2014年02月28日

古いパソコンを再生する

昨日、ある会社を訪問した際、古いパソコンをいただいてきた。
なんと、数ヶ月ぐらい使用しただけという。
忘れ去られたまま、会社の隅にあったもの。

電源を入れると、WindowsXPが起動した。
なんと、ほとんど使われないうちに、WindowsXPのサポート終了時期を迎えてしまった。

mouse_con1.jpg


それで、持ち帰ってLINUXをインストールしてみた。
快適に動く。
写真は表計算ソフトを起動したところ。
もちろんEXCELとも互換性はある。
インターネットにもつながった。

たびたび紹介しているように、古いパソコンもLINUXで蘇る。
今日ではパソコンがないことが、社会生活上のハンディになる。

こうして、ただで再生できたパソコンを、買えない人たちに提供するという活動はどうかと思う。





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2014年02月26日

貧困の連鎖

この国のことで気になることの一つに貧困の連鎖がある。
子どもたちの将来が気になる。

私の育った頃は、家は貧しくても国立大学だったら、親にほとんど負担をかけずに卒業できた。
ところが、今はそういうことが不可能な時代だ。

シングルマザーも増えて、子どもを二人抱えて、月10万円そこそこという母子家庭が増えている。
また、そういう親に限って労働時間も長くなっているから、子どもとの時間が短くなっている。

問題は、教育費がかかるようになっているので、収入の少ない家庭の子どもは勉強して、進学して貧困から抜け出る手立てを塞がれていることだ。
だから、貧困は依然として貧困という、貧困の連鎖を断ち切れない。

【参照】
第2期教育振興基本計画、教育予算のOECD並水準を断念、財務省反発で第2期教育振興基本計画、教育予算のOECD並水準を断念、財務省反発で

日本の教育費は、比較可能な31カ国で最下位。高等教育分野だと日本は0・5%で、OECD平均(1・1%)の半分に満たない。

教育への公費 日本また最低

■子どもを取り巻く環境の悪化

今や日本の子どもの6人に1人が貧困という状態だ。
しかも、貧困状態を抜け出る手立てが閉ざされている。
給食制度が、1日1食を保証するのはせめてもの救いだ。
家庭で親一緒にいる時間が少ないのは、精神的安定感を欠くことになる。

子どもが一番精神的に落ち着いて学習できる場所は、台所だそうだ。
そういえば、学習机がある家庭でも、子どもはそこで勉強せず、台所へ用具を持って行ってする。
それは、台所には母親がいるからだ。
その母親が、仕事で帰宅が遅いので、常に子どもの心は不安定。

中学生になると、勉強のために離れを作ってやる親がいるが、私の経験ではこれで勉強をよくやるようになった子どもを見たことがない。
それどころか、夜、部屋を抜け出し連れと深夜徘徊をするという例を見た。

学校で頼りになる大人は先生だが、その先生もどうかすると変な人がいる。
変と言っても、個性豊かで変わっていると見られている人はいいが、いわゆる変態や頭のおかしい人がいるとしたら大変である。
精神的に病んで休職する先生が、年間五千人ほどいるという。
休職者がそれぐらいいるということは、予備軍もいると考えられる。
本当は休むべきなのに、惰性のように勤めている教員を私は知っている。
授業にならないので、子どもは先生を無視して勝手に自習をしている。

先生にとって教科の専門性、教え方の上手下手も大切だが、それ以前に、おかしくない人がいることの方が大切だろう。

職員室に放火した先生もおかしいが、刑事事件になったとしても、精神鑑定が要求され、普通ではないと判断されたら刑事事件にはならない。
罪にならないということだが、その代わり治療をすることになる。

■教育への投資減は国の将来を暗くする

コスタリカは国家予算の20%を教育費にあてるということが、憲法に定められているそうだ。
あまり紹介されることのない国だが、住んだことのある人の話では、教育に投資している効果は感じるとのこと。
田舎道を歩いていると、農作業をしている人が「これ持っていくか?」と声をかけてくれたという。
車が通りかかると「乗って行くかい?」と誘ってくれたそうだ。
そして、翌日にはその人が家まで迎えに来てくれたという。
教育は国民の知恵を高め、GDPを増加させるが、それだけでなく、心を豊かにする。

今の日本は若者で正社員になれない人も多く、収入も少ないので年金保険料を払う余裕がない。
それでも、若いうちはいいだろうが、年金保険料を払っていないので、将来年金がもらえない。

今でも、年金は十分と言える人は多くないだろうが、将来は年金ゼロという人たちが増えると予想される。
これは、治安の悪化をもたらすだろう。

どこかに、この国の希望を見出したいが、どうみても良くなるとは考え難い。

子どもの未来、若者の未来にについて、政治家は真剣に考えているか?




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2014年02月25日

おつきあい上のトラブル

人生、人とのつきあいの中には、時としてトラブル(もめごと)もある。
自分が悪い時は、ひたすら謝るしかない。
下手な言い訳をすれば、かえって状況を悪化しかねない。

菓子折りを持って、深くお詫びの言葉を述べに行ったこともあった。
相手は黙ってコーヒーを飲みながら聞いていた。
まだ怒っているのかどうかわからなかった。

ひと通りお詫びの言葉を聞くと、席を立ち、菓子折りを掴んで返った。
菓子折りを取る様で、許してくれたと感じた。

こちらが悪くなくても、相手の誤解で喧嘩別れのようになることもある。
最近、疎遠になっていた人から電話がかかってきた。
何年ぶりだろうか、気まずい別れのあった人だ。

声の調子が優しかった。
お話がしたいと言うので、喫茶店で待ち合わせた。
私が先に到着し、待っていると、後から私を見つけニコニコした顔で近づいて来た。
誤解が溶けたのだと感じた。

「いろいろ教えていただきたいと・・・」

と丁重な切り出しだった。
私は相手の低姿勢に上からモノを言うことは嫌いだ。

いや、昔はそうでなかった。
自分で偉そうになっていて、鼻持ちならない人間だったように思う。

年をとってきたせいか、私は次第に相手の雪解けを待つような気分になってきた。
今回も「やっと雪解け」という感じで嬉しかった。

年が自分をそうさせるのかと思ったら、そうではない。子どものころ一生懸命愛情をかけてくれた親の心がそうさせているのだと思うようになった。
中学校の同窓会で、私の弁当が羨ましかったという、同級生の話を聞いていっそうその思いを強くした。
そんなに可愛がってくれた親に対して、何の親孝行もできなかったことの悔いが、他人に対する気持ちに変わっているように思う。

中学校の教師時代、特に1年での担任の時に多かったのだが、給食指導など私の指導に不満を持つ生徒がいた。
それは生徒のわがままなのだが、生徒はふくれっ面をして怒っていた。
私はそんな抵抗には平気で、ひるむことはなかった。
自分は嫌われる先生になるのだろうなとも思っていた。

ところが、おもしろいことには、そういう生徒が3年生ぐらいになると、なぜそうなるのかよくわからなかったが、ニコニコして「いい先生」という。

嫌われるだろうなと思い、ズバズバやっていく私の指導は教育学で学んだことではなく、結局、親が私にやったのと同じことをやっているのだ。
私が中学生2年生の時、母親は旦那様を交通事故で亡くした。
旦那様などと変な言い方になるのは、私の母親は私の実母ではなく、つまり伯母なのだが、棺が運ばれてくると普段は気の強い伯母は泣いていた。

伯母の涙を見たのはその時だけだったが、その後一人で私を育てることになり、難しい年頃のわがままな私を叱っては、近所の家に行って泣いていたことが後でわかった。
弱いところを見せれば、将来を不安に感じるだろうとの、親心だったのだろう。
そんな伯母の気分を、私はそっくり受け継いでしまったように思う。
(生育歴は教育学を超えるように思う)

だから、たとえ相手が悪くてもその相手が惨めになる姿は見たくない。
自分は誠心誠意やって、雪解けを待つ。

そのせいか、自分が不幸だからといって、相手も不幸になれと期待する人間は嫌いだ。
相手の欠点を探すのも好きなら、それが趣味ならやればいいだろうが、ほじくり返して何になる?
惨めになる姿を見て喜ぶのか?
もし、そうだとしたら、それは道徳上は最低の心だろう。

---------------------------------------------------------------------


そういう私にも敬遠したい人間もいる。
それは壊れた人間だ。
ジュースのボタンを押したのに、コーヒーが出てくる自動販売機のようなもの。

こういう機械は修理工場に持っていくべき。

それでも、子どもは別だ。
可能性があるからだ。
可能性にかけるのが教師だと思うからだ。

大人でも修理可能が見いだせればいいが、ごく当たり前の間違いを認識できない人間、誤りが訂正できない人間。謝れない人間に関わっている時間はない。




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2014年02月24日

XPからLINUXへ

datsuLinux.jpgWindowsXP(以後XPと略す)のサポート終了ががいよいよ近づいてきた。
予定では4月9日に終了する。
中国ではパッチ(追加プログラム)を配布する会社があって、XPのサポート終了後も使いつづけるユーザーは多いと言われている。

一方、WindowsからLINUXへOS自体を移行する自治体も増えているようだ。
通常のビジネスではMsOfficeがよく使われていて、その中でもWord、Excel、Powerpointの使用頻度が高いと思われる。

LINUXではMsOfficeと互換性のあるOpenOfficeが使われるが、最近、このOpenOfficeをさらに改良したLibreOfficeが登場した。

XPのサポート終了でパソコンの売り込みも盛んだが、XPを下取りあるいは処分と言った商売もある。
しかし、XPを処分してしまうのはもったいないと思う。
この際、XPのインストールされていたパソコンにLINUXをインストールして使ってみることをお薦めしたい。

思いつくままLINUXのメリットをあげてみると。

1.無償である
2.低スペックの機械でも動く(100M程度のRAMで動くLINUXもある)
3.ビジネスソフト等ほとんど無償
4.バージョンアップの度にお金が必要ということがない
5.ウィルス対策から開放される
6.デフラグの必要がない
7.OSの安定性が高い

と、導入効果は高い。

いきなり、LINUXだけというのも不安があるだろうから、使わなくなったXP機をLINUXに利用し、できればネットワークに追加するといい。

ネットワークに追加と言っても、難しくない。
OSが違うと、従来は面倒であったが、最近はLINUX側にLINUXをWindowsに見せかけるソフトが導入されていて、LINUXをWindowsのネットワークに参加させることは難しくない。

LINUXと言ってもいろいろだが、Windowsユーザーが比較的違和感なく移行するには、Ubuntu(ウブンツー)がいいと思う。
入手はLINUXの雑誌の付録にDVDがついているが、ダウンロードもできる。
ただし、ダウンロードではデータをDVDメディアに焼かなければならないので、雑誌についているものからインストールがいいと思う。

日本は国をはじめとして、自治体も財政難である。
LINUXを導入することで、財政に寄与する効果は大きい。

すでに、導入する自治体も増加傾向という。
ファッションの流行に乗り遅れる心配をするより、LINUXに乗り遅れる心配をした方がよいと思う。
ちなみに、Andoroid、Macintoshも中核はLINUXである。

学校の情報処理主任から率先してはじめてみたらどうだろう。
地域でLINUXに強い人に、ボランティアとして応援を依頼するのもよいと思う。
(実際、そういう地域もある)

LINUX導入の自治体については、LINUX初心者入門講座を参照のこと。

http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h23/html/nc3413c0.html




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2014年02月23日

取引のセンス

私の親は小さな雑貨店をやっていました。
女手一つで、それこそ爪に火を灯すの諺がしっくりするような生活で、私を育ててくれました。
けちでろうそくを買わない、あるいはろうそくも買えないほど貧乏なため、ろうそくの代わりに爪に火をつけて灯りをともすことから。
「爪に火を点す」とも書く。
『尾張(大阪)いろはかるた』の一つ。
故事ことわざ辞典

吹けば飛ぶような田舎の店でしたが、そんな店でも強く心に残っている思い出があります。

金勘定が非常にきちんとしていた親で、締めの日はきちんと清算するために、食事も節約して問屋への支払いをするという親でした。

古い話ですが、日本はオイルショックでトイレットペーパーなど、雑貨があちこちの店でなくなるということがありました。
その困りようはしばしばニュースでも取り上げられました。

ところが、小さな私の店ではトイレットペーパーを切らすことがありませんでした。
問屋が
「今日、商品を持ってきた店は、あなたのところだけですからねえ」
と言っているのを聞いたことがあります。

学校もトイレットペーパーに困り、私は持っていったことがあります。

不思議な店だという評判が広がりました。

私もなぜうちの店がそうなのかわかりませんでしたが、ある時、それがわかりました。

お遣いで問屋に行った時、何のひょうしにその話を聞いたのかは忘れてしまいましたが

「あの店はいいぞ、こんなに勘定のきちんとしている店は珍しいという話をしていましてねえ・・・」

つまり、何かの会議で取引で、この店は大切にしようという話が出たということでした。

その話を聞いてから、私は「商売というのは大きさではないんだ」と知りました。
信用が大切だという、当たり前に普段言うような言葉の重みを知ったわけです。

勘定は1円でもきちんとする。
サービスはサービスであり、けじめをしっかりするということでもあります。

これは、先回の借りた100円返しますか?に通じるところがあります。
だから、私は100円を巡る嫌な思いと言うのがピンと来たわけです。

時々会食をする人たちは、元重役だったり海外勤務も多かった、いわばエリートが多いのですが、足りない100円を出した人は、お金持ちで他人にケチケチするような人ではないですが、多分嫌な気分になっただろうと思うのは、けじめのない態度に対してと想像しました。

他の人たちも、教養ある常識人ですから、その場にいて見た人はすぐにそのセンスを感じたわけです。

こういうセンスがわからない人にとっては「なんだ100円ぐらい」という感覚しかもてないのかも知れません。

大きいのは、このような付き合いの中で「あの人とはこれからもお付き合いしたい」とか「あの人はごめんだ」という感情が湧いてくるのだろうと思います。

日常生活の中で、こういった勉強のできるところはよくあります。

懇意にしているパソコンショップで、店員が客と話していましたが、客は何も買わずに帰りました。
客が店を出たあと、店員が怒っていました。
値段交渉の時、客が「消費税を負けろ」と頑張ったということです。
店員が、負けられませんと言うと、客は、消費税ぐらいわずかだからと頑張ったらしい。
店員は気分を悪くし、断ったわけです。

私は、モノを買うときにはそういう話はしません。
そこには、親が教えるというわけでもなく教えてくれた、昔の商売のことが頭にあるからです。
「いくらか安くはなりますか」
ということを言ったことはあります。

結局、消費税分より安くしてくれたことはよくあります。
その上、メーカーのサービス品もたくさんくれて、店員はニコニコしているということもありました。
店員としては「このお客さんとはこれからもお付き合いしたい」という意思が表れているのです。

ディーラーで車を買ったときも、先にいた客が値段交渉をしている時

「そこまでして売る車じゃありませんから」

と、聞こえてきたことがあります。
これは「お前には売りたくない」と言われているわけです。
そこまで安くできないということではなく「お前のような客はいらない」と言われているようなものです。

親のやっていた小さな店では、子どもが何かを買いにくると「ありがとう」と言って帰っていきました。
田舎では、親たちがそう躾けていたわけです。
つまり「売っていただいて、ありがとう」というわけです。

私もいつしか、その心が身につき売ってもらうときは「ありがとう」という感謝の気持ちが出てきます。
そのせいか、それは店員にも通じているんだと感じる時もあります。

売り手も気分がいいと、この客は大切にしようととして、結局安くしてしまうということもあるわけです。

人間同士、機械的なものの行き来だけでなく心の行き来もあるわけです。

だから、そういうセンスが理解できない人は、貧しいと感じてしまうのです。
金額ではなく、そういう貧しさがいやになるわけです。

お金はあっても、そういうセンスのない人が「成金(なりきん)」と言われるのでしょう。

センス【sense】
1 物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き。感覚。また、それが具体的に表現されたもの。「文学的な―がある」「―のよくない服装」「バッティング―」
2 判断力。思慮。良識。「社会人としての―を問われる」
goo辞書

成金(なりきん)
成金とは元々将棋用語で『歩』が敵陣地に入ると『金』に成る(変わる)ことをいう("ときん"とも言う)。前方に一駒進むだけの『歩』が相手陣地に入った途端『王・玉』の次に重要とされる『金』に成る、そんな様から急に金持ちになるという意味でも使われるようになる。このような意味で江戸時代には既に使われている。成金は努力を積み重ねてお金持ちになったというより、宝クジなどで楽にお金を手に入れたというイメージが強い。このことから急にお金持ちになった人を侮蔑する意を含んで使われることが多い。成金は江戸時代から使われている言葉だが、株式市場が暴落〜高騰した1906年、鈴木五郎が株で儲けたことが話題となり、成金という言葉も広く普及した。
また、成金になる要因を頭につけた『土地成金』『自動車成金』『株成金』といった使い方や『成金趣味』『にわか成金』といった言葉もある。
日本語俗語辞書




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2014年02月23日

一貫性がないと信頼は得られない

このブログは間もなく2000ページに達する。
数を自慢したいのではなく、それだけのページを通して、自分の考えに一貫性があるかどうかということ。
一貫性がなく矛盾したことを書いていたら、信頼性はないだろうと思った。

人は間違いをする。
しかし、間違いをするからと言って開き直ったり、詭弁を使えばますます信頼性はなくなるだろう。

大切なことは、間違っていたら訂正をするということ。

sirimeturetu.jpg先生は児童・生徒からみたら権力者であるから、それをいいことに間違いを押しきってはいけない。
仮に押しきることができた。その場を繕ったとしても、信用という大切なものを失う

間違いで強く記憶に残っているのは、中学生の頃、国語の試験で答案を返してもらったとき、私は、考えとして私の方が正しいのではないかと先生に申し上げた。

しばらく先生は考えていて「君の方が正しいなあ」と言われた。
そして、全員の答案を集められた。

私は特に考えたわけではないが、以来、その先生の存在を大きく感じるようになった。
高校に行くようになった時、通学の電車の中でその先生と会ったことがある。
私はどちらかと言うと、人に気やすく声をかけられる質ではないが、その先生には親しさを感じて、抵抗なく声がかけられた。
先生とはいっそう距離が近くなったと感じた。

人生は出会いというが、出会い方により強く印象に残る人、身近に感じる人いろいろである。
先生の仕事は、児童・生徒に教えるために語りかける多い。
しかし、先生が教えようと思って語りかけたことより、その先生の行動の方が影響を与えることもあるのではないかと考える。

私が児童・生徒と接するとき、無意識のうちにもその先生の影響を受けていると感じるこの頃である。
わがままな私が、多少なりとも謙虚さが身についたのかなと思うのも、その先生のおかげとも言えるように思う。

知人の中に、自分が偉いと認めてもらいたくてしかたがない人がいる。
誰も偉いと言ってくれないせいか、ホラも多くなる。
挙句の果ては、自分で自分のことを褒めて偉さを誇示する。
そんなことをすればするほど、逆に自分の立場が低下するということがわかっていないようである。
そうなると、その日とのまわりには「それなり」の人しか集まらない。

そう言えば「人を知るには、その人の友だちを見よ」と聞いたことがある。

一貫性をタイトルにし、話がやや逸脱した感もあるが、よい意味で印象に残る人は行動でモノを言うというところがあり、同時にそういう人の言葉には一貫性があるように思う。

自分のブログを振り返るのはもちろんだが、他のたくさんのブログを見て、主張に一貫性があるのかどうかもみてみたい。

すでに、記憶にあるのは、感動は心に悪いと主張し同意し、後で感動が大切と平気で言っている人。
私が5W1Hの大切さを主張していたのに、その当時は否定しておきながら、後に自分で大切と言っている人。
これらは、信用できないことの証明のようなものである。
また、そういう矛盾、つまり一貫性のない人は「類は友を呼ぶ」のようなところがあるように思う。共鳴し合うのだろうか。同じ周波数の音叉が共鳴する実験を思い出す。

しかし、そういう支離滅裂とも言える人が教員養成に関わるとは、誠にと思う。
いったい、どういう授業をして、学生にはどういうことを語っているのだろう。
「感動はよくない」と語っているのだろうか?




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posted by edlwiss at 09:25 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2014年02月23日

楽譜通り演奏しても音楽にはならない

楽譜があるから指揮者はいらないだろうという人がいる。
楽譜通り演奏すればいいだろうという人もいる。

楽譜通りとはどういうことか、わかっていないんだね。
「のだめカンタービレ」で、のだめがモーツアルトを弾くために先生についた時「アナリーゼ」が問題になっていた。

演奏にはアナリーゼが必要なんです。
アナリーゼは楽曲分析と訳されているけど、楽譜で構成されている音楽がどういう意味を持っているか解釈が必要ということ。
楽曲分析(がっきょくぶんせき)とは、その音楽がどう組み立てられているか調べる事である。アナリーゼもしくはアナリシス(それぞれドイツ語のAnalyse(分析)、英語のanalysisからきている)ともいう。
フリー百科事典「ウィキペディア」より
時代背景などにも及ぶので、頭がよくなるクラシックという本を書いていた人がいたが、クラシックに取り組むといろいろな科目に共通することが多いからではないかと思う。

もちろんクラシックだけが音楽ではない。
しかし、どんな音楽をやるにもクラシックをベースにしておくことはいいことだと思う。

大学にもオーケストラがあるが、いわゆる難関大学のオーケストラが上手いというのも興味の持てるところだ。

英語が世界の標準言語のように言われるが、音楽は世界の共通言語という言葉もある。
音楽は人の心に直接訴え、国語では意思伝達がまどろっこしい時、音楽はそれを埋めるようなところがある。

もし、音楽に何も関心を示さない人がいるとしたら、人としての感覚器官が何か欠けているのだろうと思うが、そのような人がいるのだろうか?

現在、オリンピックがロシアで行われていることもあってか、ロシアのレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の歴史についてNHK-BSでの特集番組があった。

第二次大戦で、ロシアはドイツ軍に痛めつけられ、レニングラードは孤立状態になり物資が不足して餓死者もたくさん出た。
資源が貴重な中、ロシア政府は劇場だけは電気の使用を許可し、戦火の中演奏は続けられていた。
これが市民の心の支えになっていた。

当時、有名な作曲家はショスタコーヴィチで、彼は交響曲第7番作曲したが「レニングラード」という副題がついていた。
人々を勇気づけるために作曲したわけである。
人々を大変勇気づけた曲である。
このように、国を救った作曲家というとフィンランドのシベリウスも思い出す。

食べるものがないと人は生きていけないが、心の支えも必要だ。
こういうことを考えてくると、芸術に理解のない政治家は、何か欠けているのではないかと思えてしまう。

財政難であっさりと予算を削ってしまう政治家は、プライオリティ(優先順位)を間違えているのではないか。





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2014年02月22日

マニュアル以外で勝負

これは近年と言うか、昔とは違うなと感じることですが、特に大企業ではマニュアルが完備されてきて、窓口がマニュアル通りに答えるようになってきたということです。

マニュアル通りということは、そつなく対応できるということにもなりますが、時に、ロボットを相手にしているような気になることがあります。

フリーダイヤルを利用すると、あらかじめ用意された音声が応答し「・・・のかたは、1と#を」などと始まるのでそのように従うのですが、途中で実在の人間とどこで切り替わったのわからない時もあります。

すぐに回答できる簡単なことでも「お客様のご意見は、上のものに伝えまして・・・」という対応になって、この瞬間に期待できないという気分になってしまいます。

クレーマー相手ならそれもいいでしょうが、会社にとって非常に大切なことなのに、マニュアル通りにしか答えない。
こういうことが進むと、本当にロボット化が進むものと思います。

私が相手をした某社では、私が「あなたがマニュアル通りにやるという気持ちはわかりますが、それではお客さんの立場を考えていないのでは」と言ったら、対応した女性はピントきたのか「しばらくお待ち下さい」と言って待たせた後回答してくれました。

これは気がきいている方で、頑としてマニュアル通りでしかない会社もある。
突っ込んで聞くと「マニュアル通りやっています」と答える会社もあった。

責任ある回答は窓口ではできないということはわかっている。
しかし、それでは顧客の心をつかむことはできないのではと思う。

私は図書館によく行く。
そして、本やCDを借りるのだが、期限の当日返しに行ったことがある。
係はCDのケースを開けて、点検をする。
その日は、ケースを開けたところ、CDが入っていなかった。
思わず、私はアッと思って、どうしようという気になった。

対応の女性はニコッとして、すかさず「延長貸し出しにしておきましょう」と言った。
私は助かったと思った。
「今日中に持ってきてください」と言われても仕方がないことだ。

規則を守らないで嫌味を言われている人を見たこともある。
マニュアルはあっても、対応するのはロボットではないから人柄が出る。
私はその時の親切さが非常に心に残り、以後、返却の時はしっかり確認するようになった。
合わせて、人への対応の仕方を教わったと思った。

これらの経験をもとに学校のことを考えてみると、マニュアル教師はまずいと思う。
だが、学校もトラブルを避けたいという心理が働き、いや学校という生き物はいないから、学校の誰かがトラブル回避のためにマニュアル化を進めるのだろう。

マニュアル化は誰のためか、よく考えてみる必要がある。
一番おかしな抗弁は「マニュアル化(あるいは校則)は人を縛るものではありません。みなさんのためです」というものだ。

そりゃおかしいだろう。
「マニュアル化は私のためです」
と正直に言った方がすっきりする。

世の中、どうも言葉と本音が逆ではないかと思えることがある。

「給料分だけ教えた。あとは知らん」
と言った人がいるが、こういう人が実は人に対して親身になったりするものだ。

「お侍さん、お願いです。助けて下さいまし」
「あっしには関わりないことでござんす」

の木枯し紋次郎を思い出してしまった。

学校は「心で勝負するところ」でもある。
それは、マニュアル以外で先生が勝負することだと思う。




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2014年02月21日

借りた100円返しますか?

会食をして代金を払う時、100円を連れの人から借りたら、後で返しますか?

借りたことすら忘れてしまう?
いや、100円ぐらいと思うからそのままにしてしまう?

貸した方の人の気持はどんなでしょう?
それはわかりません。
いろいろ想像はできても、他人の心はわかりません。
(少なくとも、私は、他人が実際どう考えているかはわかりません:超能力はない)

「あいつは、この間の100円返さないな。(100円ぐらいのことで、嫌な思いをしたくないので黙っている)」

あるいは、貸したことを忘れている。
あるいは、100円はさし上げた気になっている。

とにかく、他人がどう考えているかはわかりません。

しかし、はっきりしているのは、借りた方が

「100円ぐらい」

と思っているのは、あくまで借りた方の気持ちということです。

ところが、自分が「100円ぐらい」と思うから、相手(他人)も同じだと思う人がいるようです。

だから、100円を借りたことを覚えていても、返さないわけです。

今、この100円を借りた人をAさんとし、この場面を見ていた人をBさんとします。

Bさんは自分が貸した当事者ではないですが、Aさんのことを怒っていました。
(こういう怒りは、目立ってわかるのではなく、Aさんのいない別の会話の時、わかったりします)

Bさんは何を怒っているか?
現代では、こういうことがわからない人もいるようです。
そういう人は、恐らく物的な損得でしかモノが見えないからではないかと思います。

Bさんが怒っている原因は100円の価値ではなく、勝手に「100円ぐらい」と思うAさんの心のことで、心の貧しさに対して怒りを感じているのです。

まあ、常識のある普通の家庭で育ったのなら、Aさんのようにならないのではとも思いますが。

教育では「豊かな心」という言葉が出てきますが、言葉を知っていても、身近な生活の中で行動として現れなければ、たとえ道徳を学んだとしても意味がないと思うのです。

これが、試験はよくできても身についていないという現象に似たものかも知れません。

子ども同士の生活では

「お前、この間貸した100円返せよ」

という会話があるかもしれません。
しかし、大人の間では、そういう会話はなくなってくるでしょう。

子どもの間では100円を巡って喧嘩になることがあるかもしれません。
そんな時、ことの次第を知った親が
「それは、お前が悪い」
と世話をやくことで、子どもは常識を身につけていくのかもしれません。

常識のあるひとたちの中にあって、なんとなく敬遠される存在になってきたというという場合、100円返さないから敬遠されるのではなく、そういうセンスの人とつきあうのは嫌だなと思われているということがわからない人は、かわいそうな人なのかも知れません。

「電話をお借りします」

と言って、話し終わった後100円を電話機のそばに置いていく人がいます。
気がついた時は「このお金いいですよ」と言って返しますが、これもその人の「育ち」がわかる瞬間です。




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2014年02月20日

自己顕示欲も使いよう

自己顕示欲の強さは生まれつきのものだろうか。
これも個性の一つかもしれないが、使いようというか、時と場面においてそれが良さにもなったり嫌味にもなったりする。

私の思うところでは、自己顕示欲は生まれつき(個性)のように思います。
だから、抑えようとと思ってもあまり抑えられろものではないと思っています。

自己顕示欲の強い人には、抑えるよりそれを生かすことを考えた方がよいと思います。
昔なら特攻隊に適していたかも知れません。

自己顕示欲は目立ちたいという願望かも知れませんが、気が強いという気持ちと一致するかというと、これがそうとも限りません。

抽象的な言い方ばかりが続きましたが、知人の中には自己顕示欲は強いが気が弱いという人がいます。
こういう精神の現れは、演奏活動でよくわかります。

どんな活動でも、性格は現れると思いますが、特に演奏という活動をともなう音楽ではよくわかります。
普段の練習ではかなりいい線をいっていても、ステージに立つとボロボロになってしまう人。
出るまではソワソワしているが、いざ演奏になると気の強そうな演奏をする人。

自己顕示欲と気の強さが伴った方がいいと思いますが、もう一つ実力が伴わないと、本人には満足感が得られず、ストレスがたまり、わがままな態度が出るようです。

一流の演奏家を目指していたが、思うように力がつかない。
これはスポーツでも同じでしょうが、問題は「プロになれない」と感じ始めた時、どういう方向に進むかが問題です。

自分はステージにあがると、どうしてもあがってしまって実力が出せない。
だから作曲家になったと言う人。
自己顕示欲の強い人が壁にぶつかった時、どういう道を選ぶかは大きな問題だと思います。

ヒトラーは画家になりたかったということですが、その道を目指していた時、自分にはプロの画家は無理だと感じさせられ、政治の方に道を変えたわけです。
それが、あのような強権を持った時、優秀な画家たちを弾圧し、逆に価値の無い絵しかかけない人たちを擁護したということはよく知られています。
ヒトラーは生涯、一流画家にコンプレックスを持っていたと言えます。
もし、ヒトラーが画家になっていいたら、歴史は変わっていただろうと想像できます。

ヒトラーほど世の中に影響を与えなくても、自己顕示欲と実力のアンバランスはコンプレクスから、周囲に何らかの影響を与えると思います。
そして、その影響が悪影響となって現れることが問題です。

こういう精神状態はいじめにも関係しているかも知れません。

親は子どもの性格を捉え、どういう育て方をしていくかよく考える必要があります。
特に「プロの道だけが道」というような狭い価値観に陥ると、救われないかも知れません。




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2014年02月19日

詐欺に遭わないために

詐欺といえば今日話題となるのが振り込め詐欺。
被害者はお年寄りが多い。
「孫」と言えば心が動くのだろう。

■人は信じたいものを信じる

インターネットを利用して、タダでテレビ電話ができるという売り込みが、知人のM氏にあった。
それで、M氏が私に相談してきた。

M氏宅を訪問すると、パンフレットを見せてくれた。
セールスの話によると「こういう画期的な製品を作るので、今投資しておくと、会社が本格的に販売を開始すると権利収入が得られる」というものだったそうだ。

私は胡散臭いと感じた。
それで、疑問点を話すと、M氏の奥さんが出てきた。

そして、私の疑問点に一生懸命反論しようとした。
反論と言っても、全く論理的なものではなく「でも、特許だそうですよ」を始めとして、私への反論には「でも・・・」「でも・・・」が続いた。

私の「インターネット回線の性能からして、そんな高速な通信はできないはずです」の言葉に「でも・・・」で反論する。

奥さんは一度引っ込むと、箱に入った製品を持って出てきた。
すでに買っていたのだ。
権利収入とやらを得るために、一口30万円を出して製品をもらったそうだ。

M氏は私に相談する前に、すでに決めていたのだ。
だったら、相談する必要はないと思ったのだが、相談するより賛成して欲しかったのだろう。

人によっては「これどうだろう?」と聞いてきた時には、すでに決めているという性格の人もいるのだそうだ。
なぜ聞いてくるのかというと、賛同を得たいのだそうで、意見を求めているのではないというのが心理学の立場らしい。

こういう人に、誠意を持って意見を言うと嫌われてしまうらしい。
特に反対はいけないらしい。

結局、その製品は詐欺で、買ったものをどうしたかわからない。
その後、M氏と会っても、その製品のことは全く話さなかった。

このような機械を売る時は、買い手に知識のないことを利用して、インターネットとかコンピュータの話を持ちだして煙に巻くわけだ。

別の人だが健康の機械の売り込みもあった。
デモンストレーションの会場に連れていかれた。
やはり胡散臭いと感じた。
なぜ高電圧を利用すると健康によいのか、私にはさっぱりわからなかった。
部屋のまわりには、広告がたくさん貼ってあって「厚生労働省」という文字が目についた。

■根拠のはっきりしないものには手を出さない

まがい物の類を売る時は、売り手は演出をする。
部屋を使う時は、部屋にポスターを貼り、売り込む人間は、なんだかわからない肩書を紹介する。
例えば、私の持っているファイナンシャル・プランナーでは「ファイナンシャル・アドバイザー」という紛らわしい名刺を持っている人がいた。

売り手は訓練しているのか、役者である。
例の、NHK交響楽団の仕事(副指揮者)をしているという彼氏を思い出す。
けっこう若い女の子が騙されたように「信じたい」という気持ちに持っていく話法がうまい。
聞き手の方も「信じたい」という願望が高まってくるので、そこに水を差すような人間は嫌われる。

実は私のところにも、かつて、怪しいハガキが来たことがあった。
見ると、番号が赤字で打ってあった。

文面は「今、あなたは訴訟を起こされようとしていることがわかりました・・・日までお電話ください」というようなものだった。

こんなことがあると、知らない人はびっくりするだろうが、裁判所からハガキが来ることは絶対にない
もし、裁判所からなにがしの連絡がある時は封書で来る。

そういうことだから、私はすぐに詐欺とわかった。
しかし、騙されたふりをして電話をすることにした。
そして、全てを録音した。

相手の言葉の中には「サーバー」という言葉が出てきた。
コンピュータのサーバーのことである。
つまり、サーバーにアクセスしてそういうデータがわかったというのだ。
今対処すれば大事にならないで済むという。
もちろん、金が必要という話になる。

だいたい、裁判に関係するコンピュータに侵入できるわけがないのだ。

■詐欺に強くなる

日頃、訓練しておくことがいいと思う。
裁判所からハガキが来ることはない、というような知識も必要だ。

「私は○○の人と知り合いだから、あなただけ特別金利で」という話も嘘。
金融機関は公平だから、ある人だけに特別などということはできない。
多額の現金をその場で持っていくということもない。
必ず、本人が銀行に行って振り込まなければならない。

このように、社会常識を高めることにより、詐欺の被害を防ぐことができるが、始めに言ったように「信じたいことを信じる」の演出にひっからないことである。

そういう意味では、ブログも同様だろう。
ブログを通じて訓練ができるかもしれない。

根拠、データの出所が明らかでないもの。
誰かわからないもの(責任ある文章なら、筆者が誰かわかるようになっている)。
しかし、最近のニュースのように、ゴーストライターという可能性もなきにしもあらず。

教育ブログに出て、先生のように書いていても、先生でないかもしれない。

教育に関して確認する一番よい方法は、交通費と指導費を出して来てもらうことだろう。
素晴らしい人なら、そのぐらいの経費は出しても価値があるだろう。
(こらは確認することの必要性とも言える→本当に孫からの連絡か?)

実際、話でも指導でも、生身の人間がその場面に登場して行うことが一番いい。
だから、演奏だってCDで済ますより生演奏の方がいいわけだから。

ひとつひとつの文章をきちんと読んで「・・・は・・・である」という文だったら、本当にそう言えるのか、その根拠は何だろう、誰をターゲットにした話なのだろう、誰に向かって言っているのかなど考えてみたら、読解力の練習にもなるし、詐欺に強くなる練習になるのではないか。

人を信じることは大切だが、本物、偽物を見分ける力も大切だ。

「特に先生は騙されやすい」と言われるのが巷の話であるから要注意。




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2014年02月18日

子どもと接する場はすべて教育の場

教室に入って授業をすることだけが教育の場ではないことは、考えるまでもなく、当たり前のことです。
教師が児童・生徒と接する場面においてはすべて教育があります。

子どもは大人の都合よいように「この時は教育」「この時は教育でない」と区別はしてくれないでしょう。
子どものためにと公園を作ると、子どもはその外で遊ぶと聞いたことがあります。

授業中は姿勢をただし、勉強をしているように見えても、子どもは頭の中では何を考えているのかわかりません。
「またいつもと同じネクタイだね」と考えているかもしれません。

それに、今日の学校の授業がどれほどの意義があるのか疑問に思うこともあります。
これは、学校の先生の授業の非難をしているわけではありません。

私が言いたいのは、もしその授業を受けなかったとしたら、子どもにとってどれほどの影響があるのかと考えてみようということです。

何日も欠席していて、試験の日だけ出席し試験は満点をとったら、その授業の意味は何だろうと考えてみる必要があるのではないかということです。(実際そういう例はあるので)
もし、大切な授業だったのなら、その授業を受けなかったことの影響がなければならないと思うのです。

学校の授業はいろいろな科目に分かれていますが、人間の活動は、紙を切るときはハサミを、買い物に行くときは自転車をというように「・・・の時は国語」をとか「・・・の時は社会を」などと科目の使い分けはしません。

人間の活動にはすべての教科とその他のものが含まれており、それらのものが混然一体となって、ものごとに対処するわけです。
学校は分掌を決めて先生たちが仕事をしますが、こどもの側にとっては分掌は関係ないということを認識していなければならないと思うのです。

分掌は大人の都合による論理であり、生徒が数学の先生と話している時、国語はどうでもよいということはないはずです。
同様に生活指導の時間にはその時間だけ、生活の心得を守ればよいということではないはずです。

だから、子どもが登校し学校の門をくぐった時から、生活指導はベースになっており、先生は意識しなくても先生の対応は子どもに何らかの影響を与えていると考えるべきでしょう。

■訂正のできないコンピュータは不良品

昔のことになりますが「パソコン」ではなく「マイコン」と呼んでいたころは、プログラムも使う人が作らなくてはならないのがコンピュータでした。

だから、雑誌もプログラム例が載っていて、先生は成績処理のサンプルプログラムに関心を持ったものです。
雑誌にある成績処理のサンプルプログラムを打ち込んで、いざ現場の処理に使おうと思った時「これでは使えない」と気づいた人は多かったと思います。

300人分のデータを入力していた時、途中で入力ミスをし、訂正しようと思った時、訂正の機能がないことに気づいたのです。
間違えないように注意してやり直しても、またミスをしないという保障はありません。
極端なことを言えば、299人分までミスがなくても300人めで間違えたら、また始めからやり直しなわけです。

サンプルプログラムでは、データ数がたかだか10人分ぐらいなので、間違えても始めからやり直しても大したことはありません。
しかし、結局、訂正機能のないプログラムは実用になりません

同様に、人間も間違いを訂正することのできない人は、他人とのコミュニケーションを必要とする社会生活には適さないということです。
特に先生にとっては、この訂正機能は非常に大切と思います。

明らかに間違えているのに、何とか屁理屈をつけて押し切る人、これは子どもに最も嫌われる要素を持っている人と思います。
「先生が間違えていた」とこのひとことが言えない人がいます。

■みんなが生き生きとした学校

校内で何かまずいことがあると「窓口を一本化し、各人他言は無用」という箝口令が敷かれることがあります。
実はこれが、学校が最も不信感を持たれる原因と思われます。
これは「心を閉ざす」という宣言でもあり、文字通り足をすくわれないように、門を閉ざすことです。

似たようなことに、職員会で生活指導の話題に移った時、熱心でない先生に限って「生徒が、先生によって言うことが違うと言うんです」と持ち出す。
それで、言うことを統一しようというわけです。

「先生によって言うことが違う」の一言で、誰も意見を言わなくなってしまう。
それはなぜか?
それぞれの先生が勝手に放った言葉には、校長が保証しないと言っているようなものだからです。

こういうことが可決され、これをもとに生活指導がなされると、人は次第に無口になり、必要なこと以外は口をきかなくなります。
そして、学校全体に活気がなくなります。

個性の重視と言っているのに、各人の個性的な発言を封じるのは矛盾しているし、人間の生活を考えたら不自然です。

今行われているオリンピックもそうですが、順位はどうあれ、選手は自分の能力が十分発揮できたと感じることが大切と思います。
人は、自分の十分発揮できる場が欲しいと望んでいるのだと、私は思っています。

「話すことを統一する」で進む学校は、みんなが我慢して学校を卒業していくことになるでしょう。
(校長一人とヒラメ教師だけが喜んでいるのかも知れません)

私がリーダーの時は、こういう方向を全廃しました。
先生たちはこころよく同意してくれました。
「あのう、生徒に対する言葉は申し合わせて統一しないのですか?生徒にはどう答えればよいのですか?」
「いや、統一する必要はありません。先生方の思うところを存分、生徒にぶつけてください」

では、生徒は「先生によって言うことが違います。困ります」とは言わなかったか?
言った生徒はいました。
では、どうしたか。
「そうか、それはいかんなあ、よし、それでは先生たちはそのことで話し合って、結果を伝える。少し待ってくれ」
という返事をしました。

生徒からの「先生によって言うことが違います」という抗議は一度あっただけです。
いや、学校によってはもっと出る学校があるかもしれません。
その時は、先生たちは会議を開けばよいのです。

生徒の抗議の本音は、もともとそういう問題ではなかったのです。
それまでの、生徒に対する校則などの締め付けに、反感を持ち、どこか隙はないかとねらっていたのです。
だから、問題に正面から取り組んで、誠実に対処するという先生の態度に生徒たちの気持ちも変わって言ったのです。

学校はただ問題がなければよいのではなく、何か不満が渦巻いていないか、平和な時こそよく考えておくべきだと思うのです。
学校の最高責任者たる校長こそ、それらの観察力が必要だと思うのです。

自殺問題がニュースになる前に、対処してほしいと思います。





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2014年02月17日

給食指導は大切

■ものの見方・とらえかた

a7030gsl.jpg私の部屋には右の写真のようなものがあります。
割に大きなものなので、訪れた人の目を引きます。
黙っている人もいますが、開口一番「これは映写機ですか?」という人もいます。
もし、このブログを見てくださっている人がいるとしたら、何と思われるのでしょうか?

人の五感のうち、目から入る情報が一番多いと言いますが、ではこの写真のものを見た時、頭の情報処理はどうなっているのでしょうか?

「奇妙なものがあるな」

「映写機か?」

「何するものだろう?」

人によっていろいろです。

人の目はカメラのようで、取り込まれた像は人によって差はないようです。
しかし、その情報を脳が処理する段階では人によって差が出るように思います。
ただ、変わったものがあるとだけ捉える人「何をするものですか?」と聞く人「映写機だ」と捉える人「映写機にしてはフィルムがおかしいな」と思う人、いろいろです。

ここで私が言いたいのは、世の中には情報がいっぱいあふれているのに、その情報を吸収できない人がいるということです。
「映写機にしてはレンズがないな」と考えたり、それぞれのスイッチはどう使うんだろう、メーターは何を見るんだろう・・・なるほどこうなっているのか・・・思考が深まっていく人もいます。

シャーロック・ホームズは、人を見た時、服装や身振りなどを見て職業を見通してしまうことで有名です。
刑事コロンボはやはり観察力が鋭く、犯人が工作したトリックの矛盾を見てそこから事件解決していきます。
観察力の鋭い人は、ただものを漫然と見ているのではなく、思考が働くのです。

ここで、再度、文部科学省の言う「生きる力」見てみることにします。
「生きる力」=知・徳・体のバランスのとれた力
変化の激しいこれからの社会を生きるために、確かな学力豊かな心健やかな体の知・徳・体をバランスよく育てることが大切です。 

確かな学力
基礎的な知識・技能を習得し、それらを活用して自ら考え判断し表現することにより、様々な問題に積極的に対応し、解決する力

豊かな人間性
自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性。

健康・体力
たくましく生きるための健康体力

太字は筆者ですが、この太字のところを現実の生活中で実践に移していかなければいけないわけです。
ところが、指導要領の研究会などをやっても、これらの文言を読んで実践に結びつかないという現象を感じることがあるのです。

■実践に結びつかない

例えば「美味しい料理を作ろう」と言う。
これには誰も反対をしないわけです。
ところが、いざ調理をする段階になって、今までのやりかたを振り返って、改善点を見つけ、何かを変えてみるかというと、依然として何も変わらない。

同様に「生きる力を」と言って賛成しても、今までのやり方と何も変えていなければ、実践はしていないし、何も変わらないわけです。

しかし「実践者」といえる人なら「どうして美味しくしたんだ?」の問に対し「砂糖を少し多めにしました」などの具体的な答えが返ってくるはずです。

「授業で勝負」と言ったって、それは誰でもわかることだし、誰も反対しません。
でも、観念論だけ、一般論だけ演説のように唱えるだけの人はそこから先へは進めません。

それはなぜか?

実生活の中でいくらでも情報は得られるのに、漫然と生活しているだけで何も吸収していないし、自分で仮説を立てて実践に移したことがないからでしょう。

■給食指導は実践に移すよい場である

授業で「協調することの大切さ」を学んだのに、給食当番の時、実践できないのは変です。

私が交通指導をしていた時、ある生徒が自転車で、一時停止を守らず通過しました。
それで、私は生徒を止めて「君、今なぜ止められたかわかったか?」と聞きました。
生徒は「はい、わかりました」と返事をしました。
それで私は「じゃあ、もう一度正しくやってください」と言いました。

ところが、また同じように一旦停止を無視したのです。
そんなバカなと思う人がいるかも知れません。
しかし、生活の中でけっこうそういうことはあるように思うのです。

先生が「生きる力」を学んでも、実践と結びつかないのも同じようなものだと思います。
実践への具体化に考えが及ばないで、ただわからないお経を唱えるように、いつもお題目だけいう人はうるさいだけで、必要ないわけです。

話が飛びますが、アベノミクスはデフレから脱却し景気をよくするために「三本の矢」という具体的な政策を考え今実行に移しているわけですが、成功するかどうかはわかりません。
でも、お題目を唱えているだけでないところは、実践者と言えるでしょう。

給食指導は、太字で強調したところを現実の場で実践する絶好の機会と私は捉えていました。
給食のある日は、いつも指導できるし、生徒の変化を見るのにも最適な機会と思います。
また、それが他の活動にも波及していくと考えています。




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2014年02月16日

生きる力を高めるには

以下は文部科学省の「生きる力」の指針となる、学習指導要領の記述である。
新しい学習指導要領は、子どもたちの現状をふまえ、「生きる力」を育むという理念のもと、知識や技能の習得とともに思考力・判断力・表現力などの育成を重視しています。
 これからの教育は、「ゆとり」でも、「詰め込み」でもありません。
 次代を担う子どもたちが、これからの社会において必要となる「生きる力」を身に付けてほしい。そのような思いで、新しい学習指導要領を定めました。

 
「生きる力」=知・徳・体のバランスのとれた力

変化の激しいこれからの社会を生きるために、確かな学力、豊かな心、健やかな体の知・徳・体をバランスよく育てることが大切です。 

確かな学力
基礎的な知識・技能を習得し、それらを活用して、自ら考え、判断し、表現することにより、様々な問題に積極的に対応し、解決する力。

豊かな人間性
自らを律しつつ、他人とともに強調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性。

健康・体力
たくましく生きるための健康や体力。


ikiruchikara2.jpg■教師は実践者

教師は実践者でなければならないという立場から、教師は教育理念や教育目的を実践に移せる人でなければならない。

設計士は家を設計するが、実際に家を建てるのは大工などの職人である。

そういう意味では、教師は教育の職人と言えるのかも知れない。

世の中にはあれこれ理屈を言うが、やってみろというとできない人もいる。

教師の場合、合唱指導をしてくれと言われたら、形式的に指導のようなことをするのではなく、指導後には、確かにその団体がうまくなったと感じさせるものでなくてはならない。

実技をともなうものでは、指導前と指導後では違いがわかりやすい。
しかし、いわゆる実技の教科と言われないものではどうだろうか?
ペーパーテストをやったら、事後では点数が上がっていたということで、成果を認めてよいだろうか?

もしそれでよいと言うなら、市販テストを利用して何回もやってみればよい。
その場合、とりわけ指導技術などというものは必要ないだろう。

■大人は子どもの一生をめんどうみることができない

「生きる力」を実現するための実践を、私は見たことがない。

私は私なりの考えで、実践してきたが「生きる力」というのは、もともと、文部科学省に言われなくても必要なことである。
それが今言われ出したのは、今の子どもたちの生きる力が弱いのではないかという考えともとれる。

学校は自立を促す教育をするところだから、子どもが大人の手を借りなくても一人で生きていけるように自信を持たせるようにしなければならない。

一方、保護者や教師など大人は「いつまでもあると思うな親と金」と昔から言われるように、子どもにも納得させなければいけないが、子どもが大人の手を離れても生きていけるような力を子どもに持たせるように考えていかなければならない。

■子どもはどのようにして生きる力を獲得していくか

昔、教育テレビに「ひとりでできるもん」という番組があった。

子どもが大人の手を借りないで、ひとりで料理を作る番組だった。

子どもは一人でものごとができることで、自信を持っていくと考えられる。

生まれた時、子どもは自身で食事もできないように親の手をわずらわせることが多い。
しかし、成長とともに次第に一人でできることが多くなっていく

一人でできない時は、子どもの行動には何かと制約が多い。
これは、子どもにとって「してはいけない」とか「許可が必要」といったきまりが多いと言える。

これは、別の見方では子どもは大人に近づくにつれ、大人からの制約を離れる、つまり、きまりが少なくなるということだ。

だから、子どもの成長とともに子どもをしばる「きまり」を少なくしていくのが、自然であり教育原理にも沿っていると言える。

中学生の時期は、子どもが大人への脱皮をする難しい時期と言える。
問題も多い時期であるが、この大人へのエネルギーを要する時に決まりで縛るのは、発達段階から考えると非常に不適切である。

この時期にきまりで縛れば抵抗が多くなるのは当たり前と言える。

問題行動を恐れて、きまりで対処するのは教育の放棄であると、私は考える。

問題行動に教師が正面から向き合うことが大切だと思う。

例えば、始業の合図とともに授業を始めるのは当たり前のことで、もし、教師がそれをルーズにしていたら子どももルーズになっていくのは当たり前と言える。

なぜなら、子どもが大人になることを意識し始めた時の模範は教師だからである。

もし、始業とともに授業をしない教師がいるとしたら、そこでは校長が指導力を発揮すべきである。
始めは職員会で、全員に口頭で言ってもよい。
そんなことを文面化するのは姑息なやりかたと言ってよい。

姑息なやり方をすれば、姑息な心が伝わるだけである。
リーダーは大人としての教師を尊重し、心をこめて話すべきである。
心を伝えることは、教育の大切な要素のはずである。

もちろん、校長自ら範を示すのは当たり前である。

■生徒会を生徒のものにすべきである

生徒会のような教育活動の目的は「生徒が自ら行う」ということで、教師の作ったシナリオ通りに生徒が動くことではない。
(活動が成功か失敗かは問題ではない。だが成功を気にする人が多いような気がする。)

もし、教師がシナリオを作ってリモート・コントロールしているような学校があるとすれば、それは子どもの成長の手足を縛っているようなものである。

だいたい、細かな校則を教師が作って生徒に従わせているのは、誰のためかと言えば、生徒のためではなく、教師のためである。
さらに、それは校長のためでもある。

もっとはっきり言えば「校長が退職するまでの期間、何事もないように縛る」わけである。

管理職の心配もわからないわけではないが、校長がそのように小心だと、学校全体が萎縮してしまう。

私が新卒で赴任した小学校では、一時、子どもの自転車による交通事故が多発した。
教頭が職員会で問題にし、自転車乗りを禁止したいと言った。
この言葉に、先生たちは頭を低くして、暗い気持ちになっていた。
静まりかえり、誰も意見を言わないので、教頭の発案が決まってしまうかと思われた。
危機感を感じた私は、生意気にも「そんなことをしたら、子どもたちはかえって危険を感じる能力を失ってしまいます」と言った。

先生たちは頭を低くして、ウンウンと頷いていた。

教頭の顔を見ると、まずいという表情だった。
教頭は自分の案を撤回した。
校長は黙っていた。

後で何か言われるかと思っていたが、そういうことはなかった。
いや、むしろ励ましてくれた感じだった。

素晴らしい管理職で、私はますます学校が好きになってやる気が出てきた。

■つまらないきまりは廃止していく

生徒手帳を一手に引き受けて作っている会社の人の話だと、生徒手帳には学校のカラーが出るという。

きまり(校則)を先生が作っている学校と、生徒に作らせている学校があり、きまりそのものはどちらも大差ないが、生徒が作った学校の方がきまりはよく守られているという。

ここには、指導の大きなヒントがある。

まずは、生徒に作らせてみることだ。
教師は教師で考えてみる。
できたところで、両者を突き合わせてみたらどうか。

非常事態には殿下の宝刀で、教師が上からきまりを押しつけなければならないだろう。
しかし、その時は生徒の「やむを得ない」という心情が大切だ。

私の街では立派な図書館が新築され、設備がいいので高校生たちがたくさん押し寄せた。
ところがマナーのよくない高校があり、その高校では図書館へ行くことが禁止された。

禁止されていない高校もある。
禁止された高校の生徒たちは、恐らくやむを得ないと思っているだろう。

私が小学校に勤務している時、なるべく子どもに判断を任せる例としては、理科の実験の時、実験に必要と思う器具は自由に戸棚から持って行ってよいことにした。
そのかわり、もとあったところにきちんと返すことということを守らせた。

グループによっては器具の多いところや少ないところがあった。
私の意図は、教師がお膳立てするのではなく、必要なものは子どもが判断するということを教えたかったからだ。

そういう授業を見た、ある指導主事は「器具の少ないグループがあって、かわいそうだ」と言った。

社会科の自分たちの街を調べて、グループごとに発表するという時間では、男子のグループが、とても大勢には細かくて見えにくい図を描いてきた。
この時間はちょうど教育委員会の訪問で、やはり指導主事が見ていた。

私は「よりによって、みすぼらしい図を描いてきたなあ」と思い、どうなることかと思っていたら、別の女子のグループが「先生、用意してあります」と言った。
みると、立派に描いた図だった。
私は、予期せぬことにびっくりして、子どもたちを褒めたのだが、他の子どもたちもびっくりしていた。
(利己的という言葉をしばしば耳にする中で、子どもたちが自分のグループだけでなく、他のグループのことまで考えていた子どもたちは素晴らしいと思った。)

全職員と教育委員会が集まっての、ご高評の時、この授業について、あれは私があらかじめ用意しておいた演出だと言われた。

人間(子ども)というものを信用できない人たちなんだと思った。

長文になってきたので、中学校での例をひとつ挙げてみよう。

私の吹奏楽部は部員が70〜80人程度いると言ったが、これらの部員を指導するということは、小学校の学級担任以上のものがある。

一つの大きな学級王国とも言える。

活動の終わりには諸伝達とパートに分かれてのミーティングの時間を作ったが、生徒が部活を休みたい時は、特別な用事でなくても、部員の半数以上が了解してくれたら休めるとした。
これも自由を与える手段のひとつと考えた。

このように、生徒の自主的判断に任せることにより、生徒は自由な気持ちで自主的な行動ができるようになったと思う。

あまり細かくは書けないが、こういうことで部自体が先生たちの信用を得ることになり、新人戦という運動部の大会ではほとんどの先生も校外への出張になって、私も別の出張があったが、教務から「先生の部は子どもがしっかりしているから、子どもたちだけで学校で練習をしていいと、校長が了解しました」と言った。

それまでは、吹奏楽部も運動部と一緒に応援に行くことになっていた。

生徒たちは任されたということで、しっかり練習をしたということは言うまでもない。

子どもは任されたということで、責任を感じ、またきちんとできたということで自信を持つのだと思う。

きまりは増やすのではなく、減らす方向が正しいと思う。

もちろん、きまりには「右側通行」といった、生活上なくてはならないものもあるが、教師に「きまり」という言葉一つで、区別できない人はいないだろう。

はじめに言ったように、教師は実践者でなければならない。
だから、自分の経験をごく大雑把に紹介したのだが、こうすると器の小さい人の中には自慢しているという人がいたりする。
そういう小さい人が、時に、教師の中にいたりする。

子どもに生きる力をつけるには、特別なことはいらないと思う。
毎日の生活の中で、ちょっとした気遣いをすれば、それがとても大きな指導になると思うのである。

我こそはと思う人、ご自分の実践を紹介していただきたい。

この際「アラ探し星人」は無視しよう。




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2014年02月14日

自由は難しい

英語では日本語の自由に相当する語が、freedomとlibertyの2つある。
両者の違いは、freedomが束縛されない自由に対して、libertyは束縛から解放された自由を言う。
ここで言う自由は、libertyに近い自由のことである。

単に自由というと、人によっては「何をやろうと自分の勝手」だとか、反論のための反論のために「自由の解釈の幅をたくさんとって」頭の悪さを発揮する場合がある。
講義中に私語を注意された生徒が「話す自由を奪うのか」と反論するようなものである。

もっとも、そういう反論があったとき、それこそよい機会ととらえ、適切な説明ができるか(対処できるか)は先生としての技量が試されていると言えるだろう。

先生にとって生徒を自由にするのは難しいことである。
それは、先生が生徒に自由を与えるには4つの条件が必要だからである。

1.先生と生徒の信頼関係
2.生徒を自由にするだけの、それまでの教育の自信
3.先生の器の大きさ
4.先生の生徒の立場を思いやる心

これは、先生と生徒の関係だけではなく、上下関係のある組織においてはすべて言えることである。
会社の転勤で、自分の課に突然新しい課長が来て、それからというもの課内の雰囲気が悪くなったと言う場合。

1.課長が部下を信頼していない
2.社員教育がまずくて、いつも監督していないと社員がサボる
3.課長は自分の成績評価ばかり気にしていて、上ばかり見ている
4.課長は利己的で他人の心を思いやる気持ちがない

ということになる。

私がコンピュータの勉強を始めた頃、DECという会社について書かれた本が印象に残っている。
DECとは、Digital Equipment Corporationというネットワークに強い会社であった。
(DECについては、こちらを参照)

印象に残ったのは、DECの社訓が「誠実」ということ。
DECの社員は出先で、決定権が任されているということだった。
この本は、私の教育活動の大きな指針になった。

人は「任されている」ということで、信頼を得ていると感じ誠実に行動する。
決定権を持つことで、生きがいを感じ、自分の能力を最大限に発揮するということ。

私は、いわゆる「荒れている」という中学校を経験した時、先生たちがこと細かに生徒の行動を規制した「校則」を頼りに指導している状態から、それを武器にしない指導を目指した。

具体的な指導については、いくつか思い出がある。
その全てを語ることはできないが、ひとつ挙げてみる。

3年の担任になった時、私のクラスに女子の番長と言われる生徒がいた。
髪型や服装などいわゆるツッパリの格好。

細部にわたっての指導(?)の様子は省略し要点だけ書くことにする。

髪型や服装のことはいちいち咎めなかった。
それより、彼女が自分なりに上向きの行動をした時を認めて褒めるようにした。

クラス内では私のやり方について、特に不平はなかったが、ある日、階段を降りて行く時にすれ違った他のクラスの女子が声をかけてきた。

「先生、先生のクラスにパーマかけている子がいるよ」
「それがどうかしたか?」
「注意して欲しい」
「注意するかどうかは、オレが判断する。お前、人のこと言うなら、自分の髪型直したらどうだ」
「!!!!」

生徒はかなり腹を立てたようだった。
怒りの原因は、私が番長を許しているという嫉妬心からだと察した。

それからいろいろあったが、彼女は自分なりに少しずつではあるが、身なりを整えるようになった。
それは、担任としての私の立場も気遣ったところがあったと思う。

ある日

「先生、私メガネかけたいんですが」
「目が悪いのか?どうして?」
「頭のいい子ってメガネかけているでしょう?」
「・・・・」

まじめになろうとする気配を感じた。

その後彼女は仲間から離脱しようとしたが、これにはかなりの苦難があった。
結局、勉強に集中するようになり、もともと頭がいいという印象の彼女はそこそこのレベルの高校に進学した。

--------------------------------------------------------------


気の小さい上司は自分のことばかり心配しているから、部下に対して事細かく注意したがる。
その結果、部下は萎縮し、会社の帰りに同僚と一杯やりながら上司の悪口を言う習慣になる。

それでも、会社の場合は誰もが少なからず会社の業績が気にかかっている。
ヘッドハンティングもあって、会社を見放しているの社員でない限り、会社の倒産は無職に繋がるからである。

しかし、学校の場合は「親方日の丸」なので、業績を心配することはない。
特に定年間近の上司にとっては「何事もないのが最善」である。

だから、生徒を細かい校則で縛って行動の自由を与えないことに賛成する。

だが、よく考えてみると、それこそ「教育とは何か」に突き当たる。

そもそも、教育とは自立を促すことではないか?
なのに、決まりで縛るのは、手足を縛って動けないようにしていることにならないか?
学校卒業後もめんどうをみますというなら、わからないでもないが、手足を縛っておいて卒業と同時に縄をほどいても飛び立てないだろう?

無能な上司はそんなことまで考えないのだろう。
何を心配しているか?
自分のことを一番心配しているのではないか?

「好きなようにやってみろ」

は「君たちを信頼した」のメッセージなのだ。

どこまで、libertyを実現するかが、指導の自信ではないのか?

「かわいい子には旅をさせよ」

「かわいくないから旅はさせない」





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2014年02月13日

見栄を張るから大変なことになる

知人に見栄の強い人間がいる。
それに加えて話がうまい。

うまいと言っても、中身はないのだが、歯の浮くようなことを恥じることなく、まるで役者のようになりきって話すので「良き市民たち」は話に酔ってしまう。

会社の役員という身分だが、仕事はさっぱりできない。
そこはよくしたもので、会社は親族経営なので、このろくでなしの彼は仕事らしい仕事はせず、ただ結構な給料をもらっているだけである。

特技といえば、先ほどの歯の浮いたような話を臆せず話せることだけである。

そんな風だからハッタリも凄い。

自称指揮者を名乗り、アマチュアバンドを集めひとり悦に入っている。

彼は、実際には指揮はできない。
というか、指揮が何たるものかすらわかっていない。

だから、私に「この間、N響の下棒を頼まれてね」なんてことが平気で言えるのだ。
【下棒】(したぼう)
正指揮者の手伝いとして、あらかじめ練習の時、指揮をすること.

N響=NHK交響楽団

彼が思っている指揮者とは、音楽に合わせてなるべくかっこよく踊るぐらいのものだ。
もちろん、指揮者は音楽に合わせて棒を振るものではない。
演奏者が指揮者に合わせて音を出すものだ。

しかし、見栄やハッタリはほどほどにしておいた方がいい。

彼の巧みな言葉の信者になってしまった人から、彼はコンクールの審査を頼まれることになってしまった。
彼はあわてて、にわかに吹奏楽の知識を詰め込もうと、やってきた。
しかしそんな泥縄が通用するわけがない。

彼がどんな講評をしたのかわからないが、同様に審査の能力もないのに傑作な批評をした人がいた。
「日頃の生活態度が悪かったんじゃないですか」と。
審査された側は「音楽とは関係ない」と怒っていた。

見栄やハッタリが信じられてしまうと、今回のゴーストライター事件のように、見透かされないように演技をしなければならなくなってくる。

「じゃあ、今度は大先生に頼むか」

ということになって、実際にはできないのに、その場に立たされることになる。

人間には「名誉欲」があり、自分をエライ人に見てもらいたいと、アピールする人もいるが「それでは、先生、お願いします」と言われた時、大丈夫かよく考えて行動したいものだ。






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2014年02月13日

難しいことを易しく語れる人がいい

miekouza.jpg文豪と言われる人たちの文章は読みやすいと思う。
文豪は国語の大家であるとも言える。
だから、国語の知識はもちろん、作文力は優れている。

当たり前のことだが、だから小説家になれたと言えるだろう。
作文は国語の総合力を示しており、読解力とは裏腹の関係にある。
だから、作文の劣る人は読解力も劣ると言える。

次の文章は、ある英語の参考書に書かれていた著者の巻頭言である。
英文が書けるレベルなら読むことぐらいは余裕でできるが、逆に英文が読めるからといって書けるとは限らない。

これは、日本語に置き換えても同じだと思う。

書くと読むでは書く方が難度が高い。
だから、よい文章が書ける人は、読解力は高いと言える。

このことを裏付ける根拠としては、今日、無数にあるとも言えるブログが役に立つ。
まず、自分の書いた文章を他人が読んで、感想を言ったり書いたりしているのをみる。
そうすると、読んだ人が正しく読んで意見や感想を書いているか、ズレたことを言っているかで読解力がわかる。

中には「どこにそんなことがかいてありますか?」と質問したくなるようなものもある。
そういう人の書いたものをみると、これが間違いなく支離滅裂である。

ところで、今日言いたいことは「なぜ、わざわざそんな(わかりにくい)言葉を使うの?」と言いたい文章に出会うことがあるということ。
そして、そういう文章を書く人が学校の先生に多いと感じることである。

そして嫌味な印象を持つ。
後味が悪いのである。

それは「無理をしている」と感じるからである。
ないものをあるように見せたいと頑張っているとの雰囲気が、文章から漂ってくるのだ。

なぜそうなのかと言うと、それは「オレは頭がいい。だからこんなに難しい言葉も知っている。哲学者だって知っているぞ」と訴えたい(宣伝したい)のではないかと想像した(妄想ではない:笑)からである。

念のために言っておくが、学校の先生にそういう人が多いと感じるいうことで、確率で言えば100人に1〜2人ぐらいと言ったところ。

哲学者をたくさん知っていて、その著書もたくさん読んで、難しい言葉も知っているというのは、確かに頭がいいのかも知れない。

しかし「脳ある鷹は爪を隠す」という言葉に似て「頭のいい人は難しい言葉を使わない」ではないかと思うのである。
現実には私の先輩にそういう人(やたら難しい言葉を使う人)がいた。だから、フィクションでも妄想でもない。

その人が訴えたいのは、本文の意味より「お前、こういう字、知らないだろう」ということを伝えたかったのだろうと思う。
だが、結果は残念ながら、逆効果で、私に言わせれば「インテリコンプレックス」である。

インテリではない人が、必死にインテリとして認めてもらいたいとあがいているみっともなさが伝わってくる。

私は先生方に嫌味を言いたいのではない。

みっともないから、そういうことをやめて欲しいと訴えたいのだ。
無理せず自然体で行ってほしいということだ。

だいたい、先生というのは難しいことを易しく語ってこそ先生ではないかと思うのである。
それこそ、頭のいい人のできる技である。

まあ、専門語を使わざるを得ないこともあるだろうが、そういうときは説明を入れてほしい。
学会で発表するなら、専門用語がたくさんでも構わないだろうが、今、語っている場が学会なのかどうか、よく考えてもらいたいものだ。

私も学校の先生を経験した。だから、同じ仲間としてみっともないことしてくれるなという老婆心である。
【老婆心】
年とった女性が、度を越してあれこれと気を遣うこと。転じて、必要以上に世話をやこうとする自分の気持ちを、へりくだっていう語。
ことバンク





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2014年02月11日

学校の先生はずっと同じことをやっている??

英語のクラブに入会させていただいて、間もなく1年になろうとしています。
私以外の方はみなさん英語の能力が高く、私一人がレベルを下げているかっこうです。

みなさんの英語能力が高いのは、企業などにいて海外勤務を命じられ実際に仕事で使ってきたというような人たちばかりだからです。
勉強の中心はヒアリングで、海外の放送局などが報道しているものが多いです。

話してによっては、非常にクセがあって聞き取りづらいものもたくさんあります。
英語の話になると、よくネイティブがどうのこうのということを言われますが、一言でネイティブといってもいろいろあり、結局いろいろな話し方に聞くほうが対応するしかないと思いました。

この英語クラブは非常に自由な空気で運営されていて、一ヶ月200円の会費を払うだけで、あとは自分の都合で出席すればよいことになっています。

私は遅刻もなく、ほとんど出席していますが、一回だけ仕事の都合で欠席したことがありますが、次の会では「あなたが休むなんて珍しいですね」と言われました。
私も存在感があるのだと実感しました。

2時間の会が終わると、いつも決まったレストランで昼食になりますが、そこでも色々な話題が出ます。

先日は「学校の先生って、ずっと同じことやっているんですか?」と聞かれました。
つまり、教える教科が同じなので何十年も同じことをやっているのかという意味です。
私は、少し考えて「同じです」と答えました。
指導要領の改定や教科書の改訂はあっても、基本的には大差ないので、結局そういう答えになるのです。

「それで、頭は退化しないか?」とは言われませんが、何十年も同じことをやっているということが、質問者にとっては驚きだったようです。

ただ、頭が退化するかどうかには個人差があると思います。
ひたすら自分のテーマを追っている人には、退化はないと思います。

しかし、どう見ても衰えているなあと見えても、本人にはそんな意識はなく、いわゆるプライドだけ高くなってよりつき難くなっている人もいます。
猛烈に出世街道に地道をあげている人もいます。

私は就職時には、企業にするかどうか迷ったのですが、結局、教員を選んで「よくなかったら、企業に変わろうか」という気持ちがありました。
結局、想像もしなかった感動があったので続けることになりました。
私には兄弟がなかったので、急に大勢の子どもを相手にすることになったのが嬉しかったというのも、正直なところです。

学校に慣れると「やはり、このままでは生ぬるい世界だ」ということを感じ、近隣の市の吹奏楽団のお手伝いなどもしましたが「将来はコンピュータが」ということを予感し、大学へ行ったつもりでこの勉強にかなり給料をつぎ込みました。

宿泊をともなう自由な研修の時は、企業へ研修に行かせていただきました。
これで、世の中がどんな風に動いているかという、日本の動脈の流れを感じることができたように思います。
合わせて、私の勉強の目標は「企業でも通用する知識と技術を持つ」ということでした。

私の学校の校長は、そういう私を応援してくれましたが、他校の校長の中には「今の若い人は、機械を使って仕事を怠けようとする」と聞こえるように言った人もいました。

人にはそれぞれの生き方があると思います。
だから、私が若い人に上から目線で言うようなことはありませんが、結局人生は「アリとキリギリス」なのだと私は思っています。

先生という仕事は、忙しいには違いないのですが、それでも、楽をしようと思えばできるわけで、少し慣れてきて「十年一日」にどっぷり浸かってしまうと、だいたい30才くらいから頭は退化し、それとともに体力も低下するように思います。

特に定年後は寂しい人生になるように思います。

いや、先生に限らなくとも、学歴は立派でも、子どもにもバカにされるような発言をする人が、たまにマスコミで報道されることがありますが、これは勉強を離れて頭が退化したからではないかと思います。




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2014年02月11日

実践の場がイメージできない

人を呼んでパーティをやろうという時、自ら調理をするか出前で済ますか。
どんな違いがあるのだろうか。
実践という視点で考えてみると、ご馳走したと言っても、出前では自分で料理を作っていない。
だから、調理人がどのように料理を作っているのかわからない。
このように、私たちの生活の中には「出前」のような環境が増えていて「わからない部分」も多くなっている。

子どもの頃を思い出すと、親が家庭の年中行事を心をこめてやってくれたことが、なつかしい。
ぼたもちを作る時は、前日から時間をかけて小豆を煮たり、大変に手間をかけて作ってくれたものだ。
日曜の朝早く、寝床にその小豆のにおいがしてきて目の覚めたのを覚えている。

そういう、手間をかけたことが、親から子へと「実践」が生々しく伝わっていく。
最近は家で餅つきをするところも少なくなってきただろうが、毎年その時期になると呼んでくれる家が私にはある。

石臼があり、杵があり、打ち下ろす姿や湯気、つきたての餅を女たちが加工する姿を毎年見ている。
昔、餅つきが珍しくなかった頃は「餅つきの絵」が冬休みの宿題になっても、子どもたちは困らなかっただろうが、今はそんな宿題が出たら困ってしまうだろう。
もしかしたら、電気の餅つき機の絵を書いてくる子どもがいるかもしれない。

今の世の中、餅を食べたいと思った時はスーパーへ買いに行けばよいので、いつでも好きな時に食べられるという感覚がある。
古い人間は「餅」という言葉を聞くと、餅つきの場面を想像して「大変」という感覚が蘇ってくる。

家によっては、買ってくればすぐ間に合うのに、わざわざ手間をかけて餅つきをするという習慣を残している。
それは、ただ「餅を食べればよい」ではなく、一連の行事に大切なことが含まれていることを知っているからである。

こんなわかりきったことは、大人向けに言うことではないが、この「大切なこと」が次第に失われていくことで、いつしか「実践」も失われてきたと思うのである。

つまり、今の世の中「やりました」と言っても実際はやっていないので、結局、実践がないということになるのである。

まあ、別にいいじゃないかという人がいるかもしれない。
しかし、それが人との交流で問題になってくることがある。

それは「お手伝いができない」ということである。
実践がないから、お手伝いができないのである。

私は演奏を頼まれると、大抵は自前のPAを持っていく。
招待する側は気遣って手伝おうとするが、どんな風に用意するのかわからないので、手伝いようがなく、ただ見ているだけである。
これは、特殊な例になるかも知れないが、最近は、特別なことでなくても手伝いや準備のできない人が増えてきたような気がする。
それに反比例し、偉そうな人は増えた気もする。

自分は実践していないのに、実践したと話す人。
(出前を頼む電話をした,という実践はあると言えるが)
実際は自分でやっていないので、どんな準備をしたらよいか、どんな危険の可能性があるかイメージできないわけである。

イメージできないから、実践の寸前まで話をしても途中でパタリと話が止まってしまう。
言い方を変えれば、話の終わりが抽象的である。

実践の段階まで具体的に、イメージできて話のできる人が真の実践者であると思う。
細かいことを言えば、チョークの準備は?色の種類は?等々考えられるかどうか。

だが、長年経験してきたと言う人の中にも、本当に実践してきたの?
と思えてしまう人もいる。
何十年やってきても、実践の環境から学べない、吸収できない人だ。

だから、実践は経験の長さだけでは語れない。

昨年は、一体この人は何処に住んでいたのだろう、もしかしたら別の惑星から来たのだろうかと思うぐらい不思議な人に会った。
ただ、経験値だけ言うなら数十年はあるだろうが、自慢そうに話す授業を見に行ったら、とても授業と言えるほどのものではなかった。

授業は問題外だが、私が疑問でならないのは、一体、この人どこで生活していたのだろうかということ。
そのぐらい、社会常識にも欠けていた。

話が冗長になったが、締めくくりは「手伝える人になろう」と言うこと。





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2014年02月09日

個人主義のすすめ

kojinnsyugi.jpg折にふれて書いているが、もっと「個人」というものを大切にすべきと私は言いたい。

私は長く、吹奏楽やオーケストラに携わってきたが、こういう音楽には国民性がよく現れると感じている。
吹奏楽と言えば、吹奏楽コンクールがある。
その審査講評でよく言われるのは「大勢で演奏する時はいいが、少人数やソロになると不安でこころもとない」ということである。

演奏することは緊張感が伴うので、人数が少ないほど演奏者は不安が増して、こころもとない演奏になるのが当たり前と考える人がいるかも知れない。

しかし、アメリカ人の演奏を聴くと、決してそうではない。

アメリカ人の場合、むしろ、少人数や一人の時に張り切って演奏する。

かつて、三重県の合歓の郷ではY社の主催で、毎年、指導者講習会が開かれていた。
その時は、日米の団体が招待されていて、演奏を聴いたが、アメリカのバンドと日本のバンドの特徴がよく表れていた。
(音楽を通じてこういう話をするのは、活動を通じて観察しやすいからで、私が音楽に憧憬が深いからというわけではない。私の音楽は小学校で習った音楽の延長であり、趣味である)

私はこのことに注目して、人の行動を観察してきたが「赤信号、みんなで渡れば怖くない」に代表される行動が日本人の国民性ではないかと思うようになった。
もちろん、私は調査機関をもっていないし、日本人全部を調べたわけでもないので、断定はできない。
それでも、狭い自分の生活圏ではあるが、そうなのだと思うことは多い。

とにかく、日本人は大勢になると強くなるのではないかとの印象を強くしている。
これは「大勢でないとモノが言えない」ということに通じる。
個人が特定されないと強気になるという意味では、匿名のブログも心理は同じと思う。

大勢すなわち集団の強さは、しばしば個人を犠牲にすることがある。
そのいい例が、先日報道されたエレベーター事故の調査委員会の報告である。
事故調査委員会という大勢(集団)が個人の尊厳を踏みにじったと私は思っている。
(現在、安全に稼働しているから、原因調査はもう必要ないというのは、全く個人をバカにしている。息子を亡くした親の無念を想像すると怒りがおさまらない)

大勢になると強いというのは、こうして組織を使って個人を踏みにじるという形で出る。
また、責任を問われる時は個人は徹底的に晒し者にされ逃げ場もないが、組織の場合は責任の所在がウヤムヤになる。
トップが責任をとって辞職するという形はとるが、それは形式的なことだけであって、後に辞職したものが天下りしたり、出世したりしている。
(社会保険庁の年金のでたらめ管理はいい例で、あれほどのことをしておいて、誰も責任らしい責任をとっていない)

エレベーター事故の原因調査をしないで、遺族を無視するのはいじめと同じだと思う。

個人主義のあるべき姿は、他人という個人を大切にすることであり、そういう感覚がないからいじめも起こったりするのではないか。

善意の傘は、誰かわからない他人という個人が困ることを想像し、行っていることであり、こういう心が社会に広まれば、住みやすい世の中になるだろうと思う。

組織を守るために、個人を潰してはならないと思うのだが、日本には根強いこの伝統が残っているような気がしてならない。

主人のために、身を呈して交通事故から守ったという犬の話を聞いたことがある。
犬の祖先はオオカミで、オオカミにはもともと自分より組織(集団)を守るという血が流れているかららしい。
ネコにはそういう行動はないようだ。

もしかして、日本人には犬と共通するDNAがあるのか?





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posted by edlwiss at 19:54 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

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