2014年04月30日

実践を通して検証する

■ジャンク箱は子どもの宝箱だった

鉱石ラジオを知っている人はどれくらいいるのだろうか?
今、子どもたちは模型を作らなくなったと言われ、模型店へは大人が行くと聞く。
模型店へ行く大人たちは、昔は鉱石ラジオを作った人たちかも知れない。

昔の子どもは貧乏だったので、その分、頭や労力で補ったような気がする。
男の子は道を歩いている時も、路上をよく見ていた。
何か価値がありそうなものを見つけると、拾って持ち帰るためだ。
廃品回収のようなものだが、拾ってきたものを売って、金に換えようと思っていたわけではない。

ラジオが欲しかったから、ただでラジオを手に入れようと思っていいたのだ。
ただと言っても、万引きをするのではない。
落ちているものを集めて、ラジオを作るのだ。
だから、男子は箱にいっぱい拾ってきたものを入れて、この箱を宝の箱のようにしていたのだ。
こういう箱を、通称「ジャンク箱」と言った。

一番単純なラジオが鉱石ラジオで、部品はコイル、バリコン、鉱石、クリスタルイヤホンの4点の部品だけで作れる。
なんと、電池はいらないのだ。

それでも、この4点が揃わないと、金の力でということになるが、わずかな虎の子の金を使いたくない。
そのころ読んだ雑誌に、大学の先生が自分の子どものころのことを書いていた。
「どんぶりラジオ作った」という記事だった。
やはり、そんなに小遣いはないので、金をかけないでと考えたあげく、どんぶりを利用してラジオを作ったということが書いてあった。
これには、大いに刺激を受けた。

■ジャンクの中から必要なものを探し出してラジオを作る

模型のキットは必要な物はすべて揃っている。
組立図、完成図も入っている。
至れり尽くせりになっているわけだ。

しかし、そういう良い環境ではなく、ゴミ箱のようなジャンク箱から必要なものを探しだして組み立てるとなれば、何がどこに使えるかがわからなければならない。

ここまで、長々ともって回ったような文を書いたのは、最近は「必要なものを探しだして組み立てる」とか「何がどこに使えるか」といった思考力が衰えているのではないかということが言いたかったからである。

■頭の中が常にジャンク状態で、しかも、とんでもないものを探し出してくる

これは、何も物を作る時そのような行動をするということではなく、考え方がそうなっているということ。
例えば、ある玩具の自動車の車輪が壊れていたとすると、車輪というだけで、どんな車輪が適しているかも考えず、自動車の車輪が必要なのに、自転車や三輪車の車輪を持ってきたりするようなもの。
ジャンクが活用できないのだ。
頭の思考自体がジャンク状態かも知れない。
ジャンクは現実の箱の中で、頭の中は全体図、完成図が入っていなければならない。
それがないから、完成品が作れないのだろう。

mukankei.jpg


■頭の中には設計図、完成図が必要


教育活動(授業)で考えてみる。
「教師は実践者でなければならない」とは、斎藤喜博氏の言葉だ。
それはなぜか?

RironJissenKensyo.jpg


授業(指導)には理論があり、実践があり、検証がある。
理論を強固なものにするには、紙に書いた論だけではだめで、理論を実践に移すための具体化が必要であり、具体化によって実践をし結果の検証をすることが必要である。

山中教授はiPS細胞の理論を考え、実験し結果をまとめて、理論の正しさを検証した。
最近、発表されたデータにクレームがあったが、研究に誤りがないことは、たくさんの実験結果によって裏付けされていることで揺るがないものだった。

小保方さんのSTAP細胞も、実践の裏付けによって正しさが証明される。

教師の実践は、よりよい教育法の完成を求めるために必要であり、多くの先生の実践と検証が貴重となる。
教師の本分とは実践者であり検証者であることだ。
斎藤喜博氏が伝えていることも、そういうことだろうと解釈している。

リコーダーに関心のある方→コリーナミュージック


教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 00:31 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究

2014年04月29日

道路は目的ではない

公共事業で道路建設はしばしば問題になる。
なぜ問題になるかと言えば、ほとんど車の通行のないところに作るからである。

道路は必要なものである。
自然災害で道路が破壊されたら、孤立する町や村も出てくる。
道路建設が問題になるのは、道路建設が目的化するからである。
道路によって物流や人の交流が行われるので、必要にして十分な道路環境は備えなければならない。

交流があるのはモノだけではない。
人と人の交流、つまりコミュニケーションは心の交流と言える。
人が集まっていても、コミュニケーションがないのは、精神的な孤立状態にあると言える。

学校においてもコミュニケーションは大切である。
なぜなら、学校の大切な機能の一つに、社会性を育てるという面があるからだ。
知識を詰め込むだけ、受験勉強だけなら一人でもできるが、社会性を育むことは一人ではできない。
コミュニケーションは、人と人をつなぐ精神的な道路のようなものである。

■コミュニケーションを作ることは目的ではないが、コミュニケーションがないとあらゆる活動は停滞する

道路族と呼ばれる議員たちを喜ばせるために、必要のない道路建設をすることは、道路そのものが目的化してしまっているからだ。
そういう場合は、交通渋滞をなくすことが目的ではないので、車は1台も通らなくてもよいのである。
道路を作ることで、道路に金がつぎ込まれること、つまり金が目的なのである。

comyunike.jpgしかし、こういうひどい有様を見て、道路建設は必要ないと考えるのも、前述したように短絡的な考えと言える。
利口にならなければいけない人間が、時に、道路がいるいらないの二者択一の短絡思考に陥っていることがある。

最近、人が集まると一斉にみなスマホを取り出し、操作に夢中になり、人同士の会話がなくなる。
その結果、自分の言葉を使って、人同士がコミュニケーションをとる能力が退化してきたのかも知れない。
とにかく、人と人が直接対面してコミュニケーションをとるという能力は落ちてきたように思うが、これに危機感を持った人から、コミュニケーションの復活というテーマが提起され議論が賑やかになる。

そして、問題はそのうちに、コミュニケーションより勉強のほうが大切だろうなんて言い出す人が出てきたりする。
部分に埋没して全体が見えなくなっているのだ。

コミュニケーションはあらゆる活動の支えとなるものなのだが、それを否定するのは、二階に住んでいるから一階は要らないと言っているようなものだ。

世の中はネットやコンピュータで進歩しているのに、人間の方は退化しているような気がする。
これは、折に触れ言っていることだが「ジュースを手に入れるには、自動販売機にコインを入れ、ボタンを押すだけの能力さえあればよい」ということで、頭を使わなくなってきているからではないかと思うのである。

自動販売機を設計し作った人は、頭のいい人で、ずいぶん考えたと思うのだが、世の中、知恵の要ることは頭のいい人が代行してくれるので、他の人は頭を使わなくてもよくなってきたような気がする。
金を払うことと、文句を言うことだけしておればいいようである。

これは、文明病かも知れない。

リコーダーに関心のある方→コリーナミュージック


教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 23:21 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2014年04月28日

手段と目的を混同するからおかしくなる

どこかおかしいと感じる文章の中には、手段と目的を混同しているものがある。
文章を推敲する時、中心となっているテーマが手段か目的かを判別してみると、おかしさの原因がわかるのではないか?

たとえば「ラーメンの作り方」という説明を考えてみる。
「よいだしをつくるために、昆布とかつお節を用意します。湯を沸かしたら・・・」
と始めたとき
「あのー、だしじゃなくてラーメンをつくりたいんですけど・・・」
と言い出した人がいたら、おかしいと思うだろう。

これは、ことをわかりやすく説明するために、ごく単純に例示したものだが、このように「部分に埋没した思考」をする人が目立つようになってきたと私は感じている。

では、なぜこういう思考になってしまうんだろう?

■分業化がもたらす人の思考への影響

社会が高度に分業化されると、人の思考もそれに順応し部分しか見えなくなってくる。
分業化は生産効率を高めるが、全体を見る機会をなくし、人は目の前のものにしか注意を払わないようになる。

米飯を食べるには、苗を作り田植えをし、草取りをし、稲を育て、稲刈り、脱穀、・・・とたくさんの過程を経なければならない。
子どものころ、食卓で米一粒を粗末にすると「この米一粒作るために、お百姓さんがどれほど汗をながしたことか」と教えられたものです。

幼い時の教育は大切なもので、今でも米一粒は気になります。
米一粒で、農業をしている農家の人の姿を思い浮かべます。

■分業化は手段である

分業化された仕事に携わっていると、任された仕事だけに集中して、その仕事が全体にどう影響を及ぼすのかを考える機会をなくしていきます。
分業化されたものが集まって、全体が構成されるのですが、全体像をイメージしないかも知れません。

ネジは小さな部品ですが、それが人の命を支えているということもあります。
そういう意味では、ネジ製作者は「このネジで人の命を支えている」という認識が必要です。

もしそういう認識が及んでいたら、ネジを作る意識も変わるでしょう。

分業化は効率的だが、心を奪いやすいという欠点があります。


■全体を見る目

全体というのは、工業分野では製品にあたります。
分業化はそれ自体が目的ではなく、手段ですから、時には「この手段は目的に叶うか」と考えてみる必要があります。


わかりやすく説明するために、モノで例示しましたが、学校においても、個々の仕事は分業であり、手段ですから、最終的に目的は何かを考えてみる必要があります。
給食室を廃止し、センター化した地域がありますが、これは教育目的からは逆向していると、私は思っています。


中学校においては、担当教科は分業であり、分業という手段の一つであるという認識を持ち、分業の集まりが目的に対してどうなのかという検討が必要です。

では、学校の目的とは何でしょうか?

それは、学校の教育目標に表れているはずです。

もし、その教育目標がわからないのであれば、工場ならば「一体、これを作って何になるんだろう?」と完成品を意識できない一労働者に過ぎないということになるでしょう。

学校の教師がそうあってはならないでしょう。

教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 23:28 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2014年04月27日

大切な情報どうでもいい情報

パソコンのトラブルで救援を頼まれる場合に、一番困ることは、大切なデータが不明な場合である。
インターネットに接続する場合は、接続情報、メールを設定する場合は、メール情報。
これらがわかっていないと、どうすることもできない。

だから、電話で連絡を受けた時、念には念を入れてこれらのデータを用意しておくように伝える。
現実はそれでも、データが不明ということが多い。
せっかく訪問したのに、どうしようもなく帰ってきたこともある。

■情報には絶対的価値と相対的価値がある

なぜ大切な情報を紛失してしまうのか?
それは、その情報の重要度がわからないからと言える。
「重要です」と言っておいても、紛失してしまうのは「重要」という言葉ではわかっても、重要さがわかっていないからと言える。

ある会社では、データを用意しておくように言っておいても、私が行ってから探し回ることになった。
探している間はインターネットがつながらないので、パートタイムで雇った人は待機しているしかなかった。
刻々と時間は過ぎていくが、会社は何もしていないパートタイマーにはその分お金は払わなければならない。
ほとんど一日をフイにしたわけだが、それで、経営者はことの重大さを身に染みて感じたらしい。
はじめて、重要さがわかったのである。

大切と言われても、興味がない、関心がないから管理がずさんになると言える。
大切なデータでも興味がない、関心がないデータは、その人にとって相対的価値が低いと言える。
しかし、大切なデータは絶対的価値があるものとも言える。

ダイヤモンドやルビーなどの宝石は、宝石が好きな人にとっては価値が高いのだが、宝石に興味のない人にとっては価値が低い。
これは、相対的価値の問題だ。

ところが、ダイヤモンドは硬度が高く、金属の研磨に使われたりする。
こういう意味では、ダイヤモンドは絶対的価値があるわけだ。

一般的に「大切」と言われる場合は「絶対的価値」を示している場合が多いので、自分の興味・関心に関わらず保管は厳重にしなければならない。

最近は、こういう絶対や相対のメリハリのない人がいて、驚く人がいる。
自動車運転免許証の期限切れの人がいた。
(1年も経てば特別な事情のない限り、失効する。)

■パソコンのインターネット接続、メール設定に必要な(大切な)データ

パソコンを例に出したので、インターネット接続。メール設定に必要なデータを記しておく。

router_settei.jpg


【インターネット接続】
アカウント
パスワード
DNS

【メール設定】
受信サーバー
送信サーバー
アカウント(メールアドレス)
パスワード

教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 18:12 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2014年04月26日

活躍するGoogle Earth

英語はそれ自体が目的ではなく、手段である。
英語クラブでは、ヒアリングは出席した時に新しい話題を聞くことになる。
その後、1週間前に送られてきた英文の朗読と訳の勉強をする。

よく「中学程度の英語ができれば」ということを聞くが、ヒアリングも訳も国際的なニュースや科学的の技術などがテーマになるので、とても中学や高校程度の単語では足らない。
英字新聞を読む程度といったぐらいだろう。

聞き取り自体ができても、一体何のことを言っているのかピンとこないこともある。
そんな時、外人がいると説明してくれるので、助かる。
文字がわかっても、文化や生活がわからないと、しっくりしないことがたくさんある。

先日は東芝の技術漏洩事件を、外国の放送局が流していたものを聞いたが、NAND型フラッシュメモリと言っても、それだけではピンとこない人もいる。
こんな時は、いろいろな専門家が集まっているので、わかる人がホワイトボードやPowerPointを使ったりして説明する。

話題は日本国内のみに留まっていることは少ないので、いつも地図を持ってくる人もいる。
海外勤務を経験した人も多いので、その人に海外の経験を話してもらうのだが、最近ではGoogle Earthが活躍する。

ノートパソコンを持っている人は多いが、ネットにつなぐ手立てまではなかったところへ、私がモバイルルーターを持っていることで、ネットも活用できるようになった。
最近はネットのスピードも速くなったので、Google Earthも快適に動く。

教科書のタブレット化を推奨している人がいたが、児童・生徒ひとりひとりにタブレットを持たせるより、教師がタブレットを使って、Google Earthを表示したり、検索や教材提示に使った方がよいと思う。

もっとも、もうGoogle Earthはよく知られた存在なので、社会科の教師なら使っている人も多いだろう。



学校側が用意してくれなくても、自分でタブレットぐらい用意して、教室のテレビを使って表示したらよいのではないかと思う。

教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 22:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2014年04月25日

必要な情報どうでもいい情報

市場に出る製品は、検査を経て店頭に並ぶ。
車に例をとってみると、メーカーは数々のテストを行って販売店に出す。
それでも、客が購入して実際に走行してみないとわからないことがある。

欠陥が生じないように、メーカーでは相当に厳しいテストを行うのだが、それでも、報道されるようにリコールが発生する。
だから、ユーザーの使用による走行データは、メーカーにとって貴重なものとなる。

こういうことが、実践が大切という根拠になる。
学校という教育現場でも同じである。

いろいろな場面を想定して、教育計画を立てるのだが、実際にやってみないことにはわからないことがある。
それは、教師の指導力をとやかく言うのとは別次元のことである。

そもそも、指導力を問題にしたところで「指導力」という抽象的な言葉一つで、教師の能力を問うのはアバウト(大雑把)過ぎる。

「エンジンの力がない車は快適には走れません」というような一般論は価値ある情報とは言えない。
同様に「指導力のない教師は子どもの能力を伸ばせません」と言ったところで、これが何の役に立つのかということ。

私はある時期、車の快適性を求め、排気量を大きな車にしていく時期があった。
最高4000ccまで行った。
それは、10年以上も前の話だが、最近1500ccの車を買った。
そんなに力がなくても、スーパーに行く程度だからその程度でいいだろうと考えていた。
ところが、実際乗ってみると、想像に反して力不足という不満はない。
技術の進歩で、今やかつての排気量のイメージとは違うのである。
そう言えば、ディーラーは「力が不足ということはないと思いますが」と言っていた。

先入観で、大丈夫かなと思った教師でも、実際に授業をやってみると、なかなかいいじゃないかということがあるかも知れない。
だいたい「指導力」って何だろうと思う。
誰が指導力という抽象的な能力を評価するのか?
「オレが評価する」では不遜過ぎるだろう。誰か、その評価者を審査員として認めているのか?
それとも、勝手に審査員?

戦時中の有名な零戦は「格闘性」が優秀と評価されていた。
「格闘性」とは何だということになる。
「指導力」と同様、抽象的な言葉だから。

だが、格闘性とは、戦闘機のスピード、航続距離、旋回性能、など個々の性能を比較して大したことはなくても、いざ実践になると他の戦闘機を圧倒して優位に立って、負けないということだそうだ。
では、指導力はどう分析するのだろう?

とにかく、実践前にあれこれ言っても始まらない。
それより、どういう先生が、どういうものをどんな条件で実践してみたらどうなった、というデータが貴重なのだ。

一般論がムダとは言わないが、一般論しか書いてない文はどうでもいい情報である
簡単な指導でもいい、実践記録が貴重なのだ。

こんなことは、私があえて言う必要もなく、現場の先生には周知のことだろう。
だから、自分の実践を語ることができない人は、実線をしていないからと言えるだろう。

科学で定理を確立するには、たくさんの実験資料が必要である。
教育分野も同様、定説を確立するためには、実践のデータの収集が大切である。

自動車が街を走ると事故が起きます。事故が起きると犠牲になる人がいます。それで人を不幸にします。
のような情報はまったくどうでもいい情報である。

ネットには情報があふれているが、玉石混交なので、必要な価値ある情報だけ収集する必要がある。

教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 20:41 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2014年04月24日

今の子どもたちは幸せだろうか?

ふと、頭にこんなことが浮かんできた。
と言うのは、今自分が子どもだったらと考えると、嫌な時代だと思うからだ。

何が嫌かって?
何か窮屈に感じるんですね。
のびのびと生活できないような気がする。
変な大人もいる。
先生も変な人がいる。
変と言っても、狂ってなければいいんですが、どうみても「頭がおかしい」という人がいることです。

自分の子ども時代を振り返ってみても、いろいろな先生がいたが、狂ったという感じの人はいなかった。
怖い先生もいた。でも、先生ということで尊敬できる存在だった。
個性的な先生が多かったと言った方がいいだろう。

また、大人という感じを持っていたが、このごろではまだ大人になっていないのではと思う人もいる。
これは、先生に対する否定的な感想だが、すばらしい人もいないわけではない。
しかし、すばらしい人は、概して地味だし、本人も目立とうとしない。
目立とうとしないのは、謙虚だからかもしれない。
勉強している人は、自分の前に立ちはだかる問題を感じて、自分の頭の悪さを感じてしまうからかもしれない。
実際は頭が悪いわけではない。
だから、あんなにすごいのに頭が低い、と見えるのだろう。

こう考えてくると、目立ちたいという気持ちがみえみえ、要するに自己顕示欲が強い人、得意になって上から目線で話す人は中身がうすいのではないかと思う。
「実れば実るほど 頭を垂れる稲穂かな」に通じるところがある。
「能ある鷹は爪を隠す」にも関係あるだろう。
何でも知っているように口を出してくる人は、逆に何にも知らないのだろう。
こういう人とは距離をおくべしと心得ている。

話が脱線した。
「今の子どもが幸せなのだろうか?」というテーマだった。

時代も違うのだが、自分の子ども時代は小学校でも中学校でも、思い切り遊んだ。
いつも、今日は何をして遊ぼうかと考えていた。
学校から帰れば、すぐカバンを放り投げ、みんなが集まるところへ遊びに行った。
暗くなってくると、親が「ごはんだよ」と呼びにきた。

川で釣りをしたり、鮒(ふな)、鮠(はや)、どじょう、なんと鰻もつかんだ。
夏は夏休みになると、毎日、海に泳ぎに行った。

お金はなかったけど、今では料亭で出る蟹などつかみ取り、あさりのシーズンは、あさりがよくとれて「また今日もあさりのみそ汁?」というぐらい。
あさりをとっていて疲れると、石にびっしりついている牡蠣(かき)を割って食べた。
泳いで海から上がるときは、岩の上から上がるとウニを踏みつけて、足にいっぱい針が刺さって困った。

お金はなくても、自然が豊で、今は高価な海、山の幸も「拾ってくる」「手づかみ」という感じだった。
夏は家の近くで蛍も飛んでいた。

昔を思い出すと、思い残すことなく思い切り遊び、自然に恵まれ、その頃はそれが当たり前の生活で、感動なんてなかったように思うが、今となっては「なんて、幸せな生活だったのだろう」と思う。
勉強と言えば、授業だけという感じで、試験とか入試など頭にない生活だった。

それに比べると、今の子どもは窮屈でかわいそうな気がする。
大人が、先生が何か型にはめようとしているのではないか?

こう考えたとき、頭に浮かんだものがある。

■子どもはインスタンスか?

インスタンスとは、プログラミング用語(オブジェクト指向プログラミング)で、簡単に言えば右のたいやきのようなものである。tai_ss.jpgたいやきには型があって、そこに薄力粉やあんこなど材料を積めて焼くと、同じようなたい焼きをたくさん作ることができる。

オブジェクト指向プログラミングは、プログラミングの効率化とバグ(プログラムのミス)を少なくする目的で考えられたもので、たい焼きの型に相当するものをクラスという。

たい焼きも型がいろいろあって、型で違ってたい焼きができる。中身のあんを変えたりして多少アレンジは出きるものの、所詮、型にはめたものだ。

今の教育は、子どもをたい焼きの型にはめ込んで、本来、人間の生理に合わないものを無理やり作ろうとしているところはないかと思うのである。
プログラミングはインスタンス化で、進歩したが、生きている人間をインスタンス化するのは不自然な感じがする。

私は子どものころ、勉強ぎらいと思っていた。
テスト勉強もあまりせず、高校入試も急に受けるように言われたので、ほとんど受験勉強をした覚えがない。
大学入試でさえ、片親だったので、就職を考えていたところを、受験の三カ月前ぐらいに願書を出したぐらいだから、いわゆる受験勉強に縁がなかった。

これが、かえってよかったと思う。
それは、受験勉強に巻き込まれなかったおかげで、勉強ぎらいならなかったということだ。

大学に入ってからは、よく本を読むようになったのだが、こういう勉強は受験勉強とは違う。
私は、実は勉強嫌いではなく、勉強好きなんだと思うようになった。

近年、勉強とは受験勉強なのだという錯覚が定着して、子どもを勉強嫌いにしているのではと思うことが多い。
学校ですら、ペーパーテストで点数を上げるための訓練を勉強と錯覚して、何の疑問も感じないのではと思うことがある。

「勉強なんて好きな人はいません。でもやらなきゃしょうがないんです」
との中学校の学年主任の言葉は、いかに学校が学習塾化して何も疑問を持たないことをよく表しているのではないか。

たい焼きの鯛(たい)を、海で泳いでいる鯛と思う人いないだろう。
でもたい焼きを「鯛」と言って売るように、学力を測っているのかどうかわからないのに「学力テスト」と言っているのは同じようなことのような気がする。

そういえば、どこかの国の外人が「わずか1日の紙のテストで学力が測れるのですか?」と言っていた。

教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 22:03 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2014年04月23日

嫌な人と我慢してつきあう必要はない

「お世話になります、食事をおごらせてください」と言われ、それではお言葉に甘えようと思った。
そうしたら、次に「ところで、クーポンをお持ちですか?」と言われた。
初対面でお世話になる人に、クーポン券をお持ちですかと聞いて、少しでも経費を節約しようとする魂胆だ。
それで「お世話になります」とお願いする気持ちが伝えられると思っているのだろうか?

私はお金持ちではないが、人に感謝の心を伝えたいとの思いで、ご馳走させてくださいという時は、相手にケチという気持ちを抱かせたくない。
こういう私の心はおかしいのだろうか?

私は見栄を張りたいのではない。
自分の小遣いを節約しても、相手には豊かな気持ちになってもらいからだ。
これが、私が親から受けた教育とも言えるだろう。

クーポンのことで、私の心は冷えてしまった。

何か変だと思っていたら、パソコンの修理の時、また「何か変」という気持ちになった。
パソコンを仕事で使っている人にとっては、一時も早く復旧を待ち望んでいるものだと思う。
だからこそ、少々無理をしても早く直してあげようと思った。

ビデオカードを入れ替えて、約5000円かかった。実費(部品代)である。
パソコンが復活すると、依頼者はたいそう喜んだ。
「ありがとうございました。ところで、よろしかったら昼食いかがですか?」
と言われた。
それで、レストランへ一緒に行くことにした。

食事が少し進んだとところで
「じゃあ、今日の修理代をお支払いをします」
と言われた。
次に
「それでは、食事代850円を差し引いて、4150円、はい」
と言われた。

私としては食事はおごりだと思っていた。
そういう私の心が卑しいのだろうか?
気分はよくなかったが、修理をしてもらったから、昼食代ぐらいおごらなければいけないというきまりはないから文句は言えない
このような経験は私としては始めてだった。

この人は、時々、トラブルを解決するために「○月○日はお時間の都合つかないでしょうか?」とよく連絡してきた。
「5時ぐらいからなら、いいと思いますが」
「じゃあ、お願いします」

当日、1時間ぐらい前に電話をすると
「わたし、今日は忙しいです」
と言う。
申し訳ありませんとも、何とも言わない。
こういうのを、ドタキャンと言うらしいが、ドタキャンが1回や2回ではない。
(この人は、ドタキャンしたために、相手の予定にポッカり穴が空くことを何とも思わないらしい→だんだん、地球外から来た生物のような気がしてきた)

私は自分のことは後回しにしても、人の困ったことをなるべく優先してあげようという気持ちを持っている。
どうしてそいう気持ちになるかと言えば、親がそうしてきたし、それが私にもうつっているからだ。
自分をよく見せようなどという気持ちは全くない。我が家の家風がそうだったから、それが私としては普通の生き方なのである。

だから、今日の例のような人とつきあうのは気分が悪い。
別に、人に何かをしてあげたから、昼食を期待しているというものでもない。

人生は限られている。
嫌な人との時間を割くのはもったいない。

もしかしたら、すでに、地球はエイリアンに侵蝕されつつあるのかもしれない。


教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 21:49 | Comment(4) | TrackBack(0) | 人生

2014年04月22日

きまりを守る守らないの論議

電車に乗るときは、降りる人が先でなければ「いけない」のか?
お年寄りには席を譲らないと「いけない」のか?
赤信号では、止まらないと「いけない」のか?
それは「きまり」なのか?
これらの質問(疑問)に対して、人はどう答えるのだろう?

kimari.jpg私が問題と思うのは「きまり」という広い意味の言葉で、何でも片付けてしまおうとする姿勢である。
一体、きまりとは何かと考えたとき、自分なりに分析してみると、右図のようになるのではないかと思う。

つまり、一言できまりと言っても、最も厳格な「法律」から、学校や企業など団体内で決める「きまり」や習慣としてのきまりである「ならわし」に次いで「礼儀」もきまりのうちだろうと思う。
混乱するのはこれら全てを含めて「きまり」と言っている場合があること。

きちんとした話し合いをしたい場合は、これらの「いくつかのきまり」のうち、どのきまりのことを言っているかを明確にする必要がある。
もっとも、自分の言い分をあえて曖昧にするために、はっきりさせない人(これは性格が悪い)やはっきりする能力に欠ける人がいて、話し合いが進展しない場合がある。

「今年の入学式は・・・のようなやりかたで行いたいと思います」
と提案された場合は、きまりを変えたいということである。
きまりは変えられると言える。
だが、入学式のやり方を変えるというのは、形式を変えるということであり、法律を変えるというのとは意味が違う。
ところが「きまり=形式、形式は変えていい」という論法で、自分の勝手な思い(都合)で変えていいとする人がいる。
これは、二つの意味で間違っている。その二つとは以下である。

1.図示したように「きまり」と言っても、どの部分のきまりなのかを区別していない(できないのかも知れない=はやい話がバカ)。
2.逆は真とは限らないという初歩的な知識に欠けている。
例えば「リンゴは果物である」は正しいが「果物はリンゴである」は正しくない。

ひとことで言う「きまり」が区別できないのは、赤と言ってもいろいろな赤があるのに区別できないようなものである。
こういう思考しかできないのなら、思考が非常に単純であるということ。
単純思考しかできない人が、見栄をはって複雑な問題に介入するから、他人に迷惑をかける。

たとえば、チラシ(広告)を何色でやるかという話をしていたとき、横から口を出してきた人がいた。
「何色といっても、基本的には三色しかないんです」
と、いかにも自分は色彩について専門的知識があるという口ぶりだった。
何色で印刷するかというのは、その手の話ではない。
しかし、横槍を入れた人のプライドを傷つけるのはまずいと、一同は思っていたので、その人の話をみなは黙って聞いていた。

きまりは人々の生活に支障のないようにするために、なくてはならないものもある。
「人は右、車は左」のようなものである。
「挙手をするときは、75度の角度で」なんてきまりは、どうでもいいと思う。
問題は、この二つの種類のきまりの区別ができない人がいること。

沖縄は日本に変換されたとき、道路交通法を日本国に合わせるために、車は右側通行から左側通行に変えられた。
このように、きまりは変更が可能なものである。
しかし、変更が可能だからといって「変更できる」というところだけをとって、自分の都合で変えてもいいと解釈する人がいる。
きまりの変更は可能だが「手続きを経て変更可能」という「手続き」が欠けてはならない。

きまりが変更になったら、以後は新しいきまりで行うのは当たり前だが、信じられないことに、依然として古いきまりが有功と思っている人がいるらしい(はっきり言って、これも「頭がおかしい」か「バカ」である)。
消費税が8%になったのに、店で何か買ったとき、5%でなければおかしいと文句をつけているようなものである。

今、よく話題になる憲法改正の問題は、最も変更の難しいきまりだが、一人で簡単に変えられるきまりもある。
それは、サッカーや野球など監督が変わったとき、監督のやり方で戦略や練習方法が変わる場合である。
当然、新監督の決めたきまりに従うのは当たり前だが、これを「きまりを守らなくてよいと教えた」という人は(頭が)おかしいのだろう。

学校は新学期になって、子どもや保護者は担任がどんな人か関心があると思う。
私が小学校に赴任しているとき、保護者の雑談で偶然聞いてしまったことがある。
小学校2年生の保護者だった。

「ウチの子ねえ、怖そうであの先生だったら嫌だと言っていたんですよ。でもね、実際、担任になったら、とても優しくていい先生って喜んで通っています」

みかけとか噂と一致しない場合がある。

いい教育をやっていても、必ずしも評判はよくないということもあるが、噂を気にせず誠実に務めることが先生としては最も大切だと思う。
先生の評価はテレビドラマとは違う。

しかし、誰にも言えることは、今日の記事で書いたように「きまり」に対して正しい認識を持ち実践することだと思う。


教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 22:25 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2014年04月21日

自分の行動は自分の主張である

妄想よりドキュメンタリーの方が説得力がある。

自分の子どもの入学式を優先し、自分の勤務校の年休をとった教師のことが話題になっている。
これをいいか悪いかと言っても、白黒はつかない。
法解釈によってはっきりできることなら決着がつくが、この件についてはそうもいかない。
何も法令違反はないからだ。(もっとも、誰かが訴訟を起こせば別だが)

教師の年休は「公務に差し支えない限り」ということで許される。
と言うことは、校長が公務に差し支えるとは判断しなかったわけだ。

たとえ、教師本人が自分の子どもの入学式に出席したいと申し出ても、校長が許可しなければ、年休はとれないから、話題にもならなかっただろう。
だから、校長が許可したことで、この学校の教育方針を現実の行動で示したわけだ。
道徳教育は美辞麗句を言うことではなく、実践が大切という考えにたてば、この学校がこういう道徳を実践してみたことになる。

子どもに対するインパクト(影響)は、教師の外形的な言葉ではなく、教師自身の行動であると思う。
「他人を思いやる心が大切です」と言った場合、今回の教師の行動とは矛盾していないか?
「自分と他人のどちらを優先すべきか」と言った場合、今回の教師の行動はどちらになるのか?

どちらにしても、いい悪いの問題ではない。
その行動が、教師の主張である。
おそらく、子どもたちには「自分のことと、他人のことが搗(か)ち合った時、ウチの先生は自分を優先するのだ」という強烈なメッセージを与えたことだろうと思う。

だから、今後は他人を思いやるなどというポーズをとらないことだ。
教師としていう言葉を、心なく言ってもおかしくなるだけだ。
校長もしかりだ。

公園のベンチに座って弁当を広げた時、隣の人が腹をすかしていたら、自分だけ食べるわけにはいかないと思うかどうか。
自分だけ食べていても、誰に文句を言われるということもない。
しかし、人によって、隣の人にも分けてあげなければ気がすまない、という気持ちはどうして起こるのだろう?

これは、道徳の授業で習ったからということではないと思う。
親(大人)からどれだけ愛情を受けて育ったかの問題だと思う。

教師からどれほど愛情を受けて育ったかは、やがてその子どもたちの行動に出るのだろうと思う。

今日の教育がおかしいと思う時は、教師の授業で言う言葉と教師の行動が一致しない時だ。
でも、心にもないことを言わないと、研究授業の反省では叩かれることになる。

かくして、子どもが学習して身につける処世術は、教師の前だけ恰好をつくるということになる。

おそらく子どもたちは、教師の言行不一致がふつうと思っているのではないか?
その証拠に、言行一致の教師がいると「変わった先生」「珍しい先生」という評判が立ったりする。これは残念なことだ。
皮肉なことに「道徳の研究校になると、非行が増える」という言葉と重なってしまうような気がする。

私には自分の子、他人の子という区別はない。
恰好をつけて言っているのではない。
まあ、そう言っても、ほとんどの人は信用しないかも知れないが、私がなぜそう言えるのかといえば、私自身が実の親に育てられなかったのだが、その実の親でない人が、実の子ども以上に愛情を注いで育ててくれたからであると思う。

私がすべての子ども、逆境にある子どもに心が動くのは、私自身の心がそうしているのではなく、育ての親の心が私を動かしているような気がするのである。

他人の子を放っておいて、自分の子のもとに走った人と、私とはずいぶん育ち方が違うように思った(私の方がいいと言っているのではない)。
私の育ての親は、よく「よその子どもに・・・」という言い方で、子どもを分け隔てなく大切にするように言ったが、その言葉には説得力があった。なぜなら、親自身が実践していたからだ。
重ねて言うが、いい悪いの問題ではなく、心の問題、感じ方の問題だ。

もう一つ気になるのは、年休をとって入学式に参加してくれたということで、その子どもは親に対してどういう感情を持つのだろうかということ。

「お父さんありがとう?」
「お父さんのバカ?」

教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 17:06 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題

2014年04月20日

日本列島危険地図―物質文明が抱えるもう一つの現実

kikennchizu.jpg私はこの本を20年前に買った。
そして、この本の著者が懸念することが起こらないようにと願った。
しかし、今、願いは叶わなかったことが証明されてしまったことが残念でならない。
なぜ、人はかくも愚かなのかと嘆かざるを得ない。
いや、賢明な人はいるのだが、世の中は悪貨は良貨を駆逐するのように、愚人が賢者を駆逐している。

時間は後戻りできない。
だから、これから愚人によって引き起こされるかも知れない愚かなことを防ぐことに、知恵を注がなければばらないだろう。
再び同じ事故が繰り替えされたら、今度は日本の国全てが人の住めないところになるかも知れない。

歴史は繰り返すと言われるが、また大本営発表の状態かもしれない。

日本の放射能汚染の程度は本当はどうなのか?
諸外国はどう見ているのか?

脱原発@中部
世界が批判する日本原発の正体

教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 21:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治

2014年04月20日

教育改革と悪知恵

今日のNHK日曜討論は教育改革がテーマだった。
各党の教育担当者が出席して、討論が行われた。

各党の案をもとにした意見の対立があるが、結局、満点という案はないというのが、私の感想である。
その理由は、これまでの経緯を見る限り、どこかに抜け穴があり、悪知恵が働くからである。

いくら組織を変えても、本気で教育に取り組もうとする人が、教育関係者とならない限り、誰かが悪知恵を働かせて教育を形骸化する。
教育が他の行政分野と大きく違っているのは、対象が子どもであるということ。
子どもは弱い立場であるので、権利や不正の訴えが通りにくい。

日本の政治は、外国からも年寄りと子どもに冷たいと言われている。
これは、伝統として個人より組織を守るという風潮が強いせいではないかと思う。
(今話題のSTAP細胞もも、個人より組織を守るという方向に働いていないか注視していきたい)

子どもを守るのは第一には保護者なのだが、教育現場にいるわけではないので限界がある。
そうすると、子どもの立場を守らなければならないのは、現場の教師なのだが、その教師がヒラメ(※1)であったり、子どもを守るという正義感、情熱がなかったなら、誰も子どもを守る者がいないということになる。

※1
最近は、ヒラメ教師って何ですかという人が増えてきた。魚のヒラメは目が上についていることから、出世(上)ばかり考えて(見て)、教育に熱心でない教師が昔からヒラメ教師と言われてきた。


教育改革で最も大切なことは、本当に教育をやる気のある人材を教育関係に集めることだ。
難しいことだろうが、こういう方向を探らない限り、教育改革は表紙だけ変わる月刊誌と同じである。

教育を本気でやる気のない人は、立場の弱い子どものいる現場を好み、つまらない出世欲を丸出しにする。
出世欲を満たす常套手段は、プレゼントである。
プレゼントに弱い役職者も問題であるが、汚職にもつながるプレゼントは法的に厳しくすべきである。
(「500万円で校長を買った」などと言う噂が出ないようにしてほしい)

プレゼントは内緒で行われるのだろうが、そんなことは学校関係者の間では筒抜けになっている。
ただ、自分が密告者と言われたくないため、密告したところでかえって干されることを恐れて黙っているだけだ。

プレゼント(接待)がかなり公然と行われ、そういう習慣に麻痺していて、不祥事として全国的に話題になった大分県の例を忘れてはいけない。
(もちろん、もっとガードを固めろという意味ではない)

本日の日曜討論でも、大津のいじめ事件が冒頭に出てきたが、道徳の研究校でいじめが起き、そこに務めていた校長が後に教育長になったというのは、教育界が教育的でないことを証明したようなものである。

ヒラメ体質をなくすと同時に、年間5000人を越す教師が精神を病んで休職中というのも問題だ。
休職してしまっている人はまだいい。もっと問題は予備軍である。
どうみても、やっていること行っていることが、おかしいと思われる人には、子どものいる現場におかないことも大切だ。
私の知っている人で、とてもまじめな人が教師になったことがあるが、彼は学校現場の忙しさと、子どもの生活指導に悩んでおかしくなってしまった。
教育委員会は人事異動で、事務専門にした。その後、彼は本来まじめな人柄であったので、几帳面な人柄が仕事ぶりに反映し信用を得た。

また「おかしさ」のせいで、授業が授業にならず生徒は毎時間勝手に自習をしているという状態もある。

「最近変な人が多くなっていないですか?」の言葉も聞かれるが、ストレス社会がそういう傾向を高めているのかも知れない。
「あの人、ウチの病院に入院している人よりおかしいよ」と言われる人もいる。

「感動は心に悪い」などと言う人が、大学で教員養成をやっているのもおかしい。
(もっとも、そういう指導の中で、どのくらい教員養成ができるのか未知数だが)

いずれにせよ、子どもを取り巻く環境の改善が急務だろう。

制度をいじるなら悪知恵が働かないような制度を考えてほしい。


教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 18:03 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育問題

2014年04月19日

日本は民主国家ですか?

権力を持つと腐敗するという言葉がある。
革命が起き、国民の圧倒的指示を受けて成立した政権も、長期政権になると腐敗が進み国民の不満が高まる。
腐敗の実態は蓄財だ。
最近起こったウクライナの政変も、ヤヌコビッチの蓄財だった。
国民から集めた税金で豪邸を作り、屋敷内には動物園もあった。
北朝鮮は伝えられているように、金政権の独裁で国民の税金のかなりの部分が、金正恩の懐に入る。

では、日本は主権は国民にあって、世界の国々から見たらかなり民主化の進んだ国と言えるのだろうか?
民主化の程度を見る目安としては、税金の流れを見ることでわかると思うのが、私の考えだ。
税金は民主国家においては、行政の経費を除いた分はすべて国民に還元されなければならない。
図に示すと、権力腐敗の進んでいる国ほど国民への還元率は低いと言える。

ウクライナの崩壊したヤヌコビッチ政権や北朝鮮の金政権ではかなりの税金は、国民に戻らない。
では、日本はどうか?
日本の1年間の総支出は220兆円はあるはず。
しかし、国権の最高機関である国会で審議されれているのは、平成25年度では95兆円だった。
残りは霞ヶ関の官僚の手に握られているので、日本も税金の還元率は50%にも満たない。

本来、税金の高い低いは、還元率さえ高いのであれば問題ではない。
税金が高くても、学校給食はすべてタダとか、公共交通機関もタダとか、個人で払うものが税金で賄ってもらえるなら問題ない。

復興資金のために所得税を納めることになったが、何%が復興に当てられているのだろう?
ことあるごとに、理屈をつけて金を巻き上げるのは、子どもが「参考書のお金がいる」とか言って、親にお金をねだり、実際はゲーム使っていたに似ていないか?

kennryokufuhai.jpg


教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 22:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治

2014年04月18日

なぜサルにもわかることができないのか?

安倍政権は当初の計画どおり政策が進んでいるのだろうか?

教育に力を入れるとの意気込みがあったと思うが、道徳の教科化を打ち出したことが印象深い。
どの程度報道されたのか、私は知らないが、安倍総理は教育予算がOECD諸国の中でも、日本が低いことを気にしていたようだ。

■教育への公的支出日本は最下位
安倍内閣が6月14日に閣議決定した「第2期教育振興基本計画」では、教育予算の「OECD諸国並みを目指す」という文言の掲載が見送られている。財政健全化を優先したい財務省が「子ども1人あたりでは見劣りしない」と主張し、結局「OECDなど諸外国の教育投資の状況を参考」との表現にとどまった。
安倍総理は、せめてOECDの平均まで高めようといういう意向であったと言うが、結局、財務官僚の抵抗に遭い断念せざるを得なかったということだ。

■本当に日本の将来について考えている人がいるのか?


大企業になると、資本の規模こそ大きいが、経営陣がしっかりしていないと、就業率が悪化し利益が低下したり、ひどい場合は倒産に至る場合もある。
それは、個人の影響がどの程度会社に及ぶのかという実感がわかりにくいせいで「自分一人ぐらい」という気持ちが湧きやすいからと言える。

だから「会社は損をしても自分の利益が大きくなればよい」という考えの人が出たりして、損をすることがわかっている取引でも、相手の会社から袖の下をもらって、決済してしまうと言ったことも起きる。

会社に100億円の損失をもたらしても、個人としては内緒で1000万円をもらっていたということもあるのだ。
だから、こういうことを防ぐために、刑法に背任罪(247条)がある(五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金)。

日本国を一つの企業として見たとき、背任罪にあたる人はいないのだろうか?

■日本の財政破綻は?

95兆円の一般会計のうち40兆円が国債である。
一般家庭なら、年収300万円ではやりくりができないので、毎年200万円ほど借金をしていることになる。

それで、支出は押さえられないかという話になるのだが、人と話をするときよく出てくる話題は、医者に行くと多量に薬をもらうということだ。
薬が余ってしまうので、他人に半分あげたなんて話も出てくる。
病院が年寄りのサロンになっているとは、もう10年以上前から言われ続けてきたことだ。

こういう話を聞くと、医療費はもっと節約できるのではないかと思ってしまう。
なぜ医療費は下げられないのだろう?

結局、必要のない薬代を下げようとすると、どこかの団体からの反対が起こる。
こうしたことに、政治は弱腰だ。

保険料を収めているから、安心して医者にかかるのだろうが、今、国のやっている保険は保険の体(てい)を成していない。
民間の保険会社なら、採算が合わないので倒産してしまう。

民間の保険は保険の使い過ぎを防ぐために工夫をしている。
自動車保険なら、1年間無事故だったら次の年の保険料は割引になる。

国の健康保険も、1年間使わなかったら、保険料を安くするようにしたら、これだけで医療費はずいぶん違ってくるものと思われる。
国民は、もっと健康に気をつけるようになるのではないか?

さらに、労働人口が不足すると言っているが、雇用の年齢条項をアメリカのように廃止すればいいだろう。
アメリカでは雇用における年齢差別禁止法 (ADE) によって、年齢差別が 厳しく規制されている

健康で働く意欲のある年寄りはたくさんいるような気がする。
年金受給者の収入制限も廃止するなど、働きたくても意欲をなくすような法律は廃止し、働けば年寄りも収入が増えるような政策にするなどして、健康なら何才でも働けるようにすれば、労働人口も増えるのではないか?

昔と違って、体力を要する仕事は減ってきているので、年齢は高くてもできる仕事は多い。
それに、仕事がなくなるから、老化が早まるとも考えられる。

こうした、政策は、私が言うまでもなく、中央の方々には十分わかっているだろう。
だから、サルでもわかると言いたいのだ。

日本という会社の経理を官僚たちは、どう考えているのか?
まさか、こっそり蓄財をしているのでは?
そんなことがあれば、背任罪と同じだ。


教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 22:56 | Comment(2) | TrackBack(0) | 政治

2014年04月17日

作文そのものがお手本

新年度が始まって、子どもたちは新しい環境になれたころだろうか?

子どもたちは学校に行けば、先生に会えるので、先生の性格はわかるが、保護者はそうもいかない。
でも、最近はブログを書いている先生もいるので、それが先生を知る情報源になる。
ある中学校では、自校のサイトに各先生のブログのページを作っていた。
それは、先生にとっては、自分の考えを伝える手段になるし、保護者にとっては、あまり面識のない先生を知ることもできるものになる。

そういうブログの、もうひとつの大切な側面と思うのは、先生の教科が何であるかに関わらず、先生の書く文章はそれ自体が子どもにとってお手本になるということだ。

私は国語の先生ではないので、作文は苦手でなどと言う言い訳は通用しないと思う。
先生にとっての作文とは、文法上の間違いがないこと、言葉の意味を正しく使っていることは、基本中の基本だが、文章を通して伝えようとしている自分の考え方が常識からはずれていないこと、独善的でないことも大切だと思う。

説得力のある作文は、一つ一つの文章が読み手を納得させるものでなければならない。
例えば「日の出の太陽は東の空から上がります」というのは誰もが納得できる文章であるが「歯のいい生徒は頭がいい」と書けば、どれくらいの人が納得するだろうか。

「そうかあ?」とか「そうとは限らないだろう」と思わせるような文章は、その時点で読み手に不満の気持ちをもたらす。
意図的にそう思わせるなら別の話だ。

「その根拠は、歯のいい生徒1万人を調べたら、よい成績との相関が高かったからです」
と説明し、具体的なデータを示したりすることが必要だ。
そうすれば「なぜ歯がいいと成績がいいのだろう?」と考えが深まり、話に説得性を持つようになるだろう。
だから読者を「おや?」と思わせる文章を書いたら、根拠も書く必要がある。

日頃、言い尽くせないことをブログに書いておくことは、自分はブレのない考えを持っているとの証明になる。
しかし、気をつけないと「この先生おかしいのでは?」と思われる危険性もある。

もっとも、ブログはそういうおかしい人を発見するのに役立つと思えば、便利なものと言えるのかも知れない。

ブログに限らず、作文を書いてそれが各家庭に渡るような「通信」でも同じだが、事件が起こると「窓口を一本化して」などと、つけ入れられるスキを防ぐためと言うのは論外だが、常識外れではないかをチエックするためにも、なるべく多くの人の聞くようにしたいものである。

初めの方の「歯のいい生徒は頭がいい」と大勢の生徒の前で話した先生は、ことあるごとに話の種になり、笑いを誘っている。

変なこと(変人)で有名になりたくないものだ。

「そうなの?」「そうとは限らないのでは?」の書きっぱなしで終わっていないか、改めて気をつけたいと思った次第である。


教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 22:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究

2014年04月16日

ホッとする合唱

学校には合唱部、吹奏楽部、オーケストラなど音楽の部活動がある。
それらの、多くはコンクールを目指して練習している。

全国大会の演奏を聴くと、さすがによく練習してあると感じる。
しかし、全国大会の演奏を聴いていいと思うかどうかは別の話である。
というのは、私はCDやレコードを多数所有しているが、コンクールの録音は少ない。
少しは所有しているが、ほとんど聴くことはない。

それはなぜかとと言うと、疲れるからである。
コンクールの演奏は、うまいかと言われたら、うまいと答えることになるだろうが、あまり聴く気にはならないのは、疲れると言うこと。

次のような演奏は聴いていてホッとする。
コンクールの演奏は、なかなかこうはいかない。



なぜホッとするのか?
ひとことで言えば、力みがないということになるか?

■音楽がわかるとはどういうことか

音楽の知識が豊富だと、音楽がわかるかと言えば、そうも言えない。
確かに、知識が多いと、和声とか構造とか形式などはわかるだろうが、それが、音楽がわかったことにはならないと思う。

音楽がわかるとは、感性の問題で、心に響くかどうかだろう。
だから、何も知識はなくても「いいなあ」とか「すきだなあ」とか感じるなら、それが心に入ってきたと言うことで、これが「音楽がわかる」ということだと思う。

■何かレッテルがないとわからないのは情けない

私が残念に思うのは、コンクールでよい賞をもらっているから、うまいのだと理解する人である。
先生の中には「ウチの合唱部は○○コンクールで金賞をもらっています」という人がいる。
学校の紹介としてはいいのだけれど、それを演奏がうまいと言いたいのなら「では、あなたそれを聴いて何か感じましたか?」と聞いてみたい衝動にかられる。

賞に関係のない演奏では、どうなのだと言いたくなる。
誰かにレッテルを貼ってもらったものでなければ、わからないでは情けないのではないか?
そんな風だから「楽譜があるから、その通り演奏すれば、指揮者はいらないだろう」という発言が出てきたりする。

■プロの演奏ならうまいか?

私はNHK交響楽団の演奏は好きでない。
レベルの高い人たちの集まりなのだが、私は演奏を聴いて感動することがほとんどない。
先入観や偏見を持っているのではない。

NHK交響楽団は、他の財政の苦しいオーケストラから比べたらめぐまれている。
だから、いい演奏をして欲しいと思うのだが、ほとんど、一応真面目にやっていますよという、お役所の演奏みたいである。
家の装置が悪いのかなと思ったりもするが、他のオーケストラではそうではないので、やはり演奏の問題だと思う。

今日、言いたいことは、音楽を自分の耳で受け止めて、自分の感想をもてる人が増えてほしいということである。
音楽がわかるわからないに、専門的知識は必要ない。

料理を賞味するには、何も知識を必要としないのと同じだ。

肩のこらない、スーッと耳に入ってくる音楽がいい。


教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 22:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2014年04月15日

必要な能力を見抜く力

社会に出て仕事をするようになった時、どの程度能力を発揮できるか想像できるだろうか?

私が知っているある会社では、従業員の雇用に関して、学校での成績はあまり気にしていない。
「学校での成績はよくなくても、仕事のできる者はいる」
とは経営者の話だ。

例えば、物の加工には機械を使うことが多いが、直接、人間が行う微妙な感覚を必要とする加工もある。
そういうことに長けた、あるいは上手になりそうな働き手を雇うには、ペーパーテストではわからないことが多い、いやわからないと言った方がいいだろう。

今日の学校では、専ら学力が、成績がどうのこうのと盛んに論議が行われるが「それって、一体何なの?」と言いたくなる特がある。

私はうまく言えないが、こういうことについては言葉の森作文ネットワークの説明が参考になる。
そうなのだ、点数ばかり追っていると言う感じなのだ。

motherbord2.jpg


写真は、コンピュータのマザーボードの一例だが、ある会社が採用してもらおうと、得意先に持っていったら不採用になったと聞いた。
それだけの話なら「フーン、そうですか」で終わりだが、話し手がわざわざ私に聞かせたかったのは、不採用の理由だ。
「美しくない」
というのが理由だったそうだ。

美術品でもなく、外からは見えないものなのに、美しくないというのが理由とはなんと。
しかし、私にはなんとなくわかるような気もした。
と言うのは、昔から、よい工業製品は美しいと感じていたからだ。

性能を追求し、ムダを削いで行くと不思議に美しくなっていくと感じていたからだ。


点数ばかり追っているから、点数化できないものについては、さっぱり見当もつかず、お手上げ状態ではないか。
何でも点数という単純なものに集約化してしまうから、思考力もつかないし、芸術を理解する感性も育たないのではないか?
数字をいっぱい集めたら人生の成功者になって、生活が豊になって幸せになれるのか?

本題からそれてしまった。
もとはと言えば、企業が学校の成績をあまり問題にせず、独自の目で人を見ているのと、学校が一生懸命になっていることとの、あまりのギャップを感じたところから始まった。

a7030gsl.jpg


写真は、テープを使った録音機の時代に一世を風靡したものだ。
TEACの黄金時代だったと思う。
今は、ほとんど活躍の場はないが、実に美的と感じるので部屋の一角を占めている。
もちろん音質は一級品で、今でもこれで音楽を聴いている人もいる。

人からモノの話になってしまったが、モノは人が作るので、担当を誰にするかは結局、製品となって現れる。
学問は製品を目指しているとは限らないが、どんな分野にしろ「いい仕事」をしてくれるだろうと思われる人の能力を見抜く力は、現場をよく知っている人、経験をした人でなければわからないだろう。

教育現場での教師の指導力を見抜くのも、ただ「指導力がある」とか「ない」とかの言葉しか発し得ない人は、現場を知らない、現場を経験していない。そうでなければ、現場にいても、経験しても学ぶ力がないのだろう。

だから、学力が上がったと言っても「どうしてそう言えるのですか?」と聞いたとき、返事がない。
何も具体的なモノがないのである。

プロ野球中継では、アナウンサーが解説者に「○○投手のいいところはどこでしょう?」と聞くと、必ず具体的な言葉が返ってくる。聞き手はなるほどと思う。
ただ「ダメなピッチャー」とか「いい打者」とだけ言う人は皆無である。
具体的な視点や良さが言えない人はプロではない。

学校も同じ。誰かの授業を見て具体的にいいところ、悪いところが言えて、聞き手になるほどと思わせることができなければ偽者である。
自分で作曲していなかった人と同じか?


教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 23:30 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2014年04月14日

人のいいところを見つけて学ぶ

英語クラブ(仮称)は実に楽しい集まりだ。
英語の上達を目的として集まっているわけだが、そのためには英語の文章が題材になる。
今日は、袴田事件を海外のマスコミが、どのように報道しているのかの聞き取りと、Appleの創業者、故Steve Jobsの演説の聞き取りだった。

みなさん、何かに押されて学んでいるのではなく、学びたいという自由意志で集まっているわけで、勉強が好きなのだということを実感する。
どこかの中学校の先生が生徒たちに「勉強が好きな人なんていません。でもやらなきゃしょうがないんです」と言っていたが、その先生を一度連れてきたいと思うぐらいだ。
今日は帰国子女の外国での話も聞けた。先週は外人が来た。

この学習会が終わっても、その後の食事会がパーティのようで、盛り上がる。
いろいろな専門分野の人がいて、マスコミで取り上げられた事件など、その道に関係のある人に関心が集まる。
例えば、最近ではマレーシア航空の行方不明について、元、航空管制官の人の話が興味深かった。

kyouyouryoku.jpg互いに、それぞれの人格や専門性を尊重し話が進む。
時にはユーモアを交えての話に心が和む。

学校の教師にもユーモアのセンスも必要だと、私は思っている。
根掘り葉掘りあら探しをしたり、嫌味や愚痴の連発は、顰蹙(ひんしゅく)を買うし、場の空気を悪くする。
世の中には関心しない出来事もあるが、そこをスパイスの効いたユーモアを交えて話せるのも、教養の一つだろうと思う。

漫才落語は笑いを誘う仕事だが、人々は笑いを得たいとと思って寄席に行くのであって、嫌味や愚痴、あら探しを聞きたいとと思って行くのではない。
第一、笑いは商売になるが、愚痴や嫌味は商売にならない。

私は「ぜんざい公社」という落語を聞いたとき、落ちのうまさに笑えてしょうがなかったが、同時にアイデアのよさに「頭のいい人がいるなあ」と感じた。

主人公が、ぜんざいを食べたくて「ぜんざい公社」という店に入る。
やっとぜんざいにありつけたと、食べ始めるが
主人公:「あれ、このぜんざい甘くない」
店員:「それでいいんです」
主人公:「えっ」
店員:「うまい汁はこっちで吸いますから」
終わり

対人関係が悪いと、人のよさもわからないだろう。
最小限の対応しかしないだろうから。
しかし、この人は話せる、おもしろいと感じたら、心を開くだろう。
すると、人はみな違うように、その人のいいところが見えてくる。

そのいいところを互いに学び合うことで、その集団の知的レベル、教養は上がるのだろう。
学校や学級もそうだろう。
過去を振り返ってみると、そうだったと思うことに気づく。

教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 21:20 | Comment(5) | TrackBack(0) | 人生

2014年04月13日

見返りを期待しますか?

母親に連れられて学校に行く新入生を見ると、自分の子どもの頃を思い出します。
思い出すことは、親にしてもらったことばかりです。
自分から親のために何かをしたという覚えはなく、give and take という言葉がありますが、自分はtake and takeだったように思います。

特に私の場合は、引き取られて連れて来られた子どもだったので、親になってくれた伯母は、他の子と比べて学校で惨めな思いをすると可哀想と思って、それはそれは気を遣ってくれたものです。
それなのに、親の心子知らずというように、何も親のことは考えず好き勝手なことをしていたと思います。

今年、中学校時代の同窓会があって、隣に座った女性から「あっ、この子ったら、私たちは粗末な弁当だったのに、すごい弁当だったんだよ」と言われました。

親としては、みんなと一緒に弁当を広げたとき、惨めな気持ちにならないように、ずいぶん気を遣ったわけです。
でも、どのくらい自分がその気持ちを買っていたか、恥ずかしい気持ちになります。
自分の弁当を得意になっていた覚えはあります。

豪華な弁当と言っても、高価なものが入っていたわけではなく、本当に手がかかっていたというものです。
朝早く、台所で歌を歌いながら弁当を作っていた親の姿を、まだ眠気の残る布団の中から見ていたことをよく覚えています。

1nensei.jpgあれから、何十年と時が経ちました。
この時期、小学生を見ると、昔の言葉が蘇ってきます。

最近、ある講演会で「自分が幸せになりたかったら、まず自分から人にしてあげなさい」という話を聞きました。
しかし、この時気がつきました。
「自分の幸せのために、人に何かをしてあげる?」
何か変だ?

今、自分にそんな気持ちはありません。
つまり「何か、見返りを求めて人に何かをしよう」という気持ちはないのです。
自分、自分と自分ばかり考えていた気持ちが消えているのです。

やっと、少しは大人になれたということなのか、と思いましたが、それより、子どもの頃、親からしてもらった暖かいものがそういう気持ちにさせているのだと気がついたのです。

子どもの頃、あふれるほどの、もう一生分の愛情を注いでもらって、今度は自分が人にしてあげる番なのだと気がついたのです。おそらく、親もそれを望んでいるのでしょう。
見返りが欲しいからしようというのではないのです。

動物の親子の間にも、同様な関係があります。
親は自分の身を犠牲にしても、子どもに尽くしています。
その子どもが親になると、また子どもに同様なことをします。

このように考えてくると、子どもの時、親から十分に愛情をもらえなかった人が、他人の幸福を望まず嫌なことをしたり、汚い言葉を吐いたりして、他人の不幸を見たいのかも知れません。
しかし、これは、子どもがいたら常に汚い言葉を耳にしているわけですから、心にはよくないでしょう。
子どもが成長するに従い、悪影響が出るかも知れません。

他人にいいことがあったら、それを見て「よかったねえ」と言えるのが健全な心と思うのですが、そうでなかったらとしたら、とても不安な気持ちになります。
不幸にして、事故で亡くなる人もいます。
昨年だったと思いますが、入学式直前の子どもを交通事故で亡くしたお父さんが、新しいランドセルを前にして泣いていたのを見たときはたまらない気持ちになりました。

でも、事故現場に、誰ともわからない人が花や、子どもが好きなお菓子をそなえていくのを見ると、人の心の良さを感じます。

「幸福論」という本があります。
私の場合は、すでに十分過ぎるほどの幸せをもらいましたから、何かをする度に、親のしてくれた暖かいものを感じて感謝しています。
人には、気づかれないように分けてあげたいと思うこのごろです。

桜が咲き、子どもを連れて学校に行くお母さんの姿を見て、あれこれ考えてしまいました。

教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 18:07 | Comment(2) | TrackBack(0) | 人生

2014年04月12日

若い人を惹きつける力

徳島県上勝町は人口1900人の過疎の山村。
近頃、限界集落と言われる山村が多い中で、ここは都会から若者が移り住んでくる。



NHK-BSプレミアム「笑うキミにはフクきたる」で紹介されたが、キミちゃん(山田喜美子さん72)とフミちゃん( 谷口文子さん65)の二人は毎朝、小屋に集まって餅つきをする。
山に生えるヨモギを摘んで、ヨモギ餅を作る。
そして、茶屋に出荷する。

元気な二人は仕事をしながらも笑い声が絶えない。
旅行で訪れた若者は、この山村の魅力に惹かれ、つい滞在期間を伸ばす。
そのうち、住み着くようになる。
都会とは違って、生活は不便なのに、若者たちを住みたい気持ちにさせるのは何だろう。

私はこの番組を見ていて考えた。
少しキザな言い方をすれば、ここには人が求めている全てがあると思った。

二人のお年寄りを見ていると、元気が出てくる。
日本の老齢化など関係がないと思うようになる。
このお年寄りに会って、話がしたいと思うようになる。
そして、人生の何かを掴み取りたいと思うようになる。
特にかしこまって聞くわけではない。
この町に住んで、生活することによって、それがわかるような気がするし、将来に対して希望すら感じる。

我に返ってみると、今、この国に足りないと思っているものがすべてあるような気がする。
学校の教師にとっても、人が近づいてくる魅力というのは、子どもが「先生、先生」と寄ってくる魅力と同じだろうと思う。

先生に近づきたいと思えば、自然に学び合いがあるだろう。
キミちゃんフミちゃんは教師の鏡だ。
自分を認めてもらいたいと、口を開けば人を貶める言葉しか出てこない日常とはまるで反対の世界だ。
何の気取りもない、自然体の生活。ホッとする。

私も、一度は訪れてみたい。キミちゃんフミちゃんのついた餅をいただきたい。

教育に情熱を



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
おかしい人の判定項目
職場のモラルハラスメント
文章が正しく読めない人はトラブルメーカー
posted by edlwiss at 21:56 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。