2012年09月30日

いつも怒っている人

fudoumyou.jpgいつも怒っている人がいます。

何を怒っているのでしょう。

男は40歳になったら自分の顔に責任を持てと言った人がいる。

「顔は自分で作る」ということを教わった。

ずっと、怒ってばかりいる人は「そのような」顔になるのだろう。

怒っていると言えば、不動明王は怒っている。

なぜ、怒っているのだろう。

サンスクリット名アチャラナータAcalanāthaの漢訳で,発音に従い阿遮羅囊他と記す場合もあるが,不動金剛明王,不動尊,無動尊,不動使者,無動使者とも訳す。もとはインド教のシバ神の異名で,仏教はこれを大日如来の使者としてとり入れた。如来の命を受けて忿怒の相を表し,密教の修行者を守護し助けて諸種の障害を除き,魔衆を滅ぼして修行を成就させる尊像とした。形像は,右手に剣,左手に羂索(けんさく)を持ち,青黒色の全身に火焰を負う姿が一般的である。
コトバンクより

難しいですね。

簡単に言えば、不動明王は悪魔を降伏するため、その他すべての障害を打ち砕くためにこのように恐ろしい顔をしていると言われます。

そして、仏道に従い道を求める者を救済するというわけです。

恐ろしい顔ですが、その顔には慈悲の心があります。

怒っている人は、何を怒っているのかで表情もいろいろになるわけです。

利己的な怒りを持っている人は、何か歪んだ表情になるのでしょう。

教育批判も、純粋な批判なのか本音は自分のためなのかで、顔は作られていくのでしょう。

人相はごまかしようがないのかも知れません。

だから、自分の顔には責任を持てと言われるのでしょう。

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posted by edlwiss at 19:24 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年09月29日

電波な人

「電波」は名詞ですが「な」をつけて形容詞化することがあるようです。

たとえば、YouTubeに「タンバリンなねこ」というのがありました。



投稿者は、タイトルを「タンバリンをたたくねこ」とか「タンバリンとねこ」などとするより、あえて「タンバリンなねこ」として、おもしろさを表したのでしょう。

ところで「電波な人」って何でしょう。

近頃「電波」がつくアニメもあるようで「電波女・・・」となっています。

やはり人のことを言っていますね。

調べてみると「電波な人」というのは、早い話が「支離滅裂な人」のことを言うらしいです。

2チャンネルでも「あいつ電波だから」なんて使われています。

どうも、電波と評されるのはいい評判とは言えないようです。

変な人をなぜ電波というかという理由は「〜と神の声が聞こえてきた」とか「地球人は、宇宙人がやってきて作った」とか、普通の人では言わないようなことを、自分にはどこからか電波のようなものがやってきてわかると思っているからだそうです。

普通の人にはない能力を発揮する人は「電波」と言われるかも知れませんね。

居ながらにして、日本中や世界中のことがわかってしまう人は、頭の中に電波がやってきているのかも知れません。

時々、TV番組でも取り上げられますが、世の中には我々凡人ではわからない人がいるようです。

あなたの友人や知人には「電波な人」はいますか?

私の知人にはいます。

今回は「電波な人」という意味を知りましたから、少しは若い人についていける知識が増えたかも知れません。

昔、○○電波高校という学校がありました。もし、女子高生が笑ったら、電気を学ぶ学校と思っていないかも知れません。

[参考]
電波系
同人用語の基礎知識

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posted by edlwiss at 21:27 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年09月28日

教員のための医師も必要ではないか



先生のための精神科医師も派遣したらどうか。
posted by edlwiss at 18:47 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年09月28日

基礎を固める必要性

goyou.jpg文化庁による2011年度国語に関する世論調査によると、慣用句の意味を間違えている人が多いということだった。

例えば「失笑」の意味を「笑いも出ないぐらいあきれる」と間違って答えた人が60%だった。
(正解は「こらえ切れず吹き出して笑う」)

書く、読む、話す、聞くの国語能力をたずねたところ、いずれも低下したとの回答が多数を占めた。
(書く87%、読む78%、話す70%、聞く60%)

憂うべき結果であるが、問題は、実際に国語力が低いのに、低いと自覚がない人である。

一番、そうあってはいけない人たちは、学校の教師である。

「オレは先生だから、オレの言うこと、考えたことは正しい」という意識はないだろうか?

高校生が「先生の言うことは何でも正しいんですか」と言ってきたことがあると以前書いたことがある。

高校生は翌日謝ってきたことのだが、私は少しも不快に感じてはいたなかった。

突然のことで驚きはしたが、私にとってはよい刺激になったと思った。

むしろ、生徒がそのぐらい気軽にモノが言える環境がいいと思っている。

私はファイナンシャル・プランナーという資格を持っているが、この資格は一度試験に合格すればよいというものではなく、資格取得後も2年ごとに所定の単位を更新しないと、資格がなくなってしまう。

一度資格をとっただけでは、勉強しなければ能力は低下するという考えからこういう制度になっている。

bill.jpgこの「一度」というのはキーワードで、建物も一度建てただけでは、老朽化して強度が落ちてしまう。

放置すれば突然倒壊するかも知れない。

しばしば、学校先生の口から「専門」という言葉が出てくるが、あなたの専門は大丈夫か?

古いビルのように老朽化していないか?

「オレは先生だから(偉い)」

という錯覚はないか?

わかっているつもりであっても、誤用だったということはないか?

学校の先生は「一度言い出したことを訂正しない」と言われる。

もちろん、正しいことならそれでよいが、明らかな間違いであっても、なんだかんだと理屈をつけて結局訂正しないというのは最悪だろう。

そういう人は、すでに耐震性に疑問のある老朽化した建物のようなものだ。

一度、先生になった。もう何年も経った。ベテランである。ではなく、放置すれば基礎は危うくなる。

上にたくさん積むほど、基礎は固めなければならない。

だから、時々は、簡単なことわかりきっているということも確認して、基礎を補強することが大切である。

jiten.jpg


私は学習研究社の図詳エリア教科事典を愛読書のようにして、知識を確認している。

古い事典だが、非常に優れた本だと思っている。

教科別に分かれているので使いやすいということもあるが、レベルが小学校〜高校まで連続しているので系統性があって、復習には都合がよい。

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posted by edlwiss at 08:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年09月27日

根拠は必ず用意しておこう

私はクラリネットを教えることがある。

某団体は、辞令一つで人が演奏部門にまわされてくる。

それが初心者の場合もある。

半年で演奏できるようにしてくれと言われる。

そうすると、最も合理的な指導で「できる」ようにしなければならない。

時間がないので、説明時間を多くとることができない。

必然的に、指図するだけの指導が多くなってしまう。

まずは、どうすべきかを話して、それでいいとか悪いとかすぐに判断して、第一段階が終われば第二段階に進む。

■指導者のポイント、判断力

flowchart.jpgここで大切なのは指導者の持っている判断力

フローチャートで言えば、菱形のところだ。
(右の図は「フリー百科事典」ウィキペディアより)

プログラミングでもここは要のところだ。

判断力を働かせるには根拠が必要である。

優れた指導者はここがしっかりしている。

しっかりしているとは、判断をする根拠が的確であり明確であるということだ。

例えば、音程がよくないと言えば、音と音との感覚が広いのか狭いのかということである。

それを判断するには、聞き取れるだけの耳が必要である。

音と音の高さの感覚は機械で測れなくもない。

近年出まわるようになった音の高さを測る機械、チューナーは便利な機械だが、これに頼り切りでいい音楽ができるかというとそうではない。

なぜなら、絶対に普遍的に正しいという音の高さ(音程)はないからだ。

例えば、アンサンブルをしている時、主役がこう歌いたいという音程がある、その音程がその瞬間の正しい音程なのだ。

だから、指導者もそのあたりを加味して判断しなければならない。

このような意味では、指導者は判断力を培っていく必要があると言える。

以前の記事で書いたように思うが、昔、フランス・ブリュッヘン(以下、ブリユッヘンという)というプロ中のプロと言えるリコーダー奏者の講義を受けたことがある。

公開クリニックなので、指導を受ける生徒がいた。

この時の生徒は高校の先生で、音楽の先生たちの中でも有名な人だった。
自分にも厳しい人で、自分を自慢するようなところのない謙虚な人だった。

そういう人柄のせいか、すごく練習がしてきてあって、会場の人たちもみなそう思ったと思うが、これで何を注意するところがあるのだろうかという空気を感じた。

ブリュッヘンが何を言うのか、大いにみな関心を持ったと思う。

ブリュッヘンが始めに言ったことは

「そんなにスラスラと演奏してはいけません」

ということだった。

みな、不思議に思っただろう。

ブリュッヘンはその理由を、とうとうと語り出した。

それは、音楽史の講義と言えるものであった。

この時のクリニックは音楽関係者、指導者が多かったと思うので、時間をとって根拠を説明したのである。

私たちは気楽に音楽を観賞するが、優れた演奏家の演奏はしっかりした裏付け、すなわち根拠に支えられているとこの時思った。

これは、聞いた話だが、ウィーンに留学したKさんが対位法について学びたいと思い、知り合いをたどって先生の紹介を依頼した。

すると、ウィーンフィルのコントラバス奏者を紹介してくれたそうだ。

それで、Kさんは

「私は対位法について学びたいのに、コントラバス奏者なんて・・・」

と思ったということ。

それでも、せっかく紹介していただいのでということで、コントラバス奏者のところへ赴いた。

講義が始まったら、驚いたということ。

やはり、まるで学者と思ったということだ。

Kさんが感じたのは、ウィーンフィルという世界的なオーケストラの凄さは、こういうメンバーに支えられているからなんだということだった。

学校の教師も、一度覚えた知識の切り売りを365日、淡々と続けるのではなく、深く研究する態度が大切なのだろう。

それは、教えられる側からみれば、凄さ、信頼になるのではないか。

manneri.jpg■時間のあるときに根拠を話す

時間があれば、根拠を説明することがいいだろうと思う。

それは、単純指示はわかりやすいが、それだけでは命令を受け取って動くロボットのようなもので、教えられる人は自立できるようにならない。

根拠を説明するということは、教えられた者が自分なりに工夫して勉強できる道を開くことだと思う。

指導者自身、誰かから教わった経験があるだろう。

そして、それをもとにして教えているわけだが、時にはその方法(言っていること)に「なぜだろう」と振り返って根拠を考えてみるのがいいだろう。

もしかすると、それは、ただ教わったという理由だけで続けているだけで、もしかしたら「今は古い」やり方かも知れない。

「今は古い」というのは流行を追うということではなく、新しい研究によって、それは間違いとわかったということもあるだろうから。

実際、楽器の奏法はずいぶん修正されてきた。

そのため、今日では指導法が確立されてきたと言える。

だから、子ども(若い人)の上達も早くなったのだと感じる。

もともと、その子どもが持っている素質もあるが、指導法の確立により、先生の時代には1年かかったことが1ヶ月でできるようになったということがある。

生徒が先生を追い越すようになったということは珍しくないだろう。

指導法の確立は音楽分野だけでなく、あらゆる分野に及んでいる。

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posted by edlwiss at 12:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年09月26日

根拠を考えることの大切さ

3歳ぐらいの子どもは、やたらに質問をする。

遊びにつきあっていると「これ何?」「何で」・・・の連発で、相手をしていて疲れる。

それでも、質問に答えてやることは大切なのだと思ってつきあう。

恐らく、どんどん脳が発達しているのだろう。

そう思うと、この時期に相手をしてやることの大切さを感じる。

説明を求めてくる場合は、一応説明をすれば納得するらしいのでそれで終わるのだが「何で?」は根拠を聞いているので、困ることがある。

それは、今まで根拠を考えたことがないことを聞いてくるからである。

遊んでいたおもちゃを「箱に入れてしまいましょう」と言った時「何で?」と言われたら、どう答えたらいいだろう?

相手がこういう幼児でなくなった時、そんなに根拠を説明する必要もなくなるので、今度は根拠を考える習慣がなくなる

特に、現代の学校のように常に先に試験の成績の不安があると、どうしたら点が取れるかを考えるようになり、いちいち立ち止まって考えることは能率が悪いということになり、時間ばかり気になってしまう。

私は司法試験のための講義を受けたことがあるが、ざっと1000ぐらいの法律の条文は覚えなければならないことがわかった。

hatarakuriyu.jpgそれはいいが、一番の問題は、判例というやつだ。

裁判官は判決を出す時、判決理由を書く。

判決理由というのは論理的でなければならないものである。

だから、法律というのは論理的思考が必要だと考える。

もちろん骨格はそうである。

そして、権利というものは厳密に規定してある。

例えば、所有権とは何かと言えば「それは私のものです。私が持っていてよいものです」なんて説明ではダメで「所有権とは、そのものを使用する権利、そのものを利用して収益を得てよいという権利、そのものを自分の意思で処分できるという3つの権利の集合体なのだ。

自分の所有物が盗まれて、あるところで見つけたらどうする?
法律上は自分で取り返すことはできない。

なぜ?

盗んだ泥棒に占有権という権利が発生するからである。

「何で、自分のものを取り返していけないの?」

と、普通の人は思うだろう。

しかし、泥棒にも占有権があるというのには論理的な根拠があるのだ。

それは、国民が、いくら自分のものだからと言って、自分で取り返そうとすると、そこで争いが起こって治安が乱れるおそれがある。

治安が乱れるということは、国家として国を治めるという行為から考えると、国家が乱れることであり許せないことなのだ。

それではどうしたらいいか?

自分のものを取り返そうとする場合は、警察という国の機関に申し出て対処してもらえということなのだ。

勝手に取り返すということは、国の立場からしたらまずいということなのだ。

こういうのは、一応勉強すればなるほどと思うが、困るのは判例というやつだ。

判例は通常の法律と同じ効果があるので、非常に強いものである。

裁判の結果、それが判例になると有無をいわさず守らなければならないものである。

参ってしまうのは「どうしてこういう判例が出るの?」と思う判例。

早い話が論理的ではないのではと思ってしまうもの。

ゴルフ場で怪我をした時の裁判で、裁判官が判決理由で「スコアが100以下の人はドライバーを使うべきではない」と言ったことがある。

司法試験の予備校では、こういうことの論理はほとんど追究しない。

一応説明しても「この判例は、裁判官がこういう判決を出したかったので、こういう風にしたのです」と講師ははっきり言う。

つまり、裁判官は論理的に考えて判決を出したのではなく、先に結論を決めておいて、あとで理由をつけているということなのだ。

だから、つべこべ言わず判例を覚えろというものなのだ。

だから、六法全書を買うと「この葉書を出していただくと、来年の○月○日までに出た判例集を送ります」なんてことが書いてある。

受験生にとっては、試験日寸前に出た判例も大切なのだ。

裁判いかんで答えが変わってしまうからである。

■教師は常に根拠を考えるようにしたいものだ

マニュアル教師という言葉が聞かれるが、マニュアル□□は何も教師に限ったことではない。

今では、会社の人間もマニュアル化している。

「あなた、少しは自分の頭で考えたらどうだ」

と、最近、ある会社の営業に文句を言ったことがある。

私が危惧するのは、人がマニュアル化すると、どんどん知能を使わなくなって、バカになっていくのではないかと思うことである。

往々にして、教師は記憶していることを切り売りするだけで済んでしまう。

正確な知識を切り売りするならまだいいが、最もよくないのは、自分が思いつきで言うことはすべて正しいと勘違いして発表することだ。

それも、自分の発した言葉の根拠を考えてみないから間違うのだと思う。

例えば、すでにかつての記事に書いたことだが、

10Wのスピーカーと100Wのスピーカーがあった時、100Wのスピーカーの方が大きな音がすると説明してしまう人がいる。

「それ違ってますよ」

と言うと、間違いを教えてくれという人はいい。

そういう人は、私の基準から言ったら「いい先生」である。

問題なのは、プライドが高く、恐らく頭の中は固まってしまっているのだろう「100Wの方が音が大きい」と頑として訂正しない(訂正できない)人だ。

こういう人は、先生であったら、公害をばらまいているようなものだ。

給料をもらって、害を流してるという罪を感じてもらいたいものだ。

だから、私は根拠を考えることの大切さを訴えたいのだ。

「10Wより100Wの方が音が大きいと考える根拠は何なのだろう?」

と考えてみることだ。

生徒から根拠を質問されたら、どう答えるのか?

わからないのなら「わからない」とはっきり言ったほうがよい。

自分が発した言葉の根拠を考える習慣をつけましょう。

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posted by edlwiss at 21:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年09月25日

本音を知らずば問題解決に至らず

「金(カネ)のことを言いたいわけじゃないけど」と言う人に限って、金にこだわっている場合がある。

それを真に受けて「そうか、この人は金が欲しいわけじゃないんだ」と受け取ると、その先、話はさっぱり進まず、時間ばかりが過ぎていくことになる。

本音は「金がほしい」わけだから、金の話をしなければ、全く解決に至らない。

だから

「金の話を持ち出して、大変失礼なのですけど、ここはまずほんの気持ちだけですけど、とりあえず100万ほど・・・」

と言うと

「オレは何も金がほしいと言っているわけじゃないけど・・・それほどに言うなら・・・」

となってきたりする。

honne.jpg
「金のことを持ちだされてもねえ」

となったら、またこそっと、100万円の札束を積む。

「申し訳ありません」

(相手は札束をチラッと見る)

少し表情が変わって、穏やかになったら、金がほしいのが本音だと察知する。

人は、往々にして言っていることと本音と違うことがある。

毎日、愚痴や嫌味を言っている人は、愚痴や嫌味の中身が本音でない場合もある。

教員の悪口を言っている場合、自分が採用試験に受からなかったためのコンプレックスかも知れない。

私が知っている人で、小中学校の採用試験に挑戦した、一番回数の多い人は7回だ。

その人は自らその挑戦を話してくれたが、合格したせいか教員の悪口も言わないし、すがすがしい感じの人だった。

学校が悪い、教員が悪いという人が本音でそう思っているのなら、それではどうすべきかという案を出すと思う。

ニコニコ大百科によると、批判とは以下のように解説してある。
批判とは、人や物事の誤った箇所や悪い部分を、根拠を示しながら論理的に指摘し、改善を求めることです。
相手の過失や欠点、悪い点をあげつらって、感情的に責めたり、馬鹿にしたりすることは「非難」にあたります。

正しい「批判」を行うには、客観的思考や豊富な知識、理性的な態度、そしてなにより批判をする相手に対する思いやりが必要となります。
ただやみくもに相手の悪い所を指摘し、責めるだけ、というのは、自分の感情を相手に押し付けただけの「非難」でしかありません。


正しい批判は、相手に対する思いやりが大切とある。

思いやりとは、具体的に「こうこう、こうするといいよ」という案を出すということではないかと思う。

はじめに戻って本音ということを考えてみると、悪口(非難)、嫌味に終始する人は、自分が主役になれないことに腹を立てているのかも知れない。

だから、司会者は(リーダーは)その人の面子(メンツ)を考えて、その人が表に出るように配慮する方がいいのかも知れない。

実際、気の利いたリーダーはそういうことをやっている。

「あなたがいなければ、とてもやっていけないのです」

「・・・と考えていますが、いかがでしょうか?」

という言葉を入れて、嫌味氏がへそを曲げないように気配りをする。

嫌味氏が「良きに計らえ」という顔をしたら
「○○先生も同じ考えのようなので・・・」
と進める。

まあ、○○先生は何の案もないかも知れないけれど「さすが○○先生とか」「○○先生のおかげで」の言葉を忘れないように。

能ある鷹は爪を隠す

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posted by edlwiss at 22:30 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年09月25日

朝令暮改

野田総理が某民間放送のTV番組に出演し、原発ゼロを目指し閣議決定すると発言し、その数時間後の閣議決定でこれを実行しなかった。

朝令暮改の見本のようなもので、話題になっている。

朝出した命令が夕方には変更されているという意味で、朝令暮改という言葉ができたのだが、たった数時間で変わってしまったのだから、もっとひどい。

しかし、まあこんな総理の言葉も驚かなくなってしまった。

それより、消費税アップの理由として、税と福祉の一体改革〜国民のためにと口を開けば訴えていた野田総理の言葉に重みを感じなかったのは、これまで裏切られたきたという感じが積もり積もった結果ではないかと思う。

野田総理は口を開けば「国民のために」と言う。

これは、国民のためを思っていないから、国民のためにと言うのだろうと考えてしまうのは、私がひねくれているからだろうか?

同様に、あまりにも「子どものために」を乱発する先生(大人)は、子どものためを思っていないからそういうのだろうとも考える。

kakuduke.jpg
「子どものために」は先生(大人)の武器である。

子どものためにと言われたら、大人は何も言えなくなったしまう。

「そんな、ひどいじゃないか」

「子どものために、我慢してください」

これで終わりだ。

消費税も「お年寄りの福祉のために我慢してください」と言われたら反発できないだろう。

東北の復興資金だって、沖縄に道路を作るための費用として使われたり「これ何の関係があるの?」とおもわれるものも屁理屈をつけて出費されている。

福祉のための増税が、お役人の懐を暖めるために使われたら「お役人が元気でなければ、お年寄りに力を貸すことができないのです」と言うのだろうか?

今や、国が最も信用できない存在になりつつあるようだ。

経済分野では、S&Pやムーディーズが格付けをしているが、ここらで信用格付けというものも作ったらどうか?

そうすると、教師の信用格付けはどうかという意見が出るかな。

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posted by edlwiss at 15:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年09月24日

先輩から学ぶこと

先輩から学ぶことはたくさんあります。

それは、自分より経験が多いからです。

あえて、経験が豊かと書かず、経験が多いと書いたのは、先輩から学ぶものには良いものも悪いものもあるからです。

人は何も努力しなくても年は取ります。

それを錯覚して先輩風を吹かせる人もいます。

年上の人をバカにしてはいけませんが、先輩風を吹かせる人はただ年を取っただけの人が多いような気がします。

現実には先輩たちを見て、自分もあのようになりたいと思うのか、思わないか言うまでもないと思います。

人は年を取るにつれ、怖くなる人と優しくなる人がいるとある人が言っていました。

優しくなる人は、いい年のとり方をしてきたのでしょう。

普通なら、後輩は可愛く感じるようになるのではないかと思います。

私は新卒の時、かなり年配の先生が、顔を合わせるごとに「○○君、大したものだ。大したものだ」と口ぐせのように言ってくれました。

私は大した人間ではありませんが、それが、その老先生の励まし方だったように思います。

老先生は顔つきが怖かったので、子どもたちは担任発表の時に、はずれるように祈っていたようです。

ところが、新学期が始まってみると、その先生のクラスは子どもが快活で、本当に子どもらしいという感じでした。

PTAの会合で保護者と会った時、その先生の話をした人がいました。

「怖そうな先生だったけど、担任になってみると、とても優しくいい先生と子どもが言っていました」

という話でした。

老先生は、大声を出すでもなく、穏やかでしたが、クラスは落ち着いていました。

オーケストラも80歳ぐらいの指揮者のもとでは、すごくおちついて集中して演奏するところを見ると、何か似たようなところがあると思いました。

先輩は概して、後輩にはやさしいのが普通だと思いますが、中にはそうでない人もいるようです。

性格的に言い方がきつい人もいますが、思いやりのある人はきつい言葉の中にも心がこもっています。

しかし、確かに悪いところを指摘しているのだが、それが揚げ足取り、嫌味のような場合は、後輩を恐れているか嫉妬しているのかも知れません。

毎日、嫌味を言う。それでいて、自分は大したことをやっていないのは、結局、実のない人生を送ってきたからではないでしょうか?

何年か経った時、情けない姿になっていないように、時間を大切にしたいものです。

年をとって中身の充実した人は、謙虚だというのも私の共通した認識です。

「自分は大したことはないのだ」という自覚をしてくるのだと思います。

反対に中身が充実していない人は、充実を装うために、エラそうな言葉が多くなってくるように思います。

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posted by edlwiss at 18:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年09月23日

シナリオライターが批判されるとき

検察は厚生労働省の冤罪事件によって、信頼が低下した。

検察は、起訴しようとターゲットを決めると、逮捕に至るまでのシナリオを作るのだそうである。

netsuzo.jpgシナリオを作るのはいいのだけれど、問題は自分に都合のよい結論に持っていくために、創作をしてしまうことである。

もっとはっきり言うと、筋書きに必要な証拠は作ってしまうことである。

つまり証拠の捏造である。

この事件では、フロッピーディスクの日付改ざんということが行われた。

■自分の仕事が何かわかっていない

人間は嘘をつくし、悪いこともする。

だから「人間だから仕方がない」という言葉も、時に出てくる。

しかし、検察は世の中のために悪をこらしめる仕事をするところである。

だから、一般人より余計に正義感と仕事に対する誇りが求められる。

法の番人が法を破っていては、社会的信用が低下するだけでなく、市民の落胆は大きい。

■仕事に対する誇りを忘れないようにしたい

教師の仕事も教師としての誇りを必要とし、教わる者の期待や尊敬を抱かせるようにしなければならないことは、言うまでもない。

検察が批判されたように、シナリオライターになっていないか振り返ってみよう。

自分が主張したいことのために、必要な根拠を捏造していないか。

他人の行いを捏造して咎めていないか。

他人を咎めているのに、自分が同じことをしていても、まったく無頓着ということはないか?

私がこんなことを言うのは、実は他人を批判するためにあることないことを平気で作ってしまうのに、自分は正義を語っているように言う人間に遭った経験があるからである。

この者は、不思議なことに、事実を指摘されているのに怒る。

また、勝手に捏造していることを、事実と違うと言うと怒り出す。

そして、誹謗中傷されたと警察に訴える。

普通ではないなと思って、警察に問い合わせると、警察は「実は困っているんですよ」との話だった。

世の中には、精神鑑定の結果、治療を要すと判断されて病院に入院している人もいる。

そういう人たちは、入院中だから社会に出てこない。

だから、誰かに被害を与えることはない。

だが、問題は異常と正常の境目を行ったり来たりしている人がいるということ。

バイオリズムのように異常、正常の波があり、悪い状態のときの人との接触時に問題を起こす。

法的には制限行為能力者という規定があって、精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分である者として、保佐開始の審判を受け、成人並みの権利を行使できないように制限する制度があるが、そういう審判を受けていない者の法的行為は、警察としても受理をしなければならない。

それで、警察は困るわけである。

異常と思われる犯罪の中には、 このように時に普通人ではないと考えられるものがあるようだ。

刑事事件になるような犯罪に至らないまでも、言行不一致が激しいような人、矛盾が平気で同居しているような人は、当然、教師には適さない。

私の知っている教師にもそういう人がいて、校長は教師を辞めさせることもできず、苦慮している。

■シナリオライター、それ自体は何も悪くない

空想すること、妄想することそれ自体は何も悪くない。

しかし、私にもわからないことだが、本人は空想、妄想と現実の世界の区別がないのかも知れない。

本人が自覚して「この話はフィクションです」と断って書けば、何も問題ない。

だから、異常と間違われないためにも、自分の空想や妄想を駆使して捏造したいのなら、小説にしたらと思うのである。

もしかしたら、直木賞、芥川賞の受賞の栄誉に輝くかもしれない。

■フィクションでも実体験がなければ迫力はない

小説は概して、フィクションであるが、そのもとは自伝的要素が強いとか自分の体験をもとにしたものが多いようである。

だから、教職経験者がフィクションを書くにしても、実践をしっかりしないことには良い小説は書けないと言えよう。

人間は神様ではないのだから、人間社会のあらゆる活動を俯瞰的に見ることはできない。

だから、未体験の部分は創造する(想像する)しかない。

想像部分をあたかも事実のように言いたいから、小説(フィクション)にするわけである。

教師はドキュメンタリーとフィクションのけじめをしっかりつけて、職にあたりたいものである。

どうしても、想像部分を事実のように語りたいなら、小説風あるいは小説にしてほしいと思う。

私の先輩には、教師をやりながら実際に小説家になった人がいる。彼は文学賞を授かった。

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posted by edlwiss at 20:59 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年09月23日

自分の臭いは自分ではわからない

なかなか自分を客観的に見ることは難しいと思います。

しかし、努めてそうすることは大切なことと感じています。

「自分の臭いは自分ではわからない」これは、宿命的なこととも言えます。

「私は自分を客観的に見ることができるんです」と言った首相がいたということは、前述しました。

そうは言っても、そういうことが客観的でないとも言えます。

私が音楽に携わるのも、自分を客観的に見つめる補助的手段という考えがあるからです。

特に他人と一緒に演奏するアンサンブルの場合、リズムや音程が違っていてはうまくいきません。

楽譜は数学とも言えるほど厳格なきまりからできています。

他人と一緒にアンサンブルをやったとき、合わない場合は誰かが間違っているわけです。

その人の音楽性がいかに高くても、間違いは間違いです。

人と一緒にやっていて合わないときは「自分が間違っているのかな」と思うことは多いです。

音楽活動をしている人の多くは、そういう気持ちを常に持っていると思います。

だから、練習で演奏を中断すると「何がいけないのか?もしかしたら自分かも」と思うわけです。

アメリカでは吹奏楽が盛んで、正規の教科にも取り入れられています。

これは、吹奏楽が教育的によいと言う考えから取り入れられたということです。

子どもに吹奏楽を指導していて、演奏を中断すると、子どもはすぐ先生が何を言うかと集中します。

でも、これはひとつレベルが高い段階とも言えます。

上手でないバンドは先生が指揮棒を止めても、すぐに自分の音を止めなかったり、私語をしたりします。

しかし、レベルが上がってくると、すぐに自分のやっていることをやめて先生の話を静かに聞くという姿勢が身についています。

そして、人の意見を聞いて、客観的に自分を知るという機会を何度も経験するわけです。

今日、65歳以上の人口が3000万人を突破したと報道されましたが、団塊の世代は年をとっても何か勢いがあると感じます。

それは、戦後の日本を引っ張ってきたからでしょうか?

段階の世代は、退職したから音楽教室へ通うという人もいます。

吹奏楽に限らず、何か楽器に親しんで人とアンサンブルをするということは、他人との協調性を養い、かつ自分の個性を主張できるというすばらしい経験をすることができると思います。

だから、自分の専門分野のようなものにとらわれず、多くの人が教養として音楽に親しむと、世の中はすごしやすくなるのではと思っています。

■自分の体臭にも気をつけたい

先日、コンサートで席に着いたとき、ひどい悪臭がしてきたのに平衡しました。

隣を見ると、シニアの方でした。

ご自分では臭いに気がついていないのでしょう。

人前に出るときは、自分が悪臭を放っていることに気がつかないのではと思います。

でも、他人は「あなたクサイですよ」とはなかなか言ってくれません。

言ってくれるのは、身内ぐらいなものでしょう。

40歳を過ぎるころから、加齢臭が増加するそうです。

私は他人の悪臭、加齢臭にゾッとしたので、何か対策をと思い、ネットで探した石鹸を使うことにした。

効果のほどは、親しい人に聞いてみたいと思っています。

いずれにしても、性格も体臭も自分の臭いには注意したものです。





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posted by edlwiss at 13:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2012年09月22日

慣用句の間違い

posted by edlwiss at 19:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年09月21日

負け犬は嫌だと思う

MIXIには「パソコンがないと生きていけない」というスレッドがある。

確かに、今はパソコンを使わない仕事を探すのが難しいくらいだ。

今、パソコン教室というと、Windowsやワープロ、表計算の使い方などを教えるところになっている。

つまり、アプリケーションの使い方の指導をしているのである。

しかし、パソコン(昔はマイコンと言っていた)の黎明期は、アプリケーションそのものを自分で作らないとパソコンを利用することができなかった。

だから、パソコン教室と言うとプログラミングを教えるところだった。

まだ、パソコンを売る店などなかったが、将来はパソコンの時代が来ると予感していた人は、かなりいたように思う。

まあ、理科系の人が多かったと思うが、その人たちはかなりの大金をつぎ込んでパソコンをそろえた。

しかし、機械はそろえたがどうやって勉強をするのかと考えたとき、ほとんど資料がなかったためか挫折した人は多かった。

先輩たちは、どこからかコンピュータを手に入れて「これからはコンピュータを使えるようにしなければダメだぞ」なんてことを言っていた。

私はある日、決心をして借金をしてコンピュータ(パソコン)をそろえた。

買ったのはいいが、薄っぺらな説明書がついてきて、読んでみると、なにやらわからない用語のオンパレードで、どうしようもないという具合だった。

だから、まず用語の意味を調べなければと思ったのだが、調べる本がない。

すっかり壁にぶつかってしまった。

先輩たちはどうしているのだろうと思ったら、あれほど得意そうに話をしていた先輩たちは、少し様子が変わっていた。

どういうことかと言うと「コンピュータなんてものは・・・」という話し方に変わっていたのである。

わかりやすく言えば、挫折したのである。

挫折したのであるが、挫折したと認めたくないのが、人情だろうか。

だから、あれほどコンピュータと言っていた人たちが、コンピュータの悪口を言うようになった。

そういえば、大学の先生の中にも雑誌に「BASICが必要だというので勉強したが・・・役に立たない」なんて口調でコンピュータを否定する記事を書いていた人がいた。

■人はできないと、否定する理由を探す

「別に外人と話すわけじゃないから、英語なんて必要ない」

とは、成績の悪い中学生の言葉だった。

人は、自分が無能だとは認めたくないという心理があるようだ。

このことは、学校の教師の世界にも言えるような気がする。

先輩が後輩に厳しく言うのはいいが、言っていることが否定ばかりという文章を読んでいると、なんだ、結局、自分が挫折しているんじゃないかと感じるものがある。

東大に入れなかった人が東大の悪口を言うようなものである。

東大に入学して、自分の思った世界と違っていたから、中退したというのならたいしたものである。
(もちろん、成績不良で卒業ができなかったというのは話にならない)

多くの人が羨む東大を中退して、東大のレベルを凌駕するような研究や仕事をしなければ、東大の悪口を言ってもみっともないだけである。

■負け犬はみっともない

現行の学校は金属疲労を起こしていると、しばしば批判される。

makeinu.jpg確かに、私も問題は多いと思う。

問題と思う教師もいる。

だから、鋭い批判を下すのはいい。

しかし、批判は悪口とは違う。

ただ否定するだけで、何の参考にもならない意見は、犬猫の糞と同じである。

小学校も高学年ぐらいになってくると、叱ってくれる先生を好きだとか、いい先生だと言うことがある。

それは、叱ってくれる中にためになることがある。私たちのことを思って叱ってくれるのだと感じるからである。

学校批判、教師批判はいいが、その中に学校の将来、教師の将来を考えて、後押しをするような意見が含まれていないのは、単なる悪口(誹謗)であり、自分が負け犬だと宣言しているようなものである

最近のNHK-BSの再放送、リーマン予想に挑戦した数学者たちの話はすばらしい内容だった。

自分も数学を志して、悪戦苦闘したかったと思わせるものであった。

番組の終わりの方には、まだ誰も証明していないこの難問に、今も日夜挑戦している77歳の数学者が出てきた。

年金をもらえるような年になると、気楽になってしまう人もいるが、この数学者のように挑戦を続ける姿を見ると「人間はいいなあ」と感じる。

だが、自分はできないから、悪口や嫌味しか言えない人を見ると「この人は終わった」「負け犬の遠吠え」と感じる。

先生たちには、負け犬になって欲しくないと声を大きくして言いたい

なぜなら、目標に向かってがんばる姿は、それ自体が教師としての教えだと思うからである。

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posted by edlwiss at 23:09 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年09月19日

教科書どおりにいかないところが問題です〜実践の大切さ

ここでいう教科書どおりとは、学校の教科書という狭い意味ではなく、あらかじめ想定した計画や機械などの操作マニュアルのことを言います。

なるべくわかりやすい説明ということで、パソコンを例に挙げてみます。

私の家は駅に近いということもあって、民間のパソコン教室があります。

このパソコン教室に行く人は、若い人だけでなく年の多い人もいます。

パソコンやインターネットを利用する年齢層を想定すると、若い人が多いという先入観もあるようですが、そうとは限りません。

以外に20代の若者層が少ないということが、統計を見るとわかります。

これは、20代がパソコン教室に行かないという意味ではなく、パソコンやインターネットの利用が意外に少ないということです。

20代は車も欲しがらない、ビールを飲まないなど、最近のこの年代は従来と何か違うという話題が多くなっています。

これは将来の世相を予感させるものかも知れません。

■生徒の不満

パソコン教室に通っている生徒の不満に、自分の使っているパソコンの質問に先生が答えてくれないというものがあります。

これは、パソコン教室はWindows7なので、生徒が自宅で使っているWindows VISTAの質問をされても、先生がわからないという場合があるからです。

民間の教室も、利益を考えると指導者を育てる余裕がないのでしょう。
若い即席の指導者では、指導者自身がWindows7だけで教育されてきたり、講師養成のマニュアルだけで覚えてきたからなのでしょう。

Windows VISTAならそんなに古くないので、わかる指導者はいるかも知れません。

しかし、Windows XP、98、95となってくると、質問されても困る場合があるでしょう。

場合によっては、DOSの知識が必要な場合もあるでしょう。
そうなったら、完全にお手上げということもあります。

shutainer.jpgそれに、パソコンはマニュアルはあっても、マニュアルどおり動作するとは限らない場合があります。

そうなると、経験が少ない指導者では対応できない場合があるでしょう。

■マニュアル通りにいかない時こそ指導者の価値が問われる

現場対応力という言葉がありますが、これは実践を積み上げないとつかない力だと思います。

知識はもちろん大切ですが、現場を経験しなければわからないこと、現場でカンを働かせて身に着ける能力は非常に大切と思います。

ベテランといわれる人の価値はこういうところにあると言えるのであり、百戦錬磨と言われる経験がものを言うわけで、ただ年を取っただけの人はベテランではありません。

初心者とベテランの違いは、教科書どおり(マニュアルどおり)にいかない時に出るもので、そこにベテランから学ぶ意味もあるわけです。

日本は団塊の世代が65歳を迎えて、高齢化がますます問題になっていますが、会社によっては定年の社員を退職させないで後身の指導に当てている会社もあります。

長年の経験でノウハウを持った社員をすぐやめさせるのは、会社にとっても財産を失うようなものであるとも言えます。

■実践者の話にはリアリティーがある

簡単な話でも、実践者の言葉にはリアリティーがあります。

それは、実践から身についたものが自然に言葉に現れるからでしょう。

だから、人をひきつけるものがあるし、説得力がある。

反対に、実践のない人の話は空想ばかりで、眠くなるような話が続いたりする。

空想につぐ空想で、妄想かと思うこともある。

■実践者は褒めることができる

何かを分析するとき、悪いところばかりでなく、良いところをみつけることも大切と思う。

批判はいいが、悪いところばかりしか言えない人は、それは批判ではなく単なる悪口を言っているだけということもある。

今、私は野球中継を聞きながら作文しているが、解説者は、やはりプロ野球の選手として実践を積んできた人なので、言うことに重みがある。

選手のことを悪く言う場面もあるが、聞いていて後味が悪いと言うことはない。

また、いいところはいいと言っている。

実践なくして、悪く言う人の言葉は後味が悪い。

なぜ後味が悪いのか、それは、何のためにもならない悪口だからである。

ただ相手を誹謗したいだけの言葉と感じる場合もある。

それは、相手を下にして自分を相対的に高めようとしたのかも知れないが、みっともないだけである。

■教師の評価は教え子でわかる

義務教育(学校)では、児童生徒は先生を選ぶことができない。

だから、児童生徒にしてみれば、先生との出会いは運命と言える。

そんな場合でも「○○は俺が育てた」などと吹聴する人がいる。

児童生徒にしてみれば、好むと好まざるにかかわらず、その先生と縁があっただけである。

その先生とたまたま縁があったために、その児童生徒にしてみれば不運だったかも知れない。

だいたい、俺が育てたなどと吹聴する先生は、いい先生ではないと思う。

優れた先生に育てられた子どもは、その先生の影響を受けているから、指導者として優れた先生の教え子には共通したものが感じられる。

教師としては、教えるということで、満点の教え方と思えることはなく、むしろ芽を摘んでしまったのではないかという後悔のほうが多いのではないか?

だから、私はかつての教え子に会うと、いつも恥ずかしい感じがするのである。

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posted by edlwiss at 20:00 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年09月18日

2012年09月17日

感動の実体は何か

人に感動を与えると言っても、人に何かモノをあげるわけではない。

近年、人によっては思考回路が変だと感じる場合があり、そのひとつが、自分では「ピンポイント思考」と言っているのだが、これはピンポイントでしか考えられない思考のことを言う。

これだけでは、何のことかそれこそピンとこない人もいるかもしれない。

ひとつ、具体例を挙げてみよう。

私の家には、身分不相応とも言える複合機が設置されている。

身分不相応と言うのは、大きな会社の事務所にあるようなフルカラーのコピー機で、最大A3まで印刷できるものである。
複合機だからFAX、SCANER、印刷が一体となった機械でレーザー方式である。

これをリースで導入しているので、毎月リース料金を払っている。

ところが、ある日ネットのセキュリティーの機械を導入してくれと言ってきた。

私は、セキュリティーは自前でやっているからいらないと断った。
それに、これ以上経費を増やすことはできないという理由も言った。

しかし、1年間は経費が増えないようにするから導入してくれと言ってきた。

それで、1年経過後はどうするんだと言ったら、その時は機械を入れ替えて経費が増えないようにすると言ったので、そこまで言うならということで了解した。

ところが、1年経過しても会社は何も言ってこなかったので、私は、当初の約束と違うという旨を伝えた。

そうしたら、新しいプランを提出してきた。

書面をよく見ると、確かに月の経費は増えていなかった。

しかし、よく見ると、なんと総経費は増えているのではないか。

そこで、私は当初の約束と違うと伝えた。

すると、担当者は、リースの組み換えではこのような方法でしかできないと言って来た。

ここまでで、相手の会社の言い分がおかしいということが、読者はおわかりになるだろうか。

整理してみると

A.経費が増えないことで了承した

B.リースの組み換えではこの方法しかできない→結果的に経費は増える

このAB二つの項目が問題の焦点である。

私はAで了解した。
しかし、相手の会社はBを主張してくる。

AとBを単独で話をすれば、どちらも正しい。

だから、相手の会社の担当者はBを盛んに主張する。
そして、Bだけを聞いていたら、誰が聞いても正しいことになる。

だが、AとBは互いに矛盾する。
それでも、この話の解決はAB合わせて解決しなければならないものである。

としたら、AとBのどちらの優先順位が高いかということになる。

ずいぶん長い時間話をしたが、担当者はBのことだけしか考えられないようであった。

人によっては、リースの組み換えのルールだけを聞いたら納得してしまうかも知れない。

私もリースの組み換えの話は理解できる。

しかし、私はAの経費が増えないということで了承したのであり、これが話の大前提である。

経費が増えないために行う工夫の中身は、こちらの責任ではない。
リースの組み換えのお願いもしていない。

だから、できないと言うなら始めから提案すべきではない

このように、いくつかの項目があって、それぞれは正しいのだが、総合すると矛盾の衝突が起こり解決への思考が働かないとき、私はピンポイント思考なるものを考えてしまうのである。

そして、頭が悪い(おかしい)と思ってしまう。

担当者は、一方的に自分の都合を主張するだけで水掛け論となった。

どちらも譲らないのなら、もう法的解決しかない。

私はそのことを伝えて電話を切った。

次の日、休日であったが、会社の上司と思われる人から電話がかかってきた。

この上司はこの総合的に考えると、矛盾する話を理解して、お詫びの言葉を述べた。
そして、新プランを提案すると言って来た。

■人に感動を与えるとはどういうことなのか

前置きの例が長くなったが、言いたいことは、思考が浅いので本質をとらえることができない人がいるということである。

ものごとを深く考えることのできない人は、文字を読むことだけしかできないのかも知れない。

だから、感動を与えると言うと、リンゴを与えるということと同じように考えてしまうのかも知れない。

「あのパン屋さんは感動を売っている」

と言うとき

「何だ、あのパン屋はうまいパンを売らずに感動を売っているのか(本末転倒だ)」

というのは、笑い話になってしまう。

感動を売っているパン屋さんとは、うまいパンを売って、客がそのおいしさに感動するという意味である。

古いコマーシャルであるが、缶コーヒーの宣伝で

「そうか、このコーヒーってノンシュガーが入っているのか!」

というのがあった。

笑いを誘う意図があったわけだ。

でも、教師たるもの、意図的にこのようなうけを狙った話はいいとしても「感動を売って、うまいパンを売るのじゃないのか?」なんて思考をしたら、頭が悪いと思われてしまうだろう。

頭が悪いというのは知能の問題である。

機械的暗記が押し進まれ、知能を高めることをやってこなかったのは、戦後の学校教育の欠陥だと思う。

その欠陥教育によって汚染されたのは、一部では教師にも及んできたと感じる。

■感動は結果である

感動を与えるとは、感動という結果を与えることであり、リンゴを与えるというのは、リンゴというモノが移動することである。

同じ与えるでも、この違いが区別できるのは知能の程度である。

感動を売るパン屋さんは、うまいパンを作って食べた人がおいしいと感じることである。
(感動という文字の入ったパンを売るのは、ユーモアでおもしろいかも知れない)

教師の場合、授業を受けたものに感銘を与えることである。

kandou8.jpg■感動を与えるとは意図的な場合も意図的でない場合もある

人が喜んだり、感動したりする姿を見るのは楽しいことである(少なくとも、私はそうである)。

多くの音楽家は、聴衆に感動してもらいたいと思って努力をすると思う。

しかし、すごく努力したから感動してもらえるとは限らない。

作曲家のビゼーはカルメンの作曲で有名であるが、今日では傑作として誰もが認めるし、感動を呼ぶ曲である。

しかし、作曲された当時は悪評だった。

そのせいで、落胆して38歳の若さで亡くなったのかも知れない。

ブラームスは評判を恐れて、第一交響曲を21年もかけて作曲したらしいが、結果は好評でホッとしたのかも知れない。
その結果、気を良くして、その後の交響曲は比較的早期に発表されている。

■受けを狙うのではなく、誠実な仕事をするのがよい

音楽に限らず、人前に何かを発表するということは、勇気のいることだと思う。

だから、頼まれもしない評論をして自身は何もしないという人よりは、叩かれても発表する人の方が好きである。

蒸気機関車を発明したのはスティーブンスンと、紹介されているらしい。
社会科の教科書にそう載っていると聞いたが、今でもそうなのだろうか?

NHKがずいぶん製作費をかけた「人間は何を作ってきたか」のシリーズでは、真の発明者はリチャード・トレビシックであると紹介されていた。

イギリスではトレビシックが発明したと、プレートに刻まれているということも紹介されていた。

スティーブンスンの名前が目立つのは、時代に生きた二人の運が影響していたらしい。

このように、偉大な仕事をした人でも、その功績ほど評価されず不運と感じる人もいる。

しかし、教師たるもの表面的な受けを狙うのではなく、ひたすら誠実に仕事をすべきだと思う。

私が中学生の時だが、職員室に入ったとき、H先生の机の上に製作中のアンプが置いてあったのを見た。

高級そうな黒光りするトランスが、アルミのシャーシーに取り付けられていたのを目に焼きついている。

この先生の製作したアンプで音楽を聴かせていただいたとき、その音に衝撃を受けた、つまり感動したことがあったので、机上の製作中のアンプは印象深かったわけである。

その後、私は趣味がアンプ作りとなり、半田付けには自然と習熟したので、大学時代に先生に褒められたことがある。

中学時代に先生から与えられた感動が、その後の私の人生に影響したと言える。

H先生にしてみれば、他人に感動を与えようという意図はなかっただろう。

点数を取ることが学力とか教育とか勘違いしていないか、教育というものをもっと広い目で見てみることを忘れないようにしたいものだと思う。

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posted by edlwiss at 21:49 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年09月16日

感動を与えられる人に

kandou5.jpg学校教育に限らず、仕事は誠意をもってやることが大切と思います。

テレビやラジオは毎日、すごくたくさんの情報を流しています。

いよいよ、秋という感じにもなってきましたが、秋になると芸術祭参加番組も放送されます。

制作者は人々の感動を呼ぶ、つまり人の心を動かすように番組を作るのでしょうが、それが意図通りに伝わらなかったり、反対に予期しない反応があって喜ぶこともあるでしょう。

いずれにしても、口先だけの人より、何かに全力で打ち込む人が私は好きです。

そういう意味では、何でも一生懸命にやっている人の心は、みな同じとも言えます。

私はある時期マンションに住んでいましたが、一階にテナントがありパン屋さんがありました。

そのパン屋さんを訪れた時、少し話をしました。

パン屋さんが

「一生懸命やっているんですけどねえ」

と言ったことばが印象的でした。

朝早くから起きて、家族を支えるために、いつも、本当に一生懸命働いているという様子が感じられていたので、その言葉に込められた感じが印象強かったのです。

一生懸命やってもなかなかうまくいかない。

人生にそういうことはたくさんあると思います。

一生懸命やったあげく、借金が増え、ボロボロになってしまったという人もいるでしょう。

だから、自分は安全路線を歩もうと考える人もいるでしょう。

親は、子どもが冒険をしようとすると、反対する場合がある。

それは、人生でつまずいてほしくないと思うからでしょう。

でも、何事も死ぬか生きるかの必死さがないような人生を経験しないでは、他人の心などわからないといえるような気がします。

もちろん、どう頑張っても他人の本当の心などわからないので、厳密に言えば「他人の心を推しはかる」ということになります。

そういう意味では、人はみな孤独な存在であると言えます。

しかし、その孤独な人間同士が互いに共鳴できた、心が通じ合ったという経験ができるには、必死さのある体験がなければ実現できないと思うのです。

サマセット・モームの「月と六ペンス」は、平和な家庭生活を送っている何不自由ないサラリーマンが家庭を飛び出し、画家になってタヒチに渡る話ですが、この小説にはモーム自身が送った孤独な青年期が反映しているような気がします。

小説はフィクションですが、そのもととなった題材にはノンフィクションがある。
だからこそ、人々の心をうつ作品ができるのだと思います。

学校の教員という身分は、職業の中でも生活に不安のないものだと思います。

だからこそ、毎日の生活の不安を抱えている人の気持ちは理解し難いし、なかなか感動の体験はできないのかも知れません。

できたとしても、浅いものかも知れません。

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posted by edlwiss at 22:32 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年09月14日

感動はどこに

小学生のころにある有名なトランペット奏者の演奏を聴き、自分も将来はトランペット奏者になりたいと思った少年がいました。

彼は中学校で吹奏楽部に入り、高校、大学と音楽の専門を選択し、今はプロの音楽家になっています。

彼が音楽のプロになったのも、小学生のとき聴いたトランペットに感動したからと言えます。

このような例は、音楽に限らず多方面にあると思います。

巧みな指導も大切ですが、人は感動することで、自分の目標に対する強いエネルギーが出てくると言えます。
kandou3.jpg
教え方が不器用であっても、感動が子どもに強いやる気を起こさせるという言い方もできます。

子どもには感動を与えることのできる指導というか育て方は大切だと思います。

こう考えてきて、自分が指導的立場に立っている時、果たして感動を与えられたかという問い直しをしてみる必要を感じました。

改めて、感動は大切なものということで、世の中を眺めてみると、最近のニュースの中では東北の復興をめぐる取り組み、被災の経験談の中にたくさんの感動が伝えられています。

感動が伝えられていると言っても、感動はその情報を受け取った人が感じるものですから、感動するかどうかには個人差があるでしょう。

これはモーツァルトを聴いて、何も感じない人と、感じる人の差のようなものも同様でしょう。

いずれにしろ、教える側の人間が無感動では教えられる側にも感動は伝わらないのではと思います。

学校の教師には定年がありますが、それはきまりとしての定年です。

しかし、教える人の心が冷めたら、そのときが実質の定年ではないかと私は思うのです。

今朝のNHKドラマでは「死ぬ直前まで医者でありたい」という言葉が出てきました。

学校の先生も、先生でありたいという気持ちがなくならない限り、年齢に関係なく先生だと思うのです。

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posted by edlwiss at 13:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年09月12日

東北はなぜ復興しないか

最近、NHKでも取り上げられましたが、復興予算の19兆円の使途が疑問視されていました。

私は、放送を見ながら、やっぱりそうなんだと思いました。

このたびの震災の復興予算として、国会で19兆円を国民の負担で集めることが決まり、所得税の増額などにより確保されました。

それで、東北はその予算を使って復興が進むはずでした。

ところが、その予算が復興とは関係ない方面に支出されていました。

被災者の中には、商店などを再び経営しようとして、資金の申請してもかなりの人たちが認められませんでした。

復興とは関係ない方面に支出しておきながら、本命の復興には資金を出さないという、またしてもインチキが国政において行われているわけです。

残念なことですが、この国の政府の信用は低下するばかりです。

年金問題にしても、社会保険庁はでたらめをやっていたし、その責任を誰がとったのでしょう。

歴史をさかのぼって見ても、国は国民をだましてきているというか、舐めているようにしか思えません。

だから、今回の消費税の増税についても、表向きはまともらしいことを言っていても、結局、福祉などには回らないのではないかと思っています。

何年か先に、当初の計画と違うところに出費していたということがわかるのではないかと思うのです。

「まさか」と思うことが行われてきた経緯から、今回も裏切られることになるような気がしてなりません。

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posted by edlwiss at 22:44 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会時評

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