2014年06月29日

内申をめぐる問題

zettaihyouka.jpg絶対評価というのは、ある基準に達すればだれでも、それなりに高い評価が得られるという点ではよい方法である。
だが「絶対」という以上、評価された価値は共通(同じ価値)でなければならない。
A校における「5」というのは、あくまでも「A校内」における「5」であるということ。
それはA校において「5」の評価をもらった者がB校においても「5」がもらえるかどうかはわからないということである。

それでも、場所やグループが違ってもスポーツの記録のように、100mを12秒で走ったというものなら、走った環境が公式記録として認められる条件に適合していれば、どこでも同じ価値のものとして認められる。

しかし「目標に達した」との抽象的表現の基準のもとでの成績は、そもそも判定する人の基準が一致していない限り、異なる学校での評価を全く同じとみてよいかどうか疑問である。

平たく言えば「学校差」というものである。
統計の常識から言っても、母集団が違うものの評価を同じ価値とすることがおかしいのである。

こういう評価が、高校入試に際して内申点として影響するとすれば、教師の立場としては、自校の生徒に少しでもよい内申点を持たせてやりたいと思うのは人情だろう。

そうでなくても、自分のところは実力からみて妥当と思う評価をしたとしても、競争相手となる他校は正直に評価するのか(水増しをしないか)と、疑心暗鬼になるのもやむを得ないだろう。
(「お前の学校は指導が下手だから、評価が低い」と言われたくない心理も同じようなもの)

それぞれの学校が絶対評価を採用することはいい。
しかし、繰り返しになるが、各校が勝手につけた成績を同じ器に入れて評価しようとするところに、根本的な誤りがある。

■内申が高校側から信頼されるものにするには

これは、中学校の定期テストを全中学校共通のものにするしかないだろう。

入社試験では、TOEICが600点以上というような条件をつけているところがある。
これは、TOEICで600点ならみな600点の力を持っているだろうという信頼があるから、条件として使われるのである。

内申点が信頼を得るためには、このようなやり方の試験での成績を採用するか、全中学校共通のテストによるしかない。

ということは、高校入試そのものが全中学校共通のテストになるようなものなので、内申点の比率が低くなるのもやむを得ない。

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2002年度から学習指導要領が改訂され、絶対評価の導入が記されたわけだが、まだ絶対評価に踏み切っていないところもある。
例えば、大阪府は最短で2016年よりと発表している。

絶対評価は生徒の頑張りを喚起するものでもあるが「それはいい」とメリットだけに目を奪われて導入すると、矛盾や混乱を起こし、中学校そのものの評定の重みをなくすものともなりかねない。

未実施の地域にあっては、そういう懸念を感じて検討を続けているのだろうと思う。


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2014年06月28日

内申書の価値

高校入試は、試験当日のテスト成績と内申書を合わせて合否を決めることになっている。
内申書というのは、在学中のテスト成績だけではない。
ここで、誤解のないように配慮して「成績」という言葉の意味を確認しておく。
成績(せいせき)
(1)スポーツにおける評価の指標のこと。
(2)営業職の挙げた成果のこと。
(3)学校における学習など活動成果についての評価のこと ⇒成績評価を参照
(4)試験における点数のこと。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

ここで述べている成績の意味は(3)か(4)の意味になるが、(3)についてはまだ触れていない。
前記事(「成績が上がるとか上がらないとか言うけれど」,「何のための成績か」)を読んでいただいた方には、今まで(4)の意味で使ってきたことは、文脈から理解されていたと思うが、今回は(3)の意味も含めて考えてみたい。

内申書のイメージは、簡単に図で表すと以下のようになる。

naisin.jpg


この図での「成績」とはペーパーテストや実技テストのことであり「α」がそれに加わって「内申書」になると考えられる。
概ね、[内申書]≒[評定]と言えるのだろうと思うが、これが必ずしもイコールと言い切れないところに、何かが潜んでいると言える。

特に評定の出し方が、変わってから余計に見通しのよくないものになった気がする。

■試験、評定、内申書は公平でなければならない

ペーパーテスト一つをとってみても、変だなと思うことはある。
○×式や穴埋め式のテストは、学習の思考力を問うと言う点ではよくないと言われる。
それでは、なるべく文章を書かせる問題がよいかと言えば、そうも言えない。
そういうテストにすると、採点者の読解力に左右されるからだ。

採点者によって差が出るようなテストは、公平性に問題がある。
生徒にたくさん文章を書かせるテスト、特に考えを書かせるテストでは、採点者の意に沿わない答案は点が低いかも知れない。
採点が難しいテストというのは、問題作成者の自慢には、全くならない。

会社が人を採用するような入社試験なら、会社の考えに沿っているかどうかで配点の違いがあってもよい。
しかし、児童・生徒が学校で受けるテストはそうあってはならない。

そうなると、批判される○×テスト、いわゆる客観テストは採点者による差が出ないので、公平性を考えたら優れている。

【例題】

次の文を読んで、あなたの考えを書きなさい。
武道が必修科目になって、中学校は大変になっている。
なにしろ、部活動でもなく選択制でもなく、全員必修となれば教師が足りない。
そこで、急に教師を増やすために、短期間の講習を行い、指導者として認定することになった。
武道の教師がそんなに短期間で育成できるものだろうか。
この付け焼刃的な国の教育政策は、どうもいただけない。


[回答A]
教師が生徒を指導するために、勉強を拒んではならない。
そんなことでは、生徒から信頼される指導者にはなれないだろう。
教師が勉強しないではしめしがつかない。


[回答B]
武道の必修化の是非はともかく、短期間の講習だけで指導者の資格が与えるのは、如何にも拙速すぎる。
わずかな講習だけで資格がとれるというのは、何年も時間をかけて資格をとった人からみれば、バカにされているようでもあり、指導者の資格とは何だろうという疑問さえ湧いてくる。


このA、B2つの回答を読んで、読者ならどう配点するだろう。
少なくとも言えることは、Aの回答は文意を全く理解していない。
武道必修に対する考えは、個人個人、いろいろな考えがあってもいい。
しかし、読解力を問題にしたら、Aの回答者は0点である。
講習を受ける教師の態度など、全く問題にしていないからだ。

生徒の答案をみるとき、教師の読解力に難があっては、公平性にも問題があるが、優れたものを認めずよい芽を摘んでしまいかねない。

■成績に私情をはさんではならない

私がテスト成績の集計を出すコンピュータのプログラムを作った時、これは便利だと言った先生もいたが、賛成ではないという先生もいた。
結果は数値化された素点の合計をもとに、合計点の多い生徒から順に並んで出てくる。

数人の先生が、結果を興味深く見ていた。
「あの子の順位はここか?」
「オッ、○○がこんな上にいる」
など、感想があった。
普段目立っている生徒だが、意外に順位が低いというのがあって、それを見たある先生は
「本当は、これはもっと上だが・・・」
と言っていた。
コンピュータの出した結果が気に入らないようだった。
そして「こういう出し方はいかん」と言った。

なぜ?
と言うと「心が伝わらん」と言った。

しかし、ここまではあくまでテストの点の集計に基づくものだ。
このあと評定がつくまでには「+α」がある。
「+α」とは、宿題とか態度とかいろいろなものがある。

いろいろなものと言えば、他校の話だが、ある社会の先生はノートを提出させ、それも点数に加えるそうだ。
それが教育的にいいのかどうかは、私にはわからないが、ノート作りが得意な生徒には有利だろう。
しかし、ノートは加点しない先生にあっては、逆にノートで点を稼いでいた生徒には不利になる。

「+α」部分は先生の個性や学校の違いによって様々と言える。
特に見る人の違いによって差の出るものは、配点も違ってくるので、評価は学校や先生によって変わるだろう。

■高校の立場

内申書に関心が向くのは、高校入試に関係するからだ。
では、高校側は中学校の内申書をどう見ているのだろう。

中学校の成績(評価=(3))が変更されてからは、高校側の内申書の見方も変わったとみられる。
相対評価でなくなってからは、大きく変わったと言える。

東京都の例では、入試に内申が影響するのは3割ということ。
さらに、特別選抜枠というものがあって、1割ないし2割はこの特別選抜をするということ。
この特別選抜枠により、オール1でも都立の難関校に合格した生徒もいるそうだ。

では、特別選抜というのは、できない生徒でもよいと言うことかというと、そうではないらしい。
わかりやすく言えば、中学校の内申書を当てにしなくなったと言うことだろう。

高校としては、大学に行ける生徒が欲しいので、大学入試で点数の取れる生徒がほしい(のだろう)と考えた方がわかりやすい。
ノート作りがうまいとか、中学校の先生が「いい子」として評価した」つまり「+α」はどうでもよいのである。

だから、たとえ評定が「1」であっても、入試当日によくできた生徒が欲しいということ。

知人の高校教師に聞くと「中学校の内申?全然ダメ」という。

それにしても、評定1でも入試はよくできた生徒がいたということだろうが、よくできたのに「1」とはどういう状況だったのか興味がある。


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2014年06月27日

有名人もいろいろ

マリア・カラスと言えば、世紀の大ソプラノ歌手。
クラシックフアンなら誰もが知るところだろう。
マリア・カラス(Maria Callas, ギリシア語: Μαρία Κάλλας, 1923年12月2日 - 1977年9月16日)は、ギリシャ系アメリカ人のソプラノ歌手。ニューヨークで生まれパリで没し、20世紀最高のソプラノ歌手とまで言われた。特にルチア(ランメルモールのルチア)、ノルマ、ヴィオレッタ(椿姫)、トスカなどの歌唱は、技術もさることながら役の内面に深く踏み込んだ表現で際立っており、多くの聴衆を魅了すると共にその後の歌手にも強い影響を及ぼした。フリー百科事典「ウィキペディア」より

このような大歌手にあこがれ、自分もそうなりたいと、夢を描いていた歌手の卵たちもたくさんいたに違いない。

こういうことは、どの世界にもある。
今の小中学生の中にも、将来はサッカー選手に、野球選手に、あるいはオリンピックの選手として活躍を活躍を夢見て励んでいる者もいるだろう。

だが、すべての者の夢がかなうわけではない。
多くの者が、自分の能力を知って挫折していくのだろう。

ここで話を戻すと、マリア・カラスに憧れたかどうかはわからないが、歌で世界の舞台で輝くことを夢見ていた一人の女性がいた。
その人の名は、ローレンス・フォスター・ジェンキンス

大歌手を目指していた才能ある一人の女性を紹介するだけなら、珍しくもなんともないのだが、この人はまるきり歌が下手だった。
それで、努力して上手くなったという話でもない。

少しも歌は上手くならなかった。
彼女の歌を聴いた人は人は、あまりの酷さに呆れて笑い出すほどだった。
こんな状態ではとても歌手でデビュー、などということは無理。
それでも彼女は諦めなかった。

ただ、彼女は大変な金持ちだったので、どこのプロデビューもできないのなら、自分でプロの奏者を雇って楽団を作ってしまおうと考えた。
かくして、金の力でプロデビューを果たした。

ところが、彼女の歌は並外れて酷かったので、この自分で作った楽団からもボイコットされてしまった。
さすがに、これですべてはおしまいと思うのだが、彼女の歌の酷さが並外れているということが有名になり、興味を持つ人が増えてきた。

彼女は歌がとても下手なのだが、歌が好きなので気分は十分一流の大歌手。
その一流意識のノリもあって、おもしろいと評判になり、ついにプロ演奏家の憧れであり歴史に残る数々の名演奏会の舞台として知られているカーネギーホールへのデビューとなった。

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■ネット界の有名人

有名になるのは、芸や技が素晴らしい人だけではない。
あまりに酷いということが、話題になり、有名人となる人もいる。

このネット社会でも、レベルの低さで有名になり、2チャンネルでも話題になっていた人がいた。

■教訓

自分のブログのアクセス数が多いからといっても、有頂天になってはいけないということ。
アクセスが多いことは、確かに人気者なのだろうが、何で人気なのか中身をよく知る必要がある。
今度はどんな笑いのタネを提供してくれるのかな、という楽しみを待っているかも知れないのだ。

本記事の話題の歌手ローレンス・フォスター・ジェンキンスについて紹介しているサイトがあるので、詳しくはこちらを参照してください。

http://youpouch.com/2013/03/11/110406/
http://matome.naver.jp/odai/2138986525064031101


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2014年06月27日

勉強を楽しいものに

勉強は楽しいものではない、と言う人もいるかも知れません。

私は、生徒たちに向かって「勉強の好きな人なんていません、でもやらなきゃしょうがないんです」と言った中学校の先生を忘れることができません。

この先生は大きな間違いをしていると思いました。

勉強はもともと、人の持つ好奇心、探究心をもとに喚起されるものと思います。
その過程は決して楽なものとは言えませんが、人は必ずしも苦しいことを避けて通るとも言えません。

卑近な例としては、転んで怪我をしても、自転車に乗れるようになりたいと挑戦する子どもの姿があります。
自らの努力で希望がかなった時の喜びや、成就感が子どもを育てます。

こうした、子どもの自然なエネルギーを、阻害してまでも路線を作ることを大人は反省しまければならないと思うのです。

これは、子どものわがままを助長することではありません。
自分が決めたことを、途中で投げ出さず、粘り強くやり遂げる精神を鍛えることになると思うのです。

■戦後の教育

敗戦から立ち上がるために、経済復興を柱にしてやってきた教育は、優秀な労働者を生み出すことに成功し、日本を経済大国にしたが、ここにきて行き詰まりを感じるようになってきた。

それは、日本製品がかつての勢いを持たなくなってきたことに、象徴的に現れている。
稲作の苗を作るように、均一な労働者を排出するためのシステムが、戦後出発した教育のようなきがする。
従順で、一定レベルの知識を持った労働者を会社へ送り込むことに成功してきた。

日本の物づくりのレベルは高く、世界を席巻したが、必ずしもトップではなかった。
おもしろいことに、トップをいく海外製品を分解してみると、中には日本の部品がたくさん使ってある。

じわりじわりと日本製品が劣勢になってきたのは、日本の教育が疲弊してきたのに似てきたような気がする。
学問は必ずしも、良い労働者の育成を狙うものではないが、どんな教育にしろ、その国の産業に影響を与えることになると思う。

日本を代表するある企業では、完璧な生産システムを作りあげた。
工場では人が秒単位でコントロールされている。
一部のムダもない。

ところが、この一部のムダもない合理的なシステムが、人間の生理には合わない。
それでストレスを生み、かえって不良品が出るようになった。

これは、日本の子どもが歩む進学コースに似ている。
学問としての面白さを感じられない受験システムによって、ふるいにかけられるやりかたが、無機的であり勉強とは面白くないものだが、やらなきゃしょうがないという考えをもたらした。
かくして、本来は面白いはずの勉強を面白くないものと印象づける伝統が出来上がった。

そういう中にあって、非行化が問題になるのも、こういうシステムに対する、人間としての自然な抵抗とみることができるかもしれない。

■面白い授業をしよう

面白い授業というのは、当然、笑いの多い授業のことではない。
充実した授業のことであり、厚めのビフテキを食って満足したというようなものである。

まず、意味不明なことをマイペースで喋りまくる変な先生をなんとかしよう。
まるで狂っているのではと思う授業(?)をしている先生に、生徒が迷惑をしているという現実がある。
生徒は1時間我慢の時間だ。
このような先生は、当然、実践発表はできない。
「どんな授業をやりましたか?」と聞いて、何も答えられない先生は、可能性があるかも知れない。

これは、論外だが、面白い授業というのは端的に言えば「新鮮さのある授業」である。
新鮮さがあるというのは、教える先生の意識が常に学究的であると言える。
ともすると、先生の授業というのは、テープレコーダーの繰り返し再生のようになりがちだが、先生が学究的であれば新鮮味は失われないと思う。

■高校を全入生に

高校を全入生にすることで、保護者の教育費負担はかなり減るだろう。
実験や実習を省略して、問題集を解く時間にするということも減るだろう。

学習塾は困るかも知れないが、視点を変えれば、高校で勉強に遅れ勝ちの生徒をサポートするという風にすればいいだろう。

■部活は社会教育へ

例えば、学校の授業は午前中にし、午後は社会教育にする。
文化もスポーツも市町村の設備で行い、そこでは専門家が指導する。

学校で素人に近い人が、割り当てで顧問になって教えるよりいい。
学校の生徒数も減っているので、いくつかの学校から集まることで、多人数の指導もできる。
才能のある子どもは、専門家の指導により芽を摘むようなこともなくなるだろう。


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2014年06月25日

何のための成績か

饒舌(じょうぜつ)なのに、ブログは書かない人がいる。
数人の集まりでは、得意げによく喋り、自分のエラさを誇示するのに、文章化は避けている。
この心理は、自分の発言が証拠として残るのを避けているとみられる。

口は達者なのに、文章として残るのを嫌うのは、それだけ自分の発言が軽い、責任を持たないととられても仕方がないだろう。
一方、ブログを書く人は、大げさに言えばそれだけの覚悟を持っているとも言える。
または、それだけ自信を持っている。
あるいは、自分の考えを堂々と晒して、あえて批判も受け入れ、自分の成長の糧にしたいと思っているのだろう。
「口は災いのもと」と同様「ブログは災いのもと」である。

いずれにしても、ブログは文字として残るわけだから、教員の場合は「どういう先生か評価される」わけである。
「○○の地域の先生って、こんなものですか?」
と質問したら、ある保護者から「これが普通です。こんなもんです」という返事がきたことがある。

私が時々会う、小中高の子どものいる親の中には「ブログ読んでますよ」という人がいる。

■ブログは授業の延長〜番外編である

授業参観は保護者にとっては、我が子の先生を知るよい機会である。
しかし、参観授業だけで先生を知ることができるのは、ごく一部である。
改まった参観授業では、先生の本音や真の姿を知ることは不可能と言える。

その意味では、ブログというものができたことは、先生を知りたいと思っている保護者にとっては、ずいぶん情報源が拡大したと言える。
これは、先生の評価、下衆な言葉で言えば「先生の値踏み」にもなる。

どんなことがわかるか、思うところを挙げてみる。

1.作文力
2.読解力
3.いわゆる頭の良し悪し
4.考え方の正常性
5.教育への情熱
6.性格

このようなものが考えられる。
これらは参観授業ではわかりにくいものとして、番外編とした。

■何のための成績か

これは、前回の投稿成績が上がるとか上がらないとか言うけれどを受けたものである。

私がしばしばお話をする保護者の中に、コンビニの店長がいる。
コンビニは雇用者の人選に気を遣っている。

私が「年の多い人の方が、概していいのでは」と、仕事に対する実直さを聞いてみたところ
「いや、年の多い人はレジが覚えられないですね」という言葉が返ってきた。

こういう答えが返ってきたのは、レジを覚えるということが、まず気になっているということだ。
もちろん、実直さは大切なのだが。

それほど、今のコンビニのレジは複雑になっているということだが、レジを使いこなすということは、仕事の能率に関係し、それはコンビニ全体の売上にも影響することなのだ。
これはコンビニの成績評価になるし、それをたどるとレジを扱う能力、つまり販売従事者の成績ということなる。
年配者はレジを覚えるのが苦手だと言うのは、平たく言えば若い人に比べ、頭が固くなっているということだろう。
若い人にとっては、レジ打ちが自分の報酬に結びつくので、頭の柔らかさとやる気に関係してくるのだろう。

成績が上がるとか上がらないとか言うけれどとは、塾の講師がしばしば語る「成績が上がった。下がった」を受けた言葉である。

塾の講師は、塾専門の問題を生徒に解かせてみて、どのくらい点数が上がったとか下がったと言っているのであって、その目的は入試に際してどのくらい点数が取れるのかが頭にあるのだろう。
(もっと卑近な目標としては学校の定期テストもあるだろうが)

つまり、私が問題にしているのは、点取り虫も大切だが、実践力としての成績にどれほど関係があるのかということなのである。
もちろん、学問はすべてが職業訓練を目的としているわけではないので、仕事に役立つかどうかで価値を定めることはできない。

■テスト成績を上げるには

このように言う場合は、前回より点数が上がったかという意味である。

テストには入学試験のように順位が問題になる場合と、資格試験のようにある基準点を上回ればよいというものがある。

私は学校卒業後も、各種の試験を受ける必要があったが、それらは他人との比較は関係のない資格試験であった。
いずれにしても、試験に挑む姿勢としては、100点を目指すのであって、たとえ順位が問題となる試験であろうと、100点とれば問題ない。

たいていの試験は「出る問題が決まっている」と言えるのであって、何回も問題集を繰り返してやれば、出る問題が見えてくる。
例えば、10問の問題があるとして、全く同じ問題をやれば、1回目に0点であったとしても、2回目には少なくとも1つはできるだろう。
だから繰り返せば、そのたびに点数は上がる。

これは、同じ問題が出れば、正答を知っているから次はできるということで、こういう訓練を積み重ねるということが全く無意味とは言わないが、生きる力をつけるために有用なものかという疑問を持つのである。

塾の先生としては、そんなことより、目の前の点数が上がればよいという目的が達せらればよいだろうから、そこまでは考えないだろうと思う。

■まとめ

塾の悪口を言っているのではない。
塾の先生が点数志向に走るのは、現行制度のもとでは仕方がないと言える。

私が言いたいのは、今の子どもたちに、こういう点取り訓練をやらせていていいのかという問題定義である。

成績が上がるとか上がらないとか言うけれどを読んでくださった方には、私のこういう問題定義を察してくださったと思う。

次回は、こういう停滞(人によっては「学校は金属疲労を起こしている」という)を脱するための、考えを述べてみたいと思う。


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2014年06月24日

成績が上がるとか上がらないとか言うけれど

問題にしている成績は何なのかをはっきりさせる必要もある。

寺子屋は、商売に必要な、読み書きそろばんを教えるというところから始まった。
つまり、何を学びたいかということがはっきりしていた。

学校制度ができてから、このことがだんだん見えなくなってきたと言える。
商業高校のような学校は、歴史をたどれば、地域の商業の担い手を育てるという意味で、創設されたという経緯もある。
だが、今日ではこのような高校でも、進学の目的が必ずしもそうではない。
とにかく、高校へ行く、行ける高校へ行くという風に変わってきている。

学問は本来、学びたいから学ぶというものだと思う。

■何のための成績か

成績がよくない者が頭が悪いかと言えば、必ずしもそうは言えない。
また、成績がよくないというのは、何の成績がよくないのか?
そして、本人は成績がよくないことを悩んでいるのか?
他人の心情はわからないので、自分の過去を振り返ってみることにする。

小中学生のころは、成績にはあまり関心がなかった。
それより、やりたいこと、遊びたいことに夢中で、休みには趣味を同じくする友だちの家へ行ったりして、帰宅時間いっぱいまで遊んでいた。

成績のことをあまり考えなかったのは、それが良くて、悪くてどうなのという意識だったと思う。
今日では、中学校となれば高校進学という目標が、ほとんどの者に、いやおうなしにふりかかってくる。
私の場合は、時代も時代だったが、田舎の貧乏暮らしで、片親ということもあって高校は意識になかった。

それが、受験期になって急に受けろということになり、受験対策などということはろくにせず受けたわけである。
第一、田舎に本屋らしい本屋はなかったので、参考書や問題集を買うという手立てもなかった。

言いたいことは、私の時代は「やりたくないことは、やらないでよかった」ということである。
理科の成績がよかったのは、自分のやりたい遊びがほとんど理科に関係していたからである。
社会科の地理では白地図の宿題が苦痛であったが、先生が怖かったので、横着な私にしては忘れたことがなかった。

今の中学生には、有無を言わせず高校入試があり、特に何を勉強したいということもなく、点数が問題にされるのではないか?
これは、大げさに言えば、点数の奴隷ではないか?

奴隷は強制的に労働を強いられる。
寺子屋時代は、立派な商人になるためには、そろばんが下手ではいけないという意識が、学ぶ本人にもよくわかっていた。

今は何を学ぶということより、進学に適するかどうかの「店」だけが問題にされ、それに向かって見えない強制力が働いているだけではないかという気がする。
国によっては、いろいろな道が用意されているが、我が国ではあまり洗濯の余地がない。

もうずいぶん昔のことなのだが、電気工事会社に勤めている青年が、数学を教えて欲しいと言ってきたことがある。
話を聞くと、今は勤務先の免許で工事ができるが、独立して仕事をするには免許が必要なので、試験を受けなければならないという。

それで、力を貸したわけだが、はじめはかなりひどいレベルであったのに、彼は熱心に勉強し、高校程度の数学ができるようになった。
これは、目的がはっきりしている故の「やる気」である。

彼の場合は「点数の奴隷」ではない。

勉強は必要だということは、だれもがわかっていることだろう。
だが、成績が上がらないというのは「点数の奴隷」になっているからではないだろうか?

しかし、先生が好きだったからということで、数学が素晴らしくよくできた同級生がいた。
子どもを、点数の奴隷から救う一つの手段として、進学に関係なく、その教科を好きにさせてしまうという方法もある。

自分が教えている教科を、好きにさせてしまうという先生でありたいものだ。

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2014年06月24日

良いことをすれば見返りがありますか?

「良いことをすれば見返りがある」と子どもに教えていますか?

私はこういうような言葉を、今までに何回も聞いたような気がします。

「良いことをする」という言葉には抵抗はありませんでしたが「見返りがある」には違和感を持っていました。
善行を積めば、それが貯金のようになって返ってくる?
だから、自分の将来のために、せっせと善行という貯金をする?

まるで、年金積立みたいですね。

最近、やっと、この積立みたいな善行のすすめの謎がわかってきました。
もちろん、自分なりにという意味です。

というのは「人のために何かをする」ということには、損得勘定はないということです。

「見返りですか?」

「見返りは求めますね?」

と答えてくれた人もいました。

しかし、私の場合は見返りというGive and Takeの考えはありません。
格好をつけているわけではありません。

自分が人のためにしようという意思は、幼い時に築かれたもののような気がするのです。
それは、親が私のためにいっぱい愛情をかけてくれたからだと、感じるようになったのです。

親は自分のことは放っておいて、本当に毎日、毎日気を遣ってくれたわけです。
子どものころは、それが当たり前のように、わがままをしたり、迷惑をかけたり、今思うといっぱい苦労をかけたことを思い出します。
親は苦労ばかりして、死ぬ間際まで私のことを気にかけていました。

してもらうだけだった私は、だんだん年を取るにつれ、何もいいことがなかった親のことが気になるようになって来ました。
今頃気づいても遅いですが、その気づきが「人のためにするエネルギー」に変わってきたような気がします。

今日私は、自己顕示をしたいわけではありません。
まさに、子どもというのは親の心子知らずであり、我々大人は、子どもに愛情を注いで育てるべきで、見返りを求めて育てるべきではないという、当たり前のことに、私が気づいたということです。

大人は子どもから見返りを求めないのが当たり前であり、真に愛情を受けて育てられた子どもは、自分が大人になった時、自然に人に対しても、見返りを求めない善行をするのだということです。

このサイクルが狂った社会が、おかしくなるのだ思うのです。

狂う理由は、子どもの頃親の愛を受けなかった。
何らかの理由で、体は成長したものの、大人にはなれなかった大人の存在などです。

文章がまずいので、まとまりがなくなってしまいました。

読んでくださっている人は、あなたの読解力で補ってくだされば幸せです。


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2014年06月22日

スマホって難しいですか?

子どものスマホ使用が物議を呼んでいる。

小学校の先生が、スマホ自体がわからないので、指導できないという取材していた。
先生が、額にシワをよせ「ウーンわからないですね」と言っていた。

最近は小学生の間にもスマホが浸透し、犯罪に巻き込まれる事件も出てきたという。
それで、指導はというと、先生ということになるのだが、先生にはわからないということで「専門家」という言葉が出てきた。

スマホのことはわからないと言った人が、たまたま小学校の先生だったと私は思いたい。
そして、すぐ「専門家」が出てくるのも、またかという気持ちになる。
スマホの仕組みを説明しろと言っているわけではない。
使い方のことを言っているわけで、そんなものが難しいと言っているというのは、相当に頭が硬くなっていいるのではないか。

スマホの販売店では、若い人が応対している。
先日言った店では19歳の女性が、客の対応をしていた。
スマホを売るのは、リンゴやバナナを売るのとは違う。

次々と出てくる新製品の特徴を理解し、客に説明しなければいけない。
短期間の講習を受けて、販売の現場に出るわけだが、学校の先生も職場体験として、ガラケーやスマホの販売をやってみたらどうだろう。

もし、教員がスマホごときで、悩んでいるようだったら情けないと思う。
時代の流行を追えとは言わないが、社会の進歩とともに現れるシステムについていけないとしたら、頭の中がまるで鎖国状態ではないか。

子どもの方が先に行っているという状態ではなく、先生のほうが先を行っていて、スマホの害であたふたするのではなく、便利さを利用して、子どもをリードするようになってほしいものだ。

十年一日のごとく全く同じことを続けていて、気がついたら浦島太郎状態になっていた、なんてことにならないよう願いたい。


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2014年06月21日

ロボット社会で学校はどう変わる?

今朝、NHK 週刊 ニュース深読みで、ロボットが社会に与える影響について取り上げていた。
私が昨日述べた内容とほとんど同じだったが、私が取り上げなかったことが2つあった。
それはロボットの定義ビッグデータであった。

そう言えば、ロボットの定義と言われると、はっきりしていなかった。
ロボットと言われる条件は次の3つである。

1.センサーがある
2.知能(頭脳)を持っている
3.動く

ビッグデータは最近よく聞かれるようになってきた言葉だ。
インターネットやコンピュータの発達により、蓄積されてきた膨大なデータのことだが、詳しくはこちらに説明がある。

ビッグデータが注目されてきたのは、ロボットを作るときに人工知能を搭載しても、できたばかりのものは知識が少ない。
人間もそうだが、勉強して賢くなるということは、思考力を高めることと知識をたくさん持つこと、それに加え精神性を高めることの3つが挙げられる。

そのうち、知識の量はインターネットに接続することで、一気に多量の知識を獲得できる。
ワープロを使って、文章を作成するとき、Gooogleの変換システム(FEP)が賢いのはインターネットに繋がっているからだ。

■ロボットが学校を変える

先生もロボット化の影響を受けるだろうが、まるきり先生がロボットに変わってしまうということも考えにくい。
なぜなら、重要な決定は人間が下さなければならないからだ。

人が判断し決定を下す場合、経験と知識を参照しそれに感情が加わるわけだが、一人の人間の経験や知識は限られている。
しかし、これをビッグデータと結びつけることで、より的確な判断をするための援助ができる。

教師の判断や決定を援助するロボットができて、教師の支援をするということが考えられる。

安全・管理面では、校門にロボットが立っていて、登校してくる児童・生徒をチエックする。
個人を認識するセンサー機能はより進化するだろうから、児童生徒が登校したかどうか、下校したかどうかを正確にチエックできるようになるだろう。

ただ、チエックしているだけでは、訴えるものがないので、このロボットは人型ロボットとして制作され、時には児童・生徒に声をかけるように作られるかもしれない。

「牧野くん、おはよう、今日は早いね」
とか
「顔色がよくないようだが、大丈夫ですか?」
などと言うようになるかも知れない。


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2014年06月20日

ロボット社会の未来を考える

■ロボットはじわりじわりと生活の中に

折しも、安倍首相のロボット化推進の演説を聞いたところだった。
国をあげてロボット化が進むのか。

身の回りに注意してみると、ロボット化の片鱗が感じられる。
それは、自動化が進んでいるところに感じられる。

我が家では、モーニングが作れる電子レンジ、エアコン、洗濯機、掃除機など。
5年ほど前に買った電子レンジは、モーニングが作れるということで、おもしろいと思った。
卵、野菜、ベーコンなどプレートに乗せて「モーニング」のボタンを押すと、ファミレスや喫茶店で出すようなモーニングができた。
将来はもっと高度化して、各所料理もボタンひとつでできるようになるだろう。
調理ロボットという名前になるかもしれない。

昨年買い替えたエアコンは、もう知っている人も多いだろうが、目玉のようなものがついていて、人間を見ている。人間のいるところに、効果的に温度管理をする。
別の部屋に行ったり、切り忘れて外出した時は、人がいないと判断し運転を低下させる。
説明書を読むと、部屋にいる人の人数や活動状況を判断し、運転を調節するとある。

近頃の電化製品はみなそうだが、マイクロコンピュータの搭載で、あれもこれもできると機能が豊富だ。
これは、それらの機能をどれほど使いこなせせるのか、という問題を生じさせるようになった。
ここで笑えたのが「これっきりボタン」だ。
あれこれ機能は豊富ですが、それらの機能を覚えるのが苦痛の人は、この「これっきりボタン」を押してくださいということなのだ。
ここまでくると、エアコンもエアーコントロールロボットと言えるような気もする。

洗濯機も奮発して、一番高いのを買ったら、ボタン一つで洗濯、乾燥、アイロンまでやる。
最近の電化製品の特徴は「しゃべる」ようになってきたことだ。
「蛇口が開いていません」とか「糸くずフィルターを掃除してください」とか、人間の方に指示をする。

部屋中を動きまわって掃除するロボット掃除機に至っては、言葉をかけることによって掃除を始める。
あちこちぶつかると「イテッ」なんて声を出すが、充電基地に戻ってからも、突然「調子はどう?」なんて声を発したり「お帰り」と言ったり、先日は深夜に「もう遅いから早く寝たら?」なんてことを言ったような気がする。

私たちの身の回りに近い電化製品から、人間に歩み寄っている。
たかが、機械なのだが感情を刺激する。

機械は冷たいとの先入観を持つかも知れない。
だが、介護施設では人型ロボットが、患者に人気がある。
機械なのに親しみを感じるらしい。



■ロボット化の明暗

ロボットなら洗濯や掃除をサボることもないし、手抜きもしない。
こういうところから、信頼性に不安のあるところはロボットに代わる可能性は高い。
人間の場合は不機嫌だと声をかけにくいということもあるが、相手がロボットなら気兼ねは無用。

また、人間の場合、ある程度の確率で、頭のおかしい人が存在する。
ロボットの場合、不良品であれば修理をしたり、廃棄したりすることができる。
しかし、人間の場合、どうみても頭がおかしいと思われる人の脳の手術をすることはできない。

これは、おかしい人間を雇うより、少々高くてもロボット化するかという話になってくる。
つまり、人間の職場が奪われるわけだ。

ロボット化の中に「教師」も入っていたから、将来は頭のおかしい教師はなくなるかも知れない。
これは、すべて教師がロボット化されるということではなく、おかしなことを言ったり、おかしな判断をする人はロボット以下の格付けになるので、人間の方の正常化が進むということだ。

自動車も自動運転の研究が盛んで、自動車自体がロボットというイメージになるだろう。
だが、そうなると、事故が起きた時、自動車メーカーの責任の程度がどうなるのか問題になる。

将来のロボット化に関する話題は尽きないが、続きは次の機会にということにしよう。


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2014年06月19日

人生は何にときめくかで決まる

本人を証明するサイン(署名)のことで、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」を思い出した。
折しも、ラジオの映画音楽特集で「太陽がいっぱい」のテーマが流れた。

大富豪の友人の生活がうらやましくなって、友人を殺して入れ替わろうと企んだ映画だ。
ここで考えるに、金持ちが羨ましいと思って、殺人を犯す気になれるかどうかが分かれ道だろう。

「殺人と引き換えに金持ちになれる」ということに、心がときめくか?

殺人は犯罪のうちでも最も重いものだが、殺人から次第に少しずつ罪の軽いものにして行って、どの段階なら「金持ち」と引き換えにその罪を犯すことができるか、と考えてみよう。

「金持ち」と言っても、どれほどの金持ちなのかということも、はっきりしておく必要もあるだろう。

わかりやすく言えば「1万円の報酬」で人が殺せるかと言ったら、まずいないと考えられるが、100億円となったらどうかということ。
実際には1億円程度でも殺人は起こっている。

ここまで考えてくると

「ときめくもの」・・・「犯罪」

というという構図が見えてくる。
犯罪とまで行かなくても

「ときめくもの」・・・「不道徳」

という構図もある・

これを、学校教育の場面にあてはめてみれば

「出世」・・・「教育への裏切り」

という構図も考えられる・

かつて、どこやらの県であった、出世のために金品が動いた汚職もそうである。
この不正(犯罪)に関わった人たちは「出世にときめいていた」わけである。

出世のためなら、教育を裏切ることができるというバランスなのである。
教育を裏切るというのは「子どもを裏切る」ことである。

かくして、私の言いたいことは「何にときめいているか」でその人の「人生が決まる」のであって、それは仕事の成果にも繋がるものであると言いたいのだ。

ペスタロッチは教育にときめいていた人だったからこそ、教育史に名を残す人になったと言える。

教育の仕事に携わりながら、教育にときめかない人は、不道徳に教育のメッキをしているようなものではないか。

結論

教育改革は教育にときめく人たちの中から、教員を選ぶべき。


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2014年06月18日

すべては感性や気分次第

これからの先の時代はロボットが加速的に進化すると言う。
その影響とやらは、米国の調査では今後10〜20年の間に、今の仕事の半分がロボットにとって代わられると言われている。

弁護士ですらその影響を受けるという。
というのは、法律の仕事というのは、膨大な判例や資料を探すという作業が多い。
「探す」という作業はコンピュータの最も得意とするところだ。

弁護士というと、裁判にも関わることが多い。
その裁判は公平に行われているかといえば「?」の部分は少なくない。

なにしろ「トーストの焼け具合が悪いと、死刑判決が出やすい」とか「正義が勝つとは限らない」などという言葉が飛び交っているぐらいだから「?」がつく事例もあるのだろう。

六法全書を見ると、裁判官の判決には2通りあることがわかる。
一つ目は、証拠による合理的な判断による判決。
二つ目は、裁判官の心証による判決。

証拠を積み上げて、必然的な結論を出すことは、説得性がある。
しかし「裁判官の心証」とは何だろう。
簡単に言えば、証拠はどうあろうが、裁判官がそう思ったら、それで判決を出してよいということだ。

そう言えば、裁判官の判決文にはおかしなものがある。
犯人が残した血液型がAB型であった場合、被告の血液型がAB型以外であった場合、被告は無罪との結論が妥当と思われるが、予想に反して有罪との判決を出している例がある。
この裁判官の判決文を読むと「A型とB型が混じってAB型になったのかもしれない」とある。

犯行現場は雨が降っていたとの証拠を弁護士が提出しても「そこだけ、降っていなかったかもしれない」との判決文の記述がある。
日本の裁判ほど非科学的、非論理的な言い分が通っているところは珍しいのではないか?

とにかく、立法、司法、行政の三権分立の一角でさえこんな風だから、日本が民主国家とは到底言えないだろう。
では、なぜこんな風になるのだろう?

■浪花節的(なにわぶしてき)

浪花節的とは「言動や考え方が義理人情を重んじ、通俗的で情緒的であるさま」という意味だが、そもそも日本人には、民主国家は似合わないのかもしれない。
どうも、浪花節が好きな民族ではないかと思うからだ。

いや、浪花節でも構わないと思うのだが、それならそれで、大岡裁判のようにやってもらいたいものである。
「今日はトーストがうまく焼けなかった、気分が悪い、ええい、こいつは死刑だ」
との、線上におかれた被告はたまったものではない。
裁判官の心証主義による判決なんてものは、悪い浪花節そのものである。

■あなただけ特別に

この「あなただけ特別に」の言葉に弱い人もいる。

「私は支店長と懇意にしているから、あなただけ特別な・・・」

と言われて、大金の詐欺に遭った人がいる。

金融機関が特定の個人に、何の理由もなく特別優遇をするわけがない。
しかし、自分の意識に「オレは特別な人間だ」の意識が強いから「あなただけに」に乗ってしまう。

金融機関はすべての人に公平でなければいけないので、感性や気分次第ということはないのだ。
でも、そういうことを期待してしまう。

■心に響かないのはどうしようもない

ここが一番大切と思うのだが、国民が被災しても、為政者の心が動かない以上、救済は進まない。
いくら、救援のための法律を作ったところで、役人に「救う気持ち」がなかったら救援のために集めた金は、埋蔵金や裏金などの使途不明金になってしまう。

猫に小判というが、芸術的価値がわからない者(心に響かない者)は、芸術を守るより、飲み食いに走ってしまう。
どこやらの市長は、利益を産まない団体としてオーケストラをムダなものとして、予算を削った。
そのため、プロのオーケストラが潰れてしまった。

ロシアのサンクトペテルブルクは、かつてはレニングラードと呼んだが、第2時大戦中にはドイツの兵糧攻めにあった。物資が不足し、電力も危機的状況にあったが、政府は劇場が電気を使うことを許した。
それは、劇場が上演を続けることで市民に活力を与えることを、政府はよく知っていたからだ。
劇場のオーケストラ楽員が不足した時は、戦地から楽員を呼び寄せて上演を続けさせた。

芸術は精神的なものだから、わからない人には「わからない」のである。

85歳は超えていると思われるが、元気なお年寄りを、私は知っている。
その人が言うには「私、毎年、誕生日には花をもらうんだけど、嬉しくないんです。何か食べるものの方がいいんだけど」とのこと。
とてもいいお年寄りなのだが「何が好き」は本人次第だ。

結局、法律などくそくらえであって、みかけ上筋を通したように見えても、結局「したいことを、はじめに心に決めておいて」あとから理屈をつけるといことが多すぎる。

今、論議になっている集団的自衛権も「はじめに結論ありき」で、それに合うように憲法解釈を変えるってことではないか。

今日は、学校現場から遠く離れたことを言ったように見えるかも知れないが、そうではない。
子どもに接するとき「はじめに結論ありき」をやっていないか?
悪い浪花節をやっていないかということを、自分の心に聞いてみようと言いたいわけだ。


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2014年06月17日

「頭がいい」とは

雑誌「THE 21」7月号の特集は「仕事に効く地頭力の鍛え方」となっている。
地頭力(じあたまりょく)とは私が説明するより、こちらを参照してもらった方がよい。

頭がいいと感じる人は、どうもこの地頭力がいいらしい。
先の解説ページから引用すれば

知的好奇心:常識を疑う力
論理思考力:論理的に推論する力(左脳的思考・垂直的思考)
直観力:「あたり」をつける力・視点を変える力(右脳的思考・水平的思考)

の3つを総合した力ということらしいが、なぜ地頭力が問題にされるかというと、学校で問題にしている学力は
あてにならないと言うことのようで、社会に出た時、仕事のできる人は地頭力のいい人であるらしい。

ところで、人口の老齢化でボケとか記憶力の低下が問題となっているようだが、専門の医者によると加齢で記憶力が衰えるのではなく、頭を使わなくなるから衰えるのだという。

頭に限らず、体力も運動をしないことで衰えるが、それと同じだと言う。
年寄りがみんなボケているかと言うと、そうは思えない。
ずいぶん個人差があるように思う。
科学者は70代80代でも冴えている。

人口の老齢化を憂うより、年齢で区切る考えをやめて、できる人、できない人で考えていった方がよいのではと思う。

そう言えば、日本の企業で定年になった技術者を外国企業が狙っているようだ。
定年になった教師は、どこかが狙っているだろうか?

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2014年06月16日

パソコンを作る

私のパソコン製作は、ほとんどが注文によるものです。
パソコンそのものは、35年以上は携わっていますから、依頼する側からは安心感があるのかも知れません。
固定客もかなりいて、個人だけでなく企業からもあります。

依頼する方の立場からすれば、その後のメンテナンス、故障にもすぐ対処してもらえるというメリットもあるでしょう。
私の立場からすると、使う人の顔が見えていますから、責任を感じて作っています。

pasokonseisaku.jpg


何年も作り続けていると、技術の進歩、世の中の変化までもが見えてきます。

注文のパソコンのいいところは、使用者の要望に合わせて作るところです。
技術の進歩が最も速いこの分野では、最新のパーツ(部品)が使えるのも注文生産のいいところでしょう。
一般に売られているパソコンの場合、家庭で使われることを想定すると、子どもから年寄りまで使用者を想定する必要があります。

昔のことを思うと、製作は非常に簡単になってきました。
ですから、簡単に作れるとも言えますが、製作にあたって最も大切なのは、電圧がかかったり、電流が流れるものですから、電気の性質をよく心得ているということです。
なにしろ、電流は見えないものですから。

電圧や電流の動きを想像して製作にあたるわけです。
想像といっても、理論に基づく正しい想像でなければいけません。
妄想ではいけません。

パソコンが通常の電気製品と大きく違うところは、CPU(中央処理装置)を中心にして、すべての部品との接続にはドライバーというソフトが仲立ちしていることです。

だから、機械の組み立てが終わった後はOS(Windows)をインストールするわけですが、次にドライバーをインストールします。
このインストール作業をしている時、教科書通りにいかない場合がありますが、その場合何が起こっているかを的確に推定し、順調に作業が進行するように機転がきかないといけません。
ここが、経験を必要とするところでもあると言えます。

完成後も、パソコンの使用時には内部で何が起こっているかを推定し、順調に動いているかどうかを判定します。
そのため、依頼者の使用状況の場面にしばらくはつきあって、動作状況を確認します。

このように、パソコンの製作を依頼されるということは、製作をする私自身の勉強にもなり、表面的な知識だけの理解に陥ることを防ぐことにもなります。
パソコン製作はまさに、実践と理解を並行して学習することになります。


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2014年06月15日

「Androidって何ですか?」と子どもに聞かれたら?

どう答えますか?
「スマートフォンのこと」って答えますか?
そう答えたとしたら「タイガーって魔法瓶のことです」と言っているようなものだと思います。

教師をやっている以上、そんな風ではいけないと思います。
しかし、気をつけないと、暮らしているうちになんとなく身につけた知識がおかしいといことに、気がつかないこともあります。

「違いますよ。Androidって、人造人間のことですよ」と言われた時「そうなの?」とすぐに認めることができるか?

Andoroidとは人型ロボットなど人間や他の動物を模した機械や人工生命体の総称。「人造人間」はAndroid(アンドロイド)の和訳


このような意味は「調べる」ことでわかることだ。
自分で勝手に、Andoroidの意味をスマートフォン(の一種)などという辞書を作ってはいけない。

Androidとは人造人間のことだよと説明すれば、間違ったことを教えたことにはならないが、Androidと呼ばれるスマートフォンが出回っているので、そこのところの関係を説明しなければ、子どもを満足させることはできないだろう。

そうすると、AndroidはGoogle社がLinuxをベースにしてスマートフォン用のOSとして開発したものにつけた名前であるということを説明しなければならない。

そうすると、さらに「Linuxとは?」「OSって何?」ということになり、そこまで理解していなければ、地についた知識とは言えないだろう。

また、子どもにはLinuxとかOSをわかりやすく説明しなければならない。

本日は最近よく目にする(耳にする)Androidを例に、教師たるものの姿勢を、自分の反省の意味を込めて記述してみた。


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2014年06月13日

CDを作る

デジタル技術が進歩して、録音も楽になった。
では、CD制作も楽になったかと言うと、楽になったと言えるが、やってみたことのない人にとっては簡単とは言えないだろう。

知ったかぶりをし、何にでも口を出したがる人は簡単に言う。
そういう人には、やってもらうに限る。
「私、お茶でも出しますから、お願いします」
と頼んでみよう。

今日では、録音はデジタル録音機を使うだろう。
片手で持てるデジタル録音機でも、かなりいい音で録音できるようになった。
カセットテープは未だ根強い人気があるので、まれにはこれをCDにして欲しいという要望があるかも知れない。

どちらにしても、でしゃばりの人は「そんなの簡単だよ。パソコンにつないで、CD-Rに焼くだけだよ」と言うかもしれない。
でも「言うは易く行うは難し」です。

知人に、知ったかぶりをする人がいます。
彼は話がうまいので、人はすぐ信じます。
結局、頼まれてしまって後に引けなくなり、こっそり他人に依頼するのが常という感じです。

前置きが長くなりました。
先生をやっていると、音声データをCDにする必要が出てくるかもしれません。

では、実際どうやるのか、一つの例を挙げてみます。

1.録音

テレビでニュースを放送していると、記者が手のひらに収まるような録音機を持っています。
会話の録音なら、あのての録音機でもいいと思います。
しかし、音楽を録音するとなると、それなりの録音機を使った方がいいでしょう。

録音の質を決める要素は、デジタルですから、方眼紙を想像すると縦軸目盛に当たるダイナミックレンジ(音の大きさの幅)であるbitと横軸目盛に当たるサンプリング周波数(Hz)が支配します。

CD並の音質を求めるなら、16bit、44.1KHzにします。
つまり、CDの規格と同じにするわけです。

もう一つ大切なのは、音声データの形式です。
これは「リニアPCM録音」という録音形式を選びます。
リニアPCM録音とは、録音データを圧縮しない方式の録音です。
音楽ではMP3という圧縮方式が、よく使われていますが、CD作成を前提にこの方法を使うとやっかいです。
メモリはたくさん必要ですが、圧縮しない方式を使いましょう。
具体的には、Windows標準の圧縮しない方式のWAV形式を使いましょう。

と言うことは、CD作成、音楽録音と言った場合、WAV形式(リニア形式)で録音できないデジタル録音機は選択外と言うことです。

2.取りなおしのきかない録音

写真でもそうですが、入学式の記念写真のようなものは取りなおしがききません。
音楽会の録音もそうです。
こういう場合は、電源とか機器の故障、録音メモりの不足などに注意しておかねばなりません。

3.編集

経験のない人は、録音データをすぐにCD-Rに焼き付ければよいように思うかもしれません。
しかし、そのように作ったCDは、せっかく作っても非常に利用しにくいものになります。

(1)録音レベルの調整

通常のデジタル録音は、最大の音量が100dBです。
100dBを超えると歪みます。
だから、このレベルを超えないように録音しますが、歪みを恐れて弱音の連続になると、つまらない音になります。また、聴くときにボリュームをかなり上げなくては聞きにくいのもよくないです。
それで、はじめに録音した音を最適な音量にします。
これをノーマライズと言います。

(2)トラックナンバーをつける

CDに録音されている曲には、曲ごとに番号がついています。
これがトラックナンバーです。
録音したままのデータには、このトラックナンバーがありませんから、これをつける必要があります。
あわせて、不要な部分を削除する必要もあります。
私はこの作業をする時には、SONARというDTP(DAW)ソフトを使っています。

SoundEdit_s.jpg


編集が終わったら、曲の順番ごとにCDに書き込むデータとして書き出します。
この時、CDと同じ規格の16bit、44.1KHzにします。
これを間違えるとCDができません。
(もっとも、どんなデータもCD規格に修正して書き込んでくれるソフトがあれば別ですが)

(3)書き出したデータの微修正

CD用として書き出したデータは、このあと、CD-Rの書き込み機(ドライブ)でCDを作成することができますが、一つ一つのデータの前後には、観客のざわめきや余計な拍手が入っていたりします。
また、前後に無音部分を足したい場合もあります。
こういう時、私はSoundEngine(無料=個人使用)というソフトを使っています。

SoundEngine_s.jpg


ここまでできたら、パソコンの書き込みソフトとドライブを使って、CDを完成させます。

(4)CDのレーベル印刷

試聴できるCDが完成しても、真っ白なCDでは何が入っているのか、何番目に目的の曲が入っているのかわかりませんので、中身がわかるようにCDのレーベル面に印刷します。

手書きという方法もありますが、見た目にもよくないし、曲数が多いと手書きは困難です。

cd.JPG


写真は最近作ったものですが、34曲もあるので、手書きは無理です。
レーベル印刷のできるプリンターで、印刷しましょう。

なお「CD」のロゴ(DISK)も入れた方がDVDと区別できていいと思います。

CD制作はめんどうなようですが、こういうことを「若い人」に任せて実践をしないと頭も退化するのではないかと思います。
専門家も頭の働きの低下は、年のせいではないと言っています。
「使わないものは衰える」と言っています。

要領がよくなって、仕事を若い人に負わせるのは、少しも得ではないと思います。
そのつけは、年とともに増してきます。
口だけ達者で「空論」を言っていると言われないようにしたいものです。


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2014年06月11日

自分の身の回りさえ管理できないのに人ごととは

■自立した大人に

大人に対して自立というのもおかしな気がするが、自分のことは自分でするで述べたように、特に男は自分で自分の生活が守れない人がいる。
日本の古い、家中心の生活では男が稼いで妻、子どもを養う形が普通であったが、それはとっくに崩れたはずだが、男の心には残っていると感じることがある。

もちろん、今でも男の稼ぎさえあれば、家事全般を男がしなくてもよい。
しかし、共稼ぎの生活をしていて、男が威張っていてはおかしいのである。

私が小学校に務めていた時「お前、そんなに家のことができなければ、教員を辞めよ」と旦那から言われていた女教師がいた。
旦那は大きな会社の重役だった。

男は甲斐性(かいしょう)さえあれば、そういうこともできる。
できないならば、全部自分でやるしかない。

教員も個人差はあるが、10年、20年経つと、年が多いだけで何だか勝手に偉くなっている人がいる。
そういう人には、一体何が偉いのか考えてもらいたい。
オーケストラの指揮者は、年を経るにつれ、すばらしい指揮ぶりを見せることで、若手指揮者を尊敬させるものが身についてくる。
わざわざ偉そうにする必要はない。

指揮者と教師が似ているというのは、新人もベテランも同じ仕事をしているということだ。
だから、教師も10年、20年と経験を積んだら、自然に若い先生が「さすが」というものを身につけていなければならない。
それが、教師の場合は二通りに分かれるようだ。

ある先生は、数学の先生なのに、40代で数学の問題が解けない。
つまり、教師になって研究を続けて定年でも力が伸びている人と、新卒時が最高で退化していく人がいる。
指揮者は間違いなく右肩上がりで伸びていく、80歳を過ぎても伸び続けている。
私が知っている指揮者の最高齢は96歳で、演奏旅行中に亡くなった人だ。
(指揮の世界は実力の世界だから、年の功で仕事をさせてもらえるということはない→指揮者の意味がわからない人が、たまにいるので、あえてつけ加えた)

年を取った教師が語れるのは、自画自賛ではなく、自分自身の生き様であり、授業実践そのもので若い人を納得させるものであるはずだ。

私が学校の教員に自立をというのは「親方日の丸」で頭が退化すると、年を経るに連れ悲劇が待っていると言うことだ。
研究を続けること、自分の身の回りのことは奥さんがいなくても、できることも大切と言いたい。

■スーパーへ行こう

私の家の近くには有料駐車場がある。
最前列には目立つ看板で「前向き駐車」と書かれている。
時々、駐車の状態を見ると、そういう看板があるにも関わらず、前向き駐車でない車がある。
この駐車場は、駐車すると下からロックする金属板が上がるしかけになっている。
しかし、出る時料金を精算しないで出ようとし、ガガガと音を立てていた人がいた。

駅前にはバスターミナルがある。
もちろんその中は立ち入り禁止で「危険ですから入らないでください」という看板があるにも関わらず、立ち入って叱られている人を、時々見かける。

街に出ると、いろいろなも物があって、実にたくさんの情報にあふれている。
私たち人間は、それらの情報を目にし、脳で整理し判断したり、知識として蓄えたりする。
しかし、最近はこういう情報を処理する能力の、低下している人が増えてきたのではないかと感じる。

教師も、何かを教えているとはいえ、長年同じパターンを繰り返していると、新しい情報を取り入れる能力が低下していると言えないかと思う。

スーパーは毎日商品を入れ替えている。
だから、1週間ぐらい台所に立って、家庭料理をやってみると、スーパーの変化がよくわかる。
私はスーパーが情報の宝庫のように見える。

今日はほうれん草が5円安いとか、新しい豆腐が並んでいるとか、金曜日はレジで5%引いてくれるとか値段の変化がわかる。
食は毎日のことだから、食材を通じて季節感や社会の生き吹きを感じる。

スーパーは実に賑やかなところで、情報にあふれているが、その情報をどの程度吸収して消化するかは個人差があるだろう。
実際に調理を実践することで、スーパーに並んでいる食材との関わりを持ち、今、政治が、世の中がどう動いているかまでに考えを巡らすことができる。

調理を奥さんまかせにせず、たまにはスーパーに行ってみよう。
遠くの見たこともない世界を妄想したり、マスコミによる間接的な情報だけに頼らず、直に自分の目で情報を吸収しよう。

jibunnomawari.jpg


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2014年06月11日

自分のことは自分でする

ファイナンシャルプランナーの仕事に、ライフプランを作るというものがある。
ライフプランとは人生設計で、経済面、つまり一生の資金計画である。

中年以降の人の話では、旦那が定年を迎えたら離婚したいと考えている女性は多い。
理由は「旦那のおもりはもう嫌になった」というものだ。

中年以降の女性は、旦那をおもりしていると考えているのだ。
そして、旦那のおもりから開放されて、自由な生き方を求めているのだ。
若いころは「あつい仲ですね」と言われた夫婦がこうなるとは、不思議な気もする。

サラリーマン男性の典型的な働き方としては、中年ではそこそこの役職に就いて、体を動かすことが少なくなるせいか、メタボ体型になってくる人もいる。
職場では机に座っていることが多くなり、帰宅すれば奥さんが着替えさせてくれ、座ればお茶が出てくる。
食事も定刻には目の前には並ぶ。

こういう生活がすっかり身についてしまった人は、気がついてみれば、何一つ自分のことができなくなっている。
日常生活の何でもやってくれる奥さんが、たまに外出すると、一日中何も食べずテーブルの前に座っていた旦那もいるそうだ。

奥さんにしてみれば、自分のことだけでなく、絶えず旦那の身の回りのことを気にしなければならない。
こうした生活に疲れを感じる奥さんがいて、自由になりたいという節目が旦那の定年ということになる。

法律の改定で、サラリーマンの奥さんは、離婚した時、旦那の年金が最高半額もらえることになった。
この法律の施行で、離婚願望の奥さんは増えたという統計がある。
しかし「必ず半額もらえる」と勘違いしていた人もいて、もらえるのは最高半額であるということを知って、離婚願望の奥さんは減ったという統計も出ている。


私の考えでは、自分のことは全部自分でするのが当たり前だと思っている。
二人で生活していて、そうしないのは「分業」になっているからで、旦那の身の回りのことは奥さんがすべきという決まりはない。
専業主婦であれば、生活費を旦那の世話になっている分、旦那の世話もするということだと思っている。

共稼ぎであれば、この構図は崩れるので、奥さんの不満もやむをえないと考えられる。
もっとも、中には旦那を愛しているので、旦那の世話をするのが幸せと考えている奥さんもいるかも知れないが、そういう旦那は誠に幸せな人生にあると言えよう。

いずれにしても、特に、男は一人になった時、日常の生活において、自分が生きていくための術に自信があるかどうか?
別な見方をすれば、多くの男は若い時は身を粉にして働いたとしても、中年頃から次第に、子どもに戻る生活をしていないか。
何もしなくなるから、使わない機能、つまり頭脳も退化し、料理もできない、いやもう挑戦する気もないとなって、ますます退化が加速するのではないか。
そのうえ、勘違いの言葉を吐くなら、嫌われること間違いなしだろう。

男は自分の食う料理ぐらいはやってみよう。
奥さんがいつまでもいるとは、限らないだろうから。


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posted by edlwiss at 00:12 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会時評

2014年06月10日

ペーパーレス化が進む契約書

商取引を始めとし、契約書には署名、印鑑がつきものだ。
これは、本人であることの証明をするものだが、印鑑は形骸化しつつある。
印鑑が一致しているかどうかは、人の目による認証に負っている以上、人間の目をごまかせるレベルにあれば、偽造は容易である。
最も厳しい書類には、実印を使うがこれには印鑑証明を添付することが多い。
しかし、家庭用の事務用品の領域にパソコンが入り込んできて、高レベルな複写もできるようになったので、朱肉を使って押す印鑑は実印であろうと、本物かどうかの判別も怪しくなってきた。

それでも、署名と印鑑は法律で定められた形式なので、特に「認印」の場合は百円ショップで買ってきたものでも、形式が整ったということで通用してしまう。
つまり、認印は「ある」か「ない」かだけが問題なのだ。
実印の場合も、印鑑証明があるかどうかの違いだけで、同じようなもの。

かくして、証明書の印鑑は飾りのようなものになってきたとも言える。
だから、本当に本人なのかどうかの拠り所は、署名だけになってきた。

事実、押印を必要としない書類もたくさんある。
特に、外資系の会社との取引においては、その傾向が強い。
では、署名(サイン)は絶対なのかと言えばどうだろう?

外国の映画では、銀行の窓口で署名だけで現金を引き出している場面を見ることがある。
これは、他人であっても、本人と全く同じ署名ができれば、現金を引き出すことができるわけで、この手を使った有名な映画には、古いが、アラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」がある。

これはフィクションの映画だが、本人の証明としての署名もここに来て変わりつつある。
すでに経験した人もいるだろうが、紙の媒体を使わずタブレットに署名をする方法が普及しつつあることだ。
契約書のペーパーレス化である。
これが進むと、実印はどうなるのだろうか?

もう一つ、私が不安を感じるのは、タブレットのようなタッチスクリーンを支えるプログラムやOSの信頼性とセキュリティである。
ある会社ではWindows8.1を採用するという。
Androidはオープンソースだから、危ないので採用しないと言っている会社もある。
これはオープンソースの意味がわかっていない。

タッチスクリーンに文字を書くというやり方は、やがて学校にも普及しそうである。
だが、便利さだけを求めて安易にペーパーレス化することには、慎重でなければならない。
利用を誤ると、教育活動が人間の退化になるかも知れない。



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2014年06月09日

やはり大切な起承転結

2日間にわたり、ホテルに泊まり込みで二つの講演を聞いてきた。
講演は二つとも中身のある講演だったが、特に一つは話の展開に起伏がなかったので、印象が薄くなってしまった。

やはり、起承転結というのは、歴史的にも確立された表現形式で、意識して活用することには意味があると思う。
起承転結は長い歴史があるので、陳腐に思えてしまうかもしれないが、陳腐かどうかは中身の問題であって、この表現形式は聞く側(受け入れる側)の心理に合っていると思う。

音楽でも、例外はあるが、ほとんどの交響曲が4楽章で成り立っているのも、音楽を聴く側の心理に合っているからこそ到達した表現形式と言えよう。

■人は飽きる

同じようなものが続くと、人は飽きるという心理がある。
交響曲が4楽章というのも、典型的な例を挙げてみると、ドボルザークの交響曲第9番 ホ短調 作品95『新世界より』がわかりやすいかと思う(ポピュラーな交響曲として)。

sinnsekai_a.jpgじゃあ、その交響曲を聴いてみようかと思う人におすすめは、クラシックの好きな人たちの間では定番の、ケルテス指揮/ウィーンフィルハーモニー管弦楽団のドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」をおすすめしたい。

交響曲は概して演奏時間が長い。
この交響曲はたいして長い方ではない。
ベートーヴェンの交響曲第九番「合唱」は長いと思う人がいるかも知れない。
CDがアナログレコードに代わって、記録媒体にされようとしたとき、始めは60分にしようという案が出されたが、それではこの「第九」(74分)入りきれないということで、変更されたという話は有名だが、1枚でも入りきらない交響曲もある。

いずれにしろ、この長い交響曲を聴衆に飽きさせないように聴かせるために、4楽章という形式が確立されたと言える。
交響曲の4楽章は、申し合わせたわけではないだろうが、まさに起承転結である。

■起承転結を意識してみる

伝統を打ち破り、革新を目指すのも悪いとは言わないが、学校の授業でも起承転結を意識して流れを計画するのも無駄ではないと思う。

いや、むしろ積極的に使ってみて、その効果を実感することは大切ではないかと思う。

子ども側からしたら「早く終わらないかなあ」と感じていた授業が「もう終わりなの」という風になり「また、あの授業なの?」が、楽しみな授業になるかもしれない。

別な講演の話だが、その講演の講師は、最低3時間は欲しいと言っていた。
それだけは確保してくれないと、講演には応じないと言っていた。
私は、自己満足な話の連続ではないかと思い、半分はお付き合いで参加したが、結果は「もう3時間経ったの?」という感じだった。
なおかつ、その講演の影響は強く受けて、今も実践には生かしている。


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