2012年07月29日

小学生、中学生にこだわらない

「小学生は」とか「中学生は」というのは、大人が勝手に決めた区分であって、子どもの側から考えたら、それはときに迷惑な区分ではないか。

昔は、知識や文化の普及には、学校が中心的な存在であったが、時代とともに子どもが得る情報源は、学校以外からのものが多くなった。

人の成長は、外形から判断すると、18才ぐらいまで身長や体重が増加するので、脳の成長も同じようだと考える人もいるようだ。

しかし、外形と比べて脳の成長ははるかに早く、6才では成人の90パーセントぐらいは完成していると言われている。

実際、知的な分野では、教育次第で驚くべき才能を発揮する例をたくさん見ることができる。

幼児期とか小学生、中学生、高校生、・・・と、大人が便宜上区分けするのはいいが、一人一人の子どもの側に絶った場合、先入観で限定的な見方をするのは、時に才能を埋もれさせることにもなると思う。

先生は何かを教える立場ではあるが、教育制度の枠に頭の中も縛られていると、子どもの伸びる芽を摘むことにもなりかねない。

教えることも大切だが、それより罪深いのは、芽を摘んでしまうこと、才能を埋もれさせてしまうことだと、私は思っている。

子どもの伸びる芽を摘まないためにも、先生は、子どもの非凡な才能を見つけることができるだけの能力を持たなければならない。

こういうことを考えてくると、いつも思い出すのは、天才数学者・ガウスの小学校の時の先生のことだ。

ガウス自身も立派であったが、いち早くガウスの才能を見つけて、学問には関心のなかったガウスの父親を何度も説得して、ガウスを進学させた先生の功績は大きい。

日本では義務教育制度のもとに、ほとんどの子どもが学校に行っているが、子どもの立場から考えたら、その学校のメニューが果たして適当かどうかを考えてみる必要がある。

今、オリンピックの最中だが、あの選手たちはどのようにして育ってきたのか?

現在の学校制度との関わりはどうだったのか?

むしろ、学校がブレーキをかけてしまったということはないだろうか?

「小学生は・・・」「中学生は・・・」という言い方はやめよう

精度上の区分において「小学生」「中学生」という呼び方をしなければならないこともあるが、そうでない限り、子どもであっても一人の人間として先入観を持たないで見ることにしたいと思うのである。

小学生でも、中学生の数学までこなす者もいる。

特にわかりやすいのは芸術面だ。

例えばピアノの上達は子どもによっては驚くべきものがある。

ピアニスト・エフゲニー・キーシンを初めて知ったのは、衛星放送が開始されてから間もない頃、時に12才のキーシンがカラヤン指揮・ベルリンフィルとチャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番を競演が放送された時だ。



この協奏曲は作曲された当時、チャイコフスキーが当時、有名なニコライ・ルービンシュタインに「こんなものは弾けない」と言われた難曲だった。

今でこそ、プロのピアニストによる演奏はたくさんあるが、それでも、この曲が弾ける人は周りに、そんなにいるものではない。

私は放送を見ていたが、カラヤン・ベルリンフイルの待機しているところに、12才のまだ眠そうな目つきをした12才のキーシンが登場して、ピアノの前に座っても、まだ信じられなかった。

いや、曲が始まってからも、12才の少年が弾いているとは思えなかった。

キーシンは特別な天才だろうという見方もできる。
確かに、キーシンは天才だと思う。

しかし、それから続々と若い人というより、子どもが天才のようなことをやってのける場面を知るにあたり、子ども扱いはやめた方がいいと思うようになった。

時のソ連は、早期から才能がある子どもは、国家が育てるという方法をとっていた。

遠くの国の話でなくても、もっと身近にいる子どもにも、素質を見出すことはあると思う。

それを見つけ、引き出すことは教師の大きな責任である。

即席の先生でいいのか?

ダンスとか武道とかが必修になったということで、講習によってにわか作りの先生で間に合わせるというのは問題ではないかと思う。

こう言うと「先生が勉強しないでどうする」と頓珍漢な意見を発する人がいたが、こういう人が現れる度に、私は、率直に言って、頭がおかしいのだろうと思ってしまう。

先生が勉強しなければならないことと、即席の先生で間に合わせるということは、全く別の次元の話だ。

我々は、何かを習いたいとき、どういう先生を捜すだろう?

例えば、我が子にピアノを習わせたいとと思ったとき、1週間程度ピアノを習ったという人を先生として習わせたいと思うか?

少しばかり講習に行っただけで、先生として指導するというのは、だいたい、指導される側をバカにしていないか。

そんなことをするのではなく、教育制度そのものを改革して、午後からは社会教育制度のもとで、それぞれ専門の先生の指導を受けられるようにすべきだと思うのである。



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posted by edlwiss at 10:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年07月28日

最前線は大切

製造業は安く良い製品を作らなければ、他社との競争に勝てない。

しかし、それだけで儲かるとも言えない。

それは、営業の頑張りが必要だからだ。

安く良い製品とは、顧客との距離が一番近い営業からの情報が大切になる。

営業は顧客が何を考えているのか、常にアンテナを張って情報収集に努めなければならない。

学校も、よい教育制度の上に成り立っていることは大切だが、やはり最前線、つまり子どもに一番近い教師の力が良い教育を推進する原動力であることに異論をとなえる人はいないだろう。

子どもが考えていること、子どもの動き、子どもの表情などの観察力がなかったら、人間教師としての意味がない。

教師はいつも子どもに関心を持っている必要がある。

私は、生徒数800人以上の中学校に勤務しているとき、生徒のデータベースを作って、顔写真も登録して、毎日記録を蓄積していた。

だから、全校生徒の顔と名前は、いつも頭に入っていた。

気づいたことをデータベースに蓄積していくと、今まで気づかなかったことが浮かび上がってくる。

それぞれの生徒の特徴が浮かび上がってくるし、人格のようなものが見えてくる。

クラスにおいては、先に述べた人間関係構造図と毎日の観察で、一見大勢に見える生徒たちもすっきりととらえることができる。

しかし、もっと大切なことは、朝、教室に行ったときどんな空気を感じるかということだ。

親が夕食時に、子どもが何も言わなくても、様子が変だと気がつくように、教師も自分のクラスの生徒の様子が健康なのかどうか感じとる鋭敏さは必要である。

山上憶良の有名な歌
憶良らは今は罷(まか)らむ子哭(な)くらむそのかの母も吾を待つらむぞ
は、子ども思いの憶良の気持ちを歌ったものと言われる。

親はもちろん、教師も、目線がいつも子どもの方にあって欲しいものだ。

中学校は入れ替われ立ち替わり教師が交代して、子どもを教えるのだが、それぞれの先生が鋭敏な心を持って、観察したことの情報を交換していたら、いじめが起こるようなよくない空気を早期に発見できるのではないだろうか。

校長も全校生徒を、みな知っているような人であってほしいと思うが、最前線にいる教師が最も子どものことを知っている人であることを切望する。

世の中の進歩で、知識の伝達はシステム化するが、人間的な感性だけは機械などでは実現できない。

言い方を変えれば、機械で置き換えができるような先生であってはならないと思うのである。

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posted by edlwiss at 00:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年07月25日

少量の放射線は体によいという学説

東京大学・医学博士・稲恭宏 氏は、少量の放射線は心配する必要がないばかりか、むしろ健康によいと説明している。

この種のビデオは、早期に消滅してしまうようだ。(画像をクリックしてください)



これは、信じられるのかどうか、私にはわからない。
しかし、この先生、その後どうしているんでしょう?

一方、このことについて、国会で取り上げられたようだが、この映像もどういうわけかその後消滅した。
(画像をクリックしてください)



国民は何を信じてよいのか?

少量の放射線は心配ない。健康によいとまで言っているのが、東京大学・医学博士である。

一方、国会で証人に立った人は、みな、このことを全面否定している。

どちらかが本当で、どちらかがウソということになる。

もし、東京大学・医学博士・稲恭宏 氏の学説が疑わしいならば、博士号の学位は何なのか?ということになる。

どこかで、情報操作があるのか?

最近は、YouTubeに情報が流れるが、この種のものは早々に消えてしまう。

私たちは、報道されるものを直ちに鵜呑みにしてはいけないと言うことだろう。

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posted by edlwiss at 15:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年07月24日

おかしな原発再稼働・賛成意見

原発賛成の人の意見で、おかしいと思うもの。

要するに、原発が止まると、経済的に困る立場の人の意見である。

原発を稼働しないと困ります。だから、安全を確認した上で再稼働してください。


と言われる。

genpatsu.jpgこれって、おかしいと思いませんか?

何がおかしいって、原発の安全は確認できるのか?ということです。

安全な原発があれば、誰も文句は言わないと思うのです。

今回、福島原発が事故を起こして、原発の危険性を感じたわけです。

そして、未だに事故の解明も行われていないし、誰も安全であると言える人はいないわけです。

「安全を確認した上で再稼働を」と言うのであれば、稼働時期は未定ということになりますね。

それに、何よりも大切なことは、原発事故は絶対に起こらないとは言えないわけです。

ということは、原発を再稼働したいのであれば、事故が起こったときはどうするかを議論しなければならないのではないですか?

事故が起こるという話になると、これも再稼働に賛成の人たちの意見だが「そんなことを言っていたら、交通事故だって起こるし、車に乗ることもできない」と言われる。

原発事故と交通事故を、同じ事故ということで、同列に語っていいのでしょうか?

そんなことを言ったら、自転車で転んでも事故ですよ。

事故の規模が違うでしょう?

隕石が衝突する心配をして、安全対策をすると、費用が莫大になり不可能である。
だから、原発事故にも安全対策の費用はあまりかけられないという人がいる。

隕石が衝突するのは防ぎようがないでしょう?

原発は止めることで、事故は回避できますよ。

そうそうたる学歴をお持ちの方が、あまりにもばかばかしい意見を言われるので、改めて学歴とは何だと思ってしまいます。

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posted by edlwiss at 11:48 | Comment(4) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年07月23日

かわいげのある大人とは?

かわいげ(可愛げ)とは「かわいい」と感じさせるかどうかの程度である。

「可愛い」は抽象的であり、何をを持って可愛いと感じさせるかは、幅が広い。
人によっても、可愛さの感じ方は違いも出てくるだろう。

この可愛さについて追究したい人は、フリー百科事典「ウィキペディア」に論じてあるので、参照してください。

ここでは、もう少し「可愛さ」について具体的な解釈を、と思っていたら、臼井 由妃(うすい・ゆき)さんが、つぎのようにまとめてくださった。

(1)知識や知恵があっても自慢しない(謙虚)
(2)人の意見に耳を傾けられる余裕がある(素直)
(3)分からないことを分からないと言える(知ったかぶりをしない)


なるほどと思った。

「可愛げ」とは「可愛い」とは違うと念が押してある。

「可愛い」だけでは仕事ができないと言うのだ。

組織の中にあって、仕事ができるには「可愛い」という存在ではなく「可愛げ」が必要ということ。

それは、謙虚素直知ったかぶりをしないの3つだ。

この3つがないと、人は声をかけてくれないだろう。
今は問題なくても、次第に、いやなやつ、話をしたくないやつと感じられて、コミュニケーションもなくなっていくと予想される。

人と人とのつきあいは、必要な時の声かけだけではなく「今日、ちょっと一杯行くか?」などの声をかけてもらえないというのは寂しいことである。

そう考えると、特に用事もないのに誘ってくれる人には感謝しなければと思う。

最近はネット環境の充実で、一日中、席を立つことなく済んでしまうということもある。

お誘いがあったら、めんどうがらずお付き合いすることも大切とあらためて感じた。

人間、誘ってもらえるうちが華なのかも。

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posted by edlwiss at 23:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年07月22日

かわいげのない子どもにも、声をかけよう

nekoboke.jpg「かわいげのない子ども」というのは、大人に対して素直でない、反抗的といった敬遠されがちの子どものことです。

私は、こういう子どもたちは、生まれつきそうではなかったと思っています。

生まれてから、いろいろな経験を経てそうなったんではないかと思うのです。

心に傷つく経験を多くしたのではないでしょうか?

だとすると、それは不幸な経験をしてきたと言えるでしょう。

不幸な生い立ちなのに、嫌われてはますますかわいそうな気がします。

そういう子どもたちこそ、愛情が必要なのだと思います。

大人は、つい愛想のいい子どもによくしがちですが、大きな心を開いて、かわいげのない子どもにこそ、愛情をかけてやって欲しいと思います。

どこの島か忘れましたが、捨て猫の多い島があると聞きました。

その猫たちに、愛情を注いでいる人たちがいます。

島で、そういう猫たちを捕獲して連れてくると、警戒心が強く気持ちも荒々しく、人を攻撃するような態度をとるようです。

しかし、動物病院などで、檻に入れて育てると、始めは威嚇したりしてとても人になじみそうには思えないですが、毎日、きちんと餌を与えめんどうをみてやると、数ヶ月して性格が穏やかになって甘えてくるようにもなるとのことです。

そうなったところで、里親捜しをして、引き取られていくそうです。

そう言えば、私の家の近くにも野良猫がいて、始めは警戒していて、とても近くには寄れなかったのですが、近所の人たちが面倒をみるうちに、人を信用するようになりました。

私が行っても、すりついてくるようになりました。



子どもも、声をかけて、みんなで愛情を注げば次第に心が丸くなってくると思っています。

そうすれば、いじめ問題も減る傾向になるように思います。

こう書いてくると、ネコと人間を同じにすると短絡的な意見を言いそうな人の懸念を抱きます。

今、この記事を読んでいただいているあなたは、どう思いますか?

私がネコと人間を同じにしていると、思われますか?

私がネコの例で、心の問題を挙げると、ネコと人間を同じにしているという人は、思考力の足りない人と思います。

neko.jpg
もし、そういう人がいるなら、私は次のように答えます。

「はい、同じにしているところがあります。でもネコと人間は同じではありません」

つまり、同じところもあれば、同じでないところもあります。

生きものとしては同じであり、ネコも人間も大切な命です。

ネコを飼っていることはわかると思いますが、ネコは人間とは違いますが、家族の一員であるという認識があるのではないでしょうか?

それは、愛情を注いでやれば、体の丸いネコの心はいっそう丸くなります。

そして、人の心をいやす存在になります。

心の交流があるわけです。

一寸の虫にも五分の魂という言葉があるように、命と言うことではかけがえのない存在です。

食べるものは違うし、言葉は話せません。違いはたくさんあるけれど、心を通わせる存在としては、同じ生きものです。

ということで、ネコを飼ってみて、人間が学ぶところもあると思います。

ネコをかってみたら、そうだったから、人間でもそうではないか?

こういう、ヒントを与えてくれる存在でもあります。

人から嫌われそうな、かわいげのない子どもにこそ、大人たちは声をかけましょう。

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posted by edlwiss at 21:06 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2012年07月20日

どこかおかしな、ものの考え方

人と人が意見を交換しあって、よりよい考えに到達することは大切なことです。

しかし、そこへ行くまでに、話し合いにすらならない状況もあります。

その原因の主なものを挙げてみます。

1.話し合いで使われる用語が統一していない

何のために言葉があるのかというと、それは、人と人が共通認識をするためにあると言えます。
話し合うということは、その中でいくつかの単語を使うということです。
しかし、話し合う人同士の単語の意味が違っていては、話し合いにまで行きません。

ringo2.jpg「リンゴ」という単語が出てきたら、リンゴはいくつか種類があるにしても、右の写真のようなものを互いに想像してもらわないと困るわけです。

共通の認識はものだけでなく、言葉の意味も同じでなくてはなりません。

そのために、辞書というものがあり、共通化を図っているのです。

これは標準化を図っているとも言えます。

標準化と言えば、メートル原器という1mという長さの基準を定めたものがありました。
世界中で1mの長さが違ったら、困ることが起こるからです。

1mの基準は始めは、1879年、フランスで白金90%、イリジウム10%の合金で作られたもので基準の長さを作りましたが、その後、経年変化が問題にされるようになり、クリプトン86元素が一定条件下で発する橙色の光を基準にして割り出されるようになりました。

辞書も年数が経つと、意味が変化するするものがありますが、言葉の意味は共通理解のよりどころと言えます。

しかし、この辞書を否定する人がいるのは、困ったことだと思います。

言葉の意味は、自分で勝手に決めたいのかも知れませんが、そういうことならば「オレは言いたいことを勝手に言うだけだ。人とのコミュニケーションなど考えていない」と言ってるようなものです。

正しくコミュニケーションをとりたいのであれば、折りにふれて辞書を参照すべきです。

子どもの頃、先生から「学問を身につけたければ、辞書を引く労を厭わぬ(いとわぬ)こと」と教えられました。

もちろん、今でもこの言葉に同意できないという先生はいないでしょう。

しかし、辞書を引くことを否定したいと思われる人がいるようで、これが先生とは思いたくありません。
もし、先生で辞書を否定する人がいるとしたら、それは看板は先生でも実質、先生とは言えないと思います。

「辞書引き学習」なんていう、妙な言葉を見つけました。

辞書を引く学習ということですか?

どういう意味なんでしょう。

辞書を引くと言うことは、学習ではありません。
学習の手段の一つではありますが、それだけで学習が成り立つものとは言えません。

学習の時は、辞書を参照することが大切と言うことです。

いや、人と対話をするときも、参照した方がいいでしょう。

2.思考が変

下の図1を見てください。

boul_box.jpg


@赤と緑の箱があって、A君が緑の箱にボールを入れました。
AA君はどこかへ出かけましたが、その隙にB君がボールを緑の箱から、赤の箱に移しました。
BA君が帰ってきました。A君は赤と緑のどちらの箱へボールを取りに行くのでしょう?

とBの質問をすると、あなただったらどう答えますか?

当然、A君は自分の入れた緑の箱にボールが入っていると思って、緑の箱の方に行くと想像できますね。

ところが、A君は赤の箱にボールを取りに行くと答える人がいるのです。

こういう人は、思考回路そのものがおかしいと言えます。

電気回路で言えば、配線が間違っているようなものと言っていいかも知れません。

「だって、ボールは赤の箱に入っているから、赤の箱の方へ行くに決まってる」とかたくなに主張するわけです。
社会生活をする上で、周りの人との摩擦が多いと予想されます。

3.きまりに対する認識がおかしい

きまりというと、法律や校則のようなものを想像する人がいるかも知れません。

しかし、きまりはそのようなだけではありません。

例えば、数学はきまりを組み立てて、できていると言えます。

私たちの社会は、社会生活する上での秩序をつくるためのきまりと、論理上の決まりがあります。

「いろいろな意見があっていいんだよ」

と言う人がいます。

それはそうです。

憲法でも「思想、信条の自由」が保障されています。

しかし、それらも秩序としてのきまりや論理上のきまりは守った上でのことです。

だから「自由と言っても、私たちは社会生活する上でのきまりを守った上での自由であり、それをふまえての『いろいろな意見』です」と言っても、これを納得できない人がいます。

例を挙げて

「例えば、600円のものを買って、1000円札を出したら1000-600=400で、おつりは400円です。もし、500円のおつりだったら間違いです」

と言うと、100円まけてくれたのかも知れないと言う人がいます。

そこで「そういうこともあるでしょうが、計算は1000-600=400と言うことが、論理で、これは認めなければいけません。計算は計算であり、負けてくれるというのは、計算後の話です」と言っても、納得できない人がいます。

意地を張ってるのかと思うと、そうでもないらしいから、困るのです。

「いろんな意見があっていい」

これが、思考のすべてを支配してしまっているわけです。
何をおいても、いろんな意見があっていいが第一順位で、重要度の順位がありません。

これと似たものが「きまりは守らなくていい」という考えです。

ものごとには、例外というものがありますから、必ずしも、通常のきまりが絶対であるとは言えません。
しかし、例外は「例外規定」として、やはり、きまりです。

「きまりは守らなくていい」の主張を支える考え方は「中身が大切だ」です。

確かに、中身は大切です。

それでは「中身が大切だ」を盾に、きまりを無視することはよいのでしょうか?

中身が大切だと叫んで、きまりを無視することができるなら、きまりは形骸化します。
きまりを作っても意味がありません。

この変な考え方は「中身が大切だ」がすべてを支配してしまっている思考です。

この考え方が、間違っているのは「中身は大切なのだが、その中身とはどんな中身なのか?」という視点が欠けていることです。

「ここは一方通行だけど、オレは急いでいるので無視してよい」という中身がよいはずはありません。

この思考は「中身という言葉」ですべてを「きまりを守る」より下にしてしまっていることです。

決まりを無視してよいかどうかは、中身次第で判断しなければなりません。

しかも、それは例外として許される場合です。

抗弁として「きまりは、人が作るものだから、変更できるから」は「きまりを守らなくてよい」の何の理由にもなりません。

「きまりがあったら守る」そこに、屁理屈はありません。

きまりと言えば、組織においては、上からの命令(指示)は守る必要があります。
そうでなければ、組織は成り立ちません。
「職務命令」と言われるものです。

職務命令は、必ずしも絶対ではありませんが、職務命令があるなしに関係なく、あれば従わなければならないものです。それが理解できない人は、組織に入れません。

考え方が変と思うものに、しばしば例としてあげるのですが「非常時に、もし先生がいなかったら」という問題です。
先生がいないのに「先生の責任逃れだ」と言って、がんばってもしょうがないのに、これが理解できない人がいる。
私は「先生がいない場合は、その中にいるリーダーが率いる」との考えかたですが、それ以外の考え方を持つというのもあるかも知れません。
しかし、問題は「先生がいない時」であり、それを「なぜいないのだ」と言っても話になりません。

4.誰が考えていることなのかわからない

これは、読解力(国語力)の問題なのかも知れませんが、文章を読んで、誰が何を考えているのかわからないという思考構造です。

例として、私がかつて山口宏・副島隆彦著「裁判のカラクリ」を紹介し、裁判はなぜ誤審による死刑判決が出るのかということについて、山口弁護士の意見を紹介しました。

saibannnokarakuri.jpgそこで、山口弁護士の弁護士経験を通じて「裁判官は我々弁護士や国民を、下々の者と考えている」と感じたということを紹介しました(右図参照)。

ところが、この「下々の者」という言葉を一人歩きさせ、これを私が考えていると考えてしまったというおかしな現象が起きました。

さらに、おかしいのは、たとえ裁判官が国民を「下々の者」と考えているとしても、国民がそう意識しているかかどうかはわからないのに、まるで、国家がそう位置づけしてしまったかのように決めつけて考えているということです。私はこの本の内容の「下々の者」という発言については、部外者です。

さらにおかしいのは、この思考のおかしいところは、勝手に国民を下々の者と決めつけて「国民は下々の意識を捨てること」なんて、頓珍漢な意見を言っています。

誰かがある人を「下々の者」と考えたとしても、考えられた方の人がそう考えているかどうかはわかりません。

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うまく、説明できませんでしたが、思考回路そのものがおかしい人は、意見を戦わすレベルまでに達しないということが言いたいのです。

ネット時代になって、ブログが増えたおかげで、皮肉なことに、おかしな思考の人の資料を集めることが容易になったと言えます。

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posted by edlwiss at 20:14 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年07月20日

登校しないのも対策か



身を守るためには、登校しないのも選択肢のうちの一つか?
posted by edlwiss at 13:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年07月19日

現代日本の病理

musabetusatsujin.jpg反社会的行動が生育歴によるものか、生まれつきの性格(病気?)によるかの見極めは大切である。

生まれつき、脳に何らかの障害があったりして、問題行動を起こす場合は、専門家による治療にゆだねなければならない。

私の経験では、人に危害を加えないまでも、落ち着きがなく、本人も気にしていながらどうしようもないという子どもに接したことがある。

元来、子どもはじっとしていることが苦手で、動き回るのが常であるが、その行動が尋常でないとすると、生まれつき持っているものが原因ではないかと考えてみる必要もある。

私の接した、問題の子どもは、父親のひどいアルコール中毒が影響しているかも知れないという疑いがあった。

教師は子どもを観察するのが仕事でもあるが、こと、人権問題に関わることなので、扱いには十分注意する必要がある。

「みんな幸福ならいじめはない」とは、私が常日頃から思っていることがあるが、異常性によるもの、つまり、病気と言える範疇ののものは、この限りではない。

ただ、問題行動が多いと言うだけで、早まった結論を出さないようにしなければならない。

このことについても、どこか異常のように思われていた子どもが、そうではなかったという例にも遭っている。

その例というのは、小五の男子で、教師に反抗的、団体行動からはずれるなど困った子としてのレッテルを貼られていた。

しかし、実際にその子どもに接すると、私は問題児という感じはしなかった。
確かに、そういう問題行動はあったが、どこか親しみを感じるところのある子どもだったからだ。

原因らしきものは、母親との懇談会でわかった。

母親の言うには、懇談会の度に「お宅の○○君はダメだから・・・・」と、あきらめなさいという口調で何度も言われてきたと言うのだ。

ダメだからと、担任が言うのは信じられないことだが、恐らく、扱いにくいので手を焼いていたからかも知れない。

私は「そんなことはありませんよ。そんな子じゃありません」と話した。

母親は、涙をためていた。

経過は長くなるので割愛するが、結論は、教師への反感に基づく行動であった。
教師不信が根付いていたので、私にも反抗的な態度があった。

私は悪いことは悪いで叱ったが、その子だけ差別を感じることのないように配慮した。
もちろん、よいところは褒めるようにした。

私がその学校を去るとき、退任式が終わって、学校を出ると、その子は「先生!」と言って追っかけてきた。
何か、ドラマのシーンみたいだったが、別れを惜しんでくれたようだった。

無差別殺人

2008年に起こった、秋葉原通り魔事件は多くの人々を震撼させた。

八幡洋・著無差別殺人と妄想性パーソナリティ障害―現代日本の病理に迫るには、加藤智大容疑者の生育歴を追って、事件に至るまでを調査して分析した記事が載っている。

加藤智大容疑者は中学では成績優秀だった。
だが、家庭教育はどこか異様なものだった。

それは、外からはごく普通に見えた家庭も、両親がどのようにして結婚したかとか父親がどこに勤めているかも本人は知らなかった。

母親は一種の教育ママで、学校の成績に関しては異常な関心を持っていた。

成績が悪いと、殴ったりしたようだが、彼が中学三年の時、母親に暴力をふるい、鼻血が出るほど殴ったらしい。

何か歪んだ家庭教育が、彼を凶行に走らせるようにしたと思いがちだが、彼自身の特異な性格も影響しいるように感じられた。

自己顕示欲が強く、自分が優秀な人間であることを宣伝するに余念がなかった。

合唱コンクールでも、自ら進んで指揮者に立候補したのも、自己顕示欲の強さを表していたが、コンクールの結果はひどいものであったらしい。
しかし、彼が指揮者となったのは、反対すると怖いというクラスの生徒たちの思いからだったらしい。

自分をよく見せようとする自己演出には熱心だが、それとは裏腹に、内面は非常に自信のない不安定な心理状態だったらしい。

これらの行動や心から分析すると、自己愛性パーソナリティに属するということだ。

自信家と自己否定が同居し、自信のない分それをカモフラージュしようとする。

事例は、他に土浦通り魔事件佐世保銃乱射事件について取材し言及してある。

教員は一度は読んでおくと参考になると思う。

妄想性パーソナリティ障害

第一部は、事例であるが、第二部は妄想性パーソナリティ障害を多面的に解明する、第三部は五つのサブタイプ第四部は妄想性パーソナリティ障害は治るのかと題して記述してある。

本書は、副題として「現代日本の病理に迫る」とある。

現代はストレス社会と言われる。
日本は先進国中、自殺者がかなり多い。

こういうことも含めて考えると、子どもだけでなく、大人も含めて、病理を生みやすい環境について、もっと関心を持つ必要があると思った。





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posted by edlwiss at 15:44 | Comment(2) | TrackBack(1) | 教育問題

2012年07月18日

みんな幸福ならいじめはない(3)

kohfukuron.jpg
毎日の担任の言葉は大切。

朝、家を出るとき、玄関で見送って「車に気をつけてね」とひとこと言って送り出す。

簡単なことですが、子どもの心に大きく響くものだと思います。

すでに、書いたことですが、高等学校の吹奏楽部へ指導に行っているとき

「先生は、自分の言っていることが何でも正しいと思っているんですか?」

と怒った顔つきで、私に言ってきた女子生徒がいました。

他の生徒は、驚いた様子で見ていました。

私は、なんだろうと、ビックリしましたが

「自分が何でも正しいとは思っていないよ。だから、間違いがあってはいけないと思い、できる限り調べて教えているようにしているんだけど」

と言ったら、生徒は、それ以上は何も言わず帰りました。

翌日、またその女子生徒は私のところへやってきました。

「先生、きのうはすみませんでした。・・・朝、出るとき、母と喧嘩して気分が悪かったものですから」

と言いました。

私は

「そうか、そういうこともあるだろうね」

と言っておきました。

それからは、その生徒は私に対するサービスがよくなり、夏は「先生、お茶持ってきました」などと気を遣うようになりました。
そして、表情がよくなったような気がしました。

このあたりの年代は、デリケートなところがあると思います。

中学生では、心はもっと脆い感じがします。

親や先生のちょっとした言葉が、心には大きく響いているような気がします。

だから、朝の会で担任が生徒たちに話す言葉は大切だと思います。

まず、やる気をなくす言葉は禁物だと思います。

先生の方は、発破をかけるつもりで、も逆効果になっていることがあります。

嫌みや愚痴、朝からお小言は禁物だと思います。

今日は何かお小言があるかも知れないと、生徒たちは感じていることもあるでしょう。

そんな時は、あえて黙っている方がよいことの方が多いと思います。

しかし、先生の方はストレス解消でなんだかんだと、小言を言う人がいます。

「これから、一日が始まると言うとき、憂鬱になることは言わない」

これは、私が心の中で決めていたことです。

むしろ、明るい話題、ほめることを言う。

それにプラスして「人はみなそれぞれいいところがある。学校の成績だけがその人の価値ではない」ということを折に触れて言うことがいいと思います。

クラス対抗で、みじめな結果に終わっても「みんなよくやったね」と言った方がいいと思うのです。

しかし、性格でしょうか、どうも生徒たちに向かって、ストレス発散をしているように感じている人がいます。

朝の会では、生徒が元気になることを言う。

こんな簡単なことですが、毎日続くと、それだけてクラスがずっと明るくなります。
暖かい空気に包まれるようになります。

この場ではどういうのがベストなのか、それこそ、教育者としてのプロの自負があるのなら、考えてみて欲しいと思うのです。

部活の時、出席が少ないと怒る先生がいます。

「何で、こんなに少ないんだ!?」

怒りにまかせて、感情的になっていませんか?

逆でしょう。

出席が少ないときに、出席している生徒は感心な生徒です。出席している生徒が叱られるのは理不尽です。

「今日は少ないなあ、どうしてだろう。しかし、君たちは出席していて偉いなあ」

と言うべきだと思います。

私は部活で、練習の始めに、生徒を叱ったことがあります。

私:「君のとなりの○○君はどうしていないんだ?」

生徒:「知りません」

私:「自分の隣の人がいないのに、どうしてだろうという気持ちが起こらないなんて、音楽ができるはずがない」

と、このように、自分たちの仲間がいないとき「知りません」というと、叱りました。

だから、生徒たちは、誰かいないと「どうした?」と声を出すようになりました。

わからないとなると、探しに行ったりしました。

こういうことが続くと、探されるのも迷惑をかけるという気持ちが働いて、理由はわからないが欠席しているという生徒はいなくなりました。

毎日、先生がどう声をかけるか、これが全体の空気をよくも悪くもすると思います。

笑わない生徒がいないか観察する

先生にはユーモアが必要だと思いますが、たまには笑わせることを言ってみて、笑わない生徒がいないか観察するということをやりました。

それで、ダジャレを言うクセがついてしまいましたが、つまらんダジャレでも生徒たちは「つまらん」と言って笑います。

しかし、笑わない生徒がいるとしたら、何かあるのではと考えてみます。

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2012年07月17日

みんな幸福ならいじめはない(2)

ことが起こってから、あれこれするのではなく、不断からよい環境作りを。

私は、クラスの人間関係を掌握するために、ソシオメトリーの理論に基づき、人間関係構造図を作ることがよいと述べた。
しかし、人間関係構造図を作る過程での、ソシオメトリックテストを行う上で、これを問題にした人がいた。
このことについて、言及している人がいる。

このテストは、やり方に配慮しないと、つまらない誤解を招くおそれがある。
人格を傷つけないように気をつけなければいけない。

特に、一緒のグループになりたくない人を書かせるときに「悪い人」「よくない人」探しではないことを、よく説明する必要がある。

等質グループという考え方

こういう「等質グループ」という言葉を使うと、グループ全体の成績が同じと考えるらしい。

しかし、私はこの呼び方は好きではない。

「質」とは成績だけではないと思うからである。

好きな者同士を同じグループにすることが基本

みんな仲良くさせるために、仲のよくない関係をグループの中に入れることはよくない。

「なぜ、仲良くしないのだ」「なぜ嫌うのだ」と言っても、理屈で説得できるものではない。

好き嫌いに理由はないのだ。

嫌いな者同士をくっつけても、反発が強まるだけだ。

むしろ、仲良し同士のグループを作った方が「なぜ、嫌いなのだろう」という心の余裕が出やすい。

先生がグループ作りをすること

「好きな子同士が集まって、自由にグループを作りなさい」という方法が、いいようでよくないというのは、好き嫌いの関係がオープンにわかってしまうからである。

グループは構成人数が5人とか6人とか、決まっている。
そうすると、どちらのグループに所属したらいいかという迷いが出たとき、好きの程度に順位がついてしまうようなことがある。

このことが、私は順位が○○さんより低いのだというような、心の傷を作ってしまうことにもなりかねない。

それが「先生が作ったグループ」ということになると、そういう好き嫌いの順位のようなものが隠れる。

ここが、あえて人間関係構造図を作ってグループ作りは先生が行うという理由である。

元気が出すぎる弊害

こうしてグループを作ると、グループに所属することが楽しくてしょうがないという気分が高まり、集団の結束力やエネルギーは高まるが、グループに夢中になるあまり、他へ目がいかなくなるという弊害がある。

しかし、校外学習で誰かが知らぬ間に置いてきぼりになるということはなくなる。

今まで、誰からも誘われたことがない、自身も積極性はなかったという子どもも、グループの誰かが呼びに来てくれたなどの行動があって、保護者から喜ばれたという、校外での望ましい行動が現れたという報告もある。

このエネルギーの高まりを、望ましい方向に持って行くことが、教師の力量に任せられているとも言えよう。

-------------------------------------------------------------------------

クラスを担任したら、クラス内の人間関係を把握しておくことがなによりも大切と思います。

子どもの実態は、放課などの自由な時間に本当の姿がわかります。

子どもは放課が好きで、少しの時間でも好きなことをしてはしゃいだりします。

それが普通の子どもの姿だと思いますが、そんな子どもらしい姿が見られない子がいないか、よく観察していることが大切だと思います。

日記を書かせて、先生としての意見を書いてやるという活動は、多くの人が行っていると思いますか、そこに不自然さがないかも注意すべきです。

時には、先生も仲間に入って遊ぶことで、子どもとの親近感が増すということもありますが、子どもの世界がよくわかるということが大きな情報源です。

私は中学校の部活動でも、月一回、レクレーションの日というものを設けて、この日は生徒が自主的にレクレーションを企画して行うことにしました。

不断は見過ごしがちな子どもの姿を見ることができました。

このように、直接観察することは大切ですが、人間関係がどのようになっているか図に表すことで、さらに全体像がよくつかめます。

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posted by edlwiss at 21:55 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2012年07月17日

教員採用試験

先日、小学5年生のお子さんをお持ちの、お母さんとお話をする機会があった。
会合は教育に関するものではなかったが、雑談の中で出た話である。

担任の先生が「きまりは破るためにある」と子どもに言うとのこと。

お母さんの教師不信は顔色に出ていた。

教員採用試験では、一般教養、専門科目などいくつかの試験があるが、もっと基本的な社会常識を問う問題も出してもらいたいものだと思う。

[問題の例]
=============================================================

1.きまりについて、あなたは子どもに、どのような指導をしますか。
2.校長から来月の○月○日の研究発表会に、教育委員会から国語の専門のあなたを派遣して欲しいという依頼があったので、私もあなたが適任と思うので、職務命令として書類を渡しますと言われました。どうしますか。
3.地震などの災害があった場合、教員は児童生徒の生命を守るため、適切な対応をしなければなりません。
しかし、災害の状態によっては、児童生徒の集団の中に先生がいない場合も考えられます。
その場合A先生は次のような指導を児童生徒たちにしました。このことについて、あなたの意見をのべてください。

先生がいるときは、先生の指示に従ってください。しかし、万一、先生がいないという場合は、自分勝手な行動をしないで、学級委員の指示で行動してください。

=============================================================


この問題について、ある人は次のように解答した。

1.きまりは形式であるから、形式より中身が大切です。だから、必ずしも内容によっては、自分で必要ないと思えば、守らなくてもよいと指導します。
2.自分は子どものために授業をしていますから、授業を犠牲にするのはよくないので、授業のある時は、自分の判断で出張命令を断ります。
3.子どもの判断に任せるということは、子どもに責任を丸投げにして、先生が責任を放棄することになるので、子どもである学級委委員の指示に従うようにという指導は間違っています。


このような答えを書く人が先生になってよいだろうか?

教員採用試験問題集とか、専門科目の問題はできても、このような問題に対しては適切な解答が書けない人がいる。
こういうことが、学校不信を起こす原因の一つではないかと思うのである。

seisinkantei.jpg
すでに、採用された人でも、何かおかしいなと思われる人は、夏休みを利用して長期宿泊研修を企画して、だれかが、形式的な講義をするのではなく、生活体験を通してどのような判断をするのか診断をしたらどうかと思う。

「きまりは守らなくてよい」などと教える先生は、まずいだろう。
たまたま、冗談で言いましたとか、誰かが話の一部だけを切り取って、さも私がきまりを守らなくてよいと、子どもに教えているのであって、本心ではありません。というなら、ひとまずは安心だが、信念のように屁理屈をつけて変えないというのは、もう異常の部類と判断してよいのではないかと思う。

もちろん、冗談でも「きまりは守らなくてよい」とか「きまりは破るためにあります」などと教えることはよくない。

一番の問題は、一般常識以前の考えが誤っており、それが頭の中で固まってしまって、修正困難と考えられる者である。

教員資格認定にメンタルテストをと主張する人もいる。

社会が混乱するようなことを平気でできる人を反社会性人格障害者と言うらしいが、最近の教員採用にあたっては10%ぐらいはそういう人がいるのではないか、という人もいる。

精神鑑定は必要かも知れない。

類は友を呼ぶという言葉があるが、同じような者が共鳴しあうという現象も、なきにしもあらず。

知人に、精神科へ仕事に行っている人がいるが「あの○○の先生って、私が行っているところの患者さんよりよほどおかしいですよ」との話を聞かされたこともある。

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posted by edlwiss at 14:47 | Comment(6) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年07月16日

みんな幸福ならいじめはない(1)

幸福感を抱いていて、人をいじめようと言う人はいないのではないかと思います。

私は今話題になっているいじめが問題になる、ならないに関係なく、みんな仲良く毎日が楽しいという人生を送ってもらいたいと思っていたので、自分が団体のリーダーや責任者の時は、親密度には気をつかっていました。

子どもの場合、仕方なく学校へ行くのではなく、毎日が楽しく、また明日も明後日も学校へ行きたいという気分になれることを願っていました。

私ははじめ、小学校の教員になることには気が進みませんでしたが、いざ勤めてみると、たくさんの個性ある子どもたちの顔を見て楽しくなってきました。

sinrigaku.jpgグループ作り

グルーブ作りが必要なとき、私はソシオメートリーの理論で作りました。

はじめは「好きな子同士で集まって作りなさい」という方法でやっていましたが、これには疑問を持つようになりました。

子どもを観察していると、どうもしっくりしないと感じることがあったからです。

好きな子同士が集まっているはずなのだけど、どうも顔つきのよくない子どもがいる。

そこで、見つけたのがソシオメトリーです。

ソシオメトリーの理論によって、先生がグループを作るのです。

そして、子どもたちの前で発表します。

子どもは先生の決めたグループは嫌だと言います。

自分たちで好きな子同士集まって作る方がいい、日頃仲のいい子と一緒のグループになりたいと思っているからでしょう。

予想された反対です。

そこで

「とにかく、一応、先生の決めたグループで集まってみてくれないか、その後、君たちで自由に変えていいから」

と言います。

そして、グループごとに集まってみます。

そして

「変えてもいいんだけど、変えたいという意見あるかな?」

と聞くと、誰も手を挙げません。

雰囲気を見ても、悪くありません。

もちろん、その後もグループの行動を注意深く観察します。

周辺児、孤立児

ソシオメトリーのいいところは、周辺児、孤立児が発見できることです。

クラスには、乱暴で嫌われるという子どもがいたりするものですが、実はそういう子どもより、周辺児や孤立児の方が問題があるということがわかってきました。

周辺児や孤立児は誰からも関心を持たれない子どもです。

特に他の子どもたちから無視されているわけではありません。

眼中にないということです。

周辺児や孤立児はおとなしいです。悪さもしません。

乱暴で迷惑をかける子どもは、嫌われますが、みんなの関心はあるわけです。

集団の中にいて、ほとんど関心を持たれない子ども。

そういう周辺児や孤立児と言われる子どもが、大人になってびっくりするような大事件を起こすことがあるという研究があります。
(必ずそうなるというわけではありません)

それは、社会から注目を引くために、大勢が注目するような大きなことをしたい、と言う欲望を持っているからということです。

グループ作りをして、そういう子どもが他の子どもから声をかけられたり、自分から何かをするようになるかどうか見守る必要があります。

集団の構造図を頭に描いて、実践の中で、いつも確認する

クラスがいくつのグループから成っているかを、構造図に表してみると、クラス全体を掌握しやすくなります。

大勢の子どもが少なく感じるようになります。

教師がどこに介入すべきかということも、よくわかってきます。

教師はすべての子どもを幸福にするという決意で毎日を取り組むべきだと思います。

それには、人間関係をよく捉えておくことが大切だと思います。

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posted by edlwiss at 23:46 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年07月16日

部活動は大切

bukatu_seito.jpg私の経験したことをもとに、記事を書きます。
「教師は実践者でなくてはならない」この言葉を常に重く受け止めていました。

実践をしない人の意見は信用しません。
それは、やってみないとわからないからです。
まして、学校の教師は演説することが仕事ではないはずです。

指導とは何か?
この簡単な言葉に対して、何を感じなければならないか?
やはり、具体的に「実践」をしなければ話にならいと思います。

もちろん、いきなり何でもいいからやるのではなく、考えてやらなければいけません。
考えだけでもダメ、なんとなく実践もダメということです。
考えて実践し、実践した結果を反省し、次に生かすこれの繰り返しです。

よい教育をするには子どもをよく知ることから

よい教育と言っても、簡単にできるものではないと思いますが、子どもをよく知らなければできないと思います。

それには、教室で座っている姿だけでは、子どもをよく知ることができません。

私はクラスを平和にすることは、担任の務めとと思っていましたから、何となく不穏な空気を感じた時は、中学校でも、小学校と同じように放課も教室にいました。

すると、放課の子どもの動きを見て、ただ座っている授業中とは違う姿を見ました。

子どもは放課になると生き生きとしています。

部活動も指導の場としては有用

部活動は課外活動で、指導体制が完備されていないと言えますが、子どもにとっては生きがいとも言えます。

部活動があるから、学校へ行くという子どももいると思います。
そういう点では、正課、課外を問わず、子ども側から見たら有用といえます。

指導する先生の問題がありますが、非常に卓越した特技を持っている先生が、その特技を生かして子どもの指導にあたることは意味があると思います。

そこは形式論を盾にとるのではなく、先生は自分の持てるものをすべて使って、子どもを育てるという意識が大切だと思います。

もし、自分が部活動を教えるような特技がないからと言って、部活動を指導している先生への批判、課外活動という側面だけ強調するのはみっともないと思います。

もちろん、本業である教師の仕事をおろそかにしてはいけません。

有能な指導者なら、部活動だけで本業に手を抜いていると言われないほど、どちらもしっかりやっているように思います。

また、部活動という言葉だけで一括するのではなく、部活動の中にある意義ある指導面にも注目する必要があると思います。

部活動が中途半端な指導にならないように

部活動こそ命で、自分の趣味を実現するだけという指導はどうかと思います。

部活動で子どもを指導するなら、一人一人の子どもの生活、将来も考えて、その子どもが幸福になるように考えて指導すべきだと思います。

勝つことだけしか頭になく、子どもを試合の戦力だけとしか考えないような活動はどうかと思います。

学業でふるわないが、スポーツで能力を発揮し、進学できたというのは、部活動のよい側面でしょう。

私も吹奏楽部指導していましたが、学業がふるわず、経済的に進学は難しいという生徒を、楽器の演奏が上手になったので私立高校へ授業料免除の特待で引き受けてもらったことがありました。

ただ、部活動だけに夢中になるのではなく、全人教育ととらえて、子どものデータを常に把握し、中学校であれば特に、この生徒の進路はどうするかということまで面倒をみる意識が、指導者には必要と思います。

そうすることで、人間関係の向上もできるし、いじめなどの問題を未然に防ぐことにもなると思います。

教育制度の改革で選択肢を広くしてほしいと思う

芸術やスポーツの報道を見ると、活躍している年齢層が、昔より低年齢化していることがわかります。

これは、今まで想定していた年齢より、人は早期に才能を発揮するということがわかってきたと言えます。

だから、学校は午前中ぐらいにして、午後は市町村が用意した専門家による社会教育へ参加するというような改革をしてもらいたいと思っています。

今やなくてはならないパソコンも、プログラミングの勉強を大学へ入ってから行うのでは遅すぎます。
中学生ぐらいからから勉強できる環境の整備がほしいと感じます。

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posted by edlwiss at 11:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年07月15日

子どもはなぜ荒れるのか(2)

小学生から中学生へと次第に大人に近づいていくに従い、自分の夢が実現しそうかどうかがわかってきます。
もちろん、中学生ぐらいの段階で何でも決まってしまうものではありませんが、スポーツや芸術に関してはプロになれるのかどうかというのは、かなり見えてくることがあります。

努力は大切ですが、努力すればだれでもプロ野球の選手になれるというものでもありません。
やはり生まれつき持っている素質というものは影響してきます。

それで、挫折を味わったりするわけですが、問題はその先、どうやって自分の道を見つけていくかということです。

だから、教育は選択肢を広くとれる方向に改善していくのがよいと思います。

そう考えると、今の学校(特に公立)は選択の幅が狭いと思います。

教科の点数主義に縛られ、あまり個性を伸ばすチャンスがないまま、同じ路線を走ることを強制されているような気がします。

学校は思い切って、午前中にし、午後は市町村の社会教育のいろいろなコースを選択するようにしてはどうかと思います。

スポーツや芸術の才能のある子どもは、学校が終わって夜練習にいかなくて済むようになります。

今の学校教育は、優れた子どもは足踏みさせ、できない子どもには劣等感を与え、コースから外れた場合あまり面倒をみないという感じになっていると思います。

これは、均一な、ある程度能力の揃った人間をオートメーションで排出していくようなイメージがあり、出口からは粒の揃った製品を排出するようでもあります。

なぜ、こういうシステムなのだろうと考えると、これは軍隊を養成するシステムみたいではないかと思うのです。

日本に軍隊はないのに、軍隊を養成しているみたいです。

いや、銃器などの訓練はありませんが、企業の戦士と言えるのかも知れません。

軍隊は落ちこぼれた者は知らないというシステムではないでしょうか?

だから、このシステムからこぼれた者は、捨てられたと感じてしまうのではないかと思うのです。

「ひとりひとりを」とか「生きる力」とか教育の場ではよく目にしますが、ただのスローガンだけで、系統性を感じることができません。

簡単に言えば、中学校には入って、定期テストの成績が悪い者は「落ちこぼれ」という感じになっているわけです。

そうではないと言いたい人もいるのでしょうが、子どもの気持ちはどうなんでしょうか?

仲間から抜け出るのも大変

いわゆるワルの仲間から抜け出ようとする者もいます。
しかし、これが簡単にいかない場合もあります。

大人の団体の中にも、入るのは容易だが、辞めたいときは簡単にいかないと言うものがあります。
「簡単には辞めさせないぞ」という心理があるのでしょう。

私はワルから抜け出ようととしていた生徒を支援したということを、以前、ブログに書きました。
抜け出たいというサインを感じたので、一生懸命応援したのですが、その時の気持ちは、正直なところ「先生は頼りにならないと思われたくない」ということでした。

仲間から抜けたいという生徒を、下校時に待ちかまえて石を投げたり、つかまえていじめをしたりします。
それを止めなければ、いやいやでも戻ってしまうことになります。

それで、学校から家まで車で送ったりしました。

いじめのいやらしさとの根比べと言えます。

仲間があきらめるまで、こちらは生徒を守らなくてはなりません。

私はそういう仕事を嫌だと思ったことはありませんが、先生はみなそうすべきだと、強制できることではないような気がします。
だから、一体、先生の仕事とはどこまでなのかという疑問も持つわけです。

子どもは悩んでいるが、最後の救いは先生の気持ち

夢が実現しないと感じたときの、子どもの行動には個人差があります。

いや、子どもの行動と言いましたが、大人も同じでしょう。

自分の人生が嫌になったと言って、酒の力を借りる人。
この程度ならあまり人に迷惑をかけることもないでしょうが、自分一人だけ死ぬのは嫌だからと言って、車で暴走したとのニュースもありました。

子どもが一番恐れているのは、悪いことをしながらも大人(先生)に見捨てられることだと私は思いました。
これは、私が経験して感じたことです。

夜中の2時過ぎまで職員会をやっていたことがあったと言いましたが、生徒たちの悪さに怒りが納まらないという人もいました。

彼らには卒業証書を渡さないという意見も出ました。

「それは、いくら何でも重すぎる」

との意見がありました。

義務教育ですから、中卒の資格がないというのは、大きなハンディになります。

「気持ちはわかりますが、私は、あの子たちのやることを見たら許せません」

と泣いて訴える女の先生もいました。

すべての顛末は、長くて書けませんが、卒業式が近づいてきた頃、卒業式には警察を頼むかどうかという判断に迫られました。

卒業式の予行演習の時、ほとんど終わり近くで、ステージの奥右の方から「ちょっと待ってください」という声が聞こえました。

みんなが、なんだろうと思っていると、一人の男子生徒が壇上に近づき「みなさん聞いてください」と言って、用意してきた紙を出して、今までの非行について「さんざん悪いことをやってきたけど、何もおもしろくなかった・・・」と読み始めました。

反省文です。

それを聞いていて、泣き出す人もいました。

そして、今まで曇天で憂鬱な空が急に晴れて、一気に平和がやってきたような雰囲気になりました。
まるで、ドラマのようですが、本当にそういうことがあったのです。

事態がよくなるなどと誰も予想しなかったでしょう。

当然、卒業式には警察を呼ぶという人もいませんでした。

卒業式の日には、彼らと一緒に記念写真を撮ったりしました。

言葉にすれば簡単なことですが、結局、先生たちは怒りながらも、生徒たちを見捨てなかったという気持ちが通じていたと思います。

その時のリーダーは、現在、中小企業の社長をやっています。
リーダーシップがとれるという器を持っていたのでしょう。

同窓会の時は、役員の一員として中心になり、同窓会名簿の広告に会社が載っていました。

事実は小説より奇なりといいますが、有名ななったテレビドラマよりずっと深い経験をしたような気がします。

心が伝わる方法でなければ改善はできない
と身を持って感じました。

管理、取り締まりはだめだと思いました。

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posted by edlwiss at 18:35 | Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2012年07月15日

ヒラメ教師が隠蔽体質を生む

hrame2.jpgお断り。
これから書く記事は、現在、巷で話題になっているできごとについて、論評するものではありません。
直接現場で取材しないで、憶測で語ることは関係者にも失礼であり、不遜な態度と思うからです。
すべては、私が直接体験したこと、そこから感じ取ったことをもとに書きます。

ヒラメ教師とは、魚のヒラメのように目が上を向いている教師のことを言います。
目が上を向いているとは、常に出世のことを考えていることを意味します。
そういうことから、出世欲の強い教師をヒラメ教師と言っているわけです。


ヒラメ教師が隠蔽体質を生む理由

出世を考えているから、減点のないことを考えるわけです。
減点で大きく目立つのは事故です。だから、少々のことは表に出ないことにしたいという心理が働くわけです。
仮に何かまずいことが起きていても、自分が担当している間だけは大事にいたらなければよいということです。
うまくゴマをすっておいて、数年のウチに栄転させてもらおう、または確約を得ておくということです。

ガンという恐ろしい病気がありますが、誰もがガンにはなりたくないと思っているでしょう。
例えば、血便が出たとしたら、ドキッとしますが、これは痔なんだ大したことはないと思いたいわけです。
しかし、本当はガンが進行しているのかも知れません。
でも、大したことはないと自分に言って聞かせて、人にも語りたがらない人もいるでしょう。

初期のうちに、検診をしたら進行は防げたかも知れません。
それを、大したことではないと隠すことによって、ついに取り返しのつかないことになるわけです。

学校内のいじめ問題も、これとよく似ていると思います。

誰かから大丈夫かと聞かれても「大したことはないですよ。ちょっとしたいざこざ喧嘩です」と返事をするわけです。

上ばかり見ているから下が見えない

本当に日々の教育実践に熱心なら、いつも児童生徒の様子が気にかかるはずです。
しかし、心は常に「上」ですから、上のちょっとしたご機嫌取りには熱心だが、児童生徒の変化には気がつきにくいわけです。

これは、家庭においても言えることです。

私の子どもの頃は、夕食は特別のことがない限り家族が揃っていました。
母親が「お前、今日何かあったの?」と聞くことがありました。
「別に」
「いやおかしい。何かあったでしょう?」
「どうしてわかるの?」
「顔に書いてある」
と言われたものです。

親はいつも子どもの様子に敏感だったわけです。
ところが、今日では、できないわけでもないのに、揃って食事をすることに関心がない家庭もあるようです。

校長になればあと数年でめでたく定年退職

いろいろ(出世に)努力して、やっとつかんだ校長の地位、ここまでくれば、あと数年何事もなく過ぎれば円満退職。退職金も入って、悠々自適というのが、正直な心理でしょう。

だから、学校内のまずいことは、なるべく「大したことはない」と思いたいし、何か起こったら、退職までは持たせたいと必死に隠す努力をするわけです。

なんと、わざわざいじめの原因を作っている校長もいました。
信じられないでしょうが、作り話ではありません。

その中学校では数人、登校しない男子生徒がいました。
不登校ではありません。
非行を働く生徒たちです。

始めは学校に来ていましたが、街で何かやっていた方がおもしろいと感じるようになったのか、学校に来なくなったのです。恐らく、家は出るもののゲームセンターへ行っていたと思われます。

校長は、点数稼ぎのために、教育委員会に、ウチの学校は不登校の生徒はゼロという報告をしたかったわけです。

そこで、あれこれ策を練って、悪たちを登校させるようにしたのです。

ところが、登校するようになった悪たちは、校内で悪さをするようになったのです。

つまり、いじめが起こるようになったわけです。

それまで、いじめをする生徒がいなくて、学校は平和だったのに、いじめをする生徒が登校するようになって、いじめが起こるようになったのです。

困った生徒たちは、校長にも、何とかしてくれるように頼みに行きましたが、校長はのらりくらりと交わすだけで何の対策も取りませんでした。

人が死ぬほどのことはなかったせいか、表面には出ませんでした。
そのうち、校長は栄転していきました。

校長の中には教育長の椅子をねらっている人もいる

zonbi.jpg校長という地位は、一応、公平を装うために、校長試験というのがありますが、実体は形骸化しています。
わかりやすく言えば、バカでも通る仕組みになっているわけです。

だから、校長になるには、いくらいくらいると考えている人もいます。
上の方から、どこそこへ付け届けをしたかと確認されることもあります。
親切かも知れません。
「私は付け届けをしたことがありません」と言ったら「それじゃあ、絶対に校長は無理だ」と言われた人もいます。

また、あの人は500万で校長職を買ったと噂されていた人もいます。

教育委員会は組織として、教育委員長がトップということになっていますが、事実上のトップは教育長です。
教育長は人事権を持っています。
だから、教育長になるやいなや、自分の息子や娘を栄転させる人もいます。
人事のお願いに訪れる人もたくさんいます。

教育長は推薦でなれますから、投票権のある人、影響のある人にずいぶんプレゼントが行われていました。

教育界の腐敗の頂点は教育長職にあると思います。
だから、教育長の職は公選制にすべきだと思います。

-----------------------------------------------------------------------------

仕事は教育の仕事なのに、やっていることは全く正反対となると、人の人相は変わってくるようです。
まず、表情がなくなります。

人の不幸や心に鈍感になるようです。

こういう顔つきを見て、私は思い出したことがあります。

かつての労働厚生省の官僚の顔です。
薬害エイズが問題になったときの。

薬害エイズに関する重要な書類が、ある、ないで問題になったことがありますが、官僚は書類をかくしていました。
ところが、菅直人厚生大臣が、官僚のいる前で「ここにあるじゃないか」と出させたことで、菅直人・氏の人気が急上昇しました。

知らせないと、人が死ぬかも知れないという書類を官僚が隠していたのです。

その時の官僚経験者が退職してから「あのときは、書類はこのまま閉まって、発表しないことにしました」と平然と語っていました。

人が死ぬかも知れないというのに、全く動じないという表情でした。

人は出世ばかり気にして、ヒラメになると、表情がなくなるばかりでなく、人が死ぬかも知れないということに心も動かなくなるのではないかと、思うようになりました。

ヒラメ化すると、人はみな同じような顔になっていくように思いました。

映画で見る、ゾンビがゾンビ化されるようでもあります。

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posted by edlwiss at 14:19 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年07月15日

子どもはなぜ荒れるのか(1)

最初にお断りしておきますが、これからブログに書くことは、現在、話題になっている事件等について論評する者ではありません。

しばしば、断っていますが、話題の事件については、私が現場にいたわけではありませんので、さもわかっているように、決めつけたように意見を述べるのは不遜な態度と思っているからです。

だから、自分が実際に経験したことから考えたことを書くことにします。

小学校までは元気で明るかった子どもが、中学校に行くと、なぜ人が変わったように荒れてしまうのか?
(もちろん、すべての子どもがそうだと言うわけではありません。中には短絡的な考え方をする人がいるので、あらかじめ断っておきます)

人は誰もがいい人生を送りたいと思っているでしょう。

小学生の時は、あこがれの選手のようになりたいとか、子どもなりに考えているものだと思います。

しかし、野球少年の誰もがイチロー選手のようになれるわけではありません。

思春期の中学生の頃になると、あこがれと自分との乖離が次第に明らかになってくるものと思います。

まず、成績のことが気になります。

たかがペーパーテストですが、この成績が子どもの心には大きくのしかかってきます。

ペーパーテストが人間の価値をすべて決めてしまうものではないですが、中学生の心には重くのしかかるものだと思います。

まして、順位をつけられ、300人中300位と結果を出されたらどうでしょう?

ショックを受けるでしょう。

教室で、淡々と順位表を受け取って結果を見る。この状況ではあまり変化を知ることができません。
時に、中学生のころは、自分の本心を打ち明けるということが容易ではなく、親にも先生にも語らず、友だちだけに話す。つまり、中学生が心のよりどころとして、一番話しやすいのが友だちであるということです。

そういうことでは、中学生は閉鎖的であると言えます。

本当なら、親や先生の方が人生経験が多く、相談されたらいい助言ができるはずです。
しかし、なかなかそうはいかないというのが中学生の心理だと思います。

もし、先生に困りごとを相談してくる生徒がいたとしたら、それはすばらしい先生だと思います。

私は相談ではなく、抗議の手紙を受け取ったことがあります。

机の上に封書がおいてありました。
それを開けて読むと、中には、私のやり方に対する抗議の文章が書いてありました。
「人間的でない」なんて言葉もありました。

私としては、そんなつもりではないと思っていることがいくつかありましたが、私は内容に腹を立てるという感じにはなりませんでした。
むしろ、怒りを率直にぶつけてくるということで、近い感じを受けました。

そして、これだけのことを書くにはずいぶん勇気がいったことだろうと思いました。

さて、これをどうしたらよいものかと考えていたら、修学旅行が近いことに気づきました。

それで思ったことは、先生に抗議したことを気にしながら修学旅行に行ったら、きっとおもしろくないだろうなと思い、私はその生徒(女子)を読んで、私がいろいろ、いたらないところがあって悪かったと謝っておきました。

生徒はどんな感じを持ったのかわかりませんが、黙って帰っていきました。

私は文句でも何でも、生徒が直接言ってくることはよいことだと思っています。

この手紙をくれた生徒は、成績はかなり優秀な生徒でした。

一方、二年生のころから徒党を組んで悪いことをするようになった生徒(男子)のリーダーを受け持ったことがあります。
彼は相談はもちろん、抗議に来た、手紙を出したということはありません。

彼の進路調査に記入してあるところを見ると、入学直後に書いたものから、次第に夢が小さくなってゆくのがわかりました。
始めは進学の大きな夢を持っていましたが、それが小さくなっていったのは、成績のこともあるでしょうが、家計的に無理と感じていたと思われます。
彼が最後に書いた進路希望は「定時制」でした。

8人の徒党を組んで、悪さをしてまわり、オートバイ盗などをして何回も警察のお世話にもなりました。

生徒が次第に退行していくと、オートバイに興味を持ち出すというのは、多くの先生の知るところだと思います。
昼間の明るいウチに、オートバイに目をつけておきます。

鍵がつけっぱなしのオートバイを発見すると、鍵だけ抜いて盗んでおきます。

そして、夜になってその鍵を使ってオートバイを盗むわけです。

このようにして、生活がだんだん夜型になります。

だから、学校へは遅く投稿します。
だいたい10時半頃というのが多かったと思います。

給食室の食物が足りないという報告が、ちょくちょくありました。

何だろうと思ったら、遅く投稿してきた生徒たちが入り込んでつまみ食いをするからです。
特にバナナなど果物がよくなくなりました。

醜いことですが、人は他人の不幸を見ると嬉しくなるという心理があると言われます。

しかし、自分が幸せであれば、そういう感情も起こらないと思いますが、人並みに進学もできないなど、夢を絶たれたと感じている生徒にとっては、普通に進学できるような生徒をうらやましく思うことでしょう。

そういう気持ちになると、それらの生徒が何らかの不幸に陥ることが快感になるのだろうと思います。

そこで、なるべく手を出しやすい弱そうな生徒が、いじめの対象になります。

弱そうな生徒で、特に家が裕福で、何の苦労もなく進学できそうな気がするとなれば、余計に対象になりやすいと思います。

ともかく、誰かが悲しんでおれば気が休まるという心理なのでしょう。

こういうときは、すでに動物虐待も行っている可能性があります。

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posted by edlwiss at 00:18 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年07月14日

Broken Windows 理論

パソコンのwindowsのことではない。

Broken Windows 理論とはBroken Windows Theory(割れ窓理論)はフリー百科事典「ウィキペディア」を参照のこと。
割れ窓理論(われまどりろん、英: Broken Windows Theory)とは、軽微な犯罪も徹底的に取り締まることで凶悪犯罪を含めた犯罪を抑止できるとする環境犯罪学上の理論。アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリングが考案した。「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」との考え方からこの名がある。ブロークン・ウィンドウ理論、壊れ窓理論ともいう。

実際、山道で故障した車を放置して帰り、再び訪れたら、ライトを始めとして次々と部品が剥ぎ取られていた経験をした人もいる。

完全な状態の車には、なかなか手を出しにくいものだが、故障で野原に放置されている自動車は、さらに壊される。

楽器も、金管楽器は取り扱いの不注意でヘコむことがある。
少しのヘコみでもそのままにしておくと、楽器がヘコむことにだんだん無頓着になるらしい。

落書き消しに取り組んだ

一体、学校の先生の仕事とはどこまでの範囲を言うのだろう。

暴力を振るってくる生徒がいたら、それを制止する責任まであるのだろうか?
そういう場合、逃げたら職務怠慢となるのだろうか?

身の危険を感じて、護身用のナイフを持っていて、生徒を刺したという事件があったことを紹介した。
これは、どういう扱いになるのだろうか?

警察官の場合は、身の危険を感じたら銃を使うことが許されている。

先生はそういうわけにはいかないから、危険な時はすぐに警察に通報することかいいのか?

いずれにせよ、危険な場所に遭遇したくない気持ちから、なるべく回避しようとする行動は咎められるべきか?

つまり、先生はどんな問題に遭遇しても、指導する責任があると言えるのか?

「先生は子どもの犠牲になるべき」とバカなことを言っていた人がいた。
(この人は、現役の先生ではないでしょうね?)

身を呈して、特攻隊のように命の危険も顧みず対応せよと言うのか?
もし、そういう先生がいるとしたら、自らお手本を示してもらいたいものだ。

まあ、前線に出る可能性のない人は、どんな無責任なことでも言えるのだろう。

少し、横道にそれたが、私は何かできることから行動を起こそうと思い、学校中の落書きを消そうと思った。

少しぐらいの落書きはいいと思っていると、落書きはどんどん増えると言うか、すでに相当に派手な落書きが学校のあちこちで見られた。

それを私は片っ端から消して回った。

考えてみれば、落書きを消すということは、誰にでもできることである。

だから、こういうことはやって欲しいと思う。

あれた学校でも、吹奏楽部の練習をしていて、演奏がよくなっていくと練習場所がきれいになっていく、とういうことは、以前のブログにも書いたことがある。

きれいになるだけでなく、椅子のほころびが補修してあったり、花が飾られたりするようになる。

逆に、環境をきれいにしていくということは、人の心によい影響を与えていくという気もする。

無責任な情報を流さない

news_utagae.jpg
無責任な情報とは、根拠のない情報である。

大津で起こった事件は大変なことだが、私は安易なコメントはしない。

それは、私は現場で直接取材していないからだ。

だから、この事件について何らかのコメントをする人には「それはどうして言えるんですか?」why
「どこからその情報を得ましたか?」where

と問うて、返事がないものは無責任、信用に足るものではないと思う。

情報源がマスコミであったとしても、それは伝聞と同じだ。

根拠を問われて、自分が直接取材したものではなかったり、伝聞だったりしたら、名誉毀損で訴えられる可能性もある。

それほど、この種の出来にはデリケートなところがあると思う。

ある国会議員は「新聞はウソを書く」と、怒りを込めて訴えていたことがある。

私は何を馬鹿なことをと思っていたが、実際に自分も経験してわかった。

天下の大新聞が、全く取材をしないで記事を書くことがある。

報道は、意図的にある方向に誘導する場合もある。

その記憶がまだ醒めやらないのは、松本サリン事件だ。

河野さんは、マスコミの報道によって危うく犯人にされてしまうところであった。

「ニュースを疑え」を忘れてはならない。

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(つづく)

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posted by edlwiss at 16:38 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2012年07月13日

それぞれの立場

まさかの友こそ真の友という言葉がありますが、平和な時には人の真意、心はわかりにくいものだと思います。

しかし、非常時には人の心が表にでることがあります。

言い方を変えれば、人は非常時に試されているとも言えます。

人に親切にしてあげたいと思っても、そういう行為を純粋に褒める人もいれば、売名行為だという人もいます。

小学校に赴任している時、グランドピアノを寄付してくれた人がいました。

寄付した人から強く、念を押して言われた言葉は「決して寄付した者の名前を出してくれるな」ということでした。

立派な音楽室を見て、ピアノがないことを残念に思っていた人だと思います。

いいことをするにも勇気がいる

十人十色と言って、人はいろいろなことを言います。

だから、純粋にいいことをしようと思ってもためらう人がいるのではないでしょうか?

私が職員室に閉じこもらないと決めたのは、閉塞感のある状況で、私としては一生懸命出した結論です。

組織の中にいて、人の行動を縛るものに「独断専行」というものがあります。

会議を経ないで勝手に行動するなということですが、誰かが目立った行動をすると、この独断専行という言葉を持ち出して、批判する人がいます。

傾向としては、そういう人に限って「口先だけ」のことが多いように思います。

独断専行とは「勝手にやるな」ということですが、教師自身が生徒に対する時、そういう雰囲気を持っていると、子どもの自主性は伸びないように思います。

「この先生は何でもやらせてくれる」

と子どもが感じると、子どもは予想もしていなかった良いことをすることがあります。
時にはよくないこと、失敗もあるかも知れませんが、どちらにしても「自分で考える」という力はつくと思います。

「任せる」ということは、相手を信頼することでもあると思いますが、相手を信頼しない人が意外に多いのには驚いてきました。

「見ていないところでは、ズルいことをするかも知れない。サボるかもしれない」

そういう考えが基本になってプランを立てている人がいます。

「自分が相手を信頼しないと、相手も信頼しない」

こういうのをミラー現象と言います。
つまり「自分が考えたり思ったりしたことは、相手もそう考えている」というのが、ミラー現象ですが、これを間違って理解している人がいます。ある人は、しっかりとROM頭にインプットされているせいか、訂正不可能なようです。

私は、教育の第一歩は子ども(児童生徒)を信頼することだと思います

その際、安全だけは気をつけなければいけません。

しばしば、例に出しますが、田中熊次郎氏の講演を聴いた時「子どもが自由に泳ぎ回れる、教材の池がなくてはならない。そういう池のない授業をイケナイ授業と言うのです」と言われた言葉が耳に焼き付いています。

不信感や猜疑心ばかり持っている人の範疇では、子どもは伸びないと思います。

一方、前のブログで挙げたように「自分は何のために仕事をしているのか」と問われたら「特に何をということはなく、何事もないのが最良」と答えるのではないかと思われる人、つまり「何かあることを常に恐れている教育委員会」のような人もいるようです。

安定志向で公務員、それで教員とただそれだけが目的の場合は、そういう考えに行き着くのかも知れません。

それだけでなく、その上に出世志向が入ると、さらに泥臭いものになります。

独断専行をした時の人の目

(1)自分もそうすべきだと思ったが
(2)余計なことをしなくても
(3)自分だけ目立ちたいと思っているんだな

非常時の行動を見る目は、上記の3つでしょうか?

ある先生が、生徒に言われた、くやしかった言葉と言うのがありました。

「先生はヤクザに注意ができますか?」

と言われたことだそうです。

そういえば、運転中に、前が開いているのにも関わらず進まない車に、催促をしたら、運転手が降りてきて、いきなり銃で打たれたという事件がありました。

相手がヤクザとわかっていたら、催促はしなかったかも知れません。

生徒にすれば「俺たち生徒には悪いことを注意するのに、ヤクザの悪さには注意できないだろう」ということなのでしょう。

ヤクザでなくても、構内で徒党を組んでいるいわゆるワルと言われている生徒たちには、注意をしないという傾向があります。

こういうところは、他の生徒たちが不満に感じることでもあります。

なぜ注意しないか?

答えは簡単です。

怖いからです。

ワルたちに注意はしないで、注意したい生徒に注意するということで、生徒たちの不満は増幅されるようです。

ではどうしたらよいのでしょうか?

いずれにしても、自分は前線に立ったことのない人、立とうとしない人、それでいて口だけで空想を言っている人が、最も軽蔑する人だと思っています。

毎日のように震災復興のニュースが流れています。
災害に遭った時、被害者を救出するために、超法規的措置をとったからと言って、独断専行だと言って避難できますか?

がれきを運ぶために、トラックを購入しようとしたら「車庫証明がないから許可できません」とか、がれき撤去車が公道を走ることが許されていませんから、通行許可できませんと答えた役人がいると言う。

まるっきり、人間的な感情を持たないサイボーグのような人もいるもんだと思いました。
もしかしたら、宇宙人かも?
キリスト教徒はサタンだと言うかも?

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(つづく)

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posted by edlwiss at 10:57 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年07月12日

職員室に閉じこもるな

「職員室に閉じこもるな」これは、私が自分自身に言って聞かせたことだ。

学校の雰囲気が悪いと、先生たちは職員室にいる時間が長くなる。

恐れていることがあるからだ。

何を恐れている?

(1)職員室から出ると、生徒が生徒をいじめているところを見るかもしれない

(2)自分も暴力を振るわれるかもしれない

(3)勇気を出したところで、教育行政の支援が期待できるか?

この3つが、職員室から出たくなくなる理由だろう。

断っておくが、一般的にそうだと言っているのではない。
自分自身が現場で感じたことだ。

(1)職員室から出ると、生徒が生徒をいじめているところを見るかもしれない

こういうところに遭遇したら、どうする?
制止できるか?
いじめの現場を先生に見られたらやめるレベルならいい。
状況が悪くなると、先生が見ていても平気でやっている。
逆に、何かあるのかという態度をとる。

こういうところを、勇気を持って割って入って暴力を振るわれたことがあるのだろうか?
自衛していた先生がいた。
その先生は生徒がむかってきたので、用意していたナイフで生徒を刺してしまった。
この事件は、昔、報道された事件だ。

見たくない場面に遭遇したくないので、職員室から出たくないのだ。
警察官のようにピストルを所持していれば、正当防衛でピストルが使える。
先生には何も防御するものがない。

実際、過去に私が某中学校に赴任すると決まった時「あそこだけはやめた方がいい」と真剣に忠告してくれた人がいる。
その中学校は、ある事件で警察官が出動し、逃げる生徒を追いかけ、行き先で警察官が実際にピストルを発射したことがあった。それで有名になった。

とにかく、悪い現場を見ないほうがいいのだ。

(2)自分も暴力を振るわれるかもしれない

すでに述べたが、襲いかかってたきた時はどうする?
先生には何も防衛手段がない。
格闘技を覚えて、防衛したところで、生徒を傷つけたら相手は未成年だから、めんどうになる可能性は高い。
裁判になる可能性もある。
実際、手を焼いている生徒でも保護者である親は、子どもを傷つけられたら裁判に訴える可能性はある。

(3)勇気を出したところで、教育行政の支援が期待できるか?

再度、断っておくが、私は実際に体験したことを書く。

教育行政とは教育委員会のことである。

先生が勇気を出して、いわゆるワルたちと対面してめんどうになった時、支援してくれるかということである。

某市の教育委員会は情けなかった。

事件ではないが、市民のために文化的活動を企画し、案を持って行ったら、返事が「何かあったらどうするのだ!」というものだった。

つまり、教育委員会は、何ごともないことが一番いいことだと考えているらしい

だから、いいことを考えてやってくれるなんてことを、考えてくれるな、余計なことだ。何かめんどうな事が起こる可能性を高めるだけだ。

ということのようだ。

自分たちは、何ごともなく数年過ごして、どこかへ栄転しということを考えているらしい。

教育委員会はあてにならないと思い、市長へ直談判に行った。

こちらは、即「それはいい」と言って、予算を満額認めてくれて、すぐ実施ということになった。

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それでも、職員室に閉じこもらない決意をした

ワルたち以外に目を移すと、生徒たちは先生たちの心理を感じとっていたように思う。

学校が荒れていても、先生たちは頼りにならないとという空気を感じた。

生徒たちの中に、不安や問題はあっても先生には話さない。
先生はあてにならないと思っているからだ。

こういう状況では、情報は入ってこない。

それでも、職員室から出て放課も教室の机で仕事をするようにした。

始め、生徒たちは違和感を感じたようだ。

「うざい先公がいる」

という感じかもしれない。

しかし、毎日のように繰り返していると、生徒たちは気にしなくなった。

そして、教室の中が何か平和な空気になったような気がした。

ある日「生徒が話してもいいかな」と思ったのか、ワルたちがいじめの計画をしている情報を教えてくれた。
通報した生徒にとっても勇気のいることだと思った。
次は「なぜチクった」と言われ、自分がターゲットになるかも知れないからだ。

私は、よくぞ教えてくれたと思ったと同時に、期待に応えなければと思った。

そして、いじめの実行にかかる前に、邪魔をしに行った。
当然「いじめをするそうだな」なんて言わない。
チャンスを喪失させるための邪魔に行ったわけである。

興奮した生徒と喧嘩になった。
その生徒は、グループの中で、特攻隊と呼ばれていた。

殴りかかってくる生徒の腕を掴んだりしていると、大勢の生徒が遠巻きにして見ているのがわかった。
先生は誰も来ない。

しばらくやりあっているうちに、ようやく先生が一人きた。
なぜか?
警察から電話があったということだ。

なぜ?

誰かわからないが、生徒の一人が県警に110番通報をしたらしい。
それで、地元の警察から連絡があったのだ。

私と相手の生徒は警察へ行くことになった。

誰が110番したのかわからないが、警察の言うには、県警の話では、子どもの泣くような声で「先生が大変です・・・」と言ったとのこと。

(前の記事)
(つづく)

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posted by edlwiss at 22:22 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題

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