に注意ではなく、資格を必要としない仕事に注意である。

理由は、資格が必要な仕事にはチェックがあるが、そうでない仕事にはチェックがないからである。

チェックが必要でない仕事はいい加減でもよいかというと、そんなことはない。
何でも資格を作ればいいというものではないが、影響を考えると、資格がなくても注意を要するものがある。

その一つが子どもにモノを教えるということである。

学校の教師は教職の資格と採用試験という関門があるが、塾の講師や家庭教師にはそれがない。
それでも、塾の講師や家庭教師を派遣する会社などでは、採用、不採用の関門があると言えなくもない。

しかし、個人経営の塾や個人の家庭教師となると、第三者が介入して審査するということがない。
だから、個人の塾や家庭教師は、もっぱら本人の良心に委ねるということになる。

自分の匂いは自分ではわからない

他人の家には、その家独特の匂いがある。それは独特の臭いであったりする。
それがよい匂い(臭い)だったらよいのだが、不快な匂い(臭い)の場合が問題である。

厄介なのは、自分の匂い(臭い)は自分ではわからないということである。
そして、他人は「嫌な匂い(臭い)がしますね」とは言ってくれない。

同様に、自分の力(指導力)も他人からみてもらわないとわからないものだ。
他人を見て、あれこれ批判をしたところで、自分はどうなのかわからない。
始末の悪いのは、自己顕示欲ばかり強くて、自分のことを自分で凄いと言っている人だ。

以前、プロになりたかったが、なれないのを知って、方向転換した人の話をしたことがある。
彼は、とても自己顕示欲の強い人だった。
だから、その方向転換がよくなかった。

プロの悪口を痛烈にするようになったのだ。
その姿はみっともないものだったが、誰も忠告してくれる人はいなかった。
楽器でプロになれなかった彼は、指揮者をやることにした。
指揮者をやると言っても、プロの指揮者ではない。
プロの指揮者にはなれないということは、彼自身がよく知っていたと思う。

では、なぜ指揮者をやることにしたかというと、指揮の良し悪しがわからない人が多いからである。
都合のいいことに、指揮者は楽器を演奏しなくてよい。

何か格好をつけていると、すごい指揮者なんだと思ってくれる人も多いのだろうと思う。
もちろん、プロをごまかすことはできない。

だから、彼はアマチュアを集めて楽団を作ることにした。
そして、その中で威張り放題だった。
何が本物かわからない連中の前で、俺は偉いのだと、まくしたてていた。
そんなに凄いのなら、指揮者コンクールに出て入賞することを考えたらいいのだが、その実力は本人がよくわかっているからできない。

私は、これと似たような、個人の学習塾経営者、家庭教師がいることを発見した。

指揮者になるのは簡単である。なりたいと思った時から「俺は指揮者だ」と宣言すればよい。資格も何も必要ない。
名指揮者、カルロス・クライバーは工業大学の出身者だ。彼は、世界有数のオーケストラを指揮して、大人気だった。

趣味の電気工作

何で、いきなり電気工作?と思う人がいるだろうが、少し我慢しておつきあいください。

私は子どもの頃から電気工作が好きだった。そういうものを作ることが好きだったわけだ。
電気回路そのものはわからなくても、実体配線図というものがあって、その絵のように作れば完成するので困ることはなかった。

そんな趣味にとりつかれていると、周りは電気の得意な人だと思うようだ。
しかし、そんなに理論がわかっているわけではなく、何回もやっているうちに「慣れ」になってくるだけである。

それでも、友達同士の話では、あたかも自分はわかっているかのように得意になって喋る。
今思うと、その得意になって喋った中身に、たくさん間違いがあったことに気づいているが、電気に興味のない者から見たら、それこそプロのように見えたかも知れない。

だから、扇風機が回らないとかラジオの調子が悪いとなると、きっと、あいつなら直せるだろうと思って持ってくる人もいた。

そんな時は、適当にカンを頼りに処したものだった。

電気工作の雑誌を買っていたが、途中にマンガがあった。
今でもよく覚えているものに、ラジオの修理方法をおもしろおかしく描いていたのがあった。
それは「空手チョップ法」というものであった。
これをわざわざ説明するまでもないと思うが、鳴らないラジオは叩いてみるというものである。
それで、ガガッと音を立てて鳴り出すラジオも実際にはあった。

こんなやり方は、言うまでもなくプロではないのであって。
本当に修理屋をやるなら、きちんと理論を学ばなくてはならない。

ともすると、個人の学習塾や家庭教師は似たようなことになりやすい。
指導に行き詰まったら、空手チョップ法かも知れない。

以前より下火となったとは言え、オーディオフアンはかなりいるようだ。
フアンにもピンからキリまであって、適当な自己満足をぶちまける人もいる。

オーディオは最終的には耳で聴くものだから、それが全ての結果であり、個人が満足するならそれでよいのだが、それでも、絶対に間違っていると言うことを堂々と述べている人もいる。

オーディオもスピーカーの規格に書いてある、インピーダンス、dB、Wなどやアンプのダンピングファクターなどがわかっていないのに、恥知らずの理屈をまくしたてるからおかしくなるのである。
スピーカーの規格に書いてあるW数が、スピーカーの消費電力と思っているなどは論外である。

こういうことは、教育にも言えるのであって「こうやったら、ああなった」という実践は大切だが、その下地には教育学や教育心理学が必要であり、自身その心得がないのに、基本が大切などと言っているのは笑い話である

ブログを作って、教育がなんだかんだと言っているくせに、質問・反論禁止、議論はしないということで、自分に都合のよい意見しか聞かない載せないというのは、原発のやらせ集会と同じではないでしょうか?

むしろ、質問や反論をクリアしてこそ本物と言えるのではないでしょうか?

本音を見抜く必要がある

私的に子どもを教えている人の本音が、どこにあるのか知る必要がある。

自分の生活のためか?

子どもを教えることが好きだからか?

地域に貢献したいからか?

自分が教師になれなかったために、現在の学校の悪口を言うように方向転換したのではみっともない。

daisugakusya.jpg
NHKの番組に、社会で活躍している人を先生として招いて授業をやってもらうというのがあった。
名古屋の河村市長は、同様に社会で活躍している人を、学校に招いて授業をやってもらおうというプランを考えている。

我こそはと思う、塾経営者や家庭教師は採用してもらえるようにしたらどうか。
そうでなくても、地元の学校の授業を時にやらせてもらったらどうか?
自信があるのなら、学校の教師の悪口を言っていないで、実際にやってみせて「さすが」と感じさせればよい。

採用試験も受からない。塾講師になったものの、クビになった。一人で家庭教師をやるしかない。それでも反省がない、では救われない。

本当に子どものためになってやりたいと思うのなら、無償で教えてもいいのではないか。

私は、学校の勉強に遅れて困っている、さりとて塾や家庭教師の費用は出せないという子どもがいるのなら、タダで面倒をみてもいいと思っている。

中学校で吹奏楽部を担当した時、入部した子どもの楽器を決める時はプロのオーケストラの人たちに来てもらって決めていた。
それは、素人の私が安易に決めてはいけないという良心だった。

自分の希望する楽器でなかった生徒がいたが、当初、彼は落胆していた、でも、その後、決められた楽器で練習するうちにみんなが驚くほど上達し、その後彼は音大に進み、今はプロで活躍している。

私は、彼が部活に在籍している時「これは、私が教えていてはダメだ」と思い、プロの先生を紹介してやったという経緯があった。

それは、天才数学者ガウスがどうして誕生したかということが書かれた「大数学者」という本を読んだことがあったからだ。

人にモノを教える立場にあるなら「オレが教えていていいのか」ということを絶えず考える必要があると思う。

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posted by edlwiss at 23:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年10月10日

2011年10月07日

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