2013年05月31日

法律力

houritsuryoku.jpg荘司雅彦氏の六法で身につける 荘司雅彦の法律力養成講座を読み、感じたこと。

今、企業では経済力、英語力を要求しているが、法律力も必要という話である。
確かに、問題解決のよりどころは法律である。

争いの解決としての最後の手段は法律である。

どんなに自論を展開したところで法律には勝てない。

こういうことは、常識ある大人ならわかることである。

ファイナンシャル・プランナーも常に法律を意識し拠り所として話をする。

しかし、今回は法律論を展開するわけではない。

相談を持ちかける人自身の問題である。

相談によっては、弁護士に依頼しなければならないが、それ以前の問題である。

ある依頼者の例。

交通事故を起こして、自分が加害者。任意保険に加入していない人の話。

幸い人身事故ではなかったが、相手の車は全損扱いとなった。

加害者本人は、自分の過失を認めているのか認めていないのか、よくわからない発言をする。

「私が悪いことにされちゃったんです」

「どんなふうですか?」

「私が赤信号で交差点に入ったと言われるんです」

「では、赤信号ではなかったという証明はあるんですか?」

「・・・」

賠償金を払うつもりはあるらしい。
そして、賠償金の額が妥当かどうか知りたいらしい。
それで、賠償金がどうなるのか調べていると

「赤信号って、認めなきゃいけないんですか?」

「そんなことはないですけど、・・・不満なら認めなくてもいいですが、裁判になるかも知れませんよ。検事が起訴すると裁判になって、負けると禁錮以上の刑になりますよ」

「禁錮って何ですか?」

「懲役と違って、労役のない刑です」

「犬のめんどうがみられないので、そういうところに入っていられません」

裁判の判決による刑がどういうものかわかっていないらしい。

一番の問題は、赤信号でなかったと主張するが、証明できるものがないとダメだと言っても納得しないこと。

■想像と事実の区別がない人

これは、事故の例だったが、そうでない話でも想像(妄想)と事実を整理して話せない人がいる。

「お前は・・・して・・・したんだろう?」

これは、想像であり、相手が否定すればそれまでであり、自分の勝手な想像で相手の行いを決めつけてはいけない。

「あいつが・・・という悪いことをしたのは事実です」

これも、事実の裏付け(証拠)がない限り、想像と同じ。

しかし、こういう人の多くは「事実です」と言えば事実になると思っているらしい。

だから「それでは、弁護士に依頼して戦いましょう」とまでは踏み込めない。

要するに、感情に支配されるところがほとんどであり、それを証明する手立てはありますかと聞いても「確かなんです」と答えるばかり。

「それでは、証拠を探してきます」

という人は、頭がいい人と感じる。

私が言いたいことは、先生は、憶測の話をして決めつけることをしないで欲しいということである。

特に感情に支配され、何も裏付けのない話を事実にすり替えるようなことをして欲しくないということである。

話していることがどれほど事実なのか、どれほどの根拠を持って話しているのか、冷静になって考えて欲しいということである。

想像することは構わない。
でも、想像は想像以外の何ものでもない。

まして、自分の主張の都合で捏造するなんてことは、もってのほか。

信用失墜になる。





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2013年05月29日

支離滅裂

【支離滅裂 意味】
ばらばらでまとまりがなく、筋道が立っていないさま。▽「支離」はばらばらなさま。「滅裂」はきれぎれ、離ればなれ。ばらばら。
goo辞書

支離滅裂な文章を書く人は、頭の中もそういう状態なんでしょうね。

wargame.jpg以下は日本語の4文型です。

1.何(誰)が・・・どうする
2.何(誰)が・・・何だ(です)
3 .何(誰)が・・・どんなだ(です)
4 .何(誰)が・・・ある(いる)

1.の例

犬が吠える

という文には違和感がありません。

「犬が」は主語で「吠える」は述語です。

また「犬」は名詞で「吠える」は動詞です。

名詞は主語になり得るし、動詞は述語になれるわけです。

だからと言って、名詞なら何でも、動詞なら何でも持ってきてよいというものではありません。

花が吠える

はおかしいし、

犬が咲く

もおかしいです。

これは極端な例ですが、人は社会生活をして、社会経験に基づいて常識というものを身に着けてきています。

社会経験に基づいた知識を蓄えてきているわけです。

脳の中は、蓄積された引き出しがたくさんあるようなものです。

薬剤師の人は、薬を調合しますが、それは治療に適した合理的な組み合わせを考えて、いろいろな引き出しから薬を出してきて調合するわけです。

私たちの脳も、文章表現をする時は似たようなことをやっていると言えます。

しかし、あちこちの引き出しから薬を出してくるように、言葉を出してくる時、とんでもないものを出してきたり「何でそんなものを出してくるの?」というような行動をする時、これを支離滅裂と感じるのだと思います。

胃の薬を調合する時、水虫の薬を混ぜたらおかしいと思うでしょう?

「胃が悪いのになぜ水虫の薬なんですか?」

「薬には違いないからいいのです」

なんて答えは、不安になってきます。

いや、もしかして水虫の薬がいいのかも知れませんが、だったら、その根拠の説明が必要でしょう。

つまり、話は常識に照らして納得できるものならいいですが、そうでない場合には根拠の説明が要るわけです。

■教育には常識を育てるという面がある

教育の対象が子どもであった時、子どもが教育によって育つということは、コンピュータ(ロボット)に知識を与えるというのとはわけが違います。

ロボットの場合は入力されたように動作をします。
それが道徳的、人道上、よくないことであっても実行するわけです。
ここに、何でもコンピュータ化してしまうことの危険性があるわけです。

映画ウォーゲームはそういう危険性を訴えた映画であるとも言えます。

核攻撃は大統領命令によって行われますが、核攻撃のボタンを担当者が本当に押すのかどうかを確かめるために、担当者には知らせないで訓練を行います。

担当者に訓練の命令が伝達されます。
ボタンを押すと、人が何千万人と死にます。
担当者はそれを想像した時、恐ろしくてボタンを押しませんでした。

それで、人間では命令が忠実に実行されないということを知った政府は、担当者を解雇してコンピュータに変えました。

ところが、いたずらによるソ連からの核攻撃を受信した軍は、本物と間違え、大統領に打診し命令を実行する段階になりました。

命令を受けたコンピュータは実行に入ります。
しかし、途中でいたずらと気がつきましたが、コンピュータは忠実に実行されるように作られていたため、止められなくなりました。

米ソが核戦争になりそうになったという話です。

先生は子どもを教育しますが、子どもはコンピュータではありません。
先生により導かれても、子どもは自身の力で自立していきます。

だから、正常に、つまり心身とも健康に育った子どもは、自身の判断を持つのです。

親は「先生の言うことは聞くんですよ」と言いますが(少なくとも、私はそう言われて育った)、先生に「廊下を掃きなさい」と言われたら、それを実行することはよいことであり、実行する可能性はあります。

しかし、先生が「あの人をナイフで切ってきなさい」と言ったとしたら、子どもはびっくりして拒否するのが教育の成果であるし、子どもが健全に育っていることになるのだと思うのです。

こう書いてきた時、私は親鸞の宿業(しゅくごう)という言葉を思い出しました。

弟子:「親鸞様、私はあなたのような偉い人の言うことは何でも聞きます」

親鸞:「そんなことはできない」

弟子:「いや、あなたのようなお方のいいつけなら、何でも従います」

親鸞:「では、今から百人の人を殺してこい」

弟子:「そ、それは・・・」

親鸞:「できないだろう。お前の行いは、過去のお前の行いが決めているのだ」

こんなような話であったと思います。

業・宿業の思想 (仏教と真宗と)






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2013年05月28日

楽しい英語クラブ

aratametekyoyou.jpg英語クラブに参加して、約一ヶ月になります。
以前から知り合いだった、元大学院の先生の紹介を経て入会しました。

みなさん、大変レベルが高く、ついていけるのかと不安がありましたが、とてもよい雰囲気で余計な緊張感がありません。
この際、自分の英語力を上げたいと思っています。

この学習会は、毎回、社会で起こった国際的なニュースの英語版をもとにしています。
アメリカの政治家が話している言葉は難しく感じます。

先日は三浦雄一郎氏のエヴェレスト登頂のニュースを、イギリスのBBCが放送しているものが教材でした。

時々、ゲストがみえることもあります。
最近のゲストは、国連に勤務している方のお話。
アメリカの生活の事情の質問もします。会話は基本的に英語ですが、強制されてはいません。

先日は話題のボーイング787の開発プロジェクトに携わった日本の方が見えました。
この方は大変苦労して、大学まで卒業された方で、いわゆる苦学の人です。
日本の最難関大学の工学部博士課程を卒業され、TOEICは975点だったそうです。

ものすごく流暢な英語で、会の中にみえるエンジニアの方と専門についてたくさんのやり取りがありました。
実際にアメリカでボーイングの開発に携わっていたので、英語を不自由なくこなすのは当たり前と言えますが、予備校へ行ったり家庭教師をつけてもらったりして難関大学に入学したお坊ちゃまとは違うという感じがしました。

私は、自分がずいぶん怠け者のように感じました。
そして、彼はずいぶん頭がいいと感じるのですが、全く変なプライドを感じさせず、頭が低いのはいわゆる「実れば実るほどに垂れる稲穂かな」のお手本のようなもので、自分が恥ずかしくなりました。

1回の学習会は2時間ですが、終わった後、みんなで昼食をするのも楽しみです。
いろいろな話題が飛び交い、いろいろな仕事の人がいることがわかりました。

スポーツの国際的な審判員の人もいて、こういう人が英語のクラブにいるのも当然と言えるのかもしれません。

教養の高い人たちの集まりで、私などが仲間に入れていただけたことに感謝しています。

ただ、自分の教養の程度が低い気がしていますが、教養は何かをすることが教養ではなく、いくら学んでも、知識は豊かになるかも知れませんが、教養が高まるかどうかはわかりません。

学歴はずいぶんなのに教養がないと感じる人もいるからです。

教養は人格も関係するからなのでしょう。





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2013年05月28日

就職できんかったら・・・

高校へ吹奏楽の指導に行っている時のことです。
職業高校ですから、就職希望者は多いです。

どこへ就職するかという話しになった時

「うーん、・・・私、就職できんかったら大学へ行く・・・」

と言っていました。

昔では考えられないことです。

今は就職が難しいのなら、大学へ行く時代ですか?

何でも「ボーダーフリー」とか言う大学があって、予備校がランキングを出している中で、事実上ランキング外ということだそうで「名前だけ書けば入れる」なんて噂もあるとか。

しかし、入学は容易でも勉強しなければ卒業できないというならいいですね。

ランキングより中身ということでしょう。

卒業生がどういう経過をたどっているかで想像できるでしょう。

大学は何で選ぶのでしょう?

建物ですか?

設備も大切ですが、第一は先生でしょう。

勉強は良い先生を求めて行くということなのだと思います。

となると、大学はいかに良い先生を獲得できるかではないでしょうか。





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posted by edlwiss at 09:28 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育問題

2013年05月26日

古くても壊れていなければ蘇る

人間の話?

年取っても、壊れていなければ蘇ると言うと、年寄りの使い道のようだが、パソコンの話です。

ある事業所へ行ったら、今まで使ってきた古いパソコンがたくさんあった。

もったいないので、何とか使い道はという話しになった。

結論、壊れていなければLINUXで蘇るという話です。

具体的には、PentiumV(800MHz)、RAM 256Mバイト程度のWindows2000が走っていたマシンでも十分使えます。

LINUXにもいろいろあって、RAM 80M程度で走るものもあります。
ハードデイスクも、LINUXをインストールしても400Mバイト程度ですから、10年ぐらい前のマシンでも大丈夫です。

こう書いてくると、人に当てはめたら、定年退職した人でも、健康であれば仕事の引き合いはあるということです。
linux.jpgでも、CPUが壊れていてはダメです。人間では脳に当たるでしょうか。

CPUが壊れていたら、でたらめな計算結果を出す恐れがありますから、怖くて使えません。

頭が狂っているのはどうしようもないということです。

古くても、正常な判断ができる頭(CPU)かどうかをチエックし、LINUXをインストールしてパソコンを蘇らせる計画を立てたいと思っています。

事業所の方は、これで海外でパソコンに不自由している国の援助ができたらと言ってみえました。

フリーのソフトでMicrosoft Officeと互換性のあるOpenOfficeを使えば仕事に使えます。

年を取っても頭が健康ということは大切なことと、改めて感じさせられました。

学校でLINUXを使える先生を増やしまししょう。





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posted by edlwiss at 20:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年05月26日

先生は常識人であるべき

当然のことです。

頭は帽子をかぶるためにあると言うような発言は論外。


「個性は持つべきか、持たざるべきか」なんていう発想がおかしいように、何かをすることが教養ではなく、教養のある人が何かをするということです。

教養を身につけようという姿勢は大切ですが、身につくかどうかは、栄養素のあるものを食べたとしても、栄養になるかどうかはわからないようなものだと思います。

学歴が高いから教養があるとも言えませんし、教養はその人の生き方に関わってくるのでしょう。

当たり前の道理を、当たり前として発言できないようでは、非常識でありそもそも先生の出発点にすら立っていないのだと思います。

他人のことを知るのも限界がありますが、それをまるでその人の中まで入り込んでわかったような発言をするのは、非常識を超えた異常の段階だと思います。
posted by edlwiss at 07:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

2013年05月24日

教養のある人

教養は抽象的な言葉です。

私は先生は教養人であるべきにて、教養という言葉を使ったのは、知識があるだけでは何か足りないと思ったからです。

その足りなさとは何かと考えてみたら、教養の意味の説明の中に人格という言葉が出てきました。
kyouyou.jpg人格というのも、これまた抽象的な言葉です。

「人格がある」といった時、それは良い意味で使います。

単に「人格」と言っても、教養には人格が必要と言った場合の人格の意味はすぐれた人間性。また、人間性がすぐれていることということになります。

知識が豊富なだけの人を、教養のある人とは言わないわけです。

知識が豊富なだけで教養があると言うなら、コンピュータも教養があるということになってしまいます。

私は時代劇も見ますが、侍の妻には教養のある人が出てきます。
伝統的な日本の良き女性です。
こういう女性は、控えめでいつも主人を立てています。

常日ごろはでしゃばらない。
しかし、いざとなった時は、主人の力になる。

知識もあり人格もあるのに、それを表に出さない、そこに奥ゆかしさがあってそれが一層、人格を引き立てています。

昔からの言葉に、家はアメリカの家料理は中国料理奥さんは日本人というのが男にとって一番の幸せだと言われてきました。

私はアメリカ人の男性を自宅にかなり長きにわたって泊めたことがありますが、彼の彼女は日本人でした。
彼は「アメリカの女はひどい」と言っていました。
もちろん、彼の感想です。

アメリカ女性とのつきあいに、良い経験がなかったのかも知れません。

彼の彼女K子さんは利口そうで、控えめでしたから、やはりそういう女性が気に入っいたのでしょう。

私はアメリカの女性にも魅力があると思っています。

何処何処の国の女性がどうのこうのと言うより、人それぞれでしょう。

ただ、侍の時代からの日本女性の伝統的なたしなみは、尊重されているということだと思います。

大和撫子(やまとなでしこ)は、日本女性の良さを代表した言葉でしょう。

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何か技を持っていると、得意になって、人に宣伝したくなるというのも人情かもしれません。
しかし、すぐ宣伝したくなるというのは、まだ浅いレベルなのかも知れません。

連続ホームランを打って、チームの勝ちに貢献したのに、感想を聞かれると
「みんなの後押しがあったからです」とか「まぐれです」と言っている選手は、凄いと思います。
そういう選手は本当に力を持っているような気がします。





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posted by edlwiss at 22:16 | Comment(5) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年05月24日

お父さん今日までありがとう

東京海上日動の保険はともかく、うまくコマーシャルをつくるものだと感心した。



形式を知ると、クラシック音楽はどうも苦手と思っている人も、親しみが持てるかも知れません。

「似てるな」と感じたものがあったら、それらを整理することで知識が体系化されるかも知れません。

バカの壁の著者、養老孟司氏は、学問とは共通のものを探すことだと言ってみえたように思います。

例えば、昆虫とという分類は、いろいろな虫を観察して、虫の種類は違っても体の部分が、頭、胸、腹に分かれていて、羽根が4枚という共通性があります。

chinoutokokorono.jpg人の知能は、一見違うものを共通概念として捉える能力があるわけです。
これを統合する能力があると言うのかも知れません。

「2つと同じリンゴはないのに、我々はそれらを一言でリンゴという」のも養老氏の著書の中の言葉です。

知能を鍛えるためには、このようなことに注目してみるのもいいかも知れません。

そう言えば、知能テストに「次の絵の中で、同じグループのものを探しなさい」あるいは「一つだけ違うものを探しなさい」というのがあったような気がします。





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2013年05月22日

思考回路のチェック

いろいろな話題を掲載すると、情報量が多くなるので、整理が大変になってくる。

この時、思考回路の能力が試されることになると思う。

この時、情報の整理に大切なのは、やはり集合の概念だろう。

テレビを見ていると、日本人が高齢化しているせいか、コンドロイチンとかヒアルロンサンなどを含む様々な商品の宣伝が多い。

そんな宣伝を見ている時

「コンドロイチンを摂取したって、健康の方が大切だ」

なんて発言をすれば、思考回路がおかしくないかと思われるだろう。

これは極端な例だが、これに似たような発言をする人がいないわけではない。

学校では子どもの学力を向上しようと、いろいろ工夫しているわけだが、その実践として良い授業を心がけるわけだ。

それでは、良い授業とは何かということになるのだが、それは子どもの心に残る授業と言える。
心に残る授業とは、印象に残る授業であり感動のある授業だと言える。
また、感動があれば、記憶に残るということになる。

人間は感動したことは忘れない。

だから、授業は感動を求めて、様々な演出を考えるものだと言える。

斎藤喜博氏の著書に斎藤喜博著作集〈第7巻〉教育の演出,随想 (1963年)という本がある。授業での演出は大切である。

授業でも部活動でも同じだが、私は、子どもが感動する指導が大切だと思って、指導してきた。

子どもが先生から何かを教わるということは、科目の枠に縛られない。

国語を教わった先生から、国語以外のことを学んだということもあるのだ。
もちろん、それは国語の先生があえて国語以外のことを教えたということではない。

国語の先生の人格というものが、国語以外のものの影響を子どもに与えたということである。

そういう意味では、先生の人格、生き方というものが子どもに影響するということを、忘れてはならいと言える。

■人は時間に支配されている

人は時間の奴隷であると言った人がいる。

確かに、人は時間を思うようにできない。

何かを徹底して指導しようと思った時、時間が足りないと感じることがある。

あるヴァイオリン奏者は1日、12時間練習すると言った。

そんなにできるわけがないだろうと思ったら

「私はヴァイオリンのことを考えている時間も、練習時間と思うから、それらも入れると12時間になるのです」

と言った。

私は、そうかと思った。

足りない時間を補うには、考える時間を多くすればよいのだと思ったのである。

それは子どもの記憶に留める指導をすればよいということだ。

感動のある指導が、記憶に残る指導であり、それは教えたことを子どもが好きになる指導でもあると考えた。

そう言えば、小学校でリコーダーを教えた時、ある女子は日曜日に一日中リコーダーを吹いていたと母親から聞いたことがある。

「先生が一度吹いてみるね」

と言って、子どもの前で吹いたことがある。

特に演奏が上手だったとは思わないが、幸いなことに女の子には印象に残ったらしい。

■子どもが早く終わってほしいと思う指導は記憶に残りにくい

反対に、いやいや受けている授業は、終わった途端に忘れると考えた方がいいだろう。

コンピュータは間違いなく入力すれば、間違いなく記憶するが人間はそういうわけにはいかない。

人間の場合、間違いなく必要なことをもれなく喋ったとしても、それが子どもの記憶に留められるとは限らない。

人間とコンピュータの違いは、人間には心があるということだ。

心が拒否していたら、記憶に留まらないと言えるだろう。

■記憶に残ることの効果

これは、もう言うまでもないことだろう。

記憶に残るということは、考える時間が多くなるということだ。

これは、短い指導時間でも結果的に長い学習時間を作ったことになる。

ペーパーテストが記憶力だけ試すものであるという批判を受けることは多いが、これは記憶力自体を否定するものではない。

gakuryokunotaru.jpg学校は子どもの学力向上を目指していると、始めにも述べた。

ここで、かつての私のブログ記事、学力はどう定義すべきかで、学力の樽なるものを提示した。

学力はその要素として、様々なものを含んでおり、記憶力はその要素の一つであるという意味を説明したつもりである。

記憶より学力が大切だとか、考える力が大切だなどと頓珍漢なことを言ってはいけない。

そんなことを言ったら「タンパク質より、栄養素の方が大切だ」と言っているようなものだ。

しかし、時に、このように思考が混乱している人を見かけることがある。
頭のなかで、知識が整理できないのだろうか?
やはり、集合の概念がないと言わざるを得ない。

少なくとも、教師はこのような発言をしないように気をつけたいものだ。





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2013年05月21日

フーガ形式はどうか

前回は文章を書くには、起承転結を意識してはどうかと意見を書いた。
そして、これは音楽のソナタ形式にも似ていて、ドラマの世界も同じようになっているとのことを書いた。

起承転結→ソナタ形式と考えを巡らすと、音楽の他の形式にも関心が行く。

そこで、フーガの形式はどうだろうと、頭の中で様々なことを想像してみた。

ところで、このように記事を書いていると、けっこう大勢の人が読んでいるのだなと知った。
だが、読んだ人たちの全てがどんな感じを持っているのかはわからない。

しかし、読む人の姿勢としては

1.好感を持って読む人
2.中立的な立場で読む人
3.反感を持って読む人

の3つに分かれると思うだが、私は他人の記事を読む時は2.の中立的な立場でということを意識している。

私の文章をどういう立場で読むかは、その人の自由だが、これだけはいただけないと言うものがある。
それは、話の通じない人で書いたように、私の書いた文章の、ある一部を取り上げてそこから想像する(妄想する)ものを拡大して、勝手な世界に入り込み、原文(私の書いた文)には書いてないのに、書いてあるという決めつけである(下の図)。

hanasunotuzinai.jpg


3.の反感を持って読む人はアラ探しをするのかも知れないが、それは、どうぞという感じだが、言ってもいない(書いてない)ことを、言っている(書いている)と決めつける輩には近づきたくない。
電気に親しんできた私としては、こういう人は回路が壊れているんだろうと思ってしまう。

以前から言っていることだが、こういう人に「それは何処に書いてありますか?」と言っても返事はない。
(この類の人は、途中で思考停止するのが特徴のようだ)

前回の起承転結を応用しようでは、ソナタ形式の例として、シューベルトの交響曲第7番「未完成」を挙げた。

なぜこの曲なのだという人がいるかも知れない。
一つの例だから、ソナタ形式なら何でもよいのだが、強いて理由を言えば私の好きな曲ということである。

しかし、全ての楽曲がソナタ形式でできているなんてことは言っていないし、そんな風に読む人はいないだろうと思う。

「たい焼きのあんこにはあずきが入っているものがあります(多いです)」と言っても、全てのたい焼きに、あずきのあんこが入っているといっているのではありません。
(誰それの買ったたい焼きには、クリームが入っていたとしても、私の言っていることが間違いだということにはなりません)

立場が先生であるなら、子どもの作文を読む時、意見を聞く時、子どもの意思とは関係ない読み取りをしてはいけません。
子どもは、いつも自分のことを正しく理解して欲しいと思っているでしょう。
また、そういう先生を信頼するのだと思います。
だから、勝手な決めつけは禁物です。

勝手な決めつけをして、子どもに悲しい思いをさせないために

「君の言いたいことは◯◯ということなのですか?」

と問いかける習慣をつけるのがいいと思います。

■フーガ形式は利用できるか?

フーガ形式の構造は、ある人の説明では、ごく簡単には

呈示部 - 追迫部 - 終結部

ということなのだそうですが、この形式の特徴は、何と言っても主題の「追っかけ」です。
追っかける曲としては、カノンを想像しますが、フーガの場合は主題に対して「対唱」「答唱」「答対唱」があり、展開します。

フーガと言えば、ヨハン・セバスチャン・バッハ(大バッハ)が浮かびます。
よく知られている「小フーガ ト短調」示します。



聴いていると、これもドラマが展開しているんだと感じます。

実際、このようなドラマはあります。

主人公が出てきて、ドラマが展開する。
すると、遅れて、まるで違う人のドラマの展開に場面が変わり、両者は別々に展開しているのだが、ドラマの進行とともに絡みが出てくる。
そして、事件が深刻な場面に達するが、次に解決に向かい、最後の結末がくる。

フーガ形式にならったのではないでしょうが、似ているなあと感じます。

人の創作活動は、互いに相談することはなくても、分野が違っても似たような方法に収束されるかのようにも思えます。

では、フーガ形式のような作文はできるでしょうか?

もちろん、そういうドラマがあるということは、小説は書けるということであり、脚本も書けるわけです。

しかし、小説以外の作文ではどうでしょう?

まあ、フーガ形式を意識してレポートを書いたら変かも知れません。

社員が報告書をフーガ形式で書いて、課長に渡したら、課長はなんと言うでしょう。

「なんじゃ、これは?」

と言いながら、おもしろいという課長はユーモアのわかる人かも知れません。

話は脱線しますが、先生はユーモアのわかる人がいいと思います。

子ども向けの話も、時にはユーモアを入れるような工夫が欲しいと思います。

また、子どもがユーモアを込めたものを書いたり、言ったりしても感知しない先生はつまらないと思います。

私は何かの機会にフーガ形式に挑戦してみたいと思います。





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2013年05月21日

起承転結を応用しよう

atamanoiihito.jpg起承転結を使うと、効果的にモノを伝えることができる。

何でも起承転結がいいというわけではないが、起承転結を意識して文章を書けば、まとまりのある文章というだけでなく、人の心理に効果的に訴えることができると言えます。

起承転結は伝統的な表現方法ですが、それだけに完成された表現方法であると言えます。

それは、言いたいことの印象を深める効果があるからだとも言えそうです。

だから、文章表現だけでなく、音楽分野でも使われています。

■ソナタ形式

音楽では交響曲や器楽曲などソナタ形式で作られているものは多い。

kisyoutenketu.jpg


有名なシューベルトの交響曲第7番「未完成」もソナタ形式で書かれている。

序奏があり、ここは、今から物語が始まりますという感じ、続いて主題が提示され(主題提示部)、ここでは主人公(第一主題)の登場で、主人公の彼女(第二主題)が紹介される。

次に展開部で物語が展開する。
様々な苦難を乗り越え、再び主題が再現され(主題再現部)、物語は終わる。

これはドラマである。

映画もこのように作られている。
スーパーマンが登場し、彼女が出てきて、様々な事件に遭い、スーパーマンは彼女を助けて、めでたしめでたしとなる。

クラシック音楽、特に交響曲は長くてどうも、という人もこのようなイメージを持って聴けば、楽しさが湧いてくるのではないかと思う。

このように、音楽におけるソナタ形式も起承転結であり、長い間続いてきた形式でありながら、用いられるというのは、人の心理、つまり感性に訴える方法として、やはり、完成されたものだからだろう。

感性に訴えるというのは、感動を呼び起こす方法として優れているということである。

気安く感動という言葉を使ってしまうのだが、英語クラブの諸氏に聞いてみると、英語では、感動とはemotionimpressionと教えてくれた。
日本語の辞書の説明は以下である。
美しいものやすばらしいことに接して強い印象を受け,心を奪われること。
大辞林

子どもに質問された時、困らないように確認しておきたいものだ。

人を感動させるとは、感動というものを持っていくのではなく、人が感じるものである。

例えば、彼女を喜ばそうと思って花を持って行ったとしても、彼女が期待通り喜んでくれるのかどうかはわからない。

感動は呼び起こすものであり、ある方法を使ったら必ず人が感動するというものではない。

人がいる所で悪臭を放てば、人は臭いと感じるだろうが、感動とは持って行って放って、人を感動させるものではない。

なぜ、こんなことを書くかというと、近年、言葉が乱れてきて意味がめちゃくちゃになっているというか、自分勝手に意味を決めていると思われる人がいるからである。

感動のある授業をしようと思っても、授業を受けている者が感動するかどうかはわからないのである。

それを、感動のある授業をすると言うと、まるで、感動というものを持って行って放つような言い方をする人がいるので呆れるのである。

まあ、感動が詰まったボンベのようなものがあって、教室でそのボンベの栓を開けると生徒たちが感動するというものがあれば便利なのだが(笑)。
(どこかに、そういうものを売っていませんかねえ)

余談だが、気になる解釈として「個性」もある。

「個性は持つべきか、持たざるべきか」という人がいた。
これにも呆れた。
個性とは生まれつき持っているもので、自分の意志で持つ持たないを決められるものではない。
(ロボットを作って、機能として「個性」という部品を入れるか入れないかというのなら、別だが)

■感動を目指して

小説も音楽もドラマも作者は感動してもらえないかと、熱を入れて作るものである。

テレビで放映されたドラマが視聴者の感動を呼び起こせば、視聴率も高まりテレビ局も嬉しいわけである。

コンサートだって、演奏を聴いた観客が感動してくれるように、演奏者は努力するわけである。

小説も感動するからたくさん買ってくれるわけだ。

だから、人生は感動を求めているとも言える。

「人はパンのみにて生くるにあらず」

とは、

人間は物質的な満足だけを求めて生きるものではない。
精神的な満足がなければ生きていけない。


と言うことで、精神的な満足とは感動そのものと言ってよいだろう。

■起承転結を応用しよう

論文を書く場合には、この形式は適していないだろうと思うが、人に強い印象を与えること、すなわち感動を与えたいという場合は、意識して起承転結を取り入れようと言いたい。

kisyoutennketu.jpg指導案も書き方に困ったら、起承転結をよりどころに考えてみよう。

もちろん、これは私の意見であり、私は国王でもないから、上から目線で言うものでもない。

■起承転結を理解するには

起承転結は4つの部分からできているので、文章をバラバラにしか読めない人、つまり頭の中で統合できない人にとっては理解不可能だろう。

しかし、人間が人間である所以は、そういった統合ができる知能を有しているので、普通の人を対象とする限り大丈夫だろう。

もし、あえてこの形式を否定する人は、統合して理解する能力に欠けているのかも知れない。

夏も近づいてきた、スイカの食べたい季節である。

包丁で丸いスイカを切った時、中が真っ赤だった時の感動を経験した人は多いだろう。





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2013年05月19日

話の通じない人

「自動車の売れ行きが悪くなったから、自転車の取り締まりが厳しくなったのは明らかです」

と言う人がいます。

この人に、明らかとはどんな理由からですかと聞いても回答はない。

それは、妄想だからだろう。

明らかと言っているのに、理由が明らかでないという不思議な話をする。

根拠のない話をする人は、話が通じにくいような気がする。

なぜそうなのだろう?

根拠のない話を、さも根拠ありそうに話す人は、他人の文章を読む能力にも問題がありそうな気がする。

つまり、こういう人とはコミュニケーションが取れない、話の通じない人ということになる。

話が通じるということは、互いの話を正しく理解することから始まるのだが、話したことが通じないではそれこそ話にならない。

人は話し合いをしている時に、相手とコミュニケーションを取りたいと思う時には

「あなたの言われることは、・・・・ということなのですか」

などと言ったりするものだ。

司会者もそのような方法で話を進めていくことが多い。
教師も子どもを相手にする時は「君の言いたいことは・・・・ということなんだね」と聞き返すことは大切だと思う。

■読解力がない

話が通じない人の原因は、そもそも読解力がないということがある。
特に、正しく読み取る意思もなく、一方的に決めつけたがる人の思想構造を考えてみると、下図のようになるのではないかと思う。

hanasunotuzinai.jpg


論理的に組み立てられた話があるとすると、その話を論理をたどって読むのではなく、自分に関心のある(刺激のある)言葉だけに注目し、それだけを取り出し、それを中心に妄想を展開する。

妄想は肥大化し、元の文とは何ら関係のないことを創作し、あるいは捏造し、それが作者の言わんとすることだと決めつける。

bunsimodel.jpgなぜ決めつけるのか?

それは、読めないからである。

読めないから、勝手に意味を決めてしまうしかない。

もともと、原文を正しく読もうとする意思がないとも言える。

論理的に書いてある文章は、ちょうど分子構造のように有機的につながっている。

文章が読めない人というのは、思考がバラバラで、有機的つながりを持って解釈ができないと言えるのだろう。

だから、単発的にしか取り上げることができないし、自身の文章も単発的で、根拠のない言い分が多い。
根拠を考えて、文章を構築する思考に欠けていると言えるだろう。

平たく言えば、頭の中がバラバラで分裂している。

そう言えば、昔、分裂症という言葉があったが、こういうことを指しているのかも知れない。

いくつかある文章を読む時、文章相互の関係を統合して解釈しなければならないのだが、それができない。
統合できないから、統合失調症と言うのか?

この類の人に根拠を聞くと、必ずというぐらい返事はない。沈黙してしまう。
もともと、発した言葉が妄想だからだろう。

「あなたが、そう思ったところは、どこに書いてありますか?」

「・・・・」

となる。

ここで「・・・・」の最中に、妄想だったと気がついているのかどうかはわからない。

しかし「・・・・」という思考停止(?)が起こる。

しつこく聞くと、本人も怒る(笑)。

■故障の自動車を使いますか?

話の通じない人を相手にするのは、故障の自動車に乗ろうとしてるようなものだ。

自動車を構成している部品が、有機的に機能していない。

動くかどうかを試みる人はいるだろう。

でも、それも故障の程度による。

だから、故障の自動車も程度によって見切りをつけることが大切だ。

自動車でなくても、電化製品でも同じだ。

中には故障でも動くものもあるが、それが洗濯機なら洗濯物がビリビリになってしまうかも知れない。

自動販売機なら、ボタンを押した時、何が出てくるかわからないようなものだ。
ロジック回路が壊れているのだ。





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2013年05月19日

人間関係の希薄な社会

教育工学の立場からは、人の活動には内部活動外部活動があり、内部活動は直接見ることはできないものであるから、その人の外に現れる外部活動によりその人の内部活動を想像するしかないと言っている。

naibu_gaibu.jpg


このことは、人間関係の希薄な社会においては、人の見方を誤る恐れがあると言えるだろう。

自分の子どもの頃を思い出すと、夕食時に席につくと、親から「どうしたの?」と声をかけられることがあった。
「どうもしないよ」と言うと「いや、何かあったでしょ」と言われた。

「どうしてわかる?」と言うと「顔に書いてある」と言われた。

親には隠し事ができないなと思った。

親は毎日見ている我が子の様子を、関心持って見ている。

だから、少しの変化も見逃さない。

これは、親の愛情がそうしているものだと思う。

愛情を感じている相手の変化には敏感であると言える。

今日(こんにち)では、人間関係が希薄になっていると感じる。

人間関係が希薄ということは、愛情を感じる相手が少ないか、愛情を感じていても薄いと言える。
だから、相手の微妙な変化を発見することができない。

他人の心のの中の活動(内部活動)は決して、直接見ることができないものであるが、その活動の影響は必ず外部活動に現れると、私は思っている。

微妙な外部活動の変化を見つけることができるかできないかは、対人関係の密度と観察力にかかっていると思う。

先日、ある親から「うちの子どもは動物が好きで、うさぎを飼って欲しいと言うんですが」という相談を受けた。

確か、以前、ネコがほしいということで飼ったはずだがと思ったので、そのことを聞いてみた。

私:「ネコのめんどうは、よくみているんですか?」

親:「それが、自分の時間のある時は抱いたりしているんですが」

という話。

私は、動物を飼うということは、子どもにもいいことだと思うが、自分の都合だけでかまったりするだけなのはよくないという意見を言った。

つまり、動物を飼うということは、餌も糞尿の始末も健康も気を配ることができて、愛情があるということであって、自分がかわいいと思った時だけ、抱いたりするのは愛情とは言えないということである。

自分の都合だけで好きだというのは、自己愛であって、本物の愛情とは言えないと思うのである。

近年、家族の間でさえ、愛情が希薄ではないかと感じるようになってきた。

それは、そろって食事をしないというところにも表れているような気がする。

家族とは何か?

一緒に食事をすることであるというぐらい、食事を同席することは大切だと思っている。

いや、大切というより、愛情があれば一緒に食事をしたいと思うはずだろう。

別に特に用事があるわけではない。
そうしなければならないという義務もない。

しかし、そうしたいと思うところが、愛情であり。

愛情があれば、我が子や配偶者の微妙な変化にも気づくはずだろうと思う。

微妙な変化に気づいてくれる人がいないことも寂しいことである。

人は、死にたいと思った時、止めて欲しいと思う段階もあるだろう。
でも、誰も気づいてくれなかった。
自分のことを気にかけてくれる人は、誰もいないと悟った時、非常な孤独感を感じ、このような世界にはいたくないと思うのかも知れない。

そういう時、人は、誰にも悟られず死にたいと決心するのではないか?

しかし、そういう彼や彼女のことを気にかけている人であれば、何か、いつもと違う彼や彼女の変化に気づくと思うのである。

現代は他人のことには無関心で、自己愛が加速しているように見える。
それに加え、自分に対する外部の刺激には敏感であるが、他人の立場には鈍感なような気もする。

自分の都合だけの恋人は、先の、かわいいと思った時だけのペットのようなものではないか。
本物の愛情と自己愛を、間違えないようにしなければならない。





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2013年05月18日

教育学における公理とは何か

kyouikunohouhou.jpg先の記事で、数学に公理があるように、教育(学)においても公理にあたるようなものを守るべきとの意見を述べた。
今回は、そのことについて、もう少し深く考えてみようとと思う。

教育学の分野はどのくらいあるのだろう。
これは、フリー百科事典「ウィキペディア」の教育学を参照すればわかる。

実にたくさんの分野がある。

その中で、方法・技術の中の教育工学に注目してみよう。

私がこの分野を勉強したのは、もうずいぶん昔のことである。

教育工学と言うと、工学にとらわれて、現代ではコンピュータなどの機械を駆使して教育を行うことだろうと思う人がいるかもしれない。

人によっては、そう思って終わってしまう人もいるかも知れない。
しかし、ここで学究的な人とそうでない人が分かれてしまうような気がする。

特に「先生」という肩書きをもらった時は、危険ではないかと思うのである。
子どもにとって、生き方のモデルは目の前の先生であるということを考えると、先生になった途端、学究的態度を捨ててしまうのは、肩書きは先生でも実質は先生ではないと言えるのではないか。

辞書や事典がなかったら、ネット検索でもよい。
試しに、ネットで検索してみると、教育工学とは(松田稔樹)・東京工業大学を見つけることができる。

内容は読者が読んでいただければよいが、ここでは教育工学は、「より良く教育目標を達成することを追求する学問」と強調してあることがわかる。

教育工学のスタートは、人の活動には内部活動と外部活動があるというところから始まる。
そして、内部活動は決して見えないものとしているところが重要である。

kyouikukougaku.jpgここが、公理のようなものと言えるだろう。

人によっては、他人の心を「誰それは・・・と思っている」と決めつける人がいるが「・・・」の部分は決してわからないということである。

それをわかったように決めつけて語る人は、思考が単純か不遜な態度の人と言えよう。
そうでなければ、超能力者かも知れない(笑)。

教育における様々な活動は、対象である児童生徒の心の中(内部活動)は決してわからないので、児童生徒の見える活動(外部活動)から想像するしかないということなのだ。

この大原則(公理)を忘れているので、様々な間違いが起こるとも言える。

これは、教育活動以外でも適用できることである。

例えば、彼女に「あなたなんか嫌い」と言われたとしても、それは「あなたが大好きです」と心の中では思っているのかも知れない。
ここの「あなたなんか嫌い」は外部活動であり「あなたが大好きです」は内部活動である。

それを、表面上の言葉(外部活動)だけで単純に受け止めたために、本当は「プロポーズして欲しい」と彼女が願っていたのにチャンスを逃したということがあるかも知れない。

ドラマをみると、そういった外部活動と内部活動のズレが視聴者をハラハラさせるところにもなっている。

先生と児童生徒の関係では、先生が専制君主のような状態であると、児童生徒の外部活動と内部活動のズレが起こりやすく、真相を捉えることができにくいのではないかと思う。

そういうことを私は考えるので、先生には気安く話ができる環境を作りたいと考えている。
ただ、そういう環境ができると、児童生徒は時に平気で失礼な態度をとることもあるが、それも垣根のない証拠であると良い方に解釈するようにしている。

某高校で、女子が「先生の言っていることは、なんでも正しいんですか」と言って来たことも、その対処如何で他の生徒に及ぼす影響もあった。
私はその言葉を正面からまともに受け止めて「間違いのないように、調べて言うようにしています」と言ったことが、良い方に展開した。

一番気をつけなければいけないことは、今日のように子どもの自殺が憂慮されている時、人が本当に死にたいと思っている時は、死にたいという素振りを見せない(外部活動)ということだ。

なぜなら、本当に死にたいと決心しているのに、止められては困るからである。

「少しも死にたいというようなふりは感じられなかったですが」

というコメントはどうかと思う。

むしろ、いつもと違って妙に明るい方が問題なのかも知れないのである。

自分の身近な人が、死ぬ決心をしているのに察しられないのは、誠に残念なことである。





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posted by edlwiss at 19:58 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年05月18日

公理に反しないこと

数学の一番土台には公理があります。
その上に定理や公式があって、それらを守っている以上、どんなやり方や理論を展開してもいいわけです。

だから、数学をやっている人は、どんなに自由に振舞っていても、公理、定理、公式に反することはしません。
未だに誰も解き明かせない、リーマン予想も天才と言われた数学者たちが挑戦してきて、未だに解明されていません。

NHKスペシャル 魔性の難問 リーマン予想・天才たちの闘いでは150年にわたって挑戦してきた天才数学者たちがみなこの難題に立ち向かった結果、変になっているというところに魔性のようなものを感じだ。

天才数学者たちは、我こそはと挑戦して狂ったようになるが、それまで数学の歴史が作ってきた公理、定理、公式などを無視して自論を展開することはなかった。

ところが、教育学となるとどうだろうか?

教育学には公式はないが、教育学の歴史が作ってきた理論はある。
大学で教育学を学んだ人は、それらを知っているはずである。

しかし、学んだだけで、あるいは講義を受けただけで、現実の社会生活ではそれらを無視し、自分の勝手な理論や意味づけで通そうとしている人がいる。

まるで、自分の発する言葉が法律であると主張しているようにも見える。

数学で言えば、定理や公式を無視して数式をいじっているようなものである。

教育の場ではコミュニケーションをとるために、様々な言葉(用語)を用いる。

言葉の意味は、数学で言えば「三角形の内角の総和は180度である」というようなものである。

それを自分で変えてしまっては、何を証明しようとしてもムダである。

教育を語るには、正しい言葉の積み重ねで行わなければならない。

言葉を大切にしない人は、私は、先生ではないと思っている。
学究者でもない。
ただの無教養者である。

それでいて、プライドだけは高いのは、悪臭を常に放っている人のようである。
臭い人には近寄らないようにする。

よく勉強しいる人、博学な人ほど謙虚であり、変なプライドは持っていない気がする。

■数学を教養として学ぶべき

女性には理屈っぽい話は禁句と、伯母からもよく聞かされた。

デートの時は決して理屈を言うなと言われた。

そういう話をすると嫌われると言われた。

どういうわけか、女性には数学や物理を嫌う人が多いような気がする。

しかし、まれにそうでない女性に会うこともある。

物理専攻で大学院を出たある女性は、口数は少ないが、冷たい感じはしない。
話をすると、物静かで謙虚である。
話の筋もよく通るので、話しやすい。
彼女は在学中から、某企業から誘いがあった。
そして、その企業の研究部門の職に就いた。

最近、また珍しく、数学が好きだという中年の女性に会った。
フーリエ変換の話が出てきたのには驚いた。
気取ったところは少しもなく、さわやかな感じのする人だった。

数学が好きだという女性の方が、女性らしいかも。

ロシアの女性数学者ソフィア・コワレフスカヤは教養のある人たちの集まるパーティで、男たちによくモテたという。
話の筋が通って、話しやすいところが人気だったらしい。

ソフィアが12歳のとき、近所に住んでいた物理学の教授が光学に関する本を彼女に与えたところ、当時まだ三角関数を知らなかったソフィアは自力でそれを解釈しようとした。彼女は三角関数が数学の歴史において展開されてきたのと同じ方法でそれについて説明してみせたので、仰天した教授は彼女を「パスカルの再来」とまで呼び、家庭教師をつけて数学の研究を続けさせてやれと彼女の父に嘆願し、父も折れたという。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

この話を読んでも、めったに現れない天才だろうということが想像できる。

文学部に数学が必要ないというのはおかしいと思う。

作文能力は「考える力」と言われるが、考える力とは論理的思考がもとでなければならない。
だから、教養として数学を学ぶのは必須と思う。

■朝顔につるべとられてもらい水

私が子どものころ、家に水道はなく、井戸から水汲みをして家の中にある水瓶に運ぶのが日課だった。

つるべではなく、手押しのポンプだったが、そんなころ知ったこの俳句がずっと印象に残った。

そのせいか、この俳句の作者加賀千代女の優しさを感じるとともに、毎日、水を運んだ井戸の情景が浮かんでくる。

この俳句の影響であろうか、エアコンの室外機にすずめが巣を作ってしまって、巣立ちまでとうとうエアコンを使わなかったことがある。

「すずめらにエアコンとられてうちわかな」

このような観賞の対象の俳句などは、数学とは関係ないように思える。
だが、五七五というリズムは数学と関係あるような気がする。

ポップス曲の演奏方法を習った時

「実は、こういう曲は、非常にきちんと演奏しないと楽しく聞こえないのです」

との、先生の言葉が残っている。

「きちんと演奏」とは、リズムやビートがしっかりしていることはもちろん、音符の長さが正確でなくてはならないということである。

楽しい音楽は、楽しく楽しくと演奏が崩れてしまっては、聞く方にとっては少しも楽しくないということなのだろう。

工業製品も、よく計算されきちんと作られているものは美しいように感じる。

■女の腐ったような男

女性から攻撃を受けそうな言葉だが、この言葉も、育ての親である伯母からよく聞いた。

「女の腐ったような男」になるなよと言われたり、誰それを指して「女の腐ったような男」とか、私が情けないような時「女の腐ったような男みたいだ」と言われたりした。

非常にたくさんの本を読んでいた伯母に育てられたことは、私にとっては実の親に育てられるより幸福なことだったと思う。

伯母の多読に反して、私は本を読まなかった。
読んでいたのは「鉄腕アトム」と「鉄人28号」で、例外的に読んでいた文字の多いものは、江戸川乱歩の「怪人二十面相」だった。

しかし、大学に行くようになってから、急に本に興味を持ち、時計を買う時には、まず「時計学」という本を読んで研究してからというように、生活が変わった。

急に本に親しみが湧くようになったのは、恐らく、伯母の影響ではないかと思うようになった。

だから、親の影響はいつか出てくるのではないかとも思っている。

「女の腐った奴」という言葉は、女性蔑視と言われてもしかたがないと思うが、イメージとしては「そんな男いるなあ」と思うことがあり、像が浮かぶ言葉としては、よく言ったものだと思う。

スケールが小さく、チマチマと人のアラ探しをし、プライトだけは高く「おれが言葉の意味を決める」と言う割には気が小さい。
橋下氏が従軍慰安婦発言で物議を醸し出しているが、彼ほどマスコミの前で発言できるような読経はないのに、コソコソと内弁慶のように動く男は腐っているのだろう。

自論を展開するのはいいが、土台となる言葉、理論に沿っていない考えは、価値がない。

「お前たちは、間違ったことを覚えていくと、将来、子どもたちに害を流す」
とは、大学の恩師の言葉。

価値の無い持論は押入れの中で叫んで、社会に害を流さないようにして欲しい。
月給をもらって、害を流すのはもってのほか。





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posted by edlwiss at 14:20 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年05月16日

象の消滅

このタイトルを見て、村上春樹を想像した人は、4月からNHKラジオで始まった英語で読む村上春樹
を知っている人かも知れません。

私が大人の英語のクラブに参加させていただいた折、すばらしいテキストが発売されたと思っています。
講師は東京大学大学院人文社会系研究科教授、沼野充義(ぬまの・みつよし)氏でゲストにバーミンガム博士課程に在籍のMatthew Chozik(マシュー・チョジック)氏、英文朗読を俳優のErick Loren(エリック・ローレン)氏、日本語の原文朗読をNHKアナウンサーの糸井羊司(いとい・ようじ)氏と充実したメンバーの番組である。

最近はインターネットラジオが便利で、私はRadikaを使っている。
音質もよく、録音もできるので、録音したデータをSONYのWalkmanに移して使っている。

番組のウエブサイトもあるので、興味のある人はご覧ください。

現代は、本人のやる気さえあれば勉強する環境は充実していると思う。

富士山が世界遺産に登録される見込みと言われるが、私はまだ富士山に登ったことはない。

英語に限らず、私の教養はまだ富士山の入り口あたりだろうか?

いつも上を目指して、寿命が尽きる寸前が自分の一番高い所でありたいと思う。

登り続けることは楽しみでもある。
同好の仲間がいることは、励みにもなる。

それにしても、英語で読む村上春樹の始めは「象の消滅」という私にとっては刺激的な内容だった。

読書家の人から見たら「まだ読んだことがないのか」と言われそうだが、村上春樹は今回が初めてです。





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posted by edlwiss at 22:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年05月14日

英語クラブ

eigo.jpgふとしたきっかけから、大人が集まって英語を勉強する会に参加することになった。
はじめは、覗いてみるだけの気持ちだったが、感じのよい空気についつい惹かれた。

みなさん、とても英語が達者な方ばかりで、会の中でのやりとりは基本的に英語である。
日頃、英語のない世界に生活している私としては、ちょっと抵抗があるのだが、この際、前向きな姿勢で行こうと思った。

外人はいないのだが、殆どの人は海外経験があるようで、国際結婚で配偶者の一方が外人と言う人もいた。
昨日、国会中継を見ていたら、日本人の英語力のなさが国際競争力に影響しているが、政府として何か対策を考えているかという、質問をしているところだった。

私は外人を何ヶ月も家に泊めたことがある。

これは、英語を学ぶよい機会だと思っていたが、外人の方が日本語を話したがるので、結局、学ぶ機会にはならなかった。

今回の英語クラブこそチャンスかも知れない。

みなさん達者なのだが、とても温かく私のような未熟者にもやさしく対応してくださるところが、嬉しい。
終了後は皆さんで昼食になるのだが「今日のあなたの朗読は、とても発音がよくて慣れていらっしゃる感じでしたよ」と言ってくれた人がいた。

私は嬉しくて、心が踊る気持ちだった。
褒められた子どもの気持ちがわかるようでもあった。

このように、声をかけてくださる思いやりに、この会が持っている空気のようなものを感じた。

この会は聞き取りが中心で、毎回、テープレコーダーを使って教材が用意される。
内容は、大統領の演説や、それに伴う外交問題の話などで、大人向きの教材である。
だから、大人としての社会常識も持ち合わせていないと、意味がわからない。

机の上を見ると、私を除く全員、電子辞書を置いている。
以前、英語の堪能な人に会った時、すぐカバンから辞書を取り出して確認をしていたのを思い出した。

やはり、達者な人ほど辞書で確認するのだなと思った。

私も見習って辞書を持っていくことにした。

私は、狭い世界に閉じこもって偉そうに振る舞うのが嫌いなので、会の人たちから学んで外人の前でも自信が持てるようにしたいと思う。
子どもに返ったような気分でもある。





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posted by edlwiss at 22:55 | Comment(9) | TrackBack(0) | 日記

2013年05月12日

ネコでも就職できる時代

若者が就職難と言われ、就活という言葉も馴染みになってきた。
ところが、人間様が就職難というのにネコがちゃっかり職にありついている。
和歌山電鉄のたま駅長である。





企業に就職すると、普通は平社員の身分であるが、たまは、なんといきなり駅長である。
そして、たま駅長はこのほど古希を迎えたということで、祝賀会が催され、昇進して社長代理となった。
これほどのスピード出世も珍しいだろう。

たかがネコだろう?

と言う人は、なめてはいけない。
たま駅長が就任してからの経済効果は、ある大学の先生の計算では11億円ほどなのだと言う。

■たま駅長から学ぶ

たま駅長は和歌山電轍の貴志川線の貴志駅に勤務している。
毎週平日の火、水、木曜日の3日間が勤務ということ。

採算がとれないことで廃線予定だったこの鉄道を、たま駅長が救ったことになる。

社長の小嶋光信氏は、たまを見た時、何かを感じたらしい。
地元の人の話では、普通のネコですが、何かオーラが違うという。

人間もみな人としては同じだが、何かオーラを感じるような人がいるような感じがする。
たまに何かを感じて、駅長に採用した小嶋社長には優れたセンスがあったわけだ。
11億円もの経済効果を生み出した、たまの年収が駅長の帽子と1年分のキャットフードだけだったというのには異論もあるだろうが、まさにたまは招きネコである。

特に何をするのでもないが、経済効果があると言うと、昔からタバコ屋の看板娘を思い出す。
私はタバコを吸わないので、そういう経験はないが、中には看板娘を見たさに買いに行った人がいるかも知れない。

最近はタバコは自動販売機になってしまったが、もしかしたら、これは能率化ではないかも知れない。
人件費を使っても、タバコ屋には美人を置いた方がいいのかも知れない。

実は、本日、本屋へ立ち読みで寄ったのだが、かわいい女の子がカバーになっていたPCの雑誌を買ってしまった。
この年で、女の子のグラビアは恥ずかしいが、表紙がPCの本なら、偶然、今月号はそうだったという顔をして買うことができる。

しかし、美人、かわいいだけが効果でもない。

私は2年ぐらい、山奥の空き家を借りて住んでいたことがある。
そこには風呂がなかったので、街まで出てきて銭湯に通った(看板は◯◯温泉と書かれていた)。

入り口を通過すると、番台に無愛想なおやじが座っている。
不動明王にも似た親父の顔は怖いのだが、これが何か親しみを感じるのである。

個人経営で、一生懸命という感じだった。
風呂から出て、うどんを食べると、これが美味くて、すっかり習慣となってしまった。

無愛想なおやじは、特にサービスをするという感じもしなかったが、それでも正月近くになるともちつきのサービスをやった。

その日は常連客も広間で、臼を囲んで餅つきを観ていた。
おやじが

「おきゃくさん、どうぞ、どうぞ」

と言って、観客を誘った。

あまりにも熱心におやじが誘うので、よしとばかり、筋肉質のたくましい男の人が出てきた。

臼に蒸かしたもち米が入れられると、男の人は、トントンと調子よくついた。
そして、もち米のつぶが見えなくなって、餅らしくなってきた時、男の人はそれまでより張り切って、大きく杵を振り上げ、えいやっとばかり餅をついた。

すると、勢い余って、臼の餅が空中に舞い上がっと思ったら、床にドスッと落ちた。

おやじの表情が変わった

「も、申し訳ありません!」

おやじは真剣な顔つきで、観客に頭を下げていた。

その様子を見ていた私は、おやじが気の毒に思ったが、どうしても笑いをこらえることができなかった。
人は他人の不幸を見ると嬉しくなると聞いたことがあるが、私にもそういう心があるかも知れない。

何年も前の思い出だが、最近近くを通った時、◯◯温泉の看板はなくなり、跡地にはマンションが建っていた。
kyousigakawareba.jpgあの時のおやじは、今頃どうしているのだろうと思う。

無愛想で怖い顔つきのおやじも、不思議と人を惹きつけるところがあった。

オーケストラは、指揮者が変わると、同じ曲を演奏しても違う音を出す。
プロのオーケストラでなくても、子どもの合唱、オーケストラ、吹奏楽でも同じである。

教師のする授業も、教師が変わると受ける方は、全く違う印象を受けるのだろう。

やはり、そこにも「ときめき」や「感動」があるのだろう。





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posted by edlwiss at 16:59 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会時評

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