2012年08月25日

偉いは人の心の中

■二種類の偉い

偉いには二種類あると思う。

一つは、肩書きの偉いであり、もう一つは人が心の中で感じる偉いである。

肩書きの偉いは、肩書きを持っている当人が偉いと思っていても、他人が偉いと思うかどうかはわからない。

一方、人が心の中で感じる偉いは肩書きには関係ないものである。

テレビや新聞で大々的に報道される偉いばかりに目がいくのではなく、身近にある小さな偉いに注目し、その心を育てていくということが、私の気持ちにはしっくりするものがある。

電車に乗ると、家族連れが乗っていることがある。

小さな子どもは、景色が見たいので窓越しに流れ行く外の景色を見ている。
その子どもの様子を、お姉さんらしい子どもが見て、弟の靴が座席を汚してはいけないと思って足を押さえている様子は、親が教えたのか教えなかったのかわからないが、とにかく、自然に身についたもののようで、偉いなあと思う姿である。

忠犬ハチ公は主人の帰りを毎日迎えていた。
主人が亡くなったとも知らず、来る日も来る日も駅に来るハチ公に心を打たれて、銅像ができたのであるが、人々はこの犬を偉いと思ったのである。

すごいと言われる賞をもらったとしても、人々は偉いと思っているかどうかはわからない。

他人にさんざん苦労をさせ、犠牲にして、役柄がトップというだけで表彰されて栄誉を受けている人もいる。

その人の影で、犠牲になっている人がいると知れば、いくら賞が大きくても、人の心を打つことはないし、満足しているのは賞を受けた本人だけということもある。

実質、価値はないのにそういう賞をもらって喜んでいる人がいるのを見ると、人の名誉に対する欲は、それが形ばかりのものであっても、強いものがあると感じる。

肩書きも同様である。

現代では、車を買って競って自慢をするということは少なくなってきた。
それだけ、日本は成熟した社会になったと言えるのかも知れない。

しかし、昔は車を買っただけで誇らしげということがあった。

学校では、自分の父親の車がボロだと、肩身の狭いを思いをしている子どもがいた。

子ども同士で、親がどんな車を乗っているのか自慢していたのである。

そういう場面に居合わせた私は

「君たち、間違っているぞ、古い小さな車を使っているお父さんが偉いんだ。そういうお父さんは、家族のために自分は辛抱しているんだ。ボロの車に乗っているお父さんこそ、家族思いの偉いお父さんなんだよ」

と言った。

そうしたら、自分の父親の車が古いのを気にしていた子どもの顔つきが明るくなった。

人、それぞれ価値観はあると思うが、偉さを考えるとき、評価が間違っていないかと思うことがある。

本当に、偉いとは何なのか、改めて評価を見直してみたいものだ。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 22:31 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2012年08月23日

偉くなりたいですか?

幼い頃は毎日が夢中で、明日はどうなるとか、将来は何になりたいのかなどは、およそ考えたことはなかったと思う。

それが、中学生、高校生と成長するに従って、世の中と自分を対比して考えるようになる。

家庭によっては、親が実現できなかったことを子どもに託すために、親が子どもの進路についてあれこれ口出しをする場合もある。

今振り返ってみると、高校では同級生たちが、なぜあんなにもよく勉強していたのかという謎がわかった。

もっぱら、いい大学へ進学することが何よりも大切だというような情報を与えてくれた人がいたのだろう。

私の場合、親一人子一人で、大学へ行くなどということは考えていなかった。

それより、中学時代は思いっきり好きなことをやって、節目で高校入試を通過したらまた好きなことができると、まるで中学時代の延長のようなことをやっていた。

しかし、高校も三年の終わり頃になると、みんな大学を目指しているんだということが、空気として伝わってきて、自分も受けてみようかとあわてて準備をしたが、母親が一人で毎日の暮らしをやっとの思いでまかなっている状態ではどうにもならないと感じていた。

しかし、試験だけは受けてもいいだろうと思ってギリギリになって、近くの教育大学を受けた。

特に先生になろうという気持ちはなかったが、受験料が安いことと、自宅から最も近い国立大学だったという事が理由。

なにしろ三学期から受験勉強を始めたようなものだったから、受からないだろうと思っていた。

しかし、これが受かってしまった。

母親は息子がやっと就職してくれて、生活が楽になると思っていたのだろうが、大学が受かったとわかると、入学金を出してくれた。

今思うと、ずいぶん貴重なお金だったろうと思う。

母親は自分の着るものも買わず、毎日をどうやりくりをするか苦労していたと思うが、そんなことを感じなかった私はとても親不孝者だったと思う。

何も親孝行をしないうちに、この世を去っていった母親のことを考えると、つくづく、自分は罰当たりだと思う。

教員になってみると、ガツガツしている人が多いと感じた。

ガツガツとは出世に懸命ということだ。

しかし、それは個人の勝手だから他人があれこれ言う筋合いはない。

でも、今でも思うのだが、そういう人たちは、何か駆け足で人生を終わろうとしているように思えた。

教師なら毎日、勉強のことで子どもと格闘しているのが生きがいではないかと思うのだが、人生を駆け足で行きたい人は、子どもといるより早くそこから脱したいと考えているみたいだ。

役がつくようになると、授業も少なくなり、部活もできなくなり、校長になれば全く授業もなくなってしまう。

誰が言い出したのか知らないが、教員は退職すると七、五、三と言って、これが生存年数だそうだ。

およそ、平退職者が7年、教頭が5年、校長が3年という意味。

そうピッタリは行かないだろうが、校長退職者が最も早く死ぬと言われている。

なぜそうなのかの追究はまたの機会とするが、校長が最も早く死ぬということは、校長を目指す人たちは、速く人生を終わりたいと思っているのだろうか?

「さっさと生きてさっさと死ぬ」

と言った人がいる。

確か私が聞いたのは、小学校6年生の女の子からだ。

その駆け足の人生の中で、他人から「偉い」と言ってもらいたい人もいるようだ。

私の先輩なんか、うちに寄ると、酒を飲みながら「オレって偉いだろう」と、偉いと言ってもらうことを請求していた。

そんなのは、格好が悪いという人もいるかも知れないが、彼の本音だったのかも知れない。

私は何か肩書きや看板をもらうより、地下のマグマが溜まって圧力が高まり自然と吹き出してくるような人生がいいと思う。

何かの行事があるたびに、大げさにプロフィールを紹介してもらうより、何も人々に先入観を抱かせない状態で、話をしたり演奏をしたりして、実際どのくらい他人に感銘を与えることができたのだろうかということの方に関心がある。

指揮者なんていい仕事だ。

それは生涯現役で、没する時が頂点だからだ。

96歳で、演奏旅行の途中で亡くなった指揮者がいた。最高である。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 00:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年08月18日

いじめに対する抵抗力を高める

前回、いじめはガンのようなものと言いました。

専門家の話によると、ガンは毎日3000〜6000ぐらい体の中でできているそうです。

しかし、このガンと戦っているマクロファージのおかげで、健康な体を保っていられるということです。

このマクロファージの力が弱まると、ガン細胞の増殖が大きくなり体に影響を与えることになるわけです。

■いじめはいつも起こっている

いじめも、小さなものは絶えず起こっていると言えます。

座っている、普段は仲良しのとなり同士の間でも起こっていることがあります。

「私の鉛筆を落としたのに謝ってくれない」

だから、いじわるをする。

いじわるをされた方は意地になっている。

こんなことが原因で、その日は一日中口を聞かなかった。

のように、大したことのないようなことでも、感情の対立が起こり、いじめの原因になったりします。

小さなことで感情の対立が起こるというのは、心が小さいと言えますが、人がどんなことを気にするかには個人差があります。

誰かが成功すると、それを嫉妬して、ひどい場合はいじめに発展する場合もある。

■いじめ対策は教育活動そのもの

世の中が組織化されてくると、仕事が細分化されて、自分がやっている仕事の意味を忘れてしまいがちです。

高度にライン化された工場では、テレビが映る仕組みを知らなくても、テレビの組立に従事できます。

教育の一端を担う学校が、こういう工場のラインのようになってはいけません。

教師が、決められたカリキュラムに従って仕事をするだけの作業員になってしまっては、教育の意味を感じ取ることができないと思います。

特に、近年では学校教育と受験教育が混同され、試験対策が教育そのものと勘違いしている人もいます。

テストの点数が上がることが教育の成果ではありません。

とりわけ、義務教育ではテストの点数アップを目的にしていません。

だから、我が国の義務教育は年数主義をとっているとも言えるわけです。

些細な事がもとになって、大きなトラブルに発展し、ひどい場合には殺人事件にまで発展してしまうこともあります。

些細な事に動じない。他人の気持ちを思いやるなど大きな心を作ることは大切な教育の目標です。

折にふれて、私は紹介していますが、私が大学入試対策に一生懸命になっている時、ある受験参考書の欄外に「教育は人を作るためにある」と書いてあったことが強い印象として残っています。

いじめに対する抵抗力を高めるとは、集団全体が人間的にレベルアップすることを意味しています。

それははからずも、教育活動そのものであると言えるのではないでしょうか。

■人は居心地の良い場所を求める

人は集団を作ります。

そして、その集団の中にあっては、居心地の良さを求めていると思います。

居心地の良さとは何でしょうか?

それは、良い空気の環境だと思います。

もちろん、吸う空気の良さも大切ですが、ここでは、人が集まって作る空気のことを言っています。

もし、あなたが担任をしているとしたら、あなたのクラスの空気はどうですか?

人が集まって作る空気は、個人の心が作ると思います。

だから、人の作る空気が良い集団の中では「いじめ問題」は起こらないと、私は考えています。

「いじめは起こらない」ではなく「いじめ問題は起こらない」です。

■人は勉強することによって成長する

私は、学校教育と受験教育を混同していないかと言いました。

ここでは学校教育を単に教育と言いますが、教育は人を成長させるものでなくてはいけないと思います。

学校には教科がありますが、これは、本来、テストのためにあるものではなく、各教科によって人は鍛えられ人を成長させるためにあると思います。

人を成長させるとは、知識、知能だけでなく、心、体のことも指します。

これを一般的には知・徳・体と言っていますが、いじめで問題になるのは心の部分と言えます。

心の部分には、教えて教えられない部分もあります。

例えば、感動そのものを教えることはできないと思います。

しかし、感動の環境を作ることはできます。

情緒的感動性という言葉がありますが、これは人がもとから持っている何かに感動する心です。
もう少し詳しく言うと、真・善・美に対しては、人は教えられなくても感動する心を持っていると言われています。

花を見て美しいと感じる心は、人間なら誰でも持っているということです。

だから、誰かが教室に花を飾るというだけで、みんなの心は影響を受けるわけです。

■まとめ

教育といじめの関係を言い出すと、際限がないように思います。

ですが、いじめをなくすには、いじめに対する抵抗力を高めることであり、それははからずも教育本来の機能を高めることであると私は考えています。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 08:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年08月16日

いじめはガンのようなもの

ひとことで「いじめ」と言っても、その実態は様々です。

悪質なものからそうでないものまで、実態は実に様々です。

それら様々ないじめをすべて「いじめ」のひとことで片付けると、混乱が起きてくると思います。

今、高校野球の熱戦の最中ですが、こういうスポーツの中にもいじめはあります。

相手のピッチャーを心理的に追い込むいじめ、これはいかに相手をいじめるか考えているわけです。

馬鹿らしい例を挙げるなという人もいそうですが、最近は考えの足らない人がいて「いじめ=悪」と単純に考える人もいるからです。

つまり、いじめという言葉だけがひとり歩きしてしまう。

■いじめには、悪質なものとそうでないものがある

人と人が対戦するゲームでは、いかに相手をいじめるかは作戦のうちです。

これはいじめの研究とも言えます。

また、日常生活では、仲の良い間でもいじめはあります。

子どもがゲームばかりやっているので、お母さんがゲーム機を隠してしまったというのもいじめの一種でしょう。

■悪質ないじめはガンのようなもの

問題は悪質ないじめの場合です。

これはガンのようなものだと思います。

ガンは健康な人にも、発生していると言われます。

しかし、体内に発生したガンも小さいうちは、健康な体のもつ抵抗力により消滅させられると言われています。

ガンは絶えず発生し、小さいうちに消滅するを繰り返しているわけです。

そのガンが、健康な体の抵抗力に打ち勝って大きくなると、やがて体を蝕むことになります。
そして、大きくなるほど撲滅が難しくなり、手遅れになると体を死に追いやることにもなるわけです。

class.jpg■教師は絶えずいじめを察知する感性を必要とする

ガンも早期発見では、治癒の可能性が高くなります。
しかし、はっきり認識できるほどのガンの大きさになると治癒は困難になります。

教師は自分の預かる子どもたちの間に、いじめの芽がないかを、問題になる前に察知する感覚を持つ必要があると思います。

なんとなくクラスの空気が変だとか、なぜあの子は笑わないのだろうとか、仲良しに見えても何か不自然だとかを感じ取る観察力が必要だと思います。

そして、問題になる前に対処することが大切だと思います。

もっと大切なことは、健康な体づくりと同じように、常に集団の精神的レベルを上げる工夫、豊かな心を育てる努力を怠らないようにすべきだと思うのです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 12:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年08月15日

2012年08月15日

教育に対する誤解

gimukyoiku.jpg
学校教育についての話です。

義務教育に対する誤解

しばしば、学校は学力を保障しろといういう人がいます。

しかし、日本の義務教育制度は就学者にある一定の学力を保障するものではありません。

それは、年数主義という方法をとっているからです。

年数主義とは、一定の年数を経たら進級させるというものです。

わかりやすく例に例えると、映画館に行くことを想像してみるとわかりやすいと思います。

映画館が学校であり、観客が児童生徒であると言えます。

映画館の責任は、予定の映画をまちがいなくきちんと上映することです。
それ以上の責任はありません。

観客は間違いなく上映されている映画を、見ているとは限りません。

観客が上映中に眠っていて、映画を見なかったとしても、それは映画館の責任ではありません。

同様に、学校では決められたカリキュラムに従って、きちんと教育活動を行う責任はありますが、児童生徒が教育を身につけたかの責任はありません。

もし、各学年の履修内容をどの程度身につけたか、学校が責任を持たなければならないとしたら、義務教育についても落第制度を設けなければならないでしょう。

義務教育は15歳までの9年間と定められています。

だから、特別の事情がない限り、この年限を超えると教育は受けられません。

誰のための教育か?

教育は各個人のためのものでしょうか?

そう単純に言い切れるものではないと思います。

教育基本法というものがあり、これに準じて教育が行われることになっていますが、見方によっては、これは理想、建前とも言えます。

・教育の二つの側面

(1)個人の自立のため

動物も子育てをして、子が自立するようにめんどうを見ます。

ここは、親のためではなく、純粋に、子どもが小鳥立ち出来るように世話をするわけです。

多くの動物に本能的に備わっているものでしょう。

人間の場合、やはり、親は子どもが自立できることを願って教育することは純粋に美しいことであると言えます。

しかし、子どもを育てることが将来、親のため家のためと考えて教育する人もいます。
ここが、人間の場合、動物と違うところだと思います。

(2)国家のため

教育は国家のためという側面を持っています。

なぜ、国家のためなのか?

わかりやすく言えば、国家は税金が欲しいわけです。

国家にとっては、税金を納めてくれる国民がいいわけです。

裏を返せば、国家にとって税金を納めない国民はいらないわけです。

これは、有能でない人間は落伍して野となれ山となれ知らないという側面があります。

国家は国民のためにあるのか、国民が国家のためにあるのか、ここは為政者の心次第というところがあります。

国家は国民を守らなければならない。これが民主主義であるわけですが、表面上は民主主義の看板を掲げながら、本音は国民からの搾取を考えているから、しばしば、矛盾したことが表面化すると言えます。

野田総理の心は「国民のための国家」なのか「国家のための国民」なのか、本心は誰にもわかりません。

教師も、口では子どものためと言っても、本心はわかりません。

私が天邪鬼なのか、あまりにも頻繁に子どものためを口にする人は、かえって疑わしく感じてしまいます。

それは、子どもの教育に携わるとき「自分のやっていることは、本当に、子どものためなのかどうか」と自問自答して、心が痛むからです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 12:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年08月10日

人の心の中はわからない

こんなコメントがあったんだと今頃気がつきました。
と同時に、驚きました。

このコメントは、当ブログ「考え方の基礎そのものが壊れている例」に寄せられたものです。

[注]【】の番号と下線は、当ブログの管理人がつけ加えたものです。

[1][2][3][4]>まともな指導において叱られたことに腹を立てる親は、私がしばしば言う「ピンポイント思考」というやつだ。
>結論、ピンポイント思考になんかつきあっていられない。
>ではどうする?

まず,苦情を訴えてきた親に「つきあっていられない」という態度をとること自体が,問題なのです。【1】

子どもが訴えてきた場合は,どうするのでしょうか【2】(このようなケースは,子どもが訴えても,相手が耳を貸そうとしない,という状況だと想像されます。【3】根拠は,「つきあっていられない」から。だから,「大人」の出番となったわけです)【4】

大津の件では,学校も警察も,同じような対応だったのでしたね。【5】

dolceさんが自分の指導を「まともな指導」だと思っていても,子どもや親には「まともではない指導」に受け止められる。そこが問題なのです。【6】

「いじめ」の問題もそうなのですが,相手に「どう受け止められるか」が問題なのです。【7】「頭がおかしい」と平気で中傷できる方には,わかりにくいことかもしれませんが。


------------------------------------------------------------------------------


【1】
まず、論述があいまいにならないためにも、言葉の意味を確認しておきます。

つき‐あ・う【付(き)合う】
[動ワ五(ハ四)]1行き来したりして、その人と親しい関係をつくる。交際する。「隣近所と親しく―・う」恋人として交際する。「今―・っている彼女」2 行動をともにする。「残業に―・う」「食事を―・う」
大辞泉より

ピンポイント思考の人につきあっていられないというのは、上記の「つきあう」の意味、1、2、3のいずれにおいても否定するということです。

2の意味においては論外ですが、1の「行き来したりして、その人と親しい関係をつくる。交際する。」とか2の「行動をともにする」なんてことはしないという意味です。

しかし、それでもつきあいたいかどうかは個人が決めることです。

念のために言っておきますが、どんな人でも何か文句を言いにやってきたら、社交辞令としての対応はします。

大人の常識として当たり前です。

商品を売っている店では、様々なお客と接します。

私が偶然居合わせた時の例ですが、あるお客が家電店の店員に文句を言っていました。

「お宅で買った電話機が壊れました。本当に困りました・・・・」

とブツブツ機嫌の悪さをぶちまけていました。
店員は大変だなあと思って、みていましたが、客の次の言葉には驚きました。

「壊れない電話機はないんですか!」

それでも、店員は頭を低くして対応していました。

ウチの子をなぜ叱るんだと言ってくる親は、これと似たようなものだと思います。

【2】
なぜ、突如、子どもが訴えてきた話になるのでしょうか?
ここでは、親が相手の話をしています

【3】
「このようなケース」とは何を指しているのでしょうか?
「想像されます」という言い方は、想像が一般に必然性のある時の言い方です。
そういう必然性がどこにあるのでしょうか?
この人が勝手に想像することはあるかも知れませんが、一般人が必然時にそう想像するとは思えません。

【4】
ここはコメント者が頭の中で何を考えているのか、全く不明のところです。
この記事での話題は「親が文句を言ってきた場合」について話をしています。
そして、その親は文句は「ウチの子を叱るな」「オレたちの税金でお前たちは給料をもらっているだろう。
その子どもをなぜ叱るんだ」という理屈にならない理屈を言う親の問題を取り上げているのです。

この人の思考は支離滅裂と言えます。

「つきあっていられない」から文句を言ってきたのではなく「言ってきた文句につきあっていられない」のです。過去と現在が(順序が)めちゃくちゃになっています。

不思議なのは、このコメント者は会ったこともない親の状況がどうしてわかるのでしょう?

何か壊れているように思えてしまいます。

【5】
大津の事件については、マスコミの報道の内容以外、私は知りません。
だから「同じような対応」かどうかは、何も言えません。
特に、このような人の死に関わる事件について、間接的情報だけで勝手に想像することは最も慎むことだと思っています。

【6】
ここは、指導がまともかまともでないかの問題ではなく、他人がどう考えるかはわからないし、他人の考え方をコントロールすることはできないという、ごく当たり前のことです。
指導に関する相手の受け止め方は「指導→受け止め方」で対比すると次のようにななります。

(1)まともな指導→まともに受け止める
(2)まともな指導→まともに受け止めない
(3)まともでない指導→まともに受け止めない
(4)まともでない指導→まともに受け止める

これが全て出であって指導の結果は(1)〜(4)のどれになるかは、相手によって違うので、予め限定することはできません。

【7】
いじめの問題を、そんなに単純にまとめることはできないと思っています。
また、当該のブログのテーマとは全く関係ないことです。
コメント者は、ブログ記事をきちんと読んでコメントしているのではなく、全く関係ないものや想像の根拠として記事にないものも勝手に持ってきて、言いたいことを言っている。つまり、根拠のない想像が多すぎると感じます。

当該記事のテーマは「わが子を叱るなという親に対する対処」だけです。

そこに、コメント者は関係ないことを持ち込んでクレームをつけているということですね。

だから「頭がおかしい」と、私は思ってしまうのです。

人がどう思うかは、他人がどうすることもできないですから「思ってしまう」のはしかたがないことです。

「人の心の中はわからない」は教育学の基本中の基本です。

だから、誰がどう思うのかを、自分がコントロールすることはできないのです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 22:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年08月09日

わが子を叱るなという親への対策

ウチの子を叱るなと文句を行ってくる親に対してはどうするか。

校長がやぐいと、学校にクレームがあるというだけで、おどおどする。
そして、文句の出処をなくそうとだけに熱心になるので、本来、教育に熱心である教員を叱ったり、転勤させたりする。

だから、そういう校長の下にいる教員たちは縮んでいる。
そして、何もしないことが一番良いことになってしまう。

こういう時の、校長本来の働きは、ことの事態を客観的に掌握し、正しい判断を下すべきである。

具体的には、保護者の話と教員の話を聞き、教員が子どもを叱った状況の適不適、保護者の言い分の正当性を判断することである。

叱ると言っても、何をどう叱ったのかという内容が大切だが、例えば、何度も遅刻してくるので叱られたというものもあれば、スポーツや芸術などの高度な指導のもとでの、レベルの高い状況での叱られ方もある。

だから「叱る」という言葉を単純に捉えてはいけないのである。

しかし、今日、思考がピンポイントで「叱られた=悪い=否定された」と単純にとる人が増えてきたので、対処がめんどうになってきた。

平和なときには校長が出なければいけないことは少ない。
トラブル時こそ校長が登場し、その技量が試される時である。

そんな時に、保身だけで、ただ、めんどうを迷惑と考え排除することだけ考える校長はよくない。

とは言っても、そういう校長を一般の教員が更迭することはできないので、やっかいである。

積極的に問題解決に乗り出さない校長のもとでの対処

ここでは、積極的に問題解決に乗り出さない校長とは、教育に熱心ではない校長のことである。

まず、校長は上司であるから、指導に従うしかない。

学園ドラマでは正義感のある教師が、校長に対抗して騒ぎが拡大するが最後は正義が勝つようなシナリオができていたりする。

しかし、現実はドラマのようにいくとは限らない。

だから、ここは「能ある鷹は爪を隠す」でいくしかない。

話のわからない保護者の子どもは叱らない

「ウチの子をなぜ怒る」という、話もわからない親の子どもは、以後、叱らないようにするしかないだろう。

しかし、これで終わりではなく、叱られなくなった子どもが、その後どう感じるかだ。

子どもによっては、叱られない寂しさを感じるだろう。

そういう子どもは見込みがあると思う。

叱られなくなったことをいいことに、喜んで振る舞う子どもはどうしようもない。

再度確認、叱ることで文句を言う保護者の子どもは叱らないようにする

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 13:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年08月07日

わが子を叱るなという親にどう対処するか

monpere.jpg昔は考えられなかったけど、近年「わが子を叱るな」という親が出てきました。

はじめは、まさかと思いましたが、本当にいることを知って驚きました。

わが子を叱るなという親は、学校だけではないようで、ピアノ教室のような、民間の指導施設にもあるようです。

こういう話をする時「親の話が聞けない教員の問題だ」などと言い出す人に驚きましたが、すべてそう単純に割り切れる問題ではないし、ここでのテーマは「わが子を叱るなという親」がいたらどうするかということです。

「いたら」なわけですから、いなければ、はじめから話題になりませんし「悪いのは教員だ。悪い親はいない」なんてことを言い切る方がおかしい。

なぜなら、日本中の親や先生を調べることは不可能だからです。

だから、通常、不可能なことを単純に言い切る人は、思考そのものが単純か、思考回路が壊れているか、そうでなければ超能力者しかないというのです。

話を元に戻して、ピアノ教室の例では、熱心に教えていた先生にある親から「なぜウチの子を叱るのだ」と抗議があったと聞きました。

親の論理としては「毎月、月謝を払って通わせている。それで、あなたたちは儲かっているだろう。それなのになぜウチの子を叱るんだ」というものです。

同様に、学校の先生に対する、この種の親の抗議も「おまえたち教員の給料は、オレたちが税金で払っているのだ。なのに、その子どもをなぜ叱るんだ」というもの。

こういうのを聞くと、私は世の中はおかしくなってきているんだと感じます。

だから、それまでは常識と考えていたことが、他の人は違うんではないかと考えてみなくてはいけないのだと思うようになりました。

ウチの子を叱るなという類の親だろうという人に、会ったことはありますが、考え方が変わっているというか「おかしい」と思いました。

私が、いわゆる我流の指使いを直そうとしたら「あなたは、子どもを型にはめようとしている」と言われました。
私が指導したのはリコーダーでしたが、その子どもはピアノ教室に7〜8年通っていました。

驚いたのは、それでいて1曲も弾けないことでした。

私の想像ですが、ピアノの先生に対しても「ウチの子を叱るな」と言うので、先生は注意しなくなったのだと思います。
それで、その子どものやりたいように、やらせていたからではないかと思います。

こういう変わった親の例を挙げていても、今回のテーマである「わが子を叱るなという親にどう対処するか」に答えることにはなりません。

そこで、具体的な対処は「叱らないようにする」です。

これが一番いい方法などと言うつもりはありません。
だから、私ならこうするととっていただくのがよいかと思います。

実際はその場面に当たらなればわからないとも言えます。

そうは言うけど、この親なら話しあえばわかるかも知れないと感じるかも知れないからです。

だから、基本的な対処として「叱るのをやめる」ということです。

単純で消極的な方法かも知れませんが、これには私なりの意図があります。

誤解を招かないように言っておくと、指導を放棄することではないということです。

では、どういう意図があるのかということについては、次回にします。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 13:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年08月04日

考え方の基礎そのものが壊れている例

以下に示す文章は、当ブログ問題は訳のわからない親に対するコメント投稿です。
考え方の何がおかしいのか、具体的に指摘できる材料になります。

[注][1}〜[2]の番号、及び下線は管理人が追加しました。

問題は,「訳のわからない親」ではなく,「訳がわかるように話ができない」指導者ですね。[1]

子どもの声が聞こえていない指導者だから,親の声も届くことはないでしょう。[2]

超能力者でもないのに,「叱られただけ」で文句を言ってきたのかどうか,わかるのでしょうか。[3]

指導に課題があることは,わずかこれだけの文章だけからもうかがい知れます。[4]

本人を知っているから,なおさらですが。[5]

Posted by 100ページの1文 at 2012年08月03日 21:13


-------------------------------------------------------------------------


oyanosyugou2.jpg[解説]

[1]このブログの主題は「問題は訳のわからない親」を対象にしたものであって「『訳がわかるように話ができない』指導者」というのはいるでしょうが、テーマには全く関係ありません。
集合の概念が欠落しているからこうなるのだろうと思います。
ここでは「訳のわからない親」に限って、話をしているわけです。

[2]これって何のことを言っているのでしょう。
このブログでの話題は「先生が子どもを叱る」→「叱られた子どもの親が先生に文句を言う」を問題にしているわけです。
この両者の関係には「子どもの声が聞こえていない指導者」の存在は関係ありません。
だいたい「子どもの声が聞こえていない指導者」というのは、(文中の)どこから見つけたのでしょう。
全く関係ないことを持ち出してくるこの思考は変です。

[3]「『叱られただけ』で文句を言ってきたのかどうか,わかるのでしょうか」という質問自体が全く的はずれというか頓珍漢です。
「わかる」「わからない」は関係ありません。
「叱られたことに対して、親が文句を言ってきた事実」を題材にして話題を展開しているのです。
「親が学校にやってきて『今日、うちの子を○○についてなぜ叱るんだ』」という事実をふまえての話ですから「どうしてわかるのでしょう」という質問自体が頓珍漢です。超能力のない先生だって、親が文句を言ってくればわかります。
全く変な疑問を持つんですね。

[4]「指導に課題があることがわかる」のなら、その課題自体を明示するべきです。
明示できないのなら、ただの中傷です。範を示す教員としてはあるまじき行為です。
おかしいのは、当該のブログでは、指導については記述していません。
指導について書いてない文章から、指導の課題が見つけられるというのは変じゃないですか?
変わった思考をしますね。

[5]「本人を知っているからなおさら」と言っていますが、本人を知っていると、指導について書いてない文章の指導の課題がよくわかるのですか?
それこそ超能力じゃないですか?
それから「本人を知っている」というのは、どの程度のことなのですか?
ただ知っていると言うだけなら、私は聖徳太子も藤原鎌足もオバマ大統領、・・・知っている人はたくさんいます。
しかし、例えば、その人の指導能力を云々するなら、少なくとも、その人の指導場面を見ないことには何とも言えません。
あなたは、わずかな情報でも、それこそ超能力を発揮してわかってしまうのですか?
「知っている」という人こそ「バカの壁」を作っているとは、養老孟司の著書「バカの壁」にあります。

-------------------------------------------------------------------------


呆れてしまうコメントです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 01:03 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2012年08月03日

思考回路の研究

コメントを再掲します。
正しく思考がなされているかどうかのサンプルになります。

[注}※1〜※3及び[1]〜[5]の番号、下線はは筆者(私)が追加したものです。

誹謗中傷の内容は削除されてしまっていますが,ここを読めば,どういう難癖をdolceさんがつけたのかがわかります。

**************※1(***で囲まれた文章全体)
ところで採用試験の話が出てまたもや「あれまあ」と思ってしまいました。はっきりいって私なぞはコネ系で採用された方です。※2親が地域の教育の世界では有名人だったので、実際には何も具体的なことばや金品の動きはなかったことは確かだと思いますが※3、それでも誰々の息子、という見方は当然されていたでしょう。
**************

>この文章を読んで「この人はコネで合格したんだ」と解釈する以外、どんな解釈があるのでしょう?[1]

>「実際には何も具体的なことばや金品の動きはなかったことは確かだと思います」とは、どうしてわかるんでしょう?[2]

>大分県の教育の不祥事では、すでに採用されていた教師が解雇されましたが、本人は親がウラで贈り物などしていたことは知らなかったということで、解雇された本人が不満を言っていたことが話題になりました。[3]

>親がどう行動したのかは、絶対バレてはいけないことだから、他言をしないことは当たり前だし、もらった可能性のある人に確認のしようもありませんから、金品の動きはなかったと言っても、それだけで信用が得られるとは思えません。
[4]

信用のある人間と,事故を起こして信用と職を無くした人間の違いがよく表れているやりとりです。[5]

Posted by kurazoh at 2012年08月03日 21:31


研究材料として、以下のことに焦点をあてて考察してみることにします。

(1)投稿者の思考は正しいか([5]の文章)
(2)筆者(当ブログの管理人)が※1の文章の作者の親(父)を誹謗したと言われる根拠にになっているものです。果たして誹謗になるのかの検証

----------------------------------------------------------------


(1)投稿者の思考は正しいか([5]の文章)

[5]の文章を再掲します

信用のある人間と,事故を起こして信用と職を無くした人間の違いがよく表れているやりとりです。


@この文中の「信用のある人間」とは誰をさしているのでしょうか?
Aまた「信用のある」とはいかなる根拠(文中のどの箇所)から読み取れるのでしょうか?

[結論]
信用のある人間とは※1を書いた人と想像できます。
しかし、信用があるかどうかを読み取れる根拠は存在しないと言えます(該当箇所がない)。
コメント投稿した者が単に※1の作者に好意を寄せていて「そう思いたい」との感情を表しているだけのことで、客観性はないと判断できます。

また「事故を起こして信用と職を無くした人間の違い」とは誰のことでしょうか?
当ブログの管理人のことを指しているのでしょうか?
もしそうだとしたら、その根拠はどこから読み取れるのでしょうか?
これも、それらのことが読み取れる箇所はどこにも存在しないと判断します。
従って、コメント投稿者は対象になる文章から客観的な解釈をする意思がなく、単に妄想を述べているだけと判断します。
もし「事故を起こして信用と職を無くした人間の違い」の人間が当ブログの管理人を指しているとしたら、当ブログの管理人は、コメントの投稿者を名誉毀損で告訴します。

(2)筆者(当ブログの管理人)が※1の文章の作者の親(父)を誹謗したと言われる根拠にになっているものです。果たして誹謗になるのかの検証

まず問題となる文章は※2の以下です。

はっきりいって私なぞはコネ系で採用された方です。


まず、これを読んで、コネ採用されたんだなと思わない人はいるのでしょうか?
この人はコネを使って採用されたんだと解釈するのが順当でしょう。

次に、※3の以下の文章を読んで、当ブログの管理人は[1]〜[4]にて質問及び意見を書きました。

これが、※1の作者を誹謗したことになるのでしょうか?

だいたい、他人の行動がどうであったかは、探偵でもつけない限りわかるものではありません。
たとえ、自分の身内である親であっても、どう行動しているのかはわからないでしょう。

だから「実際には何も具体的なことばや金品の動きはなかったことは確かだ」とはどのような根拠で言えるのか、私は疑問に思ったわけです。

それに、自分の採用に関して「はっきりいって私なぞはコネ系で採用された方です」(※2)と、当の本人がわざわざ明言しているわけですから、読んだ方としては余計に「実際には何も具体的なことばや金品の動きはなかったことは確かだ」と、あえて書いていることに質問したくなったわけです。

※3実際には何も具体的なことばや金品の動きはなかったことは確かだと思いますがの「思いますが」は確証がないという本人の気持ちを表していると読み取るのが順当だと思います。

しかし、当該の親(父親)が、採用に関して何かと便宜をはかったと、私が疑っているわけではありません。
そういうことはないと思うなら、
私の質問>「実際には何も具体的なことばや金品の動きはなかったことは確かだと思います」とは、どうしてわかるんでしょう?[2]
に対して、例えば「私の父親はそういうことをする人ではありません」とか「父親を信用しているからです」と答えたら済むことです。

別に、警察の捜査をしているわけでもないし、これをネタに告発しようと思っているわけでもないですから。

一番の問題はなぜ、このサンプルの文(投稿者の文)が、当該の人の父親を誹謗したことになるのかということです。

日本語を正しく読める人なら、到底、これが親の誹謗にあたるとは読み取れないはずです。

また、これが(私の質問、意見が)「いわれのない中傷や誹謗の限りを尽くされました」ということになるのですか?
どこに「いわれのないこと」が書いてありますか?
そして、これが「2世教師に対するものすごい反感」になるのですか?

[疑問]

まあ、どうでもいいことですが、自分の父親が教育界で有名かどうかは知らないが、わざわざ有名だと吹聴して、その上で「私はコネ(系)で採用された方」とあえて投稿する神経も、私には理解しがたいものがあります。

ブログは全世界にわたって、公開しているものです。

だから、教育関係者だけでなくあらゆる階層の人たちに知られるということは、当然、認識しておかなければなりません。

まして、教員という立場にあるのなら、教員の常識というものを発信していることにもなります。

教員の常識は社会の非常識という言葉が飛び交うことのないようにしたいものです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 23:11 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年08月03日

問題は訳のわからない親

昔はなかったことだけど、最近は、自分の子どもが叱られたというだけで、文句を言ってくる親がいる。

問題はこういう親にどう対処するかだ。

こういう状況下が最前線であり、どう対応したか、その後どうなったかが関心のあるところだ。

指導の一般論ばかり述べたり、ガラパゴス的指導法を説いたところで、興味を持つ人がどのくらいいるのだろうか?

もっとも、記事を書く人の目的が自己顕示欲によって、自分の偉さだけを誇示したいのであれば、記事も「枯れ木も山のにぎわい」ということだろう。

そういう枯れ木をありがたく拝聴するかどうかは、人様々である。

指導の現場を思い浮かべると、一斉授業で、教師の講義が中心の指導現場では、問題点を抽出する場面が少ないので、私の場合は吹奏楽などの指導場面が多くなる。

吹奏楽部を指導するということは、あらゆる教育的要素を含んでいると言ってもよい。

それは、運動部などの団体を指導する場合にも言えることで、プロを相手に指導する場合とは全く状況が異なる。

吹奏楽部は、例えばこの夏休みの練習で言えば、練習予定を決めて、その時間通りに音楽を教えて、終わったらまた明日(あした)というものではない。

子ども全体の生活を意識して指導構想を練ることが必要だ。

さて、前置きが長くなったが、自分の子どもが叱られたら文句を言ってくる親にはどう対処するか?

学校は、どうかすると親からクレームがあるということを恐れる。

そうすると、なるべく摩擦が起こらないようなことを考える。

人によっては、子どもと仲よくやろうと考え、ご機嫌までとったりする人まで出てくる。

基本的には、子どもとは仲よくしたいわけだが、いい演奏をしたい、子どもにいい経験をさせたいと思っていると、その「仲良しといい体験」がマッチしないことがある。

いや、マッチしないことの方が多いのかも知れない。

親が子どもを真剣に育てようとすると、親は子どもに嫌われるようなものだ。

良い意味で信念のある親は、真剣になるほど子どもからは反発されるという状況、孤独に耐えて信念を通す。

教師は親とは立場が違う。

子どもが家に帰って、先生に対する不満を親にぶちまける。

内容によって「先生はしっかりやってくださる」ととる親もいれば、叱られたというだけでカッとなる親もいる。

まともな指導において叱られたことに腹を立てる親は、私がしばしば言う「ピンポイント思考」というやつだ。

結論、ピンポイント思考になんかつきあっていられない。

ではどうする?

とりあえず、その子どもは叱らないようにする。

その子どもの親の影響で、全体の指導を変更すること、つまりクレームを恐れて指導の手を緩めるということはしない。

練習が進んでいって、当の子どもは一切叱られないという状況が続いたらどうなる?

わからない。

それは、その子どもによって、心の変化がどうなるかわからないからだ。

だから、指導法というものは基本は示せるが、すべてをマニュアル化することはできないのだ。

指揮法という本があるが、その本を熟読し、それを忠実に守ったから指揮者になれるというものではないのと似ている。

だから「虎の巻」はないと言いたいのだ。

人は生きている(当たり前)、だから一人一人違う。

人を見て法を説けと言われるように、個々の子どもの変化によって対応を考えねばならない。

これは、対応力が要求されるということだ。

現場対応力である。

こう考えてくると、指導者の違いとは現場対応力の違いと言える。

そして、その対応力を発揮するための情報は、子どもから発する情報をいかにつかみ取るかということだ。

だから、私は、個々の子どもを見て、子どもから得られる情報をつかみ取るという感性が大切だと言いたいのだ。

叱られていた子どもが、叱られなくなると、それはそれで、その子どもが喜ぶのか?

叱られないことが続いて寂しく感じるのか?

現実の子どもに会わないことにはわからない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 12:04 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年08月02日

降りかかる火の粉は払わねばならぬ

突然、見知らぬ人から「あなたは、私の父のことを誹謗した」などといいがかりをつけられたとき、人はどのようにするのでしょうか?

私にとってこのようないいががりをつけられたのは、はじめてです。

このことで、昔のことを思い出しました。

それは、某有名掲示板にて、吹奏楽についてやりとりをしていた時のことです。

ある中学校の生徒の母親らしい人から、突然

「あなたは、指導に来たとき、娘のクラリネットを吹いたので、娘はショックを受けて、楽器を水につけて丸洗いをしました」

と抗議の投稿でした。

私はそんなことをした覚えはないので「人違いでしょう」と言っても、引き下がりません。

私がクラリネットを吹いていることと、学校へ指導に行くことがあることなど、条件が一致していたのか、母親は私が、その母親の娘の学校に指導に行った者と決めつけていました。

私が自分の活動をかなり説明して、人を間違えていると言っても、納得できないようでした。

しかし、他の人の、投稿への参加もあり、母親は頭が冷えてきたのか、自分の想像と矛盾のあることに気がついたらしいという場面がありました。

そうしたら、突如、その母親はハンドル名を削除し、行方をくらましてしまいました。

非常に失礼な行いです。

始めの話にもどって、今回のいいがかりは、抗議している人は「自分の父親の悪口を言われた」というものです。

1.私は誰かの父親の悪口を言った覚えはありません

2.私はその父親とという人を全然知りません(いいがかりをつけられるまでは、名前すら知りませんでした)

それで、具体的に何のことか知りたいので、質問をしても返事がありません。

今回、わずかに何のことか見えたものは、以下の文からです。

これは私の亡父に関することです。ある方からコメントをいただいていてあえて触れないようにしてきたことですが、○○さんは私のような「2世教師」に対してものすごい反感を持っているようです[1]。それで「教育失敗学…」ブログのkurazohさんとの論争に巻き込まれる形で、私が自分のことについて言ったことについて、○○さんからいわれのない中傷や誹謗の限りを尽くされました。○○さんがまだこだわっているのに驚きますが、自分の言ったことなどを思い出してみてください。


この人は「根拠を挙げろ」というくせに、自分は根拠を挙げていません。
上の引用文は根拠になりません。
それは、内容の具体性がないからです。

いろいろな人がいますから、言ったり書いたりした本人は、何も悪口を言った覚えはないのに、勝手に怒っている人もいるかも知れません。

だから、上記の文中にある「ものすごい反感」とは何なのか、具体的に挙げてもらわなればわかりません。
私がそういう記述をしたのなら、その部分を引用して提示すべきです。

上記の文章で一番の問題になるところは[1]の

ある方からコメントをいただいていてあえて触れないようにしてきたことですが、○○さんは私のような「2世教師」に対してものすごい反感を持っているようです

というところです。

そのコメントを送った人がどんな人かわかりませんが、こういうのは「〜が〜のことをこう言っているよ」という伝聞です。

伝聞は裁判でも証拠になりません。

信憑性が担保されないからです。

これは、わざわざ言うまでもない、社会人の常識です。

誰かが告げ口したことで、即、それを信じてしまうという態度が、非常識の何ものでもない。

人の口に戸は立てられないという言葉があるように、世の中は誰が誰のことをことを勝手に噂するなんてことはたくさんあるでしょう。

私は少なくとも、常識に法り「誰々は〜と言っているよ」という伝聞の類は信用しません。

特に、指導的立場にある者としては心得ておくべきことだと思っています。

誰かのコメント、風評の類を勝手に信用して怒っているというのも、人格を疑いますが、一体、その「『2世教師』に対してものすごい反感」とは何なのか、なぜ明確にしないのでしょう。

それに「『2世教師』に対してものすごい反感を持っているようです「ようです」ではなく「持っている」と断定できないのは、確実性に自信がない、つまり不確実性を表しているのではないですか?

一般に、大人は、不確実なことで抗議するでしょうか?

「お前は、オレのカメラを盗ったようだな」で犯人扱いしていいのでしょうか?

法の下に平等

日本国憲法は、人種,信条,性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されないとあり、私もこの精神を遵守しますから、現職の教員がどういう過程を経てその職に就かれたのか、あるいは、どういう環境のもとで育ってきたのかなど、不正のない限り差別的態度をとることはありません

だから「私のような「2世教師」に対してものすごい反感を持っている」なんて言うのは、いいがかりもいいところで、名誉毀損罪もしくは侮辱罪の可能性があります。

その、コメントした人及びコメントの内容をを明らかにしてもらいたいものです。

読んでいないとどうしてわかるのか?

「著作についてついてあれこれ言うなら、読んでからにしてください」

とありますが、私が読んでいないということがわかるのですか?

私は、あなたも、あなたのお父さんもこの件のある前は、全然知りませんでした。

しかし、今回、こういうことがあったので、私も少なからず音楽関係の人脈はあるので、それらを通じて調べました。

そうしたら、ある人があなたの著作を出してくれました。

それで、ざっと読ませていただきました。

だから、相変わらずダラダラとした文章でメリハリがない(冗長)との感想を持ったわけです。

ついで、なにやらドタバタであなたが今の地位にみえることも、教えていただきました。
あなたの指導についても、何人かの人が感想を言ってくれました。

謝礼云々については、目くじらを立てることは何もないと思います。
しかし、あなたが謝礼をいただくという規定をサイトに啓示しているのは、第三者が見たら、謝礼をもらうんだと解釈しても仕方がないものと思います。私はそれに対して、悪いとか良いとか論評はしておりません。

私が、何か根拠のないことを一方的にまくし立てましたか?
だったら、あなたこそ、その根拠を挙げてください。

相手することが利益云々と書いてみえますが、あなたはいつも利益を考えているんですか?

私としては、いいがかりをつけられたので「降りかかる火の粉は払わねばならぬ」との心境で投稿しただけです。

「私が、全く名前も知らない人の悪口を言った」との突然の投稿に不愉快な思いをしただけです。

再度言いますが、私が三重県で知っているのは、三重大学と白子ウインドシンフォニカだけです。

なぜ、突如、トリオ・ミンストレルがこの話に登場するのかわかりませんが、チェロの方の方の関係で、ブラームスをやらないかとの誘いを受けたからということだけです。北住さんはメンバーの一人であったということですね。
ブラームスのトリオを演奏するに当たり、チェロの方を紹介していただき、ピアノはこちらにも奏者はいましたが、ピアノもトリオ・ミンストレルの方にお願いするとなっただけです。

私には関係ないと思えても、あなたの説からすると、想像はどんなにあってもよいようですから、どんどん想像が拡大するってことでしょうか?

子どもに決まりを守らなくてよいと教える人を、尊敬してみえるということで、私はずいぶん変わった人だなあと思っています。
しかも、教員養成の立場にあるわけですからね。

学生にもその筋で指導されるのかな?

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 23:26 | Comment(5) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年08月02日

毎日の積み上げが大切

学校は一学期が終わって夏休みに入った。

学級にしろ、部活にしろ、もうかなり人間関係ができてきていなければならない時期だ。

部活動中に保護者がやってきた?

夏休みの部活動中に、保護者がやってきたからどうだって言うんだろう。

そんな時は、対応するのは当たり前だろう。

もし、別の来客があったりして、すぐに面会できない時は、取り次いでくれた人に、用件だけ聞いてもらうようにして、待っていただくように伝えてもらうべきだろう。

もちろん、緊急の用件なら、それなりの対応すべきだ。

しかし「きちんと対応すること」は当たり前で、そんなことは学ぶという以前に、社会人の常識だろう。

これを「きちんと対応した方がいいと学びました」って何だろう?

相変わらず「例の文」はダラダラとメリハリがなく、ただ長いだけ(冗長)で一体、何を言いたいのか肝心なことが伝わってこない。

結局、自分の本を売りたいってことですか?

そして、その本に書いてあることを実行すると、何かがうまく行きますか?

ご自分の実践と結果(成果)はどうなんですか?

虎の巻は存在しない

人間関係を作っていくのに、虎の巻はないと、私は考えています。

もちろん、大人の常識をチェックするような本はあります。

モノを売るときは、キャッチコピーが大切だということで「こうすれば、うまくいく○○」のような言葉が、ほんの題名になっていたりすることがありますが、それでうまくいくというのは、料理の本か取り扱い説明の本のようなものだと思っています。

読書は大切ですが、読書だけで何かができてしまうなら、まず、先生は必要なくなるでしょうね。

学級づくりも部活動も毎日の積み上げが大切

何が難しいって、人間関係ほど難しいものはないと思っています。

数学の関数のようにはいかないからです。

人間関係の難しさを大きくしているのは「人の心の中はわからない」というところだと思います。

それを、わかったつもりでいたりするから、間違いを起こすと思うのです。

だから、本当に人の心を読むことのできる超能力を持っている人は、自殺を防げるでしょう。

結局は感性が大切

料理の本では、何分暖めるとか、焼くとか、サイコロの大きさに切るとか具体的に書いてあります。

しかし、人に対する時、何分間、何々の話をする。そして、次に・・・という風に、つまり指導案のようなものを書いたとしても、相手が予定通り動いてくれるというものではありません。
(外観的には動くかも知れません)

料理の達人は、タイマーなど使わなくても、色や臭いで、できあがり時期などを判断します。

これと同じように、優秀な教師は子どもの様子を見て、今、どういう状態にあるのかを察することができます。

今、家庭電化製品はどんどん自動化されて、機械自身がまるで知能を持っているかのようになってきています。

例えば、洗濯機は汚れがどの程度落ちたか、乾燥の程度などを判断して処理しています。

それは、コンピュータがあるからではなく、汚れを感じ取るセンサー、乾燥程度を判断するセンサーがあるからです。

コンピュータは必要ですが、センサーから送られる情報をもとにして計算するのです。

人も、五感というセンサーを持っています。

その五感+心のセンサーによって、人は頭脳で判断しているのだと思います。

だから、人が持っている、こういうセンサーが鈍い人が、問題点を発見できないのだと思います。

問題が起こってから慌てるのではなく、日頃から自分のセンサーを使って、情報を収集しておくことが大切だと思います。

補助手段として、子どもに日記を書かせ、それを使って指導する。

通信を発行して、その反応を読み取るなど、一般に行われています。

しかし、日記を書かせたり、通信を発行すれば良いのではなく、それらを使うことにより、子どもが発している情報をいかにつかみ取るかは、個々の教師のセンサーの性能によるわけです。

初対面では、教師は期待されていない

と思った方がいいと、私は思っています。

「どうせ学校の先生だろう?」

と、保護者も子どももみていると思った方がよいのではと思うのです。

最近、いじめ問題がマスコミに取り上げられ、その対処も報道されていますから、学校の先生に対する期待も想像できるでしょう。

音楽の先生にしたって「プロになれないから、音楽の先生になったんだろう?」ぐらいに思われているでしょう。

しかし、その悪いイメージを覆すと「この先生は、ちょっと違うんじゃないか?」ということになるのではないかと思うのです。

学校の先生でオリンピックの先生という人がいました。

こういう先生を、子ども、保護者がどう思うでしょうか?

では、優れた特技がないと「この先生は違うぞ」と思ってもらえないのでしょうか?

そうは思いません。

「どうせ、先生は保身ばかりでしょ?」

というものがあると思います。

これも「いや、ウチの先生は子どものことを、本当に真剣に考えてくれる」と予想を裏切ったら、子どもの態度も違ってくるでしょう。

口先の話術ではどうにもならない

すべての先生がそうだと言うのではありませんが、先生として非常にイメージを悪くするものに、自分を正当化しようとして屁理屈や詭弁を使うことです。

ごく一部の人と思いますが、よくないことは、目立つものです。

だから、間違ったと思ったら、すぐ訂正すること、ダラダラとみっともない演説をしないことで、逆に印象を良くすると思います。

また「言えば指導したつもりになっている」のも不愉快だけだと思います。

例えば、自殺があったという事後の指導で「子どもたちに命の大切さを話した」というのがありますが、一体、どういう話をしたのでしょうか?

子どもに命は大切ですという演説をするのではなく、自ら、毎日、命の大切さを実行することではないでしょうか?
------------------------------------------------------

部活中に保護者がやってきたことが、何の問題だったのでしょう?

それより、ご自分の行いを振り返ってください。

あなたが、私にクレームを言ったことを覚えていますか?
私は何のことか覚えがないのので、問いただしたら、あなたはそれに応えるどころか、自分の書いた記事まで削除してしまいました。

私は何か失礼なことや間違いがあったら、変ないい訳をせず善処します。
コンクールの指導でアルバイトですか?

子どもに「きまりを守らなくていいという先生」を尊敬していると言ったり、私からしたら、わけのわからない人です。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 01:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年08月01日

権威主義が強くないか?



「表現の自由」にも限度はあるものだが、協会側のおごりはないか?

審査ミスの事実があるのなら、それが題材であっても差別があってはならないだろう。

もし「ミスを批判するものはけしからん」という意識があるのなら、権威意識が強くないかと思うのである。

日本は民主社会である。

「上に反抗するのはけしからん」という意識があるのなら、時代錯誤だ。

むしろ、誤りは誤りとして大きな心で受け入れる心があってこそ、良い意味での権威は守られるものだと思う。

権威はちらつかせるのではなく、相手の心に良い印象として刻むことが大切だろう。

弁護士会が参加者側に立って、表現の自由を主張したのはすばらしいと思う。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
posted by edlwiss at 22:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。