2012年11月30日

これで国民の生活が大切と言えるのか



本当に悲しい事件です。

憲法で、国民は人としての最低生活が保証されています。

GDPは中国に抜かれたとはいえ、一人あたりのGDPは中国より上です。

生活に苦しんでいる人に冷たい国ではないですか?

国民の生活を国が見守っているとは、思えません。

言葉だけの政治はやめてほしい。

posted by edlwiss at 13:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治

2012年11月28日

英語は早期教育がよいか?

私にはどちらがよいのかわからない。

早いほうがよいという人もいれば、それはよくないという人もいる。

それぞれ、体験を交えて意見を言っている。

しかし、体験した人の土壌がそれぞれ違うので、これはどちらがよいかという決定的な理由にはならないと思う。

あることを学ぶのに、最適な年齢というものがあって、それを教育学ではレディネスと言っている。
レディネス【readiness】 特定の学習に必要な条件が学習者の側に整っている状態をさして用いられる。レディネスの要因は二つに大別される。一つは個々人の一般的発達水準であり,もう一つはその課題を学習するための前提となる知識や技能がすでに習得されているか否か,という要因である。1930年ごろから使われだした概念であるが,当初は人間の精神発達は主として神経系の成熟によるという理論を背景につくられたものであった。そのため,この概念の提起は子どもの発達水準を無視して早期から知識や技能を詰め込む傾向を戒める効果をもったが,同時に成熟待ちという消極的な教育の傾向も生んだ。
コトバンクより
日本の英語教育が問題にされるのは、ずいぶん長い間学ぶのに、英会話のできる人が少ないからだ。

もっぱら試験のための勉強が中心になってきたからだろう。

会話を中心として学ぶということを考えると、ネイティブな発音を聞き取るには、音感の発達する4歳頃がいいのだろうか?

私の知っている、あるオーケストラに所属する演奏家は、ドイツで活躍していてイギリス人の女性と結婚した。

生まれた子どもと会ったことがあるが、幼稚園児ぐらいの歳だが、日本語、英語、ドイツ語と3か国語を話していた。

両親も3か国語を話す。

おそらく、彼は、特に3か国語を勉強したという意識はないだろう。

■英語を学ぶ目的は?

eigo.jpg試験があるからというのが、大半の人の答えなのだろうか?

日本人が英語を話せないのは、国際的にもハンディであると言われる。

だから、会話を目的に小学校で取り入れられたのだろうか?

とすると、先生は大丈夫か?

つまり、ネイティブな英語を聴く環境がどのくらいあるのだろうか?

また、英語を学んでも使うところがなければ、意味がある、ないより意欲がわかないのではないか?

音楽は楽器や歌を学べば、どこかで発表するという機会もある。

試験のためだけの英語学習ではなく、英語を学んだことの先に楽しみがあるというふうにすべきではとも思う。

英語について詳しい方、よろしかったら教えてくださらないでしょうか。





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posted by edlwiss at 22:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年11月27日

貧困率の増加が子どもに与える影響

ただ貧困率と言うと、相対的貧困率のことを表し、国民所得の中央値の半分以下の割合を言う。

日本はこの貧困率が高く、貧富の差、つまりよく言われる格差社会が広がっている。

子どもは小学校入学するまでに、脳が大人に近いほど完成されるということを考えると、幼児期の家庭環境は大切と思う。

つまり、子どもの貧困が子どもの将来に暗い影を落としていると言える。

生活がやっとの家庭では、両親とも労働時間が長いので、子どもと接する時間が短いだけでなく、いっしょに食事をする時間すら少なくなる。

教育立国を目指すという以上、国は子どもの生活環境を保障する政策をすすめるとともに、幼児教育にも力を入れてもらいたいと思う。

日本は老人と子どもに冷たい国と言われるが、ぜひこの汚名を返上してもらいたいものだ。

■子どもは両親の愛情に包まれて育つべき

幼児教育と言っても、早期から何かを詰め込むことを目指すのではない。

どの家庭も一家団欒(だんらん)ができるような国づくりを望みたい。

ゆとり教育が話題になったが、家庭こそ団欒のできるゆとりが大切だろう。

国民の生活が大切ということは、そういうことではないか?





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2012年11月27日

誰を信用してよいのか

次第に選挙モードという感じになってきました。

一番気になるのは、選挙用と当選後の言葉が一致しないのではないかという不安です。

これは、今までの実績で判断するしかないのでしょう。

「言葉巧み」という演説術にはごまかされないようにしたいと思います。

原発はゼロへと閣議決定しますと放送局で発言し、その2時間後の閣議で決定しなかった人。

アメリカへ行ったときは、国に帰ったら原発を推進するようにしますと発言してきた人。

「国民の生活が大切なのです」と力説しながら、東北の復興の予算を他に流していて知らん顔の人。

現実にもそういう人を知っていますが、その場その場では受ける話をしながら、帰ると裏ではまるっきり反対のことを平気でする人。

こういう人は、表面を取り繕うのがうまい気がします。気をつけようと思います。

こう考えてくると、子どもも、先生は裏表がないかを見ているような気がします。

大人の世界では、筋を通す、表裏がないということが試されることがあります。

こういう時、子どもを裏切らないようにしたいものです。

■本当に実行できるんでしょうか?

日本銀行に輪転機を回してもらって、公共工事をやって経済が復活するのでしょうか?

待ってましたとばかり、シロアリに餌をやることにならないでしょうか?

金融緩和はもう十分なのではないでしょうか?

世の中にはお金があふれていて、それはどこにあるかというと、銀行の金庫に溜まっていて、社会に出まわっていないだけじゃないですか?

そこにインフレ・ターゲットで、2〜3%を目指し、そんなに都合よくインフレをコントロールできるのでしょうか?

そんなことをしたら、あふれるほど銀行の金庫に溜まっているお金が、堰を切ったように放出され、急激なインフレになりませんか?
コントロール不能になりませんか?

そうなったら、また政権を放り出しますか?

真に景気をよくするなら、これ以上お金を印刷するのではなく、銀行に溜まっているお金を中小企業に貸し出す方向で考えるべきじゃないでしょうか?

担保がなくても、プランがよかったら貸し出すという方向を進めた方がよくないですか?

様々な疑問が湧いてきます。

この国は本当にお金が足りないのか、国のお金を特別会計も含めて、全面的に開示してもらいたいものです。





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posted by edlwiss at 19:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治

2012年11月26日

デジタルを支えるもの

タイトルが抽象的な印象を与えるかも知れないが、内容は具体的なことである。

デジタルという言葉が出てくると、それに対してアナログという言葉が出てくる。

デジタル機器は増え、世の中はデジタル化の方向に突き進んでいるようにも見える。

しかし、デジタル技術を根本で支えているのは、アナログ技術であるということを知っているのはどれくらいいるのだろうか?

これから説明することは、デジタル回路をご存知の方には、釈迦に説法であることをお断りしておくので、そういう方々は読み飛ばしていただきたい。

■デジタル回路はクロック発生回路に支えられている

clock.jpgデジタル回路に必ず必要なものは、右図のような電圧波形を有するクロックである。

このクロックはクロック発生回路からできている。

この波形が安定的に発生されなければ、デジタル回路(機器)は総崩れになってしまう。

ここはデジタル回路(機器)の最も弱い部分、アキレス腱とも言える。

横軸は時間軸であるから、正確な時間間隔でパルスを発生させる源が最も大切な部分である。

それで、水晶が安定した振動を発生するということで、クロックの発生源としてはほとんど水晶発振子が使われている。

水晶発振子は時計に応用されてから、時計の精度が飛躍的に向上した。

■デジタルかアナログかではない

デジタル機器の操作が不得手、理解不能な人を指して「デジン族」なんて言葉を作った人がいるが、デジタル機器と言えども、すべてがデジタルで成り立っているというものは存在しない。

それは、すでに説明したようにデジタルはアナログに支えられているからである。

私が一番言いたいことは、デジタルという言葉を聞いただけで、そこからもう一歩「デジタルとは何か」を考えてみない思考が問題だということである。

教師は既得の知識を切り売りするだけでなく、この「もう一歩先を考えてみる」ということが大切だと思うのである。

そういう思考が「賞味期限切れ」と揶揄されない自分を作っていくのではないかと思っている。

老齢化が進み、認知症が問題にされるこのごろ「なぜ」と問いかけることを忘れず、調べる人の脳が萎縮していないと報告されている。

■デジタル信仰をなくそう

私はオーディオに関心のある方だが、近年、デジタルアンプが出回るようになった。

オーディオフアンの中には、デジタル信仰ではないかと思われる人もいて、アンプにデジタルの言葉がつくと、それだけで性能がいい、音がいいと思ってしまう人がいる。

あるメーカーではフルデジタルという言葉を使って、だから優秀だと言わんばかりの宣伝をしている。

音がいいのか悪いのかは聴いてみればわかることなのだが「すばらしい音でしょう」と言われると、すばらしく聴こえてしまう人もいるようで、そこは商売の暗示にかかって投資するのは個人の自由だが、こういう人に「アンプ全体が総デジタルということはあり得ませんよ」と言っても通じない人がいる。

また、今日では従来からPCM録音と、あとで開発されたDSD録音とは同じデジタルとは言え技術が違うので、PCMからDSDに変換する部分もあって、ここにズレの問題もあると言ってもデジタルだからと魔法にかかったように理解不能の人もいる。

だから、メーカーによっては、わざわざデジタル化しないところもあるのだ。

とにかくデジタルですからの言葉だけに惑わされないようにしたいものだ。

子どもに「デジタルって何でいいんですか?」と言われたとき、わかりやすく説明できるようにしたい。





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posted by edlwiss at 22:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年11月25日

教えて教えられないもの

chino.jpg親が子どもにピアノを習わせようとして、ピアノ教室に通わせる。

子どももその気になって練習する。

しかし、やがてやめてしまう子どももいる。

その状況は一通りでないにしても、ある人の言うには、親が関心を示さなくなったときに、子どもも練習をしなくなると言う。

始めは

「どんなこと習ってきたの?弾いてみて」

なんて言葉が出てきて、子どもも親の前で披露したりする。

そんな時、子どもも少し恥じながらも親の気持ちが嬉しくて、どきどきしながら弾いてみる。

親が醒めたときには、不思議と子どもにも伝わるような気がする。

人間はコンピュータにプログラムするようにはいかないものだ。

家庭の環境の影響、親の愛情、励ましといったものが指導技術とは別に、大きく影響するような気がする。

■先入観に捉われない指導

学校教育は学年が決まっていて、1年から順番にと習うことが決まっている。

そういう習慣が定着したせいか、つい「まだ1年生だから」なんて先入観を持ってしまうことがある。

しかし、体は20年ぐらいかかって大人に成長するものだけど、脳は6歳で、すでに大人の90%ほど完成していると言う。

スポーツに視点をあててみると、15歳でもまだまだ伸び盛りというものもあるが、脳が6歳で90%完成しているとすると、小学校に入学したころは脳の伸び盛りは過ぎているのかも知れない。

確かに、音感は4歳ころが最も敏感な時期であると言われることをあわせて考えてみると、いっそうその感を強くする。

最近は幼くて才能を示す子どもをよく見るようになったてきた。

次の例は5歳である。



この演奏を聴くと、ただよく練習したという感想だけでは足りない気がする。

それは、この子どもが自分の心を入れ込んで弾いているということが伝わってくるからである。

自分なりにバッハを理解して、自分の表現としてのバッハを弾いている。

次のビデオも、これは幼くして(7歳)もう本物の指揮者という感じがする。

ロリンマゼールという指揮者は8歳で指揮デビューしたそうであるが、この子どももそういう感じかも知れない。



生まれてきた子どもは、すでに人格を持っている。

幼い子は毎日、加速度的に成長しているように思う。

好奇心旺盛で、いろいろなものに興味を示し、冒険したりして急速に脳が発達しているようにみえる。

この子どものような演奏は、子ども自身が興味を示さなければ、こうなるものではないと思う。

つまり、教えて教えられない部分があると思う。

どういう環境に育ったのかわからないが、ある時からこの子どもの心にバッハが飛び込んできたように思える。

教育とは知識の注入だけでなく、心の部分が大切であるということを、改めて感じさせられる。

日本は昔より生活環境が豊かになり、ピアノが家庭にあるということが珍しくなくなった。

日本と言う国の生活レベルが高くなったことも影響しているのかも知れない。

しかし、これは、子どもの環境に物があふれていれば、それで影響を受けるというものではないと思う。

私の家の近くには研究所があって、そこは世界的水準の研究所である。

そこで働いている親たちの家庭が市内にあるが、そこの子どもたちは非常に優秀である。

小学生ながら驚くべきレベルである。

いわゆる勉強もよくできる。

では、親が教えているのかというと、そんなことはない。

「子どもはもっと遊んだほうがいいのだよ」

と親から言われている。

私の想像では、生まれながら知的刺激をたくさん受けていて、それが脳の発達を促しているような気がする。

高校も部活動を熱心にやっていて、特に学習塾に行っていると思えないのだが、全国的に進学率は高い。

東大に入れるために、ガチガチになっている親の話は聞いたことがない。

■幼いときの知的刺激が大切

両親がどういうことに関心を持ち、どういう生活をしているかは、子どもの成長に大きな影響を与えるような気がする。

子どもには、必要なことを教えたからと言って、どの子も同じように育つとは限らない。

そういう意味では、教えて教えられない部分があると思うし、学校は子どもの成長の可能性に照らし合わせて、十分それに応えられる指導体制を持っていなければならないが、逆にそれ以上の責任は持てないとも言える。

改めて

馬を水辺に導く事はできるが馬に水を飲ませる事は出来ない

の言葉を思い出した。







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2012年11月24日

進歩する社会にどう対処すべきか〜学校の役割を考える

Windows8が発売された。

Windows VISTA、7を使っていた人は戸惑うのだろうか?

社会は進歩していくので、覚えることはどんどん増えて、頭はパンクするか?

■覚えたことしかできないのでは限界が来る

teni.jpg人の脳はどれほど記憶できるのだろうか?

ある説明によると、単行本にして約3千万冊と書いてあった。

IBMの研究者の計算によると、3584Tbyteという話もあった。

いずれにせよ、現在のパソコンのように記憶したことしか引き出せないようでは、容量が不足するということになる。

しかし、教育の原点に戻ってみると、知徳体と言われる知の部分は、せっせと知識を詰め込むことだったのだろうか?

そうではない。

今日の試験のための勉強に明け暮れていると、つい忘れがちなのが転移という言葉だ。

社会の進歩に追随するために、どんどん知識を詰め込むのではなく、一つ習ったことが他に応用できるということが教育法の基本であった。

例えば、自転車に乗れるようになったA君は、バイクにも乗れるようになるということである。

ジャズ奏者の中には、サクソフォン、クラリネット、フルートをかけ持ちで演奏している人がいる。

これは、始めにクラリネットを練習し、それがサクソフォンを練習するときにも役立ち、さらにフルートにも習ったことが応用できるということである。

昔、アメリカで教育改革が話題になり、教育はどうあるべきかという討論が行われたとき、原理を教えよという言葉が強調された。

これは、学習の転移を意識したものである。

だから、学校は新しいことをどんどん詰め込むのではなく、何を教えたらよいかを精選し、知識や技能の原点にあるものを指導すべきなのである。

ところが、学習の転移を考えた「原理を教えよ」が、今日では一時的に覚えておればよいという、試験対策に重点が置かれたため、脳の方も、コンピュータのハードディスクのように、知識の蓄積庫のようになってしまったような気がする。

いつしか、こういう脳の働きが定着したために「教えたことしかできない」と言われる人も増えてしまったような気がする。

■Windows8は難しいか?

これからも、新しいOSは次から次へと出てくるだろう。

しかし、それはモデルチェンジした新車販売のようなもので、人と機械のヒューマンインターフェースという観点からは全然変わっていない。

コンピュータそのものも、第二次大戦中に開発されたENIACから少しも変わっていない。

だから、コンピュータの原理から学んだ人は、次々と発売されるOSに、そんなに戸惑うことはないだろう。

今日では、ガラケイと言われる従来の携帯電話よりスマートフォンの売れ行きが多いようだが、スマートフォン、いわゆるスマホも突如、降ってわいたような機械ではない。

スマホで戸惑っている人は、脳が原理を覚えていて応用する(転移する)思考が発達していないか、退化してしまったから、難しいと考えてしまうのかも知れない。

■生産ラインのノルマのような指導は改めなければならない

人の労働が高度に分業化されてきたために、自分はいったい何をやっているのか忘れてしまっているということはないだろうか?

時間割があって、時間になったら所定の教室に行き、教科書を出して「今日は○ページからですね」と始めて「今日はここまでです」とロボットのような日課を続ける中で、大切なことを見失ってはいないか。

それは、一つ教えたことが、ジャックの豆の木ように育っていくことである。





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2012年11月23日

アマチュア団体の問題

例えば、アマチュアのオーケストラや吹奏楽団など、営利を考えないだけに純粋でよいようにも見えるが、アマチュアであるがゆえの問題もある。

アマチュアのいいところは、収支を考えなくてもよいところにある。

プロの楽団であれば、客が入らなくてはたちゆかなくなる。

アマチュアの場合、そういう心配もなく、客は身内や友人知人に誘いをかけて動員することができる。

未熟な初心者でも参加できる。

大勢の力でなんとか形をつくるということで、演奏会もできる。

ところが、このアマチュアのよいところは、欠点でもあったりする。

ひとことで言えば、無責任にもなるということである。

不透明な会計、無責任な参加、観客の立場を考えないプログラムなど。

かくして、悪い方向に行くと、最近よく耳にするガラパゴス状態になりかねない。

アマチュアであろうと、人に音楽を聴かせる以上、音楽そのもので人を感動させることを考えて欲しいと思う。

それには、批判に耐えて、質の向上をすることを目指してほしいと思う。

身内や友人、知人などの客だけで満足せず、もっとひろい客層に受けるように向上してもらいたいと思うのである。

最近ではYoutubeに投稿して、一般の反応をみることもできる。

著作権には注意しなければならないが、無料で公開できて人気度を知ることができる。

今やYoutubeはよく知られていて、積極的に演奏を公開しているアマチュアもいる。

ところが、何か変だと思うものに、演奏会となるとチケットの売れ行きを心配して、メンバーににノルマを課したりするのに、Youtubeでの宣伝に拒否反応を示す団体もある。

正確には、団体のリーダーが公開をよしとしないのである。
客は入って欲しいが、宣伝して欲しくないということなるが、この心理は何だろう?

機会をみて、この心理に言及してみたいと思う。





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2012年11月21日

人との出会いで未来を開く〜協調性の必要

学校を卒業して社会に出ると、そこはかなり自由な世界である。

自由な世界と言っても、自分が好き勝手に生きられる世界ではない。

だから「かなり自由」と制約のある自由という言い方をした。

もっと自由が欲しいということで、退職金でフィリピンの島のひとつを買って住んでいるという人もいた。

それも人生の選択である。

多くの人は、卒業すると何らかの仕事に就こうとする。

今、話題になる就活がそのための努力である。

どこかの会社に就職しようと思えば、会社に気に入られるようにしなければならない。

多くの人は、選択される立場にあるわけだ。

選択する人は人である。

選択される側も人であるから、ここに人と人の接点、出会いがある。

そして、選択する人に気に入ってもらえなければ、採用には至らない。

先に、オーケストラに入団したものの、協調性に難があって退団を余儀なくされた人の話をしたことがある。

会社への就職も同様である。

どんなにすばらしい技術を持っていても、組織人、つまりその会社の方針になじまない人、協調性のない人は受け入られない。

だから、何らかの組織に入りたいと思うならば、社会に出る前に協調性を学ぶ経験は大切だと思う。

教え子の中に指揮者になった者がいる。
(私が彼を育てたなんてことを言いたいわけではない。私はそんなエライ人ではない。たまたま、運命で出会いがあっただけのことである)

彼は吹奏楽部に入部したときから優秀だった。

後に、有名な音大に進学したわけだが、そこで指揮に関心を持つようになり、先生からも人柄と才能を認められ、推薦状をもらってドイツへ留学した。

彼が帰国後、話してくれたことが、いろいろ参考になった。

彼はドイツへ行ってから、生活費を稼ぐために、あるオーケストラの入団テストを受けた。

テスト後、何人かの人(ドイツ人)が、相談をしていたということだが、彼はドイツ語があまりわからなかったが、どうやら、彼の音色がオーケストラにマッチするかどうかを話し合っていたということである。

結局、オーケーが出て、入団できることになったわけだが、腕前が水準にあるかどうかはもちろんのこと、アンサンブルにおいて、人と合わせる能力、音色が大きなウエイトを占めたのである。

■メジャーなオーケストラは厳しい

クラシックフアンに絶大な人気のある、オーストリアのウィーンフィルで、かつて大きな話題になったことがある。

ウイーンフィルに入団したくて、ある女性が応募したところ「女性は入団できません」と断られたことである。

なぜ、女性はダメなのかという理由は、女性の場合、産休をとることがあるという。
すると、その欠員を埋めるために同程度のレベルの奏者を探すことが難しいからというのが理由だった。

ウィーンフィルはアンサンブルの密度を高く保つために、楽員は自分の好きな楽器で演奏することは許されていない。

伝統的に、楽団の所有する楽器を使わなくてはならない。
そうして、音色を統一しているのである。

メンバー一人が変わることも、オーケストラ全体の音色を変えることになるので、団員の入れ替えには厳しいのである。

さて、女性奏者の問題だが、彼女は差別だとしてオーストリア政府に申し出た。

オーストリア政府は、女性差別は問題だとして、ウィーンフィルに対して、差別をするのなら国からの補助をしないと通達した。

ウィーンフィルは困って、以来、女性だからという理由で入団を拒否することはしないことにしたそうだ。

maiika.jpg
■経験しなければわからないこと

ものごとには経験しなければわからないことがある。

経験しないで、わかったつもりで意見を言っているのも「バカの壁」だろうと思う。

例えば、オーボエ奏者がいかにリードに苦労しているかということ。

プロの演奏を聴いていると、やすやすと演奏しているので簡単だと思ってしまう。

しかし、オーボエ奏者がステージに立つまでの苦労は相当なものである。

とにかく、オーボエ奏者ときたら、いつもリードを作っているという気がする。
一日中リードばかり作っていて、いったい、いつ練習するのかと思うほどである。

それでも、オーボエ奏者はそんな苦労をしているとは言わないし、リードの失敗のせいでミスをしたとも言わない。

オーケストラや室内楽を経験し、いろいろな楽器の人と交流していると、それぞれ苦労している内情が伝わってくる。

さらに、そういうことに気がついて、もう少し視野を広げてみると、演奏する人に限らず、いっぱしの仕事をしている人たちは、それぞれ人に言えない苦労を克服して、責任を果たしているのではないかという思いを抱くのである。

だから、何も実践しないで言葉だけでわかったつもりの人は、バカの壁にぶつかっているのではないかと思ってしまうのである。

子どものころ、一番初めにオーケストラを見たのは多分、テレビでのNHK交響楽団だろうと思う。

自分がクラリネットを吹いているので、自然に、ステージの中央、後ろの方で演奏しているクラリネット奏者が気になる。

総勢100人ほどの人数の中に、クラリネット奏者は普通、二人だけ。

そういう環境の中に、自分も置かれるとは、そのころは想像だにしなかった。

ひとたび、自分がそういう立場になると、その席に座っているだけでかなりのプレッシャーである。

吹奏楽と違って、クラリネットは二人だけだし、その二人も別々な役目をしているので、事実上100人の中で自分一人だけである。
そして、オーケストラ曲となると、必ずというぐらいソロがある。

ソロの場面になると、自分以外の99人はサーッと静かになり「さあ、どうぞ」という感じになる。
誰も助けてくれる人はいない。

完全なソロとなると、指揮者も棒を振らないで、ご自由にという顔をする。

ただ無難に演奏をすればよいのではなく、ソロのできはその演奏会の評価に大きな影響を与える。

私のオーケストラでのデビューは、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」ロ短調であった。

1楽章でソロがあり、だんだん音を小さくしていく場面では、楽譜にppppppとp(ピアノ)が6個も書いてあったのにはびっくり。

ここを孤独に演奏する心境は、ピッチャーが満塁の場面で、打たれたら負けという精神状態に似ているのかも知れない。
しかし、どういう巡り会わせかわからないが、こういう経験ができたことに感謝しなければならないと思った。

自分は下手なんだけど、一応、そういう経験をしているからプロのすごさがよけいにわかるような気がする。

オーケストラの編成は、標準的な編成は二管編成と言って、木管楽器のフルート、オーボエ、クラリネット、バスーンがそれぞれ二人ずつである。

それぞれ、1番奏者、2番奏者として違う楽譜を使う。

例えば、クラリネットの1番奏者と2番奏者は、同じことを演奏する場合もあるが、多くの場合2番奏者は1番奏者のハーモニーをつける役目をする。

だから、2番奏者は1番奏者より目立ってはいけないし、1番奏者の音程に追従しなければならない。

1番奏者が高めになれば、2番奏者も高めに追従する。あたかも黒子のように振舞うことが大切なのだ。

1番が偉く、2番がヘボということではない。

時に、1番担当と2番担当が入れ替わることもある。

そうしたら、1番としての役目、すなわち今度は自分がスターである。

自分がスターか黒子か、役目をわきまえて協調できる人が優れた奏者なのだ。

結局、これは音楽以外の仕事でも同じである。

■学校は協調性を養うためにはよい環境を持っている

学校へ行かなければ勉強はできないのかと考えたとき、今日では、知識や技能を身につけるだけなら、特に学校へ行かなくてもできてしまう。

しかし、学校でなければできないこともある。

それは、学校は人が大勢集まるということである。

少し知恵がまわる人ならピンとくると思う。

単純に「人が集まるのは学校だけではない」なんていう人がいるとしたら、かなりものごとを表面的にしか捉えられない人である。いわゆるピンポイント思考の人である。

「人が集まる」の意味は、ただ大勢の人が集まるということを意味しているのではない。

ただ集まるだけなら、駅、銭湯、映画館だって集まる。

勉強をするために、大勢いないとできない勉強のことを言っているのであって、単純な人の集まりを言っているのではない。

人が自立していくために大切な要素として、グループを作って、グループ間の競争を経験していくことがある。

いくつかのグループを作るためには、それ相当の人数が必要である。

30人のクラスなら、5人ずつのグループが6つできる。

教師は意図的に、グループ間で競争をしてクラス全体が高まっていく指導計画を立てて実行する。

例えば、理科でグループごとに実験をやらせて、それぞれのグループに発表させることもグループ間の競争である。

企業でも、研修で5人ぐらいずつのグループを作り、それぞれのグループにリーダーを作り、発表させたりする方法をとることがある。

グループが成果をあげるためには、グループ内の協調性が大切である。

視点を変えれば、プロ野球の世界も各チーム(グループ)が競い合って優勝を目指し、それが日本の野球のレベルアップになっている。

選手として優れた技能を持っていても、協調性の問題で自由契約となった人もいる。

自由契約になったが、その苦労が経験となって、拾ってもらった球団で初心にかえって再びすばらしい活躍をした人もいる。

■お呼びのかからない人

先日、ある企業の専務と会ったとき、話の中でゴルフの話が出た。

専務:「今度の日曜日はゴルフなんだ」
私:「専務はゴルフ好きなんですか?」
専務:「特に好きというわけではないが、融資してもらうので仕方がない」

という話。

ゴルフをやっている人ならわかる話だが、ゴルフは好きなのだけれど、誘ってもらえる人と誘ってもらえない人がいる。

誘ってもらえない人は、相当に下手か、グループに入れるとマナーで迷惑をかける人である。

ゴルフのコンペは通常、何組かのチームを作る。

たいていは1チーム3〜4人であるが、その人数にならない場合、補欠がいる。

補欠要員ということだが、補欠要員でも呼んでもらえる人はいい。

呼んだら皆を不愉快にする人は呼んでもらえない。

ゴルフはアマチュアにとってはリクレーションだが、ただリクレーションをするだけでなく、商談の場ともなる。

そんなに上手い必要はないが、チームに迷惑をかけるのはまずい。

初心者のうちは、他の人たちの思いやりでカバーしてもらえるが、性格上、皆を気分悪くしてしまう人はよくない。

芸術に秀でているとか、何か特別優れた特技を持っていても生きていける人なら別ですが、人生を乗り切っていくためには、人と協調できる能力は大切なものと思います。

私の知るところでは、大学のクラブでリーダーとして苦労してきた人は、学校の教師になってから、例外なく子どもをすばらしく育てています。





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2012年11月20日

インフレターゲット、大丈夫か?

自民党総裁の安倍氏が経済復興の手段として、インフレターゲットを提唱している。

インフレ目標を2%とか3%とか設定して、そのようにコントロールできるのかという疑問が湧いてくる。

私も浅学ながらそういうことを考えたことがあるが、経済の専門家の話では、経済は生き物であるから、そんなに思ったようにコントロールできないとのことであった。

それより、コントロールを失って、2〜3%どころか、それをはるかに突破してハイパーインフレを起こす危険性が怖い。

一度そういう状態となったら、100%〜1000%ということになるかもしれない。

infure.jpgそうなったら、円は暴落、紙くずになる。

今、市場に金がないのではなく、ゼロ金利のため、銀行に金はあふれている。

市場に金が流通しないのは、銀行が貸し出しをしないからだ。

私の知るある信用金庫は、貸し出し資金の半分しか貸し出しをしていない。

中小企業に貸し出しをするのが怖いからだ。

日銀に通貨を供給するように要求するのではなく、銀行に溜まっている金を貸し出ししやすいような政策を取るべきだと思う。

インフレターゲットのように政治の力で経済を操作することは、市場原理に任せるという経済の原則に反するようで怖いことである。

それより、もっと、最優先で行わなければならないことがある。

それは、110兆円にのぼる霞ヶ関の官僚が独り占めにしている会計にメスを入れることだ。

これらの会計は特殊法人に使われている金であり、これらの法人は民間企業と違って競争原理もなく、赤字になっても税金で補填するだけという、天下りの温床で、いわゆるシロアリの巣窟と言える。

橋下氏はここに手をつけるべきだと言っている。
私もそう思う。

この国の1年の総予算は90兆円ではなく、特別会計も含め210兆円だ。

この210兆円全額を国会で審議すべきだ。

安部氏がここに言及しないのは、政権をとった暁には、再び官僚依存のシロアリ温存が頭にあると思えて仕方がない。

私は何党のフアンでもない。いわゆる無党派。

その立場から言うと、再び自民党が政権をとることの不安を感じる。





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posted by edlwiss at 21:45 | Comment(2) | TrackBack(0) | 政治

2012年11月20日

協調性が育つ過程

協調性はいかにして育つのであろうか、アンサンブルの経験を通して考えてみた。

中学生で、数人ずつのアンサンブルを構成して、発表会を目標に練習させるところを想定する。

例えば、木管五重奏なら、フルート、オーボエ、クラリネット、バスーン、ホルンの5人。

1.自分のことで精一杯の段階

メンバーそれぞれが、自分のパートの演奏をするだけで精一杯の段階。

楽譜を読むこと、音を出すこと、難しいところはプレッシャーがかかって、いっそう緊張する。
だから他のパートの音はほとんど耳に入らない。

自分のパートは他の誰もやっていないので、自分がやらなければ穴が開いてしまう。

2.自分の責任だけは果たせるので、他の音を聴く余裕がある

自分のパートだけは演奏できるようになっているので、自分は責任を果たしていると感じでいる段階。

でも、他の音を聴いて自分はどうすべきかまでは考えていない段階。

3.音楽全体を解析し、自分なりに解釈を持つことができる

アンサンブル全体として、どういう作りをすべきかという自分なりに考えを持ち、意見を言うことができる。

この場面は、自分は控えるべきか、自分が主役として意識をもつべきかの判断ができる。

演奏全体に対する意識を常に持っている。

また、他人の意見を聞いて、他人との協力関係を作ることができる。

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これはアンサンブルに基づいて、段階をまとめたものであるが、アンサンブル(音楽)に限らず、人が集まって何か仕事をする時は同様と思う。

例えば、企業にはいくつかの部署がある。

そしてそれぞれの部署は、人と人が協力関係を持って仕事を遂行する。

自分の責任を遂行することはもちろんのことだが、自分のことだけで精一杯の段階から抜け出して、他の動きを見る余裕を持てるようになることが望ましい。

人と人がいっしょに仕事をするということは、そこには連携が必要である。

自分の仕事が他人の仕事に影響を与えるし、他人の仕事もまた、自分の仕事に影響を与える。

スポーツでも、団体競技はそれぞれのメンバーが自分の役割を果たすことで、強いチームになる。

バントをすべきところで、確実にバントをする。

シュートをする人に、絶妙なパスをする。

ここでは、自分はどういう役目をすべきか、瞬時に考えて行動に移す。

人がまとまって行動をするところには、共通する場面が多い。







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posted by edlwiss at 17:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年11月19日

すごいと思ってしまう壁〜信者になるのもよく考えて

子どもがパソコンに強いと思っている人は、意外に多いと思う。

この場合の「強い」とは、何をもって強いと感じでいるのだろう。

確かに、子どもはキーボードの操作には早く習熟する。

しかし、コンピュータそのものの勉強となると、算数などを教える時の子どもと変わらない。

子どもはゲーム機の操作も巧みで、そういった操作を見て「すごい」と感じてしまうのかも知れない。

■何でも分解しないと気がすまない人

オーディオの好きな人で、メーカーの製品そのままでは気がすまないらしく、ほとんどの物を分解してしまう人がいる。

本人は改良したと言っているが、改良になっているのかどうかは、音を聴いたことはないので、私にはわからない。
(こんなとき、現物にあたらないでもわかってしまうような超能力があれば、便利だと思うのだが。)

その人は、独特の理論を持っており、押し出しも強いところから、周りには信じている人もいるらしい。

それで、彼から「私が改良してあげましょう」と言われ、自分のオーディオも分解して改良(?)してもらっているらしい。

すっかり信用して、信者のようになっている人もいるらしい。

しかし、音のするものは、聴く力さえあれば、よくなったのかどうかはわかるものであるが、その辺は情報がないのでわからない。

■知識の落とし穴

どんな改良をしているかと言うと、まずはスピーカーの改造だ。

スピーカーの多くは、インピーダンスが8Ωだが、それは中域の一番低いところの値で、そこから低域に向かってインピーダンスは上昇し、広域方向にもインピーダンスは上昇する。

インピーダンスのカーブは谷のようになっているわけである。

彼は、このスピーカーのインピーダンスが、低域から広域までフラットでないのがよくないと言った。

そこで、このインピーダンスをフラットに改良するというのである。

私はそんなことができるのかと思っていた。

そのやり方というのは、スピーカーと並列に補正回路を入れるものだった。

hoseikairo.jpgしかし、これではスピーカーそのもののインピーダンスをフラットにすることはできない。

このやり方を道路に例えるなら、でこぼこ道(スピーカー)があって、その道を改善するために、でこぼこ道のバイパス道路を作っただけと同じことなのだ。

交通はスムースになるが、これでは、でこぼこ道は依然としてでこぼこのままなのだ。

つまり、スピーカーに並列に補正回路を入れたところで、スピーカーそのものの特性はまったく変わらないということだ。

このやり方で何が変わるのかというと、アンプ側からみたら負荷のインピーダンスは確かにフラットになるから、アンプの動作が楽になるということだけ。

今まででこぼこ道しか通ることができなくて、苦労して通行していた車が新しいバイパスを通ることで楽になったというだけなのだ。

電気回路に並列に何かをつないでも、元からつないであったものの動作は全く変化しない。

テレビのスイッチを入れたからと言って、部屋の照明が影響を受けて暗くなるなどの変化をしないのと同じである。

電気回路の基本的な知識のある人なら、すぐにわかることだ。

しかし「電気」と聞いただけで苦手意識を持つ人にとっては、何か専門家のような雰囲気のする人の言い分には惑わされてしまうのかも知れない。

オーディオ店によっては、同じように、何か専門的な言葉を出したり、理屈を言ったりして客を煙に巻くようなところもある。

「どうです。いい音でしょう。このレベルになると・・・」

なんて、まくし立てられると、なかなか「いい音ですか?私にはわかりませんが」とは言いにくくなる人もいるようだ。

耳が悪いと思われたくないのかも知れない。そこには、見栄もあるのかも知れない。

それで、裸の王様になってしまう人もいるようだ。

■矛盾

オーディオの好きな人は、振動対策に気をつかう。

この何でも改造さんも、スピーカーは自分で作ったごっつい箱を使っている。

それは、それで納得がいくのだが、それを乗せている台が貧弱で、これではビビッてしまうんじゃないのと思うものだった。

他にも、こんな薄い板の棚に機械を入れていいの?と思うものもあった。

だんだん、変だなと感じるようになったが、とにかくバラして(解体して)自分の思うように、再組み立てをしなければ気がすまないようなのだ。

それは個人の趣味でいいのだが、私として受け付け難いのは、再組み立てしたものが、あまりにも美的でないことだ。
私の評価としては、かなり醜いものとなる。

この人にかかると、恐らく右の写真のような製品も解体されてしまう。
そのやり方は、ホームセンターで買ってきたベニヤをあまり精度のよくない加工で張り合わせ、作り直してしまうようなもの。

p3a.JPG例えば右の写真のような製品、これはブラジリアン・ローズウッドという高価で美しい木材が使ってあるものだが、これもバラバラにして、ホームセンターのベニヤに変わってしまうのだ。

一体、どんな音になったのだろうかと思うのが、聴いたことはないので、何とも言えない。

関わりあった人たちはどの程度満足しているのか?

■耳がいいのか?

音楽の再生で最も難しいのは、オーケストラだろう。

楽器の数が多くて、音色も多彩である。

かつ、小さな音から大きな音までレンジが広い。

すると、自分の装置がいかに、この難しいオーケストラを再生できるかというのも自慢の種になる。

しかし、装置がどんなにすごい再生能力を持っていたとしても、肝心の聴く人がそれ相応の耳を持っていなければどうしようもない。

そこで、装置の自慢は時に自分の耳の自慢になったりもする。

音色の判別、音程の判別、音量の判別等々がいかにできるかである。

バッハの2台のチェンバロ協奏曲の、それぞれのチェンバロの音が区別できるわが装置はすごいのだという自慢もあった。それを区別できるご自分の耳もすごいのだろう。

ところで、この解体〜再生屋さん、録音もやっているということで、アマチュア楽団の演奏の録音にも出かけるらしい。
そこで、ずいぶん勉強になったと言うのだが、発言の中にアレアレというものがあった。

「ヴァイオリンなどの弦楽器は、自由な音程が作れますが、管楽器は運指で出る音が決まってしまいますから・・・」

という部分。

これで、ご自分の耳の程度がバレてしまった。

確かに管楽器には音階のための運指があるが、前回の平均律、純正律の話で述べたように、音程は奏者の意志で弦楽器同様に少し高めとか低めとかをやっている。

例えばトランペットは3本のピストンで音階を作っているが、その組み合わせですべての音階を作っているのではない。
ピストンを操作しない左手を見れば、トリガーという装置を操作して音程を修正していることがわかる。

管楽器がそういう修正を行っているということを知らなくても、聞く耳さえ持っていれば、同じ運指でもやや高いとか低いとかを感じとることができるはずだ。

管楽器は指使いで音程が決まってしまうと発言したところで、聞き取れないのだなということがバレてしまった。

■押しの強い派手な人には気をつけよう

すごいと感じて心まで奪われてしまうと、本質が見えなくなることがある。

心まで奪われて信者になってしまうと、ありがたい教祖様の悪口を言う人はみな憎らしく思えてしまう。

信者になるかどうかは、信仰の自由だから本人の好きでいいが、問題は思考しなくなってしまうのではないかという危惧を抱くのである。
ここにも思考のができてしまう恐れがある。

ハッタリもいつかはバレるということを、頭の隅に入れておいた方がよいだろう。





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2012年11月18日

協調性が求められるとき

■プロのオーケストラで求められる協調性

協調性の大切さがわかる例として、プロのオーケストラの楽員の例をみてみる。

プロのオーケストラに入団するには、まず欠員がなければならない。

欠員を待ってオーケストラ浪人をしている人もいる。

私の知人にもそういう人がいた。

あるオーケストラで彼の楽器の欠員が出て、彼は応募した。

一つの席をめぐって、36人が応募した。

彼はオーディションを通過して、合格することができた。

晴れて、給料取りの演奏者になったわけである。

プロのオーケストラに入るには、もちろんそれ相応の演奏レベルを持っていなければならない。

めったに空席の出ないパートを目指して、高倍率の競争を突破しなければならない。

彼のように高い競争率を突破し、腕前は評判だったが?という人もいる。

期待されて入団したものの、いざ練習が始まると、トラブルが多くついにオーケストラを追われるはめになった。

音が合わないとき「オレの音が正しい、間違っていない。他の人が悪い」と絶対に譲らなかった人である。

音楽にそこそ携わっている人であれば、これがどんな意味なのか、どんなにまずいことなのかはわかるはずである。

世の中には、絶対ということもある。例えば1+1=2のようなものである。

音楽もそのしくみは、物理か数学のように厳格なものから成り立っている。

すると、音楽は機械的に厳密に測ったようなものでできると考えている人もいるかもしれない。

だから、最近は音の高さを測る機械(チューナー)が流行るのかも知れない。

チューナーは物理的に正確だが、それでは音楽はできない。

ピアノの場合は、正確に調律してあれば、それで問題ないのではないかと思う人もいるだろう。

しかし、音楽の世界はそうは簡単にいかないのである。

確かにピアノは正しく調律してあれば、音程の悪さは演奏者の責任ではない。

ところが、弦楽器や管楽器の世界になると、正しく調律されたピアノとぴったりの音程(音高)であればよいと言うものではない。

ははあ、これは平均律と純正律のことを言っているんだなと、音楽関係者ならわかることである。

そう、ピアノは平均律である。わかりやすく言えば、正しい音階ではなく、誤差を含んでいる。

ここで、えらそうに音楽理論を語るつもりはないが、確認の意味で説明する。

音の高さを表す最小単位には1セントという単位が使われる。

ピアノでいう中央のドの音からオクターブ上の音ドの間が1200セントである。

dai3on.gif正しい音程(純正律)で音階のドレミファソラシドを作ると、音と音の間隔が204セント、182セント、112セントと三種類の音程ができてしまう。

これでは、ピアノのような鍵盤楽器では転調がなければいいが、そうもいかないので困ってしまう。

そこで、便宜的にドとレのような全音の間隔は200セントとし、半音の間隔は100セントとして、音階を作るようにした。
こうすれば、[全音=半音×2]となって、どの音からでも音階ができる。

これが平均律なのだが、ピアノの調律がこの平均律だ。

これらの説明を右図に示す。

弦楽器や管楽器がきれいな和音を作るためには、平均律ではダメで、純正律でなければならないのだが、それはある音とある音が整数比になることを示している。

では、純正律の機械(チューナー)とぴったり合った音が正しいのかと言うと、そうはいかない。

それは、アンサンブルが進行するときには、誰かが主役である。

例えばフルートが主役であった場合は、フルートが自分の感情である部分はやや高めに、またある部分では低めにという歌い方をすることが常である。

それが、その人の感じ方なので、他の人は主役に合わせなければならない。

つまり、アンサンブルを行う上では、絶対に正しい音程というのは存在しないと言える。

主役の人の意向に従って、あとの人は合わせるということをしなければならない。

しかも、主役はいつもフルートということはない。

入れ替わり立ち代り、主役が変わるのである。

誰が主役かを瞬時に感じ取り、その人に合わせる。

ここに、協調性の最たるものがある。

アンサンブルを行う限り「オレが絶対正しい」ということはあり得ないのである。

瞬時に歩み寄って合わせるという協調性が、オーケストラのメンバーには要求される。

これは、世界トップのオーケストラ、ベルリンフィル、ウィーンフィルにおいても例外ではない。

協調性のない人は、どんなに上手でも、オーケストラには入れない。


■組織はみなアンサンブル

音楽に親しみのない人の中には、音楽をやっている人や音楽の話が出てくる人を指して「音楽ばかりやっている」という人がいる。

では「音楽ばかり」の中身を考えたことはあるのだろうか?

「ああ、あいつは音楽ばかりやっている」で思考停止?

そこが終点で、その先は頭が真っ白?

私はこういう人を見ると、率直に言って「頭が悪い」と感じてしまう。

我流で、自分の世界だけで音楽をやっている人は別として、何人かで音楽をやっている人は、常に協調性が要求される。

やっているうちに、協調性が自分の体に染み付いてしまうと言える。

atama.jpg協調性の必要性は、組織体であればどこでも必要である。

だから、私は社会はオーケストラのようなものだと感じるのである。

オーケストラでも吹奏楽でも合唱でも、すばらしい演奏を作るためには、音楽の楽典を読んでいるだけではだめで、学校にある教科すべての力が必要であるし、役に立つと言える。

自分の考えを持つ、歴史を考える、数学的に物理的にどうかを考える。
美的とはどういうことなのかという感覚の必要性。

音楽用語はイタリア語が基本だが、楽譜はイタリア語だけではない、英語、ドイツ語、フランス語も出てきたりする。

頭がよくなるクラシック (幻冬舎文庫)という本が出版されている。

クラシックを聴くから頭がよくなるのか、頭がよいからクラシックを聴くのか?
相互作用だろうと思う。

私の周りを見ても、クラシックを聴く人は概して探究心が強いように思う。

音楽は生活において、空気のようだとも言える。

だから「あいつは音楽ばかりで・・・」という言い方は「あいつは空気ばかり吸っていて・・・」となり変だと感じる。





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2012年11月17日

知ってるつもりが作る壁(2)

■学校は学力を保証するところ?

今、ここに野球のバットがあるとしよう。

このバットでホームランが打てるかということと、バッターがホームランを打てるかということは別な問題である。

田中大臣の発言の問題でもそうだが、大学の設置認可が認められるかということと、社会には質の悪い大学があるということとは別問題である。

頭の悪い人は、これらの問題を区別して考えることができず、感情的に怒りをぶつけ、時に関係ないものまでいっしょにして責任を問うようなばかげた行動を起こす。

学校が負わなければいけない責任とは、その学校で学んだら、所定の学力をつけるのに足りる機能を持っているかどうかである。

野球のバットに課せられる質は、ホームランを打つほどの打者のスイングに耐えられるかどうかである。

学校も学ぶ者の意欲、努力に応えられてそれ相応の学力がつくまでに応えられる環境があるかどうかである。

ある学校の子どもの学力が低かったという場合、それは学校の問題か、子どもの問題かは別のことである。

しかし、その学校を卒業したら○年生程度の学力がつくということを保証せよと力んでいる人がいる。

これは、使ったら必ずヒットが打てるバットを作れと言っているようなものである。

こういう、知能が足りないのではないかと思われる塾経営者がいる。

受験対策のテスト勉強の指導をして、学力がつくと勘違いしている。はなはだしいのは、それで教育をやっていると思っている。

もし、それが学力をつけること、教育をしていることになるのなら、日本中の学校は塾化してしまえばいいことになる。

私は塾が嫌いとか、塾に反対しているわけではない。
だが、単純な思考をする人は、このように書いてくると、私が塾の批判をしている、悪口を言っていると勝手に捏造作文を書いたりする。

高校は無償化になったが、入試をなくせば、現行の塾のあり方は対応の変化を余儀なくされる。

入試はないが、しかるべき勉強をしないと進級できないとなれば、塾は進級のための力をつけるための塾とならなければならないだろう。

そうするほうが、国力をアップし日本再生のためにはよいと思うが、その論は別の機会にしよう。

さて、いかにテストの点を上げるかの対策をして、それで学力アップと叫んでいるある塾経営者。

大手の塾のフランチャイズだ。

フランチャイズ経営ということは、本部の指令によって経営の枠が決められているということだ。

全国展開のフランチャイズでは、全国共通の教材を作って、入塾生にはそれを買わせる。

全国共通の教材だからその地域には合っていないこともある。

それで個別指導?

ひとりひとりに合った指導をすると言って、なぜみんな同じ教材を与えるんですか?

学校の勉強についていけない子どもに、教材を買わせて、それも消化できるんですか?

私の知っている某塾は、こういう大手のフランチャイズの弱点の隙を狙って、地域にあった教材を開発した。
それで、大手の塾生を奪っている。


■誰でもホームランが打てるバットは存在しない

バットに要求される質と、打者本人の努力とは別なことであるということを説明した。

プロ野球の選手は、自分の使うバットは製作会社にかなりの注文をつけて作らせるだろう。

しかし、そうしてできたバットが悪いから、俺はホームランが打てないという選手はいないだろう。

グラブが悪いから、俺はエラーをするという選手もいないだろう。

学校が悪いから学力がつかない?

本人の努力が足りないから学力がつかない?

どちらですか?

その結論は、どうしてそう言えるのですか?

通ったら必ず東大が受かるという塾があったらいいですね。





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2012年11月16日

知ってるつもりが作る壁(1)

壁と言うのは、養老猛・氏の著書「バカの壁」の壁と同義である。

この本を読んだとき「そうか、自分もこういうバカの壁を作ってしまわないようにしなければ」と思ったものである。

頭の片隅に、このバカの壁があるから、ピンとくる時がある。

■事故がなかったら、払った保険料は保険会社がもらう?

ある女子が掲示板で文句を言っていた。

「自動車保険って、1年間事故がなかったら、払った保険料って保険会社がもらっちゃうんでしょう?」

いかにも、ずるい、不満という感じ。

一般家庭が使う自動車の保険は、1台あたり年間5〜6万円程度払っていると言われている。

仮に6万円として、1千台の車があれば6千万円の保険料が集まるわけだ。

保険会社は運営したり、様々なサービスに経費を要する。

つまり、集まった保険料を全部、事故のとき支払う保険金に当てることはできない。

だから、それらの経費を引いて、1台につき正味保険料が5万円としよう。

すると、5千万円の保険金が用意できることになる。

そして、1年間に支払う保険金が2千万円だったとする。

すると、5千万円-2千万円=3千万円となり、3千万円は保険会社の儲けかということになる。

こうなれば、保険会社はかなりの儲けということになる。

しかし、そうはならない。

なぜか?

もし、その1年間が集めた保険料を下回ったとしても、翌年はどうなるかわからない。

次の年は、大洪水などがあってたくさんの車が被害にあって、支払いが8千万円に及ぶということもある。

そうすると、前年の余剰金の3千万円と、本年の5千万円とで8千万円で、この年はこの保険料を全額払うことになり、この年の余剰金はゼロである。

話は単純化して説明したが、このように保険会社は何十年の確率で起こる大きな事故に対処するために、その年に余った保険料を積み立てておこなければならない。

この、めったに起こらない大事故に際して、いかに保険金が払えるかという保険会社の支払い能力を、ソルベンシーマージンという数値で表している。

ソルベンシーマージンは日本語では支払い余剰能力というが、具体的には400以上ほしいと言われる。

200を切ると、金融庁から指導が入る。

保険会社はソルベンシーマージンを公表しているので、興味のある人は調べてみるといい。

事故がなくて、保険金を払うことが少ないと、保険会社は儲かるという先入観を持った人はいるようだ。

ことはそんなに単純ではない。

確かに、その年毎の決算で収入と経費の関係で利益という数字が出てくるが、保険会社の利益と言うのは、保険金を支払った後の差額のほかに、会社そのものの経営に関わる経費の余剰金、契約者から預かった保険料を運用して得られた利益の3種類がある。

アバウトな考えで、保険会社はうまくやっている(ずるい)と考えている人は、保険に入らないほうがいいだろう。
保険も商品だ。腹を立てて買うことはない。


■払った保険料は返ってこない?

保険会社に100万円払ったら、事故(死亡)でもない限り100万円返ってくることはないと考えている人もいる。

保険だから、払った以上に返ることなどありえないと決め付けている人がいる。

これも、壁と言えるだろう。

現実には払った保険料は全額返ってくるものもあけば、2倍になってかえってくるものもある。

生命保険は、死亡するか解約しないとお金は返らないと思っている人もいるようだが、そこは、その人の思考の壁である。

nihonhoukai.jpg保険は危険(リスク)に対処するものである。

では、人生の危険(リスク)とは何だろうか?

1.死亡
2.病気

他には?

3.長生き

昔と違うのは、寿命が延びた今日では長生きがリスクである。

だから、保険会社も時代とともに商品を変えてきている。

今日の不安は、長生きしたらどうしようである。

昔は60歳ぐらいで死んでいたが、今は80歳ぐらいまで生きる。

20年も長生きになったのである。

だから、20年の生活費はどうするかが問題なのである。

若い人は、青春を謳歌するために金を遣いたいだろう。

しかし、賢明な若者は、年金不安と長生きのために準備をしている。

問題はそういう危機感のない若者である。

まさにアリとキリギリスが現実になる。

国民年金の保険料も払わない。老後のことも考えない若者が将来、この国に蔓延する恐れがある。

これは、日本という国の根底を危うくする問題である。


■銀行より保険会社に預けた方がお金が増えるというのは、今や常識

銀行にお金を預けても、お金が増えるという感じがしないという人は多いだろう。

72の法則というのがあって、これは72を利率(%)で割ると、預けたお金が2倍になるという年数である。

例えば、利息が0.6%だったとすると、

72÷0.6=120

なんと、120年かかるのである。


■認知症になりやすい人、なりにくい人

テレビを見ていても、新聞を読んでいても、内容に疑問を感じたとき、すぐ調べるという習慣のある人は認知症になりにくいそうである。

反対に、自分の知識に自信があるのかどうかわからないが、自分の言い出すことが基準のような人、調べようとしない人の方が認知症になりやすいという報告があった。

CTスキャンで調べると、自ら調べるという行動を起こす人の脳は80歳でも20代の人とあまり差異がなかったという実証結果も出ている。

思考の壁(養老氏の言葉では「バカの壁」)のある人は、認知症予備軍かも知れない。

将来の日本は、無年金者と認知症の老人が増えるかも知れない。

これが日本沈没にならなければよいが。





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2012年11月15日

ウチの子どもを叱るなという親

前回のブログでは、自分の学校の子どもを叱れない先生の事情を書きました。

子どもが会場を走り回っているのに、なぜ叱れないのだろうと言う、私の疑問は解決したわけです。

それは、そういう事実があったということで、すでに過去のことです。

最近、同じように自校の子どもを指導できない(生活指導)先生の状態を見た人がいるということで、私が思い出した過去のことです。

だから、私が過去の経験から知った事情とは、また違うのかもしれません。

私は残念ながら、超能力がありませんので、今回、ある人が子どもを指導できない(叱れない)場面を見た事情はどういうふうかはわかりません。

それはそうと、いつのころからか、自分の子どもが叱られると、怒りをおぼえる保護者というのが気になるようになりました。

その親の心理というのも、今の私では理解できないものがあります。

自分の経験では、何か思い当たるものがないか考えてみると、以前、どこかの記事でも紹介しましたが、小学生にリコーダーを教えていて気づいたことがあります。

6年生の男の子でしたが、指使いがおかしいので、直すように言いました。

その子の母親は、教育に関心があるらしく、私の指導を時々見ていました。

kyoukagai.jpgそして、私に

「あなたは、子どもを型にはめようとする」

と言われました。

楽器を教えるときは、その楽器の奏法というものがあり、それは決まっています。

そのやり方から外れたら、先生なら誰でも直すように言うと思います。

正しい奏法と言うのは、みな同じやり方になるわけです。

それは、見方を変えれば確かに、ある奏法という型にはめると言えるのかも知れません。

しかし、正しい奏法を身につけるためには、その型にはまってもらわなければなりません。

型にはめるというと、何か悪い響きがするのかも知れませんが、型にはめることが即悪いことと考えるのは本質が見えていないとも言えます。

子どもはその子どもの個性を生かした教育がいいと思いますが、それは子どものやりたい放題にすることとは違うと思います。

子どものやりたようにさせるというのは「ウチの子どもを叱るな」という心理と、どこか共通するところがあるようにも思います。

ただ、そういう親でも自分では子どもを叱っている場合があります。

自分に何か基準があって、それを逸脱すると気に入らないのでしょう。

また別に、単に自分の子どもが叱られるということ自体に怒りをもつ親もいるようです。

特に教員に対しては「おまえたち、ウチの子どもをなぜ叱るんだ。お前たちは俺たちの税金で給料をもらっているんだろう?」と言ったそうです。

私はそういう親に出会ったことはないですが、そういう場面にあった先生たちはどうしているのでしょうか?

私は、今は指導を依頼されて行う立場ですから、もしそんな親を相手にするなら断ります。

そういう親は、はっきり言ってバカ親だと思います。

この広い日本では、そういった変な親に苦しんでいる先生たちがいるのでしょうが、残念ながら私には超能力はありませんから、スーパーマンのように飛んで行って解決することはできません。

一人の人間としての限界です。

何もできない人間が、偉そうにあれこれ言うのも無責任で、腹が立つことでしょう。

妄想や空想なら何とでも言えますが、そんなものは何の役にもたちません。

それより、問題があったとき、自分はどうして解決してきたのか、あるいはどういう失敗だったのか実践記録を紹介してもらった方が役に立つのではないでしょうか。





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2012年11月14日

小学校教師が子どもを注意できない理由

はじめにお断りしておきますが、この記事は小学校教師の悪口ではありません。

また、小学校教師という集合体全体を指して、小学校教師がすべてこうだという記事でもありません。

ここに書く記事は、あくまでも私が体験した範囲で登場する小学校の教師という範囲での話です。

私は妄想癖もありませんし、超能力も持ち合わせておりませんので、想像だけで「すべての小学校教師が○○だ」なんて失礼なことは言いません。

ということで、私の体験に基づいた話をします。


■音楽発表会の会場で走り回っている自校の子どもを注意できない先生

小中合同での音楽発表会の日のことです。

私は自分の学校の中学生を引率して、会場の指定された席に着きました。

生徒たちは、静かに他校の演奏を聴いていました。

ところが、演奏中にもかかわらず数人の生徒が通路を走り回っていました。

私は驚いて、近くを眺めました。

すると、隣の小学生の団体とわかりました。

先生はいないのだろうかと思って見ると、先生らしい人が最前列の左端に座っていました。

私がその先生の方を見ると、先生も気づいたらしく、私の方へ視線を向けました。

先生は何も言わず、少し笑ったような表情を見せました。

自分のところの子どもが走り回っていることは、十分に承知している様子でした。

私は、なぜ注意できないのか不思議に思いました。

誰も注意する様子はないので、私は走り回っている小学生がこちらの方に向かってくるのを待ち構えて、立ちはだかり、手を広げて「ストップ」と言いました。

小学生はかなり驚いた表情を示しました。

おそらく、自分たちが気ままにやりたい放題をしていても、誰も止めないだろうと思っていたところを、知らないよその先生に注意されたからだろうと思いました。

「お前たち、うるさい!静かに座っていろ!」

びっくりした小学生は、自分の席に戻って座りました。

引率らしい先生は、以前、何も言わないまま座っていました。


■自校の子どもをなぜ注意できないのか

私は自校の子どもの悪い行いを注意できない先生に腹を立てていました。

と同時に、私としては、なぜ注意できないのかが謎でした。

ところが、この謎がある日、解けたような気がしました。

新学期になって、私は中一の担任でした。

新中学生たちも、やっと学校に慣れたと思うころ、ある先生が私に

「あなたのクラスにおもしろい子がいるねえ」

と言いました。

何ですかと、聞いて見ました。

「どこかの子犬の口に、ネズミ捕りのわなをはめて、犬が悲鳴をあげているのを楽しんでいたよ」

というものでした。

その生徒はM君でしたが、それから私はM君を注意して見ていました。

M君はちょっと集中力のない顔で、いつもボーッとした感じでした。

彼の行動で特徴的なところは、授業が理科室などの特別教室であったとき、帰りに、持って行った用具をそっくり忘れて来るということがしばしばあったことです。

変わってるなあと、私は思っていました。

その彼の過去について調べてみると、小学校のころ、教室で飼っている金魚にいたずらをして死なせてしまったことがわかりました。

担任はクラスの子どもたちが傷ついたということも頭にあって、彼をきつく注意した。

すると、彼(M)の母親が怒って校長のもとへ文句を言ってきた。

校長は担任を呼びつけ、なぜ彼(M)を叱ったのだと担任を注意した。

担任は当然の指導をしたにもかかわらず、校長から叱られたということに、相当頭にきていた。

担任は職員室に帰ると「俺は、もう絶対、Mが何をやっても叱らない」と怒りをぶつけていた。

彼のできごとは、全部の先生の知るところとなり、校長は、とにかく外部(保護者から)文句がくることを極力嫌うのだということを知った。

この小学校の校長は、ことの良し悪しに関係なく、とにかく学校へ文句がくるということに敏感だったということである。

そのため、先生たちは保護者からの文句を恐れ、子どもに注意することを避けるようになったわけである。


shosinmono.jpg■情けない校長

文才がなく、わかりにくい文章になってしまったが、要は校長が小心者や出世思考であると、どんなことであろうと、学校に波風が立つことを恐れるので、それが小学校の先生たちを萎縮させてしまったということである。

校長は先生たちに、責任はオレが持つから思い切ってやれと言えるような人でないと、教育そのものが停滞するように思う。

そういえば、情けない教育委員会もあった。

「今度、市の吹奏楽団を作りたいと思いますが」

ともちかけると

「何かあったらどうするのだ」

と事故の心配。

小心者の校長と同じだ。

だから、教育委員会不要論なんてものも出てくる。





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2012年11月13日

田中大臣の発言問題の本質がまだわかっていない人〜恥

現行の大学の数と質の問題を、感情的に言い立てて、問題の本質がわかっていない人がいる。

日本中の人たちの中には、どうしても理解できない人たちもいるだろうが、少なくとも現役の教員の中にそういう人がいたら恥だと思う。

私たちはたくさんの契約、ルールの中で生きている。

例えば、学校を卒業するということを考えてみよう。

大学では、卒業の条件として、所定の単位を取得することを条件に挙げている・

学生たちは、当然、そのことを周知していて4年制大学ならば、4年生になると単位が足りているかどうかを気にするだろう。

A君は会社の内定も決まり、卒業に必要な単位を取得して、あとは卒業式を待つばかりだっとしよう。

ところが、卒業式の数日前にA君のところへ大学から通知がきた。

通知の内容は、

A様、あなたは卒業に関わる単位が不足しているため卒業を認定できません

であった。

A君はびっくりして、単位の確認を行った。

卒業の単位数は140単位であり、A君はその単位を間違いなく取得していた。

A君は大学の学生課へ問い合わせをした。

返事は

「確かに、今までは140単位で卒業を認定していましたが、1ヶ月前に新学長が就任され、卒業を厳しくしたいということで、145単位以上取得したものを卒業させると言われました」

ということだった。

どうだろう。

こういうことが許されるだろうか。

確かに、大学の卒業証書には学長の印が押してある。

だから、学長印のないものは正式な卒業証書とは言えない。

今までの卒業認定の条件を満たしたとして、学長のもとに届けられた学生名簿を見て、学長がこれから卒業を厳しくしたいと考え、印を押さないということができるだろうか?

そんなことはできないのである。

■現行のルールにいくら不満があるからといって、進行中に突然ルールを変えることは不当である

事故の多い道路があるから速度制限を強化したいとして、60km/hから40km/hにする場合、60km/h制限のもとで40km/hの車を速度制限超過で取り締まることはできない。

このような理屈が理解できない教員がいるとしたら、大変な問題だ。

■大臣が準則主義を知らなかったことが、問題の本質

【準則主義】
準則主義(じゅんそくしゅぎ)とは、法人の設立にあたり、法律などに則り(のっとり)、それを根拠としたり準じているならば行政機関が採る主義として法人格を付与する原則的な方針。

行政機関の裁量や判断として法人格を許可するのではなく、該当する法律などの要件を満たしておれば法人の設立を拒む理由がなく法人格が付与される事を言う。法人格が付与されない場合は要件を満たさないのであり、許可されなかったわけではない。

対比できる他の主義として、特許主義、許可主義、認可主義、自由設立主義などがある。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

政治家は、自分の担当する行政に対しては専門家であるべきだ。

大臣という名前だけで、知識がないために恥をかく。

自分が恥をかくだけならともかく、他の人にとりかえしのつかない迷惑をかけないようにしてもらいたい。

今回のできごとは、日本の大臣は看板だけで中身がないということを、もろにさらけ出した。

不信感だけが国民に広まっただけだ。

それに、一部の感情だけでことを判断しようとする無知の人たちを煽った

そういう無知のグループに教師が入ってはいけない。

そのためには「オレは教師だ。オレの思っていることは何でも正しい」という姿勢を持っていないか、振り返ってみよう。

蛇足ですが、総理大臣は国会で選出されただけではまだ正式認定ではない、ということはご存しでしょうね。

国会で決まったら、選ばれた人は皇居に行って、天皇陛下から認証を受けて正式に総理大臣になりますね。

だからと言って、国会で決めた総理大臣を、天皇陛下が拒否するということはあり得ないです。





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posted by edlwiss at 11:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2012年11月12日

ふつうに話ができる人たちの集まり

○○タウンという名で、いくつかの店舗、スーパーが集まった街がある。

そういうところでは、イベント広場が設けられており、時々、演奏で呼ばれる。

街の演奏家が何人か集まって、バンドを結成して演奏することもある。

だいたい集まるメンバーは決まっているが、今回はフルートの都合がつかなくて、フルートを抜いた4人のメンバーで演奏をした。

打ち合わせの時に、例のふつうでない人が入っていると、きっと「フルートがいなきゃ絶対だめだ」とか言い出して引かない恐れがあるので、彼はスタッフから除外された。

もっとも、そのふつうでない彼は例の病気で約1年ほど入院していた。

退院してきたので、感知したのだろうと思って、仲間に入れたのだが、彼がいるとまとまらないのではずされた。
とにかく、臨機応変とか妥協ということができないのだ。

話し出すと、かなり猪突猛進的で顔を見ると、目が血走っているようにも見える。

みなは、退院してきても治っていないのだなと感じたらしい。

この病気は完治することはかなり難しいという。
治らないとさえいう医者もいる。
別人だが、自ら「僕は○○の病気です」と言う人もいて、医者から薬をもらっているというが、1ヶ月服用しなくても症状は出なかったとか言っていた。

話を元に戻します。

結局、ふつうに話のできる人の打ち合わせでは「この曲は、フルートのバートを○○にもって行きます」のような話で、すぐに了承が得られる。

話し合いというのは、意見を言う場である。
だから、自分の思っていることを遠慮せず話してよい。

しかし、最後はまとめて何らかの結論を出さなくてはならない。

誰かの提案に対して、異論があれば、それではどうするのかという解決策を言うべきである。

ふつうに話しができる人は、当然そういうことは心得ているから、代案を出す。

一番困る人は、妥協もしないが代案も出さないという人である。

「それでは、どうしますか?」

「どうしますかって、言ったって○○じゃなきゃどうしようもない」

という話になって、時間だけが過ぎていく。

みんなは、少しでも仲間に入れて・・・という気持ちはあるのだが、協調性のないふつうに話ができない人は除外されていくという、ごくふつうの話でした。





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posted by edlwiss at 22:19 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年11月10日

田中文科大臣発言の総括

結局、発言は撤回されたわけだが、撤回以前の問題を私的に総括してみた。

■田中文科大臣発言の要旨

1.今回は短期大学を廃し、4年生の大学にしたいというのですから認められません

2.現状は大学が乱立しすぎで、質が低下しているから認可の条件を見直したい

田中文科大臣(以下田中大臣とする)が、今回申請の3大学の認可認めないとして挙げた理由は上記の2つにまとめられる。

この発言に対する反響は、田中大臣の発言と処置に賛成と反対とがあった。


【賛成意見】

現行の大学は数が多く、質もよくないだから処置には賛成。改革に賛成。

【反対意見】

田中大臣の認可しないとの処置は、大臣の権限逸脱である。
すでに、数年前から文部科学省の指導に従って、認可の条件を整えてきているのだから、今回の不認可は承諾できない。

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こんなところだろうか。

ここからは、私の意見を述べてみたい。

■今回の申請を認めないとする根拠に疑問

大学の設立認可は、大臣が最終的に認可することで正式決定する。

だから、大臣には認可しないという決定もできるわけだが、その根拠(理由)が根拠になっていないと思う。

田中大臣は、今回認可しないとした理由に「現行の大学の数と質の問題を挙げている」が、それは今回申請した大学に責任があるのだろうか。

もし、今回申請した大学の質に問題があるとするなら、大臣のもとに書類が届く前に指摘しなければならないと思うし、大臣がその問題に気づいたのなら、その部分を指摘しなければならないと思う。

大学が多いから認可できないというのなら、申請時に、すでに大学が多すぎるからこれ以上の新設は認められないと申し渡すべきである。

3大学は、おそらく、申請条件が整えられたら認可されるとの指針を示され、指導され、大学側はそれに従って条件をクリアしてきたわけであるから、認められないという理由がどこにあるのか疑問である。

また、大学認可制度は準則主義といって、法令にて定められた要件を満たしていれば主務官庁が認可をするという仕組みです(大学設置が平成15年に準則化された)。
今回、田中大臣はそのことをご存知だったのでしょうか?

■現行の大学の状態と認可手続き制度の問題を混同している人がいる

この国は法治国であり、法に従って手続きをすれば不備や不正がなければ認められるものです。

現行の大学の状態の可否は別の問題です。

自動車運転免許を取りたいとき、本人の身体状況、社会常識に所定の技能と法令知識を満たせば取得できます。

今回の田中大臣のやり方は、免許取得中の人にゴール寸前で取得条件を変えるから、免許は与えられませんと言っているようなものです。

なぜ条件を変えるのかとい理由に、現在交通事故が多いからと言っているようなものです。

■大学改革をしたいのなら、条件変更は次回からにすべき

現状が問題だから、寸前で認可取り消しというのは、合格点を取った受験生に、急に、合格点の基準を変更するから、今回の受験生は不合格にしますと言っているようなものです。

現行の大学を憂うことはよいことと思いますが、それと手続きの問題をいっしょにすることはおかしいし、まだ運営もしていない大学までにその批判が及ぶこともおかしいです。

田中大臣の発言に賛成の人は、よく、冷静になって考えましょう。

正しい分析と判断のできる国民でないと、選挙でよい候補者を選ぶことも難しくなるような気がします。

結果的には、田中大臣が発言を撤回し、認可が認められたわけですが、大臣はもとより国民も感情的ならず、ものごとの道理を正しく捉えるようにすべきだと思います。

以上、私的な総括です。



posted by edlwiss at 23:42 | Comment(3) | TrackBack(0) | 政治

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