2012年10月31日

それでも痛くない?織り込み済み?


2億円の制裁でも、10億円儲かっていたら何も堪(こた)えない。

まじめに株取引を行っている人は怒るべきである。

日本の金融商品取引法は、情報を漏らしただけでは処罰されないザル法である。

内緒で情報をもらった人だけが得をする。

もらった情報に基づいて取引を行ったときのみ処罰されるので、情報を得た人は増資の公表前に空売りすることで、法に引っかからない。

正直者がバカをみる仕組みである。

復興予算が他に流用されたように、どうもこの国は国民をバカにしているようである。

やはり、国民を下々の者と見ているらしい。

国民に見えるところ、聞こえるところだけはまともなことを言い、見えない実行の段階では違うことを行う。

私は何党でもない。よい政治をやってくれる政府がいい。

今の政権は、表と裏があることでは、前の政権より悪くなった。

上がまじめにやらなくて、子どもに正義を説くことは恥ずかしい。

まあ、恥と思わないから問題なのだが。

まだ、戦前の悪癖は払拭されていない。

国民は投票行動で示すしかない。

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2012年10月31日

人をほめるといい結果が出る

人をほめるといい結果が出るとは、多湖 輝(たご あきら)・著人をほめるといい結果が出る (新講社ワイド新書)(WIDE SHINSHO172)の書名である。

多湖 輝氏は1966年発行「頭の体操」がベストセラーになった、心理学者である。

それでは、これから人をほめることにしようかということになるが、私は無意識のうちにほめることは多くなったような気がする。

それは、先にも取り上げた人は、みな違うDNAを持って生まれてきているということから、他人は自分にはないいいところがある
と思うようになったからだと思う。

hitowohomeru.jpg
別な言い方をすれば、何でも貪欲に学んでやろうということなのだ。

だから、当然、自分が教師の立場であっても、生徒が下という意識はないのだ。

いや、相手が人間のみならず、それが猫であってもすばらしいと思うことがある。

猫はすばらしい、スポーツマンだと思う(いや、スポーツキャットと言うべきか)。

本当に、猫の運動能力にはいつも感心して見ている。

そういえば、音の静かな扇風機を作った会社は、鳥だったか、昆虫だったかの羽根に学んだと言っていた。

脱線したが、何教科の総合点が何点ということが、人を見る目の基準となっていては、多くを学べないだろう。

人はみな違う、だから、その人にしかないいいところがあるとの観点に立って学ぶには、そのいいところを見る目が必要である。

そのためには、クルト・レーデル氏の「学べることは学ぶべきである」は指針になる。

それは、すでに先人たちが残してくれた業績をできる限り学ぶべきということである。

具体的には、たくさん本を読めということになる。

かつて、企業ではブレインストーミングという言葉が流行ったが、頭を柔軟にするには既成概念を持たないことが大切である。

300人生徒がいて、試験を行うと、1番もいれば、300番もいる。

生徒はこの成績を見ると、300番の者はショックを受ける。

しかし、実際この1番と300番の間にはどれほどの差があるのだろう。

■成績は見ない方がいい

かつて中学校の吹奏楽部を指導して、コンクールに燃えている時、コンクールの会場に行くと、毎年出てくるいわゆる常連校がある。

どのパートがいいか記憶に焼きつく。

あのすごい金管パートは来年卒業する。次は大したことはないから、来年はチャンスだなんて考える。

ところが、1年を過ぎるとその学校のレベルというものが維持されている。

プロ野球で言えば、エースが抜けてしまったから、今年はだめかと思っていると代役が育っているようなものだ。

事実、私の経験だが、年が変わって3年制が卒業した後、メンバーが1年シフトして入れ替わりになる。

上手だった3年制が卒業して、今度のトランペット頼りないなあ、大丈夫かと思っていたことがある。

まあ、それはそれとして、練習では昨年優秀だった生徒と同じような要求をしていた。

生徒は厳しい要求に「はい、はい」と素直に聞いてくれて、私としては例年と同じペースだなあと感じていた。

昨年は上級生の陰で、目立たない存在だった者が、やはり同水準になる。

私はある日、そのトランペットの男子の成績を偶然見て驚いた。

見事に9教科全部に「1」が並んでいたのだ。

昨年の生徒は、それとは全く反対と言える、オール5に近かったから余計に驚いた。

これも、私の経験だが吹奏楽部には成績のいい生徒が集まる傾向があった。

でも、すべてがそうではない。

しかし、練習では成績を意識して指導したことはない。

今思うと、それがよかった気がする。

あの霞が関の人たちは、ああいうところへ就職してからも学生時代の順位が好きで「あいつは何番だった」とかいう話が好きだと聞いたことがある。

指導される生徒側から見たら、先生が成績で見ないという空気を感じているのかも知れない。

私から見たら、あの序列をつける成績は関係ないと言える。

いや、どの生徒も特徴があって、学ばせてもらったのは私の方と言えるだろう。

同様に、先生たちもみな違う人間なので、どの先生からも学ぶところはあると言える。

その先生から自分にないところを発見すれば、自ずから「先生、○○のところ素晴らしいですね」という言葉が出るだろう。

ほめない人というのはどういう人なのだろう?

いいところが発見できないのか?

いや、自分よりいいところを見て嫉妬しているのか?

どちらにしても人をほめるといい結果が出るということになると、人の悪口を言うと悪い結果が出るということになるのだろうか。





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2012年10月31日

交付税遅れ、地方を直撃



政治には嫌気がします。

野田内閣は何を考えているのだろう。
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2012年10月30日

成績に現れない能力

受験競争は重箱の隅をつつくようなものだと言われましたが、その意味では受験を通過した者は重箱の隅競争の勝者と言えます。

重箱の隅をつつく競争も、競争の一つですから、その競争に勝つことはいいことかも知れません。

でも、重箱の隅のために青春時代の大半を費やすことはどうなのかと疑問を持ちます。

企業での採用は、学校の受験とは違いますので、重箱の隅対策がどれほど通用するのかわかりません。

企業側としても、仕事のできる有用な人材が欲しいわけですから、企業により採用の仕方も異なってきます。

高校入試では、推薦以外は中学校からの内申書と入試当日の試験で決まりますが「学問は人を作るためにある」に照らしあわせた時、どれほどの者が合格とされるのかは、かなり未知数です。

高校入試が終わると、中高連絡会があります。

私のクラスにいたA君のことについて、高校の先生が次のような話をされました。

「A君は目立たないが、与えられた仕事を黙々とこなす。会計の仕事を任せられた時、大変几帳面に仕事をし、みんなからの信頼を得ていた」と書かれていましたので、A君については○○の仕事を任せました。そうしましたら、非常にしっかりやりまして、仕事ぶりには驚きました。


文章ではうまく表現できませんが、仕事を丁寧にやるとの言葉だけでは、人物評価というのは伝わらないと思います。
私はA君の人柄を、高校の先生が認めてくれたことに大変嬉しい思いをしました。

金融関係の一流企業は、給料がいいということで、大学生の応募も多いようですが、企業の内部の人に聞くと「毎年、何人かは集金などで現金を目の前にすると、横領してクビになっている」と言われます。
難しい試験を突破し、一流企業に合格し、定年まで勤めたら相当な所得を得ることになるし、年金もいいわけですが、そういうことを考えると、目の前のお金に目が眩んでつい手を出してしまうことは割が合いません。

いくら成績がよかったとしても、仕事に対する忠誠心や誘惑に負けない心、冷静な判断と言ったところは、今のような試験の成績だけでは測れないでしょう。

だから、採用する企業側としては悩むのでしょうが、重箱の隅をつつくことが教育と勘違いしている教育関係者にも問題があるし、国の教育政策としても反省の余地があると思うのですが、この国は旧態依然としていて、掛け声だけは聞かれるのですが、改革の実行は伴いません。

私は吹奏楽指導に学校などに行くことがありますが、県の予算で派遣されて行った高校があります。

そこで、就職に困っている女子生徒がいたので、私の知り合いの企業にお願いして採用してもらったことがあります。

zinzai.jpgその生徒は吹奏楽部では地味な存在でした。
そういう性格が、就職にも不利になっていたのかも知れません。

良い所は、練習をサボるということはなかったことです。
人見知りは強いほうで、自分からは人に話しかけることはあまりなかったように思います。

とにかく、知り合いの会社でめんどうを見てもらったものの、私は不安を持っていました。

「この生徒をお願いできませんか」

と言った時、専務が

「この子、ちゃんと通うだろうねえ?」

と言われた時、ドキッとしました。

最近の若者は辛抱が足りない。就職してもすぐ辞めてしまうということが耳に入っていたからです。

一応、採用していただいてから数ヶ月経って訪問したところ、彼女(生徒)はいました。

専務から様子を話されました。

定刻より一時間以上前に出勤するとのことでした。

そして、専務が来ると、コーヒーを出すとのこと。

専務は喜んで「こんなことは今までになかった」と言いました。

彼女のしていることは、誰かから言われたわけではなく、自分の気持からそうしていたわけです。

私が訪問した時も、コーヒーにお菓子をつけて出してくれました。

お菓子は自分で買ったらしいです。

今時、言われなくても、自分で感じて動く、こうしたら相手はいいだろうなあと思う人は少なくなってきたと思います。

専務としては、当初、不安を持っていましたが、今では貴重な宝物を得たような気になっているようです。

「○○ちゃんがいないと困る」

と今では言われています。

仕事が忙しいので、もう一人事務を採用しようかと言うと、彼女は必要ないと言うそうです。

そして、二人分ぐらいの仕事をしてしまうと言われました。

もう何年も経ちますが、一度も休むこともなく、当初のような出勤を続けているということです。

私もホッとしましたが、このような彼女の性格というか、一種の能力というか、こういうものは試験一本の価値観の世界では評価されないわけです。

また、学校では教師の見る目が、総合点が人間の価値のようであると、口に出して言わないでも生徒たちにはその気持が伝わるように思います。

社会に目を向けると、そうそうたる学歴を持った人たちが、なんてバカことをするんだ。頭が悪くないかと思えるようなことを言ったりします。

どうも、この国は一部の偏屈な人たちに利益が偏っているのではないかと思います。

そういう状態で、愛国精神を強調されても馬耳東風のような気がします。





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2012年10月29日

おばちゃん先生がんばれ

最近、いわゆる「おばちゃん先生」に会いました。

この人、会うたびに「もう、先生を辞めようと思う」と言います。

理由を聞くと、仕事がきついと言います。

今、小学校で二年生を担任していると言われました。

一番疲れる原因は、モンスターペアレントだそうです。

次に、仕事が多く、学校を出る時刻が9時頃ということが多いと言われました。

非常に几帳面な人で、手帳にも細かくメモをしているところを見ると、毎日遅くまで子どものノートなどを丁寧に見ている人と感じた。

話題がクラスの話になると「とにかく、うるさいんです」と言われ「参観授業でもうるさいんです」と言われた。

それでは、最近よく聞く崩壊かと思ったら、そうではないらしい。

研究授業になると、静かになるそうで、それは参観者の目を気にして縮んでしまうのかと思うと、そうではなく、二年生なのに先生にとっては大切な授業と心得て、挙手なども多く協力するらしい。

いろいろ聞いているうちに、私はこの先生が子どもたちに好かれていると思った。

だから、元気になる。放課は先生に触りたくて先生にまつわりついてくる。

それに、このベテランの先生は子どもも好きだが教育も好きだと感じた。

ベテランのおばちゃん先生の良いところは、経験が多く、安心感がある。

それは、親(保護者)にも伝わっているだろう。

子どもたちは学校であったことを、帰宅してから話すだろうから、きっと先生の熱意も伝わっているだろうと思った。

おばちゃん先生は、クラスがうるさくて、まとまりがないようで親からはよく思われていないだろうとの心配をしていた。

私は

「一人だけ変わった親がいるかも知れませんが、あなたの気持ちはきっと親には伝わっていて、ほとんどの親はあなたのフアンですよ」

と言った。

obachan.jpgおばちゃん先生は、少し気が楽になったのか、笑みを浮かべて、またやる気になったようだ。

若い先生も若さを武器にぶつかっていく魅力があるが、プロのピッチャーがいつまでも速球が通用するわけではなく、経験を生かした投球術が必要になる。

そういう意味では、いろいろ苦難を乗り切ってきたこのようなおばちゃん先生は、大切な人材である。
親からすれば、母親としての先輩ということもある。

全国のおばちゃん先生には頑張ってもらいたいと思います。





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2012年10月29日

悲しい性(さが)

「昆虫図鑑」についての読書感想文を読んだ時、総理大臣賞を得た感想文に、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」を読んだものがあった。

こちらは小6の女子で、学級委員をやっていた子である。
ここでは彼女をA子さんとする。

私はこの感想文を読んで影響を受けた。

A子さんのの感想文は、主人公のジャン・バルジャンより、彼をつけ狙う刑事、ジャベールに関心を持ったものである。

A子さんは、自分が学級委員であることから、その仕事を一生懸命に果たそうと、学級のきまりや宿題をやってきたかなどのチェックを厳しくやっていた。

そういうことが、自分の務めでもあるし、学級を良くすることだと思っていた。

ところが、レ・ミゼラブルを読んだ時、刑事、ジャベールと自分が同じではないかと感じたと言うのだ。

ジャン・バルジャンは飢えに耐えかねて、パン一切を盗んだ罪で投獄されたが、刑期を終えて出てきた。

ジャベールはそのジャン・バルジャンを「あいつは悪いやつだから、出獄しても、どこかでまた悪いことをするに違いない、だから後をつけて現場を押さえて、また監獄へ送ってやろう」と考えていたわけである。

A子さんは、クラスの仲間を厳しくチェックする自分が、こういうジャベールと同じ心理ではないかと思ったのだ。

[注]こういうのは、俗にいう「ミラー現象」ではない。ミラー現象とは、例えば赤ちゃんに向かってニコッとすると、赤ちゃんもニコッとするように、自分がしたことと、相手が同じことをする現象を言う。
どういうわけか、誤って記憶に焼き付けられて、訂正不可能なROMのようになっている人がいるらしいので、念のため。


性善説とか性悪説とか言う言葉があり「人を見たら泥棒と思え」というのは、もっぱら性悪説に立った考えなのだろう。

■未来のことは誰にもわからない

超能力者ならいざ知らず、普通の人には未来はわからない。

だから、人は未来に不安を持っていると言える。

だからこそ、成功したい、失敗したくないと思っている。

誰にもわからない未来に対して、ことさら不安を煽り立てるような人はよくない人である。

アンケートをとってみると、将来悪い人になってしまうかも知れない、という不安を持っている子どもは多いという結果が出ている。

そういうところへ、不安を煽り立ててれば、うまくいくものも失敗になることもあるだろう。

それは、子どもに限らず大人でも同じだ。

「きっと失敗するよ」というのではなく「きっとうまくいくよ、成功するよ」と言うべきである。

■レッテル貼りはよくない

小学校で5年生の担任をしている時のこと。

校庭にグミの木があった。

実のなる時期になると、子どもたちの関心はこのグミの木に集まる。

先生はそれを予期して、実がなってもとらないようにと注意をする。

しかし、私のクラスの一人の男子が実をとって、バレた。

私は「あれほど注意されていたのに、なぜ取るのだ」と叱った。

彼は非常に暗い顔つきになって、頭を垂れていた。

かなりショックを受けたようだった。

次の日、彼の私を見る目も暗い感じだった。

私としては、一度叱ったから、それでけじめをつけた気持ちだった。

しかし、彼の表情を見ると、どうも自分が悪い子の烙印を押されてしまった、という不安があったのではないかと思った。

私としてはそんなつもりはないので、もしそうだったら、どうしようかと考えていた。

特別、案も浮かばないまま何日かが過ぎ去ったある日。

私が「明日は漢字のテストをします」と言ったら、伏目がちの彼の顔が明るくなった。

なぜなのか、私にはわからなかったが、漢字のテストをやってみたら、彼は満点だった。

特に勉強好きとも思えなかった、彼のできに驚いた私は「○○君、すごいなあ百点だぞ」と言ったら、彼は満面の笑顔で得意そうな表情になった。

「どうして、そんなにできるんだ」と言うと、彼は漢字が好きで自身があると言った。

彼の喜びの表情は、漢字の成績のことだけではなく、叱られた先生に、今度は褒められたということで、先生は自分を悪い子というレッテルを貼ったのではないということを感じたのだ。

やはり、これも、大人でも同じことで、あの先生は指導力がないなどとするレッテル貼りはよくないと思う。

人は毎日変化しているのである。生きているから当然である。

ただ、前向きか後ろ向きかということで、前向きでいる限り進歩していると私は考える。

だから、人に声をかける時、前向きになるような声かけが大切だと思う。

しかし、どういうわけか、世の中には後ろ向きにさせようと、しているのではないかとの声かけをする人がいるようだ。

makeinu.jpgこれはどういう心理なのだろう?

自分がうまくいかないから、他人も失敗して欲しいと願っているのだろうか?

だとしたら、人間の行為としては醜いことである。

先生は、人を育てるものであるから、当然、先生として行うべきことではない。

もし、人に対して前向きな言葉がかけられず、皮肉、嫉妬、やっかみ等々、気持ちを滅入らせる言葉しか出てこないのなら、先生としての適正に欠けると言えよう。
悲しい性(さが)の持ち主である。

■応援する気持ちがあるのなら、励ますべきである

プロ野球の選手のような、並の人より運動能力の高い人でも、自身のあるなしで、ずいぶん活躍の程度が違うものだと思う。

と言うことは、人は精神的なものにずいぶん左右されるということがわかる。

だから、こういう人の心理を利用して、ゲームでは相手に対しては自信をなくす作戦、味方に対しては、監督やコーチが声をかけて自信を持たせるようにする。

これはゲームのことであるが、日常の生活では、人に精神的ダメージを与えるようなことをしてはいけない。
それは、話題のいじめになる。

もし、教員生活の中にある人で、他の教師に対して、何か不安を与えるようなことを、いつも煽るような人は、自分がすでに敗北宣言をしているようなもので、他人が成功してほしくないと願っているのだろうと思う。

知人ですが、娘が音大に進学して声楽を専攻し、あちこちのステージで歌うところを見て、自分も音大を目指し、声楽家になった人がいます。

すばらしいことだと思いました。

教師も後輩に刺激を受けて、発奮するようでなければいけないと思います。

嫌味なことを言う人は負け犬ですから、無視しましょう。

子供の将来を考えていると言いながら、現役教師にダメージを与えようとするのは、矛盾しています。

この国の教育を良くしようとするのなら、学校の教師を支援しなければなりません。

そうでなければ、矛盾しています。結局、教育のことなんか考えていないと言えます。





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posted by edlwiss at 16:54 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年10月29日

重箱の隅

読書をしても国語の成績が上がらないという話がありました。

国語の成績を上げるために、読書をしなさいと指導する人からみたら、困ったことです。

そういえば、英会話はとてもよくできるのに、英語の成績はよくないという話を思い出しました。

これでは、英会話教室に通っても英語の成績はよくならないかも知れません。

でも、読書をすることはよいことだし、英会話がよくできるというのもすばらしいことです。

なぜ成績につながらないかということを、どう説明しようかと思っていたら、ある人が「試験は重箱の隅をつついているものだからです」と言いました。

私はなるほどと思いました。

成績をつけるために、差をつけるためにテストを作ろうとすると、重箱の隅をつつくような問題を作るのだろうということは想像できます。

そういえば、昔、東大の入試で国語の問題に、自分の小説が出題されているということで、作者自身が問題をやってみたところ、4問中2問しかできなかったということが話題になりました。

zyubako.jpg作者は怒っていました。

できないことで怒っていたわけではなく「私はそんなつもりで書いたのではない。あんな風に考えてもらっては困る」と。

成績について、私が疑問に思うようになったのは、なぜ序列をつけなければならないのだろうということです。

序列をつけなければならないことが前提になると、どうにかして差がつくような出題をしなければならないようになります。

これも昔の話ですが、美術の教師になった人が全員に5の評価をつけて問題になったことがあります。
もちろん54321の5です。

訂正するように言われたのですが、その先生は「全員、個性的で良いと思ったから5にしました」と答え、訂正しないということで、退職したと思います。

この序列をつけるということは、何故なのかと考えてみますと、行き着くところは軍隊になるような気がしてきました。

日本は明治維新のあと富国強兵政策をとってきました。

それは第二次大戦まで続いたわけですが、その後もこういう政策は残っているような気がします。

これらのことについて言及すると、非常に長くなりそうなので、またの機会にしますが、重箱の隅をつつく対策が入試対策となると、何か悲しい感じになります。

重箱の中にごちそうが入っていて、それを平らげた後の隅に残っているものをあさっているようで、そんなことに人生の岐路を左右すると言って、青春時代のほとんどを費やす。

またある人は、その重箱の隅をつついてそれを教育だとか学力だとか錯覚している。

読書をするとか英会話ができるというのが、主食であって、それを食べた後は食べ残しや皿についているソースのようなものです。

重箱の隅をつつくとは、人の食べ残しを問題にしているようなものです。

レストランの裏口に回って、残菜をあさっている様を想像してしまって情けない思いがします。

そういえば、ブロガーにも主食には関心がなく重箱の隅のもの、残菜に関心の強い人もいるようです。

悲しい性のように思います。





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2012年10月27日

子どもの潜在能力

楽器を教えていると、子どもの上達の早いのに驚きます。

自分の中学生時代を思い出しても、今の子どもははるかに上達が早いと感じることは多いです。

では、昔と今では子どもが違うのかと言うと、そこは何とも言えません。

■指導法の確立

間違いなく言えることとして、指導法の確率があります。

私はクラリネットを演奏しますが、私の中学生時代は、なんとなく手探りで奏法を見つけるという具合で、みんなが研究中という状態でした。

だから、教える人によって奏法が違ったり、噂のようなものに惑わされたりして、所変われば品変わるというように、いろいろな指導が存在していました。

現在と全く正反対の指導がまかり通っていたということもあります。

それが、今日では、正規の教育を受けた人から習う限り、方法が違うということはなくなってきました。

特に外国から日本に入ってきた音楽にまつわる楽器の奏法などは、海外との交流が盛んになったことから、誤りが修正されました。

それまでは、今思うと笑えてしまうようなこともありました。

例えば、吹奏楽と言うと、世界の頂点と言われる楽団に、フランスのギャルド・レピュビュリケーヌ(通称:ギャルド)がありますが、来日した時、トランペット奏者の吹き方を見た専門家が「トランペットを吹くときは、唇の赤いところで吹いてはいけない」と言ったので、唇を巻き込んで吹く奏法が普及したということがありました。

(ギャルド「バッハ:トッカータとフーガニ短調」)

garde.jpgしかし、それは間違いで、フランス人は日本人より唇の赤い部分がそう見えたということで誤解したわけです。

クラリネットも外国のオーケストラの奏者が、顔を赤くして吹くところを見て、厚いリードを使っているから良い音が出るんだといった人がいて、厚いリードを吹ける人ほどレベルが高いという情報が伝わって、それが競争のようにもなりました。

外人が赤い顔をして吹いているのは、白人なので顔が白く、音楽の高まりとともに気持ちが高揚するので顔が赤くなるのだというみとがわかりました。

これらは一例ですが、誤った情報は科学的にも根拠のないものです。

一応、権威を持っている先生がそういうものだから、誤った情報が普及してしまうのです。

正しい知識を伝えるには、権威だけで「オレが言い出したことは、みんな正しいんだ」という姿勢はよくないわけです。

正しい奏法が普及してきたということは、エライ先生がそう言ったということだけではなく、科学的検証も必要なのです。

kasetsu_kensho_ketsuron.jpgバスドラム(大太鼓)はどこを叩くべきか、なんてことも論争になったことがあります。

真ん中という人と、真ん中ではないという主張が対立しました。

それで、ビデオの高速度撮影で検証することになりました。

結果は真ん中ではないということが確認されました。

真ん中と言った人は、プロの奏者ですが、自分は真ん中を叩いているつもりだったのです。

しかし、無意識のうちに自分はほんのわずか真ん中を外れたところを叩いていたわけです。

[教訓]→正しいことを教えるためには検証が必要

ということで、教師は[仮説]→[検証]→[結論]という姿勢を忘れてはいけないと思います。

教祖様のように「オレが言ったこと」だけで権威づけるようなことはよくないと思います。

大学では、先生が吹奏楽部の学生を前にして

「お前たちは、間違ったことを覚えていくと、将来、子どもに害を流すからしっかり勉強せよ」

と言われたことを覚えています。

全員、教育学部ですから教科を違っても、吹奏楽部を指導する可能性が高かったからです。

先生は言い方が厳しいだけでなく、音楽大学との交流や、著名な演奏家や先生を招いて勉強の機会を作ってくださいました。

実際に先生になって中学生を指導することになったときも、音大の学生や卒業生の訪問がよくありましたが、それで印象深いことがあります。

それは、例えばトランペット科の学生が来たとき、トランペットについて教えてもらうのですが、ほかの楽器の話になると「僕は○○の楽器のことはわからないですから・・・」と言うのです。

何が言いたいかと言うと、自分の専門の楽器については、気持ちを込めて熱心に指導してくれるのですが、他の楽器には手を出しません。

つまり、プロになるほど、自分は何でも知っているという態度をとらないことです。

逆に言うと、素人に近いほど何でも知っているような顔をして、何でも手を出して指導する傾向があるということです。

プロほど、何でもということをしないというのは、やはり、間違ったことを教えることの罪というものを強く感じているということです。

■日本が経済的に豊かになった

日本が経済的に豊かになったことにより、楽器がよくなったということです。

昔は音大受験者や音大の学生でも持っていなかった楽器を、中学校の吹奏楽部で使うようになったということです。

楽器は高いほど良いというものではないですが、安い楽器は楽器としての機能そのものが不完全です。

だから、そういう不完全な楽器で習い始めるということは、余計な苦労が多いということです。

楽器は、本来、正しい奏法をすればまともな音が出なくてはなりませんが、豊かでなかったころは楽器そのものが不完全だったわけです。

今でも覚えていることがありますが、東京芸大のクラリネット科に入学した学生が先輩から

「お前の持っている楽器は何だ?オレのはオーガストビュッフェって言うんだ」

と、自慢そうに言われたそうです。

今、そんな楽器を知っている人もいないと思います。

クラリネットの一流メーカーとしては、フランスのビュッフェ・クランポンが有名ですが、昔は東京芸術大学のクラリネット科の学生でも買えなかったのです。

今は、中学校の吹奏楽部の生徒が使っています。

■まとめ

(1)奏法が確立した
(2)経済的に豊かになった

この二つの理由で、学ぶ環境正しい教え方をすれば、子どもは驚くほど上達するということです。

その意味では、子どもの潜在能力はすごいと思っています。

だからこそ、先生は正しいことを教えなければならないと言えます。

ひどい演奏をしているところは、この正しいことを教えないで、先生が権威的に自己流を教えていると言えます。

先生になったということで、すべて、自分が正しいという錯覚に陥らないように、気をつけなければならないと思います。

一番困る人は、間違いがわかっていても訂正しない人

生徒が他の先生に習うことを嫌がる人だと思います。

吹奏楽や音楽中心の話になりましたが、これは、結果が実際に音になって現れるので、わかりやすいということで例に挙げました。

教えることは、他の分野についても同様と思います。





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2012年10月27日

教師という仕事には夢も希望もある

■人を信じるということ

かつて書いたことだが、先輩の教師が「だまされてもいいじゃん」と言ったこと言葉に刺激を受けたことがある。

できごととしては、大したことではないが、下校途中で自動販売機でジュースなど買ってはいけないと生活指導から注意があった。

その注意があったばかりの日に、下校途中でジュースを買って捕まった生徒がいた。

生徒は現場を押さえられて、きつく指導されたのだろう。

買ったジュースを持って、再び学校へ戻り、担任の先生のところへうなだれた様子で行った。

たまたま、職員室で私はその場面を見たわけだ。

生徒は頭を低くして、ジュースを持って担任の前に立っていた。
そして、事情を話した。

担任は何を言うのだろうと、私は関心を持って見ていた。

担任はニコニコして

「ふん、そうかそうか、わかった、それじゃあ、そのジュースお前にやるで、これから気をつけろ」

spock.jpgと言ったのだ。

私はあきれて見ていた。

そうしたら、担任(先輩)は私に気がついて、またニコニコして

「騙されたっていいじゃん」

と言った。

あっけに取られた私は、妙にその言葉「騙されたっていいじゃん」が、それ以来、気になるようになった。

そして、不思議ではあるが気が楽になったようにも思う。

それまで、絶対に悪いことは許さんという硬い気持ちで固まっていたのが、何か肩の荷が降りたようになったのである。

それは、悪いことを許すようになったということではなく、もっとおおらかな気持ちになれと言われたようであった。

それまでの自分は、何か肩に力が入っていたようで違った道を走っていたように思えた。

■教師が変われば生徒も変わる

「教師が変われば、生徒も変わる」とは誰かが言った言葉だ。

話は変わるが、スポック博士の育児書という有名な育児書があるが「育児は堅苦しく構えて考えるより、おおらかに育てることを考えたほうがよいのです」という意味のことが書いてあると言われました。

育児ノイローゼという言葉がありますが、これは、学生時代に成績優秀だった母親がなりやすいとも言われました。

受験勉強に向かう習慣がそうしたのか、何でも書いてある通りにきまじめにやろうとして、ストレスがたまるのだそうです。

教師にも「マニュアル教師」という言葉がありますが、人を育てるということは、コンピュータにプログラミングするのとは違いますから、マニュアルは一度伏せて、自分の頭でまず考えてみた方がいいと思うのです。

マニュアルと言うと、他にも頭に浮かぶものがあります。

それは、ゴルフ好きな校長と会った時、それまで私には縁がないと思っていたゴルフを始めることになりました。

私はそれならと意気込んで、ひそかにみんなを出しぬいてやろうと無謀な考えを起こし、たくさんのマニュアルを買い込んで、頭に詰め込みました。

ところが、いざコースに出て打とうとすると、頭にいろいろなことが浮かんできて、ますます緊張し、結局さんざんな結果になりました。

マニュアルは大切なものですが、ベテランの集大成でもあるので、基本線というものはありますが、とらわれすぎてもうまくいきません。

先輩の先生の話に戻りますが、その先生は生徒たちに人気のある先生でした。

それは、きまりに甘い先生だからということではないのです。

ひとことで言うと、人間的と言うか、そうです生徒も先生も人間なのです。

人間ということでは上も下もない。

教えることは学ぶことであるとも言いますが、まさにその通りで、教育は共育だと思います。

yamanaka.jpg先輩のクラスはよくまとまっていました。

それは行事に特によく現れていました。

先輩が転勤する時、生徒たちは泣いていました。

先輩は何を教えて言ったかと言うと、人間を教えて行ったと思います。

そういう意味でも、教育は人であると言えます。

■誠実にやる

教師がいつも心に留めておくべきことは誠実だと思います。

瀬戸内寂聴さんが、無償の愛ということを言っていましたが、教師も何か見返りを求めるというような心でやることはよくないと思います。

ひたすら誠実にやることです。

舐められるという響きのよくない言葉がありますが、この先生優しいと思うと、時にそういうこともあるかも知れません。

しかし、私は先輩の言ったように「騙されてもいいじゃないか」の心でやるのがいいと思います。

私は新卒の時、宴会の席で教頭に「先生やっていてよかったと思ったことは何ですか」と聞いたことがあります。

教頭は「そうだなあ、年を取ると、教え子も大きくなって、大人になって『先生、先生』と言って来てくれることだなあ」と言いました。

私は、そんなことかと思っていましたが、今は、教頭の言ったことがよくわかります。

時々、教え子が同窓会をやりますが、今年は幹事の教え子が「先生の名前で、みんながこんなに集まるんですえ」と言いました。

私は、私の名前で集まるほどの人格はないと思っていますが、同窓会の話を親しい寿司屋さんで話したら、女将さんが

「私たちも同窓会やりますよ。でも、先生は呼ばないんですよ。呼んでもらえるだけいいじゃないですか」

と言いました。

私は教え子たちに感謝しています。

同窓会で顔を合わせるのは、恥ずかしい思いですが、かつての教え子と同じように酒の席を同じにできる幸せは経験しないとわからないかも知れません。

卒業して仕事に就くと、どんな仕事もそれなりに大変だと思いますが、教師という仕事もとてもやりがいのある仕事で、時に心が折れそうになっても誠実を胸に、現役の先生たちには頑張ってもらいたいと思います。





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2012年10月26日

個性の尊重とは

個性の尊重とは、ただ違いを認めるという安易なものではないと思います。

はてなキーワードで、個性の意味を調べてみると以下のようになっています。
個人または個体・個物に備わった、そのもの特有の性質。個人性。パーソナリティー。個人を個人たらしめる特徴のこと。

日本では往々にして肯定的な意味で用いられるが、本来は存在する上での差異を指して居るだけに、必ずしも有益であったりするものばかりではない。近年では、身体障害者の身体的特徴や精神障害者の症状をも、その人の個性であるという考え方も生まれている。

後半の説明はともかくとして、特有の性質とか以下抽象的な言葉が並んでいて、いまひとつピンときません。

まあ「違い」ということには変わりないと思うのですが、ややもすると、一人一人は違うのだから、個性の尊重とはそれぞれの違いは何でも認めるべきだという方向にも行きかねないと思います。

例えば、きまりを守らない個性と言ったり、嫌な仕事はやらない個性とか、何にでも個性をくっつけて都合よく解釈してしまうなんてことがあったら、まとまりがつかなくなります。

まさか、そんなことはと思う人もいるでしょうが、掲示板などでの討論を見ていると、そんなような社会秩序をみだしかねないことを個性の名のもとに主張するものも見受けます。

私が思うには、個性とはもっと根本的な違いのことだと思うのです。

まず、後天的に獲得するものではなく、生まれつきすでに持っている性格や身体能力などのことだと思います。

これでも、なんとなくはっきりしないように思いますので、もっとはっきりするためには、飛躍するようですが、元素の話を例えにしたいと思います。

周期律表というものがあります。

shukiritsu.jpg
フリー百科事典「ウィキペディア」より

この中の原子番号26の鉄(Fe)と原子番号79の金(Au)とを比べてみます。

この二つの金属の「どちらがいいか?」と言われた時、どちらかがいいと言えるでしょうか?

金は高価だから、金を持っていたら鉄も買えるなんて意見はなしとします。どちらかという話です。

個人的には、金がほしいなんて人もいるかも知れませんが、私たちの社会に必要な資源として考えたら、どちらがいいとも言えないでしょう。

鉄は強度がありますが錆びます。

kosei_sodatsu.jpg金は鉄に比べて強度はありませんが、錆びないという性質があります。

鉄は強度に優るという性質を利用して、機械などをを作るのに利用されます。

金は錆びないというところを利用して、電気回路の接点などに利用されます。

周期律表に並んでいる様々な金属は、どれ一つをとってもみな性質が違います。

この性質の違いは優劣ではありません。

元素を擬人的に考えると、個性というものがわかるような気がしてきます。

人はモノではありませんので、全く同じとは行きませんが、生まれつきすでに持っている特質と考えたらよいのではないかと思います。

生まれつき足が速いというのはあると思います。

練習によって速くはなるでしょうが、そうかと言って、練習すれば誰でもウサイン・ボルトのような世界記録が出るようにはなれないと思います。

生まれつき、身体能力が高いとか、美的感覚が鋭いとか、後天的に獲得したのではない特質が個性であると思うのです。

そして、個性そのものはいいとか悪いとか言うものではなく、その個性である特質をどう活かせるかが個性の尊重に関わるところだと思うのです。

教師はそういう子どもの特質(個性)を知って、その子どもがその特質(個性)をどのようにしたら生かせるかを考えることが役目だと思うのです。





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2012年10月25日

200Vの優位性が理解できない人

■そんなに難しい数学ではないのに理解できない、理解しようとしない

スピーカーのW数の違いが理解できない人も問題だが、家庭に送られている電源の200Vの優位性が理解できない人も問題だと思う。

理系ではないからとか、専門ではないとかいう問題ではない。

常識の範囲というか、普通の教養の範囲だと思う。

私たちの生活にはたくさんの電化製品が使われている。

それらの電化製品を扱う上で、知っておくべき基本は電源である。

自動車もガソリン車はガソリンで動いていることを知らない人は、珍しいだろう。

ガソリンは有用な燃料だが、危険性もある。

電気も便利だが、その性質を知って安全に扱うことが大切である。

電化製品を使う上での、100Vと200Vの違いがわからない人でも、試験はなんとか通過してきたのではないかと思う。

それほど難しいことではない。

レベルで言えば、中学校以下だろうと思う。

試験の点はそこそこ取るのに、学んだことが実際に身についていないことが問題だ。

教員をやっている人なら、教科の違いを問わず、このぐらいのことは知っていないとまずいのではないかと思う。

前置きが長くなったが、100V電源と200Vの電源を理解するための数学は、ごく簡単なものだ。

E:電圧(V) R:抵抗(Ω) I:電流(A)

とすれば、オームの法則より、

E=IR(V)

これを変形すると

I=E/R(A)

ここで、100Vの電源を200Vに変えると、

100Vの場合 I=100/R・・・・・➀

200Vの場合 I=200/R・・・・・A

となり、ケーブル(電線)が同じなら抵抗Rは同じだから

Aの電流(I)の値は➀の半分になることは容易にわかるはずである。

電流が半分になるということは、それだけケーブルの負担が減ることになる。

だから、電化製品の中には200V仕様のものがあるのだ。

ここで、もう少し200Vの優位性について言及すれば、200Vの方が電気エネルギーのロスがないと言えることである。省エネの観点からも優位と言える。

その理由は、消費電力について考えてみると、

P:電力(W) I:電流(A) R:抵抗(Ω) とすれば、

P=I・I・R(W)・・・・➂

つまり、消費電力は[電流の二乗]×[抵抗]である。

同じケーブルを使った場合、R(抵抗)は同じだから、➂式において、200Vにすると、Iが半分になるから、Pは4分の1になる。(1/2の二乗は1/4だから)

すなわち、200V電源にすることで、ケーブルの持つ抵抗で消費されてしまう、何も仕事をしないエネルギーが4分の1になるということである。

だから、多量の電気を消費する電気機器では200Vを使うのである。

最近、私の家ではエアコンを大きくした。そうしたら、電源は200V仕様になったので、変更の工事を行った。


■スピーカーのW数が理解できない人

これも、何回説明しても、理解できない人がいる。いや、理解しようとしないように見える。

比較的若い人は「ああ、そうだったんですね」と理解してくれる人は多いが、年配の人に自分の思い込みを曲げないで、かたくなに訂正しない人が多いようだ。

これは、もしかしたら、頭の硬化(老化)の目安になるかも知れない。

(1)スピーカーに書いてあるW数というのは、スピーカーが消費する電力ではない
(2)スピーカーに書いてあるW数は音の大きさではない

上記2つの間違いが非常に多い。

だいたい、Wというのは、音の大きさの単位ではない

「10kgと100kgとではどちらが速い」なんて質問はおかしいということはわかるだろう。

同様に「10Wと100Wではどちらの音が大きいか」も馬鹿げている。

なぜ、こういう間違いをするかというと、意味を正しく理解しようとしない態度と、勝手な思い込みである。

正しい理解は、スピーカーに書いてあるW数というのは、許容入力のことであると言うこと。

つまり、スピーカーが壊れる限界の数字である。

これ以上の入力をすると、スピーカーが壊れるので、メーカーは保障しませんよという数字である。

音の大きさとは何の関係もないのである。

もし、W数が大きいので、そのスピーカーは大きな音が出ると言っている人がいるとしたら、その人の知識は信用できないと言える。多分、勝手な思い込みを言っているだけだろう。





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2012年10月25日

教育は人である

「僕は教育は人だと思うんだ」と言った先輩がいた。

その言葉を聞いてから、私はずっとそのことを考えてみた。

すると、確かにそう言えると思うようになった。

オーケストラも指揮者が変わると音も変わる。

それも、長い時間がかかって音が変わるのではない。

交代した瞬間に変わるのである。

この音が変わるというのは、中高のバンドでも同じである。

吹奏楽の研究会で、中高生のモデルバンドを設定した時、指揮をする人が変わるとその度に音も変わる。

授業においても、同じ指導案を使ったとしても、先生が変われば、結果も変わるだろう。

こういうことを見てくると、確かに「教育は人だ」と言えそうである。

教師が意図的にどうこうしようとしまいが、受ける方の生徒は教師の違いによって変わると言える。

これは、結果がいいとか悪いとか言う問題ではなく、教師が変われば生徒も変わるということは、大切なことだと思う。

小学校は学級担任性で、児童が同じ先生と接する時間は多い。

では、教科担任制の中学校ではどうだろう。

私の経験では、やはり中学校も担任のカラーが学級に出ると感じた。

なんだかんだと、中学生が担任に反抗するようなことがあっても、やはり生徒は担任のカラーに染まっていくような気がする。

それは、なぜだろうと考えてみた。

私の結論は、子どもはまだ精神的に自立できていないだけに、大人を頼っているということだ。

家庭においてももちろんそうである。

結局は親に頼っているのである。

ところで、学校教育を考えた場合、そういった先生の違いをどう見たらいいだろう?

みな同じにそろえようとすることが必要だろうか?

私は必要とは思わない。それどころか、そういう違いこそが大切なのだと思う。

第一、児童生徒の個性を大切にと言いながら、先生の個性も大切にしないのはおかしいと思う。

もちろん、学校では教育計画があり、それに基づいて学年経営、学級経営は行なっていかねばならない。

そういう枠を守った上では、個性のあるユニークな教育実践を望みたいと思う。

だいたい、どの先生もまるっきり同じなんてことは、おもしろくもないし、不自然である。

教育的に刺激もない。

教育は子どもたちを、ワクワクさせるものであって欲しいと思うのである。

それは、オーケストラがいろいろな指揮者を迎えて、今度の指揮者はどんなことをするだろうと期待をするようなものだ。

期待は期待はずれに終わることもある。

だから、たいていは2年ぐらいの期間を区切って契約する。

よかったら、契約更改し悪かったらそれまでということである。

また、ある指揮者が期待はずれに終わっても、その指揮者が別のオーケストラに行ったらよかったということもある。

子どもが自立していく段階では、いろいろなひとに会って、人そのものから受ける影響も大切である。

人生にはいろいろな出会いがあって、相性がよかったり悪かったり、またいろいなこともある。

しかし、悪くてもなんとか付き合っていける能力も大切と思う。


■きまりにないところをどうするかが問題である

人間の社会は、秩序を保つために一定のきまりごとを作る。

ある人が、オーケストラの演奏について質問してきたことがある。

kotbakake.jpg「楽譜があるんだから、そのとおり演奏すれば指揮者なんて要らないのでは?」

なるほど、そう考える人もいるのだと思った。

確かに、楽譜には作曲者による指示(テンポ、曲想など)が書いてある。

しかし、演奏はその指示を守ればよいというものではない。

第一に、指示の守り方、第二に指示のない間をどうするかを考えること、さらに全体として作曲者の意図を考えねばならない。

そのために、指揮者と言うものが存在するのであり、結果として多様な演奏が存在するわけである。

指揮者の解釈と演奏者の違いによって、無数とも言える演奏が存在すると言える。

逆に、楽譜の指示が一部の隙間もなく、解釈の幅がないのなら、指揮者も必要がないしわざわざ人が演奏に介入する必要もない。

すなわち、楽譜と言うきまりがある中で、実に個性的な演奏が存在するわけである。

そうでなければ、音楽と言うものの魅力もないだろう。

以上は、オーケストラに例えての話であるが、人間の活動するところには同じようなことが言えると思う。

人が社会を構成するには、様々なきまりがあるが、そのきまりを守ったうえで個性的な活動があると言える。

学年に何クラスかあって、それぞれの学級が個性的な活動をすることが創造性を生み出すと思うのである。

私の中学校経験は、学年7〜8クラスの規模の大きい学校であったが、はじめ、各担任は学年主任の意向を気にしていた。

それを感じた私は「先生方、自分の考えで、情熱をこめて生徒たちに対処してください」と言った。

私の気持ちを汲んだ先生たちは、伸び伸びと活動した。

すると、生徒たちにも元気が出て、活力のある学年になったように思う。

時に、生徒が「○○先生と□□先生と、言うことが違います(困ります)」と言ってきたことがあった。

その時は学年会を開き、どのように対処するかを話し合い、生徒たちに伝えた。

各先生の言うことが違うということを気にして、統一しようとすると、きまりばかり増えて、それこそマニュアルが必要になってしまう。

それに、違反していないかと考えると、人の活動は硬直化してしまう。

ロボット化のようになってしまうのである。

そんな環境で魅力的な活動ができるわけがないと思うのである。

大田尭氏は次のように言っている。

人間は一人一人が自分のDNA(遺伝子)、つまり"命の設計図"を持っています。この設計図は生まれた時に与えられるけれども、そこですべてが決まるのではなくて、柔軟で、大きな可能性を持っています。それは外からの情報によって常に変わっていくんです。
子どもたち一人一人が自分の設計図を持っているユニークな存在であり、「違っている」ことは動かしたい事実です。だから、「違っていいんだよ」だけではなくて、一人一人は違っていると認識したうえで、教育が営まれなければならない。難しいかも知れませんが、これが非常に大事なポイントだと思います。そして、そういう教育を受けるのは子どもの権利なのです。


一人一人が違うというのは、当然、先生も同じである。

大田氏は「お互いが励ましあって、命と命が響きあって共に育つのが本当の教育、"共育"であるとと言う考えが生まれ、いろんな人がいろんな試みを日本中で実践しました」と言っている。

いろんな先生が、いろんな実践、いろんな学級経営をすることで、命と命が響きあうということだろう。

小学校の学級担任でも同じことで、先生自身が意識せずとも、各担任の先生のカラーが出ることは自然なことだと思う。

子どももいろんな先生との出会いによって、成長していくのだ思う。





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2012年10月24日

XBOX360

XBOX360は、Microsoftのゲーム機です。

ゲーム機ということになっていますが、中身はただのゲーム機ではありません。

ゲーム機としては、任天堂のWiiやSonyのPlayStationの方が販売数は多いです。

これは、中古販売店でのソフト数や本体の数からも想像できます。

私はゲームそのものはほとんどしないのですが、中身には興味を持っていました。

XBOX360はゲーム機のシェアは大きくないですが、Microsoftが作ったということと最近はKinectというセンサーをつけるようになったことで、惹かれるものを感じました。

kinect.jpgKinectは人の動作を感知するセンサーで、右の写真のようにテレビの上に設置することが多いと思いますが、横幅が28cmほどある大きなものです。

センサー自体も動いて、人の様子を感知します。
これが、本体に接続されゲームと連動して働くわけです。

私はゴルフが好きなので、早速、ゴルフを試してみました。

マウスでやっていたゲームとは違い、クラブこそ持たないものの、センサーが人の姿勢、つまり正面を見ているか、横向きでプレイしようとしているのか、かがんでコースの様子を見ているのかを関知し、画面が変わります。

スイングの強さや方向も感知して、ボールの飛ぶ方向距離が変化します。

私はこのKinectというセンサーに特に興味を持ちました。

電気関係の雑誌にトランジスタ技術 2012年 11月号 [雑誌]という本がありますが、8月号ではこのセンサーの技術が内部構造も併せて紹介されました。

transistor.jpgプログラミングの素養がある人は、自分でプログラムを作って利用することができそうです。

子どもの中にも、自分でプログラミングしてこういった機械を動かす者がいてほしいと思います。

日本は、あまり学年にこだわらず、こういう面に関心を持った子どもがいたら、それを育てていく環境が欲しいと思います。
電子機器は内部がどんどんソフトウエア化している状態を見ると、特にそういった感を強くします。

私が某中学校に勤務していた時、最先端の技術を研究している企業から、中学生に、建学に来て欲しいとの要望がありました。

行ってみて名刺をいただくと、博士号を持った人たちばかりで驚きましたが、そういう人たちが中学生の見学を歓迎していたかと言うと、先端技術の開発にはプログラミングが欠かせない、そして、それを覚えるには大学生からでは遅いという理由からでした。

今の日本は、中学生入学から高校卒業まで多くの若者が受験のために、もっと花開くであろうという才能を閉ざされているように思います。

受験のための勉強が広い意味の勉強と勘違いされ、試験に強くなることが学力を高めることだと思っている人も多いようです。
試験を突破する力も能力には違いないと思うのですが、それがどれほど有用なものかと私は疑問に思っています。
学力という言葉が安易に用いられますが、少なくとも受験に強い力が学力であるとは思えません。

記憶力も大切な能力ですが、それが学力の全てだとも思えません。

とにかく、エネルギーに満ちた中高生時代の青春を現行の試験制度で縛るのは、大変な損失だと思っています。

Microsoftの創設者、ビル・ゲイツは19歳の時、会社を作りました。

脱線しましたが、日本はもっと人材を活かすために、もっと若者の能力を活かせる教育制度に変えるべきだと思います。

そうした改革、提案をしないのは、ひとえに政治の怠慢だと思います。

センサーの話に戻りますが、こういったセンサー技術はこれから多方面に応用されると思います。

すでに、カメラでは我が子を探す技術、笑顔を感知する技術が使われています。

aircon.jpg家電製品でもエアコンに人の様子を検知するセンサーが取り付けられています。
人の状態により、効果的な冷暖房を行うわけです。

この先、ビデオカメラに高度なセンサーが搭載され、それで授業を撮影すると、単に映像を記録するだけでなく、児童生徒の様々な活動の情報を収集するようになるかも知れません。

そういう技術は、メーカーが考えて勝手に作るのではなく、そこに技術を盛り込むためには、優秀な教師のノウハウが必要になると思います。

優れた教師というのは、一体、何を感じ取っているのかという解明が必要になるわけです。

スポーツの世界も、今や、人間の勘だけで競ってはいません。

データと計算、人工知能プラス人間の知恵の世界です。

教育もその方向が進むと考えると、データが重要になると考えられます。
と言うことは、実際に行った結果、つまり実践が大切になるわけです。

教員の実践記録は、それが成功、失敗の区別なく、実際に起こったこととして大切になるわけです。

今、個人データの流出が問題になっていますが、遠くない将来は教員の実践記録も保護されるぐらい貴重なデータになるかも知れません。
xbox360.jpg






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2012年10月23日

賞味期限が切れていませんか

知人ですが、教員を退職してからも偉さが抜けない人がいて、また、周りも「センセー、センセー」と言うものだから、すっかり登ってしまっている人がいます。

もちろん、教員の退職者がすべてそうだというわけではありません。

もっとも、現役中でもずっと偉そうでない人もたくさんいます。

そうみると、偉いというのは、教員に限らないとも言えそうです。

どちらにしても、偉そうにしているのは、個人の趣味(?)として、問題は発言の内容です。

本人は、世の中のことは何でもわかっているような言い方をするので、聞く人によっては信じてしまうこともあります。

ところが、知人の場合、言うことが、ことごとく合っていないわけで、聞いた人が自分の商売にかかわるようなことの場合、損害を被ることもあります。

こうなると、単に違っていた、ずれていただけでは済みません。

本当に、ことごとく外れているのには私も驚きました。

しかし、先輩ともなると、意見をするわけにもいきません。誰も意見する人はいないし、本人も他人の言うことを聞こうとする姿勢にないように思われます。

どうも、自分が権威でありたいという意識が強く、人の意見を聞くということは自分の権威が損なわれると感じているようにも思われます。

かくして、頭が硬くなって、人もだんだん近寄らず、寂しい環境になる結果、教員の退職者は七五三と言われるのかも知れません。(私とて教員経験者ですから、教員が悪く言われるのは不愉快です。)

■時代遅れ

教師は世間知らずという言葉はよく聞きます。

毎日学校へ通勤し、会う人間と言えば多くが子どもです。

同僚の教師はいますが、みな先生という同じ境遇の大人なので、世の中はどう動いているかという情報は入りにくい環境です。

車で通勤しているものなら、閉鎖的な鉄の箱で移動し、世の中から隔絶した環境に着き、またそこから帰ってくるという繰り返しです。

私も車で通勤していましたが、ある時、電車通勤に変えました。

そうしたら、世の中は動いているんだと感じました。

見知らぬ人ばかりですが、電車に乗っていても、社会の動静を感じるものがありました。

電車通勤のいいことは、夏の暑い日には帰りに駅でビールを飲んで帰るなんてこともできました。

小さなことですが、そんな時はすごく幸せを感じるんですね。

立ち食い蕎麦(そば)の美味い駅もありました。

おばさんが、蕎麦を湯から出して椀に盛りつゆを入れて、忙しそうに客と応対している姿は、今も思い出します。

このおばさんも、家に帰れば子どもがいたりするので、こういうところで稼いで一家を支えているのかも知れません。

そう考えると、親方日の丸と言われる先生も、まじめに仕事をやらなければ申し訳ないという気にもなってきます。

物品、権利、役務その他の当該消費者契約の目的となるものに関し、将来におけるその価額、将来において当該消費者が受け取るべき金額その他の将来における変動が不確実な事項につき断定的判断を提供すること。 当該提供された断定的判断の内容が確実であるとの誤認

これは、消費者契約法です(最終改正:平成二四年八月二二日法律第五九号)。

近年、企業の営業が繰り返し、コンプライアンス研修を行い、順守を強調していることです。

要点は「将来において不確実なことを、あたかも確実なように言う(断定的判断)」ことを禁じているということです。

違反すれば当然ペナルティがあります。

このことが、よく問題になる例として、証券会社の営業にすすめられて株を買った場合があります。

営業が「この株は買っておけば、絶対に将来値上がりします」というのはもちろん違反です。

そこまで言わなくても、誤解させるように誘導する言い方も違反です。

消費者側の言い分としては「あの時、絶対上がると言ったでしょう」と言うものです。

この時、言った言わないの論争をしてもムダです。

法律は消費者側に有利に働くからです。

私はある証券マンに、このことを聞いてみました。

私:「絶対上がると言うのは違法でしょう?でも客の方はそう言ったと言っていますよ。上がるって断定してるんですか?」

証券マン:「『・・・と思います』をつけるんですよ。そうすれば断定になりません」

なるほど、そう言うのか、そういう言い方をして、録音でもしておくのかなあと思いました。

そういえば、重要な取引は、企業では録音していることもあるようです。

とにかく、最近は、特に金融商品を中心として商取引については厳格になってきています。

それだけ、世の中はスピード感を持って動いていると言えます。

パソコンの進歩も「ドッグイヤー」つまり犬の1年は人間の7年に相当する年のとり方をするといういう意味で使われます。

今やパソコンが使われない場面が少なくなってきました。

と言うことは、社会の活動もドッグイヤーになってきているということです。

そういう今日にあって、教師は学校に閉じこもって、世の中から遅れをとらないようにしなければなりません。

だから、あなたの知識、賞味期限が切れていませんかと自分を時には見つめてみる必要があると思うのです。

賞味期限が切れている先生では、子どもに新鮮味を与えることはできないでしょう。

365日、昔と変わらない授業の繰り返しにならないようにしなければなりません。

それは、何も新しいことを授業の中に入れるということではありません。

刻々と移り変わる世の中から、取り残されないように情報を仕入れておくことが、いつも新鮮な生きのいい自分を保つと思うからです。

サンマの美味しい季節ですが、昔も今もサンマの姿は変わりません。

でも、店に並んでいるサンマを見ると、古いか新鮮かはわかります。

食べてみれば、もっとわかります。

■将来にわたって不確定なことを言わないように気をつけよう

saiban.jpg消費者契約法では「将来にわたって不確定なことを、断定的に告げてはいけない」とされているということを述べました。

実際、この法律に抵触するとして、消費者が訴えて裁判になっていることもあります。

この法律は商取引でのものですが、世の中の傾向はこの法律の精神に順じて他の方面にも波及していくように思います。

教員にあっても、日頃から、将来にわたって不確定なことを、あたかも確実にそうなるかのような言い方をしないようにした方がいいと考えています。

最低でも、証券マンのように「・・・と思います」をつけた方がいいと思います。

私はファイナンシャルプランナーの資格を持っていますが、この資格は2年ごとに所定の単位を更新しないと、資格がなくなってしまいます。

それは、特に経済に関係が深いということで、法改正や社会の動きには敏感でなければ、賞味期限が過ぎてしまうからです。

下手に将来のことを断定的に言って、それが訴訟問題に発展する可能性もあります。

アメリカは訴訟社会と言われますが、日本も次第にそのようになりつつあるような気がします。

最近は、こういう訴訟がありました。
「おたくのお子さんは、○○になります」なんて言い方で、○○の部分に不愉快な単語を入れないようにしないように気をつけたいものです。
相手が子どもでなくても、大人に対してもそうでしょう。
「△△教師は□□」になるという言い方もそうです。未来のことは誰にもわかりません。必ずそうなるとは言えないのです。(占いの人は仕事だから言うかも知れません。)





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2012年10月23日

植民地教育と同様の意識〜格好のいいものじゃない

以下は大田尭氏のことばです。

考えてみると、植民地教育と同様の問題は日本国民に対してもあったのです。教育勅語に同化せよという「教化」がそれです。みんなを束にして精神の内面まで支配し、国益に沿うように育てようとする教育観は、植民地の人に対する教化策と本質的には同じです。
そしてそれは、今にいたるまで尾を引いています。文部科科学省だけでなく、親の頭にも教師の頭にも、いまだに教師と生徒は上下関係にあるという教育観があります。
身近な例で言うと、日本の教育の場面では上からの命令の言葉が多いんです。
「座りなさい」「立ちなさい」「書きなさい」、何でも「なになにしなさい」じゃないですか。
子どもを一段身分の低いものとして扱っている。
外国、例えばイギリスでは・・・(中略)・・・対等な人格として生徒を認めるていねいな表現です。

スポーツなどで、先生が監督として児童生徒を率いている場合などは別ですが、そうでない場合も、児童生徒を一段低い者としての扱いは注意しなければならないものだと思います。

児童生徒は、人間的には大人も子どもも人格的には同じとして扱われると、責任感も感じるし、自立心も高まるように思います。これは、私の体験から感じたことです。

私は吹奏楽の指導を多く行なってきましたから、指揮者の立場に立つと、指揮者と演奏者の間では上下関係ができます。もちろん、演奏をつくる上でのことです。

それでも、こういうことを多く続けていると、普段でも先生と児童生徒の間は人格的にも上下があるような錯覚に陥ってしまいがちです。

ですから、活動の場面で児童生徒も時には上に立つという場面を作るようにしました。

もちろん、指揮者と演奏者という立場を離れたら、言葉使いも上から下にならないように気をつけました。

大人同士の人間関係では、企業における社長と従業員の立場であれば、社長は命令する立場ですから、それ相応の言葉つかいになります。

私が最初に縁のあった校長は、仕事中でも命令口調の言葉は使いませんでした。

それでも、職員は一目置いていましたが、飲み会では校長も全く上下関係を感じさせないつきあいをしてくれました。

その時の職員たちはよく仕事をしたと思います。

何をしなければならないかを、いちいち命令されなくてもこころえていて、自主的に動いていました。

そういう空気を作ったのも、その時の校長のリーダーシップと言えるような気がします。

日曜日にコンクールがあって、楽器の運搬などで人出が必要な時は、先生たちが誰に言われるまでもなく、出てきて手伝ってくれました。

そのようなことが、ごく自然に行われて、私は人と人との付き合い方というものを学んだ気がします。

uekaramesen2.jpgネット社会になって、ブログというものが盛んになりましたが、ブログも書き手と読み手があるということを考えると、これも人と人とのコミュニケーションです。

他の人の書いたブロクを見ると、書いた人の意識がわかります。

書き方が、自分は他の人より一段上にいるという意識が染み付いているような人もいるようです。

こういう人は、大田尭氏の言うように、戦前の植民地政策で他の人を教化しようとする意識が身についているような気がします。

おもしろいのは、自分で勝手に一段上に立った口調でモノを言い、どれほどいるのかわからない不特定の読者を従えている気になっていると思えるものもあることです。たいていは上から目線の言い方になっていますね。

そして、みんなが自分の考えを受け入れていると錯覚しているようにも思います。

これも、一種の妄想と言えるのかも知れません。

わたしのつたないブログに意見をしてくださる方は、私よりいろいろな面でずっとレベルが上なのに、いつも低い姿勢で感想や意見を言ってくださるので恐縮しています。

教師は学校から一歩外に出た時、無意識に上から目線の態度になっていないか、気をつけなければいけないと思います。

もっとも、素晴らしい仕事をしている人、業績のある人に限って「上から」という態度がないのは、やはり「実れば実るほど頭を垂れる稲穂かな」とはよく言ったものだと思います。





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2012年10月21日

読書感想文の書き方

小学校の読書感想文で、優秀なものを集めた感想文集を読んだことがある。

その中に「昆虫図鑑」というものがあった。

昆虫図鑑の感想文とはどんなだろうと思って、興味深く読んだ。

作者は5年生で、両親は勤めに出ている。いわゆる鍵っ子だった。

彼が帰宅した時は、たいてい両親はいなくて、寂しい生活だった。

ある日、父親が彼に昆虫図鑑を買ってくれた。

彼は両親の帰りを待ちながら、その昆虫図鑑を見るようになった。

そして、自宅の庭の昆虫を探しては図鑑と比べてみるようになった。

そういう生活を中心に感想文を書いたのだが、昆虫図鑑と実際の虫を観察することで、彼の昆虫に対する知識が増していった。

学校では、自分が見た昆虫の話などを友だちに話すようになると、クラスの者は彼の知識に驚いて、彼のことを昆虫博士と呼ぶようになる。

昆虫図鑑の感想文とはどんなものだろうと思ったが、読み手を引き込んでいくおもしろい文だった。

昆虫図鑑と彼の生活ぶりが見事に融合していた。

私はこれを読んでいて、感想文は自分の生活を書かなければだめだと感じた

さても感想文と言うと、ブログを読んだ感想も感想文である。

私のつたないブログを読んで、感想を書いてくれる人もいる。

関心を持ってくれる人がいてありがたいことである。

そこで、感想文はどんなものであろうかと見てみると、不思議なものがあった。

確かに、私の文章を読んでの感想だろうと思うのだが(もしかすると違うかも知れない)、そうだとすると、ちょっと変わっていると感じた。

書き出しは、確かに私の文章の中にあるものを引用しているのだろうが、引用してから後はほとんど無関係になっているのである。

その感想文の構造を図に表してみた。

bunretu_bunshou.jpg


確かに、文中のある部分(X)に関心を持って引用し、感想を書いているのだろうが、ほとんど単語だけから連想する自分の思い(ABCD)を断片的に並べて、かつ、並べた事柄の関連性がない。

いわゆる支離滅裂状態で、各要素が分裂状態。それらで、全体の文章を一応構成していることになっている(水色)。

ABCDの並びを見ると、まるで麻雀の国士無双を見ているようでもある。

nounai.jpg柿食えば鐘がなるなり法隆寺

という句の感想で、

「柿と言ったってどんな柿かわからないじゃないか、きっと渋柿だろう。
渋柿を客に出すようようなんだから、性格はよくないのだろう・・・」

と書いているようなものだ。

感想文は、自分の生活を書くべきだという考えからすると、自分の生活を連想して書いているのかも知れない。

実際は、普段、どんな生活を送っている人なんだろうと思う。





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2012年10月21日

数学の素養を高める必要性

理系とか文系とかいう言葉があるが、文系という言葉を隠れ蓑にして、数学の素養は必要ないという考えはよくない。

もちろん、その逆も同様。

数学の素養を高めると言っても、そんなに高度なことを言いたいわけではない。

■集合の概念

まず、一番気になるのが集合の概念。

文章を読むと、集合体がとてつもなく大きいものを無頓着とも思われるように使っている人がいる。

例えば、教育関係で出てくる言葉では、教師、小学校の教師、中学校の教師、・・・と集合の範囲が違ってくる。

教師はと書きだすと、とても大きな集合体になる。

大きな集合体が使いたいのなら構わないが、集合体が大きくなればなるほど、要素の共通性が少なくなる。

例えば「教師は人間である」は可であるが「教師は背が低い」は不可。

たまたま、自分が会った教師の背が低かったからと言って、教師は背が低いとは言えない。

同様にして「小学校の教師は○○だ」と言った場合、○○は小学校の教師全体に共通したことなのか?

それでも「小学校の教師は○○だ」と言いたいなら、統計によるデータなどによる根拠を裏付けとして言うべきである。

大きな集合体を使って、無頓着にあれこれ言う人は、独断と偏見で自分の印象を言っているだけと思われても仕方がない。

「小学校の授業を参観したが、その印象からすると、小学校の先生は○○のように思える」は許されるというか納得できる文章である。

しかし「小学校の教師は・・・」と書き出すには、相当な勇気が必要と覚悟しなければならないこともある。

「・・・」の部分が、批判であったり、欠点をいう場合、小学校の先生すべてを敵に回す可能性がある。

悪く言われて気分がいい人はいないだろう。

だが「先日、△△で会った小学校の教師は、禁煙席にもかかわらずタバコを吸っていた」と言うなら、同じ小学校の先生が読んだとしても、同じ職にあるものとして残念だという気持ちを持つにしても、作者を悪く思うことはあまりないだろう。

昨日、来客がありこういう文章の書き方について話をした。

「中国人は泥棒だと言えば、そりゃあ中国人は怒りますよねえ。でも日本にいる中国人の中に泥棒がいた、と言いえば、そんなやつもいるのか、ということで怒らないでしょう」

と客は言っていた。

至極まともな話だと思う。

■文中にある矛盾

(1) 矛盾した文章

集合の概念の問題の次に感じるものとして、文中の矛盾がある。

それは、前段の方で否定したことを作者自身が行なっていることである。

例えば

「だいたい、文章がいいか悪いかなんて判断できる人なんていませんよ」

と書いたとする。

これを書いた同一人物が、後半の文章で

「・・・の文章は悪い文章の典型です」

と書いている場合。

「・・・と言う人はいない」と前置きしておきながら、自分は「・・・と言う人はいない」の中に、自分は入れていないことになる。

自分は例外なのか?それとも超人?神様か?ということになる。

(2)数学的矛盾

A、Bが整数の場合。

A>B・・・・・・・・・➀

ならば

B>A

となることは絶対にあり得ない。

ところが、この論理を平気で無視して、矛盾した文章を書く人がいる。

具体的には、仮に、スポーツで標準記録というものがあるとしよう。
(例えば、ウエイトリフティング)
そして、この大会で標準記録以上の結果を出した者が選手として選ばれるとしよう。

上式(➀)を前提として、Aは標準記録に達しなかったから選手に選ばれなかった場合、当然Bが選手に選ばれることはないはずだ。

ここで、Aは標準記録に達しなかったのだから、だめだと言われても仕方がない。

だからと言って、Bの方がいいとは言えないはずだが、Aを否定してBを採用したいと言う文章を書く人がいる。

矛盾した思考回路を持っているとしか言いようがない。

こういう思考の人は、何らかの審査に当たるべきではないと思う。

教師がこういう文章を書くとしたら問題である。

プロ野球も、間もなく日本一が決まることになる。

その後はオフシーズンで、スカウトの話題が多くなる。

各球団は順位をつけて指名をするのだが、指名を受けて入団した選手が、必ずしも期待通りの活躍をするとは限らない。

これが、球団側の悩みでもある。

人を選ぶということはそのくらい難しいとも言える。

6位指名の人が、あるいは育成枠の人が大活躍をするという場合もある。

しかし、順位が低いとか育成枠であったとしても、プロの選手としてある水準は超えているはずである。

だから、人を採用する場合は、きちんとした順位通りではなく、ある幅を持って採用し、1年なり2年なりの様子を見て正式採用するという方法もいいと思う。

もちろん、幅を設けると言っても、その幅が限りなく低くてもよいというものではない。

だが、ここではっきり言えることは、採用時の順位が低いものが必ず活躍するとは言えないことだ。

これは当然のことだが、それでも、不採用だった者の中に必ずいるとの発言をする人がいるのである。

これも、思考回路が狂っている仲間だろう。

■作者自身もわからない言葉を使って説明すべきではない

これはもう言うまでもないことだろう。

ただ「図形があります」と言っても、言っている本人がどんな図形なのかわからなくて、何かを説明しても、それは無意味な文章だ。

もちろん「私は○○」という言葉の意味がわからないのだが・・・と自身がわからない言葉そのものを、第三者に問うような文章は問題ないと言える。

自分が、頭が良いと思われたいのか、一般にはあまり使われない用語を意識して使っているのではないかと思われる文章もある。

どうしても使う必要があったり、使いたいのなら注釈を入れるべきである。新聞の書き方に習うといいのではと思う。

自分が使うキーワードとなる用語は、自分自身にも問いかけてみるべきだと思う。

「ムコドノ」を捕まえようにも、ムコドノを知らなければ捕まえようがない。

知らない人に「ムコドノ」を捕まえてくれと、どんなに強く言っても捕まえようがない。

「ムコドノとは何ですか?」と聞かれて、曖昧な答えや知りませんでは話にならない。





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2012年10月19日

週刊朝日が謝罪

posted by edlwiss at 22:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年10月19日

妄想が妄想に終わる時

子どもの中には、算数の問題の答えはわかるけど式が書けないという者もいる。

式が書いてないと○にならないという問題では、点がもらえない。

中学、高校と数学のレベルが上がって、さらにその上の数学者の世界になると、答えはひらめくが説明ができないという姿を見る。

何かわからないが、頭の中に浮かんでくるというのは妄想かも知れない。
1. 根拠もなくあれこれと想像すること。また、その想像。
2. 根拠のないありえない内容であるにもかかわらず確信をもち、事実や論理によって訂正することができない
3.主観的な信念。精神病の症状としてみられ、内容により誇大妄想・被害妄想などがある。
たまに見る分には幸せな気分にもなれるが、極度に見すぎると、逮捕されたり、病院に閉じ込めらた り、党を除名勧告されたりする危ないもの。
はてなキーワードより

mousouginkoh.jpg根拠がないと妄想だと言われても仕方がない。

妄想をもとにして絵を描いたり、音楽を作ったりすれば、それは芸術になるかも知れない。

しかし、科学の世界ではそういうわけにはいかない。

だから、科学者は頭に浮かんだことを証明しようと努力する。

証明がない限りは、説得力がないわけである。

これと同じで、こういう人がいますとか、ああいう人がいますと言ったところで、そういう人が何処にいるのかとか、何処で見たのか、自分の経験なのか証明(根拠)がなければ、妄想と思われても仕方がない。

ある日、UFOがやってきて、宇宙人が降りてきてなにか教えてもらったという人がいる。

これも証明できないから信じてもらえないのであって、妄想だと言われても仕方がない。

「・・・という教師がいます」というのも同様。

それ何処にいましたか?

あなたの妄想ではないですか?

と言われても仕方がない。

だって「・・・と言う教師がいます」なんて、いくらでも作ってしまえるからである。

■悪い教師の作り方

悪意があれば、いくらでも悪い教師は作れる。

悪い教師がいっぱいいて、それらはみな違う教師なのだが、それぞれの教師の悪いところを持ってきて、一人の教師像を作れば、とんでもない悪い教師ができてしまう。

悪意で悪い教師を創造するのは、心が悪いということであるが、本当にそういう教師が浮かんでくるなら、妄想かも知れない。

妄想と思われないようにするには、証明することだ。どこに実在するのか(実在したか)示すことだ。

だから、5W1Hが大切と言いたいのだ。





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posted by edlwiss at 21:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

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