2012年03月04日

日本の自殺

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日本の自殺と言うのは、毎年3万人を超す自殺者の問題ではない。
日本国自体が自殺に向かっているという文藝春秋三月特別号の記事である。

原文は、朝日新聞主筆が1984年に書いた予言の書を再考するというものである。

それによると、ローマが崩壊したのは外敵によるものではなく、内部の精神的堕落がもたらしたもので、今日の日本の状況と似ているという。

今日の日本は、資源、エネルギー、経済問題と大きな問題を抱えているが、それより深刻なのは人々の精神的な堕落と説いている。

現代人は自分の直接経験をしっかりと見つめる時間を失い、自分の頭でものを考える思考力が停止し、中途半端な知識の請売りで偉そうに世界の出来事に口を挟んでいるというようなみとが語られている。

そして、思考力、判断力が衰退し幼稚化し、悪循環をもたらしているが、これらを克服する新しい努力をしなければならないとある。

ローマの内部崩壊は、政治が堕落した市民に迎合し、働かなくてもパンを提供し、暇になった市民の娯楽のためにサーカスを提供したとある。

こうして、人々は要求するばかりで、義務を忘れ、悪いのは他人という意識が蔓延し精神的崩壊が進みローマは自滅していったというのである。

書は、日本社会に内在する自壊作用の原因を探り、豊かさの代償、便利さの代償の分析を試みている。

私もこれまでに、しばしば危惧して、投稿してきたことに「押しボタン社会」における思考力の低下がある。
自動販売機でジュースを買う例えで、意見を述べてきた。

人はジュースを手に入れるために、コインを入れ、ボタンを押す、目的のジュースが出てくる、つまりインプットとアウトプットにしか関心を示さなくなり、このことにより思考力が低下してきたと言った。

これはまさに現代の受験競争も同じで、ひたすら暗記し、それを答案に書くという、まさにインプットとアウトプットの2点だけの訓練で、途中の過程がごっそり抜け落ちている。

過程が大切だと強調しても、もはや、インプット、アウトプットだけに刷り込まれた頭では「何でそんな遠回りなことをしているの?そこにジュースがあるからボタンを押すだけだろう?」という返事しか返ってこない。

かつて、子どもたちの楽しみにプラモデルを作るということがあったが、今や、そういう模型店は消滅の一途で、完成品しか子どもは買わないという。

主婦も心を込めて料理を作り、家族に振る舞うということがなくなってきて、自分の作った料理を人が喜んで食べてくれるという心、また食べる側も感謝するという心の交流が減ってきたように思う。

美術や音楽など芸術に対する感性も減退しているように思うし、感動のない生活を送る人が増えたきたのではないか?

物はあふれても、それに反比例し心の豊かさが失われてきたように思う。

考えることの大切さに気づいた人たちが、教育に新しい提案をしても「何で、そんな時間のかかることをするの?」の言葉にかき消されるような危惧の念を抱く。

かつての大国が崩壊したのは、外的要因ではなく、人々の心にある内的な精神の貧しさの進行であったということは、まさに歴史に学ぶべきことだろう。

果たして、日本は精神的危機を克服することができるだろうか?

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posted by edlwiss at 12:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年03月03日

義務教育や学校教育を誤解していないか

大阪市長、橋下氏の「落第発言」により、学校教育が話題になっている。

小中学校において、落第はさせられるのかという問題だが、留年と言ったほうがよいのかも知れないが、法的には可能という回答が、政府よりあった。

政府の回答を待つまでもなく、そんなことは知ってるよという人も多かっただろう。

ただ、間違えてはいけないのは、成績不良という理由で落第させられるかということである。

ここは、個人が勝手な意見を言うのではなく、日本の教育がどういう制度をとっているかを確認しておくことが必要である。

年齢主義

年齢主義とは、学習者の習熟度を考慮せず、一定の年齢により進級させる制度である。

課程主義

課程主義とは、その学年で習得すべき学力を習得したかを判定し、進級させる制度である。

我が国の義務教育

我が国の義務教育は年齢主義をとっている。
だから、進級については、各学年の学力を習得したかどうかは問題ではない。

年齢主義と比較される制度に、年数主義とという考えがある。これは、小学校は6年間学び中学校は3年間学ぶというように、年数で修了を判定する制度である。

我が国では、年齢主義と年数主義とを同義に考えられているようであるが、これを厳密に区別するという考えも検討されている。

いずれにしろ、日本の義務教育では、成績で進級の可否を判定する制度を取っていないので、小中学校でどれほどの学力が身についたかどうかは、問われないことになる。

学校の責任

義務教育における学校の責任は、教育課程の内容をきちんと施行したかどうかが問題であり、児童生徒が通学することによりどれほどの能力を身につけたかということは責任の範囲ではない。

ここを誤解する人もいるようで、責任はないと言うだけで、教師として自分が指導した児童生徒の習熟度について、振り返ってみるのは、教師としての良心として考えてみるべきである。

こういう、責任の範囲ということについては、社会ではいろいろな場面がある。

例えば、自動車を例にとってみよう。

自動車メーカーは、自動車の機能や安全性について、一定の基準をクリアする必要がある。
しかし、使用者が事故を起こしたことについてまで、責任を問われることはない。
もちろん、再度、確認するが、機能や安全性の基準をクリアしていることが条件である。

また、責任が問われないからと言って、さらなる向上に努めなくてもいいということではない。

そういう意味では、保護者が子どもの成績が悪いのは、教師に責任があると問う場合、教師は学校教育法に照らし合わせて、適合する指導を行ったかどうかが問われることはあっても、我が子が入試に失敗したからといって、それは教師の責任と言えるかは必ずしも結論づけられない。

必ずしもというのは、将来、そういう訴訟を起こす人がいるかも知れないからと思うからである。

義務教育と義務教育以外のけじめ

わかりやすく言えば、中学校卒業後の高校進学の問題である。

高校は義務教育ではないから、親は進学させる義務はない。子ども側からすれば、高校へ進学する権利もない。もちろん、高校入試に合格すれば、進学の権利は与えられる。

ほとんどの中学卒業者が、高校へ進学する現状では、高校進学が当たり前のような風潮もあるが、わずかでも社会に出る者もいる。
そういう面では、進路指導という立場では、進学者、就職者、その他を差別しない指導をしなければならない。

高校は課程主義であるから、一定の成績に達しないものを原級に留めるという処置は、あり得ることである。

まとめ

義務教育においては、落第(留年)は認められているが、一定の成績に達しないからという課程主義と混同してはならない。

義務教育における落第は、病気や事故のためなどで、ほとんど通学できなかったため、落第のほうが本人の利益になるというような判断ですべきである。

簡単にいえば、日本の義務教育では、一定の年齢に達すれば、義務教育が終了したと判断するわけで、それは教育課程の習熟度ではないということである。修了したかどうかとの違いも厳密にはあると言えるだろう。

一部の塾関係者などが、習熟度をもって学校の責任を問うのは、勘違いである。

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posted by edlwiss at 16:56 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

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