2011年11月30日

2011年11月30日

2011年11月29日

ゆっくりていねいに、は指導の基本

jibunsyugi.jpgゆっくりていねいに、はメリハリがないという人がいますが、それは間違っています。
メリハリがないというのは、全体の調子が同じ、つまり単調だということです。

そもそも、ゆっくりていねい、とメリハリがないとを同じ舞台に乗せて語ることが間違っています。
教育関係者なら、特に注意しなければならないことです。

説明をする時は、大切な部分では少し話すテンポを落として、言葉を明確に話すべきです。
これが、メリハリのある話し方なのです。

意見を言う場合でも、報告する場合でも「結論を先に言ってから、理由(経過)を言う」が基本です。
(これは、小学校3年で学習するレベルです。)

話は変わりますが、利己主義と個人主義はしばしば混同して使われます。
これも、特に教育関係者は注意して使わなければいけない言葉だと思います。

こういう「○○主義」という使い方で、私は利己主義でも個人主義とはまた違った主義の分類の人がいるような気がしてきました。
それをあえて名付けるなら「自分主義」と言うのが、しっくりするのかなと思います。

勝手に言葉を作ることは慎まなければいけないと思いますが、一言で言い表すには、この「自分主義」が都合がよいと思っています。

私の言う自分主義(の人)とは

「何でも、自分の吐く言葉が基準になってしまう人」

のことです。

何年も前から、私はこういう人が気になってきました。

「その意味は辞書で調べると、違いますよ」

と言うと

「辞書というのは、それぞれの人の頭の中にあるものだ」

という返事が返ってきました。
このような人は、自分が一方的に意見を発信するだけで、反論や議論を避ける人が多いような気がします。

自分主義は、いわゆる我流に通ずるものがあります。

我流というのは、私が最も恐れることの一つです。

私は昔から音楽に携わってきましたが、7年ぐらい習ったところで、私の奏法が我流であることがわかりました。
その時、私は決心してそれまでのやり方を捨てました。
そして、新たな出発をしました。

我流は音楽だけに限りません。

学問においても同じです。

自分主義に陥ると、我流が入り込んでくる恐れがあると思います。

「先生」などと呼ばれるようになると、つい自分の発する言葉はすべて基準(正しい)と錯覚してまうのではないかと思うのです。

かつて、ある高校へ指導に行っていた時、一人の女生徒から「先生の言うことは、何でも正しいのですか?」と言われたことがあります。

私はその時、それを素直に考えて見ました。

歳を取っただけで、何か自分が偉くなったような錯覚を持つ人。
肩書きをもらうと、急に偉くなったように錯覚する人。

そういう人を見るにつけ、自分はそうなりたくないと考えています。
だから、講習会、講演会の案内がある時、別件と重ならない限り出席するようにしています。

歳を取るにつれ、自分に意見をしてくれる人は少なくなります。だから、子どもからも率直に話しかけやすい雰囲気を持てるようにしています。

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posted by edlwiss at 22:04 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年11月28日

「ゆっくりていねいな説明」はよくないですか?

同業の後輩と指導の話をしていると、全員が、「分かりやすい授業を目指したい」と言います。

「分かりやすい授業とはどんな授業ですか」と質問すると、「ゆっくりとていねいに」との答えが返ってきます。
その答えは、我々にとっては、大間違いということになります。
そんな授業をしていたら「分かりやすい授業」はできません。

会社で、従業員から何らかの報告を受ける場合、簡潔明瞭な報告とダラダラと長い報告のどちらがよいでしょうか。言うまでもないですね。
学校の授業で眠たくなる授業がありましたよね。
それは、どうしてでしょうか。説明にメリハリがなくて、平面的で、まるでお経のような話し方だったからですよね。

説明は「ゆっくりていねいに」という考えが、大きな誤りなんです。
ゆっくりていねいとは、言い換えれば「ダラダラとしつこくて、メリハリがなく押し付けがましい」ということなんです。
要約する力や効率的な方法のない方法でせつめいしているわけです。
その上「問題解決型学習」などを盛り込んだら、さらに子どもたちの学ぼうとする意欲をなくしてしまうものだと言えるでしょう。

「授業の心得で大切なことは」と質問したら「ゆっくりていねいに」とか「子どもたちの自主性を尊重する」などと言う人は、それだけで指導者として失格だと我々は思います。です。
知人が、子どもの担任に聞いたら、答えは予想通り「ゆっくりとていねいに」とか「仲よく楽しく」と言う言葉が返ってきたそうで、がっかりしました。


こう言っている人がいて、あきれました。

minnabaka.jpg「電線は細い方が電流の勢いがよくなる(速くなる)」という考えにも驚きましたが、それに劣らない驚きです。

「ゆっくりていねいな説明」を否定するということは「急いで、ぞんざいな説明」がいいということになります。

文章を読んでいくと「説明にメリハリがなくて、平面的で、ダラダラとまるでお経のような話し方」を「ゆっくりていねいな説明」と同意と考えているとわかります。

説明にメリハリがあることは大切です。
しかし、メリハリがあるということは「要点とそうでないところの調子を変える」ということです。
具体的には、特に要点は、相手が聞き逃さないように、印象的にゆっくりと話す」ということです。
また、要点はわかりやすく話さなければなりません。それは「ていねい」と言うことでもあります。

ダラダラとメリハリのない話は、確かによくありません。しかし、それは「ゆっくりとていねいな話」と同意ではありません。

「ダラダラとメリハリがない」と言うのは、話し方にムダが多く、調子が同じで大切なところを強調しないやり方と言えます。

特に大切なところは、ゆっくり、声を大にして話すべきであり、これは「ゆっくりとていねい」な話し方です。

話が長いということは、話さなければならない内容が多いか、話す内容は多くないがムダが多いということです。

注意すべきは「ムダ」です。

zyosini_baka.jpg話すべき内容が多くて、長い時間が必要な場合は、聞き手の心理を考えて、疲れないように、眠くならないように休憩をとったり指導計画を考えるべきです。

指導経験のある人はわかると思いますが、指導(説明)はゆっくり、ていねいにが大原則です。

斉藤喜博・氏の著書に「教育の演出」という言葉がありますが、これは「授業の演出」をも示唆していると言えます。

私の通った小学校は田舎にあったため、授業のとき、担任の先生はしばしば野山に連れて行ってくださいました。

昆虫採集などをしました。
行って帰ってくると、1時間以上かかることもありました。

教室に帰って、学習の整理では、何を学ばなければいけなかったのかというと、昆虫は頭と胸と腹の3つに分かれていて、羽が4枚、足が6本ということです。

ずいぶん時間をかけて、テストに書けばいいことは「昆虫は頭と胸と腹の3つに分かれていて、羽が4枚、足が6本」ということだけです。

たった、それだけのことを子どもに学ばせるために、それだけの演出をしているのです。

勉強嫌いの子どもが多くなってきたと思うのは、そういう経験(演出)がなく、ただ体の部分の数、羽の枚数、足の数を覚えさせることだけにしたことが原因ではないでしょうか。

理科の勉強とは「数」を暗記することというパターン、が子どもの頭に刷り込まれてしまったのです。
これでは理科好きな子どもが増えるわけがないと思うのです。

1時間の授業において、子どもに教えたいことはごくわずかです。しかし、そのごくわずかを印象づけるために、授業では演出を工夫するのです。
子どもがコンピュータのような機械なら、プログラマーがデータを入力するだけです。

でも、子どもは人間ですから、そういうわけにはいきません。

日本はロボット技術においては、世界でも先進的と言われます。
特に、人型ロボットにおいて優れていると言われます。

今日、そのロボットを作ってきた人は、少年時代に手塚治虫氏の鉄腕アトムに刺激された人が多いと言われています。

教育には「子どもの心をときめかせるもの」が大切だと思います。

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最大の問題点は「ゆっくりていねいに」を否定するバカな人がいるということではありません。

そういう意見を言うときに「言うだけ」で、他人の言葉に耳を貸さない態度です。
質問禁止、議論禁止、賛成意見だけ許可という態度です。

この態度って、過去、戦争に巻き込んだ為政者たちと同じ姿勢ではないですか?

教育行政に意見することはいいことですが「オレの言うことだけが正しく、オレ以外はみんなバカ」という態度は、モンペア同様、モンスター塾長ではないでしょうか?

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posted by edlwiss at 22:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年11月26日

「わかる」と「できる」の違いがわからない指導者は多いのですか?

「できる」と「わかる」は似ているようだが、実は大違い。
公教育と私教育の区別がなく、ここのところをきちんと押さえていない指導者が多い。長年指導しても、指導力が発揮できない人は、こういうこと(「できる」と「わかる」の違い)が、さっぱりわかっていない。・・・「わかる」を「できる」にするためには、演習を繰り返すしかない。つまり、反復練習するしかないのです。こんな単純な理屈が理解できない指導者が多いのです


このようなことを言っている人がいるのに驚きました。

まあ、どんな程度かと言うと

「胃や心臓がどこにあるのか、わからない医者は多いです」

と言っているぐらいの程度と思う。

辞書で調べてみると

************************************************************************
わか・る【分(か)る/解る/判る】
[動ラ五(四)]1 意味や区別などがはっきりする。理解する。了解する。
「物のよしあしが―・る」「言わんとすることはよく―・る」「訳が―・ら
ない」2 事実などがはっきりする。判明する。「身元が―・る」「 ...
【大辞泉】

で・きる【出来る】
[動カ上一]《カ変動詞「でく(出来)」の連体形「でくる」から》

いままでなかった物事がつくられて存在する。新しく物事が生じる。発生する。
出現する。「水たまりが―・きる」「にきびが―・きる」「急用が―・きる」
「―・きたことはしかたがない」
【大辞泉】
*************************************************************************

この発言者は「わからないことは、自分で調べてみることが大切だ」と言っていた。
しかし、自分は辞書で調べたことがあるのか?

「わかる」と「できる」という言葉はそもそも、比較の対象にすべき言葉ではない。
比較の次元が違うのである。

リンゴと自動車を、同列に比較しようとしているようなものである。

jukucho.jpgだいたい、「できる」と「わかる」の違いがわかっていない指導者が多いと言う根拠はどこから来たものなのだろう?
どうやって調べたのか?
また、それが公教育や私教育と、どう関係があるのだろう。

自宅の近くにスイミングスクールがある。
そこには、水泳の指導者がいる。

クロールはどう泳ぐ、平泳ぎは・・・、バタフライは・・・と説明して、生徒がそれを理解した(わかった)から、泳げるようになる(できる)と考える指導者はどのくらいいるのだろう?

そんな指導者は、ほとんどいないのではないだろうか。

自動車学校は何のためにあるのか?

自動車の運転の仕方を知る(わかる)ためだけなら、自動車学校に行く必要はない。

ピアノを弾くようになるのだってそうだ。
どうやって弾くのかぐらいは、本でわかるのだが、それだけでは弾けるようにならないので、先生を見つけて習いにいくのではないか?

この人は、とかく、学校の教師は指導力がないと言いたいようである。
しかし、今回の意見は誠にお粗末。

学校の教師でなくても、普通の思考の持ち主なら「わかる」と「できる」の違いなど嫌というほどわかっているのではないか?

大人でなくても、子どもも、違いはわかっていると思う。

「できる」ということに関しては「わかる」とは関係なく「できる人」もいる。

俗に天才肌と言われる人に、多く見られる。
できてしまうのだが、どうしたらできるかは本人にはわからない。
だから、できる人が必ずしも良い指導者とは限らない、とはしばしば言われることである。

「できる」ことだけを目標にするのなら、必ずしも「わかる」が必要でない場合もある。
また「わかる」だけでよい立場の人もいる。

はじめに「わかる」で、つぎに「できる」にするためには「反復練習」を何回も繰り返すしかないと考えるのも、いかにも素人っぽい。

もっと、教育学を勉強したらどうなの?と言いたい。

「・・・という指導者は多いです」の類の妄想を続けると、あなたの塾の信用低下にならないですか?

あなたが本当に優れた指導者なら、どこかで声がかかるはず。
もし、そういう経験があるのなら、その実践を紹介して「さすが」と思わせるものを発表したらどうですか?

その方が、あなたの塾の人気が出るのでは?

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posted by edlwiss at 20:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年11月25日

学校の悪口で塾が流行るようになるか?

juku.jpg塾経営者で、ことあるごとに学校の教師の悪口を言っている者がいる。

あえて「悪口」と言うのは、どうも「揚げ足取り」にみえてしまうからである。

良い面、悪い面、いわゆる批判はよいことである。
指摘を謙虚に受け入れることで、改善につながることは望ましいからである。

私が揚げ足取りにみえるというのは、ある一部の子どもだけを見て、それがあたかもすべてであるかのように言っていることである。

だいたい、学校というところは一斉指導(一斉授業)が中心であり、一定のカリキュラムに沿って進んでいくわけである。

そのカリキュラムや、進度を、全ての子どもに合わせることは困難である。

では個別指導がいいのかと言うと、それも万全の方法ではない。

一斉指導、個別指導はそれぞれ長所短所があり、何を指導するのかという題材、指導の目標によっても違ってくる。

だから、一斉指導、個別指導は使い分けることが必要である。

しばしば言っていることであるが、だいたい、学校と塾では目的が違う。
教育は学校の専売特許とは言わないが、教育の大きな部分を担っていることは間違いない。

もっと言えば、学校は予備校ではない
予備校は、専ら試験においていかに得点を稼ぐかが目標であるのに対し、学校はそうではない。

私も受験勉強を少しばかりやったことがあるが、ある受験参考書の欄外に学問は人を作るためにあると書いてあったことを印象深く覚えている。

受験は、いかに試験を突破するかが目的だが、学問はそういものではないと言っていたのだ。

塾、いわゆる学習塾と言われるものが、学校に向こうを張って競争すること自体がナンセンスである。

ファミリーカーとF1のレーシングカーで競争しようと言っているようなものである。

レーシングカーは速いが、速いからと言って一般の社会生活に適するかと言えば、そんなことはない。

リンゴ園では、どの木にも肥料が行き渡るように、また、その他の世話も偏りなく生育に力を入れる。

しかし、どうしても全部が同じリンゴには育たない。

あるリンゴ園で未成熟なリンゴを発見した時「このリンゴ園では、リンゴがよく育っていない。一体、どういう育て方をしているのだ(ここの農園主は育て方が下手だ)」と言うだろうか?

小中学校にあっては、子ども全員が学校に行くと言ってよい。
義務教育はすべての子どもを受け入れるのである。

人間とリンゴを同じにはできない。
リンゴは出荷前に、商品とならないものは捨てればよい。
しかし、子どもをそういう扱いにするわけにはいかない。

特に人間の育ち方というのは、一律ではない。
そこに「教育という視点」が要ると思うのである。

中学時代のテストの成績は、最下位の部類、通知表ではオール1であっても、卒業後何年か経って、ある会社の社長をやって立派な経営をしている者もいる。

では、その者が中学時代の先生たちを悪く言っているかというと、そうとは限らない。
「中学の時、先生に教えてもらったことが、今、身に染みています」
と感謝の言葉を言う者もいる。

子どもの時、パッとしなくてもその時受けた教育がエネルギーとなって蓄積しているということがある。

塾経営者が学校教育に挑戦しようと言うなら、質、量とも学校と同じ環境を揃えなければならない。

実際、私塾から学校経営に発展した立派な人々は、何人もいる。

学校とは何か?

1.良い先生
2.良い設備

の揃った学校が「良い学校」である。

東大が良いのも、良い先生がいて、良い設備があるからである。

塾がそういう物を揃えられるか?

たまたま、未熟なリンゴを発見して、そのリンゴ園は良くないなどと言っても、あなたの商品がよく売れるようになるわけではない。

みっともないだけである。

「学校はひどいから、うちの塾に来ると立派になれる」と言えるのですか?

断っておくが、私は塾や家庭教師が嫌いなどと一言もいっていない。

塾にもひどい塾もあれば良い塾もある。
家庭教師も同様。

他人の発言を捏造して言いふらす、あなたの塾は「ひどい塾」の方でしょう。

なぜ、塾へ行く子どもがいるのか考えてみたことあるのですか?
問題があるから塾へ行こうとするんじゃないですか?

健康な人が医者へ行かないと同じですよ。

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2011年11月24日

ブログの作成(2)

今日は、かなりブログの完成に近づきました。

表面的には、ほとんど完成のように見えますが、まだ足りない機能もあります。

ですが、コメント欄も作りましたので、よろしかったらこちらへもご訪問ください。

まだ、大した投稿もしていませんが、こちらは日常の平凡なできごとを書いていきたいと思います。

http://all.fp-guide.com/

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2011年11月23日

ブログの作成

ブログの作成と言うと、ブログを書くことと思う人がいるかも知れません。
今回はそういうことではなく、ブログそのものを作ろうと言うことです。

と言っても、ブログを全くゼロから作るのは大変なので、基本をWordPressにしています。

今、記事を書いているブログは無料の、有名なブログですが、無料のブログと有料のブログではそれぞれ一長一短があります。

また、有料のブログと言っても、今回はレンタルサーバーに契約して、そのサーバーに自分の作ったブログをアップロードして公開するものです。
だから、業者が提供している有料のブログとは違います。

ブログを作成すると言っても、作成する部分は「テーマ」と呼ばれる、デザインの部分です。
基本的な知識としては、HTML/XHTMLとCSSを理解していることが必要です。

HTML/XHTMLとCSSの練習としても作成しているわけです。

wordpress.jpg

今回使った参考書は、WordPress レッスンブック 3.x対応で、使ってみると、大変よくできた本と思いました。

作成中のブログは、ドルチェの日記と題しています。少しずつ完成していきます。
と言っても、3割ぐらいは進んでいるという感じです。

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2011年11月18日

免許更新制

教員の免許更新制が一時、よく話題になりましたが、現在の論議はどうなっているんでしょう。

ところで、私はファイナンシャル・プランナーなる資格をとったのですが、この資格は、はじめから資格更新制で、2年ごとに所定の単位を更新しないと資格が無効になってしまいます。

資格をとって10年以上になるので、もう何回も更新しているわけです。
資格更新の意図は、一度試験に受かっただけでは、力は落ちるだろうということで課されているのだと思います。
まあ、ペーパードライバーのような人をなくすということだと思います。

資格更新があるということは、やはり気になります。
そのせいか、テレビも経済関係の番組はよく観るようになりました。

ファイナンシャル・プランナーが勉強しなければならないのは、金融資産の運用設計、不動産運用設計、ライフプランニング・リタイアメントプランニング、リスクと保険、タックスプランニング、相続・事業承継設計と広範囲に及びます。

これらは、既存の公的資格、宅地建物取引主任者、税理士、弁護士、司法書士、保険代理店などの仕事と重なる部分があります。

そのため、それらの資格領域を犯さないように行動することが定められています。
ですが、ファイナンシャル・プランナーという資格は、この資格だけでなく、プラスタの資格という人が多いです。

それは、例えば税理士というと税金のオーソリティと思われがちですが、税理士がみな節税対策に長けているとは限りません。
だから、税理士+ファイナンシャルプランナーという人も多いわけです。

つまり、現在の社会では一つの資格だけでなく、その資格を生かすためにコンサルタント能力があるということが求められているのです。

保険にしても、昔は保険というと保険のおばさんというイメージが強く、その営業方法もGNPと言われていました。

G・・・義理
N・・・人情
P・・・プレゼント

であり、国民総生産の意味ではありません。
おもしろいことに、フリー百科事典「ウィキペディア」では、GNPの意味として、国民総生産義理・人情・プレゼントを用いた商法と両方の意味が載っています。

近年、保険の販売にGNPが通用しなくなったと言われ、保険会社各社は何人ファイナンシャル・プランナーがいるかということを気にしている。
銀行でも、この資格取得を社員にすすめるようです。

教員も60才定年後どうするかという問題があります。
というのは、長生きになったため、それから約20年ほどの人生があるわけです。

年金生活で悠々自適という考えもありますが、この先どうなるのかという不安を持つ人も多くなってきたと思います。
それは、この国の最大の欠点とも言える、政府が信用できないということだと思います。

だから、年金は年金として、60才で引退ではなく、人生のひとつの通過点と考えた方がよいと思います。

教員の資格・経験、それはそれで意味があるものだと思いますが、教員もその資格プラスワンを考えた方がよいのではないでしょうか。

私はファイナンシャル・プランナーの資格を取る時、ある人から「あなたは試験のプロでしょう」と言われました。
皮肉もあったのかと思いますが、そう言われる以上、下手な成績はとれないなと思いました。

現役の先生に言いたいのは、現役中に鍛えてプラスワン資格を目指してもらうことが、自分が錆びつかないことでもあり、それが児童・生徒たちに生き生きと映るのではないかと思うことです。

私は、最近、資格更新のために勉強はしなければならないのだから、知識のまとめ、確認のためにドメインだけ取得して放置していたホームページを一新することにしました。
http://fp-guide.com/

興味を持たれた方は、訪問してみてください。

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2011年11月16日

このドラマはフィクションです・・・実在の・・・

教育に関して書かれているブログを見ると、リアリティの感じられないものもある。

テレビドラマの最後には、よく「このドラマはフィクションです。実在の団体や個人とは関係ありません」と断った方がよいのではないかと思われるものがある。

荒れた学校に赴任して、先生たちがまじめに授業をやっていなかったのを見た。それで、私が授業をやると、子どもたちは熱心に授業を受けた。彼らは「学ぶ喜び」に飢えていたのです。


というのもあった。
えっ、そんなに簡単なことなの?
と思う。

だったら、他の先生ははじめから授業にまじめに取り組んでいなかったんですか?
それとも、荒れていてどうしようもないから、そうなったということはないの?
それで、あなたはどういう授業をしたんですか?

等々、数々の疑問が浮かんでくる。

学校の悪口専門のようなブログもある。
その筆者は塾経営か家庭教師をやっているようだ。

私はあえて学校のカタを持つつもりはない。批判することは悪いと思わない。
学校という生き物がいるわけではなく、実体は子どもと教師の集まりである。
たくさんの人がいるのだ。
人がたくさんいると、いろいろな人がいる。それらの人たちをひと括りにして、いいとか悪いとかなんてとても言えるものではない。

「学校は・・・」と書きだすと「全ての学校」という集合体を指すことになる。
「三角形の・・・」と三角形の集合で書きだせば「内角の和は180度である」なんて言えるが、学校という大きな集合体について、一言で表せるような言葉はごく一般的な意味しか考えられない。

最近は、元官僚経験者という人がテレビでパネルディスカッションなどに出て、官僚組織の実態について説明することがある。
組織の中にいたという経験があるから、話はよくわかる。

学校の悪口をことあるごとに語っている、その塾経営者もしくは家庭教師は学校で教師をした経験があるのかというと、それはないと言う。
しかし、話によっては、まるで中にいたような話をする。

ということは、当然、フィクションである。

出版されているフィクションと言われる小説の多くも、実はかなりの部分がドキュメンタリーであったりする。

ドキュメンタリーで本を書くことは大変だと思う。
それは、登場する他人のフライベートなどはわからないからである。
「きっと・・・に違いない」と思っても、自分が現場にいなかったことを書くのは想像であり、つまりフィクションである。

まして、実際に教師の経験をしないで、あたかも学校の内部を知っているかのように書くのは、当然フィクションである。

だから「このドラマ(話)はフィクションです。実在の団体や個人とは関係ありません」と断って書いた方がよいと私は言いたいのである。

その辺は、気が咎めるところもあるのか「知り合いの教師から聞いた話ですが」とか「教えている生徒の話ですが」という断りが入ったりするが、聞いた話というのは「伝聞」と言って、証拠にはならない

だいたい、聞いた話というのは、話し手が聞き手に対して、この人はどういう話をしたら喜ぶのかということを察して話すことが多い。
まして、聞き手が学校嫌いとなれば、学校の悪いところを話した方が受けがよいと考えて話すことも多いのである。

それを、鬼のクビをとったかのように「今の学校の現状は・・・です」と書くのは、低レベルである。
そういう彼の書いたものを読むと、学校は毎日のように教師が犯罪をやっていて、まるで学校は犯罪の巣窟みたいである。

この人の言い回しによると、大勢の中に一人でも犯罪者がいると、全体が犯罪者の集まりになるらしい。
その論法で言えば、日本は犯罪の国であるとも言える。日本は殺人者の国であるとも言える。

私が「あなたが、そんなに教育に憂いを持っていて、嘆くのなら、あなたが学校の教師になっていって改革したらどうですか?」と言ったら
「それは嫌です。そんなことしても、中で流されてしまうだけですから」となんとも情けない返事だった。

そして、彼のブログは「議論になるようなコメントは禁止」だそうで、早い話、彼にゴマすったり、同意する投稿だけ許可ということだ。
つまり「言いっ放し」のブログということなのだ。

「聞き上手」になれという言葉があるように、一方的に勝手に発信するのではなく、自分に対する批判を受け入れるのでなくては、大した人物ではない。

しかし、この人、「プロ」とか「一流」とか「二流」とかの言葉が好きなようである。
そして、自分はプロと思っているらしい。

自分に都合の悪いコメントを書く人は、ip制御で閲覧禁止にするようだが、今時そんな手は古いということもご存知ないらしい。
Proxyを使っていくらでもアクセスできることをご存じないらしい。

自分のやっていることを客観的に見ることができたら、そもそも自分が子どもを教える人格に欠けるということに気づくはずなのだが。

「このブログはフィクションです。実在の団体や個人とは関係ありません」とタイトルを変更してください。



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2011年11月12日

生徒たちからの、忘れられない贈り物

先日、NHK-FMからハッとする合唱が聴こえてきた。

故・平吉毅州(ひらよし たけくに)・作曲「ひとつの朝」である。

この曲は、中学校の合唱コンクールでもよく取り上げられる、平吉毅州氏の名曲である。

この曲を聴くと、3年6組がよみがえってきて、まるであの教室に戻ったかのような気分になる。

その日は、合唱コンクールで歌う曲を決める学級会だった。

級長:「では、合唱コンクールの曲は○○にするということでいいですか・・・」

この言葉に、私は、これはまずいと思った。

私:「ちょっと待て、それはダメだ。それは合唱ではない」

生徒たちの選んだ曲は、歌謡曲だった。
私は歌謡曲がいけないというつもりはなかった。
ただ、曲が合唱の形をしていなかったので、合唱コンクールで斉唱はまずいと思ったのだ。

生徒1:「先生は、自分の好きな曲を、私たちに歌わせたいので、反対するんでしょう!」

生徒たちの空気は、そうだそうだという雰囲気になった。

私:「いや、そうではなく、君たちの選んだ曲は合唱でないからダメだと言うんだ」

生徒たちは、納得するという様子ではなかった。
私は、合唱というのは、複数の声部から構成されていて・・・と合唱の説明を試みた。
それでも、生徒たちは、自分たちの選んだ曲が否定されるということで、気持ちは変わらないようにみえた。

生徒たちにしてみれば、私が理屈をつけて、私の好きな曲にさせようとしているのだという気持ちに固まっているような気がした。

私は困ったなあと思った。
少し、教室内がざわめいた。そして、私語が多くなった。

しばらくして、

「そうか、合唱というのは、こういう曲じゃなくて、音楽の時間にやった、グループに分かれてやるやつか」

と言ったのは、いつもちょっとツッパリ気味の文雄だった。

私のクラスには、オレは勉強には関係ないという顔をしたツッパリの男子生徒が二人いた。
二人はまるきり進学したいという気持ちは持っていなかった。
文雄は、早く卒業して、金を稼いでバイクを買いたい、ということばかり考えていた。

生徒たちは、文雄の言葉に、エッという感じになった。
すると、少し空気が変わったようで、また生徒同士のザワザワいう話し声が多くなった。

そして、

「先生、私たち曲を選び直します。少し時間をください」

それで、その日は、曲は決まらず学級会は終わった。

私は、生徒たちが中学校最後の思い出として、先生に言われる曲でなくて、自分たちの好きな曲にしたいという意向を感じた。
だから、きっと歌謡曲でも合唱の形になっているような曲を探してくるんだろうと、私は思っていた。

翌日の帰りの会の時、

「先生、私たち合唱コンクールの曲、選びました」

副級長が私に一枚の紙を差し出した。
紙には、平吉毅州・作曲「ひとつの朝」と書かれていた。

私はびっくりした。
それは、生徒たちの選んできた曲が、歌謡曲の雰囲気とはまるで違う、典型的な合唱の中の合唱というクラシックな曲だからだった。

「おいおい、君たちは先生に気を遣って曲を決めなくていいんだよ」

「いいえ、そんなことはありません。私たち話しあって決めました」

私はこのクラスの雰囲気からしても、信じられなかった。

「本当に、これでいいんだな」

「はい」

ということで、やっと曲が決まった。

それからは、クラスはよくまとまって合唱の練習をした。
私が驚いたのは、生徒たちがこの曲を練習するうちに、心が変わっていくのを感じたことだ。
それは、この「ひとつの朝」の曲のように、みんな心が次第に澄み渡った晴天の青空のような感じ、すがすがしい感じになっていったことだ。
私は日に日に、そういう感じを強くしていった。

音楽の持つ力というものを身を持って感じた。



私がこのクラスを受け持った時、母親はガンで入院していた。
3年生は、進学や就職でデリケートな時期なので、生徒たちが不安を感じないように、私のそういうプライベートについては、極力漏れないようにしていた。

だが、生徒たちは私の全く知らないときに、見舞いに行っていた。
そのことは、どの先生も知らなかった。

卒業が近づいてくると、卒業記念に何を残していくかということは話題になるものだが、記念樹を植えるということはいいかも知れない。

担任の先生にクラスの生徒が何か贈り物をするということが、しきたりになっていた。
私はこのことに抵抗を感じていたので、クラスの生徒には、そういう気遣いはしないようにと話した。

その理由として

「君たちの両親は、これまで君たちを育てるのに苦労をしてきた。ここで、先生に贈り物をするということは、さらに親に負担をかけることになる。君たちが自分でかせぐようになってからにしてほしい」

と言った。
しかし、これは、かえって、それではどうしようと生徒たちを悩ますことになってしまったのかなと思った。

そう思いながら、卒業式を迎えた。
式の後、教室に戻ると、生徒たちは自分自分の思いを一言ずつ語ってくれた。
思い出に話が及んだこともあった。

いよいよお別れとなった時、誰かが

「みんな、『ひとつの朝』を歌おう」

と言った。
そうしたら、またみんなの気持ちが一つになって、合唱が始まった。
生徒たちみんなの気持ちが、私の心に強いメッセージとして伝わってきたようだった。

「先生、それでは廊下に出てもらえますか」

と生徒が言った。
私が廊下で、入り口付近に立つと、生徒たちは一列になって出てきた。
いつの間に用意したのか、生徒たちはカーネーションを持っていた。
そのカーネーションを一人ずつから、私はもらった。

これが、生徒たちから私への贈り物であった。

私は「ひとつの朝」が聴こえてくる度に、そのころのことをはっきりと想い出す。
涙が出そうになってしまうのである。

私は、彼らに、特に何を教えたということもないのに、彼らはどこで覚えたのか人の心を大切にすることが身についていたようだ。
思えば、彼らはすばらしい贈り物をしてくれたと思う。
「ひとつの朝」を聴く度に、あのころを思い出させてくれるとは誠にすばらしい贈り物ではないか。

この学校は、いわゆる荒れた中学校であった。
一時は、毎日のように、生徒指導の問題で学年会を開いていた。
それが、まるで別世界のできごとであったかのようである。

よく「子どもの時に○○を教えたやらないからだ」と言う人がいるが、人は、コンピュータにプログラムを入力するようなものではない。

たとえ、いいことを言ったとしても、それが生徒たちの身につくものかどうかも疑問である。
人間は機械とは違うのである。



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posted by edlwiss at 01:25 | Comment(11) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年11月04日

「疑わしきは罰せず」は守られているか?




日本国憲法はアメリカ制と揶揄されることからも、日本人の心に染み込んでいないのかも知れない。

そのせいか、至るところに本音と建前が存在するように思う。

もともと、日本人は表も裏もないという社会にはなじまないのかも知れない。

日本人的心なのかも知れない。

そういった心が良い方で表れている例としては、昔、人気の高かった時代劇「木枯らし紋次郎」を思い出す。

この劇で紋次郎が必ず言うセリフに「あっしには関わりのないことでござんす」というのがある。

「お侍さん、ご慈悲でございます。お助けを」

と悪人にひどい目に遭っている場面で、紋次郎に懇願する場面が出てくるが、紋次郎は

「あっしには関わりのないことでござんす」

で、過ぎ去ってしまう。

視聴者としてはたまらない気分になるが、紋次郎はそんな人ではないという期待感を抱く。
と同時に、本当にこの人は悪人の犠牲になってしまうのだろうかという不安も持つのである。

そこは、原作、脚本の優れたところ、同時に主役の中村敦夫がはまり役で、深夜番組にもかかわらず視聴率が驚くほどに高くなった。

視聴者があきらめかけているところで、紋次郎は現れ、悪人をこらしめるという単純なストーリーなのだが、ここは日本人に響くところがあったのかも知れない。

現実の社会でも、日本人は「いつか」という紋次郎の登場を期待しているのかも知れないが、それらしき人は現れない。

歴史は繰り返すというが、時代劇では越後屋登場し、役人に「まいない」を献上し、正直者がバカをみるというパターンは、まげのない今日でも同じようだ。

司法の世界にも、裏表があって悪徳検事、悪徳弁護士、さらに悪徳裁判官までも登場し、真実は何かよりシナリオ通りで「疑わしきは罰する」の横行をみるに、ひどい時代だと思う。

だから、たまに、悪いシナリオがバレて、無実になった人は運がいいとしか思えなくなるのだ。

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posted by edlwiss at 14:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年11月01日

ゆとり教育は失敗したんですか?

nazehumou.jpg
ゆとり教育が失敗だったと言う人は、なぜそう考えるのですか?

「みんながそう言っている」からですか?

私は前の記事で「みんな」という言葉を、安易に使うことの危険性を述べました。

「みんな」って一体何人なの?
と問いかけました。

「みんな」という言葉は、文字通り解釈すれば「全部」とか「全員」という意味になると思いますが「大勢」という意味にも使われるようです。

だから、ここでは(ゆとり教育について)「大勢が失敗」と言っているからということになるでしょうか。

それはそうと「大勢がそう言っているから」私も、というのは主体性がないと思いませんか?

また、先生自らが主体性なくして、児童生徒に主体性を求めるとしたら、それも変じゃないですか?

ということで、改めて「ゆとり教育は失敗なのか?」について考えてみたいと思ったのです。

それには、

1.ゆとり教育の意図

2.何が原因で、ゆとり教育の路線を転換したのか

を、はっきりする必要があると思います。

1.のゆとり教育の意図は、簡単に言えば、カリキュラムが過密で時間のゆとりがない。
それで、時間のゆとりを生み出すために、指導内容を減らそうということでした。
すると、

「余った時間はどうしたらいいんですか?」

という声が、聞かれました。

これに対する回答は

「何に使ってもいい」

と言うことでした。

これには、困った校長たちがいたようです。

自由を与えられると困るわけです。
それで、ゆとりの時間の活用マニュアルのようなものを作ったりするわけです。

ゆとりだというのに、マニュアルを作ってこのようにやれというのでは、ゆとりはなくなってしまいます。
これでは、指導内容を減らしただけで、ゆとりもなかったことになります。

この、ゆとりのマニュアルについて、私が思い出したのは、昔、ある女性との会話です。
その女性は、いわゆるOLという仕事をしていました。

私が忘れられない会話というのは

私:「日曜日はいいですね」

女性:「えっ、私は日曜日は嫌いです」

私:「どうしてですか?」

女性:「だって、やることがないですから」

これには唖然としました。

私は、誰でも自由時間が好きなものだと思っていました。
しかし、世の中はいつしか、人に自分の行動を決めてもらうようになってきたようです。

特に会社勤めなんかするようになると、決められた仕事を忠実にこなすことがベストで、裏を返せば決められた仕事さえすればよい、ということになっていったような気がします。

日本は戦後、復興のためにいろいろ施策を考えましたが、経済復興のために、同一規格の忠実に仕事をこなす人材の排出を考え、それが見事に実を結んだようにも考えられます。

そのような教育効果のせいで、人は自由を与えられると戸惑ってしまうようになってしまったようです。

「今の若い人は、仕事をやらせたら優秀だが、言われたことしかやらない」

とは経営者からよく聞いた言葉です。

マニュアル教師では、ゆとりの活用はできない

決められたことしかできないというのは、教師の世界にもおよんできたようで、マニュアル教師などという言葉まで出てきました。

「時間をあげるから好きなようにやってください」

と言われたら、自分で創意工夫をしなければならないわけで、既定路線しか歩いてこなかった人には苦痛でしょう。

既定路線だけで固められて教師になった人は、マニュアル教師化されたのかも知れません。

いや、日本人はもともとそういう民族なんだよという人がいるかも知れません。

しかし、私はそうは考えません。

私の経験では、子どもたちは初対面の時、緊張しています。
それは、ある人から言われたことですが「知らない人には、固くて怖い印象を与える」そうだということで余計にそうなのかも知れません。

しかし、慣れてくると「この人は変なことでは怒らない人だ」と思うのか、自由闊達な動きが出てきます。

そして、私が考えもしなかった、おもしろい動きも出てきます。
もともと、子どもは既定路線で幼少時代を過ごしてくるのではなく、次第に型にはめられて大人の顔を見て行動するようになる者もいるのではないかと思います。

小学校3年生でリコーダーを教えたことがありますが、あるテキストを与えて、どのように進めていくのかを教えて、好きな子はどんどん先を進めてよいと言いました。

ただ、好きなようにと言っても、あまりいい加減にならないように「できたと思った子は、先生がみてあげます。それで合格したら次に進んでいいです」と言ったら、子どもたちは音楽のない日もリコーダーを持ってきて、みてくれと言うので大変忙しくなった。
社会見学のバスの中へも持ってきたのには驚いた。

数人の子は、テキストを全部終わってしまった。それで、2冊目のテキストを渡したのだが、6年生の分まで終わってしまった。

ゆとりの時間は、優れた子どもを足ぷみさせない

日本の教育課程は、まるで田植え前の苗を育てるようで、育ち方を揃えたいように思える。
個性の重視と言いながら、個人の特性を無視して進度を揃えるのはおかしいと思う。

これでは、ジョブズ氏のような発想を生み出す人が育ちにくいように思う。

日本の未来を考えた時、これまでの同一規格の人間による同一規格の製品を作り出すような行き方から脱しなければいけないのではないかと思う。

それには、カリキュラムの編成は、誰もが学ぶべき共通の基礎部分と、自由に学べる部分で構成すべきだと思う。

ゆとり教育の成功は、教師の指導力にかかっている

昔、Appleからハイパーカードというソフトがビル・アトキンソン(Bill Atkinson)によって開発された。
このソフトは独創的で、当時、ソフトウエア界に衝撃を与えた。
この功績により、彼は、仕事をしてもしなくてもよいという自由な立場を与えられたと聞く。

何から何まで既定路線の世界では、このような独創的なものは生まれにくいだろう。

独創的な発想を生み出す子どもを育てるには、頭の固まった教師では指導できない。

私は「ゆとりの発想」はすばらしいものだと思う。
それには、優秀な教師を配することが鍵だと思う。

「好きにやってよい」と言われたら何もできない者には、細かく指示をするしかない。

ゆとり教育は失敗だったと言う人の中には「みんながそう言っているから」のような「みんな思考」「単純思考」の人もいる。

単に学力テストの点が下がったからという単純な思考の持ち主が、教育に口出しをすることを私は懸念する。

2の何が原因で、ゆとり教育の路線を転換したのかについては、フリー百科事典「ウィキペディア」により解説されているので、これを参照することにする。

ゆとり教育は1980年度、1992年度、2002年度から施行された学習指導要領に沿った教育のことであり、小学校では1980年度から2010年度、中学校では、1981年度から2011年度、高校では1982年度から2014年度(数学及び理科は2013年度)まで[1]施行される教育である。
ただし、1980年度、1992年度から施行された学習指導要領による教育と2002年度から施行された学習指導要領とを区別する人もいる。また、1992年度から施行された新学力観に基づく教育をゆとり教育という人もいる。
まず1970年代に日本教職員組合 (日教組) が「ゆとりある学校」を提起をし、国営企業の民営化を推し進めた第2次中曽根内閣の主導のもとにできた臨時教育審議会(臨教審)で、「公教育の民営化」という意味合いの中で導入することでゆとり教育への流れを確立し、 文部省や中教審が「ゆとり」を重視した学習指導要領を導入し、2002年度から実質的に開始された。
「ゆとり教育」はその目的が達せられたかどうかが検証ができない状態の中、詰め込み教育に反対していた日教組や教育者、経済界などの有識者などから支持されていた一方で、それを原因として生徒の学力が低下していると指摘され、批判されるようになった。
中山成彬文部科学大臣は、中央教育審議会に学習指導要領の見直しを要請し、さらに安倍内閣の主導のもとに、ゆとり教育の見直しが着手され、2008年には、今までの内容を縮小させていた流れとは逆に、内容を増加させた学習指導要領案が告示され、マスコミからは「脱ゆとり教育」と称されている。




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posted by edlwiss at 23:12 | Comment(7) | TrackBack(0) | 教育問題

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