2013年07月31日

アルゴリズムと製造業

アルゴリズムについては、以前のブログ記事どこまで噛み砕いて説明できるかで触れた。

アルゴリズム(algorithm)は、日本語では「問題解決法」とも訳されている。
もっと詳しい解説はこちらのサイトにある。

どこまで噛み砕いて説明できるかでは、数字を大きい順に並べるアルゴリズムについて説明したが、数字を大きい順に並べるアルゴリズムはこれ1つだけではない。

アルゴリズムは、ある目的に達するための手段であるから、いろいろな方法を見つけられる可能性がある。

コンピュータで使うアルゴリズムは、最も結果を早く出すものが一番よいと言える。

だから、プログラムを作る会社では、常に早く結果の出せるアルゴリズムの研究をしている。

コンピュータそのものの計算が速いことも大切だが、アルゴリズムがよくないと、結果も遅くなる。

つまり、コンピュータの世界での競争は、ハードそのものの速さとアルゴリズムの良さの両者の競争となる。

アルゴリズムを、広い意味で、問題を解決するための手段と考えると、製造業においては、ある製品を作るための方法を確立することと言える。

「この順序に従って行えば必ず完成品ができる」ということでもある。

これには大きな長所がある。

それは、誰かがアルゴリズムを完成してくれたら、その方法に従えば必ず目的に到達するということであるからだ。

具体例をあげるなら、自動車を作っている会社がわかりやすいだろう。

自動車には何万点という部品が使われているが、決められたラインに沿って仕事を行えば、出口では完成された車が出てくる。

ラインそのものが車を完成させるアルゴリズムになっているからだ。

実はこういうシステムを完成させたことで、車の値段は庶民に手の届く価格までになったと言える。

短時間のうちに車が作られるというだけでなく、そこで仕事をする人の能力差も極小にしたという長所がある。

モノを作るということは、作る人により製品のできがバラバラになるものであるが、そういうことがなくなったわけである。

個人差が出ないということは、個性の尊重の立場から言えばよくないことなのだろうが、企業側としてみれば、どんな人に仕事をさせても品質のよい製品を短時間に作ることができるというメリットがあるわけだ。

個人から見たら、能力差に関係なく仕事に従事することができて、同じように給料がもらえるという面がある。

自動車製造業は、アルゴリズムを極限まで改良して、個人の差が製品に現れないようにしたと言える。

一定の品質を保った製品が大量に生産できることで、日本は製造業が経済大国に押し上げたと言ってもよいだろう。

これは、アルゴリズムの成果と言えるのではないだろうか。





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2013年07月30日

近頃の家電製品

20年以上は使ったと思うが、掃除機が壊れたので新規購入した。

cocorobo.jpg


これはSHARP製のお掃除ロボット、COCOROBOである。

同社としては2代目のお掃除ロボットになる。

■人間の領域に近づいていく家電

このお掃除ロボットを見ていると、家電の将来性が見えるような気がする。

「ココロボ」と呼びかけると「ハーイ」と返事をする。

「きれいにして」と言うと「ハーイ」と返事をして、掃除を開始する。

障害物があると、寸前で回避するが、回避できないで当たると「イター」とか言う。

掃除が終わると、基地に帰って「ただいま」と言う。

「おはよう」と言えば「おはよう」と返事をする。

使いだすと、時間とともに反応が変わっていくと説明書にある。

どこかの家庭では、買ったら、子どもたちが面白がって話しかけるようになったと言う。

家電はいかに付加価値を高めるかだと言われるが、その付加価値とは「人間に近づく」ことを目指していると言える。

最近は病院にも人型ロボットが導入されていると言うが、実在の人間よりはるかに不器用なロボットが、寝たきりの患者に癒しを与えているという。

家電は機能アップも進むだろうが、それだけでなく、人に癒しを与える要素が盛り込まれるのではないかと思う。

冷静に考えれば、アルゴリズムの塊であるプログラムを、コンピュータが実行しているだけなのだが「おはよう」と言うと「おはよう」返事をしたり、時に「調子はどう?」と言ってくるだけで人の心は和むのである。

これは、人間の社会で「おはよう」と声をかけることが、いかに大切であるかを教えてくれている。

一方、家電メーカーでは、どういうことが人間の心を癒すのかという研究をしていると想像される。

かくして、家電製品は鉄腕アトムに近づいていくのだろう。

しかし、便利な家電も、まだ人間の最劣等生にも及ばない。

これは、ロボットが人間の領域に入り込んでくる中で「人間らしい」とはどういうことなのか、という問いをつきつけられているのではないかと思う。

音楽の世界でも、シンセサイザー+コンピュータの進歩でプロの仕事がなくなっていく(なくなってきた)という話が深刻に語られている。

だが「人間らしい演奏をする以上、仕事はなくならない」と結ばれていたことが印象的である。

これは、音楽業界に対する警告だけでなく、あらゆる仕事において「人間らしさがなくならない以上、ロボットに仕事を奪われることはない」と言い換えられるのだろうと思う。





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2013年07月30日

どこまで噛み砕いて説明できるか

いわゆる「できない子」と呼ばれる子どもがいるが、コンピュータに携わり、プログラミングをやるようになってからは、どんなに「できない子」と言われる子どもでも、人間の能力は凄いんだと感じるようになった。

だから、私の考えの中には、できない子と呼ばれる子どもがダメな子であるという図式はない。

そういう意味から言っても、子どもはかけがえのない存在である。

夏休みに入ったが、夏休みと言えば親が子どもの勉強をみるという姿も思い浮かぶ。

そういう姿を想像するにつけ、親子の絆というもの、ほほえましさを感じる。

しかし、親が子どもを指導する場面が、必ずしもおだやかとは言えない。

「どうして、こんなことがわからないの」

と親が大きな声を出す。

子どもは悲しそうな表情で、できない自分をダメ人間と思っているかのようだ。

親は他人の子どもに対しては、そこまで興奮しないようだが、こと、自分の子どもとなると、遠慮という壁がないせいか、ストレートに感情をぶつけてしまうようである。

でも、プロを自称する学校の先生がこうであってはならない。

できない子を教えられるのがプロだと思うからである。

できない子を教えられないのは、先生の恥である。

■コンピュータほどバカはいない

コンピュータは機械だけでは何もできない。

そういう意味では、これ以上のバカはいないと言える。

人間なら、何も知らないと言われる人でも、教えられたこともないことができたり、バカにされたら悲しそうな顔をしたりとか、全く何もできないコンピュータという鉄の箱から見たら、すごく高等な行動や反応を示す。

何もできないコンピュータを有用なものにするには、人間がプログラムをインストールしなければならない。

つまり、コンピュータを人に例えたら、コンピュータは教育されてはじめて何かができるわけである。

全くゼロから教育しなければならないコンピュータを教育する経験を積めば、どんなにできないと言われる子どもでも教えられるような気がする。

これが、私の言う「プログラミングのすすめ」である。

ある時期から「もうプログラミングなんて必要ないよ。そんなことしなくたって、いいプログラムがたくさんあるんだから、それを利用すればいい」という言葉が聞かれるようになった。

私は、こういう人は退化の道を進むような気がした。

先生にとって、コンピュータのプログラムを作るということは、自分の指導力を高めることに繋がるからだ。

もし、自分の指導力を高めたいと願う先生なら、ぜひプログラミングに挑戦してほしいと思う。

■コンピュータを教育する指導例

つまり、コンピュータを使えるものにしていく手立てとしてのプログラミングのことである。

例えば「数(字)を大きな(小さな)順に並べる」ことを教える(プログラミングする)。

5つの箱があって、箱の中には数字が入っている。

それを「左から大きい順に並べなさい」と言ったとき、できない子どもがいたら、どう教えるか?

「そんな子どもはいないよ」

という人がいるかもしれない。

しかし、そんなこともできないのがコンピュータである。

箱.jpg


上手のように、A〜Eまでの箱があって、箱の中に具体的に数字が入っている時、この場合は8、6、5、2、1と人間なら並べるだろう。

しかし、A〜Eが変数と考えると、箱の中にはどんな数字が入るかわからない。

そういう状態で「この箱の中に、何らかの数字が入ったら、このようにするんだよ」ということを教えなければ、実用にはならない。

では、そのためには、どのように教えるのか?

1.一番左の箱(A)の中身を見てください
2.次に、すぐ右にある箱(B)の中身をみてください
3.A、Bの数字を比較して、もしBの方が大きかったら、AとBの中身を(数字を)入れ替えてください
4.次にAとCの中身を比較してください。もし、Cの方が大きかったら、AとCの中身を入れ替えてください
5.次にAとDの中身を比較してください。もし、Dの方が大きかったら、AとDの中身を入れ替えてください
6.次にAとEの中身を比較してください。もし、Eの方が大きかったら、AとEの中身を入れ替えてください
ここまで行うと、Aの箱の中には一番大きな数字が入っている。
7.次にAを除外しBとC〜Eを比較し、これまでと同様なことを行うと、Bには2番目に大きな数字が入っている
8.次はCを基準にD、Eと同様な比較をする
9.最後にDとEの比較をする

ここまで行うと、左から順に大きな数字が並ぶことになる。

(もちろん「大きいとは」という数字の大きさをコンピュータが知っていないと、この仕事はできないことになるが、当然、そういうことは教えてあるという前提で今回は説明した。)

arugorizum.jpgこのように「大きな順に」ということだけでも面倒な作業である。

私が言いたいのは、繰り返しになるが「知識ゼロの(空っぽな)コンピュータを教えることができれば、教えられない子どもはいない」ということである。

■アルゴリズムの勉強は説明能力の向上に役立つ

こういう「どうしたら、それができるのか」という方法のことを、コンピュータの世界では、アルゴリズムと言っている。

アルゴリズムを見つけ出すということは、どうしたら実現できるかという思考過程を噛み砕いて、実行する順序に並べるということである。

だから、いくつかある指導力の要素の一つは、いかにアルゴリズムを見つけ出せるかということである。これは説明能力の問題に関係がある言える。

指導に行き詰まると、体罰しか手段が考えられないのは、アルゴリズムがわからないからと言える。

だから、苦痛を与えたり恐怖に陥れたりして、圧力をかけるしかないという指導者の無力さの表れが体罰だろう。

体罰は、指導者が「私は方法を知らない。だから、お前が考えてやれ」と言っているようなものだと思う。

体罰は指導者の敗北と言える。

「指導力がない」と、それしか言えない人も、自分はアルゴリズムを知らないということで、思考停止している状態と言えるだろう。

そうでなければ「私ならこうする」という方法、つまりアルゴリズムを持っているわけである。

もっとも、企業では、アルゴリズムは秘密になっているので、その意味で指導技術を秘密にしているのなら別の話である。

しかし、それほどの人なら、客演講師や講演の依頼、指導の依頼も多いだろう。

先月、講演(講義)をしてもらった、トップセールスマンは、惜しみなくアルゴリズムを公開してくれた。

講演終了後も、問い合わせれば何でも公開すると言われた。





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2013年07月28日

ウォーゲーム

wargame2.jpgウォーゲームについては以前のブログ記事「支離滅裂」において触れている。

今回は違った観点から触れてみる。

この映画は、実話を元にしたもので、高度にコンピュータ化された組織の危険性を警告していると言える。

古い映画ではあるが、今見ても古さは感じない。

■コンピュータの絡む話は観念論者にはわからないのではないか?

【観念論】
現実に基づかず、頭の中だけで作り出した考え。goo辞書


パソコンの黎明期は自分でプログラムを作らないと、パソコンは役に立たなかった。

だから、そのころパソコンを利用していた人の多くは、プログラミングの経験があると思う。

その後、パソコンは金を出して、本体もプログラムも買って利用することができた人たちとは、思考が違うと思う。

その違いとは、プログラミングの経験のある人は、パソコンが何かをしてくれるという考えを持っていないだろうということだ。

プログラミングとは、ごく簡単なものに例えたら、夏に流行る、そうめん流しのようなものと言えるからだ。

そうめん流しは大勢の人にそうめんを配るためには、合理的な仕掛けである。

屋外で、上流からそうめんを流す大がかりなものは、しかけを作るのも大変だが、一度しかけが完成してしまえば、係は上流からそうめんを流すだけである。

もし、しかけに不備があって、そうめんが順調に流れなかった場合、待っている人はどこに不満をぶつけるだろうか?

きっと「こんなしかけを作ったやつは誰だ」というに違いない。

つまり、しかけそのものに怒りをぶつけてもしょうがないことを知っている。

コンピュータもプログラムがなければ、何の役にも立たない箱に過ぎないが、誰かが作ったプログラムを稼働させることで何かの仕事をするものになる。

今日のように、コンピュータにはプログラムが入っていることに慣れてしまっている人は、何らかの不備があると「何だこのコンピュータは」とか「コンピュータがおかしい」などと言う。

しかし、コンピュータはソフトウエア、ハードウエアともに人間の作ったしかけなのである。

お客さんにそうめんを配る時、一人一人に配っていると時間がかかるが、流しそうめんの装置を作ることによって、大勢に早く配ることができるようなものである。

コンピュータに人格はない、コンピュータがやっていることは、コンピュータがなければ人が時間をかけて手作業で行わなければならないことを高速化しているだけである。

だから、コンピュータを使った結果が悪かった場合は、コンピュータそのものの責任ではなく、プログラムを作った人間の責任なのである。

それを、今日では、あたかもコンピュータに人格があるがごとく錯覚をし「コンピュータは冷たい」などとズレた発言をすることになる。

コンピュータが冷たいのではなく、プログラムを作った人が冷たいのである。

■コンピュータ文化が嫌いな人

「メールぐらい使えるようにしておかないと、まずいですよ」

と、私がある人に言うと、その人は

「いや、私は人と対面して話をしなければダメなんですよ」

という返事が返ってきた。

まあ、いくらメールがよく使われているからと言っても、自分も使わなければならないという理由は全くない。

しかし、その人の仕事は何社もある会社の営業と連絡をとり、とりまとめをやっている。

各社の担当としては連絡にメールを使いたいと思うことがあるのだろうが、その人がメールを使わないと言うので、仕方がないと思っているのだろう。

ある日「その人」が私の家にやってきた。

「すみませんが、これエクセルで作っていただけませんか?」

エクセルで作る表は、各社の担当者一覧表だった。

表の中にはメールアドレスの欄があった。

原稿のメール欄は手書きであった。

私が

「これ、間違いないですか」

と言うと「その人」は

「よく見たから、間違いはないです」

と言った。

パソコンをそれなりに利用している人から見たら、クスッと笑えるところだろう。

それこそ、パソコンを使う、百戦錬磨の人なら、手書きのメールアドレスを入力することに不安を感じるだろうと思う。

もう、常識とも言えることだが「I(アイ)」なのか「1(イチ)」なのか、「O(オー)」なのか「0(ゼロ)」なのかと言った文字の判定や記述ミスには悩ませられることになる。

もちろん、それらの文字の間違いで、メールが送信されなかった場合は、コンピュータの責任ではなく、人間の責任である。

学校において、コンピュータによる成績処理の結果が変だと言う場合は、限りなく100%に近い人間の入力ミスだ。
残りのごくわずかの可能性はプログラム。さらに少ない確率でハードウエアということになる。

ディズニーランドが流行るのも、デイズニーランドの施設を考えて作った人の頭がすばらしいのであって、かくも長きに渡って人気が衰えないのは、常に創意工夫をこらしているからではないだろうか?

すばらしい結果を出すコンピュータも、そういうプログラムを作った人の頭がすばらしいのであり、反対に思わしくない結果しか出さないコンピュータの場合は、プログラマーかSEの頭がそれなりだからと言えるだろう。

それを「コンピュータは・・・」と否定的なことを言う人は、コンピュータだからという頭の硬い観念論者と言えるだろう。

■コンピュータをうまく利用するもしないのもその人次第

今度は別の会社での話。

ある業者は「手書き」の伝票で納品書を添付してくる。

受付はその伝票を見ると、即座に電卓を取り出して再計算をする。

そして「あ、ここが違う」などという言葉が出る。

もう、常習的になっているようだ。

パソコンが使えないのか、手書きのほうが心が伝わると思っているのか、はたまた「よく見ればいい」と思っているのか、その業者はずっと手書きを続けている。

今日、手書きの伝票を出すところは信用がない。

銀行も手書きの書類で済ませている会社には融資をしにくいと言える。

そう考えてくると、学校も手書きの書類では信用低下のものがないか考えてみる必要がある。

「心が伝わらない」「よく見る」の信者の人は、それがどの程度通用するか調べた方がいい。

■コンピュータは万能ではない

コンピュータは人間の仕事を助ける道具である。それ以上でも、それ以下でもない。
最大の魅力は速いということ、計算ミスが限りなくないということ(計算ミスは人の入力ミス)。

何でもコンピュータがいいのではない。

例えば紙を切るという仕事には、コンピュータは役に立たない。
いくらコンピュータと言えども、はさみにはかなわない。

だから、コンピュータに限らず、世の中には人が作ってきた道具がたくさんあり、それらを取捨選択してよりよい仕事をするのは、その人の才能である。

仕事の結果が悪かったのは道具のせいではない。

それでも、コンピュータは完全なものではない。

プログラムにはミスがつきものであり、これをバグと言う。
バグ (bug) とは英語で虫(成虫)の意であり、転じてコンピュータプログラムの製造(コーディング)上の誤りや欠陥を表す。

ソフトウェア・ハードウェア開発における契約文書など、法的な文書ではバグのことを「瑕疵」と記述する。原因や責任の所在などが不明なものを特定性の低い表現の「不具合」と呼ぶことがある。また、セキュリティ上に関わるバグや欠陥は「セキュリティホール」などと呼ばれることもある。

多くのバグが含まれ、機能的に正常な役割を果たさないものを、バギー・プログラム(buggy program)と呼ぶことがある。

なお、発生したバグを探して取り除く作業はデバッグと呼ばれる。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

プログラムは所詮、人間が作ったものである。
人間が作ったものに、完璧なものはないと考えておいたほうがよいと思う。

だから、コンピュータか人間かと二者択一のような考えを持つのではなく、それぞれのよいところ、悪いところを知ってよりよく使いこなすのが、使う人の才能であると言える。


致命的なバグでないにしても、プログラムをより完璧なものに近づけるためにも、人は知恵を使ってきた。objectsikoh.jpgその例としては、プログラミング言語にはCという有名な言語がある。

そのC言語の発展形としてC++という言語が作られた。

C++はオブジェクト指向言語と言われ、オブジェクト指向とは、簡単に言えば、始めからすべてのプログラミングをするのではなく、すでにプログラムの原型とも言えるものを言語が持っていて、それらを利用することでプログラミングを行うと言うものである。

メリットは1からプログラムをするのではないので、開発効率がよい(プログラムが早くできる)こと。
プログラムの原型は何度も使われてきているので、バグが少ないなどである。

自動車メーカーが車を作るのに、新車ごとに全く新しい部品を開発(作る)より、ずいぶん前に作られ改良されてきた信頼性のある部品を流用した方が、新車も欠陥が少なくなるという考え方である。

■まとめ

ウォーゲームは、コンピュータが感情を持たないことからくる欠陥をついた映画である。

自動車は単純にアクセルを踏めば加速する。

だが、緑であっても止まるべきという人間的な知能を使う必要の可能性もあるだろう。

反対に、いかなる環境でも予定通り忠実に仕事をこなしてくれるという要素も大切である。

便利なものをいかに、人間の幸福に利用できるかは、その人の才能(能力)にかかっていると言えるのではないか。





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2013年07月27日

豊田佐吉と自動織機

豊田佐吉は伝記にもなっていて、よく知られています。

豊田佐吉が自動織機を発明したのは、母親の苦労を見ていてのことでした。

私は小学生の時、図書館で伝記を読んで感銘を受けました。

それで、発明で人を助けることができるということに関心を持ちました。

私は発明をするほどの才能はありませんので、発明で人を助けることはできませんが、頭のいい人たちがすでに考えた技術を活かすことも人助けになると思っていました。

中学校へ転勤した時、3年生の担当ともなると、進学に関係する成績処理の事務が多くなりました。

まだ、パソコンが利用されていなかったので、学年全体の集計は多くの先生が会議室に集まって、ハサミとのりを駆使して切り貼りで資料を作っていました。

10人ほどの先生がいたと思います。

期末テストが終わると、採点作業、それが済むと各クラスに点数や成績をを転記、そして会議室に集まって、ハサミとのりでの作業です。

ハサミとのりでできた資料は、各先生に渡す数だけコピーして配る。

ここからようやく会議が始まるわけです。

ここまでにかなりの時間がかかるわけですが、時間の問題でなく、作業をした人たちが疲労していることも問題です。

進路指導会議は資料作りが主ではなく、会議そのものが主なわけで、そこに人の知恵を一番に投入すべきです。

資料作りは全く機械的な作業で、先生としての専門的知識、技能、知恵は関係ありません。

時間は限られていますから、一番大切なところに一番時間がかけられるようにすべきです。

作業に時間をとられたり、疲れてしまっていて、人間として、というか人にしかできないような時間が短くなったり、疲労のために思考が十分発揮されないならば、それは本末転倒と言えるでしょう。

こう書けば、普通に思考の働く人には、当たり前と受け取れるでしょうが、もしも、こういうことが理解できない人がいたとしたら、そういう人は改革にブレーキをかけていると言えるでしょう。

■改革にブレーキをかける人

改革にブレーキをかける人は、前述のような合理化が理解できない人だけではありません。

それは、誰かがいいことを提案すると、根拠もなく反対する人です。
(反対には、取ってつけたような屁理屈はよくあることです)

本音は、誰かが目立つことをよしとしない人、売名行為ととる人。

私はこの種の反対をする人が大嫌いです。

非常に心の小さな人間で、自分のことしか考えない人たちです。

しかし、私の環境ではそういう人たちが全くいなかったことが、幸いしました。

それどころか、多くの人に励ましていただきました。

■誰がやっても同じ結果になる仕事はなるべく機械化する

頭の悪い人の中には「コンピュータを使うと心が伝わらない」という人がいます。

何でも人が介入したほうが、心が伝わると考えているのでしょうか?

そういう人は、仕事を具体的に分析して考えられない人だと思います。

かつては、何時間もかかって計算していたことが、コンピュータによって一瞬で終わってしまいます。

コンピュータで瞬時に計算するより、筆算で何時間もかけてやった方が心が伝わってよいと言うのでしょうか?

私が完成した成績処理(分析処理)を使った結果、改善されたことを箇条書すると以下のようになります。

1.10人で仕事をしていたことが、1人の入力係で済むようになった

2.後の9人の人たちは、素点を係に渡すだけで、部活指導に出たり、別の生徒指導に関われるようになった

3.会議中に修正すべきデータが発見された時は、そのデータを修正入力することにより、一瞬に全体の結果も修正された

4.高校へ提出すべき資料も、一番元のデータから連動しているので、即座に作成することができただけでなく、ミスの不安がなくなった

5.何よりも大きいのは時間の節約で、一番時間をかけなければならないところに時間をかけられるようになった

6.先生たちが早く帰宅できるようになった

以上が主な改善点ですが、頭の悪い人は、機械を使う(コンピュータを使う)ことが即「冷たい」と考えます。

機械はそのものが目的ではなく、あることを実現するための道具です。

その道具を使って人を幸福にするかどうかは、使う人の考え方次第です。

以前、私はアイロンがけまで全自動の洗濯機を買ったと言いましたが、その恩恵は大きなものがあります。

全自動でアイロンまで仕事をさせると、やく2時間半かかりますが、天気に振り回されることがなくなったこと、時間の節約ができるようになったこと、予定が立てやすくなったことなど、メリットを感じでいます。

最近、一人暮らしの老人が多くなったと言います。しかも、健康状態のよくない人がいると聞きます。

そういう人たちには、この全自動洗濯機を配布したら、どんなに喜ばれることかと思います。

洗濯がどの程度行われているか、洗濯機に送信機をつけて、そのデータが市役所に送られるようにすれば、生活の異常を検知する手段の一つにもなります。

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私は、どちらかというと、人々が幸せになれる縁の下の力持ちのような仕事が好きです。

だから、名前を伏せて施設に贈り物をしたりする人たちも尊敬しています。

一番よくない人は、人の純粋な善意の気持ちを、売名行為などとケチをつける人です。

だから、善意も勇気がいる。

先生は、少なくとも善意にブレーキをかけるような小人(小人)であってはいけないと思います。

本日の記事に書いた、学校内の合理化は今日ではどこでもやっていることと思います。

しかし、一番初めに発案する人には、時に抵抗勢力が出てきたりします。

本当はいい提案なのに、とにかく反対したがるというのも島国根性というのでしょうか?

日本は島国ではありますが、心は島国であってほしくないと思います。





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2013年07月25日

縁の下の力持ち

「縁の下の力持ち」で思い浮かぶことは何だろう。

文字通り、家の下には支えている土台が必要である。

だが、普段は意識されることはない。

地震が来たりして家が傾いたりすると、意識されるぐらいだろうか?

■DA変換、AD変換

このところ、私は音楽CDりデータを、ハードディスクにコピーする、という作業をしています。

コピーされた音楽データはデジタルデータですが、これを音楽として聴こえるようにするには、アンプに入力する段階でアナログデータにしなければなりません。

このデジタルからアナログに変換することをDA変換と言います。

今度は、かなりの数所有しているレコードをハードディスクに取り込もうと考えました。

レコードをそのままハードディスクに入れることはできませんから、ここで工夫が必要です。

レコードに記録されたデータは、レコードプレーヤーに付属のカートリッジについている針で振動を拾い、電気信号(音声信号)に変換されます。

この音声信号はアナログ信号ですから、ハードディスクに記録するためには、アナログからデジタルに変換しなければなりません。

この変換をAD変換と言います。

デジタル機器が多くなった今日では、AD変換したり、DA変換したりすることが多くなりました。

ところで、レコードに刻まれたデータをデジタルデータに変換すれば、便利なことが多くなります。

今、その便利さには触れずにおきますが「それはいい、そうしよう」と言った時、だれが如何なる方法で実行するかということが重要になります。

組織の中でリーダー的存在の人は「それはいい、そうしろ」と言っているだけで済むかも知れません。

でも、命じられた人はどうするのでしょう。

自分でできればいいですが、できなかったら、できる人を探す、お金を出してやってくれるところを探す。

予算がないと言われたら、自分で勉強してやらなければならないでしょう。

あるいは、友だちまたはその知り合いに頼んで、菓子折り一つかランチをおごるかしてやってもらわなければなりません。

そういうところに苦労があるわけです。

そういう苦労を経て実現しても、上司はできたものを確認して、当然という顔をしているのかも知れません。

いや、場合によっては、仕事が遅いと小言があるかも知れません。

ここまで、まわりくどく書いてきましたが、今日では、この上司のような人が増えたのではないかと思うのです。

「言うは易し行うは難し」という言葉があります。

本来、人は「自分のことは自分でやらなければならない」と思うのです。

無人島で一人で暮らすことを考えたら、自分の生命を守る一切のことは自分でやらなければなりません。

それが、アダムとイヴの二人しかいなかった時代から人が増えたので、分業が進んだわけです。

今、私が言いたいのは「自分のことは自分でする」ということを再認識すべきではないかと思うのです。

電気が供給されなくなったらどうするか?

それでも生活できるたくましさはあるか?

「男は外で、女は家で」がずいぶん非難の的になったようですが、それでは男女全く平等で生活することにするかということです。

男女は体力差がありますから、その体力に応じて仕事を分担するのが合理的です。

話がだいぶ脱線しました。

脱線したのも、つい私たちは言うだけで当然、実現すると思っていることが多くないかと言いたいわけです。

このデジタル時代にAD変換DA変換は必須です。

いったい、それを誰がやっているのか、どうしたらできるのか、さらに進めばその方法でよいのか?

これらは、表面からは見えない世界です。

■縁の下の力持ち

私はレコードの信号をハードディスクに格納するというAD変換をやっていると言いました。

XLR_m.jpg
この写真は、アナログ信号の出口のコネクターを外したところです。

XLR_o.jpg
こちらは、デジタル信号に変換する機器に接続するコネクターを外したところです。

この二つの写真のコネクター(オス、メス)をXLRもしくはキャノンコネクターと言います。
(カメラメーカーのキャノンとは関係ありません)

私はアナログ信号の入り口と出口に、このようなXLRコネクターを使いました。

人によっては、プラスとマイナスの電気信号が流れるから、もっと一般的なケーブルでいいだろうと考える人もいるでしょう。

XLRを使う理由は、ケーブルが長いとノイズが混入すること、XLRコネクターは接続に信頼性があるからです。

必要なときに音楽を聴く、スイッチを入れたら当然のように音楽が流れる、放送ができるで生活できている人は考えたことがないかも知れません。

XLRコネクターはそんな当然と思われている生活を支えている、頼りになる縁の下の力持ちと言えます。

元来、放送係や電気関係の仕事をしている人は、ことが何の問題もなく進んでいる時は見向きもされないが、ひとたび支障があると文句を言われるという傾向にあります。

だから感謝しろと言うわけではなく、日夜、誰かがこういう縁の下の力持ちとなる技術を研究しているので、ことがスムースに流れていると言えるのだと思います。

しかし、人によっては、何か理屈は言うが、少し自分の知恵が及ばないこととなると、意味のないことに拘っているように言う人がいます。

どう言おうと個人の自由ですが、私はこういう人を見ると「年寄り臭い」と感じます。

しかし、実年齢は多くとも「なるほど、それで・・・」などと質問してくるような人は「頭が柔らかい、若々しい」と感じます。

本日は、持って回ったような話でしたが、一つの部品から感じたことを述べました。





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2013年07月23日

指揮者のような音になる

先月、今月と家から離れての宿泊、お付き合いが多く疲れ気味です。

昨日も、何年かぶりのビヤガーデンへの参加でしたが、楽しい会でした。

数日前は、誘われてコンサートに行きました。

当たり前と言えば、それまでですがオ、ーケストラの演奏は「指揮者のような音になる」ということを改めて認識しました。

指揮者は練習で自分の音を作るわけですが、そうして作った音ではなく、指揮者そのものの存在が作る音と言ったほうがよいのでしょうか。

聴衆として聴いている時、オーケストラから出てくる音に不満を持つ場合、指揮者に妙なクセのある場合があります。

例えば、時折、屈伸運動のように膝が折れる。

特に意味の感じられないない手の動き。

打点のはっきりしない指揮棒。

など。

これらは、指揮の先生からするとお叱りを受けることですが、これとは別に大切なことがあります。

その指揮者が持つ匂いのようなものです。

この考えにたどり着いた時、あるトップセールスマンの講演での話を思い出しました。

「初対面が大切だ」

という話です。

「初対面で嫌われると、その人とは二度と会えない」

と言うのです。

それは、何かまずい話をしたということではなく、会った瞬間に決まってしまうことなのです。

だから、セールスマンは身だしなみに気をつけることはもちろん、会った瞬間に好感を持たれるような雰囲気を身につけなければならないということなのです。

「ウチでは間に合っています」
「先月買ったばかりなので」

断りの言葉はいろいろありますが、断りの言葉そのものが真実とは限りません。

人は、断ろうと心に決めている時、何か断りの言葉を探すわけです。

もちろん、断りの言葉を聞いた時が、常にセールスマンの否定につながるわけではありませんが「この人はなぜ断っているのだろう」という真の意味を知る必要があるということです。

では、好感を持ってもらう匂いを持つのにはどうしたら良いのでしょうか?

それは、一朝一夕にはできないもので、その人の人格、その人が生きてきた歴史が作ったものです。

「男の顔は履歴書」も、そういうことを表したものなのでしょう。

■子どもも担任のようになる

中学生は子どもと大人の中間のようなところがあり、なかなか難しい年頃と言われます。

時には、生意気に大人に反発してみたり。

そうかと思うと、大人に頼ったり。

私が勤務した中学校はどの中学校も、7〜8クラスの規模の学校でした。

そのクラスを見ると、次第に担任と似てくるなと感じたものです。

中学生たちは、大人など頼らない、自分たちは一人前なのだという顔をしていても、やはり頼りは大人で、その大人とは身近な担任という気がします。

これは、よくも悪くも影響を与えます。

耳障りな言葉をあえて使えば「洗脳の一種」かも知れません。

学校の先生が非常識なことを考えているとは思えませんので、先生の影響を受けた子どもたちが問題を身につけるとは思いませんが、これが社会にある任意団体の場合、リーダーが反社会的思想を持っている場合は、問題になるだろうと考えます。

話を戻して、学校の先生も匂いを持っているものであって、その匂い次第では話をする前に、相手に印象を持たれている言ってもよいでしょう。

自分の匂いは自分ではわかりにくいものと思います。

それは、現実の臭いと同じようなものです。

どこかの家を訪問した時は、その家の臭いがします。

それで、臭いに気を使っている家もありますが、そういうことに無関心な家の場合は、住み慣れた家の臭いは気づかないということなのでしょう。

■指揮者のような音になる

リーダーに率いられる集団は、無意識のうちにもリーダーの影響を受け染まっていくのは、オーケストラの音が指揮者のような音になるのと同じなのだろうと思うようになりました。

指揮法を教えてもらった時「指揮者は一人一派」と言われました。

しかし、基本はあるわけで、打点が明確でない、身体の各部が不用意な動きをするなどは、アンサンブルを乱します。

なぜ音が揃わないのだろうと思ったら、動作が二重に見えるというのもありました。

学校の先生も、ある意味、その先生の自由な発想で教育活動ができるわけですが、だからと言って「全て自分が法律」というわけではありません。

我流の指揮者にならないよう、時々は基本にかえってみる必要があると思っています。





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posted by edlwiss at 14:46 | Comment(5) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年07月20日

デトロイト市が破綻



破綻というと、日本の国家財政は大丈夫かと思う人がいるかも知れません。

でも、私は日本の国の財政破綻はないと思います。

年の多い人は、昭和21年に起こったことを覚えている人もいるでしょう。

現在、日本国の借金は約1,000兆円と言われています。

国民の預貯金は約1,400兆円と言われています。

国民の預貯金から国の借金を引くと、400兆円プラス、黒字です。

つまり、国は借金を国民の預貯金から払ってもらえば、どうということはないわけです。

それは、昭和21年に政府がとった方法。

突如、金融封鎖。

新札発行。

2週間以内に旧札と新札は交換するように発する。
この機関内に交換しないと、旧札は無効になります。

銀行に国民のお金が集まります。

お金が集まったところで、財産税を課す。
税率は90%です。

これで、国は国民の預貯金を取り上げて借金を精算したことになります。

日本の借金解消は、安倍総理の決断次第です。
posted by edlwiss at 09:50 | Comment(2) | TrackBack(0) | 経済

2013年07月20日

一貫性、気分屋でない

授業がうまいとか下手とか言うけど、その前に、人間として一番大切なこと。

学校の先生にあっては、特に一貫性のあること、気分屋でないことが一番大切だと思います。

■一貫性

子どもは先生の授業(指導)のやり方に慣れていくものだと思います。

先生との時間が増えるに連れ、流れが予想できるようになります。
(もちろん、毎回、同じ事をやっているという意味ではありません。もっと大きな流れのことを言っています)

それが、子どもの精神的負担をなくしていきます。

しかし、毎回、ドタバタを繰り返していると、子どもの方には精神的ストレスがかかります。

年の多い先生の授業では、子どもが落ち着いて見えることがあります。

それは、先生が長年培ってきた指導の流れがそうさせているものだと思います。

次にどうなるのか?

大丈夫か?

時間は?

などの無用な不安を子どもに与えないことが大切と思います。

しかし、流れが同じということは、緊張感をなくし、マンネリ化する恐れもあります。

そのため、わざと「次はどうなるのか?」とか、不意に予期せぬ事をしかけるなどの演出も必要かと思います。

それでも、子どもが安心していられるのは「この先生なら大丈夫」という、安心感期待感であろうと思います。

■気分屋でない

先生自身、自分の生活のことで気分の浮き沈みはあると思います。

家でおもしろくないことがあったなど、そういうことを教室に持ち込まないことが大切と思います。

私生活以外でも、感情的に浮き沈みが激しく、特にちょっとしたことで怒るのは子どもに不安を与えます。

特に、何で怒るのかわからないと言った先生に対しては、子どもはオドオドするようになるでしょう。

そして、子どもはいつも先生の顔色を見る。

なにか言うと気分を害するかもしれないと思うと、話さなくなります。

人間、感情の起伏はあっても、コントロールは大切でしょう。

特に、日頃溜まっているうっぷんを、子どもの前で出すのは最低と思います。


まずは、先生自身の人間としての大きな器が子どもの前では特に必要と感じてきました。

一貫性がある、気分屋でないということが続けば、子どもの自主性は自然に出てくるように思います。

そうすると、思いがけないよい行動が子どもの中から出てくるように思います。

指導は派手でなくても、落ち着いた空気、つまり子どもの精神的安定を考えた学級経営、授業が何をおいても優先と思います。





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posted by edlwiss at 09:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年07月17日

成績の見方(4)

これまで3回にわたって「成績の見方」ということで、企業等も含む一般的な成績の見方ということで、話をしてきました。
その中で、一部学校における成績のことも含みましたが、学校の成績が「学校独特」のしばしば言われるガラパゴス状態でなくなるようにと言うことで、成績というものが、まさに実力を表すものでありたいとの思いで書いたものでした。

これも以前の記事で書きましたが、今日、学校がガラパゴスにならないことはもとより「箱庭教習」と言われるものでないように、常に意識する必要があると思っています。

学校の先生が学校に閉じこもって、専門家ヅラすることで砦を守るような姿はみっともないと思います。

とりたてて中身もないのに、プロを自称するのも情けない話と思います。
(プロの意味は二つあって、それを職業としているという意味と、専門的に言ってレベルが高いという意味があります。ここでは、後者の専門的なレベルの高さのことを言っています)

先生のプロが社会に出て、どのくらい通用するのでしょうか?
私はそういうことを、小中学校勤務の時は常に思っていました。

しばしば思い出しますが、大学時代の先生が「先生と乞食は三日やったらやめられないという言葉がある」と言われたことは自分の気持ちを引き締めるのに役立っています。

昨年、友人がiPadを買いたいので、一緒に行ってくれと言うのでソフトバンクの携帯ショップに行きました。

対応してくれる女性が若いなあと思ったら、19歳でした。

高校卒業して1年ぐらいで、前線に立っているわけです。

携帯ショップでカウンターにいるということは、お客さんの対応をするということで、次々と発売される何台もの携帯端末の知識を習得していなければ、間に合いません。

このような店では、ただ美人を座らせておけばよいというものではありません。

若くても、それだけの力があるので、カウンターにいるわけです。

iPadを使うにつき、いくつかの質問をしてみました。

表面的な使用だけの質問だけでなく、いろいろな通信の状況に関する質問をしてみました。

返事がすぐ返ってくるのには驚きました。

中学校では企業訪問して勉強するということをやっていますが、先生もやってみたらどうでしょうか?

携帯ショップで携帯端末を売るという体験はどうでしょうか?

商売と言えば携帯端末だけでなく、新商品が次から次へと出てくるものはたくさんあります。

最近は保険の来店型店舗がスーパーの一角などで、よく見るようになりました。

保険という商品は、商品と言っても形がありません。

販売と言えば、申込書の所定の項目に記載して、契約が成立すると証書が送られてくるだけで、その証書が商品というわけではありません。

証書は「約束」の証明書なわけです。

形がなく、約束を売っているわけですから、契約時に約束ごとが売る方と買う方の意識が違うと問題が起こります。

客としては保険金を払ってもらえると思っていたものが、売る方としては払えないということで、互いの「思いの違い」がトラブルになったりします。

統計によると、保険の加入者の10人中9人までが、自分の保険の内容を知らないと言われています。

それは、かつては保険のおばさんという人が活躍し、研修もそこそこで売り歩いたせいか、売る方も商品をよく知らない。買う方も知らないという不思議な現象が起こるようになりました。

しかし、今日では商品を知らないでは、さすがに売れなくなったので、いわゆる、保険のおばさんは少なくなったようです。
もちろん、保険のおばさんでもそれなりの知識を持った人は淘汰されることなく、営業を続けているようです。

保険は資格がないと、販売できませんので、先生が社会勉強として仕事に携わることはできませんが、保険会社にお願いして内部で模擬的な実習を行なってみたらどうでしょうか?

まずは、覚えなければならないことが商品知識だけでもたくさんあります。

私がなぜこんなことを言うかですが、学校の先生は一度採用されると、自分の専門とされる教科を十年一日のごとく繰り返すだけで済んでしまいます。

しばしば改訂があるにしても、大きく変わることはありませんので、携帯ショップのお姉さんのように、頻繁に新しいことを覚えなければならないということはありません。

本来は学校の先生も、児童生徒に教える範囲の知識があればよいのではなく、上の専門的知識を学んでいなければなりません。

俗に「教えることの三倍知っていなければ教えられない」と言うように、数学の先生ならフーリエ解析やトポロジーと言ったことなどに日頃挑戦しているという姿勢であってほしいと思うのです。

■学校のテストの見方

私は中学校勤務の時、成績処理システムのプログラムだけでなく、成績をつけるプログラムも作りました。
そうしたら、何人もの人が関心を持ち普及するようになりました。

しかし、これに抵抗を示す人もいました。

その言い分は「PCで成績をつけると心が伝わらない」というものでした。

「心が伝わらない」とはどういうことでしょう?

これを追求すると、テストの結果(あるいはいくつかのテストの集計の結果)を見た時、上位の者と下位の者を入れ替えるということになります。

「心が伝わらない」という人の言い分は、集計結果を見て「本当は、この(者)の方が上だけど」ということです。

つまり、客観的結果を無視して、自分が上にしたい者を上にするということです。

では、その根拠は何でしょう?

回答はありません。

根拠があって、その根拠の分を得点として何割か加えたいというのなら理解できますが、何かわからないけど、自分の気持ちだけで成績を動かしたいという考えは、私には理解できません。

さて、ここで、先生個人が自分の教科の成績をつけるための道具とするための、プログラムの一部を紹介します。

Kankyo.gif

これは、氏名の入力、在籍の有無、各テストの満点、各テストの重み、成績のつけ方の設定、個人写真など基本的な環境設定をする画面です。データはすべてダミーです。


soten.gif

これは、素点を入力する画面です。
処理の実行ボタンを押すと、すぐに順位、偏差値、評定などが出ます。
個人の顔写真も表示されます。


Order.gif

これは、学年を通じた成績の順位別に並び替えた画面です。


Kekka.gif

これは、各クラス成績(評定)がどう配分されているかを見るための画面です。


Hist.gif

これは、おなじみのヒストグラムです。


Hakohige.gif

これは、各クラスの最高点から最低点までの得点分布を表示したものです。
真ん中の赤い四角は中央値を示しています。


Kojin_Hensachi.gif

これは、各自の成績の推移を偏差値で表しています。偏差値で表すことにより、テストごとの難易差を解消できます。急に成績が変化した時など、生活指導のデータとしても役立ちます。


Memo.gif

これは、各テスト毎のメモを記載できる欄です。

--------------------------------------------------------------------------------


以上、PCを使った、先生個人の成績処理のプログラムの一部を紹介しましたが、各データをどう利用するかは各先生のデータの読み取り方によります。

ただ、漫然と見るだけでなく、解析能力を高める必要があります。
特に、生徒一人一人の変化に注目すると、成績の結果だけでなく生活指導に役立つこともあります。

PCを使うことの良さは、入力ミスがあった場合にその素点一つだけの修正でも、瞬時に全体の結果が再計算されることです。

このようなソフトは、各先生方の意見を取り入れて、さらに改良が進むことになります。

また、生徒や保護者から成績についての質問があった場合に、このデータを直接見せることはないにしても、回答の根拠になります。





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posted by edlwiss at 20:06 | Comment(5) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年07月16日

モーツァルト(2)

「クラリネットは幸せな楽器だ」と言われます。

それというのも、音楽史上の歴史に輝く名曲をモーツァルトとブラームスが残してくれたからです。

この二人の作曲家が、クラリネットの名曲を書いたきっかけは似ています。

それは、名奏者と出会って、演奏に深い感銘を受けたこと、そしてクラリネットの魅力を知ったことです。

モーッアルトはシュタットラーという名手に会い、友人関係でもありました。

ブラームスの場合は、60歳を過ぎて作曲の発想が湧かないと感じ、気に入っていた別荘で余生を過ごそうと決意していた時、ミュールフェルトという名奏者との出会いがあったわけです。

ところで、そのうちの一曲(クラリネット協奏曲イ長調K.622)についてはモーツァルトで、私の思いでとともに書きました。

今回は、モーツァルトの書いたクラリネット五重奏曲K.581についてです。

ブラームスがこの曲に深い関心を示し、自身もクラリネット五重奏曲を書き、これも傑作なのですが、ブラームスは作曲後「ついぞ、自分は神になれなかった」と嘆いたという話が伝わっています。

つまり、ブラームスはモーツァルトのクラリネット五重奏曲イ長調K.581を神の書いた音楽と考えたのでしょう。

ブラームスの五重奏もモーツァルトの五重奏曲と肩を並べる傑作だと思いますが、ブラームスはモーツァルトの域に達しなかったと感じたのでしょう。
(私のクラリネットの先生は、ブラームスの五重奏曲に「涙が出てくる」と言われました。)

ある人はこのモーツァルトの五重奏曲のことを

「完璧な曲というのは、こういうのを言うのだろう。ムダな音符が一つもない」

と言います。

こういう名曲を演奏させていただけるのは、クラリネット吹きとしては大変な名誉です。

今年の4月頃、ある人からこの曲を演奏しないかと言われました。

最近、また言われたので、本気なのかと思うようになりました。

クラシックでは五重奏と言うと、弦楽四重奏(ヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ1)にソロ楽器を加えた5つの編成のことを言います。

しかしながら、弦楽四重奏は難しく、アマチュアの四重奏団がなかなか見つかりません。

私が思うには、市民オーケストラなどに参加して力をつけてきたら、弦楽四重奏もやって欲しいと思いますが、そういう意欲を持つ人は少ないようです。

私は年を取ってきて、小さな編成が好きになってきたので、少人数で練習回数を多くし、密度の高い演奏をしたいと思っています。

アマチュアの弦楽四重奏が見つからない場合は、プロになると思いますが、いずれにしろ私自身が十分な練習をしておくべきです。

■楽譜を読むことは永遠の課題

「音楽、いいですね、でも私は楽譜が読めなくてね」

という人に時々会います。

しかし、一応の演奏ができるようになったとしても「楽譜が読めている」とはなかなか思えないものです。
もちろん、これは私の思いです。

このモーツァルトの五重奏曲は、もう何回も演奏していますが、未だに読みの足りなさを感じでいます。

以前「レコード(CD)を聴かないでください」という話をしましたが、私のクラリネットの先生も、その方がいいと言われます。

とは言っても、全く聴かないかというとそういうわけではなく「自分の読みが固まらないうちに読むな」という意味です。

「問題を解く前に答えを見るな」のようなものです。

しかし、他の演奏家たちはどう演奏しているのかということは、当然気になります。

だから、聴くことになるわけですが、自分の読みが固まってから聴くと、他人の演奏からたくさんのことを発見するわけです。

「レコードを聴くな」は「他の演奏に振り回されるな」ということとも言えます。

だから、まず、自分はどう演奏するか(どう読むか)を先にして、他のたくさんの演奏を聴いた時、それぞれの解釈の特徴を自分の糧とすることだと言えるのではないかと思います。







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posted by edlwiss at 23:50 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年07月15日

マウスで画面をクリックするんです

PCの講師に「マウスで画面をクリックするんです」と言われたら、マウスをモニター画面に直接接触させて何かをした人がいると聞きました。

このように、ズレるという人がいます。

この場合には笑い話に終わりましたが、問題はズレている認識がない人です。

お年寄りがこのデジタル時代に話がわからないので、ズレるということはありますが、そこそこの働き盛りの人がズレているのは問題があります。

いわゆる社会常識のない社会人には困ったものです。
特に、間違っているのを指摘されても直せない人。
理解できないのではなく、直そうとしない、あるいは意地を張る。

恐らく、言われて直すという素直さがないと、周囲の人も何も言わなくなるのでしょう。

情報過疎状態になって、その上、自分はなんでも知っている。自分が法律そのものと固まってしまうと、頭の中が変なROMのようになってしまうのではないかと思います。

■使い方を強制するパソコン

「パソコンは使い方を強制する」と不満を言っていた大学の先生がいました。

この先生の書いたものを読むと「昔はBASICをやれと言うのでやってみた。そうしたら、今度はDOS・・・」
と不満たらたら、結局何を言いたいのかというと、パソコンはいいものではないという否定の意見です。

この先生が視聴覚教育研究大会の講師に招かれたのですから、これも笑い話のようなものです。
呼ぶ方も呼ぶ方だと思います。

この先生のパソコンに対する不満は、結局、自分の挫折の歴史を披露しているようなものです。

私は、パソコンを使うのに、パソコンに対する不満を言う人に会ったことがありません。
製品そのものの品質に対する不満を聞いたことはあります。
例えば、買ってから半年ぐらいでしょうか、キーボードが壊れたのでメーカーに苦情を言ったら「キーボードはそんなものです。どこかの店で買ってください」言われたそうです。
(保証期間があるでしょうと言う人がいるかも知れませんが、保証は製造責任に対するもので、製品の瑕疵については適用されません)

パソコンの扱いに困った人からの相談の時は「自分の操作が間違っているだろう。自分の知識不足なのだろう」という謙虚な態度ばかりです。

「うまくいかないのは、自分に原因があるのだろう」

という姿勢です。

それに比べると、先ほどの大学の先生の態度は「うまくいかないのは、パソコンが悪い。オレが使いやすいパソコンを作らないのはけしからん」と言っているみたいです。

私は大学の先生が、みなこういう風だと言っているのではありません。
立派な先生も知っていますから。

とかく、一国一城の主になると、こうなりやすいのではないかと思うのです。

一国一城と言えば聞こえがいいですが、城は城でもボロい城では雨風もしのげないかもしれません。

小さなボロい城から天下に号令しても、どのくらい声が届くかです。





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posted by edlwiss at 19:52 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2013年07月14日

教育改革

私はファイナンシャルプランナーをやっているので、時々、相談をもちかけられる。

先日の相談は、親が亡くなった後の相続に関するものだった。

親が残した財産の中に国債があった。

相続人は3人である。

子ども3人だから、それぞれの相続分は1/3ずつである。

相続人の一人が郵便局へ国債の受け取りを申し出た。

すると、郵便局の話では、すでに相続人の一人が申し出て、全額を渡したとのことであった。

相続人の権利は平等なので、これはおかしい話である。

私は依頼者の相続人に、郵便局の対応はおかしいという話をした。

そして、依頼者は再び郵便局に出かけた。

郵便局の返事は「国債は、相続人が何人いようと、始めに申し出た人にお渡しすることになっています」ということだった。

「お渡しすることになっています」というのは、どういうきまり(根拠)なのか?

郵便局の回答は、憲法の「人は法のもとに平等である」に反する。

私は埒が明かないと思って、郵便局を統括するトップの機関に電話をした。

話をすると「しばらくお待ちください」との返事があった後

「預金であろうと国債であろうと、相続人には平等に権利があります」

とのことであった。

それでも、郵便局の対応にはまだおかしいところがあった。

その詳細をここで話すつもりはないが、私が一番問題に思ったところは

「・・・ということになっています」

というところだ。

論理的におかしいことを「なっています」で済ませようとする頭が変なのだ。

何の疑問も持たず、ただ「なっています」で済ませるのは、飼い犬のポチのようなものだ。

前置きが長くなったが、教育改革は安倍総理も口に出していることであるが、今、私は安倍総理の考える教育改革について言及するつもりはない。

これまで3回に渡って「成績の見方」(成績の見方成績の見方2成績の見方3)について語ってきた。

きちんと読んでくださった方には、私が何を言いたいのかをわかってくださったと思います。
いつもながら言うことですが、長文の読解は統合する思考能力が必要です。

3つの記事の趣旨は「現行の学校ではこうなっています」という、先の郵便局の、組織のポチのような説明を知りたいのではありません。

■親は何のために学校に通わせるのか?

この日本国では、憲法で国民の三大義務を定めています。

それは、働くこと、税金を納めること、教育を受けさせることです。

教育については小学校6年間、中学校3年間の9年間を定めています。

そして、教育の目的は教育基本法に定められていて要約すると次の4つになります、

(1) 社会生活ができるようになること
(2) 生きていく上で必要な知識を身につけること
(3) 働くことができるような力を身につけること
(4) 生命尊重、自然保護、郷土愛、国際交流、健やかな身体、芸術のための素養を高める

学校の教師は学校という機関の中で、常に上記4つを意識する必要があり、何の疑問も持たず学校のポチのようにならないことが大切です。

先の郵便局員のような対応ではいけないわけです。

教育基本法の趣旨を考えた時、私の疑問は、以前にも述べましたが「学校ごっこ」になっていないかということです。

(1)〜(4)を目的は、子どもが社会で自立できることを目指しているわけですが、今勉強していて、自分がどのくらい生きていくための力を持っているのかを知ることが大切なわけです。

作文の森の方も、今日では学校の成績と実力がますます乖離していると言ってみえます。

学校でつけられる評価は高いのに、どうしてこんなにバカなの?と思われる者が増えているということです。

教育改革とは、改革しなければならないものがあるから出てくる言葉でしょう。

私が改革しなければいけないと思うのは、簡単に言えばテストの結果が人間としての力と乖離しているということです。

それは、点を取るという効率化に走るためにそうなったと思うのです。

点数で評価される限り、効率よく点を取ることを考えるのはもっともなこととも言えます。

通常の試験は、すでに出る問題がわかっていると言えます。

だから、練習問題を繰り返せば「こういう問題が出るのだ」ということがわかります。

これを効率化して指導するということは「出る問題を教えている」「こう回答すれば点になる」ということを教えているようなものです。

これが生きる力をつけることになるのかと思うのです。

高等学校は全入化し、青春時代を点取りゲームの世界に押し込めることなく、もっと有意義な活動の時期にできないかと、私は考えます。

「・・・ということになっています」という組織のポチに先生がならないように願うばかりです。

「今の学校がこうなっています」という説明はいらないです。

私が合格した試験として、すごく嬉しかった思い出のあるものとしては、運転免許試験の合格があります。

それはなぜか?

これで自動車の運転ができるようになるのだと実感したからです。

つまり、技能、知識ともその資格のあることを認められた、到達したと認められたからです。

英語の試験で100点とっても会話ができないようでは、先生のおかげで英語ができるようになりました、との実感が少ないのでは?

だから、成績の見方を一考する必要があると思うのです。

各種統計の分析は、統計をどう読むかでどう活かせるかに影響します。
それは読む人の能力でもあり、人により差が出るということです(凡人は凡人の読み方しかできない)。
統計の読み方の勉強も必要です。
今の世の中、あらゆるところでデータ解析が重要になっています。





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posted by edlwiss at 15:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年07月14日

成績の見方(3)

gan_hakken.jpg今日、国民の死亡率で最も高いのはガンです。

医学は進歩して、ガンの治癒率は昔より高くなって来ました。

特に検診をよく行なって、早期発見ができれば治癒率は高くなります。

問題は、がんの発見は病院に行ってからなので、検診の頻度が少なくなると手遅れになりやすいことです。

つまり、ガンは病院で発見するより前に、すでに進行しているわけです。

当たり前のことですが、検診をして発見された時にガンになったわけではないのです。

気をつけなければならないのは、私たちは知った時が起こった時と錯覚することです。

以前のブログで、私は人の内部活動、外部活動という考えが教育工学の出発点の考えだということを紹介しました。

naibu_gaibu.jpg


刻々と変化している人の内部は検査をするとか、本人の外部活動を見るなどして想像するしかありません。

心の問題にしてもそうです。

子どもが自殺するという心の動きがわからないから止められないと言えます。
(これを「心がわからないでどうする」などとピントのずれたことを言う人がいて、驚きとともに笑えました。
「わかる」「わからない」と「わかろうとするかしないか」は全く別の思考回路なのですが、思考回路が脱線しているように感じます)

成績に関しても、テスト結果を見た時が「その力」ではないのです。

すでに持っている力をテストという手段によって、その時点で知ったということです。

心身ともに刻々と変化する子どもの状態は、あまり長い期間をおいて知ることは望ましくありません。

そのため、テストだけでなく教師による日頃の観察は大切になります。

ここには、教師のカンのようなものもあります。

しかし、カンだけに頼ることもよくないと言えます。

そこで、テストやその他による客観的データを統計の手法を使い、教師の観察力、カンと合わせて判断するのがよいと思うのです。

下の図は、テスト結果をPCを使って統計的に表したものの一部です(ヒストグラム)。

bunseki.jpg


私は中学校在職時には、学校全体の成績などの統計、分析の仕事をプログラムの作成も含めて担っていました。

ここで解析内容をすべて語ることはできませんが、統計を適切に使うと、生徒がどういう現状にあるかという想像の角度が高くなります。

また、指導者の傾向もわかったりします。

はっきり言えば、テストの成績を上げる指導の上手な先生というのもわかってきます。

参議院選挙が近くなってきましたが、開票になると、わずか数パーセントの開票率で当選確実という発表もあります。
これには統計の力が大きく役だっていると言えます。

限られた狭い思考の範囲だけで、全てがわかったような錯覚をして、恥をかかないよう、また児童生徒をよく知るためにも統計とその分析に強くなるべきと思います。

学校はとかく閉鎖的と見られがちです。
それは、学校という建物を指しているのではなく、学校に属する人、つまり先生たちを指しているのです。
もちろん、すべての学校、先生がそうだというわけではありません(私には、すべてを知る超能力はありませんから)。

時に、閉鎖的な人間関係を打破するべく、風穴をあけるような人もいますが、そういう人がいなければ、学校はまさにガラパゴス化してしまうんじゃないでしょうか?

少なくとも、当たり前のことを、先生である自分だけが知っているようなことを言うのは、自分の価値を落とすだけでなく、先生の信頼低下に繋がると思うのです。
「だから、先生はダメダメ」と井戸端会議で言われないようにしたいものです。





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posted by edlwiss at 11:06 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年07月13日

成績の見方(2)

■成績の結果を評価する

【成績】
1 成し遂げた仕事などの結果。また、その結果の評価。「営業―」
2 学業の評価や試験の結果。「国語の―があがる」
ことバンク

成績とは売り上げがどうだったとか、あるテストの結果がどうだった、あるいはテストなどの結果を総合した評価等を言います。

これまでは、売り上げなどの結果やテストの結果の見方について言及し、それらの結果をどう評価するかについては触れませんでした。

学校ではペーパーテストが良くても、その他の実技などの結果を加味したりして、評価は必ずしも良くないということもあります。

これまで述べたのは、そういういろいろな成績を加味した上での評価ではなく、個々のテストなどについての成績をどう見るかについて書いてきました。

前の時は60点だったが、今度は80点だったと言うと成績が上がったと見たいことはあると思いますが、よく知られているように平均点が高いと、そうも言えないわけです。

しかし、これもしばしば例にあげていますが、TOEICでは、前回より点数が上がれば成績は上がったと言えます。

これはわかりやすいと言えます。

営業でも、先月と今月と比べて数字が大きくなっていれば成績が上がったと言えます(営業成績)。

これもわかりやすいと言えます。

では、学校で行われる通常のテストでは点数だけでは成績が上がったのかどうなのかは、なぜわからないのでしょう?

それは、TOEICのテストのように標準化されていないからと言えます。
(ここで言う成績とは、学校で行われる期末の評定の意味ではありません。個々のテストの成績のことを言っています)

TOEICではテストが標準化されていますから、600点から800点になれば、平均点などに関係なく成績が上がったとわかります。

次の図を見てください。

sidou_hyouka2.jpg


(1)と(2)は同じクラスで、A〜Gは生徒です。縦棒は得点です。

教師に指導力があるとは、一般的に考えたら(1)〜(2)のようになるということです。

つまり、全員の得点が上がるということです。
まあ、グラフがこんなにきれいにいくとは限りませんが。

指導力のある教師はみんなのレベルが上がるわけです。
それが(3)のように、ある一人だけが目立って伸びた場合は、どう考えればよいのでしょうか?

これはいろいろな原因が考えられて、一概にこうだと言うことはできません。

しかし、突出して成績(得点)の高い者がいた場合でも、平均点は上がるので、平均点だけでクラスを評価してはいけないと思います。

また、指導力のある教師は全員のレベルをあげるので、相対的な評価の場合、実質的な成績(力)は上がっていても、他人より順位を上げないことには評価が上がることにはなりません。

(1)(2)の下のグラフは成績(得点)分布です。

このように、成績の評価は、全体と個人の両面で考察しなければなりません。
(この評価とは、期末などにおける個々の生徒評価のことを言っているのではなく、テストを行った後のテスト自体の評価と指導者の評価のことを言っています)

■評定はどうあるべきか

【評定】
一定の基準に従って価値・価格・等級などを決めること。
goo辞書
評定とは上記の意味ですが「評定尺度」という言葉もあります。

【評定尺度】
学習結果・性格・態度などを客観的に評価・判定するときに、判断の基準として用いる尺度。
goo辞書
一方「評価」とは次の意味です。

【評価】
1 品物の価格を決めること。また、その価格。ねぶみ。「―額」
2 事物や人物の、善悪・美醜などの価値を判断して決めること。「外見で人を―する」
3 ある事物や人物について、その意義・価値を認めること。「―できる内容」「仕事ぶりを―する」
4 「教育評価」の略。
ことバンク

学校関係で「評価」と言っているのは、4にあるように「教育評価」の略です。
紛らわしい場合は、学校での評価は「教育評価」と言った方がよいと思います。

【教育評価】
児童・生徒の知能・学力・適性・性格・身体・健康などの変化を、教育目的に照らして価値判定すること。これによって教授計画改善や学習の動機づけをし、教育効果の向上を図る。
デジタル大辞泉

何よりも教育評価は公平でなければなりません。

評価をしてもらった者が納得できるということが大切でしょう。

大学では学生の教育評価を、どのようにするかを公開しているところもあります。

たとえば、津田塾大学では成績の評価を、このように示しています。

成長するティップス先生のサイトでは、成績を評価すると題して、評価のあり方が記されています。

これは大学の例ですが、小中高においても教育評価(成績評価)は児童生徒には、どう評価されるかが明示されていることが望ましいと思います。

教師のさじ加減で左右されるとの印象を持たれるのはよくないと思います。

それには、テストの成績、提出物、その他の評価に反映する割合がはっきりしていることが大切だと思います。

中学校は高校入試に対する影響から、学校格差が問題になることがあります。

優秀な生徒が学校格差により不公平な扱いを受けるのはよくありません。

学校格差をなくす一つの方法としては、標準化されたテストや共通テストを使って評価に用いるという方法もあります。

学業成績の例ではありませんが、高校野球では強さに学校格差を感じますが、プロ野球のスカウトは甲子園で優勝したチームから求められるとは限りません。

スカウトは学校格差を超えて、生徒の力を評価していると言えます。

人間の能力は多彩と考えられます。

そう考えると、団体やグループの評価も大切ですが、個人の才能が埋もれることのない評価の方法、選抜の方法を考えていくことが大切と思います。

学校格差は指導者の格差が影響することがあるかもしれません。

そうすると、指導者も公平に配置しなければなりません。

でなければ、公立においても学校選択の自由を認めることの意味があるかも知れません。

大学においては、良い先生のいない学校には学生が集まらないでしょうから、自然淘汰が働くように思います。





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posted by edlwiss at 17:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年07月12日

レコードを聴かないでください

言い訳しながら音楽をやるのはみっともないでは、昔、恩師が私の指揮を見て「指揮が0点だなあ」と言われたことについて書きました。

以来、私はこの言葉「0点」をいつも忘れないようにしています。

先生は「初心忘るべからず」「生意気になるな」をこの言葉に込めて言ってくださったと思っています。

世の中に、お世辞を言ってくれる人はたくさんいます。

そうでなければ、やっかみ、嫉妬のたぐいも多いような気がします。

やっかみ、嫉妬のたぐいの人はアラ探しです。

どうでもいいようなことに目くじらを立てる。

こういうたぐいの人は、気の小さいスケールの小さい人が多いように思います。

私にとってもう一人、とても厳しい人がいました。

それは亡くなった母親です。

外ではほめられても、母親がほめてくれた記憶はないのです。

しかし、母親は本当に心の中を見抜いているようで、しゃくでもしかたがないと思っていました。

「短くていいから、本当にいいなあと感じるように吹いてくれ」

とよく言われました。

演奏にミスはなくても、不安、自信のなさといった心理状態がズバリ見ぬかれているのです。

そう言えば、子どもの頃、夕飯の時

「おまえ、おかしいね。喧嘩してきたんでしょう?」

「どうしてそんなことがわかる?」

「顔に書いてある」

喧嘩でないにしても、何かあったことがバレてしまうのです。

それだけ、私のことを気にかけてくれていたわけです。

愛情をかけてくれる人から、言われる批判は厳しくても薬になります。

まさに「良薬は口に苦し」です。

年を取ると、こういう人はだんだん少なくなるような気がします。

やっかみや嫉妬の類は批判とは違います。

表面の言葉と内心の違いはわかります。

■レコードを聴かないでください

年を取ると、教え子に偉くなった者がいることに気づきます。

教え子が偉くても、もちろん、私が偉くしたわけではありません。

こういうことを言うと、変に気を回して、自慢をしているととる小人(しょうじん)がいますので、断りを入れておきます。

教え子とは、何らかの縁で一時的にも先生-生徒という関係があっただけで、自分が教えたから立派になったなどとは決して言えるものではありません。
むしろ、教え子にとって迷惑だったかも知れません。

だから、教え子の地位を利用して自分を偉く見せようとする魂胆は、大嫌いなものの一つです。

前置きが長くなりましたが、指揮の勉強でドイツへ留学して、帰国したS君が拙宅にやってきました。

何人かが話を聞こうと集まって来ました。

談笑している中でS君が

「レコード(CD)は聴かないでください」

と言ったのを覚えています。

S君は誰かの質問に答えて言ったもので、私に言ったわけではないですが、私は、私に言われたこととして強く心にとめています。

「指揮の勉強では楽譜から音をイメージすることが大切」ということを、S君は学んできたのです。

レコード(CD)を聴くと、楽譜を読まなくなると言うのです。

「どんなに恥をかいても、レコード(CD)に頼らない」

ということです。

何かの曲に取り組む時、誰かの演奏を聴いてしまうのは、問題を解く前に先に解答を見てしまうようなものだと、私は解釈しました。

以来、私は「0点」とともに守るようにしています。

しかし、一歩外に出てみると、答えを先に見るやり方、すなわちレコード(CD)を聴いてとりかかるということが多いのに気づきます。

アマチュア・オーケストラの指揮者の中には、メンバーに「レコード(CD)を聴いてこい」と強く言う人もいます。

実際は、演奏会に向かって練習する時、その方が早く格好がつくのかも知れませんが、それは勉強にはならないと思っています。





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posted by edlwiss at 23:09 | Comment(9) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年07月12日

成績の見方

今回の記事を書く前に、前回の成績が上がったんですか?の要旨をまとめておこう。

アクセス解析を見ると、たくさんの方が読んで見えることがわかる。

ほとんどの方は、要旨を捉えてみえると思うが、念のため、確認の意味でまとめておく。

1.成績の上下の評価は絶対評価と相対評価があるので、どちらを根拠にして上下を見ているのかをはっきりすること。

2.ある集団を、ある指導者が指導した時、その集団のその後の伸びはどうなっているのか、全体と個人の両方で考察すべきである。

文は長いが、全体を通して読んで、上記2点にまとめられる(統合される)ことが大切である。
絶対評価、相対評価という言葉は使わなかったが、読者にはそのことを言っているのだなということは、おわかりいただけたと思う。

前にも述べたが、長文の要点を過不足なくまとめるという作業は、高度な知的作業である。

ということは、長文読解では知能水準がある程度わかってしまうとも言える。

学校の先生においては、子どもに何らかの作文を書かせる時、その内容を正しく読み取り、正しい評価をしなければならない。

そうでなければ、優れたものを見落とすという罪なことにもなりかねない。

ある子どもの書いた作文が、校内では入賞しなかったのに、別の全国規模のコンクールに出したら入賞してしまったではまずいだろう。

■やる気の出るテスト

保護者が「成績が上がったねえ」と言う時、今までせいぜい60点ぐらいのテストしか見たことがないのに、80点、90点をとって帰ると、そう思いたくもなるという心情がある。

しかし、多くの方がご存知のように90点とったとしても、それが優秀かどうかはわからない。
ひれで「平均点は?」という話が出てくる。

極端な話だが、平均点が90点だったら、それで真ん中ということになる。

では、平均点が20点の時、60点取ったらどうか?

60点は、優秀な点である。

だが、テストの点というのは、もっと別な面がある。

中学1年は、中学のはじめだが、入学当初でもみんな同じスタートに立っていない。

例えば、数学はできない者とできる者の差が開いてしまっていて、この差を縮めるのは容易ではない。

だから、できない者は、始めから気持ちがくじけてしまっている。

これは、顔つきを見るとわかる。

あまりにも差がついていると、競争の意欲は出てこない。

私は、これをなんとかしたいと思っていた。

数学の先生に

「できる子だけでなく、できない子にも意欲の出るテストは作れないだろうか?」

と相談をもちかけた。

これは、難題だとわかって言ってみた。

そうしたら、その数学の先生はすばらしいやり方を考えた。

テストを2枚作り、易しい方と難しい方の二種類にした。

そして、テストの時、好きな方を選んでよいことにした。

おもしろいことに、できる生徒はやさしい方を選ばない。

プライドがあるのだと感じた。

このテストの処理をどうしたのかは、またの機会に譲ることにするが、易しくて難しくても満点は100点である。

そして、これも人間の心理なのか、やさしいテストを選んでいい点を取って、家に持ち帰るうれしさはあるが、生徒はいずれかは難しいテストに挑戦したいという気持ちがあるようだ。

こういうのを向上心と言うのか?
どちらにしても、気持ちは前向きなのだ。

できないからと言って、君たちはできない組と決めつけるのはもちろんよくない。
口に出して言わなければいいのではなく、そういう気持ちを持つことが、そもそもいけないことだと思うのである。

■絶対評価と相対評価

「絶対」「相対」この二つの言葉は、いろいろなところで使われる。

例えばEXCELのセルの位置の指定にも、絶対参照と相対参照がある。

絶対というのは位置が変わらない(固定)という意味がある。

EXCELの計算で定数を参照する時、ある位置のセルに定数を入力する場合、必ずそのセルを参照したいという場合絶対参照を使う。
具体的にはセルの位置を表す数値やアルファベットの前に「$」をつけて「$5$E」のように入力する。

成績において絶対というのは「80点以上合格」というような場合である。

成績は順位や割合に基づいて行うのではなく、ある点数に達すれば人数に関係なく、相当の成績をつけるというのが絶対評価である。

学校の成績だけにこだわって、絶対評価、相対評価を考えると、狭い考えにとらわれてしまうおそれがある。

大きな会社では全国に支社を持っているが、支社対抗で営業成績を競うことはよくある。

その時、個人の売り上げがある基準を超えたら表彰ということをやるが、これは絶対評価である。

しかし、支社同士では順位を競うということをやったりする。

すると、個人はとても優秀な成績で表彰を受けているのに、その個人の属する支社の順位は、全国で見ると低いということもある。

それでも、凄い営業がいてものすごい成績を挙げると、その支社は全国で上位になり表彰を受けることもある。

これは、何か変だということで、たった一人のスーパーマンの力でみんなが恩恵を受けることのないようにすることと、全く努力しなかった人も支社表彰の恩恵を受けることのないよう、ひとりひとりの最低基準を設けたりすることもある。

評価は絶対評価、相対評価の双方を使って、集団が望ましい方向に向上することが望ましい。

■統計の利用

テスト行うと、その分析にヒストグラムを作ることがある。

縦軸に頻度、横軸に点数をとりグラフをつくると、正規分布になると言われている。

でも、下図のAのようにきれいな形になるとは限らない。

Bはテストが易しすぎたか、集団のレベルが高い時、Cはその反対である。

bunpu.jpg


教えていない範囲から出題すると、Dのように何の特徴も出ないと言われている。

最近はPCを使っているので、統計的な分析は容易と思われる。

偏差値、標準偏差はもちろんのこと、ヒストグラムも出して、テスト結果の反省に活かしている学校もおおいだろうが、私の経験では教える先生によって、ヒストグラムの形に傾向が出るように思った。

成績か上がったとか下がったというが、教え方が上手い先生、いや正確に言うと点数の取らせ方がうまい先生の教えたクラスでは、ヒストグラムの形がBの傾向になる。

「点の取らせ方が上手い」と言ったのは、点数だけが教育ではないと思うからである。

極端なことを言えば、出る問題を教えてしまえば、点数は高くなる。
そういう極端なことをしないまでも、それに近いことをすれば、やはり同じことである。

だから「教育」ということを忘れて点数に走ると、理科の実験は少なくなり問題集をやる時間が多くなったりする。

問題集を何回もやれば「出題される問題を教える」に限りなく近づくわけであるから、点数は高くなって当たり前である。

最大の懸念は、理科の指導についてとても優秀な教師が、点数を取らせることの上手な教師と比較され、ダメ教師のように言われることである。

もし、そういうことが進めば、理科の時間に生徒がときめくという瞬間はなくなり、感動のない淡々と作業をこなすだけの授業がはびこり、理科離れは加速することになるだろう。





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posted by edlwiss at 17:37 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年07月10日

成績が上がったんですか?

「うちの子、前回は120位でしたけど、今回の試験は80位になりました」

なるほど、これは成績が上がったと言えるだろう。

成績は順位により判定できる。

しかし、成績を判断できるものは順位だけではない。

例えばTOEICでは順位に関係なく、何点とったかでわかる。

600点だった人が、700点になれば、成績は上がったと言えよう。

このように、成績が上がったかどうかを論ずる時は、その根拠を明らかにしなければ、説得力がない。

「成績が上がった」と言っても「成績が上がった気がする」ということかも知れない。

それならそれで、そう言った方がよい。

■人の能力を測ることは難しい

人の能力を知るのには、何らかのテストを行うなどして、間接的に判断するしかない

あるテストでよい点を取ったからと言って、それはたまたまその時だけヤマが当たったとか偶然の影響があるかも知れない。

だから、判断に信憑性を持たせるためには、統計の基本に則ったやりかたをする必要がある。

それは、たくさん標本をとることである。

標本を多くすることにより、たまたま、何か偶然の影響で現れた現象を排除することができる。

また、テストを行う場合、テスト自体の標準化も大切である。

テストの標準化が行われていないと、前回60点で、今回80点だったとしても、よくできたと言えるかどうかわからない。

順位によって成績を判定していると、全体のレベルが上がっていると、本人の力は確かに上がっているということであっても、順位が上がるとは限らない。

あるグループを指導しているいる場合、そのグループ全体のレベルが上がることが望ましいと思うのだが、一部の者だけが上がるという場合はどうみたらいいだろうか?

指導がいい加減なので、一部の者だけが指導者に頼らず勉強してきたのか?

それとも、他に何か原因が考えられるのか?

こういう考察は大切である。

■学力の判定はさらに難しい

今「学力とは何か」については触れないことにしておこう。

私が疑問(問題)にしたいことは、安易に「学力が上がった(下がった)」とか学力という言葉は使われるが、そのように言っている人は「何を見て」そう言っているのだろうか?

学力の意味論争はともかく、上がったという以上、上がったと思うもの、感じたものがあるはずだろう。

何を見て学力が上がったと思ったのか、根拠をはっきりして欲しいと思う。

そうでなければ、単に「そういう気がする」と言っているのか何だかわからない。

いや「気がする」でも、何で「気がする」のかを発表すべきだろう。

今日、プリンターのことで電話があった。

質問者:「印刷が前と違うんですけど」

私:「どう違うんですか?」

質問者:「わかりません」

私:「違うと感じたから、違うって言っているんでしょう?」

質問者:「わかりません」

私:「あなた、前と今回とが違うと感じたから、違うと言ったんでしょう?どこが違うと思ったんですか?」

質問者:「あのー、隅に小さな枠が・・・」

私:「そんな風に印刷されるということですか?」

質問者:「印刷されません」

私:「あなた、前と違って印刷されると言ったじゃないですか?印刷したんでしょう?」

質問者:「まだ印刷してません」

私:「印刷する前のことですか?」

質問者:「印刷する前です」

こんな話が延々と続く。

結局、プリンタードライバーが新しくなったので、印刷設定の画面のデザインが前回と変わったわけだ。

そして、質問者は「前のほうがいい」と言う。

Windows8になったことで、対応ドライバーが変わったので仕方がないことなのだが「前のほうがいい」と頑張る質問者に閉口。

人とコミュニケーションを取る場合、キーとなる言葉は正しく説明すべき

成績や学力のことを言うなら、その判定根拠は何かを示さないと、意見全体がボケてしまって妄想を言っているのかと思われてしまう。

先の質問者のような言い方になっていないか、文章は5W1Hを意識して、よく推敲してもらいたいものだ。





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posted by edlwiss at 15:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年07月09日

モーツァルト

中学校で吹奏楽部に入学し、楽器が少しはできるようになってきたかなというころは、行進曲を演奏することが楽しみだった。

難しい曲だなあ、と思いながら練習していた曲に、スーザの行進曲「美中の美」があったことを覚えている。

そんなころは、友だちの家を行ったり来たりしていたが、そんな時、衝撃的な印象を受けた曲がある。

それは、モーツァルトのK.622「クラリネット協奏曲」イ長調だった。

とにかく、この曲との出会いは鮮烈だった。

「世の中に、こんなにも美しいものが」という気持ちだった。

このレコードが欲しくてたまらなかった。

17cmのシングル盤がかけられるプレーヤーをもらっていたものの、中学生の小遣いでレコードは買えるものではなかった。

小遣いをためてやっと買えたのが、33回転の17cm盤で裏表を使って収録されたレコードで、500円だった。

クラリネット/ジェルヴーズ・ド・ペイエ/ペーター・マーク指揮/ロンドン交響楽団

このレコードは、今も大切に持っている。

mozartk622.jpg

学校で、得意になって友だちに話すと、日曜日には友だちが集まるようになった。

以来、私は将来、この曲が演奏できるようになることが目標になった。

そして、モーツァルトについて知りたくなり、本や資料を探して知識を深めていった。

モーツァルトは35歳で亡くなっているが、晩年にアントン・シュタットラーというクラリネットの名手に会って、彼の演奏に感動するとともに、この楽器に興味を持ったことから、この名曲ができたということも知った。

振り返ってみると、始めは1枚のレコードの演奏に感動したことから、知識がどんどん増えていったと思う。

それは、やらなければいけないという勉強ではなく、自分にとっては楽しい遊びなのである。

K.622という数字も覚えてしまうし「K.」がケッヘル番号で・・・ということもごく自然に覚えた。

元来、協奏曲というのは、名人芸を披露する曲であり、この話のように作曲家が名手と出会ったことがきっかけで作曲されたという経緯が多い。

それだけに、名人芸を披露するための難所が楽譜の随所に出てくる。

しかし「いつか演奏してやろう」と思うと、その難関をいかに克服するかという目標が、いつもつきまとうようになる。

モーツァルトの作曲したK.622「クラリネット協奏曲」イ長調が中学生の時、私の人生を変えたと言ってもよいだろう。

ところで、レコードで聞く名演奏は確かにすばらしいのだが「何か音が違う」と思うようになった。

「うまい人になると、ああいう音になるのか?」とも思った。

しかし、そうではなく、クラリネットには二種類あり、この曲がイ長調であるように、イ長調のクラリネットで演奏していることを知った。

中高で使われている通常のクラリネットは変ロ長調(B♭)であるのに対し、K.622「クラリネット協奏曲」イ長調ではイ長調(A)の楽器が使われているのである。

この時から、管楽器は調性が変わると音色が変わるということを知った。
(クラリネットのA管、B♭管が区別できないような装置では聴きたくない)

私はオーディオが好きだが、いわゆるマニアではない。

家が貧乏だったので、音楽を聴く装置など買ってもらえない。

そこで、電器店で廃品をもらったりして、それらを使ってアンプなどを作るようになったわけだ。

これも、音楽が聴きたい一心でやったことだから、電気回路の配線を見ていろいろなものを作ることも、私にとってはごく普通の日課だった。

私の場合、中学生時代の一つの感動がその後の人生に大きな影響を与えたように思う。

その感動を与えてくれたのがモーツァルトであり、モーツァルトはそういう意味で私にとって偉大な作曲なのだ。

だから、中高生の時代のような、多感な時期に何かから感動を受けることは大切ではないかと思うのだが。







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2013年07月07日

日本は法治国家である

houchikokka.jpg治療行為の記事を、中学生の長文読解の問題とみたとき、どのくらい正しく読めるものだろうか?

「どういうことが書いてありましたか?」と聞かれた時、要点を短くまとめて報告できるかどうか?

このような要点をまとめて報告というのは、調査報告書や実験観察の記録のまとめ、論文を書いた時の要旨などを作成する時に必要な能力である。

要点を短くまとめるというのは、人の高度な知能の働きだと思う。

ロボット(コンピュータ)が進化しても、こういう能力を備えるのは容易ではないだろう。

だからこそ、人の存在価値があると言えるのではないだろうか?

ここで、中学生に、要点のまとめを書いて報告してもらうということはできないので、文章が正しく読めたかどうかを◯×で答えられるように、問題を作ってみた。

【問題】

治療行為の記事を読んで、次の1〜5の中で、記事の内容に合っていると思うものに◯、合っていないと思うものに×をつけなさい。

1.治療行為はだれでも行うことができる。

2.養護教師の先生が怪我の手当をするのは、治療行為である。

3.学習塾の先生は学校の先生より劣っている。

4.学習塾の先生も教員免許状が必要である。

5.学習塾と学校では、教育と言っても、同じ教育をしているわけではない。

正解はこちら


学校の先生なら、当然、全問正解だろうが、中学生ではどうだろう。

中学生にとっても易しい問題だろうと思う。

しかし、テストとなると、何問正解だろうかというスリルはあるだろう。

こんな易しい長文読解でも、大人でも、中にはできない人がいる。

それは、一つ一つの文は読めても、全体として何を言おうとしているか、頭の中でまとめられないからである。
こういう人は、起承転結の文を読むのも苦手だろうと思う。
加えて、文中の言葉の意味を確認するということも、しないのではないかと思う。

それは、言葉の意味を調べても、その調べた意味と文章を合わせて、まとめるということができないからではないかと思う。
だから、本文を正しく読もうとするのではなく、自分にとって印象のある言葉、刺激のある言葉だけを取り出して、自分で作文をしてしまうということがある。

さて、日本は法治国家であるということは、国民にとっての常識であり、社会科の先生ならずともよく知られていることである。

法治国家とは、法律、すなわち、きまりを設定して社会の秩序を保とうというものである。

これを時に勘違いする人がいる。

例えば、自動車を運転するには免許証が必要である。

これは、法律で決めてあることだから必要なのであって、現実に運転が上手いか下手かには関係ない。

こう言うと「運転が下手でもいいのか」という人がいそうだが、そういうことを言っているのではない。

運転免許証が交付されるには、一定以上の技術がなければならない。

だから、運転免許証を持っている人は、試験の時は、その「一定以上の技術」に達していたわけだが、人間の能力は不変ではないので、その後運転技術が低下しているかも知れない。

そういう人が、運転しているのは危険だから更新制度があるわけだ。

しかし、免許を持っていなくても、免許を持っている人より運転が上手な人もいるかも知れない。

それでは、そういう人は免許なしで運転してもよいかということだが、もちろんよくない。
(正常な判断のできる人であれば、この話は当然に理解できることであるが、そうでない人がいるので、気をつけなければならない)

「あの人は無免許だが、運転は上手い」

と誰かが言ったところで、それは認められるのか?

もちろん認められない。

社会的に許されるということは、誰か一人、あるいは複数が認めたら無免許でもよいということではない。

それは、公認とならないからである。

法治国家では公認が大切である。

自動車運転免許の公認機関が自動車学校や運転免許試験場である。

法治国家においては、公認機関が認めたものでなければ、いくら能力があるとしても、認められたことにはならない。

それが、国の秩序を守る方法だからである。

教員の免許においても同様である。

もちろん、教員の採用においてもである。

公認機関の行う教員採用試験に合格して、合法的に教員の仕事ができるわけである。

誰かが、ある人のことを指導が上手いと言ったところで、言った人に公認する資格があるわけではない。

サラ・チャンというヴァイオリニストがいるが、この人はアメリカのジュリアード音楽院を6歳で入学許可された。

当然、ヴァイオリンは上手だったのだが、入学を許可できる権限を持った人(入学許可を公認できる人)が許可したからである。

法治国家に住みながら、法治国家の意味を知らない人がいるとしたら、困ったものである。

学校の先生は、法治国家の意味を子どもに教えていかなければならない。





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posted by edlwiss at 21:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

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