2012年12月31日

常識の見直し

常識とは「健全な社会人なら持っているはずの(ことが要求される)、ごく普通の知識・判断力」ということです。つまり、これは社会人の常識のことを言っているわけです。

この「社会人の」をいろいろ変えると、変えた言葉に限定される常識になります。

例えば「教員の常識」と言えば「教員なら持っているはずの(ことが要求される)、ごく普通の知識・判断力」ということになります。

私はあるコンサートで驚いた社会人のマナーについて、最近の社会人の常識は大丈夫かと思うようになりました。

と同時に、教員の常識は大丈夫かとも思うようになりました。

一言で「社会人」と言ってもそれは多数の人を指すように「教員」も多数です。

多数ということは、中には例外もあります。

例外とは、例えば、あの有名な2ちゃんねるの管理ん人が言っているように「おかしな人に気をつけましょう」の「おかしな人」です。

買ってきた米に一粒ぐらい、変な米粒が入っていたとして、それを問題にしても仕方がありません。

プロと言われる営業マンは、モラルリスクを常に頭に入れていて、モラルリスク上問題のあると判断した人は相手にしません。

店にとって客は大切な人ですが、だからと言って、客の面をしてきた人をみな相手にするわけではありません。

その意味では、店も客を選ぶということについて、かつてブログでも語りました。

というわけで、私はこのブログを開設してから、コメントをお寄せくださる方以外にも、読者がいて、メールを頂いたり、外出先で感想を言ってくださる人もいます。

中には子育て(家庭教育)の参考にしていると言われた方もいます。

そう言った方は、好感を持って読んでいていただけるようで励みになっています。

しかし、中にはモラルリスク上相手にするのはよくないと判断した人は相手にしないようにしています。

そして、ブログには努めて、自分に都合の良いことだけを掲載するということはしないようにして、清濁併せ呑むという言葉があるように、良いも悪いも掲載して、悪いものも、いかに悪いかの実例として読者の参考にしようと思っています。

■教員としての常識

教員としての常識とは、当然、社会人としての常識も含んでいなければなりません。

「先生」と言われる時には「さすが先生」と一般社会人から言われるようでなければと思うのですが、今日ではどうでしょうか?

昨日、お寺で会食がありました。

たくさんの檀家の方々が集まって、普段、お会いできない人とお話もできました。

昭和18年生まれという男の方とお話をしましたが「私の子どものころは、学校で先生に叱られて帰ると、親に『何で先生に叱られるような悪いことをするんだ』とまた家でも叱られた」と話されました。

話を聞いていて、先生が一段と格上という意識が保護者にあったということを感じました。

家で困ったことがあると「学校の先生に聞いてこい」と親が言った時代もあったようです。

先生としての常識といえば、身近なことも一度は確認してみる必要があるのではないかと思います。

昨日、テレビをみていたら、池上彰氏が「社会主義と共産主義はどう違うのですか?」という質問を受けていました。

学校の先生も、この質問をされた時答えられるでしょうか?

もっと身近な、我々日本の国体は何でしょうか?

日本は地図を見ても、ただ「日本国」とあるだけで、○○民主国とかの記載はありません。

日本は民主国家ですか?

日本の国体は立憲君主国となっています。

こう言うと、エッ、日本て国王がいるのですか?と思うのは無理がないと思います。

しかし、外国から見たら立憲君主国ということになっています。

このほど、総理大臣が国会で指名されましたが、これで安倍総裁が総理大臣に決まったわけではありません。
あくまでも「指名された」だけです。
国会で指名されると、皇居に行って天皇の承認をいただいて、正式に総理大臣になれるわけです。

ということで、君主とは天皇陛下のことかとなるわけです。

天皇が外国に行かれるとEmperorと訳されています。これは、皇帝という意味です。

■教員は国語力を高めるべきだ

私が言う国語力とは、国語のテストを意識した、すなわち、国語のテストで良い点がとれるという意味にとどまらず、思考力も含めた意味を指します。

思考力が高くなければ、国語力も高くならないと思うからです。

教員だったら、国語の文法テスト、文章を的確に要約する、記者のように取材して記事が必要最小限の字数で作文できなければならないと思っています。

思考力は国語力の土台と思うのですが、しばしば、私が勝手に作ったピンポイント思考の人が多くなり、そのおかしな思考のため狂った作文を書いている人もいます。

「おかしな」とか「誤り」は人間にはつきものであり、問題はそれが訂正できるかどうかです。

絶対におかしいのに、訂正できない人は、文字通り頭の「おかしい人」であり、営業マンが避けるように、こういう人を説得しようとしても無理です。

こういう人は、私の知人にもいるということをかつて話しました。

「5人の予定が3人しか集まれない。それなら中止するか、3人でもやるか」

という選択に迫られた話のことです。

その彼は5人でなければダメだというわけです。それなら、中止しか選択の余地はないのですが、中止はダメだというのですから、思考回路は狂っているわけです。

彼は「鬱(うつ)」という診断を受けていますが、医者が鬱と診断する中には、本当は統合失調症なのだという人もいるようです。

医者は仕事などに差し支えないように、あえて鬱ということにしているのだそうです。

その融通のきかない彼は、完全に統合失調症の症状で、この病名は昔は精神分裂症と言ったように、その名の通り、思考は分裂しています。

今年、文部科学省の発表では「病気休職のうち精神疾患によるものが、5,407人(前年度比51人減)で62.4%を占めている」とされています。

これは発表の数字だけで、予備軍はもっといると想像されます。

問題は正常と異常の間を行ったり来たりしている人で、問題は、学校では子どもに害が及ぶことです。

先の彼の場合は、学校も生徒の間では有名になっており、授業が成り立たないので、彼が授業で教室に行っても生徒はみな勝手に自習をしているということです。

■文章を書く前に文法の知識は大丈夫か

nihonbunpou.jpg話が本題からそれました。異常の部類の人は問題外です。

正確な文法の知識が備わっていないと、文章を正確に読めないだけでなく、作文も支離滅裂になります。

ということで、先生も、児童生徒の行う文法テストをやってみたらどうかと思います。

先生としては百点で当たり前です。

次の二つの文を見てください。

(1)「今日の食事のメニュー」

(2)「ノロウィルスに汚染された食事」

この二つの文章に出てくる「食事」は意味が違います。

「食事」という単語は同じですが(1)と(2)の食事は違います。

(2)に出てくる食事は食べられません。

しかし、食事という言葉しか認識できず区別ができない人がいます。

つまり「修飾関係」の理解ができないのです。

修飾関係が理解できないだけでなく、自分の都合というか、気のおもむくまま、文章の要素をバラバラに(支離滅裂)に組み立てるのは思考が分裂している証拠です。

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常識を見直すということで、今回は「教員としての常識」に焦点をあて、まとまりを欠く文章でしたが「教員は、一般社会人の常識の上をいく常識を持つべきとの考えを述べました。

今や、ブログは無数存在すると言えますので、それは玉石混交の状態ですから、その中からどれが「玉」で、どれが「石」か分別することも勉強になると思います。





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2012年12月30日

教師にとっての国語力

国語力については、これからの時代に求められる国語力についてと題して、文部科学省の解説がある。
教師(教員)をやっている人は、一度は見ておいた方がいいと思う。

教師は文章を書くことが多いが、それは同時に、教師が書いた文章によって、教師そのものが評価されるという側面がある。

kokugoryoku.jpg何が評価されるかというと

1.文章表現力
2.知識
3.思考力
4.人格

等が挙げられる。

これらは、教師としての姿勢、生き方を表しているとも言えるし、教師の成長の過程を表すものでもある。

演奏家が口でいくら偉そうなことを言っても、演奏を行うことで実力はごまかせないと同様、教師の作文力は「教師が書いたもの」つまり作文を見られることにより、ごまかしのきかないものである。

いくら、文章表現力を身につけたとしても、知識や思考力がなければ稚拙な文章しか書けないし、文章から受ける印象は人格の影響を受けざるを得ない。

現役の教員で、ブログやホームページを持っている人はたくさんいる。
それは、自分の児童生徒、保護者へ、自分は「こういう人間です」と晒していると伝えていると言ってもよいだろう。

facebookは就活にも使われていて、学生から企業へのアプローチや、企業が学生を評価するという利用の仕方が進んでいるらしい。

こういうSNSも含め、ネットを利用した情報公開は進化することはあっても、後退することはないと思う。

■わかりやすい情報公開

一番根本にあるのは、発表者の思考がよく練られて、論理的に整理されているかどうかである。

話の連続性がなく、起承転結もないような文章は、頭の中も支離滅裂状態なのだと思う。

「この人は、一体、何を言いたいのだろうか?」

「それと、これとどういう関係があるのだろうか?」

「それって、どういう根拠で言えるのだろう?」

「そうとは限らないのでは?」

など、疑問の出てくる文章は、良い文章とは言えず、googleやyahooの検索エンジンからも評価かが良くないようである。

■正しい情報

超能力のある人でない限り、わかるはずのない情報がある。

直接取材しない限り、安易に決めつけたことを言うべき(書くべき)ではない。

そういう配慮がなければ「自分は、わかりもしないことを勝手に決めつける人間だ」と宣伝しているようなものだ。
そう宣伝したい人は、そうすればいいだろうが、これは信用低下にもつながることであり「自分は信用できない人間です」と言っているようなものである。

先生である限り、特に、使う言葉(単語)の意味も正しさが必要であり、自分勝手な意味を作ってはいけない。
わかっていると思う言葉も、念のために調べてみるという姿勢が大切だと思う。

私が「辞書で調べてみると意味が違いますよ」というと、素直に受け入れない人がいる。
ひどい場合は、反発をする。教師としては非常にまずい態度だと思う。
人は間違うこともある。間違った場合は、素直に訂正する態度が大切だ。

例えば、最近、自分がわかっていると思っていたが「はたしてそうなのか?」という言葉に「贔屓(ひいき)」があった。
「贔屓(ひいき)ってどういういみですか?」と聞かれたら、どう答えようかと思ってしまった。
調べてみると
贔屓(ひいき)とは、気に入った人を特に可愛がったり、引き立てること
語源由来辞典
とあります。

若いころ「ハンディのある子ども、可哀想な子どもに、特に目をかけてやりなさい」と指導されました。
これは「ひいき」とは違うわけです。
実際の場面でも、ハンディのある子どもを特に援助してやることは、クラスを明るくします。
(これは「ひいき」ではないわけです)
気に入った子を可愛がると思われる行為は、クラスの雰囲気を悪くします。
(これは「ひいき」です)

■実力はごまかせない

ある大学の先生が、教育誌で「学校の先生は、年をとるにつれ怖くなる人と優しくなる人がいる」と言っていた。

それは、怖くなる人は自信喪失の人で優しくなる人は、自信を深めてきた人だとの説明がされていた。

ことは、そんなに単純に分けられないのかも知れないが、そういう傾向はあるのかなと思う。

私は音楽分野に携わってきた時間が多いが、子どもの前に立って指揮をする(指導をする)先生を何人か見てきた。

指揮をするということは、相手が子どもであっても、特にコンクールが目的であったり、曲が難しかったりで指揮者自身(先生自身)が窮地に追い込まれていると、プレッシャーのあまり怖くなる人がいる。

どう打開していくかがわからないので、子どもを脅して解決しようとする意図が見える場合もある。
まあ、恐怖政治のようなものである。

そういう姿を見るにつけ、私は自分が恐怖政治をやらないようにということを繰り返し、心に念じてきた。

■実践をしないことには、国語力も身につかない

中学校の吹奏楽部を指導している時、私の練習の様子をこと細かに観察し、その記録をもとに作文を書いた生徒がいた。

私がそれを知ったのは、その生徒の作文がある作文コンクールで入賞したからであった。

練習の様子が、虚飾なく、あまりにもありのままに書いてあったので、私は恥ずかしくなった。

大体は私に対しての反発であり、私という人格が晒されたようなものであった。

ただ、おもしろいのは反発しながらも練習についてくる生徒の行動が、大人から見た場合、思春期の葛藤と先生の大人としての対処がおもしろく映ったのだろうと思う。

私は中高生あたりの生徒が、先生にゴマスリをすることなく、真剣に生きているという姿は好まし感じたし、よくぞ書いてくれたとも思った。

他の先生方からは「お前、がんばっとるな」と冷やかされた。

経験したこともない世界を空想して、あれこれ書いても、迫力のあるというか人の心に迫る文章は書けないと思う。

そういう意味からは、飾らず自分のありのままをさらけ出し、そこから経験する本物の人間の姿を見ることなく、よい文章は書けるものではないと思うのである。

そういうことを、私がはじめに感じたのは、サマセット・モームの「人間の絆」である。

この小説はサマセット・モームの代表作であり、人の心を深く捉える小説である。

小説であるが、自伝的傾向が強いと言われる。

つまり、著名な小説は、まず実際の経験が土台になっていると言える。

教師にとっての国語力は、作文に代表して現れるものであり、それは密度の濃い実践からくるものであると言いたい。

そして、それは、子どもや保護者へ語りかけるメッセージでもあるとも言える。





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2012年12月28日

国語力は思考力

国語の力は、漢字の練習や文法などを学んでいるだけではつかないと思います。

書くということは、考えなければできないことであり、考えるということは、考える内容がなければできないことです。

考える内容を知的に構築していくことこそ、思考力であり、それが反映した結果として作文力や読書力を高めることになるのだと思います。

鶏(にわとり)が先か卵が先かという言葉がありますが、国語力と思考力は同じような関係だと思います。

■貧困な思考力の原因

貧困な思考力の原因のひとつには、集合の概念の問題があります。

それは、話をはじめるにあたって、集合の概念が広すぎることだと言えます。

例えば「部活」という言葉を持ちだした時、話して(書き手)は、何かの部活をイメージを持つと思います。

そのイメージが大切だと思うのですが、イメージの貧困こそが思考力の原因をもたらすと思うのです。

例えば「部活ばかりやっていると勉強がおろそかになる」と言った時、どんな部活をイメージして述べているのでしょうか?

部活にもいろいろな部活があります。

英語部という部活もありました。

英語部をやっていると勉強にならないのでしょうか?

いや、野球部はどうでしょうか?

そう考えていくと「部活」という言葉で、勉強ができるできないを云々することは、思慮が足りないことに気がつくはずです。と言うか、気がつかなければなりません。

だから、勉強ができるできないを「部活」という集合体を持ちだして話を始めるのは、雑というか単純思考というか、無理であるし、とても説明ができるものではありません。

「部活」という言葉で一括して、勉強がおろそかになる
と考えたとしたら、それは部活のせいではなく、部活のやり方の問題か、たまたま勉強をしない者が集まったとかが原因なのに、自分の見た(イメージした)部活だけの印象で語っているのかも知れません。

このように、話題の要素となる言葉の集合が、あまりにも大きすぎるのではないかという思慮がなければ、思考は深まらないと思うのです。

「小学校の教師は」と話し始めたら、それは「小学校の先生全体」を表します。

自分が見た小学校の先生がたまたまそうだったのか、あるいは事実とは関係なく妄想した、意図的に創作したということはないでしょうか?

■思考力が高まるとは

犬は利口な動物だと思っている人は多いと思います。

しかし、犬がいくら利口だと言っても、どんどん利口になって、主人の自家用車を勝手に運転するようになったというほど利口になったということを聞いたことがありません。

犬がいくら利口だと言っても思考の限界があるのです。

人も、思考の限界を感じる人がいます。

そういう人の意見や文章は、いつも集合の概念が大きな単位でしか書けていないと感じます。

思考の限界が突破できないわけです。

それは、書くことにより考え、足りなかったことに気づき、次の実践の時、その足りなかったことを思い出し、何が足りなかったかに気づかないからだと思います。

書くことにより思考力は高まり、実践することによりより思考力は深まり、読解力も深まるという循環が起きない限りより高い思考力には達しないと考えます。

小学校三年生に図工を指導していた時、写生の時間に、ある男の子が

「先生、川の色ってどんな色ですか?」

と質問しました。

この時間は、写生する場所に一度は行っていたものの、仕上げは教室ですることになっていました。

sikohryoku.jpgだから、その男の子は教室で描いている時、川の色が思い出せなかったのです。

私は

「それなら、川の色を見てきなさい」

と言いました。

男の子は、川を見て帰って来ました。

そして、描こうとした時、また考えこんでしまいました。

「先生、川の色がわかりません」

と言ったので、私は

「もう一度見てきなさい」

と言いました。

帰ってきて、今度は描くのかと思ったら、まだ考え込んでいました。
そして、また

「先生、わかりません」

と言いました。

私:「見てきたんだろう?」

男の子:「はい」

私:「じゃあ、描けるんだろう?」

男の子:「でも」

私:「でも、って?」

男の子:「違うんです」

私:「何が?」

男の子:「川の色が」

私:「違うって思うのではなくて、見えた通り描けば?」

男の子は、私の言う「見えたとおりに描けば」にずいぶん抵抗があったようです。

それは、川の色が黒く見えたことが理由だったようです。

でも、勇気を持って「見たように」描きました。

川を黒く塗ることにずいぶん勇気が必要だったようですが、そのように塗ってみると、見事に実物のような川が画用紙から浮き上がってきました。

それを見て、男の子は衝撃を受けたようです。

驚きの表情を見せました。

それは、周りの子どもたちにも影響を与えました。

川は水だから水色という概念が邪魔をしていたのです。

以後、その男の子は新しい世界に入ったような気がしました。

■既成概念が邪魔をする限り、思考力も深まらない

何度文章を書いても、既成概念に基づいて書いているのではないか、と思われる文章を書く人がいます。

そういう人は、文中に出てくる言葉(単語)が、先に述べたように要素の多い、つまり集合の概念の大きな言葉を使い「部活は」とか「小学校の教師は」とか「教育とは」などを多用して書いていると思います。

これは、そういう集合の概念の大きな言葉を使ってはいけない、ということではありません。
しかし、そういう文章は読んでいて、眠気を感じます。

集合の大きな言葉を使うには、勇気が要るということです。

「小学校の教師は」と書きだしたら、小学校の教師全体に共通することを書かなければいけません。

自分の見た小学校の先生だけのイメージをもとに「小学校の教師は」と書きだしたら、それがマイナス思考の言葉であれば、小学校教師に対して失礼と言えます。

学問とは共通項を探すことだと言った人がいます。

「小学校の教師は」と言いたいなら、少なくとも小学校の教師ほとんどに当てはまることを書くべきでしょう。

「頭と胸と腹に別れ、羽根が4枚、足が6本」と言えば、それは「昆虫」と言うように。

逆に昆虫といえば「頭と胸と腹に別れ、羽根が4枚、足が6本」となるわけです。





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2012年12月27日

国語力低下は国力低下

dokukairyoku.jpg国語はすべての基礎とはよく言われることである。

教育といえば、受験教育という狭い意味を指すという錯覚が、すっかり根付いてしまった感があるが、そのせいか、点数のみを追いかけるようになってしまったようでもある。

点数で評価される限り、点数を追いかけるのはやむを得ないだろうが、それだけでよいというものではない。

国語が大切というのは、相手の伝えたいことを正しく掴みとる、つまり文章であれば読解力、また、自分が伝える立場になった時は、自分の考えを正しく伝える作文力は大切である。

大切というのは、それがなければ人と人とのコミュニケーションが正しく取れないからである。

まず、何事もコミュニケーションから始まると言ってよい。

■相手の書いた文章を正しく読み取ろう

当たり前のことだが、近年、どうも読解力が低下してきているのではないかと思うことが多くなった。

先の私のブログ記事「内閣の船出に暗雲」は、阿部内閣の組閣前に書いた記事である。

だから、内閣の陣容を評価できるわけがない。

「内閣の船出に暗雲」は、組閣が近づいたところで、大臣の椅子をめぐって派閥の復活を思わせるような綱引きがあるとの情報を得たので、危惧の念で書いた記事である。

それをどういうわけか、阿部内閣の陣容を批判したと捉えた人がいたようだ。

全くの勘違いである。

再度言うが、組閣もしていないのに、陣容(大臣ら)の評価ができるわけがない。

■実際の文章とは無関係に自分の思い入れ(妄想)を勝手に入れた解釈をしないこと

自分が言いたいことは好きに書けばいいのだが、他人の文章を自分で作り替えたような解釈は、読解力を疑われるばかりでなく、失礼である。

勝手に他人の考えを創作して決めつるなと言いたいのだ。

だから、5W1Hに照らし合わせて推敲をしろと言うのだ。

「それは何処に書いてありますか?」

「それはいつのことですか?」

「それは誰が言いましたか?」

5W1Hをすべて並べなくても、上記3つは最低考えてもらいたいものだ。

ひどい人になると、捏造して「誰」「いつ」「何処」に関わる人物が全部違うものもある。

自分の都合のよいように、作り変えてしまうのである。

■頭がいいとは?

「あの人は頭がいい人だ」と感じることがある。

それは、必ずしも学校の成績を指しているとは限らない。

私がそう感じるのは、書いてあることを正しく読み取れる人である。

すなわち読解力のことだが、読解力に優れている人は頭がいいと思う

逆に、いろいろ書いているが「そんなこと書いてないじゃない。何処に書いてあるの?」と感じる人は、まず自分勝手でわがままな人だと思うし、読解力もない頭の悪い人だという印象を持つ。

相手がどういう意見を持っていようが、自分の言いたいことを言う。自分の都合で、相手が言ってもいないことを「言っている」と決めつけてしまう。

と言うわけで、国語力(読解力、作文力)の低い人の増加は、頭の悪い人間(すなわちバカ)の増加につながり、その国にバカ人口が増えて、国力の低下につながると思うのである。

少なくとも、教員にこういう人物が採用されないことを願う。

でないと、児童生徒の表現していることを正しく読み取れないで、間違った決めつけが横行し、子どもが可哀想である。

教員採用試験には、読解力を試す問題をたくさん出したらどうだろう。

「次の文章の要旨を○○字以内で記せ」

という問題がいい。

文章を正しく読み取れなければ話にならない。





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2012年12月26日

吹奏楽の魅力

吹奏楽の魅力と書くと、吹奏楽という音楽の魅力のことかなと思われるかもしれない。
しかし、ここではそういうことを言いたいのではない。

■吹奏楽の好きな先生たち

これから書くことは、あくまでも私の経験の範囲のこと、あるいはその経験をもとに想像できることから述べるものである。

私は、ある時期、吹奏楽の好きな先生たちと、研究会を作って活動した時期があった。
作ってと言っても、私が仲間に入れてもらったと言った方が正しい。

この人たちは吹奏楽が好きなんだと、当然のように思っていたが「吹奏楽が好きだという中身」を突き詰めてみると、それは吹奏楽という音楽が好きだというだけでは答えにならないと気がついた。

私自身も、音楽として吹奏楽が一番好きだとも言えない。

吹奏楽の音楽としての魅力は、管楽器と打楽器だけによる透明感である。

合唱で言えば、男声合唱に似たイメージがある。

合唱は混声合唱が音域も音色も幅広く、それが表現上の幅の広さにもつながる。

楽器を使った音楽も、吹奏楽は、主に管楽器と打楽器だけで構成されているため、オーケストラのような多彩さには劣る。

そういうこともあって、私は「何が何でも吹奏楽で」という「派」ではない。

しかし、何が何でも吹奏楽でという感じの人がいるような気がして、私はそういう人を見ると「何でそんなに無理をしなけりゃならないの?」と思うこともある。

■吹奏楽は総合科目である

これは、経験者でなければわからないかも知れない。

何でそんなに夢中になるの?

と言うのは、先に述べた「吹奏楽だけ」では説明がつかないものがある。

suisougaku.jpgそれは、特に中高の吹奏楽部について言える。

1.上手な吹奏楽部を訪れると、必ず、練習場所がきれいである。
2.生徒の感じもよい。温かみを感じる。
3.楽器がよく整備されている。

上記3点はすぐに感じることであるし、共通することである。

私は県の予算で吹奏楽の指導者として、某高等学校の指導に行ったことがある。

吹奏楽部というと、少し形が整ってくると、生徒たちはコンクールを意識する。

十年ぐらいは出たことがないというので、それでは出てみるかということになった。

幸か不幸か1位の成績で代表になった。

先生たちはびっくりしたようだったが、校長が一番褒めてくれたのは

「生活態度がよくなった」

ということだった。

こう言うと、私が生活指導を中心に部を指導して行ったと思う人がいるかもしれない。

私自身、校長に「生徒たちの生活態度がよくなった」と言われ「そんなことをしたかなあ」と思った。

振り返ってみても、全くそんなことは思い当たらない。

と言うが、生意気盛りのしかも女子ばかりに、生活指導のことを言っても「ウザイ」と言われるのが関の山で、こちらとしてはアルバイトだと割りきってやる方がいいと言うぐらいに思っていた。

やったのは、せっかくやるのなら、いいアンサンブルができるようにと考えてやっただけだ。

私は絶対に遅刻はしない主義だから、いつも、開始時間より早めに行った。

そして、時間通りにきちんと始めた。

ほとんど、その繰り返しだけと言ってよい。

しかし、気がついたら、演奏レベルが上がって、コンクールでいい成績を取り、校長から「生活態度がよくなにった」と言われるようになった。

そういえば、練習場である部室もきれいになった。

別に、要求したわけでもないのに「先生どうぞ」と言ってお茶を持ってくる生徒もいた。

気がついたのは、みんなでいい音楽を作ろうとすることは、教育として必要なことがすべて盛り込まれているということだ。

そして、指導の過程ではそんなに意識していないのだが、日に日に生徒たちが人間として成長して行くのである。

客観的に生徒自身も、自分が成長しているとは意識していないのだろうが、音楽をやりながら、自分が成長していくことがとても快適であり、自信を深めていくことになっているのだ。

そういう成長の姿は中高生の時期には、特に顕著であるように思う。

そこが、吹奏楽を指導する先生とって、何物にも変えがたい魅力なのだと思う。

生意気盛りの生徒たちも、我を忘れて真剣な姿を見せることがある。

「あんな真剣なところ見たことがあるか?」

と先輩が言ったことを思い出した。

生徒は、真剣にやろうと思って真剣にやるのではなく、本当にやりがいを感じて、魅力を感じて夢中になるのである。

そういう姿を見る経験などめったにあるものではないという気がするのである。

わからない人には、楽器を持って、ただ音楽をやっているとしか見えないのかも知れない。

教え子たちが、今は親となって、時々同窓会をやって集まるところを見ると「あの時期は大切な時だった」とか「教育として必要なことは、すべてあの中にあったのだ」と感じるのである。

ただ楽器を演奏する技術を身につけるだけでは、アンサンブルはできない。

それは知識と技能だけの世界だが、協調性とか人を思いやるとか、正確にやるとか、人間が生きていくための多くの要素が入っている。

運動不足になるのではと思う人がいるかも知れないが、なんと、吹奏楽部はマラソンに強いのだ。

全校マラソンで、前の方で走っているのは吹奏楽部が多かった。

著名な音楽家が、音楽家はスポーツマンでなければいけないと言ったことがあるが、なるほどと思うところがある。





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2012年12月25日

してくれない症候群と指示待ち人間

してくれない症候群と指示待ち人間は関係が深いと思います。

「してくれない」と思う態度は「待っている」という態度でもあるからだと思うからです。

だから「してくれない」がなくなれば「指示待ち」も改善されるのではないかと考えるわけです。

今日、あるレストランで見た週刊誌には、国(政府)に頼らない生き方との記事がありました。

中身は読んでいないですが、このところ、政治に期待しない人が増えている気もします。

期待しないからどうするんだということになるわけですが、それは、日本を脱出するという具体的な行動で現れていると言えます。

特に、ネットを利用して長者になった人、こういう人たちをフリーエージェントと言うのだそうですが、この人たちはネットに繋がるところなら、日本に居住することに固執する必要はないわけです。

お金持ちになると、何処で生活するかという選択肢は増えますから、お金持ちになった人から国外へということになって、日本国内は次第に貧乏人だけということになるのかも知れません。

企業も国外へ出て行くようになっています。

でも、国外に出るほどの余裕のない企業は、日本に留まるしかありません。

かくして、残るのは貧乏人と貧乏企業が多くなるのでしょう(か)?

「してくれない」と「指示待ち」にどっぷり浸かった人は、どうなるのでしょう?

ナマケモノという動物がいますが、本当にナマケモノかどうか、私は知りませんが、ある人がジャングルを訪れた時、嵐の後、ナマケモノが木の下敷きになって死んでいたのを見たと聞きました。

「してくれない」と「指示待ち」から抜け出ないと、そのようなナマケモノの姿になるのかも知れません。





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2012年12月24日

当世、世間事情

近年、電子楽器が増え、コンサートにもよく使われるようになった。

私も、ソロコンサートをするとき、伴奏者のピアノが、必ずしも会場にはあると限らないので、そういう時は電子ピアノを使うことがある。

クラシックの曲で本物のピアノが使えないのは、伴奏者には気の毒であるが、そうも言っておられない。

人が集まるようなところでは、環境としてピアノを置くようにしていただけるとありがたい。

電子ピアノを広い会場で使うとなると、それなりの音響装置が必要となる。

音響装置の方はピアノより普及している。

しかし、こちらの方は設備だけでなく、専任の担当者がいればよいが、いない場合もある。

また、メンテナンスが悪く、トラブルを起こす場合もある。

そういう懸念から、電子楽器を使う場合は、自分専用の音響装置、つまり、ミキサー、アンプ、スピーカーなどを用意して会場に持ち込むことにした。

こうすることで、余計な不安を持つことから開放された。

コンサートは、私だけ、もしくは私と伴奏者だけの時もあるが、他のチームなども参加することもある。

プロの場合は、やはり会場の音響装置に頼ることはなく、自前のものを持ち込み、慣れた感じで用意する。

ところが、アマチュアの場合、電子楽器を使うのに楽器だけしか持ってこない人もいる。

会場の音響装置で間に合わない場合、どうするのかと思っていると、思うようにつながらずてんやわんやの時がある。

また、電子楽器だけ持ってきて何とかなると思っている人も、最近いた。

この人は驚いたことに、私のミキサーに自分の楽器をつなごうとした。

私としては、使わせないと言う気持ちはないが、勝手にジャックさえ合えば差し込めるところに差し込んでしまおうと言う驚いた。

入力端子が何かを感知しないのである。

行き当たりばったりやってみて、音が出ればよいという気持ちでやっているのだろうか?

場合によっては過大入力で、機器が壊れてしまうことがある。

まさに、差し込む寸前で私はストップをかけた。

それで事なきを得たが、この行き当たりばったりというのが、いかにもアマチュア的と言える。

しかし、それより、会場に行ってその場で見たら利用できるものは、他人のものであろうがかまわず断りもなく勝手に利用してしまおうと言う感覚には恐れ入った。

それは電子ギターであったが、もし私が音響装置を持って行かなかったらどうしただろう。

事前に確認もしないで、電子楽器だけ持っていって演奏ができると思っている感覚というか心理はいかなるものなのだろうか?

「すみません、使わせていただいてよろしいでしょうか」とか「ありがとうございました」なんてことも、全く言わない。

いろいろ想像しているうちに、自転車盗が浮かんだ。

自転車の盗難は非常に多い。

多い理由は、どこかに行こうと思ったとき、近くに見えた自転車(当然、他人のもの)を勝手に利用し、到着した先で捨てるというものである。

池が近くにあると、池に投げ捨てて行く者もいる。

やはり、世間のマナーは低下していると考えるべきか?

もちろん、この例に挙げた人が自転車盗をやっていると言っているわけではない。共通の心理があるのだろうかという話である。

■視野の狭さも感じる

視野という言葉は、目で見る範囲だけのことをさすのではなく、ものを見聞きして自分の頭で考える広さも意味に含んでいる。

し‐や【視野】
1 外界の一点を凝視するとき、その点を中心として見える範囲。視力の及ぶ範囲。「―が開ける」「―を遮る」
2 顕微鏡・望遠鏡・写真機などの、レンズで見ることのできる範囲。
3 物事を考えたり判断したりする範囲。「―の狭い人」「国際的な―に立つ」
goo辞書

自分の電子楽器だけ持ってくる人の話をしたが、一応、音響装置を持ってくる人もいた。

しかし、驚いたことに、それがパソコンで使う、せいぜい1000円ぐらいのスピーカーだった。

おそらく、家庭内ではそれにつないで使っていたのだろう。

しかし、数百人も集まろうかという会場にそれを持ち込んで、それで聴衆に聴こえると思っているのだろうか?

この時は、私の方から「これではダメですよ」と言って、私のミキサーに入力してあげた。

大きな会場で、パソコンのモニターで間に合わせようとする感覚は「自分だけが聞こえていればよし」という判断なのだろうか?

この「自分さえ聞こえていれば」というのは「聴衆には聞こえなくてもよい」というものではなく「自分に聞こえていることで、他人にも聞こえている」と思っている視野の狭さを表しているのではないかと思った。

会話をしていると、やはり、考え方も狭い感じがする。狭い世界に生きているとも言える。

ということで、人の活動の様子は、思考そのものを表しているのだなということを思うようになった次第である。

音だけでなく、街行く人の服装もきっとその人の思考構造を表しているのだろう。

そういう見方でいくと、学校は制服なので、各人の考え方は服装ではわかりにくいと言えるだろう。





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2012年12月23日

教育には感動が必要だ

いや、人生には感動が必要だと言ってよい。

先月、友人から、急に「グレンミラーを聴きに行かないか」と言われた。

それはコンサートの数日前だった。

空いていた日だったので、お誘いに応じて出かけた。

正直なところ、はじめは「ウチにあるオーディオでいつでも聴けるから」という気持ちを持っていた。

「グレンミラーと言っても、すでに他界している人だし、そのコピーを聴いたって」

と思っていた。

ところが、実際のコンサートを聴いてみたら、すばらしい音で「なんと美しい」と心の中で、ずっと感じていた。

久しぶりに、心の揺さぶられる感動を経験した。

「グレンミラーは生きているのだ」

脈々と、グレンミラーは生き続けている。

まだ、感動の冷めやらぬ今月、市の図書館で「グレンミラー物語」の上映会があった。

無料だったが、定員があったので、私は開場の時間よりずいぶん前に並んだ。

それでも、私より前に10人ぐらいは並んでいた。

上映のの半ばほどになると、涙が出てきて、恥ずかしいのでそっとわからないように拭った。

「何で、こんなことで涙が出るんだろう」

と思いながら、一生けんめい涙を抑えた。

上映のあと、懇談会があって、感動を共有した人たちと交流を持ちたかったが、残念ながら予定が詰まっていたので、会場を出た。

12月はコンサートの多い月である。

自分が出演するコンサートもある。

下手な私の演奏でも、招待されることがあって、今年は毎月1〜2回程度の出演機会があった。

今日は今年最後の、出演依頼だった。

グレンミラー楽団の足元にも及ばない演奏だが、あの演奏を聴いたおかげで、私の心にはずっと温かいものが残っていて、少しは今日の演奏に役立ったのだろうか?

このところ寒い日が続くが、グレンミラーのおかげで、心のなかはずっと温かい。

本当に、寒さに抵抗する力が出てくるのだ。

今日は、演奏後、会場で、また来年の演奏の依頼があった。

年末にあたり、片づけ仕事のようなことをやってはいけないと決心した。

あるプロのオーケストラの奏者は、月給が安いと嘆いた。

しかし、その言葉のあとで「安いなあと思いながら、感動して続けてしまうんですね」と言った。

大阪の橋下さん、芸術の予算を削らないようにしてください。

■12月と言えば

忠臣蔵が恒例のようですが、大石内蔵助と垣見五郎兵衛のやりとりの場面は、何回見ても心に訴えるものがあります。
人のすばらしさを教えてくれる感動の場面です。

あの場面に理屈はないですね。

心が冷えていても、感動で生きるエネルギーも湧いてくる。

そう、シベリウスの「フィンランディア」も国を救ったのです。
当時のロシア政府が、危険を感じて、演奏の中止を命じたのですから、いかに国民の心を揺さぶったのか、その力の大きさを認めないわけにはいきません。

■教師も、子どもに感動を

指導技術がなんだかんだという論述もありますが、感動を呼ぶ教師の、指導も含めた行動というのは、ロケットに点火するごとく、子どもの秘めたるエネルギーを引き出すものではないかと思います。

不器用でもいい、スマートでなくてもいい、教師である以上は感動を与えられる人であり続けたいものです。







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2012年12月22日

内閣の船出に暗雲

■組閣は第一の試金石

与党に返り咲きの時点では勢いがいいが、いざ組閣となると、思うような人事になるかが問題。

大臣の椅子をめぐって、やはり綱引きが始まったようだ。

安倍氏に対する不安は、どうしても、政権を放り出した不安が拭い切れないことだ。

派閥の圧力には屈しないという意見を聞くが、派閥という言葉を出さずとも、大臣の椅子には相当に魅力があるらしく、組閣が近づくと「国民のために」という意識は吹っ飛んで、大臣の椅子取り合戦が始まり、本音があらわになりそうだ。

人間というものは、なんと情けないものだと感じる。

人はいずれか死んでいく、宇宙のスケールからすれば、人間なんて小さなもので、80年なんて人生はチリにもならない。

そんな瞬間にもならない時間を、気分良く生きると考えないものか?

いや、その人たちにとっては椅子取りで、目的の椅子を取ることが気分良くなのかも知れない。

そんな、小さな人間を相手にしてもしょうがないとも思うが、ここは、安倍氏が椅子取りの圧力に屈せず、本当に自分が政策を実行するために気分の良い組閣ができるかどうかが、はじめの試金石だろう。

「おれが総理にしてやった」とか「だれそれを大臣にしないと」なんて言葉に負けず、思い切った人事ができれば「本気だな」とか「安倍氏はリーダーなのだ」という意識を持つ人が増えるだろう。

そういう組閣ができなければ、自分が食べたい料理も食べられない、好きな服も着られない、好きな車も買えない、すべて他人が決めたもので、窮屈に我慢する政府になるだけで、また「いつまで持つか」という印象を与え、さらに政治に関心を持たなくなる人が増えるように思う。

ということで、どういう組閣が行われるかは、非常に注目するところである。

大臣の顔ぶれを見ることで、安倍氏に対する「投げ出し」が払拭されるかどうかだ。

■学校も同じ

私は今までに、何回も「ヒラメ教師」という言葉を使った。

先生になるということは、本来、上を見てではなく下、つまり子どもの方を見て仕事をすることであるのに、つまらない欲のために、上ばかり見て仕事をする人が増えれば、どんなに制度をいじっても教育の成果は上がらないと思う。

校長になること、教育長になることがゴールと考える人が多いようでは、教育は暗黒時代。

自分のつまらない欲得を持たない、スケールの大きな人がリーダーとならなければ、教育改革は進まないと思う。





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posted by edlwiss at 22:38 | Comment(15) | TrackBack(1) | 政治

2012年12月21日

してくれない症候群の治し方

飼い犬は、飼い主の家族を順位付けすると言われています。

その結果、飼い犬が自分より順位を下にランクした人の言うことは聞かなくなるのです。

例えば、ソファの上で寝ていた時、自分よりランクの上の人に触られても抵抗しませんが、ランクの下の人に触られると怒ったりします。

飼い主が育てるときに、どのように躾けてきたかで、犬の態度が変わります。

人の子の場合も、育て方で態度が変化すると考えられます。

このようなことを考えると、してくれない症候群は育て方に原因があると想像できます。

では、どのようなことに気をつけて育てたらしてくれない症候群にならないのか、あるいは治すことができるのかを考えてみました。
治す場合は、年齢が多くなるほど困難になると考えられます。

■してやるべきことと、してやるべきでないことを分ける

してくれない症候群を治す、あるいはならないようにするには、してやらないようにすればいいわけです。

親も先生も、つまり大人たちは子どもに対して、してやらなければならないことと、してやるべきではないこと(してやらない方がいいこと)を意識して区別すべきだと思います。

こういうところは、動物の子育てを見ていると、身についた本能でしょうが、人間よりうまくやっているような気がします。
(いや、人間もそういう本能のようなものを持っていたのだが、失われてきたと感じるべきかも知れません)

1.大人として責任を持つべきことは子どもにさせない

例えば、経済的負担です。

贅沢をさせる必要はありませんが、みじめな生活をさせないようにすべきです。

給食費を払わないということが、しばしば問題としてあがりますが、これも親としてしてやらなければならないことを放棄しているうちに入ります。
子どもには、みじめな気持ちを与えることになります。
もし、子ども自身が給食費を払わないのに、平気で給食を食べているとしたら、すでに、人としての大切な感情を欠落させて「自分さえよければ」という感覚を育てて言えるでしょう。

2.ただ、ものごとがはかどればよい、という考え方を変える

子どもがやるより、大人がやった方がはるかに早く、結果もいいということはあります。
しかし「子育て」という観点から見たら、非能率でも子どもにやらせた方がいいことがあります。

また、子どもは大人がやっていることを見て、自らやってみたいと思うこともあります。
そして、子ども自ら行うことで自信を深めることになると思うのです。

「よくできたね」

と褒めてもらえたら、ますます子どもは自信を持つようになるのではないでしようか。

例えば、食事はお母さんが作り、食器は子どもが運ぶようにする。
なんでもかんでも、お母さんが全部やって、子どもがお殿様のように座っていて催促するのではなく、子どもができることを積極的にやらせることが、子どもを育てることになると思うのです。

生きる力という言葉を目にしますが、生きる力を育てる場面は日常の生活の中にたくさんあるような気がします。

学校には児童会、生徒会、学級会といったものがありますが、これら活動は成功や失敗を問題にするのではなく、子ども自らが活動することに意義があります。
りっぱな姿を見せようとして、先生がすべて路線をしいてしまうのはもってのほかと言えます。
そんなことをしたら、子どもはしてもらうのが当たり前という感覚を身につけ、してくれない症候群を加速させているようなものです。

親も先生も忙しいせいか、子どもに任せてじっと見守るという余裕をなくしてきたことが、本来、動物でも持っている、親は手を出さないという感覚を失ってきたのかも知れません。

動物の親は、子どもが生まれた時は、大変熱心に子どものめんどうをみますが、ある時期になると厳しく子どもの自立を促します。

工業製品も、昆虫や動物に習うところが多いようですが、子育ても動物に習うべきかも知れません。





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2012年12月19日

してくれない症候群

郵便を配達してくれないとか、電気を送ってくれないなどの「してくれない」は、当然、送る側の責任であるが、ものごとが自分の思うようにいかない時に、いつも「してくれない」を言うのはどうかと思う。

先のブログ記事にも書いたが、就職難の時「雇ってくれない」を雇う側の責任にするのはいかがなものか?

自分が会社経営をすることを考えたら、雇用はいかにすべきかがわからなければいけない。

小学校で教えていた時、ある子どもが、漢字の練習の時何も書こうとしないので、そばに行ってわけを聞いてみたら、ふくれっつらをして「だって、お母さんがカバンの中に鉛筆を入れくれなかった・・・」と興奮して叫んだ。

母親としては子どもを大切に育てるのは、子どもが何不自由を感じることのないように配慮してやることだと思っていたのかも知れない。

人は歳をとると自然に大人になるものだろうか?

食事をきちんしていれば、体だけは大人になるが、精神も大人になるとは限らない。

だから、体はどうみても大人だが、この例の子どものように「お母さんが・・」と言うような感覚を持った人に会うのだろう。

会社には創業者というものがあって、はじめは会社が存在しないところから始めたわけである。

松下幸之助氏(現Panasonic創始者)は、不遇の中、電球のソケットを作るところからはじめて、大きな会社を作ったことはよく知られている。
経営の神様とも言われている。

今の大学生たちが、就職難を「だって会社が雇ってくれないんだから・・・」と会社のせいにしてはいないだろうが、卒業したら会社があって、そこをめがけて就職活動をするのがあたりまえのような感覚を持っているとしたら、改めるべきである。

自分は第二の松下幸之助になる、ビル・ゲーツになるという気概を持ってもらいたいものだ。

byonin.jpg話は変わるが、アメリカが訴訟社会だということもよく知られている。

「私が腱鞘炎になったのは、パソコンのキーボードのせいだ」

とか

「メタボになったのは、ファストフードを売った店の責任だ」

などと訴訟を起こすと言うが、日本もアメリカに習って訴訟社会になろうという風潮が感じられるところをみると、同じようなとが起こるのかも知れない。

「オレが入試に失敗したのは、アンタの教え方が悪かったからだ」

なんて理由で訴訟を起こす者が出てくるかも知れない。

ある先生が

「月給分だけは教えた。あとは自分でやれ」

と言った。

表面的に捉えると、サラリーマン先生で、教育に熱心でないように見えるかも知れないが、これは甘ったれるなと厳しく言っているわけである。

以前、自分の経験として書いたことだが、会社にいるとき、ある資格をとる必要があり、そのための講習を受け試験に挑んだ。

私は100点を取るつもりで勉強した。

しかし、合格はしたものの100点は取れなかった。

私の不満は、テキストにないことが出題されたこと、講習での説明にないことが出題されたことであった。

講習をする関係者に、そのことを話したら

「合格点が取れるだけの講習はやっている」

と言われた。

今日の学校では、試験範囲にないところを出題すれば、先生は文句を言われるかも知れない。

だから、おそらく、中間試験、期末試験は範囲外のところは出題しないだろう。

それはそれでいいが、時には「試験範囲にないところも出るかもしれない」という試験をやってみて「試験範囲になくても、オレの授業をまじめに受けていれば、それだけの力はつく」と言えるぐらいの自負は欲しいものだ。

そのぐらいの気持ちでいないと「オレの失敗は先生の教え方のせい」というしてくれない症候群を増やすことになりはしないか?





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posted by edlwiss at 17:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年12月18日

景気を良くするには

テレビで景気浮揚策をある大学院の先生が説明すると言うので、期待していたら。

「連結バスを作る」

と言っていたのにはがっかりした。
と言うより呆れた。

■インフレターゲットで景気は良くなるか

いよいよ安倍総裁のインフレターゲットが実現しそうな気配になってきた。

これは、インフレターゲット政策で、景気が浮揚するかどうかが保証されたものではない。

現在デフレだから、2〜3%を目標に金融緩和を行おうというもので、具体的には通貨量を増やすことである。

日本銀行にお金を印刷してもらい、通貨量と物価のバランスを変えようというものだ。

通貨量が増えれば、通貨の価値は下がるので物価は上がるというものだ。

ここで注意することは、経済は人の心理的要素も大きいということである。

通貨の価値が下がるという予想をする人が増えれば、通貨の価値を下がらないような動きをする人も増えると考えられる。

具体的には、今のうちにドルを買おうとか、金などを買っておこうという動きだ。

特に預金や年金が頼りの人たちは、そういう気持ちを持つだろう。

ドル買いが増えるということは、円の価値が下がることになるが、ドルを買っておいて円安を待つという人も増えるだろう。

通貨は経済の血液のようなもので、循環しなければ景気は良くならない。

お金を持っているだけで、使わない人が増えればいくら通貨の供給量を増やしたところで、血瘤が多くなるだけで景気刺激の効果はない。

老齢人口が増えてきた、この国では、お年寄りは年金と預金だけが頼りなので、たくさんお金を持っていても遣おうとはしない。
(国民の保有する預貯金は約1500兆円と言われるが、50代以上の人で、そのうちの82.4%を占めている)
それは、将来が不安だからだ。

将来不安は政治不安である。
このところ、政治はすっかり信用をなくしている。
だから、通貨の供給量を増やすことは、一時的に景気刺激になるかも知れないが、景気を良くする根本的な解決にはならないと思う。

■見せかけの景気浮揚策はだめだと思う

結局、通貨量を増やすだけでは景気を良くする根本的な解決にはならないと思う。

それに、都合よく2〜3%のインフレ率にするというコントロールができるかどうかは疑問。

それは、統計をとった時その数値になっていたところで、実態はインフレが加速状態になっていて止まらないという状態、つまりハイパーインフレの危険がある。

また、円安になるということは、輸入ものが高くなるということだ。
日本は食料をたくさん輸入しているので、食品が値上がりすると予想される。

通貨量を増やして円の価値を下げるのではなく、円の価値が高い今のうちに、外国のものを買った方がよいのではないかと思う。

■実質の豊かさを実現すべき

現在の問題は、若い人の仕事がないことである。

大学を卒業しても就職先がないという。

これは、卒業したらどこかの会社が雇ってくれるという他力本願が身についてしまったと考えられる。

会社はもっと人を雇えとか、リストラで解雇をするなというが、会社側の立場から考えたら、生産が上がっていないのだから、人を雇うのも、解雇を増やすことも無理のない話だとも言える。

経済全体が大きくならない限り、雇用も増えない。

■結論〜他力本願をやめて、起業をうながす

どこかに雇ってもらうことをあてにするのではなく、自ら起業をするという気持ちを持つことだ。

そして、国は起業を目指す若者に経済的支援をすべきである。

例えば、田舎で農業を目指す若者を支援し、農業の株式会社化を支援する。
若者は、柔軟な思考で停滞している農業を活性化する方法を考える。

私が聞いた話では、田舎へ行くと、大きな農家の一軒家の家賃が1ヶ月5千円だという。

耕す人がいなくて休耕地になっている土地もある。

国は積極的に起業する若者を募り、計画案を出させて、よいと思う計画には経済的支援をすることに金を遣う方がよいと思うのだ。





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posted by edlwiss at 21:40 | Comment(4) | TrackBack(0) | 経済

2012年12月16日

不自然な保険契約



生命保険の死亡保険金額は、契約時に他社の契約もあわせて総額を報告をしなければならない。

保険金額の妥当額は、その人の生活、社会的地位などから不自然であってはいけない。

保険契約してから間もない事故の場合は、近接事故として保険会社は調査する。
posted by edlwiss at 10:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年12月14日

資格継続認定単位取得

日本ファイナンシャル・プランナーズ協会の資格継続には2年毎に所定の単位を取得する必要がある。

今年の12月31日が期限で、やっと継続に必要な単位が取得できた。

単位取得は、認定されている講習で単位を取得する方法と、自分で学習してテストを受けて単位を取得する方法がある。

講習に参加するには、日程と会場が自分の予定と合わなければ参加できない。

今回はネット上の学習、すなわち、eラーニングにより取得することができた。

証明書の発行を受けることができたので、これを明日、協会に発送すればよい。

一安心だ。

一番の問題は自己管理だと痛感した。

厚生労働大臣のファイナンシャル・プランニング技能士という、いわゆる国家資格も持っているが、こちらの方は一度資格を取得してしまえば、生涯有効である。

前者はもともとアメリカで作られた資格なので、一定期間内に継続資格を確認するというのが、いかにもアメリカ的という感じがする。
つまり、一度資格を取っただけでは、力は衰退するという考えだ。

アメリカは学校の先生も継続資格のテストがあるので、大変だ。

実際に、合格しないために先生が続けられない例もあると聞いた。
校長先生であろうと、テストに受からなければ資格消滅だそうだ。

そこへ行くと、日本はいい?

「力は衰退する」というのは、最近感じることだが、そうそうたる学歴を持った人が、実につまらないことを言っているのを知って、なるほどと思う。

音楽コンクール○位という看板が外国では通用しないというのも、日本的との差異を感じるところだ。

「それはそうと、今、あなたはどれほどの力を持っているのですか?」

と問われるわけだ。

やっぱり、それがグローバルなのか?

島国である日本は、ガラパゴス状態がいろいろあるのかも知れない。





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posted by edlwiss at 23:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年12月10日

詐欺に遭わないために

sagi.jpg学校の先生は世間知らずだから、詐欺に遭いやすいという人がいる。

私は超能力者でもないし、統計的な資料も知らないから、その考えに対して何とも言えないが、詐欺に遭っているのは学校の先生とは限らない。

しかし、学校は子ども相手が多いし、企業のような利益を求めてしのぎを削ることはないから、閉鎖的な社会とも言える。

ファイナンシャル・プランナーという仕事も、このところ日本でも認知度が高まってきたせいか、私のところにも相談が来るようになった。

その相談の中で、詐欺に関係するものとして「突然、裁判所からハガキがきた」とか「あなたを訴えようと、訴訟の準備をしている人がいます。○月○日までに電話をしてください」なんてものがあった。

まず、裁判所からハガキが来ることはあり得ない。裁判所から来る郵便は必ず封書である。

訴訟の準備をしている人がいて、今なら何とかなるというようなハガキは私のところにも来たことがある。

もちろん、詐欺の類とわかったが、そのまま無視せず騙されたフリをしてやりとりの一部始終を録音した。

笑えるのは「サーバーからのデーターでわかります」という言葉が頻繁に出てきたことだ。

裁判に関するデーターを、どんなサーバーか知らないが、アクセスして読み取れるわけがない。

サーバーという言葉を使えば人によっては騙されるのかも知れない。

■裁判所から封書が来たら

それでも、もし裁判所から封書が来たらどうするかということだが、その場合は絶対に無視してはいけない。

そんなことがあるのかと言うと、簡易裁判所から借金の請求に関する封書が届くことがある。

誰かに、相談したら、開封すると受け取ったことになるから無視せよと言ったらしい。

それはダメだ。

なぜなら、無視すると内容が裁判の判決と同じ効力を持っものがあるからだ。

具体的には、内容が「○年○月○日に、あなたに貸したお金1千万円を返してくれ」というようなもの。

全く覚えのないものでも、無視すると裁判で確定したのと同じことになってしまう。

覚えのないものだったら、必ず異議を示す文書で返答しなければならない。

そうすると、民事裁判になる。

全く覚えのないものであれば、勝つことができる。

■第一次選択

前文は日常生活での話の一部だが、第一次選択とは人物を信頼にあたる人かどうかを判定することである。

優秀な営業マンなら、ここは非常に大切にする。

なぜなら、特に信用を基本とする営業では、人物そのものが信用できなかったら、取引で損害を被る危険があるからだ。

例えば、保険商品はその最たるものである。

商品というと、ふつう、何か具体的なものを思い浮かべるかも知れないが、保険という商品は「約束」を買う商品であり、取引で客が受け取るものは証書1枚である。

保険は犯罪にも利用されやすい。

だから、小説にも保険を利用したトリックは多い。

第一次選択とはその人の性格を審査するものだと言ってよい。

生命保険の被保険者に第三者を選ぶことはできない。

そんなことができたら、世の中には殺人が頻繁に起こる恐れがある。

しかし、時には保険金を受け取るために、被保険者を我が子にして、我が子を殺してしまうという事件も起きている。

だから、近年、その人の性格を見抜くという力は大切になっている。

営業マンはシャーロック・ホームズにならなければならない。

■精神障害を持った人

精神障害のある人は保険には入れない。

しかし、この精神障害というのはやっかいな面がある。

成人でも、何らかの精神障害のある人で、普通の人との取引きに懸念のある人は、制限行為能力者(昔は禁治産者と言った)と言って、成人と同じ法律行為ができないことになっている。この場合、保佐人が指定され、当人に代わって法律行為を行う。

親族などの申請で裁判所から制限行為能力者になっている人は、保佐人がいるから、商取引も保佐人と話をすることになるが、問題は制限行為能力者に認定されていないけど、実質、制限行為能力者のような人と話をしなければならない時だ。

それも、正常と異常の境目を行ったり来たりしている人。どうみても、制限行為能力者なのだが、親族から申請がないため認定されていない人。

最近はストレスがたまる社会になったのか、人そのものが弱くなったのか、精神疾患を抱えている人が多くなったようだ。

知人で、精神科の病院に勤務している人がいるが、日常生活をしている人でも、入院患者よりひどい人がいるという。

そういう人が野放しになっているせいか、時に、通行中の人が突然刃物で刺されたりする事件もある。

このような行為に及ぶ人物は危険だが、具体的に行動に出ないでも、頭の中が混乱している人もいる。

例えば、最近、調べてわかったことだが、妄想性人格障害もそのうちの一つだ。

今回はタイトルが「詐欺に遭わないために」だが、この妄想性人格障害が相手だと、人によってはすっかり騙されてしまう人もいるかも知れない。

私の知人にもこれに近い人はいる。

いくつかの特徴があるが、これは以前の記事にも書いた。

特に顕著な特徴は、妄想で支配されているので、話を何でも自分の都合によって作ってしまう。

例えば「昔、ロリン・マゼール(指揮者)がチェコフィルの常任指揮者をやっていた時、僕は助手を務めていた」なんてことを平気で言ってしまう。
(クラシックに精通している人の中には、マゼールがチェコフィルの指揮者になったことはないということを知っている)

彼の頭の中は嘘を言うという意識はなく、本当にそうなりきってしまっているのかも知れない。

妄想は、時に過去の事実も自分の記憶でさえ書き換えてしまう

何でも自分で作って(妄想して)話を作ってしまうので、知らない人からすると、すごく物知りに見えてしまうかも知れない。

しかし、話をじっくり吟味していると、すべてが抽象的で、無関係のものでもくっつけてしまったりして変だと言うことがわかる。

例えば「虫歯が多いといじめに遭いやすい」なんて言う。

根拠を聞くと怒り出したりする。

もともと、根拠があって言っているわけではない。

根拠を聞くと、たいていは攻撃的になるので聞かないほうがよい。

そして、大きな特徴としてして、思考がマイナス思考であること。

妄想の多い話とマイナス思考があったら、妄想性人格障害の可能性は高いかも知れない。

問題は、けっこう自信を持って話すので、知らない人は騙されやすいということだ。

もっとも、この性格は営業に適しているのかも知れない。

なかなか、売れないで困ってるモノでも、持ち前の何でも都合よく話を作ってしまう妄想で売ってしまうかも知れない。

雰囲気に飲まれて買ってしまっても、クーリングオフという手があるので、8日以内なら売買を無効にできるが、クーリングオフが効かない商取引もあるので、ご注意。





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posted by edlwiss at 23:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2012年12月10日

安倍自民党総裁のインフレターゲット



阿部氏のインフレターゲット政策は、論議を読んでいる。

市場を不安定にする可能性も懸念されている。

選挙後に株価がどう動くか?

現に金は余っている。

銀行にある金を中小企業に貸し出す政策の方がよいのではと思うが。

公共授業も、道路づくりでは、土地買収により地主が喜ぶだけで、一般生活に金は出回らないのでは?
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2012年12月07日

池田信夫さん大丈夫ですか?

池田信夫さんの発言には「?」と思うところがあります。

はじめに、おかしいなと思ったのは原発発言で「(原発の)安全対策を強化すると、火力発電よりコスト高になるから、原発の安全にはお金をかけられない」と力説してみえたことです。

今回「?」と思ったのは貧困率の問題です。

あなたは、日本の貧困率について問題ではないと言ってみえます。

その理由として「日本の下位20%の人々の所得は、他の地域の最貧層の7倍以上である」といってみえる。
「日本の貧困層は世界でもっとも豊かである」とも言ってみえる。

つまり、一般に言う貧困率は相対貧困率で、相対貧困率が高くても(日本は)絶対貧困率が低いのだから問題ではないと言ってみえるわけです。

そういう解釈で本当にいいんですか?

■貧困率とは何のための統計なのか

貧困率は何のために統計をとっているかと言うと、それは、その国で生活がしやすいかどうかをみるためのものではないでしょうか?

例えば、1ヶ月の所得が5万円の国と50万円の国では、どちらが生活しやすいかと言ってもそれだけではわかりません。

それは、物価がわからないからです。

今、わかりやすい例として、1ヶ月の所得がA国は5万円、50万円としましょう。

それで、A国ではラーメン1杯が5円。B国ではラーメン1杯が5000円だったとしたら。

A国とB国ではどちらが豊かと言えるのでしょうか?

池田さんの考えからすると、単純に所得だけだけ比較して、B国の方が豊かであると主張してみえるわけです。

これって、おかしいと思わないですか?

おかしいと思えないなら、どちらの国が暮らしやすいのか考えてみてください。

このレベルの話は、小学校の授業、それも3、4年生相手ぐらいだと思います

■相対貧困率が重要です

各国の国民の所得を単純に数値だけで比較しても、意味がないということぐらい、普通に常識がある人ならわかると思うのです。

gakureki.jpgたとえ、ある国の国民の1ヶ月の所得平均が300万円と言ったって、それだけでは「いいなあ」とは思いません。

次に知りたくなるのは、ところで「物価はどうなんですか?」という質問です。

いくら、所得が多くても物価が高かったら豊かとは言えないわけです。

毎月300万円もらっていても、パンを買うのに1千万円もするなら、とても生活は苦しい。

だから、池田信夫さん、絶対貧困率ではなくて、相対貧困率の方が重要なのです。

私たちは日本にいて、物価の安い国の品物を直接買うことはできないでしょう。

アンパンが10円で買える国があるとしても、私たちはそのパンを今日のおやつにと言って、買いに行けない。

日本に住んでいる私たちは、105円のアンパンを買わなければならないのです。

池田信夫さんのブログの以下の発言はおかしいのです。
けさの朝日新聞に「15.7%の衝撃―貧困率が映す日本の危機」という社説が出ていて、朝日新聞の論説委員のレベルの低さに衝撃を受けた。日本の貧困率がOECD諸国で第4位だということは、当ブログでも紹介したとおり5年前から周知の事実で、政府が「それに目を背けてきた」わけではない。大した意味がないから、特に問題にしなかっただけだ。

朝日新聞が問題があるとして、記事にした方が正しいのです。

その国ではいかに生活がしやすいのかを知るためには、相対貧困率でなければわからないし、その方が意味があるのです。

相対貧困率が高いということは、所得格差が大きいことを意味し、それは暮らしにくい国なのです。

池田信夫さんの学歴が紹介されていました。

東大卒、慶応義塾大学大学院というところを見ると、学歴とは何だろうと考えてしまいます。





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2012年12月06日

原発は安全ですか?

これも「おかしな原発論議」に属するものだが、原発は安全であると盛んに主張したい人たちがいる。

原発の燃料となる「プルトニウムは飲んでも大丈夫」と言った人もいる。
大橋弘忠


だったら、自ら飲んで示していただきたいものである。

他に印象に残る意見としては、あの大震災で、津波で多くの人が亡くなったが、原発で死んだ人は1人もいない(だから、原発は安全)と言った人。
勝間和代氏池田信夫


■危険は即死で比較するのですか?

原発は壊れたが、誰も死ななかっただから安全ですか?

では放射能の問題はどうなんでしょう?

生命の危険を問題にするときは、すぐに死ぬもの(即死)が危険ということではないでしょう。

放射能は長い時間をかけて、人体に悪影響を与えるものでしょう?

何年も経ってから発癌で死ぬものなら、やはり危険と考えるものではないですか?

だから、人が死ぬということにかけては、短期も長期もないでしょう。

放射能は自然界にもあって、危険ではないと言うなら、今避難している人たちは、なぜ避難しているのでしょう?

放射能の危険性は、あるなしではなく、濃度でしょう?

それに、自然に存在する放射能と、人為的に発生させた放射能と同じ(同列)にしていいのかという論議もあります。

■結局、お金をもらっているから変な理屈をつけることになるのではないですか?

原発推進の記事を書いてくれと頼まれ、原稿用紙1枚ぐらいで500万円という情報がありました。
(その原稿料も電気料金に組み込まれているとか)

原稿用紙1枚で500万円はいいですね。
私にはそんな依頼はありません。

中立的な立場で発言をするのではなく、原発稼働が前提という足かせがあるから、無理に理屈をつけることになるのではないでしょうか?

池田信夫氏の「そうすると、原発の方が(発電コスト)高くなっちゃうんですよ。火力発電と競争ができなくなっちゃう」という発言は、もう、何が何でも原発推進(稼働)が前提ということで、頭がいっぱいになっているからではないですか?
ここでのそうするととは「原発の安全に金をかけると」と言うことですね。

つまり、原発事故で多少は人が死んでも、火力発電より安くなるように稼働しようということなんですね。

そして「多少は死んで」の、死ぬ人の中に自分は入っていないということなんでしょう?

これは、まとめると、多くの人が安い電気で豊かに暮らすためには、どなたか犠牲になってくださいということですね。

笑えるのは「原発を東京に建設したら便利ですね」と言ったら「そんな危険なものを持ってきてもらっては困る」と言われたそうで。

原発は安全という人が、危険だから自分のところに作るのはダメと言うのだから、こんなに矛盾した話はないと思うんですが。

選挙で誰を選ぶか、どの評論家を信用するかは、ウラで金まみれになっていないかを調べてからにしましょう。





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2012年12月04日

妄想に終始する人

personality.jpg意見を言う時、人は自分の想像を交えたりして話すことがある。

その想像には、ふつう想像するための根拠があるもので、そういう根拠がなければ他人を信用させることはできないし、たとえ自分に近い理解者がいたとしとても、説得力がない。

だから、特に第三者に対して信用してもらいたいと願うなら、根拠は必須である。

そのために、具体的な事例を交えたりして説明するものだが、説明していることのすべてが想像での語り口であった場合は、すべてが妄想という場合がある。

つまり、語りが妄想に終始する人である。

こういう人の場合、先回の記事大切な就学前教育〜幼児教育で述べたように、発達心理学の立場から言うと、乳幼児期に母子関係(親子関係)を通して獲得される基本的信頼感に何らかの問題が起こったと考えらる

この問題とは
赤ちゃんの要求・願望を母親が察知して、速やかにその要求を満たして上げることで強化されていき、自己と他者の相互報酬的な関係を学習していく
という過程を踏まなかったということである。

赤ちゃんは、母親(父親)に対して様々な要求をする。例えばミルクが欲しいとか抱っこして欲しい、おもちゃが欲しいなどの要求である。

それに対して、母親はその要求を満たしてやり、赤ちゃんとしては要求を満たしてもらったことで満足感を得て、信頼感を築いていく。

しかし、何らかの事情でそういう要求が満たされなかったり、裏切られたりすると、裏切りや欺きという精神的なダメージを受けて、人に対する強い不安を持つようになる。

この精神的ダメージが定着すると、妄想性人格障害と言われる精神障害を持つようになる。

妄想性精神障害の人は次のような特徴を持つ。

1.他人を信頼できずすぐに理不尽な疑いの眼差しや攻撃的な態度を向ける。

2.現実社会を直視できず幼児的な観念で自分の精神を維持しようとしている。

3.自己の勝手な妄想世界を維持するために、誇大的な妄想観念で現実社会を歪めて主張する。つまり、自分の都合の良いように現実と他者を解釈する。

4.客観具体的な根拠を挙げて、自分の誇大的な妄想観念を壊そうとする人がいると、過剰な反応をして、その人を攻撃しようとします。

5.他人を信用しないので、猜疑心や攻撃性が強く現れるが、これは自分の妄想的な世界観を、現実を突きつけてくる他人から守りたいという防衛精神の現れでもある。

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話が、すべて自分の都合で作った妄想なので、それを壊そうとする相手には猛烈に反発するのである。

都合のよい妄想とは、例えば

「虫歯が多いといじめの対象になる」

と言ったりする。

こういうことを聞くと「何でそうなるのですか?」と人は質問したくなる。

しかし、もともと根拠のない自己都合の妄想なので、返信はないし、強く迫ると反発し、攻撃してくる。

妄想性人格障害の人に会ったら、質問はムダである。

もともと言っていることに根拠があるわけではなく、何でもかんでも関係があるなしに関係なく、好き勝手にいろいろな言葉を持ってきて話しを作り上げている(妄想している)ので、質問しても反発をまねくだけである。

誇大妄想は、本人の自己防御と言えるものでもあり、自分は他者より優れているという妄想を抱くことにより、自己の精神安定をはかっている防御と言えるものである。

それでは、こういう人にどう対処したらよいかは、また機会をみて説明することにする。





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posted by edlwiss at 22:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2012年12月03日

大切な就学前教育〜幼児教育

yojikyoiku.jpg人は胎児の時から学習していると言われる。

すると、生まれた時にはすでに身に着けているものがあるということだ。

近年、機械が進歩し胎児の活動の様子や、乳幼児の頭の働きなどがわかるようになってきた。

大学の研究機関では、それらの機械や、チンパンジー、オラウンターなどの霊長類の育ち方もあわせて、人がどのように成長するのかという研究が進んでいる。

人は生まれてから、2ヶ月、9ヶ月目に大きな節目があるとの研究報告がある。

9ヶ月目ぐらいまでは、チンパンジーなどと人はあまり差がないようだが、9ヶ月を過ぎる頃から人は人としての違いが出てくるようである。

つまり、チンパンジーとは違った成長を示すということである。

それは、チンパンジーの子どもは親の活動を見て、それを模倣することによって学習していくのであるが、この時親は一切援助しない。

ところが、人間の場合は、乳児が行う活動に親が援助をするわけである。

ここに、親子の積極的なコミュニケーションができるわけで、この時期、親が乳児に働きかけることがその後の成長に大きな影響を与えることになる。

■乳幼児期に母子関係を通して獲得される基本的信頼感が欠如すると

1.他者への不信感や猜疑心が非常に強くなり、警戒心や用心深さのレベルが異常に高くなり、何でもない他者の言動に対して意図的に悪意や裏切りの心理を読み取る

2.猜疑心、嫉妬心が強く、他人の意見を聞かない、自分の意見に固執する、自分の世界に内閉していて、他人を信頼できず疑いの眼差しや攻撃的な態度を向けるので、殆どの対人関係は破滅に向かうことになる

3.現実社会を直視できないまま幼児的な精神を維持しようとしていて、そのために誇大的な妄想観念で現実社会の認知を歪ませようとする

4.自分の都合の良いように現実と他者を解釈するので、融通が効かず思いやりがない傲慢不遜な人物と見なされる

5.客観的、具体的な根拠を上げて自分の誇大的な妄想観念を打ち壊そうとする他者がいると、神経過敏に反応してその他者を攻撃しようとする。これは、自分の妄想的な世界観を、現実を突きつけてくる他人から守りたいという防御機能が働くためである

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以上のような行動を示す人は、乳幼児期に母子関係(親子関係)の不全が影響して、成人期になっても現れる状態である。

seisinsyogai.jpgこの親子関係の不全とは、他者を信頼する精神機能の障害で、発達心理学的観点からは乳幼児期に母子関係(親子関係)を通して獲得される基本的信頼感に何らかの問題が起こったと考えらる
発達早期に獲得されるはずの基本的信頼感は、赤ちゃんの要求・願望を母親が察知して、速やかにその要求を満たして上げることで強化されていき、自己と他者の相互報酬的な関係を学習していくのが健全な発達であるが、この関係がうまくいかないと、裏切り・欺きに対する強い不安を持つようになる。

このような状態は精神医学的には妄想性人格障害と呼ばれている。

先に挙げた1〜5のような状態を示す人に心あたりがあれば、普通の人のようなコミュニケーションは保てないおそれがある。

就学前、乳幼児期の教育、いや育て方はその子どもの将来に大きな影響を与えることを考えると、恐ろしい気もする。

発達心理学については、放送大学に講座がある。





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posted by edlwiss at 19:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

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