2013年10月31日

運転免許の更新

最近、私は自動車運転免許の更新をした。
5年間無事故無違反だったので、講習は30分でGOLDで更新した。

ところで、無事故無違反でも更新期間内に更新機続きをしなかった場合はどうなるのだろう。
半年以内なら、所定の手数料と講習で免許は復活する。
1年過ぎると救済処置はない。
ただし、特別な理由が認められれば3年まで延長される場合もある。

免許更新にはみなさん気を遣っていると思うが、なんと7年もの間更新切れで運転していた人がいた。
よくも検問にひっからなかったと思うのだが、加えて任意保険にも加入していなかったと聞き驚いた。

免許更新切れとは言え、7年間、無事故無違反だったということは、運転技術には問題ないと言えるだろう。
しかし、運転免許は無効ということは厳然たる事実である。
本人がいくら、運転はきちんとできますと頑張ったところで、運転が認められることはない。

社会には免許制度、資格制度というものがある。
学校の先生もそういう制度のもとで働いている。

ある学校で、無免許で授業が行われていることが発覚した。
この影響は、受けた授業の単位が無効という形で出た。
素晴らしい授業だった、指導がうまく、生徒たちの学力も伸びたという言い訳は通らない。

無免許運転で事故を起こさなかったということは、他人には迷惑をかけなかったと言えるが、無免許授業の場合は生徒たちに単位無効という大きな迷惑をかけた。
もし、生徒たちが卒業したあと発覚したらどうなっただろう。
単位不足で、卒業の資格まで影響が及ぶことになる。

では、教科の免許は持っていたが、採用試験で不正があったことが発覚した場合はどうなるだろう。

まず、合格は取り消しだろう。
この場合は生徒たちの単位はどうなるか?
先生としての評価は優秀だったという評価があれば、問題ないという扱いになるか?

一番の問題は、先生自身、教育行政側の不祥事で生徒に被害が及んだ場合、生徒側から刑事告訴、さらに損害賠償をめぐって民事訴訟もありうる。

卒業無効という被害の場合、賠償請求は億という額になるかも知れない。
さらに、校長や教育委員会が不適切な指導をしたとか、管理責任したということを問われたら、学校設置者である市町村まで責任が問われるかもしれない。

いずれにしても、正しいロジック回路を持って対応をすれば、訴訟問題がおきたところでビクビクすることはない。


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2013年10月29日

ロジック回路のチェック方法

機械ついているロジック回路はコンピュータのプログラムと同じである。
ICにロジック回路として封入する前に、プログラムに誤りがないか十分にチェックする。
IC化されてしまってから誤りが見つかるとね作ったICはすべて廃棄しなければならないからである。

プログラムのミスをしらべることをデバッグと言うが、デバッグの方法としてね答えのわかっている計算をさせてみて期待通りの結果になるかどうかをみるという方法がある。
例えば、簡単な四則計算や「1+2+3+・・・・100」の結果が5055となるかなどである。

これを人にも応用して、当たり前のことを当たり前の判断、すなわち正しい判断ができるかどうか試してみれば、相手にしない方がよいかどうかがわかるのではないかと思う。
人間の頭のロジック回路のチェックと言えるものだ。

だが、大人に四則計算などを試すなどと言うことは、バカにしているようでできないので、大人として常識があるかどうか質問してみて返事を待つのがよいだろう。

例えば次のような質問。

Kさんは腰が痛いのでAという医者のところへ通ったが、いっこうに良くならないので、評判の良いBという医者のところへ行ってみたる
そうしたら、すぐに腰の痛みがとれて健康になったので、Bという医者を信頼するようになった。
ところが、後にBという医者は医師免許を持たないで治療をしていたことがわかった。


[質問]
免許を持っているAという医者より、無免許のBという医者の方が治療が優れているのだから、Bの医者を医者としてそのまま開業医として認めるべきかどうか?

答えはこちら

普通の大人としては、当たり前過ぎる答えです。
でも、こんな当たり前の答えが正しくできない人は、頭のロジックが壊れていると言うべきでしょう。

人生は出会いと言いますが、頭のロジック回路が壊れている人とのつきあいは避けるべきと思います。
信用した結果、どんな災難が降りかかるかわからないような気がします。


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2013年10月28日

食品偽装問題に潜む課題

まず、この問題について考える以前に問題があると言いたい。
それはかつて言及した、ロジック回路の壊れた人が組織にいないかということである。

■悪いにも種類がある

1.別に品物が違っても、健康上に問題がなかったり、消費者が美味いと言って食べているなら問題ない
2.バレたのが悪いと思う
3.悪いとは思っていたのだが、やってしまった

1と2は完全に思考回路、すなわち頭のロジック(論理回路)が狂っている。
特に1は深刻な状態。
3は道徳上の問題。倫理上の問題。

食品偽装事件は、大人が起こした事件である。
私が特に「大人が」と言うのには理由がある。

それは、子どもの非行が話題になる度に「いい悪いをしっかり教えてやらないから悪いことをするのだ」と力説する人がいるからである。

もしその説が正しいのなら、大人で悪いことをする人は、未だに何が悪いことなのかを知らない人たちだというこことになるのだがそんな単純なものではないだろう。

2の「バレたのが悪い」と言うのは「バレなきゃいい」ということななるが、某所でアンケートをとったところ驚いた経験がある。

「飲酒運転について」のアンケートで「バレたのが悪い」に○をつけた中学生の割合がかなり多かったからである。

1は機械のロジック回路なら即交換というところだが、人間の場合そうはいかないのが困ったところである。


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2013年10月25日

電気製品

CIMG1695_s.jpg蛍光灯が壊れました。
スイッチを入れても点灯しないので、器具の中を調べてみました。

蛍光灯は点灯方式として、グローランプ式とインバーター式、ラピッド式があります。
故障した物はインバーター式で基板に部品が配置されています。

点検した結果、半田付け部分の劣化と予想しました。
それで半田付け部分の半田をやり直すことにしました。
作業が終わりスイッチを入れたら、みごと点灯しました。

最近はLEDが増えてきて、LED証明に換えるという選択肢もありましたが、まだLEDは高価であること、器具自体(筐体)は質がいいことなどで使わないともったいないという気になりました。

もっとも、LEDは当初高価でも電気代を考えたらとも考えましたが、今回の蛍光灯は割に高価な器具を買ったので、それなりに立派で廃棄するのももったいないという気がしました。

LEDも既存の蛍光灯の形をしたものがあり、ソケットに互換性があるようです。
蛍光管が電球のように「切れる」ということはまずありません。
寿命は蛍光物質の劣化で暗くなるということです。

蛍光管が劣化で暗くなったら、管の部分だけLEDに交換しようかと考えています。
その際は少し改造が必要ですが、一応、電気を勉強してきましたので、自分でやります。
電気の専門店に依頼すると、結構な費用がかかるようですが。

電気製品は古くなってきた時、修理するか新品にするかは、電気代も含め経済面で検討するするわけですが、物自体への愛着ということもあります。


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2013年10月25日

再びPASCALに注目

パソコンが出始めたころ、プログラミング言語としてBASICが流行った。
もっとも、このころはパソコンとは言わず、マイコンと言っていた。
マイコンはマイコンピュータの略ではなく、マイクロコンピュータの略である。
BASICはbeginner's all-purpose symbolic instruction codeの略である。

BASICはパソコン初心者にもプログラミングをしやすい仕様になっていた。
そのおかげでずいぶん多くの人が、プログラムを作るという経験した。
学校の先生の中にも、成績処理などのプログラムを作った人がたくさんいた。

BASICがとっつき易いのは規則がゆるかったことにある。
例えば「5」と書いた場合、コンピュータ側からすると、数字なのか文字なのかということになるのだが、そういうことを言っていると、プログラミングする人は嫌になるので、そこは適当に解釈してくれてエラーにならないようにしていた。

また、変数も整数なのか、単精度実数、倍精度実数・・・・等々はじめに宣言をしておかなければならないのだが「そういう難しいことは言わない」という感じだった。
このように規則がゆるやかということで、BASICのプログラマーは増えた。

しかし、複雑なプログラムとなってくると、この規則がゆるやかということがアダになった。
プログラムの信頼性に不安が出てきたのである。

規則がゆるいということは、各所に曖昧さを含んでいるということで、その曖昧さがつもり積もって、大きな誤差を生む原因になる。
そこで、社会がより複雑な処理をパソコンに求めるにつれ、BASICも厳格化が進んだ。

現在もMicrosoftのVisualStudioやVisualBasicがBASICの伝統を受け継いでいるが、昔のBASICからするとずいぶん変わった。
変わったというのは厳格さを増したということである。

しかし、使ってみると出始めのよくない伝統も内包しているようで、不安要素は払拭されていない気がする。

■はじめが大切

とっつきやすいのはいいことだが、はじめに曖昧さを含んでいるのは、後で直すののが大変である。
これは、何だか子どものしつけにも似たものがある。

はじめに甘やかして育てると、後が大変になるようなものである。

プログラム言語も、BASICの甘さはよくないということで、非常に厳格なPASCALはプログラミングの教育用として早くから作られていた。

私もはじめはBASICだったが、途中でPASCALを使い始めた。
しかし、BASICもよくなっただろうと思ったこと、Microsoft製であるということでVisualBasicを使うようにしたが、最近再びPASCALに戻ろうととしている。

■あいまいさは必要

機械の部品も精度が高いということはいいことである。
しかし、精度が非常に高いと、少しの歪みや温度の影響で動かなくなってしまうということもあるので、少しは余裕の必要なこともある。

余裕が必要ということは、いい加減でもいいということではない。
どのくらい余裕を持たせるかということは、厳しく設定する必要があるということである。
ここらあたりは人間の組織と似たところがある。
規則は厳格に決めるのだが、実状を考えて余裕を持たせることも必要である。

例えば、駐車違反というのはどういう規定か、停車禁止のところで車は止まったら違反なのか?

プログラミングでは「検索」がよく出てくるが、普通にコードを書くと、完全一致、つまり1字でも合っていないと検索にかからない。
「米」について検索しようと思ったとき、白米、玄米、もち米など米類が検索されないと実用上困る。
だから、幅を広げた、賊に言う曖昧検索という方法を使うのである。
名前は曖昧検索だが、やっていることは曖昧ではない。

今回はプログラミングを持ち出して、人の活動と似たところを考えてみたが、何でも人の介在するところには共通したところがあると気づいた次第である。

厳しい決まりがあって、その上で幅を持たせる。状況によっては例外も設けるなど人間もコンピュータも同じことをやっているのだ。


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2013年10月24日

消費税をめぐるトラブル

消費税が8%になることは決定された。
今日の記事は消費税そのものの問題をとやかく言うものではない。

消費税が変わることの影響は様々である。
プログラマーが、売上管理ソフトのコードを変更しなければならないのも影響の一つである。

消費税をめぐるトラブルということで、思い出すのは販売の現場である。

店員と客がもめている場面があった。
何だろうと思って、様子を見ていたら、客が「消費税分だけまけろ」と言っていた。
店員はできないということで、客の対応に苦慮していた。

金額は覚えていないが、たいした金額ではなかったと思う。
だから、客もまけるように頑張っていたのだと思う。

たいした金額ではないのに、なぜまけられないか。
それは権限の問題である。
店員には品物の代金を加減する権限が与えられていないないのだ。

もっとわかりやすい話をすれば、スーパーのレジで代金を払うとき、1円足りなかった時、まけてくれるか考えてみるとわかるだろう。
「1円ぐらいまけてくれ」という客がいたら、それは、頭のおかしい人と思われるだろう。

こう言う人がロジック(論理)の狂った人なのだ。

個人の商店なら、経営者が売り場にいて客との値段の交渉もあるだろうが、雇われている人にはあまり権限のないのが普通である。
中には、ある範囲で権限をまかされている場合もある。

私の経験だが、車を購入するとき二つの販売店が競合したことがある。
結果、一方の店が3万円安かった。
しかしサービス、その他の条件も考えて、私は3万円高い方の店に決めた。

私は当然、3万円多く払うつもりで店を訪れた。
そして、営業の人と購入手続きを進めた。
ところが、最終的に見た伝票の金額は3万円安くなっていた。

私は「これ、違っていませんか?」と言った。
すると、支店長が出てきて「ええ、こうさせていただきます」と言った。

私としては予期せぬことだったが、今の話は安くなって嬉しかったという話をしたいのではなく、これは権限の違いの例として挙げた話だ。

なぜ、最終段階で安くなったのか、こういう話がわからない人が、世の中にはまれにいるようだ。

営業の人には3万円まける権限はないが、支店長が介入することで、支店長の権限で値段を下げることができたのだ。

人の組織の意味は成員の権限の違いであるとも言える。

プロ野球では監督の変わったチームもある。
試合に関しては、監督に一番の権限が与えられている。
だから、それまでの監督とやり方が違ったらそれに従わなければならない。

監督によっては、権限の一部をコーチに任せたりする人もいる。
素の場合、コーチは与えられた権限の範囲で自由にやり方を考えることができる。

組織に所属できるかどうかは、協調性が大切だが、もっとも大切なのは組織の成員としての権限の違いを認識できることである。

こんなことは当たり前のことだが、これを理解できない人がまれにいて、私にはこう言う人がロジック(論理)の狂った人に見える。


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2013年10月23日

スピーカーを壊しやすいアンプ

私の卒業論文は低周波増幅器、つまりアンプでした。
今もアンプや電気回路には興味を持っています。

電気のことはよくわからないと言う人、特に今さら人に聞くのはとためらっている人に、知っていた方がよいと思う役に立つ知識を時々書こうと思います。
今日はスピーカーを壊しやすいアンプについて書きます。

スピーカーには規格としてW数が書いてありますが、これはスピーカーの許容入力であることは、以前の記事に書きました。
W数の大きなスピーカーが大きな音が出るのではありません。
スピーカーに書かれているW数は、そのW数までの入力ならこのスピーカーは壊れませんよとメーカーが保証しているものです。

ただし、そのW数の表示には二通りあって、連続入力と瞬間入力があります。
これにも注意する必要があります。

連続入力とは文字通り、連続して入力してもスピーカーが耐えられるW数です。
瞬間入力とはミュージックパワーと言い、ごく短い時間(瞬間)なら耐えられるW数です。

ところで、スピーカーはアンプとつなぎますが、アンプの出力(W)とスピーカーのW数(許容入力)の関係はどうなっているのでしょうか?

スピーカーの許容入力(W)>アンプの出力(W)

なら大丈夫ですか?

例えば、スピーカーの許容入力が30Wで、アンプの出力が20Wなら大丈夫ですか?

アンプの最大出力より、スピーカーの許容入力の方が上回っているから大丈夫のような気がします。

しかし、実際は反対です。

次の図を見てください。

transisteramp.jpg


上下の赤線がアンプの出力の限界とすると、アンプの限界を超す入力が入ってきた場合、出力の限界を超えた分はカットされます。

カットされるだけならいいのですが、限界を超えたところで猛烈な高調波が発生します。
その高調波が大きな出力をして、スピーカーの入力限界を超えることがあるのです。
そして、スピーカーを壊すことになる。

出力の小さいアンプは出力の限界に達しやすく、過大な高調波を出してスピーカーを壊しやすいと言えるのです。
高調波は超高音ですから、人間の耳には聴こえません。

別の言い方をすると、出力の大きなアンプの方がスピーカーを壊しにくいと言えるわけです。


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2013年10月22日

ロジック回路の壊れた機械

bigdrum.jpg家電品は機能の飛躍的な進歩によって便利になってきた。
それは、ロジック回路(論理回路)をIC化したチップ(部品)の寄与するところが大きい。
視野を広げて見れば、家電品に限らず自動車などあらゆる機械にはロジック回路が搭載されていることにも気がつく。

私が昨年買った洗濯機は、スイッチ一つで洗濯、乾燥、アイロンまで自動で、時間の節約に貢献してくれている。洗濯が天候に左右されなくなったのもありがたい。

しかし、便利な洗濯機もロジック回路が壊れたらどうしようもない。
もちろんロジック回路のICだけ取り替えれば問題ないのだが、そのICが生産されなくなったら修理は不可能。
たった一個の小さなICがないために、機械のほとんどをを構成している部分は無用の長物になってしまう。

昔、鉄は国家なりと言ったが、その後ICは産業の米と言われるようになった。
そのぐらい、今日ではICが重要になっている。

■人の組織もロジックが大切

ロジック(論理)は知能ではない。

論理の意味をことバンクでは次のように説明している。
1 考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保証される法則や形式。「―に飛躍がある」
2 事物の間にある法則的な連関。
3 「論理学」の略。

人と人の話し合いでは、特に思考の妥当性が保証される法則や形式。の部分が大切である。

簡単に言うと、正しく解釈すれば誰もが同じ意味に受け取ることである。
例えば、温泉に行ったとき、男は男湯に女は女湯と書かれた入り口を選んで入る。
道路での信号は、赤で止まれ、青で進めと解釈する。
300円の物を買って、1000円札を出せば、おつりは700円と解釈する。

これらは人が違っても、結論は同じだ。
つまり、人々は社会生活をしている中で、自分は当然上の例のように判断するし、他人も同じように判断すると信じて疑わない。
もし、そうでない判断をする人がいたとしたら「あいつは頭がおかしい」と思うだろう。

ジュース1本買うのに、昔は店の人と対応して買っていたが「お金を払う」「ジュースを選ぶ」「おつりを出す」といった行動は定形化できることがわかったので、ロジック回路(論理回路)で代用して、自動販売機が作られるようになった。

人の組織の中の活動では、ロジック回路のように思考の妥当性が保証される法則や形式。がたくさん存在する。

教育の分野では、今日、様々な問題が浮かび上がっている。
教育改革はどのようにしたらよいか?
どのような組織にすべきか?
教育委員会は不要か?
学力テストは?

■一番厄介な問題は人そのものの問題である

半沢直樹はたいそう評判になったようだが、わたしは見なかった。
ドラマではしばしば企業が舞台になるが、みんな忙しく働いているのに部屋の片隅で一人碁を打っている人が出てくることがある。

okasiihito.jpg「忙しいのになぜあの人はヒマそうなのだろう?」

別に重役でもない。

どんな人か?
仕事が任せられない人である。

どんな人でも、何も仕事ができないと言う人はめずらしい。
どんなに仕事ができないと思われる人でも、書類の整理ぐらいはできるだろう。
しかし、それすら仕事を与えていないということは、会社としては不要な人なのだ。

ではクビにすればよいということになるが、クビにするというやりかたもやっかいな面があったりする。
一番いいのは、本人から辞めたいと申し出てくれることだ。
それには、仕事を与えないというのが一番の方法というわけだ。

では、そんな厄介な人とは?

頭のロジック回路が狂っている人だ。

教育改革のための一番の問題は、良い意見が出るか出ないかということではない。

それ以前にまともな人の集まりであるかどうかということだ。

頭がいい悪いの問題ではなく、当たり前のことが当たり前のこととして受け取れない人の問題である。

野球なら、監督がバントを命令したのに従わない。

会社なら、出張を命じられたのに従わない。

など、組織の論理を理解していないような人。

コンピュータなら、命令されたことに従わないということはない。プログラムに書かれたように実行する。
だから、頭のロジックが狂った人間に代わって、ロジック回路を積んだ機械が増えるのだ。

不安のある人間より、ロジック回路の方がよっぽどいいということになる。

もし、ロジックがおかしいと判断された機械は故障と言うことになる。
ロジック回路の壊れた機械は、ロジック回路を交換すればよいが、人間はそういうわけにはいかない。
将来は人間の頭のロジックも交換できる時代が来るのだろうか?

■ロジックのおかしい人の処遇

まともな会議をする以前に、ロジックのおかしい人が存在するとそれだけで、組織はエネルギーを費やすことになる。

片隅で碁をやっていてくれるような人はまだいい。
他人に迷惑をかけないから。

だから、無口の人はよしとする。

問題はじっとしていられない人。
変なことを言って、真に受けた人に迷惑をかける。

先生ではないが「火力発電よりコスト高になるから、原発の安全には経費がかけられない」と言う人は、完全にロジックが狂っている。
以前は「原発推進で電気料が安くなる」と言っていた。

組織の中では相手にされないから、自分を知らない人のところで活躍しようとする人にも、注意しなければならないだろう。


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2013年10月20日

うつ病 〜防衛本能がもたらす宿命〜

NHKスペシャル弟3集・病の起源「うつ病 〜防衛本能がもたらす宿命〜」は非常に興味深いものだった。
魚もうつ病になるのだ。

うつ病を引き起こす元は脳にある扁桃体の活動にあり、うつ病の人は扁桃体が大きく、脳が萎縮している様が映し出された。

人に近い動物のチンパンジーもうつ病になる。
人もチンパンジーも集団生活をするが、集団を離れた孤立状態に長くおくと不安がストレスになってうつ病のもとになる。
集団生活をする動物が孤立するのは不自然なわけだ。

すると社会から孤立するような生活はよくないと考えられるが、集団で生活していても人間関係の問題で、これまたうつ病の原因になる。

では、うつ病のメカニズムとは何だということになるが、それはストレスに対する防衛本能と説明されていたように思う。

人間関係、あるいはその他の精神的ストレスがあると、防衛本能として扁桃体が活躍する。
その影響として脳が萎縮するという。

興味深いのは、この地球上に暮らしているある人たちにはうつ病がないということだ。
その人たちというのは、毎日、狩りをして暮らしている人たちで、その日に獲れた獲物はどんなに少なくても平等に分けるという生活をしている。

取材では「私たちは、どんなに腹が減っても食べ物を誰かが独り占めにすることはありません」と言っていた。

うつ病のない社会とは平等な生活をする社会なのだ。

人より少ないのはもちろん、多くてもストレスが高くなるというのも興味深い。
あくまでも、平等な分配が一番ストレスを起こさないということ。

これは、社会はもちろん学校という組織の中にあってもヒントになるのではないか。


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2013年10月20日

ジルジャン

ジルジャンはシンバルメーカーである。
中学校で吹奏楽部に入り、吹奏楽のことが少しわかり始めたころ、コンクールでとてもいい音のするシンバルをつかっていた学校があった。
自校のシンバルの音が「ペシャン」という音なのに対し、その学校のは「シェーン」という感じの音だった。

それでは、シンバルの活躍する曲、ビゼーの「カルメン」より前奏曲を紹介する。
(聴かれる人は1曲目だけで結構です)



単に、金属の板を丸く切り抜いたものを使っても、こういう音はしない。

Zildjiancrash.jpg私はシンバルの音に魅せられ、調べたところ、それは「ジルジャン」というメーカーであることを知った。
さらに、ジルジャンはトルコのメーカーで、それからトルコという国はシンバルの伝統があることも知った。
オーケストラでも、シンバルはジルジャンを使っているところが多い。
他にはパイステ、セイビアンも有名で、これらのメーカーが3大メーカーとされている。

ジルジャンは、400年の歴史をもつシンバルのブランドである。トルコのイスタンブルにいたアルメニア人シンバル職人が元であるが、今日は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州に本拠を有するアヴェディス・ジルジャン社 (Avedis Zildjian Company) によって製造されている。同社は現在も世界最大規模のシンバルとドラムスティックのメーカーである。日本国内ではヤマハのグループ会社であるヤマハ・ミュージック・トレーディングが輸入販売を行っている。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

打楽器にはティンパニー、木琴など音程のある楽器も存在するが、シンバルには音程がない。
音は楽音と雑音とに分けられますが、メロディーを奏するのは楽音でそれ以外が雑音である。
雑音というと、汚い音というイメージがあるかも知れないが、雑音に分類されるシンバルの音を汚いという人はいないだろう思う。

オーディオの好きな人たちの中には、良い音はすべて楽音と思っている人がいるようである。
オーデイオの目的は音楽を聴くことにあると思うのだが、そうであったら、生演奏を聴いたり、少しは音楽の知識は持った方がよいのではと思う。

そうして、現実と理論を合わせることで変な空想が一人歩きをしないことを望む。
わたしがオーディオマニアと呼ばれたくないのは、オーディオマニアと呼ばれる人たちの中に、空想的理論を振りかざして頑固になっている人が多いような気がするからである。


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2013年10月20日

指導者の個性

アマチュアオーケストラにつき合っていたころ、外部からいろんな人が来た。

ただ見学にくる人。
ある楽器の演奏者。
指揮者等々。

いろいろな人が来るのはいいのだが、問題は音楽の解釈。
10人来れば10通りの解釈がある。
それも結構だが、一番嫌なのがその10通りの解釈につき合わせられることだ。
これにつき合わせられるということは、10通りの演奏をしなければならないわけで、これには閉口する。

これも、指揮をすることになった者の解釈がしっかりしていないというか、優柔不断というのか要するにどうしたいのかはっきりしないことにある。
ひどい場合はさんざん練習してきたのに、本番前のリハーサルで突然変わる場合もある。

指揮をする人は、あらかじめよく勉強してきて練習の場で自分の勉強にみんなをつき合わせないで欲しい。

プロの指揮者が来た場合は、あれこれ方針が変わることはないので、練習にストレスがたまることはない。
アマチュアの指揮者の場合は、傾向として、あれこれ御託が多く練習の能率が悪い。

一方、演奏解釈の問題ではなくトレーナーとしてくる人もいる。
アマチュアの場合はまだ楽器を習い始めて長くない人や、経験は長くても基本に問題のある人もいる。
こういうアマチュア楽団の演奏技能を向上させるには、トレーニングの上手な指導者がいい。

演奏解釈をあれこれ変更するのにつき合わせられるのは疲れるが、間違いを指摘されるのは大歓迎である。
間違いとは、音程、リズム、誤った音楽的知識などである。

■指導者もいろいろ

指導がうまいとか下手とか言うが、抽象的に指導力と言ってもよくわからない。
単に指導力があるとかないとか言う人は、自身の指導力はないのではと思う。
なぜなら、他人の指導を見て、指導力の言葉しか発することができないのは、観察力がないからと思うからである。

音楽においては、指導力を云々するなら、その前に聞き分けられる能力が必要である。
大勢の演奏を聴いて、どのパートがどう歌っているか、リズムやハーモニーはどうかなど聴き取れなければ指導のしようがない。

トレーニングが目的として来る指導者は、リズムにうるさい人とかハーモニーにうるさい人とかいろいろである。
そして、それらの問題をどのように解決していくかというところにノウハウがあるわけだ。
これは音楽以外の教科についても言える。

私の中学時代には理科の先生が3人いて、それぞれの先生の得意分野は分かれていた。
そして、その得意分野を生かして教えられるよう時間割が工夫されていた。

一口に指導力と言っても、得意不得意もあり、特に分野を考えたら何でもこいと言う人は少ないのかも知れない。
国語の先生なのに字が下手という人もいる。
それで、書道は避けている人もいる。

音楽の先生なのに英語がずいぶん達者と言う人がいた。
会話も文法も強く、むしろ並の英語の先生を上回っていた。

こういう人には免許を取らせて、活用するようにした方がいいのではないか。

たくさんの先生の得意分野をデータベース化して、効率的な指導を考える方向を検討したらどうだろう。
そのためには、各先生の指導をただ漠然と見ているのではなく、個性を含めて良さを見つけるようにしたいものである。
本当に指導力のある人は観察力があり、指導力の中身を知ることができるはずである。

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2013年10月19日

一流を目指す

先生には勢いが必要だと思います。
勢いとは、生きがいい、新鮮だということです。

秋は秋刀魚の季節です。
新鮮な秋刀魚を七輪の炭火で焼くというのは最高でしょう。

新鮮な魚は目を見るとわかると言います。
先生はいつも生き生きとした目でいたいものです。

先生になった人は、当然、目が生き生きとしていると思いますが、それは未知の世界に挑戦するという良い意味での不安と憧れの混じった心境のように思います。

そこに子どもたちは魅力を感じるのではないでしょうか?

今、先生をやっている人は、どうして先生になったのでしょうか?

私の先輩に、国語の先生をやりながら小説を書き、文学賞を受賞した人がいます。
彼は先生になることがゴールではなく、小説に挑戦しその世界で認められるまでになったわけです。
一流になれるかどうかはわかりませんが、一流を目指すという心を先生にはなってもらいたいものだと思います。

教員を退職してから、史跡を巡って研究している人もいます。
この人も先生になることがゴールではなく、現役時代からずっと続けていたわけです。
いつも前に向かって進むという姿勢の人には魅力を感じます。

昔と違って今の保護者の学歴は高くなっています。
中身はどうでも学歴が同じというだけで、保護者の見方は違ってきています。

「どうせ学校の先生だろう」と言われる二流意識を払拭してもらいたいと思います。

二流と言われることを気にするのではなく「二流と思っていたが違うなあ」という気持ちにさせたいものだと思います。

そういう私は二流以下ですが、機会があれば「まな板に乗る」ことで、甘んじて批判にさらされるようにしています。
東洋の魔女の河西さんが「ボールに手が届かなかった明日は千分の一、いや一万分の一でも縮める練習を」と言っていたことに習いたいと思っています。

もし、偉そうな口をきくようになったら、それは上から見下ろしている姿勢であり、挑戦が止まった時だろうと思っています。


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2013年10月19日

またまた偶数倍音、奇数倍音いい加減にやめましょう

真空管アンプを宣伝したいのはいいが、嘘はいけません。
「まだ言っている」「また言っている」の類の記事には嫌気がさします。

真空管は音が良いという理由を説明するのに、楽器の音は倍音でできている、そしてその倍音は偶数次の倍音でできている。
人の耳には偶数次の歪みがまろやかで心地よく聴こえる。
真空管の音が良いのは偶数歪みだからである。
偶数歪みが柔らかく聴こえるのに対し、奇数歪みは刺激的で耳障りな音である。

と、こんな説明が真空管アンプの販売店でされている。

自分が真空管の音が良いと感じるのは結構。
でも、他人がそう感じるかは別の話である。
いただけないのは、楽器の音が偶数倍音でできていると説明しているところ。

楽器の倍音を管楽器で説明してみよう。

FlClbaion.jpg


図のように管楽器は両端が開いている開管と、片方が閉じている閉管がある。
具体的な楽器の例としては、開管にフルート、閉管にクラリネットがある。
これらの楽器の倍音は、開管のフルートでは偶数倍音列閉管のクラリネットでは奇数倍音列になる。

では、フルートはまろやかな音でクラリネットは刺激的で耳障りな音なのかということになる。


これは、チャイコフスキーのバレエ音楽の中の「中国の踊り」をフルートが演奏しているところ。



これは、ドビュッシー「クラリネットのための第1狂詩曲」である。

クラリネットの音は刺激的で耳障りな音に聴こえるだろうか?

真空管アンプの音の説明者は、実際にフルートやクラリネットの音を聴いたことがあるのだろうか?

次の図はクラリネットの音を機械を使って測定したものであるが、奇数倍音列であることがはっきり出ている。

clarinet_densotokusei.jpg


オーディオの好きな人の話を聞くと、しばしば、この人は実際に楽器の音をどのくらい聴いたことがあるのだろうと思えるものがある。

私は中学生のころから真空管アンプを作ってきた。
そのころは、トランジスターが未発達で、音楽鑑賞用としてはとても実用的ではなかった。
圧倒的に真空管の方が音がよく、その差は誰が聴いても歴然とした差があった。
しかし、その後の半導体技術の進歩で、その地位は逆転した。
特性はもう比較のしようのないほどの差がついてしまった。

真空管では低音から高音まで、人の耳で聴こえる範囲の20Hz〜20KHzを一生懸命追っていたが、トランジスターの方は0Hz〜100KHzをカバーすることが容易になった。
パワーも真空管が10W〜50Wぐらいなのに対し、トランジスターでは100Wを超えるのも容易で、1000Wのアンプでさえ売られている。

私が最も問題にするのはダンピングファクターで、真空管がせいぜい10ぐらいなのに対し、トランジスターでは200を超えるものは珍しくない。
ダンピングファクターとは何だと言う人がいるかもしれないが、乗用車に例えれば、ダンピングファクターが小さいのはでこぼこ道に弱い車のようなもの。
乗っていて、悪路の影響を受け乗り心地が悪いということだ。

アンプの音ではダンピングファクターが低いと、音が暴れまくる。
これは、実際に楽器では出ていない音が付加されるように聴こえる。
最もそういう音が好きというなら、個人の好みに対してとやかくいうことはない。

イメージとして真空管アンプの音は柔らかいと思っている人がいるようだが、当初、私もそう思っていた。
それで、高音用に真空管アンプを使ってみた。
スピーカーから出てくる音が、きつく刺激的だったので、これはスピーカーの特性だと思っていた。
ところが、ある日トランジスターアンプに換えてみたところ、すっかり綺麗な高音になった。
ダンピングファクターの関係で、真空管は高音を再生するとき暴れまくっていたのだ。

私は楽器の音をできるだけ忠実に再生することを狙っている。
しかし、人によっては現実にない音を付加してくれるものを好む人もいる。

だから「音がいい」と言っても、その人の好みを知らないと自分の求める音の参考にならない。

真空管アンプのいいところを宣伝するのはよい。
しかし嘘はいけない。
もし、自分が「こうだろう」と仮定したら、調べてみることが必要だ。
そうでないと信仰のようになってしまう。


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posted by edlwiss at 19:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2013年10月18日

パソコンを組み立てる

パソコン製作の依頼があり、昨日、組み立てを行った。
本日、依頼者のもとに届けて設定を行った。

CIMG1652_s.jpg


パソコンはメーカー製品もあるのだが、こうした依頼があるのは、オーダーメイドの良さを知った人たちだ。
オーダーメメイドの良さは何だろう?

経験のない人からは、しばしば「安く作れるんですか?」という言葉があるが、オーダーメイドにすると安くなるということはない。
安さを求めるのなら、メーカー製品を探した方がよい。
では、オーダーメイドの良さは何だろう?
思いつくまま挙げてみよう。

1.一つ一つの部品を吟味して揃えることができる
2.どういう仕様のパソコンが欲しいか要望が出しやすい
3.必要のないソフトが入っていない
4.故障の対応が早い

こんなところだろうか。

一度オーダーメイドを依頼した人は次も注文するので、良さを実感しているのだろう。

ただ、ノート型パソコンを作ることはできない。
作るのはもっぱらデスクトップ型である。

パソコンが自作できるようになったのは、IBMの影響が大きい。
IBMがパソコンを発売するまでは、各社それぞれの仕様のパソコンが売られていたが、IBMが参入するようになってからはIBM仕様のパソコンが標準となった。
そういう意味では、IBMがパソコンを標準化した功績は大きいと思う。

IBMが発売したパソコンはIBM-PCと言ったが、この仕様のパソコンをDOS/V(ドスブイ)と言う。

パソコンにはMacintosh(マッキントッシュ)もあるが、それ以外の民間で発売されているパソコンはDOS/Vである。

IBMはDOS/V型のパソコンを作っただけでなく、内部の技術公開もした。
日本ではDOS/Vが出る前まではNECが圧倒的なシェアを持っていて、これが国民機と呼ばれていたぐらいである。
しかし、IBMのDOS/Vの影響でNECのために瀕死状態であったメーカーが息を吹き替えした。
IBMはDOS/Vを作ることを他社にも許したためである。

だから、この時の構図はさながら、NEC対他社連合軍のようだった。
じりじりとNECの国民機はシェアを小さくし、いつのころからかNECもDOS/Vに飲み込まれてしまった。
というわけで、現在店頭に並んでいるパソコンはMacintosh以外はDOS/Vである。

DOS/Vは部品の仕様も統一されたため、私たちが電球を変えるときソケットを気にせず買うのと同じようにパソコンの部品が買えるようになった。

最近、ハイブリッド車が目立ってきたが、電気自動車になればDOS/Vのような経過をたどるのではないかという気がする。

部品が標準化され、自動車部品を買ってきて誰でも自動車が組み立てられるようになるのではと思う。
ただし、自動車は公道を走るので車検に合格する必要はある。

そうしなければ安全は担保されない。

同様に、パソコンも車検制度のようなものこそないが、安全に対する注意は必要である。

■電気製品の危険性

医療機器の発火が原因ではないかと報道された火事があった。

電気製品は電気を使うということで、発火の可能性を含んでいる。
今や、私たちは電気製品に囲まれて生活をしているとも言えるので、電気製品から発火の可能性を意識して生活する必要があると思う。
そのためには、電気の基本的な知識を試験のためだけではなく、常識として身につけておくべきである。
無知だから恐れないのだろうと思われる電気製品の扱いを見てゾッとすることもある。

電気のあるところにはなぜ発火の危険性があるのだろう。
順番に考えてみよう。

・熱が発生するから発火する

電力:P(W) 電流:I(A) 電圧:E(V) 抵抗:R(Ω)

とすると、

P=I・E

で、熱の発生すなわち、ジュール熱はP÷4.2カロリーが毎秒発生する。

一方、E=I・Rとも表せるから

P=I・I・R

で、つまり電流の二乗×抵抗÷4.2カロリー
の熱が毎秒発生する。

これを具体的な場面にあてはめてみると、電気のコードが痛めつけられたとき、何本もの束になっている細い線が切れると、導線の断面積が減ることになる。
抵抗は導線の断面積に反比例するので、もし半分の線が切れたとすれば、同じ電流が流れると発熱は2倍になる

電気のコードが痛められた時、内部の線が切れてそこから発熱する可能性は高い。


とりあえず、日常生活で一番注意することだろう。

パソコンの組み立て自体は、そんなに難しいことではない。
しかし、電気の基本的な知識なしで作ったパソコンは怖い。

プラモデルを作るとはわけが違うことを認識すべきである。

下図はパソコンの電源部の一例である。

CIMG1656_s.jpg


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posted by edlwiss at 23:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | パソコン

2013年10月17日

心を伝える

他人のことをあれこれ申し立てる時、何が目的なのか考えてみる必要がある。

昨日の記事他人を貶(おとし)めても自分の地位は上がらないで、貶めるということは、相手を劣ったものと軽蔑する、さげすむ、見下す、下落させる、成り下がらせるということで、相手にダメージを与えて不幸にしようということだ。
これは、いじめの根源的なものと言える心理だ。

それに対して、密告のようでも人を貶めるのが目的ではない場合もある。
「○○さんが××なことをしています」
という言い方では、危険なことをしているので火事になるかもしれない、している本人の身が危ないと心配している場合もある。

今日は「心を伝える」と題したが、やりとりでどういう心を伝えているのかどういう心を伝えていたのかを見極めなければならない。
そうしないと、とんでもない誤解をして相手の心を傷つけてしまう場合もあるだろう。

「悪く言う」というのは特に「批判する」ことが、悪いととられやすい場合がある。
しかし、批判することは大切なことである。
むしろ、批判できないというのは分析力がないからだとも言える。

そういう意味で「批判」の意味を正しく理解しているか?

ひ‐はん 【批判】

[名](スル)
物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を―する」「―力を養う」
人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の―を受ける」
「政府を―する」
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。

ことバンク


しばしば、批判されたと怒る人がいるが、本当に批判されたのならその批判を謙虚に受け入れるべきである。

人とのコミュニケーションでは、どういう心のキャッチボールが行われているかを捉えて、本質を見失わないようにしなければならないと思っている。


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2013年10月16日

他人を貶めても自分の地位は上がらない

盛んに他人の悪口を言う人がいます。
子どもの中にも、他の子どもの悪いところをいちいち申し上げに来る者もいます。
これはどういう心理なのでしょう?

自分が叱られると、他の者の悪いところ見つけては報告に来る子どもがいます。
これは、悪いのは自分だけではありませんと言うことを、先生に理解してもらいたいからなのでしょうか?
そして、他に悪い者がいるということで、自分が目立って悪いわけではないという主張なのでしょうか?

問題はそのような報告をしに来た子どもの取扱いだと思います。

「よく悪い子を見つけたね、ありがとう」

と言うのか

「他人の悪口などいうべきでない」

と言うのか、あるいはもっと他のことを言うのか。

江戸時代は士農工商という身分制度があったことは学校で学びます。
同時に士農工商の身分制度に組み入れられない人がいたということも習います。

時代劇には、目明し、岡っ引きという人が出てきますが、彼らは仕事が密告や密偵的なことで、町人の悪いところ探しお役人に知らせるということをやっていたらしい。

士農工商から漏れた人間をそういう仕事に使うことで、人間のコンプレックスをうまく利用していたのだなと解釈しました。

自分よりいい暮らしをしている人が憎らしくてたまらない。
自分の密告によって、そういう者たちが番所に引っ立てられて、お仕置きを受けるのは嬉しくてたまらない。
しかも褒美までもらえるとなれば、熱心になるだろうと想像できます。

現代は江戸時代ではないが、どこかに同じような人間の心理が生きているように思えます。

他人の不幸を見て喜ぶというのは、コンプレックスや他人の生活を羨む心がさせている面があるのでしょう。
何かしら、自分より上と感じる人に憎悪を感じるというのは、そういう性格だから仕方がないと言ってしまえばそれまでですが、人間の持つ醜い感情の一面だと思います。

他人のことを悪く言うというのは、時として批判と間違えられやすいですが、悪口と批判は全くといって違うものだと思います。

いずれにしても、人の持つ欲望の中には認められたいというものがありますが、自分が目立ちたいがために、他人を貶めてもかえって自分の品位を下げるだけだと思います。
目立ちたいなら、人を下げようとするのではなく、自分が上がろうと努力してほしいものだと思います。

ということで、子どもが他の者の悪いところを告げに来たら(つまり密告に来たら)、私はそういう行為自体を否定します。


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posted by edlwiss at 23:36 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年10月14日

今日も合唱を聴きました

今日はNHK音楽コンクール中学の部全国大会を聴きました。

金賞は東京代表、豊島岡女子学園中学校でした。
表現もも素晴らしかったけど、とても綺麗な声で女声合唱のよさがよくわかりました。
指導の先生、本当にご苦労様さまでした。
生徒たちも、青春の一ページによい思い出ができたことでしょう。
その他の中学校も素晴らしく、それぞれのカラーがあり、特に賞で区別をつけなくてもと思いました。

すばらしい生徒たちにすばらしい指導の先生。
あらためて、人生は出会いという言葉を思い出しました。

私は合唱部のある中学校に務めことはないので、羨ましく思いました。
時々、合唱の聴こえてくる中学校、いいなあと思います。

合唱のいいところは、楽器はなくても人さえいればすぐにできること。
帰りのバスで歌いながら帰校した学校もあるかもしれません。
やっぱり、学校の先生はいいなあと思いました。

楽器を使った音楽も歌心がなければうまく行きません。
私は時々吹奏楽の指導をしますが、音がよくないときは、楽器を置いて歌ってもらいます。
そうすると、必ず音がよくなります。
歌は基本だと言うことを実感します。

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posted by edlwiss at 18:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年10月13日

東洋の魔女

今日はNHKで「東洋の魔女」を放送していた。

東洋の魔女が活躍した東京オリンピックを、私は子どものころテレビで観た。
ソ連との決勝戦だった。
その時、私は日本が勝つのが当然のような思いで観ていたような気がする。

その頃は、勝ち負けだけでハラハラして観ていたように思う。
今日の番組では東洋の魔女がオリンピックで金メダルを取るまでの過程を、記録を含めながら放送していた。
新聞の番組欄で見たときは、特に観ようとも思わなかったが、チャンネルを切り替えていたとき、10分ほど経過していた放送をチラッと観た。
主将だった河西さんの話が聞こえてきた。
そうしたら続きが観たくなって、番組の終わりまで観てしまった。

東洋の魔女と言えば大松監督。
東京オリンピックがあってから十数年経った後、鎌倉方面を旅行したとき大松監督の墓に立ち寄った。
墓石がバレーボールの形をしていた。

大松監督は鬼の大松と言われていたので、さぞ怖い監督だったのだろうと想像していたが、放送を観て、何が何でも金メダルをを取るという亡者ではないことがわかった。

東京オリンピックの二年前には、世界大会があって東洋の魔女は優勝した。
それで、河西主将以下、選手たちはこれで自分たちのバレーは終わったと思ったという。
世界大会の時までは、バレーはまだオリンピック競技ではなかったこと、最年長の河西主将は29際でみな結婚適齢期を迎えていた。

ところが、彼女たちが凱旋して帰国したとき、バレーがオリンピック競技になった報道があったので、国民の期待は2年後のオリンピックに向かった。
その時の大松監督の言葉が印象的だった。
年頃の彼女たちに「僕は君たちにこれからもバレーを続けて欲しいとは言わない、でも君たちがやるなら僕もやる」と言った。

彼女たちは、午後4時半から夜中の1時まで、それまで毎日練習を続けてきたので、やっとバレーがやめられると思っていたが、結局、大松監督の心に動かされて続ける決心をした。

鬼の大松は私の想像する怖い人ではなかった。
とても思いやりのある優しい人だった。
選手の一人は、将来、旦那さんにするなら監督のような人がいいと言っていた。

選手と監督は強い信頼関係で結ばれていて、それがオリンピックでソ連に勝つというエネルギーを生んだのだ。
ソ連戦の前に、大松監督は選手たちに「これまで、よくついてきてくれた。でも今日で終わりだからね」と言ったそうだが、これが選手たちの心に強く響いたということだ。
試合中、監督は選手を信頼し、ピンチにも動ぜず何も言わなかったという。
ソ連に勝ったとき、大松監督はベンチから立ち上がれなかった様子をカメラは写していた。

河西さんは当時を回想して、何が嬉しかったかを次の二つだと語った。

1.手を出しても5cm、10cmと届かないボールを、練習すれば明日、明後日届くかも知れないそれもできなかったら千分の一、一万分の一かも知れないが届くようになる。こういうことを教えてくれた大松監督に感謝する。
2.一緒にバレーをやってきたことで、かけがえのない仲間ができたこと。

金メダルをとったこととは言わなかった。

番組はEテレの、全国学校音楽コンクール小学校の部を放送していた。
私は録画しておいて観たのだが、どの小学校も大変上手で審査員は大変だろうと思った。

子どもたちはみんな、いい顔をしていて、指揮の先生を信頼して一つになって歌う姿は誠に感動的で、思わず涙が出てきた。
同時に、あそこまで子どもたちを鍛え、指導してきた先生たちに尊敬の念を抱いた。
指導者のすばらしい姿を見たと思った。
子どもたちは、おそらく夏休みも返上して先生を信頼して毎日通ったことだろう。

やはり、ここにも指導者と子どもたちの信頼関係の強さを感じた。
インタビューされた子どもたちが、たくさんの友だちができたという喜びを語っていた。
東洋の魔女と共通するものがある。

6年生に「中学校に行っても歌いますか?」と聞くと、急に顔が明るくなって「はい」と答えていたのが印象的だった。
そこまで、歌を好きにさせた指導者は偉い。

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2013年10月13日

カタカナ語訴訟

意味不明なカタカナ語を使うなとNHKを提訴した人がいる。

確かにカタカナ語は増殖傾向にあるような気がする。
最近気になるのは「リスペクト」だ。
民放のアナウンサーの「・・・そういうわけで○○さんはリスペクトされているんですね」に、私はドキッとした。

放送局は日本語の基準を守っていく責務があると思う。
「尊敬」と言わないで「リスペクト」を使うような方針になったのだろうか?
放送局は言葉についてどう考えているのだろう?
NHKではよくある質問集にて、NHK放送用語委員会で審議しているとの回答がある。
民放はどうなっているのだろう?

カタカナ用語がすべていけないわけではない。
言葉は通じることが大切だから、意味のわからない言葉や意味を曖昧にするものは避けるべきだ。
加えて「響き」も大切と思う。
汚い響きは避けてもらいたいと思う。
「やばい」という言葉があるが、カタカナ語云々は別にして、私は、響きが嫌いだからつかわない。
言葉は環境でもあると思うから、言葉の響きが環境を作ると思っている。

「リスペクト」も驚いたが「リアクション」も違和感がある。
私が他人の言葉遣いを注意する立場にはない。
どういう言葉遣いをするかは自由だと言われたら返す言葉はない。

しかし、言葉遣いは人格を表していると思うので、それなりに人柄を感じてしまうところがある。
格好いいと思っているのかも知れないが、意味不明、不確定なカタカナ語を使うのは、相手に自分の意志を伝えたくないのか、それともそれが教養と錯覚しているのだろうか?

ともあれ、学校の先生はその立場からして言葉遣いには気をつける必要がある。
正しい言葉遣いを人々に伝えるとともに、自分の姿勢も表現しているのだと言う自覚も必要と思う。


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posted by edlwiss at 10:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年10月12日

指揮者の楽譜は真っ黒

todai_benkyohou.jpg真っ黒と言っても、書き込みが多いという意味で黒く塗りつぶされているわけではない。
指揮者の楽譜(総譜=スコア)を見ると、思考で奮闘した様子がうかがわれる。

勉強も結局、頭に入らなければ何にもならないわけで、そのためには教科書や参考書が汚れることは構わないと思う。
もちろんそれは自分の所有物であることが前提である。

昔、コンピュータの勉強をしている時、先に勉強していた人の意見が参考になった。
「本は3冊買いなさい」というものだった。
それは、参考になるページは切り取って貼れというもので、3冊必要というのは、切り取った裏のページが必要な場合があるので、切り取り用だけで2冊いるということ。
そして、1冊はまともなものを本棚に置いておくので、合計3冊になるということだ。

コピー機を使うという手も考えられるが、コピーは意外に金がかかる。
それなら、買ってしまった方がよいということだ。

本に落書きをすることはよくないが、勉強の能率のために本が汚れたりバラバラになることはいいことだと思う。
私の経験では、勉強中にわからないところがあると、本を探し回った。
書店めぐりはずいぶんやったものだが、立ち読み中に「これだ」と思うところは数ページ、ひどい時は数行ということがよくあった。
結局、その数ページ、数行のために何千円も出すのだが、欲しいのはその本のごく一部なので、切り取ってノートに貼った方が勉強の能率はよい。
これは、自分のための参考書を作るようなものだ。

■形式的な勉強を廃すること

机に向かって本を開くと勉強のスタイルに見える。
何かノートに書いていると、これも勉強のスタイルに見える。
しかし、スタイルが本当に勉強になっているのかどうか、既成概念を打ち砕いてみる必要がある。

女子に多いように思うが、きれいにノートの整理をしている者がいる。
まるっきり写しているなら、コピーした方がいいじゃないかとさえ思う。
もっとも、書く作業をすることで記憶が高められるという効果はあるだろうが、それが本当に能率的なやりかたなのか?

幸田露伴の娘、幸田文は一枚の紙を粗末にして、父に叱られたという文を書いていた。
昔も今も紙は大切で、本に至っては発行部数も少なく貴重なものだった。
その精神を受け継いでいく心は大切にしなければならないが、時代はどんどん移り変わっていく、その時代に乗っていくには考え方も変えていくという柔軟さが必要だと思う。
自分の勉強のために犠牲になった本に感謝する「謝本祭」をつくるのもいいかもしれない。

辞書を1ページずつ記憶して、覚えたらそのページを食べて、これで腹に入ったと言っていた人がいたとか聞いたことがあるが真偽は定かではない。

いっそ、食べられる本というのを出したらどうか。
完全に頭で消化したら、食べて胃でも消化するというのは一石二鳥ではないか。

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posted by edlwiss at 20:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

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