2011年12月30日

ウチの子を必ず合格させてください

「ウチの子を必ず合格させてください」とこのように、学校の先生にねじ込む親のことをモンスターペアレントと言うようだが、モンスターは親だけでもないようである。

「ウチの地域の児童生徒は、最低でも小学校4年生の学力はつけると保証せよ」と公立の学校に対していきまいている輩がいる。

monster.jpg

こういうのがいると困りますね。
一体、他人の学力を保証できる人間がどこにいるんですか?

そんな人がいたら、神様でしょうね。

私が過去に担任した中学3年の生徒で、自分の名前を書くだけが精一杯という者がいました。
修学旅行の時は、自動販売機でジュースを1本買っただけでした。

私はこの生徒が喋ったところを見たことがありません。

クラスの生徒たちはこういう彼を、それとなく支えていました。
クラスの生徒たちはみな暖かかったわけです。
だから、私はクラスの生徒たちに感謝していました。

クラスの生徒たちが、暖かくく見守ってくれたので、担任の私としても務めが果たせたと思います。

彼は一度も学校を休みませんでした。
何も言わず、黙々と学校だけは来ました。

私は彼のことで、一度困ったことがありました。
それは、中学校最後の思い出として、文集を作ることになった時です。

とても、彼が作文など書けるとは思っていませんでしたから、彼に割り当てられたスペースのことで悩んだわけです。

締め切りは近づいてくるし、彼のところを空欄にするわけにはいかないしで困りました。
そのうち、文集係の生徒が「先生、○○君の原稿がまだ出ていません。どうしますか」と言ってくるに違いないと思っていました。

ところが、締め切りの日になっても、そういう話はありません。
いや、締め切りを過ぎた翌日になっても、ありませんでした。

私は、不思議に思って、係に尋ねました。

「文集の原稿は、皆、提出したのか」

「はい」

係の返事に、私は「そんなことは」と思いました。

「○○も出したのか」

「はい」

私はその返事の「響き」を察して「そうか」とだけ言って、それ以上詮索することはやめました。

私は、今も、クラスの生徒の誰かが代筆したに違いないと思っています。

生徒たちは相談して、そうしたのだと思っています。
担任の心配も察していてくれたのだと思います。

とかく、学校というところは、平等、公平ということを杓子定規に振りかざして人を傷つけてしまいがちなところもあります。

しかし、生徒たちは「何が大切なのか」ということがわかっていたと思うのです。
私はそういう生徒たちに感謝しています。

名前を書くのがやっとだった彼にも、級友の心は通じていたと思います。

教師は魔法使いではありません

義務教育の下での学校には、どういう子どもが入学してくるのかわかりません。

そういう千差万別な子どもに対して「必ずある力をつけます」と約束できるはずがありません。

国は義務教育制度をひいて「小学校4年生以上の学力を保証する」などと言っていません。

保証しているのは、教育の機会均等ある一定以上の指導(教育)を行うということです。

だから、そういう指導するのにふさわしい人を教員として採用する制度や環境に責任を持っているのです。

このことをもっとわかりやすい例で言うなら、自動車の免許を取りたいと思って自動車学校に入学したら、その自動車学校では、入学者を必ず合格させると約束はしていないのと同じです。

名前を書くのがやっとの生徒も、義務教育は平等に受けたのです。
我が国の義務教育制度は、○年生の学力が習得できなければ、次の学年に上がれないというものではありません。

個人が勝手にわめく「学力」を公的制度に取り入れることなどできない

私は何度も言っていますが「学力とは何か」について、我が国の教育制度では明らかにしていません。
だから、あちこちで学力云々と語っているのは、個人が勝手にイメージしている学力に過ぎません。

そういうてんでバラバラな解釈の学力を公教育が聞き入れて、教育に取り入れることなどできないのです。

まさに迷惑なモンスター

誰でも小学校4年生以上の学力を保証せよとわめいている、この者は、自分から発信する意見に対しては異論や反論は認めないと言っています。

これは「買ってくれなきゃヤダ」とわめいているダダッ子と同じです。
あちこちの機関にねじ込んで、他人の意見は聞かない、オレの言うことだけ聞けなどと言うことは、そもそも民主社会にはなじまない態度です。

「オレのいうことだけ聞け」という態度だから、少しも正しい思考回路に修正されないのでしょう。

まさに、地域に凄む迷惑なモンスターと言えます。

自分でフランチャイズの塾を経営しているということですが「あなたの塾に入れば、必ずある学力は保証してくれる」のでしょうか?

使いもしない教材を入学と同時に買わせるということはないのでしょうか?

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posted by edlwiss at 21:44 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年12月26日

学力とは何か〜点数ばかり追うな

見える学力と見えない学力

gakuryokuwosodateru.jpgそもそも「学力とは何か」という問に対して、誰がまともに答えているのかと探していたら志水宏吉・著「学力を育てる」を発見した。

志水氏は東京大学大学院教育学研究科博士課程終了で学校臨床学、教育社会学専攻、現在大阪大学大学院人間科学研究科教授である。

はじめに断っておくが、私は学歴というものを先入観として判断しないことにしている。
それは、立派な学歴をお持ちの方でも、幼児並みの思考しかない人を見かけることがあるからである。

私の過去の知識では、人の脳の発達は21歳頃を頂点とするというものがあった。
以来、そのことを頭において、様々な人を見てきたところ、若い頃は優秀であったとしても、中年頃では頭は退化して、過去の栄光はすでに消滅したと思われる人がいると感じる。

これが、私が学歴をあてにしない理由である。

若い頃は受験に夢中になり、難関と言われる学校に入っても、その後の生き方によって人間は変わるものであると実感している。

例えば、東京大学法学部卒、司法試験合格、ハーバート大学卒業という学歴を持ち検察官を歴任したある人物は、ある放送局のコメンテーターを務め、刑事事件で起訴されたある人物を評し「やったに決まっとるんだから、処罰は当然」と語った。

「やったに決まっとる」という根拠はどこにあるんだろう?
裁判以前に真実がわかれば、裁判所はいらない。

こんな基本的なことが頭にないということは、学歴は素晴らしくても、頭の中は幼児並みなのだと感じさせられる例である。
学歴というものは、まさにその人の歴史の一部であって、現在の実力を示すものではないということを示している。

プロ野球の世界では、過去の実績は参考にするものの、実際に試合で活躍できそうにない人を選手に起用することはない。
スポーツの世界ではなくても、その人が現在どのくらいの思考力を持っているかということを確認する必要がある。

さて、前置きが長くなったが、志水氏はいわゆる学者と言われる部類の人であろう。

学者と言うだけで「学者は理論ばかり言っていて、現場を知らない」という人がある。
こういう人も、早い話が、頭の退化したバカである。

「学者は〜だ」と決めつけてしまう硬化した頭だからである。

志水氏は学者であるが、紙の上の理論だけを言っている人ではない。
著書を読んでみるとわかるが、学力に関して正面から取り組んで現場の実践や資料をもとに論述している。

捏造する質の悪い人間に注意しよう

自分の意見を通そうとして、捏造する人間は要注意である。
過去にブログを通じて論争した人の中にも、そういう人がいた。
私が言ってもいないことを勝手につくりあげるので、あなたはハンドル名を捏造とした方がよいではないかと言ったことがある。

彼のブログはその後消滅してしまった。
このブログをお読みの方の中には、その経緯を知っている人がいるかも知れない。

その捏造氏は教育委員会の指導主事を経験したと言っていた。そして、その捏造氏を応援していた人がいたが、その人のブログも消滅した。

消滅したというより、自滅したと言った方が合っているように思う。

今回、私が問題にしているのは、教育をダシにして自己の利益をはかろうとしていると思われる人物である。
この人物も、やはり捏造氏である。

私の考えも捏造して発表したが、察するにブログにおける捏造はかなりのものと思われる。
そして、その捏造がバレるのを恐れるのか、反論や異論は禁止としている。
塾を経営していることから、本音は塾が栄えることを目的にしているのではないかと思われる。

自分で教育の専門家を気取っているが、思考は稚拙で陳腐である。
ごく表面をなぞっているだけで、教育の専門家を自称するなら「学力とは何か」について言及する必要があると思うのだが、この人はペーパーテストの点が上がることが学力の向上であるとしか考えないようである。

これに波長が合う人物が、盛んに公立学校の粗探しをしている塾講師(?)と某家庭教師で、某家庭教師がみっともないと思うのは、掲示板で保護者からの学校に対する苦情を集めていることである。
彼が期待するほどには意見の投稿はないようである。

塾講師もこの家庭教師も、学校の悪口を言って対抗するにしては、やはり考えはあまりにも稚拙で陳腐であり、普通の家庭の母親が子どもの勉強をみてやるときに感じる程度の意見しかなく、とてもプロと感じられるレベルではない。

見える学力、見えない学力

志水氏の論述は、さすがプロと感じさせるものがある。
志水氏自身は、自分のことをプロと言っている記述はない。
(どうも、プロではない人間が、自分にプロという肩書きをつけたがるようである)

ここが本題なのだが、見える学力とは、一般に行うペーパーテストのようなもので、それはあたかも氷山の一角のようなものであり、氷山自体の大部分は見えていないというところが重要なところである。

しかも、見える学力の部分を引き上げるには、大部分の見えない部分の学力を高める必要があるというところであり、そこに、学校という組織体で活動するものの意味があるわけだ。

しかし、誤解してはならないのは、見えない部分を学校がすべて担っているわけではない。
このこについては、また別に論述してみたいと思う。

塾通いが増える教育政策はよくない

このタイトルも誤解を招きそうだが、ここでいう塾は「学習塾」のことである。
現在の学習塾は、誰でもが商売が始められるような自営業のようなものであり、資格を必要としない。

塾を始める動機の大部分は、金銭的な利益を得るためのものである。
受験戦争に乗じて、保護者の不安につけこんで始める商売である。

一部の例外を除いて、学習塾や家庭教師の派遣会社の実態はひどいものである。

ここでも、誤解のないように断っておくが、私は学習塾や家庭教師に反対しているのではない。
多くのひどい実態があるので、そこを承知して、保護者は選択すべきだと言いたいわけである。

塾にもピアノ塾やバレー教室など学校では担えないものがあり、子どもが将来にわたって身につけるものを教えるものは、それで意味があると思う。

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posted by edlwiss at 12:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年12月19日

学力テストの点数が上がると、人口が増えますか?

地域に活力がなく、経済的にも低迷し人口が増えないのは、子どもたちの学力が低いからだと言っている塾経営者がいる。

この塾経営者、ことあるごとに学校の粗探しをして、教員の指導力が足らないと吠えている。

行政にも働きかけ、教育委員会へも口出しをしている。

意見を言うのはいいが、この人、質問をされると異常に神経過敏なようだ。
ごく普通のことを質問しているのに、まるで、批判されているように受け取るようである。
そして、イエスマンの意見しか受け入れないようで、これでは、戦前の特高警察と同じようなものだ。
自分の意見に対しては反論を許さず、問答無用でいろいろなところへ押しかけ、猪突猛進する。

行動が目立つことから、地方新聞に取り上げられ写真も掲載されたが、その写真を見て、自ら「ヤクザ」のようだと言っていた。

「男の顔は履歴書」と昔から言うが、私もなるほどと思う。

この人は、学力テストの点が上がれば、他地区からレベルの高いところへ移り住もうと思う人が増えると言っている。

本当にそうだろうか?

そんなことで、人口が増えて経済的に発展するのだろうか?
この人がフランチャイズの塾を経営していることから、本音は自分の塾の繁栄が目的ではないかと疑いたくなる。
そして、とても教育論とは思えない、教育に対する発言で、自分は教育の権威のように振る舞う。

本当に自分の地域の子どものためを思うなら、フランチャイズの塾ではなく、ボランティアで個人塾をやったらどうか?

子どもの学力を保証することが義務教育ではない

勝ち馬に乗りたいのか、勢いがいいと見ると、そちらへつこうとする人はいる。
そういう心境なのか、この塾経営者のちょうちん記事を書いたローカル新聞の記者がいる。

この記者は「誰でも小学校4年生の学力を保証することが義務教育の義務でないか」と言っている。

冗談でしょうと言いたい。

そんな義務なんかありませんよ。
教育基本法のどこかに、そんなこと書かれていますか?

だいたい、学力が何か定義されていませんでしょう?
学力が何かも定義されず、勝手に学力の意味を好きなように解釈し、都合のよいようにわめいているだけでしょう?

この国は義務教育の制度をとっています。
しかし、それは保護者に子どもに教育を受けさせる義務を課し、また子どもは義務教育を受ける権利を持っているということであって、それを実現するために国は環境を整えているということでしょう?

「ある子どもに確実に、何らかの力をつける」という人って、あるいは方法ってありますか?

学校の教師は義務教育制度のもとに行われる学校において、教育の義務を果たす教育課程を実施する責任を負っているのであって、それは、教育を受ける者に対して、受ける権利こそ保証しなければならないのだが、指導したことが必ず身につくということを保証するものではありません。

「必ず優勝します」って言葉を監督から聞くことはあるのだけれど、それは決意であり、人間である以上保証できる人はいないのと同じことです。

地域活性化は行政の仕事

私は昔、田舎の小さな小学校に勤務したことがあります。
純朴な良い地域でした。

その地域は、歴史をたどれば、昔は「村」で本当に先生を尊敬してくれるところでした。

子どもも子どもらしくて、のびのびと教育活動ができたように思います。
子どもたちは、その年代として大切なものをいっぱい吸収していたと思います。

学力テストなど、いわゆる点数にとらわれず、将来の活力としてのエネルギーが蓄えられたと思います。
そういう行き方に、地域の人々も協力的でした。

その地域は途中から市へ統合され、市は日本有数の企業を誘致したため、突然、校区に団地ができました。

大都市からたくさんの子どもたちが転校してきました。

教育ママがたくさん来たかと思ったら、教育には関心は深かったものの、お母さんたちは「ここに来て、本当の先生に会いました」と言ってくれました。

お母さんたちは良い意味でインテリであり、企業で働く人たちの人柄が感じられるものでした。

面白いのは、体力では地元の子どもたちが優り、知識では転校生が優るということで、互いによい影響が混じり合いました。

企業が来たことで、学校は予算的に豊かになり、設備も充実しました。

簡単に言うと、このように、地域活性化は、その土地に如何に魅力があるかということで、具体的に言えば、企業にとっては税金が安いなどのメリットがあるということです。

現在は通信インフラとして、インターネットが大きな役割をしているので、日本中どこへ行っても企業としては、特に事務的な処理が多い会社では税金が安いということは魅力です。

長崎市は炭鉱で栄えていましたが、斜陽になってから人口も減る傾向になりました。
しかし、企業に優遇措置をとったため、本社を移転した会社もあります。

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地域の活性化を本気で考えるなら、行政の根本から考えるべきです。
というのは、行政で働く人たちは公務員ですから、街が存続さえすれば自分の収入の心配はしなくてよいのですから、とかく保守的になりがちです。

そういう悪い方向に行かないためには、真剣に住民たちのために働くリーダーを選ぶところから始めなくてはなりません。

学習塾 予備校 学習教材の実態―教育という名のもとで増え続け巨大化する金儲けビジネスの全貌

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posted by edlwiss at 14:48 | Comment(1) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年12月15日

問題解決学習は大切です

問題解決学習とは
以下の、問題解決学習の説明はフリー百科事典「ウィキペディア」から引用させていただいたものである。

問題解決学習法(もんだいかいけつがくしゅう、Problem-Solving-Learning)とは、アメリカの教育学者のジョン・デューイがマックマスター大学の付属の実験学校で、社会科の授業の中で初めて試みた学習のやり方。教師が予め準備した授業案に従って学習するのではなく、与えられたたとえば「私たちの町」というテーマについて、個々の生徒が平素、疑問に思っていることについて、それぞれそれはどうしてだろう?と考え、その仮説が理にかなうかどうか、自分たちの足や頭、インタビューや実地調査をして、確認していく。もし、外れているなら、また新しい仮説として立ててみる。その悪戦苦闘を繰り返す、試行錯誤のプロセスの中に、学習の目的があるし、またその過程そのものが学習といってもいい、とデューイは考えた。最終的に答え、正しい解決に到達したかどうかは、その過程に比べれば、重要ではない、と。

教師が準備し、設計したステップを踏んで学んでいく系統学習ではなく、生徒自身の自発性、関心、能動的な姿勢から、自ら体験的に学んでいく努力の価値を評価するということである。 人によっては、課題解決学習という言い方をすることもある。 そうした学習方法のひとつの具体例として、生徒自らが問題を作り、解くというものがある。


教育とは

「教育とは」という命題に対して、これを一言で答えることは難しい。それほど、多様な側面を持っているからである。

mondaikaiketsu_book.jpgしかし、人が生まれてから、親の助力なしに一人で生きていけるように子どもを育てるということでは、教育についての緒論について共通したものであると言える。

今日では「歪んだ受験競争」のため、本来の教育が歪められていると思う。
教育は学校の専売特許ではないが、教育に対する国民の総意を実現するために多くの部分を学校が担っていると考えてよい。

その学校が教育に純粋に没頭できなくしたのが、歪んだ受験競争であり、それが学習塾などのすきま産業を生み出し、子どもたちの塾通いを助長させてきた。

現在の入試は「試験のための試験」のようなもので、簡単にいえば「頭が悪くても、点数だけ取れば入学できる」という、何のために入試をやるのかという、本来入試があるべき姿から乖離し、形骸化したといってよい。

だから、私は少なくとも高校は一刻も早く入試を廃止し、全入制を実現し、悪質な塾業者に騙されて、大切なお金を浪費することのないようにしてもらいたいと思う。

教育計画はバランスが大切である

ゆとり教育もそうだが、何か案が出ると、その案の良さを実現することなく、AかBかという二者択一の、頭脳が1ビットしかないのかと思わせるような、頭の悪い意見が横行し、未消化にもかかわらず、結果だけで善し悪しが決定されてしまうというバカなことを繰り返しているように思われる。

例えば「勉強と遊びとどちらが大切か」という問で、二者択一を問うのはおかしいのであって、正解は「どちらも大切」なのである。

野球をすることを考えてみよう。

野球をするには、キャッチング、バッティング、ピッチングの技能が必要である。それらがもとになって、攻撃力や守備力が作られる。
しかし、強いチームを作るには、実際にゲームを行なうという経験が必要である。

学校で学ぶ、国語力とか計算力といった技能も、生活の中では大切な技能である。
しかし、実際に生活してみたりしない限り、生活の中で生き抜いていくための力は養えない。

だから、人が生活している中の様々部分から問題点を取り出して、これを解決しようとする学習は大切である。
野球で言えば、実際の試合の中で生ずる問題点を考えてみるようなものである。

人は実践に臨むという経験をし、キャッチングやバッテイングなどの技術を痛感し、改めて練習に挑むのであって、基本練習をさせるためには、ある程度は必要感を感じさせる必要がある。

問題解決学習は範囲を広げすぎると収集がつかなくなる

大学ならば、学生に関心のあるテーマを探させるのもいいが、問題解決学習が、子どもの興味を中心とするからと言って、あまりにも選択肢を広げるとどうにもならなくにる。
だから、ある程度絞った範囲ということも大切と思う。

問題解決学習の目標は、ある答えを出すということではなく、解決のための過程が大切である。

しかし、問題解決学習のための技能は、技能習得のための過程が大切というものではない。
ここをバカなある塾経営者は、問題解決学習のために、算数や数学の問題を解く技能を学校はおろそかにしていると言っている者がいる。

人はひとりひとり違う

必要な技能を習得させるために、指導を行ったとしても、技能の習得には個人差がある。
その個人差というのは、その時点でできるできないではなく、時間的にも差があるということである。もちろん、得意不得意もある。

だが、問題解決学習を行うことにより、解決のための道具として子どもたちは技能の向上について必要感を感じ、それまで以上に技能向上に努めるようになるという循環が大切である。

オーケストラをやっても、メンバーには様々な個性がある。演奏能力には差がある。音楽をやることにより、演奏能力の向上に努める意識が働くということはよくあることである。

問題解決能力は人間として最も必要な能力である

大雑把に、問題解決学習に係わる問題を述べてきたが、すでに説明したように、人に必要な能力は、技能と実践に関わる創造的な能力がある。

今日、最も必要とされる能力、これは人間が人間たる所以の知力(知能)と言ってよい。
歪んだ、記憶中心の教育が受験のため支配的だったため、言われたことしかできない、覚えたことしかできない、というロボットのような人間が増えたため、文字通り、機械やロボットにとって代わられるようになった。
つまり、機械でもできる単純労働は必要なくなってきたのである。

必要なのは、知能であり、それはプログラミングの世界で使われるアルゴリズム、すなわち問題解決法なのである。

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posted by edlwiss at 20:49 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年12月14日

言葉が不正確な人は受験の指導者には向かない

日常の会話で、文法的に整った話をする人はどのくらいいるのだろうか?

話している言葉をそのまま記述したら、主語、述語、目的語、補語など並べ方が雑然としていることが多い。

単語さえあれば通じてしまうようなことも多い。

英会話は達者なのに、英語の試験はできが悪いという人(子ども)もいる。

それは、試験というのは「特別な世界にあるもの」だからである。

意味は通じても、文法的に少しでも欠陥があれば点数に結びつかない世界だからである。

受験指導のプロならそういう、試験という融通のつかない世界の厳しさを嫌というほど感じているはずである。

だから、自身も言葉を正しく使うということには神経を使っているはずと思う。

言い換えれば言葉の不正確な人は受験の指導者には向かないである。

知人に英語の達者な人がいる。
外人との会話はもちろん、英文についても熟達していて、英語の先生もしている。

この人は、カバンには常に電子辞書を入れている。
通訳としても実力のあるこの人は、言葉には敏感で、普通は聞き流してしまうような言葉でも辞書で確認する。

以来、私もこの人に見習って、カバンには電子辞書を入れている。

試験は特別の世界である

俗に「頭がいい」と言われるような人でも、試験には落ちたりする。
それは、試験というのは「特別の世界」だからである。

試験は、理解しているから点が取れるというものでもない。

問題作成者の解答と照合して、合っていて点に結びつくのである。

こういう厳しさは受験について指導している人なら、周知していることである。

だから、受験の指導者、それは塾講師や家庭教師であったりするが、そういう人たちが自ら正確な言葉を用いないようでは、指導者としての価値がない。

試験を意識していなくても、先に挙げた人のように、きちんと学ぼうとしている人は、常に辞書を携帯しているぐらいの慎重さがある。

何を言うにも、自分の吐く言葉に一切疑問を持たず、まるで自分そのものが法律、審査員のような態度をとっている人は、大した人ではないし、そういう人を講師や家庭教師として選ぶべきではないと思う。

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posted by edlwiss at 10:21 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年12月12日

教えられることの3倍知っている必要

もう昔のことだが、人にモノを教えるには「教えることの3倍は知っていなくてはならない」と言われたことがある。

それは目上の人から、上から目線で言われたのではなく、私より年下の若い女の先生が雑談で言ったことである。
彼女はどこかでそう教えられたらしい。

私はなるほどと思って、教える以上は相当奥深くまで知っていなければならないということを常に思うようになった。

前回、ある家庭教師の例をとりあげたが、その家庭教師は毎回、新しいテストを持ってきてそれをやらせて採点するだけである。

その後は、その日の問題を、問題と模範解答をノートに清書させ、記録用紙に採点結果とどこができていないかを記録するだけである。
これは、ちょうど病院のカルテのようなものである。

そのカルテを親に見せ、おたくのお子さんはこういう状態ですと報告しているだけである。

それでよしとしている。家庭教師がそれで用をなしていると思うのもおかしい。

テストができない子どもの親は、おうおうにして、このようなことがおかしいと思わないようである。

大げさに言うと、哲学と言うか、ものの考え方の出発点がおかしいような気がする。
思考回路が閉鎖的で、壁があるように感じる。

私は何校かの中学、高校の部活動指導してみて感じたことは、生徒たちそのものの能力にはそんなに差がないということである。

今、高校は入試によってランキングができてしまっている。
そのランキングをA、B、Cとすると、何が違うのかというと、Aクラスでは生活指導の必要がない。
次に、哲学というか、ものの考え方が閉鎖的でない。

B→Cといくほど、生活指導が必要である。
だから、生活指導に時間が取られるので、必然的に練習時間が短くなり、コンクールの日までにあまり練習ができないということになる。

考え方は「そんなん○○で△△にきまってるじゃん」という、中身の間違った考え方で固まっている。
頑固という言葉は年寄りに使われやすいが、年寄りが頑固とは限らない。

養老孟司・氏が「バカの壁」で言っているように、自分の変な哲学で壁を作ってしまっている。

「ああ、知ってる知ってる」というのが自ら作っているバカの壁である。

そういえば、バカの壁は子どもだけではない。
個人塾を開き、あるいは家庭教師をやり、自分は教育のプロとかプロ家庭教師と名乗っている者の中に、自分は指導法がわかっているとか、学校の中がわかっているという「わかっているつもりの壁」を作っている者がいる。

話が脱線したので、元に戻そう。

ある子どものテスト結果をよくしようと思うには、まず、その子どもがどれくらいできるのかを知る必要がある。

そういう意味では、何らかのテストを持ってきてやらせて、何ができないかを知るというやり方は正しい。
これは、医者で健康診断を受けるようなものだ。

だが、先の家庭教師がおかしいのは、医者は診断した後、治療するのに対し、採点しただけであとは対策をしないことだ。

もしかしたら、問題と答えを清書することが対策と思っているのかも知れない。
家庭教師センターはそんな指導をしているのだろうか?

次に不思議に思ったことは、教科書をやらないことである。

これは、後でわかった。
教科書の問題には解答がないからである。

たまたま、子どもが教科書のある問題についてわからないことがあったので、聞いてみたところ、その家庭教師の答えは間違っていた。

家庭教師自体に、問題を解く力がなかったのである。

この家庭教師や塾講師の中に、教える立場にありながら自らが問題を解く力のない者がいるということがわかった。
これは、塾に行かせたい、家庭教師を雇いたいと思っている親は、よく注意しなければならない。

誤解を招かないように行っておくが、私は塾の妨害をするつもりもないし、家庭教師に反対するものではない。
医者に例えてみればわかる。
治療技術がないとわかっている医者へ行く患者はいないだろう。

どこに、名医がいるのか探すのが普通ではないか。

同様に、塾や家庭教師を考えている親は、指導者そのものの質を調べてみた方がよい。
塾の名前や家庭教師センターの名前だけではだめだ。
どういう人が教えるのかが大切である。

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2011年12月10日

ある家庭教師

私は学生時代、何人か家庭教師をやった。
親の収入はあてにならなかったので、けっこういいアルバイトになった。
教育学部ということもあって、学生課に行くと家庭教師の話はたくさんあった。
私の場合は学生課を通してではなく、縁故での紹介だった。
かなりたくさんの家庭教師を経験して、これもいい経験だった。

最近、あるきっかけで、中3の女の子を指導することになった。

きっかけは、その女の子はすでに家庭教師を雇ってもらっていたのだが、それにしては成果が上がらなかったからだ。

どんなに指導がまずいとしても、定期的に勉強する時間があれば、少しは成果が上がるはずなのだけど、驚くほど家庭教師の効果は感じられなかった。

一体、何をやっているんだろうかと、差し出がましいとは思ったが、女の子がかわいそうに思えたので、大人の方のことは後回しと考えて、何をやっているのかを探ってみた。

家庭教師は、派遣センターから来ていた。

いつも、問題用紙を持ってきてそれをやらせる。
その後、採点する。

その後、その日に持ってきた問題と、その模範解答をノートに清書させる。

結果を、記録用紙に書いて親に渡す。

これで終わり。

こういう具合で、ノートを見ると、きれいに整理されている。
これを積み重ねることで、勉強していると満足しているようであった。

kodomonoseiseki.jpg女の子は、時々、記録用紙を見て「あなたは、○○のところがわかっていないでしょう」と責められる。

その度に女の子は萎縮しているようで、かわいそうだと思った。

これでは、テストができるようになるわけがない。

今流に言えば、家庭教師は派遣センターから来ていて、これをプロ家庭教師と言うのだろうか?

私の考えから言えば、こういうのは指導とは言えない。
こんなやり方なら、やらない方がマシである。

それで、大人同士の感情的な問題は、後回しにして、親に了解で私が乗り出した。

ポイントは、このように「できない」「ダメだ」といつも言われているようなやり方では、かなりコンプレックスのかたまりになってしまっている。

だから「わかりません」ということが言えず「わかったフリ」をしてしまう。

このわかったフリというのは、大抵の子どもにあるもので、心理としては「これだけ説明してもらって、申し訳ない」「わからないと言うことが恥ずかしい」というものである。

先生:「わかりましたか?」
生徒:「はい」

なんてやり方で通過してはいけない。

こんなことで、よしとするから、試験の結果を見て驚くことになる。

指導の第一段階は、生徒が

(1)わからないことを「わかりません」ということは恥ずかしくない
(2)成績が悪いことは恥ずかしいことではない


と思うようになることである。

これは、先生と生徒の信頼関係ができるということでもあり、コンプレックスを取り払うということでもある。

こういうマイナスのイメージを取り除くには、非常にやさしい問題をやらせてみて「できた」という達成感を持たせるのもよい方法である。

どこかの自称プロの素人は「やさしい問題を出す先生は、無用な優しさを生徒に与えて、生徒からは下心を見抜かれてバカにされている」と言ったが、それこそ指導のポイントがわかっていない全くの素人である。

やさしいテストでも、子どもは100点が取れたら嬉しいものである。
そういう経験をさせることは、先にも言ったように「達成感」を感じさせることで、心理的によい循環を生む。

100点のテストを親に見せて、親から褒められたという経験をすればもっとよい。
親も率直に、100点を褒めてやることが大切である。

「やさしいから100点が取れた」

などという指導者は指導者ではない、子どもの心理をつかめない冷たい人間である。
その時点で、指導者としては失格と言える。

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2011年12月09日

受験対策は時間との競争

受験対策というのは、コンクールに似ている。

もっとも、ここで言うコンクールとはアマチュア対象のコンクールである。

私が中学校の吹奏楽部の指導を受け持って悩んだのは、生徒たちに真の音楽の実力をつけるためには、コンクールで勝つことを優先していては不可能と感じたことだ。

音楽の練習で何が一番大切なのは何かというと、一言でいうのは難しいが、それでもあえてひとつに絞るなら「音階練習」と言えるだろう。

先々、プロで通用する力をつけるには、中学生という時代にやっておこなければならないことがある。
プロとアマチュアの何が違うかというと、これもいろいろあるが、プロは演奏が安定しているということである。
その安定していることの裏付けの一つに、音階練習がある。

jukenbible.jpg
アマチュアは調によって演奏能力が極端に違ってしまう。
もっと言えば、プロはどの調になっても平気だが、アマチュアはそういうわけにはいかない。

どの調でも苦にならないというレベルに持って行くには、少なくとも、長調、短調合わせて24種類の練習をしなければならない。
しかも、ソプラノ、アルト、テナー、バスの各声部を意識して練習をするなら、24×4=96種類の練習が必要になる。

これらを部活の練習に取り入れていたら、コンクールの練習などにあまり時間をかけられない。

今回は音楽(部活)の練習内容を書くことが本意ではないので、ここに深入りはしないが、要するにコンクール対策というのは、課題曲と自由曲をいかにうまく仕上げるかということである。

コンクールの日は決まっているので、それまでの時間の間に、課題曲と自由曲の審査点をいかに上げるかの対策になる。

つまり、その2曲だけをうまく演奏すればよいかに専念することがいいわけである。
だから、良い点をつけてもらえるだろうという方向で、コンクール当日までに何回練習したかということにもなる。

受験対策も、試験当日までに試験に出るであろう問題に対して、如何にミスなく得点するかを練習しておくということになる。

ここには、良い授業、いやもっと言えば指導法など存在しないとも言ってよいぐらいである。
まして、教育などというものはほとんど存在しないと言える。

だから、本当に実績を上げる学習塾、予備校は学校の授業とか指導法とか教育のまねごとのようなことはしていない。

講師にしてみれば、学校の先生の授業のようなまねごとをしてみたい人もいるかも知れないが、それは、アマチュア指揮者がプロの指揮者のまねごとをしてみたいようなものである。

tayorankutemo.jpg優れた学習塾や予備校は、どんな子どもでも高い得点を取らせるようにしてしまうところである。

だいたい、学習塾や予備校へ子どもが行きたいのは「友だちがいるから」という副次的な目的もあるかも知れないが、本来は試験で高得点をあげたいためである。
塾講師の下手な授業のまねごとや精神訓話を聞きたいために行くのではない。

試験で点が取れない子どもというのは、全く同じ試験を3回行なっても、3回同様な間違いをしてしまうものである。

答案に自力で解答を書いて、それが解答の照合ペーパーと全く同じように一致しなければ「得点をする」という目的に達しないのである。

下手な指導法とか、授業のまねごとをしているのなら、そういう何度も同じ間違いをしている子どもに対して、どうするかがわかっていなければならない。

「間違えたから叱る」とか「罰を与える」などは論外である。
そんな方法しか浮かばないのなら、試験対策のプロとしては通用しないといってよい。

医学を学ばなかったニセ医者のようなものである。

点が取れないから、学習塾、家庭教師を頼りたいのに、そういう子どもを見て、学校の指導が悪いなどと言っているのはお門違いである。
学校だけでこと足りる子どもには、学習塾、家庭教師は必要ないのである。

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posted by edlwiss at 17:36 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育問題

2011年12月08日

詰が甘いのはあなたでしょう

試験というのは、特別の世界であり、理解できている、力があるということでは突破できないものである。

入学試験で合格を勝ち取るには「点を取らなければ」達成できないということである。

「詰めが甘い」ということを、今頃、新発見のように言っているあなたは、塾講師の新米ですか?

塾や受験のために雇われた講師、家庭教師なら「点を取らせる専門家」でなければならないでしょう。

「点さえ取ればいい世界」というのが試験なのですよ。

マラソンはゴールでテープを切らない限り優勝できませんね。
いくら、実力があってもダメです。ゴール寸前で転んでもダメですね。

それを、教育だの授業のやり方だの、説明の仕方がどうのこうのなんて笑えます。
受験指導のプロなら、確実に正答として加点されるやり方をしなければ、得点にならないということは嫌というほど痛感しているはずです。
「わかっていても、正答と照合して合っていないものは不正解」なのです。

「かわいい子には旅をさせろ」という有名な言葉があります。
これは、子どもには苦労をさせよということを言っているわけです。

もう少し噛み砕いて言えば「経験をさせろ」ということです。そこで、苦労したことから学ばせるようにしろということなんですね。

また「虎穴に入らずんば虎子を得ず」というのも、一度、学校の先生をやってみてそこから、学校の何が足りないかを知ることが大切じゃないかということを示唆しているのだと思いますね。

自身は、高校生、大学生の経験がないんですか?
そんなことはないはずですね。
だったら「詰めが甘い」ことに今頃気がついたような、自身も甘い高校生活や大学生活を送ったんですか?

プロ野球もストーブリーグですが、監督やコーチには大した経験をしていない人は採用されませんね。

受験指導のプロを自称するあなたは、どんな経験を積んできたのですか?
プロなら自身の経験が生きると思いますがね。自身は、どうして入試を突破しましたか?

伝聞での「公立学校の粗探し」はみっともないですよ。そんなことで、あなたの地位は上がりません。

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posted by edlwiss at 20:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2011年12月07日

高校は全入制に

高校を全入制にすることにより、数々の利点が出てくるのに、この国は真剣に教育改革をする気持ちがないのかと思う。

何か、国会はいつまでも「国会ごっこ」をやっているみたいだ。
国民はとうに今の政治に嫌気がさしていて、それが大阪の選挙に出たという感じがする。

大阪都を市民が希望しているかどうかわからないが、とにかく何か変えて欲しいというのが多くの気持ちではなかったかと思う。

さて、高校の全入制だが、私がこれをすすめた方がよいと思うのは

(1)各家庭の教育費の負担の軽減

高校入試のためにかける出費が減る。入試対策のためにだけに塾に通う必要がなくなる。
夜間の徘徊も防ぐことができる。

(2)中学校は高校入試を気にした授業をしなくてよくなる

今の入試は試験のための試験という感じがして、そのため勉強嫌いを増やしているような気がする。

(3)学区を再編成することにより、通学に時間を取られないようになる

時間もそうだが、交通費の節約になるし、通学途中の道草が少なくなる。

などの利点が考えられる。

中高一貫の学校はこれに近いと言えるが、人生の青春時代といえる年頃に受験ゲームに縛られることなく、意義ある活動がしやすくなる。

高校も進級に関しては、安易な進級を認めないことが大切である。

我が国では、中高と受験に縛られ、大学へ入った時から本格的に勉強が始められるという感じだが、大学からでは遅い勉強もある。

ソフトウエアの開発者などはその例である。中学生ぐらいからやった方がよいと思う。
国は中学入学と同時に、生徒全員にパソコンを配るぐらいのことをやるといいと思う。
iPadを配るというのはよい考えではない。
もっとも、iPadがパソコンの代わりになるのなら、話は別だが。

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posted by edlwiss at 21:05 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年12月05日

宿題の可否

あの先生は宿題を出すからいいとか、出さないから指導に熱心でないとか言う論議は、全く単細胞的な意見、もっと言ったら頭の悪い人の思考だと言える。

そして、そういう宿題の可否を論じていると、指導の目的はいったい何なのかということになってしまう。

宿題は出す方がよくて、出さないほうが悪いという結論ではないはずである。

もし、宿題を出す先生が良いのなら、授業は適当で、あとは宿題にしてしまうというやり方も良いということになってしまう。

私は、小学校に赴任した時、勉強は学校だけで済ませて、あとはなるべく子どもの自由時間を多くしてやろうと考えた。

■子どものやる気を引き出す

仕方なく勉強するより、自主的に勉強をするという気持ちを引き出す方がいいということに反対する人はいないだろう。

それより、こういうことを言うと「あなたは理想主義者だ」の一言で片付けてしまう人がいる。
そういう言葉を聞くと、私は「何て頭の悪いやつだ」と思う。

「理想か理想でないかは実践してみればよいだろう」ということで、私はそういう頭の悪い人は無視して、宿題のない指導実践を試みた。

やり方は、案外簡単である。

例えば、わかりやすい算数に例をとってみよう。

算数は、新しい単元になると、まずその単元で習得すべきことの説明をする。
ひと通り説明が終わると、次に例題を解く。

その次は練習問題である。

この段階になった時

「明日は、○○ページの@とAの問題をやります。ただし、ここができた人は放課(遊びの時間)にします」

と言う。

すると、ある子どもが

「先生、ウチでやってきていいですか?」

という、私は

「そうだなあ、できればいいんだから、ウチでやりたい人はそれでいいことにしよう」

と言う。

そうすると、子どもたちの多くは嬉々とした表情になり、翌日、算数の時間になると、答え合わせの時間に期待して待っている。

答え合わせをして、できた者を「放課にしてよろしい」というと、子どもたちはすごく喜んで外に出ていく。

もちろん、やってこないので教室に残って、問題をやっている者もいる。
そういう者は少ない。
少ないから個人指導もしやすい。

ざっと、言うとこういうやり方で、子どもたちには「勉強せよ」と言わなくてもやってくるようになる。

親にしたら、宿題でもないのに家で一生懸命やっている姿を見て不思議に思うかも知れない。

やり方、工夫次第で子どものやる気は出せるものだ。

これでも、宿題を出す先生が熱心で、そうでない先生はよくないという論が成り立つだろうか?

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posted by edlwiss at 14:16 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2011年12月03日

学力テストで学力が向上するのですか?

gakuryokuteika.jpg
「学力とは何か」がわかっていないのに、学力テストと称して、テストを作り採点の結果で、学力がどうのこうの論じるという不思議なことがまかり通っている。

このことは以前にも述べた。

ここに至って、危惧することは、その何かわからないテストの点を気にするあまり、学校に圧力がかかることだ。

自分の地域の、その学力テストと称するテストの点数が悪いことを恥とし、点数アップ対策をすると、学校はもっぱらテスト対策に走る恐れがある。

ある地域では、塾経営者が大声を出し、学力アップと日夜吠えている。

その学力アップの目的は何なのかと問いたい。

地域の人口が少ないとか、産業が振るわないなどと言っている。
それは、基礎学力がないからだと言っている。

では、何だかわからない、学力テストの点数を上げると、基礎学力がアップし、人口が増え、産業が活発になるのかと聞きたくなるが、その辺りの因果関係については、全く述べられていない。

大抵のテストは、テスト対策として、何度も問題集をやれば、どういう問題が出るのかわかってくる。
つまり、テスト対策というのは、出題されることが決まっている問題に対して、答える訓練のようなものだ。

だから、こういう問題が出たらこう答えるという反射訓練を積み重ねれば、点数はアップする。
テストまでは暗記していて、テストが終われば忘れてもよいという効率的なテスト対策が盛んになる。

それで、基礎学力が高まり、人口が増え産業が活発になりますか?

そうじゃなくて、どういう教育をしたら、社会に出て生きていける人になれるのかを研究しなければならないんじゃないですか?

表向きは、学力アップと言って、よくわからないことを叫んで、結局、点数アップ競争になれば、学習塾が栄えるということを狙っているんじゃないですか?

そうでなければ、なぜフランチャイズの塾を経営するのですか?

全国展開の学習塾は、専用の問題集などを作成して、入塾者に買わせていませんか?

そもそも、学習塾というのは、学校の勉強についていけないので、行きたいという子どもが多いのではないですか?

そういう子どもは、学校の教科書の問題さえ十分にできていないのですよ。
だから、余計な教材を買わせずに、まず教科書中心でやるべきじゃないですか?

全国共通の教材で、どうして地域的な問題、その地域の学校に合わせられるんですか?

地域に活気がないのは、わけのわからない、学力テストの点が低いからじゃないでしょう?

そうでないというなら、その学力テストと学力と、地域発展の因果関係を説明してほしいですね。

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posted by edlwiss at 22:14 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育問題

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