2013年01月31日

国語は基礎基本と言うけれど

スーパーで店員とのやりとり。

「キャベツは何処にありますかと」

「キャベツはあちらの野菜コーナーです」

「野菜でなくて、キャベツなんですけど」

これは、私が、ある時期から多くなってきたと思われる思考のはたらきです。

これまでにも、しばしば触れてきましたが、集合の概念が欠落している状態です。

「柔道のような格闘技では」と言った時「柔道と格闘技と何の関係があるのですか?」と聞かれたのも、同じです。

■国語力はどうしたら高まるのか?

作文について、私がいつも感心して、勉強させていただいているサイトがあります。

それは、 言葉の森です。

ここの真ん中にある記事を書いている人の文章を読むと、なるほどと思います。
(文章は、時々変わります)

国語の書く力を高めるには、考える力が必要だと言っています。

それでは、考える力はどうしたらつくかという部分を下記に引用させていただきます。
考える力は、どのようにして育つのでしょうか。
 それは、考える問題集によってではなく(笑)、考える遊びによってです。

 なぜかというと、考える問題集には答えがあるからです。
 答えがあるものは、考えなくても答えに到達することができます。
「あ、その問題知ってる」という具合に。

 しかし、遊びには答えがありません。
 遊びにあるのは、もっと楽しくやりたいという動機です。
 だから、楽しむための工夫は無限に生まれ、いつまでやっても遊びは飽きないのです。

 小学校低学年の生活で大切なことは、答えのある勉強で子供の生活時間を埋めないことです。
(もちろん、高学年も中学生も高校生もそうですが。)

 子供に考える力をつけるには、自由に遊べる余地を残しておくことです。
 そして、その自由な遊びを考えつきやすくするのも大人の役割です。

確かに、勉強で力をつけようと考えると、参考書や問題集のことを考えてしまいます。

それでは、考える力は高まらない。答えのないものに取り組まないといけないとあります。

それは、子どもの場合、遊びだと言っていますが、大人の場合も同じでしょう。

趣味もいいのではないかと思います。

何か趣味のある人は、試験のための勉強とは関係なく、ひたすら自分の好きな道を突き進んでいる気がします。

それで、趣味のゴールに達したという人は、おそらくいないような気がします。

書く力、つまり作文力は読解力も必要とします。

識字という言葉がありますが、意味をフリー百科事典「ウィキペディア」で調べると、
識字は日本では読み書きとも呼ばれた。読むとは文字に書かれた言語の一字一字を正しく発音して理解出来る(読解する)事を指し、書くとは文字を言語に合わせて正しく記す(筆記する)事を指す。この識字能力は、現代社会では最も基本的な教養のひとつで、初等教育で教えられる。生活のさまざまな場面で基本的に必要になる能力であり、また企業などで正式に働くためには必須である。
とあります。

世界的に見ても、日本人は識字率が高いと言われますが、説明にある「読むとは文字に書かれた言語の一字一字を正しく発音して理解出来る(読解する)事を指し」の部分を見ると、正しく理解できているのかそれが、先生のような仕事をしている人であっても、疑問に思うことがあります。

それは、ある文を読んで、意見なり感想なりを言っている時「どこに、そういうことが書かれていますか?」という疑問が浮かんでくることがあるからです。

識字率の問題なんて、今の日本のどこにあるんだと思ったら、それは自分のことだったとしたら、冗談にもなりません。

パネルディスカッションをやっていると、司会が参加者に意見を聞いてから「あなたの言われることは、・・・ということですね」と確認している場面がよくあります。

これは、大切なことだと思います。

同様に、子どもの意見を聞いた時、作文を読んだ時「君の言いたいことは・・・ということなのですか?」と要約する習慣をつけることはいいことではないでしょうか?

ブログでは、読み取ったことが正しいかどうか確認するために、自分の意見に添えて、それは何処の部分か参照するかリンクすることがいいのではないでしょうか?

その際、しばしば言っていますがWhere(どこ?)を考えてみましょう。必要によっては5W1H全部について検証してみましょう。

konnyaku.jpg私が中学生の頃「こんにゃく」というあだ名の生徒がいました。

その理由を聞いたら、おつかいの時、豆腐を頼まれたのにこんにゃくを買ってきてしまったからだそうです。

出かけるときに、確認すればよかったのですね。

「お母さん、こんにゃく買ってくるんだね?」

「ちがうよ、豆腐を買ってくるんだよ」

となるわけです。

「豆腐」と書いてある文章を「こんにゃく」と読まないようにしたいものです。

そうそう、正しく文章を理解しないで、自分で勝手にきめつけて解釈をする人を「こんにゃく思考」と呼ぶことにしましょうか?





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 23:45 | Comment(5) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年01月31日

経験しないとわからない

hiso_cd.jpg何でも知ったかぶりをする人がいる。

また、ネットをいいことに偽装する人もいる。

偽装する人は、その仕事に憧れていたのかも知れない。

以前の投稿で、音楽プロデューサーのなりすまし(偽装)らしいという人の話をした。

これは、一種の見栄といえるものかも知れない。

人は、多かれ少なかれ、よく見せたいという見栄があるのかも知れません。

しかし、見栄を張ると、時にとんでもないことにもなりかねないなので、ほどほどにしておいた方がよいと思っています。

吹聴した相手が真に受けて、本気になって頼みに来るなんてこともあるかも知れませんから。

■オーケストラのステージ

私が吹いているクラリネットは、吹奏楽では席が前の方ですが、オーケストラではかなり後ろです。

bassfmini.jpg前列はヴァイオリンをはじめとした弦楽器で占められていて、その後ろに並ぶわけです。

つまり、弦楽器の後ろが木管楽器です。

木管楽器の最前列は、フルートとオーボエです。

その後ろにクラリネットとバスーンが並ぶわけです。

ですから、私がクラリネットの席に座ると左にバスーンが座っています。

楽器には、それぞれ個性があるというか特徴があり、機能的に難しいところがあり、それは楽器によって違います。

だから、他人の楽器の苦労はわかりません。

それでも、すぐとなりに座っていると、苦労が伝わってくることがあります。

例えば、クラシックフアンならよく知っている、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」変ロ短調作品74バスーンに大変なところがあります。

第一楽章の出だしも大変ですが、第一楽章の中ほどのクラリネットのソロのあと、バスーンがつなぐところがあります。

ここ強弱の指定がPPPPPPとPが6個もついているのです。

こんなの、普通は見ませんね。

まあ、PPが一番小さく、まれにPPPが出てくるぐらいです。

まあ、楽譜を見てください。

hisopppppp.gif


赤く示してあるところです。

クラリネットに続いて、バスーンが吹くようになっています。
(この直後、全員でsfff;聴衆はいつも驚きます)

曲の音量がだんだん小さくなってなっていくので、バスーンはクラリネットよりさらに小さく吹かなければなりません。そうしないと不自然になってしまうからです。

バスーン奏者には相当なプレッシャーがかかります。

私の隣のバスーン奏者は、若くして禿げていましたが、これはプレッシャーのせいかもしれません。

ひとりで受け持つので、誰も助けてくれません。

会場の聴衆が1500人、オーケストラのメンバーが100人とすると、1599人がみんな耳をそばだてて、ここに集中するわけです。

そういうプレッシャーもあるわけです。


※このビデオでは、ちょうど10分00秒のところから。なお、このオーケストラでは、バスーンの代わりにバスクラリネットで代用している。マルティノン指揮/ウィーンフイルは楽譜通りバスーンだった。
私が出た演奏会でも、楽譜通りバスーンだった。

■経験しないとわからない苦労

何でも知っているかのように口出しする人は、人間的に軽いのではないかと思います。

他人の苦労は、本人しかわかりませんが、今日のバスーンの苦労でなくても、仕事など何らかの苦労をしている人は、他人の苦労も察するようになるのではと思うのです。

そして、思いやりの心が出てくる。

このバスーンの例では、同じくバスーンを吹いている人、苦労を察することができる人は、演奏終了後、楽屋に行ってねぎらったりするものです。

そういう時の声かけは、奏者にとってとても嬉しいものです。

自分は経験したことがないのに、軽々しく言う人は、みっともないとも言えます。

人の振り見て我が振り直せをまた思い出しました。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 00:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年01月29日

名曲から学んだこと

学力の話題が続いたので、今回は話題を変えての投稿です。

■クラリネットとの出会い

中学時代は吹奏楽部に入部していました。

わけあって、2学期から入部したので、他の同級生とはずいぶん遅れをとっていました。

先生が来て、合奏をする時、私はほとんど楽譜が読めなかったので、楽器を持って、ただ楽譜を眺めているだけでした。

「お前、一つでも音を出すようにしないと、吹けるようにならんぞ」

と、先生の声でした。

自分でもどうしたらいいかわからず、ただ不安だけ感じていました。

それでも、親切な上級生や友だちのおかげで、少しずつ合奏の仲間に入れるようになりました。

私はクラリネットという楽器を入部の時、自身で選んだわけではなく、ただ先輩から「これ」と言って差し出されただけです。

しかし、とんでもない楽器だと次第に思うようになりました。

それは、楽譜は細かいし、音域が広いため、下の音域は五線の下を飛び出しているし、上もはるか上の方にも飛び出しています。

しかも、指使いはやっかいで、要するに几帳面さが要求されるのに、横着で不器用な私にはとても苦痛でした。

その点、私が子どもを教えるようになった時は、中学生の女子は文句を言わず几帳面に練習するので感心していました。
時に小さなことにこだわる女子ですが、いいところは、几帳面なところだと思いました。

だから、家電の工場などではラインに並んで、細かい作業をやっているのでしょうか?

■名曲との出会い

M君という親友ができ、お互いに遊びに行ったり来たりしているうちに、M君の家で聴いた曲に衝撃を覚えました。

それは、モーツァルト作曲、K.622「クラリネット協奏曲・イ長調」という曲でした。

この曲を聴いた時は本当に衝撃を受け、すっかり虜になってしまいました。

こんなに美しい曲があるのかと思いました。

それは、クラリネットの魅力を余すところなく発揮している曲でした。

曲について調べてみると、モーツァルトが晩年に出会った、シュタードラーという名手の演奏に感激して作曲したものということがわかりました。
クラリネット協奏曲イ長調K.622は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトによって、1791年に作曲された最後の協奏曲である。2006年英国クラシックFMのモーツァルトの人気曲第1位になった。3楽章より構成される。
フリー百科事典「ウィキペディア」より
協奏曲はいろいろな楽器のために、著名な作曲家たちが書いていますが、そのきっかけは、その楽器の名手との出会いがきっかけになっていることが多いということを知りました。



そのため、楽器の魅力を十分伝えるものになっていますが、同時に名人芸を披露するために、演奏は難しいものになっています。

とにかく、このモーツァルトのクラリネット協奏曲の魅力にとりつかれたために、いつかこの曲を演奏できるようにしたいというのが、私の目標になりました。

■難しい曲をいかにして克服するか

実はこの課題が、いろいろな教科の勉強に取り組むことと同じなのだと思うようになりました。

それは、演奏にしろ、教科の勉強にしろマスターできないのはできるところばかりやっていて、難しいところは避けるということです。

なんだ、そんなこと当たり前だろうと多くの言われそうな気がしますが、そんなことに私は気がついたのです。

ただ、演奏と教科の勉強との違いは、教科の勉強は、試験の時必ずしも100点でなくてもいいわけですが、演奏はそういうわけには行きません。

できないところがあったら、その曲は全曲通して演奏できないわけです。

特に協奏曲の場合、その時代の名人のために書かれたものですから、名人芸を披露するための難関が随所にあるわけです。

いつまで経っても演奏が完成しないのは、部分的に気に入ったところばかり取り組んでしまう。

難しいところでは止まる。

こんなことでは、永久にできるようになりません。

ある人が「プロとアマチュアの違いは、できるところとできないところの差が激しいこと」と言いました。

なるほどと思いました。

頭がよくなるクラシック (幻冬舎文庫)という本が出ていますが「そう言えば、音楽やっているやつは頭がいいな」と感じるようになりました。

まあ、おおよそ、そう言えるような気がします。

ただ、やっているというだけではそうも言えませんが、アマチュアでもオーケストラで管楽器を受け持っている人にそういう人が多いと感じます。

それは、フルート、オーボエ、クラリネット、バスーン、・・・など管楽器はソリストなので、自分しか責任を持つ人はいません。

管楽器はオーケストラでは、必ずというぐらいソロが出てくるので、それができなかったら演奏会はできないということになってしまいます。

「ここは難しいからできない」ということは許されないのです。

だから、難しいところをいかに克服するかという練習を積んできているのです。

もともと素質のある人もいるかも知れませんが、そんな人は珍しく、できる人は努力の仕方を知っているというか、できるまでやるという根性があるというのが正しいと思うのです。

mozart_cl.jpgモーツァルトは35歳で亡くなっています。

それまでに、600を超える作曲をしていますが、作品番号(K=ケッヘル番号)の最後は626のレクイエム(未完成:未完成部分を弟子に頼んで亡くなった)で、クラリネット協奏曲はK.622なので、死の少し前の曲です。

モーツァルトが名手シュタードラーと会ったことで、名曲を残してくれたことで、クラリネット奏者たちはみな感謝していると思います。

人によっては「クラリネットは幸せな楽器た」と言います。

それは、モーツアルトが作曲してくれたこと、そのモーツアルトに刺激されたブラームスなどの大作曲家たちが、すばらしい作品を残してくれたことにあります。

モーツァルトに感謝。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 22:53 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年01月28日

学力とは〜無責任発言をなくそう(6)

ある人から、たこ焼きをごちそうするからと言われたので、その人の家におじゃました。

table_tap.JPGテーブルの上にはたこ焼きセットがあり、材料も準備してあった。

さて、たこ焼き器の電源プラグをテーブルタップに差し込み、加熱を始めたところ、いっこうに暖まらない。

触ってみると、若干熱くなっていたので、故障ではないだろうと思った。

しばらく経っても、温度はあまり上がらない。

そこで、たこ焼き器の電源コードをたどって調べてみたら、プラグを差し込んだテーブルタップのコードが細いとわかったので、規格を見たところ、たこ焼き器の消費電力に対して、ケーブルの許容電流が小さすぎることがわかった。

たこ焼き器は1200Wのなのに、テーブルタップの許容電流は10Aもなかった。

つまり、1200÷100=12(A)なので、足りないわけだ。

私が、テーブルタップが原因とのことを伝えたら、他にはテーブルタップはなかったので、たこ焼き器を壁のコンセントに近づけて使うことにした。

そして、めでたく温度は上がって、たこ焼きを作ることができた。

■学力が役に立つ時

電気製品を使う時、消費電力と電流の関係は学力とは〜無責任発言をなくそう(4)において触れた。

これは、義務教育を終えた人ならみんな学んでいるはずである。

もし学力とは〜無責任発言をなくそう(4)の説明がチンプンカンプンの人は、中学校で学んだ時、この分野の学力がつかなかった言えるのではないかと思う。

思うというのは、学んだ知識とそれを使う技術を習得して、それを現実に使えて、はじめて学力がついたと言えるからだと私は考えるからである。

義務教育では、将来、豊かな社会生活を営むことができるために学ぶという面がある。

テーブルタップ一つを家電店で買うときにも、この分野の学力が身についていたら役立つはずである。

義務教育に携わる教員なら、中学校までの学習は、専門外と言わずすべて習得して欲しいものだと思う。
少なくとも、そういう努力はして欲しいと思う。

■学力が必要な時

最近、ボーイング787のトラブルが問題になっている。

バッテリーが原因らしいということだが、大勢の生命に関わることなので、原因の究明は必須の課題である。

その原因の究明で必要なものは、やはり学力である。

一応、大学で電気を学んできたというだけでなく、学んだことを道具として原因解明に使えることである。

私は、昔、防火管理者とか危険物取扱者の免許をとった。

大量の重油を管理する責任者が必要になったからだ。

試験は、法律と理科の化学分野から出題される。

ガソリンを始めとする危険物を管理するには、それ相当の知識が必要で、現場においてその知識を活かすことができなければ、管理者としては意味がない。

この試験のための準備の時、私は、ガソリンが満タンのドラム缶より、空のドラム缶の方が危険だということを初めて知った。

それは、ただ知るだけでなく、根拠もわかるということが大切である。

時に、人を指導する時、根拠を説明しなければならない時もある。

学力は、生活に役立てるというだけでなく、犯罪に巻き込まれた時、無実を証明する必要があるような時、やはり根拠を示して説明する時にも必要だ。

逆に、犯人を確定する時にも、DNA鑑定が使われたりするように必要だ。

犯罪捜査に、科学的な学力を持つ人物が活躍するTV番組もある。

■国民の学力の向上が国を強くする

ある本で読んだのだが、日本に来た外人が、公園の掃除をしていたおばさんが、ベンチで休んで新聞を読んでいたのに驚いたというところがあった。

我々日本人にとっては、特に驚くことではないが、外人にとっては、自国では公園で掃除をしているような人が新聞を読めるほどの学力は持っていないので驚いたのである。

そういう意味では、日本国民は識字率が高い(国語の学力が高い)ということが、日本の国力を高めていると言えるだろう。

教育によって、国民の平均学力が高くなるということは、国を豊かにすることにも貢献する。

ということは、先生の学力が高くなることは、子どもの学力を上げることにもなると思うので、先生方は安定した職場に甘んじることなく、勉強に励んでほしいと思う。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 22:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年01月28日

体罰が厳しい指導ですか?

■指導を受けるのに甘い指導を望んでいる人はいますか?

私は厳しいと指導とは、誠実で熱のこもった指導と思っています。

それと、体罰による指導がイコールだとは思いません。

もし、指導するときに体罰をする先生がいるとして、それが熱心な先生なのだと思う人がいる限り、体罰はなくならないのではないかと思います。

今、体罰が問題になっていて、実際に体罰を行う先生の評判を生徒に聞くと「熱心に教えてくれた」という声があります。

それでは、これは誠実な指導と言えるでしょうか?

「熱心に教える」という言葉だけに注目すれば、それはよいことのように思えます。

■体罰先生はなぜ指導に熱心なのか

熱心に指導するということは、指導の結果、得られるものの期待が大きいからだと思います。

では、その「得られるもの」とは何でしょうか?

指導の相手が生徒であるなら、その得られるものとは「生徒のため」でなければならないと思います。

指導者に対して「あなたは、どうしてそんなに熱心に指導するのですか?」と質問した時、指導者はどう答えるでしょうか?

■誰のための指導なのか?

あるスポーツの有名校(何度も全国制覇している)をテレビ局が取材しているのを見たことがあります。

女性の指導者でした。

体罰の場面は映らなかったですが、記者が時には体罰のあることを知って

「愛のムチですか?」

と聞きました。

その先生は

「えっ、愛のムチ、そんなこと私はようしませんわ。腹が立って叩いています」

「愛のムチなんて、できる人・・・そんなことよくできますわ」

と言っていました。

これを聞いて、私は心に響くものを感じました。

体罰を容認するという意味ではありません。

これが、本音だと思ったからです。

そして、この先生に誠実さを感じたからです。

「なぜ体罰をするのですか」と聞かれて「愛のムチ」とか「指導の一環です」と答える人を、私は信用しません。

指導になぜ熱が入るのか、それは生徒のためにはなるでしょう。

しかし、生徒のためだけではありません。

指導者自身のためでもあるからです。

「生徒のため」と「指導者自身のため」と天秤にかけて、どちらが重いですか?

■指導者は迷いながら指導している

私も一応、指導者のうちですから、多分他の指導者もそうだろうと想像しての話です。
人の心の中は絶対にわかりませんから。知る人は神のみです。

何らかの競技に出る時は、勝ちたいと思います。

しかし、自分が勝ちたいと思って、生徒の方はどうかと考えます。

そして、生徒の様子をみたとき、生徒も同じ思いなのだと感じればホッとします。

でなければ、自分は、自分の名誉のために生徒をダシにするのかと、もう一人の自分が語りかけてきます。

■子どもに教えられたこと

子どもはやる気になると、その加熱状態を止めるのが大変になります。

私は吹奏楽を指導していますが(今は大人の団体の指導が多い)、中学校の指導をしていた時、生徒が帰宅してからも練習していることを知り、実態を知ったら夜中の3時半までやっていたので、それをやめさせるのに説得したことがあります。

部員は、下校してからもしばしば場所を借りて練習していったということを、外部の人からも聞きました。

夏休みの練習計画を子どもに作らせると、あまりにも多いので、私が削る立場でした。

3年生のクラス担任をしている時、2学期になってクラス対抗の運動競技がありました。

バレーの練習を見に行った時、運動能力の劣る生徒がいて、とても試合にならないと思っていました。

レシーブができなくて、すぐボールを落とす。

それを見ていて、正直、私は腹が立ってきました。それにしても、他の生徒たちは寛容だなあと思いました。

でも、みんなは怒らず「いいよ、がんばって」と声をかけていました。

まあ、早く試合が終わればいいと私は思っていましたが、なんと、それが優勝してしまったのです。

相手が弱かった?

そうではなく、見違えるほど強くなっていたのです。

信じられなかったですが、あとでわかりました。

彼らは相談して、早朝、投稿前に小学校の体育館を借りて、毎日練習してきたのです。

ここで私が教えられたことは、子どもは指導者の言うことは聞くが、もっと影響力の強い人がいるということです。

それは誰か?

自分たちの仲間なのです。

とても不器用だった子たちは、みんなや友だちに申し訳ないと思って、それこそ自分の持つものを全て出し切って練習したのです。

特に、中学生頃は先生や親より、友だちの関係、影響が強いのです。

自分の悩みも、友だちと相談します。

彼らをやる気にさせる最も強い力は、友だちや同級生なのです。

だから、先生に言われてでなく、逆に「先生に華を持たせよう」と心が一致した時、すごく頑張って、先生の喜ぶ顔を見て自分たちも喜ぶということもあります。

そういう意味では、大人が考えるより中学生はずっと大人なのかも知れません。

彼らは、もう親になっていますが、同窓会や同級会になると、あっけらかんとした態度で「先生」と言ってやってきます。

とても温もりを感じる時です。

■指導者はなぜ腹が立つのか考えてみよう

「生徒のため」「愛のムチ」という偽善的な言葉はやめてほしいと思います。

営業マンは自分の生活のために仕事をしていますが、現代は「自分、自分」だけでは顧客を獲得できません。

第一に顧客満足度という言葉が出てくるのが一流企業です。

これは、指導者や先生と言う立場でも同様、生徒満足度が第一だと思います。
これは、表面的に生徒の好むことをやって、迎合するということではありません。

営業マンも、顧客の表面的な喜びを追っているだけでは、成績は上がりません。

腹が立って生徒を殴りたくなった時、本当に「愛のムチ」と思って殴りますか?
自分の名誉のため、利益のためということはありませんか?

体罰を用いる人が、熱心な指導者と誤解されていることを利用していませんか?

強いチームを作っている指導者が、みんな体罰をしているんでしょうか?

チームの成績が、給料に反映するという高校があると聞いたことがあります。

もし、それが本当なら、指導者によっては家計のことが頭に浮かんでくることがあるのかも知れません。
ローンを心配している人もいるのかも知れません。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 16:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年01月27日

体罰常習化の弊害

■厳しい指導とは

高校でのクラブ活動の指導をしていると、各中学校から来た生徒がどういう指導を受けてきたが想像できることがあります。

今日、指導に体罰を用いることが問題になっていますが、体罰の指導がもたらす弊害を感じたことがあります。

それは、体罰による指導を受けてきた学校の出身生徒は、厳しい指導とは体罰による指導と思っている生徒がいることです。

そういう生徒の考え方は、クラブの指導がうまく行っていない時や問題がある時、指導者が体罰をしないと、指導が甘いと考えることです。

体罰を受けてきた生徒が、すべてそうであるとは言えないにしても、殴ったりして指導する先生が厳しい先生と考える風潮はあると思います。

厳しい練習をしないと勝てないという考え方は誤りではないと思います。

そして、勝ちたいから厳しい指導をしてほしいというのもよいと思います。

しかし、そのためには体罰を使わなければ、厳しい指導にならないという考えに結びついてしまうところに問題があると思います。

中高生の年齢では、まだ指導者に教わるところが多いのが普通です。

優れた指導者は、時間がどのくらいかかるかという程度の差はあれ、必ず高いレベルまでに引き上げる能力を持っています。

これは、生徒があるレベルまでに達した時、次は何をしようという引き出しを、たくさん持っているわけです。

生徒の方では、これで十分と思っても、次の引き出しから何かが出てくるので、そこに厳しさがあるわけです。

簡単に言えば、優れた指導者は高いレベルを知っているだけでなく、そのレベルまでに持っていく手立てを知っているわけです。

私のように吹奏楽を指導していると、演奏のレベルがどの程度客観的に評価できるかは大切なことです。

いわゆる「音楽」を教えてもらってきていると思われる生徒と、体罰による指導を受けてきている生徒では評価が違うことがあります。

生徒が音楽的に高い水準を持っていれば、指導者はバカにされます。
口に出して言わないまでも、心ではそう思っていると思います。

しかし、指導者の音楽的水準が高い場合は、生徒は納得し、尊敬されたりします。

具体的には、まず課題曲が的確に指揮ができるかどうか。

これは、初対面の学校に行った時、生徒たちが「なんだこのおっさんは」という目で見ていても、指揮をしてみた時、生徒たちが「これはすごい」と感じれば、すぐに態度が変わります。

指導している先生には、この私の言っていることがわかるはずです。
生徒の反応は、空気感でわかります。

これらは、体罰を中心としない経験を積んだ生徒たちの話です。

しかし、体罰が厳しさと頭にプリントされてしまっている生徒は、音楽的評価はともかく、たまには殴られるような体罰指導、あるいは怒鳴られる環境に満足するという傾向があるように思います。

こういう生徒たちによっては、それである程度の成績を収めてきた場合、体罰中心の指導がなくなると、厳しさがなくなって、勝てなくなるのではないかという不安があるのではないかと思うのです。

特に、勝つことの魅力に心が支配されてしまっていると、手段はどうあろうと、今まで勝ってきたというだけで、その高校に魅力を感じ、そこへ行きたいという心理があるのではということを考えてしまいます。

今回、話題になった高校については、私には内部のことは全くわかりません。
だから、勝手な想像で決めつけるようなことはできません。

私の経験から想像することを述べたまでですが、中高生の年頃では、環境(指導環境)がいいか悪いかに関係なく、その環境に慣れるということがあります。

これは、客観的に見て悪いと思われる環境でも慣れてしまうということです。

今日では、自分のことしか考えない利己的な人も多いと言われます。

今回の事件は、人がひとり死んでいるわけです。

そのことの重大さを、他の人がどのくらい考えているのかも問題です。

もし「とにかく、私はあの学校へ行って、将来、優勝仲間になりたい」という考えだけが先行するとしたら、怖い感じがします。

今日は橋本氏がテレビに出ていました。
私は橋下氏は暴走しているのかと思っていましたが、今日の橋下氏の話を聞くと、必ずしも感情的になっているだけではないような気がしました。

私も過去に問題のあった中学校に務めたことがあります。

教育長は英断をもって、3年で先生の総入れ替えをしました(1年目で2/3が代わりました)。
そうしたら、たちまち学校は平和で明るい学校になりました。

教育長は、あちこちの教育委員会や学校に行き、頭を下げてしかるべき先生を送ってほしいと頼みに回ったのです。

「今いる先生が変わると、在校生の気持ちがわかる先生がいなくなるので・・・」という生徒の声はどうでしょうか?

いい指導をする先生は、初対面の生徒たちの気持ちをすぐに汲み取り、やはり良い指導をするということを私は見てきています。
中高生の頃は、先生が変わることの不安はかなり大きいように思います。
だから、単純に「生徒の声を聞く」ということを「生徒の希望のようにする」のは危険を伴うと思います。

体罰指導の批判が多い中で、歴史的には体罰を中心にしてきた教育(スパルタ教育など)もあるので、体罰教育が一概に悪いとは言えないという人がいますが、これはとんでもない考えだと思います。

「過去にあったから可」という考えは、あまりにも考えが足りなく、問題外だと思います。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

posted by edlwiss at 23:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年01月27日

学力とは〜無責任発言をなくそう(5)

学力とは〜無責任発言をなくそう(4)で述べたように、学力は実生活で試される。

1個5円の物を8個買った時、九九を使って「5は40」と40円と合計金額を算出する。

これは、九九をマスターしているからできることであって、これも覚えたことを活用する技術、すなわちが学力があるからできることである。

前回(学力とは〜無責任発言をなくそう(4))で紹介した電気のことも、E=I・RP=I・Eという2つの式を覚えていて、かつそれらの式を活用できる学力があるから説明できることである。

電気関係に携わっている人にとっては、これは九九のようなもので「電圧が2倍になれば電流は1/2になる。それは電力ロスを1/4にする」ということは、ほぼ直感的にわかることである。

この例は、人によっては難しく感じるかも知れない。だが、この学習は中学までで終えていることである。

だから、中学は卒業したのにこのことがわからないという人は、この分野の学力を身につけてこなかったということになる。

中には、試験ではできたけれど、今、言われてもわからないという人もいるかも知れない。

試験ができると言うことと、学力があるということは、必ずしも同じとは言えないのだろう。

■学力は経済を向上させる

高校時代、数学の先生が「君たち、大学を卒業したらゴールじゃないんだよ。そこからがスタートなんだ」と言ったことを覚えている。

自動車産業は日本経済の牽引者と言われるが、それは、そこに多種の産業が関係しているからである。

自動車1台が売れることにより、鉄鋼メーカー、タイヤメーカー、・・・・とたくさんのメーカーが潤う。

また、それらは技術の集結とも言えるもので、技術の集結とは学力の集結とも言えるものである。

オーディオ界も同様、一時期は経済に大きく寄与した時期がある。
(現在も、一時期ほどではないが、経済を引っ張っている)

オーディオの競争は「いい音」の出る製品づくりの競争である。

いい音というのは、個人によっていい音の感じ方が違うことを考えれば、抽象的な言葉であるが、生の音に近い音を再生することが目標と言えばわかりやすいだろう。

生の音に近いということでHIFI(High Fidelity)という言葉が使われる。

私も子どもの頃からHIFIに関心を持ったが、子どもの小遣いでは高価なものは買えないので、スピーカーはユニットを買って箱は自作することにした。

始めはスピーカーの箱は、スピーカーから出る音を振動させて拡大させるものだと思っていた。

ところが、勉強するうちに、そうではなく箱は逆に振動しない方がよいということを知った。

音響工学という本を買って、勉強するうちに気がついたのだ。

アマチュアで振動を止めるために、箱をコンクリートで作った人がいる。

結果はよくなかった。

それは、一種類の材質で作ると、物質には必ず固有振動数というものがあるので、その振動数の時箱は共振してしまうのだ。

メーカーも箱の振動を止めることに努力しているが、それは科学的な研究で、大学でそういう研究をしてきた人材を求めている。

音響工学を勉強してきて、さらにそれを応用、発展できる人材が欲しいのである。

これは、音響工学に関する学力のある人を求めているということである。

近年、スピーカー作りに参入したメーカーがある。

このメーカーは、自動車の振動を抑えるために、そういう材質を研究してきたメーカーである。

だから、振動に関するたくさんのデータを持ち、研究者も抱えている。

taocbord.jpgこのメーカーの作る、スピーカーの下に敷く板は見た目は普通の板だが、制振技術が盛り込まれている。

このように、スピーカーの下に敷く一枚の板をとっても、そこには学力競争があると言える。

日本は昔から物づくりに強いと言われてきたが、それは日本人の学力の高さが反映してのことだと思う。

ここに、教育投資の意味もあり、特に加工貿易で付加価値の高い製品づくりで競争する日本にとっては、知識だけでなく、応用する力が大切である。

勉強は必ずしも、直接、産業に役立つことをことだけ学ぶものではないので、学校での勉強はすべて職業教育と結びつけるのは短絡的な考えである。

その意味では、産業に役立つかどうかだけで、研究の価値を判断してはいけない。

そういうことがよくわかっている企業では、自社の製品とは関係なさそうな部門を持っているところがある。

そういう会社は非常に強い会社のような気がする。

話は逸れたが、学校を卒業して会社に就職すれば、そこではまさに学力競争であると思うのである。

学校での成績がよかったとか、いい大学を出ているということに関係なく、いかに学んだことをもとに進化する人材が求められている。

それが学力が求められる時と言えそうだ。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 19:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年01月26日

学力とは〜無責任発言をなくそう(4)

■学力は実生活で試される

習った知識とそれを駆使する技術を合わせたものが、実生活の場で試される場合、どの程度学力がついたのかがわかる機会だと思います。

スポーツでも、コーチから指導を受け、それが試合という実践の場合で発揮されれば、力がついたとわかるのと同じです。

私は自分の生活から、命題に合うものを考えた時、オーディオが浮かびました。

オーディオは、私にとっては音楽を聴く手段であり、いわゆるオーディオマニアではありません。

しかし、オーディオマニアと言われる人たちと議論する機会もあります。

オーディオは今まで書いてきた(紹介してきた)電気理論をもとにして、アプローチできるものです。

■電気理論の基礎

電気回路を分析するのに使う、基本中の基本の式は、次の二つです。

電圧:E(V) 電流:I(A) 抵抗:R(Ω) 電力:P(W) とすると

E=R・I・・・・オームの法則(1)

P=I・E・・・・電力の定義(2)

となります。

(1)はオームの法則で、オームが発見した式です。

(2)は電力の定義です。

ともに、学習時には覚えるしかありません。
学習には、とにかく覚えるしかない事柄があります。

試験でできない者の中には、覚えるしかないことを覚えない者もいます。
この場合は、その先どうしようもありません。

スポーツをするにはルールを覚えないことには、試合ができないようなものです。

だから、学力には記憶が必須の場面がよく出てきます。

■200Vの優位性が理解できないオーディオマニア

私はブログでしばしば、200Vという値を出しています。
しかし、その優位性とは何だということには、言及しませんでした。

ここで言うオーディオマニアとは、オーディオマニア全員ということではありません。
「200Vの優位性が理解できないオーディオマニア」のことです。
(くどいようですが、国語が不得手で、修飾関係が理解できない人のためにあえて書きました)

あるマニアは自分で「私は学者です」と言っていました。

学者の意味を調べてみました。
1 学問の研究を仕事としている人。
2 学問のある人。豊富な知識のある人。
ことバンクより

彼は学問の研究の仕事はしていませんでしたから2の意味になるでしょう。

200Vの優位性とは100Vの電源より、電気エネルギーの伝達ロスが少ないという意味です。
(ここで言う電源は家庭用の50Hzもしくは60Hzの電源のことです)

私がこのように言うと、彼は200Vでも100Vでもどちらが優位ということはないと主張しました。

彼の説明によると、仮に電線の抵抗が3オームであり、そこに10Aの電流が流れたとすると、この抵抗による電圧ロス(Er)は

Er=R・I=3✕10=30(V)

となり、200Vで電源で10A流れた場合も、100Vの電源で10A流れた場合でも、電線の抵抗(3Ω)は変わりないから同じだというのです。

この結論は誤りです。

なぜかと言うと、オーディオはアンプがあり、それにスピーカーがつながれていて、スピーカーから音が出ます。

スピーカーはコーン紙で空気を振動させ音を発します。
つまり、スピーカーは電気エネルギーを、機械エネルギーに変換しているわけです。

電気エネルギーは電流だけでもなく、電圧だけでもありません。

式(2)の電力で表されるのです。

だから、最終的にスピーカーに送られる電気エネルギーは(2)の

P=I・E

で表されるのです。

従って、仮にスピーカーに10Wの電力(電気エネルギー)を送る場合、

100Vの電源ではP=I・Eより

10=I✕100 となり

I=0.1(A)となります。・・・・(3)

200Vの電源では、同じくP=I・Eより

10=I✕200となり

I=0.05(A)となります。・・・・(4)

すなわち、同じ10Wの電力(電気エネルギー)をスピーカーに送るためには、200Vの電源では、100Vの電源の場合の1/2になります。

同じ電力(電気エネルギー)を送るのに電流が1/2になるということは、

(1)のE=I・Rより電線の抵抗3Ωによる電圧ロスEr

100VではEr=0.1✕3=0.3(V)

200VではEr=0.05✕3=0.15(V)

電圧ロスも200Vの場合の1/2になります。

さらに、電力(電気エネルギー)のロスPrは(2)のP=I・Eより

100Vの場合はPr=0.1✕0.3=0.03(W)・・・・・・(5)

200Vの場合はPr=0.05✕0.15=0.0075(W)・・・・(6)

となります。

(5)と(6)を比べると、電圧が100Vから200Vになったことで、電力ロス(電気エネルギーのロス)は1/4になることがわかります。

100Vでも200Vでも変わりがないと言った彼は、(1)や(2)の式ぐらいは知っていると思いますが、この式を活用し、現実問題に活かすことができないと言えます。

これは、学力がついていないという例ではないかと思うのです。

■実験により確かめる

一応、理論はこういうことですが、実験により確認することも大切です。

osiro.jpgオシロスコープを使えば、目でも確認できますが、動力を使う機器では100Vと200Vの機器では、ずいぶんパワー感が違うことがわかります。

例えば、エアコンなどです。

オール電化では200Vを使用するということは、電力ロスが少なくなる(1/4になる)ということがありますが、電流が少なくて済むことで、電線の負担が減るということもあります。

オーディオでは音に力感が出るようになりますが、そのように聴こえるかどうかは、個人の聴力にもよります。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 22:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年01月26日

学力とは〜無責任発言をなくそう(3)

近年、エネルギー問題が大きな課題となっています。

そのエネルギーで最も関心の高いものが電気エネルギーです。

私たちの生活は、もう、電気なしでは生活できない状態になっています。

そこで、節電が大切になってきました。

このように大切な電気に関して、どのくらい知識や有効な活用の仕方が普及しているのでしょうか?

単純に電気を使わないという手段も大切ですが、有効利用ということも大切です。

それは、生きる力のひとつでもあり、ひとりひとりが電気そのものを知ることで、使い方を考えられることは学力と言えるのではないでしょうか?

しかし、大切な電気に囲まれているのに、その割に正しい知識は普及していないように思います。

子どもたちを賢い(電気の)消費者にするためにも、先生の役割は大切だと思います。

■間違った理解をしていないか

まず、学習指導要領の理科、電気に関するところを見てみます。
(3)電流とその利用
 電流回路についての観察,実験を通して,電流と電圧との関係及び電流の働
きについて理解させるとともに,日常生活や社会と関連付けて電流と磁界に
ついての初歩的な見方や考え方を養う。

ア 電流
(ア) 回路と電流・電圧
 回路をつくり,回路の電流や電圧を測定する実験を行い,回路の各
点を流れる電流や各部に加わる電圧についての規則性を見いだすこ
と。
(イ) 電流・電圧と抵抗
 金属線に加わる電圧と電流を測定する実験を行い,電圧と電流の関
係を見いだすとともに金属線には電気抵抗があることを見いだすこ
と。
(ウ) 電気とそのエネルギー
 電流によって熱や光などを発生させる実験を行い,電流から熱や光
などが取り出せること及び電力の違いによって発生する熱や光など
の量に違いがあることを見いだすこと。
(エ) 静電気と電流
 異なる物質同士をこすり合わせると静電気が起こり,帯電した物体
間では空間を隔てて力が働くこと及び静電気と電流は関係があるこ
とを見いだすこと。
イ 電流と磁界
(ア) 電流がつくる磁界
 磁石や電流による磁界の観察を行い,磁界を磁力線で表すことを理
解するとともに,コイルの回りに磁界ができることを知ること。
(イ) 磁界中の電流が受ける力
 磁石とコイルを用いた実験を行い,磁界中のコイルに電流を流すと
力が働くことを見いだすこと。
(ウ) 電磁誘導と発電
 磁石とコイルを用いた実験を行い,コイルや磁石を動かすことによ
り電流が得られることを見いだすとともに,直流と交流の違いを理
解すること。

これらを読むと、電気を学ぶ上で、文部科学省は特別なことを言っているわけではありません。
(学習指導要領は法律ではありません。このことについては、今回は言及しません)

数学は、問題解決の方法として、過程に間違いがなければその手段が否定されることはありません。

理論的に正しいアプローチならよいわけですから。

電気理論も同じく、理論さえ間違っていなければ、様々なアプローチが許されます。

それはマサーチューセッツ工科大学の教授の「白熱教室」のように、教授自身が50時間もかけて教材研究をし、興味深く電気の授業をやったように、先生たちに創意工夫がまかされています。

■相当に変な人たちもいる

電気のことを学ぶのに、教える人が正しい知識を持っていれば、学習指導要領に照らしあわせて間違っていることはないと言えるでしょう。

しかし、実際には相当におかしい知識を頭に固定している人がいます。

それは、過去に例としてあげた、20Wのスピーカーより30Wのスピーカーの方が、大きな音が出ると言っていた人(これは理科の先生でした)。

電線は細くしたほうが、水道の水の流れが速くなるように、電流も速くなると言った人。

「電熱線の太さににより発熱の違いがある」ということを学ぶ授業で、太い電熱線の方が熱くなると結果を出すべきなのに、実際は細い方が発熱が多い実験になってしまった小学校の授業。

などです。

■教える人がしっかりしていれば、子どもは育つ

これは、先生が電気理論をしっかり習得していれば、子どもたちが様々な実験をしても、危険を監視することもできるし、なぜ、それらの現象が起きるのかもわかるということです。

ある先生は、子どもたちが与えられた環境で自由に試す「教材の池」が必要だと言いました。
そういう池のない授業は「イケナイ授業」とも言われました。

理科嫌いが進んでいると言われますが、子どもは実験が好きで、その現象に興味を持つから関心も高くなるのだと思います。

しかし、実験で起こる現象を整然と整理できるだけの力を教師が持っていないと、子どもは何がなんだかわからなくなり、ストレスがたまり、嫌になっていくのではないでしょうか?

■電気回路の接続は、直列と並列しかない

denkikairo.jpgすごく簡単なことです。直列と並列しかないのです。

しかし、直列と並列の違いを理解していないから、変なことになるわけです。

また、基本的には、電気回路の要素は右図のように、電源負荷制御です。

これを具体的に、部品をあてはめた例は下の図のようになります。

denkikairo2.jpg電源=電池、負荷=電球、制御=スイッチ、というわけです。

電球のいろいろな接続を試すのは、電球の直列接続、並列接続をやっているわけです。

同様に、直列接続、並列接続は電源や制御にも考えられます。

こういうことは、電気を専門に学んできた人には、釈迦に説法というものですが、理科の先生と言えども電気をそんなに勉強したことがいるらしく、疑問な人もいます。

小学校の先生なら、全教科を教えることが対象になるせいか、電気に疎い人はさらに多いようです。
(もちろん、皆が皆そうだとは言いません)

気をつけなければいけないのは、オーディオなどの電気製品が好きな人が必ずしも正しい知識を持っているとも言えません。

例えば200V電源の有意さを説明してもわからない人がいます。

これは、電気理論の基礎・基本がわかっていなくて、印象だけで解決しようとするからだと思います。

-----------------------------------------------------------------------------


電気エネルギーの大切さがクローズアップそれてきた今日、教師自ら基礎・基本を正しく身につけ、自信をもつことが子どもを賢くするものと思います。

それは、子どもが理論を応用して、電気機器を正しく使う学力を高めるものと思います。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 10:39 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年01月25日

学力とは〜学力に必要なもの

computer.jpg図1のAは電卓の構造である。

テンキーで数字を入力する「入力」、入力された数値を計算する「演算」、演算結果を液晶で表示する「出力」の他に、入力された数値を一時的に記憶する「記憶」という4つの機能がある。

図1のAはコンピュータの構造で、Bの機能に加えて「制御」という機能がある。

コンピュータには5つの機能があって、これをコンピュータの5大機能と言っている。

電卓とコンピュータの違いは「制御」があるかないかである。

コンピュータにおける「記憶」には2つの領域に分かれていて、一方にはWindowsなどのOSやアプリケーションが格納され、もう一方にはデータが格納されている。

「制御」は「記憶」に格納されているOSやアプリケーションの指示に従って、必要に応じてデータも利用して命令を実行させるところである。

■コンピュータと人の脳との違い

コンピュータは別名、人工頭脳という呼び方もされる。

一般に出回っているパソコンは、この人工頭脳型のコンピュータで、予め教えられたことしか実行できない。

もし、人間が、教えられたことしかできないのであれば、この人工頭脳型のコンピュータと同じということになる。

コンピュータが教えられたことしかできない、という働きに不満を持った人たちの手によって、何から何まで教えなくても、コンピュータ自身が考えて仕事をするという、いわゆる知能を持ったコンピュータの構想が行われ、LISPとかPrologなどの人工知能型言語により人工知能型のコンピュータが考えられた。
日本はこの研究が盛んだと言われている。

watoson.jpg人工知能型のコンピュータとは、しばしば「ポチ」と「犬」の関係を持って説明するのだが、

(1)ポチは犬である
(2)犬はワンと鳴く

という二つのデータをコンピュータに記憶させる。

そして、コンピュータに質問する。

「ポチは何と鳴きますか」

と。

人工頭脳型では、ポチが何と鳴くか教えられていないので、答えられないのに対して、人工知能型では「ポチはワンと鳴きます」と答えてくる。

つまり、人工知能型では2つしかないデータより、推論ができて3つ目の「ポチはワンと鳴きます」と答えるのである。

これをみると、確かに知能的という感じがする。

ということは、このように与えられたデータしか答えられない、推論ができない人がいるとしたら、知能が働いていないのではないかとみることもできる。

■教育の必要性

人工知能型のコンピュータとして、今日有名なのはNHK「クローズアップ現代」で紹介された将棋ソフト「ボンクラーズ」は、故・米長邦雄永世棋聖に勝ったことで話題になった。

ここで大切なことは、コンピュータ自体はただの機械であり、それだけでは何の仕事もできない。
コンピュータという機械(ハードウエア)に「ボンクラーズ」という将棋ソフト(ソフトウエア)が入力されたから、コンピュータが仕事をするようになったということである。

これは、教育に似ている。

コンピュータに将棋を教えた(教育した)わけである。

では、何を教えるか(教育するか)が大切になってくるが、それは手順(やり方)とデータである。

人工知能型コンピュータは、与えられた手順とデータをもとに自己増殖する。

このことは、どんなに優秀なコンピュータ(機械)でも、何の手順もデータも教えられなかったら、機能しないということである。

だから、何を教えるかということが重要になってくる。

教えるものの質を検討しなければならない。

教えたものが、ジャックと豆の木のように、自立して自己増殖していくことを期待して教えることが大切になってくると思うのである。

■教えられたものをもとに自己増殖していく力が学力ではないか

2001.jpg2001年宇宙の旅という映画では、HALというコンピュータが人間の口の動きで、人が何を言っているのか読みとっているという場面があった。

HALはそれまでに教育されたプログラム、データにより学力を得て進化していたのだ。

学力は暗記力ではない。

暗記力は、文字通り暗記するだけの力である。

しかし、暗記力によって手順やデータを記憶していなければ、知能を発揮して利口になっていくことはできない。

その意味では暗記力は大切で、暗記力のテストと学力のテストは意図的に区別して作る必要があると思うのである。

だから、テストの妥当性を評価する場合、暗記力のテストそのものを否定するものではない。

最近、性能のよくなったカーナビゲータも、記憶されているデータ量が多くなったことで進化した面がある。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 20:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年01月25日

学力とは〜無責任発言をなくそう(2)

tasikanagakuryoku.jpg■思考停止

盗難事件があって、捜査中の話です。

「これをやったやつは誰なんだ!」

「わかっております」

「そうか、誰なんだ」

「やったやつは犯人です」

・・・これは、笑いを誘う話し、つまりコメディーです。

私たちが現実に話をする場合は、これでは困ります。

しかし、このコメディーのレベルで話が終わっている人をたまにみかけます。

毎日コメディーをやっているのならいいのですが、それでは仕事になりません。

だから、エラそうなことを言うが、このレベルにとどまっている人は、仕事仲間になりませんから、村八分になります。

大きな会社へ行くと、みんな忙しそうにしているのに、隅でひとり碁を打っている人を見ることがあります。

社長ではありません。平(ヒラ)なのですが、戦力外の人です。

相手にすると、ごたくだけを並べてうるさいだけで、何も進まないので相手にしないわけです。

■実践には具体化が必要

何事も実践するには具体化が必要です。

だから、具体化の話ができない人は実践のない人です

掲示板やブログはある意味、便利なもので、偽装することができます。

Yahooの掲示板で、自分は音楽のプロデューサーで、CDの制作、発売に関与しているという人が出てきました。

この段階では、読者は「そうかなあ(?!)」と、信じる人、信じない人いろいろでしょう。

しかし、具体的な話ができない人は実践していないという観点から、質問をしてみると、本物か偽物かわかってしまいます。

「どういうマイクをお使いですか?」

なんて聞いてみて、返事があるかどうかです。

それは、録音の現場で定番のマイクがあるからです。

■生きる力

文部科学省は「これからの変化の激しい社会を生き抜くために」とか「学校を出たあとも生涯学び続けていく上で」という言葉を用いて生きる力を育てると言っています。

しかし、それでは実践の上では具体的にどうするのかということは明示していません。

これは、美味しい料理を作れと言ってレシピを示していないようなものです。

料理番組ではただ料理を紹介するのではなく、レシピも紹介しています。

レシピを紹介できるのは、紹介している人が実践しているからです。

NHKの「ためしてガッテン」も、ただ問題提起をしているだけでなく、どうすべきかを具体的に示しているから人気があると言えます。
また、視聴者を納得させるだけの裏付けとして、実践をしているとも言えます。

同じくNHKの白熱教室「MIT白熱教室(マサチューセッツ工科大学)」は「電気とは何か」を名物教授が実験を通して学生たちに説明していました。
非常にわかりやすく、しかも生活と密接した実験でした。
工夫された実験、ユーモアのある実験でともするとかたくなりがちの電気を、わかりやすく説明していまし
た。
教授は46年在職し、この日の講義のためには50時間の準備をしたということでした。

私たちは「どうしたら食欲がすすみますか」との質問に「美味しい料理を作ることです」としか返事のない人を信用できるでしょうか?

子どものために「美味しい料理を作れ」と言っているのが文部科学省で、現場の先生にはレシピを作ること、そのための具体的な研究が任されていると言えます。

■レシピの研究

よいレシピを作るためには、理論、実践が必要です。

よほど変なことをしない限り、いちいち、文部科学省の指導要領はどうなっているかを気にする必要はありません。

それは、文部科学省は大筋を示し、実践は現場に任せているからです。

体育において、安全に注意すること、体力づくりにすることは当たり前で、それが時代背景により考慮すべきことも当たり前です。

「格闘技では怪我に注意」と言った時、それは柔道には関係ないことと考える人が、今日ではいます。

「柔道と格闘技と何の関係があるんですか?」と真剣にいう人がいるのです。

いつから、人の思考構造はこうなったのかと呆れてしまいます。
要するに非常に狭いものの考え方しかできない人に、しばしば遭遇します。

前置きが長くなりましたが、先の記事学力とは〜無責任発言をなくそうに引き続き考えてみたいと思います。

heitetsu_chokuretu.jpg右の図のように、並列、直列を考えました。

学校で並列、直列を習っただけではいけません。

それが、実生活で生きる力となるようにしなければいけません。

私たちが比例の考えを身につけ、買い物に行った時「この方が割安なのだ」とわかるようにです。

20Wの電球と60Wの電球をBのように直列につなぐと、20Wの電球の方が明るくなるというのは、電気回路の基礎がわかっている人には、簡単なことです。

電球はW数だけ示しても意味がないということです。

私たちの生活の中で、20Wの電球というのは100V(AC)の電圧に接続することを前提にしています。

つまり、100Vの条件で20Wということで意味があるわけです。

消費電力:P(W) 電流:I(A) 電圧:E(V) とすると、

P=I・E(W)・・・・(1)

という関係があります。

また、オームの法則より、抵抗:R(Ω) 電流:I(A) 電圧:E(V) とすると、

E=R・I(V)・・・・(2)

となります。

(1)と(2)より、

R=(E・E)/P(Ω)・・・(3)

となり、(E・E)=100✕100=10000 ですから、(3)は

R=10000/P

となり、Pの大きな方が抵抗は大きいということがわかります。

すなわち、通常、市販されている電球はW数の小さい電球の方が、抵抗値は大きいということがわかります。

ということは図のBの直列回路では、60Wの電球より20Wの電球の方が、抵抗値が大きいので、電圧は抵抗の大きい方にたくさんかかるので、20Wの電球の方が消費電力が大きくなって明るくなるわけです。

こういうことが、電気回路の基礎により理解できるわけです。

しかし、日常生活において、電気機器を直列につなぐということはあるのでしょうか?

ふつうはないと言えるでしょう。

■工作の好きな子どもたち

最近は、プラモデルも組み立てるものは、子どもが買わないそうです。

買っていくのは大人が多いと聞きました。

しかも、団塊と言われる人たちが多いようです。

何かと話題になる団塊の世代ですが、ここで言う子どもとは、団塊の世代が子どもだった時と、考えた方がよいかも知れません。

その頃は、工作の好きな少年がたくさんいました。

工作の時、困ったことの一つに、ハンダ付けをするとハンダごてが加熱してきて黒くなってしまうことでした。

ハンダごてにかかる電圧を下げればよいのでが、スライダックという電圧を変化させる機械は高価で買えません。

そこで、考えられたのが、電球をハンダごてに直列につなぐ方法です。

そういうハンダこて台を作って、工作に利用していた人は多いと思います。

団塊は貧しかったですから、廃品を利用したりして頭を使ったものです。

それで、知識が高まった面もあります。

■200Vの優位性

オール電化の家では、調理の器具が200V仕様になっています。

オール電化の家でなくても、200V機器を使うことがあります。

私の家でも、最近、エアコンを入れ替えて200V仕様のものにしました。

200Vの方が、無駄なく電気エネルギーを伝達できるわけです。

私は200Vのエアコンを買う前に、コンセントを確認しました。

そうしたら100V仕様になっていたので、ブレーカーを見て、エアコンの回路は別になっていること、3線式で電力会社から電気が供給されていることを確認し、家電店に行きました。

そして、交渉するときに、100Vを200V仕様に変更する工事も含めての値段で交渉しました。

その結果、その変更の工事はサービスしてくれることになりました。

知人が、ある工作機械を使うのに、やはり200Vに変更する必要がありました。

どこか工事をやってくれるところはと、電話帳を探して聞いたところ、工事代が5万円と言われたそうです。

私が「いくらなんでも高すぎるだろう」と言ったら「いくらぐらいが妥当か」と聞かれたので「せいぜい、1万円5千円ぐらいまで」と答えました。

結果、あるところで5千円でやってくれたそうです。

たとえ、5千円でも買うときに交渉してサービスしてもらったというのは、これも生きる力ではないでしょうか?

文部科学省は
子どもたちが生涯を通じて自ら考える力を育むためには,知識や技能に加えて,学ぶ意欲や思考力,判断力,表現力なども含めた[確かな学力]が必要です。
と言っています。
教師は、文部科学省の言葉を「上からの命令」と思うのではなく、子どもたちが将来にわたって幸福で豊かな生活を営むことができるようなガイドラインを示しているのだということを理解し、実践にあたるべきと思うのです。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 14:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年01月24日

汚い文

damebunsho.jpg音楽関係者が集まった時、指揮者の話が出た。

「あいつの棒汚いんだよ。汚い棒、振るんだ」

と言った人がいる。

指揮者はひとり一派と教わった。

基本はあるが、それ以外は、指揮はこうするのだというものはないということだ。

そういうせいもあってか、指揮をする姿を見ると、ひとりひとり個性がある。

指揮は音楽に合わせた振りつけをするものではなく、指揮が先で演奏はそれを見て音が出てくるものだ。

音の出だしを明示したり、拍子を明らかにしたり、音楽の表情を表すものである。

そうして、指揮者の意図する音楽を作っていく。

そういう機能は大切だが、その指揮の姿から演奏者が受ける印象がある。

「棒が汚い」とは、そういう「指揮の姿」が汚いというわけだ。

指揮の姿が汚いと、出てくる音も汚くなる。

汚い音を要求する指揮者はいないと思うが、その指揮の姿が汚いというのは、その人に染みついた個性のようなもので、いかんともしがたいものがあるようだ。

■汚い指揮があるように、汚い文もある

指揮が、指揮者の意図する音楽を奏者に伝えるものなら、文章も自分の意図を人に伝えるものと言えよう。

文章も伝えるべき内容が正しく書かれていることは大切であるが、やはり汚いと感じる文章もある。

文章を読んで「そりゃそうなんだが」と感じても、文章全体の印象が汚いものは、読んでも嫌味が残る。

かっこうつけたってどうしたって、その人の人間性というか、人柄のようなものが、文章からは感じ取れる。

教師も文章を書くことの多い職業である。

学校新聞、学年通信、学級通信、その他、なかなか書くことは多い。

そのたくさんの文章を読んでいる人は、内容を読み取ると同時に、人柄も読み取っていると言える。

そう言えば、私が中学校で学年主任をしている時、生徒の自殺未遂事件疑惑が起こったことがある。

死者は出なかったが、生徒が自宅でガスを吸って自殺をはかったとの連絡があった。

今日の自殺事件と同様、親からは学校不信の態度があらわになった。

しかし、この事件は平和に、ことなきをえて解決した。

その解決の大きな力となったのは、親が学校不信で怒って悪口を言っている時、当該の生徒が

「ぼくたちの先生は、そんな先生じゃない」

と言ったことからだ。

親は意表をつかれた思いで、生徒に聞いたところ、生徒は日頃から学年通信をよく読んでいて、その学年通信から「ぼくたちの先生は、生徒たちのことをよく考えていてくれる」と感じていたということだった。

親のほうから、学校へお詫びの言葉があった。
真相は、トイレにあった「まぜるな」と書いた掃除の液体を、生徒が興味本位で混ぜてみたところ、ガスが出て大騒ぎになったということ。騒ぎになったので、つい真相を言い損ねたということだった。

先生たちは、学年通信にそんなこと書いたかなあという思いで、調べてみたが、わざわざ生徒思いの気持ちを書いたという覚えはない。

結局、文章から受ける印象というものがあって、心にもないことをあえて書こうとしても、温かみ、冷たさ、思いやり等々の本音は伝わってしまうものだと思ったわけである。

事件が起きて、都合の悪いことがあって隠そうとしても「噂は千里を走ると言うように」たちまち学年の生徒たちに広がり、何も知らないフリをしていても、先生たちの対応に関心を持っている。
「都合の悪いことは隠す」という疑いが晴れた時点で、雰囲気はすぐに変わる。そういうことは、先生たちは肌で感じていた。
学年中がかえって明るくなったことで、まさに「雨降って地固まる」であった。
本人も登校して、クラスのみんなに謝ったことで、冗談のような出来事だったという笑いもあった。

たくさんの文章とと言えば、ブログもたくさんの文章である。

やはり、汚い文、さわやかな文、温かい文、見栄を感じる文、どこかいじけた文、等々感じるものがある。

汚い文を公開し続ければ、おのずと、汚いものを見たと感じる人は増え、それは公害を撒き続けているようなものだろう。

自分がそういう発信者でないように心がけたいものだ。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 23:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年01月23日

学力とは〜無責任発言をなくそう

学力という言葉はよく使われるが、学力をどういう意味で使っているのかがはっきりしない意見をみかける。

意見を言う前に、意見の中で使う用語がはっきりしないというのは、無責任である。

学力があるとかないとか、ごたくを並べる前に「それでは、あなたの言う学力とは何ですか」と聞きたい。

dochiraga.jpgさて、ここで以前投稿した、思い込みが頭を固くするで示した図を再びとりあげてみる。

右の図で、20Wの電球が60Wの電球より、なぜ明るいのだろうか?

裏側の配線がどうなっているか、書ける人はどのくらいいるのだろうか?

60Wの電球のほうが20Wの電球より明るいにきまっとるじゃないか、バカなことを言うな、という人はW数の大きな電球のほうが明るいと(丸)暗記しているだけで、思考は伴っていない。

「W数の大きな電球は明るい」と覚えただけでは、単なる暗記に過ぎない。

知識を暗記しているということは大切だが、それだけでは学力があるとは、私は思わない。

だから、60Wの電球の方が20Wの電球より明るいと答えて、○をもらって得点になったというだけでは、学力テストにはならないと思う。

私の考えでは、暗記力プラスアルファーがなくては、学力があるとは言えないということだ。

それではBの20Wの方が60Wの方より明るいという配線がわかって、回路が書けたら学力があると言えるのか?

heitetsu_chokuretu.jpgまずは、一応、解答を示しておこう。

右の図で示したように、Aは並列回路で、Bは直列回路である。

ここで、並列、直列という言葉が出てくると、解答がわからなかった人でも「そういえば、並列、直列は習ったことがあるなあ」と思った人もいるだろう。

並列や直列という言葉は知っていた、覚えていたというだけでは、先の20Wの電球の方が60Wの電球より明るいという回路の正解を出すのには何の役にも立たない。

ここで言えることは、何らかのテストで、直列、並列という言葉を丸暗記していて「()の中に、適切な用語を書き入れなさい」という問題で、直列または並列という言葉を書き入れたら、点数がもらえたというのは、暗記力は試されたものの、直列や並列の意味を理解していたかどうかはわからない。

だから、そういうテストを作って「実力テスト」と命名するとしたら、異論があるというか、私は実力テイストとは認めない。

つまり、テストは、果たしてこれで実力がわかるのだろうかと疑問に思えるものでも、実力テストになってしまうというおかしな現象も起こりかねない。テストの一人歩きだ。

今回の例では、具体的に、直列、並列という言葉を回答できないとしても、回路によっては20Wの電球の方が60Wの電球より明るくなるという回路図が書けた者の方が、学力があると私は思うのである。

この直列、並列は小学校で出てくる。

乾電池と豆球で誰もが実験したはずである。

さて、それが暗記だけでなく、実際に応用できるように身についているだろうか?

身についた人は、学力を身につけたと言えるように思う。

それでは、なぜBでは20Wの電球の方が60Wの電球より明るいのだろう?

これに答えられたら、実力テストをパスした。つまり、直列、並列に関して実力を身につけたと言ってよいように思う。

ということは、答えられない場合は「単にそんなことを習ったなあ」という程度で通過しただけで、実力はつかなかったと言うことになる。

ということで、私の考えでは、暗記力プラスアルファーとは、覚えた知識を駆使して応用できることであり、そういう力が学力という用語にふさわしいと思うのである。

抽象の羅列で、なにかごたくを並べて、文字数だけ稼いで人を煙に巻くようなことをやっている人は、スカンクのガスかイカの墨のように、追及されては困るという姿をを呈しているように見えてしまうのである。

しかし、自分なりにでも、学力を一応定義して語る人には、誠意を感じる。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 22:39 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年01月21日

殴りたいから殴った〜ただそれだけ

指導中に殴るのは、感情的に殴りたかったから殴っただけでしょう。

違うというなら、正当性を証明してください。

「愛のムチ」ってあるんでしょうか?

愛情があるから殴る?

では、愛情があるから傷を負わせる?

軽い程度ならいい?

体罰の問題は、程度の問題ではないですね。

軽くても、なぜ殴るかの根拠、正当性が問題なんです。

指導の手段を考えた時、それが最も良い手段なのかということ。

■あくまでも教育という視点で考えること

体罰が指導の手段として正当性があるというなら、体罰を含めた指導案を作ってください。

研究会をやってください。

そして、体罰に反対する人たちを納得させる結果を出してください。

■体罰を使わなくてもいい指導のできる人はいる

体罰を肉体に与える衝撃の程度で論じようとすると、おかしなことになる。

どの程度の衝撃の程度ならよいという理屈は成り立たない。

例えば、ボクシングというスポーツは、いかに相手に与えるダメージが強くなるかという方向で鍛えているわけで、パンチの強い選手は優秀な選手ということになる。

いくら、パンチが強いからと言っても、それが体罰ということにはならない。

問題は「体罰」という「罰」である。

つまり、罰として殴るなどの行為をすることが問題なのである。

罰の意味は、ことバンクによると次のようになる。
ばつ【罰 punishment】
罰には,社会的規範にそむいた者に対して法的制裁を加える刑罰と,倫理的・宗教的規範を犯した者に加えられる超越的な制裁(天罰,神罰,仏罰)の2種がある。前者の刑罰については古くから,犯罪に対する応報的な刑罰と,犯罪の発生を予防するための抑止的な刑罰の2種の考え方があったが,罰として科せられる不快・苦痛の度合にもその考えにもとづいて軽重の差が設けられた。しかし原始社会では,法と宗教が未分化であったため,共同体の規範やタブーを犯した者は,神の怒りを鎮(しず)めるために罰せられた。

罰には刑罰というものがあり、それは刑事訴訟法により、判決により罰が決められたものである。

だから、法令違反により課せられる罰には正当性がある。

しかし、そういう刑事罰であっても、死刑意外は身体に苦痛を与える罰は存在しない。

たとえ、罪を償うために刑務所にいる人に対してでも、身体に危害を加える(例えば殴る)などのことをすれば、傷害罪の可能性がある。

つまり、罰を与えるとしても、身体に触れるようなことを罰として行うことは、傷害罪の可能性があると言える。

罰というのは、簡単に言えば「おしおき」である。

場合により「おしおき」のすべてがいけないわけではないが、身体に触れて、衝撃などを持って、おしおきをするのは、ただちに傷害罪で告訴することができる。

簡単に言えば、我が国では、いかなる理由があろうと、他人の身体に危害を加えることは認められていない。

殴るなどの行為は犯罪である。

だから、体罰も犯罪だから、体罰があったなら直ちに告訴すべき。
(診断書をとっておくとよい)

■試合に負けたからとか、ミスをしたとかの理由で罰を課すこと自体間違い

試合には勝ち負けがある。
負けたからダメという理由は何もない。

負けるという経験も、教育的見地からは大切なことである。

勝負をするということは、相手を負かそうと努力することであり、ミスを誘おうとするのも作戦であったりする。

ということで、試合の負けやミスを理由で「おしおき」をするのは、全く教育的ではない。

負けたりミスをしたからと言って、罰を課したいと思うのは、指導者の個人的な利己的な感覚である。

■指導者の指導方法自体が教えでもある

目的を遂行するために、どのように工夫するかということは、指導者と指導される者が共に協力して行うことである。

その方法において、体罰を使うということは、体罰そのものを手段として教えているということになる。

「先生は日頃、もっともなことを言っているが、本当は体罰を使って指導しなければ、目的は達せられないのだ」

と教えているようなものである。

これは、見えない所では、違法もかまわないと教えているようなものである。

本音と建前が違うと、人は暗くなる。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 20:32 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年01月21日

思い込みが頭を固くする

先生と言われるようになっても、研究熱心な人がいる。
こういう人をお手本にしたいと思っている。

人生というのは、交友関係によって左右されるとも言える。

類は友を呼ぶというように、趣味が同じ人、好みが同じような人との交流が増える。

交流を通じて、自分も絶えず成長したいものだと思う。

どこまでも、レベルアップを考えている人がいるかと思うと、そうでない人もいる。

自分が頂上に上り詰めたと思っているのか、プライドは高いが、思考がストップしているというか、もう打ち止めという感じの人もいる。

ある大学を退職した先生は、オーディオに興味があるらしく、個人のオーディオ論を展開していた。

それはそれでいいことだと思うのだが、その先生の言うには

オーディオには臨界価格というものがあって、お金のかけかたも、これ以上お金をかけてもそれほどはグレードアップはしないという価格帯がある。
ということだった。

そして、その臨界価格というのが、CDプレーヤー、アンプ、スピーカーのそれぞれの価格が10万円であるという意見だった。

つまり、それぞれ10万円ということは、スピーカーは2台だから、総計40万円ということになる。

そして、ご自身もこの考えに基づいて、ご自分のシステムを披露していたが、アンプだけ予算を上回ったと言われ、それはタイムリーに安く買えたからという話だった。

ということで、この方のシステムの合計金額は、639,000円(定価)だった。

これはこれで、ご自身の意見としてはそれでいいと思う。

しかし、世の中の人がみな40万円という臨界価格と言うものに納得するかどうかということである。

eas-10th1000.JPGここで、話は少し変わるが、私はこの先生のまじめ(?)な姿勢に敬意をはらって、私自身の思うところを、次のように投稿した。

人間の耳の高域の限界聴力は20KHzということになっていますが、私が試したところでは、その限界を上回るスーパーツィーター(超高域を再生するスピーカー:上限150KHz)を追加したところ、全体の音が明瞭になり、低音までもよくなりました。

私はこの(大)先生のご意見を拝聴しようと思っていたところ、次のような返事をもらった。

あなたの意見は、個人的な思い込みによるもので、客観的な根拠(データ)のない価値の無いものです。
と、このように一蹴されてしまった。

しかし、この先生の「およそ40万円かければ、それ以上はさほど向上しない」という臨界価格説というのは「個人的な思い込み」ではないのか?
しかも、客観的なデータもないのでは?

と私は思ったが、それより、この先生は私の質問にご機嫌を損ねたようだ。

40万円以上お金をかけても、あまり変わらないよといえるシステムに、自分は639,000円もかけたんだということが言いたかったようだ。

つまり「私は一応、今のオーディオとしては最高の部類のシステムを持っている」ということを言いたかったのだろう。

■上には上がある

外国映画をみていたら、趣味の話で、友人に「オーディオ?あれはやめとけ、果てしなく金をつぎ込むことになる」と言っているところがあった。

確かに、昨年、ショーでみたシステムのTAD(Technical Audio Devices:パイオニアの高級ブランド)は、CDプレーヤー、アンプ、スピーカーを合わせて、およそ1,800万円ぐらいだった。

値段だけを言えば、これが高い方ではない。スイスのメーカーのものは、アンプだけで2,000万円を超えていた。

だから、出てくる音はどうなのかと言うと、確かにお金はかけるほどいいとも言えない。

しかし、TADの1,800万円は確かにすばらしい音で、40万円のシステムとでは段違いである。

クラシック・ギターのソロを聴くと、本当に、静けさに包まれた澄み切った空気の空間に歪み感の全く感じられない、耳に心地よい音が聴こえる。

(大)先生の言う、臨界価格というのは個人によって違うのだ。

だから、それも個人の主観(思い込み)というべきで、何の科学的データもない。

オーディオは電気回路を中心とした物理であり、理論的なものが支配すると思うが、最終的には個人の感覚に問うものなので、個人の率直な感想も大切にすべきと思うのである。

■思い込みで思考停止する

オーディオの世界は、もとが物理でも神話のようなものが存在する。そして、権威のような人が存在し、その人が教祖様のようになっている場合もある。

例えば、スピーカーのケーブルは細めの方がいいという人がいた(これは、かつて話題にした)。
理由は、水道のホースのように水の出口を絞ると、出口が狭くなって水流が速くなると同じように、電流も速くなって、音のスピード感が増すというのである。

私は、本当に音のスピードが速く聴こえるの?と疑問に思った。

だって、ケーブルは細くすれば抵抗が増える(抵抗はケーブルの断面積に反比例する)ので、電気回路の公式を適用すれば、かえって電流のスピードは落ちるはずである。

細いケーブルの音の方が好きだというのなら、何も異論はないが、細いケーブルの方が電流が速くなるというのは理論的にあり得ない。

このような、間違いが起こるのは理論の未消化、思い込みで思考が停止しているからだと思う。

■もう一歩先を考えよう

dochiraga.jpg右の図を参照していただきたい。

板の上に20W、60Wの電球を配置したA、Bの実験装置がある。

「20Wと60Wの電球では、どちらが明るいか?」

と質問すれば、大抵の人は60Wの方が明るいと答えるであろう。

ところが、右の図のように20Wの方が明るい場合があると言った時、即座に答えられる人は、ただ知識を暗記している(思い込み)だけでなく、論理的な思考、つまり「もう一歩先」が考えられる人で、こういうのが学力のある例だと思うのである。

「60Wの方が明るいに決まっているじゃないか」

で終わっている人は、そこで思考停止しているわけで、ただの暗記(思い込み)を言っているだけだろう。

こういう例を出したのは、教師たるもの、時には自分の思考を確認して、思考停止していないかということである(常々自問自答していることである)。

(こんな初歩的なことを例に出すな!と、お叱りの人には失礼します)

だから、5WH1H、この場合はWhy(なぜ)が必要だと思うのだが。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 16:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年01月20日

演説より具体的な一歩

方法そのものを考えさせるために、あえて教えないということもあるが、教えられる方がスランプに陥っている場合、苦手意識を持っているような場合は、抽象的な、演説とも思われるようなことを言うのは、不親切と思う。
特に、精神論をくどくど言うのは、ますます事態を悪化させるように思う。

ある家庭教師はテストをやらせて採点し、その結果を記録し、間違えた問題の模範解答を漫然と、ノートに清書させるということをやっていた。

そして「○○さん、あなたは□□のところができていませんね」と言うだけであった。

そういう結果を親にも報告するだけだった。

親は子どもに「あなた、見てみなさい○○のところがわかっていないでしょう」と言っていた。

子どもは萎縮するだけだった。

できないのは事実だから、子どもの方は何の反論もできなかった。

信じられないことだったが、家庭教師派遣センターから来ているある家庭教師はこんな風だった。

私はそれを知って、子どもがかわいそうに思えた。

相当な期間経っても、いっこうに成績は上がらないし、子どもは、申し訳ないという気持ちでいっぱいだったようである。

見るに見かねて、私が「よろしかったら」と親に許可を得てめんどうをみることにした。

■子どもが学習したこと

それまでの家庭教師との長い間、子どもは何を学習したのかと言うと「自分ができないのは、頭が悪いからだ。申し訳ない」ということだった。

何日も何日もテストをを繰り返し、そのたびに、できないところを確認するだけで、親からは「できていないでしょう」を言われてきた結果身についたのは自信喪失だけだったろう。

私がみた、子どもの問題は、子どもが「できないこと、わからないことは恥ずかしいことだ」と思っていることだった。

だから、説明しても「わかりません」となかなか言えない。

「できない、わからないは恥ずかしいことじゃないんだよ」

と言って、どんなことでも、わからない場合は「わかりません」と言えるようにすることが、まず第一の課題だった。

だから「こんなことがわからないの」とか「こんな成績で」というのは禁句だ。

■具体的に何をしたらいいか第一歩を教える

できないと、いろいろ精神的な問題もあるが、それらのことより「では、具体的に何をしたらよいのか」を示すことである。

例えば「次の公式5つを、この次には書けるようにしなさい」と言うように。

5つが負担のようだったら1つでもよい。

そして、それができていたら褒めてやる。

「よくできたね。こういうにやればいいのだよ」

と。

はじめの一歩が、遅々としたものであっても、それを完全にやった。認められたということで、子どもは自信を持つようになる。

精神的に追い詰めるようなことを、決してしてはならない。

約束通り、公式が書けるようになったら(暗記できたら)、その公式を使えば必ずできる問題を解かせてみる。

その子どものレベルに合った問題を作ってやる方が望ましい(これが新の意味の個別指導だと思う)。

子どもの指導にかぎらず、対話において、問題を克服するには「では、具体的な第一歩はどうするか」を言わない人がいる。

これは、問題の本質が分析できていないからかも知れない。

楽器の指導でも同じだ。

トランペットがうまく吹けない場合、トランペット特有の性質を知らないと、悪いことの指摘はできても解決方法を具体的に指示することができない。

ピアノでは簡単に弾けることでも、トランペットには難しいことがある。

例えば、ムソルグスキー/ラベル編曲の「展覧会の絵」は冒頭のトランペットのソロは、プロでも難しくプレッシャーのかかるところだ。
ピアノで弾けば何でもないのだが。

あのベルリンフィルでさえ失敗している。
(下の演奏はライブ演奏で、3分ぐらい経ったところでカラヤンが登場し、演奏が始まる)



教えるということは、具体的に第一歩が言えることであり、それができたら二歩目、三歩目の計画がプログラム学習のように、指導者の頭にあることだと思う。

「そこが下手だねえ」と言うのではなく「『ド〜ソ』のリップスラーを練習しなさい」と具体的に指示し、こういう指導者の課題を確実に行ったか確認することが大切だと思う。

そのことにより、子どもには「言われたことは確実にやらなければならない」という意識が芽生える。
殴る必要はない。

問題を解決するということは、科目は違っても方法としては共通したものがあると思う。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 23:22 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年01月19日

課外授業

kyousi_sahou.jpg部活動は課外といいますが、それでも校内の活動です。

世の中、情報がたくさん錯綜することになって、児童生徒も今日では学校で得た情報だけに影響されるという比率は少なくなっていると思います。

特に、インターネットの影響は大きいと思います。

私もつい最近、eラーニングにより単位をとりました。

eラーニングにより資格をとれるものもありますし、卒業できる学校もあります。
(一部、スクーリングを必要とする場合もあります)

■学校の授業がすべてではない

学校は伝統的に、教室での授業という形をとっていますが、児童生徒からすると、それだけで情報が完結しているわけではありません。
情報のあふれている今日では特にそう言えます。

だから「先生の授業で言っていたこと、違っていましたよ」なんてこともあり得るわけです。

たとえ、教科書に載っていたことでも、訂正しなければいけない可能性もあります。

だから、学校の教師は常に情報に敏感でなければいけないと言うか、一度資格をとって赴任したからと言って、十年一日のごとく変わらなかったら、陳腐化してしまいます。
教師自体錆びついて、輝きを失ってしまいます。

人は年をとるに連れ、変わります、

その変わり方には個人差があります。

以前述べたように、一度資格を取ったからと言って、そのまま何もしなければ、20歳を過ぎる頃から頭は退化し、ある調査のデータを借りれば、6歳の子どもと60歳の大人が同じぐらいだということになります。

学校を卒業し、社会人となり自由が増えれば、個人によって何を選択して生きていくかで、知能も身体も個人差が出ることになります。

だから、立派な学歴を持っている人が、テレビでコメンテーターとして登場して、バカなことを言っている場合があります。

男の顔は履歴書と言いますが、顔を見るとなるほどと納得がいくことが多いと感じています。
(女性も顔は履歴書だと思います。芥川賞の黒田夏子さん(75)は、実に立派な、魅力的な顔と感じます)

「原発の安全強化のために金を使うと、発電コストが火力発電より高くなってしまう(だから、原発の安全にはあまり金をかけられない)」と言った学者(?:もはや学者とは思えない)も、どこか抜けたバカ面に見えました。

自分の生活が原発推進派の方からカネをもらっている生活だから、何が大切なのか優先順位もわからなくなってしまったのでしょう。欲得に負けてしまって、バカ化したのだろうと思います。

原稿用紙1枚書いてもらったら、500万円の謝礼がいただけるとなったら、そちらになびいてしまう人も、何人かはいるような気がします。

そう見てくると、学問をする。試験勉強をする。難関の試験を突破したとしても、人間は、最終的にはその人の人格によって結論が出るのではと思います。

裁判官も例外ではありません。

小学校の時、裁判官は中立でなければいけないので、身分が保証されているし、給料も多いと習いました。

先生の、その説明に納得しました。

しかし、大人になるにつれ、そう信じていたことにグラつきを感じるようになりました。

実態は、裁判官も人の子、結局、裁判官自身の経歴、欲得に左右されています。

裁判官がビール券を配っていたということもありました。

女性の裁判官がウラでなにがしを受け取り、ホストクラブに通っていたという情報もありました。

そんな現状で、簡単に死刑判決を出してしまうというのは、恐ろしいことです。

正常な感覚の人から見ると、自分の判断によって、人ひとりが死んでしまうのは大変だから、相当慎重に判断を下すのだろうと思うのでしょうが、人は肩書きを得て、次第にその肩書の階段を上がっていくと、正常な人の感情というものがマヒしてしまうように思います。

だから、今日話題の生徒自殺事件も、教育のトップにある人の人間的な感情を、私は信用していません。
子どもを亡くした、両親の心の痛みをどのくらい察することができるのか、はなはだ疑問に思っています。

制度として、日本は責任をとるというシステムに欠陥があるのも問題と感じています。

裁判官が誤って死刑判決を出した。つまり誤審により死刑判決を出したということがあっても、何のペナルティもありません。

死刑制度がしばしば話題になりますが、死刑制度存続云々より、責任をとるという制度を確立してもらいたいものだと思います。

例えば、誤審により人を死刑にしてしまった場合は、裁判官も責任をとって死刑とか。

体罰により生徒が自殺をしたことが明らかならば、責任者である校長、教育委員会は責任をとるべきです。

日本のしくみがおかしいと思うのは、本来、責任をとるべきなのに、逆に出世しているという現象を見ることです。
今回の事件も「その後」に注視していきたいと思います。

■ブログ、ホームページも課外授業

話がだいぶ脱線してしまいましたが、今日ではブログやホームページが活況を呈し、学校の先生でブログを書いている人も多いようです。

学校の先生のブログ(ホームページ)も、課外授業なのだと私は思っています。

学校という限られた空間では、その人の本当の姿は見えにくいとも言えるでしょう。

しかし、一旦、学校を離れた場合の行動や発言では、本音や本当の姿を知ることができる場合があります。

ブログは匿名で発表しても、いずれかは自分の周りの関係者には知れてしまいます。

私も実名は出していませんが、ブログ名はペンネームのようなものと考えています。
事実、私の周りの人は知っていて、私自身はそういう人たちも含めて、日頃、なかなか話ができない人たちにも発信しているつもりです。

児童生徒、保護者にしてみれば、その先生のブログ(ホームページ)により、より深く先生のことを知り、良い結果としては誤解を解いたりすることもあるでしょうが、よくない場合は、学校とは違う二重人格性を感じることになるかも知れません。

一つ、間違いなく言えることは、その先生の作文力、国語力は明らかになってしまうことで、これは国語の先生に限らず、国語がすべての教科の基本であるということを考えた時、いいか悪いかの手本になってしまうことです。

また、作文というのは、国語を操るという技術的な能力だけでなく、作文に載せる内容というのは、その人の人格や交遊、知識、考え方が現れるものですから、教師たるものブログは率先垂範と捉えて、心すべきものと思います。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 14:26 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育問題

2013年01月19日

声が小さいと怒鳴るのは情けない

ある小学校の先生から、レコードをCDに変換してほしいと頼まれたことがある。

そのレコードは17cmのシングル盤で、校歌の合唱と伴奏が録音されていたものである。

聴いて見たところ、その合唱のすばらしさに驚いた。

この小学校は、合唱部があって、歌の好きな先生が指導して録音したものだった。

このレコードを作った当時は、各クラスに配布して、校歌を覚えさせるために使ったらしい。

その後はどのようにして利用していたのかは聞かなかったが、校歌自体も有名な作曲家の作曲で、その作品の素晴らしさと合唱部のうまさが相まって、市販されているような合唱曲集に入れてもいいようなものだった。

それで、ぜひデジタル化してCD-Rにするだけでなく、通常のCDにして全クラスに配布しようという提案があった。

ところが「合唱部だけの録音をというのは」という、否定的な意見が校長から出された。

理解ある人たちは、校長の言うのももっともということで、実現は不可能かと感じていた。

すると、ある人から、全校のクラスの歌を録音し、それも合わせてCD化してはという意見が出た。

この意見に、校長も納得し、全校(全クラス)の合唱(斉唱)を録音する計画を立てることになった。

何日かにわたって、録音計画に従って各クラスの歌の収録が始まった。

そこで、驚いたのが1年生から6年生まで、みな上手だったことだ。

子どもたちは、積極的に声を出していた。

しかし、それは、ただ自分だけが頑張ってというのではなく、まとまりのある歌声だった。

上級生になるに従い、やはり学年が上がると違うなというものになっていた。

■どうして全校がこんなに歌えるのか?

調べていくうちに、昔、歌の好きな、指導の上手な先生が赴任してから、この伝統は作られていったものとわかった。

転勤で先生が異動するときも、この伝統が失われないようにと、人事は配慮したらしい。

また、この小学校に転任するということは、歌の好きな先生にとっても嬉しいことであっただろうし、伝統を絶やさないという責任感もあったように思った。

こうして、この全校が歌のうまいという伝統は続いている。

子どもたちにとっても、地域の人たちにとっても誇りになっているようだ。

■「声が小さい」という指導はありか?

結論を言うと、指導の上手な先生が、子どもたちに向かって「声が小さい」と怒鳴っているところを、私は見たことがない。

先生の指導によって、自然に子どもは歌うことに積極的になっていくのだ。

指導のうまい教師は、自身は歌が好きなのはもちろん、子どもに歌うことを好きにする。

子どもは歌が好きになって、歌うことに自信が持てるようになれば、歌いたくなるので、声は自然に出るようになる。

音楽を演奏することの本質は、ただ自分勝手に大声を出すことではない。

他人、周りの音を感じながらバランスをとり、和音が響くことの快適さを感じ取り、感動とともに演奏をすることだ。

■人前で演奏することは勇気が要る

人前で歌うこと、楽器を演奏することは、プロでも何らかのプレッシャーを感じることである。

果たして演奏がうまくいくかどうかは、常に不安が伴う。

しかし、その不安を乗り越えて音を出せるのは、技術的な自信と音楽そのものの持つ魅力の力だ。

つまり、人は自信を持ち、魅力を感ずればそれを行いたいと思うのである。

私は市の職員のバンド(吹奏楽団)、つまり公務員のバンドの指導に行くのだが、市の予算の関係でメンバーは仕事を兼務している。

経験者ばかりで構成されているわけではなく、初心者もいる。

彼らにとって演奏するということは、辞令一つで任じられる仕事である。

これは、任意のクラブ活動と違って、嫌なら辞めるということはできない。
どうしても辞めたいということなら、職を辞するしかない。

ということは、好きでやっているとは限らないし、腕に自信がなければ、不安は強い。

だから、うまく演奏できていないところは、あえて聴こえないふりもする。

そして、どうしたら、そこがうまくいくかを考え、そのような練習をする。

できるようになれば、自然に音は出るようになる。

それは、指導していて、音の迫ってくるのを身を持って感じることである。

ミスをしたり、技術の劣るところをさらけ出し、恥をかかせるようなことをすれば、かえって萎縮してしまう。

■音(声)が出ないのは、指導者の未熟と心得るべし

これは、自分にいいきかせていることである。

だから「声が小さい」なんて怒鳴ることは、指導者自らの未熟を語っているようなものだと思う。

指揮者というのは、考えようによっては気楽なものである。

棒を振ることぐらいは、大した訓練を必要としない。

「指揮者って必要なのですか?」という人がいるが、指揮者はなくても演奏はできる。

優れた演奏団体の場合は、指揮者がいい加減と感じると、団体の中のリーダーを中心にして演奏をしてしまう。

学級で言えば、担任があてにならないと思えば、学級委員を中心にして学級が動いて行くようなものである。

練習の時、指揮者がいい加減だと、演奏者は特に文句は言わないが、その結果はステージに現れる。

偉そうなことばかり言っているのに、指揮はいい加減ということになると、本番のステージでは指揮を見ていると不安になるので、必然的に演奏者の気持ちは萎縮して音は出なくなる。

しかし、指揮者に信頼があると、演奏者たちは本番では最高の力を出したいと思うので、指揮を見てのびのびと音を出す。

プロの場合、あのベルリンフィルでは、指揮者を信頼しないと、コンサートマスターを中心に演奏をすると言われている。

■子どもは歌いたがっている

子どもは、本来、歌いたいのである。

しかし、どうしたら歌えるようになるか、歌うことの楽しさを教えてもらえない段階では、不安で萎縮してしまう。

無理強いをすると、かえって歌が嫌いになってしまう。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 00:08 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年01月16日

音楽は対話である

classic.jpg音楽が対話だというのは、特にコンサートで感じることである。

今日、CDを始めとした録音が数多く出ているが、演奏家が録音を商品として出す場合、スタジオ録音とライブ録音では演奏に違いが出る。

大指揮者、ロリン・マゼールはその差が大きい指揮者だと言う人もいる。

多かれ少なかれ、演奏に際して聴衆がいるといないとでは、気持ちの入り方が違ってくる言える。

やはり、大指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンは間違いなく歴史的な指揮者であるが、評論家の中には、10人の名指揮者(大指揮者)の中に入れない人もいる。

その理由は「カラヤンはその日のコンサートで、聴衆の期待している空気を読み取り、聴衆の期待する演奏をする。これは、職人芸であり芸術ではない」というもの。

なかなか厳しい見方をする人もいるものだと思う。

しかし、カラヤンはベルリンフィルから終身指揮者の地位を得たのだから、気に入られ方は相当なものだった。

kokorono.jpg今日、夫婦でもみな終身、気に入られる人ばかりではないだろう。

教師も「終身教師」と言われる人がいたら素晴らしい。

それはそうと、私も、飽きもせず下手な演奏をしている。

そんな演奏でも、毎月、演奏の機会がある。

もちろん、大勢で押しかけるのではなく、このところはほとんどソロ(独奏)である。

私はソロは好きである。

それは、それだけの自負があるということではなく、いいも悪いもすべて自己責任というところである。
自負
自分の才能・知識・業績などに自信と誇りを持つこと。
goo辞書

私が呼ばれるのは、偉い先生の講演会があって、そのアトラクションでということが多い。
たまには、コンサートがあって出演者の1人ということもある。
その時でも、たいていはソロで、時に数人での臨時的なアンサンブルの一員という形である。

ソロは、前回投稿した記事の虎の威を借る狐にはなりたくないの意味では、絶対に虎の威を借ることはできないところがいいところである。

なぜ、そう虎の威にこだわるのかと言うと、簡単に言えば、未熟だから少しでも進歩したいという気持ちがあるということである。

とにかく、上手い人は世の中にゴマンといる。
演奏を聴いては感心し、自分も上手くなって、人を感動させらるように・・・と常々思っているのだ。

その姿勢も、年をとるにつれ変わってきたところがある。

それは、昔から上手い人の演奏はさんざん聴いてきたのだが、上手い演奏を聴くと、それが目標になりそのように演奏するという、いわば「マネ」になっていたという反省。

マネも絵画で言う模写のように意味がないわけではないが、それだけだとだんだん虚しくなってきたというところが正直なところである。

奇をてらって、自分独特のという気持ちはない。
流れに逆らわず、自然にというのが基本で、その中に自分がいるということである。

もっとも、マネをすると言っても、マネはしきれるものではない。

だから、どうしても自分らしさというか個性は出ているのだが、一生懸命コピーしていますでは、本番のコンサートでは虚しいと思うのである。

■演奏は聴衆との対話

目の前に聴衆がいて、自分が演奏するということは、常に自分の出した音を聴衆がどう受け止めるかを感じながら継続するということである。

だから、聴衆の質(聴衆の質がいいとか悪いという話ではない)によって、自分の演奏も左右される。

集中力の高い聴衆の場合、演奏者もより真剣になる。

聴衆は黙っているが、演奏者は聴衆の質を常に感じる。

歴史的な大ピアニスト、ウラジミール・ホロヴィッツは現役中に突然、演奏活動を止めてしまったことがある。
18年後に再開したが、これには、音楽関係者、放送局等の相当な苦労があったようである。

ホロヴィッツは会場での聴衆の質に、かなり神経質になっていた。

そのため、プロデュースする側は、コンサートの前にあらかじめ聴衆を集めて、聴くためのリハーサルをやった。

また、ホロヴィッツは聴衆のプログラムをめくる音を嫌ったので、プログラムは音のしない特別の紙で作った。

テレビ放送のカメラマンの履物も、音のしない材質で作ったものを用意した。

さらに、放送局にはコマーシャルを入れないようにという要求をした。

このようにして、ホロヴィッツのコンサートは実現した。

わがままと言えば、そうなんだが、偉大な人はその要求を飲ませる力を持っているとも言える。

また、大芸術家の芸術を活かすためには、そういう気配りが大切ということも心得ておかなければならないと思う。

これは、音楽家としてはスーパースターの話だが、もっと身近な、気軽なコンサートと言えども、今日では驚くほど気配りがなくなっている。

これは、音楽でなくても、それだけ人間が雑になってきているとも思える。

演奏者のレベルが高くないから、気を使わなくてもよいというものでもない。

まだピアノ教室に通いだして間もない子どもの演奏時にも、一人前の演奏家として配慮してあげることは大切である。

私の演奏の時は、講演会のアトラクションが多いと言ったが、そのため聴衆は大人で、中年以上がほとんどである。

そういうこともあって、聴衆はとても熱心に聴いてくれる。

そのあとは、ほとんど食事会で、聴いてくれた人とテーブルを囲んで雑談をする。
そこで、演奏の感想を言ってくれるので、参考になる。
演奏の感想だけでなく、社会のこと、日常生活のこと話が多義にわたり、世間知らずの私には参考になる場でもある。

私は聴く人が専門家に限らず、一般の社会生活を営んでいる人の、率直な感想を大切にしたいと思っている。

演奏する側は、演奏という媒体を通じて、聴衆にメッセージを送っているのであり、これは、人間が持ついくつかのコミニュケーションの手段の一つと思っている。

このことは、音楽に関係のある人にはわかることだと思う。

だから、歴史的に見ても、ソ連時代には、作曲家が政府の意向に合っていないなどの理由で弾圧されたことがある。
ショスタコーヴィチの作品には、そういう当局の目を気にしながら創作活動を続けた様子が現れている。

歴史を学ぶということは、単に史実だけを追っているのであれば、片手落ちであろう。

だから、歴史を学ぶには、その時代の芸術をも知る必要がある。
ここで言う芸術とは、もちろん音楽には限らない。

ヒトラーは絵描きになりたかったのだが、挫折してからあのような道に走ったことはよく知られている。
自身、絵にはコンプレックスがあったためか、芸術的には価値のない絵を描く人を優遇し、逆に本物の芸術家を弾圧したことが、記録からうかがえる。

このような、人間の心情は、ヒトラーだけの特別なものではなく、身近に生活している人の中にも感じられることがある。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

2013年01月15日

虎の威を借る狐にはなりたくない

人の振り見て我が振り直せとはよく親に言われた言葉である。

人を見て、みっともないと思ったことは、自分はするなと言われたわけである。

また、昔の話になるが、一般団体のメンバーになってコンクールに出て全国一になったことがある。

正直、あまり感動はなかったように思う。

それは、全国一位というのが栄光だと言うなら、私はその栄光にどれほど寄与したのだろうと思ったからだ。

もしかしたら、私が参加したことにより、かえって音を濁した方が多いのではないかとも考えてしまうのだ。

団体で競技に参加していると、私はそう思ってしまう。

別にそんなことはどうでもいいじゃないか、と思う人がいるかも知れない。

そう、そんなにこだわることでもないかも知れない。

でも、結果がいい時は何も問題はないが、よくない時、メンバーの中に「変なの」がいると、結果のよくない原因を自分以外の責任にする者がいたりする。

また、そういう者に限って、寄与率は低いのだが、それが人情というものなのか。

先輩の中で、吹奏楽の好きな人がいて、大学時代、ずいぶん熱心に活動していた人がいた。

大学時代の活動の苦労は、技術などを磨く苦労の他に、人間関係の苦労がある。

リーダーの立場にいた人は、人をまとめていくのに相当な苦労をしていると思う。

しかし、その苦労が先生になった時に生きてくる。

だから、そういう人が中学校の先生になったりして、顧問になると、コンクールの競争相手としては手強い。

その先輩は、高校に赴任していった。

吹奏楽部は、あるかないかわからないような部だった。

「これから始まるな」

と思っていたら、コンクールに出場した。

興味を持って演奏を聴いた。結果は最下位だった。

もちろん、そんなことでへこたれるような先輩ではない。
そこからがライバル校としては恐ろしいのである。

だが、最下位の先輩の高校は、生徒たちがショックを受けて反省するかと思ったら、偶然にも

「私たち、指揮者がダメだからいい賞がとれない」

という言葉が聞こえてきた。

なにもないところから始めるのは、こんなものだ。

その後、先輩はすばらしい団体に育てたが、第三者的な立場で見ていた私には(いや他の人もそうだろうが)、間違いなく先輩の力がそうしたのだということがわかる。

しかし、当事者の先輩は「オレが」なんてことは、ひとことも言わない。

優れた指導者はそうなのだろう。

それより、みっともないのは、自分は何も関係ないのに、たまたまその学校にいたというだけで、まるで自分の功績のように言う人がいる。

もちろん「当校は、このほど・・・でして」と自慢するのは、自分も喜びを分かち合っているということでいいと思うのだが、中には、自分が何かやった、自分が強くなったかのように言う人がいる。

こういうのは虎の威を借る狐なのだろう。

虎の威を借るより、オマエの実践を紹介しろよと言いたいのだが、そういう人に限って実践の紹介を見たことがない。

こんな風に書いてくると、目くじらを立てているように思われるかもしれないが、はじめに言ったように「みっともない」と思うので、自分は間違ってもしないように戒めているということだ。

だから、演奏は、大勢で責任の所在がわからないようなところに、いつまでもくっついているより、独立したやり方で行こうと考えた。

はじめに、オーケストラのメンバーの中で、その気がありそうな人を誘って、一人一パートのアンサンブル団体を作った。

例えば、野球は9人でプレーするのだが、その9人の中でポジションが重複することはない。

一人が、誰にも頼らない責任ある立場にいるわけである。

アンサンブルなら、木管五重奏なら、フルート、オーボエ、クラリネット、バスーン、ホルンと5人がみな違う責任を負っている。

この活動は快適である。
性格の違う楽器同士が、それぞれ個性を生かせる。

個性を活かすべきところは、各々の個性を活かすのだが、誰かが自己主張をしている時、つまり主役の時は、他の物は主役が生きるようにサポートにまわる。

その立場は瞬時に代わったりするが、互いにそういう機転をきかせてこそ、アンサンブルが成り立つ。

実は、これは社会そのものの仕組みと同じではないか?

だから、私は上手い下手を問わず、みんな何か楽器を持ってアンサンブルをすることを勧めたいのである。

アメリカが吹奏楽を正課に取り入れたのは、教育的効果が高い理由からだったと、実際にアメリカの先生から聞いたことがある。

アメリカでは商店街の店主は、みな何かの楽器ができるという。

そして、それが役所に届けてあって、何か行事があると、その時間に都合がつく人を、役所はピックアップしてバンドを作るという。

話は変わるが、知人で、無理をしてベンツの新車を買った奴がいる。

別に、それは個人の自由だが、ベンツを買った途端に彼の態度は大きくなった。

同乗させてもらうと、明らかに「俺様が行く」という感じで態度がでかい。

ベンツを買ったからって、自分が変わるわけじゃない。
そうだ、彼は自分がベンツになってしまったのだ。

これも、あまり格好のよいものではない。
ベンツの力を借りている。つまり、虎の威を借る狐と似たようなものだ。

虎の威を借る狐と似たものに人のふんどしで相撲をとるというのがある。

どちらも嫌だ。みっともない。

というわけで、結果はどうあろうとも、自分でやる人、実践を紹介してくれるひとが、内容はとわず偉いと思うのである。

まとまりのない文で失礼しました。





にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
posted by edlwiss at 18:36 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。