2012年04月30日

人を動かす力

何度見ても涙が出てきてしまう映画があります。

アメリカ映画で"Who Will Love My Children ?"、日本名「ファミリー」です。
実際にあった話を映画化したものです。
監督はこういう家族があるのを知って、これは絶対に映画にすべきだと思ったと言います。

題名の通り、ある一家の話なのですが、夫婦に12人の子どもがいます。親父はいい人なのですが、中風という病気を持っていて手がしびれるので、仕事についても失敗をしてクビになり、なかなか収入は得られません。

なにしろ、子どもは12人(一番上が15歳の女の子だった思います)なので、暮らしは大変です。

特に奥さんの苦労は並み大抵ではありません。

情けない亭主に奥さんは苦情を言うのかと言うと、全くそんなことはありません。

それは、そんな亭主でも奥さんにはやさしい言葉をかけるのです。
奥さんは、その亭主のやさしい言葉一つで、生きがいを感じ、子どもたちのために苦労ができるのです。

亭主も子どもたちには強い愛情を持っていますが、ろくに仕事ができないので、何もしてやれません。
一番年上の女の子が、大人に近いせいか父親に厳しくあたったりしますが、父親は自分のふがいなさを感じているせいか怒ったりしません。
ひたすら、家族思い、子どもに強い愛情を持っています。

貧しいながら、子どもたちは年上の子が下の子をいたわったりして、絆の強さを感じます。

子どもたちが仲がよく、たくましく生きているのも、夫婦仲の良さが反映しているように思います。

この一家は、お母さんが一人で苦労して支えているようなものですが、そのお母さんも時に疲れて元気をなくしている時がありますが、そんな時、亭主のかけるやさしい言葉で元気を出します。

貧しいながら、平和で助けあっている家族ですが、ある日、母親にガンが見つかります。

ここからが、この映画の泣けるところです。

こうなると、母親の闘病生活を中心とした映画ができるのかも知れませんが、このお母さんは自分のことより12人の子どもたちのことを心配します。

そして、役所に行って相談しますが、子どもたちがそれぞれ養子に行くと、以後は子どもたち同士会うことはできないきまりになっていることを母親は知ります。

そんなことはダメだと感じた母親は、自分で子どもたちの養子先を見つけることにします。

自分で面接して、よいと思ったら養子の承諾をするわけです。

12人いた子どもたちは、1人減り、2人減りして最後にみないなくなります。

母親はポツンと1人で窓を眺めています。

子どもたちが揃って、母親に近づいてくる幻想を見ます。

甲斐性のない亭主は、なんとか子どもたちに会わせてやりたいと考えますが、お金がありません。
そこで、大事にしていたギターを売って、バスの切符を買ってやります。

と、こんな展開の映画ですが、人がどうして前向きになるのか、それは短くも心のこもった言葉なのだと感じさせられることです。

そういえば、私自身、幼い時、伯母に引き取られた身ですが、小学校2年の時でした。
伯母が、どうしようかと思案にくれていた時、私が何か言ったひとことで、やる気になったと言っていました。

教師はいろいろと教育に関して勉強しなければなりませんが、何よりも大切なのは心のこもった言葉であり、そういう声かけができない教師は、いくら知識や技術があってもダメだと思うのです。

いつも皮肉や嫌味、やっかみ、愚痴ばかり言っている人。
まるで、人が失敗するのが嬉しいんではないかと思わせるようなことを言っている人。

こういう人を、私は一番軽蔑します。

もちろん、教師という仕事をやって欲しくないと思います。



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2012年04月29日

小中などの壁のない交流

私は始め小学校へ赴任しましたが、大学の吹奏楽団で指揮をしていたこともあって「こいつは、音楽の授業ができるな」と思われたようです。
(小学校の免許状を持っているから、当然できなければいけませんが)

大学の教育学部では音楽科があつて、吹奏楽団の指揮は代々音楽科の学生がやっていました。
ところが、どういうわけか、そのしきたりを無視して、私が指揮をやることになってしまったのです。

当時、吹奏楽はかなり加熱していて、先生も力を入れてくれました。
音大との交流もあったし、国内外の先生を招いての研究会もたくさんありました。

それで、私はすっかり音楽漬けになってしまい、趣味を超えるような勉強もやらざるを得ないことになりました。

最初の小学校では、音楽ができると思われたらしく、音楽主任をやることになってしまいました。

すると、音楽の先生たちとの会合も多くなり、ここでは小中の交流も多くなりました。

そして、これは音楽という教科の特殊性だと思いますが、音楽をやることについては小学生も中学生もないわけです。

昔の話ですが、小学校の研究発表を本として出版したものの中に「これは、小学校1年生から6年生までのテストの結果を示したものです」というものが載っていました。

その本の始めに

「まず、1年生から6年生まで同じテストができるということを不思議と思わなければなら
ない」

とありました。

それが音楽という教科なのだということではなく「それはおかしなことだ」と言うわけです。

ここでは、その研究内容については触れませんが、テストの対象を中学生にまで広げても同じかも知れません。

別の言い方をすれば、音楽という教科は年齢に関係ないとも言えるわけです。

街のアマチュアオーケストラでは、小学生から大人まで入り交じって練習をしています。

吹奏楽団でも同じようなことが言えます。

音楽は学校内だけに留まらず、地域社会に出て合唱団、吹奏楽団、オーケストラを作るとそこには子どもも大人も、学校の先生も集まってくるのです。

だから、そこでいろいろな交流が起こって、それがまた学校にも返っていきます。

私の場合、そういう中で、ある中学校から来てくれないかという依頼があり、転勤したという経緯があります。

音楽の活動があまり盛んでない地域では、小中の情報交換があまりないかも知れませんが、アマチュアの音楽団体の活動がある地域では、小中の壁のようなものはないと言えます。

私はいつのまにか、音楽の先生にされてしまったようなところがありますが、そのおかげで日頃から多くの交流が持てたことはプラスになったと思います。

実技を伴う教科では、実技を通して小学校とか中学校とかいう壁を作らず、広い交流を作れる可能性があります。
そういう活動を盛んにしていくことは、学校が閉鎖的な雰囲気を作らないで視野を広げることになると思います。

もっとも、雲の上から全てが見通してしまえるような超能力を持っている人は別ですが。

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2012年04月27日

思い出の夏〜また夏がやってくる

The Summer of '42 というアメリカ映画は、ミシェル・ルグランが作曲を担当した。その美しいメロディーに魅了されてしまった。
私はルグランが好きである。

ルグランはシェルブールの雨傘の作曲でも有名である。

この映画、日本名が「思い出の夏」というのだが、私にも思い出の夏がやってくる。

映画は思春期の少年の微妙な心理と年上の女性に対する思慕が中心になっていて、主演のジェニファー・オニールという女優が素敵だ。


私自身の思い出の夏は、そういう思い出ではなく、小学校へ勤務した時のかけがえのない思い出である。

このことは、以前の記事にも書いたが、その時勤務した先生たちがみな、夏に集まるのを楽しみにしている。

会合というのは、儀礼的なものもあるが、この会合には全くそういう空気がない。
本当にみな、楽しみにしているのである。

私は大学の時、教育実習に行って、すばらしい経験をしたにもかかわらず、いざ学校の教師になるかどうかは迷っていた。

結局、採用試験を受けることになったが、受験者数と採用予定数を見た時、倍率が30倍を超えていたので、合格の自信はなかった。

ところが、採用するという通知が来てしまった。

事務所で説明を聞いて、いざ勤務の学校へ行くとなった時、とても遠方だったので、気持ちが滅入ってきてしまった。

いざ赴任してみると、職員数は18人、不安な気持ちで勤めているうちに、それは素晴らしい経験をすることができ、もし、あの時の校長先生、職員の人たちに会わなかったら教師を続けるということはなかったと思う。

野球では、全員野球という言葉があるが、まさに18人全員での教育であった。

みんな個性的な先生で、ユニークであったが、誰一人欠けても変だというチームワークだった。

こう書いてくると、ケチをつけたくなる人がいるかも知れないが、その時の職員がみな、毎年集まりたいという気持ちを持って、一度も欠かさず集まることから、いかにかけがえのない経験であったか察してもらいたい。

教師と児童との取り組みは、当然のように効果に反映した。

それは、子どもが卒業して中学校へ行くと、小学校で培ったパワーが中学校に相当な影響を与えたことでわかった。

しばしば、中学校の先生から話があった。

例えば、授業中に「ちょっと○○小出身の子たちは待っててね」ということがあったという。
それは、あまりにも早く出来てしまうので、待たせることがあったという。

私はその小学校では、音楽のクラブを作るように言われたが、校長の熱の入れ方もあって、管楽器を取り入れて合奏をするクラブを作った。

その子どもたちが卒業して行っても、中学校に吹奏楽部はなかった。

そうすると、子どもたちは吹奏楽部を作って欲しいと校長の元へ直談判に行った。

校長は心を動かされ、音楽の先生に気持ちを確認し、そのあとPTAの協力で楽器を揃えて、間もなく吹奏楽部ができてしまった。

私はそういう経緯をずいぶん後から知って、驚いた。

その生徒たちは卒業すると、今度は市民吹奏楽団を作ってしまった。

これは、私が自慢をしようというのではなく、野球のチームがピッチャーだけ、4番だ者だけ、監督だけでは勝てないように、全員野球ならぬ全員教育の力だったと思う。

だから、18人の職員の中にエースがいたわけではない。

全員の力が理想的に働いて、成果を挙げたものである。

いろいろなブログを読むと、小学校と中学校のの間に変な節を感じるようなところもある。
なぜ、感情的にも小学校と中学校の連携がスムースにいかないのかと思う。
狭い根性が影響しているということはないだろうか?

小学校は子どもにパワーをつけて、中学校を支えたいものだ。

小学校の教師がどうのこうの、中学校の教師がなんのかんのって変な話題が気になる。
大人の変な意地を張っているということはないか?
変なプライドはないか?

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この小学校の経験は、私にとっては貴重な宝であり、以後、私の人生に大きな影響を与えたと言ってよい。

残念なのは、その時の校長は他界され、職員の中にも他界された人がいることである。

今年の夏の再会は、私が当番である。

良い会になるように、準備を怠りないようにしたいと思っている。

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2012年04月27日

人を選ぶことの必要性

syogi.jpg私は将棋が好きで、テレビの将棋専門チャンネルを見ます。

将棋は約束で成り立っているゲームです。
だから、対戦者同士は約束を守るのは当然です。

どんなに自分が苦しくても、約束を破ることはできません。
でも、自分の都合で、あいての駒を変えたり、動かしたりする人がいるとしたら、その人は除外しなければなりません。

将棋など約束があって成立しているゲームは、互いにルールを守るという信頼関係で成り立っているわけです。

ルールを守らない人は、信頼関係が保てない人ということになるわけです。

しかし、ルールを守るというのは、ゲームだけではなくてビジネスの世界や人と人との交友関係でも同じです。

我が国は「言論の自由」がありますから、自分の言いたいことを発表するのは自由です。
でも、ここで絶対にやってはいけないことは、他人の意見を引用する時、捏造をすることです。

こんなことは常識人なら周知のことですが、これがあるんですね。
他人に、自分の意見を捏造されたということは、私自身、ネットに参加するようになってから、しばしばあります。

捏造する側の人は、特に、意見が対立するとき、相手の意見を自分の都合のよいようにつくるわけです。

私は捏造されたと知った時は「それ、どこに書いてありましたか?具体的に指摘してください」としばしば、たずねます。
しかし、その返事が返ってきたことは一度もありません。
この瞬間、この人は信用できない人と判断します。

人間には間違いがあります。
だから、他人の意見を間違ってとらえることもあるでしょう。
だから、間違いを指摘された時、確認をするとか、訂正する必要があると思います。

ビジネスの世界では、ルールを守らなかったり、捏造をしたら終わりです。

特に、学校の教師をしているなら、人の社会がルール、それは信頼関係でできていることをしっかり子どもに教えていかなければなりません。

それは、口で言うのではなく、教師自らが実践することが大切です。

教師が日常実践することが、子どもの教えになるのだと思います。

掲示板やブログを読むとき、他人の引用があったら確認するようにしましょう。

病気の人

他人の意見を捏造するということが、意識にない人もいるようで、そういう人は病気か始めから頭の回路が壊れているのでしょう。

togo.jpg私は実際に、そういう人を知っています。
日常は普通の人に見えます。しかし、話を始めたりすると、おかしいところが出てきます。

これは、かつてブログで取りあげましたが、精神科の先生に聞くと、統合失調症だと言います。
平常人に見えるのだけれど、普通と異常の間を行ったりきたりするので、わかりにくい場合があると言います。
統合失調症と言ってもいろいろなパターンがあって、その行動は一種類ではないようですが、妄想が激しいというのはよく見られる現象のようです。

私の知っている人は、校長の指導でほぼ一年間休職しました。
その後、職場に復帰しましたが、授業の時は、生徒たちは先生がいるのに自習状態です。
それ以外は、他人に害があるということはないです。

また、別の人間は好訴妄想というのがあって、やたら訴訟を起こしたくなるという行動があります。
実際、精神科の院長が訴えられました。

やっかいなのは、正常人のようにも見えたりするので、仕事を任せるのですが、人との交流が何か変なので、学校などでは困った末、仕事らしい仕事を与えないようにしています。

だから、結局、勤めていたとしても仕事はしていないと同じです。

精神科の先生は「あなたの友だちの中にも、そういう人はいますよ」と言うので、どういうことかと聞くと、存在する確率が100人に1人ぐらいると言われました。

統合失調症は、昔は精神分裂病と言われました。
しかし、これでは名前がひどいのでということで、統合失調症と変更されたということです。

あまりにも、コミュニケーションが変とか、勝手に作ってしまって意識がないという人は、そのおそれがあるのかも知れません。

最近、鬱病という言葉をよく聞きますが、鬱病と診断された人の中には、実は統合失調症という人がいるそうで、これは医師があえてそういう病名にしているとか、誤診であったりすることがあるということです。

100人につき1人ぐらいいるということは、1000人人がいたら10人ぐらいいるということですから、かなり大変と思います。

大きな都市では、教員数も多いので、確率から言うとそういう人もかなりいると予想されます。

このブログを読んでいて、思い当たるという人もいるかも知れません。

E.クレペリンおよびE.ブロイラーが例示した疾患群は以下のとおり。

単純型痴呆
破瓜病
緊張病
妄想性痴呆

当該疾患群に共通する症状は精神分裂症(精神機能の分裂症)と呼ばれる状態で、記憶と妄想が時系列的に混在して思考や感情がまとまりにくくなり、罹患者が本来有している知的水準や身体能力から期待される役割遂行能力が顕著に傷害され、回復のために治療や社会的な援助が必要となる。本来当該疾患は疾患概念であるが回復の困難性から保健福祉行政上は(自己申告により)障害者概念が適用される。
フリー百科事典「ウィキペディア」より
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2012年04月27日

読解力の問題〜ピンポイント症候群

次の有名な唄は何を言いたいのだろう。

京で一番糸屋の娘

姉は十六 妹は十四

諸国大名は弓矢で殺す

糸屋の娘は目で殺す

この唄は、下の曲と同じなのだが、何が同じなのかわかるだろうか?

aruzi.jpg

もちろん、この曲が、始めに挙げた唄と同じ曲だという言う意味ではない(Original)。

私が人と人とのコミュニケーションの危機を感じているのは、読解力の低下であり、それは会話における、相手の言いたいことを理解する能力と共通するものである。

戦後の過度な受験競争という言葉が、しばしば使われる。
過度な競争はともかく、記憶中心の、選抜がもたらした弊害かも知れないと思う。
「押しボタン社会」による、考えることを放棄した影響かも知れない。

教えたことしかできない。
教えたことはできる。
マニュアルがないとできない。

これらは、人間の何が低下したのだろう?

それは知能の低下だと思う。

日本は人工知能の研究が盛んだと聞いたことがある。
LispとかPrologなどの人工知能言語は古くから有名であるが、今日は一般には人工知能言語は出てこない。

ともあれ、もうずいぶん前に、コンピュータに人工知能言語を搭載して、その能力は小学校三年生ぐらいの力はあると聞いた。

うろ覚えであるが、人工知能を持ったコンピュータに次のような文を読ませるというようなところがあった。
自家用セスナで飛行中のマックスさん一家は、雲を通り抜けると、急に眼前に山の絶壁を見ました。それで、マックスさんは急いで操縦桿を力の限り引きました

そして、コンピュータに質問する。

「マックスさんは、なぜ操縦桿を引いたのですか?」

コンピュータは次のように答えた。

「飛行機が絶壁に衝突すると感じたからです」

と。

低レベルの質問ではあるが、コンピュータには「操縦桿を引くこと」は教えていない。

この教えていないというところが大切である。

それは教えていないのに答えたからである。

だから、人工知能を持つコンピュータが進化すると、教えてもいないことを判断して仕事をすることになる。

別の話だが、自由に動けるようにした車輪(脚)を持つようにした簡単なロボットに人工知能を取り付けたら、ロボットは自由にバタバタと動いているうちに、人が予想もしなかったような動きを考えていったという。

米長邦雄永世棋聖が、ボンクラーズというコンピュータに負けた話はニュースになったが、これからは間違いなくコンピュータが賢くなると予想される。

すると、大概の事はコンピュータに聞けということになってくるだろう。

若い人が就職難と言われるこのごろだが、知能でコンピュータに勝てないとますます、就職難になりはしないか?

それだけではない。

ただ歳をとっただけで、少しも賢くなっていない脳にはきつい世の中になるかも知れない。

しかし、コンピュータにも非常に難関がある。

それは、心の分野である。

手塚治虫のマンガ「火の鳥」には子育てロボットが出てくる。

愛情豊かで、優しく賢く人間の赤ちゃんを育てる。

やがて、赤ちゃんが育って、青年〜大人になっていくと、ロボットが嫉妬の感情も抱くようになる。

手塚氏のマンガにあったことは、次々と現実になってきていることから、将来は本当にそうなるかも知れない。

それにしても、芸術や人の心の機微を理解できない人も困ったものだ。

機械的な応対しかできないし、感動がない。

さて、始めの話に戻るが、始めに挙げた唄の意味が理解できない人が、予想以上に多いのには閉口する。

クラシック音楽も、各部分が融合しあい、人の持つ特別な知能と感情を刺激する部分に訴えかけて、それがとてつもない大きな力を持って迫ってくるように感じる。

バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、・・・の訴えるものを感じないで、ただ非生産的と切り捨てるようでは味気ない世の中になってしまう。

私がピンポイント症候群というのは、ABCD各部分を読むことはできるし、それぞれの意味はわかるのだが(ピンポイントでしか理解できない)、ABCD全体として何が大きな力となっているのか、訴えているのかがわからないという思考力のことを言う。

糸屋の娘がどれほど美しいのか、魅力的なのかわからない人は残念である。

dokukairyoku.jpg


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2012年04月27日

再稼働に賛成、反対?

大飯原発の稼働に関する意見が盛んだ。

稼働に賛成でも反対でも、意見が論理的でないとどうしようもないと思います。

経済問題と安全性がごっちゃになっていますね。

「賛成です。安全性を確認して稼働してもらいたい」

この意見、どうですか?

安全性を確認すればいいんですか?

じゃあ、誰が安全性を確認しますか?

野田総理ですか?
いや、専門家ですか?

どちらにしても「安全性を確認しました」と言えばいいんですか?

でも、安全性を確認したとはどういうことですか?

1.絶対安全である

2.事故は起こるかも知れない

どちらですか?

いや、どちらかでなく、

絶対に事故は起こらないとは言えないけど、福島のような地震や津波には耐えられますですか?

では、福島のような地震や津波以上の自然災害についてはどうですか?

1.わかりません

2.想定外です

どうなんですか?

はっきり言えることは、絶対に事故は起こらないとは言えないということですよね?

では、事故が起きた時はどうしますか?

事故は起こらないようにします。(回答)

これって、おかしくないですか?

賛成、反対以前に論理が成り立っていないじゃないですか?

絶対に事故が起こらないようにできるんだったら、そうしてください。

それから「安全性を確認して」といいますが、それは安全性を確認しましたという儀式でいいんですか?

事故が起きた時「安全性を確認しましたか」と言われたたら、儀式として「一応確認しました」でいいわけですか?

「確認した時、事故の可能性は考えませんでしたか?」

と問われたら

「確認はしました。事故の可能性は否定出来ないと思いました。でも、確認したのは事実です」

なんて、弁解が通用するんですかね。

だから、再度確認

どんなに確認しても、事故が絶対に起こらないとは言えない。

ということは、事故もあり得るわけだから、

事故が起こった時は、運悪く犠牲になった方には申し訳ありません。運が悪かったと思ってください。

ということになりませんか?

真面目な話。

原発推進の方々の主張が説得力を持つのは、

原発推進派の方々は、原発地域に住んでください。

問題になった公務員宿舎もその地域に建ててください。家賃はタダでいいです。

首相官邸も原発地域に作って、野田総理そこに住んでください。

それが、国民を納得させる方法です。

原発が嫌いな人たちは、被害の及ばないところに住みましょう。
お世話にもならないようにしましょう。
そのかわり、税金の高いのも我慢しましょう。

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2012年04月26日

犬猫ブーム

ペットとは何か

犬猫は昔から飼われているが、ペットブームと言われるように、近年、その数は多くなってきたと感じる。

ある人は、子どもが高校へ行くようになると、犬や猫を飼う人が多くなると言っていた。

そこから想像されるのは、親にとって子どもはペットかも知れないということだ。

意識するしないにかかわらず、子育ての中にはペット感覚というものがあるのかも知れない。

かわいいという気持ちで、夢中になって子どもを育てる。しかし、その気持ちが次第に離れていくのが高校生になるころということかも知れない。

私は子どもをペットという意識で育てるのをいけないと言っているのではない。

ペットとは何かと問われると、私なりの感じ方、解釈はあるが、ペットという言葉が否定的に響く意味は、ただかわいいというだけで、ペットそのものの本当の幸せを考えているかどうかということだ。

その点の論議はまた別の機会に譲るとして、今日、もっと問題だと思うのは、こうして文章を書いている時、今出てきた「ペット」という意味をどう考えているかということだ。

つまり、ペットの意味が人によって違うということだ。

いや、違ってもいいのだが、最も問題だと思うのは自分の理解している意味も他人のそれも同じだと勝手に思っているということだ。

話し合いの混乱は、こういう点で起こりやすい。

言葉は人と人がコミュニケーションを持つ手段として存在するので、橋渡しをするための言葉の意味が違っていては、話にならない(言葉としての価値がなくなる)。

だから、私の言いたいのは辞書を参照して、そこに書いてある意味を共通理解するか、そうでなければ、私は○○という意味で使っていると明示しておくべきだと言いたいのだ。

ペットの存在意義

ここで、ペットという言葉の意味をはっきりしておきたい。
それで、例によって「フリー百科事典」ウィキペディアを参照する。
ペットは、人の心を和ませたり楽しませてくれる、といった理由で人が飼っている動物のことである。人はペットとの様々なやり取りを楽しんだり、その姿や鳴き声などを鑑賞したりする。

こんな風に説明してある。

ペットは人の環境改善に寄与していると言えるわけだ。

ペットがいるだけで、心が和んだり楽しくなるというのがペットを買う理由と言える。

赤ちゃんもいるだけで、人はかわいいと感じ、人の心を安らげるという意味では、ペットも同じと言える。

ただ、人間の場合育てる人が、かわいいとか心が安らぐという理由だけで育てるのは問題であって、赤ちゃんが順調に育って自立していけるように考えなければいけないということである。

環境改善

環境改善ということを考えれば、ペット以外にもいろいろ考えられる。

例えば、観葉植物を置く。

快適な香りを発するものを置く。

BGMを流す。

美人秘書を雇う。

環境改善のためだけに人を雇うというのは、問題だという考える人もいるだろうか?

金融ビッグバン以前は、銀行の金利はどこも同じで、その金利は最も経営が苦しいところに合わせてあり、銀行といえば絶対に潰れないという仕組みになっていた。

大蔵省の頃の話だが、これを護送船団と言った。

銀行は大蔵省に守られていたわけだ。

一番経営の苦しい銀行が潰れないようにしてあったので、そのおかげで余裕のある銀行もあった。

だから、そういう銀行では豪華なビルを建て、人を雇う余裕もあった。

そこで、職場の花と言われる女性も雇われたわけだ。

何も仕事がないから、お茶くみでもやらせようということになったのだ。

私も金持ちになれば、美人秘書を雇いたいと思う。

環境悪化

私は美人ではないから、環境を悪くしているのかと言ったら、そうでもない。

美人秘書を雇うと言ったが、それは美人コンテストに出せそうな人をと考えがちかも知れない。

「美人は三日で飽きる」という言葉があるように、姿、形がよくてもだからいいとも言えない。

それは、人間が心を持っていて、感受性を通して影響を受けるからだ。

私が子どものころは、家に犬猫を始めとして動物がたくさんいた。

猫は代々雑種で、老衰して死ぬとどこかからか貰われてきた。

それらの猫はみな美人(美猫)とは限らなかった。
でも、他人が見たら、変な猫というかも知れない猫でも、家で飼っている猫はみなかわいかった。

人は感情の動物である。

美人秘書でなくても、人は同じ職場に勤めたりすることで、互いに環境を作っていると言える。

すると、自分は環境を良くしているか悪くしているかということを時には考えたほうがいいのではないかと思う。

1.あの人が来ると、職場が明るくなる。

2.あの人が来ると、職場は憂鬱な空気に包まれる。

少なくとも、2のような存在にはなりたくないものだ。

環境を悪化する人は、教育の場にふさわしくない

yakkai.jpgそれでは、環境を悪くする人とはどんな人だろうか?

ブス猫でも飼い猫はかわいい。

環境に対する良し悪しは、姿、形ではない。

人の心にどう訴えるかである。

環境を悪化する人は、人を憂鬱にさせる人である。

初対面の時、人はわからないが、ともに生活することで、その人の影響力というものが出てくる。

環境を悪化する人、人を憂鬱にする人とは、

1.猜疑心の強い人

2.嫌味ばかり言っている人

3.愚痴ばかり言っている人

であると思う。

こういう人は、いつしかそういうことが自分の体に染みついて、自分が意識しないでも体臭のようになっている。

だから、黙っていても、その人の体臭が周りに漂うわけである。

こういう体臭は、子どもにはよくない。

子どもの心は沈んでしまうだろう。

どんな偉そうなことを言っても、そもそも教育の場には不適である。

少々不器用でも、指導力が劣るとしても、環境を良くする人の方がいい。

猜疑心(さいぎしん)
人を疑う気持ちのこと。相手が自分に悪影響を与えるのではないかと疑う。

「猜疑心の強い人」=「疑い深い人」
(はてなキーワード)
妄想性人格障害
妄想性人格障害の基本的な特徴は「猜疑心」と「敏感性」の二本柱です。
そして、これに伴うものとして「不信」「論争好き」「頑固」「自負心」があげられます。
つまり、猜疑心が強く、嫉妬深いタイプがこの人格障害の特徴です。
さらに、すぐに人をねたんだり、疑ったりするので社会になかなかとけ込めません。
また、ちょっとしたことで怒りを爆発させることもあります。

嫌味(いやみ)
1 人に不快な思いを与える言動。あてつけや皮肉。また、それによって不快感を与えるさま。「―を言う」「―たっぷりな口ぶり」
2 ことさらに気どっていて、いやらしいさま。「二枚目ぶって―な男」「凝りすぎて―な装飾」
[補説]「嫌味」「厭味」と当てても書く。
(goo辞書)

愚痴(ぐち)
言ってもしかたがないことを言って嘆くこと。「―を言う」「―をこぼす」
〔仏〕 三毒の一。物事を正しく認識したり判断したりできないこと。愚かであること。痴。癡。
――の闇(やみ) 愚かで物事の道理に暗いことを、闇にたとえていう語。「―深うして、慢の幢(はた)高し/盛衰記 8」
(はてなキーワード)

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2012年04月26日

裁判の公正化



日本の司法改革はまだ十分ではないと思う。
まだ、不透明な部分が多いからだ。

公平な裁判というからには、検察官、弁護士の関係が均衡していなければならない。
だが、検察官は公務員であるが、弁護士は自営業者と同じである。

検察官と弁護士の間を中立な立場で、裁判を進めなければならない裁判官も公務員であり、しかも裁判官と検察官の仕事を行ったり来たりするのでは、裁判官と検察官の間に仲間意識ができて、公平な裁判ができるとは言えない。

検察が起訴すると、有罪率が99%以上と統計が出ているのも、検察の言い分は即、裁判官が何の疑いもなく採用するからである。

これは、冤罪を生みやすい環境にもなっている。
posted by edlwiss at 08:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年04月25日

オレガオレガ先生

garyu.jpg音楽に携わっていて、一番怖いと思うのは我流です。

私も中学生時代にはかなり我流が入っていました。

その後、先生に教わるようになって、自分の奏法が我流だと気がつきました。

ある夏の音楽合宿の時でした。

「このまま我流を続ければ、先はない」

と感じました。

当時、クラリネット奏者の、フランス国立ルーアン音楽院のジャック・ランスロ氏のお話を聞いていて、ますますこのままではいけないと感じました。

楽器を習うとき、入門が特に大切で、少し自分で練習してから先生につこうというのはまずいということをこの頃、思い知らされました。

それは、間違った練習(我流)を1週間続けると、それを直すのに1週間かかる。
1ヶ月間違った練習をすると、それを直すのには3ヶ月かかる。
3ヶ月間違った練習をすると、もう一生直らないというようなことを言われました。

そして、大先生は我流で練習していた者は弟子にとらないとも言われていました。
まだ、初心者の方がいいということでした。

私には大変ショックでした。

音楽合宿は10日間ありましたが、私はこの合宿中に思い切って、我流の奏法を直そうと決心しました。

それは、今までやってきたことを一切、壊そうというものです。

一から始めようと決心した時、楽器がまともに支えられなくなりました。

すごく違和感があり「こんな形で演奏するのか?」と疑問に感じました。

そして、ほとんどゼロになったので、曲もそれまでのように演奏できなくなり、周りから「下手になった」とか「あれはダメになった」のようなことを言われました。

合宿中は練習するというより、壊すことに明け暮れたようなものです。

1年は過ぎたかと思いますが、次第に違和感がなくなり、正しいやりかたでできるようになってきました。

あの頃を思い出すと、非常に辛い時でしたが、決心してよかったと思いました。

私の音楽入門は吹奏楽でしたが、後にオーケストラにも縁がありました。

あるアマチュアオーケストラと縁ができた時、そこには立派な先生たちが講師に来ていました。

その中でクラリネットのA先生はとても親切にして下さって、とても勉強になりました。
先生との出会いにとても感謝しています。

そのアマチュアオーケストラで、クラリネットを吹いていたM君という大学生がいました。

ある日、A先生が私に

「M君が弟子入りしたいと言うんだが・・・」

と言われ、しばらくして

「もう、遅いよね」

と言われました。

つまり、A君は我流が身につき、今からそれを矯正して習うのは無理だと先生は判断したのです。

A君を教えたのは、中学校の時のS先生です。

S先生は、いわゆるオレガオレガ先生で、何でも俺は知っていると、何でも口を出す先生で、クラリネットは自身で習ったこともないし、演奏もできません。
その先生がオレ流で教えたわけです。

吹奏楽部にはこういう、オレ流の先生がいて、すべては自分が法律で何ごとも自己流を得意になって教える先生がいます。
これも、一種の悪い学級王国みたいなもので、まあ、部活王国と言えるのかも知れません。

犠牲になるのは生徒で、才能はあるのにオレガオレガ先生によって、潰された者を何人か知っています。

オレガオレガ先生にしてみれば、いつまでも生徒を自分のもとにおいておきたいらしく、動物の世界では、子どもが成長すると親が自立を促すわけですが、人間の世界では違った面もあります。

私は自分の経験からも、我流は怖いと思うし、まして自分のために生徒の才能を潰すということは罪だと思うので、楽器の指導などは専門家に任せます。

優秀な生徒を見ると「これは自分が教えていてはダメだ」と感じて、別に先生を紹介するということをしてきました。

我流が怖いというのは、何も音楽の世界だけではなく、教えること全てに共通することだと思います。

だから、先生と呼ばれたからと言って慢心することなく、自分が全ての法律のもとであるような発言を慎むようにしなければいけないと思っています。

それには、先生自ら勉強することはもちろん。できれば、自分も先生について何かを習うという姿勢がよいのではないかと思っています。

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posted by edlwiss at 11:25 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年04月22日

カール・ライスター

Leister.jpgヘルベルト・フォン・カラヤンについて書きましたが、できれば、実際に彼と会ってお話をしたかったと思います。

でも、彼は故人です。

いや「生存中でも、お前などに会ってくれるはずはない」という方もいるでしょう。

まあ、そうでしょう。

でも、彼のもとでベルリンフィルの主席クラリネット奏者を務めた、カール・ライスター氏に会うことはできました。

しかも、寿司屋で会食して、いろいろな話を聞くことができました。
カール・ライスター(Karl Leister, 1937年6月15日 - )は、ドイツのクラリネット奏者。世界を代表するクラリネット奏者の一人である。

現ニーダーザクセン州のヴィルヘルムスハーフェンに生まれる。11歳の時、ベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ交響楽団)のクラリネット奏者であった父から手ほどきを受けてクラリネットを始める。15歳からおよそ3年かけてベルリン音楽大学で学ぶ。19歳でベルリン・コーミッシェ・オーパー管弦楽団の首席奏者に就任し、22歳でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(当時の音楽監督はカラヤン)の首席奏者に就任、1993年まで務めた。また1984年からサイトウ・キネン・オーケストラでも活躍している。他にも、1987年にはロンドンの王立音楽アカデミーの名誉会員および客員教授に任命され、1993年から2002年にかけてベルリン・ハンス・アイスラー音楽大学の教授を務めたりするなど、将来の音楽家たちの教育に当たっている。

ベルリン・フィル加入と同時期にソロ活動や室内楽活動も始めた。アマデウス弦楽四重奏団・ピアニストのヴィルヘルム・ケンプなど、著名な音楽家と室内楽で共演している。また、ベルリン・フィルハーモニー木管アンサンブル、ベルリン・ソロイスツ、アンサンブル・ウィーン=ベルリンの創立者の一人でもある。

曲中の速く難しいパッセージ(旋律)においても気持ちよく響いた音を出し、それが全くぶれたりしないという点が長所とされる。また室内楽では音楽を完璧にリードし、流れを創っていく。ライスターの演奏を人間味に欠けると評する向きもあるが、これは恐らくテクニックの完璧さの裏返しであろう。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

自然から受ける啓示

ライスター氏から教わった、最も印象に残る言葉は自然から受ける啓示です。

ライスター氏にはクラリネットそのものについても、いろいろお聞きしたのですが「どうしたら、音楽が上達しますか」との問に対しての返事が自然から受ける啓示だったのです。

彼は「どうしたら、音楽が上達しますか」の問に対して、私が何にに困っているのか、何か壁にぶつかっているのだろうという気持ちを察しての返事だったのだろうと思います。

音楽の練習(楽器の練習)は、入門の段階ではやることが山積しています。
しかし、何年も経験を積んでいくに従って、練習のメニューをすべて越さないにしても「行き詰まり感」を持つことがあります。

自分では音楽的に演奏したつもりでも、ふと気がついてみると、結局誰かの真似なんだと感じることがあります。

世の中には上手い人がいっぱいいるので、そういう人達の演奏を聴いていると、いつしか感化されて真似になってしまっているわけです。

まあ、真似でも上手にできればいいのですが、そうもいきません。

しかし、もっと悩むのは、上手い人がお手本で、そういう人たちの真似では、なんとなく虚しくなってくるのです。

それで、他人の演奏のイメージは一切捨てて、楽譜に立ち返り虚心坦懐に、自分の頭で考えて演奏を構築していくのですが、音をただ並べるだけでは音楽になりませんので、音と音をどう連結するかというアーティキュレーション、アナリーゼが問題になってくるわけです。

本を読んだり、先生に教えを請うことで、アーティキュレーションやアナリーゼは解決するとも言えますが、肝心な心の部分はどうにもなりません。

そんな時に、ライスター氏の自然から受ける啓示は大きな刺激になりました。

子どもには自然体験が大切

持論ですが、子どもには自然を体験させることが大切だと思います。

自然を体験させることが教育だと言っているわけではありません。

人にっては、思考の組立がおかしく集合の概念がめちゃくちゃな人もいます。
必要条件十分条件の分類がない人もいます。

例えば、自動車の話をしている時、部品の話になり、何処何処を止めているネジの話をしていると「ネジは自動車ではありません」というような話をしてくる人があります。

ネジ一本と言えども、自動車を支えている大切な部品であり、それがおろそかなため、大事故につながる場合もないとは言えません。

教育も教育とか指導(力)とか何度も吠えていても、最前線では教師が児童生徒に何と発言するかが重要なわけです。

自然体験が大切と言うのは、教育の必要条件だと言っているわけです。

ライスター氏の自然による啓示から想起されたことは言うまでもありません。

それも、ライスター氏が自然という言葉を口に出されたから、自然が大切と言うわけではありません。

自分の子どものころを思い出してみると、海に山に腹いっぱい自然を堪能させてもらいました。
裏の川に入って、魚を取ったり、ある日は川べりに突如として彼岸花で真っ赤になっていたり、夏は蛍を取りに行ったり。

今思うと、貧しくても本当に満たされていた生活だと思います。

音楽を演奏していると、それら昔のことが走馬灯のように流れてきます。

確かに、同演奏するか、どうイメージするかに自然体験が大きく影響しているように思います。

言葉の重み

かつての記事で、ゲーテが死の床で、集まっている人にもっと光をと言ったことが話題になり、弟子たちはその言葉が何を示唆しているのか真剣に考えたという。

しかし、ゲーテは部屋が暗かったので、単に、カーテンを開けて欲しいと言ったに過ぎないという人もいます。

いずれにせよ、みなが簡単な言葉に真剣になるのは、ゲーテそのものの偉大な業績(実践)がそうさせているのだと思います。

ライスター氏の言葉も、氏が世界的、屈指のクラリネット奏者であり、その演奏が素晴らしいから重みがあるのだと思います。

反対に、戦力外で、何の実践も示せないの人の言葉など、説得力のあるはずがありません。

しかし、プロ野球も外野ほどうるさいように、口だけであれこれ作ってしまう人の言葉にも気をつけなければいけません。

ある市民吹奏楽団の練習で、練習が終わった後、中学校の先生がクラリネット吹いていた人に「うちの学校へ指導に来てくれませんか」と交渉していました。

その先生は「あなたの音は素晴らしいので、ぜひ、一度うちの学校へ」と言っていました。

なぜ指導してもらいたいと思うのか、なぜ、その人の言葉に重みを感じるのかは、やはり実践がもとになっているのだと思います。

教師として何を助言するか

教師が具体的にどういう言葉を発するか。
最も適切な言葉を発することで、教えられるものは上達し、成長すると言えます。

そういう時の言葉は、ただ機械的にマニュアルにあったような言葉を発するのではなく、その時、その場にふさわしい適切な言葉でなくてはなりません。

言いたいことはたくさんあっても、それをすべて羅列したところでうまくいくとは限りません。

そういう考えに立って、私は教えている人には、できるだけ少ない要求を心がけています。
「○△の一小節だけ練習してください」「4つの音の練習をしてください」

「君は○○のりップスラーを常に練習してください」
そして、成果が上がっているとかんじた時は
「リップスラー、とても良くなりました」

また「いまの音は素晴らしいですね。プロとしても恥ずかしくない音です」とも言います。

いう言葉をできるだけ短く、その人に合った助言を、そして言った以上、必ず成果をチェックしていて、良くなれば必ずほめます。

生徒がコンクールでに出る時は、必ず舞台袖まで付き添い「今までどおり普通にやればいいよ。すごく良くなっているから」という風にできるだけ、プレッシャーをなくすようにしています。
たとえ、その日が80点ぐらいのできであっても、今日練習したとおりやればいいと言います。
それで、80点ぐらいが120点ぐらいになったこともあります。
要するに「いかに自信を持たせるか」に気をつかうわけです。
中学生では、まだ先生に精神的に寄りかかっているので、心理的に舞台本番で最高に持っていくことは大切だと思っています。

音楽だけでなく、他の分野でも、上達させるための具体的な言葉、心理的配慮が大切だと思います。


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posted by edlwiss at 20:17 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2012年04月21日

どうしたら楽器が上手になれますか〜その3

「どうしたら楽器が上手になれますか」と問われて、上手にさせられる人って?

「そりゃ、キミ、指導力だよ、指導力、指導力がなくちゃねえ」と十年一日のように、指導力、指導力とわめているのは、指導力がある人なんですか?

「指導力のない教師」「指導力のある教師」って、話がこの段階でストップというのは、どうしてもCPU(脳)のビットが少ないので、そこから先へは進まないのではという気がしてしまう。

初期のパソコンは、カラーが16色しかなかった。
色の表現に4ビットしか使っていなかったからだ。

それが今は、24ビット以上使うようになったから、16色(=2^4)から16,777,216色(=2^14)以上になった。

色の表現が緻密になったが、人間の思考は緻密になったか?

人間の場合、単純になっていく人と緻密になって行く人と両極に分かれるような気がする。

「指導力」以上に細分化できない人は、大丈夫か?

指導力には知識が必要

自分がクラリネットを吹けないのに、教えている人がいた。

もっとも、音楽を教えるという意味では、音楽の知識だけでよいのかもしれない。

でも、生徒はクラリネットを習いにきたのだから、クラリネット特有の知識もないとまずいじゃないの?と思う。

「先生、どんなリードを使ったらいいですか?」

「そりゃ、いいリードを使いなさい」

これでは「指導力が、指導力が」と明けても暮れても、指導力といっているようなものだ。

「バンドレンを使いなさい」とか「リコのロイヤルもいいよ」とか返事してやらなければ、先に進まない。

生徒がクラリネットを買いたいと言っても

「フランスのクラリネットは云々で、ドイツのクラリネットは・・・」

といっているのは「小学校の教師は・・・」で「中学校の教師は・・・だ」紋切り型の話をしているようなものだ。(いつも、同じパターン)

実践に裏付けられた知識

何でも知ったかぶりをする人がいる。
プライドが高い人に多いように思うが、こういう人に恥をかかせてはいけない。

こういう人はプライドを守ってあげないと、いつか何かで仕返しをされる可能性があるからだ。

でも、実体のない知ったかぶりはやめた方がいいと思う。
それは、どこかで行き詰まるだろうし、時には責任問題にも発展しかねないと思うからだ。

と、
こういう語り口を延々と続けると、抽象の連続でつかみどころがない。

だから、話というものは、全体がボケた写真のようにならないためにも、焦点の合ったところがほしい。

しかし、焦点を合わせようにも、実体験(実践)がなければ、やりようがない。

クラリネットのリードはどんなものがいいかと聞かれて、にわか仕込みの詰め込みで対処すれば、苦しい立場に追い込まれかねない。
つまらないプライドのために、そんなことはやめて正直にやったほうがいい。

わからないことは、わからない、知らないことは知らないで行くべきである。

どんなリードがいいか、自分が実際に演奏で試してみて、その経験からものを言うべきである。
その場合の経験は、吹奏楽だけでなく、オーケストラ、室内楽、独奏と百戦錬磨の方が望ましい。

そういう意味では、指導力には、読んだ知識や耳学問だけでなく、経験からにじみ出てくるものでなくてはならない。

小学校は学級王国だからダメですか?

小学校は学級王国で云々という話は、クラリネットで言えば、フランス製が、ドイツ製が云々というアバウトな論議にしかみえない。

はっきり言えば、実践者の言葉とは思えない。
実践者でないから、外野から見たアバウトな話しかできないのだ思うのだ。

教師として優れた教師になりたい、児童生徒を伸ばしたいと、教育に本気で取り組む姿勢があれば、当然、一人の先生が支配してしまうような、俗にいう学級王国という、環境の欠点を考えるはずである。

子どもに限らず、人は初対面の時、自分を繕うのは当たり前だろう。
上手くやって行きたいという心理が働くからだ。

人は演技をして動いている以上、100%の能力を発揮しているとは言えない。

だから、いかに、教師の視線を意識せずに子どもが活動できるようにするかは、教師なら当たり前の課題と考えるべきである。

警戒心を解く

猫を飼っている人。それも、血統書付きでめったに外出させてもらえない猫ではなく、自由に外出させてもらえる猫である。

外出時の猫を見たことがあるだろうか?

家にいる時とは目つきが違う。

きつい目をして、警戒怠りないという目つきである。

その猫が家に帰ってくると、とたんに表情が変わる。

時に、家の中で、だらしない格好で寝ていることもある。

猫にとって、家は何も警戒することのない天国だからである。

ところで、子どもは何を警戒しているのだろうか?

担任のご機嫌、級友とのコミュニケーションにおける摩擦である。

これらを排除することで、子どもの余計な警戒心はなくなる。

自然な表情の写真を撮るには

世の中には広告があふれている。
子どもやペットを素材にした写真もたくさんある。

それらの、子どもやペットの表情はすばらしい。わざとらしくなく、自然である。

ではどうしたら、そういう写真が撮れるのだろうか?

子どもが遊んでいるところに、カメラを持ち込んで、意気込んで、撮るぞ撮るぞという姿勢を見せては、なかなかいい写真は撮れない。
子どもはカメラを意識するからである。

では、どうする?

カメラを持ち込んでから、数時間は時間を要する。

どういうことかと言うと、始めはカメラを意識している子どもも、何時間も経てばカメラを忘れるし、遊びに夢中になっていればカメラマンも忘れる。

すると、自然な表情を見せる瞬間がある。
そこをねらってシャッターを押す。

シャッターを押す時間は一瞬だが、子どもがカメラを意識しなくなるまで時間がかかる。

担任も、普段、子どもが意識しなくなるようでなければならない。

そのため、私は、担任はなるべく教室にいるようにせよと言う。

放課の時間が大切である。

子どもは放課が好きである。

放課は遊びに夢中になって、ほんとうの姿を見せることが多い。

気分にムラのある先生は子どもの心が解放されない

いわやる、機嫌のいい悪いのある先生である。
こういう人は、言うことに一貫性がないから、子どもはいつもオドオドしていて、安心感がない。

子どもは、悪いことをすれば叱られるということを知っていて、そんな時は叱られても納得する。

しかし、いつ叱られるのか、叱られると思っても叱られない。
すべては、先生のご機嫌次第では、心の子どもはいつも不安定。

厳しいが一貫性があるという先生がいい。

厳しくても一貫性のある先生は、子どもに好まれるようである。

それは「自分が悪い時ははきちんと叱って欲しい」という願望が子どもにはあるからだ。

こどもも、自分の将来について「意志が弱くて、もしかしたら悪いことをしてお巡りさんに捕まってしまうような人になってしまうかも知れない」という不安を抱えている。

だから、悪い時、きちんと叱ってくれて、自分が横道にそれないように鍛えてくれる先生が好きなのだ。

きちんと叱ったら「もう、これからはしないようにするんだぞ」と言って抱きしめてやるような先生はなおよい。

それは「悪いことは悪いが、先生は君を嫌っているのではないよ」というメッセージになるからだ。

子どもは悪いことをするくせに、自分は嫌われてしまうんではないかという不安を持つ。

中学生にとっても、担任は心のよりどころ

中学生は、体は大きくても、精神的には不安定でまだ独り立ちできていない。
時には生意気なことを言う。でも、心はそんなに強くない。

だから、中学生も学校では、たとえ時間数は少なくても、担任は精神的な支えと思う。

学校が荒れていた時、私は常に教室にいるようにした。

始め、生徒たちは私を気にして、うっとうしいようであったが、そのうち存在を意識しなくなった。
教室の空気は穏やかになり、平和な感じがするようになった。

教師も人間

教師は機嫌のいい悪いがあってはいけないと言ったが、教師とて人間、おもしろくないことがあると、不機嫌になる。

しかし、それを子どもにあたってはいけない。

だから、教師は自分自身を鍛える必要がある。

どうして鍛えるのか?

心で念じても、鍛えることは難しい。

それで、教師はスポーツでも芸術でもいい、自分も生徒になって取り組むことだと思う。

国語が担当だが、突然、吹奏楽部の顧問になって戸惑ったという人がいた。

「国語が専門だ」という意識を忘れ、音楽教室に学びに行ったらどうかと思う。
そこでの苦労を通して、他人に与える感情のムラを和らげることができるように思う。

口三味線で指導しようと思っても、所詮、無理な話である。

一芸に秀でた人は皆いい顔をしている。
それは、いくつかの壁を乗り越えて、精神が鍛えられたからだと思う。

小学校の先生が中学校へ行くと・・・、中学校の先生が小学校へ行くと・・・??

始めは慣れない環境で戸惑いはあるだろう。

しかし、教師は小学校、中学校とそんなに固定したものではなく、当初のズレはごく表面的なものであり、児童生徒が影響を受けるのは、その先生の人格である。

優れた先生はどちらにもすぐ慣れて、間もなく、よい仕事をする。

性格が意地悪で、感性も、センスもなく常に他人の粗探しをしている人は、嫌味の空気が身について、誰からも阻害される。

実践的な話ができないのは、阻害されて、実践の場がないからかも知れない。
だから、実践に携わる人に嫉妬して、粗探し専門になるのかも知れない。

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posted by edlwiss at 15:50 | Comment(5) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年04月20日

どうしたら楽器が上手になれますか?〜その2

「音階練習をすることだよ」

という助言はわかりやすい。

だが、これだけでは練習の要素としては足りない。

「人を見て法を説け」という言葉がある。

現在の状態で、この人(生徒)には何を言ったらよいかを吟味して、平易な言葉で助言をするのがいいと思っている。

これは、大体において「子ども向け」である。

私はクラリネットを演奏しているが、一般に、中学生に全ての調の音階練習をせよというのは無理である。

本当はやってほしいと思うのだが、全ての調にわたる音階の楽譜を見せただけで、中学生は気が滅入るようである。

それでも、黙々と取り組む子どももたまにいる。
こういう子どもが、プロになれるんだろうなあと思う。
と言うか、将来プロを目指していいかの一つの目安となると思っている。

先生が、簡単な練習を示して、生徒はそれを黙々とやる。
そこには、生徒が先生の前で自分を作っているというような問題はないのであって、ただやるかやらないかの問題だけである。

教師としては、上達させるための練習の要素を分析して、それを順序良く生徒に提示できるかどうか、これが指導者の条件の一つである。

メニューには理由がある

教師が生徒に提示するメニューは、なぜそういう練習をするのかという理由(根拠)がある。
いちいち、その理由を説明しないこともあるが、時には「なぜそうするのか」という理由を説明できることが大切だ。

生徒のレベルによっては、根拠を説明することで、生徒自身が自主的に練習を工夫したり、何のためにそうするのかという目的がはっきりするので、意欲の向上にもなる。

例えば、音階練習が必要な理由は、世の中にある曲は様々な調で作られており、どの調の曲でも、あるいは途中からどんな調に転調してもスムースに演奏できなければいけないからである。

調が変わると、とたんに演奏が下手になるというのは、アマチュアによく見られることであり、それはいつも限られた調でしか演奏してこなかったことにある。

吹奏楽では、変ロ長調とその近親調でしか演奏しないことが多いので、いつまでもその世界に浸かっていると、あるレベルを超えることができない。

かなり高度の曲を演奏しているように見えても、それは「演奏しやすい調」に移調していることも多い。

もっと具体的に言うと、吹奏楽では「クラリネットが演奏しやすい調を意識して」作曲したり、編曲したりされていることが多い。

それは、クラリネットという楽器は#の多い調になると、運指(指使い)が難しくなるからである。
(だから、ニ長調やイ長調の曲を平気で演奏できる吹奏楽団は、かなり優秀であると言える)

しかし、芸術的なことを考えると、作曲家は自分の好きな調で作曲したい。
だから、そういうことを考えて、演奏も作曲家の意志に合わせて演奏しようと思うなら、自分の楽器が演奏しやすい調にするのではなく、作曲された調に合わせなければならない。

それで、吹奏楽では、しばしば移調するか原調を守るかが問題になる。

このことで、大阪市音楽団の指揮者、木村吉宏氏とお話をしたことがある。

木村氏は、結局、現調主義と言われた。

私が「クラリネットは・・・」と言うと、

「ああ、ウチはABCDEと全部持っています」

と言われた。

妄想的な話ではなく、現実的なイメージが浮かぶ話を

一般論や妄想的、空想的な話ばかりしているひとは、すでに現場を離れているか、部外者扱いをされているんではないかと思う。

前述したように、記事はオリジナリティーが大切だというのが私の主張で、小学校の学級王国がどうのこうのとか、同じ先生との生活は・・・とかいう話は、一般論の範疇で、そういう環境での長所も短所もわかっている。

だから、短所を克服するためのどういう実践をしたのかということにかちがあるのであって、ウルトラマンは正義の味方ですのような話は誰でもできる。

今度のウルトラマンはどういう活躍をしたのかということを知りたいわけだ。

学校の研究がいつも成功、すなわちめでたしめでたしに終わらなくてもよい。
失敗でもよい。リアリティーに価値があるのだ。

錬金術は当初、男性の尿には金が含まれているという仮説から始まったという。
それで、尿を煮詰めたそうだが、金は発見されなかった。
しかし「尿素」を発見するという成果が得られたという。

この例のような「おもしろい話」を期待したい。


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posted by edlwiss at 07:21 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年04月19日

どうしたら楽器が上手になれますか?

どうしたら楽器が上手になれるかと問われた時

そりゃ、キミ、よく練習することだよ


なんて、ことは誰でも言えることである。

(ただ、この当たり前のような返事も、言う人によって重みが違うが)

では、次のはどうでしょう。

それは音楽的アプローチと障壁を乗り越えるスタンスとの間で起こる心理的葛藤の狭間で起こりうる、克服しようとする意志の問題で、個人個人が取り組む姿勢で決まってくるのです。


何が言いたのかわかるだろうか?

私が最も嫌いな応え方(文章)である。

「いかに、粘り強く練習をするかです」

これだけで済むのではないか?

大して中身もないのに、もって回った表現をしようとする。

どういう人がこういう表現をするのかと言うと、大した実践もしないでいつの間にか歳だけとってしまった人に多いような気がする。

偉い人は言葉が平易である

レコード(LP)が全盛時代、ヴィルヘルム・バックハウスというピアニストのベートーヴェンのピアノ協奏曲 第五番「皇帝」が発売された。イッセルシュテット指揮/ウィーンフィル管の演奏。録音がロンドン・デッカであった。

すばらしい演奏者と録音に定評があるレコード会社の組み合わせで、ずいぶん人気を呼んだ。

私もこのレコードによって、ヴィルヘルム・バックハウスという巨匠を知った。

ヴィルヘルム・バックハウス(Wilhelm Backhaus、1884年3月26日ライプツィヒ - 1969年7月5日フィラッハ)は、ピアニスト。ウィルヘルムとも表記される。ドイツ国籍であったが、のちスイスに帰化した。ベートーヴェン、ツェルニー、リストの直系の弟子。
フリー百科事典「ウィキペディア」より
p_kyo.jpgこの偉大なピアニストのことを知りたいと思って、ジャケットの解説を読んだ。
そこで、印象強く覚えているのは、このピアニストが「最も大切な練習は音階練習です」と語っていたことである。

音楽を習い始めた人なら「なんだ、そんなこと知ってる」というかも知れない。

でも、どのくらい重みを感じているかが問題で、私自身「そりゃわかっています。仰るとおりです」で、ある時期まで過ぎてきた。でも、ひっかかったのは「あんなにすごい巨匠が、わかりきったことを言っている」ということである。

非常にまわりくどい語り口になったが、本当に実践を積み重ね、充実してきた人の言葉は平易であるということだ。

実は私自身、音階練習の重要性を身に沁みて感じたのはかなり後のことである。だから、今はウォーミングアップの時、全調の音階練習をする。

吹奏楽では、全員で変ロ長調の音階ばかり練習している吹奏楽団もある。
それでいて、コンサートのために練習する曲が変ホ長調やヘ長調であったりする。
(練習が儀式化していて、何が大切かわかっていないのだろう)

くどいようですが、名実ともに偉い人の言葉は簡単ですと言いたいのです。

簡単だから、わかりやすい。

歳だけとって、プライドだけ高くなった人は、偉く見せかけたいので、なるべく難しい単語を持ってきたり、哲学者の名前を入れたりして言葉を飾るのだと思います。

質問されたら、自分でも説明できない言葉、よく知らない哲学者の名前を持ち出すのはやめましょう。

指導法を確立してきた人の言葉は、簡単だと思います。

Q:どうしたら楽器が上手になれますか?

A:毎日、音階練習をすることです

これだけでよいのです。

私が実践を書けというのは、フィクションばかりではなく、ノンフィクションに裏付けられた文章を書けということです。

「お茶をお願いします」

と言ったら、お茶の葉っぱを持ってくる人はいないでしょう。

もし、そのようにしか、受け取れない人はロボットでしょう。

でも、そのようにしか受け取れないような知能の人が増えてきて、人間がロボット化しているという懸念について、私はしばしば書いています。

「このドラマに登場する団体や個人は実名ではなく、フィクションです」

というのは、テレビドラマ、映画の最後によく出てくる言葉です。

小説もフィクションの形をとっていますが、素材はドキュメンタリーであると言われます。
全く架空のことなど書いても、迫力がないわけです。

ドキュメンタリーを素材にしているからこそ、フィクションですといっても、生々しさが出てくるし、訴える力を持つのだと思います。

いつもピンボケで、映っているものが猫なのか虎なのかブタなのかよくわからないような文章は読んでいて気分が悪い。

曖昧にすることで、解釈の幅を広げようとする意図があるのかも知れない。

抽象論のオンパレードは御免だ。眠たくなるような文章を書かないで欲しい。


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posted by edlwiss at 22:02 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年04月17日

自分の実践を語らない者は信用できない

nakami.jpg審査員は言葉に責任を持て

子ども対象のあるコンクールで、審査員が演奏の講評をしていた。

演奏中、クラリネットがキャーッという異音を出していたことについて、審査員が「あれは、口の締めが足りないから」と評していた。
この批評は間違っている。

クラリネットという楽器は、他の管楽器と発音原理が違っていて、その最も特徴的なところは、倍音系列が奇数次であるということだ。
フルートなどは偶数系列の倍音で音を出している。
[参考]クラリネット管の伝送周波数特性

FlClbaion.jpgクラリネットのキャーッとかピーッという異音は、倍音がオクターブ関係になっていないので、奇妙な音になるわけである。

倍音をコントロールして、いろいろな音を出しているのだが、早い話、クラリネットが異音を出すのは口の締めが足りないからではない

つまり、この審査員は、クラリネットを知らないので、こういうデタラメの批評をしたのだろう。
子どもにとっては、罪なことである。

指導者なら、不具合を即座に診断して、的確な助言ができる。

指導者は演説をするのではなく、現場では具体的に的を得た指摘ができなければならないと思う。

それには、指導者自身が実践者でなければならないし、学んだことと実践を通じて得た知識をもとに語ることが必要だと思う。

何かに書いてある知識の受け売りが、全く意味をなさないとは言わないが、ネット時代になって有用な情報というのは、特にブログではオリジナリティー独自性である。

これは、賢くなってきた検索エンジンがオリジナリティーを重視していることからもわかる。

ここで、オリジナリティーとは、語る人自らの実践そのもの、ということである。

実践の裏付けのない話は説得力がない

工業製品では設計の段階で、実際に使用されるあらゆる状態を想定するものであるが、それでも実際に使ってみないとわからないことがある。

だから、メーカーとしては使用者の体験というのは、貴重な資料であり、資料の蓄積が良い製品を生み出すもとになる。
例えば、自動車も市販され、多くの人が使うことで実走行のデータが収集できて、それがより安全なクルマ作りに役だっている。

すなわち何ごともやってみないことにはわからないということなのだ。

だから、ほとんどが引用やタラレバの記事は価値が薄い。

また、他人の実践粗探しが中心の記事も、自分の実践との比較がなければ「何だ、この人はケチをつけることが趣味か」と思いたくなる。

言うだけでなく、自らの実践を示せ

ものごとを批判するのは悪いことではない。
しかし、批判ばかりで、実践のない人は「自分ができないから、やっかみで他人の批判しかできないのだろう」「自分ができないから、他人の粗探しをすることで、相対的に自分の地位を上げたいのだろう」と言いたくなる。

名誉・地位

子どもの頃は、大人になると次第に名誉欲が出てくるし、よい地位を求めてあくせくするということがピンとこなかった。

しかし、自分が大人になって、世の中を見渡すとその意味がわかるようになった。

自然に名誉や地位が伴ってくる人はいいが、みっともないのは、中身もないのに、さもあるように振る舞う人である。

だいたい、中身のある人は偉そうにはしない。
中身のない人に限って、そうみせようとあくせくする。
そのひとつの行動が「言うだけ」である。

中身の充実してきた人は、謙虚になる。
だから「実れば実るほど頭を垂れる稲穂かな」の言葉を思い出し、なるほどと感心する。

先日の日曜日、Eテレの「らららクラシック」を見ていたら、ピアニスト 萩原麻未さんがの演奏があった。
広島県出身。文化庁海外新進芸術家派遣員としてパリ国立高等音楽院に留学。2010年修士課程を首席で卒業し、ジュネーヴ国際音楽コンクール〈ピアノ部門〉において、日本人として初めて優勝。年によって1位を出さないこの伝統あるコンクールでの8年ぶりの優勝は、各方面で大きな話題を集めた。現在は、パリを拠点にさらなる研鑽を重ねながら演奏活動を行っている。

ドビュッシーの「月の光」の演奏を聴いただけで、もう十分な説得力があった。

そうなのだ、演奏家は演奏によって語るのだ。


教師は授業で語るべきだ。
だから、実践の紹介をすれば、それがその人の主張と言うべきだろう。

萩原麻未さんは若くて、ジュネーブ国際音楽コンクールで優勝している。これは凄いことなのだが、態度は誠に謙虚である。
だから、余計に偉さを感じる。

教師もそうだ。実力のある人は謙虚である。
なぜなら、実が充実しているから、自然に頭が下がってくるからだ。

みなさん、実践の紹介をよろしくお願いします。良くも悪くもそれが大切です。

空想、タラレバ、粗探しのオンパレードには嫌気がさします。

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2012年04月14日

舞台に上がれば、いい訳はできない

下手な演奏ですが、毎月のようにコンサートがあり、ソロの演奏をしています。

下手なのになぜ演奏するの?
と言われそうですが、下手でも挑戦する理由は「なんだ、あいつ偉そうに言うだけか、口先だけのやつか」と言われたくないというのが、一番の理由です。
そして、自分で自分を厳しいところへ追い込んで、それをこなしていくことで、進歩できるのではと思っています。
これは、自分でそう決心したというより、子どもの時からなんとなくそう育てられてきたという気がします。
親はそのように生きなさいと言ったわけではないですが、結果としてそのような気持ちを持つようになったというのが当たっているような気がします。

そういう意味では、教育(指導)は「口で言えばよいということではない」と思っています。

世の中には演奏の上手な人が、たくさんいて感心させられます。

演奏の世界に、歳は関係ありません。
上手い人は上手いし、下手な人は下手です(当たり前ですが)。
若い人でも、上手い人には脱帽です。
年下でも上手い人には、学ぶしかありません。
(最近は若くても上手い人が出てきたのは、指導法が確立されてきたからとも考えられます。だから、それは指導した先生の偉さでもあると思います)

普段、偉そうなことを言っても舞台に上がれば

「何だ、それだけか」

と言われるかもしれない。

しかし

「何だ、あいつって言うだけか」

と言われるのが嫌だから、あえて「こんなもんです」という気持ちで舞台に立つ。

だから真剣勝負だし、独奏は全くの自己責任で誰も助けてはくれません。
スリルがあります。
怖いけど、この自己責任というところが、私の好きなところです。

自分の演奏の批評は謙虚に聞く。

初対面の人は、悪いことは言わないが、それでもその人の言葉の中から、参考になることはある。

いずれにしても、演奏と言うのは、自分がこれまでやってきたことの集大成みたいなもので、他人の演奏を聴いてあれこれ言うのは簡単だが、自分の演奏の録音を聴くとガックリすることは多い。

だから、正直なところ、録音はしたくない、されたくない、聴きたくないというのが本音である。

あるオーケストラのヴィオラ奏者に、駅で偶然会ったことがある。
そこでの話で、彼は「録音機なんてものができたからいけないんだ」と言っていた。

今、その気持ちがわかるような気がする。

だから、録音して記録に残すということは大変なことで、ベートーヴェンのピアノソナタ全曲録音なんてものを発売した人は偉大だと思う。

今日、録音や録画は非常に簡単にできるようになった。
演奏について書いてきたが、教師は自分の授業を録画したり録音したりして、反省に使うといいだろう。

今後、eラーニングは増えると思うので、もしかしたらeラーニングの素材になるかも知れないし、他にも役立つことがあるだろうと思う。

例えば、不登校の児童生徒のためとか、ネット上に蓄積してライブラリーにできるのではないかと思う。

明日の日曜日も、コンサートがあります。
体調を整えて、持てる力が発揮できるように、準備したいと思います。

80歳を超えて、演奏にますます磨きのかかる、北村英治さんを尊敬しています。



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2012年04月13日

ヘルベルト・フォン・カラヤン

クラシックフアンでなくても、カラヤンの名前を知っている人は多いだろう。

彼は、世界に冠たるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者だった。

オーケストラは、普通、指揮者とは年数を限定して契約する。

それは、互いに相性というものがあって、あまり長期契約をすると、途中で嫌になった時困るからである。

契約年数を限定しておけば、嫌だったら契約を継続しないですむ。

しかし、カラヤンの場合はベルリンフィルから終身指揮者として契約されたのだから、ずいぶん気に入られたものだと思う。

教員の場合は、そういう契約はないが、それでも同じ学校に30年以上勤務した先生を知っている。
小学校の先生だったが、実際に会ってお話をした時、教え子がPTA会長だと言ってみえた。
その先生は、定年までその学校に勤められた。

どういう事情で、そういう珍しい教員生活をされたのかはわからないが、そんなに長きにわたって、同じ学校に勤められたのは、やはり気に入られていたということもあったのだろう。

karajan.jpgカラヤン氏の話に戻るが、彼は歴史に残る指揮者の一人である。

だがそんな、大指揮者を名指揮者のリストに入れない評論家がいる。

なぜ?

そういう評論家は、彼のことを

「カラヤンの指揮は芸術ではない、あれは職人芸だ」

と言うのである。

その言葉の裏付けは

「彼は、コンサートの日、指揮台に立つ前に聴衆が何を期待しているかを感じ取り、それをすぐ演奏に実現してしまう。だから、人気が出る」

という批判だ。

芸術家たるもの、聴衆に迎合するなということなのだろう。
芸術は客商売ではない、と言いたいのかも知れない。

でも、それは凄い能力だと、私は思った。

カラヤン氏のようには行かなくても、教員も、自分の授業が受け入れられているか、退屈に思われているのかを感じ取る努力をすることは大切だと思う。

そういうアンテナの感度を鋭くしていく必要があるだろう。

でなければ、Eテレの授業やeラーニングとは差がなくなってしまう。

生身の先生の授業の意味は、空気を感じ取る能力に加えて、先生そのものの人がらが、児童生徒に与える目に見えない、電波のようなものの存在が大切であると思う。

でなければ、ロボットが次第に人間の仕事を奪ってしまうように、テレビを通した授業、eラーニングの授業に先生も代えられてしまうような気がする。



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2012年04月13日

捏造&妄想さんですね〜笑えますが

※ 下線と[]数字は筆者です。

dolceさんは,「お金を出さないと不正合格は果たせない」と考えているようですね。
 何だかそういう発想自体が,嫌らしい。
[1]

教員採用に限らず,「縁故」「(元の)上下関係」「義理」などが影響して,本来の「得点」とは「別のかたちの上積み」によって合格できる人間がいる疑いは,「世間」を知っている人なら当然もつものでしょう。[2]

金品の授受はなくても,「別のかたちの上積み」が「不正」であることは間違いないですね。[3]
こういうケースでは,採用された人間は,「不正」があったかどうかを,今の制度では,確かめる方法はありません。[4]

そもそも自分の採用について,コネによる「不正」があったかどうかを調べる人間はいないでしょう。[5]

「不正はなかったですか」と聞かれる方も,合格させるために不正をしたのなら,「不正がありました」とは答えないでしょう。[6]

今の採用方法だと,こういう「不正」を暴くのはかなり難しい,というか,ほとんど不可能でしょうね。[7]

繰り返すようですが,dolceさんのように,「採用試験に合格したのだから,何の問題もない」とだれもが思っているのであれば[8],このタイプの「不正」を暴こうという発想もできないことになります[9]。



[1]私はそんなことは思っていません。勝手に捏造しないでください。他人の考えまで立ち入って、自分の気にいるように決めてしまうわがままさは何とも言えませんね。
好き勝手に意見を言うだけで足りなくて、他人の考えまで捏造してしまう精神は普通じゃないと思います。
どうして、他人の心の中がわかるんですか?

私は法律のことを言っているだけです。あなたは「収賄罪」「贈賄罪」を知らないのですか?

収賄罪
公務員が、その職務に関して賄賂を受け取ったり、賄賂の要求や約束をする罪。請託を受けなくても成立する。刑法第197条の1の第1項が禁じ、5年以下の懲役に処せられる。単純収賄罪。
◆状況や立場などの違いにより、受託収賄罪、事前収賄罪、第三者供賄罪、加重収賄罪、事後収賄罪、斡旋収賄罪などにあたることもある。

贈賄罪
公務員などに対し、賄賂を与えたり、その申し込みや約束をしたりする罪。刑法第198条が禁じ、3年以下の懲役または250万円以下の罰金に処せられる。
◆刑法第197条が禁じる収賄罪・受託収賄罪・事前収賄罪・第三者供賄罪・加重収賄罪・事後収賄罪・斡旋収賄罪の、贈賄側に成立する罪。


[2]疑いを持つかどうか、特に「当然」かどうか、私には他人の心はわかりません(超能力はありませんから)。
はっきり言えることは「他の人たちはそういう疑いを持つのが『当然』と明言しているあなたの考え方」でしょう。

[3]すごいですね。どうして、あなたは間違いないと言えるのですか?
あなたが、そう断定できるということは「あなたがその事実を知っている」と解釈できますが、そういうことですね?
そうなんですか、あなたは、公立学校の教員採用に際して「本来の『得点』とは『別のかたちの上積み』によって合格できる人間がいる」を知っているわけですね?
なのに秘密にしているということですね。

[4]つまり、あなたはそう思って、法律の盲点をついて行動しているわけですね?
以前、言いましたが、あなたは告発の義務を知らないのですか?
それに、確かめる方法がなかったら、やってもいいとおっしゃるわけですか?

[5]「いないでしょう」と言われても、私は「はい」とは言えませんね。
だって、他人のことはわからないですから。心が咎めて、告白する人がいるかも知れませんから。それに、別件で調べたいたら、そういうことを告白するかも知れませんからね。

事実、ある有名な大学では、卒業後に不正入学があることがバレて卒業取り消しになったということがありました。大学にいたことがムダになったわけです。

[6]同様に、あなたならそうかも知れませんが、他人の場合、うしろめたさに耐え切れなくて告白する人がいるという可能性もあると思います。
そうでなくても、何かのおりにバレるということもあるでしょう。
バレて明るみになった方が罪は重いでしょうね。
あなたが、心当たりにがあるのなら、告白した方がいいと思いますよ。
だって、ずっと子どもたちを裏切り続けることになるわけですからね。

[8]と言うことは、100%とバレないと考えていないということですね。完全犯罪はないと考えてみえるということですね。
バレないうちに、明るみに出しましょう。

[8]何度も言いますが、私は「他人の心」はわかりません。
「もし〜したら」「れば」という「タラレバ」を使えば何でも言えます。
ずっと以前に言いましたが、私はこういうのをタラレバご都合主義と称して、全くあてにしないことにしています。

「もし〜と思っていれば」が成り立つなら「もし〜と思っていなかったら」も同率の確率で成り立ちます。
片方だけに重きをおくなら、それは(あなたの)ご都合主義というものです。

[9]とても不思議な考え方です。考えがいびつと言ったほうがいいかな。
採用試験に不正なく(何のうしろめたいこともなく)合格したなら、何の問題ないです。

もしかしたら、そういう人の中にも不正があるとあなたは言いたいのですか?
普通の人間だったら、そういうのは「疑い深い性格」ということになりますが、あなたが不正に確信が持てるというなら、やっぱり超能力があるのでしょうね。

何か、普通の人と違いますね。
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2012年04月12日

教職員の出張とは何か

教員にとっては常識で、釈迦に説法という気がしますが。

「公務のための旅行とそれ以外の旅行とを区別する基準はさほど客観的に明確でなく各学校長の判断に委ねられているものと認められ・・・・各学校長がどの教職員にいかなる旅行命令を発するかを決定するに当たっては、当該旅行の公務としての重要性、他の校務の影響、旅行者の希望等内外の諸般の事情を考慮する必要があるから、当該旅行が社会通念上明らかに公務としての性格を欠き裁量権を逸脱した明白な瑕疵が認められる場合を除いて、旅行命令は、旅行命令権者たる当該学校長の自由裁量行為というべきで
ある。」


上記は昭和45年6月8日の山口地方裁判所における判決です。
判例ですから法的効果があります。

教員の職務は授業だけではありません。

職務によっては、勤務地を離れて遂行しなければならないものもあります。

例えば競技大会のために、引率で先生が学校を離れる場合などがあります。

出張は「公務のための旅行」です。

そういう出張の中には、してもしなくてもいいものがありますが、何かの研修のために、教員が自ら校長に願い出て許可を得るものと、校長自らの判断で旅行命令(出張命令)を発するものとあります。

通常の勤務地を離れても行う公務かどうかは、校長の判断に委ねられています。

判例は当該旅行が社会通念上明らかに公務としての性格を欠き裁量権を逸脱した明白な瑕疵が認められる場合を除いて、旅行命令は、旅行命令権者たる当該学校長の自由裁量行為としています。

言うまでもなく、当該勤務地を離れても出張すべきかどうかの判断は、個々の教員がすることではなく、校長の裁量権です。

校長は、自校の教育活動全体を判断して、当該教員が出張することが有益と判断するから、出張命令を出すわけです。

学校経営の最高責任者は校長です。

従って、校長の命令に従うのは当たり前です。

気に入らないというのであれば、当該旅行が社会通念上明らかに公務としての性格を欠き裁量権を逸脱した明白な瑕疵が認められるとして、裁判に訴えるのが本筋でしょう。

こういうことは、社会科の分野ですね。

どうも、社会秩序のための組織というものを無視して、自分の発する言葉が最高法規と勘違いしている人がいるように思います。

どうしても、自分の考えを最優先にしてことを運びたいのなら、自分で独立国を作って、自分が長になることですね。
王国を作ってみてはどうでしょう。

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2012年04月12日

社会科の先生、社会のルールを正しく理解しましょう

社会科の先生でなくても、大人の常識として当たり前のことですがね。

※ 下線と[ ]数字は、筆者がつけ加えたものです。

○授業を自習にして出張することについて
>私が言いたいのは授業より優先するものがあると言うこと
 dolceさんが言いたい「授業より優先するもの」は,「出張の職務命令」です。
 私が言いたいことは,「授業を自習にしてでも出張してこい,という命令を出すことはあり得ない」[1]・・・・
 「あり得ない」という言い方が自治体のレベルに合わせていない,と言われるのであれば,
 「適切ではない」ということですね。ただそれだけです。
授業を自習にしないといけないような場合(教員がほかにいない場合)は,出張命令は出さない,というのが,管理職はもちろん,教育者としてあるべき立場なのです。[2]
 docleさんへの「命令絶対主義」批判の趣旨[5]が,どうやら通じていないようです。
 
 どっちが大事なんですか?という問いに対して,
 私は「子どもへの教育」=職務専念義務を重視し,
 dolceさんは「上司への服従」=法令等及び上司の職務上の命令に従う義務のうち,下線部のところのみを重視する,
 そういう立場であることだけは,dolceさんも認めざるを得ないでしょう。
 「子どもの教育」という職務専念義務を重視したいのに,それを「はく奪」するような上司の命令は,「気に入らない」と思えるような教師の方がよくないですか?[3]
 
 ただし,例外はありますよ。
 命令が,指導力不足教員のための研修を受けることだったら。きちんと他に授業をする人が決められますからね。
 子どもを守るためにも,授業は他の人にやってもらっていただきたい。
[4]


[1]何をおいても、授業が最優先とインプットされていることがよくわかります。
頭に刷り込まれてしまっているみたいですね。
各学校から、代表者を集めなければならない時、全部の人が空き時間になる時間になるように集められないことがあります。
そうした場合、自習にして出張する学校の先生ができることはありますよ。
もちろん、できるだけ、授業の進度等に差し支えないようにしますけどね。
そんなこと、言うまでもないことでしょう。
[2]あなたが「なのです」というのではなく、学校をどう運営するかは、校長が判断することです。
その地区の教育行政は教育委員会が判断することです。教育論は別の話です。
第一、誰かが出張して、学校に誰もいなくなるってことが考えられるでしょうか?
考えられるとしたら、どんな学校なんですか?
教員が一人しかいない学校ですか?
僻地の分校ですか?
誰も監督がいなくて、出張するわけがないでしょう。

もとはと言えば「出張を多くして自習が増えるのはよくないという私の発言から」です。
予め、出張計画があれば、補欠や授業交換するに決まっています。

[3]自習になるとしても、出張の職務命令が出たら、その職務命令に従うのが職務専念義務です。職務命令に従わないことが、職務命令違反です。
いついかなる場合も「授業」が職務専念義務ではないです。どうも「授業」が刷り込まれてしまっているようです。

[4]例外でなくても、可能性があるということです。自ら証明しているじゃないですか。
優先順位の説明をします。
(1)生命の安全
(2)職務命令
です。
如何なる場合も「生命の安全」が最優先だから「子どもだけ」で安全が確保されないことが許されるわけがない。
出張予定は「出張します」という書類を提出する。その時、出張時の授業計画を書くわけです。
計画なしに、出張だけするなんてことは非常時以外、あり得ないでしょう。

[5]「命令絶対主義」批判て何ですか?
批判を勝手にするのは自由ですよ。しかし、職務命令を無視してよいということはないです。

地方公務員法第32条
職員は、その職務を遂行するに当たって、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。

ところで「学力観を示していない」という批判について、あなたの見落としを示しましたが、その後どうなったんですか?
あなたは、勝手に見落としておいて「スルーする」と、他人を批判しますね。
あなた自身はどうなんですか?

gakuryokunotaru.jpg学力についてきちんと答えましょうね。

「ペーパーテストが悪い、いけない」なんて私は言ってませんよ。人の話を改作しないでください。

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2012年04月12日

世間知らずの見本のようなもの

衝撃と言えるほどの驚きです。
社会の先生が、この日本の社会の仕組みを知らないのですから。
教わっている子どもが心配です。

この人の文にはおかしいところがたくさんあって、いちいち取り上げると大変なのですが、今回は特にひどい部分を一つ取り上げます。

大人の常識に入る部分ですから、特に社会科が専門でなくてもわかることです。

※ 下線と[ ]数字は、私がつけ加えたものです。

dolceさんの「世間知らず」加減を示す文として指摘したい[1]のは,

>コネがあろうとなかろうと、試験に受かっていれば何の問題もない

 という発言です。これでは,「不正がばれなければ,問題ない」と言っているのと同じであることに本人は気づいてないのでしょうか。
[2]ニュースでは,試験に受かっている人が,合格を取り消されたことも報道されていましたね。受かっている人は「不正なく」受かっていることになっている,というだけのことで,「不正がなかった証拠」を知るためには,第三者機関かなにかが採用にかかわるすべての問答,データを掘り起こさない限り,無理なのです。[3]

 私(と,当時,コメント上でやりとりしていた方)が問題にしているのは,「どういう採用のされ方をしたか」ではなく,「指導力があるかないか」なのです。

 

[1]これ、おもしろいと思います。この人の周りには、世話をやいてくれる人はいないのでしょうか?
学校の先生は気をつけないと、こうなってしまうという見本のようなものです。
その訳は、以下の説明で明らかにします。

[2]全然、同じじゃないです。「試験に受かっていれば、何の問題もない」です。ただそれだけです。試験に受かっているというのは、常識として不正なく受かったことを意味します。

[3]全く、正しい知識が欠如している証拠です。
大分県の不祥事がなぜ明るみになったのかは、多くの人は知っていると思います。
誰かが試験に関する内部資料を調べてわかったのではないです。
不正がわかった発端は金券ショップからです。
警察には調査権があり、怪しいと感じたら機関の内部に立ち入って資料を調べる権限があります。その怪しいと思った発端は金券ショップです。

悪いか悪くないかの問題は道義上法律違反かどうかに分けて考えなくてはなりません。

道義上悪いと考えられることでも、法律に触れない限り起訴されたり、告発されたりはしません。

法律に触れないから、何をしてもよいということはありません。そういうことを教えるのも学校ではないでしょうか?

また、実際に法律に触れていたとしても、必ず起訴や告発を受けるとは限りません。
そんなことは、私たちの生活の中でたくさんあります。

警察沙汰や裁判にならないのは、起訴や告発がないだけのことです。

だから、バレてもバレなくても「悪いことは悪い」のであり「バレなきゃいい」と考えるのは、その人の人格の問題です。

大分県での不祥事は、警察が怪しいとみたわけです。怪しいとみたというのは、法律違反があるのではとみたということです。
この場合の法律違反は、公務員がその地位を利用して贈収賄・請託があったということです。
そして、警察の操作によって証拠が明らかになり、裁判で有罪になったわけです。
これは刑事事件として処理されたわけです。
(いいですか、民間同士では贈収賄・請託の罪はありませんよ)

horei.jpgその贈収賄に関わる人の子どもも教員になっていたわけですが、解雇されたのは刑事事件ではなく、教育委員会の懲戒権で解雇されたのです。

もし、教育委員会が懲戒しなければ、警察は刑事事件として採用試験の不正についても捜査をしたでしょう。

だから、子息としては便宜をはかってもらった覚えはないと、不満を漏らしていた人がいました。

採用試験を関係者だけで、いくら隠しても、内部や外部の告発、その他怪しいと思われることがあれば、警察は捜査に乗り出す可能性があるわけです。

不正を隠匿しようという働きは、いろいろなところで行われる可能性があるので、捜査機関は目を光らせているのです。

不合格の者が、試験のやり方に不満を持ち、公平ではないかと告発したらそこから調査が入る可能性もあります。

最近の事件、厚生労働省の冤罪事件はもっと秘密がバレにくいところなのに、バレました。

「不正がなかった証拠」を知るためには,第三者機関かなにかが採用にかかわるすべての問答,データを掘り起こさない限り,無理なのです。
これは社会の先生としては、まことに不適切な発言と言わざるを得ません。

あまりに程度が低いと、もしかしたら不正合格と疑われるかも知れませんね。
「あんなやつが、どうして合格するんだ」とね。告発されませんように。

そういえば、公務員には「不正を知ったら、告発をしなければいけない」という告発の義務という法律がありますよ。
直接、不正に関わっていなくても、知っていたら告発しなければいけません。
でないと、知っていてのに告発をしなかったという告発の義務に反することになりますので「私は何もしていない」は通りません。

だから、不正合格を知っていたら、バレなきゃいいじゃなくて、告発をしましょう。
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