2013年02月28日

そういう柳本元監督の指導はどうだった?


柳本晶一氏自身の過去の指導に、体罰疑惑が出ているが、もしそれが事実としたら氏はどう指導するのか?


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2013年02月28日

体罰はなぜなくならないか

■体罰が指導の手段となっている人

taibatsuhahitsuyou.jpgこういう人は、体罰をやめたら侍が刀をとられたようなものと同じだ。

体罰なしでは指導ができないのでやめられない。

いまさら「体罰はやめます」とも言えない状況。
(今まで体罰でやってきた手前、子どもにバカにされたくないというメンツがある)

■建前だと思っている人

体罰はいけないということになっているが、それは建前だけで、たまたま表面化したのが悪いと思っている人。

「体罰なしで指導ができる」というのは、理想主義者の言葉だという哲学を持っている人。

現に体罰否定なら教育はできぬ伊吹文明衆議院議長が発言しているぐらいだから、これは、もう国のお墨付きをもらったようなものだ。
伊吹文明氏は元文部科学大臣でもあった。

■気が短い人

すぐカッとなりやすい人。

相手が子どもだから、力で御せると考えているのかも知れない。

相手が子どもだからというのは、子どもなら体罰は不可ということだから、弱い者いじめを教えているようなものだ。

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体罰指導という状況が深刻化する前に「今まで体罰をやってきたが、悪かった。これからは体罰をやめる」と宣言した方がよいと思う。

それが勇気ある決断と言えるし、その方が子どもから、かえって信頼を得ることになると思う。

そうしないと、体罰の内部告発も増えるだろうし、泥沼化することになるような気がする。

与党の議員、こともあろうに衆議院議長から体罰を認める発言があり、これを問題視しない内閣は、本気で体罰をなくす気がないと考えられてもしかたがない。

体罰が表面化した人は運が悪い、との考えがはびこるだけだ。





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2013年02月27日

家族いっしょに食事をする大切さ

共働き家庭が多くて、家族が一緒に食事を取る機会がないかと言うと、そうでもない。

そうしようと思えばできるのに、家族がそれぞれバラバラに食事を取るという家庭があるのには驚いた。

私は実際にそういう家庭を訪問したことがある。

食事はそれぞれが必要なときに勝手にとればいい、それが合理的だという考えも成り立つかも知れない。

riyunaki.jpgしかし、そういう家庭を見ると、何か不自然な気がする。

そういう家庭では、それが習慣になっているので、家族は不自然に感じないのかも知れない。

私は不自然さを感じると共に、何か子どもが不機嫌というか明るさがないような気がする。

親は家計の責任を持ち、必要な物は買い与え、小遣いも与え何不も不自由をさせていないと思っているのかも知れないが、こういうことが続くと子どもは理由なき不満を持つような気がする。

理由なき反抗
という映画があったが、そんなようなものかも知れない。

ある母親に「なぜ朝食を作らないんですか?」と言ったら「だって、作っても食べないんだもの」と言った。

私は「それでも作って、家族一緒に食べるようにしてください」と言ったのだが、その後どうなったのかまでは確認していない。

■人と人が会食することは大切

子どもは遠足に行っても、友だちと一緒に弁当を食べることを楽しみにしている。

食事は、ただ空腹を満たせばよいというものではなく、人と人のコミニュケーションとして大切なものだ。

知人や友人から電話がある時「どう、今日、ランチでも」というのはよくある。

特に何か用事があるわけでなくても、疎遠になっているから会いたいということだけということもある。

いや、意外にそういうのは多いような気がする。

子どもは、家庭で一緒に食事をしなくても、特に何かを言うことはないかも知れない。

子どもが何か変だと感じたら、家族が一緒に食事をする。一家団欒がないのではと調べてみるといいかも知れない。

私はうまく言えないが、家族が一緒に食事をすることの大切さはネットにも資料がある。

家族と一緒の食事「ほとんど毎日」が大幅増…内閣府調査

「食を共にすること」に関する現状

アメリカの子供達にとっての家族一緒の食事の大切さ





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2013年02月26日

2013年02月26日

二極化する家電

家電は大規模な店舗が増えて、そこに行けば全ての家電製品が並んでいるようにも見える。

特に、かつては隆盛を極めたオーディオ関係の製品、アナログ・レコードのプレーヤーは姿を見せない。

ごく稀に並んでいることもあって、もの珍しさでたまに買う人がいるのではと思うぐらいである。

ところが、それは大きな間違いで、オーディオ製品はアナログも含めて、ある所では元気な存在である。

最近ではレコードを見たことがない。レコード針(カートリッジ)など手に入らないと思っている人もいるようだが、そんなことはない。

カートリッジ(レコード針をつけて、レコードの音溝から音声信号を取り出すもの)の名門は、オランダのortofon(オルトフォン)は健在である。

ということは、アナログ・レコードも人気があるし、その生産も伸びている。昨年、日本では42万枚売れたそうである。

世界的な統計では、ニールセンの調査でアメリカのアナログレコードのアルバム売上枚数は、2008年で188万枚、2009年は250万枚、2010年は280万枚、2011年は380万枚と年々増加傾向にある。

image01.jpg


もちろん、レコードを再生するプレーヤーも生産されている。

先ほど述べたように、家電店で稀に並べられているものを見ることもあるが、それらはだいたい数万円程度である。

しかし、アナログ・レコードのフアンが買うものはそのレベルではない。

数十万円〜300万円程度である。数年前、1200万円のプレーヤーを出した会社があるが、発売間もなく第一ロットは完売したと言うから、10台はかなり早く売れたということだろう。

オーディオセットもミニコンポが並んでいて、今はこういう時代かと思えそうだが、それは家電店しか行かない人だけの知識である。

昔からオーディオメーカーとして有名なパイオニアはどうしたのだろう?

ご心配には及ばず、しっかりしたオーディオシステムを作っている。

下の動画はTAD(Technical Audio Devices)のCDプレーヤー、アンプ、スピーカーを組み合わせたものである。金額を合計すると、約1800万円ぐらいになる。
※ TADはパイオニアの高級プランド



昔は家電店でも、店の一角にこういうものを並べている店があった。

最近はそういうことがなくなったので、アナログやオーディオは衰退したと思っている人もいるかも知れないが、そうではない。

一般の生活家電は平均的な家庭の購買力をターゲットにしているだけで、価格を問題にしない昔からのオーディオ好きな人の人数はいるのである。

自分の目に見えないから、存在しないとの判断は時に誤るということを示してくれるよい例かも知れない。





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2013年02月25日

体罰は心の傷を大きくする

・・・・・
輝かしい勝利の空想だけが、自分を救ってくれるのです。

 誇大感に満ちた空想は現実感を失わせてゆきます。たとえば、本当は自分が他人に嫉妬しているのに、他人が自分に嫉妬していると思ったりします。他人から批判されると、あれは私に嫉妬しているからだとなります。こういう詭弁によって立場を逆転させるのです。

 なにがなんでも自分が優位に立たなければなりません。自分が劣っていることを認めることは、幼いころの痛々しいくらいに哀れで惨めな自分に結びついてしまいます。ですからどんな卑怯な手段を使ってでも、どんなにつじつまの合わない妄想であろうと、自分を守るためにしがみつかざるを得ません。・・・

 他人から侮辱されたと思い込んだりした場合、自分を守るために、非常に激しく怒ったりします。あまりにも自己中心的な怒り方なのですが、本人は必死です。

 妄想の種になるようなものがないときは、他人の欠点を捜し出して見下したりします。ありとあらゆる理由をつけて他人を見下します。貧乏人の癖に、不細工な顔をしているくせに、頭が悪いくせに……。実際にどうであるかということよりも、とにかく見下すことができればそれでいいのです。

 他人を見下すということは、ときには他人からの報復攻撃として、自分が陥れられるかもしれないという疑いを生み、非常に疑い深くなったりします。他人に心を開くことなく、自分の妄想の殻の中に閉じこもってしまいます。

 こういったことは様々な不都合を生みますが、利点としては自我の崩壊を防ぐことができるということです。もし、妄想が崩れたら一気に鬱状態になったり、あるいはパニックになったりしますが、少なくとも妄想にしがみついていられる間はこのような悲惨な状態にはなりません。

 しかし、現実というものがひたひたと足元に忍び寄ってきます。砂の城は波によって崩されていきます。妄想という砂の城を維持するためには、現実の脅威に対して妄想を補強し続けなければなりません。やがて、妄想が維持できなくなったとき、悲惨な現実にうちのめされてしまうのです。
これは、自己愛性人格障害とはなにか からの参照です。(専門家による記述です)

今日、体罰が問題になっていますが、幼い時に受けた心の傷が解消されず、そのまま大人になると、このようになる場合があるという説明でもあります。

人格障害という診断は思春期ころまでは、まず下されないということです。

それは、思春期ころまでは人格形成期だからです。

jinkakukeisei.jpg


幼少期に心の傷を受けると、学齢期になり小学校に入学してから問題行動を起こす恐れがあります。

本来、子どもは天真爛漫で明るいものですが、それが何かとひねくれている。わざわざ嫌われるようなことをする。あるいはいじめの元凶となって先生を困らせる。

それで、先生からは注意を受けることになる。

iaishu.jpg注意を聞かないと、体罰を受けるということで、体罰を受けやすい状況になりやすいと言えます。

教師は、本来、手を焼く子どもにこそ不自然と感じ、手を差しのべるべきだと思います。

また、手を焼く子どもをうまく育ててこそ、教育のプロと言えるのではないでしょうか?

教師を困らせる子どもの指導は体罰と考えている人はいないでしょうか?

まさに鉄は熱いうちに打てと言うように、思春期を過ぎて人格が固まってしまう前に、手をほどこすべきでしょう。

島秋人は悲しいことに、そういう教師(大人)に恵まれず死刑囚になってしまったのではないでしょうか?

死刑囚になって、死刑を待つ身になってから、小学校時代の図工の時間に、先生から「構図がよい」と褒められたことを思い出し、その先生に手紙を出し始めてから、彼の才能は開花したのです。

残念ながら死刑執行後に遺愛集 (東京美術選書)として発刊されたのです。





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2013年02月23日

自己愛と人格障害

自己愛は誰もが持っている普通の感覚である。

それが歪んだ形で現れると、自己愛性人格障害となる。

詳しくは専門家の解説を参照のこと・・・自己愛性人格障害とはなにか

人格障害は、生育歴に問題があると愛情の連鎖にて説明したが、歪んだ性格は対人関係を悪くするので、集団の中では孤立しやすい。

教師からも「いやなやつ」という見方をされる可能性があるので、体罰を受けやすいとも言える。

「なぜ体罰をするのか」の問に対して「説諭でも聞かない場合」と答える教師が多いようだ。

これは、体罰の原因になることを示していると言えよう。

一種の病気なのだという理解を示す人は、そうはいないだろうから、人格障害(自己愛性人格障害)が満足に愛情を得られなかったことに起因することを考えると、体罰により事態をますます深刻にすることも考えられる。

人は誰でも愛されたいという願望を持っているものだと思う。

そういうことを前提とすると、あえて嫌われる言動をする子どもは何か心に傷を追っているのではないかという考え方を教師はすべきだろう。

だから、そういう子どもは、むしろ愛を求めるシグナルを送っていると解釈しよう。

中3のA子は、何かというと教師に逆らうことが多かった。

体格がよかったので、中学校入学時は運動部で活躍できることを夢見ていた。

ところが、バレー部でレギュラーになれないとわかった頃から、部活をサボりだし教師への反発はひどくなっていった。

成績がふるわなかったのを、運動部で挽回しようと思っていた夢が消えたことは大きな衝撃だったろう。

部活にいないので、家に電話をすると、電話に出たものの言葉は悪い。

「どうせ私なんかバカだから・・・」

という言葉が続いた。

「そんなことはない」と打ち消しても、素直になる様子はない。

しかし、反抗的ではあるが電話を切ることなく一時間以上も話していた。

自分はダメだという言葉が続くので「誰でも必ずいいところがある」とか、いいところを取り上げて話を続けた。

私は全くムダなことをしているように私は思えた。

登校時もつとめて声をかけてやるようにしていた。

やがて卒業式を迎えて、A子は学校を去っていった。

それから数日経ったのか、春休みだったのかは忘れたが、ある日A子が職員室に現れた。

A子は自分でクッキーを焼いて、先生たちに持ってきた。

クッキーを焼くのはA子の得意技だったのかも知れない。そう思えるほどよくできていた。

彼女はニコニコしながら「先生ありがとう」と言って、クッキーを配っていた。

在学中はすぐに素直になれなかったものの、彼女の心には、先生たちの言葉は響いていたのかも知れない。

人格障害とまでいかなくても、何か心に傷を負った子どもにはつらくあたるのではなく、いいところを見つけて声をかけてやることが大切なのだろう。

斎藤喜博・著教育学のすすめ (学問のすすめ 13)に登場する島秋人を思い出した。





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2013年02月22日

心の傷

baum1.jpg生育歴の中に何らかの、心の傷がある人は、その後の人格形成に影響を与えているようだ。

愛情の連鎖の中で述べたように、乳幼児期に親から満足な愛情を受けて育っていない場合、人を信頼しない、人の不幸を喜ぶなどのマイナス思考が形成されるらしい。(人の幸せに腹が立つ人参照)

私は小学校三年生に、心理検査としてバウムテストを行ったことがある。

バウムとはドイツ語で木のことで、子どもの描いた木の絵から心理状態を分析するものである。

実施してみて、非常に優れたテストであることを実感した。

過去に心の傷を受けた子どもは、そのように現れる。

教師に反抗的やいじめをするなどの暴力的な子どもは、過去に心の傷を受けている可能性がある。

教師にとって厄介な子どもは、教師による体罰を受けやすいかもしれない。

しかし、そのような子どもに対してこそ愛情を注いでやる必要があるような気がする。

また自分のことで恐縮だが、私が4〜5歳ぐらいの時、伯母は私を小学校にあげるため、小さな商売をはじめた。

夕方になると、帰宅のサラリーマンが前の道を通るようになる。

その時、決まって、店を覗いてくれる中年の男の人がいた。

ある日、その男の人は、ある日私に声をかけて、手に持ったチョコレートを渡そうとした。

私は欲しくてたまらなかったのだが、素直に受け取ることができなかった。

何か不機嫌な顔をしていたと思う。

早くもらわないと、男の人は帰ってしまうというあせりが、私の心にあった。

そして、決心してサッと走り寄って、奪うようにして取って引っ込んだ。

baum2.jpg伯母は

「まあ、すみませんねえ」

と男の人にわびをした。

男の人は、ニコニコしていた。

私はその男の人が大好きだった。

かわいげのない私のことを嫌うことなく、ニコニコしていた男の人は、まるで私の心の中を見透かしているようにも思えた。

「ありがとう」

との一言がいえない私の姿を見て、伯母は悲しかっただろうと思う。

でも、かわいげのない私にも愛情を注いでくれた、何人かの大人たちの暖かさで私は育ったように思う。

だから、先生になってからでも、私は全ての子どもを好きになることができたように思う。

荒れた中学校に行った時、私のクラスにも数人、いわゆる厄介な生徒がいた。

ある時、女子の1人が「先生、このクラスの中で嫌いな子いる?」と聞いてきた。

私が「みんな好きだよ」と言うと「エッ」と不思議そうな態度を示した。

私の「みんな好きだよ」が珍しかったのか、噂は千里を走るのごとく広まったようで「ウチの先生って、みんな好きだって言うんだよ」と他の先生にも伝わったことを知った。

その頃からクラスの生徒たちが主体的になったような気がした。

実際、私は、頭に剃りこみを入れている生徒、ちょっと服装の変な生徒もみんな好きだった。
みんな、精一杯に生きているような気がした。

■心の傷を癒すのは大人が大きな心を持つしかない

サリバン先生も、ヘレン・ケラーの教育に尋常でない苦労したと想像される。

それに比べたら、私のすることなど大した苦労でもない。

ジャン・バルジャンもミュリエル司教の心によって人が変わったようになった。

言っても聞かないから体罰をするのではなく、そういう子どもの心を動かすにはどうしたらよいかを、教師は考えてもらいたい。





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2013年02月21日

愛情の連鎖

幼児期の育て方は特に大切ということが、発達心理学の本を読んだり、放送が大学の講座を受講したりしてよくわかりました。

乳児はお腹が空くとミルクの要求をします。
すると、母親がその要求に応えてミルクを与えます。
お腹がいっぱいになった乳児、つまり要求が満たされた乳児は満足して眠りについたりします。

その他、乳幼児は様々な要求をします。
それに応える母親は大変ですが、ここで大切なことは乳幼児の要求を満たしてやることが、愛情を与えていることにもなるわけです。

乳幼児は要求が満たされることで、大人に対する信頼感を得ていきます。

しかし、何らかの不都合でこの要求が満たされないと、これは裏切りになり、乳幼児には大人を信頼しない歪んだ心が育っていきます。

■愛されて育った子どもが他人も愛するようになる

人間は誰でも自己愛があるものですが、成長とともに自分がしてもらうことだけを考えるのではなく、他人の立場を思い量る(おもいはかる)ようになり、他人の幸福のために何かをしたいと思うようになるわけです。

そういう心は、誰かに教えてもらうというものでもなく、自分が愛されて育ったという生育歴から自然にできてくるものだと思います。

このように、親が子どもに愛情を注ぐということが引き継がれ、次の代や他人に対して愛情の連鎖ができていくように思います。

発達心理学の勉強と併せ、自分の過去を思い出してみると、よくわかるような気がしました。

私の場合、実の親が3〜4歳ころまで、ほとんど育てませんでした。
どうして自分には親がいないのかすら知りませんでした。
人によっては、かわいそうと言う人もいますが、自分としては自分が不幸という感覚すらなかったです。
それは、人間には親子があるということさえ知らなかったわけですから。

祖父母がめんどうをみていたとはいえ、躾もあまりできていなくて、放置状態というか野生のサルみたいなものでしたが、祖父母が相次いで亡くなった時、葬式の帰りに、伯母が誰に相談するということもなく、連れて帰りました。
伯母は小さな子どもを見ると、どうしても無視できない性格だったと思います。
ネコも嫌いだったそうですが、橋の上で雨に濡れて泣いているネコをかわいそうに思い、拾ってきたこともありました。

私は拾われたネコとともに育てられましたが、なにしろ躾のできていないサルのようなものですから、相当に苦労したようです。
私の腕白にかなり参って、自分が勝手に連れてきた子どもという責任も感じて、ある日の夜、二人で出かけて線路の上に座ったことがありました。
伯母は本当に決心していたと思います。しかし、私の何かの一言で、もう一度頑張ってみようと思ったらしいです。

小学校の時、ある先生は「もらうなら、こんな子やめた方がいいですよ」と言ったらしく、その言葉をガンで亡くなる寸前まで覚えていて「あの先生はよくない」と言っていました。

人にさんざん迷惑をかけたどうしようもない私が、まあまあ普通になったかなと思えるのは、伯母のあふれる愛情のおかげだと思っています。

田舎の人は、私に「あんたの伯母さんのような人はいないよ」と言います。

私にとってその言葉は歳を取るに連れ、重くなってきます。

私は教育学部を卒業していますが、伯母ほど偉大な教育者はいないと思っています。

それは、ふと気がつくと、伯母と同じようなことをやっていることに気がつくからです。

近くの公園に、ホームレスが名前をつけたフクちゃんという年老いた野良猫がいますが、どうしても気になってちくわなどを買っていきます。

飼ってやるといいのですが、あいにく事情が許さないので、時々見に行くしかありません。
始めは警戒して逃げていましたが、そのうちに慣れてきて傍へくるようになりました。

他に近所で気にかけている人もいるようです。

「ネコに餌をやらないでください」という市役所の立て札がありますが、みんなは無視しています。
市役所の人が時々回ってきて、みんなでめんどうを見ていることを知っていますが、見過ごしています。

私は恩ある伯母に何も返すことができませんでしたが「今度はあなたが子どもにしてやりなさい」という声が時々聞こえてくるような気がします。

私のためにほとんど自分の物も買ったことがなかった伯母。

小学校の修学旅行の時、カバンが買えなかったので、どこから持ってきたのかわからない古いカバンを、よる遅くまで縫っていた姿を今頃になって強く思い出します。

親孝行したい時には親はなし





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2013年02月20日

交通事故で健康保険が使えないと言う医者

先日、交通事故に遭ったという人の相談を受けた。

負傷して医者に通っているのだが、その医者は「交通事故では保険(健康保険)は使えません」と言ったそうだ。

これはウソである。

交通事故で健康保険が使えないという医者は、ロクな医者ではないと言うのが私の見解である。

自分が被害者の場合でも、健康保険は使った方がいいし、使えないということはない。

■なぜ交通事故では健康保険が使えないと言うのか

それは、保険を使わない自由診療の方が医者は儲かるからである。

自由診療の場合は、医者が自由に治療費を決めることができる。

健康保険を使った場合の2倍、3倍の治療費ということもある。

■なぜ健康保険を使った方がいいのか

例えば、事故の責任割合が2:8となった場合(自分が2)、治療費が100万円かかったとすると、自分は20万円の負担となる。

これが、保険を使って3割負担なら、6万円で済む。

相手が100%責任がある場合でも、自動車保険は自賠責から適用されるので、治療費が少ないと任意保険の範囲に届かないか、任意保険まで及んでも額が少なくなる。
これは、保険会社から治療の打ち止めを防ぐことになる。
(あまりにも治療期間が長くなると、保険会社から「ここまででいいでしょう」と治療の打ち切りを言ってくることがある)

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というわけで、交通事故による治療では健康保険を使うようにしよう。

医者が(受付が)「健康保険は使えません」と言ったら、追及しよう。

そういう医者はよくない医者と心得よう。





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2013年02月20日

学校給食のあり方


分業は経済的効率を高めたが、学校教育も同様な理論(方法)によって効率化してよいかという疑問を抱く。

学校給食はそのよい例で、各学校にある給食室を廃してセンター化することが、教育的意味から考えたら適切だろうか?

給食は食べる子どもの姿が浮かびやすい環境で作るほうが、教育的であると思う。

そういう意味では、給食のセンター化は教育に逆行しているのではないか?

■給食そのものの意味を問う

食事がままならない終戦直後の時代に、子どもに恵まれた食事を与えようとの考えから学校給食は実施された。

そういう意味では、今日の食料事情を考えると、当初の給食の意味はなくなったと言える。

しかし、給食制度を廃止し各自弁当を持参となると、母親が弁当を作らない恐れもある。

コンビニで買った弁当を持ってくる子どもも出てくるかも知れない。

もっとも、そうなったらコンビニが工夫した弁当を作ればよいという考えがあるかも知れない。

■学校食堂

私の考えでは、学校に食堂を作るといいと思う。

そして、食堂のメニューを利用するか弁当にするかは自由にすればよい。

学校に食堂を作るメリットとしては、第一にメニューを増やすことができる。

メニューが増えることで、アレルギー問題などを防ぐことができる。

第二のメリットは時間のゆとりができる。

現在の給食の制度の下では、配膳から食事が終わるまでの時間は45分ぐらいだろう。

配膳に15分かかるとすると、食事の時間は30分である。

この時間を窮屈に感じるのは私だけだろうか?

学校に食堂を作ると言ったら「そんなことをしたら、子どもはジュースばかり買う」と言った人がいた。

なんて頭の硬い人だろうと思った。

ジュースを売らなければ、ジュースは買えないだろう。

売るにしても、工夫次第だ。





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2013年02月17日

教育に一番大切なものは何か

seisyokuno.jpg安倍内閣は教育改革に関心が高いという。

改革とは現状より良くならなければ、改革とは言えない。

それで、あれこれ施策を考えるのだろうけど、どんな改革を行ったとしても、これが欠けたらダメだと言えるものがある。

それは「愛」である。

愛にもいろいろあるが、ここで言う愛は「自己愛」を除いたものである。

「少年の心は白いキャンパスだ、私はそのキャンパスに愛という字を書いてやりたい」

新田次郎原作の映画聖職の碑
のポスターに書かれていた言葉だ。

この言葉に今一度、正面から向き合ってみると、なるほどと思う。

私にとって「愛」という言葉は使うのに勇気のいる言葉だった。

それは、何か恥ずかしさを感じること、自分は偽っていないかと問いかけられる言葉だから。
(歳をとって、この言葉に抵抗がなくなってきたからかも知れない)

いくら組織をいじっても、そこに愛がなかったら「仏作って魂入れず」と同じである。

だから、教育改革は愛を持った人が携わらなければ、どんな施策を行ったところで改革にはならないと思うのである。

大石先生のような人が、たくさん教育に携わるような改革が教育の真の改革と言えるのだろう。

そういう視点で、私は安倍内閣の教育改革を見て行きたい。

■生育歴

事実かどうかは定かではないが、モーツァルトに関する本を読んだ時、彼は幼少時に1人で遊んでいる時、ふと遊びをやめて、傍にいた伯父さんに「伯父さん、ぼく好き?」と言ったそうだ。

伯父が「ああ好きだよ」と言うと、モーツアルトは安心して再び遊びを始めたという。
そして、またしばらくすると、また「伯父さん、ぼく好き?」と問いかけた。

こういうことが繰り返されたという。

モーツァルトに限らず、子どもは何も言わなくても、常に周りの大人から好かれているのかどうか不安を持っているのかもしれない。

■嫌われているかもという不安

私は中学校で吹奏楽部を指導したが、卒業して高校に行ってから、市民吹奏楽団に入ってきた子がいた。
私が楽団の中に混じってクラリネットを吹いていると、その子はしばしば私の方を見て何やら気にしていた。

休憩の時「先生、怒っている?」と聞いてきた。

私は起こる理由もなく、実際に怒ってもいなかったから「怒っていないけど」と言ったら、安心したようだったが、次の休憩の時「先生怒っている。だって怖い顔している」と言った。

かつての教え子だったから、私には気軽に問いかけてきたのかも知れないが、子どもは少なからずそういう不安を持っているのかも知れない。

毎日のように、体罰が話題になっているこのごろだが、もちろん体罰はもってのほかとしても、子どもを叱った場合「決して、君が嫌いなわけではないんだよ」というメッセージを伝えることが大切だと思う。

小学生を担任していた時、Nくんは校庭の花壇にあるナツメの実を、禁止されているにもかかわらず摘み取ったことがあった。

私がそのことについて叱ると、N君は非常に暗い顔をしてしょげた様子になった。

しかし、その後「明日は漢字のテストを行う」といった時、クラスはワッという声に包まれたが、N君だけ表情が違った。

冷静で落ち着いた顔をしていたのである。

私が「おい、N、どうかしたか?」と言うと、彼はやや得意そうな表情をして、小さな声で「漢字、自信ある」と言った。

彼はわんぱく坊主で、とても勉強をするようには見えてはいなかったから、私は「自信があると言っても、どんなもんだか?」と思っていた。

翌日試験を行い採点すると、なんと彼は満点(100点)だった。

私は正直驚いたので、彼に「いやあ、すごいなあ、すばらしい」とたたえた。

彼は満面の笑顔で、喜びをいっぱいあらわしていた。

彼は漢字のテストを褒めてもらえたことは嬉しかったと思うが、それ以上に、自分は先生に嫌われていなかったのだと感じたことが嬉しかったのかも知れない。

新田次郎





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2013年02月15日

憲法改正のゆくえ


憲法改正というと、右傾化を心配する人がいるかも知れないが、それより、憲法を改めて確認してみる必要があるように思う。

9条が話題にのぼることが多いが、自衛隊は国内では軍隊ではないということになっている。
外国では、日本の自衛隊は軍隊と理解しているようだ。
それは、外国に対しては、日本の政府が軍隊と説明しているからだ。
明らかに矛盾した状態になっている。

教育に関係する文部科学省の立場はどうだろう?
教育の最高機関と思っている人は多くないのだろうか?
もしそう思っている人がいるとしたら、誤りだ。
文部科学省の前身、文部省はGHQの改革で教育のサービス機関と化した。

いじめ問題は、何年も前にも問題になり、マスコミがこぞって取り上げたことがある。
当時の文部科学大臣、伊吹氏は「なんとかしてくれ」の意見に対して「それができないんですよ」と発言したのを覚えているだろうか?
これは、文部科学省の力の限界を単に表したものと言えよう。

教員の中には、学習指導要領を金科玉条のように思っている人もいるようだが、そういうものではない。
だから、しばしば学習指導要領の拘束性については論議になったり、裁判になったりもする。

教育に関する最も拘束性の強いものは教育基本法である。
また、教育の方針は国で決めるものであるが、中立性が重んじられるものであり、時の政府の都合のよいようにされないというところは、最も大切である。

子どもに正しい教育を行うということは、権力に対して迎合することを教えることではない。
(もちろん、法律は守らなければならないが)
国が方向を誤らないように、正しい批判精神を育てることが大切なのだ。

それは、子どもが教師に対しても何でもイエスマンにならないことである。
そういう観点では、体罰による有無を言わせない、従順性を強いることは教育の根幹を覆すものと言えよう。
分業化が進んだ今日では、自分が一体何をやっているのかわからなくなることが多い。
時には出発点に戻って考えることも必要である。

国の最高権力者は誰か?
総理大臣なんて言う人はいないでしょうね。
言うまでもなく国民です。主権在民です。

だが、どういうわけか、中にはお上意識が抜けない人がいる。

日本はまだ民主化途上国なのかも知れない。

最高決議機関は?
内閣ではないですね。

国会ですね。

当たり前過ぎることです。





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2013年02月14日

自転車も車両である


大いに結構。
自転車も車両であり、自動車と同じ道路を走る限り、交通法規も同様に平等に適用すべきである。

自動車対自転車の事故の場合、明らかに自動車の方が不利な扱いになっている。

野放し状態の自転車に対しても厳しく取り締まることには賛成。

■人身事故を起こした場合大変

自動車の場合、自賠責+任意保険に入っている場合が多いと思う。

自転車の場合はどうだろうか?

無保険か賠償の軽い傷害保険程度ではないだろうか?

自転車で人を怪我させてしまった場合は、無保険の場合、多額の損害賠償をすることになる可能性がある。

自賠責も任意保険もないからだ。

特に相手が老人の場合、大怪我になりやすい。

すべて自己負担の賠償の場合、保護者は大変な責任を負うことになる。

数千万円〜億以上の賠償もあり得る。

また、人の「飛び出し」についても再考を願いたいところだ。
飛び出した側にも責任を取らせる必要を感じる。
国によっては、飛び出した側に責任を取らせているところもある。





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posted by edlwiss at 18:35 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会時評

2013年02月13日

バスケ部顧問を懲戒免職

この件については、事実は事実としてとらえ、無責任になるかも知れない憶測のコメントは控えます。


posted by edlwiss at 19:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2013年02月12日

世界の中心で、愛をさけぶ

sekai_chusin.jpg高校時代の同窓会の案内が来た。

すごく美人で上品な女の子が若いのに、病気で亡くなった。

同級生たちは、美人薄命とはあのことだと言っていた。

彼女が同窓会に参加できないのは誠に残念である。

でも、あの頃を思い出すと、女子はみんなさわやかで、魅力ある子たちだった。

図書館はいつも満員状態で、まじめに勉強していた。

本当に女子は几帳面だなあと思っていた。

目立たない、背の小さなM子さんはO社の全国実力テストを受けた時、模範解答の後ろに成績優秀者10名の中に入っていて、みんなを驚かせた。本人は至って控えめだった。

テストを返してもらう度に、字が汚いと叱られていたA君。
成績は抜群に良かったのだが、字だけは、それこそミミズが這ったような字だった。
試験の度に、字が汚いと叱られる生徒も珍しいのではないか?

映画「世界の中心で、愛をさけぶ」は簡単なストーリーだが、あの頃はあんな風だったかなあと思わせる。

この映画、あまり評価しない人もいるようだが、高校生役の長澤まさみが素敵で、そんな彼女が白血病で亡くなっていくところは、ドラマとわかっているのにジーンとくる。

カセットテープを届ける途中で交通事故に遭い、届けられなくなった小学生も心に残ります。

今、現役の高校生諸君、青春を大切にしてください。

世界の中心で、彼女といっしょに愛を叫んでください。

「おかしい」と叫ぶより「愛」を叫んだ方がいいですよ。





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posted by edlwiss at 13:04 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2013年02月11日

人生も前向きで

受験シーズンは、商売も縁起をかついでいる。

タコにちなんで、御札を置くと合格祈願になるという「オクトパス」とか、カツ丼の中に梅干しが入っていて「すっぱいは成功のもと(失敗は成功のもと)」など笑ってしまう。

受験する本人は笑って済ませられないだろうが、受験できない保護者のほうが大変な気もする。

15歳で受験に失敗して挫折感を味わうのは、かなりかわいそうな気がする。

いっそのこと、高校は無試験にしたらどうかという意見も多い。

日本も、一度入試を通過すれば、あまり勉強しなくても卒業できるというシステムをやめるべきだという意見もある。

不合格での挫折感は当人にとっては、大変なショックだが、不幸にしてそうなってしまった場合、周りはここでの失敗は長い人生のことを思うと、大した傷ではないと心を広く持つように励ますのがよい。

実際、不合格のくやしさを秘めて、大学入試では同級生たちよりレベルが上がったと見られる例もある。

■不屈の精神

yorutokiri2.jpg失敗しても、それをエネルギーに変え、新たな挑戦をする。

転んでも起き上がることさえ忘れなければ、きっと成功するという気持ちを忘れさせないような教え方をしたいと思っています。

教育者として有名なペスタロッチも伝記を読んだ時、不屈の精神に感銘しました。

最近では、いついかなる時も、希望を持つことを忘れない精神を、ヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」で教えられました。
これはナチの強制収容所での体験に基づいています。これほど、辛い環境に遭って耐えてきた記録は大変貴重なものです。
人が生死の縁に立たされた時の思いが、これほど説得力を持って語るものは少ないのでしょうか。
アメリカで一千万部を超えるベストセラーになったというのも頷けます。

■プラス思考でいく

100hun.jpg自分が不幸と思っているせいか、常に他人の成功に嫉妬する人がいます。

車を買えば「そんなもの買って、金が払えるのか」と言う。

めでたく採用試験に合格し、教員になった人を「きっと指導に行き詰まる」と言う。

常に、他人の失敗を喜んでいるかのようです。

誰も未来のことはわかりません。(わかる超能力者がいるかも?)

子どもにとって、先生は精神的なよりどころでなくてはいけないと思います。

私は子どもをアンサンブルのコンテスト(コンクール)に出場させる時、本番にどうしたら一番良い状態に持っていけるかを考えます。
おそらく、指導者はみなそう考えているでしょう。

技術的に高めることは、もちろん大切ですが、当日の控え室、舞台袖、そこまでが付き添ってやれる最後です。
舞台袖から送り出す時、子どもが自信を持って出て行くことが大切です。

そのためには、精神的にプラスになることを言うことが大切と思っています。

同様に、新しく先生になった人にも、希望の持てる言葉かけが大切と思います。

最近はモンペアと呼ばれる変な保護者がいますが、私もそういう保護者に会ったことがあります。

そんな時「間違ったことをしていなければ、大丈夫だよ」と励ましてくれた教頭がいました。

短い言葉でしたが、大きな勇気を得ました。

人をけなすのではなく、励まして、成功を一緒に喜ぶ心を持てるようにしたいと思います。

新車を買った人がいたら「いい車だねえ、いい色です」と言う。

もし「ちょっと色がよくなかったですかねえ」と不安そうだったら「私はいいと思いますよ」などと声をかける方がよい。

どこの国か忘れましたが、子どもが生まれる時、これから生活が大変だと不安を感じている人には

「心配するな、子どもはパンを抱えて生まれてくるよ」

と励ますそうです。
(どこの国の言葉か、ご存知のかたは教えて下さい)

とにかく、先生の毎日の言葉が子どもを明るくしなければなりません。

「負けたらどうする」とか「絶対負けろなよ」などは、不安にさせると思います。

負けたら殴られるなどは、試合中も不安にさせるのではないでしょうか?

不安そうな子どもも、先生の顔を見たらパッと明るくなる。そういう先生がいい。

実際、そういう人がいる。

私は、なぜその人にはそういう力があるのか、その人から学びたいと思っている。

先生とは、話している時だけが先生ではないと思う。

黙っていても、いるだけで子どもが元気になる先生は最高である。

二十四の瞳の大石先生も、特別なことをするわけではないが、子どもに慕われ心の支えになっている。

「何もしてあげられないけど」と言って、花がらの弁当箱を差し出すところは、無力な先生が子どもの気持ちになって一緒に涙をこぼすところが、実は大きな支えになっていることを感じさせる。

壺井栄原作を木下恵介監督がすばらしい映画に制作した。

これから、大石先生のような人が増えてほしいと思います。

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posted by edlwiss at 20:11 | Comment(6) | TrackBack(0) | 社会時評

2013年02月11日

体罰否定なら教育はできぬ〜伊吹衆院議長



法を守らなければならない立場なのに、この発言は非常に不愉快です。

「体罰を全く否定しちゃって、教育なんてできない」

との発言には呆れます。

伊吹氏がどういう教育観を持っているのかわかりませんが、このように言い切れるのは如何なる理由なのでしょうか?

教育に対してどういうイメージを持っているのでしょうか?

私は議員辞職に相当する発言だと思いますが。
posted by edlwiss at 09:34 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題

2013年02月10日

世界の真ん中でおかしいと叫ぶ

kokugoryoku2.jpgメールをお寄せ頂いた方ありがとうございます。

前回の記事、前向き駐車でお願いしますでは、注意書きのような簡単な言葉でも認知できない人がいるという話をした。

この記事は読解力の低下の話をしたのだが、もう一つ前の記事、読解力のつけ方では、自分の解釈(読解)が間違っていないか、自分が思ったことが当該の文章のどこに書いてあるのか、マーキングするとよいということを述べた。

それでも、懸念は的中してしまった(またもや、こんにゃく思考)。

前向き駐車でお願いしますは読解力の問題を扱った記事である。

この話の要旨は「前向き駐車でお願いします」が認知できないのは、かつて取り上げた起承転結の例も理解できないのだから、無理もないかということである。

頼山陽の
: 「京の三条の」糸屋の娘
: 姉は十六妹十四
: 諸国大名 (諸国諸大名) は弓矢 (刀) で殺す (斬る)
: 糸屋の娘は目 (眼) で殺す

を理解できない人がいるという話である。

ところが、作文力の話と解釈して、話が妄想化している人がいるという連絡があった。

だから、私は「世界の真ん中で、おかしい(人がいる)と叫びたくなった」のである。

しかし、本当にそんな人がいるんですか?

まさか、学校の先生ではないですよね。

だって、子どもがブログ見てたら恥ですよ。

私はもう一度言いたいと思います。

自分の解釈が正しいかどうか、それは原文のどこにあるのか、該当のところにマークしてみてください。

Whereです。

世の中には、自分がおかしいのに怒っている人がいます。
(まあ、たいていは爺さんが多いのですが)

落語に、壷を買いに行った人の話があります。

伏せてある壷を見て「何だこの壷はできそこないだな、口ができていない」
ひっくり返してみて「おまけに、底が抜けておる」

おもしろい話だが、現実の世界でこんなことをやっていてはいけません。

落語だけにしてください。

これも、紹介したのだが、作文の勉強は言葉の森が勉強になると言いました。

作文力は「考える力」を育てることだと教えてもらいました。

そして、考える力は「遊び」から養われるとも学びました。

日記のように、ここに書かれる人の文章にはいつも感心させられます。





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posted by edlwiss at 18:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2013年02月09日

前向き駐車でお願いします

店の駐車場に「前向き駐車でお願いします」と書いてあるにもかかわらず、バックで駐車している車がある。

しかも、その看板の前に駐車している。看板の字は決して小さな字ではない。

字を読むのに、自分で余計な情報を付け加えるのもよくないが、重要な情報を見落とすのもよくない。

足してもいけない、引いてもいけないである。

人間の感覚は情報を選択的に取り込むという特性があると言われている。

雨が降っていても、教室の講義の話に集中すると雨音は聴こえない。

視覚も同様に、あるはずのものが見えていないということがある。

選択的に情報を取り込むということは、嫌なことは視覚や聴覚で取り込まないということかもしれない。

指揮者は大勢の音を選択的に聴く訓練をしていると同時に、全体を客観的に聴く訓練もしている。

教師にもそういう能力が必要だと思う。

大勢の子どもを扱うことが多いのだから、全体に目配せをするとともに、個々の子どもも観察するという能力が必要だ。

仕事は重要になるほど、情報を客観的に捉える能力も要求される。

書類を読む時は、そこにある情報に足しても引いてもいけない。

書いてあることを過不足なく読み取り、しかるべきところへ伝達することが大切だ。

意見があれば、情報と、自分で付け加えた意見、想像ははっきり区別して伝える必要がある。

学校は対象の多くが子どもであるという特殊な世界だ。

子どもは弱い立場にある。未成年だから教師とは権利関係が対等ではない。

そこのところを教師は斟酌し、子どもを軽く見てはいけない。

もっと言えば、子どもをごまかすようなことがあってはいけない。

4月になれば、新入生、新入社員の季節。

一年生はそれが小学生、中学生、高校生、新入社員であろうとみなかわいいと言う。

私もそう思う。

でも、いつしかそのかわいさがなくなるのは、なぜだろう。

余計な苔が生えたからではないだろうか?

短文さえ、意味がとれないなら、長文ではなおさら然り。
wakattatumori.jpg卒業式が近くなってきた。

卒業式は「卒業証書授与式」である。

ただ卒業証書を渡すだけのことである。

なのに、なぜ、あれほどにも長い時間をかけるのだろう?

それは、卒業の意味の重さを皆が感じるためだろう。

卒業証書をもらうために、セレモニーのすべてがある。

長文も、本当に言いたいことはわずかだ。

言いたいことを強調するために、起承転結という方法が使われることがある。

だが、困ったことに、最近では起承転結ですら理解できないピンポイント思考の人がいる。

こういう思考はどういう過程を経て作られるのだろうか?

起承転結(きしょうてんけつ)とは、物事の展開や物語の文章などにおける四段構成を表す概念。元々は4行から成る漢詩の絶句の構成のこと。もとの中国語(漢文)では起承転合(中国語: 起承转合)である。

一行目から順に起句、承句、転句、結句と呼ぶ。元の意味から転じて、小説や漫画など物語のストーリーや論理的な文章などを大きく4つに分けた時の構成、または各部の呼称としても使われる。起承転結の典型的な例として4コマ漫画の構成などがある。
フリー百科事典「ウィキペディア」より
作文技法として

起承転結は、作文技法として中等教育以降で取り上げられることもある。単純な創作物語には適用可能だが、構成要素が四つと少ないため、同じ創作物語でもより綿密な構成を要するものや、説明文、実用文書などには向かない。起承転結はもともと「句」や「句切れ」の構成を端的に表す四字熟語であり、説明文、実用文書には段落(パラグラフ)や節を意識した構成が必要となる。さらには、複雑な事柄や、全く新しいことを記述する文書などは章を設ける構成も要る。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

ピンポイント思考は、将棋て言えば歩の一歩が王将にどう影響を与えるのかがわからない、ヘボ将棋のようなものだ。

「前向き駐車のお願い」もわからない「長文読解」もできないでは、この先の世の中が思いやられる。

大宅壮一氏の一億総白痴化が現実のものになってきたのか?

ピンポイント思考
一つの事柄が、他の事柄と有機的に結びついているという関係が理解できない思考のこと。

有機的
有機体のように、多くの部分が緊密な連関をもちながら全体を形作っているさま。
コトバンクより





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posted by edlwiss at 23:54 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会時評

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