2012年01月31日

近ごろの困った人たち

私があるお宅を訪問して、お届け物をした時、近くの道路に車を止めた。
もちろん駐車禁止の場所ではない。

用をすませて車に戻ると、前後が車で隙間なくはさみうちになっていた。

困ったなあと思って、辺りを見回すと、どこかで見ていたのか、一人の男が近づいてきた。
そして

「あんたの車か?」
「そうです」
「何でここに止める?」
「ここは駐車してはいけないんですか?」
「そうやって、開き直る!」

こんなやりとりが数回繰り返された。
男は駐車がいけない理由を言わず。返事は常に

「すぐそうやって開き直る!」

と言うばかり。
埒があかないと思った私は

「じゃあ、警察呼びますか?」

と言って、携帯を取り出し電話をかけようとしら、男は渋々車を移動した。
息子らしい男も出てきて、車を移動した。

帰るとき、気がついたのだが、男の家の車庫だけでは車が止められないので、男は道路を車庫がわりにしていたらしい。

また別の話。

私は、銀行の広く開いている駐車場に、駐車した。
左右は空きだった。

駐車場に戻ると、左側にかなり接近して止めた車があった。
私が運転席に入ろうとすると、左前方で怖い顔をした爺さんがこちらを見ていた。
そして

「こんな風に止められちゃあ入れやせん!」

と言った。
自分が後からきて止めたのを忘れたらしい。
(車は隣との駐車スペースが少ないと、降りるときはなんとか降りられても、乗るとき乗りにくくなる時がある)

こんなトラブルはまだいいほうだ。なんだか、人間がだんだんわがままになってきて、その上思考がおかしくなってきたと、近年感ずるようになってきた。

もちろん、現代の人がみなそうだということではない。そういう人が多くなったと感じることである。
komaraseru.jpg

それで、何が変なのか、私なりに分析して問題点を挙げてみた。

それは、

(1)集合の概念
(2)思考の連鎖
(3)低ビット化
(4)要素の調達
(5)自己修正機能

の5つである。

(1)集合の概念に関わる問題

先のブログにも書いたが、教育と言った場合、この集合体の中にはいろいろな○○教育が含まれる。

○○のところにいろいろな接頭辞をつけて、それらはみな教育の要素である。

話が混乱するのは、教育という集合と○○教育を同列で語ることである。

もちろん、何の教育を言っているのか自明の場合はいいが、混乱を招く恐れがある場合は○○教育と断るべきである。

そう断ることで、読み手、聞き手はその範囲を意識する。

書く側、言う側の態度としてはこれが必要だが、読む側、聞く側についても教育と名がつけば何でも自由自才というか勝手に同一化して語ってしまうことのないようにしなければならない。

今日、語る側、読む側(聞く側)の集合の概念に関する混乱が多いと感じる。

(2)思考の連鎖

私は将棋が好きで、テレビの将棋番組をよく見る。
プロの勝負は、ずいぶん先を読んでいる。

頭の中では、思考の連鎖が起こっているわけだ。

その連鎖がどこまで奥深くつながっているかが「読みきる」とか「読み切れない」という言葉で表される。

今日では、この思考の連鎖がないと思う人が増えてきた。

驚くことにたった2つの連鎖もない人がいる。

だから、凶悪犯罪も目立つのかなと思う。

例えば

「あんなやつ殺してやりたい」

なんて言う人がいるが、普通は「そんなことしたらどうなる」と、先の結果を予想して(連鎖思考)をして踏みとどまる。

中にはそう予想できても、踏みととどまれないで犯行に及んでしまう人もいるだろうが、事件の報道をみると、どうも「そんなことしたらどうなる」まで考えが及ばず行ったのではないかと思うものもある。

体罰のことが話題になった時、私が「物理的な衝撃が問題になるわけではないですよ」と言ったことがあるが、その時、意味がわからない人がいたので

「例えば柔道のような格闘技の場合は・・・」

と言ったら

「柔道と格闘技と何の関係があるのですか?」

と言った人がいる。

その場限りの思考、1つだけしか考えられない人、非常に厄介である。

(3)低ビット化

ビットはコンピュータ用語である。
何のことかわからない人は、1ビットは電球1個と考えるといいかも知れない。

電球1個は、点灯と消灯の2つの状態しかない。

これが電球2個になると、仮に、点灯=1、消灯=0とするならば、2個の電球の状態は

00、01、10、11

の4通りになる。2ビットは4つの状態を表せるわけだ。

以下、ビットを増やしていくと、2のビット数乗で計算できるわけで、4ビットは、2の4乗=16、8ビットは、2の8乗=256、16ビットは2の16乗=65536、・・・・となって、今日のパソコンは32ビットが主流で(CPUは64ビット対応が多い)、表せる状態はとてつもなく大きな数になる。

改めて言うと、8ビットでも256通りの選択肢を考えることができるのである。逆に言うと256通りの選択肢しかないと言える。
だから8ビットでは、これを十進数に当てはめると、0から対称して終わりの数字は255なので、8ビットのコンピュータは最大255の数値しか考えられないということになる。

幼児が数を数える時にも指を使うことがある。両手使って10までと同じようなことである。

遠回りのはなしになったが、早い話、このビットが少ないんではないかと感じられる人が増えたということなのだ。

脳のビットがせいぜい4ビットぐらいではないかと思われる人がいる。
せいぜい、選択値が16通りぐらいしかないようなものである。
こういう人の話は大雑把でリアリティ(現実味)がない。ネコに鈴をつけるで終わっているようなものである。

例えば

「国内旅行しか行かない人は温泉しか行かない」

なんていい方をする。

「国内旅行しか行かない人」という集合と「温泉」という集合がある。

これはどちらも「集合の要素」が大きい。
大きな集合で話が止まっている人は、それ以上細分化できるだけの選択肢がないのだろう。
数えられるほどの選択肢しか頭の中では思考できないのだろう。

だから、話が大雑把、すなわち大分類のところで止まってしまう。

「小学校の教師はヒマだ」というのも同様。

「小学校の教師」という集合全部が「ヒマ」という分類にできるのか?

だから、誰のことを言っている(who)?
どういう風にヒマなのか(how)?

と聞きたくなるのだ。

「国内旅行しかない人」というのは、どういう人をイメージしているのか(who)?
旅行先は「温泉」しか考えられないのか(where)?

だから、5W1Hで検証したらどうかと提案しているのだ。

でも、4ビットしかない人には16以上の選択肢しかない。つまり、もう16という数字は大きくて理解不能なのだ。

というわけで、選択肢の少ない人、話が大雑把な人は脳のビットが少ないんではないかと思っしまうのだ。

元からビットが少ないのか、老齢化で電球が切れるように減ったのか?

(4)要素の調達

要素の調達の問題というのは、話を組み立てるとき、使う単語、どこからか持ってくる単語が、どこにあろうとおかまいなしという状態。

【文章1】
アメリカに行った竹村が、ホテルで泥棒に侵入され財布を盗まれ途方に暮れているという連絡が入った。
私こと渋谷は大事な仕事をかかえていたが、会社へ休暇をお願いして、竹村のもとへ向かうことにした。
到着してみると、竹村は元気でケガもなかったことが何よりだった。
帰国して、東京錦糸町にある会社に復帰すると今度は親戚の伯父が入院したと言う。早速見舞いにいかねばならない。


上記の文章を渋谷に反感を抱いているMという男がコメントした。

【文章2】
渋谷は日頃、行いが悪いので泥棒に入られるんだ。自分の家の戸締りぐらいしっかりせよと言いたい。自宅があるのに、東京のホテルに泊まり歩いている。自宅に帰らないような男は信用できません、こういう人間はろくな仕事もできません。健康管理も悪いので病気になるのです。


これは支離滅裂な文章だが、Mとしては、事実がどうであろうとおかまいなし。そんなことはどうでもよく【文章1】から自分の気に入った単語だけを調達して文章を作っている。
Mが重症だと思われるのは、まるっきり創作なのだが、それを創作と認識できない捏造をやっていることだ。

上記の文章はサンプルだが、こういう人間はいた。

(5)自己修正機能

CDは少々傷がついて、ビットが読めなくなっても修正機能があって、再生が止まることはない。

一度作られた機械は、不良品だったり故障だったりした時に、機械自身が修正するということは普通にはない。
しかし、最近では機械に仕組まれたソフトが多くなってきて、自己点検や自己修正機能が付加されてきた。

自己修正機能というのは、人間の最もすぐれた能力の一つだったと思うのだが、この先は人間だけの特権ではなくなるかも知れない。

私は認知症の講習会で、間に演奏を頼まれることがある。そのついでに、講義を聞くのだが、認知症になりやすいタイプのひとつに「変わった人」というのがあって、自分の言うことが間違っていても訂正しない人は、次第に人が相手にしない、寄りつかなくなるということで孤独になり認知症になる人がいるということである。

かつて書いたことがあるが、保険会社に嫌われやすい職業で、教員というのがあった。
嫌われやすい理由は、一度言い出したことは間違っていても改めないということだった。

私は、教員がみなそうだなどという荒っぽいことは言わない。ただ、保険会社の統計では「多い」ということは心しておいた方がよいのではと思う。

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認知症で人に迷惑をかけるようにはなりたくないと思っている。

誰も来なくなる。連絡もなくなるということで、交流が希薄になるということは気をつけねばならないと思っている。

幸い、今はお呼びのかかることは多いので、感謝して人々との交流を大切にしたい。

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posted by edlwiss at 18:52 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年01月30日

あなたの学力の定義を教えて下さい

近年、児童生徒の庫力が低下し、その原因を追究し回復をすることが急務と思われる。
庫力の低下が問題となるのは、児童生徒が家庭にいる時より、外出時に低下するもの考えられ、特に夜間の外出には配慮する必要がある


上記の文の意味がわかるだろうか?

誰もわからないだろう?

なぜわからないのだろう?

それは、上記の文中の庫力の意味が不明だからである。

学力論議の不思議

学力という言葉が出てくると、書いてある文章の意味が私はほとんどわからない。
なぜわからないのかと言うと学力の意味が不明だからである。

作者が「私は学力の意味○○と考えて論述する」と断っていれば理解できるのだが、そういう文章は非常にない。いや殆どないと言ってもよい。

そういう意味では始めに示した、わけのわからない文章と大同小異である。

学力の意味を示さず書いてある文章の作者に、学力の意味を質問すると、返事はない。
ひどいものは、クレームをつけたととる者もいる。

本人が使っている言葉の意味を問われて、文章を書いた本人がわからないというほど、無責任でおかしな文章はない。


gakuryokuteikaron.jpg
「はるさめを買ってきて」

と言われた子どもが

「はるさめって何?」

と聞いても答えないようなものだ。

「ききわけのない子だねえ」

と叱りつけているようなものだ。

学力の意味を調べてみる

答えられないのなら、せめて辞書なりなんなりで調べたらどうかと思うのだが、自分の使う言葉に無責任な人ほど、調べるということをしないように思う。

学習によって身についた知的能力。
しかし日本においては、概ね 筆記試験によって 学力が評価されるため、実質的には、 学力=記憶力。
これは、はてなキーワードによる説明である。

おもしろいのは、日本においては、概ね 筆記試験によって 学力が評価されるため、実質的には、 学力=記憶力。
というところである。

そうなのだ、学力の意味を明確にせず論述している文章を読むと、学力=記憶力と考えているのだと思う。

だったら、わざわざ学力なんて言葉を使わず、記憶力という言葉で論じた方がわかりやすい。

テストも学力テストでなくて、記憶力テストとしたらどうだろう?

私がこのようなことを言うと、率直に言って頭の悪い人は「記憶力テストがなぜ悪い」とか「学力の一部には違いない」と言ってくる。

私は記憶力テストが悪いなんて全然言っていない

記憶力テストの意義を認めないわけでもない。

記憶力が学力の一部には違いないと言えるなら、学力の全体像を説明してもらいたいものだ

学力(がくりょく)とは、人間活動における基礎となる学ぶ力のことである。

学力は、人間の基礎的な能力の1つである。人間は、「学力」を駆使することによって、さまざまなことを経験し、その経験から新しいことを学ぶことができる。人間活動の質に差違をもたらすものの1つに学力もあると考えられており、近代以降において学力は、十分な施設(校舎・運動場など)・人材(教員など)などを有する学校によって保証されなければならないという思想が広がった。そのために義務教育の制度が定められた。
学力を狭義に捉えれば、学校教育(就学前教育・初等教育・中等教育・高等教育)によって修得した能力とされるとともに、学校教育によって得ていなくても学校教育で得られる能力と同質のものも学力とされる。
学校における教育には、目的(なぜ行うのか、why)および目標(何を行うのか、what)が規定されており、学力検査は、教育の「目的および目標」に基づいて学力を測定する。しかし、測定できる事項には限りがあり、主体性・自律性・協調性・感受性などの測定は、困難である。
この説明は納得できる。
これは、フリー百科事典「ウィキペディア」によるものである。

この説明の中で、特に大切なところは近代以降において学力は、十分な施設(校舎・運動場など)・人材(教員など)などを有する学校によって保証されなければならないという思想が広がった。そのために義務教育の制度が定められた。
というところである。

なぜかというと、学習塾が教育をやっていると勘違いしている阿呆がいるからである

学力を保証するにはということで、研究をした結果。条件を洗い出し、その条件を整えるために学校が作られたわけで、教育では学校のような設備が必要だということである。

もちろん、これは設備の条件であって、こういう設備を整えれば学力を保証する教育ができるというものではない
必要条件であり、十分条件ではない。

勘違いの中には、受験指導や対策を教育だと思い込んでいる輩もいる。

国が国民全部に必要と考えた教育は義務教育であり、言い換えれば小中の義務教育以外は国民に課せられたものではない。

中学校を卒業すれば、進学するかしないかは自由なのである。

しかし、次第に義務教育後も進学希望者が増えたので、学校はサービスとして受験対策もするようになった。
それが、教育課程にも入り込んで本来の教育を蝕むようになった。

本来は、中学校を卒業したら、個人で勝手にやってくださいなのである。

私の時代は古い時代で田舎でもあり、進学希望者は少なかった。
それで、進学者のための授業を課外で行なっていた。
私はそういう授業に出たくなかったので、出なかった。

県によっては高校入試の科目を国・数・英だけにしたこともあった。
それで、社会、理科の先生で「これで、本来の教育ができる」と喜んだ人もいた。

学習塾の講師はほとんど、受験指導が本来の教育とは思っていないだろうが、中にはバカな者もいて、教育と勘違いし、もっとひどい者では受験教育こそ教育の中心と考えている者がいる。
○○教育と、教育の前に接頭辞のつくものは、広い意味での教育という集合体と同一ではない。例えば「軽自動車」と言った場合、それは自動車全体を指しているのではない。そういう意味では学校教育も教育全体の集合体を表しているものではない。しかし、学校が教育という集合体のかなり大きな部分を占めていることも間違いないだろう。

教育がやりたいなら、少なくとも、学校としての条件を整えて認可を得るべきである。

学習塾が教育をやりたいとして、認可を受けて教育を行うことはおおいに結構なことだと思う。
例えば、学校法人名進研学園

ここでも、断っておきたいが、また頭の悪い人が、私が塾の悪口を言っているとか、塾が嫌いと言っているなど捏造する人がいるということ。

私がそういうことを言っているかどうかは、大して難しい読解力は必要としないと思う。

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posted by edlwiss at 22:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年01月29日

生徒とともに成長する

吹奏楽部での活動はコンクールでよい賞をとることが目的ではない。
しかし、そういう学校もあるかも知れない。

それは悪いことだとは思わない。

コンクールに出ることだけで精一杯の学校もある。

それはそれで、先生としては苦労があるわけで、外からは見えないが、その苦労の様々なことが生徒も先生も成長する体験となる。

ある中学校の校長から「指揮をできる先生がいないので・・・」と頼まれたことがある。
行ってみると、かなり荒れた部だった。

毎日のように、練習しているそばに来ては泣いている女生徒がいた。

やくざのような言葉を使う女生徒もいた。

男子もいたが、どこかひねくれているような態度の者が数人。

きつい目をしていて、いつも人を警戒しているような目つきの女生徒。
時々、私の方を見るが、信用していないという目つき。

だが、かつて鍛えられたせいか、私が指揮台の椅子に座ると、生徒たちもおとなしく着席した。

でも、扉の向こうで泣いている女生徒がいて、顧問の女の先生が行って何か声をかけていた。

利口そうな顔つきをした生徒も何人かいた。
ティンパニー担当の、背の高い女生徒は相当に頭がいいと感じた。

練習の時、曲想を説明するためにドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を引き合いに出した時、私が

「上半身は人間で、体は馬のような・・・」

と言ったら、練習後、その生徒は私のところにやってきて

「先生、あれは馬ではなくて山羊です」

と言った。



翌日、私は、彼女が私の誤りを指摘してくれたことを説明した。

なんとか、部員の出席もよくなり練習が少しずつではあるが進むようになった。

帰りの会が終わって、生徒たちが音楽室に来る時間はまちまちだった。
しかし、私は練習開始と決めた時間には正確に練習を始めた。

生活については、とやかく注意はしなかった。
それは、これは音楽部の特長だが、曲を仕上げていくことで、生徒たちは音楽に感化されていく、つまり情緒的感動性を高めることになるからである。

この効果を期待するには、当然のことながら練習によって曲の良さを引き出していくことが大切である。

吹奏楽部は上手になっていくと、必ず、練習場所がきれいになっていく。
生徒たちの顔つきもよくなってくる。

これは、ある高校で4年間指導した時も、校長が「生徒たちが礼儀正しくなった」とか「よく挨拶をするようになった」と言ってくれたことからも実感した。

私はこの中学校では全員がそろってコンクールに出られるということを目標にしていた。

私の先輩の中には、部活動の指導の話になると、サボる生徒や素行のよくない生徒はクビにすると言っていた人がいた。

理由は、そういう生徒がいると、まじめに参加している生徒の迷惑になるということであった。

でも、私としては一人もクビにしない。全員コンクールに出すと心の中では決めていた。

練習がまあまあ、普通にできるという状態になってくると、生徒の中には「自分はコンクールに出られるのか?」という不安を感じる者が出てきたと感じた。

つっぱり気味で、ヤクザのような言葉を使うトロンボーンの女生徒はビクビクしていたようだった。

私は努めて全員を公平に扱うようにした。

ある人、例のトロンボーンの女生徒が、一部分だけいい音を出したので「すばらしい」と言うと、今まで見たことのない嬉しそうな顔をした。

この言葉は、この生徒向けに言ったことだが、こういうことは全員の気持ちに波及する。

ちょっとひねくれているチューバの男子生徒は、何度も言ったところを練習していなかったので

kisyo.jpg「まあ、そんなふうではコンクールに出せんな」

と言った。

その日の練習後、ホルンの優等生の女生徒が私のところにやってきて

「先生、コンクールに出さないなんてだめ、だめ、・・・絶対ダメ」

と抗議するような、懇願するような口ぶりで言った。

私としては、コンクールに出さないという気持ちは毛頭なく「出さない」というのは私の作戦だったので、返事に困った。
真剣に言う、その生徒の優しさが痛く心に刺さって困った。
彼女は「みんないっしょにコンクールに出るんだよ」という目標は、感じていたと思う。

コンクールには全員出場し、生徒たちもいろいろな緊張感を体験し、学校に帰ると、部の雰囲気がおだやかな暖かみののあるものになった。

いい賞がもらえたわけではないが、生徒たちの顔つきには充実感が見られた。

この学校を去る年には、生徒たちが感謝の会のようなものをやってくれた。
その時の寄せ書きと部員の写真は、今も私の部屋に飾ってある。

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posted by edlwiss at 14:44 | Comment(5) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年01月29日

プログラミングのすすめ

あるお宅で、パソコンの修理をしていた時のこと。

「ええっと、ドライバー、ドライバー」

と思わず私がつぶやいたら、おじいさんが、ネジを回すドライバーを出してくれた。
まあ、仕方のない話かも知れない。
おじいさんの親切心だけはいただくが、パソコンの中身について少し知っている人なら、作業の様子を見ていたら、このドライバーの意味はわかるはずである。

これはこれでユーモアのような話で済むことであるが、最近というか、近年、ユーモアでは済ませられないと思うのが、人の思考回路である。

このブログでも最近、勘違いと思われるコメントがあったが、問題は勘違いそのものではない。
修正できないということである。もっとも、まだ投稿した本人には理解できていないのかも知れないが。

元来「人はミスをするものである」という前提で、機械も作らなければいけないとされている。

これは、洗濯機でケガをしたということで裁判になり、それからメーカーは特に気にするようになったと思う。

裁判で、メーカーは使用者の不注意だと主張したが、判決は「人はミスをするものとの前提で作らなければならない」として、原告勝訴になった。

それで、メーカーが気を遣って作っても、どうしても予測不可能という不可抗力という自体もある。
そういう場合、メーカーの勝訴にになる場合もある。

しかし、一番の問題は「わかっていて直さない」ということだ。

これはモノづくりの世界だが、私が懸念するのは、あらゆることに関係する一番元の人の思考回路のことだ。

人は失敗して(誤りに気づいて)それを学習し、思考回路を修正していくという自動修正機能を持っている。

ところが、近ごろこの能力が減退してきたのではないかと思うのである。

こういうことに気づく人も他にもいるようで、ROM頭なんて言葉も出てきた。昔流で言えば石頭になるだろうか。

部品が違います。それは他所のものです

仮に、自動車を作ろうという時、それが本物であろうが模型であろうが同じことだが、タイヤを取りつけようとする時、それはどんなタイヤでもいいということはない。
自動車に自転車のタイヤを持ってきてはいけない。

ところが、このような作文を書く人がいる。
自動車を知らない人は、タイヤが違うということに気づかないのかも知れない。

そういう意味では、作文の上で「部品間違い」を平気でやっている人は、実践のない人ではないかと想像するのである。

「それ、言葉は同じでも中身が違うのだよ」

ということがわからない思考には困ったものだと思う。

場所の違いもある。

私はしばしば、自動販売機を例に出して「人の思考の低下(知能の低下)」を憂うことを書いた。

表面上シンプルに見える自動販売機も、中身はずいぶん複雑な仕掛けになっている。
ボタンを押してジュースを買う時、中の仕掛けに興味をもつ人がどれほどいるのだろうか?
もちろん、そういう興味を持たなければいけないということではない。

鉱石ラジオを作ったような年代の人は、仕掛けに興味を持つかも知れない。

自動販売機を設計するような高度な知能を必要とする一方で「ボタンを押すだけの人」が存在する。

だから、私は知能の二極化を心配するのだ。

この話はここまでだが、私が驚いたのは「そんな狂った思考回路もあるの?」と思った例だ。

それは

「複雑な仕掛けを考えるのも、ボタンを押すだけのも人間だから、人の知能低下を心配する必要はない」

という考え方だ。

私は正常な考えができる人なら、この思考のどこが変なのかわかると思う。

このように、単語だけで意見を作ってしまう、何でも構わず部品は違っても、自分のものでも他人のものでもおかまいなしに持ってきてしまう思考回路は壊れていると思うのである。

ロボットが進化してきているが、人なら簡単だと思う判断でも、まだなかなか追いつけない思考はある。

例えば

「靴を持ってきてくれないか」

という命令では、それが命令された人の物なのかどうかを区別して持ってくるというのは高度な思考になる。

こういうことを考えると、何でもかんでも構わず自分の主張のために、区別なく持ってきてしまう人というのは、こういう高度な知能が欠けているのではないかと考える。

元からそうなのか、次第にそうなったのかはわからないが。

だから、思考チェックの判断として、私は5WH1Hに照らしあわせてみたらどうかというのである。

それ誰ですか?
それどこの話ですか?
実際どうやるのですか?
・・・

プログラミングのすすめ

VisualBasic.jpgまだWindowsもDOSもなかった頃は、パソコンも自分でプログラムも作らなければ利用できなかった。

だから、その頃は教員の間ではプログラミングの話が多かったし、互いにプログラムの交換ということも多かった。

ところが、最近ではプログラミングの話をする人にはめったに会わない。

既製品の利用が多くなったからだ。

昔はC言語だけを20万円以上も出して買った。
今ではタダである。

Windowsのプログラミングも、Microsoftからタダでダウンロードできるソフトが提供されている。
例えばVisualBasic2010だが、タダと言えど相当なことができる。

実用になるプログラムを作ることはなかなか大変なことであるが、入門書を活用して挑戦してみることは大いに意味があると思う。

それは、何より思考回路が鍛えられるということである。

まず、先生方が情報処理の研修でやってみたらどうか?

経験のない人にしたら、如何に自分の思考に変な所があるかに気がつくと思う。
初歩的なコードを書くことは、そんなに難しいことではない。

困難を感じることは、これでいいと思ったことが「エラー」で止まることだ。
矛盾は一切許してくれない。

それでも、Visual Bsicにおいては緩やかなところもある。

例えば「5」と入力した場合、本来はそれが単なる文字なのか、数を表しているのか区別があるのだが、VisualBasicは融通をきかせてくれる。

融通がきくということは、それだけ曖昧さがあるということで、複雑な処理になるとそれが問題で結果にも不安を及ぼすことにもなるが、あまり厳格だと嫌気がさすので研修としてはVisualBasicがいいだろう。

何かを学ぶ時絶対的な基準があるということはよいことである。
プログラミングは正しい筋の通った文章を書くためにも、よいトレーニングになる。
音楽の練習では、メトロノームを使うことがあるが、これもテンポの絶対的基準である。

どうしても、テンポが狂ってしまう生徒がいたので、メトロノームを使ったら、その生徒は

「先生、このメトロノームが狂っています」

と言った。

プログラミングの研修をやったら、思い通りにならない時「コンピュータがおかしい」という人もいるかも知れない。

コンピュータは部品が違ったり、場所が違ったりしては許してくれない。

本来は、プログラミングでなくても、筋の通った矛盾のない文章を書かなければならないのだけれど、絶対的基準に照らすことでよい訓練になる。

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posted by edlwiss at 12:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年01月29日

ベテランは手本を示せ

大学時代、老先生にお世話になった。
ある日、先生は吹奏楽団を前にして

「やってみろ」

と言われた。

つまり、指揮をしてみろということだ。

私は普段とは違う緊張感で指揮をした。

「まて」

先生の声。

先生は時々止めて、私の悪いところをずいぶん指摘した。
あまりにもたくさんあったので、言われたことを全部守ろうにも、私の頭は混乱状態だった。
その日は、先生と団員の板挟みにあって、私は逃げ場のない状態だった。

先生からまたストップがかかった。

今度は先生自らタクトをを持って指揮台に上がられた。korekara.jpg音が一変した。

これには、その場にいる一同も驚いた。

その状況は、今でも忘れない。

先輩から、言われたことがある。

「今度、お前、指揮をやるそうだな。あそこに立つのは、死刑台に立つようなものだぞ」

それは、指揮者が「やわ」ではいい演奏ができないというメンバーからの、無言の圧力と、時々、このように「やってみろ」と言われ、針のむしろ状態を経験することなのだ。

先生は時々難しいことを言う。

「そんなこと、できるのか?」

と思う時、先生がタクトをとると見事な演奏に変わる。
これだけ説得力のあるものはない。

話は変わるが、小学校へ教育実習に行った時のこと。

「なんか、君は違うなあ」

とある先生に言われたことがある。

何のことか?

授業の時、堂々としているのだそうだ。

自分では何も構えたつもりはないのに、そう感じるらしい。

おそらく、そう見えたのは、日頃、指揮台に上がって鍛えられたことで自然に身についたのであろうと思った。

指揮者なんて大役が務まる力はない。私は指揮者ではなく指揮係と言った方がよい。
そういう指揮係をやるようになってから、しばらくすると、先輩が

「おい、お前、○○高校に行ってこい」

と言った。

これは、指導者を求めている学校から、しばしば大学へ指導者の要請があるからだ。
先輩としては「そろそろ他流試合をしてみろ」「他流試合をさせた方がいいな」というような気持ちだったと思う。

というわけで、私がはじめに先生(みたいな)をやったのは大学2年生の時だった。

こういうことも、教育実習に役立っていたのだろう。

大学で鍛えられることを思うと、相手が高校生や小学生の場合はそんなにプレッシャーはない。
ナメているわけではないが、率直に言ってそうなのだ。

いや、相手が子どもだからということではない。
たとえ相手が子どもであっても、演奏レベルの高い団体では緊張感がある。

それは、指揮をよく見ているし、指揮のように演奏するからだ。
そういう意味では、相手の年齢は関係ないと言える。

私はオーケストラでの演奏経験もある。
そのオーケストラには、しばしば現役のプロの指揮者がいた。
世界的に活躍していた若い某指揮者だった。

ある日、彼の髪が真っ白になっていた。
1年で突如そうなったのだ。

おそらく、相当な神経の使い方でそうなったのだろうと想像した。

若い音楽プロデューサーで、髪は黒いのに、頭の中央はゴソッと禿げていた人もいた。これも、神経を使うことでそうなったんだろう。

言うは易し行うは難し

世の中には評論家がたくさんいる。
評論家は専ら「言うだけ」である。
だが、プロの評論家であれば「言うだけだろう?」と軽く見られないだけのものを持っていなくてはならない。

プロ野球出身者で評論家になっている人もいる。
もとプロ選手という先入観を抜きにしても、これらの人の言葉には説得力がある。

再び監督やコーチとして現場に復帰する人もいる。

これらの人は体力的に、現役時代のようなことはできないが、指導は具体的で実践的である。

しかし、世の中には眠たくなるようなことしか言わない(言えない)エライ人(エラそうな人)もいる。

これらの人の言うことは雑音でしかない。

指揮者はほとんど生涯現役である。
公演先で亡くなった指揮者で96才の人がいた。

教育の世界でも、私は生涯現役だと思う。
指揮者なんか60才未満は、若手指揮者とと言われる。

教員だってまともに仕事をしてきた人なら、指揮者同様、60才なんて成長期だと思う。

老先生がお手本を示してくれたように、教員も肩書きがつくようになったら「言うだけ人間」にならず、たまにはお手本を示すべきだと思うのである。

率先して授業もやったらどうか。指導授業である。

ピアノの先生でもヴァイオリンの先生でも、話だけでなく「こうやるんだよ」と自ら演奏をしてみせる。

もちろん、私も指導に行く時には楽器を持っていく、そして時には実際に演奏してみせる。

特に、音楽では「音を聴かせる」ということも大切なことである。

中高生には、指の動きの速い難しい所を聴かせてやるところは効果がある。
それで「できるんだ」という目標が頭に入るようだ。

実際にやってみせないと「できない」と思っていたり「難しいからごまかしでいい」と思ったりすることもある。

情報化時代

ブログは情報化時代の代表的なものの一つである。
これはと思う情報があったら、それを書いている先生をご招待しよう。
そして、実際にやって見せてもらおう。

いい情報なら、そのための投資は安いものである。

言う以上はご招待に応じよう

何と言っても目の前で実践して見せることが、一番説得力がある。

私はかつて、ある小学校の研究会に行ったことがあるが、すごく感心した授業がある。

招待された先生は、遠方からということもあるが、授業をするためのクラスへ開始直前に到着した。

クラスは1年生で、もちろん初対面。

みるみるうちに、子どもの心理を捉えて、子どもたちを夢中にさせていった。
目の前で指導を見せてもらったことは、かつて、私が老先生が指揮をして見せてくれたことを思い出した。

ブログを書く以上はやって見せて欲しいと言われたら、応じられるだけの気持ちを持って書くべきと思うのである。

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posted by edlwiss at 10:52 | Comment(6) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年01月28日

Linux Mint

NIKKEI_Linux.jpg時々、この本買っているけど2月号はLinux Mint12がついていた。
Linux Mintは最近人気上昇中だそうだ。
ということで、インストールしてみた。

Linux Ubuntuをベースにしているということだが、インストールした結果は、私の機械では思わしくなかった。
動作しないというわけではないが、私の感覚では操作性がしっくりこない。

というわけで、またLinux Ubuntuに戻した。

中学校の情報処理教室にはWindowsが多いと思うが、大阪のある中学校みたいに、リース期間が終了したらLinuxにしたらどうかと思う。

もちろん、Linuxのわかる先生がいないとできないだろうが、なにしろこんな凄いOSがタダで使えるのだから。

それも、オープンソースだから知識を持てば内部まで見られる。
そこへいくとWindowsは中で何をやっているのかわからない。

Linuxを使えば相当な経費節約になるし、Linuxを教えることで、Linux使いの中学生が育つかも知れない。
関連のソフトもタダでオープンソースが多いので、莫大な経費が浮くだろう。

Androidのアプリケーション作成も容易になる。

日本はもっとソフトエェア大国を目指すべきだ。

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posted by edlwiss at 17:53 | Comment(1) | TrackBack(0) | パソコン

2012年01月28日

何ごとも機が熟さなければ

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎいでな 額田王

の歌のように、何ごとも「機」というものがあると思うのです。
いくら、早く船を出したいと思っても、潮が十分でない状態ではどうにもなりません。

船を出すように見えるものはいいのですが、見えないものの機を探るというのは難しい面があります。

昔は13才で元服、つまり大人の儀式を行ったわけですが江戸時代には、それが大人として認めてよいという機と判断されたのでしょう。

kanseihachikara.jpg
教育の場においても、教師が場を判断しなければならない場合はたくさん出てくると思います。
そして、そういう機を判断する能力こそが教師に求められる能力と言えるのではないかと思います。
そこにも、プロフェショナルとしての感性が必要だと思うのです。

アメリカでは、吹奏楽が正課として取り入れられているということを以前のブログで書きましたが、いつからそれを始めるかというと小学校高学年と聞きました。
それは、この時期からそろそろ変声期になり声が出しにくくなる、それでその前までは歌(合唱)に力を入れているということだそうです。

身体的な条件もあるでしょう。
例えばヴァイオリンは1/4とか1/2など小さいサイズの楽器が、小さな子ども用として用意されていますが、管楽器の場合そういうものがありません。
管楽器は大人用、子ども用という区別がないのです。
身体の条件として、小学校高学年になると管楽器も持てるようになると言えます。

機を判断するということは、個人が対象とは限りません。
学級づくりのために何をするか?

協調性を高めるためにみんなで何かをやろう。
こう考えた時、合唱をやるというのも一つの方法でしょう。
担任が音楽に堪能な人なら、なお条件的にはいいと思います。

しかし、どこかの学校が、あるいはどこかのクラスがそれでうまくやっているとしても、どこでもそれが通用するとは限らないと思います。

教師が歌を歌いましょうと言えば、子どもは歌うでしょうが、それがしっくりいっているのかどうか教師には感じ取る、やはり感性が必要だと思います。

時には、教師の強権で押し切っていい時もあるでしょうが、その判断もプロ的な感性なのだと思います。

私が勤めた中学校は学年7〜8クラスの、みな大規模校でした。
そのうち、一校だけは合唱コンクールがありませんでした。

それは、それだけの条件が整っていないということ、やりたくてもその機になかったと言えるでしょう。

子どもは競争が好きです。だから、その競争心を利用して能力を高めるというやり方は教育的にもよい方法です。

しかし、いくら競争が好きだと言っても、競争者間にハンディがありすぎると、競争意欲もなくなるし、強引に行っても得るものはないでしょう。

合唱コンクールを行なっている学校では、どのクラスにも伴奏ができる生徒がいました。それに、学級数も7〜8と競争に適する数があったわけです。
そして、それなりの歌唱力のレベルにあったということも条件のひとつだったと思います。

2クラスしかない学校で、コンクールをやっても意味はないと思います。

大規模校なのだが、合唱コンクールをやっていなかった学校は吹奏楽部もコンクールには出ていませんでした。
必ずコンクールに出ることがいいことだとは言いませんが、この学校でも生徒たちの雰囲気を感じて、コンクールに出場しました。
生徒たちは真剣でしたが、出場した結果はさんざんでした。

しかし、生徒たちはひと回り大きくなったような気がしました。

コンクールに出ることが、当たり前のようになっていた学校では、生徒たちは早くから課題曲の発表に関心を持っていて、心の準備もよくできていました。

kansei_kagaku.jpgところで、コンクールに出る意味はどこにあるのでしょう?

学校の名誉のため?
教師の名誉のため?
生徒たちの名誉のため?

名誉と名のつく上記どれも、多かれ少なかれ否定できないでしょう。

これらは、指導する教師としては、絶えず自問自答するものです。

人生には自分の生き方を方向づけるできごとが、あるものだと思います。

大学では吹奏楽部に所属しましたが、毎年、全国コンクールに代表として出ることが至上命令のような部でした。

だから、指揮者にそれだけのプレッシャーがかかっていました。

その年も、めでたく全国代表になれて、帰りの列車はみな明るい気分ではしゃいでいました。

私たちの団体は進行方向に向かって、右側に席がありました。
だから、右側の列だけが明るくはしゃいでいる。
私もいっしょになって、冗談などにつきあっていました。

ある瞬間、何の気なしに左を見ました。
左の列は私たちと違って、妙に静かです。
誰も一言も話しません。
中学生です。

どこの中学生?
ああ、○○中学校か・・・そうか代表になれなかったんだ・・・ずいぶん上手かったのになあ。・・・


私は頭の中で独り言をいっていました。
すると、急に

「中学校の先生になるんでしょう」

と前席、右の女子がいいました。
私はハッと我にかえりましたが、彼女は、私が中学生たちをじっと見ている様子を察してそう言ったんだと思います。

がっかりした様子で静まりかえっている中学生たちを見て、私はドキッとしました。その負けたような雰囲気の姿を見て心が動いたのです。

「中学生っていいなあ」

と、私が初めて感じた時です。

やがて、中学校で実際に吹奏楽部を指導することになったのですが、コンクールに出なければ生徒たちがかわいそうというところもあります。

コンクールにでることが、絶対にいいこととも思いません。
しかし、出ないというのは、生徒たちにしてみれば「出る学校もあるけど、私たちは出られない、何か世の中からおいてきぼり」と気持ちがあってかわいそうなのです。
「コンクールも出れない学校か」

と言われたくないわけです。

高校では「音楽科」のある学校もあって、こういう学校は音楽科の生徒は、いわゆる吹奏楽コンクールに出ません。
また、それらの生徒たちには「私たちはコンクールに出られない」という引け目はないでしょう。

だいたい、私自身、吹奏楽コンクールは好きではありません。
よく、吹奏楽コンクールの全国大会は「吹奏楽の甲子園」という人がいるそうですが、私は全くそうは思いません。

その理由は、甲子園児たちの中にはスカウトでプロ入りする人たちがいますが、吹奏楽では全国大会に出たからといってプロからスカウトされるなんてことはありません。

かつて、書きましたが私が教えていた吹奏楽部では、生徒たちがだんだんプロの先生たちにレッスンを受けるようになりました。

私がそういうことを勧めたことはありません。

練習日に生徒が一人しかいないということもありました。一人をのぞいてみなレッスンに行ってしまったからです。

コンクールは出てみて「なんだかわからない」というところが正直なところです。
よかったと思ったのに、賞はよくなかったりその反対もあります。

どちらにしても、生徒たちに一喜一憂はありますが、それは瞬間的なことです。
正しいことから外れない練習に努めれば、生徒たちは音楽そのものを好きになっていきます。

部員でないある生徒が

「将来、先生の教え子の中からプロが出るでしょう」

と書いた者がいますが、私はまさかと思いました。
だって、私はただ「好き」というだけでやってきた人間です。

そんな私にそんないい指導ができるわけがないと思っていたからです。

しかし、何年か経ってみると、本当に何人もの生徒がプロになっていたのには驚きました。

指揮者になったK君は、ドイツから帰ってきて、私の家に来たことがありますが、
その時は先輩たちも来ました。

会話の中で、K君が

「CDを聴いちゃダメです」

と言ったのを覚えています。

K君は私に言ったのではないと思いますが、その言葉は、私えの「教え」だと思っています。

以後、私はそれを肝に銘じています。

なぜ、CDを聴いてはいけないのか、それは楽譜を読まなくなるからということなのです。

コンクール自体について是か非かの論議はナンセンスだと思います。

それは「コーヒーに砂糖を入れるのがよいか悪いか」といっているようなものだと思います。

コンクールは一つの手段、道具であって、それを使うのは指導者であり、判断はそれこそ包丁が調理に使われるか凶器になるかのようなものだと言えます。

だから「○○はいい(よくない)」の紋切り型の頭の人は、観念的な考え形式的な考えしか持たない知能に欠けた、感性の乏しい人と私には映ります。

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posted by edlwiss at 16:24 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年01月27日

それが感性、感性のない教師は未完成

自動車メーカーは新車が完成する最終段階で色を決める時、完成車に試し塗装をすると言われました。
実物に塗ってみないと、色がマッチしているかどうかが判定できないという理由なのです。
試し塗りをして、不採用になった車は通常の販売ルートでは売らないと言っていました。
この話は、ある人から新車だけど安くするがどうかという話しで聞きました。

車を買おうかという時は、ふつう、ディーラーへ行って展示車を見ます。
展示してない車はカタログを見るしかないわけですが、カタログだけでは判定できないというデリケートな部分があるわけです。

カタログでなくて、実物でなくてはわからないというところに、人の感性があるわけです。
個人差はあるものの、人にしかない感性ではないでしょうか?

車の場合は、買ってから「やっぱり、想像してたのとは違うなあ」とかその反対もあるほけですが、こと教育の場合は相手が人間だけに安易な考えは禁物です。

私は大学を出てから、吹奏楽を指導することが多くなり、某中学校へ転勤する時も、吹奏楽部をよろしくということでした。

yaruki.jpg
その時、先輩たちが助言をいただきました。

それは、早い話が、赴任した時の部員は捨ててかかれということでした。

生徒を捨ててかかれというのはずいぶんひどい話だと思いましたが、先輩たちはそれだけ自分が自身ひどい目に遭っていたわけです。

強く念を押されました。

必ず反発に遭うということでした。

いわゆる、ものわかりのい良い先生でいればいいだろうと思ったのですが、そういう考えは甘いと言われ、先輩たちの生々しい体験を聞いているうちに、だんだん深刻になってきました。
それで、正直、先輩たちの助言を肝に銘じてすすめようと思いました。

やがて、部員との初顔合せの時がきました。
しかし、生徒たちの顔を見ると「この子たちを捨ててかかることなんかできない」と感じてしまいました。

うまく説明することができませんが、生徒の顔つき、みんなからくる電波のようなものが私の気持ちを変えてしまったのです。

私は先輩たちの警告を捨てて、全力投球しました。
そして、案の定、猛烈な反発に遭いました。

その様子は他の先生たちにも知れ渡り、廊下ですれ違ったのすると「お前、ようやっとるな」などと言われました。

なぜ、そういうことがわかったのかと言うと、生徒たちは私への怒りを作文にぶつけたのです。

そして、その作文がとてもいいということで、作文コンクールで入選したので、余計に私の様子は多くの人に知られることになりました。

でも、私は嫌われながらも誠心誠意やりました。

コンクールの日が来ました。
なんと、かつてこの学校では一度もなかったことですが、代表になってしまいました。

そうしたら、生徒たちはロビーで泣いていました。

翌日、学校へ行くと、生徒たちの態度は一変していました。

今思うと、あの時代表にならなかったらどうなっていたかと思うとゾッとします。
(今年、その時の生徒たちも集まって部活の同窓会を行うそうです)

いや、私の本音としては、その時、私はどんなに悪い先生と烙印を押されようと、自分としては精一杯やるつもりでした。


ここで私が言いたいのは、前回のブログでも書きましたが、人からは眼に見えないものが発信されているということです。

だから、人がいるだけでその場の空気も変わるのです。
指揮者が変わると、初対面であってもすぐ音が変わるのです。

ある人がすぐれた実践をしたとしても、それがどこでも通用するとは限りません。
反対に「そんなことダメだよ」と思っても、実際にはよかったりすることもあるのです。

教える教えられるということは魂と魂のぶつかり合いだと思うのです。

その魂と魂の間にあるオーラのようなものを、感じ取る感性が大切だと思うのです。
だから、教師には鋭敏な感性が必要だと言いたいのです。

オーラを感じ取るには現場に行かなければできません。
現場に行ったら必ず感じ取れるというものでもありません。それは、現場の空気から感じ取る感じ取るだけの感性が必要だからです。

いくらネットが発達したからと言っても、ネットの向こうにあるものを感じ取ることはできません。

今日もバンドの指導に行って来ましたが、集まった人のオーラによって指導者として使う引き出しは違ってきます。

しかし、何も感じ取ることのできない人は、形式的なパターン思考で固まっていることがあります。

これが、形式主義者と非難される立場の人です。

けいしき‐しゅぎ 【形式主義】

1 内容よりも形式を重んずる考え方。
デジタル大辞林より

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posted by edlwiss at 21:03 | Comment(7) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年01月27日

音楽で養われる協調性



これは、ワーグナーの歌劇「タンホイザー」序曲です。演奏は名指揮者ゲオルグ・ショルティによるシカゴ交響楽団です。
ショルティが指揮をすると、アンサンブルがきちんとします。こういうところにも指揮者の性格が出ます。
ショルティ自身が練習で、アンサンブルについて注文を出すこともあるでしょうが、アンサンブルがきちんとするというのは、この指揮者の身についている性格のようなものだと思います。

このようなことは教師にも言えるのではないかと思います。
教師自らが意識していなくても、身についているものがあって、教師自身は何も言わなくても、その性格、体臭のようなものが教育的な作用をしているということです。

どこかの中学校の吹奏楽部で研究会を行う場合、先生たちが入れ替わり立ち替わり指揮をすると、初対面にも関わらずみな音が変わるということからも、人の存在自身がすでに何らかの影響を与えているとわかります。

この曲は出だしのテーマをクラリネットとホルンが全く同じメロディーを演奏します。このように同じメロディーを複数の楽器が演奏することをユニゾンと言います。

アンサンブルで非常に気を遣うのが、ユニゾンであり、それだけ難しさを伴います。
こういうことは、何らかのアンサンブルを経験している人には釈迦に説法で、吹奏楽部の先生などは苦労しているところと想像します。

人によっては、同じことをやるのは簡単と思うかも知れません。しかし、現実には難しさを伴います。

2台のよく調律されたピアノやオルガンを同時に鳴らすのは簡単だし、音が合って当たり前です。
もし合わないとしたら、それは調律師やメーカーの責任です。
それに比べて、管楽器や弦楽器は、音が合わないとそれは楽器の責任ではなく奏者の責任になります。

「楽器がきちんと作ってあれば合うだろう。だって、弦楽器はともかく笛やラッパの類は指使いが正しければ「その音」が出るんだから」

という人がいるかも知れません。

もし、そういう人がいるとしたら、その人はこういうアンサンブルの世界を知らない人です。わかりやすく言えば素人ということになりますか。

クラリネットとホルンがユニゾンをやる(同じ音を吹く)ことがなぜ難しいか?

それは、それぞれの楽器に個性があり、特にやっかいなのは、それぞれの楽器には音階の癖があるからです。
わかりやすく言えば、片方の楽器の音階のカーブが1次方程式であるのに対し、もう一方は2次方程式であるようなものです。
つまり、音階は一種類ではないということです。

アンサンブルにおいては、A、Bの二人が同じことをする(ユニゾン)の場合、@AがBに合わせるABがAに合わせるB双方が歩み寄る、の3つのうちのどれかを常にやっているのです。

「オレが絶対正しい」はあり得ないのです。

これは名門オーケストラ、シカゴ交響楽団においても例外ではないのです。

つまり、高度な協調性が要求されるわけです。

100人編成のオーケストラも、メンバーは演奏しながら常に、自分と同じ音の人を意識しているわけです。
それは、ある時「オレとホルンは同じなのだ」と思った瞬間、次はバスーンに移っているかも知れません。

優れたオーケストラはこういうことを、ごく当たり前のようにやっているから、音がきれいであり凄いと感じるのです。

プロの指揮者にしてみれば、そういう技術的なことを指導するのではなく、メンバーが自主的に行うことが当たり前と思っています。

だから、個人ではどんなにうまい奏者でも、協調性のない人は採用されません。

中高一般、職場の吹奏楽団もレベルアップのために、いつもこういことを考えて練習しています。

そういう経験をしているために、うまく行かない時は「もしかしてオレが悪いのかな」という意識を持つということが身についている、あるいは身についていくと言えます。

最近は3人に1人は離婚の時代と言われますが、ある危機を迎えていた夫婦が、奥さんが合唱団の練習に行くようになってから、その危機がなくなったと聞いたことがあります。

それは、奥さんが「もしかして、私が悪いのかしら」と考えるようになったからだと言われました。

orchestra.jpg「あのー、私が悪かったかしら」

と旦那に言えば、旦那の方は

「いや、ぼくが悪かったかも」

となり、会話に繋がりができたということなのでしょう。

アメリカではずいぶん古くから、吹奏楽のもたらす教育的効果が大きいということで、小学校から正課の授業に取り入れられています。

正課の授業の中で個人レッスンも行われています。

映画で、子どもが一人一人呼ばれて、レッスン室に入っていくシーンがあったりします。

日本人で、アメリカで先生をやっている人に

「正課の授業というと、子どもが家で練習していて、音がうるさいと言われませんか」

と聞いたら、成績のつくことなので、親は我慢していると話されました。

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posted by edlwiss at 13:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年01月26日

感性は教師の命

「感性」という言葉は、意味のわかりにくい言葉だと思います。そこで、ここでは以下の「デジタル大辞泉」にある意味で使うことにします。
かん‐せい 【感性】

1 物事を心に深く感じ取る働き。感受性。「―が鋭い」「豊かな―」
2 外界からの刺激を受け止める感覚的能力。カント哲学では、理性・悟性から区別され、外界から触発されるものを受け止めて悟性に認識の材料を与える能力。


世の中、どんなに機械化が進んでも、人の感性に取って代わる時代は来ないんではないかと思います。
ということは、人間が人間たる所以がここにあり、教師が人として必要とされるのはまさに感性の問題ではないかと思うのです。



私はこの曲を初めて聴いた時「亡き王女のためのパヴァーヌ」と題名が書かれていたので、どこかの国のきれいな王女様が亡くなって、悲嘆にくれてその思いを曲にしたのだと思っていました。

でも、実際はそういう事情だったのかどうかはわからないのだそうです。
『亡き王女のためのパヴァーヌ』(なきおうじょのためのパヴァーヌ、原題:Pavane pour une infante de'funte)は、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルが1899年に作曲したピアノ曲、および1910年にラヴェル自身が編曲した管弦楽曲。『逝ける王女のためのパヴァーヌ』とも。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

音楽は映画のように直接何かを具体的に語るものではなく、どういう経緯で作曲されたかは学術的調査においては意味があっても、鑑賞の対象としてはどうでもいいことだと思います。

ただ、この曲を演奏するにあたっては、この曲の持つ優雅で繊細な美しさを表現する必要があります。
どこか悲しいという表情も必要でしょう。

そうしてみると「亡き王女のためのパヴァーヌ」という題名は大変うまくつけたものだと思います。

演奏にあたってはそんなに技巧を要する曲でもないので、楽器を習って間もない人の教材としてもよいでしょう。

子どもに演奏させてみると、私の経験では、多くは淡々と音を並べるだけの演奏になります。

ところが、まれに、表情がついた演奏をする子どももいます。
あたかも、人生の経験をいくらか積んだような感じさえする場合もあります。

■組織のために人が犠牲にならないこと

ヘッセの「車輪の下」は思春期によく読まれる本です。

「車輪」は個性的、人間的なものをおしつぶしていく学校を指している。
学校というと何を想像するだろうか?
学校という生き物はいない。学校という組織を動かすのは人間である。
だから、おしつぶすというのは人間のやっていることである。

特に、日本では組織のために人が犠牲になりやすいという感じがする。
それは非人間的状況を作り出す場面である。

日本人は伝統的に、それは仕方のないものと思っているのかも知れない。
だが、歴史的にはそれに反して、人々の共感を呼んでいるものもある。

例えば、安宅の関を義経一行が通りかかる時、弁慶が勧進帳を読み上げる場面、富樫は義経一行と見破っているが、弁慶の忠義に心を打たれ通してしまう。

忠臣蔵では、大石内蔵助が討ち入りの準備のために、垣見五郎兵衛と偽名を使って泊まるが本物の垣見五郎兵衛と会ってしまう。勝手に名前を使われた垣見五郎兵衛が怒って宿へ乗り込むが「失礼しました」とお詫びをして、垣見五郎兵衛を証明するものを内蔵助に渡して帰る場面。

いずれも感動をよぶ場面だ。

もっと新しいものでは、日本版のシンドラーのリストとも言える杉原 千畝(すぎはら ちうね)の話がある。
杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)7月31日)は、日本の官僚、外交官。

1900年(明治33年)の1月1日、岐阜県加茂郡八百津町に生まれる。第二次世界大戦の際、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。外務省からの訓命に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くは、ユダヤ系であった。海外では、「日本のシンドラー」などと呼ばれることがある。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

我々はこういう話を聞くと感動する一方で、ホッとするのであり、ここに人間というものを強く感じる。

私が最初に勤めた小学校は全校児童360人、職員18人だった。
先生たちは全校の子どもの名前を知っていた。

学校という組織の中で、遂行していかなければ職務がある中で「あうん」の呼吸が通じた学校であった。
しかし、それでいて仕事がいい加減ということはなかった。

その証拠に、卒業生は中学校へ行ってからも活躍した。

プロ野球で、いい選手を揃えたチームが優勝するとは限らない。
選手それぞれがフルに活躍する状況が大切だ。
監督の一言で、それが変わってしまうこともあるらしい。

ものづくりは高度に機械化が進み、人を必要なくしている。人を使っているとしても、人が機械のように動いている会社もある。

しかし、どうしてもそうは行かないのが、学校ではないか。

統計を出すなどの集計作業はコンピューターの導入などで大いに合理化すべきである。
それで、児童生徒との対話が増えることは良いことである。

逆の見方をするなら、感性を働かせる必要のない機械的な仕事は機械に任せて、人と人とが心を通わせる時間を増やすべきである。

■感性の必要な仕事とは

私は理想の教師とは名指揮者とと似ていると、ある時から思うようになりました。

指揮者が100人ほどの楽員を指導していくのは、一斉指導です。
優れた指揮者は、短い時間にこの100人を指導してしまいます。

そんなことはできないだろう。そういうつもりになっているだけだ。

と思う人は、よくわかっていない人です。

優れた指揮者にかかると、楽員から見たら、いつも指揮者が自分を見ているような気がします。
だから、目を盗んでサボったりするということはありません。

もしあるとしたら、それは大した指揮者ではありません。

よく、一斉指導の話になると、一番上のレベルに合わせると難しいし、そうかと言って下のレベルに合わせると、上の者には易しすぎる。だから、真ん中に合わせる。と言う人がいますが、それは間違いだと思います。

「いやあ、そりゃあプロのオーケストラならみんなレベルが高いでしょう?」

そんなことはないです。

人が集まった、集団というものは、どんなに優れた人を集めたとしても、人はひとりひとり違いますから必ず何らかのレベル差というものはあります。

結局、一斉指導において、上も下もすべて退屈させずレベルを上げるのが優れた指導者と言えます。

指揮者と学校の先生とは違うということはないと思っています。
指揮者に求められるのは、あらゆる教養であり、かつスポーツマンでなくてはならないと言われます。
音感が必要ですが、ここは指揮者特有かも知れません。
指揮者は大勢が一度に音を出しても、誰がどういう音を出しているかわかります(正確に言うと、状況によってはわからないこともありますが「おかしい」と感じる能力はあります)。

音感はないにしても、一斉授業に熟達すれば、全員を常に掌握することはできます。

一人一人個性のある人間を集めて、一斉に指導するには心理学と目の前の人間の感情を捉える鋭敏な感性が必要です。

自分の言ったことが受け入れられているのか、受け入れられたとしても、どの程度やる気を持ってやっているのか?

一生懸命やっているのにうまくいかないのはなぜか?

「もうやりたくない。早く終わらんかな」と思っているのではないか。

「この言葉で傷ついたかな?」

など、心理を察して、全体をどれくらいやる気にさせるかです。

非常に人気が高かった指揮者で、カルロス・クライバーという人がいました。

彼のことを「神と私たちの間の仲立ちをして、忠実に音楽を伝える使者だ」と言った人がいます。

彼は大学の工科大学出身です。しかし、どうしても音楽をやりたくて、父親に頼み込んだのです。
父親は彼の強い希望に折れて「じゃあ、1年だけやって、それでだめだったら辞めるんだぞ」と言われて指揮者に転向したわけです。

カルロス・クライバー(Carlos Kleiber, 1930年7月3日 ベルリン- 2004年7月13日 スロベニア中部・リティヤ Litija/Littai 近郊コニシツァ Konjs(ica)はドイツ出身で後にオーストリア国籍を取得した、20世紀後半を代表する指揮者のひとり。父は世界的な指揮者であったエーリヒ・クライバー。
フリー百科事典「ウィキペディア」より



彼がプロで通用したのは、プロとしての知識や技術はもちろんですが、人々を一番惹きつけたのは感性です。

クライバーほどの達人でなくても、教師をやる者としては、少なくとも子どもの持っている感性を踏みにじらないようにしたいものと思います。

ブログには、感性を疑わざるを得ないタイトルをつける人もいますが。

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posted by edlwiss at 17:24 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年01月24日

実践がないと話が抽象的になりやすい

実践に基づかない話は、とかく抽象的になりやすいです。
使う言葉も抽象的で、ピントが合わなくて聞いている方としては、イメージが浮かんでこない。

指導力と言われて、何をイメージするでしょうか?
指導力がない教師ってどんな教師でしょうか?

語っている本人には、過去の記憶で何かイメージしているのかも知れません。
しかし、聞いている方としては他人の記憶など推測すべきもありません。

共通の経験を持っていれば別です。

「先日、見てきた研究発表会の、第2時限目の○○さんの国語の授業ね、あれって、発言を促す指導力が足りないと思うのですが、いかがですか?」

というのは、話し相手としてもわかりやすい。

でも「指導力のない教師は・・・」なんて切り出されても、聞く側としては「ハア?」という気分になりはしないか。

komattahito.jpg
だから、私は5W1Hが大切だと思うのである。

指導力のない教師って?

誰?、誰が判定したの?・・・・・・・who

どこにいるの?どこの話?・・・・・・where

なぜ指導力がないって思ったの?・・・why

何を根拠にしましたか?・・・・・・・what

いつの話?・・・・・・・・・・・・・when

その判断方法は?・・・・・・・・・・How

必ずしも、5W1Hすべてを必要とするわけではないが、何かボケた話の場合はこうして確認してみると、何が足りないかがわかる。

ある人が「○○という映画を見てきたんだけど、よかったよ。感動した」と言ったとしよう。

しかし、それだけ聞いただけで「よかった」こと「感動」したことがわかるだろうか?
「よかったと言っていたこと」や「感動したと言った」ことはわかる。

だから見てきた人は「よかった」や「感動」を伝えたいために、その映画の内容について、よかったと思ったシーンや感動したシーンについて話すだろう。

それで、どれだけ伝わるのかはわからないが、本当に見てこないことには話すこともできない。
見てこないのに話そうとすれば、創作をするしかない。これが捏造、すなわち嘘である。

人から聞いた話を伝聞というが、伝聞は裁判では証拠にならない。

「△○から聞いた話ですけど、A校の授業はとてもひどいそうです。教師の質が悪いので、生徒は授業の内容が理解できないそうです」

これは伝聞です。
しかし、伝聞であっても、これを伝聞でなくしてしまう人がいる。
つまり実際はどうなのかわからないのに「A校の授業はひどい。教師の質が悪い」の断定になってしまう。
また、教師の質とは何か曖昧でどういうことかわからないのに、これが何か悪い教師にしてしまう理由になってしまう。

こういうのは、もともと真実を伝えようという意思があるわけではなく、誹謗中傷のために材料を探していると考えたほうがいいだろう。

実際の授業はとても良い授業なのに、成績の悪い生徒が教師に反感を持っていて悪く言いたいのかも知れない。
A校の悪口を言うと喜ぶ人がいるので、その人向けに話しているのかも知れない。

どちらにしても、体験しなければわからないことなのだ。
伝聞を材料に真実とすり替え、利用する人間の方が相当悪質と言える。

私の記憶に強く残っていることで、おもしろい経験がある。

それは、あるコンサートの話である。
5人のアンサンブルだったがその時は、5人全員が揃った練習はコンサートの前日だけだった。

1回だけの練習で本番を迎えるということは、それまでになかった経験だった。
そのことを私がホームページに書いたら、おもしろいコメントをつけた人がいた。

sikohnobungi.jpg「そういうひどい演奏(下手な演奏)をするのはよくない」

と言うのだ。
さらに、

「(そのように)不揃いで音が合わない演奏をするのは客に失礼だ」

とも書いてあった。

私が、演奏会にはみえたんですかと聞くと、来ていないと言う。
来ていないのに、演奏の内容がよくわかりますねと言うと、前日に1回だけの練習なので、演奏がよくないと言うのだ。

これは何だろうということだが、こういう批評をする人は実際の演奏を聴いても聴かなくても関係ないのだ。

ことがどういう風であろうが、悪意を持っていて、とにかく悪く言いたいわけだ。

つまり、実際の演奏がどうかは「良い〜悪い」まで評価としては幅があって、選択肢は一つではないわけだ。
しかし、こういう人にとっては、選択肢は一つしかない。つまり、はじめから「悪い」の選択肢しかない。

結果がどうであろうが「悪い」を決めておいて、あとからその悪いになんとかつじつまを合わせようと理由をつけるのである。

こういう人の心理はどうなっているんだろう。

考えられる可能性は

(1)社会(職場)から疎外されている(と感じている)
(2)自分より上だと感じるものに腹が立つ(自分が凄いのだと認められたい)
(3)仕事がなくヒマ(忙しく仕事をしている人に嫉妬している)

などではないかと思う。

こういう人には「さすがですね」とか「凄いですね」とお世辞を言う。気づかれないようにいたわってあげるのがいいかも知れない。

これも社交術の一つか?

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posted by edlwiss at 23:00 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年01月21日

嘘を言わない〜教師は演技をやめよう

「受容的な態度の大切さ」というところで、述べましたが、教師が教師としての仮面を取って生身の人間として人間的に接触し、子どもの論理に即して子どもを理解し、さらにどんな不善なことでもどんな間違ったことでもそれはそれとして受容する。・・・というところがありました。

そしてこれには暗黙の前提があるというところでそれは生活者としての教師の行動が、子どもたちの範例となることである。学習意欲を解放された子どもたちは、学習行動を自発させていくが、その場合の学習のモデルになるのが教師の行動・生活の仕方だということであるという文言があった。

これは、子どもの前で演技をしてもダメだということを表している。
つまり、嘘を言わないということである。

時に、子どもがまるで特別な存在で、特別な能力を持っているかのようにいう人がいるが、私は子どもが神の使いで、天使であるのようには思っていない。子どもも嘘をつくし、悪いこともする。
ただ、そういう場にいたら、Whyを思い出して、なぜそういうことをするんだろうと考えてみる。

そういう子どもの前でも、教師は学習のモデルを忘れてはならないと思うのである。

だから、私は自分の実践を脚色などしないで正直に書く。
これがベストだとは思っていないし、こういうやり方がいいとも思っていない。

だから、大いに批判は受け入れるし、また、批判に耐えてこそ本物に近づくと思っている。

ただ、批判はいいのだが、恐らく私の実践に対して悪いイメージを他人に植え付けようとの意図だど思うのだが、私が「かくかくしかじかと言っている」と言ってもいないことを捏造をする人がいる。

こういう場合「どこに、そういう文面がありますか?」と質問しても返事があった試しがない。捏造なのであたりまえの話だが。

他人の意見を捏造する人は、大変悪質な人間である。

悪質というだけでなく、もしこういう人が教師として、子どもの前に立っていたら、これも教師は学習のモデルということで、成果は上がらないだろうと思う。

子どもは神の子でもなければ、天使でもないが、こういう教師の姿は感じてしまうものである。
それは、教師がいくら演技をしていても、化け方の下手な狐のように、ふと尻尾が見えてしまうものだからである。
「自分の臭いは自分ではわからない」のだが、いつしかその人の身についた臭いが他人には臭ってしまうとも言える。

子どもが見ているのは、正面からの姿ではなく、普段着の姿の教師である。

普段着の姿が間違いない時、子どもには感動を与える。

「先生は、ああいうけど、大人なんて・・・」

こういう見方をするし、保護者も時にそういう見方をする。
しかし、私たちの先生は表も裏もないんだと知った時、子どもにとっては良い意味で衝撃でもあり、喜びでもある。

だから、親が

「先生だって、人間だから・・・」

という話が出ても、子どもの方から

「僕たちの先生は違うよ」

という言葉が出てくる。

それは、教師を弁護しているというより、そういう大人がいるということが、子どもにとって喜びであり救いであるということだ。

また、それは教師がいつも間違いなく聖人のような生活をしなければならないということではなく「教師が教師としての仮面を取って生身の人間として人間的に接触し・・」ということであると思う。

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posted by edlwiss at 22:33 | Comment(6) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年01月21日

情緒的感動性は教えられるか

gakuryokunorensaS.jpg問題解決能力の3つ、情緒的感動性、実践能力、知性のいずれが欠けても能力は発揮されないということでしたが、このうちの情緒的感動性というのは教えられるのかということについて考えてみたいと思います。

情緒的感動性というのは、人間が真・善・美に感動する生まれつき持っている性質であるとされています。

生まれつきというのは、教えられなくても有しているということです。
ということは、教えられなかったから欠落しているとは言えないということでもあります。

それでは、教える必要はないのか、教えようとしてもムダなのかという疑問が湧いてきます。

この疑問に対しては、私は次のように考えています。

(1)情緒的感動性は生まれつき持っているものだとしても、個人的に差がある。
(2)感じるということを教えることはできないにしても、機会を与えることは大切だ。
(3)情緒的感動性は生まれた後の環境次第で、鋭敏になる。

この3つです。

これは、私が経験上感じたことです。

私はクラシック音楽をよく聴きますが、その数々ある音楽の中で名曲を一曲だけ挙げよと言われたら、それは非常に難しいことです。

でも、私にとっての一番の名曲はと言われたら、即座にシューベルトの交響曲第7番ロ短調「未完成」と答えます。

私が中学2年の時、父親がわりになってくれた伯父が交通事故で亡くなりました。
葬式が終わり、人々が帰り、数日してやっと我に帰って、登校する日です。
学校へ行こうと朝、家を出る時、ラジオから聴こえてきたのがこの曲です。

その時は、特にどうということはなかったのですが、その日の昼頃だった思いますが、学校の放送でこの曲がまた聴こえてきたのです。
その時、心に「ドキッ」とするものを感じました。

以来、この曲を猛烈に聴きたくなり、電車で30分ぐらいかかる街へ自転車で行き、書店を回りました。
そして、薄っぺらいビニールでできたフォノシートというレコードを買って帰宅し、家で何回も聴きました。

これが、私がクラシック音楽に目覚めた時です。



その後、先生のお宅へおじゃました時、聴かせていただいたチャイコフスキーの交響曲第6番ロ短調「悲愴」にも衝撃を受けました。

私は今まで知らなかった、入り口に突然入り込み新たな世界を知るようになった気がしました。
こうして、クラシックをよく聴くようになったこともあって、小学校で音楽のクラブを作ってくれと言われた時、子どもに演奏させるために選んだ曲が、ニコライの歌劇「ウインザーの陽気な女房たち」序曲でした。



子どもはこういう曲を好むか好まないかはわかりませんでしたが、とにかく練習しました。
子どもにとっては、先生がやれというからやっているのだろうと思っていました。
しかし、練習するうちに子どもたちは好きになっていきました。

名曲といわれるものは、作品自体に人をひきつける何か魅力を持っているものだと思いました。
これが作品が持つ力と言えるものなのでしょう。

学校の中に入ると、とかく専門意識の壁のようなものがあって、特に音楽の話になると「楽譜が読めないので・・・」などと言われて、音楽は音楽の先生や専門家でないとわからないのだという先入観があるような気がします。

でも、それはおかしな話だと思います。
「私は設計図がわからないので、ノミやカンナが使えないので、住宅はわかりません」と言っているようなものです。

業者は住宅を売ろうと思って、モデルルームを用意して、宣伝に努めます。
それを見学に行って、私は設計図がわからないので、ノミやカンナが使えないのでという人がいるでしょうか?
大切なのは出来上がったモノであって、その作り方や専門的知識ではないはずです。

音楽も、楽譜を読む力や楽器の演奏能力などは、いい音楽を奏でるための要素です。
一番大切なのは、いかに人々の心に訴えることができるか、感動を与えることができるかではないでしょうか?

音楽に感動する心を開くには、音楽を聴かせるという環境がなくてはなりません。
そういう機会を作ることは大切で、機会を作ることで感動の心を呼び覚ます人も増えるでしょう。

でも、感動そのものを教えることはできないと思います。
あくまでも、その人が感じるか感じないかの問題です。

フィンランドにシベリウスという作曲家がいました。
彼は交響詩「フィンランディア」という曲で有名ですが、それはこの曲でフィンランドを救ったと言われるからです。

「フィンランディア」が作曲された1899年当時(1900年に改訂される)、フィンランドは帝政ロシアの圧政に苦しめられており、独立運動が起こっていた。シベリウスが作曲した当初の曲名は「フィンランドは目覚める」(Suomi hera"a")で、新聞社主催の歴史劇の伴奏音楽を8曲からなる管弦楽組曲とし、その最終曲を改稿して独立させた物であった。フィンランドへの愛国心を沸き起こすとして帝政ロシア政府がこの曲を演奏禁止処分にしたのは有名な話である。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

ロシアに占領され、国が無くなるかと思われていた時、この曲が演奏されると会場では、すすり泣きが聞こえてきたと言います。
フィンランド人の祖国愛を喚起するものがこの曲にあったわけです。
シベリウスは祖国を救ったという功績で、フィンランド政府から終身年金が与えられます。




次の動画は、小林愛実さんの4才の時の演奏です。
このようなすばらしい演奏ができるように指導した先生は立派な方だと思いますが、感性そのものは小林愛実さんが感じるもので、教えるに教えられない領域だと思います。
ただ上手いというだけでなく、作曲家クレメンティの心まで伝えているようで、素晴らしいと思います。



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posted by edlwiss at 15:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年01月19日

受容的態度の大切さ

木原孝博氏は受容主義による生活指導の項で次のように述べてみえます。

教師が教師としての仮面を取って生身の人間として人間的に接触し、子どもの論理に即して子どもを理解し、さらにどんな不善なことでもどんな間違ったことでもそれはそれとして受容する。教師のこのような態度を認知すれば、子どもは情緒的に落ち着いてきて、生活に喜びを見出すようになる。生活に喜びを見出すようになれば、生活意欲・学習意欲が自然発生してきて、これに支えられた自発的学習活動が起こり、問題解決能力が自然に成長していく。


さらに、これには暗黙の前提があるとされている。
それを以下に示す。

それは生活者としての教師の行動が、子どもたちの範例となることである。学習意欲を解放された子どもたちは、学習行動を自発させていくが、その場合の学習のモデルになるのが教師の行動・生活の仕方だということである


これらの示唆を踏まえて、日頃の教育活動を考えてみると、子どもが何でも話せる状況になっているのかということを振り返ってみる必要がある。

例えば、ある子どもが万引きをしてしまいましたと(自主的に)言ってきたとする。
このような子どもの態度は、教師を信頼してのことと考えられる。
万引き自体は悪いことなのだけれど、自分の心の葛藤があって、悩んだあげく教師に相談しようと考えたのだろう。
叱られるだけと考えたら、言ってこないかも知れない。

もちろん、万引きなどないほうがいいに決まっている。しかし、そんなことでも子どもが話せる教師はすばらしいと思う。

これは、何も大人と子どもの関係に限らないだろう。
職員関係で、何でも話せる上司はすばらしい。

自分の実践したことを、包み隠さず相談できるような上司でありたい。
そうでないと、上司には小言を言われたくないために、いいことしか言わないようになる。

実践記録も同じである。
実践記録は、当然、架空であってはならない。
特に、こういうブログのようなものは匿名で投稿できるので、架空であったり脚色したりして投稿できる。

しかし、そういうものはどこか生々しさに欠けて、読む者に印象が薄いのではないかと思う。
私は理論を学んだ上で、自分の実践がそれと照らしあわせてどうであったか反省の意味で載せている。
これは、その実践がいいとか悪いとかの問題ではなく、事実ということに価値があると思うのである。

もっと優れた実践をしている人もいると思うのである。
そういう人たち、あるいは記事を見て建設的な意見を寄せてくださる方と情報交換をしたいと思っているのである。

これ自体も教師の行動・生活の仕方の一つだと思う。

私の投稿には、よく音楽を素材としたものが多いが、これも私の行動・生活の仕方の紹介であって、いわゆる学校の音楽の先生としての活動ではない。
つまり、私は中学校や高校の音楽教師ではなく、私が音楽が好きでその延長線上で他からの要望があったりして行なっていることが主である。

私は狭い心も狭い世界も嫌いである。
だから先生の世界だけで有名というのは狭い世界と考えるので、学校の外に出て通用することなのかどうかに興味がある。

子どもは口に出して言わないまでも「先生、偉そうに言って、自分ではどうなの?」という暗黙の言葉に応えようと常に思っている。

だから、コンピュータも一般企業でも受け入れてもらうような技術を持ちたいと思っている。
音楽もプロの中に入れてもらって、共演できるレベルを持ちたいと思っている。
それらは、私の子どもたちへの回答のつもりである。
上手い下手ではなく、自らまないたに載る気持ちが大切と思うのである。
「言うだけの人」にはなりたくないのである。



美術の先生で、学校で授業をやっている傍ら、日展に挑戦している先生もいた。
先輩の国語の先生で、文学賞をとって小説家になった人もいる。

教師の生活の仕方は、子どもへの刺激になると思う。

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posted by edlwiss at 16:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年01月18日

大切な職場環境作り

kankyoseibi.jpgもう何十年も続いている先生の会があります。
これは、ある学校へ務めたことのある先生たちが集まる会です。

毎年一度、みんなが再会することを楽しみにしているわけです。
なぜそんなに皆が楽しみにしているかというと、そのころ務めた思い出が忘れられないからです。
それは、学校が職場としてとても雰囲気がよかったわけです。

小さな小学校でしたが、そのよい雰囲気作りの中心は校長でした。
中心は校長ですが、校長自身は努めて目立たないように心がけている人でもありました。
人の心というものをよく心得ていて、校長の短いひとことが「やる気」を誘うものでした。
飲み会になると、校長は「お前たちは、校長の悪口が足らん」としばしば言っていました。

私がこの学校で学んだことはいろいろありますが、先生たちは仕事をする以上、やりがいのある仕事をしたいと思っているんだということです。

人によっては、仕事はなるべく必要最小限にして、楽をして給料だけもらおうと考えるていると、何か性悪説のように考えている人もいるようですが、そうではないということを、私はこの学校で体験しました。

この学校は、学校規模のせいもあっでしょうが、市で唯一、毎年行われる音楽会に出ていませんでした。それを保護者たちも寂しがっていました。
校長は私が赴任すると同時に、やって来た人でしたが、このことを気にしていました。

ある日、私は呼ばれて、音楽会に子どもたちが出られるようにしてくれないかと言われました。
この時、私は正直なところやる気はありませんでした。
それは、もともと小学校で先生をやる気などあまりなく、どちらかというと企業の方に目が向いていたからです。

私は校長の依頼をどう断ろうかと考えました。
そして、予算のことを言うのが一番いいだろうと考え、楽器がないのでできませんと言いました。

校長は「ウーン」と言っていました。
私はこれで、音楽会はやらなくてすむと思っていました。
翌日、また校長に呼ばれました。

「決めたぞ」

と言われました。

「何をですか?」

と言うと

「買う」

と言葉が返って来ました。

私は断る理由がなくなり、それからチームを作って練習を始めました。

始めると熱が入り、日曜日も練習をするようになりました。
子どもたちも熱が入っていました。

市の音楽会だけでなく、放送局主催のコンクールにも出るようになりました。
コンクールは日曜日に行われますが、特に頼んだわけでもないのに、音楽室から楽器を運ぶために、先生たちは出てきてくれました。

このように、義務でもないのに、先生たちは、こうした方がいいと思うことは自主的に仕事をするという空気があり、そのことが楽しいという感じにみえました。

子どもの能力を伸ばすには、教育研究は大切ですが、それをすすめる職場の環境づくりはとても大切と思いました。

これはとても楽しい思い出ですが、愉快でないこともあります。
それは、私が県の指導員としてある高等学校の吹奏楽部の指導に行った時のことです。

部室へ行くと、部員は二人しかいませんでした。
どうしたものかと思っていると、その年はたまたま新入部員がかなり入ってきて、部らしい雰囲気になりました。

活動がそれなりに始まると、生徒たちの中から「コンクールに出たい」という声がありました。
10年ぐらいはコンクールには出たことがないことがわかりました。

私は何とかしようと思い、顧問の先生にも相談して出ることにしました。

出るだけでいいと思っていたのですが、結果は代表になりました。

学校に帰ると、教頭が少しあわてた様子で開口一番

「ウチは楽器は買えんからな」

と言いました。

私は常識として、まず「ごくろうさんでした」ぐらい言うべきだと思いました。
この教頭の性格でしょう、この人はことあるごとにいい面には目をとめず、グチグチいう人でした。

楽器のことについても、また話がありました。
私は一言も買って欲しいなんて言ったことはありません。
しかし

「あのなあ、企業をまわってお願いしても『あんたのところだけじゃないですよ』と言われるんだ」

と、つまり企業に寄付をお願いに行っても、断る理由として、あなたの学校だけ特別にすることはできません。他の学校もあるんですよと言われるというわけです。

私は黙って聞いていましたが、心のなかでは(あなたが行くからそう言われるんでしょう)と思っていました。

でも、校長はとても立派な人でした。
話をすると、人格者というものが伝わってきました。とても謙虚な人でもありました。
私は楽器のことなど全く頭にはありませんでしたが、この校長が動いたらなんと楽器が買えることになり、部にはいい楽器がどっと入ってきました。
これには生徒たちもびっくりしました。

三学期になり、就職難の影響で、就職希望なのに部の中に就職先の決まっていない生徒がいました。
先生たちも悩んでいたようです。

それを知った私は、思わず「なんとかしましょうか」と言ってしまいました。
すると、顧問が、渡りに船という感じで、お願いしますということになってしまいました。

生徒は目立たないが、欠席はせずまじめにやる性格でしたから、間違いないと思っていましたが、私は正直確実に職場を探す自信はありませんでした。

しかし、私の知っているある企業に行って、専務に率直に話したところ、専務はしばらく考えていて

strestaisaku.jpg「その子はきちんと通うだろうね」

と言いました。

私は性格がいいから大丈夫だと力説しました。
それで、採用してくれることになりました。

私はホッとしましたが、部へ帰った時、まずはじめの顧問の言葉が

「あのー、吹奏楽部に入ると就職できるという噂がたっても困りますから」

でした。

私は、これも常識がないと思いました。
そして「学校へ普通に募集の案内を出してもらうと、どの生徒にも公平に機会を与えなくてはならないので、指名でお願いしてください」と言われました。
私はこの要望も会社にお伝えして、配慮してもらいました。

ここで、問題だと思うのは、先生たちも生徒たちのために就職活動をしていると思うのですが、その先生の人柄、性格を考えないと企業もよい返事をしないのではということです。

何かわからないけど、全部がそうだとは言いませんが、先生の中には何か偉そうな空気を醸し出していて、相手が頭を下げるのが当たり前とでも思っている人もいるようです。

どうも、あまり仕事ができない人にこの傾向が強いようにも思いました。

この高校にもいくつか部がありましたが、試合やコンクールで常連のようによい成績を取ってくる部では指導の先生も謙虚です。そして、他人の意見はよく聞くと感じました。

先生になると、年を経て、何かしら偉くなったと勘違いする人もいるようです。
そういう人が、ある時、誰も偉いと言ってくれないことに気づき、プライドだけは高いと嫌味だけ言う人になる人もいます。

こういう人には、他人も次第に近づかなくなりますから、自身は疎外感を持つようになります。

私の家にも来る人で、この人は変わってきたなと感じる人もいます。

家に来ると、何か粗探しをします(本人は自分のそういう癖にあまり気づいていないようです)。

新しい机を買うと、それを見て椅子がなんだとかかんだとか難癖をつけます。

常識人ならどうすべきでしょう?

「おおっ、いい机ですねえ」

「そうですか」

「でも、安物です」

「そうなんですか、とてもそうは見えませんが」

「いすがちょっと硬いんですよ」

「いや、この椅子しっかりしていていいですよ。硬いならクッション置けばいい」

と会話が進めば、買った人も嬉しいし、気分もよくなります。

誰でも、新しいものを買った時は不安があるものです。
これでよかったかな?失敗だったかな?
とか。

子どもに対してもそうです。
「よいところを褒める」というのは、そういうことでもあると思うのです。

物を買ったという場面でなくても、そうです。

試合後も、当の子どもはあれこれ悩むものです。だから、まず一言。

「よかったよ」

と言ってやるべきだと思います。

しかし、粗探しやグチばかり言っている人は、疎外感を持っている人に多いようです。
人には「認められたい」という承認の欲求があります。
これは問題解決の能力を伸ばす方法受容に関係がありますが、何も受け入れられていないと感じると疎外感を持つようになります。

その上性格が悪いと、声をかける人もいなくなり、仕事もまわってこなくなります。
企業では、人を辞めさせる方法として「仕事を与えない」という方法があると言います。

みんな仕事をしているのに自分だけ仕事がない。
これが続くと、やがて、本人から会社を辞めたいと言ってくるそうです。

学校にも時たまそういう人がいるようです。
疎外感があるから皮肉屋で嫌味を言うようになります。

校長としては、頭を悩ますわけで、早くどこかへ転勤させたいと思っているわけです。
でも、自分が転勤させたと思われたくないので、表面だけはうまくあしらっている。

仕事が無いので、当然、生々しい実践の記録もありません。言うことは観念論ばかりです。
うまくやっていそうな人には嫉妬します。

最近はネットがありますから、掲示板やブログに投稿して、正体を隠して言いたいことを言えば少しはストレス発散になるかも知れません。
Yahoo掲示板は、その匿名性であるがゆえに、とても荒れているところがあります。

私が参加していたある掲示板では、オレはプロのプロデューサーでCDを企画し、発売しているという人が登場しました。
この人はプロデューサーが憧れの仕事だったかも知れません。しかし、プロデューサーなら当然知っている用語も知らないなどでバレてしまいました。

そこへいくと、facebookは実名登録ですから、互いに信頼性もあり、やりとりも紳士的です。
ということはfacebookに登録したがらない人の中には、本当のことがバレるのを恐れている人もいるかも知れません。

話が冗長になりました。

これから先生を続けていく、特に若い先生は疎外感を持った、粗探しの嫌味人間、皮肉屋にならないように、そのためには謙虚に見栄を張らず力を蓄えるようにすることがいいのではと思います。

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posted by edlwiss at 11:29 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年01月17日

問題解決能力の検証(3)〜教師側の問題

gakuryokunorensaS.jpgこれまで、主に子ども側の視点に立って、問題解決に関わる検証をしてきたが、これは子どもだけでなく、教師側にも言えるのではないかと思うようになった。

問題解決能力としては、

(1)情緒的感動性
(2)知性
(3)実践能力

の3つは、教師にも求められるものではないかと思うのである。

教師は我が身を忘れて、子どもだけに求めていたのでは、子どもの能力の向上は期待できないでであろう。
もし、教師が自分はさておいて、子どもに要求するだけでよいならば、教師は誰でもよいということになるのではないか。

A、B違う性格の教師がいて、それぞれが同じ言葉を子どもの前で発言したとしても、その効果は違うと考えられる。

それは、A、Bそれぞれの教師が持つ(1)情緒的感動性(2)知性(3)実践能力が異なるからである。

「そんなにいい方法があるのなら、ここに書いてください」

という発言をする人がいたが、これは、自分と他人の差異を意識していない言葉ではないか。

情緒的感動性の豊かな教師は、子どもの情緒もよく汲み取れるであろうし、知性や実践能力の豊か教師であれば、当然子どもも影響されるだろう。

まさに「教えることは学ぶことである」という言葉が、ここに生きているように思う。

問題解決の方法についても、受容的な態度では子どもの場合、そのモデルは教師であった。教師の生き方が子どもに反映するということであった。
同様に、教師集団にあってはリーダーを務める教師がモデルと言えそうな気がする。

上司次第で、他の教師の動きが変わるということである。

もし、役職上、自分の配下の教師の動きが望ましくないと感じるなら、それははからずも自分のせいではないかと考えてみたらどうか。

上司が常に愚痴や嫌味を言っているとか、ろくな授業をやっていないなどは他の教師のやる気をなくすであろう。

尊敬できない上司のもとでは、最低限度の仕事しかしないかも知れない。

校長が変わったら、学校の雰囲気がガラっと変わったというのもよく聞かれる言葉である。

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posted by edlwiss at 22:28 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年01月17日

思考回路を5W1Hで判定してみる

sinyodekinai.jpgネット時代になって、情報があふれている。
情報が多いのはいいことなのだろうか?
資料が多いということは、よさそうにも思えるが、信憑性に疑問を持たざるを得ないものもある。

そんな時、例の5W1Hで判断してみるといいと思う。

Who(誰が) What(何を) When(いつ) Where(どこで) Why(なぜ)How(どのように)

必ずしも特定される必要はないが「とてもそうは思えない」ような話は、ただの空想か妄想だろう。

ネットでは匿名で発信できることから、言いたいことを作ってしまうこともできる。
ある人を貶めるためにデマを流すのは悪質だ。

そうでなくても、本当かどうかわからないのに、あることを言いたいために、想像から始まった話を断定してしまう言い方だ。

昔の話だが、掲示板でやりとりをしていた時「みかん畑に入り込んで、みかんを盗る者がいて困っています」という話をしたら「それは困りますねえ」という返事があった。

そこまではいいのだが、そのうち、ある人が「もし、そのみかんを盗んだ者が私だとしたら」と言い出して「どうして、私が盗んだと言うんだ」と怒り出したということがあった。

こういうのは頭がおかしいのではないかと思う。

こういうのは特別として「作った話」というのは、どこかボケている
なんとなくはっきりしないもの、納得がいかないところがある。
納得がしない話には「思考停止」の話もある。
東京へ行くのが目的なのに、突如、品川で終点ですと言われたようなものだ。
そんな時、5W1Hを活用してみる。

「できない子はかわいそうな子ではない、やらないからだ」

この話、何か変だと思う。
それはWhyがないからだ。

教師なら「なぜ(Why)やらないのだろう」と考えるからだ。
Whyが欠けている思考停止だ。

そういう思考回路だと

「怪我をしているのは、かわいそうではない。事故を起こすからだ」

で終わってしまう。

「病気の人はかわいそうではない。健康管理が悪いからだ」

で終わってしまう。
それで終わりなら医者はいらない。
「かわいそうではない」で終わって、あとは放置しているの?何をやっているの?
何も見えてこないです。

「うちの学校では合唱コンクールはしません。一人一人の声や表現を大切にしています。」

それって、一体、どんな授業なのだろう。言っている本人は音楽の授業をやっているのだろうか?

WhoHowで考えてみます。

誰がそういう授業をやっているのだろう?
どんな風に授業をやっているのだろう?
50分の授業で個人指導をするのだろうか?

音楽の練習では、個人の練習は大切ですが、複数の人と行うことも大切です。
学校の音楽の授業は、たいてい一斉授業で、教科書の曲は中学校では合唱の形態で書かれています。
だから、生徒はソプラノ、アルト、男性に別れることになります。

一体、どういう授業をやっているのか見えてこない話は信用できません

将棋ソフト、米長元名人に勝利 公式対局で初

というニュースは、コンピュータのソフトも将棋名人レベルの人に勝つようになったかと思わせるできごとですが、これはますまます、人間と機械の違いを考えていかねばならないことと思います。

大学生の就職先がないとか、派遣切りのニュースが大きく報道された時期がありましたが、仕事というのは機械に置き換えられる仕事ほど、人間を必要としなくなると考えた方がよいと思います。

コンピュータは名人に勝てるほどの知能を持つようになったわけですから、これからはますますそういうことが加速すると言えそうな気がします。

では、人の仕事としては何が必要とされるかということですが、名人を負かすことのできるほどのプログラムが作れるような、知的な仕事を必要とするわけです。

一方で、そういう知能を積んだ機械を利用するだけの人は、あまり頭を使わなくなっていくという恐れがあります。

日本は貧富の格差が大きくなってきたと言われますが、これからは知能の格差も大きくなるように思います。

sonar.jpg私はしばしば演奏を依頼され、独奏をしますが、以前は伴奏者をお願いして行きました。
しかし、近年コンピュータとソフトが進歩したため、伴奏はコンピュータでできるようになりました。
コンピュータを上回る伴奏者なら、その方がいいのですが、条件はそれだけでなく、伴奏者を頼むとお金がかかります。
会場にピアノがない場合もあります。

だから、コンピュータの出番が多くなります。
しかし、コンピュータへの入力は人間がしなければなりません。

では、どうやって行うのか?(How)

私の使っているソフトはSONARというソフトです。

finale2.jpg
楽譜を書く時はFinale
というソフトを使っています。
こういう楽譜を書くソフトができたため、楽譜を清書する人の仕事はなくなりました。
しかし、編曲や作曲はコンピュータではできませんので、編曲や作曲は人間の仕事として残っています。

これらは、リアリティのある話の実例です。

自宅の電子レンジには「モーニング」というボタンがあって、所定の材料をプレートに乗せてボタンを押すと、モーニングができてしまいます。トーストや卵、ベーコン、野菜など一度に調理してしまうわけです。

本来は、人がいくつかの工程を経て作らなければならないのに、それが「ボタンを押す」だけになってしまったわけです。
人はだんだん、ボタンを押すだけになり、そういう装置を作る人だけがすごく頭を使うという知能格差が進むと考えられるように思います。


現在はソフトで、楽譜をもとにオーケストラの演奏をさせることができる


下の動画はLogicという入力ソフト(シーケンサー)を使って、ホルスト作曲・組曲「惑星」より「火星」を入力した例。
従来、楽譜など楽典を苦手としていた人が、音楽について才能を発揮する助けになるかも知れない。



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2012年01月16日

問題解決能力の検証(2)

heijitsunikka.jpg右図は平日の学校の日課である。

朝の会があって、6時間の授業のあと帰りの会、そのあと部活動。

授業は各教科、カリキュラムに沿って行われるが、学校は教科ごとに成績をつけるので、指導も評価、成績ということを意識して授業が行われる傾向にある。
児童生徒にとっては、テストなどを経て成績をつけられるという意識もある。

実技を伴う教科では、実技の点数が加味されるが、中間テスト、期末テストではペーパーによるテストが行われる。

このように、6時間の平常の授業においては、ある程度型にはまったというか、制約された教育活動が中心で、実技教科以外のいわゆる五教科と言われる、国、社、数、理、英では入試を意識することもあって、記憶を試すテストになりやすい。

これに対して、授業後の部活動は、各自が好きな活動に参加できること、教師の方も特技が生かせるということもあり、自由な空気がみなぎって、子どもたちにとってやる気のある活動と言える。

部活動は課外と言えども、子どもたちの活動の中では大きなウエイトを占めている。
継続的な観察、追跡をみるにも意義がある。

文部科学省も、運動部活動の在り方に関する調査研究報告 (中学生・高校生のスポーツ活動に関する調査研究協力者会議)にて調査報告もある。

各自治体も、部活動の指導について予算を計上し指導員を派遣している場合もある。
私自身、県の指導員として高等学校へ指導に行った経験があるが、中学校からの生徒がどのような取組をするかについて、有意義な資料を得た。

学力の定義に関する私の考え

「学力」という言葉は、安易に使われすぎるきらいがあるように思う。
それは、学力か何かわからないのに「学力と名前をつける」と学力として独り歩きしてしまうと思うからである。

テキストがあって、そのある範囲を学習し、その中からどの程度記憶しているかを試すようなテストのことを「学力テスト」とするには、抵抗がある。
これは「記憶テスト」ではないかと思うのである。
テストの日まで覚えておればよいというテストを「実力テスト」と呼ぶには納得しがたいものがある。

私が「実力」と呼ぶにふさわしいイメージは、昔、人気のあった映画「コンバット」に出てくるサンダース軍曹が部下を引き連れて、絶体絶命の場面を知恵を使って切り抜けるような場面である。
つまり、未知の遭遇に対し、今まで習得した知識や知恵を使ってどれほど対処できるかという力のことである。







吹奏楽部にみる学力の検証

私は部活動としては吹奏楽部の指導経験しかないので、その中での経験に基づいて検証してみる。

吹奏楽部の指導者は、それなりに、音楽の知識はもとより各楽器に通じていて、しかも指揮をするという技能を有する必要がある。
これは、運動部の指導者にも言えることだが、一朝一夕にしてできるものではない。

だから、指導者の卵としては、大学時代から、名の知れた人たちがいて、その人たちが学生時代にはコンクールのライバルであり、卒業後は中学校に赴任していってそこでまた中学生を引き連れてコンクールで競うということも珍しくない。

ということで、お互いに勝ちたいわけだから、必然的にどうやったら、自分の団体を上手にできるかについていつも勉強している。

それは学生時代のクラブでの苦労と、教員になってからの生徒を指導する時では苦労が違ってくる。

学生時代は同僚をまとめるということで苦労する。これは相当なものがあります。
クラブが毎年、全国大会へ行こうとする意識を持っているところならなおさらです。
そういう苦労してきた人たちは、先生になってからは必ず、中高生をうまく指導します。

中学校の演奏レベルは、指導者の力が8割、高校では5割とある人が言っていました。
そして、その指導の多くは「生活指導」であると言われているし、指導者もそう実感しています。

そういえば、学習指導も大半は生活指導と言えるのかも知れません。
先生の中には、生活指導は「領域」と考えている人もいるかも知れませんが、生活指導は領域ではありません。学校の「機能」なのです。
だから、教科の指導と常に密接に関係があるのです。

(続く)
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posted by edlwiss at 23:03 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年01月14日

コンピュータが利口になった〜より人間らしさが問われる時代



人間の思考力が単純化し、コンピュータはより利口になってきた。
やがて、人間とコンピュータの能力がクロスする時代がやってくるのではないかと思ったりする。

より「人間らしさ」が問われる時代になってきたと言えよう。
posted by edlwiss at 18:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年01月14日

問題解決能力の検証(1)

gakuryokunorensaS.jpg右の図のまとめは木原孝博・氏の論文をもとに人が生きることは、問題解決の連続であるという考えから、問題解決の能力を高めることは、生きる力を高めることと考え、それは学力を高めることに繋がることでもあるとの考えでまとめたものである。

ここで、ひとつの検証をしてみたいと思う。
右の図と実践との関係を検証するには、生徒が一斉授業の形で講義を聞くという活動だけでは、教師による指導がどのように生徒に反映していったのかが追跡しにくいため、今回のテーマに相応しい活動として、校内の合唱コンクールへの取り組みとしての一連の活動を取り上げた。
この取組は、以前別の形でも紹介したものである。

(1)合唱コンクールの自由曲を選定する

クラスとして、どんな曲がいいのか学級会が行われた。
この時、生徒たちが持っている合唱に関する知識が問われることになる。
日頃の音楽の授業で得たものがどのくらい、生徒のものになっているのかがわかる場面とも言える。
すなわち、生徒たちの知性が問われる場面である。

@生徒たちは話し合いで、ある歌謡曲を自由曲として決めようとした

学級会は生徒たちの自由な話し合いの場である。だから、自分たちの自由が反映できる機会として、それなりの盛り上がりがあり、本当に自分たちが歌いたいと思う曲を提案したと言える。

A担任は、合唱の形態をしていない曲の選定に反対した

教師が集団指導、つまり統率力を持って生徒たちを指導する場面である。指導力が問われる場面と言える。

木内氏の論文によれば、これは集団指導の立場として教師の指導性、教師の要求がもっとも顕著にあらわれる機会ということになる。

生徒たちは「先生は、自分の好きな歌を歌わせたいから、反対するんだ」と言って、担任と対立した。

教師の指導と生徒たちの気持ちが対立した時、これを打開するには、木内氏の論文によれば「要求が集団の中へ浸透していくためには、集団の中に、教師の要求に答えてくれる者がいなければならない。核的な子どもである」とある。

担任として、持てる力を出して、合唱曲とはどんなものであるかを説明したが、それが受け入られるかどうかには確信が持てなかった。

ところが、ある一人の生徒が

「そうか、合唱というのは、こういうのじゃなくて・・・」

と言い出した。
すると、その彼の意見に生徒たちの注目が集まった。
そして、自由曲については考えなおそうというということで、この時間は終わった。

私としては、生徒たちが意図を汲んでくれるかどうかに自信はなかったが、一人の生徒の発言に救われた形となった。

意見を言った生徒は、ツッパリ気味の生徒であった。
なぜその彼が意見を言ったかは、受容の認識があったからかも知れない。
それは、ある時「先生、この組の中で嫌いな子がいます?」と、ある女子になんとなく聞かれた時「みんな好きだよ」と私が答えたのが、信じられないという気持ちで噂を呼んだことが影響しているのかも知れないと思った。

それは、生徒たちにとっては、ツッパリのような生徒は、当然、先生は嫌っていると思っていたからかも知れない。それで、意見を言った彼としても、自分は先生に容認されているのだ。先生は生徒の気持ちを汲み取ろうとしているのかも知れないと考えたのかも知れない。

(2)生徒たちは話しあって、自由曲を考えてきた

生徒たちは、合唱コンクールでは合唱の形態をした曲でなければならないとの認識(知性の向上)で曲を考えてきた。

考えてきた曲は、合唱の中の合唱と言えるオーソドックスな曲で、芸術的にも優れたものだった。
私は歌謡曲でも合唱の形態をしていればよいと思ったが、前とはずいぶん違う傾向の曲を選んできたのに驚いた。
ここに至るまでに、生徒たちはずいぶん話しあったようだった(知的活動)。ここでは、クラスの集団の向上と子ども自身による問題解決の行動がみられたと言ってよいだろう。

(3)合唱の練習

話がまとまり、担任の了解も得られたということで、生徒たちは一致団結して練習に取り組んだ。誰一人として、この活動を乱す者はいなかった。
なかなか素晴らしい合唱に仕上がっていった。(実践能力)

(4)音楽そのものの持つ力

生徒たちが選定した曲は、平吉毅州・作曲「ひとつの朝」で、名曲である。非常に優れた作品で、この曲に取り組むことで、生徒たち自身の精神的な向上が見られた。これは情緒的感動性に関係あることだろう。

(5)卒業式の日

卒業式の日、クラスでの担任とのお別れの時間、ある生徒が「『一つの朝』を歌おう」と言い出した。
すぐに、全員の気持ちが一致し、合唱が響いたのは、生徒たち、担任にとっても忘れない思い出となった。

卒業後も、この時の生徒たちは同級会を行なって大変暖かい気持ちに包まれていた。
この時の記念写真が台紙に貼られ、裏にはクラス全員の名簿と住所・電話番号が書かれた紙が貼られていた。

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以上、以前取り上げた思い出を、今回のテーマに照らしあわせて簡単に検証してみた。

私としてはいくつか、生徒たちから教えられるものがあった。
彼らは、現在、親になっているので、次の同級会ではまた違った再会になるだろうと思う。

学力は生きる力を問われるところで発揮されなければならないと思う。

だから、単に知識を記憶して脳に留めておくだけ、あるいはそれを試験で記述するだけでは学力としての力を持たないと思うのである。

現在の学校は、国、社、数、理、英の五教科と呼ばれる教科が試験で試されやすいが、学者によっては、むしろ中心は音、美、技家、保体ではないかと言う人もいるように、実技が伴って行われる活動によって、人間の学力、生きる力は試され、向上していくのではないかとも考えられる。



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posted by edlwiss at 18:25 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

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