2012年03月31日

頭のおかしい人の、頭のおかしさ〜汚職をすすめる教師

osyoku.jpg
 教師のコンピテンシーのほか,「指導力のある教師」だけでなく,「指導力のない教師」の事例はたくさんこのブログで紹介してきていますから,お読みいただくしかないのですが,ここではあらためて,


【疑問】
1.「指導力とは何か」については何も明らかにされていない。
主観的に、勝手に指導力がないと言っているだけ。
指導力とは「何に対する指導力」なのか?
たとえば、学習指導なのか、生活指導なのか、水泳指導なのか、朗読の指導なのか、人格形成のための指導なのか・・・不明。
また、それらの指導に対して「何を判定根拠」として「指導力不足」と判定したのか?
さらに、その判定者は誰なのか?

例えば「指導力のない教師は・・・」と言うだけでは、指導力そのものについて説明しているとは言えない。

おかしいのは「指導力」という言葉を持ち出すと、それだけで「指導力」とは何かを説明したと思ってしまっていること。

「指導力のない教師」と「コネで教員になれた指導力のある教師」とどちらがいいか,考えていただきたいと思います。


公立学校の教員採用について言うと、コネで採用された教員というのは、不正合格です

かつて、大分県で教育の不祥事が明るみに出た時、コネ採用を疑われた教員は何人か採用取り消しになりました。

この国は法治国家です。不正(法律違反)を正当化することはできません。常識です。

そもそも「指導力」と「コネ」を同じ土俵で語ることがおかしい

「コネ」に関していやらしいイメージしか持っていない人には,次のようなケースも考えてみてください。


少なくとも、私は「コネ」そのものについて、いやらしいイメージは持っていない。
問題になるのは「コネの使い方」です。
採用試験に欠点があるからと言って、コネを利用して採用試験を無視しての採用は法律違反です。

制度に欠陥があるから、法律を無視していいということはありません。
だいたい、欠陥のない制度(採用試験)があるのでしょうか?

欠陥があるからといって、法律を無視してもよいということになったら、あらゆる法律は無視できるでしょう。
そうしたら、国会そのものの意味もなくなってしまう。

あなたは何の先生ですか?
まさか社会科の先生じゃないでしょうね。
社会科の先生は「公民」を教えますからね。
いや、社会科の先生でなくても、何の教科の先生でも常識として、周知のことでなければなりません。

そんなバカなことを言っている人が、採用する側としていたとしたら、教育は崩壊です。

金銭も同様。金銭そのものは何も悪くないが、使い方で悪くもなる。このように「そのもの」の善悪(価値)と行為の善悪の区別ができていないところがおかしい

 大きな手術をするのに,どんなに評判が悪い病院でも,免許をもっているのだから,医師はだれでもいい,と思うか,信頼できる人から紹介された医師を選ぶか。
 どうですか。

 
ここにも「あたまのおかしい状態」がよく表れている。
医者の選択は(1)資格がある(2)腕がいいの両方で選ぶ。これは一般人の常識。
医者なら誰でもいいと思っている人は、常識的に考えていないだろう。
看板を掲げている以上、これも常識で資格を持っていると人は考えるだろう。
つまり、無意識のうちに人は(1)の選択をしている。そして、そのうちから(2)を選ぶ。
二者択一ということはない。

この人の、頭のおかしさはandとorを思考の中で使い分けられないことだ。
or(どちらか)で考えるべきでないことを、どちらかにしてしまう。
思考の発達が不全なのだろう。

人に食事を出すとき「ごはんとおかずの、どちらにしますか?」って聞くだろうか?

現行の採用試験が,必ずしもよい人物を選抜できていないこと。
 つまり,現行の採用試験で選ばれた教師の中に,極度の指導力不足や犯罪行為に走るような人物がいること。

 
この人の地域では「極度の指導力不足や犯罪行為に走るような人物がいる」とわかっていても採用するのか?

もう一つは,学校現場は,本当に指導力のある教師を強く求めていること。


【疑問】
1.そのための採用試験じゃないのか?

このことから,極論ですが,コネがある=信頼できる人物のお墨付きがある人物で,そのことがあるいは合否に有利に働いて,採用試験に受かり,期待どおりに指導力を発揮する人物の方が,「ミスチョイス」した人物よりも子どものためにはなるだろう,という考え方が生まれているのです。


【疑問】
1.どこに、そんな疑問が生まれているのだ?

「それはおかしいぞ」という意見があるのは当然,わかりますよ。
しかし,「採用試験を通っているのだから・・・」という言葉に何の説得力もないことは,教師はともかく,子どもを学校に通わせたことがある親なら,わかることでしょう。


【疑問】
1.そんな説得力のない採用試験をなぜやるのか?
2.「親ならわかる」って根拠はどこにあるのか?

現実問題として,教員採用試験で「教員として適切な仕事がこなせるとは考えにくい人」が合格しており,その見直しは「大量採用の時代」を迎えるにあたって,絶対に欠かせないことなのです。


【疑問】
1.「『教員として適切な仕事がこなせるとは考えにくい人』が合格しており」とは誰の判断なのか?
2.「見直し」とは誰の考えか?

採用試験への合否を左右するものが何であるか,dolceさんはわかっていません。
それは,dolceさんが一番嫌っているものなのですね。


【疑問】
1.「わかっていません」の根拠は?(他人の頭の中がわかる超能力を持っているのか?)

要は,ペーパーテストができること,これでまずはじかれてしまう「優秀な人材」がたくさんいる。

【疑問】
1.それは如何なる根拠から言えるのか?

これは,とても多くの非常勤講師の先生に接してきた私は,はっきりと断言できます。


【疑問】
1.勝手に断言するのは勝手だが、あなたのその判断に「普遍性」があるのか?

「早く合格してほしいな」という人がたくさんいます。


【疑問】
1.それは、あなたの勝手な願望ではないのか?
2.合格して欲しいと思うのは、人によって判断が違うのではないか?
(あなたが合格して欲しいと思っても、他の人から見たら違うかも知れない)

そして現場の学校内を見れば,「こんな人でも受かっているのに」という教員がいる。大量採用の時代の人がすべてとは言いません。


【疑問】
1.何ですか、この国語は?
こんなレベルで教員は務まるのですか?

教員採用のあり方,そして,現職教員の指導力不足の問題,これに対する多面的な解決方法として,現場でかなりの経験と実績を積んでいる人物,あるいは特定の分野で非常に大きな功績を残した人物などを,積極的に登用するような採用のあり方を,民間人登用と同じように進めてほしいという願いがあるのです。


【疑問】
1.そういう「願い」と「コネ採用」とどういう関係があるのですか?

「仕事のできる人」であるかどうかは別として,


【疑問】
1.教員の採用は「教員としての仕事のできる人」を求めるのではないのか?

私は「裏方」に甘んじている,力もあれば,情熱もある,そういう非常勤講師を知っているのです。


【疑問】
1.それと「コネ採用」とどういう関係があるのですか?

>指導力があり、かつ教師としてふさわしい人が漏れてしまうような試験はおかしい。
>そんなおかしな試験をやっているのだろうか? といって,教員採用試験の内容も,倍率も,何もわかっていない人が,簡単に教師になれた時代ではないのです。


【疑問】
1.「何もわかっていない」という根拠は?
(他人の頭の中がわかる超能力があるのですか?)
2.また、それらのことと「コネ採用」と何の関係があるのですか?

ご自分がさんざん記してきた「テスト」についてのあれこれが,単に人を非難するためだけのものだったことが,こういう場面で露呈してしまうのですね。


【疑問】
1.「露呈してしまう」とは、具体的に何を指しているのか?
2.「テストについてのあれこれ」とは何のことか?
3.その「テストのあれこれ」と「人を非難すること」と、どのような因果関係があるのか?

【まとめ】

教員採用において、コネの力が働いたことが明らかになれば刑事事件です。
採用後に判明したとしても、採用取り消しの対象になります。

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posted by edlwiss at 22:03 | Comment(7) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年03月30日

仕事のできる人は裏方を知っている(3)

今回は、教師の裏方について考えてみよう。

■頭のおかしな人は仕事ができない

あたりまえのことだが、頭のおかしな人が組織にの中にいると、組織全体が迷惑をしてしまう。

それでは、頭のおかしな人とは、どんな人だろうか?

民法で言う「制限行為能力者」は自身が法律行為を制限されているので、問題はないが、困るのは、普通の人と同じ生活をしていて、時におかしな行為、発言をする人である。


■仕事のできない人は、肝心なところが抽象的である

往々にして、頭のおかしい人にそういう傾向がある。

具体例を挙げると、かつて、この教育関係のブログにもあった。

信じられない発言だったので、よく覚えている。それは

採用試験に合格して、指導力のない教師より、コネで入って指導力のある教師のほうがいい

というものだった。

普通に思考ができる人、常識のある人なら、この発言のおかしさはすぐわかるはずである。

念のために解説しておこう。

一番のキーワードは「指導力」である。

指導力という言葉は抽象的である。

だから、指導力があるかないかを判定するには、何をもって指導力があるとするのか、具体的に判別項目を設定しなければならない。

教員採用試験というのは、何のための試験かというと、教師としてふさわしい人を採用するための試験である。だから、何をもって選別するかは具体的に判定基準を持って行なっているはずである。

教師としてふさわしい人とは、指導力があり、その他の面も含めて、教師としてふさわしい人を選ぶ試験である。

「コネで入って指導力のある人」ってどんな人だろう?

指導力があるのなら、コネで入らずとも、堂々と採用試験を受けて入ればよいではないか。

指導力があり、かつ教師としてふさわしい人が漏れてしまうような試験はおかしい。
そんなおかしな試験をやっているのだろうか?

もし、採用に関係する側の人間が、このような「コネ発言」をしているとしたら大問題である。

頭がおかしいと言わないで、何と言えるのか?

さらにおかしいことに、このコネ発言をしている人物を尊敬していると言う者もいる。
類は友を呼ぶというから、これもおかしいのだろう。

採用試験とは何か、指導力とは何かを分析して考えたことがないか、考える力がないから、こういう狂った発言をすることになる。

思考の土台が狂っているから、あとは何を発言しても信用がない。

教育に携わる人間が、こういうバカなことを言うから、学校教育が軽く見られる。
「教師になる人間は、頭が悪いのだ」と言われてしまう。

デモシカ先生と酷評される。

■学校の教師が嫌われる原因をよく考えよう

人は間違いをする。
しかし、間違い以上によくないのは、間違いを改めないことである。

bakanohito.jpg教師が一番嫌われる原因は「言い出したことを訂正しない」ということである。

もちろん、これは「誤りを正さない」ということである。

間違いが明らかなのに、何かと屁理屈をつけたり詭弁を弄して切り抜けようとする。

「先生は尊敬できるか」という調査があった。

諸外国では75%〜80%ぐらいの子どもが尊敬できると答えたのに対し、日本は20%ぐらいしか、尊敬できると子どもは答えなかった。

私は尊敬できる先生をたくさん知っている。
そういう先生たちに申し訳ない気がする。

「採用試験に受かった指導力のない教師より、コネで採用された指導力のある教師の方がいい」

との発言者は、訂正できているか?

それとも、指導力のあるかないかは「オレが審査する」とのおごりがあるのか?

だったら、指導力のある教師とはどういう教師なのか説明していただきたい。

ちなみに、発言したあなたは指導力があるのか?
どのくらいの子どもたちに尊敬されているのか?

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posted by edlwiss at 20:28 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年03月29日

仕事のできる人は裏方を知っている(2)

裏方は土壌である

良い作物は良い土壌からできる。
だから、作物づくりは土壌づくりとも言われる。

私は田舎の道を通って通学した。
途中で何人もの、農作業をしている人を見た。

いつも頭の下がる思いだった。
なぜなら、私は大根1本作れない。しかし、これらの人たちのおかげで、作物を手に入れることができる。

帰宅した玄関に、野菜が置いてあることもしばしばだった。
母子家庭のわが家に、野菜とともに暖かいものをいただいた。

そういう人の心に育まれてきたことに、振り返るたびに感謝する。

毎日黙々と、土や作物の手入れをする人たち、無口な人が多い。
でも、作物を育てるには何をしたらよいかがわかっている。

偉そうな講釈も言わない。ひたすら、すべきことをするだけである。

よい土壌づくりをすれば、作物は育ってくれる。

教育も同じような気がする。

偉そうに講釈するだけでは、人は育たない。

空想や妄想するより土づくり(環境づくり)である。

それには具体的に何をすべきか知って、それを実践しなければならない

時間にルーズな人に仕事はできない

今日も依頼コンサートがあった。
打ち合わせでは、どういう曲を何分でやるということを決めておく。
講演会のアトラクションであるから、予定時間に開始し、予定通り終わらなければならない。
そうしないと、あとの講師の講演時間に支障が出る。

人と関わりを持って仕事をしていく以上、自分の仕事がスケジュールにぴったりはまることが大切である。

講師も同様である。
一時間半という講演時間を約束したら、その時間にぴったり終わらなければならない。

そういう計画に乗らない人は、仕事を頼まれない。

仕事を頼まれないから世事にも疎くなり、空想ばかり言うようになる。

吹奏楽コンクールに出ている人は、課題曲と自由曲を合わせて12分以内という制限時間のあることを知っている(全日本吹奏楽連盟主催)。
12分を超えると、失格となり審査の対象にもならない。

春休みも夏休みも毎日のように練習をして、失格となったら、ただ残念だけでは済まされない。
それまでの、練習、苦労は何なのかということになる。

ところが、この失格がけっこうある。

私が知っている失格した団体のうち、最も短い時間オーバーは2秒だった。

コンクールの場では、時間係が2人ストップウォッチ持って測っている。

もう曲が終わりだなと思うとき、規定の12時間に近づいてくると、時間係はずいぶん緊張するらしい。

2人が時間を照合し、時間オーバーだと確認すると、本部に連絡する。
本部が確認すると、その団体の代表者を呼び、失格であることを伝える。

伝えられた、団体の生徒の落胆ぶりはいかほどであろう。
かわいそうで、想像すらできない。

実は、かつて私が指導した中学校も、前年に6秒オーバーで失格していた。

私が赴任してから、その時の話題が時々、生徒たちの間から出た。

総じた感想は「6秒ぐらいのことで何だ」という連盟への反発だった。

時間オーバー失格というのは、指揮者の責任だと私は思っている。

だから、日頃からそのことも含めて指導しなければならないと思う。

では、どんな指導をするのか?

規定時間の12分は、課題曲開始から自由曲の最後の音までだから、注意しなければならないのは、課題曲が終わって自由曲を開始する間の時間だ。

課題曲の演奏時間と自由曲の演奏時間を足して、12分以上というのは問題外。
はじめから、そんな選曲をしてはいけない。

失格する原因の一つに、課題曲が終わったあとティンパニが音を合わせていて遅れるというものがある。

「仕事のできる人」の仕事の出来栄えはともかく、実践者であればこういう「裏方」をよく知っている。

指揮者(先生)に責任はあるが、時間の厳格さについては、日頃から生徒によく指導して置く必要がある。

それも「言うだけ」ではダメである。

身につけさせる必要がある。

「6秒ぐらい、いいじゃないか」という感覚がよくないのである。

時間を守るということを、しつけとして子どもに身につけさせることは、子どもが将来何の仕事をするにしても、信頼の要素になると思うのである。

遅刻は習慣化する

私がボランティアの代表をしているとき、会合に30分ぐらい必ず遅れてくる人がいた。

この人は、月一回の会合を1年間、全て遅刻してきた。

なぜ遅刻してくるのか、それはやむを得ない事情があるのではなく、そういう習慣が身についてしまっているのである。

大人の会合だと、そういう遅刻者にも気を使う人がいるが、私はそうしなかった。

その遅刻してきた人は、遅刻したにもかかわらず、席についてから「今までどういう話し合いをしてのか、説明してください」と言うのだ。

私は「遅れたきた人に説明しません」ときっぱり言った。

この団体の悪い習慣として、みんなが大体集まったから話し合いをしましょうということが続いていた。

sigotonoruru.jpgそして、終わりもいつ終わるかわからないような話し合いだった。

こういうことを続けると、参加する人は「予定」が立たない。

仕事が出来る人、いわゆる間に合う人は1日のスケジュールがある。
そうすると、いつ始まっていつ終わるのか、ということがきちんとしていないと、参加しにくい。

裏を返せば、こういうことが続くと、時間の観念のない人、つまり仕事のできない人の、非生産的な人の集合になってしまう。

だから、予定は大切である。きちんと始めてきちんと終わることが大切である。

時間にだらしない人は、仕事のできない人か、引退者か、あてにならないので外されている人である。

往々にして、この外されている人が講釈だけいってうるさいということがある。

肝心の行事の時も、手伝わない。いや、何をしたらいいのかわからないので、手伝えないのかも知れない。

黙々と土壌を作る農家の人を見習ってほしい。

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posted by edlwiss at 22:25 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年03月28日

仕事のできる人は裏方を知っている(1)

間もなく、プロ野球が開幕する。
素晴らしいプロの選手たちの、華やかなプレーも裏方あってこそである。

選手たちがベストコンディションで活躍できるために、目立たないところで多くの人たちが働いている。

仕事はプロのアマを問わず、裏方の支えが大切である。

インターネットは様々な人が登場する。

加入者が加速度的に増えているFACEBOOKでは実名登録となっているので、ハッタリは書きにくいし、マナーがよく守られている。

これに対し、匿名が可能な掲示板やブログ、SNSでは自分の正体がわからない(わかりにくい)せいか、誹謗中傷めいたものから、インチキ投稿が多い。

かつて、自分は音楽のプロデューサーでCD制作を行なっていると称し、ハッタリ投稿をしている者がいた。この人を仮にX氏としよう。

その掲示板は音楽の話題で賑わっていたところだが、X氏は音楽プロデューサーに憧れていたのになれなかったのか、匿名の掲示板でなりすましをしようとしていたらしい。

音楽の話題の掲示板なら、有名なアーティストの名前を出し、また、知り合いであるというような投稿をすれば、なりすましが可能と思ったのだろう。

urakata.jpg
X氏の始めの投稿は

「とにかく、プロは凄い、お前たちなんか話しにならない」

というものだった。

笑えるのは、投稿者はみな匿名なので、誰が読んでいるかもわからないのに、X氏は相手がみな勝手に、アマチュアと想像して投稿したらしい。

X氏は匿名掲示板を通じて、憧れのプロになりたかったらしい。

ネットでは、このように、ウソが溢れている。

X氏がプロではないということは、すぐにバレてしまった。

それは、音楽プロデューサーであれば、スタジオで使っているマイクやモニターを知っているはずである。
これらは、定番のものがある。

それを聞かれても答えられない。

X氏が答えるのは「プロは凄い、お前たちとは違うんだ」しかない。

音楽制作を支えているもの、つまり裏方の質問に対し、何も答えられない。

どんな仕事にも、それらを支えている裏方があり、そこに目を向けてみると、まるきりハッタリとまでいかなくても、その人がどれほど仕事ができる人なのか見当はつけやすい。

これは、教育の世界においても同様である。

つい表舞台だけに目が行きがちだが、裏方の部分に目を向けてみると、どれほどの人かは見当がつくというものである。

ハッタリの人に共通な話は「抽象的」な語りが多い(「プロは凄い」程度のことしか言えない)。
抽象的な話しかできない人は、実践がないと言える。

なぜなら、実践者であれば、その実践を支える裏方の部分を答えられるはずだからである。

参考になる話というのは、派手な表の部分より表を支える裏(裏方)の部分にある場合が多い。

ということで、大いに、裏方に注目してみよう。

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posted by edlwiss at 23:59 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年03月26日

個人も団体も大切

私は毎月のように演奏会がある。
今月は3回で、まだ1回残っている。

演奏の形態はほとんどソロであるが、時にアンサンブルもある。

このところ、大所帯の吹奏楽やオーケストラでの活動はない。

先日はスーパーなどの店が集まった、○○タウンと言う商店街の中に設けられたステージでの演奏。

これは、時々依頼がある。

数人が交代でソロを演奏するが、最後に全員でという希望があるので、全員が演奏できる楽譜を作らねばならない。

わざわざ作曲をするのではなく、編曲をするのだが、毎回のように参加する人が違うので、参加者のパート(楽器)を聞いて、それぞれの楽器が活躍するように編曲するわけである。

わかりやすく言えば、一曲演奏する中でどの楽器にも華を持たせるということ。

演奏者が一応、音大卒ということであれば、楽器の機能、音域を考えて編曲すればよいが、知らない人やアマチュアの場合、技量がわからないので、前もって会って話を聞いたり演奏を聴いて、どの程度の難易で書くべきか判断する。

なぜ、こんなことを書くかと言うと、私は音楽に携わることで、教育に共通することを見出してきたからである。

みんなで何かをやるという時、リーダーは各人がみな生きるように配慮しなければならない。
人はみな違うので、それぞれ得意分野も違う。

kojin_syakai.jpg個性があるということである。

誰か「個性は持つべきか、持たざるべきか」と言った人がいる。

これは、頭がおかしいのではないかと思う。
個性を持つか持たないかを、自分の意志で決められるものではない。

みんな顔の違うのも個性である。

自分の意志で、自分の顔を作って生まれてくる人はない。

楽器もそれぞれ個性的である。また、それぞれの楽器の得意とするところ、不得意なところがある。

個性的なものを合わせるのは難しい。

反対に同種の楽器は合わせやすい。

例えば、弦楽器同士。

弦楽四重奏は融け合いがいいので、これに魅力を感じた大作曲家の曲が多い。
作曲家が円熟期に書いた作品も多いので、ただでもクラシックを敬遠する人にとっては、さらに難解だろう。

しかし、異種の楽器の集まりも魅力がある。例えば、木管五重奏。

フルート、オーボエ、クラリネット、バスーン、ホルンとみな違う楽器の集まりである。
それだけに、アンサンブルは難しいが、カラフルで魅力的という面がある。

歴史的に、このスタイルは大作曲家に支持され、いい曲がたくさんある。

しかし、各人の技量が低いとバラバラになって、とてもアンサンブルではなくなる。

昔、ある中学校がこの木管五重奏で出場したら「中学生が木管アンサンブルをやるべきではない」と言った審査員がいた。

それだけ、難しいということだが、私はそうは思わない。
今日では、中学生そのものの素質も高いし、指導次第で立派な演奏もできる。

スポーツでも中高生が活躍しているように、音楽の世界でも、あまり子ども扱いをしないほうがよいと思う。

ホルンだって、昔は「親子三代経たないと、一人前のホルン奏者は育たない」という言葉があったが、今はそういう時代ではないと思う。

ところで、楽器が違うと何で難しいの?
という人もいるかも知れない。

みんな、指使いを間違えないで演奏すれば合うんでしょう?

という人もいるかも知れない。

これを音楽の先生に説明するのは、まさに釈迦に説法だが、指使いを正しくしても音が合うとは限らない。

これは、Aという人間とBという人間に同じことを命じても、それぞれの結果が同じになるとは限らないということに似ている。

つまり、二人以上が同じことをするには、お互いの自己主張が強くては合わないということ。互いに譲り合うという気持ちが大切だということだ。

この譲り合い、他人に配慮するということは一人では学べない。
人数が多くなればなるほど、協調精神は大切になるのだ。

しかし、複数で何かをやるということは、反面、個性を殺すということにもなる。

だから、個人で演奏するということも大切なのだ。

これは集団でなければモノが言えないから脱して、一人でもモノは言えることの大切さに通ずる。

ということで、個人も集団も大切と言いたいのである。

どちらか一方にしか賛成しない人は、CPUが1ビットではないか?

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posted by edlwiss at 22:31 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年03月25日

世間知らずと言われる感覚

ryorinozyosiki.jpg「世間知らず」という言葉にとらわれると、ものごとをどれほど知っているかという、知識の面を考えてしまうように思います。

では、知識が多ければ世間知らずと言われないのかというと、そうとも思えません。

それは、前述した姿勢に関わってくることでもありますが、最も世間知らずと皮肉を込めて言われるような時は、知らないのに知っているように感じられる場合ではないかと思うのです。

本人は、まるで全てのことを知っているような口ぶりで話すことがある。

だいたい、知識のある人は、あまり断定的な言い方をしないように思います。

それは、ソクラテスの「無知の知」にも通ずるところがありますが、ものごとは勉強すれば勉強するほど、謎が深まってくるし、自分の知識や思考力のなさを感じるようになると思うのです。

そうすると、人は自ずと謙虚になるような気もします。

最近は中高生ぐらいの若い人の活躍が目立ちます。

スキーのジャンプで優勝した高梨沙羅さんも、中学生です。

世界大会で優勝しているのです。

世界大会で優勝というのは、もう上はないわけですが、インタビューには少しも得意そうな様子はありません。

こういうところを見て、私も見習わなければと思いました。

先生と言われると、何でも説明できなければいけないと思うのでしょうか?

先生と言われると、自分の言うことは何でも説明になると思うのでしょうか?

あるいは、自分はそういう領域に達したと思うのでしょうか?

人に何かを教える立場、つまり先生なわけですが、そういう人の中にはプライドを気にする人がいます。
質問をすると、プライドを傷つけられたと思って怒る人もいます。

そうすると、聞く側は黙って聞くだけという姿勢になってしまいます。

それは、先生自体をますますダメにしてしまうと思うのです。

自分がもっといい先生でありたいと思えば、もっと人から学びたいと思うはずです。

そういう姿勢であれば、相手は素朴な疑問を投げかけてくることもあります。
それが、とても貴重な質問であったりします。

人が何人もいるということは、何人もの見方があるし、何人もの考え方があるわけです。

だから、私は教える立場に立った時「私はここまで勉強してきました。それをきっかけとして、みなさんの前に披露しますから、みなさんも持っているものを出して、みんなで目標に向かって行きましよう」という態度で接しています。

抽象的なことばかり言っていると、空想や妄想の世界に突入してしまいそうなので、具体例を挙げてみたいと思います。

例として、私の好きな音楽を取り上げてみます。
断っておきますが、私にとって音楽は「趣味」であり、よく音楽の先生と言われたりしますが、それは他人が勝手にそうしているだけです。

しかし、趣味だから「無知でいい」とか「下手でいい」という逃げ道を作るつもりはありません。
指導的立場に立ったり、演奏する立場に立った時、そういうのは誠実さを欠くと思うからです。

学校では合唱を、クラス作りや生活指導にも役立てようとする考えもあります。

この時、合唱のどういうところが、クラスづくりに役立つのか、生活指導になるのかは合唱そのものをどれだけ理解しているかということは大切と思います。

本で読んだり、誰かから聞くということでも知識は得られますが、それだけではどうしても大切な部分が欠けます。

実際に合唱経験を持つということは必須でしょう。

自分がメンバーの一員として参加する。

指揮をしてみる。

それも、ただ「やる」だけでなく、いろいろな場面で。

つまり、合唱団の一員としてコンサートに参加する。

コンクールに出てみる。

指揮者となって、団体をまとめてみる。
できれば、コンサートやコンクールで指揮者をやってみる。

そうすることで、それぞれの活動のいいところ悪いところがわかるわけで、それは、実際に経験しないと絶対にわからないものだと思います。

言葉ではいえないものがあると思うのです。

言葉で表せないものの経験をしないで、いかにもわかったようなことを語るので、経験者からは「世間知らず」という感覚を持たれるのではないかと思うのです。

そういう意味では、世間知らずというのは軽蔑の言葉と言えるかも知れません。

「世間知らず」の言葉の中には「常識を欠く」という感覚も入っているような気がします。

合唱で言えば「合唱をすることの世界における常識」です。

だから、教師が世間知らずと言われやすいのは、読んだ知識、聞いた知識だけで、一般社会人の中で生活をしたことがないために、言葉ではわからない感覚がわからないからではないかと思うのです。

私は数年前、不意に市のボランティア団体のとりまとめ役をやらせられたことがあります。

ボランティア団体ですから、大人なら職業を問わず参加自由でした。

いろいろな職業の人がいました。

しかし、小中高の先生はいませんでした。大学の先生、警察官はいました。

他のボランティア団体を見ても、小中高の先生はいません。

どうも、小中高の先生はこういうところには参加しないようです。

社会を知るにはよい機会だと思うのですが。

団体で行動するということは、個人がわがままを言っていては、ことが運びませんから、そういう意味では合唱はクラスづくりや学校全体のまとまりを作るにも役立つでしょう。

しかし、合唱をやればまとまりができる、なんて単純なものではないと思います。

スポーツでもそうですが、楽しむにはあるレベルの技術が必要です。

そのレベルがないのに、やろうとしても、そもそも人はやる気がしないのではないかと思います。

合唱ができるにも、それなりの最低限の能力は必要で、まして歌が嫌いであったりしたら、教師が先行しても嫌われるだけと思いいます。

逆に力をつければ、強制の必要もなく、それはいいという方向になるでしょう。

吹奏楽やオーケストラでも同じです。

ある中学校は、全国大会優勝を目指しているあまり、音階もそこそこで大曲をやっていました。
小学校でもそういう学校がありました。

毎年、全国一位になっているのに、中学校へ進むと、音楽の部にはほとんど入部しないということが、音楽関係者の中ではよく知られていました。

私の実践ではそういう目立つ活動はありませんでしたが、不思議なことに子どもは音楽が好きになりました。
こう言うと、自慢しているように思われるかも知れませんが、私自身が謎と思っていることです。

夏休みほとんどを練習に費やしてしまって、かわいそうなことをしたとか、自分にもっと指導力があればといつも思っていました。

ただ、ひとつだけ言えることは、私自身、音楽が好きで全く趣味の延長であり、今もなお一日たりとして音楽が頭にないことはありません。

繰り返しになりますが「実践してみないと、絶対にわからない感覚があり、実践がないにもかかわらず、いかにも知ったように語ることが、世間知らずと映る」ということを言いたいのです。

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posted by edlwiss at 17:44 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年03月23日

たま駅長ご活躍



たま駅長のおかげで、ローカル線も景気がいいですね。

たま駅長のように、みんなに元気を出してもらえるような存在になりたいものだと思います。

たま駅長、これからも活躍お願いします。

posted by edlwiss at 08:34 | Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2012年03月22日

世間知らずは姿勢で決まる

「世間知らず」について、あれこれ考えたあげく、世間知らずになるかならないかは、本人の姿勢で決まるのではないかと思うようになりました。

他人が意見を言ってくれないようになる

自分の態度(姿勢)いかんでは、他人(相手)は意見を言ってくれなくなります。

それは、言うと反発がある。
言ってもしょうがない。

という、敬遠されるようになるということです。

それは、人との付き合いでそういう空気を作っていくわけです。

人は誰でもトラブルを避けたいと思っているでしょう。

だから、いい意味での厳しい助言をする人は少なくなる傾向があります。

「あんなエライ人に、私が言うことなんてありませんよ」

と陰で皮肉を言われていることもあります。

退職後わかってくる

教員の場合、退職すると、パタリと人との交流が途切れる人がいます。

教員の退職後は七五三という言葉があるそうで、これは平(ヒラ)が7年、教頭が5年、校長が3年が退職後の余命だそうです。

私が調べたところでは、校長を退職した人の余命は6〜7年ということでした。

それにしてももずいぶん短いと思います。

人生80年と言われているのに、悠々自適の期間が以外と短いわけです。

妻に先立たれた男も先が短いと言いますが、退職後の教員の余命が短いのは、私の想像ではプツリと人との交流がなくなることが原因ではないかと思っています。

自分の周りから人がいなくなる。

たまに誰かが、声をかけて仕事を紹介したり、サークルに誘っても人とのトラブルを起こして辞めてしまう。

悪いのはみな他人という気持ちが拭えない。

これは、自ら作ってきた情報閉鎖のせいかも知れません。

自分のことはなかなかわからない

だから、腰を低くして誰からも気軽に声をかけてもらえることが、大切だと私は思うようになってきました。

だから、努めてエラそうな風にみえないようにしてきたつもりですが、そのせいで気軽に感じられるのか、態度が失礼な人もいます。

でも、壁ができるよりはいいと思っています。

よくても悪くても、話しかけてくれたら情報が入ってきます。

そうすると、世代の違う人が「そんな考え方をするんだ」ということが、時にわかります。

自分のことは自分ではわからないから、他人の批評は大切にしたいと思っています。

毎月、演奏する機会がありますが、自分が上手いか下手なのかわかりません。
本当にわからないのです。

だから、お世辞でない部分を聞きたいと思っています。

先生に限らず。

人と会う時は名刺交換をします。

日本では、会社の肩書き、ロゴが入っているのが普通です。

大企業だと、その企業の力でものを言っている場合もあります。

でも、中国人相手ではそういう会社の肩書きは通用しないと言われました。

肩書きはおろか、約束の書類を取り交わしても、それが無意味だと言われたのには驚きました。

「ここに約束の書類があるでしょう?」

と言っても

「そんなこともありましたかねえ」

で終わってしまうのだと。

それでは「どうしたら中国人と話しができるようになるのですか」と言ったら

「それは、交流を深めるうちに『こいつは話せるやつだ』と思われるようになることだ」

と言われました。

そういう中国人が、いいのか悪いのかは別として、それも勉強だと思っておくことも大切だと思うようになりました。

とにかく、それこそ、社会に出れば「自分の法律」が通用するとは限りません。

そこは教員の社会と大いにに違うところかも知れません。

世間知らずとならないようにするには自分の法律だけでは通用しないということを自覚する姿勢が必要と言えるのかも知れません。

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posted by edlwiss at 19:49 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年03月21日

なぜ、教師は世間知らずと言われるのか〜その3

■情報難民

世間知らずは、教師に限らないと思うが「教師は〜」と言われるのは、それだけ教師に対しては印象が強いからではないかと思われる。

まず、教師でない人からは、相手が教師だとわかると構えるというところがある。

それは、いい意味でも悪い意味でもある。

いい意味では「そうか、先生なのか、じゃあ知識があるんだ」という尊敬の念があるとき。
悪い方は「先生か、やっかいだなあ」という感じの時。

問題は、悪い方の意味の時である。

1.先生というのはプライドが高くて、ちょっとご機嫌を損ねると大変なので、いつも気を遣わなくてはならない

2.一度言い出したことは訂正しない

3.ご説をごもっともという態度で聞かなければならない

ということで、先生に対して意見を言うということがなくなってしまう。
かくして、先生には他から情報が入りにくくなる。

自分の持っている情報が陳腐になっているにもかかわらず、それに気がつかない。

つまり、情報難民になっていくわけである。

そして、情報難民同士の世界ができると、その中で権威を作ってしまう。
先生の世界だけで偉い人ができてしまうわけである。

先生の中だけの権威というものは、危ういものかも知れない。
しかし、そこは先生だけの世界という砦で守られる安心感がある。

学校には情報主任という係があったりするが、肩書きはともかく、それなりのプライドを意識する人もいる。

ある学校を訪れた時、一人の先生がネットワークが繋がらないと困っていた。
それで「このパソコンのipアドレスは何か、係の先生に聞いてください」と言ったら、その先生は情報主任らしき人に聞きに行った。

情報主任はすぐ近くにいたので、話が聞こえてきた。

「外部の者に、そういうことを教えるのは・・・」

というのが聞こえてきた。

ここの情報主任殿は、ローカルアドレスの意味がわかっていなかったようだ。

それより、問題は、情報主任殿にしては「オレの領域に余計なやつが入ってきた」という心理のほうが問題であったのだろう。

望ましい姿勢としては、誰か自分以外に知識を持っている者がいるとしたら、その者からも学ぼうという姿勢がいいたと思うのだが、どうも、心の狭い人もいる。

その情報主任殿は、職員室でみなに聞こえるように

「LINUX、あれははまるよ

と言っていた。

おれは、そういうことも知っているという宣伝が本音だろう。

間違っても

「そうですか、LINUXにはまっていらっしゃるんですか?、で、どんな風に使ってみえるのでか?」

なんてことを聞いてはいけない。

そんなことをしたら「いやなやつ」という印象は決定的になるだろう。

もちろん、LINUXについての設定やトラブルについてお願いしてもいけない。

しかし、職員室で「LINUXにはまっている」と大きな声で言うことで、他の人たちに「すごいんだ」という宣伝にはなる。

かくして、教師の世界自体がローカルになるので、情報難民となりやすい環境があると言える。

■いつも、求めているものがあるか?

ずっと絵を描いていたいということで先生になったという人は、いつも求めているものがあるということだから、自分の時間は絵のことで頭がいっぱいなんだろうと思う。

そういう人は、自分が絵がうまいなんて思っていなくて苦しんでいる。
いつも、現状の自分を打破したいと考えている。

それは、情報を求めていることになる。

時には子どもの作品からヒントを得ることもあるだろう。

だから、こういう人は態度が自ずと謙虚になる。

教師でも世間知らずの範疇に入らない人の目安は、謙虚であるということだろう。

マルタ・アルゲリッチという世界的に有名なピアニストがいるが、ある人が彼女に

「あなたは、ピアノがお上手ですが、どんな先生から教わったのですか?」

と聞いたら

「私の前にも後にも、先生なんていません」

という返事だったという。

でも、彼女にはこの言葉が不自然に感じられない。

それほどのピアニストだからだ。

でも、こういう人はそんなにいるものではない。

一方、ナタン・ミルシテインという、これまた凄いヴァイオリニストがいた。

ナタン・ミロノヴィチ・ミルシテイン(Ната?н Миро?нович Мильште?йн 1903年12月31日、オデッサ - 1992年12月21日、ロンドン)はウクライナ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。英語読みではネイサン・ミルスタイン(Nathan Milstein)。1942年にアメリカ合衆国の市民権を取得。89歳の誕生日を目前にイギリスで没した。

母親の奨めでヴァイオリンを学び始め、11歳のときレオポルト・アウアーの招きでペテルブルク音楽院に入学、アウアーのロシア時代の最後の弟子の一人となる。ロシア革命により1917年にアウアーがノルウェーに脱出してしまうと、キエフに戻り、ウラジミール・ホロヴィッツと知り合い、意気投合し、しばしば共演するようになり、1925年には西ヨーロッパでの演奏旅行も一緒に行なった。この頃にはウジェーヌ・イザイの門も叩いている。1929年にストコフスキー指揮のフィラデルフィア管弦楽団によりアメリカ・デビュー。ついにニューヨークに居を構えるが、たびたびヨーロッパで演奏旅行にとり組んだ。

しばしば20世紀の傑出したヴァイオリニストのひとりに数えられており、ロマン派の作品ばかりでなく、バッハの無伴奏ヴァイオリン作品の解釈で知られた。多くの協奏曲のために独自のカデンツァを作曲しただけでなく、ヴァイオリンのために多くの編曲を手掛けている(中でもショパンの夜想曲の編曲は有名)。オリジナル作品では、パガニーニの主題による無伴奏ヴァイオリン作品≪パガニーニアーナ≫が近年とりわけ注目を浴びつつある。1975年にはグラミー賞を受賞、1968年にはレジオン・ドヌール勲章を受章。

傑出した超絶技巧の持ち主ではあったが、それを前面に押し出す演奏には消極的だった。むしろイザイを通じて身につけた、歌心と美音を尊重するフランコ・ベルギー楽派の優美な演奏スタイルが際立っている。そのためしばしばミルシテインは、「ヴァイオリンの貴公子」と称される。
フリー百科事典「ウィキペディア」よりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%B3

彼の演奏はすばらしいものだが、常に先生について学ぼうという姿勢が強かった。
著名な先生、イザイに教えを乞いに行った時、イザイから「君に教えるものは何もない」と言われたそうだ。

アルゲリッチは別格として、凄い人はまあ、謙虚であると感じる。

■きびしさ

「きびしい」ということが、言葉ではわかっても実感としてわかるかどうか。

そういう意味では、私は子どもたちを引き連れてコンクールに出るのは好きである。

ふりかえってみると、演奏の結果の大半は自分の責任と感じる。
昔の録音を聴いてみると、自分の未熟さがわかる。

自分がもっといい指導ができていたらと、反省することしきりである。

それにしては、子どもはよくやっている。もっと褒めてやったらよかったのにと思う。

これは、そういう自分の態度を云々ということでなく、指揮をするという仕事が、ただ「やれ、やれ」と子どもにしかけるだけでなく、自分も責任の一端を担ってステージに上がるということがいいということである。

「私たち、指揮者がダメだから賞に入らなかったんだよ」

って、言われている人もいた。

私は面と向かって言われたことはないが、そういう思いでいた子どももいるかも知れない。

運動部の先生も、試合ではそういう思いがあるのだろう。

先生は蚊帳の外で「言うだけ」でなく、自分も火の粉をかぶる必要がある。

言うだけで、自分は何もやっていないのを見ると

「そりゃそうだけど、あなたは何ですか?」

という思いが聞き手に伝わった時、そこに「世間知らず」の文字が浮かんでくるのではないかと思う。

まして、民間では会社の浮沈をかけた勝負所を経験している場合があって、それを、まるでわかったような批評をする人を見た時、やはり「世間知らず」になるのだろう。

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posted by edlwiss at 21:59 | Comment(5) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年03月21日

父親の顔が見るに堪えなかった



間もなく小学校入学を迎えるというのに、突然の不幸。
父親の泣き顔を見たら、自分も涙が出てきた。

真新しいランドセルを父親がかかえて「どうするんだよ・・・」と、本当に辛いです。
posted by edlwiss at 07:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年03月17日

なぜ、教師は世間知らずと言われるのか〜その2

たびたび思い出すことに、大学時代のある先生の講義で

「先生と乞食は三日やったら辞められないと言います」

と言われたことです。

思い出すたびに、この言葉が頭の中をグルグル回ります。

いろいろ考えてみるなかに、楽をしようと思えばできてしまう仕事というのが浮かびます。

授業は自分の教科だけですから、何回も同じことを繰り返すことになります。
繰り返すたびに、何か進歩を考えていくかどうかは本人次第です。
校務分掌はなるべく少なくなるような努力をする。

と、徹底した省エネを考えていくと、かなり楽なのかも知れない。

実際、そのようにやると、毎年同じようなパターンの繰り返しになり、何が変わるのかと言えば、自分が歳をとるだけとなります。

しかし、これは非常に危険なパターンと思います。
それは、脳に刺激がなくなって、歳だけ経るからです。

さらによくないのは、いつの間にか歳をとって、何か偉くなったと錯覚する。

企業では、こういう生活はないだろうと思います。

新卒の時も、歳をとってからも同じことをやっているというのは、他の職ではあまりないのではと思うのです。

と考えてくると、先生になった動機が大切と思います。

先生と言えばデモシカと酷評された時代がありましたが、特に強い動機もなくなってしまった場合、それこそ親方日の丸で、他の民間企業からみたら呑気に見えるのかも知れません。

私の知っている美術の先生は、絵が好きで先生になったという人がいます。
この人は準備室へ行くと、いつも絵を描いていました。

池田満寿夫氏の講演を聞いた時、絵を描いて生活ができる人は、日本中で100人ぐらいだろうということでした。

絵に限らず、芸術家は生活が不安定です。
それで、先生になる。

こういう人は、先生になったのがゴールではないですから、毎日何かを求めるものがある。
学ぶことに貪欲である。遠い先のゴールを目指しているということで、歳をとっても青春という気がします。

私が一番気になるというか、限界を感じる人は、一言でいえば何でも全てがわかっているようなつもりでいる人です。

もちろん、人間、全てがわかるということなどあり得ないと思います。
しかし、そのような口ぶりになる。そして、決まって上から目線の言葉遣いです。

誰かが教えを乞いにきたのなら別ですが、そうでもないのに「オレが教えてやる」という態度をとられたら。

jinkochino.jpg
「何で、オマエにオレが教わらなきゃならないの?」

という気になります。

そして、こういう態度が聞く側にとってはカチンとくるらしいようです。

それで

「何にもわかっていないクセに、偉そうに」

と口に出してこそ言わないものの、大変印象がよくないと思うのです。

先生は、職業が上から目線が習慣になっているせいか、つい学校外でもそうなるところが教師は世間知らずと言われる所以の一つかも知れません。

私は人の脳をCPUに例えたりして話をしますが、今、自分のいる地点からどこかへ行こうとすると時、方向はいくつあるかを考えてみたいと思います。

簡単な模型ではビットの少ないマイクロコンピュータしか積んでいないので、例えばそれが2ビットだとしますと、方向は前後左右の4通りしかないわけです。

つまり、この模型にとっては、全ての方向と言っても前後左右の4方向で全てなわけです。

だから、こういうマイクロコンピュータとやり取りをしても、コンピュータ側では前後左右の4つの方向だけで、オレは全ての方向を知っているということになるわけです。

コノコンピュータにすれば、モノが言えるとしたら

「オレは全ての方向を知っているぞ、前後左右、それ以外あるわけないだろう?」

と言うでしょう。

私が言いたいのは、似たような思考をする人がいるということです。

本来なら方向は無限にあります。

しかし、自分から2ビットの壁を作ってしまっているわけです。

これは、養老孟司氏の言うバカの壁と同じではないかと思うのです。

こういう壁を自ら作っているのは、実は大人だけではありません。

私は、いくつか中高のバンドを指導した経験がありますが、高校生になると、なるほど大人に近づいていると感じたということをかつて言いましたが、望ましくない現象として、全てとまではいかなくても、何か世の中がかなりわかったつもりでいるという生徒がいるということです。

大人からすると、生意気に見える感じですが、まさに2ビットで止まっているという感じです。

そして、高校のランク付けはよくないと思いますが、いわゆるAランクの高校ではそういう生徒がいないと感じました。

Aランクの高校の生徒は、中学校では成績がよかったのに謙虚です。

私がこういうのは、人の能力にはそんなに差はないのだが、この壁が邪魔をしていると思うから言うわけです。

別な言い方をすれば、脳というのは、始めは2ビットかも知れないが、それが4ビット、8ビット、16ビット、・・・と変わっていくか否かの違いのように思えるのです。

ある幼稚園で漢字を教えたら、園児たちはひらがなより、漢字の方をよく覚えたという方向がありました。
(具体的に、どういう実践家かはここでは触れません)

それで、私はその話をある先生に伝えたら

「そんな、ひらがなの方が簡単だから、そんなわけはない。だって、ひらがななら、こうかくだけだろう?」

と、彼は「し」の字を書いてみせました。

彼の頭は「そんなわけはない」でシャッターが降りてしまったのです。
つまり、2ビットの壁のようなものです。

そうでなくて

「そんなこと考えられないが、どういうわけだ?・・・間違いじゃないの」

とくれば、2ビットの壁は超えられたのかも知れないと思うのです。

2ビットCPUが使われるうちに、進化して自然に4ビットになるということはあり得ませんが、人の場合は脳細胞、ニューロンが発達して、ビットが増えるという進化があり得ると思うのです。

それが人間の魅力であり、そういう進化があるか否かだけが私は能力の違いの大半を占めているような気がするのです。

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posted by edlwiss at 23:07 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年03月17日

なぜ、教師は世間知らずと言われるのか

sekensirazu.jpg
ここで教師というのは、学校の教師のことだが、職種別に見てどうなのかは、客観的資料がないのでわからない。

それで、機会をみて、人に聞いてみると、同意する人は多い。
そして、必ずと言っていいほど言われる理由は「先生は、大学を出るとまだ見習いなのにもいきなり、先生、先生と呼ばれ続けるので、そうなるのでしょう」と言われる。

会社のサラリーマンでも、世間知らずはいると思うが、住む世界が違うと思うのは、企業か否かではないか。

企業は利益を上げ続けないと潰れてしまう。
これは、常に危機感を伴うということである。
対して、教員の世界にそういう危機感はない。

だから、私は教員が生ぬるい世界で呑気にしていると言うつもりはない。
だいたい、教員の世界に企業の倫理のようなものを持ち込むべきではないと思っている。

かつて、ある会合で会った校長は、自分の学校の先生たちのことを「部下」と言っていた。
話を聞いていると、どうもこの校長は職場を会社のイメージで考えているようだった。

自分を社長に見立てて、他を部長、課長、係長と当てはめてみても、それはただ肩書きだけのことであって、所詮、利益追求からなっている会社とは相容れないものである。

そんなに社長がやりたければ、会社員になればよかったのにと思うのだが、なぜこの校長は教員を選んだのだろう。

某一流企業は、大学生の就職希望の一位によくランキングされた。
それだけに、この企業は日本のトップの難関大学の卒業者が多い。

新入社員は、3ヶ月の研修がある。

会社がそのために作った研修所で鍛えられるわけである。

泊まりこみで鍛えられるわけであるが、毎年何人かが飛び降り自殺をすると聞いた。

たまたま、私はその企業の研修関係の人と会う機会があったので、そのことを聞いたみた。
そうしたら、その人はやや神妙な顔つきになって「うん、負けたことがないからではないかと思う」と言った。

わたしは、それで、本当なんだと思った。

「負けたことがない」

そう?

今まで、試験という試験は他人に勝ち抜いてきた。
最後の大学入試でも、トップの大学に入った。

一流企業にも入った。

「オレには、向かうところ敵なしだ」

と思ってきたのか。

それが、会社に入って研修で初めて敗北感を味わった。

それで、もろくも折れてしまった。

そういうことなんだろうか。

それだけ、企業というところは甘くないということなのだろう。

ここでのキーワードは敗北感だ。

教訓→人は敗北を通じて強くなる。

敗北は人そのものだけでなく、企業という組織そのものにもある。

非常に経営の堅い会社がある。
そういう会社の代表は無借金経営の会社だ。

儲かっているのに、給料も渋い。

社長に賃上げを言うと、昔、丸焼けになって全てがなくなったことがあると言う。
それで、会社は資産を蓄えておくことが大切だと言う。

長くなってしまったが「先生は世間知らず」と言われやすいのは「甘い」と感じられやすいからではないかと思う。

企業ではいやがおうにも、会社の浮沈をかけて勝負をしなければならないことがあるが、教員ではそういう経験がないということで、つい世の中を甘く見がちだからではないか。

教員の世界は教科書の世界でもあるから、教科書通りで考えやすいのだろう。

しかし、世の中、教科書通りに行けば万々歳である。

「そんなバカなことが」

ということが、実社会にはたくさんある。

大体、弁護士自身が著書で「正義か勝つとは限らない」と言っているし、実際、正義であっても負けたという経験をしてきている人は、たくさんいそうな気がする。

教科書だけで、すべて世間がわかったような気がする。
いや、そのように外からは見えるということで、先生は世間知らずと言われやすいのではないかという気がしてきた。

文書がまとまらないが、これは頭の中がまとまらない証拠でもある。

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posted by edlwiss at 00:24 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年03月14日

嫌味は老齢化の証か

oinimakenai.gif
人はいろいろなものを見たり、聞いたりする。
また、人と会話する。

日常のことである。

そして、感想を言う。

最近、はてなと思うことに、いつも感想が嫌味になってきた人である。

昔はこんなことはなかったのだがなあ、と思うが、振り返ってみると、嫌味がかなり多くなっている。

誰かが何かを買うと

「よくそんな金があるなあ」

「安物だなあ、すぐ壊れるぞ」

誰かが何かをしようとすると

「どうせ、うまくいかないさ」

など、思い返してみると、みんな嫌味なのだ。

まるで、人の不幸を期待しているようにも思えてしまう。

ある大学の先生が、心理学の本に書いていた。

「人は歳をとると、優しくなる人と、怖くなる人がいる」

と、私の実感としては、嫌味を言うケチをつけるようになる人もいるような気がする。

人生の経験を積んできて、人の気持ちがよくわかるようになって、心にも余裕が出てくると、きっと優しくなるのだろうと思う。

人は、何か買った時「これ買って失敗だったかなあ」と心の中では不安になるものだ。
そんな時、

「これいいね。いいもの買ったね」

と言われたら嬉しいものだ。

指導の方法として、褒めるということを言われるが、ものを買った時も同様だろう。

いいところを見つけて「素敵な色だね」なんて言ってあげた方がいいと思う。

嫌味、アラ探しが老齢化ではないかと思うのは、何かに挑戦しようというようなはつらつさがない。

嫌味やアラばかり言うものだから、雰囲気は悪くなり、人は距離をおくようになる。

そうすると、余計に自分のやることがなくなるので、話にリアリティがなくなり、いわゆる妄想ばかりになる。

妄想は一人だけでやっていればいいのだが、外に出すから、人の気持ちを暗くする言葉を撒き散らすことになる。

こんな風にはなりたくないものだ。

とかく、高齢化が叫ばれる日本だが、歳をとっても愛される年寄りであってほしい。
他人が聞いて、元気の出る言葉を発して欲しい。

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posted by edlwiss at 23:30 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2012年03月13日

やっぱり大人です

小学生、中学生は校外の活動(具体的には、演奏会、コンクール)では、神経を使います。
校内の活動において、校外の活動を意識して指導しておくことはもちろんですが、小中学生はまだ社会的には知らないことが多いので、予期せぬ事態に対処する能力もあまり期待できません。

hattatsusinrigaku.gif
高校生ともなると、社会的には未経験なことが多いのですが、それでも、小中学生に比べたら大人と感じることはたくさんあります。
それは、特に作業的な仕事の時感じます。

楽器の運搬などは、大きな楽器では小学生には任せられないことがありますが、中高性になるとだいぶ違ってきます。

体力的な違いは大きいと言えます。

演奏でも、中学生と高校生では、体格の違いが大きいと言えますが、吹奏楽では音の安定感も違ってきます。

というわけで、高校生バンドは演奏でも校外でも魅力があるわけですが、中学生の時期は楽器を習っていてもすごく上達する時期なので、人生全体を見渡してもとても大切な時期と感じます。

スポーツでも、最近は中学生の年齢で国際的に活躍しているところをみると、よけいにそういう感じを強くします。

だから、この青春の時期に有意義な活動をとておくことが大切だと思うのです。
受験勉強だけに明け暮れて、大学に入ってやっと解放され、それから好きなことをやろうととしても、すでに遅いということが多いような気がします。

音楽、美術、スポーツ以外でも、例えばビル・ゲイツ氏やスティーブ・ジョブズ氏のようにコンピュータのプログラミングに関わることも、中学生の頃は大切だと思います。

私が中学生たちを指導している頃、近くにIT関連の研究所がありました。
そこには、博士号を持った人たちがたくさんいました。

そして、その人たちは中学生にとても興味を持っていました。
だから、中学生を連れて遊びにきて欲しいとよく言われました。

プログラミングの勉強に関しては、大学生からでは遅いとはっきり言われました。

日本こそ、ソフトウエアに強い国にしなければならないと思うのですが、中学生という大切な時期に試験で追いまくって精神的ストレスをかけることはどうかと思っています。

話はそれましたが、高校生になるとだいぶ大人で、教える側も余分な精神的な負担が減ります。もちろん、それは小中の土台があってこその話です。

大学生、成人になると自己責任の部分が多くなりますから、指導者としては教えることに専念できますから、生活指導的な精神的負担は減ります。

さらに、今、私が行なっている自治体の吹奏楽団では、もうこれは専門的知識のみの指導に全力を傾けることができますが、これは、反面、専門的知識を問われることになります。

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posted by edlwiss at 16:15 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年03月12日

子どもは引率が大変

子どもの年齢に着目して、記事を書いています。

koudoukeizaigaku.gif
現役の先生には言うまでもないことですが、指導の相手が低年齢ほど、外部の活動の時の引率が大変です。

しかし、この大変さがわかっているのに、毎年、同じ苦労をしている学校がある。

学校と言いますが、学校全体がという意味ではありません。

コンクールなどで、毎年、大体同じ学校と会うから、正確には参加する団体のことです。

小学生はなかなかじっとしていませんから、外出先で走り回ったりします。
中学生になると、小学生ほどではないですが、学校によっては会場のあちこちを探索しているような中学生がいます。

何ごともなければ、いいとも言えますが、駅の校内で踏切を渡る時に中学生が列車に跳ねられたということがありました。

引率は命を守るという、わかりきったことを念頭に行動しなければなりません。

では、どういう対策をするか?

賢明な先生方ならわかっていることですが、学校での活動時に、そういったことも含めて指導しておかなければなりません。

それも「言う」だけではダメで、実際に行動を通して指導しておくことが大切です。
部活動の中に、そういうことを練習として身につくようにしておくということです。

こういうわかりきったようなことが、意外にできていないと感じてきました。

また、郊外での行動のよい学校は、吹奏楽部でも合唱でも上手です。

時間にによっては、会場で昼食ということもありますが、上手な学校はマナーがいい。
上手くないところは、後が食べ散らかしてあったりします。

合唱部は人が移動するだけですみますが、吹奏楽部となると、楽器の運搬も考えなければならないので、慣れていない学校は大変です。

コンクールでも演奏会でも、その道に関係ない人は、その場でCDでもかけるぐらいに簡単に考えている人もいますが、実際は人の移動、物の移動もスムースに行うということは、けっこう大変なことです。

しかし、そういうもろもろの大変さを、単なる片づけ仕事と考えないで、活動の一部と考えて日頃から考えておくことで、行動がスムースになるばかりでなく、よい教育の機会となると思います。

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posted by edlwiss at 19:07 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2012年03月11日

年齢による違い

seisinbunseki.gif年齢による違いというのは、教えられる側のことです。

私の指導経験は、小、中、高、大人とありますが、当然違いはあります。

反応の違いを私の指導経験の多い吹奏楽で、書いてみます。

ここで一つ断っておきたいののは、学校の先生を意識すると「何の先生ですか」ということに関心を持つ人がいるようですが、そう質問されると私は音楽の先生ではありません。

学校の先生は、そういう「何の先生」にこだわるのかも知れませんが、わたしにとってはどうでもいいことで、ただ、音楽で使われることが多いので、やっているということです。

さて、前置きはこのぐらいにして、小、中、高、大人という年齢にによる違いというのは、楽器で音を出す(つまり演奏するということですが)ことによって、違いがよくわかります。

小、中では、楽譜に書いてある音を機械的に出すという演奏(演奏といえるのかという疑問もありますが)が多いと感じています。

つまり、演奏することで精神的発達がよくわかる気がします。

私は年とともに、教える相手の年齢が高くなり、今、多いのは20才を過ぎた大人が多くなりました。

この大人は市民バンドではなく、ある自治体のバンドです。
もう一つつけ加えるなら、自治体のクラブ活動ではなく、彼らは仕事としてやっているということです。

ここは、学校や市民バンドのように、嫌だったら辞めるということは簡単にはできないという事情があります。

なぜなら、彼らにとって辞めるということは、職を辞すということになるからです。

そして、もう一つの厄介な事情は、仕事としてやっているにもかかわらず、音楽に関してはほとんど素人の集まりということです。

音楽で採用しているわけではないので、そうなってしまうのですが、今日、中高の吹奏楽部は女子が多く、その経験者が入ってくるのならまだいいのですが、採用されているのはほとんど男なので、未経験者が多いということです。
だから、彼らは技術的には下手です。

そして、私は音楽のイロハから教えなくてはならず、単に教えて帰ってくればいいのではなく、何ヶ月か先の行事では確実に演奏できるようにしなければならないのです。

そういう意味では、指導者としても絶対的なノルマが課されているわけで、最も効率のよい最短距離で実力がつく方法をいつも考えているわけです。

ここで、私が言いたいのは、彼らは下手なんだけど、やはり大人だなあと感じるということです。

子どもの演奏が、順番に音を並べるだけの機械的な演奏が多いのに対し、技術は劣るが大人を感じさせる演奏になるということです。

中には子どもでも、精神的な高さ(大人のような)を感じさせる演奏をする者もいますが、概して、子どもは子どもだという当たり前のことを言っています。

しかし、いわゆる東京にある有名な音大と、地方の音大と違うのは、地方の音大で、中には大学生なのに中学生が演奏しているような演奏を聴くことがあります。
もちろん、全部がそうとは言いませんが、概してそのような傾向が強く、先生の嘆きもそこにあるようです。

楽器は根気よく正しい方法で練習すれば、弾けるようになるものですが、なかなかどうにもならないのが、精神的に大人かどうかというところだと思います。

そういう意味では、音楽はまさに人生であり、いろいろな教養が影響すると感じているわけです。

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posted by edlwiss at 15:05 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年03月06日

こんなことがあるのですね


交通違反の検挙にはノルマがあるとの話を聞いたことがある。
聞いたというだけで、真偽の程は確認していない。

しかし、こういうことがあると、本当にノルマのためにやっているのかと思ってしまう。
でも、どうして発覚したのだろう?

この罰金刑が確定した人。再審請求→無罪→国家賠償と進むのだろうか?
posted by edlwiss at 18:20 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年03月05日

頭のおかしな人には気をつけましょう〜現場を混乱させる人

2ch(2チャンネル)は古くからある、有名な掲示板です。
それだけに、いろいろトラブルもあって、時には裁判沙汰になったこともあり、それでますます有名になった気もします。

その2chの管理人が「頭のおかしな人には気をつけましょう」とマナーを喚起する言葉を書いていました。

それを読んで、思わず笑ってしまいました。

その内容は、利用者が増えるに従い、頭のおかしな人が出没するようになったと言い、関わると面倒なことがおこることもあるので注意しましょうと断って、頭のおかしな人の判定基準というものが書いてありました。

その基準とは3つあると分類しています。

以下はその引用です。

・「みんなの意見」「他の人もそう思ってる」など、自分の意見なのに他人もそう思ってると力説する人
 他人が自分とは違うという事実が受け入れられない人です。自分の意見が通らないとコピペや荒らしなど
 無茶をし始めるので見かけたら放置してください。

・根拠もなく、他人を卑下したり、差別したりする人、自分で自分を褒める人
 他人を卑下することで自分を慰めようとする人です。実生活で他人に褒めてもらう機会がないがプライドだけは高いとか、匿名の掲示板しか話し相手のいない人です。可哀想なので放置してください。

・自分の感情だけ書く人
「〜〜がムカツク」とか自分の感情を掲示板に書くことに意味があると思っている人です。
何がどのようにムカツクのか論理的に書いてあれば、他人が読んでも意味のある文章になりますが、そういった論理的思考の出来ない人です。もうちょっと賢くなるまでは放置してあげてください。


1つ目の「自分の意見なのに、他人もそう思っている」と勝手に言う人っていますね。
ネット上では誰が読んでいるのかわからないし、誰がどう考えているかわからないはずなのに、そう頑張る人はいるようです。

2つ目の「根拠もなく」というのは、まさに妄想につながるところがあります。
その上、想像なのに話が続くうちに、いつの間にか事実にすり替えてしまっているというのもあります。さらに、それで怒り出すというのもあります。
「自分で自分を褒める」というのは、恥ずかしいと思うのですが、ネット上だからできることなのでしょうか?
現実生活で褒めてもらう機会がないからなのでしょうか?

3つめの「感情むきだし」は、別に怒ることそのものは悪くないにしても、管理人が言うように「論理的」に、なぜ怒れるのかが書いてないのはいただけません。

以上、2chの管理人の言われることは、もっともと思います。だから、自分がそういうことのないように気をつけねばと思った次第です。

seisin.gifところで、おかしな人と感じるのは、他にもあります。

1.重要度のランクがつけられない人

2.程度がわからない人

3.バランス感覚のない人

4.自分がおかしなことをやっているのに、他人がすると怒る人

これは、私がまとめたものです。
どんな場合に該当するか、具体例を挙げてみます。

1はプライオリティとも言われますが、例えば、今回の東日本の災害のように、原発の事故があったという場合、緊急に会議をするので、授業を自習にしておくという場合「授業はどうするの?」とか「子どもにとって、一番大切な授業を放棄するとは何ごとだ」と譲らない人のようなもの。

2は、子どもを優先するのはいいのだけれど、そのために先生が犠牲になる場合「子どものために、苦しいが頑張るか」という気持ちが大切なのは、常識人ならわかることですが、それも程度ものということがわからない人。

戦前は、教師をしている人の肺結核が多かったと言います。現代では、そういう話はめったに聞きませんが、いくら子どものために頑張ると言っても、先生が健康を害するというのは考えものです。場合によっては、労働基準法に抵触します。でも「子どもはどうするんだ」と一点張りの人がいるんですね。

3の例としては、5人のアンサンブル(音楽の演奏)のコンサートを控えて、練習をすることになった時のことです。
どうしても、3人しか集まれないということがありました。
それで、仕方がないから、3人だけでも練習するということにしようとしたのですが「5人揃わなければ意味がない」と言って譲らない人がいました。

これら3つに共通して言えることは、現実に即した対応ができないということです。だから、おうおうにして、こういう人は実践の場(現場)から離されるということがあります。当然、自分の実践はなくなります。
そうしなければ、ことが進まないからです。みんなが困ってしまうからです。
要するに、現実感(リアリティ)がないのです。現場から離されるから、なおのこと現場の人の気持ちがわからないということもあるのでしょう。そのため、話は空想ばかりになりやすいと言えます。

小学生は朝、集団登校を行なっている学校は多いと思いますが、その時は上級生がリーダーになって学校まで集団を率いるわけですが、学校は前もって「先生がいなくても、リーダーの言うことを聞いて、また、リーダーはみんなのことを考えて・・・」という指導をするのですが「教師がいないとは何ごとだ」とか「子どもに丸投げをしている」などと言い出す人もいます。

3の例の人物は医師から「うつ」と診断されました。しかし「うつ」と診断された人の場合、もう少し精神的に進行している場合もあるようです。その場合「統合失調症」と診断される場合もあります。
何でこんな病名がつくのだろうと考えてみたら、おそらく、自分の考えていることがまとまらない、矛盾している、現実的でないということで、まとまらないからなのだろうと思いました。昔は「精神分裂病」と言ったのを、これは病名がよくないということで、改められたということらしいです。
この3の人物は、現在、休養中らしいです。そのためか、全く連絡が取れません。

4の人は、全く自分勝手と言うか、いや、人はそういうこともありますが、普通は自分がおかしいと気づくのに、全く自分の行動には感知しないというところが変です。こういう人にかかると、それこそ自分のことは棚にあげて、と喧嘩になりやすいので気をつけることです。

まとめとして、世の中には話し合いをしてもムダな人がいるということを、頭に入れておいた方がよいと思います。

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posted by edlwiss at 20:27 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年03月05日

やっと地熱発電か?



地熱発電については、もう何十年も前から、学者の方々から指摘されていた。
日本は火山国だから「どこを掘っても温泉が出る」とやや誇張された言葉かなとも思うが、地熱をエネルギーへというのは、大いに有望であるということはわかっていた。

地熱のエネルギーについては、なんと、日本は世界第三位の資源国であると言う。

それをなぜ進めなかったか。

理由は、国立公園の景観を損ねるというものであった。

では、国立公園の景観を損ねないやり方はないのか?と言うと、そこからは議論が進まない。

本音はそうではなく、もう多くの人が気づいていると思うが「はじめに原発ありき」だったからだ。

この原発議論もおかしなところがある。

原発については、私もほとんど知識がなかったころは、そんないい発電はないと思ったものである。
しかし、廃棄物がどうしようもない。原発そのものはコントロールが難しいとの事情を知るにつれ、怖いものと認識するようになった。

私は原発の専門家でもなく、全くの素人である。

その素人の私でも、おかしいと思う意見がある。

それは

1.どうしても電力は不足するので、原発に頼らざるを得ない

2.だから、原発の安全を確認した上で稼働してほしい

原発稼働派の人の意見の要は、上記1.2.である。
しかし、太字の部分「電力は不足する」「原発の安全を確認した上で」の2つがひっかかる。

なぜか

1.電力が不足するという根拠がない

2.原発の安全が確認できるのか

の2つがはっきりしないからである。

原発の安全が確認できたら、反対をする理由はない。
それが問題になっているから、原発が否定されるのではないか?

理路整然と説得力のある石原幹事長だが、なぜか、原発については「安全を確認した上で」と発言なさった。

心なしか、この時はトーンが下がったようにみえた。
posted by edlwiss at 09:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年03月04日

何でも市場原理を持ち込んでいいか?〜橋下改革

brahmascl5.gif
写真のCDはブラームスの「クラリネット五重奏曲 ロ短調」作品115のCDです。
演奏はレオポルド・ウラッハ(クラリネット)、ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団によるもので、録音は1951年のものです。

1951年といえば、レコードは78回転のSPの時代です。
後にLPレコードとして、ウェストミンスターというレコード会社から発売されました。
さらに、CDの時代になり今日、発売されているものです。

ブラームスは老年、作曲の衰えを感じ引退を表明し、夏はお気に入りの避暑地で過ごしていましたが、ミュールフェルトというクラリネットの名手と会い、その演奏にいたく感激し、再び作曲の意欲が湧いてきて作曲されたものです。
初演では熱狂的な賛美を得て、全曲が繰り返し演奏されたという。

また、このCDに収録されているウラッハの演奏は半世紀も過ぎた今も、名演としてクラシックフアンの中では人気の高いものです。

しかし、このような音楽史上の傑作である作品、名演であってもレコード会社としては商売にならないのです。
それは、クラシックフアンは音楽フアン全体の中でも少ない上に、大作曲家の晩年の円熟した室内楽を理解できる人が少ないことになります。

今日でも、クラシックのCDは発売されて2000枚売れたらベストセラーと言われるわけですから、この業界がいかに商売にならないかがわかります。

それでも、レコード会社が発売するのは、商売だけでなく優れた文化の継承という使命を感じてのものと言えます。

そのため、文化的にも価値あるものは発売されても、すぐに廃盤となってしまいます。

もうずいぶん前のことになりますが、このウラッハのレコードがオークションに出ていて、150万円という値段がついていました。

前置きが長くなってしまいましたが、今話題の橋下市長が大阪府知事の時代に、経済改革を行った時、補助金を打ち切られたあるプロのオーケストラが潰れました。

橋下氏は、市場原理に即さないものは、存続できなくても仕方がないというような発言をしていました。

オーケストラを市場原理に当てはめたら、経営ができるところは一つもないでしょう。

世界的な指折りのオーケストラである、ウィーン・フィルでさえも、オーストリア政府から半分は資金援助されています。

橋本氏が何でも市場原理で押し切ろうとするなら、恐ろしさを感じます。

このことは教育においても言えます。

学校の人気を数字だけ、教員の評価を点数を取らせることに長けた先生、保護者や児童生徒の人気だけではかるとしたら、大切なものを失う恐れがあると思います。

数字や人気だけではかれないものがある、ということの認識のないリーダーが上に立つことのないように祈るばかりです。

今、金持ちたちかなりが国外に出ていっているという統計が、週間ダイヤモンドに掲載されていたことがありました。
富裕層が国外へというのは、中国でも同じだということですが、これからの日本の行く末を見た時、海外で暮らすことも視野に入れた方がよいのかと思う時もあります。



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posted by edlwiss at 17:51 | Comment(8) | TrackBack(0) | 社会時評

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