2013年09月30日

安倍さん消費税上げるなら墾田永年私財法を

syouennnosekai.jpg今の政治は、まるで荘園制度の崩壊を見ているようでもあります。

本来、税金は国民から国に収められ、その税金は国民に還元されるのが本筋です。
しかし、税金の収納経路及び流れ道が不透明だと、税金が横道に流れて行ってもわかりません。

朝廷まで届くはずの税が、途中で国司(官僚)によってピンハネされると、税金は足りなくなります。
そこで、税金が増やされることになります。

この悪循環が続きますと、国民は耐えられなくなり、税金を収められなくなります。
そこで、税の増収をはかるためにうった手が墾田永年私財法であったと思います。

しかし、今、消費税を上げて、その分の収入を増やす決め手が国民にはありません。

そこで、中世に習って墾田永年私財法を発令するのはいかがでしょう?

もっとも、中世のように役人(官僚)のピンハネがなくならない限り、この方法も一時しのぎになるでしょうが。

とりあえず、歴史に習うということで。

国有地を自力で開墾した者は、私有地にしてよいと言うことにすれば、国民は消費税分を稼ぐことができるかも知れません。

政治討論を聞いていましたが、確か、かつては消費税アップの理由として「税と福祉の一体改革」と聞いたような気がします。
先日の日曜討論を聞いていたら、消費税を上げる理由が9項目ありましたがその中に「福祉」の名目は存在しませんでした。

結局、税金を上げる理由というのは、国民を一時的に騙すための方便なのでしょうか?

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posted by edlwiss at 19:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治

2013年09月28日

カレーかうどんか?

kannkakutougou.jpgカレーの好きな日本人、うどんの好きな日本人。
だったら「カレーうどん」はという発想でカレーうどんもできたのだろう。
簡単なことのようだが、こういう知恵が出てくるというのが、人間のすばらしいところだと思う。

コンピュータでは難しいところである。
コンピュータで難しいというのは、プログラミングが難しいということであって、コンピュータという人格があるわけではない。
何か二種類のものを組み合わせるというのは、簡単に思う人もいるかもしれないが、問題は二つの組み合わせの評価である。

料理番組では、しばしば「そんなもの食べられるの?」というものが登場し「あ、これいけますね」と、新発見があったりする。
想像力と創造力に経験、知恵、感覚(感性)が一体となって、新しい料理のメニューができる。

一度できてしまえば、それを真似するだけだから特別な能力は必要ない。
だから、新メニューは手順書を作れば、新人のアルバイトでも作ることができる。
かくして、専門の調理人を雇う必要がない。
街にあるいくつかのレストランは、こうして成り立っているのだろう。

教育に必要なのは、手順通り忠実に仕事をやってくれる人間を育てることも大切だが、何よりも知恵や感性、創造力を育てることはもっと大切なはずだ。
と言うのは「手順通り忠実に仕事をやってくれる」というのはロボットでできる(できるようになる)からである。
もしかしたら、将来、牛丼店の店員はロボットになるかも知れない。

「ロボットは機械だから人間味がない」という人がいるかもしれないが「機械だから人間味がない」は事実としても「人間味のない機械では人の心の部分に訴えない」という結論になるとは限らない。
現に、病院では特に何か具体的な仕事をしないロボットが、患者の心を動かしている(癒しになっている)という事実もある。

身じかなところでは、私の家の喋る掃除ロボットに来客は興味を示す。
「へえ、喋るんですね」と顔つきが変わり、場の空気が和らぐ。

ここまで考えてくると人の持つ創造力や感性、知恵は、もちろん大切だが「人の心はどうなっているんだろう」という解明も大切と気づく。

カレーとうどんを合わせて「カレーうどん」を作るという思考に象徴されるように、複数のものを統合する人の能力は大切なのだが、この力が近年衰えてきているようで不安を感じる。

表現方法の一つである起承転結も「起」「承」「転」「結」を統合して頭の中で消化吸収する力を必要とする。

交響曲は四楽章構成がスタンダードな形式として、歴史的に確立した。
作家が小説を書いて、自分の気持ちを人々に伝えるように、作曲家は作曲で自分の言いたいことを伝えようとする。

交響曲が四楽章として市民権を得たのは、それぞれの楽章をバラバラに認識するのではなく、人間の統合する能力に訴えかけて主張がより効果的に人の心に響くことを知ったからである。

作文も、書き方に困ったら起承転結の構成を意識して書くと、ダラダラとメリハリのない文章を書くより、人の心に訴えることができるだろう。

しかし、いくつかのものを統合して考えられない人には効果がない。


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posted by edlwiss at 16:32 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年09月26日

潜伏するウィルス

security.jpgWindows7を使っていてどうも変だと感じた。
ウィルスソフトがウィルスを捕獲したのだが、出現に何か規則性があるように感じたのだ。
たとえば「13日の金曜日」のように、ある特定の日に現れるとか、一定時間後に現れるとかである。

調べてみると、案の定、不審なファイルがあった。
削除を試みたが、Windowsが起動している元では削除できない。
ファイルの正体が、Windowsの起動とともに常駐するプログラムになっているからだ。

プログラムが常駐するとは、常にプログラムが動いているということで、動いているプログラムは終了ボタンでも作っていない限り停止できない。
別のOSで起動して削除の手続きをするしかない。

そこで、LINUXを使って削除した。

その結果、起動も早くなったし動きもよくなった。

■目立った害がないからと言って、ウィルスが潜んでいないとは言えない

PCの速度が多少落ちた程度ならいいが、潜んでいるウィルスが情報を盗み出すなど、目に見えない形で動いていたら、とんでもない事態にもなりかねない。

ウィルスを気にするあまり、ウィルス検査ばかりやっていたのでは仕事が停滞する。

それで、私は主要な仕事をLINUXに移し、LINUXで仕事をする比重が多くなっている。

LINUXについてはしばしば書いているが、改めてよさを箇条書きにしてみる。

(1)低スペックのPCでも快適に動く
・・・・私の使っているPCは、Pentium DualCore にRAM 4G、Windows7にCoreI7、RAM 4Gより高速である。
(2)安定している
・・・・トラブルや不安が非常に少ない。
(3)ウィルスに強い
・・・・LINUXをターゲットにしたウイルスは少ない。あってもセキュリティがしっかりしている。
(4)デフラグの必要がない
・・・・バージョンアップの心配をしなくてよい。バージョンアップも無償。

近年、LINUXで動くソフトも充実してきて、ビジネスでの不自由は感じない。

欠点としては、ワークステーションとしては、Windowsのように何でもかんでもおまかせで、ユーザーは使うだけとはいかない。
自分が気に入るように仕立てて行かなければならないことだろう。

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posted by edlwiss at 19:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2013年09月26日

ドメインのすすすめ

たとえば、http://www.googole.co.jpの場合、google.co.jpをドメインという。
なぜドメインなるものが存在するかについては、意味のわからないという人のために、簡単に説明してみます。

電話には1台ごとに番号が振られている。
すべての電話機を区別するためだ。
だから、同じ電話番号は存在しない。

インターネットも、つながれているパソコンをすべて区別するために、番号を振る必要がある。
それでIPv4という32bitの数字で区別する規格が設けられた。

32bitは2の32乗で、約42億である。
つまり、42億ぐらいの数字なら世界中のコンピュータに番号を振ることができると考えられたわけである。
IPアドレスの具体例を記述してみると、123.456.234.871という具合である。
3桁ずつ4つの区分で記されているが、各区分の数字は1バイト(8bit)なので、各0〜255の間の数字である。

しかし、電話番号程度の桁数の数字なら、人は記憶できるだろうが、123.456.234.871のように桁数の多い数字を覚えるのは苦痛だろうということで、DNSという規格が考え出された。

DNSとはDomein Name Systemの略で、IPアドレスに名前をつけてそれを番号の代わりにしようという考えである。
たとえば、yahooのIPアドレスは203.216.231.189であるが、これにyahoo.co.jpという名前をつけて「yahoo.co.jp」=「203.216.231.189」ということにしたわけである。

これで、203.216.231.189を覚えなくても、yahoo.co.jpを覚えればいいことになるが、「yahoo.co.jp」=「203.216.231.189」と照合する必要が出てきた。
そのためにインターネット上にいくつかのDNSサーバーという、IPアドレスとドメイン名を照合するコンピュータを設置したのである。

私たちが、インターネットエクスプローラーなどで、http://www.yahoo.co.jpと入力するとそれは直ちにDNSサーバーに連絡され「yahoo.co.jp」=「203.216.231.189」と照合されて「203.216.231.189」というIPアドレスを使ってyahooのホームページが開かれる。

以上がドメインとDNSの説明である。

■ドメインを取得しよう

プロバイダーとインターネット契約をすると、普通はDHCPという方式で、プロバイダーのサーバーが空いているIPアドレスを自動的に割り当てる。
だから、DHCPによる場合は、各パソコンに割り当てられているIPアドレスは不変ではない
これは、IPアドレスによって、個人のパソコンを、必ずしも特定することはできないことを意味する。

しかし、これは本日の主題「ドメインを取得しよう」には関係ない。

では個人がドメインを取得する意味は何だろう?

このブログを読んでくださっている方は、自分のメールをいかなる方法で取得されているのでしょうか?

yahooやgoogleのメールですか?
それとも、プロバイダーから提供のメールですか?

もし、プロバイダー提供のメールだったら、何らかの理由があってプロバイダーを変更すると、あなたのメールアドレスも変わってしまいます。

例えばドメインがabc.ne.jpというプロバイダーからdef.ne.jpというプロバイダーに変更した場合、それまで使っていたtamako@abc.ne.jpというメールは使えなくなってしまいます。

つまりドメインが変更になることで、メールも使えなくなるのです。

しかし、ドメインが自分の所有のものならこういうことはありません。

だから、私は自分のドメインを所有することを勧めています。

■ドメインはどうして取得するのか?

ドメインは一部の例外を除いて、個人でも簡単に取得できます。
これは権利とも言えます。
ドメイン名は早い者勝ちですから、もし自分がhanako.comというドメインが欲しいと思っても、すでに先約があれば取得できません。
好きな名前をつけていいのですが、すでに先約がないのが条件です。
取得できたドメインはあなただけの、世界で一つだけしかないドメインです。

具体的な取得に関してわかりやすいのは、ムームードメインでしょう。

ドメインにかかる経費は取得手数料を除けば、管理料として、年間1000円以下がほとんどです。

ただし、ドメインを取得しただけではメールは使えません
サーバーが必要になります。
そこで、サーバーも借りることになります(レンタルサーバー)。

ムームードメインで取得したところから、系列のレンタルサーバーロリポップを契約すると簡単で手数料が安くなります。
あとの経費は月額263円です。

サーバーを借りたことのメリットは、自分専用のホームページやブログが持てることです。
無料のブログもいいですが、無料ということだけあって突然ブログが削除もしくは消失ということがなきにしもあらずですが、お金を出して契約したサーバーではまずありえません。

あなたが、もしtamako.comというドメインが取得できた場合、あなたのメールアドレスは○○@tamako.comとなり、○○の部分はあなたの好きな名前にできます。
しかも作れるメールアドレスは無制限(一部数を制限している業者もありますが、理論的には無制限です)であり、プロバイダー変更などに影響されることはありません。

以上、本日は「いまさら聞けない」に近い情報を掲載しました。






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posted by edlwiss at 14:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報処理(IT)

2013年09月26日

就職は難しいのか?

bokeyasui.jpg景気が少しはよくなってきたのか、業種によっては以前ほど人が集まらなくなったというところもある。
それでも国全体としては、まだ求人は少ないようだ。

私は仕事がら、いくつかの企業との関係を持っている。
私の仕事の一つはパソコン関係で、この連絡も多い。

時代に乗れないではメールのことを書いたが、企業との連絡手段は

(1)電話
(2)FAX
(3)メール
(4)手紙

が主なもので、それぞれ使い分けがされている。
だから、上記の4つのいずれかにも対応できなければいけない。

完全にリタイアして、悠々自適な生活をしている人は自分の主義を貫いていけばよいが、何らかの「現役生活」をしている人は世の中の流れに従っていかなければならない。

先日、コンビニ経営者のもとを訪れた。

この方からは時々携帯へメールがくる。
もとろん返信は、携帯のメールで返す。

この方がメールを使う理由は趣味ではない。
仕事の合い間をぬって連絡をするのに、メールが都合がよいからだ。
接客中に電話はしにくい。特に話し声を聞かれたくない場合はそうだ。

かつて、携帯電話のメールは迷惑メールの関係で不自由なところもあった(頻繁にアドレスを変えるので)が、最近は相手の電話番号さえわかっていればメールができるようになった。
(この影響のせいか、携帯のメールを使う人が多くなったような気がする)

コミュニケーションは、相手の都合に合わせてあげることも必要だ。

通信手段は上記4つの特徴を生かして使い分けることが必要。

企業からの大切な連絡はFAXが来る。
さらに大切な連絡は封書で来る。
宅急便が使われる場合もある。

FAXが使われる場合は、掲示して欲しい場合や出欠などの返事が欲しい場合が多い。
出欠の返事なら電話でもいいだろうと思う人がいるかもしれないが、問い合わせる側では記録を残したい場合もあるし、場所や日程を伝えたいということもある。

ところで、本題の「就職は難しいのか?」だが、コンビニに行ってわかったことだが、就職難の一つは必要な人がいないと言うことだ。
これはコンビニだけの話ではない。

コンビニから見えてくる就職事情ということだ。

まずコンビニではレジが使えなくてはいけない。
レジなんか簡単だと思っている人がいるかも知れないが、レジは仕事の合理化によって進化している。

その進化に柔軟に対応できる能力が必要なのだ。

レジでおつりを計算することは簡単である。
しかし、進化したレジには多彩な機能がついている。
その多彩な機能を説明される時、直面する仕事はシンプルでも多彩さということが精神的プレッシャーとなっていて、かえって簡単なことができないという面がある。
大げさに言えば、飛行機を操縦したことのない人が急に操縦席に座らされたようなものかも知れない。

コンビニの店主に聞けば、仕事さえできれば年齢は関係ないという。
それはコンビニだけの話かと言うと、社会の傾向はそういう方向に行っていると感じる。

問題はレジが覚えられない人。間違い操作の多い人だ。
機械は「人は間違いをする」との前提で作られているので、間違っても回復処置ができればいいのだが・・・。

syuusyokudokuhon.jpg年は多くてもいい。反対に若い高校生でもいい。
しかし、高校生の難点は責任感
高校生だろうが、それがアルバイトであっても、社会的責任感を持って仕事をしてくれないと困るのである。

最近のコンビには、公的な集金も扱っている。銀行のATMもある。
コンビはその便利さの故、高度な処理、責任の重い仕事が増える傾向にある。

身近なコンビニから、社会の進化が垣間見えてくる。

自分が完全リタイアで、仙人のような生活をするのならいいだろうが、少しでも社会と関わりを持つなら、頑固はまずいだろう。

頑固はボケを加速するかもしれない。

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posted by edlwiss at 09:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会時評

2013年09月25日

時代に乗れない

ganriki.jpg「私はメールを使わない」と断言する人がいる。

理由を聞くと「人に何かを伝えるには、きちんと対面して行わないといけない」という答えが返ってきた。

この答えに納得できるところもある。
コミュニケーションは、実際に人と人が対面することが大切だからである。

それでは、実際に人が対面しないメールは価値がないと言えるか?

そうも言えない。

例えば、列車の中で「予定通り、○時○分、駅に着くよ」とメールをすれば待っている人は安心するだろう。
このようにメールは人と人とのコミュニケーションを充実するための保管に使える。

確かに、実際に対面することは大切だが、緊急事態に、何が何でも対面が大切だとは言っていられないだろう。
「助けてください」と言うときにはメールが役に立つ。
実際、ツイッターは発信したことが、急速に多数の人に伝わるというメリットを生かし、遭難時の救助に役立った。

facebookも急速にユーザーを増やしたが、知人に進めたら渋っていた。
しかし、彼の仕事を考えると有用と言うか、必須と思ったので、お宅に訪問した時にお節介を承知で入会してもらった。

そうしたら、幾日もたたないうちに大勢の友だちを作って「今、facebookで忙しい」と言うほどになった。

■食わず嫌い

食わず嫌いという言葉があるが、試したこともないのに、自分で否定的な言葉を探し、受け付けないと言う態度は「どう生きようと自分の人生だ」と頑張る前に、人に迷惑をかけているということもある。

数十人のメンバーの中で、みんなが密に連絡をとるために、メールを補助手段として使おうとしているのに、自分ただ一人がメールを使わないというのは、みんなに迷惑をかけているということがわからないのだろう(各企業の代表の担当者の中に一人だけいた。それで、みながイベント開催打ち合わせに不自由した)。

本日の記事は、メールから始まったが、メール以外にも、共通の約束事になっているにも関わらず、自分だけ使わないということで、他人に迷惑をかけるということはある。

頑固に手書きの納品書や請求書を使っているのもそうだ。

文明の発達とともに、新しいものが出てくるというのは、いわゆる時代の流れと言うもので、何でも新しいものがいいとは言わないが、仕事なのに、頑固に自分の生き方だけを守って人に迷惑をかける人になりたくないものである。

「時代に乗れない」とはそういう意味で、物の扱いに通ずるところもある。

■本は3冊買え

「本は3冊買え」とは、ある人が教えてくれたことである。

コンピュータの勉強を始めたころは、毎日のように本を買い、置く場所に困った。
それは、一冊でこと足りるということがないからだ。
本によっては、それこそ1頁だけ必要なために買う。
(それで、立ち読みをしたとき、あるページだけ破られている場合があるのだろう)

本が増えると、参照するとき何冊も引っ張り出してこなければならない。
それで、必要なところだけ切り取れというのだ。
切り取ったものをノートに貼って整理せよという。
本を切り取ると、切り取った裏側の頁が必要な時がある。それで、2冊必要になる。
つまり、2冊の本は犠牲になるのである。
しかし、まともな本も置いておくべきということで、3冊必要ということになる。

本を貴重としていた時代の感覚の人からは、とんでもないこととお叱りを受けるかも知れないが、これも新しい勉強法と言えるのかも知れない。
目的や成果を考えると、頑固に「本は大切だ」と言っていると、遅れをとってしまうかも知れない。

もしかしたら、参考書を3冊買って東大に入ろうという受験方法が成り立つかも知れない。

時代の流れを意識しすぎて暴走しないように、気をつけなければいけないが、戦時中のように戦車を竹槍で迎え撃つということを、まじめに考えている頭にはなりたくないものだ。
自分の交友関係なら自由だろうが、頑固でいると、会社関係では担当をはずされかねない。

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posted by edlwiss at 22:40 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年09月24日

自信は極限値である

limit.jpg教師は指揮者に似ているということで、続編を述べてみたいと思う。

指揮者は確固たる自信をもって、指揮棒を振り下ろすことが大切である。

先生について指揮の勉強をしているとき、指揮台に立って指揮をしようとした時「ちょっと待て」と言われた。
何かと思ったら「指揮台に立った時、始めにスコア(楽譜)を見るな」と言われたのだ。

そのわけは「指揮者が指揮台に立った時、すぐスコアを見ると演奏者から自信のなさそうに見える」と言うのだ。
確かに、今から演奏する曲となるとつい不安から楽譜を見てしまいたくなる。特に、あまり勉強していない曲についてはそう言える。

今から演奏をするという時、指揮者が演奏者に不安を感じささせるのは禁物。
指揮者が自信なさそうに見えるのは、演奏者に不安を与えることになる。

そうは言っても、もとから自信がないものを突然あるようにする秘訣があるわけではない。
それでも、指揮者は不安そうな姿を見せてはいけないと先生には言われたのだ。
そう、リーダーは不安そうであってはならないのだ。

これは、家計が火の車であっても、子どもには不安を感じさせてはいけないという親の姿勢にも通ずるところがある。

しかし、数学の微分法で極限値を求める時のように、自信というのは極限値である。
なぜなら、自信というのは未来と関わりがあるからだ。
数式の中に「未来」という変数があるようなものだ。
未来という変数を確定できる人間などいない。

それは、指揮者も教師も相手があっての仕事であり、結果は相手に依存するところが大である。
指揮棒を振り下ろしたとしても、音を出すのは奏者という他人である。
笛吹けども踊らずという言葉があるが、自分で演奏するならいざ知らず、自分が棒を振ったからといって相手が必ず音を出してくれるという保証はない。
演奏も授業も「これから」という未来のことである。
未来のことに自信が持てるのは超能力のある預言者か、そうでなければ頭のおかしい者が「神のお告げだ」と言っているようなものだろう。

真の自信とは実力に比例して、高まるのだろうが、実力がないうちはその分、外見で繕わなければならないとも言える。
しかし、ないものをそんなにカモフラージュできるものでもない。
そういうことは、ある程度見抜かれると言えるが、それでもリーダーにはそうあって欲しいという期待がっかっている。
そういう状況の中でも、リーダーとして絶対に守らなければならないものがある。

それは決断である。

決断できないリーダーは我慢できないリーダーであるし、最も不信感をもたれるリーダーでもある。
右か左か、前進か後退か停止か指示できないリーダーは最悪だろう。

指揮をする時、絶対に迷ってはいけないと言われたことに通じる。

こう考えてくると、新人の教師の心得を整理すると次のようになる。

(1)自信なさそうに見える態度をとらない
(2)決断力を持って、迷わず明確な指示を出す
(3)真の自信がみなぎるように、実力をつけるよう精進する

NHK交響楽団の名誉指揮者、桂冠名誉指揮者だった故ヴォルフガング・サヴァリッシュ氏は40の時、NHK交響楽団の指揮をしたのが最初だったが、40年後の80歳時の指揮では、楽員の演奏に対する集中度が高く、一糸乱れない素晴らしい演奏だった。
こういう演奏はめったに聴けるものではないと感じた。

40歳時の演奏も素晴らしいものだったが、その後の40年間という時間は、指揮者と楽員の信頼関係、楽員の指揮者に対する尊敬、それに加え指揮者の人としての人格の高まりが渾然一体となって素晴らしい演奏を実現させたと言える。
人は年を取り死を迎えるが、死の直前が人格の頂点であるという思いを、こういう指揮者によって知らされる。

人気のカルロス・クライバーもカラヤンも指揮を見るとき、確固たる決断力に魅せられる。
そういう確信に満ちた指揮者の棒によって、演奏者は自分の能力が十分発揮されることに喜びを感じ、それが聴衆の心を惹きつけるということは、演奏会場に行けばよくわかる。

私が厳しいと思うのは、すごく勉強したからと言って、必ずしも指揮者になれるものではないと同様、教師も勉強すればなれるとは限らないものであるということだ。

反面、これは経験年数の多い教師が指導力が高いとも言えないことになる。
だから、新米教師と言えども始めから教え方のうまい教師もいる。

ただ、経験は慣れをもたらす。
それで、経験の多さを教師としてのレベルの高さと、勘違いしないようにしなければならないと思う。
初心忘るべからずである。



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2013年09月24日

読解力の問題が引き起こすすれ違い

wakattatumori.jpg私は音楽をよりよく再生しようと、中学生時代からアンプを作ったりしていました。
作ることは楽しいことで、私も工作は好きです。

昔はアマチュアの作るものが、メーカー製品を上回っている時期がありました。
しかし、ある時期からはメーカーが本腰を入れ始め、特にアンプの中心が半導体になってからは、アマチュアがメーカーを超えることは難しくなりました。
それで、私のシステムもメーカー製が多くなりました。

昔と違って、今日ではアクセサリーの話題が多くなりました。
例えばケーブルの違いによる音の変化です。

私が始めて、他の方たちのケーブル論争を読んだとき、ケーブルで音が変わるということに懐疑的でした。
それに、ケーブルは高価なので私には縁のないこととして、この話題は敬遠してきました。

ところが、ある縁で私の家にオーディオ関係の方がみえるようになり、メーカーの試供品であるケーブルを持ってきました。
それで、自宅の装置で試したところ、かなり音が変わるのに驚きました。
このことをある掲示板に投稿したところ、次のような意見が返ってきました。

私のオーディオ界に対する姿勢は、メーカーの宣伝文句に溢れる根拠のない妄言、主観のみによる判断などの蔓延を批判するものでした(今もそうです)。
ところが、オーディオの話題や議論をしている中に、あなたと同じく「ケーブルで音が変わる」という人が入って来て、その人は普通の議論ではなく「ブログ荒らし」を行い、私と議論していた方々を不快にさせました。
そのようないきさつがあって、オーディオに関するブログを閉じたのです。
オーディオ以外の話題のブログは開設しております。

客観的根拠のない話題は排除していましたから、例えあなたが私のブログへ来られても、コメントを削除するでしょう。

“天動説から地動説へ”との主宰者さんの立場に照らすと、前回のHDMIケーブルの話題にしても今回の話題にしても、あなたののコメントはまだ天動説ではないですか?
なぜ私が科学的根拠が必要だと言っているのかというと、私も主宰者さんとは分野こそ違えど、科学者だからです。
客観的裏付けや、再現性の無いデータを論文にしたり発表したりする事は、科学者としてやってはいけない事です。
他者の論文を審査する事もありますが、当然、その中のデータが信憑性あるものかどうかはじっくり読んで判断し、信頼性が不足していると判断した時は、論文の著者に追加実験を要求します。
これはどの科学論文誌でも行われている事です。

つまり、私の「ケーブルによる音の違いを感じたと」という意見が否定されたわけです。
その理由として「科学的根拠がない」からとしています。

■この意見の問題点

「この意見」とは、私の「ケーブルによる音の違いを感じた」という意見への、それを否定する意見のことです。


(1)私は「ケーブルによる音の違いを感じた」と言っています(それだけ)。
(2)これに対する反論は「ケーブルによる音の違いを否定する(認めない)」ということです。
(3)ケーブルによる音の違いを認めない理由は、科学的根拠がないということです。


この論争のおかしさを理解する人はどれくらいいるのでしょう。

私は、読解力がわかるよい見本の一つだと思っています。


解説してみることにします。


ケーブルによる音の違いを感じたと言うのは、私自身の(固有の)経験です。
だから、同じ場に他の人がいて聞いていたとしても、その人も私と同様に違いを感じるかどうかはわかりません。
もし、同じ場にいた人には聞こえなかったとしたら、ケーブルによる音の違いはないということになるのでしょうか?

ここでの問題は、まず、ケーブルによる音の違いを肯定するとか否定するということではありません。
もちろんそれは最終到達点として重要なことですが、その前段階で

「ケーブルによる音の違いを感じるという人がいる」

ということは事実だということです。

ケーブルによる音の違いがわからない人はそれを信じないかも知れません。
それはそれでよいのですが、科学者の態度としては「違いを感じるという人がいるという事実を無視してはいけない」のではないでしょうか?

科学者とは科学的根拠をもって話をしない人を信じない人たちのことを言うのでしょうか?

私の知識では、突然、頭の中にひらめいたことが先行し、あとからそれを説明しようとした大科学者を知っています。

理由はわからないが、自分の頭に浮かんだこと、他人が言い出したことを、科学的根拠がないと捨ててはいないと思います。


UFOを見たと言う人がいますが、自分が見ていないから存在しないと言うのは、いかにも考えが浅いと言えます。

たとえ、地球外生物がいたとしても、地球までやってくることは困難と、根拠を挙げて否定する人もいますが、それは傾聴に値します。

私も、導線のインピーダンスなど人間の聴覚の能力からしたら、ごく小さいものだからケーブルの違いによる音の違いなどわからないだろうと思っていました。
しかし、実際に聞いてみると、予想以上の違いに驚いたわけです。


次の問題点として、聞いた環境の違いがあります。
私は、私の家の装置で聞いています。
否定した人が、私の家で聞いたら、もしかしたら違いがわかるかも知れません。

音の違いがわかるかわからないかは、二つの要素があります。

(1)装置の違い
(2)耳の違い


ある人が聞こえるのに、別の人には聞こえないというのは、装置の違いか耳の違いと言えます。


公開授業の時、昔は教室にブラウン管のテレビが設置してありました。
そのテレビに電源が入っており、映像が映し出されていないとき、超高音が聞こえてくることがあり、私は不愉快な感じを受けましたが、他の人たちは平然としていたので聞こえていなかったのかも知れません。
おそらく、1万数千ヘルツぐらいだと思います。

【まとめ】

(1)私がケーブルによる音の違いを感じるのは事実。
(2)他の人が違いを感じるかどうかはわからない。だから、信じる信じないはその人次第。
(3)私はケーブルによる音の違いを科学的に論争しているのではない。まずは事実を大切にしている。
(4)科学者の中には、根拠が明らかではないひらめきが先行し、研究を開始する人もいる。


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2013年09月23日

なぜ子どもに古いと言われるのか?

no_yomigaeru.jpg人は年を取るので、いつか子どもに「古い」と言われるようになるのでしょうか?
たとえば、子どもから「お父さん古い」と言われるように。
私はみんながみんな、そうなるとは思いません。
それは、年取ってもそう感じさせない人がたくさんいるからです。

プロ野球は間もなくシーズンが終わろうとしています。
そのプロ野球の指揮をしている監督のみなさんは、年が多いです。
しかし、その監督を「古い」と、少年野球の子どもたちは言わないでしょう。
むしろ、野球の最先端を行っている人たちとして尊敬するのではないでしょうか。

■古いと言われるか言われないかは、生き方の問題

子どもから「古い」と言われるのは、年のことを言われているのではないと思います。
その人の生き方の問題だと思うのです。

「古い?それがどうした?」と言いたい人がいるかもしれませんが、私が「お父さん古い」と言われるような「古い」を問題にするのは、この古いは食べ物が賞味期限に達した古さとは違い、時代に合っていないという古さではないかと思うからです。

学校はよく印刷をするところですが、その印刷の手段はガリ版からロウ原紙、リソグラフと変わってきた。
こういう時代の時「教師はガリ版印刷の腕を磨くべきです」という発言をしたら「この人の頭、何時代なの」と思われかねないのではないでしょうか?

私は、時々パソコンの部品を売っている店に行きますが、ある日、裁断機が展示してあるのを見て、不思議に思いました。
しかし、店内を回っているうちにその謎が解けました。

裁断機は本の綴じ代を裁断し、ページをバラバラにするものでした。
バラバラにしたページをスキャナにかけて、記事情報を取り込むわけです。
「なぜこんなことを?」と言う人は、それこそ「古い」と言われるかも知れません。

最近はタブレットが出回ってきたため、本をタブレットで読む人が増えてきました。
そのためのデータを作るために、本を裁断するわけです。

「大切な本を裁断機にかけるだと!」

と言う人がいるかも知れません。
そういう気持ちがわからないわけでもないですが、そう言われたら、虚しい気分になります。

時間は止まってくれません。
だから、時に合った生活をしていかなければならないこともあります。

計算をするのにそろばんを使うのも自由です。
しかし、あまりにも時の流れから頭が遅れてしまって、頭の中がガリ版時代になっていて、それに固執していると、その人の頭はある時から時間が止まっているように感じてしまうことがあります。
そんな時、虚しい気持ちも込めて「古い」と言いたくなるのではないでしょうか?

私が、ある校長にそういう「古い」を感じた記憶があります。
それは、まだパソコンが珍しいころ、パソコンでワープロを使っていたら、校長が横目で見て「今の若い人は機械を使って、仕事を怠けようとする」と言われたことです。

■時間は誰にでも平等

世の中は進んでいるのに、ある時から頭の中の時計が止まっていたら、浦島太郎のようになってしまいます。

学生時代は個人の頭の中の時間に差はないでしょうが、問題は自分の生き方を自由に選べる卒業後からではないでしょうか?

どう生きるかは個人の自由ですが、困るのは時間の止まった人が要所に座っている場合です。
最近亡くなった任天堂の社長は50年間社長の椅子だったということですが、その50年は時代の進歩を先取りするような頭だったのではないかと想像します。


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2013年09月22日

校長名公表にどんな意味が?

kokuhuron.jpg学力テストの成績に関連して、校長名を公表することにどんな意味があるのだろうか?
学力テストの平均点の高い学校が、いい学校だと言いたいのだろうか?
学力テストの平均点の高い学校が、教育成果の上がっている学校だと言いたいのだろうか?

いろいろなテストで成績優秀者発表と言うのがあるが、同じ発想なのだろうか?
だとしたら、子どもじみた発想のように私は感じてしまう。

もしも学校教育の成果が学力テストによって集約される、あるいは評価されるとするなら、よほど頭の悪い人でなければ「学力テストの点数を高めることが、学校教育を実現するための最も効率的な方法だ」と認識することになるだろう。

そして、それが校長の評価となるなら、学力テストの点数を高めることのみに躍起になる校長が出てくるのかも知れない。
点数に結びつかない活動は否定の方向にいくかもしれない。
そうなると、感性や感覚の能力には目が向けられなくなるのかも知れない。
学校の学習塾化が進むかも知れない。

日本が戦後、驚異的な経済復興を示した陰にはエコノミックアニマルと海外から揶揄された経緯がある。
その犠牲として、心を失ったと感じる人の発言は多いと思う。

経済大国となっても、豊かさを感じられない人、幸福を実感できない人が多いというのも問題になっている。
折しも、今日の日曜討論では文部科学大臣は「幸福の実感できる国に」との発言をしていた。

学力テストの平均点が高くなると、誰が幸福を感じるのだろう?

私は知事に聞いてみたい。

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posted by edlwiss at 21:49 | Comment(7) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年09月22日

大人が自信を持って導く

orchestra.jpg
私は、教師は指揮者に似ていると折に触れて言っています。
こう言うと反論したくなる人がいるかも知れません。

この記事を読んでいるあなたが、もし反論したくなる人であったら、私はあなたがどういう反論をしたいのか興味があります。

反論は「教師は指揮者に似ていないと思う」あるいは「教師は指揮者ではない」というだけでは反論にはなりません。
そういう言い方は、数学で「三角形ABCと三角形DEFが合同であることを証明せよ」という問題があったとき「三角形ABCと三角形DEFは合同ではない」と答えているようなものです。
そういう解答を、数学の先生が正答にするはずがありません。
教師と指揮者は似ていないと反論するからには、当然、指揮者の仕事とは何かを知っていなければなりません。
念のために確認しておきますが、指揮者の仕事とは大勢の前でタクトを振ることだけではありません。
タクトを振ることだけなら、ほとんど誰にでもできるでしょう。

さて、私が、教師は指揮者に似ていると言うからには、当然、いくつか理由があります。
今回のブログタイトル「大人が自信を持って導く」も指揮者がやることと共通していると思ったことからつけたものです。

日本は平和ですが、不安な要素は進行しています。
家庭においては、父親の存在が薄くなった家庭が増えてきたこと。
学校においては、先生らしくない先生を見かけるようになってきたこと。
校長はどうでしょう。あなたの学校の校長はそれでいいですか?
教育委員会はどうでしょう。指導に満足していますか?

間違えないで欲しいのは、父親、先生、校長、教育委員会がみなダメだと言っているのではありません。
全国を調べる手立てがないので、そんなことが言えるはずもありません。

ただ、事件の報道、事件といかないまでも、道徳上の問題、自分自身の観察や体験をもとに考えると変わってきたと感じることがあるわけです。

■リーダー不在の時代

リーダーが不足の時代と言った方がいいかも知れません。
リーダーがいないわけではありませんから。

まず、リーダー不在を感じるのは、家族がみんな下宿人になっていると言われる家庭です。
なぜ、父親がはっきりと指示をしないのかと思います。

父親は家庭における指揮者だと思います。
それは、指揮者が音楽をどう作りたいのか明確なものを持っていないと、オーケストラは演奏はしますがある規則をはみ出さない範囲で、メンバーは勝手な演奏をします。

あまり指示を出さない指揮者もいますが、それは表面的なことで、内面にはっきりした解釈を持って入れば、それはメンバーに伝わります。
指揮者が自信を持っていれば、安心感がメンバーに伝わりますが、不安を持っていると不安がメンバーに伝わります。

私も指揮をすることがありますが、指揮者の自信は本番のステージでよく表れます。
日頃の練習がいい加減でも、メンバーは不機嫌な思いをしながらも一応、時間だけは経過します。
しかし、本番では指揮者とメンバーの信頼関係が出るので、演奏で音が出るか出ないかの違いがはっきりと出ます。

つまり、リーダーとは何らかのリーダーとしての名前をもらうのではなく、自身の明確な解釈、それに対する自信を持つことが一番大切なことだと思うのです。

指揮者にはいろいろなタイプがあり、独裁者と呼ばれる人もいれば、民主的な感じで音楽を作っていく人もいます。
どちらがいい、悪いということはなく、名指揮者のもとではどちらも名演奏があります。
ただ共通しているのは、音楽上の約束ごと、例えばリズム、メロディー、ハーモニーを逸脱ことはないことです。
加えて、どちらのタイプの指揮者も人望があり、メンバーから尊敬されていることです。

家族の指揮者たる父親は、明確な自分の方針を持つべきであり、家族が生き方に迷うときはっきりと指示を出すべきです。
人はみな違うので、父親の決まった像というものはありません。もちろん、最低限の共通した役割はあります。

子どもが「ゲーム機買って」と言ったら「ウチは金がないから買えん」と自信を持って言うべきです。
「みんな持っているよ」の言葉に負けないことです。

子どもが不満を言ったとしても、そういう自信のある父親が精神的な柱になると思うのです。

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2013年09月21日

プリアンプ、メインアンプ、プリメインアンプ??

個人が意見を自由に発表するのはいいことだが、最近、気になるのは「主張の根拠」である。

以前「導線は細い方が電流の流れが速くなる」と言った人がいると紹介したが、これはオーディオの世界の話である。
「オーディオ」という言葉を出すと「オーディオマニア」という言葉を連想し、私はこの言葉が好きではない。
それは私の経験では「導線の話」のように、何か神がかりのような話をする人に懲りているからである。
「羹に懲りて膾を吹く」に似たところがあるようにも思う。
いずれにせよ、物理の世界に属するものなら数学や物理の基礎を踏まえて論じてもらいたいと思う。

特に、世の中を混乱に陥れそうな懸念は、テレビでコメンテーターに呼ばれそうな人、大学の先生など一定の地位を得ている人の「とんでも」発言である。
そういう地位に立つと「オレの発言は何でも正しい」と錯覚するようになるのだろうか?

本日は具体例として、アンプの話をとりあげる。
日頃、アンプには関心のない人もいるかも知れない。
それはそれでいいのだが、今日のように電器製品が普及した世界ではたくさんアンプが存在する。
アンプとは「音声や電波のような電気的に変化する信号を大きな信号に増幅する装置」と説明しているものがある。
しかし、信号を大きくする(増幅する)とは限らない。
元の信号と増幅された信号の大きさを比較し、何倍になったかを増幅率で表すが、元の信号より大きくなれば増幅率は1より大きくなる。
だが、回路によっては増幅率は1より小さい場合もある。
それでは、増幅の意味があるのかと言う人がいるかもしれないが、増幅の目的は信号を大きくすることだけではない。インピーダンスを下げる目的でも使われる。
ただ、ここではオーディオ用のアンプに絞って話をする。

ラジオ、テレビをはじめとし、電気的に音声を扱っているものの中にはオーディオ用のアンプが存在する。
「オーディオ」というという言葉が使われるのは「人間の耳で聞こえる範囲」という意味がある。周波数で言えば、20Hz〜20KHzの範囲である。

次に、私が使っている音楽観賞用の装置を写真で示す。

PreMainAmp.JPG


こういう写真を出すと、心の狭い人の中には自慢しているととる人がまれにいる。
こういう感情も、人間が小粒になってきているのかなと感じ、嫌である。
私はお金がないので、ラックは日曜工作で作った。下段の2台のアンプはメインアンプまたはパワーアンプとも言い、故障品をオークションで落札し、直したものである。
発売当時、新品で買えた人はお金持ちだろう。

上段の左はFMチューナーで、最近はほとんどお休み状態。その右はコントロールアンプで、別名プリアンプとも言う。
私の環境ではメインアンプが2台だが、メインアンプは1台でもいい。
と言うより、コントロールアンプ1台メインアンプ1台という構成の人の方が多いだろうと思う。

別の言い方をすれば、コントロールアンプだけ、メインアンプだけではスピーカーを鳴らすことはできない。
写真のコントロールアンプは約20Kg、メインアンプは約30Kg、合わせて50Kgのアンプでようやくスピーカーを鳴らすことができる。
私の環境ではメインアンプがもう1台加わるからアンプだけの総重量は約80gである。
しかし、これが重い方ではない。TAD(パイオニアの高級ブランド)のメインアンプは左右独立しているが、片側だけで90Kgもある。
問題は、なぜこんなにも大掛かりにしなければならないかということだ。

アンプにはこのように、コントロールアンプとメインアンプの2台を使わなくても、1台で済むものもある。
こういうアンプのことを、プリメインアンプとか、インテグレーテッドアンプなどと呼んでいる。

アンプは1台で済むものなら、その方がよい。
では、なぜそんなに台数を増やして大げさにするのかということだが、それは、いわゆる「音がいい」と言うことである。

ここで、私が問題にしたいのは「アンプはプリメインがよい」と言った人がいることである。

この人の意見を読んでいくうちに変だと感じ始めた。
それは、この人の意見が「アンプはプリアンプとメインアンプに分ける必要はない」という趣旨の意見だとわかったからである。

次の図を参照していただきたい。

premain.jpg


これは、スピーカーを鳴らすアンプの構成である。
増幅と言うのは、電圧増幅、電流増幅、電力増幅とある。
スピーカーを鳴らすには、電力増幅が必要である。

スピーカーを鳴らすというのは、スピーカーのコーン紙で空気を振動させるという運動エネルギーが必要だからである。
スピーカーは電気エネルギーを運動エネルギーに変える変換器と言える。
スピーカーを鳴らすには電力増幅が必要である。

増幅素子(真空管やトランジスタ)には電圧増幅用と電力増幅用があり、通常、電力増幅素子を働かせるためには電圧増幅素子のお世話にならなければならない。
つまり、アンプはその構成の上から電圧増幅部電力増幅部に分かれる。

そして、音質の向上を追究していくと部品点数が多くなるので、必然的に筐体を分けざるを得なくなってくるのである。
そこで、電圧増幅部と電力増幅部とを独立させ、筐体を別にするのである。

好みで別々にするのではない。
音質追究の必然の結果である。
一つの筐体で足りるのを、わざわざ分けているのではない。

しかし、最大の問題は、こういうアンプの構成を理解していないことではない。
理解しようとしないことである。

元、大学の先生だったということだが、一度言い出したことは訂正しないという態度が問題なのだ。

かくして、ものごとを自分の感覚だけでとらえ、理論や原理を考えず印象だけを主張しそれが「オレの法律」になってしまう。
奇妙なのは、それでいて自分の理論を主張すること。
コペルニクスやガリレオが地動説を主張したため、時の王の怒りをかったという話を思い出す。
いつの世も「先生」には教祖様のように、真実(事実)に目をつぶって擦り寄る人が、世渡りの上手い人なのか?

来客の中で、私の家の装置を見て「あ、これ古いやつですね」と言った人がいる。
古いと言えば古いだろうが、古いと感じた理由が「今は、みんな小さくなっている」というのが根拠だった。

家電店へ行けば、ミニコンポぐらいしか置いてないので、そう思ったらしい。
時々行く家電店で見た電気製品がすべてと見る感覚は、いかにも表面的にしかものごとを捉えない今日の思考の表れの象徴のようでもある。

StereoZentai.JPG


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posted by edlwiss at 08:38 | Comment(2) | TrackBack(0) | 豆知識

2013年09月18日

複雑から単純へ

それは、機械工学の講義の時でした。

「単純なものほど丈夫だ」

大学時代の恩師の言葉です。

学生たちは、キョトンとした態度で聴いていました。

その空気を感じ取ってか、恩師の言葉がありました。

「君たちはどんな時計を持っている?」
「カレンダー付きはダメだぞ」

当時は腕時計も機械式で、カレンダーがついているものは最先端で、そういう腕時計をしているものは、得意気にそれとなくちらつかせたような時代です。

そんな時の、この恩師の言葉にハイカラな腕時計をしている者は衝撃を受けたかも知れません。

恩師は続けて

「あの、花壇にある日時計な、あれ壊れるか?」

学生たち

「・・・・・」

確かに、台風が来ても壊れんだろうという感じでした。

以来、私は日時計を見ると、この恩師の言葉を思い出します。

■ハイブリッド

ハイブリッドの自動車が発売されてから、もう何年になるだろうか。
街ではよく見かけるようになった。

昨年、11年乗った車を買い換えたのだが、当初はハイブリッドを勧められた。
検討した結果「単純なものほど丈夫だ」の言葉が気になって、結局ガソリン車にした。
具体的には、トヨタのカローラに決定。

決まったとき、ディーラーは「一番間違いのない車です」と言った。
視点を変えれば、一番平凡な車かも知れない。

実際、乗ってみて、何の不満もない。
街を走って人目を引くということは、最もない車だろう。
かつて4000ccの車に乗っていたこともあったが、それと比較してはいけないだろうと思っていたが、何と、乗り心地、加速に何の不満もない。
1500ccなのに、どうしてこんなに加速がいいの?と思ったぐらいだ。

まあ、装備は至ってシンプルで、豪華という言葉からはほど遠いが、買い替えまでの11年間の間にはずいぶん進歩したという印象を持った。
時折、通る山道も、排気量は同じなのに軽々と走る。

車はハイブリッドではないが、自宅にはハイブリッドのアンプがある。
真空管とトランジスタのハイブリッドである。

これは、入力は真空管が有利で出力にはトランジスターが有利という、双方の利点を組み合わせたアンプだ。

ハイブリッド(hybrid)とは、2つ(またはそれ以上)の異質のものを組み合わせ一つの目的を果たすものを言うが、真空管とトランジスターのアンプのようなハイブリッドと、電気自動車とガソリン車のハイブリッドとは少し構成において意味が違うように思う。

アンプの場合は、真空管とトランジスタの双方で全体の仕事をするのだが、車の場合は電気自動車でもあり、ガソリン自動車でもあるということだ。
それで、ハイブリッド車はより複雑になっていると考えた。

■何でも単純がいいわけではない

機械については「単純なものほど丈夫だ」は通用するが、何でもこれが適用できるわけではない。

機械では、ある仕事をするには仕組みが簡単な方が丈夫と言える。
だから、プロトタイプと呼ばれる試作品を作ったら、次はよりシンプルにできないかを考える。
これは安価に作るという意味もある。

ガソリン車はガソリンの爆発を利用して車を走らせるためには、仕組みがずいぶん複雑である。
それは、冷却系統だけでもずいぶん大掛かりになっているからだ。
そこで、エンジンブロック(シリンダー)をセラミック化して、冷却系統を省略する案が浮上したが、セラミックの加工が難しいせいか、最近はこの話を聞かなくなった。
将来は、電気自動車になるかも知れないが、こうなれば自動車もずいぶん単純になる。

単純がよくないのは「思考」である。

よく考えられて(よく思考されて)、結果として結論が単純になったのはいい。
例えば、アインシュタインのE=mc^2のような式を導き出したこと。

だが、思考そのものが単純だと、思考の要素が欠落して、欠点の多い結論を出してしまう恐れがある。
最大の問題は、欠点のある結論に気づかないことだが人命に関わる場合は深刻だ。

例えば、今日よく話題になる原発のこと。
一度、フローチャートを作って考えをまとめてもらいたいものだ。

原発賛成の人は経済を問題にする。
仕事がなくなり、収入が減ると言う。
反対の人は危険だと言う。

考えのスタートは人命からだと思うが、経済の話をする人は人命の話をしない。
不思議なのは、司会が原発賛成の人に「事故が起こった場合はどうしますか?」と質問しない。
答えは「原発と心中します」しかないはずだ。
「収入が減るより原発と心中する方がいいです」と答えるなら一応筋が通る。

「原発事故で人が犠牲になるのはダメだから、安全を確認した上で稼働してもらいたい」と言う答えはどうだろう?

これは、一応筋が通るようで通らない話ではないか?
なぜなら「安全が確認できるのか?」という疑問が出るからだ。

このようにして、原発問題の討論は果てしなく無限ループに入った話が延々と続く。

今回は、原発論議をすることが本題の趣旨ではないから、これ以上は深入りしない。

■狭く固くなる頭

65歳以上が人口の4分の1に達したそうだ。
先日、運転免許の更新に行ったところ、講習テキストに高齢者になると自己中心的な考えが強くなり、それが高齢者に事故の多い原因の一つと書いてあった。
年寄りは「今の若い者は・・・」と言うが、自己中心は若い人には限らないようだ。

高齢者がみなそうだと言うのではなく、そういう傾向の人が出てくると言うことだろう。
年を取っていても「若い」と感じる人、いかにも「年より臭い」と感じる人、様々である。

私がある銀行の駐車場に車を止めて、用を済ませ帰ろうと運転席に座ったところ、左側に駐車していた車の年寄りが怒って「こんなに狭くちゃ車に乗れん」と言っていた。
私が駐車した時には左に車はなかった。
つまり、その年寄りは私より後から入ってきて、私の車の左に止めたのである。

車の間が狭くて乗りにくいのは事実だろうが、その原因を作ったのは怒っている本人なのに、自分が駐車した時の記憶はすっかり飛んでしまっているのだろう。
この場面はいかにも「年寄り臭い」と私が感じたことである。
このような例に代表されるように「狭い」「固い」と感じる話をする頭にはなりたくないものだ。

言っていることには間違いはなくても、考える道は他にもある、あるいはもう少し幅を広げて考えたら、自分の言っていることだけが正しいのではないとなるはずであるのに、そこまで柔軟性がないのは残念なことである。

以上は一部の年寄りにみられる傾向だが、職業別にみると、損保の事故対応係の立場からは医者と学校の教師が不評である。

「オレが走っているのにそこに出てきた相手が悪い」と、道路はまるで自分の走る占有道路のような口をきくのは教師だと言う。

このような教師の態度と老化による、先ほどの「狭い」「固い」を併せ持ったらどんなことになるのだろう。

小澤征爾氏は御年76歳と思うが、指揮をしていない時お話をしても若々しい感じがする。
研究熱心で謙虚である。

指揮者もそうだが芸術家は頭が年を取らないように思う。
指揮者の76歳は歴史的にみても、名演奏を残す年齢である。
「音楽はこんなものかな」とわかってくるのがせいぜい70歳ぐらいという、クルト・レーデル氏の話を合わせると、小澤征爾氏はこれからが充実した活動期と言えるだろう。
健康さえ大丈夫なら、これから世界の小澤が期待できる。

私が親しくしているお婆さんは85歳ぐらいだが、合唱団に入っていてバレエ教室にも行っている。
彼女の言うには、若さを保つには、恋をすること、恋愛をすることですとの話であった。

超高齢化を言う世の中だが、何でもかんでも年齢で一律に区切ることを、しない方がいいのではないかと思う。

■単純と簡潔は違う

年とともに考えが単線になる単純思考ではなく、年寄りのよさは豊富な経験と知力がもたらす簡潔さだと思う。
「お爺さんに聞いてこい」と言われるのは、若者が迷っている時、自信を与えてくれる知恵をつけてもらえるからである。

機械は単純機構を志向し、人は複雑な思考回路を駆使し簡潔な結論を提言できるようになりたい。

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posted by edlwiss at 20:07 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年09月17日

ガラケーかスマホか

keitai2.jpg


携帯電話の会社はスマートフォンを売りたくてしょうがないようである。

私はガラケーと呼ばれる従来の携帯電話を持っているが、携帯電話会社からスマホに変えるなら特典があるという趣旨の連絡が来た。
しかし、私はスマホでなく、またガラケーにした。

電話機としての機能は、私の判断ではガラケーである。
理由の第一は、バッテリーの持ち。
スマホはあまりにも、バッテリーの持ちが悪すぎる。
頻繁に電話をすると、たちどころにバッテリーが使えなくなる。
私はdocomoユーザーだが、Formaの出始めもバッテリーが弱かった。
それが、ようやくバッテリーを気にしなくてよい段階になったところだ。
スマホは、あれもこれもできるという多機能を前面に出しているが、バッテリーが貧弱で、実際、あれもこれもできない。

第二の理由は、電話としてはガラケーにはボタンがあって、電話をかけやすい。
かけるスタイルもガラケーの方が自然に思う。

時々電車に乗ってみると、スマホとにらめっこしている人が多いのに驚く。
ガラケーを使っている人を探すと、ごく少数派である。

電話会社がスマホを勧めたがるのは、電話料金では収益が上がらないので、インターネトを使ったコンテンツや物品の販売で儲けようとしているからだろうか?

とにかく、電話をよく使うビジネスマンはスマホでは間に合わないのではと思う。
事実、友人が迷ったあげくスマホに切り替えたが、再びガラケーに戻そうとしている。
理由は、やはり電話をしているとバッテリーが持たないというのが理由だ。

私は新しい携帯電話もガラケーにしたと言ったが、店で心細い思いをしてガラケーを探した。
もうメーカーは力を入れないのかと思っていた。
ところが、ガラケーも進化していると感じた。
軽量、防水、GPS、ネット検索など、新しい機種を触ってみて満足した。
ポケットに入れてもかさばらなくなった。

スマホの悪口ばかりを言ってきたようだが、スマホのいいところもある。
だから、全然使わないわけではない。
ただし、常には電源を切っているので、電話として使っていない。

スマホの便利と思うところは、自宅のパソコンで入力した予定表がgoogleのサービスを利用して連携できることだ。
私はgoogleカレンダーを使い、スマホではジョルテというシステム手帳タイプのアプリを使っている。

あと、スマホを使うのは、地図をナビゲーションで使うぐらいである。
音楽鑑賞で使っている人も多いようだが、私も試してみたが、やはりバッテリーの問題でやめにした。
私の場合、クラシックを聴くことが多いので曲が長いと言うこともある。
音質そのものも少し不満である。

それで、Walkmanがいいと言うので買ってみたが、結局、私はイヤホンが好きでないので、ほとんど使っていない。
音楽鑑賞は部屋のシステムで聴くことがほとんどである。

はじめの写真に載せたように、タブレットを車のナビゲーションとして使っている。
10インチあるので見やすい。
ドライブサポーターというアプリを、月額315円で使っているが、これがなかなか実用的である。

以上、私は「こう使っている」ということで、他の方がもっと違う使い方をしているというのを否定しているわけではない。
ご意見のあるかたは、どうかよろしく。

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posted by edlwiss at 22:42 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2013年09月15日

いじめが起きやすい環境はあるか(7)〜いじめの気配

人は何らかのよくないストレスを抱いていると、それを解消しようとする行動に出ます。
その行動が社会的によくない行動であった時、その現象だけを見て咎めるのは、以前お話ししたように、対症療法と言えます。
特にプロ教師にあっては、対症療法は気をつけねばなりません。

今、よくないストレス(例えば、成績不良で進学できないかも知れないと考えているようなもの)を負のエネルギーと考えた場合、この負のエネルギーを解消しようとする意思が蓄積されていると考えられます。
そして、この負のエネルギーがいつまでも解消されないでいる場合、精神のバランスを失い、精神的な障害に至るのではないかと考えています。

■負のエネルギーを解消しようとする行動

私が多くの人を観察してきた体験から、この行動の小さなものから大きなものへ並べてみます。

(1)落書きが多くなる

はじめは人の目につきにくいところから始まり、ひどくなると、誰の目にもとまる所へとエスカレートします。
はじめは自分のノートや教科書、家庭訪問すると自分の部屋が落書きでいっぱいと言うことがあります。

(2)物の破壊

公園の木の枝を折ったり、花壇の花を切ったりする。
看板や自動販売機へのいたずら。
トイレの便器が破壊される。

(3)動物の虐待

捨て猫や犬への虐待。
野鳥へ弓矢を刺した事件はニュースでも報道されました。
動物のいじめだけでなく、残酷な殺しに至る場合もあります。

(4)人間に対する迫害

迫害とは「弱い立場の者などを追い詰めて、苦しめること」を言います。
つまり、いじめと言えるでしょう。
この段階になって、まわりの人たちが気づき始めるようです。
しかし、人目に気づかないようにやるので、かなりの間気づかれないこともあるようです。
だから、被害を受けている者がその間に自殺するということも起こるのでしょう。

以上、悪いストレス(負のエネルギー)を小さなものから挙げてみました。
最悪な現象は、自殺者が出てしまうことです。
しかし、私の考えでは、子どもをよく観察していて(1)〜(2)の現象はないか気をつければ、最悪の事態になるまでに芽を摘み取ることができるのではと思っています。

まずは、落書きが多くないか見ていただきたいと思います。

迫害を受けている人が存在するのは、深刻な状態です。
かつて、ホームレスが迫害され殺人に至ったこともあります。

迫害を受ける側にもストレスが溜まることになります。
そして、それが解消されないとき最悪の事態になるのでしょう。

私も、中学1年生の時、上級生からいじめを受けたことがあります。
しかし、私の性格としては、やられたら腹が立ってやりかえすというものでしたから、上級生にむかっていきました。
逆に上級生が怖がったようです。
上級生の親が私の家へ来て「うちの子が、あなたの子が怖くて学校へ行けないと言っている(どうしてくれる)」と怒ってきたことを覚えています。
私は親に叱られると思ってビクビクしていましたが、親が私を咎めることはありませんでした。
私の場合はこのようにして、負のエネルギー(ストレス)を解消したのだと思います。

最悪の事態に陥るいじめられる側の子どもは、エネルギーの解消方法がないのだと思います。
相談相手がいれば多少とも解消されるのでしょうが、そういう相手がいないのかと思うと、今日の人間関係の希薄さを感じます。

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2013年09月14日

消費税対策

消費税が8%になる見通しが強くなってきた。

私は、税金が高くてもそれだけの見返りがあるならいいと思っている。

例えば、消費税が30%であっても定年で年金をもらうようになったとき、今の国民年金が月、満額で7万円弱であるのに対し、これを15万円に引き上げてくれるならよいと思う。

15万円というのは、一人が生活するための最低金額と言われている。

まじめに働いて、国民年金保険料を払ってきたら、最低生活費である15万円を誰でももらえるという政策を行って欲しいものだ。

税金を払うのは国民の義務であるので、税金を払わないと国家権力という強制的に収奪される。
場合によっては刑事告発もされる。

徴税権と警察権は国家の持つ、最も強い権力と言える。

だから、この二つの権力が暴走すると国民は不幸になる。

税金が多くても、それが国民の幸福につながればよい。
しかし、現状はどうだろうか?

今回の消費税引き上げは、確か福祉目的税と言っていた。
それが、トーンダウンしてきたと感じるのは私だけだろうか?

何年かすると、この当初の目的は姿を消してしまうのではないかと思う。

国は何か機会があると、もっともらしい理由をつけて税金を増やす。
一度、増税が決まれば、あとはこっちのものだとばかり、ほくそ笑んでいる者は誰だろう。

それはズバリ官僚だろう。
多分、消費税引き上げ分は、官僚の天下り先の特殊法人に流れるだろう。

そうではないと言うなら、金の流れをもっと透明化してほしい。

日本が1年に使う総額は国会で審議する90兆円ではない。
240兆円ぐらいある。

国会は国の最高決議機関である。
だから、240兆円全額を審議すべきである。

240-90=150兆円がすべて使途不明金とは言わないが、それにしても使途不明金は多すぎる。

強大な国家権力用いて税金を取り立てる以上、それに見合う力で税金の使途を明らかにすべきだ。

■物々交換

税金を拒否することはできない。
抵抗するなら、合法的な手段でいこう。

そこで、私が提案するのは物々交換である。

戦時中、配給米だけでは足りないので、農家を訪問して着物と米を交感してもらったと言う話はよく聞かされた。

通貨を使うので消費税がかかるが、物々交換なら消費税はかからない。
物と物の交換でなくても、物と労働の交換でもよい。

私の場合、演奏に出かけて食事を出してもらうところがある。
これも物々交換の一種だろう。

ポイント制もいいかも知れない。
共通のカードを作って、ポイントをためるのも一つの案。

庭木の手入れ、草取りなどでポイントを貯める。
ポイントは参加している商店などで、野菜や日用品などと交換できることにしてもよい。

釣りの得意な人は、釣った魚と何かを交換してもよい。

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2013年09月13日

いじめが起きやすい環境はあるか(6)

■いい人も嫌われる

某楽団に参加した時の話です。
メンバーはプロ及びレベルの高いアマチュアで構成されていました。
私は、メンバーの中の人に推薦され仲間に入れていただいたという経緯がありました。

コンサートに向けて、1回目の練習に集まったとき、そうそうたる人たちが揃っていました。
こういう中で演奏できるのは、光栄と思っていました。

ところが、肝心の指揮者がこれでいいのかなと思う人でした。

練習が始まると、その懸念は増していきました。

打点が不明確、あまり有益と思われない話が多い、練習の能率が悪い。
等々で、それこそストレスが溜まっていきました。

ある日、練習の帰りに何人かと話しながら帰りました。

誰かが

「あそこのところ、よく合うようになったね」

と言うと、別の人が

「うん、指揮を見ないようにしたもん」

と言いました。

この返事に、一同納得。

指揮者にしてみれば、これほど痛烈な皮肉もないと思いました。

指揮者になった人は、普段の付き合いではとてもいい人です。
しかし、この人が指揮者をやるようになってからは、練習に集まっても充実感がないため、この人に対して、みんなが次第に嫌な人というイメージを持つようになっていったのです。

練習といっても、それはまるで「練習という儀式」に集まっているようなもので、いい音楽作りに向かっていないので、メンバーには不平不満がたまっていったのです。

みんなの意識は、一応誰かの顔を立てて行事を消化するだけというものになったのです。

この例のように、リーダー(この場合は指揮者)は、人柄がよいというだけでは務まらないだけでなく、かつては仲のよかった人も嫌いな人になってしまうということに注意しなければなりません。

その器にない人はその地位についてはいけないと言えるでしょう。

指揮者に限らず、学校の教師にも当てはまるのではと思います。

教師のリーダーシップにより、快適なクラスあるいは楽しい授業にならなければいけないわけです。

■老婆心

以下は現役の教師には釈迦に説法となります。

快適なクラス・・・担任がクラスの人間関係をよく掌握していて、生徒同士の人間関係が円満なクラスのことを言います。担任が生徒と友だち関係のようで、生徒とうまく付き合うことだけを考えるような状態のことを言っているのではありません。

■楽しい授業・・・「楽しい授業」と言うと、まれに、人によっては教師がおもしろいことを言って笑わせる授業とか、学習そのものがまるで好きなテレビの娯楽番組のようなものを想像する人もいるようですが、そういうのを生徒は楽しい授業とは言わないと思います。
もし、表面的な笑いだけでお茶を濁しているようなら、笑いは得られても内心はバカにされていると思います。
楽しい授業とは、生徒が「こういう授業を受けて入れば、自分に力がつき自信が持てるようになる」と感じさせる授業です。
特に、思春期は将来に不安を感じている時期であり、力をつけて自信のある自分になりたいとの気持ちが強いからです。

■やはり教師は指揮者と似ている

しばしば引用しますが、クルト・レーデル氏の次の言葉を思い出します。
拍を正確に叩くだけなら、アマチュアであっても少しの練習をすればできるようになります。しかし本当に「指揮をすること」にまつわる諸々は、それにひきかえ、はるかに多面的かつ複雑で・・・

知らない人は、指揮者を見て音楽に合わせて棒を振っているだけと捉えています。
だから
「指揮者って本当に必要なのか?」
とか、年の多い指揮者を見て
「あれは、年の功で役目として指揮台に立っている」
などという人がいます。

クルトレーデル氏の言うように、指揮者のまねごとなら誰でもできるでしょうが、本物の指揮者になるには勉強しただけではなれるとは言えません。
現実に、プロのオーケストラに所属し優秀な奏者であった人が、指揮者に転向したが、まったくうまくいっていない人もいます。

教師も勉強すれば教師になれるとは限らないと思っています。
指揮者同様、教師のまねごとなら誰でもできるでしょう。
でも、誰か優秀な教師のまねをしたところで、通用するものではないでしょう。

しかし、指揮者を目指す人が音楽の知識・技能を高めることをしなくてもよいわけではないし、教師も教育学を学ばなくてもよいとは言えないでしょう。

むしろ、当然のこととして学んでおくべきでしょう。

本日のまとめを再確認します。

いくらいい人であっても、指揮の能力のない人が指揮をしたり、教師としての力量のない人が教師をしたりすると、嫌われるもとになるし、集団そのものの雰囲気を悪くすることにもなるということです。

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2013年09月12日

いじめが起きやすい環境はあるか(5)

体の表面に吹き出物などができた時、それに薬を塗るだけといった治療を対症療法という。
こういう治療を医者が行えば、その医者は藪医者と言われる。

いじめも、いじめの現象を見た時だけ「なぜいじめるのだ」といじめている本人を叱るようなやり方は、藪医者の治療と同じ対症療法と言えるだろう。

プロを自認する教師にあっては、藪医者のような対症療法を行ってはいけない。
何のために教育学を学ぶのかと言えば、教育が藪医者のようにならないためと言えるのではないか?

教育学の単位を取っただけで、現場では自己流(我流)では藪医者と同じであり、もしそんな現実があるとするなら憂うべき状況と言える。

■リーダーの問題

いじめも、いじめが起こる状況が潜伏していて、起こるべくして起こったということはないだろうか?
その起こるべくして起こったという原因の一つに、リーダーの問題がある。
ここで言うリーダーとは、クラスの学級委員などの生徒の代表ではない。
担任のことである。

担任は生徒にとっては権力者である。
その権力者の態度如何では、いじめが起こりやすい状況になると言われている。

担任が専制的で、民主的なクラスを作ろうとしないで、きまりはすべて担任が決めてしまう。
いいも悪いも担任の気分次第というクラスは、いじめが起きやすい環境を作ると言われている。

会社でも中間管理職が、自分の評価ばかり気にしていて、部下の失敗が自分の汚点にならないかと気にするような性格だと、部下の間の人間関係がギクシャクしてくる。

中間管理職の上にはさらに上役がいるが、その上役の性格も下の人間関係に影響する。
部下のアラ探しばかりしていて、責任ばかり問う経営では組織の空気は悪化する。
学校も組織だから同様なことが起こる。

クラスの生徒は当初、担任の顔色を伺うことが多い。
何を気にしているかというと、ウチの先生はどんなことをすると怒るのかということに神経を使っている。
特に、先生も校長から評価される立場ということを感じでいて、クラスの生徒が失敗などした時、先生の減点になるのではないかと心配する。

生徒(子ども)は時に失敗をする。
失敗を叱られるのは仕方がないと考えるのだが、その叱り方があまりにもひどいと、誰のために叱っているのかという疑問が出てくる。

つまり、失敗した生徒のために叱っているのか、先生自身の減点を気にして叱っているのかということだ。
そして、上にはペコペコするが生徒に対しては態度が横柄となると、信頼関係も築けないだろうと思う。

いじめの原因を先生自身の態度が作っていないか、考えてみることも必要だと思う。

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2013年09月08日

いじめが起きやすい環境はあるか(4)

中学校で担任をしていた時は、40人の生徒の通知票の所見を約1時間ほどで書いた。
そして、このぐらいのペースで書き上げるのが普通だと思っていた。
ところが、同僚からは「そんな時間で書けるわけはない」と言われた。

私は自分の仕事の能力を自慢したいわけではない。
本当に、そのくらいが普通と思っていたから。
逆に、なぜ時間がかかるのだろうと思った。

なぜなら、通知票を机上に出して、生徒の名前を見るとその生徒の顔が浮かんできて、いくつか感じることが出てくる。
それを文章化するだけだ。
いざ書くときにはね頭の中で文章はできあがっているので、それをそのまま書くだけである。
だから、いきなり万年筆で書いた。

知らない人間の所見を書けと言われたら書けないが、40人の生徒たちを、ほとんど毎日見ているわけだから、書くべきことはたくさん浮かんでくる。
少し頭を使うのは、いいにしろ悪いにしろ、どういう書き方をしたらその生徒にとって励みになるかということだ。

1時間で40人の所見を書くのは無理だとと言う人の中には、観察したことを文書化するのが不得意と言う人がいるかも知れない。
そういう人は文章化に多少時間がかかるかもしれない。

私は中学校でも、努めて自分の担任の教室にいるようにした。
生徒たちは、はじめは私の存在が気になったようだがね慣れてくると、全く気にしなくなり、放課は子どもらしい活気のある動きをしていた。

私が努めて教室にいるようにしたのは、学校が少し荒れ気味ということもあったが、放課の方が子どもの真の姿が出やすいと思ったからだ。

担任としては40人の子どもの責任を持つのだが、40人は一括りではない。
各家庭から見たら、一人一人がかけがえのない大切な子どもなのだ。

40人の子どもをリンゴ一箱のように見るのではなく、一人一人の個性を見て、それぞれの人格を尊重するのが個人主義でもある。
しばしば、私は個人主義の認識の間違いを指摘するのだが、一人一人をかけがえのない人間ととらえ、その一人一人が互いに他人の権利を尊重するのが正しい個人主義の認識と考えている。

個人主義の反対は集団主義であり、個人より集団を大切にする考えである。

一人一人をかけがえのない人間として、毎日見ていたら、一人一人の微妙な変化にも気づくはずである。

■教師という仕事は指揮者に似ている

教師がオーケストラの指揮者と似ているというのも、私が折りにふれ出す言葉である。

プロの指揮者は、100人のメンバーの一人一人を、それぞれの個性も含めて掌握している。

名指揮者にかかると、オーケストラはなぜすばらしい音を出すのか?
それは、一人一人をみな活かしているからである。
100人のメンバーそれぞれは、1人の指揮者がいつも自分に対してくれているように感じでいる。

こういう感覚は担任をしているような教師にも必要だ。
40人の生徒(子ども)がそれぞれ「私の先生」「私のことをいつも見てくれている」という感覚が必要なのだと思う。

私がこう考えるのは、自分の子ども時代、親が常に自分のことを心配してくれていて、少しの変化にも気づいてくれていたという経験からだと思う。

特に、夕食時「あんた、どうかしたの?」と聞かれた。
「別に」と言っても「いや、何か隠している」としつこく聞かれたものだ。
秘密にできないので閉口したものだが、今思うと、それは強い愛情だったと思う。

今日では家族揃って夕食をするという機会が減ったらしい。
家族が家に一緒にいても、それぞれ勝手に食事をするという家庭があるらしいが、私には信じられない。

家族がそれぞれ、まるで下宿人のようだ。

そう、家族の下宿人化が、何か心を冷たくしている、心を閉ざしているのかも知れない。

「高き屋に のぼりて見れば 煙(けぶり)立つ 民のかまどは にぎはひにけり」

は、仁徳天皇が、高いところに上がって民家を眺めた時、かまどから煙がたちのぼっているのを見て、民の生活が成り立っていると感じ嬉しく思ったのを詠んだ和歌とされている。

私は生徒たちと一緒に給食を食べる時間が楽しみだった。

生徒たちがみな楽しそうに会話をしているのを見て、自分も楽しかったことを思い出す。

昨今は何か人と人の関係が冷たいというか、疎遠になっている気がする。

子どもはそれぞれ色んな事情を抱えているだろう。
なかなか人には言えないこともあるだろう。

せめて、毎日顔を合わせる先生だけでも、心を砕いてやって欲しいものだと思う。


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posted by edlwiss at 20:41 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年09月07日

いじめが起きやすい環境はあるか(3)

■いじめが起こる要因

いじめが起こるのは何らかのストレスがあるからだろうと推定される。
「ストレス」とは
精神緊張・心労・苦痛・寒冷・感染などごく普通にみられる刺激(ストレッサー)が原因で引き起こされる生体機能の変化。一般には、精神的・肉体的に負担となる刺激や状況をいう。
と説明されている。はてなキーワードより

ここでは特に、精神的に負担となる刺激や状況に注目したい。

では、精神的に負担となる刺激や状況とはどんなものだろう?

■よいストレスと悪いストレス

ストレスには、よいストレスと悪いストレスがあると私は考えている。

精神的負担にもよいものがある。
このことを考えないで、子どものストレスは何でも取り除いてやろうとすると、かえって「育てる」ということ、つまり教育の意味を失ってしまう。

子どもが深刻な顔をしていたら、何かのストレスがあるのかも知れないが、それは子どもが高い目標に挑戦しようとしているのかもしれない。
わけもわからず、よいストレスをなくせば、人は退化したり成長が止まったりする。
適度な、よいストレスは大切なのだ。

病床で受験のできない子どもが「私もみんなのように受験の苦しみを味わいたい」と言ったことがある。
中学三年生にとって高校入試は、大きなストレスのかかる経験である。
しかし、受験できない者からみると幸せな挑戦なのだ。

問題は悪いストレスで、経済的不安や恨み人を貶めてやろうとする心、人の不幸を見て喜ぶ気持ちが湧くことだろう。

今やいじめ問題について関心が高まっているが、その防止策は進んでいるのだろうか?
私が懸念するのは、いじめは悪いと確認する話し合いである。
まさか、そんな先生はいないと思うが、クラスで話し合いをした結果、みんながいじめは悪いとわかってくれたからうまくいったと思うことである。

悪いとわかっていても、悪いことをするのが人間だからだ。

空気や水が悪いと健康が害される。

本日のまとめとして、私が言いたいのは、先生は空気や水が悪いと感じるように、大勢の子どもの集まりと先生で作る精神的な空気の良さ悪さに敏感な感性を持って欲しいと言うことである。

精神的な悪い空気(悪いストレスが作る空気)が何であるかの追究は、次の機会にするとして、まずは「この空気はまずい」と感じる鋭敏な感覚が深刻ないじめを防止する力になると言いたい。


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