2013年12月31日

貧困からの脱出(2)

今朝、目が覚めてテレビのスイッチを入れたら、小学生、中学生が起業した話題を放映していた。
正に、私が先日書いた貧困からの脱出を実現した小中学生がすでに存在したのだ。

最も、彼らは貧困家庭ではなかったが、パソコンでプログラミングできる能力を発揮して、小学生の方はすでに株式会社を設立していた。小学校6年生の12才である。
中学生の方は女子で、起業している。
小学生の彼は、構想を小3の時に持っていたと言うからから驚きだ。
彼らは数千万円の収入を得ている。

前回の記事でも述べたが、今やオリンピックの選手もずいぶん若返りしているように、頭脳の方も「まだ子ども」という先入観を持たないほうがよいと思う。
頭の硬化した大人よりよほど間に合うかも知れない。

よく、今の子どもはコンピュータに強いと聞くが、ここにはかなりの誤解がある。
生まれつき強いのではなく、関心を持つと習得が早いということだ。
それに「壊れる」という恐れを知らないので大胆に操作するということがある。

関心のあるゲームだけに夢中になっている子どもは、そのレベルが限界であり。
今回の、すでに起業している小中学生は、プログラミングに必要な数学の知識、社会的知識も持っているということだ。

「学問に王道なし」というように、一足飛びにプログラムが作れるようになるわけではない。
必要なことは学ばなければならないし、ゲーム少年がある日突然普通のプログラマーになれるわけではない。
しかし、子どもは興味を持つとものすごいエネルギーで勉強をする。
小学校6年生分を1年間で終わってしまったり、小学生が中学生の分野を習得してしまうということもあり得る。
実際、私が指導を頼まれた小学校5年生の女子は、中学校の数学を全部理解してしまった。

教育改革は、子どもを年齢で縛ることなく、できる者はどんどん進ませる方向、つまり飛び級も取り入れてもらいたいと思う。

今回の例を見ても、小中学生でも起業できるほどの能力を発揮できる鍵として、パソコンがあるかないかの環境が大きく影響していることがわかる。
だから、タブレットよりパソコンを教科書無償と同じように配布することを望みたい。

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2013年12月30日

貧困からの脱出

日本では「義務教育は無償である」とされている。
日本国憲法
第二十六条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
しかし、日本は親の教育費負担が多いので、所得格差のもたらす貧困化は教育活動における不平等をもたらしている。

このことが貧困の連鎖を起こし、貧困からの脱出を困難にしている。
公立学校では授業料こそ徴収しないものの、その他の費用は個人負担なので、皮肉なことに日本の経済発展ともに、各家庭の教育費の負担は大きくなっている。
子どもは、少なくとも生まれた環境によって競争の格差が生じないようにしなければならないと思う。

昔は収入の少ない家庭でも、本人の努力により国立大学を卒業することができたが、現代では非常に困難になった。
4年制の国立大学を卒業するには、大学納付金だけでおよそ200万円は必要である。
授業料免除制度はあるものの、適用される人数が少ないので、貧困家庭を救うのは十分ではない。

「貧しくても苦学して大学を卒業した」というのは、この国では死語になりつつある。
結局、これは教育にかける国家予算が少ないということに尽きる。
OECD(経済協力開発機構はヨーロッパ諸国を中心に日・米を含め34 ヶ国の先進国が加盟する国際機関)の中で、比較するとGDPに対する教育予算は平均が5.4%であるが、日本は3.6%で、比較可能な31カ国中最下位である。
高等教育になると、平均1.1%に対し日本は0.5%である。
安部首相はOECD並にしようと頑張ったそうだが、財務省の抵抗にあって実現しなかったそうだ。
総理大臣強い官僚とは何なのかと思う。

前置きが長くなったが、日本が国際競争力を持つには、国の予算が少ないということが言いたかった。

■貧しくても優秀な者にはチャンスを

ゼロ戦は戦時中、連合国を脅威に陥れた有名な戦闘機だが、この戦闘機のエンジンの3分の2を製作した会社は、中島飛行機製作所である。
この会社を作ったのは中島知久平で、彼はあまりの貧しさに14才のとき、家を飛び出し「お父さんお母さんさがさないでください。きっと立派になって帰ってきます」との言葉を残して行ったという。

彼は海軍に入り、そこで勉強したことを元に、海軍退職後会社を作り、父母のために家を建てて送ったそうである。

このように「頑張れば成功する」という夢を、子どもたちに与えることのできる国でありたいと思う。
そのために、競争の起点でハンディのない教育政策をやってほしいと思う。

具体的には、以前にも提案した、全国の家庭に公的予算で光ケーブルを引くこと。
中学生全員にコンピュータを配る。
全国プログラムコンテストを年齢不問、賞金5億円で行う。

googleでは、Andoroid用のアプリを開発して、googleが認めたものは最高3000万円までの報奨金を出すそうである。

開発に関わるソフトは無償で手に入るので(googleが提供している)、ノートパソコンがあれば子どもでも開発ができる。
もしかしたら、中学生が3000万円を手に入れたということが起こるかも知れない。

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2013年12月29日

タブレットよりノートパソコン

子どもにタブレットを配り、教育に役立てているという学校の実践はいかがなものだろうか?

私が気にするのは、タブレットを授業で使っている場面より、メンテナンスだ。
何か道具を使うということは、その道具を使うための準備が必要になる。

鉛筆を使うには鉛筆削りが必要である。
黒板を使うにはチョークが必要。
黒板消しも必要で黒板消しを掃除する手立ても必要。

これらのものは、学校教育の中にメンテナンスの課題をクリアし、活動の中に溶け込んできた。
だから「やっかいなもの」ではなくなっている。

しかし、タブレットはどうだろう?
タブレットを使っている場面を紹介するだけでなく、メンテナンスを含めた場面も含めて紹介してほしい。

学校で子どもが使うものには耐久性が必要である。
鉛筆やチョークは落としても、回復性が高い。
折れても削り直すとか、予備を使うなどである。

タブレットはどうか、子どもが落とした場合。
電池切れの場合。
故障した場合。

タブレットが今までの教育ツールと違うのは、情報を内蔵するか通信によって送り込むかをしなければ役に立たない。

タブレットの最大の欠点は、一種のコンピュータであるにもかかわらずパソコンほど機能性がない。
情報を見るだけならいいかも知れないが、何か仕事をしようとするときにはパソコンほどの能力はない。

だから、アクティブに仕事をしようとする人からは不満が出てきて、ノートパソコンにうつる人も増えてきた。
そのノートパソコンが敬遠されたのは、携帯性だが、そんな時登場したタブレットに期待がかかったが、仕事をするには力不足で、かつての過熱ぶりはない。
そこで、可搬性のよいネットブックに注目が集まった。
結局、普通のコンピュータが求められているのだ。

■ノートパソコンを中学生に

中学生になったら、全員に、国の予算でノートパソコンを配るというのが、私の提案である。
それでは、タブレットがノートパソコンに代っただけではないかと思う人がいるかも知れないが、そうではない。
中学校入学とともに配布するののだが、使い方を強制しない

何のために配るのかと言うと、今の社会は所得格差の影響で、パソコンが買えない家庭が増えている。
パソコンはゲーム機が買えるか買えないかの問題と違って、もはや必需品になっている。
デジタル・デバイドという言葉があって、パソコンが利用できない人たちが増えることは、ますます経済的格差を生み、行政の立場から見ても住民サービスに支障を来す。
このデジタル・デバイドは諸外国の間でも、問題視されている。

とにかく、パソコンはどの家庭にもあって、それがインターネットにつながっているという環境が必要である。
だから、光ケーブルも公共サービスで各家庭へ無償で引く必要がある。

■資源のない国は頭で稼ぐ

無から有を生み出すのは、人間の知恵である。
今や、日本の政治は利権や既得権でがんじがらめになって、大胆な改革ができなくなっている。

所得のうち、公共料金や税金などどうしても払わなければならない所得を不可分所得といい、特に用途の決まっていない所得を可分所得と言うが、総所得が大きくても不可分所得が大きいのはよくない。
わかりやすく言えば、自由に使える可分所得が大きい方がいい。

我が国の財政は不可分の割合が大きく、政策を実行するにも予算がないという状態で、これを財政の硬直化と言っている。

硬直化は財政だけでなく、教育も硬直化している。
それは、ほとんどの者が18歳までが人生のコースが定められているようなもので、あまり意味があるとは思えない受験競争に縛られている。

そして、加工貿易に依存する体質が続いているので、円高でも円安でも誰かが具合が悪いということになっている。
日本は人材を活かした、頭で勝負する国にすべきである。
そのためには、無から有を生むプログラマーの要請に力を入れるべきである。

国の予算で毎年、プログラムコンテストをやり、一位賞金5億円にする。
参加年齢不問にする。
そうすることで、硬直化した受験競争が壊れるだろう。
中学生の中から優れたプログラマーも育つだろう。

全ての中学生にパソコンが配られていることで、所得の低い家庭の子どもにもチャンスが与えられる。
5億円の賞金をもらい、国の支援で会社設立ができるかもしれない。

残念なのは、この国の硬直化した教育体制である。
小学生や中学生を「まだ子ども」と言って、頭の中まで子ども扱いにする大人は古い。

現に、スポーツの世界では低年齢化しており、オリンピックの選手も中高生の活躍が目立ってきている。
「まだ子ども」として制限してきたのは、硬直化した大人の頭だろうと思う。

12歳の大学生も可能な国にしてもよい。
それには「ゆとりの失敗」などと、全ての子どもをがんじがらめにするような大人たちの思考も障害である。


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2013年12月28日

来年は暮らしがよくなるのか?

アベノミクスの構想によると、来年は消費税が上がるものの、企業が賃金のベースアップを行うので景気が良くなるということだ。
しかし、もし、見込み通りになったしても低所得者の収入は増えないのではないかと思う。

その理由は、今、日本の労働者の40%は正規雇用ではない。若い人にとっては正規雇用ではない人は50%にも上る。
ベースアップは正規雇用者のみに反映するものなので、非正規雇用者との収入格差はますます広がることになる。
その上、このところの円安に加え、来年からの消費税アップは非正規雇用者にとってはつらいものになるだろう。

私はファイナンシャルプランナーの資格を取ってから、経済のことがかなり気になるようになった。
ファイナンシャルプランナーは2年毎に所定の単位を、試験もしくは講習によって取得しなければ、資格が無効になってしまう。
だから、いやがおうにも勉強はしなければならない。
紙の上の知識だけでは、相談者によい意見、提案はできないので、実際に社会が生きているという感じを肌で感じるために足を使って取材することは大切だ。

企業訪問での得られる知識、色々な家庭を訪問することで得られる知識は、空想しているだけでは得られないことがある。
学校の先生は、主に自宅と学校を行ったり来たりなので、たまに家庭訪問があるとしても詳しい家計のことまではわからないだろう。
相手もどの程度親身になってくれるだろうかと、信頼関係が築けないうちは全ての情報を得ることは難しいだろう。
それに、先生は収入が安定しているため貧困の実態がわかりにくいと思う。

一家が月10万円で生活するとはどんなことか、わかるだろうか?
一食100円の生活が実感できるだろうか?

知人で会社を経営していたが、倒産してしまった者がいた。
彼は私の家にやってくると、家の中を物色し、カセットレコーダーに目が止まると
「これ使いますか?」
と言った。
「使わない」
と言うと持って行ってしまった。
どこかで金に代えて、モノは返ってこない。

新聞を見せてくれと言う。
折込広告が目的で、スーパーのチラシをチェックして、なるべく安い買い物をする。

「夕ごはんに来ないか?」
と言うので、行ってみると彼が食事の支度をしていた。
ごちそうしてくれるのかと思ったら、食後に200円置いてってくれないかという。
食事代をなるべく安くあげるには、一人ではムダが多いので私を誘ったのだ。
彼はこうして、1円もムダにしないという生活をしていた。

残念なことに、彼は病気で亡くなってしまった。

吉野家の牛丼が時々240円でやっている。
しかし、この牛丼でさえ恩恵にあずかれない人がいる。
予算が100円だからだ。
一日一食の人もいる。

今、日本の労働実態は、低所得者ほど労働時間が長いという傾向にある。
早朝に出勤し、深夜に帰って来るのですでに子どもが寝ている場合も多い。

離婚の増加でシングルマザーが増えているが、女性の場合は男性より賃金が低い場合が多いので、より生活は苦しい。

清貧に甘んずると言っても限度があり、むしろ、衣食足りて礼節を知るを重視すべきだろう。
衣食足りて礼節を知るとは、人は生活に余裕ができて、初めて礼儀や節度をわきまえられるようになるということ。


雑誌「サイエンス」の研究「貧困が人の知力を鈍らせる」によると「明らかに貧困は人の知力を鈍らせ、IQ(知能指数)を13ポイント減少させる可能性がある」と報告している。

日本国憲法では、第25条1項において「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と定めている。

安倍政権はこの権利を実のあるものにしてほしい。

参考 貧困の悪循環


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2013年12月27日

すき焼きとおかゆ

貧すれば鈍すと言うが、あまりにも収入が少ないと心も蝕まれる。

人一人がやっと生活できる収入は、一ヶ月15万円、夫婦の二人では25万円という数字が出ている。
これは、やっと生きられるという数字である。

もちろん暮らし様で、これ以下でもというのはあるが、この数字は「人間らしく生活できる」という水準を想定している。
生きているだけ、人間らしさ以下では心もすさんでくるだろう。

小学生二人に夫婦の4人世帯を考えると、生きるだけで一ヶ月30万円は必要だろう。
これは年収360万円ということになるが、日本の世帯収入の平均は450万円ぐらいで、中央値は224万円です。
この224万円の半分の112万円に満たない家庭を貧困家庭と言いますが、これは16%が相当します。
つまり、日本の貧困率は16%と言うことです。
これは経済危機と言われているギリシャより高い数値(貧困率が高い)です。
年収112万円に満たない、夫婦と子ども二人の家庭生活がどんな風か想像できますか?

親子の会話なんてとてもできる状態ではないでしょう。

貧困率が高くなると犯罪は増加します。
目に余る犯罪をとやかく言う前に、人間らしい暮らしのできる家庭、子どもが貧困によってハンディを持たない政治を望みます。

小泉内閣で財務大臣だった塩川正十郎氏は

「なんだ、向こうはすき焼きを食べているのに、こちらはおかゆをすすっているのか」

と発言しました。
(財務大臣になって、やっとそんなことがわかったのかと驚きましたが)

すき焼きを食べているのは、特別会計を預かる霞ヶ関の官僚たちのことで、おかゆをすすっているのは国民のことです。

国家の総収入の240兆円のうち、90兆円しか国会で審議しないのはおかしいのではと思います。
国は財布の中身全部を明らかにし、予算の配分を必要度の高いものから決めていくべきと思います。

子どもの心が荒れていると嘆く前に、子どもが人間らしく生活できることを保障すべきだと思います。
貧困家庭の子どもの成績が低いという結果は、統計にはっきり出ています。

私はあちこちの地域で吹奏楽指導をしてきましたが、A市とB市では完全に1学年分水準が違っていました。
市民の年収を調べてみると、平均で100万円違っていました。
食べるだけで一生懸命だと、文化的な支出が少なくなります。
これは、子どもが入学する前に、家庭教育で知的な差がつくことを示しています。

民主党は霞が関改革を行うと意気込んでいましたが、官僚の抵抗にあって挫折しました。
安倍政権ではどうでしょう。

国民のための仕事をするはずの官僚が、国民の敵になっているのは、変な国だと思います。


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2013年12月26日

答えのない授業

水が摂氏100度で沸騰することを、実験によって確かめることは容易ではない。
だから、どうして、そういうことがわかったんだろう、という疑問が出てくることはむしろ自然ではないかと思う。
また、そういう疑問は本物の学問の入り口ではないか?

あらかじめ覚えることが決まっていて、それを機械的にせっせと覚えることが課せられているというシステムは、勉強嫌いを作っているのではないかとさえ思う。

安倍内閣は教育に力を入れると言っていて、特に道徳を重視しているようだ。
道徳はともすると、戦前の教育勅語を連想する人たちから賛否の声があがる。

「お父さん、お母さんを大切にしよう」

のどこが悪いんだという人がいる。

どこも悪くない。
いや、大切なことだ。

だが、おかしくなってしまうのは、次のような授業風景だ。

先生:「お父さん、お母さんを大切にするんですよ」

子どもたち:「(一斉に)はい」

実質、これで指導は終わり。

実際の授業では、1時間の授業を持たせなければならないので、資料を使って朗読させたり、お決まりの意見交換をする。
整然と進む授業を見て、参観者の中には感動する人がいるのかもしれない。

とにかく「整然」「揃っている」が好きな人もいるので、先生の「・・・ですよ」に、子どもたちが見事に呼応して、一斉に「はい」というところがたまらないと言う人もいるようだ。

私が道徳の授業で一番懸念するのは、授業が「導入」「展開」「整理」とあって、授業の終盤の整理で、必ず答えを言わなければならないとしていることだ。

45分なり50分なり延々と授業をしていく中で、最後は「お父さん、お母さんを大切にしましょう」「はい」で終わるような授業はやってほしくない。

なぜなら、なぜ、今道徳なのかを考える時、何を目的にしているのかを問いたいからだ。
もし「お父さん、お母さんを大切にしましょう」「はい」の授業をよしとするなら、戦前の軍国主義教育と何も変わらないと思うからだ。

道徳教育の目的は、先生の問いに対して、こう答えるというパターン化を子どもに刷り込むことではない。
携帯電話の電池切れの時に、コンビニの室外コンセントから、何の疑問も感じず充電する子どもを育てることではなく、その時、自分の手がはたと止まって、自分の行為を考えるような子どもを育てることだと思う。

学校内で模範回答をする子どもでなく、学校外で自分の行動を考えられる子どもを育てるべきである。
道徳の授業では、何の答えもなかったことが子どもの記憶に残り、答えは子ども自身の行動の時、子ども自らが答えを出すものでなくてはならないはずだ。

子どもは成長の中で、ほぼ無意識のうちに、自分の生活のモデルを作ると言う。
そして、そのモデルとは自分の生活に近い学校の教師だと言う。

これは、教師がいくら立派なことを言っても、子どもの心に一番影響を与えているのは教師の行動だということになる。

上から下、つまり道徳はトップダウンの指示、命令ではなくトップの模範なのだ。

安倍内閣が本気で道徳教育をしようとするなら、永田町改革、霞ヶ関改革を行って範を示さなくてはならない。


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2013年12月25日

早いが良いとは限らない

教育の成果とは何だろう?
試験の点数が上がることか?

いつも点数の上昇を成果と考えるからおかしなことになる。

ある授業を見て、まどろっこしいと考え「そんなやりかたをやるより、もっとこういう方法をとれば、早く答えに到達できる」と思うのは、教育は点数と考えている証拠だろう。

早く答えにたどり着けることが、すべて無意味とは言わないが、対象となる授業や指導の目的が何であるかを正しく捉えていないと筋違いの意見を言うことになる。

何らかの試験に合格することを考え、そして、その試験が点数で決まるなら、いかに効率的に点を取ることを考えた方がよいだろう。
しかし、試験が作文を書かせるものだったら、どう指導するのだろう?

いずれにしろ、学校が受験だけに振り回されていたら、最も柱となる教育の中核が損なわれる恐れがある。
そういう意味では、いかに試験を突破するかだけに特化した学習塾の考えを、そのまま学校に持ち込むことの危険性を忘れてはいけない。

子どもを教育するということは、節目の試験にだけに高得点を取り、試験が済めば後はすっかり忘れてもよいということを目的にするわけではないはずである。

よく「成績が上がった」という言葉が出て来るが、その成績とは何だろう?
一過性のテストの点数が上がったことなのか?
教育は一過性を求めているわけではないだろう?

教育の成果を短絡的に、一過性の点数に集結させる考えをやめよう。

こう言うと、きれいごとを言っているという人がいるかも知れないが、そう考える人がいるとしたら、そういう人は思考力がかなり足りない人と思わざるを得ない。

■どういう人に育って欲しいか

木を育てるときには、植えた時に根がしっかりつくような支えや肥料が必要である。
その後は自立して伸びていくための肥料が必要になる。
こう考えると、木には即効性の肥料と遅効性の肥料が必要である。

教育をそっくり木を育てるモデルと同じにはできないが、長い目で見なければならないことに違いはない。
子どもが自立する間に関わる大人は、子どもの長い人生を見通して教育を考えねばならない。

現状はどうだろう?
分業化が進み、自分の守備範囲だけ考えればよいという、利己的な考えになってはいないだろうか?

卑近な例では、部活動がどういう目的で行われているか考えてみるといいだろう。
運動部など試合のある部活動では、勝つことを目標にするだろうが、目的はどうなっているのだろう?
目標も目的も同じだろうか?
同じだとしたら、勝つことで目的も達せられたことになる。

勝つことが目的の部活動では、勝つためには手段を選ばずとなりやすいのではないか?
評価する者も、勝つことが目的という意識を持っていると、手段を選ばずということになって、不正にも目をつむりがちになりはしないか?

部活動で体罰が横行するのは、勝つことが目的化しているからではないのか?
勝つことで報酬が上がるとされているコーチでは、報酬に意識が傾くと、部員は自分の報酬のための手段となりやすいのではないか?

同様に数ある学習塾も、目標と目的が何であるか調べてみるとよい。
利益だけが目的化していると、受験教育と教育の名を冠していても、合格率とかどの学校に何人合格したという表面的な結果だけを宣伝し、教育のかけらなどどこにも存在しない経営になるだろう。

点数を取ることが目標としても、できない者ができるようになる指導をするのが学習塾の理想であり、さらに合格実績だけ作ればよいというのではなく、合格後の人生までも意識して指導するのが望ましい。

学習塾も学校も、とにかく送り出してしまえばいいという、自分の守備範囲だけ考えているとしたら、子どもは大人の飯の種になっているだけという、一種の犠牲者になりかねない。

■大切な授業

「水は摂氏100度で沸騰する」と言っても、実験でそれを確かめるのは容易ではない。
実験器具を用意して記録をとっても、温度計がピッタリ100度を指すかどうか?
もし、100度を指したとしても、真の値が100度かどうかわからない。
いくつかの班に別れて実験した時、班ごとに値が違っているということも十分考えられる。

偶然100度を指していても、予め「水は摂氏100度で沸騰する」ということを、どこかで読んだか、誰かから知らされたので、思い込みによって実験で確かめられたと思っているだけだ。

実験によって、結果がある値になるということを知るのは容易ではない。
どうも、100度に集結するようだという予想や仮説は立てられても、100度を証明することは難しい。

だから、時間をかけて実験しても100度になるかどうかわからないというのが正しいわけだ。
しかし、試験で「わからない」と書いたのでは○はもらえない。
実際はわからなくても「100度」と書かなくては○にならないのが試験(テスト)である。

私はこういうところが、試験の最大の欠点だと思っている。

点数至上主義にどっぷりと浸かってしまっている先生からすると、結果を出すまでに時間をかけている授業を見ると、非常にムダの多いことをやっている。指導者の頭が悪いと映るかも知れない。
しかし、それは頭が悪いのではなく、早く答えを知ることこそが指導と思っている勘違いなのだ。

江崎玲於奈氏はエサキダイオードでノーベル賞を受賞したのだが、半導体の、日頃行っている平凡な実験の中から、つい見逃しそうな動きに注目して大発見に至ったのである。

「摂氏100度で沸騰する」という固定概念から離れられないような頭を作ってしまったら、このような発見につながる思考は養成されないだろう。

実験中に「100度にならないねえ」という子どもがいたらおもしろい。

「でもね、100度になるんだよ」

「なってないよ」

なんて、会話が交わされたらすばらしい。

「とにかく100度になるんだよ」で押し切るのはよくない。
また、プレーッシャーで素朴な疑問が出にくいという空気もよくない。
だから、いい空気を作る学級経営は大切だ。

このように、100度の問題で、時間をかける授業は大切な授業だ。
100度を暗記させるのではなく、100度を通じてあれこれ考え、思考を鍛える過程が大切なのである。

私は小学校3年生の授業が好きである。
あまり制約がなく、徹底して追究ができるからである。
3年生はエネルギーもあって、活気がある。

教科の学習ではないが、学級会である問題を巡って決着がつくまで討論したら、数時間かかったことがある。
テレビで、よく「徹底討論」というのが、徹底しない討論ばかりがあるが、3年生は本当に徹底するまでやった。
次の日、子どもの顔がすっきりしていたのをよく覚えている。
その顔を見て、こちらも幸せな気分になった。


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2013年12月24日

これがフランス料理ですか?

「あの、フランス料理とか言うやつを食べてみたんだが、美味くなかった」
という話を聞いたら、フランス料理は美味くない料理ということになるのだろうか?

学び合い学習について、あれこれ意見があるのだが、否定的な人はどんな学び合い学習を見て、意見を言っているのだろうか?

フランス料理と言っても店はたくさんあるように、料理もたくさんある。
一軒のフランス料理店で試食しただけで、これがフランス料理だと言えないように、学び合い学習だって「この間、学び合い学習という授業を見たが・・・」と批評するのはいいが、それだけで学び合い学習を否定するのは妥当ではないだろう。
まず、授業者が学び合い学習の理念をどの程度理解して行っているのかという問題がある。

私が、変だなと思うものに、中身はどうあれ命名してしまうとそれが本物として通用してしまうものがある。
「たこ焼き」と言って売っているのに、中身はイカだったと言うのと同じだ。

どんな料理を作っても「フランス料理です」と言って出せば、フランス料理になるのか?
だいたい、フランス料理の批評をする人が、本物のフランス料理を知っているのかという疑問もある。

学び合い学習においても同様である。

そういう私も、これが本物の学び合い学習だというものを知らない。
だが、どういう料理であろうと、美味くない料理が受け入れられないように、どんな授業であろうとも、授業としての価値のないものは「○○学習」と、どんな名前がつこうと支持が得られるものではない。

しかし、私が読んだ学び合い学習についての、否定的意見の本質はそういうものではない。
頭から学び合い学習が流行ることの懸念から、否定したいという気持ちが見え見えのものであった。

新美南吉の「おじいさんのランプ」で、主人公の巳之助が、村に電気が引けたことで自分のランプの商売の先行きを案じて「そんなもの(電線)を引くと、山からタヌキが伝ってきて田畑を荒らすぞ」と言っているようなもの。
情けない人間の心理を表している。

まず反対ありきではなく、学び合い学習の発案者の理念を知り、理念に対する意見や、実際の授業において理念が実現されているかどうかの批判をすべきだろう。

自分の立場や商売の不安から、とにかくあら探しに走り、鬼の首を取ったような意見を言うのは、いかにも小人(しょうじん)といった感じでみっともない。

「学び合い学習」だけでなく「ゆとり教育」についても、同様なことが言える。

そういえば、かつて「コーヒーが嫌い」と言う人に、私の知っているあるコーヒー専門店に連れて行ったら「ウーン、美味しいですね」と言ったことがある。


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2013年12月23日

神の視点を使ってみる

ノンフィクション作家という人がいますが、大変だろうなと思いました。
とにかく、書くことはすべてフィクションであってはならないからです。
実際、他人のことはいろいろ想像できても、事実はどうかわからないからです。

悲しいことがあれば、人は悲しさを何らかの態度で示したりすることは多いと思いますが、悲しそうな態度を見たからと言って、その人が本当に悲しいかどうかの事実はわかりません。

私は「刑事コロンボ」というドラマが好きで、今も再放送があるので見ます。
このドラマでは殺人事件が起こりますが、犯人は自分が犯人でないことを悟られないために、アリバイ作りをします。
少し前に奥さんを殺して、パーティに出ている犯人が「ご自宅で奥さんが亡くなりました」との通報を受けると
「何、家内が亡くなった?信じられない」と驚きの表情を表します。
居合わせた人たちは同情の気持ちを表します。
犯人が驚き、落胆の表情を示すのを見て、ごまかされるわけです。

他人から犯人の彼を見た時、日頃からは奥さんを大変愛しているように見え、犯行のあった当日もアリバイ工作ができていると、すっかり騙されてしまうわけです。
「あんなに愛している奥さんを殺すわけがない。それに、彼は犯行の時間には私たちとパーティで一緒だった」
という先入観で騙されてしまうのです。

でも事実はわかりません。
外からは円満に見えても、すでに家庭内離婚状態だったのかも知れません。

人は悲しい時には悲しい表情をするものだという固定概念が、事実をわかりにくくするのです。
だから、現場にいない限り、あるいは当事者でない限り事実は絶対にわからないということを、心に刻んでおくべきと私は思っています。

いくら「そうに間違いない」と思えても「君は見たのか?」とか「なぜそう言えるのだ」などと言われた時「そう思ったからです」としか答えられないのは事実ではないわけです。

こう考えてくると、ノンフィクション作家というのは非常に難しい仕事だということを感じます。

しかし、ノンフィクションという制約を離れて、自分は言いたいことを自由に書きたいということもあるでしょう。
そういう時は、ノンフィクション作家を離れて小説家になればいいのです。

私は高校時代、英語の勉強をしていて、サマセット・モームの「人間の絆」の訳に取り組んでいたことがあります。
その時、この小説について「モームの自伝的色彩が強い」との説明がありました。
モームは「人間の絆」を書く時、自分の生い立ちをモデルにしたのでしょう。

自分の生い立ちと言えば、これはノンフィクションです。
しかし、ノンフィクションで通そうとすると、自分に関係する人物の描写は想像の域を超えません。
それではまどろっこしい話になってしまうので、神の視点になって、他人の心情を自分の思うように書く、つまり決めるわけです。

単行本を見ると、それがフィクションであるとわかっていても「これはノンフィクションだろう」と思えるものがあります。
作家は真実を伝えたいと思う時、事実を土台にしノンフィクションで、自分の思いを自由自在に表すという手法を使うのだということを知りました。

たとえ、フィクションであろうと、自分が経験したというノンフィクションの中身が充実していなければ、優れた作家にはなれないのだということを知りました。

だから、経験、取材は大切です。

先日、あるお宅を訪問した時、おもしろい三毛のメス猫に会いました。
そのネコは家族に抱かれていると、何かブツブツと絶えず声を発しているのです。
その様子は、私からしたらネコがなにやら言いたくて、盛んに語りかけているように思えました。
「今日は寒くてしょうがないんだ。せっかく、こたつでいい気持ちで寝ていたのに、ウチの主人は私を引っ張りだして、本当に、全く・・・」
とでも言っているようで、まんまるの目をして私の方を見つめていました。

夏目漱石は「吾輩は猫である」という小説を書きましたが。
そういう設定は、すぐフィクションとわかりますが、書きようで下手なノンフィクションより人を惹きつけるものがあります。

私も「吾輩は猫である」にヒントを得て、三毛猫のミーの立場で「ウチの主人は、お客さんが来るとねえ、いつも・・・」なんて小説が書けたらと思いました。

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2013年12月21日

神の視点

現実の社会では、人は自分一人の視点でしかものを見ることができない。
ところが、他人の視点からも書かれた文章がある。
それどころか、社会の動きからありとあらゆること、事件が起これば、まるで自分が現場にいたかのように書かれている場合もある。

このように、超人的に何でも見えて、何でも書けてしまう立場の人を神の視点を持つ人と言う。

■神の視点はフィクションである

「一時間目の授業は国語だった。文恵はあわてて教室に行くと、いきなり太郎に○○のところを朗読するように言った」
「太郎は朗読が不得意だった。その上、いきなり朗読するように言われたので、不安で心臓の鼓動が大きくなった」

このような文章は、神の視点でしか書けない。
なぜなら、教師文恵の心の動きと太郎の心の動きの両方が書かれているからだ。
現実の人間に、二人の人間の心情を知ることは不可能だからだ。

しかし、このような文が書ける人はいる。
別に頭がおかしいわけではない。
小説家なら書けることである。

小説家は創作するわけで、時に神の視点を持つ。
小説家でなくても、神の視点に立てば、複数の人間の心情を書くこともできるし、未来はどうなるということも書ける。

神でない、現実の人間が神の視点で書く文章はフィクションであると言える。

どこかリアリティに欠けると感じた文章は、神の視点で書かれていないか、分析してみるといいだろう。

実践がないのに、格好をつけようとすると神の視点になるかもしれないので、注意しなければならない。

しかし、ブログでも、何かの発表でもタイトルを「連載、学校物語」とでもすれば、神の視点で書くことができる。

その際は「この物語は、現実の個人名や団体名とは関係ありません」と断りがあれば、読者には親切である。

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2013年12月20日

猪瀬氏から学ぶこと

5000万円のお金がどういうものであったか、真相のわからない者が、憶測で無責任に意見を言うべきではないと思います。

この事件から改めて学ぶべきことは、どういう種類のお金であろうと、借りた場合は、あとでまずかったと思っても、返せば借りたという事実が消えるわけではないということです。
これは、盗んでも返せば罪が消えることにはならないのと同じです。

こうして書いているブログも、一旦、公に公開したなら、後でまずかったと思っても、消せばなくなるというものではないのと同じです。
特に、誹謗中傷に相当するものは相手から刑事訴訟や民事訴訟を起こされる可能性もあります。
名誉毀損罪(刑法230条)は、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金になります。
民事で損害賠償を請求された場合、600万円の賠償命令を命じられた例を知っています。

もう済んだことだ、誰も何も言わないから大丈夫だと思っても、突如、裁判所から訴状が届く場合もあります。
裁判所からの文書は必ず封書で届きます。ハガキが来ることはありません。
(というのは「あなたは、いま訴訟が起こされようとします・・・今のうちなら対処できます・・・○日まで○○へ電話してください」という詐欺を計画したハガキを受け取った人がいます。)

猪瀬氏の5000万円の件は、猪瀬氏が知事に当選した頃の話です。
報道から推測すると、ある選挙違反の疑いの捜査をしていたとき、猪瀬氏が5000万円を受け取った疑いが出てきて明るみになったわけです。
この捜査がなかったら、もしかしたら、明るみにはならなかったかもしれません。

近年、学校はいじめ問題で翻弄されている感がありますが、ある子どものいじめの調査をしていたとき、先生までもがいじめに加担していたとか、教室でお金がなくなったことの追及で、先生に犯人扱いにされたことがあるとか、体罰があったなどが浮上することがあるかもしれません。
もし、そういう事実があったなら、過去のことでも「あったという事実」は消えません。

覆水盆に返らずです。

では、過去にそれら気になることをしてしまったという場合は、どうすべきでしょうか?

結論、謝るしかないでしょう。

謝れば済むかと言えば、済むという保証はないでしょう。
でも、謝るしか方法はないのです。
謝った結果、相手が許してくれたら、幸運でしょうが、そうはいかないかも知れません。

私がこういうことをくどくどと言う理由は、私自身ヒヤッとした経験があるからです。
学年主任をしていた時、ある先生が子どもに体罰を振るったからです。
(私は、昔からいかなる場合も体罰は否定という立場でした)

私はすぐに「○○先生、すぐ家庭訪問しよう」と言いました。
まずは、○○先生が同意してくれたのでホッとしました。
子どもの家庭に行ったところ、母親がいました。
「今日、○○がお宅の□□君を殴ってしまいまして、申し訳ないことをしました」
と、○○先生とともに深く頭を下げました。

母親は驚いた顔をしていましたが、少し時間を置いて「ウチの□□も悪かったと思いますから・・・」と言ってくれたのでホッとしました。

□□君は日ごろから、悪さの多い子どもでしたが、だからと言って体罰が許されるわけではありません。
体罰を行った以上「お宅のお子さんは、いつも態度が悪いので・・・」などの言葉を吐いて、親が気分を悪くすれば許してくれないでしょう。

悪いときは、変な言い訳を付け加えないことが大切だと思います。
行(おこな)った事実は消えませんから、謝り方はよく勉強をしておくべきだと思います。

別の件ですが、お菓子を持って謝りに行ったこともあります。
「このたびのことは・・・」と、ひたすら、言い訳をせず、お詫び一方でした。
相手の方は黙って聞いていると、差し出しておいたテーブルのお菓子を突然取って、自分の方に引き寄せました。
(「よし、君のお詫びを了解する」)ということです。

いつも、お詫びがうまくいくとは限りません。
でも、事実が消せない以上、謝り続けるしかないのです。
そして、いくらかでも誠意を感じてもらうしかないのです。

もちろん、一番大切なことは、あとで後悔しないようにすることです。

特に、教師ならその資質も問われるでしょうから。

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2013年12月17日

なぜ今英語なのか?

小学校で英語が導入されたこともあり、最近、英語が話題になることが多くなった。
ところで、なぜ今英語の必要性が話題になるのだろう?

ある大学の先生は、この流れに逆らうように「英語は必要ない」と言っていた。
それは、英語を必要とする人たちは、ごく一部だからという理由だ。

本当にそうだろうか?

今や日本の家庭は夫婦共稼ぎが普通のようになっているが、それも主婦がパートタイムのような仕事に就いて一家の収入を補わなくてはならないという事情がある。

パートタイムの仕事を探しに行ったものの、暗い顔つきで帰ってきた主婦に私は会ったことがある。

「仕事、なかったんですか?」

「あったんですけどね」

「はあ」

「EXCELが使えますか、と言われたんです」

今や、パートでの事務をしようとすればEXCELが使えないと、という企業は多い。
昔はそろばんだっただろう。
今はEXCELが使えてあたりまえというような時代である。

パソコンには関心がないという主婦も、EXCELが使えないでは仕事がない。
それでということでパソコンが買える家庭はいい。
問題はパソコンを買う余裕のない家庭である。

日本は所得格差が広がっていて、約6000万人の労働者のうち年収が200万円以下は約1000万人。
一家の年収が300万円に届かない家庭は25%ぐらいある。
パソコンに手が届きそうもない家庭が、かなり多いのではという予想もできる。

パソコンのあるなしが格差につながることも予想できる。
それはEXCELが使えない、パートの収入がないという連鎖にもなる。

■子どもが将来働くであろう世界を想像しなければならない

英語は必要ないと言った大学の先生は、いつの時代のことを見て言ったのだろう。
今の社会か?
あるいは今の社会構造が将来も続くとしての予想か?

最近、私は長年おつき合いをしている中小企業を訪問した。
自動車部品を作っている子の会社は、ここ10年ぐらいのうちに規模が倍ぐらいになった。
規模が拡大するに連れて変わったのは、外人の従業員が増えたことだ。

日本は輸出の盛んな国であり、特に近年では海外にも工場を持つ会社も増えてきた。
だから、英語のわかるリーダーが欲しいというのではない。
今や日本の会社は日本人だけを雇おうとしているのではない。
国籍に関係なく優秀な労働者が欲しいのである。

日本人にとって就職のライバルは日本人だけでなく、外人も競争相手である。
だから、従業員はいろいろな国籍の人が増えるだろう。

そうすると、普通の従業員同士がコミュニケーションをとるにも、英語がわかる人の方がいい。
今、EXCELが使えないと仕事にも就けないように、今の子どもたちが就職する頃は、普通に英語ができなければ就職は不利になるだろう。

何も、研究開発の部署や研究のための文献を読む人だけに、英語が必要というわけではないのだ。
昔は、これからは英語のわかる従業員を育てるためということで、会社が費用を出してくれたが、これからの会社はそんなことをしてくれない。
雇うときから英語がわかる人を雇うのだ。
そこに国籍は関係ない。

学校の先生は、よく時代を見据えて子どもを育てなければならない。

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posted by edlwiss at 20:32 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年12月15日

行き当たりばったりでは進歩がない

コンビ二の店の外にあるコンセントで携帯電話の充電をして、窃盗の罪で訴えられた者がいた。
充電した本人としては、電池に困った時、都合よくコンセントがあったので、利用したのだろう。

携帯電話の充電ぐらいは、わずかな電気だからいいと思ったのだろうが「わずか」とか「そのぐらいはいい」との感覚は、この場合、相手が感ずるものである。
近頃気になるのは、他人の感情を自分の感情と勘違いする人間である。

ここで問題にしたいのは、自分に不都合があって困ったら、他人の迷惑など考えず行動に移ることである。
自転車の盗難もそうである。
歩いていくのは大変だと感じたときに、たまたま自転車があった。それで拝借ということ。

精神的な問題は別の機会に譲ることにして、ここでは「問題にぶつかって」から次の行動を考えるということを問題にしたい。

昔、マイクロマウス競技というのがあって、コンピュータを積んだロボットで迷路をいかに短時間で通過出きるかという競技だった。
コンピュータを積んでいるので、一度行き詰まった通路は記憶していて、二度とそのコースは通過しないのである。
つまり、二回同じ失敗をしないということ。

しかし、最近、人間の方がこのような頭を使わない人が増えてきたような感じがする。
ぶつかったらそこで回避するという、しかも同じパターンを何度も繰り返している。

例えば、毎年、ドタバタの音楽会をやっているところがある。
毎年、運営が行き当たりばったりで、次は何かを改善しようという思考がないから、何年も同じドタバタを繰り返すことになる。

それでも、なんとか行事が消化できればいいのではと言う人もいるかもしれない。
だが、それでは進歩がなく、頭もよくならないのではと思う。

そういう団体とつき合うのは精神的疲労が大きい。

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posted by edlwiss at 23:03 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年12月14日

スマホはヒント

スマホ(スマートフォン)は、子どもが熱中するあまり、いろいろな問題の元になっている。
こうなると、大人はスマホを子どもから取り上げたり制限したりする考えに行きやすい。

しかし、視点を変えて、そんなにも子どもを夢中にさせるスマホの魅力は何か、を考えてみることも無駄ではないだろう。
スマホを取り上げるより、スマホより魅力的なものを持ってくれば、子どもはスマホから自然に離れるだろう。

こういう話をすると、すぐに「そんなことはできないよ」と否定的なことを言う人もいる。
そう言う人は、どうしてそういう結論が出せるのだろう?

とにもかくにも、子どもを惹きつけるスマホの力は何かを探ってみることは、教育関係者にとっては意味のあることだと思う。
そういうことすらせず、すぐに否定的な意見を言う人は、教育熱がないと言えるだろう。

■スマホの魅力を探る方法

まず、スマホに熱中している子どもの実態を探ってみる。
とにかく、食事時もスマホを手放さない子どもは何をやっているのだろう?

逆に、そういう中にあってスマホの虜になっていない子どもはいないか?
スマホが社会現象のように問題になっていると、つい夢中になっている子どもの方だけに目が行きがちだが、たとえ少なくても、そうでない子どもの動向を探ってみるのも意味のあることだと思う。


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posted by edlwiss at 13:49 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年12月10日

自分の勉強は自分でしかできない

「馬を水辺に連れていけても、水を飲ませることはできない」という諺があります。
本人が気が進まないのに、周囲の人が無理にさせようとしても、無駄「ということ。「馬を水辺に導くことはできるが、馬にその気がなければ水を飲ませることはできない」とも言う。(ことわざ辞典)

今回はいかにも大上段にふりかざしたようなタイトルをつけましたが、もとより世間に向かって号令するような大それた意図はありません。自分が、ハッとそう思ったということです。
その時「馬を水辺に連れていけても、水を飲ませることはできない」という諺も浮かんできました。

当市は図書館が移転改築され立派になりました。
ホールを兼ねた広い通路にはテーブルが並べてあります。
いつの日からか、そのテーブルを使って高校生たちが教科書やノートを広げて勉強をするようになりました。
かなりの人数でした。

その光景を見て、私は少し異様に感じました。
しかし、利用規則に反しているわけでもないので、目くじらをたてることもないと自分に言い聞かせていましたが、どうも不自然さ拭いきれない気持ちでした。

その不自然さの元を考えてみると「よく、こういう通行人のあるところで勉強ができるなあ」ということでした。
いっそ、野外の広い公園の木陰のようなところで本を読んでいるなら、そうは感じないでしょう。

違いは何か?

距離感です。

室内の他人が比較的近いところを通るところでの勉強は、私だったら気になってできません。
なぜ、わざわざこういうところで勉強するのでしょう?
よく見ると、友だち同士で来ているようです。

不自然さを感じるのは、館内の閲覧室には勉強もできるスペースもあります。
そこに席がないわけでもないのに、わざわざ人が近くを通る通路で勉強をする心理が私にはわかりません。

それに、友人を誘って「いっしょに勉強しよう」ということだったのでしょうが、私は、友だちといっしょに勉強するなどということは不可能と思っています。
勉強に入るきっかけとして、友だちを誘いたいという気持ちはわからないでもないですが、真剣に取り組んだときは勉強の世界に入り込んでしまっているので、自分以外のものに心はいかないと思うからです。

そういうことを私がはっきりと感じるようになったのは、大学入試に備えた時です。
母親が小さな雑貨屋で生計を立てていた私の家では、とても大学など行けるものではないと思っていましたので、三年の二学期まではそのつもりはありませんでしたが、三学期になって、一応受けるだけでもと思い、三カ月ほど先の、自宅からもっとも近い国立大学に願書を出しました。

普通のことをやっていてはダメだと思い、夜中の一時に起きて受験勉強をしました。
とにかく、1分1秒も時間がおしくて勉強に取り組みましたが、1日の過ぎるのがとても早く感じました。
マイクロソフトのビルゲイツが会社創立当時、ソフトの開発で「太陽が東から上がったと思ったらもう西に沈んでいる」と言ったことがわかるような気がします。

私は自分がよく勉強したということを自慢したいわけではありません。
もともと、試験勉強など本当の勉強ではないと思っていましたから、試験に振り回される人生などまっぴらと考えていたからです。
しかし、大学に入りたいなら、大学が許可してくれる条件をクリアしなければと言うことに気づき、いわゆる「点取り虫」に徹底したわけです。

私の今までの人生の中で、あれほど点を取ることだけに集中したことはありません。
その経験でわかったことは「人は、本当に集中すると、全く他の世界を忘れてしまう」ということです。
「何だ、そんなことは当たり前だ」と言われそうですが、頭でわかるということと、実感するということは別です。

私は大学入試を通じて、そんな当たり前のことを実感したのです。

だから、本当に勉強の世界に入ったら、友だちも、食事することでさえ忘れてしまうと思うのです。
あるのは自分の世界だけです。

そう言うと、別に他人が通行する傍らでも勉強できるのではないか、という反論も考えられます。
そう言えばそうです。
自分の世界に入り込んでしまえば、そうでしょう。
問題は、自分だけの世界に入り込むまでの時間です。
自己コントロールが、そこまでできる人ならいいでしょうが、結局、問題は集中して自分の世界に入り込む時間です。
つまり、勉強になるかどうかは、集中した自分だけの世界に如何に入り込めるかだと言えます。

友だちと勉強してくると言って、結局、おしゃべりに終始したということはありがちです。
宿題を片付けたと言っても、それは、書き写す作業をやった、ノルマだけはこなしたというものではないでしょうか?

さて、こういう話と「馬を水辺に連れていけても、水を飲ませることはできない」とはどういう関係があるのでしょう?

この「馬と水辺」の諺は指導者の視点に立ったものです。

難しいことを分解し、指導の手順を組み立てて、生徒の実態に合わせて適用するのは指導者の仕事です。
しかし、指導者が指導の引き出しをたくさん持っていても、つまり、水辺に連れていくことはできても、生徒が飲んでくれないとなるとお手上げです。

私が最も難しいと感じているのは「馬を水辺に連れていけても、水を飲ませることはできない」の諺を思い出す時です。

水辺に案内するのは指導者の責任ですが、そこで終わるのではなく、生徒が我を忘れて集中した世界にまで誘導できるかだと思います。


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posted by edlwiss at 20:43 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2013年12月09日

物の貸し借りや依頼でわかる人の性格

■借りたものを返さない人

「あ、これいいですね。貸してください」

そう言うやいなや。
棚から何枚かのCDを掴み、持って行く。
長いつき合いだからと思い、そのまま貸す。

半年以上は経っただろうか、まだ返ってこない。
棚のCDの全集は途中が欠版のままだ。
やむなく催促すると、すみませんの一言も言わず棚に戻していく。
しかし、まだ欠版になっている。
やりきれない気持ちになる。

この人物、どういう性格だろうと見てみると、この人にとって「貸してください」は「ください」と同義なのだということがわかった。
気に入った物を見ると、すぐ「貸してください」というのがクセのようだ。

別の借り癖の悪い人は、本を貸してくれという。
比較的高価なコンピュータ関係の本が多い。
この人に貸した本は返ってこない。
おそらく、本ぐらいのことで返せとの請求はしないだろうと思っているらしい。
返ってこないものは他にもある。楽譜もそうだ。

こんな経験をし、自分がいやな思いをしたから、私は他人から何かを借りたいと申し出ることはない。
欲しいものは何とか自力で買おうとする。

数年前、自宅から近いところに市立図書館が移転してきて新装になった。
本やCDが借りやすくなって、ありがたいと思っている。
個人からは借りないが、公的なところからは借りる。
もちろん、期限は守る。
驚いたことに、市の図書館から借りて二か月以上も返さない人がいるらしい。
警告の貼紙を見た。

■又貸しが平気な人

やっとのおもいで、がんばって買ったビデオレコーダーだが、これを貸して欲しいと言う人がいた。
私はよほど気軽に声をかけられるように見えるらしい。
ビデオレコーダーは10万円ぐらいしたものだ。

これは、一か月以上返ってこなかった。
そろそろ請求をと思っていたら、借主が突然返しにきた。
その時の言葉は
「使う人が来なかったので・・・」
だった。

何かの話の時、ビデオが必要だと言った人がいるらしい。
それで「ビデオならオレが借りてやる」と言ったようだ。

私は常識の欠如に呆れて、つき合い方を考えねばと思った。

■形にないものはタダと思っている人

「・・・を教えてもらえますか?」

という電話が時々ある。
一番多いのはパソコン関係。次に音楽関係。

おかしいのは、電話で「EXCELのマクロの作り方を教えてもらえますか」といい、本人は電話でこと足りると思っているような人。
こういう人は意外に多いものである。

日本でパソコンが世に出てきたころ、IBMに質問をしたら、あとから請求書が送られてきたという話が話題になったことがある。

張り切って高級車は買うが、人から指南を受けることはタダと思っている人は貧しいと感じる。
最近驚いたことは、なかなかいいパソコンを買った人のことで、この人、高価なパソコンを買ってあげたのだから、何でも教えてもらえると思ったらしく、WordやExcelの使い方など困ると、パソコンを持って定員のもとに出かける。
ある時、店員から「8000円です」と言われたらしい。

■修理を断ると逆恨みする人

骨董的な電気製品の修理を頼まれたことがある。
歴史的に価値がある物らしく(電子楽器)、古いので何度か修理を依頼しその都度10万円以上の修理代をとられていたらしい。
金遣いの荒いこの電気製品に手を焼いたのか、誰かに聞いて私に頼んできたようだ。
なぜ私に?・・・私ならタダでいいと思ったようだ。

修理に行くと
「まあ、修理代はよく出して1万円だな」
と言われた。
とりあえず中を見ると、あまり修理をした形跡が感じられない。
真空管がかなり使われていて、GEの製品だった。
恐らく、修理と言っても電気の専門家が来たのではなかったようだ。
直すにはかなりの大手術と感じた私は、1万円ということも耳に残っていたので、断ることにした。

「私には手に負えませんので」

「だって、あなた、以前、知り合いにこの真空管を持っている人がいるから、その人から手に入れると言ったではないですか?」

私はそんなことを言った覚えはない。
とにかく、断りを言った。
すると

「じゃいいです、私の知り合いに電気に強い人がいるので、その人に頼むわ」

この人は、私のプライドに語りかけ、私が「いや、私がやります」と言うのを期待していたようだった。
しかし、私は、渡りに船と感じて

「それなら、そうしてください」

といったものだから、気に入らなかったらしいが、それ以上の言葉はなかった。

どうも、この人は妄想癖もあるらしい。
と言うのは、真空管はすでに過去のもので、手に入れるのは厄介だと思い、特にコレクションとして持っているような人からしか手に入らないと考えていたようだ。

それで、私がそういうマニアのルートを通じて手に入れられると勝手に、頭の中でストーリーを作っていたようだ。
しかし、真空管は現在でも作られていて、手に入れるのに不自由はない。
もし、歴史的に珍しい特殊なものだったら、マニアは手放さないだろう。
そんな骨董的な真空管のお世話にならなければならない、と言うことは今日でもめぐり逢うことはない。

さて、とにかく依頼者のもとを脱出することはできたのだが、その後、偶然、喫茶店で別な人が教えてくれたのだが、修理の依頼者が、私が修理に行って壊して帰って行ったとと話していたということだ。

■まとめ

今回は、つき合いたくない人の話になった。
初対面だけでは、人はわからないものだが、打ち解けてくるとつき合いを通じて、その人がわかってくるものである。
些細なことで人を嫌いになることはない。
物欲を優先することもないが、今回の話に登場した人たちには、どうしても心の貧しさを感じてしまうのである。

汚い借り方をするのなら、あげてしまった方がよい。
しかし、変なことだが買う余裕のある人が汚い借り方、頼み方をするようである。

パソコンに関心の強い高校生がいて、プログラミングにも興味を持っていた。
高校生の小遣い程度では買えないだろうと思い、本やソフトをあげたことがあるが、貸すよりこの方が気分がよい。


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2013年12月07日

もったいない時代

私が、パソコンを組み立てたり、電気製品の修理をしているせいか、壊れたものをよかったら持って行ってくれという人がいる。

パソコンの場合は壊れていなくても、古いからということで、注文を受けることもある。
すると、古いものはやはり、持って行ってくれると助かると言われるので、持ち帰ってメンテナンスをして、パソコンをそんなには買えないと言う人にあげたりする。

そんなわけで、我が家はガラクタが増えてしまうが、ケーブルやアダプターのようなちょっとしたものでも必要な時は買わなければならないということがあるので、ストックしている。

古いものの活用で大切なことは、製品をよく知っているということだ。
たとえば、型番だけでピンとくるようにである。
部品も見ただけでどこに使うものかがわからなければいけない。
ジャンク品は使わなければ、それこそゴミだが、どこかに使われたら再び命を吹き込まれたようなものである。

時にはオークションも利用する。
あえて故障品を落札する場合もある。
故障品の方が安いからだ。

最近、あるところで、やはり、片付けたいので持って行ってくれたアンプを玄関に積んでおいたのを思い出し、再生をを試みた。

tx-sa600.JPG


ところが、どこも悪くない新品に近いものだった。
これは廃品回収業者のところにあったものだが、ある人がいくつかそこからもらってきたものの1台である。
始めの所有者はどういう事情で放出したのか、わからないが、どこも悪くない完璧な製品であった。
こういうものを手に入れたのははじめての経験である。

想像するに、扱いが複雑なものだったので、稼働させることができず故障と思ったのかも知れない。
使ってみると、なかなかいい音がするので、今まで使っていたアンプと交換して自分で使うことにした。

tx_sa600_rear_144.jpg


近頃、空気清浄機も普及したが、1年も使うとフィルターの交感やメンテナンスがめんどうということで、新品を買ってしまうと言う人もいるらしい。

買った方が、メーカーとしてはありがたいのだろうが、資源のない日本としてはもったいないと思う。
再利用を考えることを推し進めることも必要だ。


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posted by edlwiss at 23:50 | Comment(3) | TrackBack(0) | 社会時評

2013年12月06日

あると言えばある、ないと言えばない

何のことでしょう?

「君は金があるだろう?」

「とんでもない。おれに金があるわけはないだろう?」

「千円もないのか?」

「それぐらいだったらあるよ」

金があるかないかの話も「ある」も「ない」も出てきます。
単にあるかないかと言う話は、立ち位置によって変わってしまいます。

漠然と、金があるかないかと言っているうちは、どこを基準にしているのかわからないので、立ち位置はそれぞれの人が勝手に考えることになります。
しかし、千円という具体的な基準(立ち位置)が出てきたら、それに対する答えははっきりします。
だから、あるかないかの話は立ち位置をはっきりする必要があります。

立ち位置をはっきりするということは、具体的なものを表すということです。
学校の教師でしたら、具体的な実践にもとづいて話をすることになるでしょう。

「彼はいい授業をするなあ」

「うん、いい授業をしますね」

という話だったら、話をしている双方の人が同じ授業を見て言っているか、そうでなければ、少なくとも双方が話題の教師の授業を見たことがあるということが必要でしょう。

saitoukihaku.jpg指導力があるかないかの話も同様です。

自分から指導力があると宣言できる人は、どのくらいいるでしょうか?
もしいるとしたら、どういう立ち位置で言っているのでしょうか?
誰かの指導を見たという「誰か」を基準にして言っているのでしょうか?

指導力がないという話も、立ち位置はどこにあるのでしょう?
自分が基準でしょうか?

もともと、指導力というものには終点はありません。
だから、誰かの指導を起点(立ち位置)にしなければ、あるかないかは言えないのです。
つまり、漠然と指導力があるとかないとか言う話には意味がないと言えます。

あるかないかを言うより「千円ぐらいはある」とか「ローンを組めば住宅が買える」のように具体性の方が大切です。

斎藤喜博氏は「島小の女教師」という著書を始めとし、具体的に実践記録を表しています。
このような記録を示していただければ、教師としては島小の実践を起点(立ち位置)として、自分の指導を振り返ることができます。

発表できる実践がなければ、それもできないでしょうが、漠然と「ある」「ない」を言うのではなく、立ち位置を示すことのできる実線を望みたいものです。


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2013年12月04日

アラ探しのプロ

finale.jpgアラ探しと言うと聞こえが悪そうだが、そうばかりとも言えない。

パソコンがビジネスに進出し出した頃、ワープロを見て、パソコンで楽譜が書けないだろうかと思いソフトを探した。
売り出されていたソフトを次々と試したが、結局、何かといできないところがあり、落ち込んでいたところMacintosh用で、アメリカのCoda社で発売されていたFINALEというソフトがあるのを知った。
早速、アメリカまで注文を出した。
日本円で16万円ぐらいだった。

到着した荷物はフロッピーディスク2枚に、分厚いマニュアル3冊と薄いマニュアルが2冊ついてきた。
もちろん、すべて英文である。
このソフトはプロ用でも使えるとの説明があったが、それだけに手強い、つまり難解との評判だった。
ただでも難しいのにマニュアルが英語なので、一応使えるというレベルに達するまでかなりの苦労をした。

もうひとつ問題があった。
それは、普通のプリンターでは印刷できないことだった。
どういうプリンターなら印刷できるかというと、Postscriptというプリンターが必要だということ。

この時Postscriptという言葉を知ったのだが、これは印刷技術でありプリンターにPostscriptというプログラムというか一種の言語が積んであるのだ。

PostscriptはアメリカのAdobe社の特許で、このプリンターは高い。
しかも、レーザープリンターしかないので、さらに高価だった。

その代わり、これで書いた楽譜は商用印刷ができる。
FINALEはもとからプロ用として開発されたソフトだったのだ。
それだけに、FINALEでは書けないことはなかった。

巷に見る紙に印刷された楽譜を見ると、楽譜を書くことは大したことではないように見えるかもしれないが、その難しさは演奏する人でなければわからないだろうと思う。

ソフトを開発するということは、プログラム言語に精通していなければならないのはもちろんだが、楽譜のソフトとなると、音楽も知っていないとできない。
ソフトの開発は、プログラマーが音楽を勉強するか、音楽家がプログラミング勉強するかのどちらかだ。
FINALEのすごさを知った私はCoda社がどんな会社だろうかと興味を持った。

Coda社はさすがに、素晴らしいプログラマーを揃えていたが、プロの音楽家も雇っていた。
優秀なプログラマーが作ったソフトを、現役の演奏家が試してみるのである。

ここからが、今回の本題になるところだが、雇われた音楽家たちはソフトのあら探しをするわけである。
現役のプロの音楽家の厳しいアラ探しに耐えて、やっと商品として市場に出るわけである。

学校の先生の中にもアラ探しの得意な人がいる。
いわゆる「ケチ」ではなく、プロと言えるほどのアラ探しの達人なら自身も先生としてもプロと言えるのだろうと思う。

プログラマーが現役の演奏家の異見を聞くのは、その演奏家が素晴らしい演奏家であるからこそ「彼の言うことなら間違いない」とか「彼の要求なら実現しなければならない」という気持ちで取り組むのだろうと思う。

アラ探しの人の意見が強い説得力を持つのは、その人が先生として素晴らしいということが知られているからだろうと思う。
そういう意味ではアラ探しは歓迎だが、たまにはすごさを見てみたいと思う。


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posted by edlwiss at 23:55 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2013年12月03日

ガラパゴスの良し悪し

ガラパゴスは独特の進化をとげ、それが幸いしたというのがもとの意味だが、今日では良い意味に使われることは少ないようだ。

日本の携帯電話はガラケーと言われ、日本独自の規格のため海外に市場を広められなかったと言われている。
私はそのガラケーを使っている。
ここのところスマートフォンの押されて影の薄いガラケーだが、私は便利に使っている。
軽くなり、バッテリーの持ちもよくなって、ガラケーの進化を実感している。

ところで、最近、塾経営者が授業を見てくれというので行ってみた。
衝撃だった。
それは、とても授業と言えるものではなかったからである。

塾講師は以前から教科に自信を持っており、自分の行う授業についても誇りを持っていたようである。

■ガラパゴス化における停滞、退化

ガラパゴス化の良さは独自の進化である。
しかし、ガラパゴス化は時に停滞や退化であったりする。

自分こそと教科の専門性や授業に自信を持っていても、それは外から見たらとんでもなくお粗末なものであったら、ガラパゴス化の悪い面、すなわち停滞や退化が起こっていたと言えるだろう。

私塾には設立基準も専門性も必要としていない。
必要なものは、自分にもできるという自信だけである。

とかく、学校の先生は批判されやすいこの頃だが、学校の先生を批判している人が、ボランティアの要請などで○○教室の講師をした場合「あなたが批判するほど、学校の先生は酷くないですよ」というものもある。

ちょっと不思議に思うのは、普通に社会生活しているのなら、周りから情報を得てある程度の常識は身についているだろうと思うのだが「一体、この人は今までどこで生活していたのだろう?」と思える人がいることだ。

■情報収集能力の違い

MacintoshがDTPという分野を作り出したが、これは印刷分野に革命をもたらしたと言える。
パソコンとソフトがあれば、商用印刷の版下が誰でも作れるようになってしまったからである。

私もその世界を知ってからMacintoshを買ったのだが、使い出してしばらくすると、今まであまり気にも止めなかった生活の周りにある印刷物が気になるようになった。
「なぜ、あの印刷はきれいに見えるのだろう?」と感じたとき、一番始めに知ったのがカーニングという言葉だった。

この経験から、世の中に情報はいっぱいあふれているのだけれど、関心があるかないかで情報を取り込むことができるかできないかに差が出るのだろうと思うようになった。
このことは、誰に対しても情婦が平等に発信されていても、受け取る側の能力の違いによって、情報の吸収度は違ってくると言える。

だから、同じように暮らしていても、まるで、竜宮城から帰ってきた浦島太郎のような人に会ってびっくりすることがあるのだろう。

■情報収集能力は学力の一種

これらのことを考えてくると、情報収集能力は学力の一つにあげられると思うようになった。

学校教育の場で、情報収集能力を高める指導は、どのくらい行われているのだろう。
あるいは、情報収集能力を高めるには、どんなことをすべきか、ということも気になることである。

太陽光から電気エネルギーに変換する技術に関心のある時代だが、変換効率は最も優れた製品でも20%に達しない。
アナログアンプの変換効率は50〜60%ぐらいだが、最近話題になるデジタルアンプは90%を超える。

これと同様、発信された情報を何パーセント受け取れるかと言うのが、情報収集能力のようなものだろう。

■学校が停滞したガラパゴスや退化したガラパゴスにならないように

学校は子ども主体であるから、一般社会からやや隔絶された特殊な社会と言える。
特殊な社会は特殊な変化をする可能性がある。

その変化が、元禄文化のように日本独自の文化をもたらしたようなものであればよいが、停滞や退化した変化を来すのであれば問題である。
そういう意味では、学校は変な鎖国を行わないようにしなければならない。

特に、学校関係者以外に「あなたたちは、学校を知らないでしょう?」という言葉を武器にしないようにしなければならない。
そんなことを言えば「あなたたちは、厳しい企業の現場を知らないでしょう?」という言葉が返ってくるかも知れない。

一流企業では教育に力を入れている。
業績に直結するので、教育担当者の真剣さはかなりのものである。
教育を受けたもののその後の成績はそうなっているか追跡するし、教育する側の者も絶えず評価されている。
思わしくなければ、すぐに担当を変えられる。

教育効果を高めるためのIT機器も使い方も先端を行っている。
講師も時に100万円台の講師料をとる講師を呼ぶことだってある。

今日、教育について企業から学ぶことが多いのは、むしろ学校の方かも知れない。
国を活性化するためにも、学校と企業の垣根を取り払い、柔軟な情報交換ができるようにした方がよいのではと思う。


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posted by edlwiss at 20:40 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題

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