2012年06月30日

言葉の意味を確認すると教育観になる?

教育観なる言葉は抽象的で、とても広い意味を感じるものである。

それはともかく、私は折にふれて言葉を正しく使おうと言っている。

もちろん、自分でもそう努めているつもりで、指摘があれば検討する気持ちを持っている。

ところで、非常に不思議に思うのは、私が何も教育観らしきものを語っていなくても、私の教育観がどうのこうのという人がいる。

だから、私は5W1Hを言うのだ。

「私が教育観を語っているって?それどこに書いてありますか?」Where

と言いたいわけである。

この種の疑問に、応えてくれた人は、今までに一人もいない。

卑近な例では、切磋琢磨という言葉。

私は切磋琢磨をすべきとか、何とか、切磋琢磨という行動について語ったことは全くない。

ところが、私が切磋琢磨の言葉の意味を確認した途端に、教育観(の話)ときた。

これは何でしょう?

seisinsikkan.jpgだから、こういう人のことを私は「頭がおかしい」と言うのだ。

人間は時におかしな行動をする。もちろん私とて例外ではない。
しかし、自分で気がついたり、指摘されたりして修正することができる。

修正できる人は、おかしい人と思わないが、恒久的に修正できない人は「おかしい」とせざるを得ない。

私がどこでそういうことを言いましたか?とか、どこに書いてありますか?Where

について、返信できないのは、恐らく探しても見つからないからだろう?

・・・と思ったけどそうではなかった、とか、見たと思ったがそんなものはなかったという場合、これを妄想、幻想。幻覚という。

そういうことが、しばしば起こる人を、どこかおかしいと思うのは私だけではないだろう。

再度言うが、普通の人、健康な人と思われている人にも、ときにおかしい現象はある。
幻覚、妄想、幻聴、・・・・など。

頭痛、腹痛などもある。
しかしただちに医者に行くことはない。

でも、それが恒常的になったら、医者に行った方がいいと、判断する人は多いはずだ。

だから、精神的にもおかしいが恒常的に起こる人は医者に行った方がいいし、事実、行っている人も多い。

少し離れたところで、人が話し合いをしていると「あいつらは、オレの悪口を言っている」と言う人がいる。
話の中身は、本人とは全く関係ないことなのだが、そういう反応を示す人がいる。

これも、一般には「おかしい」と言われる。

実際、私の住んでいる市にはそういう人が治療に行くO病院というのがある。
この種の専門医は精神科医であり、科は精神科・神経科・精神神経科・心療内科・神経内科・脳神経外科のどこへ行ったらよいのか、また、どう本人にすすめるのかという難しい問題は、こちらを参考にしてください。

最近はストレス社会とか発達障害とかで、患者は多いような気がします。

勤務している人と話をしたことがありますが、医者は本人のために一生懸命治療しているのだが、怒って院長を裁判に訴えたという例があったと聞きました。

そして、確かにどこか変という人が入院しているのだが、入院していないでももっとおかしいと感じる人はいると言っていました。

問題は、おかしい人が自らおかしいと認識しないので、通院や入院をすすめるのが難しいと言います。

だから、自分で「私はおかしい」と言っている人が、むしろおかしいのではないらしい。
他人の話を聞いて、訂正ができるんでしたら、おかしくないですね。

誇大妄想狂

誇大妄想狂なんて言葉がありますが、言葉の意味を確認しただけで、話が次々と拡大して、言ってもいないことを、あたかも言っているように妄想がどんどんと膨らみ、相手が「・・・と言っている」と決めつけるような行動を誇大妄想狂と言うのでしょうか?

私の教育観て、どこで見つけられましたか?Where

あなたの言っていることは、どこで見たことですか?Where

誰の実践ですか?Who

どうしたらそうできるのですか?How

いつの話ですか?When

5W1Hが気に入らないという人もいるようです。

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posted by edlwiss at 20:45 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年06月30日

切磋琢磨

切磋琢磨
学問や人徳をよりいっそう磨き上げること。また、友人同士互いに励まし合い競争し合って、共に向上すること
▽「切」は獣の骨や角などを切り刻むこと。「磋」は玉や角を磨く、「琢」は玉や石をのみで削って形を整える、「磨」は石をすり磨く意。「磋」は「瑳」とも書く。
切磋琢磨(せっさたくま)とは、2007年(平成19年)に出版された経済学に関する書籍のタイトルである。 タイトルの元となった切磋琢磨とは、もともと材料を加工する作業の事を表す表現であったが、転じて様々な努力を通して、互いに高めあうことを表す四字熟語となった
Freshペディア

切磋琢磨の言葉の意味は「友人同士」ですから、一人ではできません。
互いに励まし合う関係は、人間関係の良い関係です。
ですから、人間関係のよくない間での摩擦や葛藤などの刺激のことを切磋琢磨とは言わない

という、言葉の意味を正しく用いるべきと注意をしているだけです。

教育効果などの話をしているわけではありません。

「コーヒーの入っていない飲み物をコーヒーとは言わない」のと同じです。

戦争状態にある国の中で「この『平和な状態』を・・・」などという言葉遣いをするのはおかしい、というのと同じです。

「戦争状態でも勉強はできる」などと言い出すのは、全くテーマの違う話です。

これがわかるかわからないかは、知能程度の問題だと思います。

学校の先生で、このぐらいのことが理解できないのであれば、保護者の信頼はなくすでしょうね。

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posted by edlwiss at 16:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年06月30日

買い物がきちんとできるようになりましたか?

親にお使いを頼まれてできるようになる年齢はどれくらいだろうか?

母親に、豆腐を買ってくるように頼まれたが、こんにゃくを買ってきてしまった子どもがいた。

以来、彼のあだ名が「こんにゃく」になってしまった。

でも、彼の行動は、何か物を買ってくるように頼まれたという範囲においては間違っていなかった。
もちろん、だからいいということではない。

しかし、買い物を頼まれたのに、ゲームセンターに行ってしまったとしたら問題だ。

それで、叱られた時

「お金ちゃんとつかってきたよ」

なんて返事をしたら、親は心配になるだろう。

お金を手にしたら、誘惑に負けてゲームセンターへ行ってしまったというのは悪いが、思考回路としては一応つじつまのあう働きをしている。

それが、おつかいのためにお金をもらったのに、意味がわからず好きに使ってしまったとしたら「この子、正常に発達しているのだろうか」と心配になるのではないか。

それでも、普通の発達よりやや遅れても、人並みになるのなら安心だが、成人になってもその不安を抱えたままでは心配だ。

こういうのを、発達障害と言うのだろうか?

頭がいいとか悪いとか言われる範囲の話は正常だが、日常生活での受け答えがきちんとできないとなれば、これは異常の範囲と疑わざるを得ない場合もある。

授業での例

先生:(黒板に)

「これは完壁な作品です」

生徒:

「先生『壁』の字が間違っています。『壁』ではなく『璧』です」

先生:

「お前は、漢字の勉強が足りないなあ『壁』という字はあるんだよ」

このような授業風景を見た人はどういう感想を持つだろう?

問題点は「壁」という字が存在するかしないかの問題ではなく「かんぺき」という時には「完壁」とは書かないということなのだ。

つまり「完」「壁」の組み合わせは単語としては使わないということなのだ。

普通に教養を有している人なら、わざわざこんな説明をする必要もないだろう。

ここでの最大の問題は、先生の態度だ。

間違いを素直に認めない先生

この授業では、先生が

「『壁』じゃなくて『璧』が正しいんだね」

と訂正すれば、それで済むことである。

なのに「壁」という字そのものの存在の話に変えてしまっている。

問題は

(1)この先生は指摘された間違いが何であるかわかっていない

(2)この先生は間違いを認めようとしないで、話を別の方向に持って行っている

のどちらかだが、

(1)の場合は思考回路の問題で、異常の懸念がある。
(2)の場合は性格が疑われる。先生としては望ましくない性格である。

ギクシャクした人間関係と切磋琢磨

これも「完」「壁」の組み合わせの単語がないと同じように「ギクシャクとした人間関係」「切磋琢磨」の組み合わせの状態は考えられない。

なぜなら切磋琢磨という状態が起こるには、人間関係がよくないと起こらないからだ。

ギクシャクとした関係というのは、説明するまでもなく、人間関係のよくない状態のことを言う。

良くない環境から苦労を経験して良くなるということはある。

戦争を経験して、平和の大切さを感じるというのもそうだ。

しかし、戦争状態にある中を、切磋琢磨しているとは言わない。

もし、よくない環境にあって磨かれることを切磋琢磨というなら。

交通事故も切磋琢磨、いじめも切磋琢磨と悪い環境の中ではみな切磋琢磨が行われていることになる。

切磋琢磨というのはいいことであるから、悪い環境が切磋琢磨を起こすなら、社会で起こるさまざまな悪いことは放置しておけばよいということになる。

犯罪が増えれば切磋琢磨は増えるのか?

というより、ここでは正しい言葉の使い方を問題にしているのであって、言葉はコミュニケーションの手段であるから、何よりも正しい言葉を使うことが、特に教員には求められるのである。

リンゴの味がどうのこうのではなく、リンゴというモノを正しく認識できる能力を問題にしているのである。

すり替え

意としてすり替えているのなら、問題な性格であるし、切磋琢磨は良い環境の中で起こるということが理解できず、悪い環境(ギクシャクした人間関係)の中でも良い成果はあるとまじめに考えているのなら、これは、はっきり言って知能の問題である。

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teinen_dokusyo.jpg
問題は簡単な国語の問題だ。

ひとこと訂正するだけで、こと足りるのだが、反論にもならない理屈をこねる先生(?)の知的水準に疑問を持つばかりだ。

最近は、こんなレベルで採用試験が受かるのか?

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posted by edlwiss at 09:52 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年06月29日

東電は破綻処理をすべきだ

kanryou.jpg
一般住民の決起を待つまでもなく、東電が地検によって起訴されないのは不思議だ。

損害賠償を行う上で、東電が破綻処理をされないのも不思議である。

破綻処理を行わないで、被害者に対して損害賠償するのではなく、被害額を調査し東電の損害賠償額を確定すれば、東電はすべての資産を処分しても額は足りないだろう。

(1)損害額を調査する
(2)東電の賠償額を確定する
(3)東電の破綻処理を行う

一般に、株式会社が責任を負う時は、こういう順序になる。

東電はなぜこういう処理が行われないのか?

電力を供給するという公的な性格があるから?

そんなことはない。

東電と言えども、民間の株式会社である。

もちろん、電力供給という特殊な事情があり、政府とは関係が深いところはあるだろう。

しかし、株式会社である限り、責任を追う時は会社の資産を投げ売って償うべきである。

kanryo_retoric.jpgその上で、賠償額が足りなければ、政府が関与すべきである。
具体的には国有化である。

なぜ、破綻処理を行わないのか?

破綻処理を行うと、破産管財人が資産を調べて、これを明らかにすることになる。

この資産を明らかにされることがまずいのだろうと、勘ぐらざるを得ない。

まずいのは、やはり利権の構図か?

こう見てくると、東電ばかりが表に出てくるが、巨悪は後ろにいるのでは?

nazo.jpg東電はモグラたたきの役目を負っているだけではないか?

「何と言われようが。ひたすら頭を下げ続けろ」

と言われているのか?

頭を下げることにお金はかからない。

最も安上がりの償いである。

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posted by edlwiss at 23:15 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年06月29日

教員の知的水準

かつて、緊急患者の診察をしてくれない医者が問題になった。

それは、医学部の入試が難関で、入試の成績の上位の者しか医者になれないからだとの話しになった。

競争率が高くなれば、それだけ難しい試験で選別をしなければにらなくなる。

それで、難問奇問が横行し、そういう門をくぐらなければ医者になれないのかという疑問も呈した。

人格者、心ある人に医者になってもらいたいものだが、人体のしくみもわからないような人が医者になってもらっても困る。

手術で関係ないところを切られてしまっても困るから。

だから、医者になれる人は、ある一定水準以上の専門知識をもち、なおかつ人格者であるということが望ましいとと思う。

ある雑誌で大学の先生が経済史の講義を行った時の様子を記事に載せていた。

「近ごろ、大学生の学力低下が叫ばれているが、私は学力低下というより、頭脳破壊が怒っているのではないかと思う」

sirimetsuretsu.jpg
と語られていた。

先生がそう思ったのは

「エーッ、日本が昔、アメリカと戦争をした時・・・」

と先生が話した時、学生の中から

「えっ、先生、それでどっちが勝ったんですか?」

という声が出たそうである。

先生は、力が抜けたと語っていた。

まあ、いまさら大学生の学力低下の話を驚く人は少ないだろう。

しかし、学校の先生の学力低下を知ることがあったら、世も末というか、一体、この国はどうなるのだろうという不安が出てこないかと思うのである。

人間関係はギクシャクしていた方がよい。なぜなら、その方が切磋琢磨が行われるから。

こういう発言をしている人が、先生だとしたら、唖然とする保護者もいるだろう。

「間違いを教える先生」とブログで抗議している保護者がいたのを思い出した。

私は切磋琢磨の意味ぐらい正しく理解している知的レベルは、学校の先生にはあると思いたい。
だから、今さら切磋琢磨について説明することもなかろうと思うが、釈迦に説法と思いながらも確認してみる。

切磋琢磨とは人と人とが、良い関係で互いに励まし合ってレベルアップするような意味に使う。
辞書で調べてみよう。

せっさ-たくま【切磋琢磨】|〈―スル〉
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切磋琢磨 意味
学問や人徳をよりいっそう磨き上げること。また、友人同士が互いに励まし合い競争し合って、共に向上すること。▽「切」は獣の骨や角などを切り刻むこと。「磋」は玉や角を磨く、「琢」は玉や石をのみで削って形を整える、「磨」は石をすり磨く意。「磋」は「瑳」とも書く。
切磋琢磨 出典
『詩経しきょう』衛風えいふう淇奥きいく
切磋琢磨 句例
◎切磋琢磨する仲
切磋琢磨 用例
愚劣とみたものが、実は切磋琢磨の功を積んで成った虚飾ない真実の姿であるという場合もあり得よう。<石坂洋次郎・若い人>
goo辞書・出典三省堂提供「新明解四字熟語辞典」より

普通の学校の先生なら十分にわかる説明だと思うが、子どもも読んでいるのかも知れないので、子ども向けに例をあげて説明しよう。

今、プロ野球がペナントレース注だが、
ジャイアンツは打率トップ10の中に上から3人が並んでいる。
これは、球団内の人間関係もよく、さらに、3人の選手が互いに打法を研究し合いながら、切磋琢磨している結果だ。


このように用いるのが切磋琢磨です。

悪い環境(人間関係の悪い環境)では、切磋琢磨ということは起こりません。

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問題はこれで終わりではありません。

先生も人間です。
人間である以上、間違いもします。
(変人にお断りしておきますが、だから先生は間違っていいと言っているわけではありません)

先生が軽蔑されるのは「一度言い出したら訂正しない」ということです。

私は先生がみなそうだと思いません。先生以外にもそういう人はいますが、先生に対してはそういうイメージが強くなっているということです。

だから、私の予想としては「人間関係がギクシャクしていた方が切磋琢磨が行われていい」と言った先生(?)は訂正しないのではと思っています。

恐らく、理屈にもならない屁理屈があるんでしょう。
それは、これまでの経緯から予想することです。

「マイナス効果」なんて言葉も使っていますが、効果という言葉はマイナスには使いません。

これも、予想通り訂正されませんでした。

もし、本当に子どもを伸ばしたい、いい教育をしたいと思っていたら「間違いを訂正しない先生」はダメだと思います。

それは、私自身強く経験しています。

合唱、吹奏楽、オーケストラなど指揮をしている時、指揮を間違えた時「今のは間違えました」と言わないと、子どもからの信頼がなくなります。

子どもは何も言いませんが、指揮を見なくなります。

よく「指揮を見ていない」と子どもを叱る先生がいますが、それは指揮が信頼されていないのではと考えてみることも必要だと思います。

指揮の話をしましたが、何の教科でも同じだと思います。
「間違っことを言う」「訂正をしない」「ごまかす」
を続けると、子どもは何も言いませんが、先生を信用しなくなると思います。

もし「先生、間違っているよ」と言われるのは、まだ信頼を失っていない証拠ではないかと思います。

長々と書きましたが、人間関係がギクシャクしている中で切磋琢磨が行われるとの説は、これが学校の先生だとしたら、しかも、不特定多数の人にブログなどで公開しているとしたら、最近の先生の知的水準はこの程度と社会一般に示しているようなものだとも言えます。

切磋琢磨の例に限らず、くっつけてはいけないものを勝手にくっつけたり、見ていないものをまるで現場で見ているかのように言ったり、デタラメが多すぎます。

しかも、こういう方を尊敬しているという大学の先生がいるのには驚きます。
何を尊敬しているのでしょうか?
デタラメさを押し通す、心臓の強さでしょうか?

果たして、教員を養成できるのでしょうか?

少子化で大学は経営が危ぶまれているところもあります。

そのうち、名前さえ書けば合格するよと言われているところもあります。

何か、日本沈没が現実化してきたようでもあります。

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2012年06月28日

さて教育効果はいかほどか



おもしろいアイデアですね。

経過報告を待ちたいです。

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posted by edlwiss at 21:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年06月28日

改革を阻むもの

国が社会保障を充実させようとしても、財源がなければできません。
年金問題もしかり。
政策を実行するには、お金がないとできないわけです。
jinji.jpg
では、お金があったら政策は実行できるのかというと、そうも言えません。

やはり、第一にくる問題は人です。

私の知っている人で、経営コンサルタントと名乗って、ずいぶん儲けている人がいます。

赤字の中小企業を相手に、黒字化して感謝され毎月結構な報酬を得ているわけです。

この方とお話をしたことがありますが、自分で言うのは気がひけるのですが、ファイナンシャルプランナーとしての私の方が、かなり知識があると思いました。

話し方を変えれば、大した知識もないのに中小企業を相手に儲けているということです。

では、大した知識もないこの人がなぜそんなに儲けられるのかというと、ひとことで言えば、心臓とハッタリです。
それにひとつだけ強みを挙げると、元銀行員で、銀行の裏側を知っているということです。

元銀行員というのは、中小企業相手には武器になるかも知れません。

改革の武器は人事権

経営コンサルタント氏は中小企業の側から見たら、外部の人です。

企業内部には、人間関係のしがらみがありますが、外部の人間にとっては、そんなことは関係なく悪いものは悪いでバッサリ切って行けます

改革の実体とはこれだけです。

中小企業の社長は不採算部門があつても、しがらみがあってなかなか切れないところを、経営コンサルタント氏が切ってくれるものだから、黒字経営に転化できるわけです。

行政に話が変わりますが、生活保護の不正受給が時々問題になります。

ニュースに出るのは氷山の一角のような気もします。

市役所の担当者と、私的な付き合いで話したことがありますが、頬に傷のあるような人が生活保護をもらい、高級外車を乗り回しているという実体についてたずねてみました。

返事はすごくわかりやすいものでした。

不正はわかっているが、やめなさいという話はなかなか持っていけないという。

それは、係として使命感を感じて手を出そうものなら、帰宅途中でブスリとやられるかも知れないからということでした。

それより、申請に来た一般人をなるべく受け付けないようにしたり、なんだかんだと時間をかけているうちに、担当部署が変わるので、それを待ったほうがいいというものでした。

しかし、本当に改革を目指す新人市長でも現れたら、本気で仕事をする人を配属するようになるでしょう。

国の政治を見ても、目立った改革が行われたのは外圧によるものだと思います。

この国自体、アメリカから何かを言われなければ、改革ができないような状態になってしまっているような気がします。

そういう意味では、まだ占領政策が続いている見ることができます。

学校も改革ができるのだが

学校教育というと、行政のトップは文部科学省と思っている人がいるかも知れませんが、実質はそうではありません。

戦後GHQによって、教育行政も改革されました。

教育勅語をもとにした、戦争に突入した教育を改めされられ、文部省の実権は骨抜きにされたのです。

文部省は戦後、教育に関してのただのサービス機関になったわけです。

それでは、教育に関する実権はどこにあるかと言うと、各都道府県の教育機関です。

このことは、実際、何か教育上の問題があった時、文部科学省と直に話をしてみるとわかります。
文部科学省の限界というものがわかります。

だから、子どもの自殺問題が大きくマスコミに取り上げられ、テレビで放送された時も、時の大臣、伊吹文明氏の「それができないんです」との発言が記憶に残っている。

都道府県の教育委員会が教育行政に関する力を持っていることで、やりたい放題を感じるようなところもある。
もちろん、表面に問題は出にくいようにガードは堅い。

かつて問題になった大分県教育委員会は、いかに県教育委員会が力を持っているかを示したものとも言えるが、同時に他県はどうなの?という疑問を感じさせるもとになったとも言える。

学校内の困った人

学校単位では校長がリーダーシップをとって、改革をやればいいのだが、校長自体どうやってその地位になったのかを探ってみると、教育に対する情熱からという経緯のない人は、それなりに改革の意欲もない。

校長試験も形骸化しているところもあるし、校長の上で権力を持っている教育委員会、その教育委員会も教育委員長はただのお飾りで、実質は教育長一人で強大な力を握っているので、ところによっては、教育長のやりたい放題となっている。

教育長になった途端に、息子を栄転させたり、なにかしら付け届けのある人を優遇人事したりで、ここに人事権
の力を見せつけられることになる。

知人で、憧れて教員になったものの、まじめではあるが、統率力に問題がありついぞクラスをまとめることができず、校長を悩ますことになった者が入る。

結局、彼は事務職に変わることになった。
生来まじめな彼だったので、几帳面に仕事をこなし、この職に変わったことにより評判がよくなった。
自身も水を得た魚のようで、人事としてはよい配慮だった。

しかし、時にどうにも変な人がいる。

精神的におかしい人。

頭はいいのだが、変だという人がいた。
まじめで知識があり、偉そうでもなく先生としては何も問題がないように見えたが、普通人と異常人の間を行ったり来たりするような波がある。

日常的な生活には何の問題もなく、人とは普通に話もできるので、気がつかない人もいるが、一旦、思考の必要な場面になると、誰しもが「これは変だ」と感じるような行動になる。

授業になると、一人、自分の世界に埋没してしまって子どもとの普通のコミュニケーションが取れないので、この先生の時間になると、生徒たちは先生を無視するようになった。

これは、防衛行動だ。

先生を無視して、みんな好き好きに自習をしている。

先生は先生で、マイペースで何やら黒板に書いていくだけ。

授業が終わると、大人同士では普通の会話ができるので、あまり面識のない人は、おかしいと感じない。

ある校長は本人と話しをして、とりあえず1年間の休養をすすめた。

なかなかここまで話をする校長はいない。

生徒たちが困ろうと、自分は数年もしたらどこかへ転勤するだろうからと考えているかもしれない。

本来なら、生徒たちのことを思って、このように「休養をしてみたらどうか」とか、別な仕事へと考えるのが管理職としての務めだと思う。

むしろ、教育委員会へ転勤させてしまった方がいいのかもしれない。
その方が現場は救われるだろうから。

1年休養して、病院から戻って来た彼に会ったことがある。

とてもいい人なのだが、時におかしくなることがある。

妙に頑固になって、妥協することができないという場面が時々あった。

そのような波がある時は、何か目つきがおかしいというか、赤く血走っているようにみえた。

いろいろ情報を得てみると、こういう彼のような症状は、昔は精神分裂症と言ったらしい。
今は、あまりにも名前がよくないということで、統合失調症という名前になった。

似たような精神の異常にパーソナリティ障害というのもあるらしい。

A群、B群、・・・とか分類もあるらしい。

人間、全く正常であるという人はいないという人もいる。

時々、自分の考えを振り返ってみると、自分でおかしいと思うことはある。
でも「ばかなこと」という自己診断にができて、常に正常化への活動ができているうちは、いいのかも知れない。

でも、おかしいことをおかしいと認識できなくなったり、他人から指摘された時、気がつかないとなったら怖い感じがする。

よく「人の話を聞かない」という人がいるが、人の話を無視することと混同してはいけない。

とにかく、相手が自分の言うことに従わないというわがまま論者の言う「人の話を聞かない」と同じにしてはいけない。

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火災に気をつけようということで、防火対策や火災予防の運動もある。

学校も避難訓練が義務づけられている。

その時に、講話で「火災も時にはあった方がいいんです。それは、火災があることで防火予防を学ぶことができるからです」なんて話をする先生がいるとしたら、これは、おかしいと言わざるを得ないだろう。

もしかしたら、このブログを読んでいる人の中にも「何がおかしいんだ」という人がいるかもしれない・

それを言うなら「原発事故も時にはあった方が、原発を学べるからいい」という理屈も通ってしまうことになる。

完全に正常な人はいないという観点から、人の話をボーッと聞き流していないで、内容をよく聞きとってみよう。

「おかしい」という思考を持った人がいるかも知れない。

だから、私は話す本人、聞く側にも5W1Hをすすめるわけである。

それは誰ですか(Who)?
どこでありました(Where)?
なぜそう言えるのですか(Why)?
何を(What)?
いつのことですか(When)?
どのようにしてやりますか(How)?


これらに照らしあわせて、検証すると、それが架空の話か現実(的)なものかどうかわかる。

火災を経験すれば、確かに防火意識は高まるかも知れないが、実際
誰がやる?
どこでやりますか?
いつ?
どのようにしてやりますか?
など考えたら、現実的でないことがわかる。

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それより、人事権のある人はそれを正しく行使して、正常な組織改革をやってもらいたいと願うばかりだ。

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posted by edlwiss at 13:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年06月27日

人間関係

ningenkankei17.jpg
学校に限らず、一般の職場でも働く人が悩んで辞めたいと考えるのは、人間関係の問題が一番多いようです。

いじめは、子どもの間に限ったことではありません。

大人同士でもあるわけです。

学校では、教育をどう推進していくかを考える前に、職員の人間関係を良好に保っておく必要があります。

先生同士の人間関係がギクシャクしていては、子どもには悪影響しかないでしょう。

そういう意味では、先生は自ら、お手本という意識を持って職員間の人間関係を築いていかなければなりません。

上司にあたる人は、リーダーとしてより意識を高める必要があると思います。

大きな心で、後輩を育てる意識が必要でしょう。

先生たちが自ら範を示さなくて、子どもたちにだけに「ヤレ」というのはおかしいと思います。

私は当初、教員をやっていくことをためらっていました。

しかし、校長をはじめ先輩たちの暖かい気持ちに支えられて続けられたと思います。

その頃の先生たちの会が、未だに毎年とぎれることなく続いているのは、みんな心に残った経験をしたからだと思います。

毎年、夏休みに集まっています。

最近はストレスが多いせいか、精神的に影響を受けてコミュニケーションがうまくいかない先生がいると聞きます。

先生の心が安定していないでは、良い教育はできないですね。

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2012年06月26日

美人は忙しい

eitango.jpg
busy(美人)は忙しい。

銀行の番をしたら苦しかった→bank

など、単語の覚え方というのがあった。

生徒は笑うだろうが、何とか興味を持たせて覚えさせようという工夫がいい。

ユーモアのある先生はいいものだ。

新美南吉は英語の先生をしていたということだが、教え子の一人はある日の授業を思い出して語った。

南吉:君たち英語の単語で一番長い単語を知っているか?

生徒:????

南吉:それはsmiles

生徒:????

南吉:だってね、sとsの間が1マイル(mile)もあるんだ

生徒:!!!

こういう南吉の人柄に親しみを感じていたらしい。

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教師たるもの、時に冗談が言えるぐらいのおおらかさがほしいと思う。

もちろん、仕事をまじめにやることは大切だが、子どもは教師の人柄を感じて、勉強が好きになったりするものだと思う。

人間は機械ではないから、単純に入力操作をすれば覚えるというものでない。

心の動きが学習効果に影響する。

斎藤喜博氏も「教育の演出」という著書を出されたが、授業は「いかに演出するか」と言えるだろう。

抵抗器のカラーコードもこのように記憶するというやり方が普及している。

子どもは笑いながら数分で覚えてしまう。

冷ややかに、嫌味ばかり言う人は放っておこう。

先生は、子どもに人気が出ると、それを妬んで「人気取りだ」と言う人がいる。

そういう人は自分がモテないから言っているのであって、無視すべき。

「君、頑張ってるね」

と言ってくれる人がいい人だ。

私は、一生懸命やって、生徒たちからずいぶん嫌われたことがある。
私としては情熱をかけてやっていたのだが、その時の中学生には通じなかったようだ。

それで、他の先生たちから冷やかされた。

生徒たちは、私の指導に、頭にきたらしく批判を作文にぶつけていた。

それを読んだ先生たちに冷やかされたわけだ。

しかし、先生たちはその私の熱意を理解してくれていた。

成果が現れ始めると、生徒たちは私への批判をしなくなった。

「良い指導」なら嫌われても押し通すべきだと、私は思っている。

というか、時には嫌われるぐらいの指導があってもいいと思っている。

先生は、人気商売ではないのだ。

もちろん、熱心にやって人気が出るのはいいことだ。

結論を言うと、人気が出る、出ない、好かれる、嫌われる・・・そんなことを考えず、自信のある指導を、熱を込めてやれということなのだ。

誰かに、そのようにやれと言うのではなく、私はそうやってきてよかったと思っている。

いや、私はそういうやり方しかできなかったと言った方がいいかも知れない。

先生にはいろいろなタイプがあって、とても優しくて人気があって、それで生徒がついてきて、うまくやっている人もいた。

それは、その人の持ち味で、私が同じようにやろうとしてもできるものではない。

他人のやり方は勉強にはなるが、そっくり真似ができるものではないと思っている。

真似したところで、様にならないと思う。

何だか、支離滅裂な文章になってしまった。

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posted by edlwiss at 22:54 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年06月26日

消費税についての疑問

nihonnoseiiki.jpg
消費税引き上げ案が衆議院で可決された。

税収が足らないのであれば、それもしかたがないのであろう。

しかし、どうにも腑に落ちない点がある。

国の一般会計予算は94兆円だが、この国の総予算はそれだけではない。
特別会計があって、それも含めると210兆円ぐらいだろうか?

つまり、総予算の半分以上が審議されないで、特別会計ということで、既得権のようになっている。
半分以上は霞が関の自由になっているわけだ。

かつての財務大臣・塩川正十郎氏はこれをみて、向こうではすき焼きを食べているのに、こちらではお粥をすすっていると言った。

民主党は政権を取る前に、特別会計を精査し、霞が関の官僚が思うがままにしている予算の内容を明らかにすると言っていたと思う。

今回の消費税率アップの理由として、野田総理は福祉を守るために待ったなしと言っているが、そう言われると仕方がないように聞こえてしまうが、そうだろうか?

野田総理のことを財務省のポチと言う人もいる。

結局、財務官僚の巣に入り込んだ結果、100兆円を超える特別会計には手を付けないように洗脳されてしまったのではないか?

「消費税を上げる前にやることがある」というと「自らの身を切る」ことと反応するが、私の思うことはそういうことではない。

この国が1年間に遣う、210兆円あまりの総額の内容を全て明らかにしてもらいたいということだ。

この総額を予算化するにあたって、優先順位をつけてプランを作ってもらいたいということだ。

その上で、足らないというなら、消費税を上げることも承諾できる。

問題は、この国の政府は金が足りないと言いながら、サイフの中身を一度も国民の前に明らかにしていないということだ。

そういえば、かつて、この国の総予算を追及した議員がいたが、暗殺されたのではなかったか?

「自らの身を切る」と言って、公務員の人件費を削ったところで、大した額にはならない。

霞が関のシロアリと言われているところに手を入れるのは、タブーなのか?

野田政権はゾンビ村に入って、自らもゾンビになってしまったのか?

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posted by edlwiss at 20:59 | Comment(3) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年06月25日

液晶画面の目の影響対策



液晶画面を長く見続けることの多い人は、考えてみた方がよいかも知れません。

ブラウン管の場合は、モニター自体に取り付けるものがありました。

現代では、パソコンのモニターだけでなく、スマートフォンなども見るので、眼鏡がいいかも知れません。

度付き眼鏡も販売するのでしょうか。
posted by edlwiss at 19:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年06月24日

人の幸せに腹が立つ人

無差別殺人がニュースになりましたが「相手は誰でもよかった」と発言しているとしたら、自分だけが死ぬのは嫌だと思っているのだろうと、推察します。

本人に直接聞いたわけではないので、想像するしかありません。
超能力も持っていませんから(笑)

自分で確認したこと以外は、安易な断定はできません。

マスコミの報道も「報道として」受け取っておくことにします。

報道によると、容疑者は「世の中が嫌になった」「殺す相手は誰でもよかった」と言っていたとあります。

世の中が嫌になった、だから死にたい。でも、自分だけ死ぬのはしゃくだということでしょうか?

他人の成功がおもしろくないという心理

他人の成功を素直に「よかったね」と言える人は、いい人だと思います。

しかし、何か人間が小さくなってきたのか、他人の成功やよかったことをやっかむ人がいます。

他人の成功を「いいなあ」と思う気持ちは自然だと思いますが、それに「何であいつが」のような感情が加わると、やっかみになるのでしょうか?

ある人は「やっかみと日本人」で、こう言っています。

特に日本人は、才能ある人間が、成功を収め、その後に没落していく様を眺めるのが至って好きである。


つまり、やっかみはそれだけで終わらず、次に「失敗して不幸になれ」という気持ちを含んだ、いやな言葉と言えるようです。

親切なのかやっかみなのか?

良薬は口に苦しと言うように、自分にとって不快な言葉がみな悪いとは言えません。

「そんな車、買って、贅沢して、そのうち事故を起こすぞ」

これは、事故を起こさないように忠告してくれたのでしょうか?

これは、立場によって違うでしょう。

言う人が親の場合、息子に、贅沢をするなと世話をやいていると解釈できます。

でも、車を買うほど余裕のない人が言う場合、やっかみかも知れません。
心の中では(事故を起こしたらおもしろいんだが)と思っているのかも知れません。

「やっかみかも知れません」というのは、そうではないかも知れないからです。
しかし、車を買ったの人に対し「事故を起こすぞ」なんて言い方は、よほど親しい身内でもない限り言うべきではないと思います。

そうでなければ、やっかみで言ったのではなくても、やっかみととられても仕方がないと思います。

実際、私は最近新車を購入したのですが「いいねえ」と言う立場の人と「やっかみ」の立場の人がいました。

どちらにしても、私は仕事上車は必要なので、買わざるを得なかったのですが、やっかみの類の人は、私の事情に関係なくマイペースで、勝手に想像した世界で話をします。

本当に親切な忠告をする気持ちがあるのなら、その人の仕事が、車が不可欠なものかどうかを考えて話をすべきではないでしょうか?

例えば、教員だったらよほど特殊な事情でもない限り、公共交通機関を利用することで済みます。
つまり、車は必需品ということではないわけです。
だから、確定申告で経費としては認められないわけです。

しかし、私は仕事上必要なので経費として認められているのです。
毎年、経費として確定申告で計上します。
もちろん、税務署も文句は言いません。

親切かやっかみかの見分け方


耳に痛い言葉でも、親切な言葉は役に立ちます。

しかし、自分の人生をあきらめたような人の言葉は、自分が成功の見込みはないと考えているでしょうから、言葉の中に役に立つものが含まれていません

それどころか、文章なら、読んでいると気が滅入るようなもの、やる気をなくさせるような言葉のオンパレードになっているようです。
そして、心は他人の成功を願っていないのでしょう。
ひどいものは、先の見込みがないような文章になっています。

日本人のコンプレックスがそれこそ複雑に介在していることは間違いない。


と述べる人がいるように、コンプレックスの塊かも知れません。

それは、その人の地位や仕事ぶりを見ればわかるのではないでしょうか。

しかし、コンプレックスのある人は、概して権威主義的であり、具体的に自分の仕事ぶりを見せないようです。

心理学博士伊東 明氏は、著書の中で以下のように述べています。
他人の欠点ばかり目に付く人というのは、実は自分に強いコンプレックスを抱えている。
「他人は自分を映す鏡」なんて言葉がありますが、自分の悪い面を認めたくないときに、他人にその悪い面を押し付けてしまうという心のはたらきがあるのです。
もちろん、自分にコンプレックスが全くないという人は稀ですが、自分の欠点だけでなく、長所もよく分かっているという場合は、他人の良い面を認めることができます。
一方、深層意識で自分のことが欠点だらけの人間だと思っている人は、他人にその欠点を見出して、激しく嫌悪してしまうのです。


本当に親切な言葉は、厳しくても、希望が持てる、やる気が出る文体になっており、自らの失敗体験、成功体験が述べられているものと思います。

もう人生も知れたものと考え、努力をあきらめてしまっている人、死ぬなら自分だけ死ぬのは嫌だと考えて道連れを考えている人と同じ心理の人に影響されないようにしたいものです。

若い人と若くない人の違い


ひとことで言えば、若い人のよさは時間があるということだと思います。

時間があるということは、失敗ができるということです。
それは挑戦ができるということでもあります。

zonbi.jpg
私が学生の時、ある先生のもとで編曲法を学んでいました。
その時の先生の言葉で、強く印象に残っているものがあります。

「私たちプロは失敗することができない。『プロのくせに、こんな編曲しかできないのか』と言われたら、もう仕事がなくなる。でも、君たちは、駄作を作っても許される。今のうちに、評判を恐れずたくさん経験しておくことだ」

そうなんです。

いくら偉そうに言う人がいても、未来を生きた人はいません。
(超能力者は別です:笑)

会社でも、過去の業績を得意そうになって話す上司はダメと言われています。
なぜなら、過去の手法が成功するとは限らないからです。

過去の体験がすべてダメということではありません。
過去を生かし、現在がどういう流れの上にあるか創造できる知能が大切なのだと思います。

ゾンビの犠牲にならないこと

ゾンビは生きた人を墓に引きずり込もうとします。
ゾンビ先輩の毒牙にかからないようにしましょう。


ゾンビはもう死んだ人です。ゾンビに未来はありません。

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posted by edlwiss at 19:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年06月23日

教師の条件

五味川純平の小説「人間の條件」にあやかり、教師の条件なるものを考えてみた。

kyousi_advice.jpg
私が偉そうに、教師たるもの・・・だなんて言える立場ではない。

私がこれから教師としての條件を語るのは、自分の経験に基づいて、教師として生きていくためには、必要ではないかと考えたことだ。

1.情熱

人を相手とする仕事には情熱が必要だと思う。
それは、人が動くのは「心」だと思うからだ。

いくらよい方法論があったとしても、それを機械的に実行すればよいというものではないと思う。

自分のことで恐縮だが、始めのころはけっこういい加減だったと思うのだが、それでも子どもはついてきたし、下手な指導にもかかわらず成果が上がったように思う。

これは、先輩たちも言っていたことだが、新卒のころは無我夢中で、今思うと冷や汗をかくような指導をしていた。
経験を積んだ今は、あれこれ指導法もわかってきて、ゆとりを持って教えられるのだが、子どもを見ると、初心の時の方が子どもの伸びはよかったように思うと言うことだ。

つまり、教師たるもの情熱が大切だということで、それが冷めた時が教師として適さない時ではないかということだ。

実際、ベテランの人と「定年まであと○○年ですね」なんて話をすると「いや、そこまで教師をやっていないかも知れない」という人がいる。
情熱が冷めたら、教師をやるべきではない、やれないと考えているわけだ。

2.統率力

統率力とは抽象的な言葉だが、簡単に言えば「まとめる力」ということである。

統率力がある、まとめる力があるとはどういうことなのか?

大勢の人をまとめていくには、計画を練ったり、指示をしたりということをしなければならないが、私が感じる統率力とはその人がいることで集団に安心感をもたらすことのできる人ということだ。

これは、資質なのかも知れない。
努力して備わるものなのかどうかもわからない。
そういう意味では指揮者と似ているように思う。

こんなこと言うと、これから教師を目指している人には不安を与えるかも知れないが、私の経験では統率力のない人は非常に苦労していたのを見てきたからである。

仕事は非常にまじめで、何一つ落ち度のないと思われる人でも、統率力に欠けていると感じる人が担任をすると、子どもは落ち着かないし、場合によっては不安になるようである。

学生時代にクラブ活動などで、リーダーを務めたことのある人は統率力があると思う。
集団から選ばれて、リーダーになったということが、そもそも統率力を感じられているのだろう。

統率力があれば、逆に少々不器用であったり、知識が不足していてもうまくいくような気がする。

将来、教師を希望している人は、すすんでリーダーの仕事をやってみることをおすすめする。

3.字がうまい

字は下手でも教師はできるが、下手な人は苦労が多いし、特に相手が高校生より中学生、中学生より小学生と年少になるほど、字はうまくなくてはならない。

字がうまいというのは、少し語弊がある。
正確に言うと、きちんとした字を書くということである。

書道家や競書会の審査でみるような上手な字ではなく、わかりやすい字と言った方がよいかも知れない。

例えば、口という字を書く場合には、角をきちんと曲線でなく、直角になるように書くということである。

きちんとした字が、子どもには誠意として伝わるような気がする。

4.作文力

教師は作文をすることが多い。

作文は何を言いたいのかがはっきりしていないと書けないものだが、その上で書く技術としての作文が苦手の人は苦労が多いと思う。

何度もブログで述べているが、いわゆる名分ではなく伝わる文章を書くべきである。
それには、主語、述語の関係が基本であり、目的語、補語、修飾語の関係がどうなっているか、日頃から自分の文章を分析する習慣を持った方がよいと思う。

5.説明力

司会ができる能力と言えばわかりやすいかも知れない。

自分の主張をするだけでなく、他人の文章を読んだり、意見を聞いた時、要旨を即座に汲み取り、それを他人にわかりやすく伝えられる能力である。

6.相手を気分よくさせられること

これには、身だしなみということも含まれるが、何よりも話すことで、相手を不快にさせないことである。

具体的には、良いところを見つけ褒めることができること。

こういうことが身に身についているような人もいる。
こういう人は、得な人だと思う。
そういう人を見て、見習うことも大切だろう。

子どもは褒められると、やる気を出す。
また褒めてもらおうと、努力もする。
そして、その先生に会うと気分がよくなる。
学校へ行きたいという気持ちが強くなるだろう。

反対に、いつも嫌味を言う、あら探しをする、皮肉を言うでは子どもの気分は滅入ってしまう。

7.健康

これは言うまでもないことだが、健康でなければいい仕事もできないし、他の人たちにも迷惑がかかる。

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以上、思いつくままを書いてみたが、できるかどうかわからないと思えるところもある。
そこは、情熱で乗り切るわけだが、学べることは学ぶべきであるという言葉を忘れないで、毎日を過ごすことだと思う。

人に言うというより、自分の反省もこめて書いてみました。

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posted by edlwiss at 08:58 | Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2012年06月22日

笑顔がいい

「好きなことって何ですか」と聞かれたら、いっぱいあるので、どう答えようかと迷います。

でも、それは音楽を聴くこととか、演奏するとこととか何かすることを選ぼうとするので迷うわけです。

観点を変えて、どういう時がいいかと考えると

人の笑顔を見た時

です。

人の笑顔を見た時、自分は幸福な気持ちになります。

piano_lesson.jpg
あるお宅を訪問した時、小学生のお子さんが3人いました。

一番上の小6の女の子が、おもちゃのようなキーボードを弾いていました。

それを聴いて、私は非凡なものを感じたので

「上手だねえ」

と言いました。

ご両親も見えましたが、私がお世辞を言ったと思われたかも知れません。

私は

「本物のピアノを習ったらいいんじゃないですか?」

と言いました。

私が思うには、この子はピアノをきちんと習ったら、将来、自分の財産になると思ったのです。
だから、このまま遊んでいるような感じではもったいないと思ったのです。

私の真剣な気持ちを感じとってくれたのか、お母さんはその気持になってきたようでした。

piano.jpgやがて、その子はピアノの先生を探してもらって、習うようになりました。

次に訪問した時、なんと、今に本物のピアノが置いてありました。

木目調のきれいなピアノでした。

女の子がいたので

「弾いてくれる?」

と言ったら、ためらいもなく、ピアノに向かって弾いてくれました。

おもちゃのキーボードを聴いた時からすると、ずいぶんの上達ぶりでした。

恐らく、先生もきちんと教えてくれたのでしょうが、私は予想以上の演奏ぶりに驚きました。

私が

「凄いねえ」

と言って褒めると、女の子は自信を持ったような表情をしていました。
あまり喋らない子ですが、表情で嬉しさはわかりました。

お父さんも、ずいぶん張り切って買ったピアノのようでしたが、満足気でした。

下の二人の子にも、影響を与えたようです。

一番上の女の子がピアノを弾くことで、一家がより明るくなったようで、私も嬉しくなってきました。

また、訪問する時が楽しみです。

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話は変わって、懇意にしている寿司屋さんから電話があった時のことです。

行ってみると、家族連れで来ているお客さんがいました。

寿司屋さんは、私を紹介しました。

何かなと思ったら、家族で一緒に来た中に中学生の娘さんがいました。

学校でクラリネットをやっているということで、教えてくれる先生がいたらという話を寿司屋さんに言ったらしいのです。

それで、私が紹介されたわけです。

始めは、家へ来てくださいと言いましたが、夜になるので、私が行ってあげることにしました。

その子は勉強はともかく、クラリネットに関しては人に負けたくないという気持ちがありました。

親としても、何か自信をもたせてやりたいという意向を感じました。

吹き方は、いわゆる我流でしたが、それを直すと楽に音が出てよく響くようになりました。

数ヶ月間指導すると、ご両親も演奏会に行った時の感想を述べられました。

そして、我が子の音がよくなったことを実感されたようです。

そして、部活動の先生からも認められ、リーダー的な存在になったことで、責任感を感じるようになりました。

その後、その子は高校へ進学しましたが、高校へ行っても重きをおかれるようになったこと、アンサンブルで中心的な役割をするようになったことなど、年賀状で様子がわかりました。

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musyonoai.jpg
私は、世の中に笑顔を増やす活動をしたいと思っています。

大した力はないのですが、世の中に小さな笑顔の種を蒔いて、たくさんの笑顔を見たいと思っています。

老若男女、大人子供に関係なく、誰でもいいところがあったら、そこを見つけて、人が喜ぶ手助けをしたいと思うのです。

アラを探すのではなく、いいところを見つけて、それを伸ばせてあげられたら自分も幸せを感じるのです。

振り返ってみると、これは私を育ててくれた人の無償の愛が大きく影響しているのではないかと思うようになりました。

今度は私が人に無償の愛を提供する番なのでしょう。

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posted by edlwiss at 09:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年06月21日

ひどい作文

次の文の意味がわかりますか?

猫が哺乳類であるとどのくらい語れますか?


次はどうでしょう。

自分のことを語る時、どのくらい自分が自分であることをモノの本で読んだ時、かなり難しいことを他人から言われて悟り、自分が実践してきたことをもとに教科書にあることをそのまま、生徒に伝えるという行為がどれくらい難しいか考えたことはあるでしょうか?


何を言いたのかわかるでしょうか?

こういう文は、少なくとも他人に何かを伝えようという文章ではないと思います。

個人的なメモのつもりで書いているのなら、構わないのですが、この文章を読んで返事をくれと言われたら困りますね。

akubun.jpg 一体、どういう人がこのような文章を書くのでしょうか?

頭の中が分裂している?

そうでなかったとしたら、頭に浮かんでくる言葉をそのまま無秩序に書き綴ると、こうなるのかなと思います。

私は折にふれて、正しく国語を用いるように言っています。

自分の書く文章を誰かに読んでもらって、言わんとするところを理解してもらいたいと思うなら、なるべくすっきり書くべきです。

読み手は、まず「主語」を意識し、その「主語」に対する「述語」は何かを探します。

「主語→述語」というペアを意識して書いてもらいたい。

一つの主語に対して一つの述語が対応するように書いてもらいたい。


断定する時は、根拠を書いてもらいたい。

断定には相当、注意を払う必要がある。


それは、一般論として言えるかどうかに関わるからです。

未だ定説になっていないことを断定するとしたら、それは凄いことです。

自分が実際に経験して、そうなったという経験なら、事実として説得力がありますから、それでよいのですが、やたらに断定されると、読み手としては抵抗を感じることになります。

どうしてそう言えるのか、証明しろということになるわけです。

そうでなければ、オレ様がそう言うんだから、ありがたく聞いておけという不遜な態度を感じます。

夏目漱石が授業をしている時、学生の一人が「先生、その意味辞書と違っています」と言ったことがあるそうです。

夏目漱石は「じゃあ、その辞書、直しておけ」と言ったとか。

夏目漱石ならサマになります。

自分がそういうレベルにあるかどうか、教師は時折、振り返ってみる必要があると思います。

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posted by edlwiss at 20:48 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2012年06月21日

あら捜し人生の悲哀

何を批評するにもあら捜しをする人がいる。

車を買えば、色がどうのこうの、買い物に行くにはもっと小さいほうがいいじゃないのとか。

人は物を買う場合、いろいろ思案し迷ったあげく買うと思う。

買うという決断をするわけだが、買ってしまった後も、これでよかったかなあという迷いがあるのではないかと思う。

自分の決断に自信が持てないでいるという心理もある。

そんな時、否定的なことを言われたら不快になるだろう。

人生は生きていく中で、いろいな選択をしていかなければならない。

そういう選択をする中で、完璧な選択などそんなにあるものではないと思う。

違う見方をすれば、いい方も悪い方もあると言える。

だから、悪い方、つまりあら捜しを言うのではなく、良い方、良い選択をしたという感想を言ってあげた方がよいと、私は思う。

高価な買い物なら、なおのことそう思う。

「大きくて、素敵ですねえ」

「まあ、この渋みはなんとも言えない色で、趣味がいいですねえ」

などと、言ってあげたらどうだろう。

そうした方が、買った人も嬉しいし、ちょっと大げさに言えば未来が開けるような気がするのではないか。

買った本人が、気に入らないんだけどと言っていても

「いや、僕はとてもいいと思いますよ。こういうのもありだと思います」

と言えないだろうか?

買い物に限らず、何事にも絶えずあら捜しをしているような人がいる。

とにかく、何か捜して否定をする。

まだこれから何かをしようとする時も、あら捜しで出鼻をくじこうとするように思える人がいる。

欠点を捜して、それは親切ではなく、まるで他人の成功を願っていないようでもある

変だと思うのは、自分が歩んだ経験、人生が絶対で、それを外れるものはすべて失敗するとでも言いたげな口ぶりの人がいる。

zibunigai.jpgこういう人、自分を見つめたことがあるのだろうか?

お前は、そんなに完全な人間?

お前は神か?

お前のセンスはどうなのだ?

ともあれ、こいうあら捜し専門のような人からは遠ざかるに限る。

恐らく、そう言わなくても、次第に人は寄りつかなくなるのだろうと思う。
それが人生の悲哀というものなのか?

でも、一番困るのは、こういう人が先生であったらということである。少なくとも、先生にこういう人はいてほしくない。

言われた人は、やる気をなくすだろう。

大人だったら「あのバカが」ですますことのできる人もいるだろうが、言われる対象が子どもの場合、自信喪失につながりかねない。

いや、もしかしたら、自分以外の人間はみんなうまくいってほしくないというのが本音かも知れない。

職場にこういう毒ガスおじさんのような人がいたら、環境整備として、一刻も早く追い出す作戦を考えよう。

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posted by edlwiss at 15:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年06月19日

感動のない人生なんて

今日も依頼されてのコンサートだった。
ここ何年かは、アンサンブルかソロが多い。
アンサンブルとソロでは、圧倒的にソロが多い。

毎月、1〜2回の演奏がある。
だから、練習は欠かせない。

毎月、演奏の機会があるのは、主に講演会のアトラクションで頼まれるからだ。

ある時、某会社が主催する講演会で、スタッフが音楽を入れようと企画したのが始まりだった。
以来、こういうことが続いてるのは、好評だからだそうだ。

Brahms_Cl5.jpg自分では自分の演奏のよさはわからない。
ただ、ひたすら心をこめて演奏する。

もう、何回も私の演奏を聴いている人がいて、感想を言ってくれる人がいる。

「毎回、プログラムが違いますねえ」

と言われたが、これは私の誠意でもある。

自分が得意とする曲を何度も演奏するというのもいいが、なるべくたくさんの曲を披露するというのは、私の誠意でもあるし、挑戦でもある。

昔から演奏活動をしている人の中には、吹奏楽団やオーケストラに所属して続けている人も多い。

だが、私は自分が演奏する場合は、大勢での演奏は好まない。

それは、自立というか自己責任というか「私はこう考えています」という主張を伝えたいという気持ちが強いからだ。
こういうのを自己顕示欲が強いというのかも知れない。

どちらにしても、良いも悪いも自己責任というところが気に入っているわけだ。

ところで、私がクラリネットを始めたのは、中学生の時からだが、自らこの楽器を選んだわけではない。

入部すると「お前はこれ」と言って差し出されたのがこの楽器だった。

なんとか楽器に慣れてきたころ、胸がときめく曲を聴いた。

先輩の家に行って聴かせてもらった曲が、モーツァルトのクラリネット協奏曲イ長調 K.622だった。

感動の連続で、こんな世界があるのかと、まるで夢見心地というか、今まで経験したことのない世界に入ったようだった。

それ以来、このモーツァルトのクラリネット協奏曲イ長調 K.622が私の目標になった。

私はこの曲が演奏できるように、ずっと練習してきたとも言える。

好むと好まざるに関わらず、私がクラリネットを演奏することになったのは、幸運だった。

楽器はたくさんあれど、クラリネットはちょっと特異な楽器で、その特異性のおかげで、歴史的な作曲家に注目されたこともある。

ほぼヴァイオリンと同じぐらいの音域を持ち、低音から高音まで一つの楽器でありながら、特徴のある音色を持つ。

クラリネットに興味を持った、代表的な作曲家と言えば、モーツァルト、ブラームスがまっ先に浮かぶ。

両者に共通しているのは、名奏者との出会いが傑作を生んだということ。

モーツァルトのクラリネット協奏曲イ長調 K.622はシュタットラーという奏者の演奏をモーツァルトが聴いて、モーツアルトはいたく感動したことから作曲された。
同時期にクラリネット五重奏曲イ長調 K.581も作曲されている。

この曲について、ある人は「完璧な曲というのは、こういう曲のことを言うのだろう。ムダな音が一つもない」と言っている。

ブラームスはモーツァルトの作品を「神」に喩え,自分が神になれなかったことを嘆いた話は有名だが、彼もクラリネット五重奏曲を書いているが、モーツァルトの域に達した曲と言われている。

クラリネット吹きとして、一度は演奏してみたいと願う曲を挙げてみる。

1.モーツアルト クラリネット五重奏曲イ長調 K.581
2.モーツアルト クラリネット協奏曲イ長調 K.622
3.ブラームス クラリネット三重奏曲 イ短調 作品114
4.ブラームス クラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115

1、2は意外と早く実現した。
3は一昨年、ある人の提案で、トリオ・ミンストレルというプロの三重奏団との共演で実現した。

まだ実現していないのが、4のブラームス クラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115
である。

4曲とも、作曲家の晩年の作であるが、ブラームスの場合は創作意欲の低下を感じて引退表明をして、避暑地で生活をすることが習慣になっていた時、ミュールフェルトという奏者の演奏を聴いて感動し、再び創作意欲が高まってきて作られたものである。

初演時は聴衆の熱狂的な感動を呼び、何度もアンコールに応えて演奏されたと伝えられている。

私の教わった先生は、この曲を聴いていると涙が出てくると言われた。

ブラームスの創作レベルが頂点に達した、老年の名曲なだけに、演奏者も精神的なレベルの高さが要求される。

私はいつか、この名曲の共演者が現れることを期待して、練習に励んでおきたいと思っている。



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posted by edlwiss at 19:38 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2012年06月18日

生涯現役

言うは易し行うは難し

この「言う」と「行う」のバランスが大切だと思っています。

言うだけが続くと、それは中身のない果実のようなもので、相手に対して説得力がなくなるような気がします。

だから「言う以上は」というものが必要だと思います。

具体的には「そんなに言う以上、お前はできるのか」に応えられるということです。

もっと具体化して言えば、ピアノの先生なら、実際に弾いてみせるということです。

このように弾きなさいというお手本は、強い説得力を持ちます。

実績

いつもコメントを書いてくださるtsuguo-koderaさんに「歳をとると、お金や時間の制限ではなく、立場の制約でもなく、体力が最大の制約条件だ」ということを教えていただきました。

私もクラリネットを吹いていますが、年をとったこの頃は、どうすべきか、どこが悪いのかと言った分析はよくできるようになり、目の前の問題を突破する方法はわかってきましたが、一番の問題は体力だと感じてきました。

そのせいもあって、省エネ奏法をいつも考えています。

楽器を演奏する人で一番体力が関係するのは、金管楽器の奏者でしょう。
その点、木管楽器はまだいいと言えます。
有名な北村英治さんは80歳を超えても、全く衰えを感じさせない演奏をしてみえます。



楽器を持たない指揮者は、一番、現役生活が長いのではないかと思います。

私が知っている指揮者で一番長く指揮活動をしていた人は96歳です。

この人は演奏旅行先で亡くなったので、まさに生涯現役だったわけです。

知らない人は、年をとった指揮者は何か名誉職でやっているように思っているようですが、そんなことはありません。
指揮者としての実力があるからやっているのです。

geneki.jpg若い時から、絶えず勉強していて生涯、その能力は伸び続けているわけです。

たびたび記事にしてきましたが、人生の途中で勉強をやめてしまうと、能力は下り坂になりますが、勉強を続ける人は生涯伸び続けるようです。

昆虫記で有名なファーブルも90歳で亡くなるまで研究を続けていました。

勉強しないと、人の能力の頂点は21歳ぐらいと、ものの本に出ていました。

すると、大学卒業した頃が頂点で、先生になったばかりの人は、そこが分岐点になるということです。

40歳代で、プライドだけは高いが、中身は子どものような人、言うことが年寄り臭い人がいます。
そして、言うことは単純で細かい思考は苦手という人は、頭の働きがどんどん低下したのでしょう。

大学時代はすごく優秀で、誰もが認める存在だったのに、先生になってからすごくバカのようになってしまった人を何人か知っています。

女子中学生に交際を申し込んで、断られ、逆上していた40代の男の先生もいました。
頭が退化して、中学生と同じぐらいになってしまったのでしょう。
(退化の進度は、60歳と6歳が同じぐらいになるとのデータもありました)

学校の教師は、体力が必要でないとは言いませんが、年を取っても続けられる仕事だと思います。
しかし、自ら心理的に引退してしまっている人は、口だけで実践から遠ざかっている人がいます。

何か役がつくと、授業時間も少なくなり、現役という感覚がよけいになくなります。

プロ野球の選手は現役時代がかなり短いと思いますが、野球に対する知識は増しても体力が追いつかなくなるからだと思います。

実際にプレーはできなくても、頭の方は進歩しています。
だから、コーチや監督が務まるのだろうと思います。

そして、現役でなくても選手たちにとって説得力があるのは、まさに現役時代の実績がものを言っているからだろうと思います。

こう見てくると、先生という仕事も、説得力を持つのは実績と実践力であると言えるのではないでしょうか?

プロ野球の選手のように、体力的な問題で授業ができないということはないからです。

だから、ベテランと言われる年齢の先生は、後輩には模範授業をやってみせるべきだと思うのです。

模範授業ができるほどの先生は、言葉にも重みがあると思います。

そして、言葉は新鮮で生々しい感じがします。

そうです。生鮮食料品と同じではないかと思います。

心理的に、実践から遠ざかっている人は、賞味期限の切れた食料品のようで、何かカビ臭い臭いがするのです。

指導の二面性

私の家のベランダで、今年は睡蓮の花が咲きました。
これは、昨年準備したものです。

指導の二面性とは、植物を育てる時には、すぐに効果のある即効性の肥料と遅行性の肥料が必要なように、すぐに効果のある指導と、ずっと後に効果の出てくる指導があるということです。

研究授業や模範授業を見ても、優れた指導者はそういう二面性を持っているということがわかります。

その場で子どもたちの様子を素早く観察し、良いところ悪いところをすぐに見抜きます。
そして、具体的な指示をすることにより、すぐに変化が現れます。
また、それが将来よくなるだろうなという予感を抱かせます。

だから、誰を指導者として呼びたいかという時、そういう優れた指導者を見た人が呼びたいと思うわけです。

コンクールが関係している時などは、すぐに効果をあげられる人、行った指導があとあとになって効いてくるような指導をする人、つまり、そういう優れた指導者が人気があることでわかります。

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ということで、先生には一応、定年があるものの人間の一生を見た時、まだまだ成長期の半ばであると言えます。

指揮者には「60歳未満の、まだ若い指揮者は・・・」なんて言葉があるくらいですから、定年間近の年齢になったとしても、まだまだ現役という感覚を捨ててはいけないと思います。

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posted by edlwiss at 05:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年06月17日

会食をすること

今年もつばめが巣立って行った

ビルの階段を降りたところに出入口があるのだが、そこに毎年つばめがやってくる。
巣作りが始まり、雛がかえると、下は糞がいっぱいになる。
でも、みんなつばめのために気を遣って、無事子育てが終わるのを見守っている。

すぐ傍に駐車場があるので、車の上にも時折、糞が落ちている。
それでも、親鳥が子育てに一生懸命なところを見ると、気にならない。

雛の巣立ちが近くなると、親鳥はエサを運ばないで、巣の近くを飛び回るようになる。
雛に、自分の力で飛び立つように促しているのだ。

かくも人の住居の近くに巣を作るのは、あえて人の近くに住むことで外敵から身を守ることができるという知恵らしい。

すずめも、同様、そんな理由で人家の近くに巣をつくる。

会食をすることの意味

つばめは雛が育つまでに、何回、エサを運ぶのだろう。

そんなことを考えていたら。

人間の家族も、食卓を囲んで食事をするが、それは永遠に続くものではない。

やがて、子どもたちは独立して家を出ていくわけである。

大学進学と同時に下宿をする者は、巣立ちの準備段階のようなものと言えるかも知れない。

自分の子どもの頃を思い出すと、小さなちゃぶ台を囲んで、3人で食事をしていた様子が浮かんでくる。

今思うと、とても幸せな時期だったと思う。

夜の食卓は、みんなが揃うまで食事は始まらなかった。

しかし、最近は家族がそれぞれ勝手に食事をする家庭が増えてきたと聞く。

食事とは、ただ空腹を満たすだけのものだろうか?

空腹を満たすだけが目的なら、何も、皆がそろって食事をすることもない。

だが、家族はそろって食事をすることに意味があるのだと思う。

いつか、家族はバラバラになる。

そういうことを考えると、家族がそろって食事ができるのは、あと何回かということが大切なのではないか?

食事中には

「黙って食べなさい」

と言われたことがある。

家族がそろって、黙って食事をすることの意味は?

何もないようだが、一緒に食事をする、その説明のつかない時間、空間を共有することが大切なのだ。

いや、大切だからそうするのではなく、一緒に食事をして時間と空間を共有したいという気持ちが起こってくるのが自然なのではないかと思うのである。

だって、好きな人とは一緒に食事をしたい。一緒にお茶を飲みたいではなかったか?

家族なのに、バラバラに食事をするというのが、私には不思議に思えてしょうがないのである。

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posted by edlwiss at 00:07 | Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2012年06月14日

滅茶苦茶な国語にならないために

(1)主語をはっきりすること

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明らかに主語が誰であるかわかる場合は省略してもいい。

(例)今日は早起きをした。
・・・・筆者が主語とわかる。

主語の範囲が広い場合、曖昧な場合は要注意


(例)小学校の教師は気楽に仕事をしている。
・・・・日本中(世界中)の小学校教師はみなそうなのか?

(例)指導力のない教師は○○だ。
・・・どういう教師が指導力がないのか?
・・・指導力がないとは、誰の判定なのか?
・・・自分が指導力がないと判定したのなら、それは何を根拠としてそう判定したのか?

(2)断定には根拠が必要

定説や諺の場合は根拠を省略してよい

(例)地球は自転している

(例)早起きは三文の得

・・・これらは、一般に広く普及している知識として、根拠を述べる必要はない。

学術的に証明されていること、専門的なものは、根拠も合わせて説明すると親切

(例)光より速いものはない。これはアインシュタインの相対性理論によります。
・・・・または括弧書きで「光より速いものはない(アインシュタインの相対性理論)」としてもよい。

(例)人の活動には内部活動と外部活動とがあり、内部活動は絶対にわからないものである(教育工学)。

自分の意見として断定する場合は根拠が必要

(例)「○○だ」とか「□□なのです」と言い切る場合。

自分の意見として主張したいが、根拠に乏しい場合、自身がない場合

・・・「○○と思います」とか「□□と考えています」などととすべき。

とりわけ強い意見として主張したい場合は5W1Hを意識する

・・・5W1Hを意識し、明確にすることは、読み手(聞き手)に説得力を感じさせる。
それは、データの所在、発信元を明確にするからである。単なる空想、妄想ととられないためにも5W1Hを意識した方がよいと思う。

(3)根拠もないのに実在の人物や団体名を使って創作をしないこと

※ 根拠もないのに創作をしたい時は「この話はフィクションです。登場する個人名や団体名は実在のものとは関係ありません」と断りをいれること。

感情にまかせて文章を書かないこと

人間である以上、感情がある。その感情を表すことで、その人らしさがわかるとも言えるが、感情に支配されるあまり何の根拠もないことを書かないこと。

他人の文章を参照して意見を書く時、つまみ食いや勝手な追加で文章を書かないこと

他人の文章を参照して、自分が意見を書く時、参照元の文章を正確に読むこと。

自分が理解できるところだけピックアップして、勝手な創作をしないこと。

また、正確な理解をせずに、自分の勝手な材料を追加して、参照元の文章の意味(主張)を変更しないこと。
・・・こういうのを通常「決めつけ」という。
・・・こういうことを繰り返すと、自らの品位を落とす。

実体はあっても、本題に関係ないものを持ってきたりして作った文章は、次の写真のようなものだ。
自動車を組み立てる時、タイヤを組み付けるには、どんなタイヤを持ってきてもいいわけではない。
タイヤと聞いただけで、自動車に自転車のタイヤをつけようとしてはいけない。

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(4)主語と述語の関係をわかりやすく

日本語は述語まで読まないと、意味が確定しない。

主語に対応する述語が、迷子になっているような文章は何が言いたいのかわかりにくい(わからない)。

文章の中には、この主語に対応する述語は何だろうと、読み続けていくと、まるで迷路に入ったような感じになる文章がある。

なるべく、一気に長い文章を書かないようにした方がよいと思う。

書きながらさまよっているような文章は、あたかも、豆腐を買いに行ってこんにゃくを買ってきてしまったというようなものになりやすい。
豆腐について語っているのに、結論はこんにゃくの話になっているようなものだ。

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以上、自分の反省も含めて、滅茶苦茶な国語、恐ろしい国語力が身につかないようにするためにも、文章の書き方について整理をしてみた。

文章がひどいものになってしまうのは、文法の問題だけでなく、考え方(思考回路)の問題も関係していると思う。

機械の狂った回路はそのまま不良品だが、人の思考回路は再生成されると思っている。
絶えず、正しい刺激にさらされることで、それがフィードバックして再構築されるように思う。
それが知能なのだろう。

人工知能を持ったコンピュータも人と対戦するうちに、誤りを学習してどんどん利口になっていく。

これは、人もいろいろな経験をして利口になっていくモデルのように思う。

学校の教師は、学校にいる時だけが教師ではない。

このようにブログを書くことが、子どもへの教えにもなっていると思うのである。

それは、学校ではわからない先生の姿を見るということにもなる。

読み書きはあらゆることの基本に関係している。

手本になる文章を目指して、精進したいものである。

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posted by edlwiss at 16:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

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