2012年05月31日

ノンストップ電源

パソコンの電源が急に遮断されることの危険性

最近、ノンストップ電源なる広告が目立つようになってきた。
ノンストップ電源というのは、急に電源が遮断されてもすぐにはパソコンへの電源供給が停止しない電源のことである。

従来はUPS(Uninterruptible Power Supply:無停電電源装置)を使って対処していたが、UPSを使わないでも電源自体がそういう機能を持っているわけである。

パソコンのトラブルで、ダメージが大きいのはハードディスクの破損である。
大切なデータが消失してしまうからである。

この原因としては、ハードディスクの初期不良というものもあるが、突然に電源スイッチを切ってしまうことがハードディスクを傷めてしまうことになりやすい。

ハードディスクは痛まないにしても、Windowsが壊れて、起動しなくなるということもある。
こういう場合は、起動時に「前回、異常終了をした」というメッセージが出て、Windowsの修復プログラムで回復することになる。

仮に、修復プログラムで回復しなかったとしても、Windowsの再インストールで復旧できるが、ハードディスクが破損していた場合は事態は深刻である。

ハードディスクはどのようにして破損するか

ハードディスクの内部は下の写真のようになっている。

hd_inside.jpg


鉄の円盤が回転していて、その上をデータを読み書きするヘッドが動いている。
右の写真が、ヘッド部分の拡大である。

hd_kozo.jpgこのデータを記録する円盤と、ヘッドの様子を横から見ると、右の図のようになっている。

ヘッドと円盤の間にはわずかながら空間があって、この状態で電源が遮断されると、ヘッドは円盤の上に落下することになる。

すると、円盤の記録部分に傷がついて、この部分のデータが失われることになる。

パソコンの電源が不意に遮断されることの、一番の危険性はここにある。

ハードディスクも電源が遮断されると、ヘッドがすぐに格納されるように対策は取られてきているが、いつもその機能がうまく働くとは限らない。

円盤が傷つき、データが失われたら回復の見込みは非常に困難になる。

失われた部分のデータは消失するが、ダメージの程度によっては、前後のデータからの類推により回復できる場合もあるが、必ず復元できるという保障はない。

実は、パソコンの故障で最も厄介なのがハードディスクの損傷で、修理に持ち込まれてデータの回復を頼まれるのだが、これは必ず回復できるという保障はできない。

Windowsをはじめとして、アプリケーションは再インストールで済むが、個人の作った大切な写真などのデータは永久に失われる可能性もある。

家族の大切な思い出の写真ですからと言われるが、気持ちは理解できないでもないが、必ずという約束はできない。

Windowsの回復機能をあてにしてはいけない

しばしば、Windowsが「前回正常に終了されませんでした」とのメッセージを経験している人は、データの回復が不可能となる危険性を感じてもらいたいと思う。

会社ではそういう状態を見かけることはほとんどない。

それは、UPS(無停電電源装置)やRAIDを備えていたりするからである。

しかし、家庭用では子どもと共用しているせいか、子どもが急に電源を切ってしまうということもあるようだ。

「大切な思い出の写真が」と残念な経験をする前に、対策を講じておくことをおすすめする。

そこで、UPSを備えるというのもいいが、最近、出回り始めたノンストツプ電源を備えるのも手段の一つだと思う。

まだ、市販のパソコンでこれを備えているものを見たことがないが、自作のパソコンの場合は、始めから注文を出しておけば作ってもらえると思う。

なお、ハードディスクの構造を説明した時、ヘッドと円盤の間に隙間があると言ったが、この隙間はタバコの煙の粒子より小さいものである。

だから、埃も禁物であるということが想像できる。

埃っぽいところはもちろん、タバコを吸う人の傍はパソコンの環境としてはよくない。

パソコンの終了には終了手続きが必要

今まで、何のトラブルもなかったからと言って、パソコンにとってよくない使い方をしていないか振り返ってみることが大切だろう。
そうしないと、知らないうちにパソコンの寿命を縮めているかも知れないからだ。

パソコンの終了が他の電気製品と違うのは、終了手続きが必要ということである。

パソコンがWindowsになってから(Macも同じ)、ユーザーが仕事を終えても、パソコンは裏で何らかの仕事をしていることが多い。
これをバックグラウンド処理というが、自分の仕事が終わったからと言って、すぐに電源をきるようなことをすれば、バックグラウンドジョブが途中で中断されることになる。

これは、図書館を利用する時、読んだ本をもとあった本棚に返さないで、放りっぱなしで終えることと同じだ。

本を元の本棚に返さないと、次に利用する時、あるはずの本がないのと同じだ。

少々のことなら、Windowsはその無責任な利用を判断して、働いて元のところに返してくれる。

これは、子どもが散らかしっぱなしにしていったところを、親が判断して片付けてくれるようなものだ。
しかし、その散らかしようがあまりにもひどいと、親でもどうしようもないことがある。

これが回復不可能な状態である。

不意な停電などの場合、ノンストップ電源UPSを備えていれば、終了手続きを行なう時間が保てるので安全である。

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posted by edlwiss at 10:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | パソコン

2012年05月30日

作るは難しく壊すは簡単

オーケストラや吹奏楽に参加して、強く感じることに「作るは難しく壊すは簡単」ということがあります。

大勢の演奏する音を1点に集めて、よいアンサンブルを作るには高度な集中力が必要です。

それは、演奏というのは一人でも調子のいい時悪い時があるので、大勢になればなるほど密度を高めることが難しくなるからです。

orchestra2.jpg優秀な奏者であればあるほど、演奏の出来、不出来の誤差は少ないので、大勢の演奏者でもよい演奏ができる可能性は高くなります。

しかし、まだ経験も少ない子どもの場合、演奏技術のこともありますが、何よりも集中力を演奏の開始から終わりまで保つということ自体が課題です。

そういう意味で、指揮者(指導者)は奏者の集中力を自分の方へ引きつけておくことが大切なわけです。

奏者の集中力を、指揮者の方へ引きつけておく、ということ自体が練習になるわけです。

もっとも、プロの場合はそんなことを指揮者がしなくても、奏者は指揮者をよく見ています。
むしろ、奏者は指揮者をよく見ていて、値踏みまでしてしまいます。

子どもの場合、中学校に入学してから吹奏楽を始める生徒が多いですが、新入部員のうちは注意力散漫です。
それが、先輩の練習を見たり、実際に自分がアンサンブルの一員として参加するようになって、集中力というものを実感していくと言えます。

だから、大勢で演奏する場合は、一斉授業で先生の話を聞くという状況とは、精神的なあり方が違うわけです。

授業をしっかり聞いていない場合は、聞き落としたところは自己責任ですが、アンサンブルの一員である場合は、みんなに迷惑をかけてしまいます。

全員が最高の音を出して、いい演奏をするというのは難しいですが、壊す方は簡単です。

例えば、ドミソの音しかない瞬間に、一人がファの音を出せば、アンサンブルは台無しになってしまいます。

こういうことを、子どもたちは経験で実感しながら身に着けていくわけです。

そして、子どものそういう集中力が高まっていくと、指揮者の一挙手一投足までよくみるようになりますから、指揮者がいい加減では務まらなくなります。

未熟であった子どもがレベルアップしてくると、指揮者(指導者)としては、子どもからの視線や圧力を感じます。
子どもの能力に対し、それだけ応えることができなければ、子どもは何も言いませんが、心のなかでは信頼をなくしていきます。

こういうことは、実践している多くの先生が感じていることと思います。

指揮者と演奏者のこういう力関係のようなものは、プロの世界も同じで、バランスがとれていないといい演奏ができません。

指揮者も演奏者も優れているという場合が一番いいわけですが、演奏者はいいが指揮者がよくないという場合はひどい結果になる場合が多いと感じます。

指揮者がよくなくても、比較的よい演奏になるのは、演奏者が「この指揮者ダメだから、自分たちだけでまとまっていこう」となる場合です。

指揮者がよくて演奏者(オーケストラ)がそれほどではないという場合は、いい演奏が行われる確率は高いと思います。
それは、いい指揮者は演奏者の力を引き出す能力に優れているからです。

「このオーケストラが、こんな音を出すとは信じられない」

という評価を聞いたことはしばしばあります。

個人と集団

オーケストラにしろ吹奏楽にしろ、合唱にしろ、それらが教育的に意義があるのは、集中力を高めることや個人の責任と団体の関係を、身を持って体験することにあります。

一人の不注意がこんなに迷惑をかけてしまう。
逆にみんなの力が自分を支えてくれる。

ただ、それぞれが責任を果たすというだけでなく、協力が上手く行った時は素晴らしいハーモニーという効果が表れるわけで、ここは1+1が3になるような感じとも言えます。

教師であるなら、子どもの成長に自分が応える、そしてともに成長していくという醍醐味があります。

そういう経験をするから、指導者は身を粉にしても打ち込めるのではないかと思っています。

作るのは難しいが、壊すのは一人でも簡単という重圧はプロでも同じで、一例を挙げれば、ムソルグスキー作曲「展覧会の絵」〜ラベル編曲の冒頭のトランペットのソロがあります。

曲の始めにトランペットが一人でテーマを演奏する重圧は、プロの中でも有名です。



指揮者と演奏者の関係は、教師と生徒の関係に置き換えても、得るところがたくさんあると思います。

こういう話は、自分は実際にプレーしないで外野席で喋っている人には、なかなか理解できないかも知れません。

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posted by edlwiss at 21:01 | Comment(6) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年05月29日

頭が固まってしまった人

「頭が固まってしまった人」と言われたくないという話です。

誤解のないように断っておきたいのは、他人からそう言われること自体を気にするのではなく、他人がそう感じるような人間になりたくないということです。
つまり、自分の評判を気にして生きていくということではないということです。

そのためには、

1.自分が自己満足の権威にならない

2.自分の知識を疑ってみる

3.他人の話をよく聞く

という自己点検を絶えず繰り返すことだと思うのです。

例えば、以前のブログで取り上げた「25Wのスピーカーと80W」のスピーカーでは、そもそも「どちらの音が大きい」という発想がおかしいわけです。

そもそも「W」は音の大きさを表す単位ではないわけです。

「25gと80g」ではどちらが重い?

という問はおかしくないですが、

「25gと80g」ではどちらの音が大きいですか?

という問はおかしいわけです。

「25Wと80W」ではどちの音が大きいかというのも、同じようなものです。

頭が固まってしまったというのは、頑固というイメージも抱かせます。

よい意味で使われる場合は、職人が妥協を許さないでいい仕事をするような場合ですが、悪い意味で使われる場合は、間違いを修正しないとか、他人の言うことを聞き入れないなどの場合です。

悪い意味で使われる場合は「年取った」という感じを抱かせる場合もあります。
「頑固じじい」という言葉はまさにそれかも知れません。

しかし、頭が固まったというイメージは、年寄りに限りません。
いや、年を取ってもそう感じさせない人がいると思えば、若いのに悪い意味での頑固さを感じさせる人もいます。

その最たるものの一つは「言葉の意味を勝手に決めてしまう人」です。

これはしばしば取り上げてきましたが、呆れることに「辞書はそれぞれの人の頭の中にある」とさえいった人がいるということです。

アナウンサーは言葉使いのお手本として、基準とされてきました(最近はそうでもないようです)。

学校の先生もそうでなければいけません。

わからないことがあった時「学校の先生に聞いてこい」と親が言うような信頼を保ちたいものです。

「全然素晴らしい」

これは、笑えてきましたが、最近はこう言っても笑わないような風潮を感じさせます。

「全然」のあとには否定語しかこないのが正しい用法です。

「マイナス効果」

というのも変です。

「効果」というのは良い結果にしか使わないからです。

「マイナスイオン効果」

というのは正しいです。

なぜ頭が固まり始めるのか

「自分に先生がいなくなる」からではないでしょうか?

別の言い方をすれば、何でも自分が頂上にいるという意識がそうさせるのではないかと思います。

これは、一芸に打ち込んだことのない人に多いのではないかと思います。

人を観察してみると、これもしばしば言うことですが「一流の選手は、みな謙虚」ということに気づきます。

はじめは天狗になっているかも知れない。
自分がトップだと思っている。
しかし、上に行けば行くほど、そういう自分の鼻をへし折る人が出てくる。

これは、生徒をコンクールに出して、勝ち抜いて行った時、次第に意識が変わっていくことからもわかります。

今まで代表になったことがない学校が、初めて代表になって上の大会に出ていくと、生徒たちはそれまですごい練習をしたきたと思っていますが、そういう気持ちはすぐになくなります。

「部活のせいで勉強ができない」などの苦情は、勝ち抜いたことがない時に多いと言えます。

勝ち抜いて上に行くほど、練習は多くなり、時間はなくなりますが、それに反して「部活のせいで」という苦情はなくなります。

例えば、吹奏楽コンクールは、全国大会へ行くまでの最初の関門は7月末頃です。

ということは、ここで代表にならなかった学校は、以降はたっぷりと時間ができるわけです。
しかし、最後まで勝ち抜く団体は、そのための練習は10月まで続くわけです。

私の経験で、最も長期にわたった大会は翌年の1月14日ということがありました。
翌日は3年生の進学に関係する実力テストがありました。

さすがに、私は「3年生はもういいよ」と言いましたが、ほとんどの者が出場したのには驚きました。
親の苦情も全くありませんでした。

生徒は上に行けば上に行くほど、謙虚になり、人間がひと回りも二回りも大きくなっていくような気がします。
ここは、コンクールの大きな長所だと思っています。

上の大会では、当然、上手な団体が集まりますから、生徒たちも上手な学校がこんなにあるんだという刺激を受けてきます。
これは、上には上があり、もっと学ぶべきだという意識を植え付けられることになります。
つまり「先生がいる」ということです。

こういうことは、どんなに話をしてもわかることでなく、身を持って経験してわかることだと思うのです。

生徒たちの顔つきが変わっていくのがわかります。
上手く言えませんが「いい顔」になるのです。

これも、以前、ブログに書きましたが、私がある日、何の気なしに買ってきたブラームスのヴァイオリン協奏曲のレコードが素晴らしかったので、ジャケットの解説を読んでみました。

演奏者はヴァイオリンがナタン・ミルシティン、オーケストラがフィストラーリ指揮/フィルハーモニア管弦楽団でした。

ヴァイオリンのナタン・ミルシティンはすでに名声を得ていた奏者でしたが、まだ勉強が足りないと思って、有名なイザイという先生のもとに言ったが、先生から「君に教えることが何もない」と言われたらしい。



ソフィストたち

ソクラテスとソフィストたちの問答は有名だが、ソクラテスは知ったかぶりをする人をずいぶん軽蔑していたことがわかる話だ。

そのころの知ったかぶりたちは「知ってるぞ」で地位を保っていて、それで金儲けをしていたということだが「物はなぜ燃えるんですか」の質問に対して「それは燃素(ねんそ)というものがあるからだ」と説明していたらしいというのには笑えた。

この世の中の物質は、すべて、火と水と土からできているという説明から始まったそうだが、今でこそそんなことを信じる人はいない。

でも、自分がすべて法律のもとのような言い方をしたり、自分の考えや知識に疑問を持たなかったら、そこから一歩も前に出ない頭が固まってしまった人になってしまうだろうと思う。

電子辞書

電子辞書は便利だ。

私が電子辞書を持とうと思ったのは、ある、ずいぶん英語の達者な先生に会ってからだ。
その先生は、通訳としても十分通用する人で、外人の友だちも多い。

その先生と数人で喫茶店で話をしていた時、英会話のことが話しに出た。

私が影響を受けたのは、そのずいぶん英語の達者な先生は、簡単な単語でもすぐカバンから電子辞書を出して確かめた。

「こんなにすごい先生でも、辞書で確認するんだ」

と思った。

それから、私は達人ほど辞書をよく使うのだと思った。

私のそばには、たいていは電子辞書がある。

使ってみると、自分の思い込みで、誤っていたことがずいぶんあった。

人にモノを教える以上は確認すべきだと思った。

【忠誠】を調べてみると「忠実で正直な心。また、忠義を尽くすこと」と説明してあります(大辞林)。
「仕事に対する忠誠心」は「仕事を忠実に正直に行なう心」つまり「仕事をまじめに行なう心」です。

「忠誠心を高める」は個人の主体的行動ですから、自由を束縛するものではないです。
音楽が好きになれば、練習をまじめに(真剣に)取り組むようになります。
指導者は目的を達するために、忠誠心を高めるようにすることが必要だと思います。


netsuzo.jpg「人の言うことを聞かない」の誤解


3.に他人の話をよく聞くを挙げたが、これはしばしば「人の言うことを受け入れない」と誤解されることがある。

他人の話をよく聞くとは、あくまでも、相手の言っていることを正確に捉えるということであり、それを受け入れるか受け入れないかは別の話である。

しかし、わがままな人は、自分の意見を通したいがために、受け入れてくれないと「人の話を聞かない」と決めつける人がいる。

他人の言うことを正確に理解することが大切であり、これは、相手が言っていないのに勝手に捏造してしまうこと、決めつけてしまうことはもっての外であるということも含んでいる。

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2012年05月29日

志望者減の原因は何だろうか?



大阪の教育行政の影響によるものだろうか?

これまで、教員の仕事を甘くみていた人が敬遠したのか、それとも他の影響か?

どちらにしても、よい人材が集まることが大切ですね。
posted by edlwiss at 18:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年05月29日

睡蓮が咲きました

今朝、ベランダを覗いてみると、睡蓮の花が突然開いたかのように咲いていました。

suiren4.jpg


何と言って表現したらいいか、その美しさは恐ろしいほどです。
中央の黄色と周りのピンクの調和は、一体、誰がデザインするのだろうと思ってしまいます。

suiren5.jpg


小さな花ですが、人に与える影響力はすごく大きなものがあります。
写真や絵で見て想像はしていましたが、実物を見るとこんな色は到底出せないと感じさせられます。
今日は、突然、幸福が訪れたような気分になっています。

睡蓮と言えば、画家モネの連作が浮かびます。
200点ほど描かれたといいますが、モネも睡蓮の虜になっていのかも知れません。

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2012年05月28日

今年は睡蓮が咲きそう

suiren.jpg昨年の夏植えた睡蓮が、今年は咲きそうです。

花やその他の作物などを育てたり、動物のめんどうをみて育てる人は、心の優しい人のような気がします。

生き物だから、世話をサボったりすると育ちません。

私は横着な性格なので、生き物は育てられないと思っていました。

子どもの頃から、家には花がいっぱい咲いていました。

動物もたくさんいました。

でも、根気よくめんどうをみていたのは、みな親です。

親のない今、他人の世話にならず、自分で何か育ててみたいと思いました。

まずは、ベランダに鉢を用意して睡蓮を育てようと思いました。

買ってきた時は、苗には葉が1枚だけでしたが、1ヶ月ぐらいで数枚になりました。

毎日ベランダを覗いて、水が少ない時は足したり、風雨の強い日は部屋に入れたりしました。

冬になったら、すべて葉はしおれたようになってしまいました。

枯れてしまったかと思ったら、暖かくなるに連れ、昨年より強そうな葉がたくさん出てきました。

昨年の夏は花が咲きませんでしたが、今年は、蕾が見えてきました。

suiren2.jpg楽しみです。

両親も見ていてくれるかも知れません。

どうしたら、元気に育ってくれるのか、よくわかりません。

いいと思ってやったことが、植物にとっては迷惑かも知れません。

農業をやっている人は、植物をうまく育てます。

まるで、植物の心がわかっているようです。

私は何も作物を育てられませんから、黙々と植物の世話をしている人を尊敬します。

suiren3.jpg


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2012年05月28日

ストレスを与えない

ningenkankei.jpg
ストレス【stress】
1 《生体にひずみの生じた状態の意》寒冷・外傷・精神的ショックなどによって起こる精神的緊張や生体内の非特異的な防衛反応。また、その要因となる刺激や状況。

2 語勢。強さのアクセント。
大辞泉
ストレスと似たような意味で使われる言葉にプレッシャーがあります。
プレッシャー【pressure】
圧力。特に、精神的圧迫。「―を克服する」「―に弱い」
大辞泉

プレッシャーは時に必要なことがありますが、ストレスはよくないから、ない方がいいわけです。

合唱、吹奏楽、オーケストラなどの練習でストレスのかかる練習があります。

指揮法の勉強をしている時、このストレスについて教わったことがあります。
以後、私は肝に銘じて、気をつけています。

■ストレスのたまる指揮者

(1)やたらに演奏を止める指揮者

動き出すと、止まりたくないというのが人間の心理です。
だから、演奏を中断するということは、演奏者にストレスを与えることになります。

止める以上はそれなりの理由がなければいけません。
そして、止められたことの意味があるように、注意点を具体的に言わなければなりません。

(2)練習番号の前か後か

曲の途中から演奏する時、練習番号のつけられたところから行なうのならいいのですが、例えば

Eから、1、2、3、4、・・・・」

と指揮者が数えて

「16前」

と言うのはよくない。

演奏する側の立場からすると「Eから」と言われると、Eから先だと思います。
それで、Eの先を見ていた時、突然「16」と言われると、途端に数え直さなければならないわけです。

だから「Eの前」とか「Eから」などと前か先(後)かを早く言うべきです。

しかし、どちらにしても、数えることになります。

演奏の中断ごとに、数えなければならないというのもストレスになります。
演奏を中断することが頻繁な指揮者であれば、余計にストレスを多く与えることになります。

だから、私は楽譜を配ると、すぐに小節に鉛筆で通し番号を書くように指示します。
小節に全部番号がついていれば、即座に演奏の再開場所を指示することができます。

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bakakyousi.jpg
ストレスのたまる指揮者ということで、2つ例を挙げましたが、何らかの指導的立場にいる場合、指導者が恒常的にストレスを与えているかもしれません。

これは学習効果に繋がって「不愉快な指導者」という印象がついてしまうことにもなりかねないと思っています。

いつも時間に遅れてくる先生、それでいて延長するというのは最悪であることは、先生なら誰でもよく知っていることだと思います。
これを時間通りに始めて、少し前に終る。あるいは、チャイムが鳴ったらいかなる場合も即、終わりにするという習慣にするだけで「気分のいい先生」「印象のいい先生」になると思っています。

恐らく、内容からして、私の教わった先生がかかれたものだと思いますが、音楽の事典の中に「指揮者の態度と心得」というところがありました。

(1)常に自分の方へ注意を集中させておくこと

集まっている人は、みなそれぞれ違った考えを持っているが、指揮者を中心に一つの音楽をしようと思っている。その注意を散らさないようにしなければならない旨のことが書かれています。

(2)理由もなく指揮を中止しないこと


これは、始めの方で述べた、ストレスを与えることになるというのが理由です。

(3)ことばを明快にすること

声が小さかったり、抽象的でわかりにくい言い方はよくない。
ことばが明快であれば、活気も出てくるということが書かれています。

(4)演奏者を飽きさせないこと

・ただ機械的に何度も繰り返す練習
・演奏を中断した場合、かなり前に戻って再開しないこと
・不必要な労力を避ける
・ときには、満足ではなくても、ある程度のところでやめて、次の練習にゆずる

(5)練習中に指揮の仕方を変えないこと

これは、一貫性を持たせないと、相手が覚えてくれないということを言っています

(6)注意・叱り方は適切に

原則として、注意すべき時とは、その場ですぐ行なう。
演奏なら注意すべき場所ですぐ止める。
そうしないと効果が薄いと言っています。
あまりにも口やかましく、細かく言うと、反感を買う場合がある。
叱り方にはさらに配慮すべきとある。
@最初にミスしたら、その方を見る
A2度同じ所でミスしたら注意し
B3度ミスしたら叱る
というような配慮をするとある。

(7)思いやりを持つこと

個人個人の人格を尊重し、思いやりを持つことが大切とあります。

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長年続けると、つい自分はわかっていると思いがちですが、これらの態度と心得を読み返すと、なるほどそうだと思います。

これだけのことを、気をつけるだけで、指導される側の態度はずいぶん変わるものだと思うし、ストレスがなくなっていくように思います。

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2012年05月26日

人間は難しい

機械化やプログラム化で仕事の自動化が進んでいます。

効率化と誤りのないという信頼性のため、加速しているのだと思います。

信頼性とは、予測したような動きをするということですが、唯一、予想したように動くとは限らないのが人間です。
また、そこが人間の良さでもあり悪さでもあり、人間がまさに人間と言われる所以なのかも知れません。

優れた経済学者が投資に長けているとも言えません。
それは、投資の難しさを表しているとも言えますが、予測不可能なのは、人の心理が要素にあるからです。
誰かの一言で、株も上がったり下がったりします。

結局、投資のプロもアマチュアもトータルでの勝率は同じぐらいだそうです。

どんなに経済学を学んだとしても、人間が介在する限り、計算しきれない部分があるのです。

■人の心に注目する必要

シェークスピアの小説「ジュリアス・シーザー」では「ブルータス、お前もか」が印象的な言葉ですが、シーザーを支持していた群衆の前で、ブルータスがシーザーを暗殺します。

ブルータスに対して群集は猛烈な怒りを持ちますが、直後のブルータスの名演説により、群集の心理は変わります。
群衆は「ブルータス万歳」と言うようになるのです。

この場面は、人間がいかに不確定なものかを知らされるところです。

昨日の敵は今日の友

なんて言葉もあります。

だから、人間は恐ろしいとも言えます。
人の心の中は、決して見えないものですから、よけいに不安があります。
(超能力者は別ですが)

人の心の中は見えないというところから、様々なドラマができるとも言えますが、フィクションでない実在の夫婦でも互いの心はわかりません。

無事定年を迎えたサラリーマンが、これからは、苦労をかけた妻と海外旅行をしてみたいと、ハワイ旅行の切符を買って帰宅すると、食卓で妻から「別れたい」という言葉を発せられたというドラマを見ました。

■人の心はわからないからどうする?

唯一、計算に入らない人間をどうするか?というのが、私にとっては課題でした。

それで、私が出した答えは、ひとことで言えば人を束縛しないということでした。

人が動く時(仕事をする時)、それは義務で動いているのか、自主的に動いているのかでは、内容や能率に違いが出てくると思います。

ridatsu.jpg特に、学校における部活動は課外ですから、根底には自由な空気が必要だと思います。

部活動を全入制にして、きまりとして参加しなくてはならないことにしている学校もあります。

そういう場合、生徒がきまりだから参加しているのか、自主的に参加しているのかは見えにくい場合があります。

「もし、参加が自由だとしたら、練習に来るだろうか?」ということも考えてみます。

また、個々の生徒の生活考えた場合、やはり個々の生徒の生活事情というものもあります。

だから、あまりにも参加を厳しくすると、休むときには理由が必要ということで、練習に出たくないと思った時は理由を作って休む、つまりサボるということになります。

私は生徒に「ウソをつく」とか「サボる」という経験をして欲しくないと思いました。
(人は、ウソをつくことによって、ウソつきになると思います)
ウソをついたりサボったりすると、それがバレなくても、人の心は悪くなると思います(自分にウソはつけませんから)。
「休みたい」と思ったら、あれこれ理由を探さなくてもいい「休みたいです」と正直に言えばいいと私は言いました(指導しました)。

それに「サボリたくなるというのは、何か部活におもしろくないところがあるのではないか」という面も考えました。
つまり「部活動の運営に問題があるのではないか」という反省の機会が持てるようにという意味でも、きまりで厳しく縛ったり、例外を一切認めないというやり方をしないように考えました。

特に休むための理由がなくても、時には休んでみて、部活動を外から見るのもいいのではという考えもあります。

音楽の部活なら、本来、音楽が楽しくて参加するというのが、一番良いと考えます。
それだけでなく、入部当初はそれほど興味はなかったが、続けるうちに熱が入ってきたとなるように運営をしたいと思ったのです。

会社で言えば、第一志望で入った会社でなくても、勤めるうちに会社が好きになったという会社が理想だと思うのです。

部活でも会社でも部員や社員が、どれほど自主的に参加しているかということが、結果の質に影響してくるのだと思うのです。

以前に紹介しましたが、私は部活動の運営において開始時間を厳格にしました。
そうする以上は終わりの時間も厳しく守るようにしました。

部活動の時間の終わりには、練習時間を打ち合わせの時間(ミーティング)をとりました。

パートごとのノートを作り、そこに思ったことは何で書けるようにしました。
もちろん、顧問に対しても意見を書けるようにしました。

これらの策は、成員が「やらされる」から「やる」という心に向かうことと、指導者自らも運営に対する反省材料を得るためです。

これが、私の言う「忠誠心」を高めるということでもあります。

この意図が、少なくともある程度は成功したと思えるのは、サボリはなかったこと、休める権利はあってもあまり使われなかったことにも表れていると思います。
また、部活動終了後にも、生徒たちは「今日の練習は思わしくなかった」と思った時、楽器店で部屋を借りて練習していったことがあったということでも、自主性は感じられます。

今年も、夏に部活動の同窓会が計画されています。
同窓会には、もう親になっている者も集まるので、そこでは本音が聞けるかも知れません。

【参考】
ちゅう‐せい【忠誠】
忠実で正直な心。また、忠義を尽くすこと。「国家に―を尽くす」「―を誓う」
Yahoo辞書
ちゅう‐せい【忠誠】
一般的には自我を超えた客観的な大義名分や理念、または自我の属する上級者、集団、制度などに対する愛着・傾倒の感情・態度をいう。この感情がもたらすものは、忠誠の対象を相対的に長期的に喜んで支持し、そのために行動することであり、ある程度の道徳的・感情的・物質的犠牲を払うことをいとわないという態度である。政治的忠誠とは、政治的共同社会の生活において重要な政治的対象に向けられた忠誠であり、その対象には、公式的制度、政党、利益集団、政治指導者、階級、軍隊、憲法、伝統、象徴や神話、歴史と民族的使命などが含まれる。政治的忠誠は、愛国(郷)心patriotismと法的義務obligationとの中間に位置する。それは愛国心と比べると、感情的にはよりクールで、その基礎においてより合理的で、その対象において包括性の度が低く、義務と比べると、より暖かで、合理性の度が低く、より包括的である。政治的忠誠はある政治システムの政治文化の一部を構成し、その諸対象とその相互連関、強度、影響範囲、パターンは、それぞれの政治システムの作動能力や安定―不安定に重要な影響を及ぼす。
政治的忠誠のパターンは、歴史的に変化してきている。たとえば古典古代のギリシア、ローマにおいては、市民のポリス的共同体への全人格的忠誠は、最高の価値とされた。古代末期から中世にかけては、一方ではカトリック教会とその教義への宗教的忠誠が最高の価値とされ、他方では封建主義の地方的で半人格的な忠誠が存在したが、一般的には前者が後者に優越していた。近代、とくに18世紀以降になると、「国民」ないし「民族」の概念が、もっとも包括的な大衆的政治的忠誠の対象となるが(とくにフランス革命以降の「ナショナリズムの時代」)、他方、近代資本主義の展開に伴って、労働運動等においては社会主義思想の影響もあって「階級への忠誠」が「国民・国家への忠誠」と相克するようになった。第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)に伴ういわゆる第二インターナショナルの崩壊は、この相克の劇的事例である。
今日、発展途上国においては、国民的忠誠と国民的自己同定感情(アイデンテイフイケーシヨン)の創出が、最重要政治課題となっているが、それとは対照的に、先進工業諸国家においては、個々人の忠誠の、多元化、部分化、道具化の傾向が強いといわれる。いずれにせよ、洋の東西南北を問わず、急速な社会変化と危機の時代においては、忠誠の多元化が忠誠の相克に進み、忠誠紛争の重要性をクローズアップする。忠誠が信従に、批判が不忠誠に等置される危険な傾向をどう防止するかが、今日のグローバルな重要な政治課題であるゆえんである。
[ 執筆者:田口富久治 ]
日本大百科全書(小学館)Yahoo!百科事典より

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posted by edlwiss at 10:05 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年05月25日

木口小平は死んでもラッパを離さず

また、この話を思い出しました。


ある、お父さんが、これはいい話だと小2の自分の娘に話したところ

「ふ〜ん、その兵隊さんてよっぽどラッパが好きだったんだね」

と返事をしたということです。

お父さんはガックリきたと言われましたが、最近ではこれも考えさせられます。
(この話は、ご存知の人も多いと思いますが、戦前の修身の教科書にありました。木口小平についてはこちらをご参照ください)

猿も木から落ちる

という諺があります。

これをどう解釈するかは、いまさら問題にすることでもないと思いますが、もしかしたら

「その猿ってどんな猿なんですか?」

とか

「その猿の登った木は特別な木なんですか?」

と、聞いてくる人がいるかも知れないと思ってしまうのです。

私が過去に投稿した記事

読解力の問題〜ピンポイント症候群

でも、糸屋の娘が出てくる唄を例に、文章の本質が読めない人がいるということを述べました。

ここに出てくる娘の年齢(14歳、16歳)を問題にしたり、なぜ大名が出てくるのかわからないらしく、論議がまるで、どうでもよい方向に行ってしまうのです。

一応、この唄の言わんとするところを説明すると、簡単にいえば「糸屋の娘は凄い美人なのだ」ということなのですね。

なぜ、大名が出てくるかと言うと、戦国大名は弓矢を使って人を殺すが「糸屋の娘は目で殺す」つまり、糸屋の娘に見つめられた男は、それだけで参っていしまうと表現しているわけです。

こんな風に説明してしまうと、おもしろさもなくなってしまうと思います。

間違いが直らない人

では、25Wのスピーカーと80Wのスピーカーの話を例に出して、年をとって頑固になったりプライドばかり高くなると、他人が声をかけるのを遠慮するから、情報が入りにくくなる、だから謙虚な態度が大切と思うというのが話の主旨(本質)なのですが、スピーカーの規格などを問題にしたり、教えてあげるのが先生の務めなのだとか、トンチンカンなことを言っている人がいました。

また、

経営のポイントは忠誠心

では、仕事をしていても、ただ仕事をしていればよいのではなく、仕事の密度が大切なのだ、ただ長時間仕事をしていればよいのでもないし、身が入っていなければ良い仕事はできないというのが、話の本質です。

しかし、ここでも勝手に、校長への忠誠心と解釈を決めつけたり、人間関係がどうのこうのとまるで見当違いのトンチンカンを論じている人がいました。

小2の娘が「その兵隊さん、よっぽどラッパが好きだったんだね」という返事も、あながち笑えない話になりそうな気がします。

小2の子どもの解釈なら、笑いで済ませられますが、いっぱしの大人や、さらに、それが先生だとしたら、話はもっと深刻なのではないでしょうか?

本質を理解できない先生が、果たして、先生が務まるのかという疑問が出てきます。

なぜ、このような思考しかできない人が出てくるのかと考えた時、それは、学校教育が受験にかなりシフトした指導して、勉強が記憶中心になったことが原因ではないかと思います。

では、何が欠けていたのかというと、知能を発達させる指導が不足したと思うのです。

だから、年はとっても小2と同じぐらいの知能のままかも知れません。

コンピュータでは、今、私たちが使っているパソコンはデータを記憶して、それを機械的に加工したりして吐き出しているだけです。知能はありません。
だから、人工頭脳と言うわけですが、記憶したことしか答えが出せないコンピュータではなく、記憶したデータをもとに推論ができるというコンピュータを人工知能を持ったコンピュータと言います。

ゆとり教育がどうのこうのという議論もありますが、それより深刻だと思うのは、知能の発達を促す教育をしてこなかったことではないかと思うのです。

たびたび例に出しますが

(1)ポチは犬である
(2)犬はワンと鳴く

この2つのデータを記憶したコンピュータがあるとします。

「ポチは何と鳴きますか?」

の問いに対し、人工頭脳型のコンピュータは、ポチが何と鳴くかというデータがないので、何も答えられません。

これに対して、人工知能型のコンピュータでは(1)と(2)から推論という知能を使って「ポチはワンと鳴きます」と答えを出してくるわけです。

一流企業では、恐らく「次の文を読んで、後の問に答えなさい」という形の問題を出し、結局、問題文の言いたかったこと(主旨、本質)は何かと答えを要求することがあると思います。

枝葉末節にとらわれて、本質とは関係ないことを答えているようでは、合格点はもらえないのではないかと思います。

起承転結がわからない

起承転結で書いてあるものを読み取れない。
起承転結を使えない。

これらは、知能に関わる問題だと思います。

交響曲も、多くは起承転結でできています。
だから、4楽章構成になっているわけです。

有名なベートーヴェンの交響曲第5番「運命」も4楽章でできていますが、全体で40分に満たない、交響曲としては短い方です。

4楽章全体を聴いて、ベートーヴェンが何を言いたかったのか、それぞれの楽章の分析もいいですが、曲全体を通じてベートーヴェンのメッセージを理解することが大切です。



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posted by edlwiss at 12:23 | Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2012年05月25日

裁判の原則は貫かれたか?



真相は直接に関わった人しかわからない。

他人が無責任な論評をすべきではないと思うが、裁判の原則である「疑わしきは罰せず」は貫かれたのかどうか?
posted by edlwiss at 11:07 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年05月24日

子どもはパソコンに強いか

大人にこの質問をすると、子どもはパソコンに強いと言う人が多い。

どうして、そう思うのだろう。

私はそう思ったこと(子どもはパソコンに強い)と思ったことはない。

むしろ、大切な仕事に使うパソコンは子どもに触らせないようにほしいと言う。

もちろん、パソコンの持ち主が、パソコンをどのように使うかは自由だが、サボートを依頼される立場としては、滅茶苦茶にいじられたパソコンは非常に面倒だ。

滅茶苦茶になるわけは、Administratorのモードで使っているので、何でも操作できてしまうことにある。

子どもがパソコンに強いと思うわけは?

なぜ、子どもがパソコンに強いと思うのだろう?
それは、子どもはパソコンを大胆にいじりまわすことにあると思う。

子どもは、パソコンがわかって使っているわけではない。

だから、平気でいきなり電源スイッチを切ったりする。
このような場合はWindowsが壊れやすい。

大人の側もパソコンの正しい操作がわかっていないと、何がいけないのかわからない。
だから、大胆にいじりまわす子どもを見て、子どもはパソコンに強いと思うのかも知れない。

でも、確かに子どもがパソコンに強いと思うところもある。
それは、キーボードのタイピングに強いということだ。

小学生でも習熟が早い。
おそらく、レディネスとして年齢が適合しているのだろう。
レディネス【readiness】
特定の学習に必要な条件が学習者の側に整っている状態をさして用いられる。レディネスの要因は二つに大別される。一つは個々人の一般的発達水準であり,もう一つはその課題を学習するための前提となる知識や技能がすでに習得されているか否か,という要因である。1930年ごろから使われだした概念であるが,当初は人間の精神発達は主として神経系の成熟によるという理論を背景につくられたものであった。そのため,この概念の提起は子どもの発達水準を無視して早期から知識や技能を詰め込む傾向を戒める効果をもったが,同時に成熟待ちという消極的な教育の傾向も生んだ。
kotobankより

だから、小学生のころから、ブラインドタッチの指導をすることがいいのではないかと思う。
練習用のキーボードだけを用意するという案もどうだろうか?

子どもがパソコンに強いと思うのは錯覚

子どもが大胆にパソコンをいじっている姿を見て、子どもはパソコンに強いと思うのだろうが、それは間違いである。
もちろん、中にはそうでない子どももいるだろうが、多くは好奇心の強さでいじっているに過ぎない。

特にGUIと呼ばれるWindowsの登場で、操作性がよくなったので見た画面を実物と錯覚する現象が多くなったと思われる。
グラフィカルユーザインタフェース(英語: Graphical User Interface, GUI, ジーユーアイ)はコンピュータグラフィックスとポインティングデバイスを用いて、直感的な操作を提供するユーザインタフェース。 キャラクタユーザインタフェース (CUI) やテキストユーザインタフェース (TUI) と対比して語られることが多い。
フリー百科事典「ウィキペデイァ」より

パソコンは使いやすくなったのと裏腹に、中がわかりにくなり、ブラックボックス化している。
だから、GUIが登場する前のDOSやCP/Mの時代に使っていた人の方が、パソコンについては詳しいと言える。

現代では、パソコンの操作は直感的になり、慣れによって操作に習熟する時代になっている。

道具として使うということであれば、それでもよいと言えるが、少しは理屈も知らないと、パソコンにとってよくない操作をしていることに気がつかないということにもなりかねない。

算数・数学などの力を高めないと、パソコンは理解できない

パソコンを慣れで使っているということ自体悪いことではないが、原理を知らないということは応用もできないということになるし、ビジネスでよく使用されるEXCELやACCESSなどのアプリケーションを使いこなすことはできない。

excel_macro.jpg子どもがパソコンに強いと言っても、EXCELの簡単な計算ぐらいは直感でわかるようになるかも知れないが、もっと本格的にマクロも使おうということになると、算数・数学の力が弱くてはどうにもならない。

さらに、会計に使おうということになれば、財務知識も必要であり、一般の小中生では無理だろう。
もちろん、そういうことにも太刀打ちできる小中生が出てほしいと思うが、もし、そのような小中生が登場するようになったらも真の意味でパソコンに強い子どもの登場ということになるだろう。

マクロを作る子どもが登場するようになってほしい

マクロプログラムは、むしろ頭の固い大人にとっては難解なものかもしれないが、子どもにとっては、指導者次第で理解できるのではないかと思う。
子どもがマクロプログラムを作るぐらいになると、相当に頭を使うだろうから、知能を飛躍的に高めるという二次的効果も期待できるように思う。

鉄は熱いうちに打てと言うように、子どもの時に頭を使うようにしたいと思う。

そう考えてくると、現在の学校の環境はまどろっこしい感じがする。

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posted by edlwiss at 18:20 | Comment(5) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年05月24日

間違いは速やかに訂正させていただきます

当方の記事に間違いがあれば、速やかに訂正させていただきたいと、常日ごろ思っております。

過去には、ご指摘いただき訂正させていただいものもあります。
グラフの縦軸と横軸の目盛りが違っていました。

このようなご指摘でなくても、こんなことを言ってけしからんというようなご意見があれば、ご指摘に従い対応させていただくことにやぶさかではありません。

しかし、困ったものがあります。
それは、どこにそんなことが書いてありますか?というものです。

例えば、過去の例では、私が国の貧困率について書いた記事がありました。
それについて、コメント欄を通じて抗議がありました。

「この国(日本)を貧困というのはけしからん」という抗議でした。
この方は、まるで自分が貧困と言われたかのように怒っていました。

しかし、私は日本が貧困国家であるとはどこにも書きませんでしたし、事実、記事を読み返してもありません。
その記事の主旨は「貧困率の意味は等価可処分所得が、全国民の等価可処分所得の半分に満たない国民の割合であり、日本はその割合が高い」ということでした。

簡単にいえば「貧困率」という言葉の説明でした。
それを、抗議した人は「貧困と言われた」と解釈したらしいのです。

だから、私は「例えば肥満率という言葉を出したら、肥満であると言われたのではないですよ」などと説明しました。

しかし、納得できたのかできないのか何も応答がありませんでした。

最近の例では、私のブログに載せた楽譜の間違いを指摘した人がいました。
これも、間違っていない旨を説明しました。
しかし、応答がありません。

自分の父親のことを悪く言われたと抗議された方がいました。
私は、何をどう悪く言ったのか覚えがありませんので、その詳細(具体的事実)をおたずねしたところ、これも返事はありません。

「嫌われる人」という記事を書きました。

これは、私が買ったPRESIDENT (プレジデント) 2012年 6/4号 [雑誌]という雑誌の調査を引用したものですが、まるで、私がある人を対象に述べたように、怒っている人がいました。
PRESIDENT (プレジデント) 2012年 6/4号 [雑誌]には自己診断がありました。
それで、私も自己診断をしようと思って買ったわけです。

その他、私の記事を読んで、あれこれ怒っているような人もいるようです。

しかし、私には全く覚えがないので、それは何処にあるのか具体的に、ご指摘いただきたいのです。
機会を見計らって、こう申し上げているのですが、未だ一度も具体的なご指摘はありません。

かたいことを言えば、法的には侮辱罪や名誉毀損になる場合もあるかも知れません(親告罪です)。
そこまで、言わなくても、特に他人の記事に対してとやかく言うなら、責任を持ちましょう。

特に教育関係者、教員であるなら、児童生徒に対して模範行動になるよう、意識していただきたいと思うのです。

ということで、これもしばしば申し上げていることですが、自分が記事を書いたなら5W1Hに照らし合わせて、適合性があるかをチェックしていたたきたいと思うのです。

※ 最近のホルン、トロンボーンに関しての指導の問題の詳しい説明はこちらこちらです。
  これも、正しく記事の内容を理解していない人がいます。
  正しくない指導は現在も行われています(昔のことではありません)。

具体的な指摘がないのはなぜか?

なぜ、具体的にしてきできないのかを考えてみました。

anzennamousou.jpgやはり5W1Hが大切です。

Who・・・・誰が
Where・・・何処で(に)
When・・・・いつ
What・・・・何を
Why・・・・なぜ
How・・・・どのように

を念頭に置いて、例えば「それは何処にあるのか」と言われた時、何処か答えなければいけません。
しかし、探してもなかった、あるいは意図的に創作した(相手がそう言っていると決めつけた)とあれば、答えようがありません。

これは、妄想捏造ということになります。

妄想と気がついたのか、故意の捏造だから何も言えないのかも知れません。

妄想したい人は大いにやってください。
しかし、それを事実にすり替えてはいけません。

勝手な妄想に対して、責任を問われても困ります

何処にそんなことが書いてありますか?

怒る前に、決め付ける前に、もう一度、よくお考えください。

ご意見はコメント欄に堂々とお書きください。
規制は、少なくとも1年以上は行なっておりません。
別のところに書かれても、わかりませんし、別なところに書かれたものを、当方が読まなければならないという義務もありません。
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posted by edlwiss at 13:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年05月24日

犠牲は人に強いるものではない

犠牲とは以下の意味です。

ぎ‐せい【犠牲】
1 神、精霊などをまつるときに供える生き物。いけにえ。
2 ある目的のために損失となることをいとわず、大切なものをささげること。また、そのもの。「道義のために地位も財産も―にする」「―を払う」
大辞泉より

何人も犠牲になってよいという人はいません。
国によっては、宗教的な関係から、国のために爆弾を背負って自爆するということ(犠牲)をよしとする(奨めている)ところもあります。

日本も第二次大戦中は、神風特別攻撃隊を編成して国のために犠牲になることを命令しました。

しかし、現在は大日本帝国憲法ではなく、日本国憲法です。
日本国憲法では、人は法の下に平等であると謳ってあります。
日本では、人に関してはこの人は法の下に平等であるというのが、すべての根源と言えます。

人とは何か、法律上は民法に定めてあります。
それによると、人は生まれた時、人としての権利を得ることになります。
そして、死をもって人の権利を失うわけです。

何だか、かたい話ですが、日本国民は日本国憲法を順守しなければなりません。
これは、行動する上では自分の主義主張より優先するものです。

また、これは大人としては常識であり、特に教員という立場であるなら、さらにこの意識を高くする必要があると思います。

日本では生まれたばかりの赤ちゃんから年寄りまで、平等に人として尊重されます。
それは、人である以上、誰かが犠牲になることを許していないということです。

例えば、校長が子どものために犠牲になれと、教師に言うこと(命令すること)は許されません。

だから、体調がよくないから休ませて欲しいと願い出た教師に対して、健康を害しても子どものために尽くせということは許されません。

そういう場合は、その先生の補欠を考えるなりして、教育活動に停滞を起こさないように配慮すべきです。

先生の人権を守ることも必要で、子どもの教育を受ける権利を守ることも必要です。

犠牲的精神は美しいが

犠牲的な精神を持って教育活動にあたる行為は美しいことですが、犠牲を人に強いることは間違っています

seisyokuno2.jpg犠牲的精神が大切との信念を持っている人は、それを人に強いるのではなく、率先垂範すべきです。

例えば、目の前に橋があって、渡ると壊れるかも知れないという不安があった時、校長は教師に対して「子どもが渡ると危険かも知れないので、お前、渡ってみろ」と命令することは間違っています。

(これは、ものごとを象徴的に言っているのであり、橋そのものや場面を云々して、揚げ足をとるべきではありません。→最近は狭いものの見方をする人がいるので、念のため)

校長が犠牲的精神を信念を持って大切と考えるのなら、人(他人)に対して言葉で言う(命令する)のではなく、黙って自ら実行すべきでしょう。

この度の大震災では、放射能のために牛乳が売れなくなった酪農家があります。

私がとても心を痛めたニュースに、ある日、酪農家の主人が自殺していたというのがありました。

牛舎の壁には「生命保険で借金を払ってくれ」と書いてありました。

この方は、一家の行く末を安じて、自ら命を絶ったわけです。

こんなことがないように、国はもっと早く対策をうつべきでした。

もちろん、一家が苦しいからと言って、誰かがこのようなことを強いることは間違っていますし、犠牲になることが大切のように、日頃から主張する人は、暗にそういうことを推奨するようにしていると捉えられかねないのではないでしょうか?

もちろん、他人にそんなことを強要したら犯罪になる可能性大です。
(自殺の強要により自己の意思を制圧され、強要者の道具として自殺行為をした場合には、強要した者について殺人罪が成立する。間接正犯。または場合は自殺関与罪・同意殺人罪)

体調が悪く、休みを申し出た教師に対し「子どもはどうするだ」と校長が言った場合、言われた教師が悩んで自殺したら、校長は罪に問われるかも知れません。

いや、罪に問われるから、そういうことを言わないのではなく、その前に正しい判断をすべきです。
この場合の正しい判断とは、教師も大切だが子どもも大切というバランス感覚です。
教師が不利益になっても、子どものために尽くせというのは、バランス感覚が狂っているわけです。

それでも、教師は子どものために犠牲になるべきと考える人は、自らの率先垂範で実践結果を示してください
「お前は犠牲になれ、オレは高みの見物をしている」
では人格自体が問われるでしょう。

体調の悪い教師に対し「子どもはどうするだ」は「いじめ」ともとれます。

忠誠心は仕事に対する忠誠心である

製造業であれば、従業員の忠誠心とは「お客様のために良い製品を作ろう」
という精神です。

教師であれば「子どものために、良い教育を」と考えるのが忠誠心です。

社長のため、校長のためと考えるとしたら、常識がない、判断力に欠けると言えるでしょう。

どちらも同じと考える人がいるかもしれませんが、通常の業務では一致しているところが多いのかも知れません。
しかし、時に一致しないことがあります。

例えば、社長の意向で期限切れの食品を黙って流通させていたという場合です。
これに従うことは、社長に対する忠誠心と言えますが、消費者に対する忠誠心とは言えません。

まとめ

もともと、人に対する思いやりやバランス感覚がある人や学ぶ姿勢のある人なら、間違った考えには行きにくいとおもいますが、やはり「オレがオレが」の強い人は、どうしても自己中心的な考えになりやすく、常識に反した考えになりやすいのではと思います。

人(他人)が信じられない人も、冷たい印象を受けるし、だいたい、教育という仕事は人を信じるということが前提でなければ、始まらないことだと思いますし、人を信じることができなければ、相手からも信用されないでしょう。

「どうせ悪いことをするに違いない」と考えている、ジャベール刑事のようでは、教育の仕事をする人としては適さないと思います。
他人の成功を願わない人も同様ですね。

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posted by edlwiss at 07:52 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2012年05月23日

経営のポイントは忠誠心

eraihito2.jpg
最近のデータによると、国民の消費行動は増加傾向にあると発表されました。

しかし、全体としてはまだ不景気の感は強いでしょう。

会社の倒産数も高水準です。

日本の企業は圧倒的に中小企業が多く、日本の工業は中小企業に支えられているというのは、よく知られていることです。

経営の苦しい中、中小企業の経営者はやりくりを工夫して持ちこたえています。

それでも、倒産を余儀なくされたある会社は、従業員に会社の存続が難しくなったことを伝えました。

「申し訳ない。もう、みなさんに給料が払っていけなくなりました・・・」

と、会社をやめることを伝えました。

従業員の一人が発言しました。

「社長、私たちの給料はいいですから、力を合わせてなんとか乗り切りましょう」

従業員の一同はうなずいていました。

社長は、みなさんにタダで働いてもらうなんて・・・と話しましたが、従業員の熱意に動かされて、もう一度がんばってみると決心しました。

社長は泣いていました。

こういう会社もあるんですね。

この会社は小さな会社で、みんなが家族のようになって仕事をしてきたわけです。
そして、社長の人がらにひかれて、この社長のもとで働きたいと思っていたわけです。

これはひとつの例ですが、人が雇われて仕事をする場合、それが時間給ならば仕事の中身はともかく、時間数で機械的に給与は計算されるわけです。

働く人がずるく考えれば、なるべく時間稼ぎをしようとも考えるわけです。

今、正社員が少ないということが問題になっていますが、会社は正社員ではないほうが、人件費という経費が少なくできるので、そうするわけです。

しかし、正社員を多くして業績の上がった会社もあります。

それは、正社員になれたことで、人は会社のために働こうとか、人を大切にしてくれる経営者のもとで一生懸命働こうという忠誠心が高くなったことが原因です。

ここで、人は心で動くということがわかります。

だから、経営のポイントは、いかに忠誠心を高めるかということだと、私は思うのです。

私は会社経営をしたことがないので、会社において経営の実践をしたことがありません。

でも、部活動でこういう考えを少しでも取り入れて運営をしてみました。

1.月一回は、生徒たち自身の手でリクレーションをすることができる

2.行事に差し支えない限り、ある回数は自由に休みが取れる

3.決められた休みの権利の他に、休みたいと思った時は、申し出て、部員の半数以上が承認してくれたら休むことができる

など、生徒自身の権利を拡大しました。

結果は、練習に熱心に取り組むようになり、練習の密度、能率が高まりました。

「なぜ、それほど練習回数は多くないのに、たくさん曲ができるのですか?」

ということで、見学に来る学校(先生)もありました。

簡単に言えばやる気が高まったということです。

実際に人を動かすとか、運営をするという経験がない人、あるいは経験があっても、人の心(心理)をつかめない人は、人を機械的に考え、命令で動くと考えているように思います。

他界されたが、私が名校長と思った人も人の心がよくわかった人だと思いました。

先生たちを大切にしたので、先生たちはかえって熱心に仕事をしたのです。

逆に、評判のよくなかった校長の話が噂になったことがあります。

ある女の先生が体調を悪くし、校長に休暇の許可を申し出たところ、校長は

「子どもはどうするだ」

と言ったそうです。

それで、その女の先生は陰で泣いていたらしい。

噂を聞いた人たちは、きっと「ああいう校長のもとでは働きたくない」と思ったことでしょう。

経営のポイントはいかに忠誠心を高めるかである。

そのためには、あの人のもとで働きたい、ああいう学校で働きたいと思うような経営をすること

人は本来、やりがいのある仕事をしたがるものだと信じることだと思います。

子どもを守れるのは大人です。

家庭では親であり、学校では先生です。

子どもが大切か、先生が大切かというABどちらかという選択はありません。

どちらも大切です。

人間としては平等ですが、成人でない子どもは自身を守ることはできません。
だから、学校にあっては先生が子どもの代弁者でなければならないと思うのです。

出世意欲の高い人は、上ばかり見ていて(だからヒラメ教師と言われるのですが)弱い立場にある子どもの代弁をしないような気がします。

変な話になりますが、私の家では昔から猫がいました。
近所では、あそこは猫を大切にする家として有名になっていました。
猫のために牛乳をとってやっていました。

親が

「今日、猫が牛乳飲まんかったから、お前飲むか?」

と言ったことがあります。

私の家は田舎で、猫がいないとネズミが出てきて悪いことをします。
だから、私の家だけでなく、多くの家が猫を飼っていました。

しかし、他の家と私の家での猫の買い方の違いは、私の家では猫が豊かな食事生活をしていたことです。

ある日、親が猫について話したことがあります。

「よその家では、猫に餌をやると、腹が減らないからネズミを取らないと言っている」

と、でもウチは違うと言いたかったのでしょう。

結果は、餌をもらっていない猫は、よその家へ行っては食べ物を盗むという泥棒猫になっていました。

猫は満足に餌をもらっていないと、元気が出ないので、かえってネズミを取らないのです。

上面で考えたことと、実際と違うことはよくあるように思います。

だから、実践者でなければいけないと思うのです。
それも、情報収集できない鈍感な実践者ではいけないと思うのです。

斎藤喜博先生もよく、教師は実践者でなければいけないと言って見えました。

ネットで検索すると、斎藤喜博先生のことを悪く言っている人がいましたが、その言い分を読んでみると、全くの勝手な決めつけで理解できていないと感じました。

斎藤喜博先生の考えは教育学のすすめ (学問のすすめ 13)を読むと、よくわかると思います。

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posted by edlwiss at 21:48 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年05月23日

25Wのスピーカーと80Wのスピーカー

私の文に対して書かれてあったらしいので、引用させていただきます。

ここでの問題の記事は、私の過去のブログの記事間違いが直らない人についてです。
コメントをしている人の、文章が妥当なものかどうか、ここを読んでいただいている人も、考えていただければ幸いです。

※ 下線と番号は私が付加したものです。

国語力云々を言う人が、言葉の定義が明確で無いという見本のdolceさん。[1]

>このスピーカーは25Wだが、こちらは80Wだ。だから、こちらの方が大きな音が出ると
>言っていた人がいる。

これを間違って言うと言うだけでは果たして正しいコミュニケーションなのか大いに疑問です。
間違いなら、どう言えば正しいのかを教えるのが教師のつとめでは無いでしょうか?
[2]

良くある勘違い、それをきちんと解明して子供に教えるということが全くなさそうですね。[3]

まず、何かを比べようとしたら、同じ条件で結果を比較するということが重要です。
テストで平均点が大きく違っていた場合とかよく問題になることですね。
スピーカーの場合、JIS規格で測定方法、や定格などの表示が定まっています。

25Wのスピーカーとは、定格入力ですか?最大許容入力ですか?
それ以外の定格ですか?
[4]
Wとは仕事率(音の大きさと関係ない)で、音圧を表す数値は別の定義があります。
同じ定格入力25Wのスピーカーでも音圧レベルはずいぶん違いがありますね。

音圧の測定方法や無響室での条件からばらつきがありますね。

そういうことをきちんと説明出来てこそ教師の価値があるのだと思うのです。[5]
それは間違いだというだけでは何もなりません。

テストをやった後、授業で多くでた誤回答をきちんと説明するということは、必要です。[6]


--------------------------------------------------------------------------


[1]はたして、そうでしょうかね?
あなたがここで言う「言葉の定義」とは何でしょう?
そして明確にしなければならないのはだれでしょう?
それは私ではなく「言った人」ではないですか?
あなたは、人の区別がめちゃくちゃです。
だから、私は5W1Hを大切にしようと言うのです。
その言葉の責任を持たなくてはいけないのは、誰?(Who)
[2](その人と)コミュニケーションなんかとっていませんよ。コミュニケーションをとるつとめなんてありません。
世の中で、だれかが間違っていたら、いちいちそれを正す(教える)つとめなんて、ありませんよ。
あると言うなら、その根拠を教えてほしいですね。
この場合は特に、そういう人には、正そうとは思わないという理由は、文章に書いてありますが、それが読み取れない、あなた自身に読解力がないと自ら証明しているようなものです。
[3]相手が「子ども」と読み取っているのかな?(相手は子どもじゃないですよ)
[4]知りませんよ。だって、私が言っていることじゃないですから。他人がどういう意味で言っているのか、心の中を読み取る超能力は私にはありません。
「それだけでは、何を示しているかわからない」から、間違っていると言ったのです。
おかしいのは、他人の発言なのに、私にその真意を聞いてくるとという思考のおかしさですね。
[5]全く、思考回路がおかしいです。この場合、私が誰かにスピーカーの定義や規格を押しつけがましく説明する義務や責任は全くありません。それに、そういうことが教師の価値だなんて、聞いたことがありません。
また、勝手にそれが教師の価値だなんて、思われていても、どうぞご自由にと言うだけですね。
私としては、価値を認めていただかなくても、いっこうに構いません。
[6]何で、ここにテストの話が急に出てくるんでしょうね?
上から目線で「オレが教えてやる」ですか?

【まとめ】
世の中には、変な人(思考回路が変→文章が正しく読めていない)、勘違いさんがいるものだと思いました。
似た人が他にもいましたが、文章から連想することを勝手に持ち出して、責任を求めてくるという根本的に思考か回路がおかしい例と言えるでしょう。

他人が○○と言ったという場合、私がその○○について責任を持つ必要もないし、だいたい他人の真意なんてわかりませんよ。
さらに、連想ゲームのように、読む人が勝手に連想したことについて、何か意見をされたり質問されたりしても、責任はとれませんよ。

過去に似た思考回路を持った人の例がありました。

「ケーブル(導線)を太くすると、直流抵抗が小さくなるので、電流は大きくなる」と私が答えたら「音色も変わる」と主張して譲らない人がいた。

そうかも知れないが、私の言っていることは、ケーブルの太さと電流の関係のみについての論議なわけです。

それを、問題点を勝手に拡大して、ああだこうだと言ってくる。
「今、問題にしているのは、太さと電流の関係だけです」
と何度言っても理解できない。

こういうのも、思考回路が変だと思うのです。

思考回路が狂っていたら、その先の議論は無意味です。

今回の間違いが直らない人というブログの主題は何か、そして作者が結論として何を言いたのかをよく考えてもらいたい。

「作者が言いたいことを○字以内で記せ」
という国語の問題はよく出ます。

そういう出題をしたとしたら、このコメントの作者は点がとれないと想像します。
大切なところは、スピーカーの規格が云々ということじゃないです。

それとも「この人」は「オレはスピーカーのことについて知っているぞ」(オマエは知らないだろう?)と言いたいんでしょうか?(挑戦ですか?)

追伸

それにしても、質問(コメント)を、なぜ、堂々と作者の記事のコメント欄に書けないんでしょうか?

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posted by edlwiss at 19:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年05月23日

親が健康でなければ子は育たない

駐車場に向かう手前の出入口、天井の近くに毎年、つばめがやってくる。

今、親は子育てのために、頻繁に餌を運んでいる。

腹を空かした子どもたちは、親が近づくと大きな口を開けて餌を催促する。

成長期の子どもたちは、食欲も旺盛なので親も大変だ。

tsubame.jpg


つばめは、毎年、この頃にやってくるが、すずめは年中、民家の近くにいる。

やはり親すずめは毎日、子どものために餌さがしで忙しい。

ある日、歩道を歩いていたら、すずめが落ちていて、よく見るとヒクヒクしていた。

恐らく、何かに衝突して墜落したのだろう。

そっと拾い上げてみると、ぬくもりが伝わってきた。

少し離れて老人が私の様子を見ていた。

「もう、だめだよ」

悲しい気持ちになってきた。

巣では、子どもたちがお母さんの帰りを待っているだろうなあと想像した。

「お母さん、遅いなあ」

そう思っているかも知れない。

ずっと、親が帰らない巣では、子どもたちはどうなるんだろうと考えると、悲しい気持ちになる。

親が元気でないと、子どもは育たないのだ。

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posted by edlwiss at 09:03 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2012年05月22日

間違いが直らない人

このスピーカーは25Wだが、こちらは80Wだ。だから、こちらの方が大きな音が出ると言っていた人がいる。

この人は先生で、しかも理科を教えている人だった。

もちろん、言っていることは間違っている。

理科の先生が、これではまずいと思うのだが、恐らくこの人は、よほどのことがない限りずっとこのままで行くんだろうなという気がした。

学校というところは、いろいろな教科の先生が集まっている。そして、教科が違うと互いにその領域を犯さないようにという暗黙の了解のようなものがあるようだ。

特に、プライドの高い人にはモノが言いにくい。

だから、例に挙げた理科の先生の場合は、教師としての経験は20年以上あって、自他ともに認めるベテランという地位にあるので、自分の知識に疑問を持つこともないし、他人も口出しをしない。

いや、実は、私は口を出してしまったので、以後すっかり嫌われるようになったという苦い経験がある。

もっとも、その人に嫌われたからといってどうと言うことはない。

むしろ、ああいう人にはなりたくないと思うようになった。

25Wのスピーカーより、80Wのスピーカーの方が音が大きいなんて知識を持って、学校の外に出たらとんでもないことになる。

でも、案外、こういう人が権威ある人ということになって、難しいことはあの人に聞けとか、スピーカーを買う場合にお願いしてついていってもらう。
そして、その方の推薦ということで、自宅ではそのオーディオセットが並べてあるなんてこともある。

baka_kusuri.jpgよほどのことがない限り、こういう牙城は崩れないだろう。

どういうわけか、人間もそこそこ年を取ってくると、権威のようなものを欲しがる人もいるようだが、私は断じてこのようにはなりたくない。

だから、相手が子どもであろうが誰であろうが、気安く声をかけてもらえるようにしたいと思っている。

自分が今までに得た知識に安住しない、ということが大切だと思うのである。

先に述べたように、学校の先生は互いに相手の立場を尊重している。
学校というところが、他の世界(社会)と違っているところは、互いに立場を尊重する大人以外は、みんな子どもである。
これは、お山の大将にもなりやすいと言えないだろうか?

だから、時には学校の先生は、自分の教科が本当に専門と言えるものなのか、学校の外に出て企業に参加してみるなど、社会で通用する専門の仲間の中に入って勉強する機会を作るべきと思うのである。

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posted by edlwiss at 16:16 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年05月22日

教員の志望者は増えるか?

facebook.jpg教育の仕事に魅力を持っている人は多いと思います。

非常にやりがいのある仕事と感じている人も多いことでしょう。

では、教員になりたいと思う人はどのくらいいるのでしょう?

魅力を感じる、やりがいがある、だから希望すると簡単にはいかないように思います。

教育の仕事に憧れを持って、教員になったものの現実と理想の狭間に苦しんで辞めていく人、あるいは死亡してしまう人もいました。

私の身近にも、教員の仕事をしていて亡くなった人がいます。

原因は働きすぎです。

本人はどんなに忙しくても、苦情一つ言わなかった。

それどころか、常に子どものことが気になっていたようです。

父親に会いましたが、落胆ぶりは言葉では表せません。

遺品を見せていただきましたが、仕事に熱心に取り組んだことで、もらった賞状などがたくさん出てきました。
しかし、そういうものは、ダンボールに仕舞いこんで人に見せることはなかったようです。

私は、生前の彼女のことを知っていましたから、彼女は表彰されたいために仕事をするような人ではないということはわかりました。

父親は職人で、自分のことを自慢するような人ではなかったことから、そいう性格を引き継いだのかも知れません。

私が腹立たしく思うのは、職場で、エラそうなことは言うが自分では何もしない人です。

それでいて、何かの成果で学校の名が知れると、あたかも自分の功績であるかのように言う人がいることです。

最近、ある有名な企業でも内部の過酷な労働が表面化したところがあります。

社長はしばしばテレビに出演し、エラそうなことを言っていました。

職場の様子は、なかなか外部からは見えにくいものです。

教育に憧れて、教員を希望しようかどうしようかと迷っている人の中には、実際、職場はどんな風だろうと思っている人も少なくないのではないかと思います。

近年、facebookが企業への就職に関して役立っているようです。

役立てているのは、会社、学生の双方です。

会社はfacebookで品定めならぬ、学生の評価をしているようです。
これは、すでに面接をしているようなものとも言えます。

一方、学生の方はfacebookを通じて、会社の評価、その他の情報収集に役立てているようです。

facebookより先に登場した、ホームページ、ブログ、ツィッターも情報源になるでしょう。

この教育関係のブログも、教員志望の学生には「本当はどうなの?」という疑問に答えるものになっているのかも知れません。

教育の仕事には魅力を感じるが、ちょっと、どうしようか?
nihonkokukenpou.jpg
とためらうのかも知れません。

「そんなに、労働条件が悪いの?」

とか、

「教員て、そんなバカがいるんだ」

と感じる資料になっているかも知れません。

評判の悪い会社というのは、会社説明会や表向きの情報と、いざ就職してみたらずいぶん話が違うというズレのあるものが多いようです。

教育は国の大事業ですから、国がそんな詐欺のようなことをやってはいけません。

国には憲法というものがあります。
憲法は国自身が決めたものです。

だから、国が憲法違反をするのはもっての外です。

国という生き物はいません。

国といいますが、実際に活動しているのはひとりひとりの人間です。

教育行政の先頭に立っている人が、国の代弁者なわけです。

だから、現に働いている人、特に何らかの肩書きのある人、日本国憲法をどのくらい知っていますか?

日本国憲法第25条1項

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する

いつも、上から目線のあなたは、当然知っていますよね?

先生は零戦に乗った、特攻隊ではありません。

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posted by edlwiss at 00:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年05月20日

作文力が変な人は読解力もおかしい

associe2.jpg総合的には「国語の力」ということになるだろうが、改めて作文力、読解力の大切さを感じた。

ネット時代は、非常にたくさんの文章を読むことができる。

作文を書いた人が、意見を書いているのをみると、双方は密接な関係があると感じる。

どこが変なのか

・一体、何を言いたいんだろう

起承転結をひな形とした作文の書き方があるが、必ずしもそれにこだわる必要はないと思う。
だが、話があっちに行ったりこっちに来たりしてもいいが、結局何が言いたいのかわからない文章がある。

それが、迷いというのなら、それもいい。
しかし、変だと思う作文には、それらの迷いに関連性がない。
頭(思考)が完全に飛んでしまっていると思うものがある。
こういうのは、国語の力というより、支離滅裂で思考が分裂状態と言える。

・どこにそういうことが書いてあるんだろう

どう読んでも、そうは書いてないと思えるのだが、決めつけているような感想がある。
これは、相手の意見を読み取ると言うより、自分がそういうことにしたい、そう思いたいにしてしまっているように思える。
こういう場合は、他人の文が単なるきっかけで、そこに書いてある単語から想起したことを感想としてしまっているようなものだ。
これも、読解力というより、性格の影響が大きいのかも知れない。

日経ビジネスのアソシエ6月号には、相手の意見を聞く時(読む時)先入観を、一度横においてとあります。6月号は「伝える技術」という特集です。

変な人が多くなったのか?

変な人が多くなったのか、ネット自体で変な文を見つける機会が多くなったのか?

私自身の経験として「お前は○○と言っている」とか「何で△△なんですか?」という返事に対して「どこにそういうことが書いてありましたか?」と問い返した時、具体的に「それは何処そこ」と返事が来たことは一度もない。

まあ、本当に壊れちゃった人に言っても仕方がないか、と思うが、そうでないなら、抗議したい時は具体的にどこがそうなのか明示してほしいと思う。

正しい日本語を 

特に、先生をやっている人は、児童生徒が読んでいるかも知れないと思って書くべきだと思う。
先生だから、子どものお手本にならないとまずいでしょう?

上手な文でなくてもいいから、少なくとも主語と述語の関係がわかるように書いて欲しいと思います。
子どもっぽく見えてしまう文は、それが精神年齢と感じられる恐れがあると思います。

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posted by edlwiss at 23:11 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2012年05月20日

明るい職場作り

職場が明るいとはどういうことか

人はやりがいのある仕事をしたいと思っていると思う。
そして、やりがいのある仕事をしていると実感する時、人は明るくなれると思うのである。

それでは学校において、教師がやりがいを感じる時とはどういう時か?

それは児童生徒の笑顔を見たときではないか。
もちろん、その笑顔とは教育活動における成功を意味する笑顔である。

それには、教師が健康で文化的な環境において、思い切り仕事ができることであると思う。

家庭では夫婦円満でなければ、子どもを幸せにすることはできない。

学校でも同様、教師に精神的ゆとり、仕事に対する充実感がなければ、児童生徒によい教育をすることはできないだろう。

こういうことは至極当たり前なことであり、健康で文化的な生活とは憲法が保障していることで、国が率先垂範して行わなければならない。

だが、どういうわけか、教育関係者の中にもバカがいて、教師は子どものために自らを犠牲にせよなどと言う者がいる。
子どもの幸せを守れるのは、大人しかいない。
学校においては、教師がそれを行なうものだと思う。

教育の場からロジックの狂った者を排除すること

ここでお断りだが、私はカタカナ用語をなるべく使わないようにしている。
だが、ロジックという言葉は、もし知らない人がいるとしたら、この際覚えてもらった方が便利だと思うので、この言葉を使った。
ロジック(Logic)
半導体や内部の回路の分類で、数値演算などデータの加工・処理を担うチップや回路のことを、記憶など他の機能を担うものと区別する意味合いで「ロジックLSI」「ロジック回路」のように呼ぶことがある。
プログラミングやシステム開発では、処理の流れや利用しているアルゴリズムなど、コードが体現する論理のことをロジックと呼ぶことがある。
IT用語辞典
ロジック【logic】
1 論法。論理。「妙な―を振り回す」
2 論理学。
goo辞書

ロジックとは、要するに論理であり、ロジックの狂った者とは、正常な思考のできない人(早い話「頭のオカシイ人」)のことである。

例えば、教師なのに「気に入らない規則は守らなくてよい」などと教える人。

普通は考えられないと思うが、そういう人がいるとしたら、教育を壊すことになるから、排除しなければならない。
行政は排除するしくみを作らなければならない。

次の写真は私が所有しているテープデッキである。

AKAI747dbx.jpg


何でこんな物を紹介するかと言うと、このAKAIというメーカーのテープデッキには、ロジック回路という物が組み込まれた。
そのため、非常に便利な動きをする機械になった。

だが、ロジック回路が壊れたら、この機械は正常な動きをしなくなる。
突然、暴走するかも知れない。
ロジック回路はICで作られている。だから、壊れたら修理のしようがないので、この機械はもう使えない。
廃棄するしかないのだ。

良い人材を教師として採用することも大切だが、ロジックの狂った教師が教育の場にいないようにすることも大切だ。

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ということで、今回は教育行政に要求する記事となった。

人は権力を持つと、それを使ってみたくなるものだと言われたことがある。

何か肩書きつくと、エラくなったと勘違いし、エラそうなことを言うくせに、自分は何もしないという人が、職場では嫌われるという調査があった。

実は、こういう人間が教育の邪魔をしているのではないかと思う。

私が思い出す、ちょっと変わった校長は、赴任してくるなり作業服に着替え、運動場のすみに一人で黙々と器具倉庫を作っていた。

この校長は美術の先生で、工作には心得があったらしい。

夏休みも、一人、出てきて黙々と作業をやっていた。
他の先生たちに、やらせようという気持ちはなかった。

器具倉庫が必要だが、すぐには予算化されないということを知っていて、自分で作ろうと決心したのだろう。

先生たちには「みんな一生懸命やっていてくれるから、いいよ」と言っていた。

用務員のおばさんが、気を利かして、時々、お茶を持っていくところを見たことがある。

特に、何を言うという校長ではなかったが、みんなの心に残った人だと思う。

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posted by edlwiss at 17:52 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

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