2013年03月31日

命より原発のほうが大切ですか?

喉元過ぎれば熱さを忘れるというが、福島原発の影響を受けた人たちは、とてもそんな心境ではないだろう。

しかし、未だ遅々とした原発処理をみるに、行政は被災者の痛みを忘れていないかと思うのである。

ひとたび事故が起これば、悲惨な状況になることを多くの人は知ったのではないか?

それとも、それは人ごとと思っている人がいるのではないか?

そう思うのは、まだ原発稼働に熱心な人たちがいるからである。

仮に原発が安全に稼働できたとしても、使用済み燃料の処理は解決していない。

電気エネルギーに困るということは、わからないでもないが、命と原発を天秤にかけた時どちらをとるか?

自分の命は大切だが、他人の命はどうでもいいなんて思っている人はいないでしょうね。

原発の深刻さを忘れないためにも、ここにビデオを掲載することにする。







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posted by edlwiss at 20:37 | Comment(3) | TrackBack(0) | 政治

2013年03月30日

TPPに参加しないという選択肢はあるのか?

tpp1.jpg何かを変えようとすると、利益を受ける人もいれば、不利益を被る人もいる。

理想はみんなが満足することだが、なかなか難しいことが多い。

だからと言って、すぐ多数決というのが民主的だとも言えない。

こう言うと「少数意見の尊重」と強気に出てくる人もいる。
それはわかるのだが、少数意見の尊重とは少数意見に従えということではない。
しかし、そういう人がいる時、いかにも子どもじみていると感じる。

そういう例外的な人は別として、TPPも詰めが迫ってきたようだが、果たしてTPPに参加しないという日本の選択肢はあり得るのかという疑問を持つ。

最も存在力の大きなのは米国だが、すべて米国の有利なもくろみかどうかは私にはわからない。

tpp2.jpg■日米同盟

米国は軍事費縮小の傾向があると言われている。

世界の警察から撤退する方向らしい。

財政赤字を減らすのが目的と言われるが、米国の軍事費縮小で日本はどうなるのか?

在日米軍が撤退しても大丈夫なのか?

尖閣諸島の問題がある中、日本は自国の自衛隊だけで国を守れるのか?

国防に関しては、非武装中立と言った人がいる。

それに対し「もし他国が攻めてきたらどうしますか?」と質問した人がいる。

すると「いやあ、私、そんなの認めないもん」との回答。

もう対話の歯車は合わないでしょう。

時々、こういう感じの人はいるんですね。

普天間問題も難しそうですね。

それで、米国がもし「では軍隊を引き上げます」となったら大丈夫ですかね?

何でも、ジュゴンの生息地だからと言って反対している人たちがいるそうです。

ジュゴンがいるかどうか、私にはわかりません(超能力はないですから、知りようがありません)。

だから、聞いた話だけど、現地に行って「ジュゴン見たことありますか?」と聞くと、見たことがあると言った人はいなかったということですけど。

■TPPで困る人儲かる人

様々ですね。

中には、ゴネておいたほうが後から保障問題で有利と考えている人もいますか?

真っ先に取り上げられる農業問題ですが、関税ゼロでも輸出して儲けると言っている人もいますね。

しかし、もう長年農業政策は進展しているとは言えないように思います。

農業軽視は亡国の元と言われますが、自立できる農業、高齢化に対して政府はどれほど力を入れてきたのでしょうか?





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posted by edlwiss at 11:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治

2013年03月30日

何でもWordですか?

文書作りのことです。

Wordの機能はたくさんあります。
それらの機能を使えば、文書作成に関することはほとんどできてしまいます。

しかし、私は「何でもWord」という感じで、文書作りをしません。

このことは以前紹介しました。→書類は何で作っていますか?

前日紹介しましたように、文書を書くにはたいていはエディターを使います。

画像を編集する時は、Gimpです。

Photshopも使いますが、このところはGimpを使うことが多いです。
理由はGimpが無償であること、Photshop並に高機能であることです。
Gimpは伝統あるアプリケーションで、早くからLinux用もありました。

そして、絵を描く時はIllustratorです。
ご存知の方も多いと思いますが、Illustratorはデザイナー御用達のツールです。
Adobe社がDTPの世界で早くから優位に立ったのは、Illustratorの開発からだと思います。

だから、印刷業界に通用するアプリケーションになっているわけです。
高価ですが、教員のためのアカデミックバージョンがあります。

Illustrator6.jpg


本来は8万円以上しますが、教員は3万円台で買えます。
使い方は書籍がたくさん販売されていますので、勉強しやすいと言えます。
ただし、初心者には、はじめ戸惑うこともあると思いますか、使えるようになることは大きな財産になると思います。

学校によっては、何でも知っているようなスーパー先生がいるかも知れません。
そういう方から学ぶという方法もありますね。

現在では、Illustratorだけでほとんどの書類を作ってしまう人もいます。
つまり、ワープロの代わりになってしまうこともあるということです。
文字のスペースを0.1mm単位(それ以下も可能)で調節したい時は、Wordより威力を発揮します。





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posted by edlwiss at 08:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報処理(IT)

2013年03月29日

文書作りはWordですか?

今回の記事は、そんなこと知ってるとか常識だろうという人は飛ばしてください。

先日、自分の作った文書が'開かない'ということで質問をいただきました。
学校ではMicrosoft Wordを使っているということでした。

せっかく作った文書が開かないとは大変です。
作ったソフトで開けばそんなことはないでしょうが、ワープロソフトと言ってもいろいろなものがあるので開かない場合があります。

今やワープロと言えばMicrosoft Wordでしょう?と思っている人も多いでしょう。
しかし、ワープロソフトはMicrosoft Word以外にもあります。

例えば、一太郎、OpenOfficeなど。

TexとかLaTexというものを使っている人もいます。

■文章をよく書く人はエディター(Editor)を使っている

「エディターって何?」という人は、Windowsを使っているのなら、[スタート]→[すべてのプログラム]→[アクセサリ]の順でたどり「メモ帳」を開いてください。
これがエディターです。
実にシンプルなワープロのように見えます。
メモ帳は文字を書くだけで、文字の装飾(太字、カラーなど)はできません。

では、なぜこんなものがあるのでしょう。

■拡張子(かくちょうし)

コンピュータのデータにはデータ形式というものがあります。
参考→教員なら文書作成のプロを目指そう〜その2

kakuchosi.jpg


上の図を見ると、ファイル名の後に「ファイル名.拡張子」の形式で拡張子が表示されています。
この拡張子を表示するには(Windows7の場合)。
1.[整理]→[フォルダーと検索のオプション]→"登録されている拡張子は表示しない"のチェックをはずす。→[OK]をクリックする。

例えば、
ATLAS.txt
chichiharu.jpg
Cord.accdb
fob.pdf

のtxt、jpg、accdb、pdfが拡張子です。

エディターで文書を作成すると、拡張子はtxtになります。
この形式の文書をテキスト形式と言います。

■テキスト形式で文章を作る意味

テキスト形式で文書を作ると、どんなワープロでも開くことができます。
これが、エディターで文書を作る意味ということになります。

Wordでも、一太郎でも、Openofficeでも開くことができるわけです。

文書を渡す時、テキスト形式で渡せば開けない(読めない)ということはないわけです。

なお、ワープロには保存する時、テキスト形式で保存することもできます。

だったら、エデイターを使う必要がないじゃないかと言う人もいるかも知れませんが、使ってみるとわかりますが、エディターはすごく軽快なのです。

文章をたくさん書く、プロのような人はエディターをよく使います。

エディターを使ってテキスト形式にすれば、どんなワープロでも開くことができると言いましたが、パソコンにワープロが入っていない(インストーされていない)としても開けます。
なぜなら、パソコンにはメモ帳が必ず入っているからです。

しかし、メモ帳はあまり長い文章を書くのには適していませんので、専用のエディターを使う方がいいと思います。
エディターには無料のもの有料のものがあります。

私は無料のMKeditorをよく使います。
下記からダウンロードできます。

MKeditorのダウンロード





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posted by edlwiss at 20:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報処理(IT)

2013年03月28日

遠隔授業サポートシステム


大阪府教育委員会(教育長:中西 正人)は、日本マイクロソフト株式会社(本社:東京都港区、代表執行役 社長:樋口 泰行)との連携により、病気やけがなどで長期にわたり登校が困難な府立高等学校(以下 府立高校)の生徒を対象に、在籍するクラスの授業を自宅や病院から受けられるようにする、遠隔授業サポートシステムの提供を行います。
Microsoft

とかく、保守的に思われがちな教育委員会だが、この取組は先進的であり画期的だと思う。

posted by edlwiss at 17:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年03月28日

授業は上手い下手だけでは決まらない

今日の新聞に、新社会人理想の上司という記事があって、男性部門で一位は池上彰さん、女性部門で天海祐希さんが一位と載っていた。

池上彰さんはジャーナリストとして人気がある。
でも、理想の上司となると、人気とは一致しないと思うが、なぜ池上彰さんが一位になったのか考えてみた。

彼の授業はBSでも時々公開され、私も見ることがある。
知識があるのは当然のことだが、説明も上手だ。

教師も知識があり説明も上手でなければならない。
しかし、それだけで良い教師であり、人気があるのかと言うと、それだけではないような気がする。

ただ講義を受講するだけなら、今ではeラーラーニングがあって人気も高まっている。
私もこれで単位をとったことがある。
自分の生活時間に合わせて受講できるので便利である。

これから、eラーニングはもっと増えそうな気がするが、人が行う講義がなくなってしまうかというとそうも思えない。

理由は、eラーニングの場合、かなりの準備が必要であるが人が行う講義は、それまで持っている知識を使ってその場で考えながらできるという面があるので、即興性がある。

それでも、人が行うことの意味はまだある。
それは人柄である。

理想の上司はと言った時、思い浮かべるのは、仕事の上での上役ということなので、監督されるということを意識するだろう。

人は失敗するので、失敗した時上司はどういう態度に出るのかと考えた時、叱られるのは仕方がないとしても、叱られ方、励まし方を想像した時、優しそうとか納得する叱られ方など思い浮かべる。

そう考えた時、よさそうだなと結論がでるのではないかと思う。

私は池上彰さんに実際に会ったことはない。
人は実際にあってみると想像とは違うかも知れない。
だが、そう思わせるのはその人の人柄であり、その人の醸しだす雰囲気である。

さて、今日のテーマの「授業は上手い下手だけでは決まらない」に焦点を当てると、このようなことが思い浮かんだのは、授業は上手くないが生徒に影響を与えた先生のことが浮かんだからである。
これも、その先生の人柄で、先生という仕事の影響力の大切さを考えると、テクニックだけを考えた上手い下手だけで決められないものがあると考えたのである。

不器用な感じの授業をする人、声が小さくて眠そうになってくる人などテクニックを考えたらバツがつく人でも、人気のある先生がいる。

テクニックは持ち前の素質もあるだろうが、努力でなんとか向上できるように思うが、人柄というのはなかなか難しいものがある。
特に、自分で自分のことはわかりにくいので、自分が他人にどういう印象を与えるのか知るのは難しい。

自分のことを言うのは恥ずかしいが、私は、どうも、初対面の時恐そうに見えるらしい。
そのせいか、初対面の時は相手は緊張しているらしい。
しかし、2回め3回めとなると、相手の態度がすごく変わるので「本当は違うんだ」と感じるのかも知れない。

子どもは非常になれなれしくなって、時には失礼と感じる態度もあるが、本音が出ていいかと思っている。

教育委員会の参観があった時、批評で「おそらく、冗談など全く言わない人でしょうね」と言われた時、その場でドッと笑い声が出た。

もちろん意識して態度を作っているわけではないので、どうしようもない。

「理想の上司は」のように「理想の先生は」というアンケートをとったら、芸能人やジャーナリストなどからどんな人の名前が上がるだろう?





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posted by edlwiss at 12:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年03月27日

授業は学校の専売特許ではない

昔は学校が文化の先端を走っていたが、今日ではそうとも言えない。
情報社会といわれる今日が、必ずしも学校に頼らなくても学ぶ機会を増やしてきたからだ。
むしろ、学校が旧態依然のままでいると、逆に学校が文化から取り残されてしまう懸念もある。

授業というと学校を思い浮かべ、学校の教師が行う授業がお手本のように思われているかも知れないが、企業が行なっている教育(授業)は、むしろ学校が学ぶところが多い。
授業とは、フリー百科事典「ウィキペディア」によると、授業(じゅぎょう、英: lesson, class)は、学校教育などにおいて教科・科目などの教育として行われるもののことである。大学の課程(短期大学の課程、大学院の課程を含む)などにおける授業は、講義、演習、実験、実習、実技に区分される。と説明されているが、ここでは企業内で行う講義、ロールプレイングなども授業に含めることにする。

そういう時代の流れを感じたのか、すでにプロとふれあう授業を提案NPO法人企業教育研究会ACEというものも存在する。

私はある企業と関係があって、1〜2ヶ月に一回ぐらいのペースで授業(講義)がある。
ここでは、企業の営業成績を直接上げる内容が主題になるとは限らず。広く教養を高める目的の講義もよく行われる。

企業において、目先の利益ばかり追っている教育を行なっていては、結局、限界が来てしまうということを感じでいる。
某有名企業では、数千万円かけて海外から一流オーケストラを招聘して社員に聴かせたこともある。

こういうところを見ていると、教育の大切さは、むしろ企業の方が感じているのではないかと思ったりする。
間接的には製品やサービスに反映していくとの考えなのだろう。

モノづくりでは世界に有名な日本だが、その日本がどうしてもトップをとれない製品もある。

私がすぐ気づく製品としては、オーディオ好きなので、すぐ目が行くということもあるが、日本のオーディオはすごく性能がいい。
しかし、上位には海外製品が来てしまうということをよく感じる。

その海外製品の中身を見ると、なんと、かなりの部分に日本の部品が使われているのだ。

kigyou_kyouiku.jpgどうして、日本製品がトップになれないのか?

それは、日本ではオーディオ製品を測定器だけで作っているからだと言われる。

オーディオは聴くものである。

だから、最終的にはユーザーが納得するものでなければならない。
つまり、ユーザーが「音がいい」と感じなければダメなのだ。

海外と日本では背景の違いがある。
音楽を聴く文化の違いである。

オーディオ製品を例に挙げたが、他の製品でも同様なことが言える。

■社員はWORD、EXCEL、POWERPOINTが使えなければならない

努力目標ではない。
使えなければ、社員にしてもらえない。

パートタイムの仕事を探していた主婦から、相談を受けたことがあった。
相談とは「EXCELを教えてもらえませんか」という話だった。
理由は、パートタイムの仕事を探しに行ったら、求人欄に「要EXCEL」と書いてあったというのだ。

EXCELが好きだ嫌いだなどと言っておられない。
問答無用なのだ。

社会に出ると、そのようなプレッシャーがあるわけだ。

企業の教育では「いつかできるように」などというのんびりしたことはない。

こういうことを考えてくると、学校も必死さがないとガラパゴス化するかも知れない。

企業の講義ではPOWERPOINTを使うのは当たり前だし、その他の視聴覚機器も効果的に使用される。

テーマに沿って、講師をどうしようという話になると、あらゆるジャンルから候補者を選ぶ。
そして、いいとなったら多額の講師料も出す。

テレビでお馴染みの評論家、キャスターであったりもする。

教育予算が減ってきた学校との格差はますます広がるような気がする。

学校の教師がプロと自負するなら、そういう講師に呼ばれるようであることが望ましい。

また、機会を設けて、学校は企業の研修に参加するのもいいと思う。

Microsoftは新しいWindowsの発表の時など、その開発の意図や技術的内容の講習会を開催することがあるが、これに参加できるチャンスもある。

当然と言えば当然だが、プロジェクターやその他の機器を使ってまことにスマートに講義をすすめる。
もしかしたら、関心のある学校の教師も参加したことがあるかも知れない。





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posted by edlwiss at 23:29 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年03月27日

いざという時、頼りになる人

自分の周りを見渡して、いざという時、頼りになる人はどのくらいいるでしょう?

「いざという時」と言っても抽象的です。

では、具体的にどんな時?

学校の教師なら、研究授業の指導案に困った時、相談できる人がいるといいです。

どのくらい頼りになるかは別として、とにかく親身になって相談に乗ってくれる人がいるというだけで、心強いものだと思います。

人生には時に悩みがあって、それがとても難しい悩みだとしても、話を聞いてくれる人がいるだけでも気が晴れて、やる気が出てくるということがあります。

私の好きな小説(映画)「二十四の瞳」では、家庭が貧しくて学校に行くのも困難になる子どもが出てきます。

大石先生はその子どもの家を訪問して、その子が欲しがっていた花柄の弁当箱をそっと差し出して「何にもしてあげられないけど」と言いながら涙するところがあります。

本当に何とかならないものかと思うのですが、現実の世界にはそういうことがあります。

経済大国といわれる日本でも、今、現実に幼い子が家の中で餓死していたとか、80代の夫婦が餓死していたという話があります。

フィクションには、めでたしめでたしで終わる話も多いですが、現実には必ずそうなるというものでもありません。

■普段大きなことを言うが、いざとなると逃げる人

私はこういう人を見ると、自分が恥ずかしい気分になります。
だから、自分はこうはなりたくないと常々思っています。

だから、スポーツでも何でもすばらしい活躍をして、インタビューされた時、謙虚な人には感心します。
そして、こういう人が、いわゆる一流(偉い人)なんだと思うのです。

そういう人はたくさんいますが、尺八の演奏家に山本邦山という人がいますが、この人の演奏をはじめて聴いた時、本当に驚き、震えるほどの感動を覚えました。

この山本邦山氏は2002年に人間国宝に認定されましたが、この頃の談話で
「私もやっと、みなさんと一緒にアンサンブルができるぐらいになったかなと思います」
と言っていました。
これにも驚くと同時に、頭が下がりました。

大きなことを言う人は注意してかかった方がいいと思っています。
4月は新しい出会いのある季節でもありますが、新入社員にとってはどういう人と付き合っていくかが、人生の選択の一つだと思います。

新卒の頃を思い出すと、4月1日に職員会が終わって、職員一同で花見に行ったことを思い出します。
今、その花見の名所近くに住んでいるのも、何か運命のような気がします。

私は母親(叔母)に苦労をかけたので、一応先生になったものの、そのうちもっと収入の多い仕事について、孝行しようと思っていました。
ところが、奇跡とも思える17人(全職員18人)との出会いがあったため、ずっと続けてしまいました。

deairoule,jpg.jpgすばらしい出会いというのは、18人皆が感じていたと思います。
その証拠に、その時の人たちとの会が毎年とぎれることなく行われて、今に至っています。

校長をはじめとした役職の人たちも、生意気な私によくしてくれました。
私は生意気と同時にわがままでもありました。

それを叱るわけでもなく、褒めていただいたことの方が多かったような気がします。
本当に器の大きな人たちでした。

はじめに担任した小4の28人の子どもたちも、本当に子どもらしく、私は嬉しくてたまりませんでした。
そして、その子たちを3年間4、5、6年生と担任させてくださった校長先生にも感謝しています。

その時、40歳半ばの女の先生がいましたが、その人は私のやることを見ていて「私も若い頃は、そうやって頑張ってやった・・・」と夢中になっている私に水を差すような言われました。

しかし、驚いたことにその先生が後になって「どうやって、やって見えますか、私にもやり方を教えてください」と言われたことがありました。

なかなかこんな人はいないように思います。
こういう人も「偉い人」だと思います。
この人は亡くなりましたが、私にはとても印象的な言葉で、今は見習うべきことと思っています。

それとは、全く逆のような人が、学校以外の交友でありました。

人が特定されるとよくないので、私が思う"感心しない人"を箇条書きにしてみます。

1.やたらに自分の自慢が多い人

自分の過去の栄光(?)を話すことが多い。

2.自分では範を示さない人

他人の批判は多いが、自分で手本を示さない人。

3.偉い人の名前がやたらに出てくる人

偉い人(有名人)と自分が繋がりがあると吹聴することが多い人。

5.友だちのいない人

友だちがいないことが、必ずしも悪いわけではないが、なぜいないのかには理由があるだろう。
その人を知るには、その人の友だちや交友関係を見よと言います。

6.本物を嫌う人

自分には自信がないので、常に言葉巧みに装っている人。
自分は偉いと自慢するクセに、本当に偉い人に会うのを避けようとする。

7.他人の悪口が多い人

2.と似ているが、実力はないので、コンプレックスを持っている可能性がある。

8.抽象的な話が多い人

実践がないので、具体的な話ができない。
突如、因果関係(根拠)のない話と結びつけて語るのは、妄想の領域である。

9.頭のおかしい人

企業や私立学校では、こういう人は勤め続けられないと思いますが、公立学校にはたまにいるような気がします(私自身が会っているから)。
大体は噂でわかる。参考サイト

10.顔は履歴書

「男の顔は履歴書」と言いますが、男にかぎらず、人相はその人のそれまでの人生を語っていると思います。
もちろん、美男美女ということではありません。

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結局、頼りになる人とは、いざというときに逃げない人と言えるだろう。

最近はfacebookという便利なものがあるので、これを活用するといいと思う。

実名登録なので、本当に信頼できる人同士のつながりができる。

10年以上も会っていなかった人との交流ができたり、恩師と巡りあったり、教え子と巡り合うこともある。





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posted by edlwiss at 19:48 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2013年03月26日

規定にありなしと対応するしないのわからない人〜損保の事情

停車中、後続車に追突された事故。

この場合、倍賞の責任割合は0:10、つまり追突された側に責任はない。

追突した方が相手だとすると、相手が全面的に損害賠償するわけだ。

ところが、話し合いがもめる場合がある。

その時、責任ゼロ側の保険会社にはサポートする規定はない。

そういう旨を説明すると「保険料を払っているのに」と怒り出す契約者がいる。

しかし、それは「サポートをしない」と言っているわけではない。

殆どの場合、保険会社か代理店が相談にのってくれるわけだが、示談でもめる場合は解決に至るまでのサポートには限界がある。

必ず解決まで責任を持ちます。いや、持てるという権限がないわけである。

それを、高い保険料を払っているのにとか対応が悪いとか、責任放棄などとわめく契約者がいる。

だいたい、自動車保険というのは、相手に対する弁済が基本なわけである。

だからオプション(特約)でもない限り、自分のトラブルには対処できないのだ。

まして、刑事事件となれば、保険会社の出る幕は全くない。

常識ある社会人なら、こういう理屈は理解できなければいけない。

特に、人にモノを教える立場の教師であれば、ことを感情に支配されず、法律や規定を冷静に解釈できなければならない。

「オレが不満だから」ということだけでゴリ押しをすれば、バカにされるだけだ。

このような事故に限らず、世の中には規定(責任)があったりなかったりすることがあって、だから、現実に即してどう対処するかは別ということがある。

■自動車免許を取得できなかったM氏

sekensirazu2.jpg運転免許証を取る時は、自動車学校へ行くのが普通である。

そして、ほとんどの人は免許を取得してくる。

だが、自動車学校へ行ったにも関わらず免許を取れなかったM氏がいる。

M氏は頭がわるいわけでもないし、身体に異常があるわけでもなかった。

理由は教習場の指導員の態度に腹を立てて、指導員を殴って教習をやめてしまったからだ。

所定の費用は払っている。

普通、自動車学校へ行くというと、そのうちに免許をとってくると人は思う。

しかし、自動車学校というところは、必ず免許を取得させてくれるという約束をしてくれるところではない。

免許を取得するまでの必要な教習や講習には責任を持ってくれるが、免許が取れるかどうかは、あくまでも本人次第なのだ。

ここにも、必ず免許が取れるように指導しますという規定はない。

意気込みとして、そういうことを言う場合があるかも知れないが、それは責任を持つという規定があるのではない。

世の中には、普通のこと(常識)がわからない人がいる。

本来、教師はそういう人たちにも説明ができるようでなくてはならないと思うのだが、学校というエリアに閉じこもってガラパゴス状態になって、いつの間にか世間の常識とかけ離れていると言われたくないものだ。

「先生と警察官の使い古しは役に立たない」と昔から言われる。

そういう言葉が死語であることを願いたい。





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posted by edlwiss at 22:51 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会時評

2013年03月26日

コンピュータとの対戦

shogi.jpg人とコンピュータとの将棋の対戦が話題になった。

コンピュータとの対戦と言っても、コンピュータもプログラムも人が作ったものであるから、ほとんどは人と人との対戦と言える。

ほとんどというのは、最近はコンピュータのプログラムも人工知能型言語を使うので、一度作られるとコンピュータ自身も考えるからだ。

今回の将棋対戦は人の方が勝ったが、対戦したプロは「人間のようだ」と言っていた。

私も将棋のソフトは持っているが、これがなかなか強い。

いや、私のほうが弱いと言った方がいいのかも知れない。

有名なプロ棋士、羽生善治(タイトルが多すぎて紹介に困るが)氏は15歳でプロ入りしたのだが、パソコンによって鍛えた世代である。

将棋会も勝負の世界であるから、年齢に関係なく強い人が上に立つ世界である。

将棋と言えば、それまでベテランの棋士に入門し修行するという感じだったが、パソコンの影響で様相が変わった。将棋界は若返りした。

パソコンで将棋力を鍛えるというのは、今、十分可能なのだが、パソコンとの対戦で実力が標準化できるというメリットが出てきた。

ある将棋ソフトに勝てるかどうかで、対戦者がどのぐらいの力を持っているかレベルがわかるということだ。

このレベルがわかるというのは、非常に大きなメリットで、将棋に限らず思考力を試すことができる。

sinribunseki.jpgそんなに凄い思考力でなくても、正常かどうかをかなり調べることができる。

犯罪が起こると、時に精神鑑定が行われるが、医師の精神鑑定によらなくても、ある程度の思考力はわかるだろう。

ごく常識的な思考力を試すことができるということだ。

例えば「お父さんは男ですか女ですか?」という質問をコンピュータにさせて回答させる。

回答は、男か女かしかないので、どちらかを答えることになるが「どちらでもない」とか「第三の選択もある」なんて答えたら、おかしいということが判定できる。

これはごく簡単な例であるが、コンピュータのプログラムは理論的にできているので、被験者の回答が何の根拠も繋がりもないものであったり、逆に当然推論できることに答えられなかったら、思考回路が変だと判定できる。

izyoucheck.jpgこのように、コンピュータによる質問によって、とんでもない思考をする人をチェックすることができる。

これは思想調査ではなく、人が社会で共同生活する上でコミュニケーションがとれるかどうかの判断ができるということである。

思想調査というのは、イデオロギーに関してチェックするもので、今回の話はそういうことではない。

教師ならば「きまりは破るためにある」と子どもに教える人は困るわけだから、そういうことのないように、ほとんど常識の領域をチェックするということである。

人によっては、長い話をすると自己矛盾に気づかない人もいる。

そういうことも発見できるだろう。





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posted by edlwiss at 19:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年03月26日

道徳の実践

芥川龍之介の杜子春の一部です。
鉄冠子は杜子春を絶壁の下に坐らせて、
「おれはこれから天上へ行つて、西王母(せいわうぼ)に御眼にかかつて来るから、お前はその間ここに坐つて、おれの帰るのを待つてゐるが好い。多分おれがゐなくなると、いろいろな魔性(ましやう)が現れて、お前をたぶらかさうとするだらうが、たとひどんなことが起らうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口を利いたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好いか。天地が裂けても、黙つてゐるのだぞ。」と言ひました。
「大丈夫です。決して声なぞは出しはしません。命がなくなつても、黙つてゐます。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階(きざはし)の前へ、倒れ伏してゐたのです。
 杜子春は必死になつて、鉄冠子の言葉を思ひ出しながら、緊(かた)く眼をつぶつてゐました。するとその時彼の耳には、殆(ほとんど)声とはいへない位、かすかな声が伝はつて来ました。
「心配をおしでない。私たちはどうなつても、お前さへ幸せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰(おつしや)つても、言ひたくないことは黙つて御出(おい)で。」
 それは確に懐しい、母親の声に違ひありません。杜子春は思はず、眼をあきました。さうして馬の一匹が、力なく地上に倒れた儘、悲しさうに彼の顔へ、ぢつと眼をやつてゐるのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思ひやつて、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む気色(けしき)さへも見せないのです。大金持になれば御世辞を言ひ、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何といふ有難い志でせう。何といふ健気な決心でせう。杜子春は老人の戒めも忘れて、転(まろ)ぶやうにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん。」と一声を叫びました。

この場面は、人なら誰でも心を打たれる場面だと思います。

これは、フィクションですが長い人生の間、人は苦しい選択に迫られる場面があるかと思います。

そういうぎりぎりの場面に遭った時、道徳心が試されるものと思います。

杜子春は小学校で国語の教材として指導したことがありますが、その時、私は、かつて母親から似たような言葉を聞いたことがあります。

「お前が幸せになれることが、私にとっても一番いいことなのだから、私のことは心配しないでいいんだよ」

と。

この時、私にとってはとってもいい話が外部から来ていました。
その話を受けていたら、一生金には困らない話でしたが、問題は家を出なければならないことでした。

私が、もし次男という立場なら受けていたかも知れません。
しかし、私は一人っ子。
しかも、母と言っても、母親代わりになってくれた叔母で、親のいない私を小さい頃ひきとってくれた人でした。
貧しい中を小さな雑貨屋をやって育ててくれましたが、叔母の夫は私が中二の時、交通事故で亡くなっていました。

この「いい話」というのは、私の全く知らないところで進んでいて、ある日、突如、叔母が私に話したのです。

私は迷うことなく、その話は断りました。

その時、私の心に突き刺さったのは、叔母の

「お前が幸せになれることが、私にとっても一番いいことなのだから、私のことは心配しないでいいんだよ」

でした。

私にとって「断る」ということは、この場合は苦しい選択でも何でもありません。

また、美談でもありません。

当然のように、そう選択させたのです。

でも、後になって、何がそう選択させたのだろうか考えてみました。

そうしたら、それは叔母が自分のことも顧みず、全てを私のために愛情をかけて育ててくれたことがそうさせたのだと思いました。

幼い時は親の苦労など知るべくもなく、わがままを言ったり困らせたりして、感謝の気持などなかったと思います。

しかし、親の愛情というものは凄いエネルギーで、何よりも強いもので、これを負かすものはないと思います。

■知っていることと、実践することとは必ずしも一致しない

これは、ある私立の小学校の話です。

そこでは、おやつの時間があって、時間になるとシスターと言う人がおやつを教室に持ってきます。

シスターがおやつの入った箱を前に置くと、一人の女の子が

「シスター、それ、始めに取らない子がいい子でしょう?」

と言いました。

シスターはその言葉をを聞いて、ニコニコして出て行きました。

すると、その女の子がさっと前に出て、真っ先におやつを取りました。

道徳を教えることは難しいことと思います。

道徳とは以下の意味です。
人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。
goo辞書

自発的に正しい行為へと促す内面的原理というところが大切なわけです。

道徳教育というと、よく教育勅語の復活を唱える人がいます。

「お父さんお母さんを大切にしよう」

というのがあります。

道徳の時間にこう言ったら、子どもたちはそうするようになるのでしょうか?

指導というと、言葉で項目を伝達することと思っている人、そしてその項目を子どもたちの口から言わせることと思っている人もいるようです。

しかし、道徳が自発的に正しい行為へと促す内面的原理ということであるなら、先の、真っ先におやつを取りに行った女の子は、言葉では知っていても身についていないと言えるわけです。
道徳教育に注目をおかれている今日ですが、私は、道徳教育が言葉の伝達だけに終わってしまうことを恐れています。

doutokuhatsumon.jpgかつて、子どもたちが私の家に遊びに来たことがあります。
その時、私はその子どもたちの担任ではなかったですが、いろいろ話をしているうちに、一人が

「せっかくここまで来たんだから、帰りに○○へ寄って行こうよ」

と言いました。

すると、すぐに

「だめ、だめ、そんなことすると先生が叱られる」

と言った子がいます。

つまり、この子たちは、先生の家に遊びに行くということで許可を得てきたわけですが、それ以外のことをすれば、担任の先生が、指導が悪いということで校長先生に叱られると言うのです。

私は、この子たちの担任はすばらしい人だなあと思いました。

子どもたちの心に響く、良い教育をしている人と想像しました。

道徳の実践とは、このように、いちいち教えられなくても、子どもがその場その場で自発的に正しい行為を判断し実行することだと思います。

そのためには、日頃の教育実践にウソがあってはならないと思うのです。

親の愛が、その後の子どもの行動を左右するように、学校教育も子どもに愛情をかけることこそ、自発的に正しい行為のもとになるものと思います。





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2013年03月25日

道徳の研究をするとなぜいじめが起こるのか

korette.jpgこれは、現役の先生ならおわかりですね。

話題の、いじめ自殺があった中学校も道徳の研究校じゃなかったですかね?

まさか、道徳の研究をしていたから、あれで良くなったのだとは言わないでしょう。

■シナリオ作りが必要になる

道徳の研究校になると、研究の結果、よくなったというゴールを設定し、そのシナリオ作りに熱心になって、現実にいる生徒たちに手がかからなくなるわけです。

もちろん、私は全ての学校がそうだというつもりはありません。
当然のことですが、全国の学校がわかるような超能力は持っていませんから。
私が知っている範囲での話になります。

ところで、何のためにシナリオを作るのでしょう?

それは誰のためなのか?

生徒のためですか?

聞くまでもないですね。

はっきり言えるのは、大人がやっていることそのものが、よくも悪くも生徒への教育になるのだと思います。

大人は信頼できると思うのか、大人は醜いと思うようになるのか。

■本音でいこう

本音というか、ありのままでいこうと言うのが、私の意見です。

いじめと道徳の研究の問題だけでなく、スポーツ指導における暴力問題も、みな「結果がこうならなければ」ということをはじめに決めるから問題が起こると思うのです。

hazukasikute.jpg絶対に道徳心が向上したという結果にしなければならない。
絶対に勝たなければならない。

これは、結果がよければどんな過程を経ても良い。
逆に、結果が悪かったらどんな努力も認められない。

こういう考え方が中心である限り、研究は捏造となり、試合で勝つためには体罰(暴力)がまかり通る。

だから、いじめや体罰(暴力)をなくすためには、こういう考えを排除しなければならないと思うのです。

評価する側も、結果だけを見るのではなく、その結果に至るまでにどのような過程を経たかに注目して評価しなければなりません。

■道徳の教科化

今朝の新聞によると、道徳教育の教科化が提案されているということが特集になっていました。

道徳を教科にすることで、どういうことが考えられるでしょう?

道徳を教科にするというだけでは、良いとか悪いとか、何も言えないと思います。

問題はどう運用するかにかかっていると思います。

教科にすることで、成績がつけられるということになるとどうでしょう。

どう評価するのかが問題になります。

例えば、好ましい行動についてテストをするとします。

それで、好ましいとされる解答に合わせて採点して、点数が高い者が道徳心があるとしたらそれは誠におめでたい評価と言わざるを得ません。

また、国が望ましいと思うことを正解としたら、それは場合によっては価値観の押し付けになる恐れがあります。

いい悪いを教えてやらないから、世の中が乱れるのだという人がいますが、果たしてそうでしょうか?

悪いことをする人は、善悪を知らないのでしょうか?

そうは言えないでしょう。

だから、善悪を知っているから道徳性が高いとも言えません。

特に教わらなくても、人の痛みを感じて、それを回避するような子どももいると思います。

道徳の成績をつけることは、非常に難しいと思います。





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2013年03月24日

感動こそ原動力

人間型のロボットは日本が世界をリードしていると言われますが、最近ではアメリカが猛追しているようです。

アメリカが研究を盛んにすると、軍事目的ということが心配になります。
今後、ロボットの平和利用が課題になってくるように思われます。

日本で人間型のロボットを作り始めた人たちは、少年の頃、手塚治虫氏の鉄腕アトムに刺激され、それが原動力になったということです。
鉄腕アトムに感動したわけです。

東北の震災以降、この人型ロボットに対する期待がよけい深まったと言います。
ロボットと言うと、今までは単一の仕事しかできませんでしたが、人型ロボットは放射能で汚染された原発内に入っていって、ドアを開けたりコックをひねったり測定したりするわけです。
近いうちに、そういうロボットの姿が放送されたりするかも知れません。
そんな姿を見たら、人は感動すると思います。
そして「僕も、将来、ああいうロボットを作る人になりたい」という子どもが出てくるかも知れません。



人は感動するとものすごいエネルギーを出すと思います。

トロイの発掘で有名なシュリーマンも5歳の時に、父親からの話に感動し、それが一生をかける仕事になったわけです。
私はこのトロイの発掘を、大学でドイツ語を学んだ時の教材で知りました。

シュリーマンの父は、息子が話しに感動し「お父さん、ぼく、その宝を発見するね」と真剣になるので「これは作り話なんだよ。本当にあるわけではないのだよ」と言って聞かせたというくだりがありました。

父親の話がよほど上手だったのでしょう。
教師もこうありたいものです。

時代は文明が進んで、マルクスの言う分業化が進み、生産性が高まったのはいいのですが、それだけ仕事の面白さもなくなったのではないでしょうか。
面白さも減ったことで、感動も少なくなったと言えるのではないでしょうか。

だから「手作り」という言葉の重みが大きくなってきたように思います。

「これ、手作りです」

と言うと、人は感動するわけです。

私は今も、母親が毛糸で編んでくれた車のシートカバーを大切に使っています。
これも感動の持続です。

kandounozyouken.jpg人は感動するときに幸福を感じるのではないでしょうか?

と言うことは、感動の多い人生ほど幸せが多いと言えます。

授業の進め方の一つに、最初の授業でデモンストレーションを行うというやり方があります。

例えば、酸素と水素の学習をするときに、爆鳴気を作ってびっくりさせるというやり方です。
これを実際にやった先生がいて、突如、大きな音がしたので、それまでボーッとしていた生徒たち目が覚めたようになりました。

もちろん、目を覚まさせるためにやったわけではなく、酸素、水素に関心を持たせるためにやったわけです。
恐らく、生徒たちは以後、酸素や水素が出てくると、この実験を思い出すことでしょう。

これも、はじめに感動を与えて惹きつけるということでしょう。

感動には情緒的感動性というものもあります。

これは、人間が生まれながらに持っている感情で、真・善・美にたいして無条件に感動するというものです。

小学校時代に偉人の伝記をすすめられるのも、こういったことからかも知れません。

私の場合、現在は自ら演奏して聴衆が感動してくれるかどうか。

また、楽器を指導して、私の発言により教えられる方が、できないことができるようになったりして、上達することで感動すること、それがまた次のやる気に繋がる、ということにならなければいけないわけです。





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2013年03月24日

波及効果を高める

一斉授業の機能は、伝達効率波及効果であると言いました。

伝達効率だけに注目すれば、それは映画館のようなもので、大きな会場にたくさんの人を集めて上映するだけです。

映画館の責任は、映画を支障なく上映することだけに責任があり、観客が上映中に眠っていようが関係ありません。

だから、映画を見に行ったが、眠ってしまって気がついた時には映画は終わっていたとしても、映画館は責任を問われることはありません。

これは、日本の義務教育制度に似たところがある(年齢主義か課程主義か:フリー百科事典「ウィキペディア」)
日本においても6歳から15歳までの9年間を義務教育の対象年齢としており、留年・休学などによるこの期間の増減はない。

義務教育ではない高校、大学では単に授業を受けただけでは進級できない。
義務教育が年齢主義だからと言って、無責任な授業をしていいというわけではない。
授業を受ける者の期待に十分に応えるものでなくてはならない。

■どのようにして波及効果を高めるか

授業としての魅力は波及効果にあると思う。

門前の小僧習わぬ経を読むという言葉があるが、これこそ波及効果の例と言えるだろう。

下の音楽を聴いてみてください(左端のスピーカーの右の右向き三角1をクリック)


これは、ヘンリー・パーセルの「ロンド」という有名な曲です。

演奏しているのは小学校2年生の女子です。

小2の女子というだけでも驚きですが、この女の子は誰かから教わったというわけでもなく、自分で練習して演奏できるようになったのです。

これだけの話なら、特に取り上げるべくもないと思いますが、この女の子が演奏できるようになった経緯に意味があります。

この女の子が授業を受けていると、音楽室からこの曲が聴こえてきたのです。
それは、音楽室での6年生の授業でした。

女の子は音楽室から聴こえてくるこの曲が気に入って、自分も演奏するようになりたいと思い、一人でリコーダーを練習するうちにできるようになったのです。

これこそ門前の小僧習わぬ経を読むを想起させるものではないでしょうか。

離れた音楽室の授業の波及効果とも言えます。

これは教師が意図したものではありませんが、子どもは予想外のところから影響(波及効果)を受けていると考えられます。

教師は広く教養を持ち、どのようなことが子どもの心を掴むかを考えねばなりません。

私事で恐縮ですが、中学校の教師時代に他校の先生から、何か特別な指導をしているのに違いないと言われ、かなり大勢の先生たちが指導現場を見学に来たことがあります。

そして「何も特別なことはしていないのですね。不思議です」と言われました。

■教師の言葉が大切

授業は殆どの場合、教師の発言が始まります。

その一言、一言で子どもは影響を受けるわけです。

こんなことは、中位の子どもを意識して授業をするなんてことは考えない(当たり前のこと)先生にとっては釈迦に説法と言えます。

教師の一言が子どもたちに波及効果を生み、それが教室の子ども全体に及び、さらに教室外の2年生の女の子にまで影響を与えることがあるのです。

子どもは教師の一言で、感動したり失望したりするものです。

感動すれば、子どもは前向きになります。

感動が多いほど、教室は活発になり、その授業の期待度も大きくなります。

■人間に上下はない

学校はよくテストを行うので、そのテストによって序列をつけ、それがあたかも人間の序列(上下)のように錯覚してしまうということはないでしょうか。

そんなことはないと言っても、心の中でイメージしてしまっていることはないでしょうか。

人の能力は幅広いもので、学校のテストだけですべてを測ることはできません。

オセロゲームに強いというのも一つの能力です。

弁当を食べるのが早いというのも能力の一つでしょう。
ある会社では新入社員の採用にあたって、弁当を出して、早く食べる者を採用したと言います。
そのわけは、弁当を食べる者が仕事もよくできる傾向にあるとの結果があったからだそうです。

私は小学校、中学校と子どもを教えて、年とともに教える対象の年齢も上がって来ました。

高校生を指導すると、中学校でどう教わってきたかが想像できます。

今は大人が指導の対象です。

それまでが子どもだったのと違うのは、教える対象の人たちが大人だと言うことだけでなく、彼らが公務員ということです。

kyouikukouka.jpgつまり、彼らは仕事でやっているわけです。

仕事でやっているということは逃げ場がありません。

逃げ場がないということは、教える側にとっては好都合のようにも思えますが、そうとも言えません。

「もし、嫌になったらどうしよう。仕事をやめざるを得ないか?」

という不安があるからです。

だから、希望をもたせる。自信をもたせる指導が必要だと思います。

波及効果を高めるということでは、教え方は子どもと変わりません。

一人一人の特性を知って、この場合には誰それに聞こうとか、誰それにやらせてみて、それが他の人への手本になるようにしようとか、自信の無さそうな人には、良いところを取り上げて褒めるというようなことを繰り返すわけです。

人を上中下のように区分けしないで、先入観を持たず、一人一人を尊重するという姿勢を大切にしています。

良い方向に行っているかどうかは、全体の雰囲気の変化でわかります。

次はどのようなことを指導してくれるのか、という期待が高まることが大切と思います。





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2013年03月23日

あたりまえのことに疑問を持ってみる〜授業

jyugyou.jpg■一斉授業の機能

学校で一斉授業の行われる時間は多い。

一斉授業は授業の中心と言ってよいかも知れない。

そういう一斉授業の機能としての良さは、プロである学校の教師はよくわかっているはずである。

まさかと思うが、

一斉授業では授業を受ける側のレベル差があるので、上位に合わせると中位、下位の者には難しすぎる。
そうかと言って、下位に合わせれば上位、中位の者には易しすぎてしまう。
だから、中位の者に合わせて授業をする。

なんて人はいないでしょう。

言うまでもないことだが、中位に合わせれば、上位と下位の者は無視ということになる。

それに「中位とは何か?」という問いかけをした時、回答はあるのかということになる。

■人はみな違う

生産性を上げるための均質な労働者を生み出すには、プラスチックの成形のような人作りが目標であったように思う。

それは、日本の経済復興には役立ってきたと思うが、同時に人そのものが心を捨て「みんな同じ」を強制されてきた。
人と違っていると叩かれるという風潮も、できてきたように思う。

今日でも、個性はしばしば正しく理解されないことがあって、ひどい場合は利己主義と結び付けられてしまう場合もある。

完全に同じ人間というのはいないのであって、誰も彼も全く同じになるように強制されると、そこにはストレスが発生する。

さすがに食べ物だけは強制されないのは救いだが、そこまで強制されたら、畜舎の動物と同じようなものだ。

いや、学校給食はみな同じ物を食べさせられるから、これは食べ物の強制と言えるだろう。
だから、私は学校も食堂にして、せめて5つぐらいのメニューから選べるようにすることを推奨している。

また、話が脱線してしまった。

言いたいことは、人はみな違うので、何をもって上位、中位、下位というのかわからないが、仮に中位に合わせると言っても、中位の人には合っているとは言えない。

だから、同質の人が集まるのは不可能と言いたいのだ。

■一斉授業のメリット

一斉授業のメリットとして2つ挙げたい。

1.伝達効率がいい

同じことを一人一人に伝えていると、能率が悪いが、伝えるべき人を全員集めて話せば一度で済む。

2.波及効果がある

学習塾では個別学習を売りにしているところがあるが、個別学習が万能ではない。

ある人に意見を言わせると、他の人がそれを聞いていて「あの人はああいう考え方をするのか」とか、その発言をもとに今までも思っていなかったことが浮かんできたりする。

人はみな違った環境で生活しているから、他人の経験を活かすことができる。
つまり、一人の発言が伝播して波及効果を生むのである。
三人よれば文殊の知恵というが、授業者が波及効果をうまく利用することができれば、複数の人間が会することにより、非常に大きな成果を生み出すことができる。

私は吹奏楽を指導しているので、しばしばその経験を例に出すが、一斉指導において困るのが打楽器である。
理由は他の木管、金管、弦楽器がメロディーを担当するのに比べ、打楽器はほとんどリズムだけで、指導中には何もしない時間が多くなりがちである。

そこで、効率が悪いということで打楽器だけ別室で練習をするという方法を試みた報告があった。
ところが、一斉指導中は暇でも、全員の中にいる打楽器の者の方が上達したということだった。

それは、演奏はあまりしない(ヒマ)でも、他の楽器についての指導を聞いている時に学ぶ情報量が多いということだった。

これは、全く発言しない者が学んでいないかというと、そうではないということを表している。

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まとめとして、一斉授業においては、その場にいる者にどの程度、波及効果を与えているかを念頭に置き、誰に指名するか、そしてその者の発言をどう活かすかの技術を高めるべきと思うのである。

40人を個別に指導すると、一人5分使うとしても5×40=200で200分、3時間20分必要ということになる。

しかし、波及効果のよい指導なら40人を、1時間の指導で大きな効果を生み出すことができる。

「あんなに大勢をよく短い時間にしどうできましたね」といわれる指導者は、波及効果をうまく使う人であると言えるだろう。





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2013年03月21日

きまりは窮屈なものか?

人は意見を述べる時、何かをイメージして言うものだと思う。

きまりを窮屈なものだと思っている人は、何かきまりに対して抵抗があるのだろう。

きまりを考える時「きまり」という大きな集合の一部しか考えていないのではないか?

kojinshugito.jpgあるいは「きまりが邪魔」と思う「わがまま」の現れか?

今日の新聞に、乗用車同士の正面衝突の記事があった。

この事故で3人の人が亡くなったとあった。痛ましい事故である。

原因は一方の乗用車がセンターラインを越えたらしいとあった。

私たちは車を運転する時、普通の状態ではセンターラインを越えないようにする。

他人もそれを守ってくれると信じている。

「センターラインを越えないという決まり」を互いに信じているわけである。

■決めたら守らなくてはならないのがきまり

きまりというと、形式という言葉を連想し、さらに形式主義を連想する人もいるらしい。

形式主義とは以下の意味である。
1 内容よりも形式を重んずる考え方。
2 カントのように、認識の普遍妥当性を認識形式に関して吟味する立場。道徳に関しては、その根拠を実践理性の純粋形式的法則とする。
3 美学で、感覚的要素の意義を否定し、形式に美の原理を認める立場。
goo辞書より
1の意味を意識して、形式主義は「よくないこと」と解釈される場合がある。

しかし、自分の都合で形式主義はよくないから守らなくてもよいと考えるのは、ずいぶん自分勝手な考えである。

これは、第一に自分の都合を考え、形式が邪魔になると、形式を守らなくてもよい理由を探しているだけと思われる。

きまりは形式だととらえ、形式主義はよくないから守らなくてもよいという短絡的な考えを持ったら、危険極まりない。

赤信号は止まれだが、これは「きまり」=「形式」→守らなくてもよいとなったらどうか?

たまったものではない。

始めの方で言ったように「きまり」の範囲、すなわち集合が大きすぎるのだ。

きまりにもいろいろあることを無視してはならないのである。

■きまりは変更してよい

きまりは何のためにあるのか?

人を縛るためにあると考えるのではなく、複数の人間が幸福に暮らすためにあるのだ。

もし、この世の中に自分しかいなかったら、きまりは必要ない。

きまりを窮屈なもの、不自由なものと考える人は、きまりを変更することを考えればよいだろう。

しかし、自分一人で変えることは許されない。

「今から、オレは右側通行で車を運転することにする」

こんなことをしたら、きまりはないものと同じになってしまう。

きまりは他人と同じ世界に暮らすためのものであるから、きまりを変えたい場合は他人と相談の上変えなければならない。

家庭内のきまりなら家族に相談するだけでよいが、一歩家を出た時のきまりは社会という範囲のきまりになる。

これは、最終的には地方自治体の議会や国会で決めることになる。

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以上述べてきたことは、至極当たり前のことで、子どもっぽいとさえ言える。


しかし、子どもっぽいことさえ、わからない大人がいるという懸念を抱かざるを得ないという、私の取り越し苦労である。

笑えるのは、利己主義と個人主義を同一化している人、そして、みんなの幸せであるための「きまり」を窮屈なものと捉え、それが最も利己的な考えであることに気がついていないことである。

教師は常識を伝える人であるとも言える。

だから、教師にとっては釈迦に説法だっただろう。





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2013年03月20日

勝者がいれば敗者もいるのが勝負事

学校の体罰が問題になっていると思ったら、日本を代表するスポーツ界でも体罰が問題になっている。

スポーツは健全な精神を育むものではなかったのか?

どこか歯車が狂っているのではないだろうか?

何のために競争があるのか、原点に戻って考えてみたいものだ。

人と人が競争しあってレベルの高いものを作っていくのではないか?

某中学校の吹奏楽部は、全国大会出場の常連だった。

卒業生たちが同窓会を作って、夏休みには演奏会を開くようになった。

その準備に集まるのは、ほとんどが全国大会出場の常連になるまでの者たちだ。

つまり、全国大会代表にならなかった時の者が、下働きに来るのだ。

競争で一番育った者は、コンクールで敗者を経験した者たちばかりなのだ。

また、某一流企業では新入社員を全国から集めて数ヶ月の研修を行うが、ここで毎年何人かの自殺者が出るという。

研修のスタッフは「負けたことのない弱さでしょう」と言う。

ここの新入社員は、ほとんど超難関大学の出身者である。

■勝者がよくて敗者がだめだという錯覚に陥っていないか

勝負は決闘ではないので、敗者が死んでしまうということはない。

銃や刀は昔は人を殺すものであった。

そういう時代には、敗者は負けが死を意味していた。

しかし、なぜそんな人殺しの道具を使っていたものが競技になったのか?

それは、人としての精神を鍛えるために意味があるからだ。

だから、剣道はもとは剣術から剣道になったのだ。

柔道も然り。

優勝してしまうと、上がないからかえって、リーダーは次の目標をどうしようと悩むことが多いだろう。

今度は追われる立場になるわけだから。

そう考えると、むしろ負けた方が学ぶところが多いとも言える。

もちろん、力の限り尽くして負けなければ意味がないのだけれど。

■負けたことのない人間は弱い

私は、特に青春時代は負けを経験し、悔しい思いをした方がよいと思う。

悔しい思いが、甘さをなくし強い精神を作る。

小学校の時教わった「麦踏み」だ。

今でも覚えているが、伸びてきた麦の芽を踏んでしまうのは、衝撃だった。

「そうやって、冬の寒さに堪えられる強い麦ができるんだよ」

と先生から教わった。

高校生ぐらいの時だったと思うが、映画「王将」を観て涙が出てきた。

ohshou.jpg「勝ち」しか価値がないと思っている人は、一度この映画をみてもらいたい。

私は本当の勝者とは何か、この映画知ったような気がする。
勝ち負けにどういう意味があるのか、この映画(原作:北条秀司)はよく教えてくれる。

■人生にスタートはあるがゴールはない

これもいい言葉だ。

誰が教えてくれたのだろう。

今日の勝者は明日の勝者とは限らない。また、明日の勝者は次も勝者とは限らない。
こうして、勝負は延々と続いてみんなが成長する。

WBCも日本が負けて勝者が変わった。
かくして、野球が世界的にレベルアップする。

ドミニカ共和国、優勝おめでとう。

山本監督、ご苦労様でした。

こんな重圧に耐えて、監督ができる人はそうはいないと思います。

あなたを代表に選んだとということは、どんな結果になろうと引き受けたということです。

私は多くのことを学ばせていただきました。

ありがとうございました。





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2013年03月19日

人間の醜さ〜権力腐敗

民衆の不満が爆発してクーデターに発展するということは、歴史が物語っている。

圧政で解放された直後はいいが、政権をとった者がその地位を利用して収奪をするので、また民衆の不満が高まる。

始めは正義を振りかざしていても、人は権力を持つと腐敗に向かうようだ。

ougonjidai.jpg中国も役人の不正が絶えないという。

しかし、一旦、不正が発覚すれば処刑。

そんなに厳しく取り締まっているから、トップは厳正かというと、そうでもないらしい。

トップ、つまり幹部クラスになると搾取はかなりのものらしい。

今、富裕層の中には幹部の搾取によって豊かになった者たちがいて、そういう彼らが日本へ旅行して散財していくとも聞く。

下級役人の不正が減らないのは「どうせ上もやっているんだろう」という気持ちがあるのかも知れない。

■日本はどうか

それでは、日本はどうなのかというところに関心が行く。

ズバリ、税金が有効に使われているかでわかるのだが、これが不透明。

例えば、震災復興資金は国会で決議され、それが額面通り施行されたかというと、案の定という残念な予想が当たってしまったように、どうみても疑問に思う使われ方があった。

日本は民主制をとっているから、一部の権力者(たち)が国家の財布を握っていて、適当に懐に入れているという構図は見えない。

しかし、世界3位の経済大国と言われながら、国家財政が赤字だったり、餓死者が出たりするというのは、どうにも納得がいかいない。

一体、国の家計簿はどうなっているのか?

国は国民から得るすべての収入と支出を、一度も明らかにしたことがない。

明らかにできないのは、明らかにできない理由があるからだろう。

日本は見かけ上、国のすべてを握っている独裁的な権力者は見えないように形になっているが、権力を背景にした権限を持つ小役人たちの不透明な働きが気になる。

具体的には霞が関を頂点とする、役人たちが国会で決まったことを、作文力で変更し(これを霞が関文学と言っている)、復興財源が100%被災地に届かないような仕組みにしている。

かすめとった予算は、間接的に私腹を肥やすことに使われている。

会社で言えば背任と同じなのだが、そこは法律の網をくぐって合法的に見せている。

役人になるのは、作文力と法律の網をくぐる知恵が必要なのだ。

■金を握っているところが強い

スウェーデンでは70%もの税金を納めても、国民は不満を言わないという。

それは、使途が透明だからだそうだ。

日本では税金を納める感覚が「とられる」という感覚が強いようで、そのせいか、一度払ってしまった税金は国がどうしようと関係がないという気持ちが強くなったらしい。

それと言うのも、源泉徴収制度があるため、給料制の人は実際に自分の懐に入る金にしか関心がないという傾向になる。

だから、源泉徴収制度こそ諸悪の根源という人もいる。

ちなみに、アメリカはすべて申告制である。
(このため、パソコンが早く普及したと言われる)

■なぜ東大なのか?

東大生の就職希望先は昔から省庁が多い。つまり官僚になりたい者が多いということ。

これは、官僚になって国民の税金を自由にできる仕事に関心が強いからなのだろうか?

特殊法人への天下り、渡りを通じてわずか数年で何億という退職金の恩恵にあずかりたいからだろうか?

■権力を持つと腐敗する

これは、昔から言われてきている言葉である。

権力は国家権力だけではない。役職に伴う権限も権力の一つである。

学校の教師も子どもの前では権力者である。

権力を悪用することが腐敗であり、悪用するかどうかはその人の人格にかかっている。

権力だけに魅力を感じている人は、それを利用して私腹を肥やす方に動く。

名古屋市の河村市長は、庶民と同じ収入で暮らさなければ政治はできないと言って、自らの報酬を引き下げた。
こういう人は珍しい。





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2013年03月18日

中国と中国人 (2)

私の親代わりになってくれた叔母は、戦争中、満州(中国)の黒竜江省・チチハル(斉斉哈爾)市に住んでいました。
chichiharu.jpg生前に、しばしばその生活の様子を話してくれたことがあります。

戦争中ですから、日本と中国は互いに敵国です。

街は日本人と中国人が混在して住んでいたわけです。

すると、敵国同士の人間が住んでいるのは大変だろうと思いましたが、そんなことはなく、日本人、中国人の区別なくみんななかよく暮らしていたということでした。

ある家に不幸があると、人種の区別なくお悔やみにも行ったそうです。

チチハルは非常に寒い所で、窓は三重になっていて、猟で捕ってきた鳥などを窓に置くと冷蔵庫の代わりになったそうです。

当然、暖房は必須で暖房の係として中国人が雇われていたと聞きました。

日本の敗戦が濃厚になってくると、盗賊が日本人の家を襲ったということで、そういう気配は中国人がいち早く察して、中国人をかわいがって雇っていた日本人はかくまってくれたそうです。

こういう戦争中の話を聞いて、私は、民間人は敵も味方もないんだと感じました。

日本人は逃げて帰る時、やむなく赤ん坊を置いてきたと言いますが、その赤ん坊を預かった中国人は自分の子どものように、あるいはそれ以上に大切に育てたと言います。

その赤ん坊が孤児となったわけですが、大人になってから本当の親に会いたいということで、日中の政府が親探しの手配をしました。

しかし、親に会えたとしても、育ての親の中国人と暮らすことを希望した人たちが、大変多かったということを聞きました。

中国人も我が子同様の感覚だったようです。

戦争は為政者同士の争いと言えます。

そこに巻き込まれるのが民間人で、民間人同士が殺し合うというのは理不尽な感じがします。

これからの時代、民間人同士は互いの文化を尊重し、一部の我欲に凝り固まった為政者に振り回されることなく友好を深めたいものだと思います。

中国と言うと、やはり中国特有の文化があって、私はそういうところに中国人らしさを感じます。

ロシアの大作曲家、チャイコフスキーもバレエ音楽「くるみわり人形で」いろいろな国の踊りを紹介し、中国を「中国踊り」として作曲しています。

スポーツの世界も国境はありません。

為政者よりも民間人のパワーを高めるようにしたいと思います。

アラブの春のように、ネットを通じた交流を盛んにすることもいいのではないかと思います。







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2013年03月18日

教育の意味と教育の中身は別の話

「教育とは」と切り出すと、これは大変難しい話になってしまいます。

私の部屋の書棚には「教育学大辞典」という本が並んでいますが、これは「教育とは」という問に答えているものだと思いますが、この全6巻を持ってしても語りきれているとは言えません。

これも、折にふれて言うのですが「集合の概念」が大きすぎるからです。

「教育とは」と切り出している文章を読んでいると、教育全体について述べているのではなく、頭の中では限定して語っているものと思われるものばかりでした。

それは学校教育のことであったり、社会教育のことであったりします。

話が学校という範囲で語られている場合は、単に「教育」と言っても文意から学校教育のことを指しているのだなとわかることがありますが、話が混乱しないためにも誤解のないように書く(語る)べきです。

往々にして、簡単な言葉ほど中身は難しくなります。

難しくなると言って、簡単な言葉ほどと言うのは矛盾しているようですが、ここでいう簡単な言葉というのは集合で言えば要素の多い言葉です。

例えば「人間(とは)」と言えば、言うのは簡単ですが、なかなか語りつくせるものではありません。

話を戻して「教育(とは)」を知りたかったら、まず、辞典で「教育」を調べればいいのです。
教育
人間は歴史的に規定された社会的環境のなかで,意図的,無意図的なさまざまな刺激とその影響を受けて,成長し発達する存在である。教育とは,広義ではこれらの人間形成全体を指すが,狭義では一定の目的ないし志向のもとに,対象に対する意図的な働きかけを指す。この場合にも,次の世代への意図的働きかけにとどまらず,成人教育,生涯教育という言葉が示すように,同世代の,あるいは世代間の相互教育(集団的自己教育)を含んで使用される場合もあるが,より限定的には,先行世代の,次の世代(子ども,青年)に対する文化伝達と価値観形成のための意図的働きかけをいう。
ことバンクより
ここからがスタートだと思います。

言葉は、人と人がコミュニケーションをはかるために作られたものですから、共通の認識をはかるものでなければなりません。
そうでなければ、言葉を作った意味がありません。

上記のことバンク(世界大百科事典 第2版)よる解説は、皆が共通の認識を持つための基準として記述してあるものですから、この意味に基づいて話を進めなければなりません。

しかし、どういうわけか、ここに異議を唱える人がまれにいます。

これは、信号は赤で止まれと決めてあるのに、それに文句をつけているようなものです。

もし、どうしてもその意味に合理性がないとして異議を唱えたいなら、それ相応の手続きをとるべきです(日本は法治国家です)。

その後で、自分は教育についてどんな考えを持っているのか考えてみるべきです。

そうすると、自分の考えている教育とは学校教育のことだ、などとわかったりします。

学校教育と話を限定すると、学校教育の中身は国によって違いますから、さらに日本の教育というように限定しなければなりません。

■日本の教育

日本の教育は、教育の憲法とも言われる教育基本法に基づいています。

gakkoutte.jpg日本の学校教育に言及する時は、随時これを参照すべきでしょう。

教育を語る時、教育基本法を読まずして、勝手な考えを述べているのも見かけます。

特に以下の部分。

第五条  国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う

※ 子に義務を負わせていない。
※ 子供を保護する日本国民(保護者)の義務については、15歳までの最長9年間は教育段階に応じる一条校に就学させなければならない。

第十六条  教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。

※ 教育をある支配的な意図を持って行なってはいけないとある。

■何が不当な支配にあたるのかについては議論がある

例えば、為政者が自分のために都合のよい教育を行うことは不当な支配になる場合もあるだろう。

これは、日本がかつて軍部の台頭により、軍国主義教育に進んだことの反省があるものと考えられる。

だから、時に教育は政治の歪や醜さをも批判できる人間が育つことにより、人権侵害を防いだり世界平和に貢献できると考えられる。





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posted by edlwiss at 20:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

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