2013年04月30日

箱庭教習

hakoniwa.jpg自動車学校の教習のことが箱庭教習と揶揄されることがあります。
もちろん、それは自動車学校の敷地内の教習のことですが、学校もそういうことがないか考えて見ることは無駄ではないと思います。

自動車学校には路上教習があります。
これは、箱庭教習と言われる批判に応えたものだと思います。
路上教習の時間が現状で十分かどうかはわかりませんが、これは随時検討されることでしょう。

自動車の免許を取得するための講習も、広い意味では教育と言えます。
学校教育と違うのは、義務教育が一定の年限を設けている(年齢主義)のに対し、自動車学校はそうではありません。
講習ごとに評価し、教習者は合格点がもらえなければ先に進めません。
これを課程主義と言います。

と言うことは、自動車学校が卒業できれば一応、曲がりなりにも自動車が運転できる技能を習得したとみなされるわけです。
ここは義務教育の学校と大きく違うところです。
義務教育の学校で、合格点に達しなかったから進級できないとか、卒業できないとかの話は聞いたことがありません。

自動車学校を卒業できることは、運転技術を保証するというということです。
義務教育ではそのように、あるレベルを保証するものではありません。
義務教育の年数を終了したという証明をしているだけです。
こういう違いは、指導する人の意識に違いが出てくるとも言えます。

自動車学校の場合、卒業させる以上は運転技術が未熟であってはならないので、安易に合格にすることはできません。
それに対し、義務教育は卒業してから、どれほどのものを身につけたかを問われ、あるレベルにないから卒業が取り消されるということはありません。
自動車運転免許は、ひどい場合は停止、取り消しといった処置があります。
だから、自動車学校の指導員は、練習したから適当に合格にするということはなく、必ず合格水準を意識して指導しているものと思われます。
そうしなければ、指導員自身が指導力を疑われる場合もあるからです。
そして、指導者として不適格(指導力がない)とみなされたらクビもあるわけです。

義務教育では、先生が特別に異常でもない限り、そういうことはないので、卒業生の身につけたことに対し批判はうけることはあっても、それ以上の追及はありません。
高等学校以上は課程主義なので、義務教育と事情が違うのは言うまでもありません。

しかし、当たり前のことですが、断っておきたいのは、義務教育があるレベルを要求されないということはいい加減でよいということではありません。
間違えていけないのは、子どもの年齢を想定して学ぶ内容を決め、先生はその内容を身につけるための指導力は十分に持っている、という期待に応えられるものでなければならないということです。

まず、ここまでは一般社会人であれば理解できることです。
ですが、
理解できない人がいます。

年齢主義であろうが、課程主義であろうが、他人の学力を保証できる人などいません。
(今、学力とは、についてはここでは言及しないことにします。要するに何かの力をつけるととりあえずの解釈でいいことにします)

もう少し説明を続けます。

自分が教えることになった児童生徒がどんな子どもであろうと、あるレベルまで力をつけると約束できる人がいるでしょうか?ということです。

もし、そんな人がいたら間違いなく超能力のある人でしょう。

例えば、中学校では二次方程式が出てきます。
これを、どんな生徒であろうと完全に理解させられるという先生はいますか?

そういう決意を持って指導に当たると言う先生はいるでしょう。
また、先生はそうあってほしいものだと思います。

私も楽器を教える時、必ず○○のレベルまでに持って行きたいという決意で臨みます。
そして、誠心誠意尽くしますが、絶対にそうできるという約束はできません。

スポーツなら「絶対に優勝させます」と言う監督のようなものです。
時にそういう言葉を発する監督もいますが、それは決意の表れであって、優勝するという未来を約束するものではないのです。

先生としては、絶対に○○にしてみせますと約束できる力は欲しいですね。
でも、残念ながら普通の人間にはそういう力はありません。

しかし、こういう話を理解できない人がいるのですね。
なぜだろうと考えてみました。
話は脱線していますが、もう少し続けます。

私がパソコンを修理している時に「ドライバー、ドライバー」とつぶやいていたら、お爺さんが、ネジを回すドライバーを持ってきてくれました。
親切なお爺さんです。その気持には感謝しなければいけないと思いました。
でも、ドライバーが違うのです。

普通「ドライバー」と口に出して言えば、ねじ回しのドライバーを想像する人は多いかも知れません。
しかし、人によっては

@ネジを回すドライバー
A運転手のドライバー
Bコンピュータのソフトのドライバー
C増幅回路のドライバー

を想像する人もいるでしょう。
ここで、つぶやいた人が@〜Cまでのどれかということは、その場の状況、前後の意味から判断し、決定するわけです。
お爺さんの場合は、もともと頭のなかに@のドライバーしかなかったので、それ以外の選択はなかったのです。

このように考えると、先のブログ記事話のずれる人と関係あるのですが、人とコミュニケーションを取る時、記憶量の多い人と少ない人では、ミスマッチングが起こるのです。

atamanonakmiga.jpg


上図は簡単に表していますが、左右、それぞれの人は記憶量が違います。
左の人は13個ありますが、右の人は4個しかありません。
だから、この二人の間ではミスマッチングがよく起こると考えられます。

たまたま、左の人の言うことが、右の人の頭のなかにもあればいいのですが、ない場合もあります。
その時は、右の人には理解できないでしょう。

最近の人間対コンピュータの将棋の対戦では、コンピュータが勝ちました。
以前のコンピュータでは、入力されたデータだけでしか勝負(対応)できませんでしたが、コンピュータが知能を持つようになってからは、データが自己増殖するようになったからです。

人間の脳も成長して、知識が増えます。
だから、図のように始めは右の人のように4つしかなくても、増えていって左の人の13個を追い越す可能性があります。

幼児は生まれてから、周りを探索しながら自主的に学習を繰り返し、毎日、脳内の知識が増えていきます。
人間は、もともと放っておいても、自主的に学習するのです。
もしかしたら、大人たちがそれを阻害しているのかも知れません。

子どもが、ある能力に関して大人を追い越すことも珍しくありません。
私は、このように絶えず進化していくことが大切だと思っています。
進化している人間は固定的ではありません。
今日の状態が、明日はどうかわかりません。

しかし、残念なことに人を(子どもを)固定的に見るクセの人もいるようで、いわゆるレッテル貼り、パターン化の好きな人です。
決めつける人とも言えます。

決めつけることによって、思考は停止します。
なぜなら、決めつけたところで、それ以上の可能性を考えないからです。
決めつけの脳は、固定化した脳で自己増殖しない脳とも言えます。

そういう人は、右の中身が4つだけの脳から増えることはありません。
これが人間として、一番困った状態ではないかと思うのです。

左の人は13個で全てですが、右の人は4個で全てです。
全てという言葉を使う限り、13個も4個も全てです。
全てですが、13個の世界と4個の世界は大きな違いがあるわけです。

最近はこの4個のままで何も増えない頭のことを、ROM頭とも言っています。
ROMは一度情報を書き込んだだけの固定化したICです。

■学校ごっこ

自動車学校が箱庭教習と揶揄される状態が一般の学校では学校ごっこに当たるような気がします。

学校の一番よくないところを挙げるとすると、ひとつは形式的な研究発表です。
スタートの時点で、発表時には成果が上がった、成功したというゴールが決められているのです。
すでにシナリオがあるようなものです。
だからお祭りと言われるわけです。
これは、典型的な学校ごっこの一つだと思います。
いい加減に学校ごっこをやめたらどうかと思います。
道徳の研究校から、いじめの自殺者が出たというのは、学校ごっこだったのでしょう。
いや、学校ごっこやった結果が、あのようであったという報告かも知れません。

少子化で大学もランキング外というところもあるようですが、これから私立は生き残りをかけて対策を立てるでしょう。
これからでなくて、すでに行われていると言った方がいいでしょう。

対策を立てるには優秀な頭脳が必要です。
安倍総理が景気対策を実行するために、特別に人材を抜擢したようなものです。
生き残っていく私立では、人材刈りが始まるでしょう。

と言うことは、いい先生は欲しいということになります。
公立の中でも、優秀な先生は高給で引き抜かれるかも知れません。

現に、私の同級生は教員をやっていましたが、私立学校ではないですが新聞社に引きぬかれました。
新聞社も危機感を感じているからです。

日本の少子化は、生まれてくる子どもが少ないというだけではありません。
富裕層が日本を脱出しているという問題があります。
気に入ったところで生活をしたいというのもありますが、自分の子どもに良い教育を受けさせたいという願望も強いわけです。

金持ちは自分の子どもの教育に、金をかけることを惜しまない傾向があります。
政府も人口の自然減だけでなく、人も流出しない魅力的な国造りもしなければなりません。
私立学校は、海外に行かなくても国内にこんないい学校があるのだという感じを抱かせる経営をしなくてはなりません。

箱庭のような学校ごっこで、卒業しても社会で通用しないような教育を廃することはもちろん、ROM頭で、いつもズレているような頭もなんとかしなければなりません。





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posted by edlwiss at 17:25 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年04月29日

年金は逃げ水

最近の政治についての討論を見ていると、経済に関する話題が多い。
景気対策は国民の大きな関心事だが、何と言っても、高齢化、少子化の影響で年金問題も現行の制度では、やがて行き詰まりが来る。
それで、浮上する案は開始年齢の引き上げである。

現状は65歳からの開始だが、68歳からという意見が出ている。
年金開始年齢が60、65、68と推移していくならば、年金は逃げ水という言葉が実感を伴うだろう。

人口ピラミッドを見る限り、これは仕方がないように見える。

piramddo.jpg

国立社会保障・人口問題研究所


■どう対処すべきか

「困ったときは国が何とかしてくれる」と言った人がいる。

本当にそうだろうか?

過去を振り返ってみると、国が国民を助けたと言える記録は見当たらない。

東北の震災の救済も、国はどれほどのことをしたのだろう。
復興増税をしておきながら、これをチャンスと集めた税金を横取りしていたのではないだろうか?

1000兆円に迫る国の赤字はどうなるのだろう?
国債が売れなくなった時が行き詰まりだ。
そこまで行かなくても、その前に格付会社が日本の国債の格付けを引き下げる可能性がある。

もしそうなると、猛烈な勢いで円売りが始まり、ハイパーインフレが起こる。
円の対ドル為替レートレートは、200円どころか1000円を突破し・・・となり、円の信用は急落する。
1万円でも卵1個買えなくなるということが現実化する。

こういう時、政府はデノミを行う。
つまり、現行の100円を1円とするようなこと。
もちろん、物価も同様に100分の1になればよいが、物価は現状のままだったら生活は大変である。

そんなバカなと思う人がるかも知れないが、現状を日本人は楽観視しすぎるという国外の見方がある。
現実に戦争直後の昭和21年に、日本では行われています。

まず政府は預金封鎖を行い、預金を引き出さないようにし、期限を決めて新通貨と交換するように通告し、強制的に預金をさせました。
そのあと、90%の財産税を課しました。
このようにして、国は財政破綻を乗り切ったのです。

国は困ったときには、国民を救ったとは言えないでしょう。
昭和21年の記憶があるお年寄りに聞いてみるといいでしょう。
一挙に財産を失ったという話をする人もいるでしょう。

前置きが長くなりましたが、それではどう対策をすべきかです。
今まで話した経過は最悪の結果の想定です。
そうはならないまでも、現状維持としても、現在の年金は国民年金で満額もらえたとしても、月7万円を切ります。
厚生年金や共済年金はもっと多いですが、受取額は勤務年数によって違います。
40年年金積立をしたとすると、20万円ぐらいでしょうか。
共済年金は現行制度では少し多いでしょう。
しかし、年金一本化とか案が出ていますが、これは年金削減方向の案です。
そこで、年金は会社や学校共済にまるっきり頼ることなく、自分でも蓄える自助努力が大切です。

それでは、どのくらい自助努力で用意すべきでしょうか?
個人の環境により差はありますが、およその目安が必要です。

今の物価水準を想定すると

一人の生活費・・・月額15万円
夫婦の生活費・・・月額25万円

と統計では出ています。
しかし、これは最低生活費と言って、生きるだけの生活費です。

夫婦で、たまには旅行をするなど、豊かとまではいかなくてもまあまあ楽しい生活となると、月額38万円と言われています。

老後20年間の生活費を計算してみます(最低生活費)。

一人・・・15万円×12×20=3600万円
夫婦・・・25万円×12×20=6000万円

生きるために、これだけ必要ということです。
ここから、会社や共済が支給してくれる額を引くことになります。

■最悪の状態を想定する対策

国家の財政が破綻し、通貨の価値がゼロになった国はあります。

その時、国民はどうなったのでしょう?

結論、働ける人はなんとかなりました。
働ける人とは、働けるだけの技能を持ち健康な人のことです。

つまり、最悪の状態になっても、雇用してもらえる人、自力で仕事ができる人は大丈夫ということです。
だから、国家が財政破綻したときは、国の通貨は価値がなくなりますから、公立の先生であっても、親方日の丸などと言っている場合ではありません。

それで、私は、先生でも現役時代に社会で通用するような技を身につけておいた方がよいと言いたいのです。
有用な人材は、どんな社会情勢でも生きられるわけです。
自分だけでエラくなっていても、何の役にも立ちません。

社会の目から見ると、先生は使いにくいとの先入観があります。
でも、何らかのセールスポイントがあれば、見なおしてくれるでしょう。
あなたの、社会で通用する、セールスポイントは何かということです。

社会は即戦力を求めていますので、力があり使いやすい人がいいということです。
一番よくないのは、プライドだけ高く何も技がないという人です。

ある測量事務所では、人出が不足するということで、求人を出しました。
雇ったのは高校生でした。
社長に理由を聞くと、高校生の方が頭が低く、素直でよいという返事でした。

まさに、この先はアリとキリギリスではないかと思うのです。

これから先の日本は、過去、先輩たちがたどってきた社会とは違うのです。
今、年金をもらっている人たちに嫉妬しても仕方がないことです。







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posted by edlwiss at 20:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2013年04月28日

話のずれる人

オーディオの好きな人だと思いますが、次のように話していました。

ケーブルはむしろ細めがいい。
スピード感が出て、音の立ち上がりがいい。
電流が速くなるのは、水道のホースも口を細くすると、水の流れが速くなるからだ。


ここで、私はおかしいと思ったところを話しました。

ケーブルを細くしたら、音がよくなったというのはいいが、水道の口を細くすると水流が速くなると同じように、ケーブルも細い方が電流が速くなるというのはおかしい。
ケーブルは細くなれば抵抗が増えるので、電流は流れにくくなる(遅くなる)でしょう。

に対し、以下の返事。

私の試したところでは、音はよくなりました。


これを繰り返すばかり。

音がいいか悪いかは個人の主観であり、どうでもいいが、私の言っているのはケーブル(導線)が細くなるのに電流が速くなるというのはおかしいと言っているわけです。
おかしいというのは、オームの法則に合わないということです。

全く、論点が合っていないわけです。

こういう人はいるようで、ネットで調べると「話がずれる人」でたくさん出てきます。
ある人は対処法を書いています。
こういう人たちを天然と呼ぶそうで、天然の接し方講座と題して説明があります。

結局「相手にしない」ということのようです。

■なぜ、ずれるのか

「自由」という言葉がありますが、これに相当する英語はfreefreedomlibertyの3つがある。

ということは、英語のfreefreedomlibertyは日本語に訳すとどれも「自由」になってしまう。

これは、ある人の頭の中の辞書と、別の人の頭の中の辞書の、言葉の数が違うと、言葉の少ない人の方は、多い人の言うことを正確に受け取れないということになる。

別の例で言えば、色の種類が片方は赤、青、黄の3色でもう一方はフルカラーと言われる1700万色。

フルカラーの方から燈と言われても3色の方は何のことかわからない。
強いて選択すれば赤になってしまう。
赤系の色はたくさんあるのに、3色の方ではすべて赤になってしまう。

color.jpg


これは、印刷所と話をしている時に、話に割って入ってきた人との混乱という経験があった。
微妙な色の違いの話をしているのに、割り込んだ人は、いかにもオレはよく知っているという態度で
「色はどんなにたくさんの種類があると言っても、3色しかないんです」
と言った。
それで、しらけてしまった。

印刷の色数は、新聞の折込広告は通常256色で、これは8ビットカラーである。
ところが、フルカラーと言われる24ビットカラーは、約1700万色である。
フルカラーという言葉は、全色という意味にとれるから、色彩の3原色を想像して3色がすべてと思ったのかもしれない。

これは、頭のなかがコンピュータのビット数が多い、少ないに似ているようなものと思う。
4ビットは16種類しか表せないが16ビットでは65536種類表せる。
16ビットが表現することは、16種類しかない4ビットではとても理解できないだろう。

ずれが起こることはどうしようもないから、無視するしかないという結論になるのか?





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2013年04月28日

便利なものを使うと頭は退化するか?

電子レンジでゆで卵を作ると言うと、反対する人がいます。
でも、ゆで卵が作れる電子レンジもあるのです。

電気製品は日々進歩していて、便利になっています。
ただ、そうした便利なものを使うことを反対する人もいます。

理由は、頭がバカになると言うのです。
ある主婦は、私にそういうことを真剣に話してくれました。
その気遣いに対しては、ありがたいことだと思いました。

確かに今までしていた仕事を便利な機械に代行させて、自分は何もしなくなれば、それだけ頭は使わなくなるのでバカ化していくことは考えられます。
自動車を使うことで、運動不足になり体力が落ちるのと同じだと思います。

しかし、便利なものを利用することで、浮いた時間をどうするかで、その後頭が悪くなるかどうかには個人差があると思います。

例えば、小説家でお手伝いさんを雇っている人がいます。
これは、原稿を書くための時間を浮かすためにそうしているわけです。

便利な機械はお手伝いさんと同じと考えれば、浮いた時間をより有用な時間、特に自分だけしかできない時間に使えば、便利になった分だけ何もしないと言うことではないので、頭が悪くなるとも言えないでしょう。

要するに、便利な機械は時間のやりくりに役立つということです。

こう書いてくると、当たり前のことだ気がつくのですが、以前の記事デジタル人間アナログ人間ってどういう意味?とも関係があるのですが、仕事には見える仕事見えない仕事があり、見えない仕事とは頭を使っているような仕事です。

終身雇用制の旧来の働き方では、1日8時間、残業なしで働くとしても年功序列制度のもとでは、年齢とともに地位が上がり、その分目に見える仕事は少なくなり、見えない仕事が増えていきます。

現場での作業のような仕事が減って、監督や計画を立てるといった頭を使う仕事にシフトしていくわけです。
この頭を使うという仕事は、仕事量として測ることはできません。

部下がよく働けるように配慮、監督する仕事であれば、自分の部下が優秀であるなら、自分は何もしなくてもいいかもしれません。

そういう時、その何もしなくてもいい時間をどうするかで個人差が出て、頭も退化するか進化するかが決まってくると思うのです。

私の勤めたある学校では、先生たちは大変まじめに働いていました。

だから、校長には時間がありました。
その校長は、校長室にじっとしていないで、毎日のように大工道具を出してきて、いつも工作をしていました。
学校で必要な道具や小物、大きなものでは倉庫まで作ってしまいました。

ある人に「校長先生は、先生方に何も言わないんですね」と言ったら、校長は
「みんながきんとやってくれるから、何も言うことはないですよ」
と言っていました。

人間は完璧ということはないですから、見つけようと思えば、悪いところは見つかると思います。
「失敗したな」とか「ちょっと怠けてしまったかな」と、口に出さずとも反省はあるでしょう。

校長によっては、悪いところを見つけては常にグチのように言う人もいます。
いわゆるアラ探しのようなものです。

しかし「みんながきちんとやってくれるから、何も言うことはないですよ」と言っている校長の態度に、先生たちは心を動かされ、より一生懸命に働いたと思います。

話がズレましたが、こういう校長ですから頭は退化していなかったと思います。
人は見えない時間をどう使うかが、歳とともに影響してくるものだ思っています。

いつもニコニコしていた、この校長の顔を時々思い出します。
そして、怠け心が出た時、戒めるようにしています。





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2013年04月28日

デジタルかアナログか

カメラはデジタルかアナログかと言うまでもなく、世の中はすっかりデジタルカメラになってしまいました。
それでも、写真撮影がうまくなりたいなら、フィルムのカメラを経験した方がいいと言いました。

ところで、アナログ・レコードの復活の兆しがある中で、デジタルかアナログかという論争はどうなんでしょう?
以下の写真は、テラークという会社が1980年に発売したレコードで、オーディオフアンならご存知かと思います。

record1812large.jpg


これは非常に話題になったレコードです。
というのも、レコードの限界を超えたレコードということで、物議を醸し出しました。

曲はチャイコフスキーの序曲「1812年」/エリック・カンゼル指揮、シンシナティ交響楽団です。

この曲、演奏中に大砲の音を出すように楽譜に書かれています。
ですが、普通は本物の大砲は使いません。他のものでそれらしい音を出します。
例えば大太鼓とかシンセサイザーです。
ところが、このレコードでは本物の大砲が使ってあるのです。

taihou2.jpg

そんな音がレコードに刻めるのか?
と思った人は多いと思います。
音が大きすぎるということです。

mizo1812.jpg普通、あまりにも音が大きい時は、安全を考えてリミッターを通して音量を制限します。
それが、このレコードではリミッターをかけていません。
普通のレコードは、溝があるということはわかっても、音の波は見えません。
ところが、このレコードでは大きく波打っている溝が見えてしまうのです。
ここを針が一瞬にして通過して大丈夫か?
という疑問も起きます。

実際、カートリッジ(針)の老舗であるオランダのオルトフォン社からは、規格外だと文句が出ました。
でも、あえてそれを承知で再生したいと思うのが、オーディオフアンです。
結果、アンプが壊れたとか、スピーカーが壊れたという記事が雑誌に載りました。

私も恐る恐る針を載せてみました。
ところが、大砲の音のところで、何度試みても針が飛んでしまうのです。
それで、プレーヤーを買い換えることにしました。
今度は、メーカーが意地をかけて作ったプレーヤーだけあって、見事再生しました。

大砲の所で急に何も音がしなくなった。よく見たら、スピーカーが飛び出していたとか、アンプが何も音を出さなくなったという情報は得ていましたので、注意して再生した結果、アンプもスピーカーも無事でした。

■録音はデジタル

アナログ・レコードは当然、アナログです。
アナログ一辺倒の人は、録音から再生、スピーカーまですべてアナログがいいというかも知れません。
特に、アナログ・レコードの場合、録音は当然アナログだろうと思うでしょうが、このレコードの音源はなんとデジタル録音なのです。

デジタル録音して、それをアナログ・レコードにしているのです。
これは、もはやデジタルだアナログだなんて論争している場合ではないと思うのです。

そういう派閥のような論争はしないで、いいものを使うとした方がよさそうに思うのです。

このレコードを黙って聴かせたら、人はどう言うでしょうか?

「やはり、アナログはいいねえ」

と言うでしょうか?





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2013年04月28日

開かれた心

「学校の先生の団体ってわかりますよ」

とは、観光地の人からしばしば聞く言葉である。

学校の先生はそれとわかる雰囲気を持っているらしい。

それは、どういうところから来るのだろうか?

先生の旅行団体の中には、団体名を「○○商会」などとしている場合もある。

世をはばかる気持ちがあるのだろうか?

会社の団体や同窓会などは、まず、団体名を変えないだろう。

先生の団体が名前を変えるという心理もおもしろいが、個人の場合はどうだろう?

小学校に勤務していた頃、街の書店で立ち読みしていたら

「あっ、先生!」

と、突如、大きな声がしたことがある。

ドキッとしたのは、まずいというわけではない。
いきなりの大声に驚いたわけである。

立ち読みしていたところがアダルトコーナーだったら、まずかっただろうが、そういうことはなかった。

「先生」との声に、周りの人たちも反応した。

私は、少し恥ずかしい気持ちになった。

街で突然声をかけられるのは、迷惑なのだが、同時に「子どもは率直でいいなあ」という気持ちにもなった。

中学生以上になると、そういうことはないようだ。

■先生は世をはばかる仕事か?

旅行で身分を隠したがる心理は、世をはばかる気持ちがあるということか?

一方では「私は特別」という意識を持っていないか。

学校の先生は、国語、社会、数学、理科、英語、保健体育、技術、家庭、音楽、美術と分かれている。
これを通常「専門」と言っている。

この専門とはどういう意味だろうか?

専門家?

専門に教えている?

どちらにしても、その実力はいかほどだろう。

先生になった人の中には、その道のプロになれなかったから、選んだという人もいる。
しかし、そういう人ばかりではない。
始めから先生希望の人もいるし、生活の安定のため先生をしながらという人もいる。

先輩の中に、国語の先生だが小説家になった人もいる。
小説家になっても、国語の先生は続けていた。

ユーモアのある人で、少しも気取ったところはない。
文学賞も受賞してからは執筆活動は多くなった。

プロという言葉は、その道で生活しているという意味もあるが、レベルが高い場合もプロと言われる。

学校の先生はプロだろうか?

社会に出て通用するほどの腕はあるのか?

私は他人に問うているのではなく、自分にずっと問い続けてきた。

先生は自分の「専門」の教科に閉じこもることで、それが他から自分を守る城壁であるとともに、他人の城壁を犯さない不文律があるように思う。
そして、さらに、学校を聖域化しているようなところがあって「お前たちに学校のことなどわかるものか」という投げかけをしている人もいる。

では、城の中はそれほどのことをしているのだろうか?

プロフェショナル集団なのだろうか?

最近、ある英語の先生が「英語を学び合っている団体をご存知ですか?」という問い合わせがあったので、某サークルを紹介した。
私もついでにおじゃましたところ、会話はすべて英語を使っていた。

リーダーの人が、アメリカの政治家の話を録音したものを教材に、みんなで討議をしていた。

とてもリラックスした雰囲気で、居心地がよかった。

英語の先生は、自分の力をもっと高めたい。狭い殻の中に閉じこもる不安を感じて、参加したいとのことだった。

先生の開かれた心が、開かれた学校にするのではないかと思う。





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2013年04月27日

アナログはわかりやすい

アナログのレコード(以下、単にレコードと言う)は記録された溝を、プレーヤーのアームに取り付けられたカートリッジの針でトレースすることにより再生される。

この操作は人にとってわかりやすい。

レコードの製作は録音された音声信号を、カッターと言う機械で刻んで、マザーという型を作る。
これが、たい焼き機の型のようなもので、たい焼きの中身に相当する樹脂を型で整形してレコードを作る。
たい焼器を作っているようなイメージである。

この工程に至る録音は、スタジオ録音の場合は以下の写真のような16チャンネルのレコーダーに録音する。

ms16_1.jpg


16チャンネルを楽器ごとにどのように振り分けるかは、ミキサーが決めるのだが、歌手がいる場合は、通常はバンドだけが先に録音して、歌手のチャンネルをひとつ使って、歌手は録音された音を聴きながら録音する。
カラオケと同じである。

このように歌手だけ後から録音した方が、やり直しがきくし、歌手の声が埋もれないようにバランスがとれる。
ボサノヴァで有名なアントニオ・カルロス・ジョビンのヒット作「イパネマの娘」は歌手のアストラッド・ジルベルトがボサノヴァの女王と言われるが、実は、彼女は素人だった。
たまたま、夫のジョアン・ジルベルトとスタジオに付き添った際に練習として歌ったものをプロデューサーがこっそり、開いたチャンネルに録音したものがヒットになった。



こういう16チャンネルのようなマルチトラックのレコーダーがあると、重ね録音に便利である。
通常使われている2チャンネルのレコーダーでは重ね録音が難しい。

録音が終了すると、ミキサーがステレオの左右2チャンネルにするために、それぞれの音の振り分けを行う。
パンと言って、音の定位を左右のどの位置にするかも決める。

この操作をトラックダウンというが、左右の2チャンネルに録音する時には、以下のようなレコーダーが使われる。

7030gsl.jpg


カセットテープは1秒間に4.75cmのスピードでテープが走るが、このレコーダーは1秒間に38cmの速さでテープが走る。
カセットはテープの幅を4分割して、ステレオで往復して使うが、このレコーダーでは幅の広いテープを使い、しかも2分割で片道しか使わない。
音の劣化を防ぐために、高速で幅の広いテープを使うのである。
このレコーダーのことを、2トラック(2チャンネル)で38cm/sのスピードであることから2T-38(ツートラ、サンパチ)と呼ぶ。
音にうるさい人の間では、今なお人気がある。
こんな大きなテープを使っても、30分しか録音できない。
このようにしてできたテープをマスターテープと言い、レコードを作るカッテイングマシンにかけられる。

このように、アナログの過程は目で見てわかりやすい。
それがデジタル時代になって、内部がわからないようになってきた。

音の編集も、上記で説明したテープを使った録音機の場合は、直接、はさみで切り貼りして行うのに対し、デジタル録音の場合は、コンピュータが介在して擬似的な画面を見ながら行うことになる。

仕事がすべてデジタル化してしまうと、中では何をやっているのかわからなくなる。
しかし、手作業に近いアナログ方式のやり方は経験した方がよいと私は思っている。

以上は録音についての説明だったが、その他の仕事もデジタル化する前のアナログでの仕事も経験した方がよいと思っている。

例えば、カメラも銀塩フィルムのカメラで、しかもカメラは機械式シャッターで自動測光のないもので練習した方がよいと思う。

NIKONではそのようなカメラも現在作っている。

デジタルカメラ全盛の時代だが、写真の技術を高めるためには、カメラまかせの部分をできるかぎり廃して、撮ることの要素をすべて自分で決めるという練習をした方がよいと思う。

アナログはわかりやすいと言うのは、仕事がわかりやすいという意味でもある。





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2013年04月27日

労働時間と個人差

ここで言う労働時間とは拘束時間のことです。言うまでもないことと思います。
その拘束時間とは、勤務時間のことですが、これは残業がない限り、みな同じということになっています。

そうすると、一旦入社すれば定年まで労働時間は変わらないじゃないかということになりますが、私の言うのは労働の中身のことです。

製造業では実際に生産に携わる時間が労働時間で、見た目にもわかり易いですが、仕事の中には実際に働いているのかいないのか外見上はわからない仕事もあります。

年功序列制度では概して、外見上、仕事をしているのかしていないかの時間が増えるという傾向にあります(これを仮に、みなし労働時間と呼ぶことにします)。
ここで、外見上、仕事をしているのがわかる(わかりやすい)仕事を、実質労働時間と呼ぶことにすると、年功序列制度のもとでは、年齢とともに実質労働時間が減るとも言えます。

学校の先生なら、授業時間数ということで実質労働時間はわかりやすいと言えます(もちろん、授業時間以外にも実質と言える時間もありますが、わかりやすい例として授業時間を挙げました)。
ここで、確認しておきたいのは、始めに言ったように、1日の労働時間は8時間ですから勤めている人は仕事の内容にかかわらず、出勤して8時間経てば(休憩時間は除く)8時間働いたことになります。

■みなし労働時間の中身

年功序列制度では概して、歳とともに、みなし労働時間が増えると言えます。

みなし労働時間は自由度が高いので、実質、仕事をしているかしていないかは外見上はわかりません。

役職になって、監督の仕事をしているということになっていても、社内の机で何をやっているかわからないということがあります。

また、取引先との重要な話があると言って、外出して関係ない人とコーヒーを飲んでいてもわかりません。

つまり、自由度が増えると、実質、何をやるのかは個人差があるということです。

学校でも、校長は校長室にいても他の人からは何をやっているのかわかりにくい。

学校を訪問したある人は

「校長先生って、見たら、新聞を読んでいるだけなんですね。あれが仕事なんですか?」

と言いました。

校長が新聞を読んでいたというだけでは、仕事をしていないとも言えません。
新聞を読むのも校長として学校経営を考える上での、大切な仕事なのかも知れません。
また、ある人の話では、校長が絵を描いていたと言いました。
これも、教育上必要なことだったのかも知れません。

要するにみなし労働時間は、本当に職務に忠実であるかどうかは、本人の誠意によるところが大きいと言えるのです。

だからこそ、みなし時間の使い方により個人差が出ると思うのです。

会社も中間管理職となると、みなし労働時間は多くなります。

中間管理職が実質仕事をしているかどうかという判断は、会社のトップによります。

人員配置で、中間管理職が何人必要かということは、トップの判断です。

仕事の内容に比して、多いか少ないか外からは見えにくいと言えますが、あの会社はやたらに中間管理職が多いなあと感じる場合もあります。

金融ビッグバンにより、銀行や保険会社が潰れたと言いましたが、こういう時に中間管理職は試されると言えます。
会社が潰れることでの一番の不安は、社員としてはその先の職はどうなるだろうということです。
しかし、有能な人材は他の類似の職種の会社はよく知っているので、声がかかります。

一番声がかかりにくいのが、だいたい中間管理職で、声がかからないということは「役に立たない」と判断しているということになります。
もちろん、中間管理職にいた人でも有能な人は声がかかります。

■学校の先生がいいと思うところ

学校の先生は親方日の丸で、倒産の心配はありません。
もっとも、私立学校の場合は学生が集まらなければ倒産の不安はあります。
実際、少子化も影響して定員割れや定員すら発表していないところもあるということです。
これから、私立は内容がよくないとますます経営危機になるでしょう。

学校は勉強するところですから、先生も勉強していれば仕事をしていることになります。
勉強していて給料までもらえるとは、恵まれていると言えます。

私も学校のみなし時間にコンピュータの勉強をしましたから、それはとてもありがたいことだと思いました。
作ったプログラムは成績処理等に役立ちましたから、校長から見たらよく働いてくれたと思われていたでしょう。
現実に、ある校長は「お前には2倍、給料をやりたいなあ」と言ってくれました。

同一賃金同一労働でも述べたように、学校の先生は、みなし時間を活用して大いに勉強して、自力をつけておくことがいいと思います。

いわゆる「つぶしが利く」という状態にしておかないと、先々よくないのではないかということです。
第一、頭が働かなくなり、認知症の恐れもあるし、どこからもお呼びがなくなるのではということ。





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2013年04月27日

同一賃金同一労働

shigoto_nenrei_s.jpg前回のデジタル人間アナログ人間ってどういう意味?では、伝統的な日本の労働の形を実質労働と給料の関係を示した。これは経済の基本的知識です。

私はファイナンシャルプランナーと言う仕事をしており、ライフプランと資金計画、リスク管理、金融資産運用、税金対策、不動産、相続・事業承継といった6科目をカバーしますが、仕事がら経済的な知識は必須です。
そして、この旧来からの日本の雇用形態を基本的な知識として学んでおくのは、基本というか常識の範囲になります。

ところで、こういう日本の雇用形態は、いいところもあり、悪いところもあります。
一度会社に入ったら、その会社で一生骨を埋めるという意識での働き方でもあり、まじめにやっておれば、ある程度の出世もできて、会社が倒産しない限り定年まで安心ということになります。

この働き方の良さは、精神的な安定をもたらし、仕事に集中できるということにあります。
そして、将来計画も立てやすい。

しかし、欠点もあります。
生産競争がないので、仕事がマンネリ化しやすく、ただ命令だけに従って仕事をしていればよいという気分になりがちで、進んで創意工夫をするとか、社会情勢に疎くなるということがあります。
もちろん、すべての人がそうだというわけではなく、個人差もあります。

この終身雇用が前提で、安心感のある仕事で会社のように営業成績を気にすることなく、発展性がなくても続けられると言う仕事の典型的なものに、学校の教師という仕事も入るでしょう。
おまけに、相手が子どもということで、それまでに得た知識の切り売りで済んでしまう。
知らないことは、自分の言うことが何でも法律や辞典であり、知識は陳腐化している、世間とはズレているのに、何でも知ったつもりになっている。
そして、無意識のうちにエラクなっているというのが、学校の教師が陥る場合の最悪のケースと言えるでしょう。当然、これにも個人差があります。

沈黙は金という言葉がありますが、昔と違って今はブログなどがありますから、そういうところで発表すると、時代感覚やズレがたちまちわかってしまう人もいます。
閉鎖的で独特の世界に閉じこもってしまっている的はずれな発言が、陰で笑われているということもなきにしもあらずです。

実際、私が会う人の中には、学齢期の子どものいる主婦や旦那もいて、話題に出ることもあります。
大人になると、なかなか自分の評判というものは、自分の耳に入ってきません。
そういう意味では、学校の教師と言う仕事は「悪くすると」という方向に行かないように気をつけることが大切と思います。

■雇用形態の変化

日本伝統の終身雇用形態も変わりつつあります。
その節目となったのは金融ビッグバンで、会計基準が変わったことも後押しになっています。

会計基準とは、それまで日本は日本独特の会計基準だったものが、世界の会計基準に移行したことです。
そうしなければ、日本は世界から取り残されるとの危機感で、政府は改革に踏み切ったのです。

それまで、銀行はどこの銀行でも利率が同じだったものが、自由になったことは記憶してみえる方もいるでしょう。
それまでは、一番体力のない銀行でも経営が成り立つ基準を決め、大蔵省が監督していたのです。
しかし政府は、世界の情勢を鑑みて自由競争に踏み切ったのです。
金融機関は政府に守ってもらうのではなく、自分で生きていけと言われたわけです。
そのため、銀行や保険会社の破綻がしばらく続きました。

企業会計も変わりました。
それまで、会社は入社した人は定年までという前提だったので、その人の退職金はその人が退職するまでに積み立てればよかったものが、社員全員がいつ辞めてもいいだけの資金を会社は用意しておかなければならなくなりました。

atarasii.jpgこのことは、転職を容易にする方向にもなりました。
アメリカでは従来、転職は珍しいことではなく、むしろ会社で働くということは、そこで技能を身につけ、それが自分の付加価値を増すことになり、より自分にとって有利な職場への転職を容易にするわけです。

何でもアメリカがよく、アメリカに習うということではありませんが、日本もそういう流れになっていることは間違いありません。

そういう中で、親方日の丸で旧態然とした雇用関係になっているのは、教員の職場でしょう。
しかし、教員の職場とて例外ではなくなるかも知れません。

ということは、学校の先生も一度採用されたから、もう一生安心という感覚を捨てて、キャリアを積み自分の付加価値を高めることを考えた方がよいように思います。

先生と警察官の使い古しは役に立たないと言われてきた言葉を死語にしなければならないと思うのです。

なにしろ、今や、退職後の人生は20年以上あるわけです。

元教員が引っ張りだこにになるような時代にすべきでしょう。

そう言えば、最近、高校時代の同窓会がありましたが、ずっと先生を続けているかと思ったM氏は、途中で新聞社に入社していました。
直接、社長との面接で採用されたということです。
彼のキャリアに興味を持った、会社が是非にということで採用したわけです。

社会は、労働に見合った賃金を払うという方向に動いています。





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2013年04月26日

デジタル人間アナログ人間ってどういう意味?

16.jpgデジタル機器の普及とともに、デジタル人間とかアナログ人間という言葉が増えてきたように思います。

しかし、私にはどういう意味かわかりません。
不思議な言葉だなあと思っています。

デジタル(digital)とは離散的な量で、数値で表すという意味。
ものさしで長さを測った時、それが1mだった場合「1」と表すのがデジタルで、ものさしの端から1mのところまでの長さを表すのがアナログである。

デジタル人間とか、アナログ人間と言った場合は、これらの意味とは関係ないようである。
デジタル機器が増えてきて、それらの機器を使いこなせない人を、デジタル時代に順応できないと言う意味で、アナログ人間と呼んでいるような気がする。

だとすると、アナログ人間とは柔軟性に欠けるとか、時代遅れとか言った意味が付加されているようである。
これは望ましいとは言えないだろう。
なぜなら、今まで慣れたやり方から新しいやり方にスムースに移行できる頭がないとも言えるからである。

「いやあ、なにしろ、私はアナログ人間ですから」

とは、新しく製品化されたデジタル機器を使うことに抵抗があると言っているように見える。
いや、それがデジタル機器でなくても、新しい製品を使うことには抵抗があるのかも知れない。

計算するにはそろばんという便利なものがあった。
今、売り上げの計算にそろばんを使う場面をほとんど見なくなった。
ほとんどと言うのは、全くないのではない、近くの喫茶店でそろばんを使っているところがある。
そろばんか電卓か、どちらを使うかは自由だが、今や電卓を否定することはできない。
他人に計算結果を見せる時、そろばんでは見る人の抵抗があるだろうから。

そろばんも電卓も使わず、筆算でやっている人もいた。
その人は筆算のほうがいいという。
これも、自由だが電卓を拒否するとしたら問題だろう。

■深刻な問題

下のグラフを参照。

shigoto_nenrei.jpg


日本の伝統的な労働、つまり年功序列制度のもとでは、仕事量(見える仕事量)と給与がこのような関係にある。

若い頃は労働量は多いにも関わらず、それに見合った給与は支払われていない。
それに対し、ある年齢を境に仕事量は少ないにも関わらず給料は増えている(見える仕事量は減る)。

しかし、年の多い人は給料が増えたことで、自分は仕事をたくさんしているのだと錯覚をしている人がいるかも知れない。

それがどうした。何か問題でも?という人がいるかも知れない。

私の言いたいのは、給料の問題ではない。
給料に見合った仕事をしろということでもない。

仕事をしていないということは、頭を使っていないことではないかと思うのである。

男の場合、若い時は忙しく働き、年とともにある時点から実質的な仕事は減り、毎日、印を押すだけのような仕事になる人もいる。

帰宅すれば、テーブルの前にどっかと座り、じっと待っていると自然に夕飯が出てくる。
そして、座ったまま奥さんにあれこれ要求を出す。

こういう生活を10年以上も続けたら、脳も老化しているのではないか。

仕事をするのも嫌になる。

ある家庭では、休みの日に奥さんが1日がかりの外出をした時、帰宅してみると旦那は1日中何も食べなかったということだった。

旦那は奥さんなしでは生きていけなくなっていたのである。

熟年離婚が増えたと言われるが、男の餓死者が増えるかもしれない。

これは笑いだが、男は典型的な日本の雇用体系で暮らすうちに、子どもにかえってしまっている人がいるのではないか?

自分で食事が作れる男はどのくらいいるだろうか?

■アナログ人間と宣言し、頭脳が老化していないか

中年になって、仕事はそれほどしないのに、威張ることだけは多くなったは危険信号ではないか?

何度も引き合いに出す実れば実るほど垂れる稲穂かなの言葉通り、頭のなかが充実してくれば、人は自然に頭が低くなるものだと思う。
それは謙虚になることでもある。

若い人は、将来、奥さんがいなかったら1日じゅう何も食べなかったということにならないよう、今からしっかりした生活設計をしよう。

アナログ人間で逃げないようにしよう。

結局、デジタル人間とかアナログ人間なる言葉は、実際のデジタルとかアナログの意味とは関係なく、世の流れについていけるかいれないか、またそういう意欲があるかないかの問題との結論に達した。

もし、本来の意味で使うなら、デジタル人間とは不連続人間アナログ人間とは連続人間ということになってしまう。

そうか、そう考えると、デジタル人間とは不連続人間だから、思考がバラバラの分裂人間のことかも知れない。





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2013年04月25日

デジタルとアナログは共存

p3a.jpg昨年は国内のアナログレコードが42万枚売れ、アメリカでは350万枚売れたとのことですが、どちらも増加傾向らしい。
※以下、アナログレコードをレコードということにする。

レコードの話が出ると「レコードの方が音がいいらしいですね」と言う人がいる。

これには、即答しかねるというのが正直なところ。

両者の音の傾向が違うことは確かだが、音がいいか悪いかは主観が影響するので、何とも言えない。

ただ、レコードの復活は懐古趣味ではないと思う。

それは、CDのようなデジタル音にはない良さがあるからだ。

レコードの復活は真空管アンプの人気を連想させるものがあるかも知れない。
しかし、それは違うと思う。

性能としては、トランジスタ(半導体)アンプが上回っているからだ。

■デジタル、アナログ、それぞれの良さを考えて選択すべき

スマートフォンやタブレットが人気だが、だからと言って私は紙の手帳を手放さない。

デジタルの記録は一瞬にして消滅する危険をはらんでいる。
紙の場合は、破れても集めて解読できるという強さを持っている。

カメラもデジタル全盛だが、従軍カメラマンはどういうカメラを使っているのだろう?
過酷な環境の中で、焼け焦げたカメラから映像が取り出せたというのは、これまではフィルムカメラだ。

戦争の中でも耐えられるデジタルカメラは作られているのだろうか?

我々の日常生活で使うカメラも、SDメモリの故障ですべてのデータを消滅させたという経験を持つ人はいるだろう。

デジタルはたよりなさを持っている。

フィルムカメラはほとんど見なくなったが、メーカーは製造している。
犯罪での証拠証明に写真が使われることは多いが、厳密な証明となると、デジタルは通用しないことがある。

録音もデジタル録音は証拠の有効性を疑われることもある。
それは編集ができること、声紋が出にくいということがあるからだ。

あらゆる場面にデジタルは進出してきたが、アナログの優位性も、好き嫌いということでなく、特徴を知って使い分けることが大切と考えられる。





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2013年04月24日

デジタルはアナログに支えられている

デジタル機器が増えてきた世の中だが、この先はデジタルばかりになるのかというと、そうはならない。

clock.jpgそれは、デジタルの一番大切なクロック(右図のような電圧波形)は発振回路によって作られていて、これを支えているのは電源だから。

クロック回路はCPUを動かすタイミングを決めるもので、これが安定していないとデジタル機器はうまく動作しない。
安定した発振をさせるために、水晶を使っている。
水晶時計に使われている水晶と同じで、発振回路に使われる水晶は水晶振動子と呼ばれる。

パソコンのスピードアップはこのクロックの周波数を上げることで実現してきた。
クロックの周波数を上げることは、より短時間にクロックをたくさん生成しなければならないので、より安定度が要求される。
これらをすべて支えているのは電源で、この電圧が不安定だとクロックも不安定になる。
ここはアナログであり、大元を支えているのはアナログの電源回路ということなのだ。

電源は縁の下の力持ちのような存在で、表面的には意識されないのでデジタル機器はすべてデジタルでできていると思っている人がいるかもしれない。

デジタル機器はアナログの電源なしでは実現しないので、すべてがデジタルでできているというデジタル機器は存在しない。

SONYのアンプにフルデジタルと宣伝してあるものがあったが、それは電源回路以外の部分のことである。

今やデジタル全盛の時代なので、デジタル派とかアナログ派という言葉を耳にすることがあるが、これからもデジタルとアナログは協調して発展していくものと想像されるので、AかBかという論争をこういうところに持ってくるのは適切でないと思う。

アナログ人間デジタル人間という言葉もどういう意味で使っているのだろうか?

学校の教師であるなら、アナログ、デジタルの意味を言葉だけでなく、実際に使われているものに即して調べて、児童生徒の質問にも耐えられるようにしておく方がよいのではないかと思う。





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2013年04月23日

楽しくはいい加減ではない

数年前からDTM(DeskTop Music)を始めた。
DTMはDAW(Digital Audio Workstation)という用語も用いられるが、簡単に言えば、コンピュータによってデジタルで音声の録音、編集、ミキシングなど一連の作業ができるように構成された一体型のシステムのことを言う。
以下はコンピュータのモニター画面の一例である。

Sonar_s.jpg


これだけではよくわからないという人のために、実際に動いているもの示す。
イギリスの作曲家、ホルストの組曲「惑星」より"火星"を入力したものである。



今や、パソコンはあらゆる分野で使われ、音楽界では演奏者に代わって使われる部分も多くなってきた。
私の場合は、演奏に行く場合、伴奏者がいない場合、ピアノがない場合など、予めこのDAWを使って伴奏を作成し音響装置一式を持って行く。

DAWでどのくらいのことができるかというと、上の例で示したようにオーケストラの代わりができるほどのものである。
だから、近年、映画音楽のバックでは使われることが多くなってきた。

前回のブログ記事プログラム言語に学ぶ厳しさでは、PASCALというコンピュータ言語により、曖昧さを許さない厳しさを経験するということを述べた。
もともと、PASCALはプログラミングを厳しく学ぶための教育目的で作られたという経緯がある(PASCAL参照)。
だから、PASCALは教育の道具そのものとも言える。

ところで、音楽の演奏はどのくらいの厳しさが要求されるものだろうか?

音楽は時間とともに経過していくものであるから、時間の精度が問題になる。
どのくらいの精度かというと、例えば行進曲を1分間120のテンポで演奏すると、4分の2拍子の曲では4分音符の時間が0.5秒である。
一番短い音符が16分音符であるとすると、16分音符1個の時間は1秒間に8個であるから、1÷8=0.125秒ということになる。
この0.125秒がずれるということは、16分音符1個分がずれるということだから、大勢で演奏する場合は0.125秒より短い精度で演奏する感覚がないと、聴こえてくる音は何を演奏しているかわからなくなる。

だから、音楽の練習はかなり細かいことが要求されるということがわかる。
0.1秒ずれるということは、人にはかなり大きなズレと感じる。
DTM(DAW)のソフトでは、こういう要求に耐えられるために、4分音符がどれほど分割できるようになっているかというと、普通は4分音符を480分の1まで分割できるようになっている。
この4分音符をどれほど分割できるかという分解能をtick(ティック)という単位で表し、この場合は4分音符1個当たり480tickということになる(DTMの世界では4分音符が1拍と決められている)。

これは、例示している行進曲の演奏の場合、1秒間を960分の1まで分割できることになる。
これは、人間の検知できる感覚から言うと十分な値である。

最近では楽譜を買うと、伴奏CDが付いてくるものがある。いわゆるカラオケなのだが、これに合わせて演奏してみたところ、どうもテンポが不安定に感じられた。
そこで、DTMを使って伴奏を作りなおしたところ、非常に安定してスッキリした伴奏を作ることができた。
むしろ正確すぎて味がないという感じがするところもあったので、こういうところは10tick、20tickという風に音の出をずらして、味を出すようにした。

ポップスのような音楽ではテンポ(ビート)が正確でなければならない。
それでも、人間の感覚ではわからないぐらいずらした方が、味が出るというか人間臭さが出る。

DTMは演奏者の代わりをするようになってきたので、テレビを見ていても、足らないパートをDTMで代用している場面をよく見かける。

楽しい音楽は演奏も気楽な感じでいいかと思いがちかも知れないが、実は非常に正確にきちんと演奏しないと聴きばえのしないつまらないものになってしまう。

人に楽しんでもらうものは、きちんと作らなければいけないということは、音楽だけでなくあらゆることがそうだということに気づく。
料理、建築、農作物、その他の工業製品など、いい加減に作ったものでは快適な生活を送ることはできない。

子どもは初めて音楽を習う時、音楽は楽しいものだから、気ままに演奏してよいように思っているが、実は非常に細かい訓練を要求されることで、厳しさを感じ取っていく。

そして、正確にきちんと演奏することが、他人を楽しませることになるということを体感していく。

自分がルーズなことは他人対して不快になるとも言える。





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2013年04月22日

変な議論

日本の防衛に関する議論で、非武装中立を主張する人がいた。

その意見に対して「もし、ミサイルが飛んできたらどうするんですか?」と質問した人がいた。

すると

「いやあ、私、そんなの認めないもん」

との答え。

ミサイルが飛んできても認めない。
それで、危険が回避される?

私にはわかりません。どなたか説明していただけますか?

今日は

「ミサイルが飛んできたら、どうしますか?」

「そんなことじゃない。飛んでくる前に防止するんですよ。それが大切じゃないですか」

それはいい、飛んでくる前に防止できればそんないいことはない。

しかし、ここで話は止まってしまった。

「飛んでくる前に防止するとは、どんな方法で行うんですか?」

と質問したらいいと思うのですが、司会は質問しないし、発言者もその方法というのを示そうとしない。

なぜなんでしょうね?

テレビの討論は、こんなのばかりという気がするんですが、何か事情があるんでしょうか?

その先を言わせる。最後まで言わせる。

をなぜやらないんでしょうか?

そういえば、二者択一の問題に対して

「第三の選択がある」

という人がいる。

でも、その第三の選択を言わない

いつまで経っても言わない。

一体、何でしょうね?





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2013年04月21日

プログラム言語に学ぶ厳しさ

プログラム言語とはコンピュータのプログラムで使う言語のことである。

コンピュータは発明当時は、一般社会の人々の目に触れることはなかった。
しかし、パソコン(昔はマイコンと言った)が作られるようになってから、急速に人々の目に触れるようになった。
今のパソコンはDOS/Vと呼ばれるものが主流で、このパソコンが普及するに当たってIBMの功績は大きかった。

パソコンは当初APPLEが先を走っていて、日本のメーカーに刺激を与えた。
パソコンは一般に市販されるようになっても、プログラムそのものがあまりなかったので、仕事に使うということは、自分でプログラムを作ることを意味していた。

ところが、専門家の使っている言語では敷居が高かったので、あまり難しいことを言わず、すぐにプログラムができる言語としてBASICが作られた。

BASICが登場する前の言語では、始めにデータ形式(変数)を厳格に宣言する必要があり、初心者にはこういう入り口で敷居が高く、門前払いを食わせられるようなものであった。

■厳しすぎると人は敬遠してしまう

人は入り口であまり厳しいこと、難しいことを言われると気持ちがめげてしまう。
こういう心理を汲み取ってBASICという言語は作られた。

どの程度の厳しさなら人は挑戦する気概を持つかは個人差があるだろう。
だから、教師は厳しさのレベルと個人の特徴をよく知っておくことが大切である。
こういうことは、わざわざ言うことでもないかも知れない。

しかし、導入として、やる気をそそる程度のレベル設定は大切だが、その後どうするかだ。

■甘さはレベルアップに問題を残す

賢明な親は子どもを厳しく育てる。
その方が自立してから社会の試練に耐えられると考えるからだ。

プログラミング言語も、BASICは多くの人にプログラミングを身近にするという功績があった。
delphi.jpgしかし、難しい仕事をこなそうとすると、BASICのとっつきやすさが仇になった。
それで、厳しさを教えて、バグ(プログラムのミス)の起きにくいプログラムを作るために、主として、教育用を目的としたPASCALという言語が作られた。

私も、当初BASICに慣れていたせいで、PASCALではエラーの続出だった。
現在、PASCALと名の言語は販売されていないが、BORLANDという会社から発売されているDELPHIという言語は中身がPASCALである。

プログラミング言語というと、MicrosoftのVisual Studioが有名だが、Borland Delphiもとてもよい言語である。

■厳しさとは

プログラミング言語を通じて、厳しさについて、ちょっと違った角度から述べてみたが、このところの体罰問題を考えるに、厳しさとはよく怒鳴られること、体罰をされることと勘違いしているのではないかと思った次第である。

PASCALは非常に厳格な言語で、少しの曖昧さも許さない。

例えば、数字の「5」を書いた時、それは文字なのか数値なのかBASICでは勝手に判断してくれるがPASCALではそうはいかない。
いきなり「5」と書かれても何のことかわからないとお叱りがくる。

その他数値についても、いろいろとうるさい。
BASICに慣れてしまうと、PASCALからのお叱り(エラー)のメッセージを「何で間違いなのだ」と、お叱りのほうがおかしくないかと思ってしまうことがしばしばである。

これは、悪いから叱られているのに「何で叱るんだ」と叱った人を悪者にしてしまうわがままな人の対応に似ている。
私は何百というこのPASCALのお叱りを受けて立ち往生した経験がある。
しかし、それを克服すると、できたプログラムは誤動作のない信頼性の高いプログラムになった。

厳しさとは厳格だということである。
殴る先生が厳しいのではない。

TOYOTAの車は故障が少ないということで有名だが、部品を作っている会社に行くと、要求される精度がとても高いということがわかる。
それは、部品を作る会社にとっては厳しいことだが、最終的には完成車の信頼を高め、売れ行きをよくすることに貢献しているわけである。

教師は児童生徒に、厳しさの意味を理解させ、進んで厳しさに向かっていく態度を養わなければならない。
私の経験では、生徒は甘い先生を好くのではなく、自分たちのためを思って厳しく教えてくれる先生を好くという事実を見てきた。

とっつきやすく優しい先生が人気があると思うのは、それだけでは表面的な捉え方であり、そういう先生とは表面的なつきあいになるだけである。

というのは、中学生ともなると、自分の将来を考えるようになる。
そういう時、自信の持てる大人になりたいと考えるのであり、そのために自分の師としてはどういう人が理想かということを考えるものだと思う。





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posted by edlwiss at 23:22 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年04月21日

子ども受難の時代

tedeibear.jpg子どもと言うと、特別視して天使のように言う人もいます。
中には、子どもに政治をやらせたらなどど言う人も。

そういう人の意見を聞いていると、ただ子どもは良いというだけで、根拠を言いません。
人によっては、質問すると怒る人もいます。

子どもは生まれてきて無垢の状態と考えた方がいいでしょう。
ただ、生まれながらにその子ども特有の性質、つまりすでに個性を持っていると思います。

子どもを特別視するのは、子どもを見ると無条件に可愛いと思う感覚が大人に備わっているからでしょう。

テディベアが女性に人気があるのも、あのずんぐりした形を見ると、女性はかわいいと感じるからだそうです。
だから、同様な形の赤ちゃんを見て女性は夢中になって、育児に励むのかも知れません。

人間も動物であり、種族維持のための機能が自然に備わっていると考えられます。
誰から教わったというものではなく、成長とともに発揮されていくようです。

人間の強みは、他の動物より知恵が優っているということです。
なぜ勉強をするのか?
それはしなければならないのではなく、人は元来、好奇心の強い動物であり、探求せざるを得ない気持ちを持っているからだと思います。

人が勉強を始めたのも受験勉強のためではないと思います。
現代は、勉強が嫌いという子どもはたくさんいます。

例えば、学校の音楽の話をすると「音楽は・・・嫌いだったです」という大人によく会います。
しかし、音楽そのものが嫌いという人に、私は会ったことがありません。

■大人らしくない大人

「大人らしくない大人」とは変な言い方ですが、それは体は大人なのに心は幼児のような人。
子どもが生まれても、育てる気のない人など、大人が大人になっていないと感じる現代が子どもを育てる環境を悪くしていると私は考えています。

子どもの頃、親が自分は辛抱しても食べ物をくれた感覚が理解できませんでしたが、年をとると自分は腹が減っても子どもが満足している姿を見ると、自分も幸せな気分になるという感情が自然に湧いてきました。

aichakusyougai.jpg子どもの頃、川でよく遊びましたが、その川が今はコンクリートで囲まれています。
そのせいで、川の生き物はぐんと減りました。

どじょうなどは、川べりを探ると必ずというほどたくさん捕まりました。
だから、子ども同士で魚をとる時、みんな目標にしたのはフナでした。
フナは泳ぎが速く、なかなか捕まらない。
疲れて、どじょうをとっていると、バカにされました。

自然は、いつしか子どもを育ててくれた思います。
日本は今ほど、経済的には豊かな時代ではありませんでしたが、自然が偉大な先生であり、誰に言われることもなく、子どもたちは同じような過程を経て育ってきました。
だから、大人になってもみな共通の心を持っています。

しかし、今では人として当然に持っていると思われることを説明しても、なかなか理解されないことがあります。
いや、言葉では説明不可能とも思えるし、理解もできないでしょう。

■環境破壊が子ども受難の時代を作った

環境破壊と言うと、自然破壊を想像しますが、心の破壊も同時に進んできたように思います。

元来、子どもは自分から学び始め、成長していく力を秘めていると思っています。
そこに大人らしい大人がいて、子どもを見守っていく、これが自然な方向だと思うのですが、人間が余計なこと私利私欲のために環境を壊してきたように思います。

それは、前述した大人らしい大人が減ってきたことが大きな原因と思います。

大人らしい大人が減ったということは、先生らしい先生も減ったということにも通じます。

こういうことを考えてくると、今は、まさに子ども受難の時代と感じます。

では、大人らしいとか先生らしいとは何だということにもなりますが、その問に答える前に、そう感じる人はどんな人か、自分はどうなのかということを考えてほしいと思います。

そして、子どもが子どもらしく振る舞っている社会を作って行きたいものだと思います。





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posted by edlwiss at 11:45 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年04月20日

弘法も筆の誤り

koboutaisi.jpg弘法も筆の誤りとは、どんな時に使うのでしょう?

「弘法大師ですら、誤りを訂正したのだから・・・」という風に使うのでしょうか?

私は弘法大師が誤りを訂正したかどうかは知りませんでした。
調べてみると「応」の「丶」を忘れたとか。しかし、後で気がついて、筆を投げて見事に修正したとか。
事実はわかりません。

でも、弘法大師が誤りを訂正したとかどうかという事実は必要でしょうか?

弘法大師は知られているように、三筆のひとりです。

そういう弘法大師の名前が出てくるときはどんな時でしょう。

弘法大師は字を間違えたたから、謝った?訂正した?
謝らなかったとしたら、自分の間違いを訂正できない性格の悪い人?

そういう問題でしょうか?

■カラヤンを知らない人

クラシックフアンでなくとも、カラヤンの名前を知っているのは、社会人の教養、常識のうちだと思うのですが、それは過度な要求でしょうか?

中高の吹奏楽の指導に行くと、カラヤンを知らない生徒はたくさんいます。
先生に、ご存知かどうかは聞いたことがありません。
生徒で、生徒に教えている人は少ないような気がします。

音楽をやっていて、カラヤンを知らないのは、さみしく感じます。

念のために確認しますと、カラヤンはドイツのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(ベルリンフィル)の指揮者でしたが、地位は終身指揮者でした。

プロのオーケストラでは大体、指揮者は契約期間を決めて、その終了とともに別の指揮者と交代するのが普通で、気に入られたら契約更改ということもあるのでしょう。

何でもそうですが、契約期間を決めるということは、悪かったらそこで打ち切ることができるという利点があるからです。
サラリーマンの定年制度も、定年になればよくなかった人を辞めさせることができるという利点が大きいと言います。だから、65才定年制度に反対する企業がかなりあるらしい。

夫婦だって倦怠期だとかなんとか言って、別れたくなる時期があったり、旦那の定年を期に別れ話が出るぐらいですから、そんなに付き合いのない指揮者と契約し、嫌だと思ってもいつ辞めてくれるのかわからないというのは、憂鬱になるでしょう。
契約更改制度というのはそういうリスクの回避でもあります。

ところが、カラヤンの場合は終身指揮者の地位を与えられたわけですから「一生やってください」というわけで、その気に入られようは普通ではないということが想像できます。

しかも、ベルリンフィルは世界のトップクラスのオーケストラで、人気オーケストラの1、2位をウィーンフィルとともに争っています。
歴史的名指揮者が代々名を連ね、クラシックの歴史を作ってきたと言えます。

そのカラヤンが棒を振り間違えたというのは、どういう意味があるのでしょうか?

棒を振り間違えたのに「すみません、今は間違えました」という言えない人の心理状態は、おそらく、ミスを認めると権威が落ちるとでも思っているのでしょう。
そういう(つまらない)心理を察して、指揮の先生は「カラヤンでさえ」つまり「カラヤンほどの大指揮者でも間違えるのだから、君が間違えたって権威云々という問題ではないよ」というのが指揮の先生の「心」なわけです(カラヤン存命中は、カラヤンに嫌われると、音楽家はヨーロッパで仕事ができないとさえ言われていました)。
「つまらないプライドを捨てよ」と言っているわけです。
つまらないプライドに固執すると、かえって信頼を落とすということです。

こんな、本日のブログは、先生方には釈迦に説法ですね。

弘法も筆の誤りと同義の言葉は、猿も木から落ちる河童の川流れがあります。

芸をやっているお猿さんが木から落ちたからと言って「猿は謝ったか」なんて問題にする人がいるのでしょうか?

そういえば、謝っているお猿さんをテレビで見たことはありますが。

カラヤン氏が振り間違えて、謝ったかどうか、私は知りません。
読解力には知能だけでなく教養も必要ですね。

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posted by edlwiss at 10:37 | Comment(6) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年04月19日

教員の公式ブログ設置を希望する

参議院選挙を前にして、選挙活動にネットの利用が大幅に拡大する模様だ。

選挙といえば思い出すのは、衆議院選挙での裁判官の国民審査である。

認める場合は何も書かない、認めない場合は×を書くと言ったって、名前の挙がっている裁判官については何も知らない。
選挙の少し前に、新聞が配布され紹介されているだけだ。

司法という三権分立の一角を占めているにしては、この国民審査というのはお粗末な制度と思う。
国民をバカにしているのではないかと、思うほどである。
知らない人を評価せよと言ったって、できるものなのか国は考えてもらいたい。

政治討論会はよく行われるが、司法についての討論会は、行われたためしがないのではないか。
裁判官も日曜討論ぐらいに出たらどうだろうか?

こういう状況を見るに、日本はまだ民主化途上国と感じる。

■教員もどういう考えを持っているか一般に示すべき

kyouikublog.jpg学校の教員も、教育という大切な仕事を担っている。
教員は現場で実際に教育活動に携わる仕事をしている。
保護者に教育の義務を課している以上、子どもの教育に直接携わる先生が、どういう先生なのか、広く一般に公式ブログとして公開すべきと思う。

今やウエブサイト(ホームページ)のない学校は存在しないだろうが、あるだけで情けないほど貧弱な学校もある。
見栄えのよいホームページより、中身のあるホームページにすべきである。
おきまりのようなメッセージを載せるだけでなく、保護者の心に響くホームページにしてもらいたい。

保護者が特に関心を持つのは「どんな先生だろうか」だろう。
おきまりの挨拶だけでなく、その先生の人柄を表すブログを発信してもらいたいものだと思う。

■先生の常識を知りたい

学校の先生は、当然、社会常識を持っていなければならない。
しかし、この当然の常識に不安がないでもない。

例えば「きまりをは守らなくてよい」とか「きまりは破るためにある」など、平気で言う人がいる。
私はこういう先生の発言に対しての怒りを、保護者から直接聞いている。
というのも、学校を離れて直接保護者と合う会合に参加する機会が多くなったからだ。
よく「○○の常識は△△の非常識」という言葉が使われる。
先生の常識は社会の非常識と言われないためにも、各先生の教育に対する考えを発表して欲しい。

各先生のブログを作ることを強制するかどうかは別として、学校は自主的に進めていくように教員の自発性を促すようにしてもらいたいものだ。
もっとも、すでに自主的に行なっている学校もある。

先生が責任を持って、自分のブログを公開することにより、保護者の安心感と信頼を得る機会が増えるものと思う。
保護者からの問い合わせについて受け付けるかどうかなど、利用の仕方には検討が必要だが、ネットの有効利用のひとつとして、是非すすめてほしいものだ。





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posted by edlwiss at 22:14 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年04月18日

訂正できることこそが人間の優れたところ

誤りは、良いか悪いかと言ったら、論ずるまでもなく悪い

屁理屈アタマでは、こういうところで良い誤りなどと言い出して、矛盾した論理の展開をする人もいる。
こういう人は頭のおかしい人に分類される。

教員が気をつけなければならないのは、子ども相手で上に立って仕事をしているせいか詭弁を使って、強引にねじ伏せようとする人もいることだ。
【詭弁】(きべん)
道理に合わないことを強引に正当化しようとする弁論。こじつけ。「―を弄(ろう)する」
《sophism》論理学で、外見・形式をもっともらしく見せかけた虚偽の論法。
はてなキーワード
こういう経験を積み重ねていくと、人は次第に傲慢になるだろうと想像する。
その時、どういう人相になっているだろうか。

もちろん、教員がみなそうすると言うのでもないし、教員以外にはそういう人はいないというつもりもない。
概して、教員はそのように見られやすい傾向があるということである。

■「正しい」に到達する方法

近年、電気回路に使う素子が進歩してきて、IC化された回路の集積度が非常に高くなっている。
コンピュータと言うと、ディスプレイ(モニター)とキーボードを備えた形のものを想像する人も多いだろうが、電化製品の中に組み込まれたワンチップのマイクロコンピュータ(マイコン)もコンピュータである。

bigdrum.jpg昨年、私は洗濯機を買い換えて洗濯からアイロンがけまでノンストップで動く洗濯機を買ったと記事に書いた。
こんなに便利なものなのに、外出先で会った人に話すと、以外に知らない人が多い。

こういう製品の中にはマイクロコンピュータが入っていて、予め手順がプログラムされた回路が入っている。
コンピュータは複雑な処理(計算)を行なっているようだが、元をたどればスイッチの組み合わせに過ぎない。
私たちが日常生活で、照明のスイッチを切ったり入れたりする動作が基本になっているわけである。
入りを1、切りを0(ゼロ)として、2進数の計算の世界である。

それらを元にしたプログラムは、人が作ったものであり、完成すると1個のIC(集積回路)に閉じ込めて完成となる。
予め決まった動作なので、固定化した回路(プログラム)でよい訳だ。

こうしたICによって、電気製品は飛躍的進歩をとげ、昔は鉄は産業の米と言われたが、今はICは産業の米と云われるようになった。
ICは一度設計され、生産ラインに乗ると、あとは紙の印刷のようにものすごい勢いで生産される。

ICは便利なものであるが、欠点は変更できないことである。
だから、時代に間に合わなくなったICの廃棄も相当な数で、以前はそのまま捨てられていたが、内部の回路には金が使ってあることから、最近では金を回収するようになってきた。

廃棄されるICが多いと言っても、役立って終わったICはいい。
問題は、設計段階で回路に誤りがあったことがわかると、作られたICは活躍する前に廃棄である。
だから、設計者の神経の使い方には並々ならぬものがあるだろう。
ICは始めから100点満点が要求されているのである。

ここは、人の脳の働きと大いに違うところである。
人の場合は、生まれたばかりの乳幼児が、周りの物に触れながら自ら学習し、試行錯誤しながら成長する。
人間の脳は試行錯誤するのである。
この試行錯誤こそが人の脳の優れたところなのだと思う。

それは、誤りをすると、誤りと認識し修正をするという行動であり、数多くそういう経験をしながら正解に近づいていくという行動である。

始めから一直線に正解にたどり着く、というのは最も合理的であるが、問題が複雑になってくると対処できなくなる。
だから、人間の脳の思考から学んだ人工知能型のコンピュータが注目をあびるようになったのだと思う。

将棋の対戦で、コンピュータが強くなったのも人工知能になってからで、人工知能ではコンピュータ自身が学んでいる。
人工知能では試行錯誤し、誤った経験を覚えていて二度と同じ間違いをしない。
対戦の経験を積む度に賢くなるのである。

■誤りが訂正できない人は退化する

試行錯誤して賢くなるという働きが人の脳の優れたところであると述べた。
そうすると、人としてのこの優れた機能を使わない人は脳が退化すると考えられる。

そういう意味でも、詭弁はよくないと言える。
人が年をとって頑固になるのも、脳が硬化し誤りの訂正ができなくなるからではないか。

誤り訂正という人の持つ優れた機能は、機械にも応用されている。
例えば、身近にあるCDプレーヤー。
CDは非常に密度の高い情報を記録していて、そのデータを読み取るのは、野球場で落とした1本の針を拾うようなものだと言われる。
また、記録面が傷ついていたり汚れていたりすると、データの読み間違いが起こる。
しかし、少々の傷や汚れでもCDプレーヤーは止まらない。

それは、常に誤り訂正を行なっているからである。
前後の記録などから、こうあるべきだという情報を類推したり、補完したりして止まらないように回路が働いている。





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posted by edlwiss at 18:01 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年04月18日

スペシャル牛乳

牛乳をとってくれというので、販売員の熱心さと、少しは景気に貢献できるか?牛乳も飲んだ方が健康にいいか?と自分で勝手な理屈をつけてとることにした。
スペシャル牛乳とかで、瓶は小さいが確かに中身は濃いしよさそうな気がする。

牛乳といえば、昔のことを思い出した。
近所のおばさんが牛乳配達をやっていた。
ある日、そのおばさんが自宅の前を通りかかった時、母に「お宅、牛乳とってくれません?」と声をかけた。

「うん、ウチの猫が飲んだらとってもいいよ」

と母の声。

へえ、貧乏な我家でネコに牛乳?
と思ったが、人間を頼って生きている弱者(猫)に優しい、そんな母親が私は好きだった。
(ウチの可愛いペコちゃんのためなら、少々の我慢も)とは暗黙の了解。

さて、牛乳のおばさん、皿を持ってきてペコちゃんの前に差し出した。
ペコちゃんは、フンフンと嗅ぐようなふりをしたかと思うと、ペロペロと舐めだした。
途中でやめることもなく、気に入ったらしい。
合格だ。
かくして、牛乳を入れる箱も玄関の横に取り付けられ、毎日牛乳が配達されることになった。

よその人がが見たら、恐らく人間が飲んでいるだろうと思うのだろうが、実態はネコ様のためで、人間は我慢。
たまに、母親は

「お前、牛乳飲むか?今日はペコが飲まんかったもんで」

と言った。
ペコ様が飲まない時は、ありがたく私がいただくことになった。

学校は給食で牛乳が出る。
学校の牛乳は、普通の牛乳より少し瓶が大きい。
気に入るか入らないかわからないが、子どもたちは文句を言わず飲んでいる。
子どもは感心だ。

私は「この牛乳、ペコは飲むかなあ?」と思った。
家に持ち帰り、牛乳のおばさんのように皿にあけてみた。
ペコちゃんは、また、フンフンとやったかと思うと、さっさと引き上げてしまった。
不合格。
学校の牛乳は瓶こそ大きいが、中身は薄いのだ。

子どもはいい。少々文句を言っても「贅沢を言ってはいけません」でなんとかなる。
猫はそうはいかない。

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syushoku_daigaky.jpgコンサートに行った時、喫茶店で、10年以上は会っていない先輩と偶然再会した。

話をするうちに、先輩はどこやらの大学の先生をやっているのだと知った。

(えっ、この人が大学の先生?)

驚き。

彼とは昔から意見が合わなかった。
話せば長くなるので、ここでは詳細については触れないが、基本的に生徒を自分のための消耗品と考えている彼を、私は教育者としては不適格だと思っていた。
彼は「損だ得だ」という視点で、考えを進めていく。

大学で何を語るんだろうと思うが、今や、大学は昔のイメージではないんだと思うようになった。
彼が大学に・・・ヘエーッ、ではなく、大学がその程度なんだと考えた方がしっくりする。

駅弁大学と言われた時代があったが、今やその言葉も死語で、今は駅弁大学以上である。
田中真紀子元大臣は、大学の認可で物議を醸し出したが、発言には問題があったとしても、その気分は少しは理解できる。

論文と言ったって、とにかく字が埋まっていればよいというものではない。
メリハリのない、一体、何が言いたいんだということが明確に伝わってこない文章というのは、何を表現したいのかわからない、ただ音を並べているだけの演奏のようなもの。

daigakurankingu.jpgもともと中身がないんだから、それ以上のモノは出てこない。
ペコちゃんの飲まなかった、瓶だけ大きい学校給食の牛乳のようなものだ。

そういえば、とることにしたスペシャル牛乳は、始めは二ヶ月だけという契約のはずだった。
ところが、契約をしてやると言ったら、とても喜んで鉢植えの三色スミレを持ってきた。
その三色スミレをベランダに置いて、毎日眺めることになった。
そうしたら、配達する人の気持を感じて、断れなくなってきた。
結局、1年以上はとっている。
その花を見ていると、断った時、配達人の悲しそうな顔を想像して言い出せない。
三色スミレ、これは、うまい演出かも知れない。





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posted by edlwiss at 13:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

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