2013年08月31日

映画『貞子3D』

今日は肩の力を抜いて映画の話です。

朝、新聞の番組欄を見ていたら、 貞子というのが目についたので、久しぶりに怖いものを観たいと思い、番組予約(録画)もセットして楽しみにしていた。

いざ、映画が始まると次第に期待感がなくなり、いつかどこかで観た映画の二番煎じのような感じがしてきて、途中で中断。
録画も消してしまった。

怖さの演出をどうするのかなと思っていたが、俳優がやたらに大声で「キャーッ」と叫ぶばかりでつまらない。
フアンの方には申し訳ないが、私の評価としてはバツです。
パソコンのモニターから手が出てきて、人を掴むシーンも情景やライティングの設定が平凡で迫力を感じない。

怖いと言えば、子どもが夜、トイレに行くとか、やはり夜、墓場を通るといった怖さもあるが、人間の心理迫る怖さと言うのもある。

貞子の場合は、もっと人間の怨念の怖さというものを演出で迫るものが欲しいのではないか。
待ち伏せをしていて「ワッ」と脅す、ごっこのような怖さと言ったら失礼だが、夏のお化け屋敷の延長ぐらいでは物足りない。

残酷で怖いというのもあるが、この筆頭は「SAW」だろう。
すごくよくできている映画だが、低級ホラーで、それはいいのだが、子どもに観せるのは問題があるだろう。

モノクロ時代の日本映画、四谷怪談は怖い。伊右衛門に殺される妻の思いが重なって心理的に追い詰められる。

スリルの怖さでは「恐怖の報酬」とか「激突」が凄い。
作品の格調も高い。




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posted by edlwiss at 23:27 | Comment(1) | TrackBack(0) | 映画・テレビ・演劇

2013年08月28日

いよいよマイナンバー制の導入

何度も見送られてきた、国民総背番号制(マイナンバー)が導入される。
これで、行政手続きをはじめ、民間での事務手続きも効率化される。

一方、個人情報も丸裸になる可能性もある。
セキュリティの万全化も課題になる。

IT化により、社会は便利になったが、個人情報の流出という事件も多く報道されるようになった。
マイナンバーでは、一旦セキュリティが破られたらこれまで以上に、個人に与える被害は大きいし、得られる情報の魅力から、アタックは大きくなると考えられる。
セキュリティが絶対破られないという保証はないから、攻める方と守る方の戦いも熾烈になるだろう。

この制度での最大のメリットと言ったら、それは徴税システムだろう。
これで、国は税金を漏れなく集めることができる。

税金がごまかしにくくなるから、この制度に反対というのは、筋の通る話ではない。
それより、国民はもっと税金に関心を持ち、行政の予算執行に対して厳しく監視して行くことが必要だ。

実際の制度実施は2015年ぐらいだろうか。




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posted by edlwiss at 20:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治

2013年08月26日

消費税引き上げの可否

消費税を引き上げの可否を決断する時期に来ている。

消費税の論議の前に、原点に戻り、改めて税金の意味を考えてみよう。

■なぜ税金が必要なのか?

そもそも税金を集めることの意味は、道路や橋などのインフラを整備するためには多額のお金を必要とするからである。

わかりやすく言えば、向こう岸に渡るために橋がほしい。しかし、1人の力では橋はかけられないとなれば、少しのお金でも大勢の人が出してくれたら費用がまかなえることになる。

そこで、リーダーシップを取る人が必要となるが、その役目を国が担っているのである。

橋がかけられて生活が便利になれば、一人一人が出したお金は有効に生きるわけで、前より暮らしやすくなったり、経済効果も出て地域が豊かになることも考えられる。

税金の効果は1人ではできないが、大勢の力を集めればできるということになる。

■問題は消費税アップで「大勢の力」という効果が出るかだ

税金の効果は、集めることでより大きな効果(恩恵)が期待されることである。

だから、消費税が上がっても、集まった多額の資金で人々の暮らしがよくなれば全く問題はない。

政府は学識経験者を集めて意見を聞くそうだが、問題は集まった人それぞれが個人の利害関係なしに、中立な精神で意見を言うかどうかだ。

今日、日本の政治が停滞しているのは、正論を通そうということでなく、利害関係者の力関係で三すくみのような状態になっているからではないか。

こう考えると、将軍が家臣を集めて意見を言わせるものの、最後は将軍自身が結論を出すという時代の方がよかったのではとも考えてしまう。

■政治の信頼がないことが一番の問題

結論としては、政治に信頼のないことが一番の問題ではないかと思う?

kenpou.jpgとにかく、どんな理由があろうとも税金は嫌だという人がいるかも知れないが、良識のある人たちは、税金の意味がわかれば反対はしないだろうと思う。

しかし、今回、3%税金が上がっても上がった分がわけのわからないところに消えてしまうのではないかという不信感が大きいのではないかと思う。

福祉目的と言っても、何年か後に、経理状態を見たら福祉には使われていなかった。
そして「福祉目的で消費税を上げたんですよね?」との質問に対し「そんなこともありましたかね?」なんてことになりはしないか?

そういう不信感が根にあれば、本来なら税金はよいものであるはずなのに「国に盗られた」という意識になってしまう。

日本は国民に主権のある国である。
国のトップは役人や政治家ではない。
しかし、日本の憲法はアメリカ製と言われるせいか、国民に浸透していないように思う。

その証拠に、国民の税金で生活しているはずのお役人の意識に疑問を感じる場合もあるし、国民は国民で「お上意識」が未だに拭えない感もある。

民主化の進んでいる先進国であれば、役人の横暴に遭うと、国民は「タックスペイヤー」(納税義務者)、つまり「オレは税金を払っているんだ」と大きな声で叫ぶという。

徳川時代は為政者は町人に「頭が高い」と言ったが、今の日本は、本来「頭が高い」と言えるのは国民のはずである。





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posted by edlwiss at 19:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 経済

2013年08月24日

画面をクリックするんです

パソコン教室で、講師が「マウスで画面をクリックするんです」と言ったら、マウスをモニター画面にくっつけた人がいるという話は聞いた人がいるかもしれません。

笑ってしまう話ですが、いや、笑いで終わればいいですが、どこか意味をズレて取ってしまう人は、どうしてこうなったんでしょう?
このマウスでクリックする人の話は、それまでパソコンに触ったことがなかったのかも知れません。
もしそうだとしても、今どきパソコンを見ない場所で生活する方が難しいと言えるでしょう。

ここで私が言いたいのは、今日の平均的な環境で生活していたとしても、個人により、情報を受け取る量や質の違いがあるのではないかということです。
つまり、個人の生活の仕方で情報難民にもなり得るということです。

■仕組みや原理を考えない人

facebookに友人を探す欄があります。
ある人は、ここに自分の名前を入力しました。
そして、ブツブツと文句を言っていました。

何だろうと思ったら、その人の考えでは、自分の名前を入力すれば、自分の友だちを探してくれると思っていたらしいのです。

自分の友だちを探してくれるシステムがあったら、それは凄いことです。
他人の友だちを、どのような方法で判定するのでしょう?
将来、そういう時代がくるかも知れませんが、今のところは相当な難題でしょう。

友だちを探すのは、自分の友だちの名前を入力して、その人がfacebookに参加しているかどうかを調べるものです。

コンピュータには人工知能型のものもありますが、今のところでは、他人の友だちを探すほどの知能は持っていません。

一般のコンピュータの得意技の一つは、膨大なデータ(データベース)の中から、目的に合ったデータを高速に探し出すということです。

コンピュータを作ったり、プログラミングができないにしても、私たちはそれが、およそどんなしかけでできているのかということを知っています。

自動車はガソリンで動いている。そこに、電気のモーターも使ったハイブリッドも登場したということは知っています。
自動販売機でジュースを買う時、コインを入れたら、中に人がいて用意してくれると思っている人はいないでしょう。
しかし、同じ社会で生活していても、自分の生活に直接利害関係のある操作しか知らない人もいるようです。

ここで、また思い出したのは、数万トンの客船が航行中に、洋上に、遭難したと見られる人物を発見した話です。
救助してみたら、小さな島で自給自足の生活をしている人でした。

しばらく船で休養を取らせた後、元気になったところで、島に返してあげようという話になりました。
その時、何かみやげをあげようと、何がほしいかたずねたところ、部屋の壁にある、あるものを指さしました。
彼の指さしたものは、水道の蛇口でした。

孤島で自給自足の生活をしている者にとっては、水は貴重なもので、ちょっとひねったら水が出てくる蛇口に関心をもったわけです。
これも笑い話になりますが、孤島でない我々の生活圏の中にも、同様な思考をする人がいます。

今日のテストは「考えていたら合格点が取れない」と言われるほど、反射的に解答されるものが多いと言えます。
生活もボタンひとつ押すだけのようになり、昔のように、故障したらなんとか自分で直そうという感覚もなくなってきました。

直前の必要なことだけを覚える。めんどうなことは考えたくないという人が増えるほど、常識とはズレた考え、頓珍漢な発想をする人が増えるのではと心配になります。

教育は仕組み原理を考えさせることの大切さ、を失わないようにしなければならないと思います。





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2013年08月23日

近頃の「保険特集」

今回は、ファイナンシャル・プランナーとして記事を書きます。

本屋に立ち寄ると、時々「保険特集」なるタイトルの本をみかけます。
どんなことが書いてあるのか見ると、その内容に呆れました。

原稿を依頼された執筆者がひどいのか、記者の能力が低いのか、どうかわかりませんが、本を買った人が信じてしまったら罪じゃないかとさえ思います。

■終身保険は入るべきではない?

こういうことを言っている専門家(?)がいる。

理由は、保険は保障のの必要な期間だけあればよいという意見(考え)。
例えば、子どもが自立できるまでに、もしものことがあったらという期間だけででよいというもの。
一生を保障する終身保険はムダと言っている。
そして、一生を保障する終身保険に保険料を払うより、貯蓄に回したほうがよいというのである。

これは、専門家の意見とは、とても思えない。
もしかしたら、雑誌記者の記者が乏しい知識で書いたのではないかと考えてしまう。
記者が書いて、何か肩書のある人には名前料だけ払っているということはないか?

そうすれば、雑誌社も専門家(?)も共に都合のよい関係になる(?)。
しかし、それは素人を騙すことになる。
これは、最近の景品ごまかし事件を思い出してしまうものだ。

本当に専門家が書いたとすれば、それはもはや専門家とは言えない。
もっとも、最近は「プルトニウムは飲んでも大丈夫」などと言う専門家もいるぐらいだから、専門家はなんぞやという疑念を抱く。

syusin2.jpg


いきなり「終身保険はいらない」などと言う意見がおかしいのであって、それは「自家用車はいらない」なんて言っているようなものである。

都会で公共交通の発達しているところは、自家用車も必要ないと言えるだろうが、過疎地では自家用車がなかったら街に出て行くことができない。
このように、保険が必要か必要でないかは、その人の環境による。

そもそも、保障は必要な期間だけで、あとは貯蓄にした方がよいと言う考えも甚だ疑問。

終身保険は、図に示すように、死亡保障は一生で、保険料払込期間もある年齢で終了する。
保険の知識がない人は、満期という言葉を出すが、終身保険に満期はない。
(保障は一生である)
保険料の払込が終了する時期があるだけである。
そして、保険料払込終了後も一定の利率で利息がつき、払込保険料は増加する。

終身保険は死亡しないとお金がもらえないと思っている人もいるようだが、そんなことはない。
解約すれば、いつでも現金が入ってくる。
もっとも、契約開始から数年ぐらいで解約してしまっては、損をする。

保険だから、死亡しない限り、払った保険料より多く戻ってくるはずはないと思っている人もいるようだが、図を見てわかるように、解約時期により返戻金は支払った保険料より多くなる。

現在、銀行預金の利息は1パーセントに満たない。いや0.1パーセントに満たないものもある。
それに比べると、終身保険の利息は低い会社でも1.5%はあるだろう。
高いところでは3パーセントもある。

■終身保険の使い方

生命保険というと、もし自分が死亡したら家族のためにという考えがあった。
しかし、それは昔の考えであり、今日では「自分が生きるための保険」である。

若い頃は、家族や配偶者のためを思って契約するが、保険料支払い終了後は高い利息で、支払った保険料が増加することを利用して、老後の年金として活用するのが普通の考えである。
銀行のほとんど期待できない利息をあてにするより、生命保険の方がはるかにお金は貯まるのである。

生命保険は解約返戻金を睨みながら、適当な時期に年金に移行することもできる。
原資によっては、終身年金にすることもできる。

現在、終身年金を払う仕組みがあるのは国の年金か生命保険会社しかない。

立派に製本されて、タイトルに「生命保険特集」と書かれて書店に並ぶと、それだけで信用してしまいがちにもなるだろうが、記事を鵜呑みにせず、自分の頭で納得できるまで考えること、あるいは信頼できる専門家に説明してもらうことである。

言い難いことであるが、生命保険のセールスマンとて生命保険がわかっていない人がいるのも注意である。
現在はそれ相当の知識がないセールスマンは淘汰されてきたという経緯がある。
しかし、最近会ったセールスマンは、なんと20年以上の経歴がありながら、保険のことがわかっていなかった。
これには、正直驚いた。契約者はどういう人たちだろうと思う。





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2013年08月23日

山桜〜日本人の心

「山桜」はNHK-BSで放映された、藤沢周平原作の映画。

この映画を見たのは二回目である。

原作はもちろん、キャストもいいので、私の好きな映画の上位にランクする。

最近、NHKのドラマ「激流」で出演していた田中麗奈は良いと思わなかった。
どこかちぐはぐで、サイズのぴったりしない服を着ているような感じで、一応役を務めているだけという感じに見えた。
もっとも、脚本家には申し訳ないが、私個人の感想では脚本がいただけない。
田中麗奈という女優の印象が悪くなってしまった。

ところが「山桜」での田中麗奈は素晴らしかった。
「激流」では少々嫌味さえ感じた彼女だったが「山桜」での武士の妻役は、服装も似合うし田中麗奈の美しさを際だたせるものだった。

着物の似合う女性はたくさんいるものだが(特に日本女性は和服が似合うように思う)、この映画は台詞が少ない方で、台詞のないところの演技力が非常に大切である。

立ち居振る舞い、表情、間のとり方、うまく言えないが、伝統的な日本女性の良さが凝縮されているような場面が多いのだが、田中麗奈は見事に演じきっていたと感じた。

東山紀之もよかった。檀ふみ、篠田三郎、みな素敵な役者だが、ただそういう有名どころを集めただけでなく、監督・篠原哲雄の優れたキャスティングの感覚が生きていた。

豪華な大河ドラマも、一部のミスキャストでほとんど見る気をなくしてしまうというところがあったが、この映画ではそういった隙がない。

特に富司純子の手塚志津役は特筆もので、大女優という風格があった。
田中麗奈の磯村野江役との共演は涙もの。
これほど、日本女性の美しさを感じさせるシーンも珍しいと感じた。

その他の脇役も非常によかった。脇役の良さがこの映画を引き締めていたと言っても良い。

虫の音を楽しむという感覚は西洋人にはないと聞いた。
ひびの入った茶碗の模様に美を感じる日本人の心。
尺八のかすれた音、琵琶の独特な余韻に惹かれる日本人のデリケートな心は、作曲家・武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」で世界的に有名になった。

近頃、自信喪失気味の日本ではあるが、日本人の心は世界に誇るものである。

ところが、失礼を失礼と思わないようなぶっきらぼうな心が目立つのも、最近の日本人であり、残念に思うところである。

良き日本人の心を文章に表すことは難しい。特に不器用な私にとってはなおのこと。

藤沢周平〜「山桜」〜監督・篠原哲雄〜脚本・飯田健三郎、長谷川康夫で日本人の心を再認識したいものだと思う。

映画「山桜」公式サイト







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2013年08月22日

柔道連盟の衝撃

この度の柔道連盟の不祥事は何が問題だろうか?

嘉納治五郎の柔道
高橋  豊(平塚柔道協会理事兼事務局次長)より引用
講道館柔道の理念
  柔道は心身の力を最も有効に使用する道であるとされ、「柔能く剛を制す」が柔の理と言われています。つまり、柔の理とは、相手が一定の力で押して来る時は、自分は之に逆らわずに順応して退くのみでなく、その押して来る力を利用し、さらに自分の方へ引付けると、相手が受身になり前方へ体が崩れ、倒れ易くなり、そこへ適切なる技を施すことで、容易に相手を投げることができるようになります。また、この反対に相手が引いて行く場合には、自分がその力に順応して付いて行くのみでなく、引かれる以上に相手を押せば、相手が後方に体を崩して釣合いを失うので、そこへ少しの努力で技を加えると、相手を投げることができるとしています。しかし、相手が動かない時や自分の動きを相手に完全に封じられた場合には、必ずしも柔の理による合理的な方法で対応できるとは限りません。この場合でも、相手を動かしたり、自分の体を自由にする最も有効なる方法が存在します。何れも筋肉の動きに関係しますが、精神の上においても最も有効な働きが求められます。広い意味で考えるならば、柔の理だけでなく、攻撃と防御の方法として、精神面を含む心身の力を最も有効に使用することになるのです。

  嘉納治五郎は、この柔の思想をさらに進め、社会生活に応用することの可能な「柔の道」を説いていったのです。そして、「心身の力」を「精力」という文字にし、「最も有効に使用」を「最善活用」に置き換えていきました。「最善」の意味は人間の行いのすべては善を目的にしなければならないので、善を目的に最も有効に使用するとして、「精力善用」という柔道の理念を生み出したのです。

つまり、柔道を行うことにより、精神面の向上が期待されるということです。

この度の柔道連盟の不祥事は、体罰、金銭問題ですが、これらは事故ではなく、人の意思によって行われたものです。

柔道連盟に名を連ねている人たちは、日本の柔道界の頂点にいる人たちです。

それは、最も柔道の精神を知り、その精神を最も身につけてきた人であるはずです。

その人たちが今回の不祥事を起こしたということは、柔道に一生懸命取り組んでも、嘉納治五郎の目指した精神は身につかないということを証明してしまったことになります。

つまり、柔道で心は育たないという証明をしてしまったわけです。

柔道界の頂点に立つような人たちでも、体罰(暴力)をふるうこと、金銭には汚い実態を示したことは、柔道の最も大切な部分が本物でないことを示してしまったわけです。

会計の間違いなら、お詫びして修正すれば納得は得られるでしょう。

まだ柔道に未熟な人たちが、勝ちにこだわるあまり、体罰を行ったのなら「柔道の精神がわかっていない」といさめることもできますが、トップ(柔道界の頂点に立つ人たち)が行ったことは示しがつきません。

そういうことが、私には衝撃でした。

役員が代わって、再生するとか信頼を取り戻すとか言っても、上辺だけを繕うことはできるかも知れませんが、あそこまでやっても柔道では心が育たないんだと思わせてしまった心を回復することはできないと思います。

不祥事が発覚した後の、役員たちのみっともない態度は、輪をかけて、柔道の地盤沈下を加速したと思います。

そういう意味で、罪は非常に深いと思うのです。





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2013年08月21日

女性の訴えはごもっとも



秋田書店のあきれた事件に驚いたが、正しい告発をした女性を解雇したことで、この会社はますます信用を落とした。

懲戒解雇とはもってのほか。

この場合の懲戒とは何か?

正しい行いに対する懲戒なのか?

あきれてモノが言えないとはこのこと。

女性の勇気を称えるべきだ。
posted by edlwiss at 21:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2013年08月21日

個人主義と利己主義

個人主義と利己主義の意味を間違って解釈している者が、なぜ、こんなに多いのだろうかと思う。

何か言葉があると、その言葉の意味は、自分が勝手に決めるものなのだろうか?

そう思わざるを得ないほど、この個人主義と利己主義の違いがわかっていないと思われる意見が多い。

kojinsyugi.jpg


そもそも、個人と言ったら、この地球上の人間はみな、それぞれ個人なのだ。

だから、個人の尊重とは「自分も個人」「あなたも個人」「自分の知らない人も個人」とみな個人である。

それゆえ「個人の尊重」と言ったら、個々の人々、つまり地球上の人はみな尊重されるわけである。

自分さえよければと言う考えが、個人主義ではない。

この地球上に暮らしていて、自分さえよければいいという生活など成り立たない。

それは、自分以外の人たちとは、みな直接、間接に関わりあっているからである。

今自分が食べている米も、多くの人の手を経て存在しているのである。

もし、自分だけという考えを徹底するのなら、全く他人の力を借りずに、生きるための手立てはすべて自分で賄わなければならない。

一歩外に出れば、自動販売機があり、ジュースが飲みたいと思えば、コインを入れてボタンを押せばよい。

しかし、この作業を自分だけで完結しようと思うなら、どこかの土地に果樹を植え、果樹を育ててジュースを絞るところまで行う必要がある。

しかし、現実の社会は多くの人の分業で、私達はボタンひとつ押すだけでジュースを得られるという高度な社会を作ったわけである。

個人主義の理解を深めるということは、社会を作っている成因の一人一人(個人)が他人のために役割を負い働いているということを、子どもたちにも教えていかなければならないことだと言える。

ごく狭い考えで、自分だけの利益を考えたら、他人からのサービスは受けられないのだということを理解させる必要がある。

コインを入れず、ジュースを飲むという恩恵にあずかりたいという考えが利己主義であり、そういうことをしたら、ジュース工場で働いている人たちに給料が支払われないことになり、工場は閉鎖になる。

そして、自分もジュースが飲めなくなるのだということを、近視眼的な思考しか持たない人に教える必要がある。

■個人と団体

kojin_shyudan.jpg個人の反対語は団体である。

だから、個人の尊重の反対は団体の尊重である。

団体の尊重とは、団体の存続を何をおいても再優先とする考えであるから、個人か団体かの選択を迫られた場合は、団体存続のためには個人の犠牲もやむを得ないという考えである。

日本国憲法では、国民に主権があるとされている。

これは、一人一人の国民が主権を持っているということであり、国民の一人一人が主体的に国家の動向を決定する権利を持っているということであり、これは個人主義の別な表現であるとも言える。

「国民はみな最低限度の生活が保証されている」というのも、国民は一人残らず、個人として大切にされているということである。

個人主義の対局にある集団主義、あるいは全体主義により、みんなのために一人が犠牲になって自殺するというようなことがあってはならない。

しかし、ドラマでは会社のために一人のサラリーマンが自殺するような場面がある。

集団主義や全体主義に賛同する人は、もしかしたら自分がみんなのために死ぬというようなことは考えていないのかも。

戦前の日本は、天皇を中心とする国家存続のためには、個人が犠牲になることも可とした社会ですが、戦後の日本は国家のために誰一人犠牲になってもいけないという社会です。

最近、列車とホームの間に墜落した女性を助けるために、乗客が力を合わせて列車を押している姿が話題になりました。



この話は海外でも評判になりました。

これこそ、みんなで一人を大切にする個人主義のお手本とも言えるものでしょう。





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2013年08月20日

自分を知る

自分を知ることは難しい。

「私は自分を客観的に見ることができるんです」と言った総理大臣もいるが、この方は特別な能力があるのかも知れない。

そういう特別な人は別として、ものごとを自分で判断する限り、それは自分の世界から見た世界であるから、自分を客観的に見ることは難しいだろう。

だから、自分を知るためには、自分以外から見た判断でなければならない。

しかし、それも自分以外なら何でも良いかというと、そうも言えない。

他人から自分の印象を語ってもらうことはできますが、それが当たっているとは限らないからです。

例えば、内向的か外向的かということは、専門的な心理テストでなければわかりません。

ただ、人から見た印象は単刀直入に多くの人から語ってもらうことでわかります。

本来はそういう性格ではないのに、他人から見たら違うということはあります。

セールスマンは第一印象が大切で、初対面で「嫌なやつ」と思われたらもうダメだということを聞きました。

そうすると、セールスマンという仕事は、本当はどうであろうと、第一印象をよくしなければならないということになります。

学校の先生にあっては、一度きりの出会いということはあまりないでしょうから、他人から見た誤解は気にする必要がないかも知れません。
新学期に担任発表があって、がっかりした子どもが、そのうちに「いい先生」と言い出したということを聞いたことがあります。

■自分を客観的に見る手立て

話が少し大げさになってしまったような気がしますが、今回「自分を知る」というタイトルにしたのは、自分で行っても自分を知る手立てはあるということです。

そのうちのひとつが、客観テストです。
【客観テスト】
採点者の主観に左右されず、機械的に採点できる形式のテスト。結合法・穴埋め法・多肢選択法など。
ことバンク

一般に行われているテストのことですが、これを使った試験成績をあげる方法は、これまで考え続けることの意味心理的影響で話してきました。

要するに、ここでは客観テストを使って自分を知ろうということです。

■自分を知ることは勇気がいる

客観テストを行う際に、私が強調したいことは、目覚まし時計を使えということです。

加えて、いきなりテストを行えということです。

テストというと、心理的な圧力から構えてしまうことが多いと思います。

「一度、教科書を読んでから」

とか

「一度復習してから」

など。

そうではなく、いきなりテストを行えということです。

特に準備をしなくても、自分はどれほどの力を持っているか知るためです。

これは、どんな悪条件のもとでも、自分はどれほどの力を発揮できるかを知るためです。

それも「限られた時間内」に行うことです。

この1枚のテストを30分内で行うという目標を立てて行うということです。
だから、目覚まし時計を使うのです。

時間制限をすることで、ある問題に時間をかけられないという緊張感が大切ということです。

個人でも客観テストを行うことにより、自分のテストの力を客観的に知ることができますが、大切なのはテストを行う環境を厳格にすることです。

自分で自分を試すことは、つい自分に甘くしがちです。
自分を甘やかすことはいくらでもできますが、それは対外的には弱い自分を作ることになります。

■人格診断も自分でできる

範囲は限られていますが、他人に悪影響を与えていないか(対人関係に支障がないか)どうかを知ることはできます。

やはり、客観テストですが、対人関係を重視する人は、勇気を持って行うべきと思います。

そうです。自分で自分を客観的に評価することは勇気のいることです。
人格診断も試験の力を知ることも、勇気がいるので踏み切れないのだと思います。

いきなりやってみたテストが100点満点で10点だった、ということがあるかも知れません。
でも、どう言い訳しようがそれが自分の実態なわけです。

人格的に自分の実態を知る簡単なテストは、専門家がネット上に発表しています。

これも、実施に勇気が必要と思いますが、自分を正直に(客観的に)知りたい人はやってみるといいと思います。

そして、その結果を率直に受け入れることだと思います。
結果に疑問を持ったり、不安を感じたら、専門医に直接会うことがいいでしょう。

人格障害テスト

働く人のためのパーソナリティ障害健康診断

セルフチェック

認知症チェックリスト

嫌われ度チェック





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2013年08月19日

心理的影響

勉強(と言っても、テストを意識した勉強のこと)だが、中学校入学当時は張り切っていても、学年が進むに連れわからないところが多くなるという生徒もいるだろう。
また、勉強はしなければならないとわかっているのだが、時間の経過とともにあせりばかりが増すという生徒もいるだろう。

そういう状態から脱皮するには、病院での健康診断のように、まず、自分の力がどうなっているかを診断する必要がある。

それには、まずテストと同じような環境のもとで、テストをやってみる必要がある。
いわば、診断テストである。

テストと同じような環境とは、本番のテストと同じ緊張感で行うテストのことである。

だから、私は目覚まし時計をセットして開始しなさいと言う。

一回で難なくできてしまった問題は、すでにそれだけの力を持っていると考える。

こういう問題は二度挑戦する必要がないと考える。

この理由は、そうやって、挑戦しなくてもよいものを除外していかないと、限られた時間を有効に使えないからだ。

わかっているけど、ちょっとした勘違い不注意で間違えた問題は、二度目に再挑戦する。

すると、今度は正解が増えるだろう。

その正解の問題は、次の挑戦から除外する。

こうして、三回目の挑戦でも残った問題は、自分にとっての難問と考える。

ここで「自分にとっての」というところが大切。

自分にとってということは、他人は関係ないということである。

それは、他人にとっては易しいが、自分にとっては難しいとも言える。

逆に、他人にとっては難しいが自分にとっては易しいという問題も、あるかも知れない。
それは、すでに1、2回の挑戦で、自分にとっては難問には入らない。

参考書やサブノートの類はたくさん市販されている。

しかし、それは一般的な易しい〜難しいのグレードに分けたものであり、自分用ではない

だから、受験勉強での成功の秘訣は、自分にとって必要な参考書を自分で作成することであると言える。

教科書や参考書を参照して、万人共通のノート作成は最も非効率なやり方で、別な角度から見たら、勉強をしているという錯覚と言えるのかも知れない。

自分が自身持ってできるところはどこか、自分の弱点はどこかを知ることにより、作戦が練られるようになる。

これは、なんとなく、できるかできないかわからないという心理から抜け出す効果がある。

ちょっとしたミスで間違う問題を克服し、自分にとっての難問に挑戦することにより、合格の上位ボーダーラインに迫ることができる。

三回挑戦してもできない問題を、自分にとっての難問集としてまとめることで、常に自分にとっての難問を頭に置くことができる。

常に頭に置いているということは、常に勉強しているということでもある。

もしかして、それはトイレで解決するかも知れない。

間違えてはいけないのは、特別な私立でもない限り、一般の公立を対象とする限り難問は存在しないと言える。

seiseki.jpg難問とは、自分にとっての難問である。

今回、書いたことは、富士の登山のようなものとも言える。

次第により高いボーダーライン(何合目)を克服していく道筋と言える。
何よりも、自分は上に向かって進んでいるんだという実感を持つことは、心理的にも好結果を生み、自信をつけることになると考えている。

もちろん、以上は、私はこうやっているということであって、私ごときがプロを自認される先生方に偉そうに、上から目線で言うものではない。

プロの先生たちからしたら、お笑いかも知れません。





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2013年08月18日

考え続けることの意味

受験勉強のために何か問題集に取り組んだとしよう。

その取り組み方が問題だ。

とりあえず、できなかった問題をどうするか?

解説と解答を見て終わりでは、問題があると思う。

「なるほど、そうか、わかった」

では、再度できるかどうかはわからないからである。

どんなにわかったつもりの問題でも、白紙の状態で再挑戦することが大切と思う。

試験というものは、わかっているからできるものではない。

解答用紙に答えを書いて、その答えが解答と一致していなければ点数に結びつかないのだ。

そして、チャンスは1回。

「えっ、何でオレの答えが間違いなの?・・・あ、そうか、そう答えなきゃね」

こんなことがあるのだ。

おつりを間違えた時は、間違えましたと言って訂正すればよい。
書類を提出し、間違いを指摘された時は、訂正印を押し書き直せばよい。

こんなことは、日常生活ではありがちなことだ。

だが、試験では「間違えましたけど、私はわかっていました。訂正させてください」は通用しない。

試験は一本勝負。

わかっているはずの問題を間違えるという割合は、かなり多いように思う。

だから、わかっているけど×になってしまった問題を◯にすることで、成績はかなり上がるはずだ。

ここまで話してきたことを「そんなの当たり前です。とうの昔より実践しています」という生徒は、かなり優秀な生徒と思う。

そう、優秀な生徒は、こんな当たり前のことはすでに実践しているのだ。

■問題は手も足も出ない問題

ここで言う「問題」とは、試験問題のことではない。

試験勉強での取り組みの問題のことである。

「次の空欄に年号を記入せよ」

という問題なら、それが、関が原の戦いなら「1600」と記入するだけのことだが、物理や数学の問題で思考を巡らし、解答にたどり着かなければならないような問題では、正解を見ただけでは理解できない場合がある。

どういう手順を追って進めたらよいか。

また、手順を理解できたとしても、はたして、白紙の状態から自力で手順が書けるか?

こういう類の問題を、私は「手も足も出ない問題」または「自分にとっての難問集」としてノートに整理する。

ノートの使い方として、教科書の始めからまんべんなく清書して「きれいですね」と褒めてもらえるようなノートを作ることは、ムダの何ものでもないと思う。

それが趣味の人は、そうすればよいと思うが、受験対策として力をつけるための勉強としては、あまり効果はないと思う。

受験対策のノートは、自分の弱みが記されたものでなければならない。

そして、その解法が整理されたものでなければならない。

そういうノートがあることで、常に自分はどこが弱いかがわかり、自分にとっての難問を常に意識することができる。
常に意識しているということは、常に考え続けているということであり、歩いていても、食事をしていても、電車に乗っていても、自分の頭の中にある。

勉強時間というと、とかく机の前に座っている時という形式的な時間を思い浮かべがちであるが、思考さえしていればそれは勉強時間である。

「考え続けることの意味」とは、自分にとっての問題(課題)を認識することである。
それが、睡眠時間以外はすべて考え続ける時間(勉強している時間)にすることである。

1日8時間睡眠をとるとすれば、1日16時間勉強することになる。

アルキメデスが王様より、王冠が金でできているかどうかを、王冠を壊さず調べるように言われた話は有名だが、彼は風呂に入っている時にわかったと言う。

「わかった。わかった」と言って、そのまま風呂から飛び出し裸で走りだしたというようなことが、伝えられている。

アルキメデスは寝ている時間以外は、すべて王冠のことを考えていたのかも知れない。

何より間違えてはいけないのは、答えを知るから頭がよくなるのではなく、考え続けるから頭がよくなるのだということです。





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2013年08月18日

話題になりそう

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2013年08月17日

協奏曲は難しい

chozetsu.jpg協奏曲は名人芸を披露したり、楽器の機能の限界を示したりするように書かれている。

協奏曲ではないが、リストに「超絶技巧練習曲」というピアノ曲がある。
題名に惹かれてレコードを買ったことがある。
演奏はアシュケナージだった。

いずれにしても、一言で、演奏が難しいと言っても、何が難しいのかということに触れてみよう。

難しさは大きく2つに分けて

1.演奏解釈
2.技巧

になると思うが、2の技巧(テクニック)はピアノだったら、指が動くように練習するしかない。

管楽器となると、息のコントロール、唇の調節、指の動きを練習しなければならない。

私は、以前のブログ記事で、できるところばかり練習しているので、できるようにならないと言った。

このことは、ある特定の曲の練習の場合だけを言っているのではない。

例えば、吹奏楽の場合、コンクールでは大変難しい曲を演奏している。

そういうのを聴くと、演奏者として高いレベルにあるのかと言うと、そういう気はしない。

それは、コンクールの曲だけに限っているからである。
(もちろん、多少はその他の曲が演奏できるレパートリーはあるだろうが)

コンクールではコンクールの曲だけ上手なら、それで通用するだろうが、広く音楽活動をするために実力をつけるとなると、しなければならない練習がある。

その代表的な練習が「音階練習」である。

「音階練習は毎日やっています」という人がいるかもしれない。
でも、何通りの音階練習をしているのだろうか?

私が「音階練習をしなさい」という時は、長調、短調、合わせて24種類やりなさいと言う。

クラリネットを教える時、24種類の音階がすべてできる楽譜を渡す。

私自身、演奏前のウォーミングアップで24種類の音階練習がすべてできる楽譜を演奏する。

子どもに、やるようにと言うと、やる子とやらない子に分かれる。

♯や♭が多くなる調ではやらない子がいる。

だから、転調すると途端に下手になるのだ。

往々にして、吹奏楽では演奏しやすい調ばかり選んで演奏している傾向がある。

編曲ものでは、やさしい曲に移調して演奏していたりする。

しかし、音楽において「調」は非常に大切なもので、作曲家は「調を選んで」作曲している。

調を変えてしまうと、曲のイメージも変わってしまうし、作曲家の意図を汲んでいないことにもなる。

モーツァルトのクラリネット協奏曲・イ長調を、私は他の調で演奏する気にはならない。

つまり、音楽の練習においては、少なくとも長調、短調、合わせて24種類のどの調になっても、ためらうことなく演奏できる必要がある。

得意な調しか練習しないので、不得意な調になると、途端に下手になるのは「できるところばかり練習して、できないところを練習しない」ということであり、これは勉強も同じと言いたいわけである。

事実、成績がいい、優秀と感じる子どもは♯や♭が多く、始めはめんどうと思われる調の練習も、言われたとおり練習している。

ここは、上手くなるかならないかの一つの別れ道のような気がする。

※つけ足し

協奏曲のように長い曲では、調が途中でよく変わる(転調する)ので、どんな調でも難なく演奏できることは大切です。






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2013年08月17日

大人のつきあい

「大人のつきあい」の大人とは「一人前の人間として、思慮分別があり、社会的な責任を負えること。また、その人(ことバンク)」と言う意味である。

20歳になれば、一応、法律では成人の扱いを受ける。

だが、法律では大人であっても、大人のつきあいができる大人になれない人もいる。

■お互いに良い刺激を受ける大人の関係でありたい

しばしば紹介するモーツァルトのクラリネット協奏曲イ長調K.622はアントン・シュタットラーというクラリネットの名手との出会いがきっかけとなって誕生した曲である。

文献によると、モーツァルトはシュタットラーの演奏にいたく感動し、その音色と可能性を見出したという。

モーツァルトとシュタットラーは深い友人関係になり、シュタットラーの意見がモーツァルトに影響を与えている。

同様な関係が後のブラームスにもある。

ブラームスは60歳を過ぎ、もはや作曲に対する霊感が湧かないとして、かねてから気に入っていた別荘で余生を過ごそうと決めていた時、ミュールフェルトという優れたクラリネット奏者に会い、その演奏に感動し、再び作曲の意欲が湧いてきたという。

人生において、出会いは大切である。

高校や大学に進学して友だちができる。あるいは社会に出てからも出会いがある。

中高生によく読まれる小説として、ヘッセの「車輪の下」がある。

主人公ハンスはかつて村では出たことのない秀才であり、優秀な成績で神学校へ進むが、そこでも一番を目指して勉強に励む。

そんなうち、自分とはまるで違った生き方をしているハイルナーに出会ってからは、次第に勉強をしなくなりついに学校もやめてしまうはめになる。

失意にくれて過ごしていた時、ある女性と出会うが、そこでも希望を見出すことができなかった。
ハンスはある日、川から水死体であがる。

フィクションではあるが、心の痛む小説である。

思春期の子どもたちには影響を与える小説だろう。

■偶然の出会い

私が、今年、あるきっかけで知り合った英語クラブの人たちとの出会いも偶然である。

彼らは決して人に傷をつけるような言葉を使わない。

彼らは意識してそうしているのではなく、彼らの教養がそうしているのだと思った。

私は彼らのそういう心に、大きな刺激を受けた。

自分の心も浄化されるような思いがした。

彼らはみな例外なく、電子辞書を携帯している。

「辞書を見ると、・・・という意味もありますね」

「そうなんですね」

というやりとりは多い。

みな、私よりはるかに達者な方ばかりだが、自分勝手に意味を決めるようなことはしない。

英語にかぎらず、どうかすると、自分勝手な意味を主張し、それに固執する人がいるが、私はそういう人とは友だちにはなりたくない。

最近はfacebookが盛んで、友だちの承諾依頼が時々ある。

私は誰かれ構わず承諾するようなことはしない。

数ヶ月前には、プライドが高いことで有名な人からの依頼があったが、私は承諾しない。

プライドの高いのはいいとしても、明らかな間違いに屁理屈をつけて訂正しない人とはつきあいたくないからだ。

大人のつきあいとは、一人前の人間として、思慮分別があり、社会的な責任を負えるつきあいであり、自分もそういう大人の人たちから嫌われないようにしたいと思う。





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2013年08月17日

家庭教師

中学生のいる、ある家庭での話である。

その家庭は、子どもの成績を上げるために家庭教師を頼んでいた。

家庭教師は、家庭教師を派遣する会社から来ていた。

2年以上も家庭教師が来ているのに、いっこうに成績が上がらない。
私はあるきっかけで、そのことを知った。

差し出がましいとは思ったが、子どもがかわいそうに思えたので、勉強のやり方について親と話をした。
そして、私が一度、その子どもをコーチすることになった。

それで、家庭教師が何をやっているのかがわかった。

家庭教師は毎回、問題を印刷した数枚のプリントを持ってくる。
それを子どもにやらせるのだ。
子どもがやり終えると、家庭教師が解答を参照し採点をする。

次に、間違えた問題の解答を見てやり方を含め、ノートに清書させる。

家庭教師は採点結果を、毎回、記録用紙に記入している。
そして、それを親に提出する。

家庭教師は毎回、このようにやっている。

これは、できる問題だけやって、できない問題をほったらかしにしているのと同じだ。
だから、できない問題に対しては、模範解答をノートに写させるだけなので、再度挑戦した時にできるかどうかはわからない。

家庭教師は、模範解答を丸写しする段階で、理解できると考えているのかも知れない。
子どもも、せっせと丸写しの作業をすることで、勉強していると実感する(錯覚する)のかも知れない。

果たして、答えを丸写しすることで試験に強くなるのだろうか?

単純な暗記問題には効果があるかも知れない。

■できない問題はほったらかし

問題集をひと通りやって、採点するだけでは、結局、できる問題をやっているだけである。

できなかった問題を、試験問題に取り組むように再挑戦しないと、二回目にできるかどうかわからない。

健康診断をやっても、悪いところがわかっただけでは健康にならないのと同じである。

悪いところの対策をしなければ健康にならないように、試験勉強もできなかった問題の対策をしなければ、意味がない。

答えを丸写しすることで力がつくと思うとしたら、それは錯覚だと思う。

■問題は教えられないこと

その家庭教師は二年以上も通って、いっこうに成績が上がらないので、さすがに焦りだしたらしい。

そこで、どうしたかと言うと

「家庭教師センターへ来てください。そうしたら、どんどん問題を出しますから」

と言った。

この家庭教師は、たくさん問題をやることが力をつけることだと思っているらしい。

確かに、たくさん問題をやることは、やらないより効果はあると思うが、できない問題の対策をしないのは、できる問題しかやらないと同じである。

なぜ、家庭教師自ら、できなかった問題の解説したり、その子どものつまずきの分析をしないのかと思った。

それでわかったことは、家庭教師自身が問題を解けないということであった。

私は、すべての家庭教師がそうだと言うわけではない。

少なくとも、私が偶然見た家庭教師は、家庭教師センターから問題の印刷されたプリントの単なる運び屋で、仕事といえば、解答を見ながら採点することだけだった。

これなら、普通に機械的な事務ができる人なら、だれでも家庭教師はできるだろう。

だから、家庭教師の募集の文言には「あなたもできます」と誰でも家庭教師ができるようなことが書いてあるのだろう。

子どもが、一度、教科書の問題にわからないものがあって、その家庭教師に相談したことがあるそうだ。

私がそれを知ったのは、子どもが、同じ問題について私に質問したからだ。

回答は、私と家庭教師とでは違っていた、とう言うより、家庭教師の回答は間違っていた。

その家庭教師は、教科書の問題に取り組ませようとしない。

それは、教科書の問題は巻末にはほとんど解答がないからである。

それより、家庭教師としては、家庭教師センターの指導通りの問題のプリントの運び屋に過ぎないということだ。

■肩書は実力ではない

人は肩書でごまかされてしまうことがあるのではないかと思う。

「家庭教師」という名刺をみただけで、教えることの専門家と思ってしまわないだろうか?

家庭教師に限らず、広く、肩書というものを考えてみると、肩書だけで何か力のある人と錯覚してしまうことはないだろうかと思う。

「先生」も同様。

先生と呼ばれた瞬間に、何か急に力がついたという錯覚はないだろうか?

また、肩書のそういう効果をねらって、肩書を並べたがる人がいるのかも知れない。

そう考えてくると、私はそういう肩書効果と言うべきものを排除して考えることが大切だと思った。

名刺には資格を明示することは必要だろうが、肩書効果をねらったものは恥ずかしいと思うようになった。





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2013年08月15日

協奏曲のように

協奏曲のようにとは、試験勉強も協奏曲の練習のようににするといいという意味である。

ある人は、アマチュアのする音楽の演奏を批評して「アマチュアは自分が好きなところは上手いが、好きでないところになると極端に下手になる」と言った。

この言葉は私にとって印象深く響いた。

それで、自分の練習をみつめてみると、確かにそう言えると思うフシがあった。

練習と言っても、アマチュアは好きなところばかり練習している。

美しいメロディーのところ、格好いいところ、そんなところばかり練習しているのだ。

他人から見たら、練習しているように見えるかも知れないが、実質、あまり練習になっていない。

私は、これを試験勉強と比べてみた。

傍からは勉強しているように見えても、できるところばかりやっているのでは成果は上がらないだろう。

だから、私は◯△×法を考えたのだ。

「できるところはやらないでいい」これが私のやり方である。

もちろん、これは「私のやり方」であり、他人に対してエラそうに言うつもりもない。
ただし「お願いします」と言われた時は、私のやり方でお願いしますということと了解して、このやり方に従ってもらう。

私は中学生時代にモーツァルトのクラリネット協奏曲K.622に出会って、衝撃を受け、以来、この曲が演奏できるようになるということを目標にしたとかつて話した(モーツァルトモーツァルト(2))。

協奏曲が作曲された経緯を調べると、作曲家がその楽器の達人であったり、作曲家がその楽器の名人と出会ったりしたことが作曲の動機となっている。

そのため、名人芸や楽器の限界を披露するように作られている。

だから、協奏曲はカッコイイのである。

しかし、そのカッコイイ協奏曲を演奏するためには、名人しかできなかったような難所が随所に出てくる。

人前で格好のいいところを見せたくても、難所ができないではどうにもならない。

難所を回避して練習していては、いつまで経っても協奏曲を演奏することはできない。

協奏曲でなくても、いわゆる頭がいいと感じる生徒は、難しいところを優先的に練習している。

私はなるほどと思った。

だから、試験の成績がいいのだと。

試験勉強は協奏曲をモノにするのと似ている、と思った次第である。





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2013年08月15日

大人社会のつきあい

学校が一般社会とは違った環境と感じるのは、コミュニケーションの相手が圧倒的に子どもが多いということです。
高校生や大学生はより大人に近いわけですが、まだ社会に出ていないということを考えると、学校の先生は社会生活の経験が未熟な者を相手にしているわけです。

いや、先生という大人がいるではないかという意見もあるでしょう。
しかし、先生同士のコミュニケーションはどうでしょう?

仕事の主流は児童生徒が相手ですから、一般社会の大人同士のコミュニケーションとは違うでしょう。
そして、いつも相手している生徒は、卒業していきますから、先生は年をとるのに相手はいつも同じ年令です。

こういう特殊性を考えると、先生という仕事はよほど気をつけないと、自分だけ年をとって進歩がないという危険性をはらんでいます。
教科書はたまに改訂がありますが、そんなに大きくは変わりません。

そうすると、楽をしようと思えば、10年も同じことを繰り返していればよいことになり、新鮮な知的刺激を受けることなく、年数が経過します。
こうなると、ベテランと言っても年が多いだけということにもなりかねません。

これは、今の学校事情を批判しているのではなく、私自身が非常に危機感を感じていたことです。

だから、学校という環境では、少し深く取り組んでいるだけで、あの人は凄い人だという学校の中だけで偉い人になってしまいます。
ちょっと持ち上げられただけで、専門家になったという錯覚に陥ることも危険です。

それで、学校という世界で偉いだけでなく、社会に通用する偉さを持つように意識することが大切と思いました。

いや、そんな意識をしなくても、親方日の丸だから、平和に定年まで勤めればいいじゃないかという考えがあるかも知れません。
しかし、そうして過ごすことが、年をとっていい大人になったのに自信がない自分を作ることになり、学校の外の社会が怖くなってしまうように思います。

街に出ると、先生という職種はなんとなくわかると言われるのは、そういう空気を身につけているからではないでしょうか?

また、いつも相手が子どもばかりだから、気をつけないと大人の中に入っていくのが怖くなってしまうということは、現に教えている子どもに対してもよくないと思います。

先生の自信なさ、なんとなく社会から取り残されているという感じを払拭するためにも、先生は意識して大人社会とのつきあいを意識すべきだと思うのです。





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posted by edlwiss at 20:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年08月14日

グローバルな見方

グローバルとは、国家の垣根を超越した状態や行為のことです。(はてなキーワードより)

私は最近、このグローバルという言葉を思い浮かべる機会がありました。

それは、米ドル商品について討論した時です。

今、日本円での預金は非常に低い利率です。

それに比べると、米ドルや豪ドルは利率が高いです。

そんな訳で、実際、日本円を米ドルや豪ドルに交換する人も増えています。

しかし、人によっては外貨というだけで「危ない」という印象を持っている人がいます。

この話は、考えに行き詰った時、どうしますか?(2)にて少し触れました。

そこでは、論理的な話にまで至らず、ただ個人の印象だけで「米ドルは危ない」と主張するだけの人がいたということも話しました。

ここでは、もう少し話を進めたいと思います。

■なぜ危ないと思うのか?

印象だけで「危ない」と言う人に、その根拠を聞くと、まず答えは返ってきません。

結局、使ったことがない、なじみがない、アメリカは危ないんじゃないのという気分的なものということにたどり着きます。

この「気分的」なものというのは、人の考えを強く縛っているような気がします。

米ドルは危ないのか?

という話になると、危ないということではなく「自分は米ドルは好きではない」というところにたどり着いたりします。

自分の人生は自分の好きなように選択して生きていけばいいわけですから、自分はこの方が好きだという生き方もあります。

ただ、日本の財政がかつてないほど危機になっています。

これはどうなっていくのでしょうか?

行き詰まると、日本は破綻するのでしょうか?

それは昭和21年に答えがあるような気がします。

日本の財政は昭和21年に行き詰まり、政府はどうしたかと言うと、ある日「金融封鎖」を行い、国民は生活資金ぐらいしか、銀行のお金の出し入れができないようになりました。

そして、新しい通貨を発行し、二週間以内に新円と交換するように、国民にお触れを出しました。

古い通貨が無効になってしまいますので、国民はタンス預金も持ちだして銀行へ交換に行きました。

その後、政府は財産税90%を課しました。

つまり、政府は借金に困って国民の貯金を取り上げたということです。

今、国民の預貯金は1500兆円ぐらいあると言われています。

この90%を政府が取り上げれば、1000兆円の借金は解消されます。

国は財政に行き詰ったら、国民に払ってもらうだけです。

これは、江戸時代の徳政令と同じです。

昭和21年頃、貯金をたくさん持っていた人は一瞬にしてほとんどなくしてしまったわけです。

また、新円も信用をなくし、それから4年間で80倍のインフレになりました。

「私は円が好きだ」と言う人は、円と心中したようなものです。

■強い通貨とはどんなものか?

1万円札は紙ですから、それ自体の価値はほとんどありません。

1万円はモノと交換できるから価値があるわけです。

80倍のインフレとは1個100円のリンゴが8000円になるということです。

今、1ドル100円と仮定しますと、ドルは安定しているとすれば、1ドルが8000円になることだと言えます。

80倍のインフレ下では、100円だったリンゴは8000円ですが、インフレ前にドルを持っていた人は1ドルでリンゴが買えることになります。

それでも、自分は円が好きだから、円で財産を維持しますか?ということです。

では、ドル(米ドル)は大丈夫かということになります。

ここで、経済の原点に返ってみると、通貨の信用とは食料と交換できるか否かということになります。

その裏付けは、通過を発行している国の農業の強さということになります。

米国は世界一の農業大国です。

それが、米ドルの強さを裏付けているわけです。

また、通貨別の外国為替世界シェアは2010年のデータでは米国が84.9%で圧倒的です。
それに対し日本は19.0%です。

これは通貨の強さ、信用度とも言えます。

本日は、通貨をもとにグローバルな物の見方について話しましたが、他の分野でも、気分だけでなく世界的な視野(グローバルな視野)で根拠を持ち結論を出していくことが大切と思います。





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posted by edlwiss at 22:04 | Comment(4) | TrackBack(0) | 社会時評

2013年08月13日

考えに行き詰った時、どうしますか?(5)

このテーマは今回が5回目で、ここで一応の区切りとします。

「考えに行き詰った時」で一番言いたいことは、一般の生活と受験勉強では対処方法が違うということです。

それは、受験勉強では時間に限りがあるのに対し、一般の生活では、時間に限りのある場合もありますが、生きている限り考え続けることができるという課題があることです。

受験勉強では、高校入試という試験のためには、一般の環境の中学生においては、考えられる時間は高校入試の当日の試験の試験までです。

もちろん、試験が終わってからも考え続けることは自由ですが、それは入試を突破するという目的には役に立ちません。

これはコンクールや試合にも似ています。

コンクールの練習は最大、コンクールの日までが練習できる時間です。
(それ以後でも練習は可能ですが、ここで「コンクール以後でも練習できる」と言う人は、反論のための反論を言っているか、よほど考える力のない人でしょう)

「コンクールに勝つことだけが人生じゃない」なんて言う意見もあるでしょうが、コンクールに出る以上、コンクールの舞台で悔いのない演奏をしたいと思うのが普通です。

受験勉強も同様、極端に言えば、受験日当日に最大の力を発揮できれば、以後は忘れてもいい(できなくてもいい)という考えもあるでしょう。

■受験勉強では考える時間が有限ということを認識し、対策を考える

これは大前提です。

受験勉強においては、この前提をいかなる場合も崩さないようにしなければなりません。

だから、

1.ある程度考えてもできない問題は後回しにする
2.できる問題から取り組む

ということになるわけです。

そして、対策として

(1)2は絶対に取りこぼしのないようにする。
(2)1の中の問題を「できる問題化」する

という順序になります。

学校で一応、習ったら、習ったことをノートにまとめるではなく、練習問題をやるということです。

これは、時間のムダをなくすためです。時間が限られているということでもあります。

そして、自分にとっては目をつぶっていてもできる問題は除外するという作業をします。

別の言い方をすれば、こういう問題に対して2回チャレンジしないということです。
これもムダな時間を省くためです。

できるはずと思っていたが間違えた問題。手も足も出ない問題の2つが受験勉強のターゲットになります。

ここで、手も足も出ない問題に時間をかけ過ぎないことも大切です。時間のムダを省くためです。

手も足も出ない問題に時間をかけるより、手の届く問題を落とさないようにすることの方が大切です。

手も足も出ない問題が気になるなら、手の届く問題を解決してからするということです。

受験勉強において、手も足も出ない問題にぶつかった時、それに何時間もかける、何日も費やすのは愚かなことです。
そうして、解決できるはずの問題がほったらかしになるのは最悪です。

誤解のないように断っておきたいのは、私は、考え続けることがムダだと言っているわけではありません。
受験対策として、そういうことをするなと言っているわけです。

むしろ、ある問題にぶつかった時、それがどうしても気になって考え続けるという人は、非常に大切な人と思っています

これは、しばしば取り上げる「リーマン予想」に取り組んでいる学者のような人です。

受験勉強とそれを離れた一般生活における問題とは、取り組み方が違います。

だから、受験に強い人だけが頭のよい人と錯覚しないことが大切と言いたいわけです。

以上、概略ではありますが、(1)から(5)までの「考えに行き詰った時、どうしますか?」の一応の区切りとします。





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posted by edlwiss at 00:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

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