2014年01月31日

バカボン症候群

bakabon.jpg赤塚不二夫氏の「天才バカボン」に、テレビが故障した場面でお父さんが「テレビの中の小人が怠けているんだ」というところがあります。
笑いを誘う場面ですが、これが現代において、必ずしも笑えなくなって来ているという空気を感じています。

社会の進歩は、知能と知識の代行をもたらし、バカと利口の二極化が進むのではないかということを書いたことがあります。
その危惧が現実のものとなりつつあると、実感する場面に出会うことが多くなってきたのです。

社会の進歩を加速度的に早めた原動力は、コンピュータであり、今や生活のあらゆる場面に入り込み、その影響力は見方を変えればエイリアンの増殖のようにも思えます。

生活の中でコンピュータ(パソコン)を使わざるを得ない人が増えた結果、高度な知能・知識の塊をそれとは対極的に無知な人が使うという冗談にも似た社会ができつつあります。

「画面をマウスでクリックするんです」と言われた人が、マウスを掴んでモニター画面に接触させたなんて図はまだいい方かも知れません。

インターネットエクスプローラー(以下IEと略す)をクリックすると、Webサイトが見えるようになりますが、IEの中にYahooが入っていると思っている人がいます。
まあそれは勝手に思っていてもらうことにします。

「IEが二つも出てくる」

と文句の電話をかけてくる人がいます。

「二つも出てきて嫌です。IEを消してください。一つでいいです」

まるで、私がIEを二つインストールしたような口ぶりです。

原因は、本人がダブルクリックを二回やったためです。

嫌になるのは、うまく行かないと人のせいにするという性格です。

パソコンを新調し、初期設定ができないのでいろいろな人にお世話になった結果、世話になった人が運悪くみなバカボンのような人だったらしく、新品のパソコンがメチャクチャになっていました。

「これはリカバリーした方がいいですね」

「リカバリーって?」

「買った時の状態に戻すことです」

「わかりました」

「中のデータは全部消えますから、保存しておいてください。いいですか?」

「わかりました」

このように念を押した上で、リカバリーを行った。

翌日、電話がかかって来た。

「あの、私のメールどうしました?」

「だから、データは全部消えると言ったでしょう?」

「ひどいじゃないですか!」

「・・・・・」

思うようにならないと怒る。

誰かが、何かに書いていた、親切にめんどうを見ない方がいいと。
その後、わるいことは、全部「せい」にされるからだと。

また電話。

「あのー、私、ブログを書くのを楽しみにしていたんです。あれから、ブログを書くところに入れなくなっちゃったんです。NETCOM(プロバイダー)に戻してください」

個人が、パソコンの設定でプロバイダーを変更できるわけがない。
ブログが書けないのは、本人がIDやパスワードを間違えているからで、パソコンが新しくなったり、たとえプロバイダーが変更になったとしても、全く関係ないことだ。

これは一例だ。

データを送るように言われたら、送ってきたのはショートカットばかりだった。
アイコンを整列してくださいと言ったら、マウスで一つずつアイコンを移動させていた人。
エクセルで出欠管理をするのに、○や×の記号の小さな絵をマウスでセルの上に移動していた人。
(記号がセルからずれてしまうと文句を言っていた)

などなど、例を挙げるのに不足はない。

こういう珍現象をやっているだけならいい。
問題は誤りに対して素直でない人だ。
笑ってすますような人はいい人だ。

最近はわがままな人が多くなってきたような気がする。
間違いを指摘されると、逆ギレをする人とはつきあいたくない。

私はゲルマラジオを作ってきた年代だ。
パソコンも自分でプログラムを作らないと、使えなかった時代だ。

だから、否が応にも原理は学ばなければいけなかったし、それがいつしか中身を考えたり想像したりする習慣になった。
そういう人生がいいとは、他人対して言わないし、自分のやりかたを人に押しつけたり、出しゃばるののも嫌いだ。

だが、不安になるのは、ボタンを押すだけの人とメカニズムやICの設計に頭を使うような人と、世の中が二極化していいのかということだ。


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2014年01月29日

他人より自分

「他人より自分」と書くと、なんだ自分さえよければというエゴの話かと思う人は、妄想傾向があるかもしれない。
全くそんなことは言っていない。

私が今日、書くことは「隗より始めよ」を忘れないと言うことである。
これは、もちろん自分に対して言っていることである。

同窓会で教え子に会って、恥ずかしい思いをする。
昔を懐かしんで会ってくれる教え子たちには感謝している。

実はこの「教え子」という言葉は好きではない。
何か「上から下」というイメージを感じるからだ。

もう、社会に出たら教え子という関係もないと考え、同じ土俵で社会活動をするというのが私の考え。

私の音楽は趣味で、いわゆる学校の音楽の先生ではない。
ただ、音楽の先生とレッテルを貼る人はいる。

いちいち弁解するのも面倒だから、黙っているが、本来、仕事は肩書きではなく「いかにいい仕事をするか」だと思っている。
趣味だからと言っていい加減でいいという考えはない。

私はある時期から、どこかに所属してその団体の評価によって栄光を享受するという世界から脱した。
何をするのも「個人責任」が気分がよい。

今は市の職員から成るバンドの指導をしているが、風の便りに聞こえてきたのは「あんな奴に市民の血税を使っていいのか」という声があったそうだ。
もちろん、その声に同意する人が多くなれば、この仕事はないだろうが、今のところそんなことはない。

すごい指導者が出てくれば私は追われるかも知れないが、実力で仕事をするこういうスリルのある仕事は好きである。
この方が、いつも自分が活性化するような気がする。

偉そうなことを言いたくなったら「隗より始めよ」が私の座右銘である。


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2014年01月29日

国民年金滞納者 強制徴収


議論を呼びそうなニュースだ。
マスコミはどういう論評を展開するだろうか?

年金積立は自分の将来のお金を積み立てているのではないというところが、銀行などで行う積立てとは違うところだ。

収める人と収めない人がいるというのは不公平ではあるが、一方では解決しなければならない問題もある。

年金積立を全くしないで、生活保護を受けた方が支給額がおおいという問題。
年金受給資格は25年必要だが、それに満たない人の積立金はどうなっている?

年金改革はこれまで何度か議論されたが、まだ決定的な改革はない。
社会保険庁のでたらめ経理が、政府が年金を管理することの信用を失ったと言えるのではないか?
あれほどのでたらめをやっておいて、関係者は処罰らしい処罰をされていない。

「国に鐘を預けていいのか」という不信感を払拭することもしないで、強制徴収だけするというのは、定稿もあるだろう。


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2014年01月27日

妄想は健康にいい?

mousou.jpg空想は誰にでもあると思うけど、誰もいないところで一人空想にふけることで精神の安定を得ている人がいるのだろうか?
苦しいことがあっても何があっても、一人、部屋に閉じこもり空想する。
あくる日はケロッとしてまた外出する。
これなどは、空想が精神安定に役立っていると言えるのかもしれない。

精神安定に空想が役立っているというより、創作活動に生かす空想は積極的妄想とでも言おうか?
芸術家、小説家などは優れた空想家が名を残すのかも知れない。

しかし、空想(空想)と妄想は似ているようで違う。
妄想(もうそう:delusion)とは、非合理的かつ訂正不能な思いこみのこと。妄想を持った本人にはその考えが妄想であるとは認識しない(むしろ病識がない)場合が多い。精神医学用語であり、根拠が薄弱であるにもかかわらず、確信が異常に強固であるということや、経験、検証、説得によって訂正不能であるということ、内容が非現実的であるということが特徴とされている。日常的な会話でも用いられることもあるがそのときはいかがわしい考えや空想を表し、必ずしも病的な意味合いを含むわけではなく軽い意味で使われている。

妄想と一言にくくっても、その内容や程度は個人差が大きい。軽度で生活に支障をほとんど来さないものから重大な支障を来すようなものまで様々である。本人が妄想であるとは自覚していない(「病識」がない)ことが多いが、漠然と非合理性に気づいている場合(いわゆる「病感」がある状態)、あるいは他者の前では隠すことができ生活に適応している場合(いわゆる「二重見当識」)など様々である。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

つまり、妄想の特徴は本人は妄想と気がつかないところ。
妄想とは気がつかないとは変な言い方だが、要するに想像と現実の区別がつかないということである。
訂正不能とあるが、現実との区別がつかないのであるから、やむを得ないことかも知れない。

正常な人はなかなか理解できないことであろう。
でも、よく注意していれば、特徴であるところの現実との区別や訂正不能の現象が現れることでわかる。

例えば、全然会ったこともない、交友関係もない人の行動や履歴をあたかも知っているように話す。
普通の人なら「・・・と思うけど」などの言葉があとにあるのだが、妄想の人の場合は「断定する」ことで普通と違うことがわかる。
なぜ断定できるのかと言うと、本人にとっては事実だからである。
ひどい場合は、未来まで断定してしまう。

妄想が人の迷惑にならなければいいのだけど、時には大変な事態になることがある。
例として「絶対儲かります」というのがある。

どんな専門家であろうと、未来に対して確定的なことは言えるはずがない。
だから、商法では「この株、絶対上がりますよ」などの言葉で勧誘することは禁じられている。

法律で禁じられていなくても、正常な人が冷静に考えてみれば、わかるはずがないことを、断定して言う人は要注意だとわかるだろう。
未来でなくても、ネット上の知らない人を断定するのも妄想の可能性があるし、否定しても訂正できなければ間違いなくその可能性が高い。
だから、私はかねてから5W1Hによる検証をすすめてきた。

「人は信じたいことを信じる」と言われるが、自分がそう信じたいと思うときは、すでに冷静さ、理性を失っている恐れがあるので、被害に遭わないためにも、5W1Hによる検証をすすめたい。

匿名である、5W1Hにも応じないだったら危険である。

もちろん、5W1Hと言っても、話の筋から当然わかることを検証する必要はない。書く必要もない。
そこは先生なら、当たり前の教養のうちである。

妄想は、している本人にとっては健康にいいのかも知れないが、人に害だけは及ぼさないようにしてもらいたいものだ。


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2014年01月26日

自由の鐘

マーチ王・スーザの曲に「自由の鐘」という行進曲がある。



「自由の鐘」は原語では「Liberty Bell 」であり、自由はfreedomではなく、libertyである。
自由を表す言葉は、英語ではこのように二種類あって、微妙に意味が違う。

日本語では「自由」しかないので、何でも自由で押し通してしまって、自由の履き違えが起こるのかも知れない。
何か論を主張するなら、言葉の意味を大切にすべきである。

意味を違えて意見を言うのは愚かであり、結局、自らの無知、学のなさを晒しているようなものである。
言葉の意味を違える原因に、自分で意味を勝手に作ってしまうということがある。
例えば非常に多いのが、折にふれて指摘する「個人主義」である。

恐らく、自分勝手を個人と結びつけて、短絡的に「個人主義」としてしまうのだろう。
自分の主張を重みのあるものにしたいのなら、辞書で確認すべきである。

さらに恥の上塗りをする人は、間違いを指摘されても訂正できない人である。
これは先生の免許があっても、先生としては失格である。

個人主義に関しては、過去の記事個人主義と利己主義を参照されたい。

ところで、呆れた事故調査委員会で書いたように、この顛末には怒りが収まらない。
息子を亡くした母親の心情を思い量ると、辛くて仕方がない。

どうも、ここに個人と団体の力関係を感じてしまうのは、私の思い過ごしだろうか?

薬害エイズの時もそうだった、当時の厚生省は明らかに、危険を知っていて個人を無視した。

戦前は、零戦とともに若者が命を断っていったが「国のために個人が死ぬ」というのは、日本の伝統なのか?
あるいは、民族の血筋なのか?

私が個人主義を批判したい人に言いたいのは、もっと日本人は個人主義を大切にしなければならないということだ。

裁判でも個人が組織を相手に戦うのは不利とよく言われる。
裁判は力関係ではなく、正しい者が勝つというふうでなければいけない。

個人主義を批判する人は「会社のためにあなたの息子さんは死んでください」と言われたら承知しますか?
いや、あなた自身、みんなのために死んでくださいと言われたら承知しますか?

それを跳ねのけるのが個人主義であり、かつ、他人という個人の尊厳をも尊重するのが個人主義の意味だと思うのですが。


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2014年01月25日

呆れた事故調査委員会

エレベーターで人が亡くなったという事故があった。
そこで、事故調査委員会が動くことになった。

問題はその事故調査委員会の報告である。

「現在は対策がとられているので、報告の必要はないと判断しました」

と発表し、終わり。

私は耳を疑った。

発表している人の顔を見て

「この人大丈夫?」

と思った。

発表者が委員長かどうかはわからないが、代表して発表するする以上、それなりの地位にあると思うが、これで給料もらっているの?と思ってしまった。
おそらく、学歴もあるのだろうが、この年寄りを見て「学歴はあてにならない」と思った。

学歴は過去の遺物と考えた方がいいという考えが、ますます強くなった。
発表者の顔が阿呆に見えた。

日本人は肩書きを重要視すると聞く。
だから、音楽コンクール○○位というものに重きをおくらしい。

ヨーロッパへ留学したある音楽家の話では、ヨーロッパではそういうことは通用しないと聞いた。
「今、どれだけ実力があるか」が重視されるらしい。

そういう話を聞くと、日本は「肩書き国」と言ってよいかもしれない。

話を元に戻す。

事故の調査とは、事故がどうして起こったのか、原因と事故の因果関係を調査するものである。
その後、どう対策がとられているかは関係ない。
こう書くと、たまに「対策は必要ないのか?」という頭の悪い人が登場したりするが、事故の調査は現在の対策がどうあるかを調べるものではない。

だいたい、事故がどうして起こったのか因果関係を調査して解明しなければ、その後の安全対策はとれないはずである。
それを「今は対策がとられているから」と発表するということは、何が原因で事故に至ったかを知っているということになる。
そうでなければ、対策は原因を踏まえない形式な対策でいいといことになる。
(これからは、原因解明の前に形式的対策をとればよいということになる。)
JR北海道の捏造には驚いたが、大同小異、結局同じ穴の狢(むじな)か?

「今は安全対策がとられている」と発表するなら「では、事故の原因は何だったのですか?」という疑問に答えなければならない。
記者も質問すべきである。

これでは、遺族が納得しないのも無理はない。

それにしても、あまりにばかばかしい発表を堂々としてほしくない。
こういうバカな報告をテレビのニュースで発表することほ、国民を舐めているかよほどバカにしているのだろう。
発表者は機械的に原稿を読むのではなく、自分が読もうとしている文章の意味を考えるべきだし、その意味もわからないひとは担当するべきではない。

人が死んだ事故の始末が「今は対策がとられているからよし」とは、ばかばかしすぎる。
一応、対策をしたという恰好をつければ、めでたしなのか?

原発対策がそういう言葉の遊びに終わらないことを、願うばかりである。

安倍さん、なんとか言わないと内閣の政治姿勢と思われても、仕方がないのではないでしょうか?



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2014年01月25日

抽象的から抽象的へ

作文力と読解力は裏腹の関係にあると思う。
さらに両者を支えるものは思考力だろう。

作文で抽象的な言葉を使うと読む側は書いてある実体を掴むことができず、頭の中で右往左往する。

「リンゴは・・・」と切り出すと、リンゴという言葉は知っていてもかつて自分がリンゴを見た経験からのリンゴをイメージするだけである。
だから「リンゴは・・・」と切り出されたとき、次の言葉を待ってイメージの収束化を期待する。

「リンゴはもう赤くなっていました」

と言えば、作者は赤いリンゴを見たのだなと思う。

収束化が葉はかられたので、満足感が得られる。
ところが

「リンゴはフルーツです」

と言われたら「確かにそうだ、それが?」と言う気持ちが読み手には残る。
小学生に言葉の意味を教えている場面の話ならわかるが、大人に対してこう話しかけたら、何か続きがあるとか、この人は何を話したいのだろうと思うだろう。
でも、こんな話で終わってしまう人もいるのだ。

これだけでは私が何を言いたいのか、わからない人もいるだろうから、もう少し説明しよう。

ある人が「自動車運転法」という本を出版したとしよう。
町子さん(仮名)は、免許取りたてなので、少しでも運転技術を高めようと思って、この本を買ったとする。

読んでいくと「道に迷ったら、輪だちのある方へ行け」と書いてあった。
なるほど、輪だちがあるということは、車が通ったのだと理解できるので納得した。

「山道で、事故に遭いそうになったとき、衝突か谷へ転落のどちらかしかない時は、衝突を選べ」と書いてあった。
なぜかなと読み進めていくと、その方が助かる確率が高いからと書いてあった。

と、このような内容の本なら価値があったと言える。
ところが、

「道に迷ったら、安全な方へ行きなさい」

とか

「山道で事故に遭いそうになった時は、危険を回避しなさい」

と書いてあったとしたら、この本は価値があるかということになる。
このように書くと、ばからしいと思うだろうが、現実にはこのような文章を書く人がいる。

抽象的な書き出しから、抽象的な結論を書くと「ばからしい」文章になる。
抽象→抽象と続いてもよいが、次の文、あるいはその後の文で読者が具体的にイメージできる言葉で締めなければからしい、とぼけた文章になってしまう。

ドラマは、起承転結の形をとるものが多いが、文章もそのような形を意識しなければ「一体、この人は何を言いたいのだろう」ということになる。

スーパーマンが登場すれば、視聴者は何か起こると期待するだろう。
スーパーマンの彼女が登場し、次に彼女が危険な目に遭う、いろいろ苦労するがスーパーマンの活躍で彼女は救われ、めでたしめでたしで終わる。
このような、きまり切ったドラマでも人々は見たいと思う。

これは、人の心情に「ドラマ性」を期待する心があるからと言えるだろう。
たまには、この期待を裏切ってやろうと考える作家もいるが、うまくいくかどうかは冒険になる。
もっとも、最後が悲劇に終わるということもあるが、一応「結論」が出ている。
ロメオとジュリエットが代表的なものだ。

音楽は終止形の集まりだということを、以前書いたが、実は「終わらない終止」もある。
終わらないのに終止というのも変だが、これを「不完全終止」と言っている。

不完全終止は、曲が終わっても人には終わった感じに聞こえない。
なぜそうするかと言うと「あえて疑問を残す」ということを作為的にやっているのだ。
それでも、最後には具体的なものに収束化され、それを「どうしますか?」と人々に投げかけるわけだ。

私は、道徳の授業は不完全終止がいいと思っている。
不完全終止で、結末が心に残ると、実際の生活の中に課題が入り込むと思うからだ。

一つ一つの文章もドラマと思って書いてもらいたい。

「道路を通行する時は、安全に注意してください」

と言ったって、指導にならない。

かつて、標語で入選したものに

「出るな歩くな家にいろ」

というのがあったということだが、まだこの方がましだと思う。

「もの足りないと思った時は、塩を少々かけてください」

料理の先生は、このように具体的に言う。

「もの足りない」は抽象的な言葉。
「塩をかける」は具体的行為。

これは「実践をしている」からこそ言えるのだろう。

「子どもの心を育てるには、心を豊かにする教材を与えてください」

これで終わってしまう人は、子どもの心を育てた実践がないのだろう。

とにかく、抽象、抽象の眠くなる文章はやめてほしい。

子どもは自分に近い大人をモデルとして育つらしい。
その大人とは「先生」すなわち、担任、その他の毎日会うような先生。

先生のブログも読んでいるかも知れない。

「さすが先生」と思われるかどうか。

演奏はもろに実力が出て、ごまかせないように、先生の作文も子どもの前でごまかすことはできない。


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2014年01月23日

ウソのウソ

本屋に近いので時々立ち寄るということはしばしば申し上げている。

昨日も立ち読みをした。
もう少し離れたところには大きな本屋があって、そこは立ち読みをする人のために、広いスペースがありゆったりしたソファーも置かれてていて環境がいい。
しかし、そこへはそんなに行かない。

ウソというのは、間違ったことを承知で真実のように言うことだと思う。
裁判用語では、悪意と言う言葉があって、これは「知っていて」という意味で、逆の「知らなかった」は善意と言う。

例えば、土地売買において、買った土地が売主のものでなかったと言うとき、売買契約が有効か無効かは、善意かか悪意かで判決が分かれる。
善意、つまり買い主が売主のものでなかったことを知らなかった場合は、売買契約は有効で、知っていて買った場合、つまり悪意の場合は無効になる。

他人の土地でも売ることができるので、登記をしておかないと知らぬ間に誰かに自分の土地を売られてしまう可能性もある。
買った人が、善意で買った場合は買った人のものになってしまうので注意が必要である。

さて「・・・のウソ」という本が目についたのだが、どうも、こういうタイトルをつける本は、保険の本が多いだ。
営業妨害にならないように、ずばりタイトルを明かすのはやめておく。

始めにも言ったように「ウソ」とある以上真実を語っていないと言うことになる。
しかし、別にウソを言っているわけではないので、ウソとは言えないのではないかと思った次第である。

どういうことかと言うと、簡単に言えば「保険のお世話になることはめったにないから、保険は必要ない」と書いてあるのだ。
例えば、医療保険、これは国民皆保険で公的な保険で間に合うと言うのだ。

年間でずいぶん保険料を払っていても、お世話になることは滅多にない。あったとしてもそんな多額のことは少ないだから保険料がもったいない。貯金しておいた方がいいという、またかという例の論法である。

しかし「滅多にない」とか「少ない」というところがミソである。
そもそも、保険というのは「滅多にない」「少ない」から成り立つのであって、よく起こる事象に保険商品を設定したら保険そのものが成り立たない。

毎月1000円程度の保険で、賠償金5千万円とか携行品損害30万円など保障がついているが、保険会社に1000円払った人がみな5千万円もらっていたら、保険会社の経営は成り立たない。

私は毎年8万円ぐらい自動車の保険料を払っているが、一度もこの保険のお世話になったことがない。
貯金していたらずいぶん貯まったと思うが、後悔はしていない。
まあ、将来を予測できる超能力者には保険は必要ないかも知れないが、私にはそういう能力はないのでこれからも保険料は払っていくつもりである。

専門家が書いたという以上、こんなことはわかりきっていると思うのだが、わかっていて、あえて真実を隠すのはウソである。
保険会社はウソを言っていない。
もし、私が自動車事故を起こして、賠償を求められたら保険会社は人身事故、物損事故ともに無制限の金額を払ってくれると言っている。
私はそれを信じている。

専門家が知らないわけはないからウソだと思うのだが、本当に知らないのなら善意としても、それなら無知ということになる。

それにしても、どうしてこういう本を出すのだろうと思う。
また、どういう人が買うのだろうと思う。


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2014年01月22日

非科学的と批判する非論理的な文章

何かについて「非科学的」であると批判(誹謗)する場合、その論評が論理的でないと、批判する人自身の科学的思考が疑われてしまいます。

オーディオの好きな人の間では、しばしば「ケーブルで音が変わる」ということについて論争があります。

A:「ケーブルで音が変わりました」
B:「それは非科学的だ」

Bさんは、Aさんの「ケーブルで音が変わる」に、直ちに反応して「非科学的だ」と言っています。
Aさんは非科学的なことを言っているのでしょうか?

Aさんがケーブルで音が変わったと言うのは、誰かがフルーツを食べたとき「甘いですね(美味いですね)」と言うように自分の五感(この場合は味覚)で感じたことを言葉に出して言っただけではないでしょうか?
これと同様、Aさんは自分の聴覚で感じたことをそのまま言葉に出しただけでではないでしょうか?

■五感を通じて感じたことを言葉に出すことは非科学的ですか?

結論、非科学的とも科学的とも言えないことです。
「変わって聞こえました」「美味しいです」「においます」「冷たいです」などの感覚表現に対して、科学的かどうか判定すること自体がおかしいわけです。

健康診断を受けただけで病気だと言っているようなものです。
健康診断を受けて、医者が検査をして、その結果を専門的に判定して病気か健康かがわかるわけです。

科学者は自然界の事象を観察し、その事実を率直に受け入れ、どうしてそうなるのか因果関係を解明しようとする。そして学会で発表したりする。

因果関係を誰もが納得するような形で説明することを、科学的というわけで、現象を観察しただけでは科学でも何でもない。

■感情や妄想が人を支配する

「怪我をしました」→「ぼくやってないよ」

と、怪我をした友だちの近くで応答するのはは妄想かもしれません。
状況を見なければわかりませんが、怪我をした友だちのそばに自分がいて、バットを持っていた。
そこを、先生が見て睨んだとならば、疑われていると察してそう言ったのかもしれません。
しかし、そういう現場の空気でもないのに、そのような言葉を発するのは妄想かもしれません。

ネットを通じてのやりとりは、妄想がよくわかるとも言えます。

「お前ら素人には」

・・・ネットを通じてわかるのでしょうか?

話をもとに戻して、ケーブルで音が変わるか否かですが、科学的(態度を)を云々するなら「音が変わって聞こえる」という事実をまず大切にしなければいけません。

他人の感覚は自分にはわからないわけです。
もっとも、ネットには他人の感覚がわかってしまうという不思議な人が登場しますから、もしかしたら超能力者か宇宙人かと思ってしまいます。

もし、自分に音が変わって聞こえないとしても、他人がどうなのかは普通の人にはわかりません。
自分に聞こえないからと言って、科学的でないとは言えないでしょう。

オーディオメーカーは大勢の人を試聴者に迎えたりして、アンケートをとって開発に生かしています。
そういうメーカーの姿勢は科学的と言えるでしょう。

非論理的な文章で、他人の科学性を云々するのは滑稽だと思います。


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2014年01月21日

権力を持つと使ってみたくなる

「権力を持つと腐敗する」との言葉も聞きますが「権力を持つと使ってみたくなる」も似たようなところがあります。
7月をJulyと言うのはジュリアス・シーザーの名前からとったそうですが、8月は初代ローマ皇帝アウグストゥスの生まれた月ににちなんでAugustとしたということ。
しかし、始めは8月は30日だったそうですが、シーザーの7月が31日なのに、August(アウグストゥス)の生まれ月がシーザーの生まれ月より少ないのはけしからんということで、8月も31日に変更させたということです。
これは権力者だからできたということでしょう。
そのせいで、1年間の日数が増えてしまうので、2月を28日にしたということですが。

誰が権力を持っているかを考えたとき、先生も権力を持っていると言えます。
だから、学校のきまりは先生が決めて生徒たちに守らせるということができるわけです。

私は、そういうことが即いけないことだという短絡的なことは言いません。
問題は権力の使い分けだと思います。

権力はよく「伝家の宝刀」とも言いますが、弱い侍に限ってやたらに刀を振り回すというイメージがあります。
反対に、強い侍はドラマで見ても分かるように、なかなか刀を抜きません。

私は西部劇の「シェーン」という映画が好きですが、主人公のシェーンはなかなかピストルを抜きませんでした。
それがシェーンの強さをより引き立てているように見えました。

殿下の宝刀をすぐ抜くのは子どもから見ても、軽い存在になるように思います。
私自身も、すぐ刀を抜くような軽い存在になりたくないと思ってきましたが、先生方もそうであってほしいと思っています。




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2014年01月20日

きまりがなくて困ること

きまりは自由度を狭めるものですが、きまりを作って狭めないと困ることもあります。

「車は左」「人は右」というのも、その例です。

ものごとを計画したり、想定したりすることはいいとして、実践が不十分なせいで、不都合なことがあります。

実践が不十分というのは、実践しているつもりでも実践になっていないと言う意味で、不完全実践とでも言いましょうか、消化不良に似たようなものです。
こういう言い方では何のことかわかりにくいと思いますので、例をあげてみます。

私は演奏活動をしています。
と言っても、前にも言ったように、私の演奏活動はすべて依頼があって出かけるものです。

何かのイベントのアトラクションとして行く場合、他にも演奏する団体や個人がいることもあります。
演奏の前には、ウォーミングアップや練習をしたりします。

その時、練習している人たちがいますが、いつまでもやっているわけです。
人が練習をしている時に、勝手に音を出してはいけないと思い、待っているのですが、今度は別の団体が割り込んだりして練習を始める。

本番の前に全く音を出さないのは不安なので、係に申し出ると、やっと少しだけ時間を空けてもらえるという具合です。

このような主催者には、イベントを行うときは、練習の割り振りをしてくださいと言うのですが、少しは改善されるかなという程度です。

きちんとしたところ(例えば楽器メーカーなど)では、非常に綿密な進行表が作ってあります。
まあ、プロの進行表と言えるものです。
私は、そういうプロによる進行のもとで参加した時に、進行表のコピーをもらってきたことがあります。
学校の先生もそういうものを手に入れて参考にしたらと思います。

ものごとは[はじめ]-[中]-[終わり]のどこに力点をおくかという話をしましたが、イベントではつい中の劇、舞踊、演奏などばかりに意識が楽しむのは観客であり、主催者、関係者は楽しむことに力点をおくのではなく「はじめ」(純美も含む)に力点をおくべきだと思います。
細々ととした校則を作る学校が、イベントの進行に細かいきまりを作らないのは、異様な感じさえします。

いつのころから、このような空気が多くなったのかと思いますが、大げさに言えば、イベントを行おうとするとき「行う」と決めたら、それでできてしまうと考える人が多くなったような気がします。

「今度、○○さんを晩餐会に招待しよう」と決めたら、どこかの料理屋へ電話をして終わりみたいなものです。
そういうやりかたもありかも知れませんが、それで料理も用意した気になってしまっているのも、何か変な気がします。

■準備不十分

ひとことで言えば「準備不十分」ということになりますが、なぜ準備不十分になるかと言うと「自分でやらない」からです。
演奏者を招待するにも、自分でやってみるといい。

演奏のうまい下手はともかく、楽器さえ持てば、自動的に譜面台が出てくるものではない、空調の風で楽譜が飛ぶかもしれない、椅子の高さがちょうどいいともかぎらない、・・・経験した人は身につくことが違うと思います。
また、そういう経験者が準備に回ると、演奏者が気分よく演奏できる場を作ることができる。


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2014年01月19日

実践に即して考える自由度

三角形の内角の和は180度です。
これは真理であり、動かすことのできないものです。

同様に、きまりは多いほど自由度がなくなると言うのも真理と言えます。

思考が迷路に入ってしまった時は、真理に戻って考えすことが大切と思いますが、やっかいなことに人は感情に支配されることがあります。
それが人の間でやっかいな問題を起こすもとになったりもします。
それでは感情は一切配して行動するのがよいかというと、そうも言えません。
電車などは整列乗車が正しいのですが、時にはお年寄りに譲るなどした方がよいこともあります。

人間の生活は真理と感情のバランスがとれていることが大切と思います。

車両は左側通行が正しいですが、交通状況により右側を通らなければならないこともあるでしょう。
たとえば人命を考えるような場合です。

■学校は常に「教育的」を考えるべき

学校が教育的であることは当たり前のことですが、実践に即して考えられているかどうかという視点に立ってみると、たとえば、筆箱の中身を規制するというようなことが教育的かどうか疑問に思います。

筆記用具は、何を書くのかを考えて用意していくようにした方が、考える機会を与えることになるのではないでしょうか?

校外学習の服装を決めるとき、私が生活指導担当の時「派手でないもの」と指導したことがあると言いました。
それで異義をとなえる先生はいませんでした。

学習が終わり、帰校したとき、反省の一つとして「服装が守れたか」というのがありましたが「守れなかった人は立ちなさい」という言葉に立った生徒がいました。

立った生徒に特に何かを言うということはありませんでしたが、それは「自分の心に正直」ということで、よしとしたわけです。
しかし「私の服装がどうしていけない(派手)なのですか?」と文句を言ってきた生徒がいました。

その時の先生の対応は、生活指導としての私の立場をよく理解して指導してくださいました。

「先生は、君の服装が悪いとはひとことも言っていないよ。・・・」

生徒は恥ずかしそうに帰って行きました。

ことこまかにマニュアルを作るのではなく、心に訴える指導がしたいものです。

しかし、では何でもことこまかに決める必要はないというものではありません。
このことについてはまたの機会にしたいと思いますが、何かを決めないと怠けているとか「丸投げをしている」と考える人がいるようですが、そう考える人こそが丸投げ思考の人ではないかと思います。

なぜかと言えば「自分で考えてやりなさい」ということは、子どもがどういう行動をするのかあらゆる場合を想定して備えなければならないからです。

私は、あらかじめ先生がこまごまあれこれ決めて、プリントを配るより、子どもたちには「君たちは君たちで考えてみなさい」とか、先生の会議は、子どもの行動の想定について話し合ったらどうかと思います。
その方が、子どもにとっても、先生にとっても「教育的」ではないでしょうか?


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2014年01月18日

きまりは多いほど自由度がなくなる

あたりまえのことですが、大切なことです。

問題は「きまりは多いほど自由度がなくなる」という誰にもわかることが、いろいろな活動の場に応用されないことです。

例えば、生徒に対するきまりが細部にわたっている学校はどうでしょう。
「きまりは多いほど自由度がなくなる」に当てはめれば、生徒の活動の自由度はなくなるということになります。

何でも、自由度がなくなることはよくないなどという単純なことは言いません。
自由度がないことには、良い場合も悪い場合もあります。
(良い悪いが複合されている場合もあるでしょう)

では、自由度がなくなることで、良いか悪いかの判断はどうしたらよいでしょうか。
それは、誰の利益になるかという視点で見たらどうかと思うのです。
細部にわたって校則の厳しいのは、生徒、先生、保護者、一般社会人、誰の利益でしょうか?

細かい校則と言えば、筆箱の中身を決めている、廊下を曲がる時は直角に、手をあげる時は75度の角度で、校外で男の人と話をするときは、挨拶以上の会話をしない(女子高)などが浮かんできます。
数えたら70以上の校則があったと聞いたことがありあます。

自由度がない、行動が制限されるということは「考える予知がなくなる」ということです。
「考える予知がなくなる」ということは、学ぶ機会が少なくなるということではないでしょうか?
それは、学校教育の趣旨に反しませんか?

しばしば例に出させていただいているものに、ソオシオメトリーの原理で有名な田中熊次郎
氏の「教材の池のない授業はイケナイ授業」があります。
これは、子どもが自由に泳ぎ回れる場の必要性を説いているわけです。
子どもは授業で習ったことを実生活で応用できることが望ましいと言えます。
そう考えると、授業も生活も連携していると考えられます。
だから、校外生活も授業と連結している言えるし、その方が望ましいわけです。

しばしば、働き方の例で紹介されるディズニーランドでは、働いている人のマニュアルはないと言われます。
いくつかの原則があるだけと言われます。
それで、あのような素晴らしい働きができているわけです。

細かく規定することは、自由に泳ぎ回れる池がないことであり、あったとしても、それはリモートコントロールの船のようではないでしょうか?

「その」きまりは、一体、誰の利益になるものなのか、時には考えてみたいものだと思います。


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2014年01月17日

ものは言いよう

花子さん(仮名)は仕事で使っているパソコンがWindowsXPなので、困っていました。
買い換えるにはお金がない。
でも仕事に使うものなので、どうしようかと思案にくれていました。

いくら考えたところで、要るものは何とかしなければなりません。
そんなに収入があるわけでもないので、借金はしたくありません。
そこで、結婚資金にと貯めていた貯金を下ろすことにしました。

新しいパソコンは快適ですが、貯金が減ってしまったことは気にかかっていました。

そんな思いで仕事をしていたある日、知人がやって来ました。
知人は新しいパソコンを見ると

「パソコン買ったの?、でもねパソコンなんてじきに古くなるわよ。お金あるんだね?」

と言いました。

花子さんの心に、この言葉はグサッと突き刺さったことだろうと思います。

新しいパソコンを買ったことにコメントするなら

知人:「パソコン買ったの?いいわね。これで仕事はかどるね」
花子:「でも、お金なくなった。また貧乏になっちゃった」
知人:「でもね、パソコンは人の何倍もの仕事してくれるから、いい買い物だと思うよ。仕事で使うんでしょ。
これで稼げばもと取れるんじゃない。花子だっら大丈夫だよ」

と言ったらどうかと思います。

同じ言うでも、マイナス点を探して言う人、プラス面に焦点をあてて言う人とがいるようです。

どんなことでもマイナスを探せばあるでしょう。

「道路を歩けば事故に遭うぞ」
「餅を食えばのどに詰まって死ぬぞ」

どちらも可能性がないわけではありません。

ことさら、マイナスを探して批評する人の心理はどんなかと思います。

某放送局の子ども対象のコンクールは、子どもの演奏が終わるごとに審査員が批評の言葉を言います。
私はそれを聞いて、感心しました。

子ども傷つけないように、マイナスの言葉を使わないのです。
励みになるように上手に批評していました。
下手な演奏もありますが、それでもよく頑張ったというところをみて、そこを褒めるわけです。
その褒め方が決してとってつけたような、いわゆるお世辞ではないのです。
聞いている第三者にとっても、なるほどというもので、下手なんだけど褒めるというのは、さすがプロと思いました。

「あなた、いくつの時からピアノ練習始めたの?・・・そう、よく練習しましたね。でもね、◯◯のところ、もう少し流れるように弾くと、もっとすばらしい演奏になりますよ。これからも、ピアノ続けると、あなたはすばらしくなる素質を持っていると思う、がんばってください」

子どもはピアノを習いだすと、倦怠期がきたりします。
上達も感じられないし、周りもいいことを言わないとなると、自分には才能がないのではと思い、いつやめようかとも考えたりします。

そんな時、権威ある先生から「良くなる」とか「素質がある」と言われたら、励みになるでしょうし、いつか「ピアノやめなくてよかった」と思う時期がくるかもしれません。

私はピアノ発表会のコメントを頼まれたことがありますが、この審査員の批評の仕方を真似してやってみました。
子どもの心にはどう響いたかはわかりませんが、どうせ言うなら励みになる言い方ができるように考えるようになりました。

先生なら、お世辞にならないような褒め方ができる、そこに厳しさもあって、示唆を含んだ批評ができなければならないと思っています。
しかし、的を得た褒め方は、かなり専門性がなければできるものではないと思っています。


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2014年01月16日

お金の貯め方(2)

お金を貯めるために金融機関を利用すると、利息がついて元金が増えます。
この利息とお金の増え方の関係に「72の法則」と言うものがあります。
「72の法則」とは、元金がおよそ2倍になるには何年かかるかというものです。

計算は単純で、72÷利率(複利:%)です。
例えば、利息が2%なら、72÷2=36で、36年かかることになります。

昨今の銀行の利息は1%もありません。
1%としても72年かかることになります。
0.3%では240年です。

昔は6%ぐらいのこともありました。
これなら12年で、貯金をする意欲も出そうです。

果たしてそういう時代が来るかということですが、金利が上がると借金をしている人は大変です。
国は1000兆円も借金がありますから、返済金利が1%上がっただけで一挙に10兆円の借金が増えることになってしまいます。

4月からの消費税が上がることで、5兆円の増収があると予想されていますが、金利が上がれば増収分は吹っ飛んでしまいます。


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2014年01月15日

お金の貯め方

景気が上昇傾向と言われますが、そういう実感のある人はまだ少ないように感じます。

「お金の貯め方」と言うと、良い方法があるのかと思う人がいるかもしれません。
残念ながら、良い方法と言えるものは発表できません。
それより、こんなご時世ですから、いい話を持ち込まれて逆に大損をしないようにしたいものです。
特に、学校の先生は騙されやすいと言われますから。

お金は持っているだけでは増えません。
だから、他に預けるわけですが、安全で戻りも大きいというものは見つからないでしょう。

ハイリスクハイリターンは、うまくいけば戻りが大きいかもしれないが、損をする時も大きい場合。
ローリスクハイリターンは逆に戻りは多くないが安全性は高いというもの。

安全な方法といえば、銀行に預ける、つまり貯蓄ですが、保険でもお金は貯まります。
保険は死ななければお金は入らないだろうという人もいますが、そんなことはありません。
長寿時代では、保険は有利です。

次の図は、銀行預金でのお金の貯まり方です。

chokin.jpg


毎月、いくらか貯金をしていけば次第に右肩上がりで増えます。

次は保険です。

syusin_nenkinPlun.jpg


保険も右肩上がりで増えますが、加入した時点で何か事故があると、大金が入ってくることがあります。

経済の話になると、貯金は三角、保険は四角という説明がされます。

■今日の要点

今日、言いたいことは貯金か、保険かということではなく、お金を貯めるには天引きにすべきということです。

余裕があるときに貯金しようではなく、毎月、口座から天引きで積立や保険を利用するということです。

そして、ものごと、始め-中-終わりでどこに力点をおくかで考えると、天引きを開始するという「始め」が大切と言いたいのです。

お金を貯めるには、天引きを決意するという、始めに力点があるとも言えます。

スタートすれば、中、終わりは、ほっとけばいいわけです。


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2014年01月14日

終止形

次の楽譜は機能和声法で「終止形」(カデンツ)と呼ばれているものです。
ここで、音楽論を展開するつもりはありません。
私は興味をもったものをいろいろ勉強するうちに「似ている」「共通している」というものを発見しました。
今回の話もそういう話になります。

waonsinko.gif


最初のT-D-Tは学校では礼をするときに、音楽の先生がよく弾く和音です。
おもしろいことに、この和音の連結T-D-Tを弾くと、特に「これで礼をしなさい」と説明をしておかなくても礼をします。
(この記事をお読みの方で、図のT-D-T、T-S-T、T-S-D-Tの意味がわからないと言う人は、音楽の先生に聞いてください)

ここで私が言いたいことは、Dの和音では終わった感じがせず、続いてTの和音を弾くと「終わった」という感じを持つことです。
こういう人間の心理はおもしろいと思います。
ともあれ「音」は人間に何らかの心理的影響を与え、いろいろな音の組み合わせや連結がさらに多くの心理的影響を与えることで「音楽」という分野が確立したのだと思います。

あらかじめ教えてもらっていないのに、人は「礼」をするように、多くの音は特に音楽を学ばなかった人にも心理的影響を与えています。
もし、何も感じないという人がいるとしたら、本来、人が持っている感受性の一つが低下しているのではないかと思います。

子どもは大人に対して、さまざまなメッセージを発しています。
その時、大人(先生)が、感受性の低下でメッセージを受け止められなかったとしたら、子どもにとっては不幸だと思っています。

今回私が言いたいことは、感受性の話ではなく、この楽譜の例のように始め-中-終わりのセットがあるということです。
すでに、始め-中-終わりについては始め、中、終わり、どこに力点が?の記事に書きましたが、長い人生もこの和音の連結(終止形)のようにいくつかの始め-中-終わりでできていると言うわけです。

音楽の中で演奏時間の長い交響曲も、絶えず終止形を繰り返しながら、終楽章に達するわけです。
だから、生徒会活動も「役員を決める」-[校則について討議する]-[校則を決める]は、始め-中-終わりであって、どれも大切なのですが、どこに力点を置くかで効果は違ってくるということ言いました。
これは、まさしく音楽の終止形(T-S-T)だと思うのです。

ものごとには「終わり」が必ずありますが、ものごとの数だけ終わりがあることになります。
話し合いの結果、校則が決まっても全てが終わったと思う人はいないでしょう。
もし、始め-中-終わりについては始め、中、終わり、どこに力点が?の記事を読んで、学校の教育活動がそこで終わりと読んだ人は、相当に読解力がないことになりますが、学校の先生ではそんな人はいないでしょう。

授業にも終わりがありますが、1時間目の授業が終わったからといって、学校が終わったと思って帰ってしまう生徒はいないように、子どもも「すべての終わり」ではないことを理解しています。

人生は交響曲のように感じることもあります。
実際、そういう曲はたくさんあって、例えばチャイコフスキーの交響曲第六番「悲愴」はまるでチャイコフスキーの人生そのものを語っているように聴こえます。
チャイコフスキーはこの曲を完成させてから、間もなく亡くなっていることから、一層その感を強くします。

先日、中学校の同窓会がありました。
私を覚えていた女子の一人が「この人の弁当を見ると、いつもきれいなおかずが並んでいてねえ・・・」と思い出を語り始めました。
彼女には、そんなことが思い出として強烈に残っていたのです。

私は幼くして両親がどこかへ行ってしまったので、引き取ってくれた伯母は「親がいないからみんなの前で惨め思いをしないように」といつも心尽くしの弁当を作ってくれたのです。
旧友たちは、そんな私の弁当を見て羨ましかったわけです。

私は、そんな子どもの頃、昼食時は何か温かいものを感じていたと思いますが、今思うと感謝の気持ちが足りなかったと後悔しています。

しかし、何十年も経った伯母の心が全くいろあせず今も強烈に響いてくるのは、始め-中-終わり(終止形)の中の充実の凄さを感じざるを得ません。

私はそれだけで、もう一生分の幸福をいただいた気分になっています。

だから、朝早く起きる-弁当を作る-弁当をいただいたの終止形(T-S-T)を、さらに次の終止形で発展させなければいけないと思っています。

いくつかの終止形を繰り返し、人生は四楽章(終楽章)に到達します。
そこで人生は終わります。
しかし、伯母の人生は終わっても、その終止形は私が引き継いだように、私の終止形も誰かが引き継いでくれるような人生にしなければと思っています。


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2014年01月12日

WinXPのサポート打ち切りでLinux移行が加速するか?

あと3ヶ月を切ったWindowsXP(以下XPと言う)のサポート終了。

XPは人気があるらしく、ユーザーは多い。
中国ではパッチを配布する会社があって、サポート終了後も使い続ける人は多いと言う。
GoogleではchromeのサポートをXPのサポート終了後1年先までサポートすると言う。

私はかねてから、Linuxを使うこと推奨している。
Linuxを使うことにためらいがある人は、どこに原因があるのだろうと思うが、Linuxを使うことのメリットを思いつくまま挙げてみる。

1.無償である
2.オープンソースである
3.何世代前のパソコンでも動く(最低64MbitのRAMで動く)
4.安定性が高い
5.ウィルスに強い(ほとんど心配がない)
6.デフラグの必要がない
7.通常のビジネスソフトはほとんど無償で提供されている
8.バージョンアップも無償

と数々のメリットがある。
学校で使う分にはアプリ(ソフト)で困ることはないだろう。
もっとも、Windows用に作られたアプリをそのまま動かすことはできない。
しかし、Linux上でWinndowsのアプリが動くWineというLinuxアプリがあって、刻々と進化している。

個人の間ではLinuxユーザーに出会うことはまだ珍しいが、このように優秀なLinuxを公的機関が放っておくわけがない。
例えばフランス国家憲兵隊、Linux OSへの大規模な移行、来夏に完了とか、米軍で拡がるLinux採用
など、Linuxの信頼性を示すものと言える。

日本でも、大阪府箕面市の 「Linuxを活用した中古パソコン再利用」 プロジェクトは、かつて紹介した。

個人でパソコンを使っている現場に接すると、ほとんどの人は操作を覚えているだけで、仕組みには関心を持っていない。
だから、独自の理論を構築している人もいる。
例えば、インターネットエクスプローラーを起動すると、Yahooのサイトが現れるようになっている人では、インターネットエクスプローラーの中にYahooが入っていると思っている人がいた。

テレビが故障した時、テレビの中の小人がサボっていると言っていた、天才バカボンのマンガを思い出した。

■使わなくなったXP機にLinuxをインストールする

いつも使っているのと違う車を運転すれば、多少スイッチ類の位置も違ったりする。
今や、Linuxの画面はWindowsと比べてもその程度である。

今、XPを使っている人でパワーのある機械を使っている人はWindows7やWindows8.1をインストールすればよいが、そうでない人はLinuxをインストールしてはどうかと思う。

そうして、WinndowsとLinuxを平行して使ってみることを勧めたい。

学校では、情報処理担当の先生が率先して行ってみたらどうか?

公的機関がLinuxに切り替えれば、予算の節約はかなりのものになるだろう。


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2014年01月12日

教えたい、でしゃばり

私が最も嫌いなことの一つとして「教えたがり」(でしゃばり)があります。
子どもは「いいこと」を覚えると、得意になって人に教えたがるということがあり、これはこれでほほえましくもあります。
でも、大人のそれは時と場合にもよりますが、あまり恰好のいいものには映りません。

「ある世界」では「お世辞」の場合もあります。
そんなのに軽はずみに乗っていい気になった日には、まるで漫才のような気がします。

だから、私は自分から押しかけるようなことはしませんし、うっかりお世辞にも乗らないように注意しています。
今やっている演奏活動、指導も相手側が本気で頼んでいるんだということを、十分見極めた上でやっていることです。

昨年は演奏のない月はなく、この傾向は今年も続きそうなので、練習は欠かせなくなりました。
普通に演奏活動をしている人にとっては、たいていの曲は楽譜さえあれば演奏できるのですが、練習を怠るとコンディションが悪くなり、音を出すのに苦労します。
体操の選手が練習をしないと、技が切れなくなるようなものです。

昨年は私の活動が気になるのか、デマを流した人がいます。
頼まれもしないのに、押しかけて迷惑がられているとか、何か情けない人間であるかのようにです。
情けないかどうかは、他人が評価することですから、自分では何とも言えませんが、前述したように頼まれもしないのに押しかけるのは私の最も嫌うところですから、全く嘘を流したことになります。

それよりがっかりしたのは、デマを流した者が教育関係者であり、将来、教員を希望する者たちを指導する立場であることでした。
偉そうなことを言う前に、自分の行動を振り返ってみるべきと思うのですが、他人の前で偉そうに言うクセに自分のことは見えないようです。

「教えたがり」の人の心理はどんなものなのでしょうか?
私のような年の多い者を見ると、人によってはパソコンに疎い者という先入観があるようです。

懇意にしているパソコンショップでパソコンを借りて仕事をしている時、横から手を出し、マウスを掴んで操作をしてくれる若い人がいました。
どうも、この人も「教えたい人」のようでした。
しかし、私が机の上に置いたパスカルのソースコードは何なのか、この人はわからないようでした。

近年、社会を賑わせている犯罪に詐欺が多いようです。
年寄りを騙してお金を振り込ませる事件は、ずいぶん報道されました。
この種の犯罪に巻き込まれないようにするのは、相手を確認することです。
息子や孫を装うことが多いようですが、言葉を即信用する前に、確認する方法はあるはずです。

犯罪にまでならないにしても「装う」つまり「なりすまし」をする人はいるようです。
特に、匿名で投稿できるネットでは簡単にできます。
以前、音楽プロデューサーのなりすましの話をしたことがありあますが、この人は音楽プロデューサーになりたかったのになれなかった人のようでした。

「なりすまし」がバレるのは、具体的な話に及ぶ時です。
例えば、どんなマイクを使っているのかとか、マスタリングの話などをするとわかります。
そういう方向に行くと話をそらし、抽象的な話になります。
「プロは違う、とにかくお前らなんかと違って比べ物にならないほど上手い」
との言葉が出てきました。

抽象的な言葉の羅列です。
また、ネットでは誰が読んでいるのかわからないのに、相手はアマチュアと決めつけています。
まあ、それで自己顕示欲が満足できるのであれば、ネットも役に立っていると言えるかも知れません。

しかし、私が最も言いたいのは、教育関係者、学校の先生はいろいろ意見を言う前に「自分は教育の仕事をしている」という意識を忘れないで欲しいと思うことです。
犯罪に至らないまでも、あまりにも自己顕示欲ばかりむきだしの記事は、かえって品格を損なうと思います。
子どもの立場からすると、情けない姿にしか映らないのではと思うのです。

火山の噴火は地中のマグマの圧力で起こるものですが、本当に凄い人、力のある人なら長い間に溜まったマグマのように、いつか自然に湧き出てくるようなものだと、私は思っています。
だから、自分から宣伝しなくても、他人は自然に気づくものだと思っています。

教育ブログが本当に質の高いものであれば、読者も質の高いフアンが増えるでしょう。
そして「教わりたい」との要望も出てくる可能性があるでしょう。
しかし、何処のだれかわからないような記事だったら、相手にしないと思うのです。

読む立場からしたら「振り込め詐欺」の被害に遭わないと同じく、何処の人かもわからない人の記事には注意すべきと思います。

事実、私が知っている人は、先生ではないですが、自分は芸能界に通じていると話して、若い女の子を騙していました。
私は女の子に、忠告したのですが、忠告した私の方が悪者にされてしまいました。
20代の女の子がも40近くになっています。果たして、もう気がついているのか。

普通に常識ある人たちの間では、笑いもののネタになっていますが「人は信じたいこと信じる」と言うように、依然として被害者はいるのかもしれません。

バカな人が話題にのぼるように、ブログも低レベルで人気がある、ということにも気をつけねばと思った次第です。


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2014年01月10日

始め、中、終わり、どこに力点が?

ものごとには、始め、中、終わりがあります。
いずれも大切なことには違いありませんが、どこに力点があるかで、効果には大きな違いがあると思っています。

「始めチョロチョロ中パッパ・・・」というご飯の炊き方も、力点(火力)の置き方の違いを表している言葉でしょう。

競艇は初めて見に行った時「スタートで勝負が決まる」とある人が教えてくれました。
だとすると、競艇の選手はスタートに力点を置いて練習するのでしょうか?

学校はどうでしょう?

学校は教育活動の場ですから、教育的観点から見たら中(過程)が大切なのでしょう。
とすると、生徒会活動などの特別活動は結果より生徒自身が自ら活動したという内容が重視されなければなりません。
事実、特別活動の本を見ると、そのようなことが書かれています。
しかし、現実には立派な姿を見せようとして、失敗しないように先生が路線を作ってしまうようなものを見ることがあります。
これは、中が大切なのに終わりを大切にしてしまっている例と言えます。

学校の授業を見て「なんてまわりくどいことをやっているんだ」という人もいます。
こう言った人は塾の先生でした。
私は、しばしば言うのですが、学校の目的と塾の目的は違うのだと。

学校は(過程)に力点を置いているのです。
如何に高い点を取るかという終わりを目的にしている学習塾とは違うわけです。

終わりばかりに力点を置くのは、面白さを感じなくなる、感動がなくなる、つまり勉強なんて面白くないとのイメージを作りやすいのではと思います。

プロ野球は優勝を目指して戦いますが、どこが優勝したかを知ればよいというものではありません。
テレビが長い時間をかけて中継するのも、中(試合の過程)を視聴者は見たいと思うからでしょう。

相撲が嫌いだと言っている人がいましたが、理由を聞くと「勝負が早く決まってしまうから」と言いました。

こんなことを考えてくると、学校は答えを急がず(過程)にたっぷり時間をかけるべきと思います。
時間をかける中で子どもは感動を経験し、面白みを感じるようになるのでしょう。

しかし、(過程)はどうあれ、答えはこう書くべきだというのは、どんな過程を経ても勝者が予め決まっている試合をするようなもので、これも勉強を面白くしない原因の一つではないでしょうか?

試合をする前に、勝負が決まっている試合を喜んでする人がいるでしょうか?

こう考えてくると、もう、高校入試はやめて全入制にしたらと思います。
そして、高校での様々な教育活動で能力を発揮するようにしたらと思います。
そういう方法を取ることで、中学時代はパッとしなかった生徒が頭角を表すかもしれません。

(過程)が大切と思うものに「きまり」があります。
中学生ぐらいになると、自立心も高くなるので、とかく上から決めつけられることに生徒は反発します。
校則も例外ではありません。

だから、校則は生徒に決めさせた方がいい。
思い切って、信頼して任せることで、生徒も真剣になる。
また、生徒側にしてみれば「自分たちは信頼されている」と感じることが大切と思います。

生徒に校則を任せるということを実施した学校の例をみると、結果は、先生たちが考えたものとあまり変わらないという結果になっています。
だったら、先生があらかじめ作って生徒たちに提示したほうがいい(早い、ムダがない)という考えがあるかもしれません。

しかし、それが、始め、中、終わりのどこに力点をおくかに照らし合わせると、間違っていると言えます。

時間がかかっても、生徒たち自身に任せるという過程が大切なわけです。
自分たちが決めたきまりということで、守る意識が違ってくるわけです。

教育は子どもの心理を考えて行うことが大切でしょう。

何かを行う時は、ただ能率だけを考えるのではなく、効果を考えて、始め、中、終わりのどこに力点を置くかを考えてみるべきと思います。


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