2014年02月08日

自分の居場所

今日はこの地域としては珍しい雪の日だったので、家に閉じこもっていました。
そして、普段は意識したことのない「自分の居場所」というものについて考えていました。

もし、誰とも音信不通になったら、自分は全く孤立していることになるなあと考えたりしました。
珍しく、全く電話もない日だなあと思っていたら、つい先程ブログを書く直前に電話がありました。

人は、学校を卒業し社会に出ると、サラリーマン、自営業などそれぞれ新しい環境に入り込んで行って、新しい自分の居場所ができます。

ibasyo.jpgしかし、いつかその居場所を脱した時、自分の居場所はどこなのかということを考えました。
日本は一人暮らしが増えると予想されていますが、誰とも交流がなくなった人が孤独死として発見されるのでしょう。

では、今、自分は大勢の人に囲まれているから、少なくとも現在のところは孤独ではないと言えるのでしょうか?
この疑問にぶつかった時、定年退職という言葉が浮かんできました。

■その日を境に

現役中はわからないかも知れません。

組織の中にいると、無用な摩擦を避けたいという心理から、そこそこ他人との交流はあります。
それで、自分は他人ともうまくやっていけているのだと思うかも知れません。
しかし、退職というその日を境に突如、交流が途絶える人もいてその落差に驚く人もいるようです。

何だか、奥さんの態度まで違うようだと思ったら、奥さんとしては「もう給料入れてくれないんだから、お茶も出したくない。命令されると腹が立つ」と考えていて、実際そのような言葉を聞いたこともあります。

私が思うところでは「これまで共に苦労して来たんだから」が本当だろうと思っていたのですが、そうでない言葉が出てくるのには驚きました。
もちろん、みんながみんなそうではないと思いますが。
でも、旦那の退職を期に別れたいと思っている女性は意外に多いのだと感じました。

その根拠は、法律が改正され別れても妻は夫の年金の半分までもらえる可能性があると、世の奥様方が知った時のアンケートからです。
このような情報は、ファイナンシャル・プランナーをやっているとわかります(妄想ではありません:笑)。
この法律の改正で、離婚予備軍が増えたのですが「必ず夫の年金の半分がもらえるわけではない」とわかってから、離婚予備軍(離婚願望)の女性は減りました。

こういうことを考えている女性の生の意見は「今まで我慢してきた」とか「私の人生が犠牲にされた」とか「これから自分の人生を生きたい」などです。
私は女性のそういう心理がよくわかりません。やはり男と女は違うのかも。

そんなことを知ってからは、毎日、共に川べりを散歩したり、バードウオッチングをしている老夫婦を見たりると、いいなあと思います。

■校長でいつづける人

校長で退職し、楽器店の営業として本当に頭を低くして働いている人に会ったことがあります。
私がかなり若い頃でしたが、この方は全く偉そうなそぶりはありませんでした。
その頃は、特別意識しませんでしたが、今思うと偉い人だと思います。

しかし、退職後も依然として現役中と同じような人もいます。
バイキング料理になると、自分はどっかり座りこんだままです。
誰かが持ってくると思っているのでしょう。

ポツンと一人になって「あれ、様子が違うなあ」と狐につままれたような表情です。
そんなところを、ようやく気がついた一人の女性が、持って行くのを見たことがあります。

学校の先生は教科に分かれていて、それが自分の専門という意識の強い人もいます。
学校にいるうちは、それぞれの領域を侵さないという不文律で「・・・のことは、・・・先生に聞け」ということになりますが、退職後はどうなるでしょう。
つい、上から目線のクセが抜けなくて、恥をかくことがないとは言えません。

人によっては、学校の先生という立場をうまく利用している人もいます。
そういう人は、根から勉強好きの人と思います。

絵が好きだから、不安定な画家より先生をやりながら絵をかく人。
天文の勉強をして、現役中に星を発見し、自分の名前がついている人。
魚の研究をして、中学校の先生時代に博士号をとった人。
国語の先生をやりながら、小説を書き文学賞をもらって、退職後も小説家でありつづける人。

私はこれらの人に、大いに刺激されました。
多分、この人たちにとって定年は単なる通過点ではないかと思います。

勉強するには、先生はいい環境です。
なにしろ、勉強して給料がもらえるのですから。

定年退職後は、専門が本当に専門であるかどうか試されると時と思います。

一人家に閉じこもっていても、必要な人、本当にエライ人なら何処かから連絡が入るはずです。
そして、新しい自分の居場所が決まってくる人もいるように思います。
まさに、ここが自分の専門性の試される時かも知れません。

ネット時代は、どこにも居場所がない人にとって、ブログという居場所を作るというという貢献をしました。
そういう意味では、現役、退職を問わずブログは人を救っていると言えるでしょう。

しかし、ブログに居場所を求めても、居場所になっていない人もいるようです。

お年寄り(女性)で、一人暮らしですが、毎日、絵を書いてスキャンしブログに公開している人がいます。
さっちゃんのブログですが、人気があり、この人はブログにしっかりと居場所のある人ですね。




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2014年02月07日

頭が悪い

自分の頭が悪いとつくづく思い知らされるのは、アルゴリズムが見つからない時。

ある会社から、プログラムの宿題をもらっているが、舐めてかかっていたら予想以上に難しい。
自分の頭をフル稼働しても、つまらないところをグルグル回っている。
食べるときも、運転中も、会話中も頭の一部はそのことを考えている。

学生は入試で大変だろうが、答えはどこかに模範解答として示される。

私の問題は誰も教えてくれない。
孤独な戦いである。
考えるだけ考えて、ギブアップしたら巻末の解答を見るというわけにいかない。
頭のなかを数式やら、アイデアなどがグルグル回って「頭が悪いんだ」と何度も自覚する。

問題を難しくしているのは変数が多いからだ。
やっぱり数学の勉強が足りなかったかなと思う。

でも、これまで鉄壁の壁と思っていたものを突破してきたのだから、と自分で自分を励ますものの、孤独な戦いの最中である。

特別、外見は何もしていないように見える姿を見た人からは、仕事をしていないように見えるのかも知れない。





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2014年02月06日

ブログの品格

品格は品位とほぼ同義と言ってよいと思いますが、ブログを書くということは何らかの感想や意見を発表したいとの気持ちがあるからだと思います。
人に見せない自分だけの日記として書人もいるようですが、これは少数派のように思います。

ところで、ブログの内容は大切ですが、読んでみて、ブログ全体から感じる品位(品格)も大切ではないかと思います。
特に、学校の先生にあってはブログで何かを発表するということ自体が、教育活動の一部と思うからです。

先生に対して指導力云々をいう人がいますが、先生の書く文章自体が作文のお手本みたいなものであり、読んだ児童生徒、保護者は「こういう先生か」という評価を無意識のうちに下すであろうし、その結果、普段学校で接する先生とは違ったところを発見したりもするでしょう。

今日は、ブログの中身から少し視点を変えて、ブログ全体から受ける印象について考えて見たいと思いました。

随分前に書いたことですが、指揮の勉強をしている時、休憩のの時、先生が「あいつは汚い棒を振るよ」という話をしていました。
指揮は振付でも飾りでもなく、演奏者が演奏しやすいように棒を振ることが第一義ですが、指揮の機能を満たしていても、汚く感じる人、きれいだなと感じる人がいます。

結局、演奏はそういう音になるのですが、指揮をしている本人にはわかりづらいところのように思います。
大体、自分を客観的に知ることは難しいことと言えます。
特に大人になると、自分の悪いところをけなす人はいても、親切な忠告として言ってくれる人は少なくなるでしょう。
だから、自分のことは余計にわかりづらくなります。

児童生徒が先生に対して、注意めいたこと、欠点を言うことは勇気がいることだと思うし、大人はお互いに気まずい間柄になりたくないと思い、お世辞を言う。

そんな中でいい気になって暮らしていると、いつの間にか自分が裸の王様になっていたなんてことにもなりかねません。

先輩から「言いたいことは言わせろ、腹を立てるな。黙ってうけたまわっておいて、自分がためになると思うことだけ吸収すればいい」と言われたことがあります。

小人の私は、この言葉の意味は理解したものの、なかなかそういう気分にはなれませんでした。
しかし、時々は思い出して、それが自分の身につくように努めました。

子どもが、自分のよくないところを直接言ってくれるということは、それだけ距離が縮まっていることだと思うし、大人の下手なお世辞より有用なこともあります。

身だしなみと同じように、文章の品位というものはつけようと思ってつけられるものではないと思います。
自分は意識していないが、読みてが品位を感じる文章はそれだけで、教育力、指導力があるのだと思います。

40歳代ころから加齢臭というものが出てきて、気をつけないと、人の集まる場所で嫌な臭いを発しているかも知れません。
加齢臭は、清潔に心がければなんとかなるようですが、文章には自分の生活から滲み出たにおいが出るのではないかと思います。

「お前は汚い文章を書くなあ」とか「お前の文章は嫌な臭いがついている」「品のない文を書くなあ」と言ってくれる人がいるかどうか。

子どもが、先生のブログを読んで「さすが先生」と思うか、保護者が「先生みたいに、こういう作文を書きなさい」と言ってくれるかどうか。

私自身、気をつけたいと思っているこのごろです。





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posted by edlwiss at 18:05 | Comment(5) | TrackBack(0) | 教育研究

2014年02月05日

情けない大学

あってはいけないことですが、学校の先生の不祥事が時々報道されます。
当然、当該の先生の責任はあるのですが、監督責任、管理責任として教育委員会が謝罪をします。

昨年はネットを通じて誹謗中傷がありましたが、根も葉もないことをブログで書き続けた人がいました。
自分のパソコンの調子が悪いのも、遠隔操作でいたずらされているからだとか、プロバイダーの名前が攻撃目的のプログラムだとか、とにかくいわゆる妄想としか思えない態度で書きまくっていたブログ。

どこまで過熱するのだろうかと静観していたが、いっこうに収まる気配はない。
もちろん、こちらは全く何も関わっていない。
いや、少しでも反応すると、関わったと言われかねないとおもったので、一切無視していた。
(こういう輩には相手をしないで、せっせと証拠収集した方がいいと思います)

しかし、この普通ではない状況に見かねたと思われる第三者の批判サイトや、掲示板投稿が現れるようになった。
それらの批判はやや過激とも思われたが、第三者からも不愉快に思われている状況を冷静に判断することができなかったらしい。
自分にとって都合の悪いことは、全く関わっていない私のせいにする一方。
警察に通報とかの言葉をちらつかせていた。
それなら、通報してしかるべき処置をすればよいのに、しなかったのは自信がなかったのだろうか?

私が思うには、誰それから被害を受けていると自信があるなら、ためらわず警察に通報して処置してもらった方がよいと思う。
最近問題になっている体罰問題もそうだ。
殴られたら、即、警察に届けるのがよい。
(その前に、診断書をとっておくべき)

前にも書いたが、根も葉もないことを勝手に書いているところまでは静観していたが、名前までネット上に流したので営業妨害になると考え、まず、当該の者の大学に通報した。

確実にその大学へ勤務している者かどうか確認するためだ。
ネット上のことは「なりすまし」の可能性もあるからだ。

かなり時間がかかったが、大学当局は事の真相を調査したようだ。
そして、大学自体は当該の者(先生)の一人芝居(妄想?)であると確認したようだ。

情けないのは、その後の大学の態度。

「今回のことについては、大学は関係ありません。個人と個人の問題です」

と一方的に逃げ腰の文言が並んだ。
職員だから責任がないわけがない。
監督責任はある。

根も葉もない誹謗抽象をしたのだから、名誉毀損の可能性がある。
これは刑事事件だ。

大学は
「個人の問題ですから、しかるべき機関を通じて対処してください」

なんと、大学は監督責任を放棄して、しかも自分のところの先生を守ろうとしないで、見捨てた態度を取った。
とにかく、大学は関わりをもちたくないらしく、当該の先生のブログの削除を命じたらしい。
いっきにその先生のブログが消滅した。
証拠は保存してあるので、もう遅いが。

じゃあ、名誉毀損で訴えるか?
調べてみると、名誉毀損で訴えられ、そのあと民事で賠償責任を問われ、裁判所から600万円の賠償を命じられた範例があった。

それにしても、こういう大学へはどういう者が願書を出すのだろう?
そして、どんな授業風景で、先生は学生に何を言っているのだろう?

「腐っても鯛」で、一応卒業すれば「大学卒」か?

おもしろいのは、その先生の信者みたいな人がいて、その先生の意志を受け継いでいるのか、懲りないことを続けていることだ。

「・・・ではありませんか?」

までは許されるが

「・・・だ」

とか「決めつける」言葉があれば同罪だ。

訴訟に出るか?

もっとも、訴えられた側が、責任能力が問われ「責任能力なし」との判定が下れば罪に問われないが。

そういえば、今日のニュースで、19年前に息子を殺害されたが、逮捕された者が責任能力がないのではと病院に収容されているので、未だに裁判が開始されないとの報道があった。

今、社会は、おかしな人が増えていると言われているので、注意が必要だ。





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2014年02月03日

信じないことには始まらない

昨今は優秀なロボットができてきて、次第に人間の領分を侵しつつあります。

ロボットと人間の違いは、ロボットは固定的であるのに対し、人間は変化するということです。

人とつきあう時、相手を信じないと相手も信じてくれないというのが基本であると私は思っています。
今までの人生を振り返ってみても、この考えは正しかったと感じています。

ユーゴーの「レ・ミゼラブル」に出てくるジャベールという刑事は、ジャン・バルジャンを「あいつは悪いやつだから、また悪いことをする」という見方をいつもしていました。

現実の世の中でも、人を信じることのできない人もいるようです。

性格だからしかたがないと割りきっても、先生と児童・生徒を信じてやらない限り、児童・生徒の成長は期待できないと私は考えています。
「あいつは・・・・だから・・・・する」という口調をいつも悪い方に使う人は、人を伸ばすことはできないと思うのです。

だから、教育は「まず始めに、信じること」がスタートだと思っています。

大人同士のつき合いでも同じです。

初対面では互いに警戒心があっても、交流が続くうちに「あの人が言うんだから、期待を裏切らないようにしよう」などという心が芽生えてくるもだと思います。

駅には「善意の傘」が置いてあったりしますが、見ると、傘が返っていないなと感じることがあります。
雨が降っているわけではないのに、残っているが1本だけ、あるいは全くないという状態を見ると、寂しい感じがします。
傘を置いている人を想像すると心が痛みますが、それでも、根気強く置きつづける人には敬服します。

では、傘を持っていった人の心はどうなんでしょう?

返さない人は悪い人なんでしょうか?

返さない人がどういう思いで返さないのかはわかりません。

しかし、それでも「困った人に傘を」という気持ちが大切であって、たとえ返さない人がいたとしても、そういう人に対した心が教育に通じるところがあると思うのです。

人は固定的ではなく、変化します。
その変化の大きな力は「人を信じて行う」ところから始まっているのだと思います。

こう考えると、人が信じられない人は、いつまでも教育がスタートできない人のような気がします。
人がどんどん好ましくない方向に行くのは、もしかしたら、人を疑ってばかりいて信じることができない心がそうしているのではないかと、考えてみるのも無駄ではないと思います。

自分自身、先生の信じてくれた心が原動力になって、できたという思い出がたくさんあります。

傘を返さなかった人も、いつの日か、信じてくれた心に動かされて、感謝して返すかも知れません。
いや、返すという行動に結びつかないまでも、そういう前向きの方向に心を押しているに違いないと思います。





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2014年02月02日

小学生のままです

「小学生にもわかる」とか「小学生みたい」という言葉は小学生を蔑視するような意味で使われたりするが、私は自分を万年小学生ではないかと思ったりする。

小学校に入学すると、国語、算数、理科、社会、音楽、図工、体育、家庭、生活といった教科を学ぶことになり、これらたくさんの教科をどれ一つ力を抜くことなく学ぶように言われないまでも、子どもはそういう意識でいるのではないかと思う。

私の年代では「生活」はなかったが、どの教科も得意、好きという者はどのくらいいたのだろう?

何をやっても器用にこなしてしまうエースがいて評判になったりすることがある。
私はそんな器用でも頭のいい小学生ではなかったが、嫌いな教科というのはなかった。

勉強はどの教科も力を抜かないという気持ちが、今でも残っているようで、その意味では未だに小学生の気分が抜けないような気がする。

年を経ていくと、人はどれかの分野(教科)に特化して、それが専門分野のようになって生きていくようだが、
そこには自分が専門と決めた教科以外は捨てていいという気持ちも入っていないか。

例えば数学が嫌いな人は「ここでようやく数学と縁が切れる」との気持ちになって、話題に数学が登場すると「私は数学は専門ではないので」と言い訳ができるようになる。
結果、ますます数学とは縁遠くなると思うのだが、果たしてそれでよいのか?

入試に数学がないという大学があった。
私の感覚からすると、片腕がないような気持ちになる。

義務教育時代には9教科あるのだが、これは人が便宜上分けただけであって、世の中のいろいろな事象に対処するのにいちいち、これは何の教科ということはないと思う。

零戦の優秀さも、スピード、航続性とか分類されて説明されるが、零戦の優秀さは一言で「格闘性」と言われる。

人も各教科の成績をカタログ値のようにように並べるのではなく、一言でいう適当な言葉が浮かんでこないが、その人に会ったとき、その人から自然に放たれる人格が学んだものの総合的な結果であろう。

私は未だに、何かの教科を捨てるという気持ちがないので、自分はまだ小学生である。
小学校をまだ卒業できないと言えるかも知れない。

どの作家か名前を忘れたが「私がよく参照する本は、小学生向けの百科事典だ」と言っていた人いた。
それは、事の全体が要領よくまとめてあって概観しやすいからという話だった。

私も自宅に、学研の「図解エリア教科事典」という百科事典がある。
これは私の大好きな百科事典である。
教科別に小学生から高校生までの内容が連続してまとめられている。
時々、復習として開くが、楽しいものである。

車の運転でも料理でも何でも人のすることは、あらゆる教科の総合力として力が働くと思っている。
自分は何々の専門だと宣言して壁を作ることによって、総合力が低下しないように、私はこれからも小学生を続ける。

そして、小学校を4〜6年生を受け持ってもらったが、若くして亡くなってしまった三浦先生に合格点がもらえるようにしたい。





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posted by edlwiss at 22:18 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2014年02月02日

コンピュータは特別な世界と思わない方がいい

コンピュータの話題が出てくると、そこで、もう別な世界のことだというスイッチが入ってしまう人がいるようだ。
しかし、それが壁を作ってしまっているような気がする。

もっとも、人によっては、話を自分の得意分野(?)だけに引き込んで展開したいという下心もあるのかも知れない。
もしそうだとしたら、そういう考えは止めた方がいいと申し上げたい。

理由はそういう壁もしくはテリトリーを作ることにより、自分はいつも「自分のわかることしか話さない」という習慣を作り、そのテリトリーの中をグルグルと回っているだけになりはしないかと思うからだ。

そして、そういう生活が続くことが、老化に繋がるのではないかと思うのだ。

「自分の得意分野」と思っていても、そういう城壁のようなものの中で住んでいる限り、外部は見えなくなり、いつしか城壁の中も時代遅れ、陳腐なモノになっているかも知れない。
しかし、頑固に城壁を守る人は、外を見るのが怖いのかも知れない。

「コンピュータ」という言葉が出てきたら「すごい」と思うクセも止めた方がいい。
近頃は、どこでもコンピュータがあるせいか「コンピュータ分析」などと、コンピュータという言葉をだすことで「すごい」を印象づける宣伝は少なくなってきたようだが、それでも「ウチはコンピュータで・・・」ということで売ろうとしているものもある。

「パソコン」という言葉でなく「マイコン」の方が勢力が強かった頃は、ちょっとした中小企業の事務所にもオフコンと呼ばれるコンピュータが導入されていた。

だいたい500万円ほどの値段であったが、半年か1年ぐらいすると、そのオフコンがホコリを被っていたという現象も少なくなかった。

オフコンに500万円かけても、稼働してくれたら何人分もの仕事をしてくれるので、もとはすぐにとれる。

「社長、オフコンの導入で、会社の利益率は上がりますよ」

の声で導入したのだが、なぜホコリを被るようになってしまったのか。

それは、社長自身のリーダーシップにあった。

「コンピュータはソフトがなければただの箱」と誰かが言っていた。

そう、プログラムがなければコンピュータは役に立たない。

会社の業務をコンピュータによってシステム化しようとするとき、その会社の仕事が如何に整理されているかということが大切であり、いわゆる、行き当たりばったり、思いつき、気分次第、何の根拠で区別するかがわからないような会社の業務はシステム化することができないので、プログラムも作りようがないのだ。

つまり、コンピュータの専門の世界を知らなくても、会社のリーダーの頭が合理的で仕事が整理されていれば、システムエンジニアやプログラマーは、コンピュータが動くように翻訳していくだけである。

プログラムによって仕事を自動化するのがコンピュータの世界であり、専門用語が飛び交っても、やっていることは単純な仕事の集まりである。

専門用語をちらつかせて人を煙に巻こうという人物は論外として、とかく感情に支配されやすい人間の言動を冷静に制御するという姿勢を大切にしたいものだと思う。

マイクロコンピュータを搭載した近頃の製品も、動きをじっと観察してみれば、人間のすることを自動化しただけということに気がつく。

システム化にあたり、真っ先に問題となるのは「順序」である。

仕事をする前に、自分はどういういう順番で事を行っていくのかをイメージしてみると、システム化の思考が鍛えられるように思う。

事にぶつかりながら次のことをするという仕事の習慣は、仕事の改善のヒントも生まれない。





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posted by edlwiss at 12:38 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

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