2012年02月29日

学び合い学習のイメージは過去の実践を物語る

人は自分が経験したことしかイメージできないと思う。
そう考えると、学び合い学習をどうイメージするかで、その人の過去の実践がわかるように思います。

「学び合い学習?」
「何、それ」
「話し合いしてるだけじゃないか?」
「教師はいいね、子どもにやらせておけばいいんだから」
「できる子が、できない子を教えるのか。何だ、教え合いじゃないか」

等々は、自身の過去の実践の貧しさを物語っているのではないでしょうか?

学び合い学習で、教師が楽をしようとしているとか、そんなことはうまくいかないというように、まるで失敗を願っているかのように思える意見は、人格を疑ってしまいます。

そういう人は、自分が蚊帳の外にいて疎外感があるのか、今までによい思い出がないのかも知れません。


なぜ学び合いなのか

人は複数いると、学び合いをしているとも言えます。

他人の様子を見て、誰に言われることもなく、学び取っている場合です。

「門前の小僧習わぬ経を読む」

というのは、まさにそういう状態と言えるでしょう。

あえて「学び合い」と言わなくても、学び合うことが成り立っている場合がありますが、「学び合い」と称することで、積極的にそういう活動に焦点をあてようとすることとも考えられます。

人が新しいことを打ち出すとき、それは今までのものを改善しようとする意図があるはずで、後退するような考えを提案するとは考えられません。

「学び合い学習」を誤解している考え方で多いと感じるのは

「何でそんなにまわりくどいことを、わざわざするんだ」

という意見です。

NHK・総合・プロフェショナル・仕事の流儀「挑まなければ、得られない」IT技術者、及川卓也は、まさに「学び合い学習」のお手本みたいなもので、IT界をリードするGoogleの頭脳はいかにして、知恵を生み出しているのかをよく考えさせられる番組でした。

チームのリーダーである及川氏は、紆余曲折を経て「自分がやった方が早い」という考えを改め、チームのメンバー全員に意見を言わせまとめていくというやり方に変わった経緯を示していました。

当たり前を否定する

自分が自分がを抑えて、できるだけ話を聞く側に回る。
話が壁にぶつかって、暗礁に乗り上げたり、方向がよくないと感じるとリーダーは、原点に戻って「問いかけ」をする。

適切な問いかけができるということは、高度な判断力が要求されることでもある。

「そんなことは塾で習った」とか「教科書に書いてあった」と「当たり前」と思っていることに疑問を投げかけることにより、それまでになかった解決法や独創的な考えが出てくることがある。

「早く答えを知る」という試験対策ではなく「考える力」をつけるということが目的であるということに、頭が切り替えられない人には「学び合い学習」は理解できないだろう。

我々は、子どもたちに「生きる力」をつけてほしいと言い出した。生きる力は「考える力」をつけることに他ならない。

「水は何度で沸騰しますか?」という問題ではなく「Aさんは、水を沸騰させる実験をしましたが、何度やっても100度Cにはなりませんでした。なぜでしょう?」という問題を出してみたらどうだろう。

硬い頭を改めなければならないのは、大人の方かも知れない

問題に対して、記憶した知識を持ってきて対処するというやり方は、問題解決としては限界がある。

もちろん、知識の蓄積は大切であるが、知識を探してくるだけではダメということである。

わかりやすい例えを出してみよう。

例えば「宇宙人はいるか?」という問題に対し、どう答えるか?

この問に対して、誰もを納得させられる結論を言うことのできる人はいないだろう?

つまり、未知の領域に挑むとき、知識は必要だが、その知識も使って問題に対処する力が必要なのだ。

「次の数を大きい順に並べなさい」という問題があったとしよう。

3、1、-6、0.01

これは、難しくない。

でも、次はどうだろう。

A、C、E、B

※ それぞれの文字は変数である。

塾の先生は指導してくれるだろうか?

途端に難しくなる。
「大きい順に並べる?そんなことは簡単だ」

そうだろうか?

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posted by edlwiss at 15:34 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年02月28日

大阪教育条例に反対



大阪の学力テストの結果がよくないということについて、橋下氏の憤まんがあるようだが、教育改革はいいとしても、責任が教師にあるのかどうか、競争の原理がないからよくないとの考えが適切かどうかはよく検討する必要があると思う。

「落第」という言葉も出てきたが、我が国の義務教育は課程主義ではないので、成績がおもわしくないという理由だけで、落第させていいかどうかは問題となるところである。

それより、なぜ教育が停滞しているか、橋下氏がひとり考えるだけでなく、それこそ調査をしたらどうか?

私の考えでは、まず現場の教師の責任を問う前に、上からの改革をすべきではないかと思う。
それは教育委員会制度の再考をすべきということである。

教育委員が5人いて、その長は教育委員長ということになっているが、実際には教育委員長も教育委員も名誉職であり、教育については素人がほとんどというのが実態である。

実際には教育長が実権を握っており、ここに権限が集中するあまり、平たく言えば悪いことも行われやすい。
教育長は定職で、それなりの俸給ももらえて、人事権を行使するので、我が子を好きなように転勤させたり、ゴマすりの要求を受け入れたり、汚職の疑いもしばしばである。

教育長は教育委員の互選であることから、金品が飛び交い、非常に醜い実態もある。
そういう人が教育の任務に当たるのは、最も非教育的であるとも言える。

教育長こそ公選制にるなど、まず上からの改革を行うべきであると思う。
上が尊敬できなくて、現場の教員に責任を問うのは、順序が違うと言いたい。

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posted by edlwiss at 19:25 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年02月28日

豊かな人生を送るために

私が中学校の教師をしているとき、研究会を作っていました。
その研究会のメンバーは、近隣の学校を含んでいました。

メンバーの人数は4人で、このメンバーに共通するところは、みな吹奏楽の指導ができることです。

部活動として吹奏楽を行なっていたわけですが、単に部活動としての吹奏楽を行うだけという目的での活動ではなかったわけです。

その活動は、学校教育の目的を包括しており、かつ進路に対する不安もない、もっと大きな活動を目指していたわけです。

その大きな活動とは、子どもたちが将来、豊かな人生を送るためのスケールの大きな活動を目指したのです。

4つの学校はみな大規模校で、少ない学校でも生徒数は800人を超していました。

部員は全校生徒数の1割以上いましたから、いつも80名以上の部員がいたわけです。
ですから、学校中のどのクラスにも部員はいました。

これは、学校全体に、かなり大きな影響を示すことになります。

実際、その活動は地域で認められていましたから、かなりわがままとも言える活動が許されていました。
私はある教育研究の団体から、研究費をいただいて活動報告を提出していました。

具体的に、吹奏楽部の活動ですが、指導者の意識としては生徒が将来プロを目指そうと思った時にも通用する活動を心がけました。

こういう教育関係のブログや時に塾関係者と思われるブログには、学力と称して進学を意識した記述が多いように思いますが、部活で生徒を預っている以上「吹奏楽部に入ると高校へ行けない」なんてことは言わせない指導をするわけです。

しかし、この世界に疎い人にはピンとこないかも知れません。

先日、某病院でコンサートがありました。
wakaimeno_concert.jpgこれは、将来音楽科を目指すような人に演奏の機会を与えようと、医院が協力しているコンサートです。

そのコンサートに先日行って来ました。

このコンサートに出る高校生たちは、東京藝術大、桐朋学園、国立音大、武蔵野音大、東京音大というところを目指しています。

音楽科のある高校です。
この高校を受ける中学生たちは、通常の学科の成績はAクラスです。
だから、音楽科でなくても、普通科の高校でも受かるでしょう。

しかし、彼らは音楽科を目指していますから、例えばピアノの練習を1日6時間ぐらいするわけです。

でも、学科の成績はいいわけです。

もちろん、学習塾へは行っていませんし、行く暇もありません。

では、高校入試とは何なのか?
ということですが、結論を言えば、高校入試の問題がそんなに難しいわけではないということです。

これは、当地域のことを基準にして話しています。
当然、私は他の地域、全国のことはわかりませんし、超能力も持っていませんから。

高校入試は日頃、学校で行なっている授業で十分通用する力がつくわけです。
また、当地域ではいい加減な授業をしているような先生を、私は知りません。

そんな先生は教員採用試験には合格しないでしょう。
実際、かなり優秀と思われた学生も一度不合格で、二回目に合格しました。

ちなみに、私が受験した時は競争率が35倍ぐらいでした。
100倍以上の競争率をクリアして入ってきた先生もいました。

私が当地域で感じている先生は、一番優秀な人は学校の先生です。

次に、採用試験に落ちたものの、補助教員で雇われている人です。

現場を見ていると、合格した人と補助教員では明らかな差があります。

ところで、吹奏楽部に入った生徒で、学習塾へ行っていた生徒は一人もいませんでした。
もちろん、行くなとは言っていません。
だから、通常、生徒が塾へということは、意識にありません。

中学に入ると、先に高校入試があって、このことを心配しない親はいないでしょう。
それに、吹奏楽部はかなり練習しますから、部活をやりすぎて勉強ができないのではと考えるかも知れません。

しかし、入部してから間もなく、親のそんな不安は消えてしまいます。

なぜ、そんなに難しくもない中学校の勉強ができないのでしょう?

それは、ズバリ根気集中力がないからです。

これは、私の憶測や妄想で言っているのではありません。
はっきり、心理検査で出ているのです。

ということは、今の子どもたちは、根気と集中力に問題がなければかなり優秀であると言えるのです。

実際、楽器を習得するのも、私の中学生時代を思い出してみても、驚くべきほど早いです。
(この習得が早いというのは、指導方法が確立されてきたという理由もあります)

とにかく、楽器が演奏できるようにするには、かなりいろいろな能力を必要とします。
頭でわかっただけではダメで、実技の練習も必要です。
実技の練習はほとんど指の練習ですが、指を動かすことは脳によい刺激があると、医学で証明されています。

繰り返し練習は何千回にも及ぶわけですが、楽器の練習ではあたりまえのことです。

吹奏楽部で練習することにより、まさに根気集中力が養われるわけです。

高校に指導に行くと、いろいろなことがわかりますが、ランク付けはよくないですが、Aクラスと言われる高校と、B、Cクラスでは何が違うかというと、やはり根気集中力の問題はよくわかります。

Aクラスの高校は、それらのことに全く問題がないし、生活指導の必要も感じません。
しかし、Cクラスのような高校に行くと、練習時間にも練習していません。

いや、知らない人が見ると練習しているように見えるかも知れません。
しかし、よく見ると、練習にならないことで時間を潰しています。

指導したことも一週間後には忘れています。
変なことはよく覚えているので、記憶力が悪いとは思えません。

私の家の近くにAクラスの県立高校があります。
部活動も熱心にやっています。
部活動をやっているので、塾へは行っていません。

しかし、毎年、東大へ大勢合格しています。
地方ですが、東大へ行かなくても、東大並みに偏差値の高い大学の学部もありますから、そこを目指す生徒も多くいます。近年、ノーベル賞受賞の先生が複数いたことで、注目度も上がったかも知れません。

syuchuryoku.jpg中学校全体を見渡すと、塾へ行っている生徒もいます。
それは、根気がなく、部活をサボリ、退部状態になった生徒です。

そういう生徒が塾へ行くわけですから、できが悪いのも無理はありません。
根気も集中力もないのですから、先生がしっかり授業をしても聞いていません。

でも、時に優秀な生徒を塾で見かけることがあります。
(私の家の窓から、大手の塾の建物が見えます。玄関も見えます)

これはなぜか?

あるお宅で、その謎がわかりました。

塾の方から、月謝はいらないから、来てくれと言われたとのことです。
だから、暇のあるとき、時々いくわけです。

なぜそんなことをするか?

塾としては「有名校へ合格したで、当塾に在籍した生徒が何人いる」という実績がほしいわけです。

私はかなり親しくしている塾経営者を知っています。
彼は経営がうまく、かなりの数の分校を作り、欲しかった高級車も買っています。
時々、相談を持ちかけられて、行ったこともありますが、塾の先生は忙しいですね。

ブログのテーマから逸脱したような感じがありますが、私が言いたいのは、中高時代は何かを身につける上では大切な時期、だから、一生を考えた時、この時期にしておかなければならないことに時間を使った方がいいのではないかと言うことです。

スポーツでも芸術でも活躍している人は、この青春時代にかなり練習した人たちではないですか?

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posted by edlwiss at 17:18 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年02月28日

「学び合い学習」を「教え合い学習」と勘違いする人

学び合い学習を、最も間違って解釈してはいけないと思うのは「教え合い学習」ととらえることです。

あることを伝えるためには、名前をつけたり、タイトルをつけたりします。

人はその名前やタイトルでイメージを作ります。

だから、名前、タイトルは大切です。
名前やタイトルをつける人も、そこはよく考えなければいけないことですが、同時に解釈する側も、自分勝手なイメージだけでとらえてはいけません。

一番よくないのは、自分で作ったイメージを即、固定化してしまうことです。

「タイトルからすると、○○と想像するんだが、何を意図しているんだろうか」という思考が大切です。

「話し上手より、聞き上手になれ」と言いますが、まさにその通りです。

toretama.jpg私は以前、記事にも書きましたが「教え合い」は続かないと思っています。

ここで言う、私の教え合いとは、グループを作って、グループの中のよく知っている子どもが、わからないという子どもに教えるやり方です。

これは、よく知っている子ども(俗に優秀と言われる子ども)が一方的に、わからない子ども、できない子どもに教えるだけです。

これを続けていくと、教える側の子どもには「何のために学校へ行くのだろう」という気持ちが湧いてきます。
しかし、どのグループもそうなるとは限りません。それは、グループの成員によって、感情は変わるからです。
ということは、グループの作り方は大変大切だと思います。
学業成績だけを見て、成績がどのグループも同じになるような機械的なグループ作りだけは、やってはいけないと思います。
そういう意味では、グループ作りは、教師の手腕が問われるところであると思います。

グループの信頼感がよくなるような、グループ作りが必要だと思いますが、授業だから仕方がないといった程度のグループは、形式的にグループは存続しても、緊密度は高くなりません。

形式的な存続でなく、自分たちが「集まりたい」と感じるようなグループ作りをしなければなりません。

また、グループが心的にも存続するのはGive and take.の関係が必要だと思います。

「教え合い」では、Give and take.ではなく、Give Give Giveの関係になりやすいと考えられます。

すると、Giveばかりの子どもの意欲が減退すると予想されるわけです。

日本の教育は、長い習慣から、教育とか学校、成績というと序列というイメージが強く植えつけられていると思います。

だから、序列の上の者が優秀という先入観を持った人が多いように思います。

そして、先生は頂点に立っていて、すべて子どもの要求に答えられる者、という気持ちが強くないでしょうか?

もちろん、先生自身が教える教科は、教科の目標に沿った指導はできなければなりません。

しかし、子どもはみな顔が違うように、個性的です。
(個性的に見えないのは、子どもの心が解放されていないからだと私は思っています)

だから、教師が予想もしない発言をしたりすることもあるのです。

教師が指導案を作って、路線を敷くのはいいですが、脱線を怖がって強固にその形を崩さまいとすると、子どもは本当に活躍しなくなってしまうと思うのです。

そういうのを、私は「学校ごっこ」と言っています。

子どもは思いやりがあって、特に研究授業になると、先生の学校ごっこに協力しようという心が働くようです。
先生のために、うまくいった形にしようとしているのかも知れません。

そうだとすると、一体、学校とは何かということになります。

話を「学び合い学習」に戻します。

学び合い学習は、何も学校の専売特許ではありません。

企業内では盛んに行われていることです。
それは、誰か優秀な人がそうでない人に、教えるために行われているのではありません。

企業では人から人へ、技術や知識を継承していくための場というものはあります。
(これは、学校で言えば「とりあえず入試対策をしておく」というようなものと思います)

それはそれで、スムースに行わなければなりません。

wazaari.jpg企業が存続を問われるのは、他社との競争において、自社の商品がいかに優れているかということです。

だから、新商品開発のためにチームを作って、話し合いが行われるわけです。
そこでの話し合いは、教え合いではなく、まさに学び合いであって、それぞれの人の個性的な考え方が貴重になるわけです。

普通では考えなかった、思考の仕方、そういうものからよい商品が生まれることが多いのです。

こういうところでは「あたりまえ」を一度捨ててかかる必要があるわけです。

子どもが何人かいると、成績のよくない子どもの中に、変わった考え方をする者、変わっているがゆえに行き詰まっているということもあり得ます。

天才的な人は、ひとつの問題にこだわると、いつまでもそれに執着して、他のことをしないという傾向があるようです。

このような者は、試験の始めの問題で行き詰まると、後の問題に手を出さないので、行き詰まった問題もできずということで、0点ということもあるわけです。

歴史的な天才たちが、意外に成績はよくなかったというのはよく知られていることです。

ニュートンとリンゴの木は有名ですが、リンゴが落ちるところを見て、不思議だと感じる人はどのくらいいるでしょうか?

テレビ東京のワールドビジネスサテライトという番組には「トレたま」とか「技あり!ニッポンの底力」という紹介がありますが、これは「学び合い学習」から出てきたものが多いのではと想像しています。

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2012年02月26日

できることと理解していること、とは別である

sitterutsumori.jpg「知ってる」だけ「できる」だけで満足していないか

私は今、地方自治体の吹奏楽団を指導している。
クラブ活動ではない、だから団員は仕事としてやっている。

行事に向けて、必要な曲の練習をするのだが、これは当然行事に間に合わせるように練習しなければならない。

当然、まずは演奏できなければならない。

しかし、それだけでは「力」はつかない。

力をつけるためには、リズムをはじめとして、音楽がどのように作られているかを分析し、
まず頭で理解できているかを確認する。

音楽は頭で理解しただけではダメで、それが演奏という実技て実現できなければならない。

これには時間がかかる。

こういうことをやっていかなければ、応用力はつかないし、なんとなくその都度演奏ができるというだけで済ませていくだけになってしまう。

別な言い方をすれば、音楽の楽譜は、時間を分割したものであり、その時間の分割が数学的にきちんとしているかどうか理解していることが必要である。

音楽を演奏するには、それらの理屈っぽいことは知らなくても、見よう見まねで覚えてできるということはある。

しかし、再度言うが、理解していなければ、演奏する力は高まらない。

指導の相手が子どもの場合でも同じである。

例えば、記号に「テヌート」というものがある。
これをテストで答えるなら「音符の表す長さ一杯に音を伸ばす」で正解となるが、実際の演奏となるとそれではダメである。

それぞれの音符を一杯に伸ばすということは、隣の音符との隙間がなくなって、個々の音符の区別がなくなってしまうからである。

実際にはどう演奏するかがわかっていないと、演奏として実現しない。

具体的には「音を長方形の形で、隙間を作って演奏するように」と指示しなければならない。

「テヌートの意味知ってる?」

「ああ、知ってる、知ってる、音符の表す長さ一杯に音を伸ばすことだろう」

では、本当に知っていることにはならない。

tenuto_no_imi.jpg


「知ってるか?」と聞いたり、何か説明しようとすると、すぐ「ああ、知ってる、知ってる」という言葉はよく返ってくる。

しかし、本当に知っているのか(理解しているのか)というと、実は「知っているつもり」だったりする。

このように、本当は理解していないのに、知っているというのを、養老孟司氏は「バカの壁」というのである。

「知っている」という壁を作ってしまうので、本当の知っている(理解)に及ばないのである。

「学び合い学習」は理解を深める

学び合い学習の本質は、このように本当に知っているのかが試される。

例えば、以前、例に出したように、小学生では足し算で

1+2=12

と書く子どもがいる。

そうすると「私が教えてあげる」と、教えられるというこどもは多いだろう。

でも、そのできない子が「どうしていけないの?」と言ったら、説明できる子どもはいるだうか?

いや、子どもでなくても、大人でも納得させられる説明できる人はどのくらいいるのだろうか?

この、1+2=12には大切な意味があり、ここが理解されていれば、算数、数学のしくみを理解する大きなきっかけになると思うのである。

中学校で、文字式を習うと、a+b=abなのか?
ということにも関わってくる。

「できる」だけを「理解できた」にしよう

バカの壁になっていないか、子どもの素朴な疑問を考えてみよう。
そして、それに納得できる説明ができるかが問われる。

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2012年02月26日

義務教育を正しく理解する必要がある

義務教育は

1.教育を受けさせる義務

2.義務教育を受ける権利

の2つから成っている。

1.は保護者に課せられている義務で、これは「学校へ行かせる義務」ではない。

日本国憲法26条の第2項「すべて国民は、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う」

を読むと、学校へ行かせる義務と考えやすいが、あくまで「教育を受けさせる義務」であって、親が何らかの方法で「教育を受けさせる義務」を果たせばよいのである。

昔、羽仁進という映画監督が、自分の娘を小学校に行かせなかったということが話題になったことがある。

羽仁氏は、小学校に行かせなくても、教育は(学校以上に)しっかりやると言った。
例えば、動物のことを学ぶなら、実際にアフリカでも連れて行くと言った。

娘は通常の学校に全く行かなかった。

で、卒業は?

後に、小学校から卒業証書送って来たということだった。

現在は、不登校の児童生徒が多い。

子どもが学校へ行きたくないと言っているのに、無理やり行かせるということを義務化しているわけではない。

学校へ行かない権利もあるのだ。

教育を受けさせる義務とは、もとは、子どもを学校に行かせない親や、雇い主がいたので、これをなくすために作られたと言ってよい。

ついでに、勘違いしている者に対して、説明しておこう。

学校は、保護者に教育を受けさせる義務を課していることから、それを実現する機関として存在するのであるが、これは、登校した子どもに対して、ある一定の力をつけさせるという保証をしているものではない。

学校は基準にかなった教育を行う義務はあるが、教育を受けるものに対して、何かを保証するものではない。
(ここを勘違いしている、塾講師がいる)

実際にある力がつくかつかないかについては、学校は必要とされている教育を行なっているか、児童生徒はその教育をどれほど身につけたかで問われるものである。

わかりやすく言えば、映画館へ行ったとすると、映画館の義務は、映画をきちんと上映することであり、客がその間眠っていて見なかったなんてことに責任は追わないと同じことである。

2.はもう説明するまでもないが、子どもは教育を受ける権利を不当に邪魔されないということである。

日本の義務教育は、義務教育で学んだことをどれほど身につけたかを審査させて卒業を認定するものではなく、義務教育期間にある内容を履修したかどうかを認定するものである。

だから、義務教育ではない高校進学を前提にしているものではない。

義務教育を終了して、その後、高校へ進学したいのなら、高校入試に備えて勉強するかしないかは、本人の問題である。

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2012年02月25日

学び合い学習の本質を見失わないように

manabiaig.jpg
私は学び合い学習が、かつての「ゆとり教育」のようにならないことを願っています。

ゆとり教育については、いろいろ言われていますが、立場によって価値観が違うのではないかと思っています。

ゆとり教育は、指示を待って動くことを前提にしている人にとっては、学ぶ内容が少なくなって、試験に対処できないと言うでしょう。

しかし、自立している人にとっては、大歓迎の教育です。
ゆとりの時間は自由なわけですから、自主的にどんどん学べるわけです。

だから、何を前提にしているかが大切なのです。

「してもらう」のが当たり前の感覚の人には「してくれない」という不平がでるでしょうが「自分からやりたい」という人にとっては、拘束時間が多いのは歓迎できないことです。

ある音楽大学の教授が言っていました。
この教授は、いくつかの音楽大学で講義をしています。

その大学は、いわゆる一流から三流まであるわけですが、教授が言うには

「○○大学は、学生が自分でどんどんやっているから、そこを見守っていればいいのだが、△△大学では、いちいち課題を出してやらないと自分からはやらないから」

ということでした。

音楽大学では、このような差が出ているということです。

さて「学び合い学習」の本質とは何でしょうか?

学び合い学習をものに例えると、私は次のように考えています。

ジュースを手に入れるということを考えてみます。

ジュースを手に入れるのに、自動販売機の場所を教えて、コインの入れ方、ボタンの押し方を教えるのが、受験教育や学習塾の指導だと思います。

それに対して、自動販売機のボタンを押すと、なぜジュースが出てくるのか、自動販売機がなくてもジュースを手に入れる方法はないかを考えるのが、学び合い学習ではないかと思うのです。

つまり、いかに早く能率的にジュースを手に入れる方法を教えるのが、受験教育であり、なぜボタンを押すとジュースが手に入るのか、自動販売機がなかったらどうしてジュースを手に入れるのかを考えるのかの違いです。

「生きる力」ということが打ち出されていますが、ボタンを押すことしかできない子どもより、ボタンを押さなくてもなんとかしようとする子どもと、どちらが、生きる力をつけることができるのかは明らかだと思います。

しかし、頭の中が「勉強とは答えを知ること」「いかに早く答えを知ることだ」の固定概念が染みついてしまっている人がいるのではないでしょうか?

私たちは、早く答えを出すなら、電卓の操作を覚えることが一番の早道です。

はからずも、3・11の災害で全てを失った人は、それまでの便利な生活を全て失ったところから復活するために、生きる力をいやがおうにも試された格好になりました。

コンピュータ時代になり、その中核はCPUと呼ばれる計算部分ですが、それと並行して、大切なのがプログラムです。

プログラムは人が知恵を使って作らなければなりません。
今やあらゆる電化製品に、コンピュータは内蔵されていますかが、その中のプログラムは各社各様であると思います。

各社各様ということは、目的はごはんを炊くということであっても、プログラムは違うわけです。

そのごはんを炊くプログラムを、いかに考えていくかをアルゴリズム(問題解決法)と言われますが、人が生きる力とはこのアルゴリズムを鍛えるようなものだと思います。

そこで、早くも「学び合い学習」の本質を理解していないと思われる例を見つけました。

それは、例として出させていただくのは恐縮ですが算数の問題解決型学習〜学力「崩壊」の決め手に例を見ました。

研究授業を見た感想が書かれていましたが、この方はやはり「答えを早く出すことが学力」との固定概念から抜け出せないように思います。

「23×12を(20+3)×(10+2)と考える子が出てきました」とあり、次に「なぜ、12×23というたった一問を解くのに、1時間もかける必要があるのでしょうか」と言っています。

そして「正しい筆算のやり方をきちんと教えるのには、5分とかからないはずです」と続けて「算数は、国語とかと違って、正しい答えは一つしかありません。
「考える力」云々よりも、子どもたちが、確実にできるようになることが大切です。
わかる子にとっては、こんな問題は楽勝すぎるし、わからない子にとっては、いくらたくさんの子どもが説明しても、かえって困惑するばかりです」と言っています。

私は子どもが「23×12を(20+3)×(10+2)と考える」というところはすばらしいことだと思います。
子どもなりの論理です。かつ間違っていません。
ただ、行き詰まることは考えられますが、そういう経験も大切だと思うのです。

「正しい筆算のやり方」と言いますが、それは算数の答えは一つしかないからと言って、そこに至る方法(アルゴリズム)は一つしかないと言えるのでしょうか?

正しい筆算のやり方という固定概念があって、それを教えたいなら、はじめから「学び合いの学習」の題材にする必要はありません。

それは、能率的に早く答えを出す技術を教え込む授業なのです。

学び合い学習というのは、答えに至る過程を大切にするという大前提を忘れてはなりません。

混乱すると言っていますが、そういう混乱もいい経験ではないですか?

授業者もその「学び合い学習」の本質をどれだけ意識して、行ったのかわかりませんが、学び合い学習は、早く答えを知る練習をすることではないはずです。

この授業を例にして、学び合い学習を勘違いして捉えている、塾講師もいます(結果を重視せよ)。

学習塾は、できるだけ早く答えを出して点数を稼ぐ訓練ですから、学び合い学習の本質とは正反対にあるものです。

答えの出し方を早くすると言う訓練は、必要ないとは言いませんが、それ以上に必要なのは、アルゴリズムなのです。
でなければ、社会に出て役に立つ立たない云々ではなく、コンピュータにとって代わられて、人の仕事はなくなります。

就職先は皆無になるでしょう。

学力とは何かをよく考えてもらいたいものです。

ひとつ、断っておきますが、何でもかんでも「学び合いの学習」に持ってくるのは、不適当な場合もあると思います。単純に、傾斜しないことも配慮していただきたいと思います。

「ひとつ、ここは学び合い学習でやってみよう」という時間を設定し、そこは十分に時間的余裕を持たせる必要があると思います。

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2012年02月25日

猜疑心の強い人を見たら〜もしかして

子どものころ、ラ・ミゼラブル(ああ無情)を読んで、強く心に残った部分がある。

ジャンバルジャンがツーロンの刑務所を出て、腹をすかして、夜中にとぼとぼと歩いていると、教会があって、ミリエル司教に銀の食器で食事を出してもらう。

満腹になったジャンバルジャンは、銀の食器を懐に入れて、こっそり教会を抜け出す。
しかし、後を
つけていたジャベール刑事に捕まって、再び刑務所入りを覚悟する。

ジャベールがミリエル司教のもとに、ジャンバルジャンを突き出すと、司教は

「その人が、食器を盗んだなんてとんでもない。その食器は私がその方にさし上げたのです」

と言う。

この言葉に、ジャンバルジャンは人が変わったようになる。

という場面である。

「あいつは、悪人だから、刑務所を出てもまた悪いことをするに違いない」と思い、ジャベールは執拗にジャンバルジャンをつけ回すが、こういう性格は猜疑心が強いのかも知れない。

*************************************************
【猜疑心】さいぎしん
相手の行為などをうたがったりねたんだりする気持ち。
*************************************************
(大辞林)

jinkakusyougai._wakaru.jpg
とにかく、他人をみるとき、否定的にしかみない人は、この猜疑心が身についてしまっているのかも知れない。

教育の世界において、年上の先生が「わしも、若いころはそうやった・・・」などと言い出す場面はあるだろう。
実際、私もそう言われたことがある。

こういう年上の言い分は、概して非否定的な感情を含んでいるのだが、中には、それでも
「わしの若いころはそうだったが、この若者の場合どうかわからん」
とか
「経験も必要だな」
と考えて、やらせてみるという態度に出る人は、いわゆる「いい先生」だと思う。

さらに、若い先生が取り組もうとしているところを援助する人は、さらにいい先生だ。
年上の先生はそうであってほしいと思う。

会社でも「わしの若いころは」と言い出す上司は、一般的にダメと言われている。
それは、昔と今は状況が違うからである。

学校でも会社でも執拗に先輩ぶって、過去の自分の業績を誇示したり、若者のやろうとしていることをむやみに否定する人の心理には、自分の地位の低下を懸念する心理があるかも知れない。

いずれにせよ、先のことはやってみないことにはわからない。
世の中には、それまでダメだと思われていたことが、打破されてきたことは多い。

jinkakusyougai.jpg
ところで、そういうわからない未来に対して、悪い方ばかりに考えが及ぶ猜疑心の強い人
には異常性を感じる場合もある。

これは、もしかしたら人格障害かも知れない。

人格障害といえば、統合失調症が浮かぶが、私は典型的な統合失調症と思われる人に、これまで二人出会ったことがある。

一人は教師であった。

共通するところは「話が通じない」ということである。
なぜ、話が通じないかと言うと、本人自体の言動に矛盾をたくさん抱えているのに、全くその矛盾に気がつかないからである。

話し合いというのは、互いに意見を交換するとき、矛盾の解消をしたりして成立するものであるが、相手が何と言おうと、自分が主張するばかりでは一方通行で何の進展もない。

統合失調症の相手との話し合いはムダと考えた方がよい。
(ちなみに、統合失調症は100人に1人ぐらいの割合でいるそうだ・・・だから、医者は「あなたの友だちの中にもいますよ」と言う)

人格障害は厳密に言うと、統合失調症とは違うのだそうだが、時に似たような症状も示すということだ。
もしかして、職場にどうしても話しが通じない人がいたら、これは人格障害かも知れないので、いっしょに仕事をするのは無理かも知れない。

人格障害にも、いろいろなタイプがあるということで、ここでは妄想性人格障害というタイプが猜疑心に関係あるらしい。

以下に赤の他人と本当の私妄想性人格障害の一部を参照させていただく。
妄想性人格障害
妄想性人格障害の基本的な特徴は「猜疑心」と「敏感性」の二本柱です。
そして、これに伴うものとして「不信」「論争好き」「頑固」「自負心」があげられます。
つまり、猜疑心が強く、嫉妬深いタイプがこの人格障害の特徴です。
さらに、すぐに人をねたんだり、疑ったりするので社会になかなかとけ込めません。
また、ちょっとしたことで怒りを爆発させることもあります。
あなたの妄想度を測るには、こちらをどうぞ。


妄想性人格障害の診断基準

これも参照させていただくと、下の7つのうち4つ以上あると、妄想性人格障害が疑われるということです。

1.十分な根拠がないのに、他人が自分を利用したり、危害を加えたり、だましているなどと疑いを持つ。
2.友達の誠実さ、親切を不当に疑い、そのことに心を奪われてしまう。
3.何か情報を漏らすと自分に不利に利用されると恐れ、他人に秘密を打ち上げることができない。
4.悪意のない言葉や出来事の中に、自分をけなしたり、脅かすようなことがあると深読みする。
5.侮辱されたり、傷つけられたり、軽蔑されたことを恨み続ける。
6.自分の性格や評判に対し過敏に反応し、勝手に人から不当に攻撃されていると感じたり、怒ったり、逆襲したりする。
7.根拠がないのに恋人や配偶者が「浮気しているのではないか」と詮索する。

「根拠がないのに」というのは、まさに妄想と結びつくところでしょう。

mousousei.jpg


先に挙げた、私の会った教員は統合失調症〜妄想性人格障害と思われる人でしたが、校長の指導により1年休学したこともありました。
復帰しても、結局治らないので、担任はやらない。
生徒たちも、授業では無視で、勝手に自習をしているという状態でした。

誰とも打ち解けないので、一人で家に閉じこもっているという状態が続きました。

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posted by edlwiss at 15:53 | Comment(5) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年02月24日

通知表の電子化



教育に関わる機械的な事務を合理化して、教師の専門性に関わる仕事の時間を増やすことはいいことである。

そんなことは、当の学校現場でも当然のこととして理解されているはずである。
具体的には、通知表の所見欄は担任の言葉で書くべきものである。

逆に懸念されるのは、無知な者が、通知表がパーターン化すると考えをもって非難することである。

パターン化された所見など、保護者が納得するはずがない。

通知表だけでなく、個人差の出ない事務処理はこれからも合理化すべきである。

むしろ、役所においては単純に書き写すだけの仕事を、わざわざ合理化しないという実例を知ったことがある。
それは、仕事が少なくなるからだそうで、人員削減につながることを恐れとのことらしい。
そういうことこそ、市民は監視していく必要がある。

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posted by edlwiss at 17:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年02月23日

学び合い学習の成功を願う

私が一番懸念するのは「ゆとり」のようになってしまわないかということである。

人によっては、自由時間がなるべくあったほうがいいのである。

いつの頃からか、何でもこと細かに指示してもらわなければ動かない人が増えてきたような気がする。

これって、ロボットのようなものじゃないかと思うのだが、おもしろいことに「私はあなたのロボットじゃありません」と言う人に限って、実は命令してもらうのを待っているという不思議な現象がある。

そんなに言うなら、自分で考えてやればいいと思うのだが「してくれない」という言葉が出てくる。

大学には卒業論文というものがあり、それは本来、自分でテーマを決めて研究するものではないかと思うのだが、教授のお世話になって、研究のお手伝いをすることで、論文が書けたという形もある。
学生もそれを期待している者がいて、先生からお達しがあるのを待っている場合がある。

「あそこの研究室に入ると、卒業ができない」という評判の研究室があった。

先生が何も言ってくれないというのだ。

幸か不幸か、私はその研究室に入ってしまった。

でも、私は自分で研究したいテーマを持っていたので不安はなかった。

ところが、大学には研究室の先生の他に、その学年の担当をする先生、いわゆる学年担任のような先生がいて、学生に、卒業論文はどうするんだという話があった。

私は自分のテーマを書いて出した。

ところが、先生にとっては、それが気に入らなかったようだった。

形の上では、学生がそれぞれ自主的にテーマを提出することになっているのだが、先生の方としては「すみません、テーマがないものですから・・・」ということを期待していたわけだ。

そして「それなら、仕方がないな、先生の方からめんどうをみてやろう」という予定だったのだ。

そういう先生の予定外の私は、先生からしたら不愉快だったわけだ。
おそらく「生意気なやつ」ととられたのだろう。

それぞれの学生のテーマを確認する時間に、先生は順に「誰々は・・・というテーマ」というふうに発表していったのだが、私の番の時「・・・・・の研究」と読んでから「これ、どうするかなあ(弱ったなあ)」と言われた。

もろに、生意気という皮肉めいた言い方だった。
しかし、私の研究室の先生が、私の意思を尊重してしてくれたことで、そこは無事通過した。

世の中には、このような空気が時と場合によって存在する。
だから「赤信号みんなで渡れば怖くない」という言葉のように「みんないっしょ」という空気が波及するし、たまに自立した考えを持つものがいると、表立っては言わないものの「生意気」ということで、頭を叩いてしまうということがある。

独自性を認めない風潮である。

私はこの日本から、こういう空気を排除していかなければならないと思っている。

そして、子どもたちをもっと開放してやって、自由な空気なもとでのびのびと持てる力を育ててやりたいと思うのである。

「ゆとり教育」に対する悪口は「好きにやって」と言われると、困る人の意見ではないかと思うのである。

ソシオメトリーで有名な、田中熊次郎先生は、子どもをがんじがらめにするのではなく、先生は子どもが自然に学べるような環境を作り、その中で自由に活動させることが大切と言われた。
それを「教材の池」と言われて、この池のない授業を「イケナイ授業」と言われた。

これから「学び合い学習」の研究が盛んになることはいいことだと思うが、私の一番の懸念は「何か新しいことを始めようとすると、それだけで反対を決めている人」である。

どうも、教員の世界にはこういう、心の狭い人が多いような気がする。
(気がするというのは私の印象であって、私は神でもないし、超能力者でもないから、日本中そうだとは言わない)

障害となるものは何か

(1)中身もわからず反対を決めている人

新美南吉の「おじいさんのランプ」に、主人公の巳之助が、自分の商売のランプが売れなくなることを恐れて

「電灯なんてものを使うと、山から狸が電線を伝ってきて畑を荒らすぞ」

と言って回る場面がある。

新しい時代を恐れているわけである。
単に、自分の商売がうまくいかなくなることだけを恐れているのである。

情けない人間の一面が描かれている。

でも、どうしても流れが止まらなくなって、商売もジリ貧になるので、巳之助は腹が立ってしょうがない。
それで、誰が悪いということもないのだが、誰かを恨みたくなる。
誰を恨むことにするかと考えたあげく、区長を恨むことにする。
そして、区長の家に火をつけてやろうと計画する。

これと同様な心理の人が研究の妨げになる。

心の狭い人は、残念ながらいるもので、すでに「学び合い学習」の失敗を期待していると思われる言葉を発している人がいる。
「狸が電線を伝ってきて、悪さをする」というのと同じだ。
本音は「オレの存在感」を気にするのだろうか。

こういう人の発言は、とにかく、悪い結果ばかり想定する。まだ実施されていないことも、必ずダメになるという結論にしている。
そういう人の心理を、再度、以下に掲載する。

got_or_chonoryoku2.jpg


(2)無知な人

学び合い学習の本質を理解しないで、やっていること自体が、学び合い学習の良さを生かしていないのに、うまく行かないと「学び合い学習はダメだ」と言う人。

だいたい、学び合い学習そのものは、新しいものではない。

いろいろな場面において、人が集まるところに学び合いはあると言ってもよい。
その今まですでに存在する学習の中で、特に「学び合い」に焦点を当てると考えた方がよいと思うのである。

医者が手術をする時に、ずいぶんたくさんの道具を使い分ける。
教育もいろいろな道具を使い分けなければならない。

その使い分けこそ、教師の専門性であると言える。

学び合いは、教師が子どもに与える問題をよく考えねばならないという人がいる。
それはいいとしても「簡単な問題を出すと、利口な子が解いてしまって、すぐ終わってしまう」という意見があったが、これなんか全く、話し合い学習の本質を理解していないのだと思う。

一斉学習がいいのか、この部分はグループに任せた方がいいのか、現地に行って見るのがいいのか・・・教師の専門性が問われる。

「教科書を見ると・・・」という意見もあるが、見たって見なくたって、そんなことはいっこうにかまわない。
子どもは見てきても、学級での授業の雰囲気を感じて「ここは、見ていないという前提で授業をやるのだな(やっているのだな)」と了解して「授業ごっこ」に参加するという傾向もある。

学校は「学校ごっこ」「授業ごっこ」をやめなければいけない。

教師が、ごっこをやらないと決意することによって、子どもも真の姿を見せるような気がする。

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posted by edlwiss at 14:07 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年02月22日

人間の証明

情報公開

入学式が終わって間もなく、ある日、保健室に行くと女子生徒がいました。
彼女は私の方を見ると、睨んでいやな顔をしました。
それまで、養護教諭の手島さんと話をしていたらしいのですが、急に静かになりました。
そして、部屋から出ていきました。

「先生、あの子、父親が家庭のことを顧みない人で、幼い頃から母親が苦労していたので、大人の男の人を見ると、拒否反応を起こすようになったんです」

と手島さんが話してくれた。

生徒と私は初対面だから、私は生徒の態度に戸惑った。

でも、そういうことがあったのかとわかった。

女の先生とは話せるのだが、男の先生となると、嫌な顔をし、何かを言おうものならすぐ反抗的になる。


指導要録はある時期まで非開示の書類だった。
ところが、情報公開法が成立してから、そうはいかなかった。

いくら、情報公開と言っても、指導要録は例外だろうと、先生たちは思っていただろう。

しかし、ある日、この指導要録を開示するように要求した人がいた。

それは、保護者だったのだが、自分の子どもがどう書かれているのか不審に思ったのだろう。そのせいで、入試にも影響を来したと思ったのかも知れない。

教育委員会は開示を拒否したが、裁判になった。

結果は、開示しろとの判決が下った。

これは、ちょっとした騒ぎだった。

それからというもの、対策として、上からお達しがあって、現場へは

「保護者が見ても不快にならないような記述にしろ」

ということだった。

そういう経緯で、指導要録は形骸化したとも言える。
「本当はどうなのか」ということもわからなかった。

要するに、指導要録は裁判沙汰にならないように書けということなのだ。
(ここが本音の部分である)

しかし、先の事例のようなものは、ある人の前では、素直でない。
しかし、別の人の前ではそうでもない。

という、一人の生徒に対して、異なったコメントがあることにより、その生徒の真の姿がわかるようになると言える。

また、そういう生徒が年とともに変化するかも知れない。
そうなった場合、本人の精神的な成長なのか、ある先生の指導のせいなのかということがわかるようになる。

指導要録は、あくまでも生徒理解のための資料なのだ。
それが、文句を言われないように書くものだとすると、何のための記録か意味がなくなる。

単に仕事だからする、上からのお達しだからするという、公務員の悪い面が出ることになる(だから、税金泥棒とも言われる)。

年度末には、担任が書いた指導要録を教務や教頭が点検する。

彼らが、クレームがつきそうかどうかをチエックするので、最終的には指導要録が問題になることはないだろう。

それにしても、おもしろいと思うのは、かつて、私が組織として上からのお達しは、職務命令だから拒否できないと言ったが「組織というのは形式だから(気に入らない場合は)拒否してよい」と言った人が、いつの間にか、今度は「職務命令だから、拒否できない」と大上段に力説するのは矛盾ではないか?

こういう人を信用できるか?

さらに、生徒にも「きまりは守らなくてもよい」と指導すると言っていた。

ブログは、書くことによって記録として残るし、その人の知的水準まで判断されてしまう。

そういう意味では、ブログは「人間の証明」と言えるのかも知れない。

自分の印箱にあるスタンプの種類しか、持ちだすことができないような文章。

日本中の学校や先生たちを、自分の印箱の限られたスタンプですべて押してしまえるような頭脳。
これが知的と言えるか?

スタンプは便利なものだ。
パターンの決まっているものに対しては、スタンプが効率的だ。

でも、スタンプだけでは済まないものもある。

あるところはスタンプで済ませても、そのあとは手書きでならない場合がある。

その手書きというのが、これから行おうとする実践なのだ。
実践をしないことには、何も書けないし、ましてスタンプなど押せないはずなのだが、先に押してしまう人も凄いなあと思う。

公式

y=aX+b

これは直線の方程式である。

5>4>3>2>1

aho.jpg
これは、公式ではないが事実である。

X>Y>Z・・・@

これはどうだろう?

X=10、Y=6、Z=2

だったら成り立つ。

でも、X=1、Y=8、Z=5

でも成り立つと言っている人がいる。

X,Y,Zの変数に何が入ろうと、常に上記@が成り立つと言っている人がいるのだ。

X=教員、Y=保護者、Z=子ども

で@が常に成り立つというのである。

教員>保護者>子ども

なんだって。

「三角形の内角の和は180度なのです」

と言われたら、納得できるが、

「教員>保護者>子ども、なのです」

と言われてもねえ。

教員、保護者、子ども、それぞれどんな人がわからない。つまり変数でしょう?

「教員>保護者>子ども」こういうスタンプ作っちゃったんですか?

そして、あちこちで押しまくっている。

押されたところは迷惑じゃない?
記念スタンプにもならないしなあ。

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posted by edlwiss at 15:09 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年02月21日

人によって評価が違うのはあたりまえ

私が言う評価とは「○○さんは、私を評価してくれる」といったような評価のことです。

【評価】
*******************************************************************************
1 品物の価格を決めること。また、その価格。ねぶみ。「―額」

2 事物や人物の、善悪・美醜などの価値を判断して決めること。「外見で人を―する」

3 ある事物や人物について、その意義・価値を認めること。「―できる内容」「仕事ぶ
りを―する」

4 「教育評価」の略。
*******************************************************************************

【教育評価】
*******************************************************************************
児童・生徒の知能・学力・適性・性格・身体・健康などの変化を、教育目的に照らして価
値判定すること。これによって教授計画改善や学習の動機づけをし、教育効果の向上を図
る。
********************************************************************************
(大辞泉)

私の言う評価は2、3、4、の意味です。

これらの意味で、人がする評価はまちまちであるのが自然と思います。

例えば、ある学校での時「先生のクラスは美人が多いねえ」と言った人がいます。
私は「そんな風には感じませんが」と言ったら
「いや、先生は心で見ているから」
という会話がありました。

私は先生に向かってくるような子どもが好きです。
しかし、人によってはそういう子どもを嫌う人もいます。

だから、人は感じ方が違うのが自然だと思います。

いろいろ感じ方の違う人と会って、成長するものだと思うのです。

ある小学校で音楽を教えた時、その評価が、それまでの先生とずいぶん違っていたということが話題になった時がありました。

また、別の中学校では、服装が汚く、顔も洗ってくるのかわからないような、女子生徒がいて、クラスの中で嫌われていました。
先生たちも、ちょっと距離をおいているという感じでした。
しかし、私はこの生徒をとても評価しているところがありました。
それは、ある日、給食後、気分を悪くして吐いてしまった生徒がいました。
床に、胃の中から食べたものが一面に広がりました。
ほとんどの生徒は、びっくりして逃げましたが、その生徒はさっさと近くに行って手際よく片付けていました。
私は大変感心して、そういう彼女の一面を高く評価しました。

彼女はあまり他人から、よく言われたことがなかったらしいですが「先生は私のことをよくわかってくれる」と言っていたようです。
卒業後、勤め先で嫌なことがあると、しばしば訪ねてきました。

いずれにしろ、決められた帳簿に記入することは、そのきまりに従って書くだけのことです。

それでも、私がある子どもを「積極的で良い」と書いても、別の人は「素直でない」と書くかも知れません。

先生は指導要録のために仕事をするんでしょうか?
そうではないですね。

指導要領も指導要録も改定されます。

それは、ただ「上」から何とか来るものではなく、今までのやり方が子どもを教育するために適切であったかどうかの反省がもとになっているものだと思います。

近ごろ、官僚批判が多いですが、先生が官僚のようになってはいけないと思います。

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posted by edlwiss at 23:34 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年02月21日

神様か超能力者か?

人にはいろいろな人がいますが、単に個性的では片づけられないものがあります。

「予の辞書に不可能の文字はない」とナポレオンが言ったというように「予の『辞書』に失礼の文字はない」と言ったほうがよさそうな人がいます。

私の考えられるところでは「不可能の文字はない」と言えるのは、神様か超能力者ぐらいしか浮かびません。

eraihito.jpg
だって、普通の人間なら見えないもの、予測できないものが見えてしまうようなんですから。

どこか、上の方から日本全国の学校の授業を眺めているようなものです。さらに、これから行うであろう授業までもわかってしまうのですから。

私の場合、自分が過去に失敗したことでも、これから別の人が行ったら上手くいくかも知れないと思うことはあります。

しかし、ことごとく失敗する、ダメな授業と言えてしまう人は預言者(超能力者)でしょう。

超能力は日本中の小学校の先生を上から見ていて「みんなダメ」なようなことを言っています。

そして、小学校の先生がそれぞれ評価が異なることにクレームをつけています。

ある学校は先生によって、全く評価が同じなんてあり得ますか?

指導の仕方も、人が違うのに同じってあり得ますか?

もし、そういうことが問題であるとするなら、これからは小学校はeラーニングを取り入れるべきですね。

もしくは、放送室から一斉に授業を行う、体育館で全員集めて授業をする。
評価も一人の先生だけでやるしかないですね。

教育って、いろいろな先生に会うことも大切だと思うのです。

先生によって人格も違う。

先生との相性のようなものもあります。

大きく、長期的に見て、いろいろな人と会いいろいろな影響を受けて、子どもは成長していくのではないでしょうか?

人が違うのに、どの先生もまるっきり同じって、そりゃあサイボーグの世界じゃあないんですか?

神様か超能力者でなければ、はっきり言ってどこか異常ですね。
精神的にです。

日本中を一括りにして見えてしまうって、普通の人間じゃあないでしょう。
もし、空想で言っているのなら、これほど失礼なことはないです。

だって、小学校の先生も中学校の先生も、みなダメと言っているわけですから、つまり見たこともない授業、会ったこともない人をあらかじめ、よくない評価にしてしまうのは、あの話題になった、冤罪事件、つまりはじめから犯人にするというシナリオが作ってあったようなものです。

ところで、未知のものに対して、中立でなく、悪く悪くと言うのは、それなりに悪い方へ評価が働く力があるものと思われます。

それこそが「本音」であると、私は思うのです。

その本音とは、自分よりよいものに対して反感を持つ、恐れを抱く、大体が悪口を言うのは「恐れている証拠」だと言われます。

だから、ヒトラーもスターリンも優秀な人間を目の敵にしたんでしょう。

ヒトラーは画家になりたかったんだけど、なれなかったので、優秀な画家たちを弾圧し、全く価値のない絵を描く者たちによくしたらしい。

スターリンはポーランド進攻で知識人たちを捕まえて、シベリアで何万人と虐殺したと言われている。

神様のように上からお言葉をくださるのではなく、また予言はいいですから、ご自分の実践を具体的にご披露くださいませんか?

それとも、何も実践はないのですか?

got_or_chonoryoku.jpg


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posted by edlwiss at 16:21 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年02月21日

真実はどこに?



私の伯父は戦争中に憲兵をやっていました。
中国とソ連の国境近くにいました。

その伯父が、昔「警察は犯罪製造株式会社」だと言っていました。

子どもの私には、何のことがわかりませんでしたが、戦後60余年経過した今、その意味がわかってきたような気もします。

近年、次々と警察や検察の作り上げた冤罪が問題になっています。

近代国家となったと言われますが、警察、検察、いや司法の世界は地下水のごとく引き継がれているのかも知れません。

そういえば、GHQの改革においても司法の改革は行われなかったと聞いたことがあります。

戦前の司法が・・・と言いましたが「戦前より悪い」という年寄りもいます。

法律の本を読んで、はてなと思うところは

「疑わしきは罰せず」

とか

「疑わしきは被告人の利益に」

ということが裁判の原則になっているということですが、現実はそうではないようです。

「疑わしきは犯人に」

のようです。

真実は当事者しかわかりませんので、今回の事件については、私もわかりません。

しかし、今までに死刑判決を受けたのに、再審で無罪になった人が4人はいました。

死刑存続について、いろいろ意見がありますが、無実の人を有罪にするような裁判は、絶対あってはなりません。

posted by edlwiss at 13:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年02月20日

ブログには「におい」がある


家内には二つの大きな欠点があります。

一つは、三十年前に私がプロポーズしたときに、
即座にイエスと言った軽率さ、

二つ目は、その後三十年間、
こんな私に黙ってついてきた愚かさです。

ウィンストン・チャーチル


さすがチャーチルと思います。奥様への強い愛情が感じられることばです。
その愛情にユーモアが交って、この人の人格を感じます。
教養のある、人にやさしい人格を感じます。

しかし、最近、こういう文を読んで意味のわからない人がいるようです。
どういうことかと言うと、これを奥様への悪口ととる人がいるのです。

そういう人は、おそらく、はじめの「家内には二つの大きな欠点があります」にとらわれているのでしょう。

この始めの一行を読むと、ドキッとします。
でも、後を読むとそれは、先に出てきた「欠点」という言葉がきついから余計にコントラストをもって強さを感じます。

短い文章の中に「欠点」「軽率」「愚か」という否定的な言葉を3つも使いながら、人を感動させる文章になっています。
そして、思わずニコリとしてしまう洒落の持ち主で、こういう人と話をしたいなという気持ちにさせます。

イギリスはよきリーダーを持ったものだ思います。

学力テストには、こういう文章を題材で、出題して、感想を書かせたらどうでしょう?

そういうと「そんなことしたら、採点者によって点数がまちまちになって・・・」
などと言い出す人が出てくるかも知れません。

そういう人がいたとしたら、私は「つまらない人」と思います。

テストは客観性が必要だとか、公平性がと言い出して、それが勉強であるといつの間にか「勉強とはテストのため」が独り歩きしてしまいます。

だから「勉強はつまらないもの」になってしまうのだと思います。
どんどん、人間性を剥ぎとっているような気がします。

だいたい、人によって評価がわかれないものなんて、つまらないものだと思います。

美術品なんてそうではないですか?

食堂に行くごとに、箸のさやを集めている人がいます。そこには、その人の趣味性があります。

charcil.jpg「へえ、伊藤さんはそういうものを集めているんだ」

と気がついて、次に伊藤さんと会った時

「こんなのがありましたよ」

と伊藤さんにあげたら、伊藤さんは喜ぶかも知れません。

何を喜ぶかって?

さやをもらったことだけじゃありません。

他人から見たら「そんなもの」と思っていたかも知れないのに、伊藤さんの趣味を覚えていてくれて、わざわざ持ってきてくれた気持ちが嬉しいに違いないでしょう。

伊藤さんは喜んで、コーヒーをおごってくれるかも知れません。

箸のさやでコーヒーおごってもらったなんて、損得を計算するようでは、貧しすぎます。

ところで

「加藤さんの家を訪ねたら、玄関先に金木犀がありましてね・・・」

というと、良い匂いを感じます。

文章なのに匂いを感じるのです。

でも、文章によっては、においはにおいでも「匂い」ではなく「臭い」を感じる文章もあります。
クサイわけです。

よくも、こんなに悪臭のたちこめた文章を書くものだと思うものもあります。
そういう文章を書いている本人は、感じないのでしょう。

それは、自分の身についた、体臭だからなのでしょう。

「やばい」という言葉があります。
私は、この言葉を使いません。

それは、響きが嫌いだからです。

文章は音ではないですが、音も聴こえます。

物理的には、におわない、音もしない文章でも、人はにおいや音を感じるのです。

そうして、書いた人の人がらを感じるのです。

悪臭のない、いやな音のしない文章を書くために、教養を身につけなければならないと思っています。

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posted by edlwiss at 15:20 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2012年02月19日

結局、言いたいのは「自分以外はみんなバカ」ということ?〜本音と建前

jibunnigai.jpg
「批判をする」という言葉がありますが、批判はいいと思うのです。
なぜなら、次へのステップになりますから、でも簡単に「批判」と言いますが
「それって批判なの?」と思うことがあります。

「ニコニコ大百科」というのがあって、この批判について、言及しています。


批判とは、何かに対しどう考えているか発言・意見すること。欠点を直すように促すこと。間違いの指摘。

批判とは、人や物事の誤った箇所や悪い部分を、根拠を示しながら論理的に指摘し、改善を求めることです。
相手の過失や欠点、悪い点をあげつらって、感情的に責めたり、馬鹿にしたりすることは「非難」にあたります。

正しい「批判」を行うには、客観的思考や豊富な知識、理性的な態度、そしてなにより批判をする相手に対する思いやりが必要となります。
ただやみくもに相手の悪い所を指摘し、責めるだけ、というのは、自分の感情を相手に押し付けただけの「非難」でしかありません。

例えば、「つまんね」という「非難」でしかないコメントを、「批判」という段階にするには、何故つまらないのか根拠を示し、どうすればつまらなくなるかを論理的に、かつ相手に理解してもらえるように気を配りながら説明しなければなりません。
批判する側にもされる側にも多大なストレスがかかり、またエネルギーが必要となります。
ニコニコ動画の場合、文字数が限られたコメントで論理的に「批判」を行うことは大変困難であり、またコメントが全てアップロード者に伝わるわけではありません。本当に伝えたい「批判」ならばコメントを使用せず、他の方法で伝えようとするのが確実でしょう。

それよりも、相手の良い所を見つけ、互いに理解できる部分を探し、肯定的な言葉で相手を認める、といった「共感」を積極的に行っていった方が、いきなり「批判」を行うよりも、ずっと楽に相手への改善を促せるようになります。

ニコニコ動画に限りませんが、「非難」はもちろん、軽はずみな「批判」も控え、まずは「共感」をすることから始めてはどうでしょうか。


これを読むと、私は「なるほど」とか「そうだ」と思います。

無数といえるほどのブログがありますが、中には眠たくなるようなブログがあります。
私が眠気を催すブログ(文章)とは、空想から空想へと話が連続している文章です。

こういうのは、空想というより「妄想」と言った方がいいかも知れません。

だから「人のふり見て我がふり直せ」と子どものころ親からよく言われましたので、私は、文章を書く時、なるべく具体的事例を入れるようにしています。

私はどういうわけか、実の親と暮らしたことがありません。
祖父母のもとで育てられましたが、4歳ぐらいの時、その祖父母もなくなり、ポツンとひとりきりになってしまったのですが、葬式の時、それを見かねた伯母が、半分は騙すようにして、葬式の帰りに連れて帰りました。

旦那には相談せず、葬式の時、決意したようです。
だから、自分で勝手に考えて連れてきて、旦那と相談していました。
後になってこのことを話してくれたことがあり、旦那に叱られたらどうしようかと思っていたと言います。

連れてこられたのは、田舎で、親戚は勉強に理解がある家は一軒もなく、子どもは義務教育が終わったら、家の仕事の手伝い(農業や漁業)をさせると考えていました。

ところが、私を連れてきた伯母は私を高校に入れたので、親戚からはよく思われていなかったようです。
私が中学二年生の時、旦那様は交通事故で亡くなったので、なおのことよくなかったようです。
さらに、大学までやってしまったので、親戚はおろか近所にもよくなかったようです。

「そんな贅沢させて、そんなことしたら、不良になるぞ」

と囁かれていたようです。

「貧乏人のクセに」

とか陰口を叩かれていたのは、ずいぶん辛かったろうと思います。

問題は「不良になる」という「批判」です。
これは、そんなことをていると、不良になると忠告してくれたのか?

そうではないでしょう。

本音は「不良になって、後悔する・・・そうしたらおもしろい・・・その時はざまあみろ」

と言ってやろうというやっかみなのです。

人の心のいやな一面です。

幸い、奨学金が交付されたので、学費は、高校時代よりかかりませんでした。

伯母は、ある日、私に

「来月から、朝、これを配達しなさい」

と言いました。

朝は7時27分の電車に乗るわけです。

そうすると、少なくとも5時以前には起きなくてはなりません。

私は「何でそんなことしなきゃならないの」と思いましたが、特に反発もせずやりました。

伯母の心理としては「ウチの子はこんなに苦労して学校へ行ってるんですよ。贅沢なんかさせていません」と訴えたかったのだと思いました。

話が長くなりましたが、人が醜いなあと感じるのは、ためになる忠告ではなく「うまくいかないことを願っている」という感情を含んだ言い方です。

この中には「思いやり」というかけらは一つもありません。

私が自身で感じた経験では、子どもは小学校高学年ぐらいからは「よく鍛えてくれる先生がいい」という気持ちを持つようになると思います。
だから「よく叱ってくれる先生」「厳しい先生」というのも、案外人気があります。

しかし「よく怒る」何で怒るのか?先生自身の利益につながることでよく怒る先生は、人気がないようです。そういう感情は表にはあまり出ないようです。

だから、子どもは、先生に不利益なことをすると、先生は怒るのではないかという気持ちを持っていることがあります。

しかし「自分たちのせいで、先生に恥をかかせてしまった」という時、先生が怒ったり叱ったりしないと、子どもは意外に思って、そういうことが重なると「私たちの先生は、私たちのことを思って、叱ってくれるんだ」という気持ちを持つようになり、これが心に響くようです。
先生が怒るなと思った時「ハッハッハッ」と笑ってやったらどうでしょう?

伯母はまさにそのような人であり、そういう意味では、私にとってかけがえのない先生でもありました。

だから、私にとって、私が先生をやる時は、子どものために叱る、厳しく言うというのは、ごく自然なことでした。

伯母もかなり厳しく、あまりほめてくれたことはなかったですが、弁当を開けた時、卵焼きが丁寧に作ってあり、ずいぶん心がこもっているのを感じていました。

批判する相手が子どもでなくても、若い先生に何か言ってやろうと思うなら、厳しくても思いやりが必要だと思います。

それが、けなす言葉の連続ばかりであったり、まして、まだこれから実践することに対して勝手な想像をして、まるで失敗を願っていると取れるような文章は、品性を疑います。

そういう振る舞いだけで、教師としての資質に欠けると思います。

「〜聞いた」という話をもとにする場合もそうです。

「〜聞いた」というのは、あくまで「聞いた」以外にはなく、事実とは違います。
それを、話の途中でいつの間にか事実にすり替えて、展開するのは人格を疑います。


今まで、人を陥れてやろうというつくり話、中傷で傷ついた人がどれほどいるでしょうか?

誰かがこれから、何かを実践しようとしている時、それは成功か失敗かは未知数です。

しかし、悪い方ばかり想像して、ひどい場合はそれをあたかも結果のように断言してしまうというのは「失敗を期待している」というのが本音でしょう。

それは、自分のあせりでもあります。

はからずも、恐れているのであり、自らレベルが低いことを証明しているようなものです。

私はかつて、ピアノ発表会で、演奏後の子どもに感想を言うことを頼まれたことがあります。

「こういうところに気をつけるといいね」とか「でも、こういうところがとてもよかった」と言うように、以後、子どもの励みになるよう考えました。

先輩の先生は、後輩の先生には励みになるような言葉が必要だと思います。

しかし、自分が歳が多いからといって、後輩の先生より上であるとは限りません。
そういう意味では、謙虚さも必要だと思います。

音楽コンクールでも、今や弟子の方がいい成績をとってしまう時代です。

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2012年02月16日

人生に試験範囲はない

kokugo_anki.jpgテキストがあって、試験範囲が発表され、受験者はその範囲をひたすら暗記する。
時にはヤマが当たったとか当たらないとか、いずれにしても、覚えているのはテスト当日まででよい。

覚えていたものの勝ちだ。
だからこれは、何のテストかと言えば「暗記力のテスト」なのだ。

勝負は理解と言うより、こういう問題が出たらこう答えるというパターンを能率的に覚えること

私はここ十年ぐらいの間、資格に関するテストを受けた。
どのテストにも共通していたことは、こういう問題が出たらこう答えるというパターンを覚えること

あるテストは100問を2時間の制限時間でやるというもの。
試験対策をしていかないと、頭の良い人でも時間が足りなくなる。
だから、対策としてはひたすら[問題→答え]という訓練をしていく。

訓練をしていくと、試験当日、だいたい半分ぐらいの問題は「ああ、これね」という感じですぐに答えが書ける。
さっさと答えを書いて、ちょっとひとひねりあるなという問題のために時間をとっておく。
こうしないと、平均すれば一問にかける時間は72秒しかない。

試験には、試験のための特別な訓練が必要だ。
その訓練を効果的に指導してくれる塾がよい塾と言える。

しかし、そんな訓練は一人でもできるものだ。
テキストに参考書、問題集、過去問のコピーといったものは市販されている。
市販のものはよくできている。

私はまっ先に過去問のコピーをやる。
これを試験当日のように、タイマーをセットしてやる。
そして、できなかった問題だけ解説を読む、そして再テストをするという手順でやる。

ごく簡単に手順を説明したが、要するに「こういう問題が出るのだ」ということを知り、この手のものはこう答えなければいけないのだ、ということを知るわけである。

テストに出る分野とか範囲がわかっているので、繰り返せば、どうしたら点が取れるかがわかってくる。
たいていのテストはこれで通用するのだが、そのための練習は、私からすると勉強をやっているという感じはしない
まことに、無味乾燥な訓練である。

こういうテストのための準備は、特に誰から教わらなくても、一人でもできるものである。
それを誰かに頼ろうとするから、かえってテストのための力がつかないという、皮肉な結果が起きてしまうのだ。

学習塾は入試に対する不安を利用して、できてきた隙間産業と言えるが、ひたすら暗記訓練をさせるための指導には、特別な指導力も必要としない。
だから、簡単にアルバイト感覚で務まってしまうと言えるが、問題は大したこともやっていないのにそれが教育だと錯覚してしまう者がいるのも問題である。

まあ、そんな程度の者でも務まると言えるのかも知れない。

塾に行ったからどんな効果があったのかは、きちんと検証してみる必要がある。
文科省の学力テストとの相関は、前回取り上げたが、通塾率の少ない県ほど成績がよいという結果が統計に表れた。
逆に成績がよかったのは、朝食をきちんととっている子どもという結果が出た。
これは、追究してみると、朝食がよいというより、きちんとした生活をしている子どもが、よい成績をとったと考えられる。

ということは、文科省の学力テストの成績を上げるためには、塾は「きちんとした生活をするように指導」した方がよくないか?

ひたすら暗記訓練という世界が、いつ頃からかこれが勉強なのだという印象を子どもに植えつけてしまった。
こういう訓練を経て育った人たちは、感動もなく、ひたすら禁欲的に、暗記しては吐き出すというマシンになるための訓練をして、洗脳されたようなもので、その結果「心を捨てる」ということが身についてしまったのだろう。

来るべき入試に備えて、機械になることを強制されてきたようなものだ。
これでは、勉強が好きになるはずがない。

だから、社会に出ても「言われたことはやるが、言われないことはやらない」と評されるわけである。

命令されたことしかできないのは、まるっきり機械と同じで、その象徴的な例が、自動販売機である。

しかし、これからの社会に欲しい人材というのはそうではない。

それは「試験範囲が発表されない試験のようなもの」で、教わらなかったことに遭遇した時、同対処できるかという能力が求められているのである。

会社では採用しても、仮採用の期間を設けているところがあるが、高校や大学も仮合格の期間を設けたらどうだろう。

半年ぐらい通学させてみて、その後、正式採用にすればよい。
それは、暗記力の試練という、およそ入学後の勉強とは違った儀式の弊害を防ぐためである。

未知との遭遇に対処できる力をつけるには「考える力」をつける必要がある。
そういう意味では「学び合い学習」意義のあるものだと思うが、これから実施にあたって、かつての「ゆとり教育」にあった認識不足にならないように祈るばかりである。

前にも、例として出したが、1+2=12と答える子どもがいた時、それはなぜ間違いかを教えられるひとがどれくらいいるのだろう。

1+1=10はどうだろう?

また、半径×半径×3.14がなぜ円の面積になるのか、説明できる人はどのくらいいるのだろう?

水は100度Cで沸騰するというのを、どう納得させるのだろう。

新しく必要とする学力とは、今まで丸暗記してきて、何の疑問も持たなかったことに、なぜだろう(why)と疑問を持つ発想が必要だと思う。

ノーベル賞学者の江崎玲於奈氏はSONYに在職時、ダイオードのトンネル効果を発見したのだが、それも、それまで単純に当たり前として、頭の中を通過していた現象に、ある時注目したところから研究が始まった。

誰もが、多くの者が当たり前と思っていたことに、なぜと疑問をなげかけるのは、もしかしたら、今まで、できが悪いと思われた子どもかも知れない。

新しく期待される学力は、それを○×という判定だけで通り過ぎていたことを改め、たとえ間違いでも、そこまで考えた筋道を大切にすることである。
その子どもの論理を大切にすることである。

そういえば、私が子どもころ、ゲルマニウムラジオを作ったことがあるが、あるおばさんが電池のことで何か言ったので「電池はいらないです」と言ったら「電池がなくてラジオが鳴るわけがない」とバカにされたことがある。

このように「〜のわけがない」で終わってしまっている人はいないだろうか?



「国語は暗記」で学力日本一が続出

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2012年02月10日

塾通いで本当に成績が上がるか?

舞田敏彦さん(東京学芸大学大学院博士課程修了)が、ブログにて、主に教育に関わる統計を発表してみえます。
それによると、通塾率と成績との相関関係は負とあります。つまり、通塾率の高い県ほど、学力調査の成績が低いとなっています(通塾と学力の相関 )。

これは意外な結果と思いました。
(断っておきますが、私は塾通いに対して賛成でも反対でもありません)

それで、これはどういうことかと考察を読んでみると、成績に関係あるのは「基本的生活習慣」がきちんとしているか否かであるということなのです。

起きるべき時間に起床し、朝食をし、学校に行き、帰宅し、健康的な時間に就寝をするということなのです。

学力(学力テスト)と正の相関にあるのは、朝食摂取率ということで、これは基本的生活習慣と関係が深いことを裏づけています。

一体、どういう子どもが塾へ通っているのかを考えて見ましたが、私がかつて勤務した中学校で吹奏楽部の生徒をみると、通塾している生徒はひとりもいませんでした。

部員は、全校生徒の約1割ほどいました。全校生徒数800人ぐらいで、80人ぐらいいたわけです。
もちろん、塾へ行くななどと言ったことは一度もありません。

小学校では比較的自由に遊ばせておいた親も、中学校になると高校進学のことを考えて、塾通いも考えるのではないかと想像はできます。

しかし、中学校へ入学し生活に慣れてくると、生徒たちは学習塾にはいかず音楽教室に行くようになりました。

これも、私が勧めたわけではありません。
生徒が親に頼んでそうなったものだと思います。

親としては、部活できちんとした生活を指導してもらっているということで、納得していたのだと思います。

私自身は生活指導をしていたつもりはないのですが、アンサンブル(演奏)が上手くなってくると、練習しているところが次第にきれいになっていくという経験をしています。

これは、いろんな学校で頼まれて指導に行った場合も経験しています。
某高校へ行った時は、校長が、賞をもらったことより、子どもが礼儀正しくなったと生活態度のよくなったことを喜んでもらえました。

だから、演奏の上手な学校は練習しているところが、きれいではないかと思うようになりました。

もし、私のそういう考えが正しいのであれば、吹奏楽を指導して見える先生は、練習場所がどうなのか意識して見てみてください。

では、学校全体を見た時、塾通いの生徒はいないのかと言うと、いました。

どういう生徒たちかと言うと、部活動を途中で落伍した者たちです。
サボリが多くクビになったとか、どこかへ所属しなければいけないので、自由に帰れる部へ転部した生徒たちです。

途中で落伍するのは、部活にきちんと出てこない生徒が圧倒的なのです。

こういうことからも、基本的な生活習慣が確立できていないと予想されます。

だから、そういう生徒が塾へ行って「一体、学校は何をやっているんだ」と言われても、それは学校全体をよく見ていないのではないかと思うのです。

「勉強と部活動の両立」というテーマを見たことがありますが、まともに活動している部活なら、そんなことが問題になるとは考えられません。
少なくとも、私のいた学校では、指導の先生が自分の趣味のためだけに部活動をしていたとは考えられませんでした。

親はまず、自分の子どもがまともな生活ができるように、朝食はきちんと作るようにすべきだと思います。

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2012年02月10日

大人の「学び合い」学習

「大人の」だが「子ども」でも同じである。ただ、大人の世界の実例として取り上げた。

そもそも「学び合い(話し合い学習)」は特別新しいことでもなく、人が集まる所では、至るところで「学び合い」があると考えた方がよいと思う。
ただ、今日では「学び合い」に焦点を当てたというだけの話である。

これも、NHKで放送された番組だが、プロフェショナル「仕事の流儀」第173回2012年1月23日放送)「挑まなければ、得られない」IT技術者・及川卓也はずいぶん勉強になった。

これはある会社内のITに関するプログラム開発の模様を追跡したものだが、NHKなので社名は出なかったが、この会社はあの有名なGoogleである。

リーダーは及川卓也氏であるが、自身も優秀なプログラマーだが配下にはGoogle社全体の中でも指折りのプログラマーを従えている。

彼はもっと若い頃には「人に相談するより、自分でやった方が早い」と考え、そういう考えでどんどん仕事をこなしていた。

しかし、ある時点から、グループで話し合うことの重要性に気づき、リーダーはどうあるべきかを考えるようになった。

まず、課題をみんなに提示し、全員から意見を聞くようにした。
しかし、結論を多数決で決めるという方法をとっているわけではない。

必要によってはリーダーとして妥協をしないという強い面を示す。

チーム全体の力を引き出し、かつ目的に対し、ポイントを外さないという高度なリーダーシップを発揮している模様が映し出されていた。

ここに、世界に冠たるGoogle社の強さを見せられた感じがした。

「話し合い学習」というのは、一斉授業で淡々と進める授業のやりかたより、はるかに高度な思考がリーダーに求められる。

学校において、そのリーダーとは教師の役目である。

もし「話し合い学習」とは、問題を子どもに丸投げしてそれでよしとする学習と考える人がいるとしたら、それはかなり低レベルの思考と言わざるを得ない。

同じくNHKには「日曜討論」という番組があるが、政治家をゲストにして今日の政治の課題を取り上げることが多い。

この時の司会は、政治に精通した人が司会をするのであって、そうでなければ司会は務まらない。

ごく簡単な例をあげてみよう。
小学生の算数で、ある子どもが1+2=12とノートに書いていたとしよう。

これをグループで話し合いをさせたら、間違いを指摘する子どもは多いだろう。
学習塾のようなやり方なら、おそらく短時間に1+2=3と教えてしまうのだろうが、1+2=12と考えている子どもにとっては、それなりの思考があるのであって、そういう子どもの思考を根本から覆すだけの論理が説明できるだろうか?

もちろん、1+2=12は誤りであるが、そう考えた子どもには、その子どもの論理があり、そういうことを大切にするところに「話し合い学習」のよさがある。

こういうことを大切にしないと「何でも言える」という空気はできないし、ただ点数が悪いと頭が悪いとバカにされるというコンプレックスを助長しかねない。そして、それは暗記学習の方向に行ってしまうだろう。

しかし、1+2=12の考えを尊重することにより、今までできていた子どもも、より理解を深めることができ、応用力が高まり、ここに学ぶ力ついてくると思われる。

私はこれこそ学力と思うのである。

未知の課題に対して、対処できる力こそ学力の名に値すると思う。

「話し合い学習」は教師の我慢が必要

私の経験で言うと、成績のいい子どもこそ、自力で問題を解こうとする傾向が強いと思う。
(だから、頭がよくなるとも言える)

例えば、この子どもには難問と思う問題を出すと、当然、子どもは答えを出すのに難航する。
それで、もうダメだろうと思って、答えを言おうとすると

「ちょっと待って、まだ言っちゃダメだよ」

と言う。

結局、自力で解決できなくて、答えを言われると非常に残念だと言う顔をする。

子どもは、答えを知ることが嬉しいのではなく、自分であれこれ考えることを楽しんでおり、その過程で思考力がレベルアップしていくような気がする。

天才数学者ガウスが10歳の時、先生はその日片づけなければならない仕事があったので、教師に入ってくると、自習をさせようと黒板に1+2+3+・・・・・+100を計算しなさいという問題を出して、机に向かった。
先生は、子どもたちが一生懸命取り組んでいる様子を見て、しめしめと思い仕事をしようとした時

「できました」

と叫んだ子どもがいたので、先生は「何をバカな」とやや怒りを込めて見たら、ガウスが手をあげていた。
先生は、そんなはずはないと思いながら、ガウスのノートを見たら、5050と書いてあった。

「どうしてやった」

と言うと、ガウスは1+2+3+・・・・・100をもうひとつ、反対から書いて100+99+98+・・・・・+1と並べて、それぞれ上下を足すと、101になるので、これが100個で10100になります。
その半分なので5050になるのですと説明した。

先生は驚いて、この子はどういう子だと思ったらしい。
それで、みんなと同じでは退屈するだろうと思って、特別に先生を紹介してやったら、そこでも次々と驚くことをやったので、先生は進学させたいと考えた。

それで、親のもとへ行くと、親は職人で「ウチに学問はいらねえだ」という態度で、頑として先生の言うことを聞かなかったという。

先生はすごすごと帰ったが、どうしてもあきらめきれなかったので、かなり頻繁に家庭訪問をしたらしい。
すると、親はとうとう参ったという感じで「先生の好きなようにしてください」と言ったという。

そして、ガウスは進学し、後に歴史に残る天才数学者ガウスが誕生したのである。

ガウスは天才だったとしても、今日、学校にこういう環境はあるだろうか?
ひたすら、点数ばかり追いかける活動では、素質のある子どもも埋もれてしまうのではないか。

暗記学習を再考する必要がある

私は暗記力を否定するものではない。
言いたいのは、暗記ばかりを追いかけて、それが何になるということである。

ビタミンAは大切だが、だからと言って、ビタミンAばかりとっていていいのかということである。

円の面積を求めるには、半径×半径×3.14を覚えていればよい。
しかし、それが勉強か?と言いたい。

誰かが「何でそうなるの?」と言ったら、どう説明するのか?

子どもの中には、ちょっと変わった思考をする子どももいる。

有名なニュートンは「りんご」で有名だが、りんごの落ちるのを見て不思議と思う子どもは普通とは違った思考の持ち主である。

そういうような子どもの考えを大切にすることが「話し合い学習」には適しているし、今、企業で「独創的な発想」を生み出す力が重要視されていることにも通じるところがある。

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posted by edlwiss at 18:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年02月10日

テストのための勉強なんて勉強じゃない

いとこが大学入試に際して、相談に来たことがあった。
私は徹底して点を取ることを考えるやり方を話した。

そうしたら、彼は「そんなの本当の勉強じゃない」と半ば怒りを込めて言った。
私は

「そんなことわかりきっている」

と返した。

そして

「お前がその大学に入りたいのなら、その大学が入れてくれる方法を採らなければダメだ。それには点を取らなければダメだ」

と話した。

始めは納得しがたいという表情のいとこだったが、次第に私の言うことがわかってきたようだった。

いつの頃からか世の中は、テストのための勉強が勉強だと子どもに思わせるようになった。
それで、そういうものが勉強だと子どもたちは錯覚するようになり、勉強嫌いを増やすことになったんではないかと思う。

楽しいことは勉強ではないと印象づけているんではないかと思う。

テストのための勉強って何がいいのか?
点数がアップして、成績が良くなる?それが嬉しい?

少なくとも、私はそんなことには興味がなかった。

今の子どもたちはどうなんだろう?

そりゃあ、成績は低いより高いほうがいいと言う子どもは多いと予想されるが、子どもの心を揺さぶるほどの感動があるのか?

話を少し転換して考えてみよう。

お金がたまるのは嬉しいだろうが、せっせと貯めた金がある日突然紙くずになったらどうだろう?
ショックを受けるに違いない。

入試なんてそんなものだ。

私たちは、いつ紙くずになるかも知れない札束が欲しいのではなく、肉や野菜、米、家、車といったモノが欲しいのではないか?

試験のための勉強じゃなくて、高校や大学へ行きたいのではないか?

試験にできなければ高校や大学に入れないじゃないか、という人がいるかも知れない。

それは、ある意味、真実と言えるが、それでは高校や大学へ入れたらそれでよいのか?と考えてみて欲しい。

というのは、高校へ進学したものの中退している子どもはかなりの数になります。
中退した理由は、平成21年度調査では(中退者総数56、948人)

1.高校の生活があわなかったから(49.4%)
2.人間関係がうまく保てなかったから(23.2%)
3.高校の勉強が嫌いだったから(20.8%)

となっています。

高校の生活が合わないと高校の勉強が嫌いを合わせると、約7割になります。

これは、中学時代に、入試を突破したら、その先に何があるかという指導や情報が足りないとは言えないでしょうか?

何か夢を描いて入学したものの「こんなはずじゃなかった」という思いの生徒が多いのではないかと思います。

これは誰のための受験指導かを考えてみる必要があると思うのです。

中学生時代というのは、精神的にも不安定な時期で、大人への脱皮で子どもは格闘している時期とも言えます。

daigakudeteinai.jpg
当然のことを指導しようととしても、反発してくることもあります。
例えば、私の経験の一つを話します。

給食の当番を要領よくサボる女子がいました。
一応、やるように見せかけて、実質ほとんど何もやっていませんでした。
責任感のある生徒だけが、まじめにやっているという状況でした。

だから、クラスとしては支障はなかったのですが、これはよくないと私は思ったので、注意をしました。
そうしたら、素直に聞かないでふてくされていました。

私はこの生徒からは嫌われたと思いました。
でも、そういうことを許してはよくないと思い、強く指導しました。
これは1年生の時でしたが、その後は私が担任として受け持つことはなかったですが、その生徒が3年の時、グランドで、少し離れた所で見た時、こちらを見てニコニコしていました。
そして、近くの友達に「いい先生」と言っている声が聞こえてきました。

これは何でしょう?

私が給食当番のことで注意した時は、ふてくされてはいましたが、心の中では、自分が悪いということはわかっていたと思うのです。
しかし、素直になれない自分と彼女は葛藤していたと思います。

自分が悪い時には注意してくれる人がいいという気持ちは、中学生の多くから感じます。

それを勘違いして、変にものわかりのいい先生は、表面上は事なきを得ますが、内面では中学生の心には響いていないと思うのです。

中学生は1年から3年までのわずかな間にずいぶん成長します。

自分で葛藤を繰り返し、もうひとりの自分と現実の自分が一致するように努力しているのだと思います。
簡単に言えば自己実現と言えるのかも知れません。

自己実現に向かって努力する時に、援助してくれる人が大切なのだと思います。

大人が大人でなくなった

みんなとは言いませんが、大人もスケールの大きな人が少なくなってきたと感じます。
そして、自分の立場だけで、モノを言う人が増えてきたと思います

自分の立場でなく、無知の人もいます。

そんなわがままをさせたら、将来、子どものためにはよくないと思うことをさせている親は無知と言えるでしょう。

そんな親の中には、学校の先生にわが子が叱られると、文句を言ってくる人がいます。
その言い分が傑作ですが「おれたちが税金を払っているので、お前たちは給料がもらえているんだろう?その子どもをどうして叱るんだ」というわけです。

こんなことは、当然、子どもにとってはよくないことです。

だから、本当に子どものためを思ったら、先生はこんなことに負けてはいけません。

受験指導はどうですか?
本当に子どものためやっていますか?

将来はどうであろうと、点数をアップさせ、入試を突破させればいいという考えだけということはないでしょうか?

子どもは、世の中のことはまだよくわかりません。だから、大人たちが真剣になると、心はついていけないのに、従っていくということもあります。

受験指導の仕事が収入に繋がる人は、ひたすら、自分の立場で、なぜ子どもがやる気を出さないのだろうと言うことに無関心ということはないでしょうか?

そして、ひたすらムチ打つということしか考えていない、ということはないでしょうか?

人間は家畜ではありません。だから、ムチで何とかなるものではありません。

これも、実際にあったことですが、入試の当日、受験校の高校から電話がかかってきたことがあります。

「A君はどういう子ですか?}

何の電話かと思ったら、A君は答案に解答は書かず、スポーツカーの絵を描いて帰ってきたのです。

理由は親への反発でした。

大人は目先のこと、自己の利益に夢中になるのではなく、もっと子どもに夢のある話をすべきです。
もちろん、夢に終わっていいということはありません。
夢を実現する方法を語ってやる必要があります。

「君は野球が好きなんだなあ」

「ハイ」

「ずっと野球がやりたいのか?」

「ハイ」

「だったら、S高校なんかいいんじゃないか?イチローがいた高校だぞ」

「そんなところへ行けたらいいんですが」

「だったら、まず入試は突破しなきゃいかんな。まあ、どんなやり方でもその時、点がとれたらいいんだけどな」

このぐらいの話はしてやったらどうかと思います。

子どもの指導には教師の行動・生活の仕方が大切だとということを、学力の問題のところで述べました。

成長期にあって、子どもが規範としているのは先生であると言われているわけです。

中学生ならば「この先生は、どういう人生を歩んできたのだろう?そして、今はどういう生活をしているのだろう」と考えているわけです。

子どもをけしかける前に、指導者たる先生は、自分の生き方を振り返ってみる必要もあります。

子どもに希望を持たせることのできる先生でありたい

テストの点数は気になりますが、子どもの心に訴えるにはインパクトが弱いと思います。

吹奏楽部に入ってきた、K君は、小学生の時ニニ・ロッソのトランペットを聴いて感動し、プロになりたいと強く思うようになったと言います。

それを聞いて、彼の気持ちを大切にしようと思いました。
それで、楽器を決める時は、プロのオーケストラの人に来て決めてもらいました。

ところが、適正としてトランペットではなくて、トロンボーンがいいということになってしまいました。
がっかりしたK君は親に話しました。

家族会議をした結果、トランペットをやらせてもらえる学校へ転校しようかという話をしたということです。

そんなことは後で私は知りましたが、数ヶ月ぐらいで、彼は頭角を現し出しました。
上達がすばらしく、これは私が教えていてはいけないと思い、先生を紹介しました。

そうしたら、中学生なのに、音大を受ける高校生たちより上手くなってしまったのです。

彼は、自宅で夜中の3時半ぐらいまで練習していることがあり、私は練習を止めたことがあります。

それでいて彼は、中学校の成績はいつも一番でした。
卒業式は彼が答辞を読みました。

何がいいたいかと言うと、彼はプロになりたいために、学校の勉強をものともせずこなしていったということです。

その彼のエネルギーの出所は、小学生の時に聴いたニニ・ロッソのトランペットだったのです。

それを支えたのは親でしたが、教師としての私もそれを邪魔しないで、夢を実現してやるように配慮したわけです。

彼は現在、プロの指揮者をやっています。
彼が学力をつけていったのは何によるものでしょう?もう答えはわかるはずです。

今回は、思いつくままを書いて、まとまりのない文章になってしまいました。
それでも、読んでいただいた方には感謝をします。
ありがとうございました。

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posted by edlwiss at 15:47 | Comment(7) | TrackBack(0) | 教育研究

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