2014年03月31日

桜の季節

私の家の裏は桜の名所になっています。
私の記憶の限りでは、NHKのドラマの舞台に2回なっています。

今日は英語クラブ(仮称)のみなさんと、桜を見ながら弁当を食べました。
メンバーの中に、こうしたことに気を配ってくれる人がいて、楽しい会が催されます。
みなさん個性的でそれぞれ特技があり、英語に強いインテリの集まりです。
しかし、自分の力を誇示する人はいません。
それより、学ぶ意識が強いと言えます。

今日の勉強は、拉致問題について語っている英語のニュースの聞き取りと、はだしのゲンについての、新聞社の論説(英文)の読解と討論でした。
この時間が終わって、外に出て満開の桜の下で昼食でした。

sakura040331.JPG


気の合う者同士が集まって会食することは、楽しいものです。
ただ食べると言うことだけでなく、心の交流があるからです。
だから、私は家族はそろって食事をすることが大切だと、折に触れて話しています。

■桜と思い出

今日は桜を見て、思い出したことがあります。
高校時代、電車通学でしたが、降りる駅は田舎の駅で駅員のおじさんがいました。
ホームに沿って桜がたくさん咲きました。

降りる時、ひとり、色白の素敵な女子も降りるのを見ました。
私はドキドキして「今日はどうかな」といつも気になるようになりました。
友人たちにさとられないように、知らぬふりをして通学する毎日でした。
古い桜の木、田舎のホーム、古い電車、美女と、今思えば映画の中にでもいたような思い出です。
淡い青春時代の思い出です。

私は音楽が好きで、いつも音楽を聴いていましたが、その素敵な女子とぴったりマッチする曲が、ショパン-ロイ・ダグラス編曲/バレエ「レ・シルフィード」
で、この曲を聴くと、かつての駅のホームを思い出します。



今度、同窓会で会えたら、声をかけられるかも知れません。

二つ目の桜は、新卒の時です。
見知らぬ土地へ赴任し、小学校は児童360人、職員は18人。
明治時代に建てられた老朽化の激しい校舎。
ギシギシ言う廊下を歩いた覚えがあります。
見知らぬ人たちばかりで、おまけに若いのは私ひとりだけで、あとはみな中年以上のおじさん、おばさんばかり。
不安な中で職員会が終わり、やっと帰宅できるかと思ったら「これから花見に行く」と誘われました。
4月1日でした。

天気がよく、桜もたくさん咲いて人がいっぱいで賑やかでした。
この桜見物の場所は、今、私が住んでいるところの裏なのです。

少しずつ学校に慣れてくると、これが素晴らしい学校で、この小学校での生活は夢のようなものでした。
人に言うと、自画自賛に聞こえるかも知れませんが、今振り返ると理想の学校でした。
当時の先生の気持ちも同様であったと思います。
その証拠に、未だに当時の先生たちは、私も含めて夏には集まって会食をします。
そして、思い出に浸るわけです。

私の「桜の思い出」は今や人生の宝です。

過去二つの桜に加え、今三つ目の桜が人生に加わりました。


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2014年03月30日

学級王国の良し悪し〜部活王国

政治の世界では、しばしば規制改革という言葉が出てくる。
これは、日本は規制が多く、経済発展に支障が起きていると考えられる時に出てくる。

教育の場でも同様に、規制が多いほど教育活動が阻害される恐れが出てくる。
学級王国は悪くすると、閉鎖的な中で関心しない活動が行われていて、外からはわかりにくい場合が考えられることだ。
つまり、風通しの悪い状態ができる場合があること。

学校では、学級経営があり学級経営が暴走しないように、学年経営があると言える。
さらに、学校経営があり学年経営を統括していると言える。
それぞれの歯車がよくできていて、錆びついていなければ問題は起きないだろう。
もちろん、時々のメンテナンスの必要はある。

小学校、中学校、高等学校と上になるほど、それまでどういうことを教わってきたかがわかることがある。
教科の学習については、またの機会として、風通しの悪くなる例として吹奏楽部について触れてみたい。

私は中学校の指導が多かったが、ある時期、県の指導員ということで高等学校の吹奏楽部の指導に携わったことがある。
高等学校では、いろいろな中学校から生徒が集まってきて、どういう指導を受けてきたがわかる。
中学校の先生の熱意が伝わってくることもある。

■教員免許は万能か?

部活動であっても、課外だから何を教えてもよいということはない。
しかし、指導する内容を見ると、専門性を要することはたくさんある。
楽器の奏法はいい例だろう。
吹奏楽部の先生は、どのくらい楽器に精通しているのだろう?

高等学校で指導してみると、楽器の奏法に関する間違いはよく発見する。
言葉の意味の間違いなら、すぐに訂正できるが、楽器の奏法はそれまでのクセがついていて、簡単には直せない。

教員は採用試験に合格して、学校に赴任すると「先生」ということで「何でも先生」なのだろうか?
1度も演奏したことのないフルートでも、先生ができてしまうのだろうか?

フルートの組み立てさえ誤っているのを見ることもあるが、それだけで音が合わないことは予想できる。
だから、合わない音で平気で演奏している場合や、合わないから「合わせろ」と生徒に無理を言う。

これは、いじめではないだろうか?

「先生」と名がつけば「何でも先生」ではないと思うのだが、中には、そう錯覚している人もいるのではないだろうか?

私の大学時代は、先生が「君たちは、やがて子どもたちを教えることになるだろう。間違って勉強していくと、間違って教えて害を流すことになる」と言われ、すべての楽器を習わされた。
指揮法ももちろんである。

YAMAHAが三重県の志摩半島にある合歓の郷で、毎年、吹奏楽指導者講習会を開催していたが、これには毎年参加していた。
吹奏楽の先進国からは、イーストマン・ウインドアンサンブルなど一流の団体やプロが招待され、分科会では現役のプロの奏者が楽器のメンテナンスや指導法などを教えてくれた。

「教える」ということについて、私が考え始めたのは「知らないうちは、怖さを知らないので、自分の勝手なセンスでつい、我流を教えやすい」ということだ。

■部活王国

部活は「学級王国」ならぬ「部活王国」になりやすい。
特に、閉鎖的で風通しの悪い部活では、悪い王国になりやすい。

だから、私たちの年代は先輩、後輩、近隣の中学校の吹奏楽の先生で研究会をつくり、互いに交流をしていた。
互いに他校の指導に行ったり、プロの指揮者、演奏家を呼んで勉強し合っていた。

自分の部活の練習を見せない人がいる。
それが「企業秘密」と言えるほどのものならいいが、我流を教えているとしたら、それは教育ではなくて反教育をやっていることになるだろう。

「先生」の看板一つで「何でも先生」ではないはずだ。

公務員バンドの中には、部活経験者もたまにいて、間違ったことが身についてそれを矯正するのに苦労している人もいる。
これは初心者より苦労が増えてしまう。

■自分は先生なのか?

先生をやっていたら、自分は何の先生なのか、時には考えてみる必要があると思う。
私は、ある高校で、女子生徒に「先生の言うことは何でも正しいんですか?」と言われたことがあると書いたことがある。

私はその時、反論できなかった。
後で生徒は謝りにきたが、先生にそういうことを言える距離関係も悪くないと思った。


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2014年03月29日

公務員バンド

私の住む市には市役所の職員から成るバンド(吹奏楽団)があります。
このバンドはクラブ活動ではなく、正規の仕事として活動しているものです。
市の諸行事での演奏が仕事です。

私は小中高、一般市民から成るバンドを多く指導してきましたが、仕事として演奏をする団体を指導するのは、この市のバンドが初めてです。

学校や市民バンドが希望者から成るメンバーから成っていて、嫌ならいつでも辞められるというのとは、市のバンドが大きく違うところです。
彼らは辞令をもらって参加しているわけですから、簡単に辞めるわけにはいきません。
「辞めたい」というのは「職を辞する」ということになるわけですから。

こういう事情でできているバンドでは、仕事だからやっているのか、音楽が好きでやっているのか区別がつきにくいところがあります。
生活指導の必要がないというところも、学校のバンドと違うところです。
私は年を取るに連れ、指導対象の年齢も上がってきましたが、特にそう望んだわけではありません。

こういう大人のバンドを指導していると、昔、子どもを教えていた時のことが蘇ってきて「こうすべきだった」「ああすべきだった」と思うところがたくさんあり、そういう反省を生かそうと、言葉一つも選んで話しています。
そういう意味では、この指導の機会は私のこれまでの集大成のような気がします。

公務員バンドの練習は、みな態度は真面目ですが、これは当たり前とも言えます。
私の言っていることが浸透しているのかどうかの判断は、出てくる音の感じでの判断になりますが、それは単に美的かどうかということだけではなく、人の感情のこもった音で判断すると言えます。

最近は音が積極的に迫ってくる感じがして、1回1回の練習は地味なものですが、少しずつ積もり積もってよくなってきたと感じます。

これは、昔、子どもを教えていた時、何日もひどい音の連続で「本当に基礎・基本て大事なのか」と思ったりしたことがありますが、ある日突然に音が変わったということを思い出しました。

コンクールに夢中になっている学校の中には、基礎・基本は大切だと言っていても、課題曲や自由曲ばかりに時間を割いているところもあります。
また、基礎・基本と言っても、基礎・基本になっていないのではないかと思われる「形式的練習」をやっているところもあります。

こういうことは、音楽の練習に限らず注意すべきことだと思います。
真の意味で、基礎・基本を積み重ねることは、後のある時点で大きく成果が出るという鍵を握っていると思います。
また、形式的練習かどうかを見抜く力は指導者の力量だと思います。

物を作る職人が、色の光具合を見ただけで、これでよしと判断するのに似た感じとも思えます。
音楽においては、出てくる音で判断するということは、言うまでもありません。
だから、指導には言葉で表せないところがあるのです。


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2014年03月28日

選択しかできない思考の問題

近年、人工知能の研究が進む中で、現実の人間の思考の問題が浮上してきたように思う。
人工知能の場合、思考は論理的であるが、現実の人の思考場合は必ずしもそうとは言えない場合がある。
論理的とは言えない思考は、現実の人間の良さである場合もあるだろうが、他人を説得させる場合には非論理性を排除しなければならない。

論理性を回避するために、私は文系だからとかアナログ人間であるからという理由は受け入れられるものではない。
そういう意味でも、文系の大学で入試科目に数学がないというのは変だと思う。

■抽象的な文章の連続はひとりよがりに陥る危険性を持つ

自分の意見を展開する場合、私は「集合の概念」が必要であるということを強調してきた。
そうでないと、話の中身を特定できない可能性が出てくるからである。
例えば「中学校の先生」と言っても、その対象になる人は非常に多い。
「中学校の教師は○○だ」と言う場合、日本中の教師が全部当てはまるのか?、そうでない教師を知っているぞなんてこともあり得る。

文脈から、自分の学校の先生と限定できるような場合はいいが、単に「中学校教師は」と言い出すのはあまりにも乱暴と感じることがある。

抽象的な話の連続になるほど、要素が限定できない可能性を含みやすいので、いくつも選択肢があるのに自分の独断で要素を選択して、ひとりよがりの結論を導いているという可能性もある。

chusyou.jpg


だから、抽象の連続だけでなく、具体的なもの、体験を交えて論を展開して欲しいと思うのである。
そうでないと、まるきり妄想のオンパレードを紹介されているようなものになってしまう。

■選択思考しかできない人は問題だ

話し合いで問題を解決しようとするとき、出された案のどれかを選択するだけが解決とは限らない。

ある喫茶店で、モーニングを出そうと相談したとき、トーストにはマーガリンを塗るかジャムを塗るかという話になった時、半分ずつ両方を塗ろうという解決方法もあった。
これはわかりやすい例として出したのだが、どちらかの選択という思考しかできない人やどちらかに固執するという人がたまにいる。

こう言う人は、長文読解においては文中のある部分だけを選択して理解したつもりになっているので、作者の立場からすると「そんなことは書いていません」ということになったりする。

長文でなくても、いくつかの要素からできている文でも同じである。
これもしばしば例に出すのだが、全体として作者が何を言いたいのかわからない人がいる。
(私がそう勝手に想像しているのではなく、実際に試してみた結果である)

京で一番糸屋の娘
姉は十六妹は十四
諸国大名は弓矢で殺す
糸屋の娘は目で殺す

私のブログを読んでくださっている人の中には、またかという人がいるかもしれない。
しかし、長文読解の能力を知る小手調べとしては、わかりやすいと思う。

長文読解の能力は、特定の部分の選択ではない。
全体を融合する能力が必要である。
統合する能力と言ってもよいだろう。
いくつかの文を統合して解釈する能力は、高度な知的作業である。
つまり、高い知能を必要とするわけで、巷にあるコンピュータ(パソコン)の最も苦手とすることである。

■知的再生能力

「知的再生能力」とは適切な言葉がみつからなかったから、私が勝手に作った言葉である。
どんな能力か具体例を挙げてみる。

乗用車の車検制度は、昔は2年毎であった。
しかし、後に、製品の質がよくなったということから、新車に限り車検は3年間に延長された。
ところが、この意味が理解できず、車検は依然として2年毎という固定した考えから脱することができない思考の人がいる。
車検は2年と決まっていたのだから、3年でいいというのは法律を無視していいと言っていると主張し続ける人がいるのである。

こういう人は、次の問題もわからないかも知れない。

パソコンは昔は、プログラムも自分で作らないと何もできないただの箱であった。
そこで、プログラミング教室というものがあって、BASICという言語を多くの人が学んだ。
そのBASICに次のような構文がよく出てきた。

**************************

n=0

FOR i=1 TO 100
・・・・・・
n=n+1
・・・・・・
NEXT

***************************

(FOR〜NEXTはこの間を100回繰り返せという意味)

問題は「n=n+1」というところ。

初めはnとn+1がイコールで結ばれているとは何だと思う。
ところが、先生が「前にあるnは新しいnで、=の後のnは古いnです」と説明する。
つまり「古いnに1を足して、新しいnとしなさい」としていると説明すると、やがて大抵の人は理解する。

これは「古い車検制度を改め新しい車検制度にする」というのに似ている。

一応「n=n+1」についても説明しておくと、最後にnにはどんな数値が入っているかというと「100」である。

思考は経過の中でリフレッシュして、新たな情報を取り込まなければならないことがある。



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2014年03月28日

誰のための教育か

「誰のための教育か」と言えば、子どものために決まっているとの返事が返ってくるでしょう。
しかし、私は「子どものために」をよく言う人ほど警戒します。

例えば、筆箱の中身まで規制するようなきまりを作っている学校が、本当に子どものためを思っているのか疑問に思います。

■誰のためのきまりか

私が以前住んでいたいたところの近くで、スピード違反の車がよく捕まる道路がありました。
スピード違反は、速度規制を上回っていれば悪いのですが、住民たちは警察の取り締まりに対して怒っていました。
それは、実態に規制がともなっていないとの不満でした。
もちろん、みんなスピード違反はいけないと承知していました。

その後、そこのスピード規制は変更されました。
早い話が、警察には月に何件違反を捕まえろというノルマがあったらしいのです。
それで、警察としては検挙者をあげる場所が欲しかったということが真相らしい。
あからさまにノルマだろうという抗議があったかどうかはわかりませんが、警察としては心苦しいものがあったようです。

学校でも「君たちのためだ」と言いながら、どうしてそう言えるのか疑問を感じるものもあります。

■出世すると自分の心配ばかりしている人

K氏は生活指導主事になると、人が変わったようになりました。
表情も険しくなり、生徒にも親しみやすかった人柄も消えたようです。

生活指導主事という役は、教師の出世コースの階段ということで、彼はそのことを意識しだしたのです。
「何でそんなに、細かく校則を作るんだ」
と、私は喧嘩したことがあります。
彼は
「美しい姿を見せる」
と言いました。
誰に美しい姿を見せるのでしょう?

教頭や校長、教育委員会に見せたいわけです。
彼の細かい、ことあるごとにうるさく言う指導に1年生は恐れていました。
しかし、2年生、3年生と学年が上がるにつれ、生徒の反発は大きくなりました。
得に問題は起こりませんでしたが、生徒は学校を出ると急に態度が変わりました。

■朝ご飯を食べてこない生徒

S君はバレー部に入っていました。
早朝練習があるせいか、いつも朝ご飯抜きで登校していました。
それを知った私は、母親に「朝ご飯を食べさせてください」と言いました。
母親は、作っても食べないからと言いましたが、それでも用意してくださいと私が言うと、作るようになりました。
朝食抜きで早朝練習をする運動部に、私は疑問を持っています。
(練習後、朝食の配慮をする部はいいと思いますが)

私も吹奏楽部を受け持っていて、早朝練習をやっていましたので、朝食には気をつけていました。
私自身、早朝練習はどうでもよかったのですが、生徒がやりたいというので、親とも連絡をとりやりました。
日曜日の練習も私は必ずしも必要とは考えてはいませんでした。
それより、能率のよい練習をこころがけ、中学生がバランスのとれた生活を送るようにと考えていました。
しかし。生徒は吹奏楽が好きなので、その気持ちを汲んでやりました。

■守れないきまりは作らない

転勤したばかりの中学校では日曜日の練習はルーズでした。
まず、だらだらと集まってきて、何となく練習が始まるというものでした。
集合時間は一応あるものの、どうせ遅れてくるから早めに決めておくというのが本音でした。

こういうルーズなことをやっているから、コンクールでは2秒のタイムオーバーで失格になるのだと思いました。
田舎の学校で校区も広く、のんびりしたところもあって、日曜日には家の手伝いをする生徒もいました。
朝、8時までお手伝いをするので8時の練習に間に合うわけがありません。
もちろん、家庭の事情はそれぞれ違うので、教師は全員の家庭を調べて事情を知っておく必要があります。
合わせて、生徒同士も同じ活動をする仲間として、友だちの事情をある程度知っておく必要があります。

■きまりを作ることそのものが教育活動

練習時刻を決めるには、教師が独断で決めれば済むことですが、互いに仲間の事情を知ることもよいチームを作る上では大切なことと私は考えています。

今、よく話題になる「学び合い学習」ですが、子どもに任せるから教師は指導から開放されると思っている人がいるようです。
そう思っている人の中には、学び合い学習を批判的に見て「指導を子どもに丸投げしている」と言う人がいます。
これはとんでもない考えで、教師が直接手を下さない活動ほど、あらゆる子どもの活動予想をすることが必要で、思考力が要求されると思います。

子どもに任せるから教師は何もしなくてよい、ヒマになると考えるのはとんでもないことです。
教師が直接携わる指導は、すべて路線を教師自身が決めるので安心感があります。
これは、校則をこと細かに決めるのとよく似ています。
子どもの行動を信じていないから、不安を感じるから、行動を細かく決めて規制したがると言えます。
そうして、自分の任期の間だけは何事も起こらないようにと考える。
しかし、そうしたもくろみは、子ども側からしたら「自分たちは信頼されていないのだ」との感じを抱かせるだけです。

子どもの思考力を伸ばすには、子どもになるべく自由な場を持たせ、思考の自由を奪わないことです。
それは勇気の要ることでもあるし、いろいろな場面を想定した思考力が必要ということになります。
また、そういう設定をしないから、教師自身も利口になれないと思うのです。

だから、なるべく子どもに決めさせるということは大切で、その折には教師は「代案」を持っていなければなりません。
私は子どもに決めさせるという場面をたくさん作りましたが、代案を用意しておいたにも関わらず、子どもがそれに優る案を出したことが多く、私自身が学んだことが多いという経験をしました。

これは、教師が教師が勝手な自己都合の決まりを作るのではなく「先生は真剣なんだ」という気持ちが子どもに伝わるからだと思いました。

「どうせ遅れて来るから」という考えは、決まりをないがしろにして、順法精神を麻痺させる教育をするものだと考えています。

住民が実態に合った決まりを警察に要求し、それで決まったなら、しっかり守るという精神を持つのと同じです。

■遅刻はプロの世界ではクビ

私は吹奏楽に親しんでいましたが、ある時期からは自身がオーケストラで演奏をするという機会が多くなりました。
私はクラリネットが受け持ちです。
吹奏楽ではクラリネットは大勢いるので、時に「自分一人ぐらい」という気持ちにもなりかねません。
(もちろんそれはよくないことです)

chikoku.jpg
しかし、オーケストラではクラリネットは大抵、二人だけです。
しかも、それぞれ1番、2番というように別々の受け持ちをしていますから、事実上は一人ということです。
そして、オーケストラでは必ずというぐらいソロ(一人だけで演奏をする場面)があります。

ということは、何かのの都合で、クラリネットが休めば演奏会自体がダメになります。
いわゆる、ソロ楽器は重責を担っているわけです。

だから、私は演奏会では最低1時間前には会場に行きます。
そうしないと、みんなが心配するからです。
こういう事情は、オーケストラにおいてはフルート、オーボエ、バスーンなど管楽器の多くは同じ立場にあります。
こういうことですから、プロにおいては遅刻するとクビになります。

でも、遅刻するとクビという状況はオーケストラに限らず、社会にでて重要なポジションに就く人にはすべて言えることです。
これは、遅刻しても問題にならない地位は、どうでもよい、当てにされていないということにもなります。
逆に当てにならない人は、重要なポジションを得られないということにことになります。

遅刻というのは習慣になって、体に、身についてしまうようになります。
お説教をしても治りません。
だから、教育の一部として、子どものころから遅刻しない習慣をつけることが大切と思っています。
先生自身が遅刻をしないのはもちろんのことです。
集合時間を確認するとき、守れるかどうかを考え、守れないような時間を承諾しないことです。
そういう躾を子どもにもすべきと考えています。

遅刻をしない習慣は財産と言えるのではないでしょうか?


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2014年03月27日

まずは、ふつうに、まともな先生を

新学期が近づいてきた。
今年、新しく先生になる人、転勤する人それぞれいろいろな思いがあると思うが、ここで私が偉そうなことを言うことは何もない。

子どもが生まれる時、よく「五体満足」というが、先生には社会人として常識のある人が任について欲しいと思う。
こんなことを言うのは、時々、まさかという人が現れたりするからである。
学校に火をつけてみたり、盗撮をしたり、万引きをしたり、女子生徒をストーカーしたり、・・・報道された犯罪を挙げていくだけで恥ずかしい思いがする。

教師による性犯罪は他の職業と比較して、とりわけ多いように言われる場合がある。
しかし、実際の統計を見ると、先生の職業に多いわけではない。
もちろん、だからいいと言うわけではない。
先生は聖職と言われたりするように、社会からは「そうあって欲しい」という期待がある。

これは、はじめから聖人君子のような人を期待しているのではなく、先生そのものの生き方を見ているのだと私は思っている。
努力とはどういうものか、教養があるとは何なのか、失敗した時はどうするべきか、思いやりとは、厳しさとは、対人関係は・・・などなど、生き様そのものが先生だと思うのである。

私が、よく間違っていると思うのは「口で言うこと」が指導だと思っている人がいるのではということである。
人が亡くなると「命の大切さを指導するように伝えた」などと教育長が言う。
それを受けた先生はどう指導すのだろう。
教室で「君たち、人の命は大切だ」と力説するのだろうか?

そうではなく、自ら命を大切にする生き方をすることなのだと思う。
密林の聖者と言われたシュバイツァーの取材に行った記者が、まわりを飛ぶ小さな虫を殺そうとしたら、シュバイツァーは止めたそうである。
私は、昔、その話を聴いてから「一寸の虫にも五分の魂」という言葉を思いだし、生き物の命をより考えるようになった。

どこかのカフェで、水槽にピラニアが飼ってあって、少し離れた水槽には金魚が飼ってあった。
つかつかとやってきた女店員が、一匹の金魚をつまむと、ピラニアの水槽に投げ込んだ。
ピチピチと音を立てて、金魚はたちまちピラニアの餌食になった。

それを見ていた客はビックリして「君、かわいそうじゃないか」と言った。
すると、女店員は「あれは餌です」と言った。
何も言いようがないが、人の心というものを考えさせられる話である。

指導と言えば、話さないことには始まらないこともあるだろうが「話しただけ」では指導にならない。
「オレは話す、お前が実行しろ」
ではなく「隗より始めよ」である。

新学期になるとまず交通安全運動が始まる。
小学校低学年では先生が
「信号を守って渡るんですよ」
と言う
「ハーイ」
という元気な声が返ってくる。

こういう時
「きまりは守らなくてもいい」
なんて言う先生はいないと思うが、もしそういう先生がいたとしたら異常というべきだ。

変な人が増えた(?)と感じる昨今、誰でもわかる、そういう異常者が学校の先生に紛れ込まないことを望みたい。
何も完璧な人を求めているのではない。
異常者がいないこと、普通の人であって、自らの生き方により教えられる人を望みたいと思う。


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2014年03月25日

学歴の高い人ほどアルツハイマーになりやすい!?

書類を整理していたら、アルツハイマーに関する資料が出てきた。

まず、アルツハイマーとはどんな病気か確認しておく。



認知症の一種で、物忘れが初期症状だが物忘れが認知症であると言うことでもない。
進行すると、単なる物忘れと違った症状が出てくる。

加齢により発症率が高くなると説明されているが、個人差がある。
では、どのように個人差が出てくるのかというと、生活習慣や性格によるということだ。

■アルツハイマーになりやすい人

・高血圧、脂質異常症、糖尿病などの生活習慣病
・喫煙
・運動をしない
・頭を使わない人
・女性の肥満
・偏食(肉が好きで、緑黄色野菜を食べない人、魚を食べない人)
・社交性に欠ける人(挨拶をしない、同窓会に出ない、人の好き嫌いがはっきりしている人)
・歩くとく時、歩幅の狭い人

と、いろいろな項目が並んでいた。
注目したのは高学歴な人は進行が早いとなっていたこと。
ただし、発症はしにくいが、一旦発症すると進行が早いとのこと。

私が高学歴の人に注目したのは、マスコミに登場する人の中にはコメンテーターとして、学歴が高い人が多い。
なのに、言っていることが小学校低学年のレベルではないかと思う人が、しばしばいることである。

元高等検察庁○○と言う人に対する質問。
「今回の事件について、どう思われますか?」
「ほんなん、やったに決まっとる・・・ブツブツ・・・」
(興奮している)

やったことがはっきりしているなら、裁判は必要ない。
法曹人としては、バランスのとれた発言が必要である。

経済評論家への質問。
「今回の非正規雇用者の大量解雇について、どう思われますか?」
「だって、この人たちは何も悪いことはしていないのに、クビにするなんて」

企業が解雇するのは、悪い人だからではない。不景気で給料が払えないからだ。

同じく経済評論家への質問。
「原発事故をどう思われますか?」
「原発事故事故で死んだ人は一人もいない。津波では何千人もの人が死んでいる。だから原発を悪者にするのは不公平だ」

そういう比較をしていいのか?
ちなみに、この人は交通事故の方が大勢人が死んでいるので、原発より車の方が危険だと言っている。
また、放射能は燃やせばなくなると思っているとのこと。

などなど、学歴は高いのに「はあ」と思う発言はたくさんある。
裁判官の笑える判決文というのもある。
「現場に残っていた血液型はAB型であるが、これはA型とB型が混じった結果である」

血液型って本当にそうなるんですか?

校長も笑える話をして、生徒や先生が笑いをこらえているというのもある。
例えば、虫歯予防デーで「歯いい生徒は頭がいい」と言っていたとか。
(もっとも、校長が高学歴になるのかどうかはわからないが。)

大臣だって。
「怪我」を「かいが」と読んだ人がいた。
「○○さんは、かいがされたそうで・・・」
(一瞬、何を言っているのかと思った)

例を上げればいくらでも出てくるという気がするが、進学して学歴を高めるとそれなりに頭が良くなるのかということには、はなはだ疑問に思う。

野球の選手は、学歴はもちろんのこと、元大リーがーなどの経歴は役に立たない。
現在、どのくらい投げられるのか、打てるのかで評価される。

演奏家もそうである。
コンクールなどの勲章が好きな日本人と言われるが、欧州に行けば、そんなことは問題にされず、現時点の実力が問題にされるという。

評論家も現時点での実力を問題にしたらどうかと思う。

しかし、高学歴とアルツハイマーの因果関係はどうなんだろう?
医学的解明はあるのか?

とにかく、学歴が高いから頭がいいという、先入観だけは持たないようにしようと思った。


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2014年03月24日

世界共通言語とは

世界共通言語と言うと、エスペラント語を想像する人がいるかもしれない。
ここで言う世界共通言語とは、音楽のことである。

しかし、音楽は民族によって違うし、歌詞も違うから共通言語とはなり得ないという人もいる。
では、同じ民族、同じ国語によるのなら共通になるのかという問いも考えられる。

音楽が世界共通言語であるとうのは、そういう視点ではない。
そういう見方は、犬や猫は同じだという意見に対して、違うと言っているようなものである。

日本語でも英語でも何の働きをしているかというと、それは人と人との心の通い合いに使っているわけで、コミュニケーションの道具である。

日本語で話せば、日本人なら誰にでも通じるのかというとそういうわけでもない。
そういうところは音楽も同じである。

今月は、日頃、音楽をともにしている人たちと企画した、リコーダーのコンサートを行った。
全国からリコーダーアンサンブルの人たちを招いて、2日間にわたって行った。
参加した人たちはアマチュアであるが、その日の最後はプロに締めくくってもらう形だった。

CIMG2131.jpg


今回のコンサートでは、印象に残ったことがいくつかあった。
アマチュアだが、みな非常にレベルの高い演奏だったが、特筆すべきは聴衆のレベルの高さを感じたことだ。
非常に集中力があり、演奏者の放つ音が聴衆の中に吸い込まれていく感じだった。

演奏者と聴衆が一体となった共感は、正に音楽は共通の言語であると感じさせるものだった。
そんなにチケットは売れないだろうと思っていたが、早々に売りきれたのも、フアンが多かったからだろう。

リコーダーという楽器は音量が小さい。
しかも、同じ音量で吹かないと音程が合わない。
大抵の管楽器が息の量で強弱を表すのと違うところである。
しかし、そういうリコーダーでも演奏者の表現の仕方でpやffを表すことができる。

吹奏楽では、とかく大音量に頼って人を説得させようとする演奏を聞くことがあるが、これは暴力のようなものである。
ロックコンサートにしても、耳が痛くなるほどに音量を上げる演奏がある。
でも、音量で説得力を増すことはできない。

音量に頼らない分、リコーダーは演奏者の音楽的表現の高さが要求される。
そういう意味でも、今回のアマチュアはレベルが高かった。

演奏者の年齢は小学生から、もう孫がいるという年代の人まで。
この最高齢の人たちのアンサンブルは、1972年に結成したものだという。
もう42年間ともに演奏してきたことになる。

小学生のチームは、音楽に子どもも大人もないということを感じさせてくれた。
付き添いの先生は、小学校の先生だったが「どういう指導をしてみえますか」と聞くと「私は、ただ『気に入らないわねえ』などと言っているだけです」と言われた。

そういう返事だったが、指導しているのはその先生の人柄、音楽に包まれている先生の放つ空気のようなものだと思った。

コンサートというと、つい、演奏ばかりに目が行きがちだが、もう一つの特筆べきことは、コンサートを支える裏方、スタッフの素晴らしさだった。

日頃、音楽活動をしている人たち、何らかの形で音楽と携わって人たちだったせいか、動きが「ツーカー」「あうん」の呼吸でものごとが運んだので、驚くべきことに終了が1分の誤差もなかった。
わかった人たちが集まると、こんなにもことが運ぶのかと思った。

会場はコンサートホールではなかったので、観客の椅子などをセットしたり準備はなかなか大変だったが、準備と片付けがすごく早くできたので、これには会場のオーナーも「早くできましたね」と驚いていた。

元教師も何人かいて「学校もこういう風だといいね」などと話していた。

コンサートを開くと、ただ「今回の演奏は・・・でしたね」という演奏評をするだけでなく、演奏者と聴衆の語り合い、意思の疎通を共通認識して帰るものである。
これこそ。国語ではうまく言えないが「人生とはこういうものですね」と言って「そうそう、・・・いい考えを聴きました」という心の満足を持って帰るようなものだと思う。

かつて、私の下手な演奏に刺激されて、帰ってから自分も何か楽器をやろうと思い、ギターを始めたというお父さんがいた。
お父さんが、そう私に話してくれたのは、それから中学生の娘と会話が増え、音楽で心が近くなったということを伝えたかったからだ。

高校時代、ある先生が「君たち、これから何か楽器を一つ、外国語を一つできるようにするとよい」と話してくれたのを思い出した。


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2014年03月23日

41兆円の国債発行

平成26年度の国家予算が決まった。
総額95兆円の一般会計のうち41兆円が国債、つまり借金だ。
税収が約45兆円だから、予算の半分近くが借金である。

こうして、国は毎年多額の国債を発行しつづけ、ついに1000兆円ほどになった。
国はいつまで借金ができるのだろう?
誰も国債を買わなくなった時が最後と言えるが、買い手がなくなってくると、買ってもらうためには金利を上げなくてはならない。
そうすると、利払いが増えるので借金はますます膨れ上がることになる。

景気がよくなれば、税収が増えるので、財政は健全化に向かうだろうか?
もし、景気がよくなって税収が増えたとしても、景気が良くなれば利率が上がるだろうから、また借金が増えることになる。

日本は外国から借金をしていないので、ギリシャのようにはならないと言われるが、この先国債の買い手がいなくなれば外国に国債を買ってもらうしかない。
それは、危険な道への始まりだ。

それより、不思議なのが、一般会計は95兆円なのだが特別会計を含んだ総予算は200兆円を超える。
なぜ、総予算を国会で審議しないのだろう。
民主党が政権を取った時は、官僚が独り占めにしている特別会計も精査すると言っていたが、最近は誰も言わなくなったようだ。

国民に主権があるのに、国民に財布の中身をすべて見せないのは変だ。
政治家はみな官僚を怖がっているような気がする。

財政が行き詰まって、新円発行になれば公務員の給料は一気に下がるかも知れない。
昔の先生は、一ヶ月分の給料で靴も買えなかったという。

そういう時代が来るか?
その時の総理大臣は誰か?
ババ抜きが始まったような気がする。

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2014年03月22日

「話にならん」とは

投資の座談会で、グループごと討論をすることになりました。
私は男女5人のグループの一人になりました。

私が外貨(米ドル)の話を始めたとき、50代後半から60代前半と思われる男性が
「ドルは危ない」
と横やりを入れました。

私はドルで投資をしろとは全く言ってはいません。
まず、世界の主要通貨について、信頼性や特徴を話し始めたところです。
そこでいきなり「ドルは危ない」と言われ、気分を悪くしましたが、ここは冷静に「ドルが危ない」という理由を聞きたいものだと思いました。
そこで
「どうしてドルが危ないとお考えですか?」
と聞きました。
すると
「だから、ぼくとあなたとは根本的に考えが違うんだ」
という言葉が返ってきました。

この返事は国語としても変です。
「だから」の中身がないからです。
「いや、だからね、君とぼくとはね、根本的に・・・」
から進まないのです。

この男性とは初対面であり、それまでに話をしたこともありません。
もちろん、私はその人の「ドルは危ない」という考えを否定するつもりはありません。
むしろ、どうしてそう考えるのか「根拠」に興味を持ちます。

結局、根拠を話すということはなく「とにかく危ない」という主張だけです。
その人のそう言う根拠を強いてあげれば「気分的に危ない」ということになるでしょう。

こういう「気分的に」が根拠(?)になっているような人には、たまに遭遇します。
実りある話をするには「気分」を排して冷静、客観的に分析する思考が必要と思いますが、相手がこういう風では、文字通り「話にならん」となります。

適当に打ちきるしかないと思いますが、それ以前に、こういう人が討論会に出ないような配慮も必要だと思いました。


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2014年03月22日

「できる」と「理解できる」の違い

どこやらの塾講師は大丈夫かと思う。
「小学校の算数ぐらい」などとなめていないか?
自分は小学校の算数ができるから、指導できると思っていないか?
つまり、できる理解できるの違いがわかっているかと問いたいのである。

例えば、1+2=3はできる。
だから足し算は指導できるのだろうか?

電卓を用意して「1+2=」とキーを押せば「3」と答えが出る。
つまり、電卓でも答えが出せるわけだが、電卓は足し算を理解しているとは言えない。
それは、電卓には知能がないからと言える。
電卓は命令された通りに動いているだけである。

学校教育は、指示された通りに、機械的に動く人を育てようとしているわけではない。
(もちろん、時には指示された通りに動くことも必要である)

塾の講師は比較的簡単になれるせいか、中には勘違いしていると思われる者もいる。
(もちろん、優秀な講師もいて、すべての講師がこうだと言っているわけではない)

学校での授業を見て「あんなにまどろっこしいことをやっているより、こうした方が早く答えが出せる」と言っていた塾講師がいた。

早く答えを出すなら、電卓が早い。

しかし、早く答えを出すための授業をやっているわけではないのだ。

私の実際の経験だが、1+3=という問題の答えを13と書く子どもがいた。
これをバカにするのは簡単だが、この子どもには「この子どもの論理」が働いている。
「1と2をくっつけたら12になる」という論理だ。
これは模型を組み立てる論理と同じだ。

では、「1+2」は「12」ではなく、なぜ「3」になるのかを説明できなければならない。
これを説明できるのが、理解である。

ただ作業をこなすだけなら、理解の必要は(ほとんど)ない。

それは機械と同じ訓練をしているに過ぎない。

しかし、何かを開発するような仕事に携わった時、ただ機械的に答えを早く出す訓練だけで終わっていると、行き詰まる。
例えば、コンピュータのプログラミングなどは良い例と言える。

何よりも、理解をするには知能の働きが必要で、知能を鍛えないことには人としての能力を高めることができない。
知能を高めない指導は、やがて機械にとって代わられることになるだろう。

よく、基礎、基本が大切だと言うが、そういう意味では小学校は学問の土台を作る上では、非常に大切である。
小学校の勉強を指導する教師の責任は大きい。

グループ学習で「なぜ1+2=13ではいけないの?」という子どもがいたら、成績がいい子どもは答えられるだろうか?
討論させる中で「考えること」「知能の高まり」が期待できると思うが、教師は放置するのではなく、より討論が活発になるよう方向性を示さなければならない。
素朴な質問が気楽に発信できる仲間づくりが必要であり、学び合いは教師が楽になる「丸投げ」ではなく、より高い教師の力を必要とすると思う。



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2014年03月20日

おもてだけ

「おもてなし」ではなく「おもてだけ」つまり表面だけという意味です。
私には他人の悪口を言って、溜飲を下げるという趣味はありません。

自分を売り込むのに一生懸命の人がいます。
大学生の就職活動もそうかも知れません。
採用されたいがための売り込みはわかるような気がします。

一方、採用する側はいい人材を確保したいために、審査するわけですが、人の価値を知るのはなかなか難しいことと思います。
評価の高かった人が活躍しないとか、その反対もあるわけです。

ここで私が問題にしたいのは、自信があって自分を売り込む人はまだいいということです。
というのは、そんなに自分を売り込んで、相手が本当に信じてしまってもよいのかと思う時があるからです。

例えば、そんなに英語の力があるわけでもないのに、通訳ができるなんて吹聴する。
プロのオーケストラの指揮を頼まれて、副指揮者を務めたことがある。などなど、こんな話を聞くとヒヤヒヤします。

「今度、アメリカから来賓が来るので通訳をお願いしたい」

との話が来たとき、中学レベルに毛の生えた程度の力でどうするんだろうと思います。
プロのオーケストラから声がかかるなんてことはないにしても、学校から依頼された時は大丈夫かと思います。
ハッタリで押しきるか、何か理由を作って回避するんだろうかと思います。

いや、他人の心配などせず、自分がそういうことにならないように気をつけることだと思っています。
私は、高い評価を得ようことさらと自分を売り込むことはしません。
それは謙虚さではなく、勘違いをされても困るからです。

できないことを、できるように思い込まれては大変です。
口コミというのは大きな力があって、知らぬまに増幅されてすごい人になってしまっているのは困ります。

思い出すのは新卒の時、聴力検査で機械が故障して養護教師が困っていたことがあります。
その機械を見て、私が直しました(大した故障ではなかった)。
そうしたら「あの人は何でも直せる」なんて評判が立ちました。

私は大学では電気研究室というところにいましたから、聴力検査の機械の初歩的な故障など何でもなかったのです。
どうも、先生の世界では、大したことではないのに、大げさな評判が立つ傾向があるという気がしました。

そんなことでいい気になって「先生の世界だけのすごい人」の世界に浸かってしまうと、滑稽な人生を歩むことになるような気がします。
それが「先生臭い」と言われる原因の一つではないかと思っています。

力もないのに、売り込みに熱心な人は「先が読めない」のかも知れません。
末路はどうなるのか、今、観察している人がいます。

私は人の悲劇を見て楽しむような偏屈ではありません。
一応、忠告はしました。でも聞かないのです。

ブログはハンドル名で正体を隠して、思い切り売り込んでいる人もいるかも知れません。
でも、いつかは正体がバレると思っていた方がいいと思います。
最近、話題になった佐村河内さんが教訓ではないでしょうか?


「おもてなし」はいいが「おもてだけ」はいけません。


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2014年03月19日

おもてなし

武士の家を訪問する時、身分の低い者は表から入ることを許されなかったという。
それで、表がないという意味で「表なし」と関係があるのか想像をめぐらしていた。
こんなことを発表すると、バカなことを考えるヤツがいるものだと笑われてしまうかも知れない。

一応、語源を調べてみた。

そうしたら「おもてなし」の「おもて」は「表」と関係があるということがわかった。
「表も裏もありません。心をこめて」の意味があるらしい。

ただ、表裏がないだけでは、おもてなしにはならないようで、おもてなしを受けた人が意外性を感じるような接待でなければならないということなのだ。

もちろん、この意外性というのはよい意味で驚くということだ。

おもてなしを受けた人が意外性を感じる接待というのは、現代人がもっとも苦手とするところではないか?
むしろ、逆の方が多いと感じるこのごろである。
というのも、いつもマニュアル通りというロボットのような反応も原因の一つとも思われる。

「お客様のご意見は貴重なものとして承りまして、今後の業務改善に生かして参りたいと思います」

即答できるようなことでも、このような返事をする。
この瞬間、期待感は消えてしまう。
何かクレームをつけられないように、隙を作らないという魂胆がみえみえの感じがする。
学校はこうなってほしくないものだ。

先生によって、返事がバラバラでもよい。
むしろ、その方が自然に感じる。

こういうと、問題噴出と考える人は官僚的と私は考える。

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2014年03月14日

斎藤喜博は立派な人だが

自分の作文を立派に見せようとして、立派な人の名前を出すのは「虎の威を借る狐」のようなもので、教師がそのようなことをすれば、かえって情けない教師であると証明しているようなものである。

斎藤喜博に感銘したというなら、具体的にどいうところで感銘を受けたのか書くべきである。
私の場合は教育学のすすめ (1969年) (学問のすすめ〈13〉)を読んだ時である。

島秋人という実在した人物をとりあげ、彼は学校時代はいつも蔑まれ、厄介者、邪魔者扱いにされたまま卒業して行った。
その彼が飢えに耐えかね農家へ泥棒に入った時、お婆さんに見つかって殺してしまった。
裁判にかけられ、死刑の判決を受けた。

彼は刑に服す中で昔のことを思い出した。
何もいいことはなかったような彼の人生だったが、唯一いい思い出としてよみがえってきたのは、小学校5年生の時、図工の先生が「構図がよい」と言った言葉だった。

彼は懐かしくなって図工の先生に手紙を出した。
手紙での交流が始まる中、彼は詩(うた)を作るようになった。
図工の先生は彼の作る詩が素晴らしいのではないかと思い、その道の専門家に見せたところ「天賦の才能が感じられる」と言われ、詩集として発刊される運びとなった。
詩集は彼が処刑された後「遺愛集」として世に出た。

私はこれを読んで強い衝撃を受けた。
強盗までする人間なんて悪人だというレッテル思考が吹き飛んだ。
彼が死刑囚になったのは、誰の責任なんだと思った。
持って生まれた才能を育てられなかった、教師の責任ではないかと思うようになった。

また、これで斎藤喜博という人の人格を知ったとも言える。
犯罪者ということで、まるで人種が違うように切って捨てる人もいるが、斎藤喜博氏は行いのよい人間だけに目を向けている人ではなく、温かい人であると思うようになったのである。

私が教師をやるようになってからも、このことは強く心に残り、すべての子どもに光が当たるように心がけた。
そして、子どもが伸びないで苦しんでいるのは、自分の責任ではないかと絶えず振り返るようにした。
反面、こと細かに校則を作り悦に入っているような人が嫌いになった。

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2014年03月13日

雲をつかむような話

某会社を訪問して雇用の話が出てた時、社長が「高校生の方がいい」と言っていました。
理由は「素直でいい」ということでした。

高卒がみな素直とは限らず、人にもよると思いますが、総じて言えることは「こけらが生えていない」ということです。
年とともに要らぬ苔の生えてくる人もいます。

その苔が何であるか、大人ならわかると思いますが、要らぬ苔は使う側(雇用者)からは使い難いわけです。
だから、素直な高校生が使いやすいということになるわけです。

と言うことは、年が多くてもすぐ偉そうな口をきいたり、態度にそういうものが出ていることのない人は、問題ないわけです。
むしろ、年は多いが謙虚で腰が低い人は、人生経験が多いことで役立つ場合もあります。

しかし、ハローワークへ求人を出してもそういうことはわかりません。
そこで人脈が大切になってくるわけです。

実際、私も70才を越えている人を、会社にお願いしたことがあります。
「仕事ができれば何才でもいいです」
と言われ、雇ってもらったことがあります。

初心忘るべからず

は年を取るほど大切と思います。
人によっては、年を取ると何か自慢したがる人がいます。
時間があればつきあって聞いてあげますが、中には「雲をつかむような話」をする人もいます。
それは、実体験がないのにする話なので、つかみ所がないのです。

始めは抽象的な話や一般論から始まってもいいのですが、次第に話が絞り込まれて具体的になることが必要です。
聞いている方が
「そうなるとは限らない」
と思うような話しでも実体験なら焦点が合ってきます。

ところが、話の続きが、いろいろな想像の可能性を含んだものであると、どうやっても焦点の合わないレンズと取り組んでいるようで、聞かせられる側としては疲れます。

ブログでもそうですが、内容はともかく実体験に基づいた話はピントを感じるので疲れないし、生々しさは伝わってきます。
だから、結果云々だけではなく、教育実践の話に私は興味を持ちます。

一般論や空想の話は優れた教育書やSF小説の方を選びたいと思います。

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ブログを、読みやすい、見やすいものへと試みています。
そこで、
こちらのブログで試行しつつ発展していきたいと思っています。
まだこれからですが、よろしかったらお立ち寄りください。
http://education.fp-guide.com/





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2014年03月11日

その方法で本当に効果があったのでしょうか?

「うちの塾に来てから」生徒の成績は上がりましたという人がいました。
私は、改革はどこからはじめますかで規律が大切だということ言いましたが、成績が上がったのは塾のせいかどうかについては、よく調べてみる必要があるのではないかと思うようになりました。
と言っても、私は塾通いをするなと言っているのではありません。

ある、個人塾の経営者が「塾へ来て成績が上がっている」と得意な口ぶりでしたので、機会を見て見学に行きました。
そうしたら、そこで行われているものは、とても授業と言えるものではありませんでした。
授業は、普通「導入」「展開」「整理」に分かれるものだと思いますが、全くそういう区分もなく、テキストをただ先生が読んでいくだけのもので、生徒の様子を感じながら進むというものではありませんでした。

「問い」があったとき、答えを少し待ち考える時間を作るという配慮もなく、だらだらと進んで行きました。
生徒はいつ終わるかなあと時計を見ている者や突然「先生何時に終わる?」と言い出す者もいました。

これで成績が上がるのかと思いましたが、ある調査の「成績のいい悪いは、塾通いとはあまり関係がなく、基本的生活習慣がよい者の成績がよい」というのを思い出しました。

そういうことを考えてみると、塾の指導云々ではなく「塾に通う」という行為が生活の節目をつくり、規律を作ったという効果ではないかと思うようになりました。

学校では○○研究指定校というものがあります。
それで研究に取り組んで、研究成果があったとする場合、何が成果に結びついたかはよく注意して検証すべきであると言えます。

これから新しいことをやるんだという決意がある時、そういう先生の決意だけで児童生徒には新鮮に映るものであり、真剣さがそれまでとは変わってくると言えます。
それまで、授業の開始は少々遅れて始まるのが常であったなら、開始が守られるだけで成果は違ってくるでしょう。

部活でも同様なことが言えます。
先生になったばかりの時は燃えていて、部活開始は生徒より早く行くようであったものが、慣れとともに遅く行くようになったことで、弱体化していった例は実際に見てきました。

不慣れな新米の先生が成果を出すのは、先生の真剣さに生徒の心が動かされたということが大きかったということはあり得ると思います。

教育の世界は地味な積み重ねだと思うのですが、どういうわけか新しい言葉を作り出し流行を追っているように感じることがあるのは、私だけでしょうか?




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2014年03月09日

改革はどこから始めますか

教育改革を始めるとして、実際、どこから手をつけますか?
何だか抽象的な切り出しをしましたが、結局どんな改革をしようと、現場の実践は教師にかかっています。

優秀な教師を探すことも大切ですが、どんな立派な組織を作ったところで、組織表が貼ってあるだけ、冊子を配るだけ、あるいは研修を儀礼的にやるだけでは効果は上がらないと思います。

こういう言い方をするのも「人間の習慣は簡単には変わらない」と思うからです。

例えば、とかく批判の目立つ「ゆとり教育」にしても、一体どれくらいの人が、その本質を理解して取り組んだのでしょうか?

さあ、ゆとり教育の開始だと、言っても、看板だけゆとり教育で、結局これまでと変わりないやり方で、学習の時間だけ減らしたとなれば、それまでより後退することになるでしょう。

今、よく聞かれる「学び方」でも同じです。

■足元から改革すべし

何をするにも、規律が乱れていては始まりません。
ここで言う規律とは、決まりをたくさん作ることではありません。
当たり前のことをきちんとやるということです。

具体的には「時間を守る」と言うことです。
遅刻する人は信用できません。
いくら偉そうなことを言っても、時間通り授業を始めない人も信用できません。

生活指導は大切と誰もが言います。
そして、どんな指導をするかと言えば「・・・をしない」とか「いいか、君たち命は大切なんだ」とか自己満足な演説をするだけというのがあります。

生活指導は生活指導の時間にお説教すればいい、のではなく、毎日の実践だと思います。
生活指導が大切だと言うのに、授業時間に遅れてくるのは、言うことと実践がともなっていません。

教師が決まった時間にいつも、きちんと授業を開始することは、規律を重んじる指導をしているのと同じことと言えるでしょう。
足元を見て、まず、当たり前の実践をしていくことが大切だと思います。
そういう日頃の積み重ねが、生徒の心や行動に反映していくものだと思っています。

元来、教育は地味な実践の積み重ねだと、心すべきではないでしょうか?





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2014年03月08日

教育では邪魔しないことも大切

習い事には基本があり、守らないとその後の進歩に影響が出ます。
私の場合、楽器を始めたときいわゆる我流でしたので、途中でこれはダメだと感じ、それまでやってきたことを壊すのに苦労しました。

間違っていたら、思い切って壊すということは大切だ思います。
しかし、ある程度やっていると、間違っていても壊せない人もいるようです。
そういう人は、間違いなのに自分のやりかたに固執するか、直そうと思っても、それまで習ってきたやり方が染み付いていて、ついそのやり方に戻ってしまう人だと思います。

こういうことを考えると、特に習い始めは大切であるということに気づきます。
だから、はじめだからこそ、いい先生に習うことが大切であるとも言えます。

いい先生は基本にうるさいと言えますが、それは後の進歩を考えているからです。
うるさいというのは「私の言うことを守らないと許しません」という権威でモノを言うのではなく、あくまで上達を考えてのことです。

現代では、楽器の奏法は確率していますから、基本には科学的な根拠があります。
ということは、一応、先生と言える人なら、基本に関しては同じことを言うわけです。

科学的な根拠に沿って合理的な練習をするから、上達も早く、限界も感じないと言えます。

昔、こういう話を掲示板でしていたら、ある人が横やりで「ギタリストの村治佳織さんは、先生であるお父さんは特に(基本について)何も言いませんでした」と怒った口調で言いました。

村治佳織と言えば天才的なギタリストです。



村治佳織さんのお父さんも優秀な先生だったと思います。

優秀な先生だからこそ、基本がいいか悪いかを見抜く力を持っていると言えます。

先生(指導者)だから何かを言わなければならない。権威を示すために何かを言うなんてことは慎まなければならないでしょう。
まして、わからないのに何かを言うのはもってのほかと思います。

私自身、過去に、私が教えたのではまずいと思い、先生を紹介したこともあります。
その生徒は、紹介した先生のもとで素晴らしく上達し、順調にプロの道へ進みました。

今、私は音楽の例で話をしていますが、これは話がしやすいからであり、他の分野でも同じだと思います。
特に外から見えやすい、体育、音楽などはわかりやすいから例示しやすいわけです。

オリンピックの放送を見ていると、今日では10代の若い選手が活躍しています。
本人にも素質はあるのでしょうが、指導法の進歩もあると思います。

指導法の進歩とは、気合とか気まぐれの精神論ではなく、科学的で合理的な方法の確率がされているということです。
これは、何がよくて何が悪いかが具体的に指示できるということです。

もちろん、指導者である限り、診断する力を持っていることが大切であることは言うまでもありません。
音楽なら、指導者が聞き分けられる耳を持っていることは大切ですが、指導者自身が経験を積むことで、その能力が進歩すると言えます。

私はこういうことを考えてきて、何も言う必要な生徒かどうか見抜き、そういう生徒には自由を与える必要があると思っています。
学級王国など○○王国というのは、そういう自由のある場所を保証するという意味で、私は考えています。




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2014年03月07日

確定申告

確定申告の期限がせまってきました。
私はファイナンシャルプランナーなので、税理士を頼まず自分で申告します。
というか、自分でできなければ恥です。

どんな資格についても言えることだと思いますが、実際に活動しなければ、力は衰えるばかりで役に立たなくなります。
自動車運転免許証もとっただけで、ほとんど運転することがない人をペーパードライバーと言いますが、そういう人の運転を不安に思うと同じです。

仲間と会社を作った時も、それぞれの持っている資格を使ってほとんど自分たちで手続きをしました。
やれることは自分でやらないと、知恵もつきません。
初めての会社の決算も「お前がやれ」と言われたので、一応勉強したように貸借対照表などを作って、ドキドキしながら税務署に持っていき「ご指導をお願いに来ました」と言って、担当にお願いしました。
何しろ初心者マークなので、いろいろ不備を指摘されるだろうと思っていました。

担当者は「○○の書類はありますか、はい、それでは□□の書類は・・・」と言うので、言われるまま書類を出しました。
それらを、担当者は点検した後「あ、それではこのまま出してください」と言ったのには正直驚きました。
一発合格だったわけです。

これで自信のついた私は、裁判所に出す書類も自分でやってみました。
裁判所と言うと、すぐ弁護士を思い浮かべますが、刑事事件でなければ必ずしも弁護士は必要ではありません。

この時も、教科書どおり書類を作って、裁判所の書記官に提出しました。
書記官は書類をジッと見て「あの印鑑はお持ちですか?」と言いました。
字の間違いの訂正です。
あとは通りました。

いわゆる「丸投げ」をやると楽ですが勉強になりません。

確定申告に話を戻しますが、学校の先生で確定申告を知らない人はいないと思います。
しかし、学校の先生で確定申告をやったことのある人は、どのくらいいるのでしょうか?

「えっ、何で先生がそんなことをするの?」

と言う人が中にはいるかもしれません。

サラリーマンは源泉徴収制度があるので、確定申告は関係ないと思っている人もいるようです。
これが、政治に無関心になる元凶と言っている人もいます。

社会人の常識ですので、先生方には釈迦に説法になりますが、源泉徴収とは税務署が「だいたいこのくらい税金を収めてもらいましょう」という計算で税金を徴収するものなので、人によっては納め方の正確性を欠くと言えます。

本来は、個人個人が申告をして税務署がチェックをするものなのです。
それを、学校の事務が一手に引き受けて代行しているわけで、税務署の肩代わりと言えるようなものです。
給料からあらかじめ引いてしまうので、もらい損ねはないし、業務は楽になります。

アメリカはすべて個人の申告であり、源泉徴収はありません。
アメリカでパソコンが早く普及したのは、このためだと言われています。

だから、アメリカ人は自分の収めた税金の行方に関心が高いのかもしれません。
また、それが政治への関心を高めていると言えるのかもしれません。

源泉徴収制度があるからと言っても、確定申告をしてはいけないということは、もちろん。ありません。
先生なら、子どもを指導するためにも、確定申告を経験した方がいいと私は思っています。
社会科の先生ならなおのことです。

実践をしないのは、ペーパードライバーと同じではないかと思うのです。




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posted by edlwiss at 22:37 | Comment(2) | TrackBack(0) | 経済

2014年03月05日

自由の大切さ

子どもの成長に応じて、自由の大切さを教えることが大切だと、私は思っています。
そして、自由が拡大することで創造性、自律性、学力などが高まり、自立していくようにると思っています。

街のあちこちには自動販売機が設置されていますが、ある外国人はこれを見て驚いていました

自分の国ではとても考えられないと言うのです。
こういうものを設置したら、たちまち壊され、商品やお金は持ち去られるだろうと言っていました。

私たち日本人は、自動販売機を見ても普通のことと思っているでしょうが、これは日本人という国民性が作り上げてきた心がそうさせたものであり、モノが買いやすいという自由を獲得してきたと言えるでしょう。

もし、破壊や盗難が起これば規制ができて、業者が自動販売機を設置することは困難になるでしょう。
自動販売機などなくてもいいと言う人がいるかもしれません。
しかし、それは短絡的な考え方と言えます。

自動販売機が設置されることで、利便性もよくなり、人件費も節約できるということで、買い手としては、商品を安く、買いやすくなります。
これは、経済を活発にしGDPを高める効果に寄与します。

規制が強くなるほど、人の自由な活動は制限されることになります。
だから、きまりはよく考えて作らなければなりません。
自己中心の考えが強くなり、保身ばかり考えるようになると、自分の身の安全を高めるきまりばかり作りたくなるようです。
そういうきまりは、自分のためのきまりであり、他人のためのものではありません。

くだらないと思われるきまりの多い学校は、よい学校とは言えないでしょう。
きまりの数は管理職の性格、姿勢を表しているとも言えます。

■学級王国が理想の学級となるように

校長がどのくらい学級担任に任せられるかは、良い教育が実践されるかどうかのキーポイントだと思います。

だいたい、任せられないような人を教員として採用すべきではないと思います。

もっと言えばバカと頭のおかしい人は教員をやるべきではないのです。

逆に、社会常識のある教養人が担任をやれば、他人がとやかく言うべきではないと言えます。

先のブログで、私は学級王国賛成の意見を述べました。
これは、バカと頭のおかしい人が先生をやらないという条件のもとでの話です。

私は公約数という言葉を用いましたが、公約数を守れば、それぞれの学級が学級王国であっていいという意味ですが、一応、難しい採用試験を通過してきた先生なら理解してもらえると思っています(モグリの人はどうかわかりません).

例えば、27と36の2つの数があるとします。
公約数は3、9です。
つまり、違うものがあったとしてもそれぞれに共通したものがあるという意味です。

こういう思考が通じない人がいるようです。

「ネコもイヌも人間も同じだ」

というと、なぜ同じなのだということがわからない人がいます。

こういう言い方をするとき、普通に知能がある人(つまりバカでない人)は何が同じなのかは理解して、話題は進みます。
何が同じなのかを、具体的に言えば「哺乳類」という限り同じと言えますし、家庭によっては「家のタマは家族といっしょです」という人もいます。

会話の中で「ネコもイヌも人間も同じだ」を否定する人は、何が違うと言いたいのでしょうか?
(だから、私は「何が=What」あるいは「何処が=Where」などの5W1Hが大切だと言いたいのです。

自分の吐いた言葉を振り返って5W1Hに照らし合わせて答えられるようであれば、責任のある言葉と言えるのではないでしょうか。

今日のまとめとしては「自由を獲得するには、教養人となるべきだ」と子どもに実感させる教育を推進すべきだということです。

「王国」については、続きをまた述べたいと思います。




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posted by edlwiss at 23:07 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

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