2014年07月31日

川内原発の影響

川内原発が事故を起こすと、日本全体が壊滅すると言っている人がいる。
原発の専門家でない私には、深いことはわからない。
だが、一般的な知識を持ってしても、この話には説得力がある。

川内原発は鹿児島県にあり、桜島にも近い。
桜島の噴火や地震によって影響を受けやすい位置にある。
もし、川内原発が破壊し放射能が漏れた場合、気流は台風の進路のように日本列島を縦断する。
これで、日本列島全体が放射能に汚染されるということなのだ。

原発の稼働は安全が先行して検討されなければならないものだが、どうも、稼働が既定路線でとにかくもろもろの手続きは儀式のようにプログラムが行われて、最後の決定は政治主導という感じがしてならない。

福島の事故でもまだ懲りないのかという気がする。
相当な被害を出しながら、住民の保障や後始末に多額の費用がかかっているのに、原発は安いと言っているのは、どういう計算をしているのか。

原発推進に熱心な人、学者たちはどこに住んでいるのだろう。
私の考えでは、原発1基につき少なくとも、一人の可動監視員の住居を置き、ここへ稼働に熱心な学者を配置したらと思う。

昔から、著名な学者、例えば湯川秀樹博士らは、原発に反対だった。
しかし、政治主導で決定され現在に至っている。


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2014年07月30日

命の大切さは教えられるのか

命の大切さを教えたいなら、まず、教えたい人が、なぜ命が大切なのかを知っていなければならないだろう。
痛ましい事件が起こるたびに「命の大切さを話した」と言うが、どんな話をしたのだろうか?
もし、私に命の大切さを話してほしいと言われたなら、正直言って困ってしまう。
では、お前は命は大切だと思っていないのかと言われたら、単純にイエス、ノーで答えられないものがある。

よく「命はかけがえないものである」ということが言われるが、では「かけがえのあるもの」は大切ではないのかという疑問が湧いてくる。
モノなら復元できるという考えが浮かぶが、モノとて貴重な資源であるし、形のあるものはすべて永久ではない(保険では、犬猫はモノ扱いである)。
人間もいつかは死ぬ。
では、どうせ死ぬものだから・・・という考えが出てくる。
だから「大切とは言えない」とは言えない。

人間でなくても、飼っている犬や猫の命はどうだろう。
かわいがっている犬や猫が死んだ時、ショックを受けたという話はよく聞く。
では、死んだらすぐペットショップで代わりを買ってくればよいではないか、という考え方もできる。
私自身の気持ちを言うなら、飼った経験から、そういうものではない。
亡くなったから、代わりを買えばよいということは、感情がゆるさないのだ。

私はそういう感情を抱くのだが、他人はどうかわからない。
他人の心はわからないのだ。

かつて、子どもたちに「死んだらどうなると思うか」というアンケートをとったら「強い気持ちがあれば生き返る」という答えがかなりあったという。
このことを追究したら、どうも、ゲームの影響から「どうしようもなくなったら、リセットして再スタートができる」という考えに至ったのだろうという報告があった。

現在の子どもを取り巻く環境は、昔から比べると相当な開きがある。
「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかのかわ・・・」
のイメージは湧かない今の時代である。

家族でありながら、一緒に食卓を囲まない家も増えているようだ。
人は環境で育つという前提が正しいなら、当然、今の子どもは昔と違った育ち方をするのだろう。

「命の大切さは教えられるのか」をテーマにする前に、命に対して正面からどれほど真剣に正対したことがあるのか、まずは考えてみる必要があるのではないかと思う。

折しも、また終戦記念日が近づいてきた。
多くの人が亡くなったことを、今を生きる子どもはどう感じるだろうか。


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2014年07月29日

命を大切にする教育で何が不足してきたか

長崎であった痛ましい事件。
とにかく、教育関係者は知らん顔はしておれない立場だから、何か行動をする。
その行動は、全校集会、教育委員会主導の校長を集めた会議。
生徒にプリントを配る。
「今までにも、指導には力を入れてきたのに」と言う。

まあ、関係者は一生懸命やってきたつもりかもしれない。
しかし、努力とは会議の回数やプリントの枚数ではない。
いかに心に届いているかであり、どんなに労力を注いだとしても、心に届かなければ空振りである。
具体的にどんな指導が行われてきたかわからない私には、当然、一般論としての意見である。

大津であったいじめ自殺事件では、当該校が確か道徳の研究校ではなかったか、それに後にその学校の校長が教育長になったのではなかったか?
私の記憶に間違いがなければ、現実に行われている教育活動と、実際の教育効果とは相当に乖離しているとの印象を感じざるを得ない。

そういう実態を知ると、どうしても今日の教育が何をやっているのかという疑問も拭い切れない。
もちろん、今回の事件と今日の教育実践との関連性はわからないので、単純に結びつけることはできないが、それでも今の教育は大丈夫かと思ってしまう。

以前のブログ記事にも書いたが、子どもの起こす問題行動には順序があるということを、私自身の勉強から書いた。

1.落書きが多くなる
机やトイレ、自宅の部屋など、ナイフを使った落書きもある。
2.器物損壊
公園の木々の枝折、き損。
トイレ破壊。
3.小動物に対する虐待
虐殺もある。
4.下級生、同級生に対するいじめ、暴力
5.大人への反抗、万引き

■言う教育から行動する教育へ

ニュースで「命を大切にする教育で何が不足してきたか」を振り返ってみると言っていた。
ならば言おう、人に言うだけでなく、自身が行動する教育はなされてきたか?

だいたい、この国は行政が人に冷たくないかと思うのである。
何日も人が出てこない家に入ったら、餓死した男性の死体があった。
「握り飯が食べたい」と言っていたそうである。
生活保護を申し出たが受理されなかったそうである。

この国は、いわゆる「負け組」になると、誰も助けてくれないという気持ちが、国民に浸透していないか
負けたら最後ということが、一番の教育の成果になっていないか?

逆に、勝ち組になるには何をやってもいい。人の心?人の命?・・・「命の大切さを話した」という人が、人の命を大切にしているか?
そういう本人が出世競争に明け暮れて、人を粗末にしていないか?

子どもには「命を大切に」と言えば、子どもが命を大切にするようになる、と思っているほどバカではないだろう。だから集会を開いて「命を大切に」と言うのは儀式なのだ。

不足してきたのは「言う」だけで「自ら範を示す」という行動ではないのか?
盆暮れの付け届けはやめて、一個の握り飯が食べられない人に届けたらどうか?
その方が「命を大切に」の心は子どもたちに伝わると思うが。

■お上意識が抜けないバカ

教育委委員会というと、水戸黄門の印籠にひれ伏すバカがいる。
時代錯誤も甚だしい。
もし、社会科の教師だったらおめでたい話だが、そうだとしたら社会科の教師になっても、社会科は身につかないという証明になってしまう。
「国民主権」は理解できているか?

もっとおめでたいのは、教育委員会勤務になると、エラクなったと錯覚する輩。
「公務員は国民全体の奉仕者」という憲法第15条を知らないらしい。
(社会科の先生には周知のことですね)

常に、権力を持たない弱者、教育にあっては未成年の子どもに目を向け、大人の都合で子どもが犠牲にならないように、常日頃、目がいっていなければ「命の大切」は浸透するわけがない。

■道徳は人にやれというのではなく、自ら行うこと

子どもが社会に目を開いていく時には、範として、自分に一番近い大人が基準となると教育学事典に書かれている。
とすれば、教師は子どもに「言う」のではなく「自ら行動する」べきである。
道徳の授業が終わったあと、子どもは授業の影響を受けるのではなく、道徳を行った先生の行動を見るようになるのだろう。

安倍首相は道徳教育に熱心のようである。
だったら、霞ヶ関の官僚に屈することなく、国民のためになることなら、抵抗をはねのけてほしい。
子どもからは遠い話のようにみえるが、意外に、子どもには届く行動のように思う。

それは、首相が画期的な(国民のための)行動をすれば、大臣、以下行政に変化が起こり、その変化を子どもも察知するからだと思う。


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2014年07月28日

ウォーゲーム

最も素直なのはコンピュータで、素直さの危険性を強烈に訴えているのがこの映画である。
wargame.jpg
初めて観たのはPIONEERのレーザーディスクの全盛期で、この映画の素材になったのはアメリカで実際に起こった事件をもとにしている。
コンピュータに強い高校生が主人公で、知識を活かして国防省に侵入してしまうところまでは、ただの侵入者だが、ソ連からの核ミサイルの攻撃と間違えられ、対抗処置として核ミサイルのスイッチを押す寸前にまで行ってしまう。

ボタンひとつで数千万人が死んでしまうとなると、担当の兵士は、それが大統領命令あっても本当に命令を忠実に実行するのか?

担当者には秘密で模擬訓練を行う。
結局、自分の押したボタンで数千万人が死ぬとなると、押せない。

だから、重要な命令は人間に任せられないということで、コンピュータに担当させることになる。
その後、ソ連からの核攻撃という情報が入って警戒態勢から、発射命令に移る。
ここで、ソ連からの核攻撃は誤報とわかるが、もはや解除命令はコンピュータが受け入れない段階に入っている。

■コンピュータは素直だが

単純に素直がいいという考えは、人間を人間らしくしない方向に持っていくおそれがある。
人間の活動は複雑なもので、それは人間であるからこそ複雑と言えるのではないか。

戦争中は部下の命を守るために、命令に背いて軍法会議にかけられた上官もいた。
この上官は素直ではないが、人間的である。

人間教育するには、子どもが素直でないときこそ、なぜそういう態度にでるのだろうと考えてみる、心の余裕がほしい。
面倒なときこそ、教材が存在するのであって、よい教育ができると考えたほうがよいのではないか。

苦労してもしなくても同じ給料だから、面倒をかけない子どもがいいという、体質が身についてしまわない教師を望みたい。


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2014年07月27日

はじめに「稼働ありき」だからおかしくなる〜原発

はじめに「結論ありき」で進める論法が悪いわけではない。
数学に背理法という証明方法があるから。
しかし、背理法は「証明すべき命題の仮定の外に,結論の否定をも仮定して推論を行い,矛盾を導くことにより,もとの命題を証明する方法」であるから、そこのところを注意すべきである。

■科学者と言えども「金の力」に心を動かされる人はいるだろう

原発の討論を聞いていると、つくづく「金の力」「利権」の背景を感じてしまう。
学歴や地位の高い人は、社会的に影響力が大きかったり、政治に利用されやすい力が働くだろうから、いくら頭が良くても、正義感がない人は国民の味方にはなり得ないだろう。

例えば「電力が不足すると日本経済に与える打撃が大きい、だから原発の稼働は必要だ」と主張する人がいる。
これは「腹が減ったら餓死するかも知れない、だから毒饅頭(どくまんじゅう)は必要だ」と言っているようなものだ。

誰も餓死したいと思う人はいないだろう。だからと言って「毒饅頭を食べろ」と言われたら、無条件に「はい」と言って食べるだろうか?

必ず「他に食べるものはないか?」と聞くに違いない。

しかし、毒饅頭しか食べるものはないようなことを言う人がいる。
それで、まじめな国民は「毒に当たらないことを祈って食べなきゃならんのか?」と考える人もいる。
子どもだけには、毒のないものをと考える親もいるだろう。
ところが、ある時、食べ物は毒饅頭しかないと言っていた人の家を、偶然訪ねた時「すきやき」食べているのを見てしまったとしたらどうだろう。
変に思って、さらに調べると、この人たちは別の人たちから「国民に毒饅頭を食べるように勧めることで、多額のお金がもらえることになっていた」と知ったらどうだろう?
これは、今、話題になっている中国の食材問題とどれほど違うのだろう。

■自分は毒饅頭を食わない

ある中国人に聞いたら、中国国内で作っている食材は買わないと言ったそうだ。
これは、毒饅頭だけが食物ではないと知っているからだ。

原発稼働を推進する人たちは「世界一厳しい安全基準に合格した原発」と言いながら、自分たちは絶対に原発のある地域には住まない。
それは、毒饅頭を食べ続けていたら、いつか毒にあたって死んでしまうことを知っているように、いつか原発事故はあるし、そうしたら助からないことを知っているからだ。
つまり、自分は原発事故の犠牲にならないところに住む、ことを前提にして議論しているのだ。

日本の学歴偏重は、このように自分さえよければいいという学者をたくさん排出してきたようだ。
これで、道徳教育の充実が達成されるのだろうか?

■国民のための発言をしても一円にもならない

原稿用紙1枚程度、言うとおりに書いたら五百万円いただけるという人がいたらしい。
五百万円の支出は、料金の値上げで対処するだけだから、出す方は痛くも痒くもない。

家の近くに宝くじ売り場があります。一等六億円だそうです。
時々通りかかると、買う人の列ができています。

でも、誰それの言うように書いたり、発言するだけで、宝くじの賞金を上回るお金が手に入る人たちもいます。
でも、言うようにならない人もいます。その人たちは一円も得られません。
大した人たちだと思います。

そういう私も、六億円を目の前に出されたら、何だって証言するかも知れません。
だって、それだけあれば、被害に遭わない国外に脱出して安全に暮らせますから。

「男の顔は履歴書」と言いました。
テレビの討論会では、話だけでなく顔もよく見ましょう。


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2014年07月26日

教科書のタブレット化より先にやることがある

学校はガラパゴス化していると、感じるのだが、その原因は学校独特の閉鎖的環境にあると思っている。
こんなことを言うと、気分を悪くする人がいるかも知れないが、私には嫌み(いやみ)を言う趣味はないので、冷静に読んでもらいたいと思う。

■トップの問題

私は、トップは常に革新的でなければならないと思う。
企業の場合は、トップが革新的でないと、会社は潰れてしまうのに対し、多くの学校のトップは革新的とは言えない。

ガラパゴス化の第一の原因は、トップの頭の中の停滞にある。
昔は優秀であった人も、うかうかしていたら倒産の憂き目に合うという危機感のなさから、教育革新から頭は離れ、頭が硬化していくうちに、学校という組織のガラパゴス化をもたらしている。

このことについて、私には忘れられない思い出がある。

PCがまだ、自分で必要なプログラムは自分で作らなければならないころ、私は学校の業務改善のプログラムをどんどん作っていた。
これらにかかる経費は、そうすぐには認めれれるものではないので、すべて自費でやっていたのだが、それを見た校長は「今の若い人は、機械を使って仕事を怠けようとしている」と、間接的に皮肉を言っていた。

指導案は手書きが主流だったころだから、プリンターで印字された私の指導案は目立った。
(もちろん、目立とうと思ってやったわけではない。)
この指導案を見た校長は、PCを使って指導案を作ると、字数が少なくて済む、つまり少ない字数でスペースが埋まるので仕事が怠けられるという発想なのだ。

事実は全く反対で、PCを使った方がはるかに字数は多くできる。
だが、とにかく「今の若い人は、機械を使って仕事を怠けようとしている」が原点になっている。
そう考えたら、自ら検証してみたらよいと思うのだが、そこまで立ち入って考えるという頭の働きはなくなっているわけだ。

学校のガラパゴス化の第一原因は、トップの頭の硬化にある。

■何でも新しいものを取り入れればよいというものではない

時代の生み出した新しいものが入っていれば、時代の潮流に乗っているというものではない。
これは、学校でも企業と同じように費用対効果を考えるべきである。

特に、忙しいと言われる学校の先生の助けになるものは、積極的に取り入れるべきである。
だが、何でも合理化すればよいというものではない。
例えば、通知表の印字化に私は賛成できない。

教科書のタブレット化など、費用対効果は期待できないと思うし、むしろマイナスかもしれない。
それより、教員一人一人にタブレットを配り、教室の大型液晶テレビに教材提示したり、職員間の連絡、教育計画の提示に利用する方がいい。
この場合、ネットワークは学区内のローカルネットワーク中心の利用にすべきと考える。

次に、各教室に液晶の電光掲示板を設置する。
これは、地デジ放送でも番組の途中に「ただいま、○○地方に震度△△の地震がありました」と伝達できるイメージをまず考えてもらいたい。

全校に伝達すべき、緊急事態の時は授業中でも割り込んで、全校放送をしなければならないが、授業を邪魔せず伝達したい場合は電光掲示板を使う。
普段は各学級の時間割を表示するようにすると、授業変更にも便利である。
もちろん、行事予定やその他の伝達にも利用する。

これらの施設変更には大した費用はかからない。
障害は日常の学校運営の合理化に、どれほど役立つかというイメージが湧くかどうかである。

大した費用はかからないと言っても、それは行政のベースの話で、実行には個人から考えたら多額であるが、費用対効果には大きなものがあると思っている。

こうしたことは、腰の重い公立学校ではなかなか期待薄で、私立学校に期待できるかも知れない。
私立学校には先進的に、公立にも影響を与える改革を期待したい。


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2014年07月26日

タブレットの売れ行き低下

このところタブレットの売れ行きが低下しているそうだ。

これは、タブレットの価値が低下したわけではないと思う。
商品として、世に登場した時は珍しさも手伝って売れたということがあっただろう。
しかし、自分の生活に必要かどうかがわかってきて、整理されてきたのではないかと思う。
それに、ウルトラブックと言われるノート型パソコンの追い上げが加わったこともある。

■タブレットの存在価値は?

携帯性と大画面がタブレットの価値だろう。

■タブレットの欠点は?

第一に携帯性だが、存在価値(長所)で挙げておきながら矛盾するわけだが、それはライバルにスマートフォンがあるからだ。
スマートフォンは画面が小さいが、高精細になったこともあって、一般にはタブレットより携帯性が優っていること。
それに、画面が大きいこともあって、使っていると、パソコンのように仕事をさせたいという気持ちが出てくることがある。
しかし、パソコンのようにはいかないので、ウルトラブックなどに流れてしまう。

■タブレットの使い道

単なる表示端末としては便利である。
表示だけと割りきってしまえば、キーボードがないということが、有利さになる。

だから、病院における患者のカルテを表示させる。
セールスマンが商品説明に使うと言った用途にはいい。

■学校での使い道は

児童・生徒全員に渡して教科書代わりにするメリットは、あまり感じられない。
逆に管理の大変さがデメリットになる。
かつて流行った、アナライザーの端末としての使い道はあるかも知れない。

スマホやタブレットを使い慣れている人は、よく知っていると思うが、気になるのは通信費、特にパケット量にかかる課金だ。
そこで、WiFiをなるべく使おうとしていると思う。
学校で何人かが使うという時も、当然、WiFi利用を考えるだろうから、タブレット端末そのものさえあれば、通信費はかからない。

私もタブレットを持っているが、WiFiでしか使っていないので、通信会社の支払いは全くない。
softbankはiPadを売る時、LTE+WiFiモデルとWiFiのみのモデルを売っている。
最近はdocomoもWiFiモデルを売っているが、機種が限られる。

どちらにしても、限られた場所だけで大勢が使う場合は、当然WiFiモデルが選択の対象になるわけで、1台ごとの通信契約は必要ない。
スマホやタブレット使用者には常識的な知識で「WiFiって何?」と言っている段階の人に、相談するのは要注意。

私が思うには、教師一人一人が(タブレットを)携帯し、教室の大型液晶テレビでプレゼンテーションに使うのがよいと思う。
例えば、地理の学習なら Google Earth をタブレットに入れて、液晶テレビ表示するのは効果的と思う。

各教師がタブレットを携帯するのは、他にもメリットがあると思うが、このことについては、別に機会を設けたいと思う。


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2014年07月24日

「さすが先生」とは

指導計画に従って、教科内容を児童生徒に、口頭で語るなり文書で示すだけなら、それはただの伝達者に過ぎない
そこには先生としての専門性は何もない。

prokyousi.jpg
ただの伝達者でよいなら、特に何年もかけて教育学を学ぶ必要はない。
しかし、先生というからには、先生としての専門性があるはずだ。
では、先生としての専門性とは何だろう。

先生の活動に「教える」ということがある。
「先生が教える」とはどういうことだろう?
例えば「漢字を教える」とは、漢字が読める、漢字が書けるようにすることである。
「平泳ぎを教える」とは、平泳ぎの説明をすることだけでなく、平泳ぎで泳げるようにすることである。

「教える」ことの中身には「できるようにする」が含まれている。

■目標と目標を実現する人とは別の話しである

「日本サッカーを世界一にする」とは目標であり、目標を実現するために請け負う人が監督である。

教育目標を実現するための請負人が、先生である。

■先生は自分の方法で目標の実現を考える

ヘレン・ケラーの先生、サリバンは三重苦のヘレン・ケラーの教育を請け負い、独自のやり方で教育を行った。
ヘレン・ケラーがどのようにして、三重苦の壁を乗り越えたかは、ヘレン・ケラー自身の人間性とサリバンの考えた教育法の双方の力と言える。

先生は対象となる生徒の人間性を捉え、自身のアイデアを駆使して教育をずる。
これが先生の教育活動であり、専門性と言える。

国民は、先生の専門性に対して給料を払っているのであって、単なる伝達者に給料を払う気持ちはないだろう。

■やる気のない児童・生徒はどうにもならないか

スーパーに並べるトマトなら、実ったトマトを選別し、商品に適するかどうかを判定するのだが、公教育の先生の仕事は児童・生徒を選別することではない。

全ての児童・生徒の可能性を見出し自己実現できるように、導くことが先生の仕事である。
だから、学校の宣伝となる目立つ子どもを集めることではなく、一般人が、指導のしようがないとあきらめるような子どもを「信じられない」と言われるほどにすることこそが、先生の専門性である。

本来、人は向上心、好奇心、知的欲求を持っているものと考え、それが見えないと感じた場合は、何か問題を抱えていると考え、そこから教育を考えるのが先生である。

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本日は、プロ教師にとっては、釈迦に説法なことを書いてみた。
(対する、意見、感想は歓迎します。私は質問されても怒りません)

もし、釈迦に説法ではないとしたら、その人はプロ教師ではないということ。

なお「プロ」とは「それで生活の糧を得ている仕事をする人」と「専門的に優れている人」の2つの意味があるが、本日の話は、後者のプロ教師の意味の話である。


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2014年07月23日

机上の空論と言われないために

「○○するには□□すればよい」と簡単に言う人がいるが、言うは易し行うは難しで実現不可能なことを言うと、ホラ吹き、空論マニアの類にされてしまう。

「オオカミが出た」のオオカミ少年と同じで、真に受ける人はいなくなる。
(今度はまた何をバカなことを言うかと、バカにされて有名になるかもしれないが)

■オオカミ少年のレッテルを貼られないために

オオカミ少年にされやすいのは、ホラは吹くけど、自らは実践したことがないという人だろう。
だから、信用を得るためには、まず自ら実践してみること、でなければ、こと細かに手順を示すべきだろう。

身近な例では、テレビでよく放映される料理番組をイメージしてみる。

「和風カレー丼」の作り方と言ったら、作り方がイメージできるだろうか?
和風と言う以上、ただのカレー丼ではない。
親子丼をアレンジして、カレーをかければいいだろうぐらいの知識しかなければ、自分で作って自分で食べるなら、自己責任ということでかまわない。

しかし、家庭科の授業で、しかも公開授業でとなると「親子丼にカレーをかければよい」なんて言うのは無責任。
もし、それでやろうとしても、材料はどう調達するか、食器は何がいるか、調理室にはあるのか、・・・等々、具体的に考えておかなくてはならないことがたくさんある。

美味しい和風カレー丼にするには、食材の分量、調味料の分量を具体的な数値で何グラムと示さなくてはならない。

テレビでは、調理手順が示されるととともに、塩小さじ1杯、卵2個、・・・などと表示される。
それでも、初めて作る人には自身が持てない。
だから「今日放送のテキストは"今月の料理”に載せてあります」と紹介がある。

先日放送の料理番組では、講師が「塩は塩の入った瓶で、直接かけるのではなく、必ず必要量だけ匙にとって使ってください」と言っていた。
理由は「塩の瓶を直接、鍋の上に持って行くと、湯気が塩に入って湿るから」と説明していた。

このようなことは、実践を積んだ人だから気づくことだろう。

もし、このブログを読んで見える人がいたら「和風カレー丼」とは、いったいどんなものなのか、まず自分で考えてみたのち、こちらを見ていただければ、自分の想像との違いがわかると思う。

■言うだけ人間は無責任

私は、コンサートに携わることが多い。
携わり方は、聴衆として、主催者として、演奏者としてといろいろな立場がある。

ただ聴衆で行く場合は気楽である。
しかし、その他の立場の時は、神経をつかうことが多い。
舞台監督、会場係、・・・など、係がプロの場合はいいが、コンサートを聴きに行った経験しかないという人が企画すると大変である。

専用のコンサートホールでやる場合はいい。
そうでなくて、たまに変わったところでやろうとする場合は大変である。
コンサートを行うという前提の会場ではないからである。

これも、日頃、机上の空論しか言わない人は「やることにしよう」と言えば、それだけでできると思っているから厄介である。

電源は、控室は、譜面台は、配置は・・・などもろもろのことを考えていない。
空調の音が邪魔になって、演奏者に気の毒だったこともある。

「会場がお粗末だから、一流の演奏家が来てくれない」と言っていた人がいた。
それは、全く「わかっていない」人である。

演奏家が行きたくないと思うのは、演奏者が不自由なく演奏できる環境を整えないからである。

完成したばかりのホールでの演奏を頼まれたことがある。
「ピアノは大丈夫ですか?」と念をおしておいたが「新品だから大丈夫です」と言っていたので、不安を感じていたが、案の定、調律がしてなかった。

最近は係が、いかにもプロという格好をしているが、コンサートにはどういう環境を整えたらよいかということがわからない人がいる。
普通は、音大を出た人や、自分も演奏者としての経験があるという人が係をやるので、見落としはないが、格好だけのプロは、中身は素人なので、演奏者の機嫌を損ねることがある。

コンサート専用のホールなら、譜面台が足りないとか、違うピアノ椅子が要るといった場合、すぐ用意できるが、そうでない場所では調達できないで大変なことになる場合がある。

演奏家は余計なことに気を遣わないで、演奏に集中できるところへ行きたいのである。

■ICT機器の利用を簡単に言う人は、まず自分でやってみること

配慮は、料理番組とおなじであるが、脇役となる周辺機器が大切である。
最近はパワーポイントでプレゼンテーションを行うことが多いが、その時主役と言える機器はPC、プロジェクター、スクリーンで、これらは目立つから大抵の人はピンとくる。

しかし、これらも、周りによく知った人がいて、スムースに行っていることが多いが、いざパワーポイントでプレゼンテーションをするからと言って、自分の作った資料とPCしか持って行かない人は、時に立ち往生することがある。
機器をつなぐケーブル、コネクターがない、規格が合わないなど。
実践を多く積んでいる人は、こういうことで苦労した経験もあるので、ぬかりあはない。
だから、言う前に自分でやってみろと私は言いたいのである。

まして、学校の授業で教科書代わりにタブレットを使うと、簡単に言う人はまず自分で実践してみるべきだ。
どんなタブレットを使う?
タブレットには、どんな方法で資料を転送する?
タブレットのネットワークはどう接続する?
電源は?
保管は?
等々、何の問題もない如く、実践経験を経て本番に臨まなければ、机上の空論だけでは実現できない。

ただ、そういう授業をやれとだけ一言だけでやらせられる立場の人は、校長である。

私はかつて小学校に勤めていたことがあり、視聴覚を担当していた。
校長が視聴覚機器を使った、先進的な教育をやりたいという気持ちを持っていて、私に「これこれ、こういうことをやってくれないか」と相談を持ちかけられた。

私は費用と環境面の理由でできないと断った。
ところが、校長は数日後「君が必要と言ったものは、全部揃えることにした」といったので、やらざるを得ないことになった。
もちろん、実現の運びとなったわけだが、大した校長だと思った。

言うだけでなく、実行する人だからだ。

校長はやりたいことを、教育委員会や市に働きかけて、実現させられる立場にある。

ものごとを簡単に言う人は、自分がそう言える立場にあるかどうか、考えてみることも大切だ。


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2014年07月22日

相性

相性というものは、いろいろなところにあるものだと思います。
人でもモノでもです。
それは、それぞれが個性を持っていて、その個性と個性がうまく協調できない時に、相性の悪さが出るのだと思います。

個性というのは、そのモノ(人)が本来持っている特有の性質ですから、互いに相性が悪い時にはどちらかが悪いとうものではありません。
例えば、水と油が溶け合わない代表として言われるようなものです。

■個性と相性を知って望ましい結果を得る

「人それぞれの役割」では、望ましい集団とは、音楽で言う良いアンサンブルと同じだと言いました。

人が何人か集まっていると、誰がいい悪いではなく、相性の良さ悪さが出ると思います。

では、相性の悪さを解消するにはどうしたらよいのでしょうか?

私がヒントを得たのは、やはり音楽からでした。

オーケストラや吹奏楽の楽器にはいろいろあって、それぞれ個性的な音を出しています。
作曲家はそれらの楽器の個性をよく把握していて、うまく使っています。
指揮者はそういう作曲家の意図をよく理解していて、演奏を実現するわけです。

だから、多彩な楽器を上手く使うには、個々の楽器の特質(個性)をよく知っている必要があります。
現実には、学校で吹奏楽を指導している先生が心得ている、最低限の知識の一つだと思います。

具体的な例を挙げてみると、トランペットとクラリネットが一緒に演奏するのは相性がよくありません。
だから、そういう楽譜を書くプロはいないでしょう。

でも、どうしてもトランペットとクラリネットを一緒に使いたいという場合、解決方法があります。
それは、そこにサキソフォンかホルンを加えるのです。

そうすると、よく溶け合うようになります。
トランペットは金管楽器、クラリネットは木管楽器と分類が違います。
サキソフィオンは木管楽器ですが、金管楽器とも相性がいいのです。
また、ホルンは金管楽器でありながら木管楽器と相性がいいのです。

こういうことを、グループづくりや人事に応用したらと思うのです。

例えば、AさんとBさんはそれぞれいい人なのだが、どうもしっくりしないという場合、CさんというAさんともBさんとも合うという人を入れることにより、AさんもBさんもCさんも全員が気分よく動けるということです。
この場合の効果は1+1+1=3ではなく、3より大きくなるのです。

■結局、世の中のものは、個性と個性のぶつかり合いと、個性と個性を融合するものからできている

楽器に例えた話に違和感を感じる人がいるかも知れません。
しかし、音楽が好きで、オーケストラを長年聴いてきたという人には、自然に今まで話してきた人の調和というものが身についているのだと思います。

私たちは生きていくために、いろいろなものを食べますが、それらが体の中で吸収され血や肉となるのと同じようなものだと思うのです。
それを、教養と言っていると思うのです。

学校の教育課程にいろいろな科目があるのも、食事でいろいろな栄養素をまかなうようなもので、本来は教養化するために考えられたのだと私は思っています。
それが、いつからか受験目的化して、教養がどこかへ行ってしまったように思います。

社会にはいろいろな人がいて、全体が調和することが望ましく、調和に向かって進歩を続けることで全員が幸福で文化的な社会に向かって行くべきだと思います。

ただ、そういう社会のの中にあって、毒にしかならないものがあったり、壊れてしまうこと(他人の不幸がおもしろいと思う人)を望んでいる人がいるとしたら、それはがん細胞のようなものでしょう。

時に、本音は他人の不幸を喜んでいるのではと思う人がいるのは、悲しいことです。
クリスチャンから言うと、人間の社会を、実は破壊しようという人がいて、こういう人をサタンというのだそうです。

サタンは人間のふりをして、紛れ込んでいることもあるそうですから、気をつけましょう。


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2014年07月21日

人それぞれの役割

先日、室内楽のコンサートに行ってきました。
シューベルトのピアノ五重奏曲「ます」が演奏されました。
ピアノ五重奏曲というと、通常はヴァイオリン+ヴァイオリン+ヴィオラ+チェロの弦楽四重奏にピアノが加わるという編成ですが、このシューベルトの五重奏曲はヴァイオリンが1本で、その代わりにコントラバスが入った編成です。
トッププレーヤーの集まりで素晴らしい演奏でした。

こういう編成の中で、ピアノは大きい楽器なので、他の弦楽器を蹴散らしてピアノの自己主張という演奏にもなりやすいです。
もちろん、そういう演奏は下手な演奏ですが。

今回のピアノは素晴らしい演奏でした。
自分が伴奏に回る時は徹底的に抑えて、しかも他の人の音が浮き出る音色で融け合っていました。
逆に自分が主役の時は、キラキラと輝く美しい音で弾いていました。

こういったことは、プロではあたりまえのことですが、改めて文章で書きたいほど感動を受けたということです。

ステージの演奏が終わった後は、ロビーでも少し演奏があって、フアンとのより身近な交流がありました。
ピアノの若い女性は、素晴らしく上手く、出るときは出て、控えるときは控えてという、メリハリのある印象的な演奏をしましたが、ロビーで会った時はごく控えめで謙虚な感じの人でした。

音楽の話をしてきましたが、これは私達の生活においても、同じことが言えるのであって、そういう意味では「音楽は人生そのもの」「人生が凝縮されたもの」と言えます。

私は、ほとんど毎日運転しますが、他の車の流れに乗って運転するときは、全体の交通の邪魔にならない運転をしなければなりません。
それは、いつも控えめにすればよいということではなく、時には自分の意思をはっきりし、他の運転手から見た時わかりやすい運転をしなければなりません。
また、店舗などから公道に出るときは、他の車が開けて「どうぞ」と言ってくれますが、今度は自分が譲る番ということもあります。

こうしたことは、自車から他車へ大声で伝えているのではなく、人間同士互いの呼吸で感じ合っていることが多いのです。
初心者が公道に出るときの不安は、運転技術より、こうした呼吸に馴染んでいないことからくるものと思っています。

こう考えてくると、世の中(社会)というのは「大きなアンサンブル」とも言えます。
そして、みんなが互いに気持よく暮らせることが、良いアンサンブルと同じだと言えます。

しかし、時にこのアンサンブルを乱す人もいます。

自分だけのわがままな運転。
騒音を立てた運転。
目立ちたくてしょうがない、センスの悪い装飾。

演奏では、和音からはみ出た音を平気で出している。
自分は遠慮すべきところなのに、大きく邪魔な音を出している等々です。

私はかつて、女子ばかりの高校の吹奏楽部の指導に行っていました。
つまり、女子高生の部活ですが、はじめは新しい指導者に緊張していますが、慣れてきて、この人は怖くないと感じ始めると、賑やかになってきます。

吹奏楽部と言えば、時々、テレビで軍隊のような指導風景が紹介されたりします。
でも、私は軍隊調の練習は大嫌いです。
なぜかと言うと、変に硬い空気を作り、それが音楽に影響するからです。

この先生は優しい(?)と思うのか、ずいぶん遠慮のないことも言いますが、私はそのくらい遠慮なくモノが言える環境の方が、生徒をよく知ることができると思っています。
しかし、けじめのない集団はいけません。
では、けじめはどうしてつくのかというと、時間、時刻を守ること、納得のいく指揮をすることです。
みんな、いいものを作りたいわけですから、それでけじめもつき、まとまっていきます。

でも、一人だけ例外の女子がいました。
これはかつて記事にかいたのですが、部員なのに練習にでてこない生徒がいたのです。
この生徒、コンクールの当日だけ出てきました。
しかも、寝坊して遅刻してきました。

当日の朝、初めてみんなと音を出すわけです。
彼女の気持ちとしては、コンクールだけは出たかったのでしょう。
今まで練習してきたみんなの音に、自分の音が加わってバランスを壊すという配慮は全くないわけです。
こういう時、指導者は決断しなくてはなりません。

「ステージに出てもいいが、音は出すな」

これが私が言い渡した言葉です。

この決断は何かに似ているぞと思いました。

突如、管理者から削除されたブログです。

前々から、調和(アンサンブル)を壊すと、管理者は苦々しく思っていたのでしょう。
そのうち気づくと思っていいたのかも知れません。
しかし、これはダメダと決断したのでしょう。

他に、削除されたのに、自分は迷惑な「音」を出していると気づかなかった人もいるようです。

公道を、我が物顔で走っている暴走族と似たようなブログはいけません。

社会はみな役割を持って、持ちつ持たれつで動いているわけです。
それを乱す人は、そのままでは通りません。

■言葉で言えば指導になる?

私が一番呆れた生活指導は「○○は絶対にしない」と大きな声で叫んでいたものです。
こういう考えの指導は、言葉だけで指導の実体がないものです。

先ほどの女子高の指導では、約束の年数の指導が終わった時、校長が一番感謝してくれたのは「生徒たちの態度がよくなった」ということです。

しかし、私は生活指導はしていません。
よいアンサンブルができてくると、自然に生活態度もよくなるのです。
他人のこと、他人の迷惑を考えないでアンサンブルはできません。

望ましい態度を育成するためには、望ましい態度を口にしても実現できません。
それは身についていないからです。
だから、いかにしたら身につくかを考え、その方法を実行していくのが、教育のプロなのでしょう。


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2014年07月21日

質問すると怒る人は先生に向かない

私が、この人とはコミュニケーションが取れないなと思う人に、質問をすると怒るという人がいます。
質問は話をしっかり聞いているという裏付けでもあると思うのです。
話す側からしても、質問されるということは、よく聞いてくれているということで、嬉しいことだと思うのですが、質問すると怒る人はいます。

何か提案があるとき、提案書を検討することはよくあります。
読んでみた結果
「はじめの方にある○○と、後ろの△△とは矛盾するのではないでしょうか?」
と質問すると
「そういうことを言われますと・・・できなくなりますが・・・」
と不機嫌になる人がいました。

私はまじめに検討するつもりがあって、質問したわけなのに、とんでもない跳ね返りがありました。
同席した他の人はどうなんだろうと、顔つきを見ると、無気力無感動といった顔をしていました。

私は悟りました。
(質問してはいけないのだ)
と。

私はそのグループには新しく参加したので、それまでの伝統(?)を知らなかったことに気づきました。
つまり、この会議(検討会)は単なる儀式だったわけです。

だから、みんな中身にはあまり関心がなく、一応、形式的に終わって。
提案書はどうであろうと、それぞれ勝手にやっていく。
こういう伝統が続いていたわけです。
これも、親方日の丸の世界ではのことかもしれません。

ネットの世界にもあります。
掲示板やブログでいきまいている人がいます。
それはそれでよいのですが、まじめに読むと質問したいことが出てきたりします。
やはり、質問すると怒る人がたまにいます。

怒って「攻撃する」と言い返してくる人がいます。
「子どもには、やさしい言葉に言い直して話します」
なんて書いてある場合
「例えば、どんな言葉にするんですか?」
と質問したら「あなたのように攻撃してくると・・・」なんて言われました。
そして、あいつはどこのどういうやつだなんて、詮索も始まりました。

こういう人たちは、私から見ると「異常」の分類に入ります。
こういう人たちが先生をやると、どういう授業をするんでしょうか?

私は、こういう人たちは先生には向かないと思っています。


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おかしい人の判定項目
posted by edlwiss at 00:18 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題

2014年07月19日

スマホに振り回されるとは情けない

社会が進歩していくのは宿命である。
便利なものはこれからも出てくるだろうが、止めることはできない。

今日、スマホの所有が子どもにまで普及してきて、大人の方が右往左往しているのは情けない。
大人と言っても、すべての大人がスマホに振り回されているわけではない。

スマホが登場したのは、突然、UFOに乗った宇宙人がやってきて落としたからではない。
地球の人間が考え出したものであり、人間の知恵の進歩の延長上として現れたものである。
そう考えると、スマホの出現は必然的とさえ言える。

■なぜスマホに振り回される大人がいるのか?

学校に行っている間は、誰もが教育課程に従って、好き嫌いを問わず学年とともにより高い学習に取り組むことになる。
だが、卒業すると、自ら進んでより高い学習に取り組まない限り、そこで勉強はほとんど止まってしまう。
ほとんどというのは、生きるためにはやむを得ず強制されることもあるからだ。
強制されない限り、自ら求めて勉強する人との知恵のレベル差がつくのは当たり前のことと言える。

ピアノで音階を弾くことがやっとの人と、ショパンのポロネーズを弾く人との差は、練習(学習)の差である。
弾けるようになった人は、いつかショパンが弾けることを夢見て、毎日そのような生活を送ったに違いない。
つまり、人は「生き方」の違いによって、知恵や技能の進化に差ができてくると考えられる。
何に関95心を持って、どう生きるかは個人の自由なのだ。

スマホは人間の知恵の延長上でできたものであり、仕事をより便利にと考えていた人たちの発想から生まれたものである。
自動織機もミシンも自転車も計算機も同じ経過で登場した。

だから、いつも先端的に仕事をしょうと考えていた人たち(たとえ、それが遊び目的であったとしても)にとっては、その時点で「これはいいものができた」と待望のものだっただろう。

iPadが発売される時、行列ができたのも、待望のものが手に入ると期待していた人たちがいたからからだ。
当然、その人たちは、iPadが何をするものかを知っていたと言えるだろう。
Windows95が発売された時も相当な人だかりだったようだが、買って帰る人をつかまえて、記者が「どうしてお買いになったんですか?」と聞いたら「流行りですから」との返事だったという。パソコンがないと使えないということをその人は知らなかったという笑い話があった。中にはムードに押されて買う人がいるのかも知れない。


ところで、学校の教師は常に世の中の動きには敏感であり、学問の先導者でなければならない立場の人たちである。
そういう立場の人が、もし、子どものスマホ問題で右往左往するとしたら、あまりにも世の中の進歩に無関心で過ごしてきたのではないかと思うのである。

「学校の先生って、10年以上も同じことをやっているんですか?」と聞かれたことがある。
そういうことが通用してしまうのが、先生かも知れない。
もし、そういう仕事をしている人がいるとしたら、その人にとってスマホは衝撃かも知れない。

電気やコンピュータがわからないから、スマホが理解できないのではない。
「こういうものがあったらいいのに」という発想する人がいて、それを実現する人が技術者である。
だから、はじめに発想ありきと言える。

Excelも会計学の勉強に行っていた人が、講師の出す練習問題を見て「入力する数値が変わるだけじゃないか、計算は同じだから、数値だけ変えたらすぐに結果が出るしくみはできないか」と友人の、コンピュータ科学者ダン・ブルックリンに相談したことから、開発が始まった。

できたソフトがVisiCalcと名付けられたのは「見たままのものを計算できる」というところからきているのだろう。

リーダーに発想が豊かな人がいて、その配下に優秀な技術者がいたらいい仕事ができるだろう。

学校の先生も発想豊かであってほしいと思う。
自分の受け持ち教科での発想でよい。
国語の先生が「書き取り練習」のソフトはできないか、とか、毛筆書写の練習ができるものとか、そういう発想が浮かんだらコンピュータプログラマーに相談するというような、活動があってほしいと思う。

常に創造的な生活をしていれば、スマホを恐れることはないはずだ。
むしろ、子どもより先に行っていて「さすが先生」と思われるようでありたい。


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判定項目
posted by edlwiss at 23:57 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2014年07月18日

嫌みは環境汚染である

はじめに「嫌みとは何か」意味を確認しておこう。

いや‐み【嫌み/×厭み】
1 人に不快な思いを与える言動。あてつけや皮肉。また、それによって不快感を与えるさま。
2 ことさらに気どっていて、いやらしいさま。goo辞書

嫌みは人に不快感を与えるだけである。
だから何もいいことはない。
もっとも、嫌みを言う本人だけが、嫌みをいうことによって精神の安定を保っているのだろう。
そうすると、嫌みというのは典型的に「自分さえよければいい」という行動と言える。

嫌みを聞かされる方にとっては、何もいいことはない。
本人だけよくて、他人にはよくないものは、他にあるかと探すと「喫煙」がある。
だから、タバコを吸わない人にとっては「嫌煙権」がある。

■嫌み室

どうしてもタバコを吸いたい人のために、喫煙室がある。
同じように、どうしても嫌みを言いたい人のために、嫌み室を作ったらどうだろう。
「嫌みは嫌み室でお願いします」と明示しておくのもよい。
こうすることにより、嫌みの空気汚染は防げるだろう。

■良薬は口に苦し

人には不快なものでも、受け入れようという気持ちがある。
それをうまく表した言葉が、■良薬は口に苦しである。

だから、嫌みの場合は不快しかないから、これは苦いだけで効かない薬のようなものである。
こういうものを、積極的受け入れる人はいないだろう。

それでは、良薬は口に苦しにあたるような発言はないかと考えてみた。
すると「批判」という言葉が浮かんできた。
ひ‐はん 【批判】
1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。コトバンク

嫌みがただ不快にさせるだけと違って、特に2.の「誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じる」のところは大きな違いである。
誤りや欠点を指摘されるのは不快かも知れないが「正すべき」方向性を示してもらえるので、苦くても飲む薬と同じになるのだ。

■誰のために

もうひとつ大切な視点は、誰にために発言しているのかということだろう。

嫌みとは悪口と同類なもので、言う本人のためだけのものである。
では、これらと批判の違いは何かと言うと、ある人は
1.社会が良くなるための視点から書かれている
2.代案が提案されている

の2つを挙げている。

なるほどと思った。

私は、ある中学校の吹奏楽部の指導を依頼されたことがあった。
(私の指導力がどうのこうのと言う話は別とする。その中学校で指導者がいなくなってしまって、ピンチヒッターをやっただけのことである)

今もよく覚えているのだが、後列、一番左のトランペットの女子の音の注意をした。
すると、その女子はずいぶん衝撃を受けたような表情を見せた。
注意されたことが、気に入らなかったようだ。

私は嫌われたかなと思ったが、そんなことを気にしていたら指導はできない。
(いや、その女子は自分の方が嫌われたと思ったのかもしれない)

いずれにしろ、心理的な葛藤は懐にして、全体がよくなるように、指導をどんどん進めていく。
1か月ぐらいは経っただろうか、その女子の顔つきが明らかに変わった。
全体もいい空気になってきた。

顔つきが変わったというのは、何か指摘されると「ありがとうございます」という表情になったこと。
つまり「先生は、私たちを良くしようと思ってやっているんだ」ということが、伝わってきたという感じだった。
それは、言動だけでなく、注意を守ると明らかに良い音になるという実感もあってのことだ。

■誰のために言っているかが実感できること

私は、とかく詭弁の多い先生も見てきている。
しかし、それで切り抜けられたと思っても、中学生はそんなに甘くない。
というより、人間なら誰でも感じる空気があるのだ。

爽やかな、いいにおいか、異臭を放つ臭いにおいかである。
嫌みというのは、異臭を放つ臭いにおいである。

いくらごまかそうとしても、結局、全体としてその人の持っている体臭のようなものを、人は(子どもは)感じてしまう。
文章も同じだ。


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2014年07月17日

今日の授業を思い出してみる

mousounosusume.jpgもちろん、授業をやっていない人は思い出せない。
授業をやっていなかったら、今日やったことを思い出してみる。

認知症になると、今日食べた食事が思い出せないそうである。
教師だったら、今日やった授業を思い出せないのは、大変である。
そんなことはないと思うが、人のことばかり言っていて、自分のことを言わない人がいると「もしかしたら」と思わないわけではない。

物忘れなのか認知症なのか、素人にはわからない。
知人の中に、よく行くファミリーレストランの場所を、いつも確認する人がいるが、こういうのはどうだろうと思う。

勉強というと、覚えるということが浮かんでくるが「引き出す」ということはもっと大切だと専門家は言う。
いくらたくさん貯めこんでも、引き出すことができなければ、意味はないだろう。

だから「思い出す」は引き出すことだから大切である。

■妄想は小説で

妄想が得意で好きな人は、小説を書いたらどうか。
それで売れたら、妄想も価値があるということだ。

だが、教育の場で妄想は役に立たない。
どんなにつまらないと思えるものでも、実践のほうが価値がある。
それは、事実だからである。

人間はそんなに単純ではないでも触れたように、実在の人間の行動を簡単に予想することはできない。

人工知能のロボットでさえ、予想を上回る行動をするのだから、より高度な人の脳の働きはもっと予想不可能である。
もし、予想できている(できた)というなら、行動を狭く限定していたのかも知れない。

実際に起きた現象は、今日よく聞かれる「ビッグデータ」の一部として価値はあるが、個人の情報はゴミになるだけである。

もっとも、妄想の結果であるというデータとしての価値はあるかも知れない。

ところで、今日の朝食は、昼食は、夕食は?

授業は?

思い出して、できるなら日記につけるようにしたい。


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2014年07月16日

人間はそんなに単純ではない

2045nenmondai.jpgここに来て、人工知能が一段と注目されてきた感がある。
ロボットの開発が盛んになってきたことにも関係がある。
ロボットはどんどん知的になり、人間に迫りつつある。
少子化で労働人口が減るということもあって、ロボットの需要はますます高まるだろう。

人工知能は、人工知能言語と言われるプログラム言語がもとになっているが、一般の言語が命令されたことしか実行しないのに、人工知能はプログラマーの手を離れて自由に思考する。
自立しているわけだ。

だから、人工知能を積んだロボットは、時に人の予想もしなかった動作をする。
このことで、話題を読んだのが、ロボットと人との将棋の対戦だ。

勝敗は人が勝ったり、ロボットが勝ったりであるが、ロボットも自ら学習しどんどん賢くなっているので、今後の勝負もおもしろい。

ところで、この将棋の対戦で、私が一番興味を持ったのは、ロボットが人間の予想もしない手を打ってきたところである。

まるでヘボ将棋という手を打ってきて、これじゃあ話にならないと思っていたら、勝ったのはロボット(コンピュータ)の方だった。

これを見た時、学ぶ方は人間の方だと思った。

■きまりでがんじがらめにすれば問題は起こらないかも知れないが

上司がやぐいと、自分の心配ばかりしているから「するな」という言葉が多くなり、部下はすくんでしまう。
最低限の仕事だけやっておくかということになってしまう。
問題は起こらないかも知れないが、創造的な活動もなくなり、組織は停滞する。
企業なら業績低下につながるおそれがあるが、親方日の丸の学校では、何事もなく平和に日々が過ぎていく。

それでいて、上司に「変な色気」があると「部下が働かない」「言われたことしかやらない」という。
指示待ち人間が多いかも知れないが、部下が動かないというのは、上司のせいであったりもする。

学校では「部下」という言葉は適切ではないと思うので、学校においては「校長と一般の教師」と置き換えて考えることにする。

■優秀な人工知能も人から学んでいる

時に将棋のプロを負かせてしまう人工知能(ロボット、コンピュータ)だが、科学者が言うには「人間を超えることはない」と言う。
なぜなら「人工知能は人間から学んでいるから」と言うことだ。

それほど、人間の脳は優秀なわけだ。
だから、人間の方が奇想天外の予想もしない、考えを出してくる可能性があるのだ。

人の行動を予想する、まるで超能力者のような人がいるが、ようなではなく、本当に超能力者かも知れない。
でも、私が疑問に思う人は「予想が単純すぎる人」である。
こういう人の発言を見るとき、私は「人間はそんなに単純じゃないよ」と思っている。

もし、人間の行動が単純だとしたら、行動の制約が多く、自由度がないからだろう。
校則が拘束になっていいるのだろう。

祈祷師みたいに、人の行動を予想するより、人がどう活動したかという実践記録が大切である。

たとえ、つまらない行動(実践)であっても、空想ではなく実際にあったことだから、それは、今言う「ビッグデータ」の一部になるのである。

■自由と時間が大切

私が人を動かす立場になった時は、自由と時間に重きを置いている。

これは、
1.自由が少ないほど活動も思考も制約されるので、創造性も失われる
2.時間がなければ活動する時がない
と考えているからだ。

学校では、学校経営、学年経営と言った枠があるので、この制約の範囲に活動は縛られる。
部活動では、学校経営の枠はあるものの、かなり制約は少なくなる。
こういう意味では、中学校の部活動は大切だ。

私は部活動では生徒の自由度を高くし、その結果私が生徒から学ぶことも多かった。
予想もしないいい活動が出てきたことは、コンピュータが予想もしない手を打ってきた、という事実と合わせて考えると感慨深いものがある。

最近は、女子中学生がスマホのアプリを作って、数千万円稼いだという事実を知ると、自由な発想の機会を奪わないことの大切さも感じるこのごろである。

■ゆとりは必要

このごろ、多数決、平均症候群があるのではと思う。

まず、世の中には指示されて動く人間が多いということ。
だから、全体にゆとりを与えれば、多くの人間は何もしないだろう。
それは、平均すれば生産性、学校なら成績が下がるのは当たり前である。
しかし、自分から進んで活動する人間にとっては、制約の多い世界は迷惑である。
そのうえ、優れた才能を埋没させてしまうことになる。

平均は統計手法の一つで、集団の特徴をたった一つの代表数値でとらえようとするものなので、何でも平均で考えるのは実態を見誤ることになる。
だから、統計を出すテストの時は、できの悪い子どもをあえて休ませる、という姑息なことを考える人が出てくるのである。


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おかしいかどうかの判定項目
posted by edlwiss at 21:48 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究

2014年07月15日

決めつけがモノを見えなくする

音楽の世界でも、誰々はモーツァルト弾きなどと、演奏家の決めつけがあります。
ところが、そう決めつけられた人が、ベートーヴェンやシューベルト、ショパンだってたいそうよかったということもあります。
そういうレッテルを貼られた本人にとっても、迷惑だったりします。

音楽の世界に限らず、考え方がパターン化や決めつけが好きなのではと思う人がいます。
どう生きるかは、本人の自由ですが、傍で見ている方としては勉強になります。
まさに他山の石です。

決めつけは、自分で枠を作って自分自身を閉じ込めてしまうようなもので、殻に閉じこもるのと同じようなものだと思います。
教師は子どもに勉強せよと言いますが、殻に閉じこもることは勉強を拒否することではないかと思います。
自ら作った殻によって、自分はからの外を見えなくしているようなものです。

子どもに勉強を促すなら、自ら殻を打ち破ることをしなければならないはずです。
殻を作って、それまでの知識の切り売りで生きている教師を見て、子どもが魅力を感じるはずがないと思うのです。

殻を破ることをやめた時点から、老化が始まっているのだと私は思っています。

sekaiwohirogeru.jpg



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2014年07月14日

縁の下の力持ち

オーディオの世界は、昔はアマチュアが家電メーカーを上回っていました。

メーカーは製品を商品として出す時、いかに安く所定の性能を出すかという設計をします。
利益を出すためには当然と言えるでしょう。

それに対して、アマチュアの場合は採算を度外視できますから、贅沢な設計ができます。
例えば、真空管の時代にあっては、ラジオを作る場合、トランス(変圧器)は最も高価な部品の一つでした。
そのため、トランスの規格は必要最小限のものでした。
コストを抑えるためには、やむを得ないことでした。

アマチュアの場合は、ギリギリの選択をせず、必要条件の3倍ぐらい余裕を持ったトランスを使ったりしました。
メーカーからしたら、かなりオーバースペック(過剰)に見えていたと思います。
ところが、この余裕が音の良さにつながり、音の良いオーディオは常にアマチュアの天下でした。

日本人も次第にお金持ちになってくると、贅沢なものに手が出せるようになってきたころ、アマチュアの作るものに指を加えて見ていたメーカーも本腰を入れるようになってきました。

それでも、当初は電源は必要な電気さえ供給できればよいとの考えからは、抜けきれなかったように思います。
それが、メーカー間の激しい競争が起こってからは電源の大切さに関心が高まるようになりました。

バブルとも言えるアンプ作りの競争がありましたが、私の家にもその頃作られた中古のアンプがあります。
アンプの総重量が27Kgですが、その重量のうち15Kgが1個の電源トランスの重さです。
このメーカーは技術誌で「アンプの音質を左右するものは」との質問に「音質の70%は電源で決まる」と答えています。

電源はコストばかりかかって、モノを言わない地味な存在です。
しかし、すべてを支える大きな存在です。

私はこの電源を通じて、地味だが全体を支える重要な存在というものに、無意識のうちに関心が向くようになってきました。

すると、人が働く場面でも、目立たないが、支えている大切な人がいることに、目が向くようになってきました。
優秀な企業はそういう人材を大切にしているように思います。

かつて相当な売上を続けていたスーパーは、社長が交代してから、みるみるうちに転落していきました。
私がハッと思ったのは、社長が変わってから清掃員の扱いが粗末になったことでした。

学校においても、優れた指導者は地味な方に目が行っているような気がします。
すばらしい授業を行った陰に、それを支えていた人たちがいたはずです。

自分一人の力で、勝利投手になったのではない、に似ています。

ゴッホも、ほとんど絵は売れなかったといいますが、そういう彼を支えて絵の具を買って与えた兄さんがいたという話があります。

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2014年07月14日

デジタルのもろさ

binary.jpg


「いまさら聞けない」なんとかというものがあります。

老婆心ながら、そういう人のために、本日は「デジタルのもろさ」と題して日頃思っていることを要約して記事を書きます。

世はデジタル全盛のようで、遅れた人の代名詞をアナログ人間とと言ったりするようですが、本当にそう思っているとしたら、デジタルの本質を理解していないことになります。

■デジタルの心臓部

心臓部という言い方は適切でないかも知れませんが、言いたいことは次の図の一番上にある正確なクロックのことです。
正しい形のパルス波(矩形波)の連続を作り出して、これがデジタル機器が動作するすべての元になるわけです。
映画のフィルムの横に空いている、コマを正確に送る四角の穴のようなものと言えます。

clock.jpg


デジタルのクロックは、発振回路と呼ばれる電気回路から発生されますが、これを正確に作りだすために、最も安定した振動をするものとして、水晶発振子が使われてきました。

いくつものデジタル機器があると、それぞれの機器はクロックを発振する回路を持っています。

昔はこの発振周波数が低かったので、それぞれのデジタル機器の発振回路の整合性は問題にならなかったのですが、パソコンの計算部(CPU)の周波数が高くなってきた現在は、クロックのずれが問題となってきました。
つまり、基本となるクロックがAのデジタル機器とBのデジタル機器とではピッタリ合わなくなってきたのです。
このずれのことをジッタといいますが、今日ではしばしばジッタという言葉が出てきます。

ところで、クロックを生成する時、水晶発振子を使うと言いましたが、この回路を支えているのはアナログの電源です。
だから、電源が安定していることは非常に大切なわけです。
デジタルを支えている大元は、アナログであるというところが重要なわけです。
温度変化、振動など環境の変化に動じないことが大切です。

また、発生されたクロックの波形がきれいな矩形をしていないと、1か0かの読み誤りをすることになり、誤動作の原因になります。

■デジタル機器の誤動作は如何にして起こるか

機械に組み込むICチップの形をしたコンピュータをマイクロコンピュータと言いますが、今やこのマイクロコンピュータはあらゆるところに使われています。

最近の自動車にもたくさん使われていますが、これは凄いことだと思っています。
なぜなら、自動車ほどコンピュータにとって悪い環境はそうはないだろうと思うからです。

コンピュータは最終的には1か0のどちらかを読み取って動作しています。
この1か0の連続を4つずつまとめて、1バイトと読んでいますが「0000」は16進数の「0」です。
「1111」は16進数の「F]です。

111000101010・・・

と言った連続があるとすると、始めから4つずつ区切って「1110」は16進数の「7」、次の「0010」16進数の「2」です。
しかし、雷が発生したり、自動車のエンジンの部分から発生するノイズが漏れて、衝撃波が先頭に「1」として入ってしまうと、はじめは「1110」であったものが、ひとつずれて「1111」となってしまいます。これは16進数の「F」です。

以下すべて、後ろにずれて数字の意味がみな違ってしまいます。
昔は運転していた自動車が突如、暴走したということがありました。
これは、たった一つの衝撃波でコンピュータの解読が変わってしまったからだと思います。

雷を人工的に発生する装置を作っている会社があります。
これは、自動車用のマイクロコンピュータをテストするために使います。

電気洗濯機にもマイクロコンピュータが入っていますが、誤動作したら、洗濯物がひどい状態になることでしょう。

一休さんの話を思い出しました。
玄関に次のような表示がありました。

ここではきものをぬぐこと

これを、ある人は「ここでは、着物をぬぐこと」と読み、玄関で着ているものを脱ぎ始めたという笑い話です。

コンピュータにはそういう恐れがあるので、十分注意をする必要があります。


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posted by edlwiss at 00:29 | Comment(2) | TrackBack(0) | 情報処理(IT)

2014年07月13日

デジタル時代の困ったこと

デジタル時代で困ったことと言えば、例えばビデオ撮影したデータ(映像)をすぐ送って欲しいと言われる時だ。
私の使っているS社のビデオカメラは、データを(半導体)メモリに蓄える。

「データを送って」という人の中には、ビデオカメラのメモリ中に映像が入っていると思っている人が多い。
どういうことかと言うと、映像そのものが入っていると思っているのである。
だから「そのデータを送って欲しい」と言うのである。

私の使っているビデオカメラのメーカー、型番を承知の上でそういうのなら問題ないが、そこまでは関心のない人が多い。
つまり、USBメモリにコピーして渡せば、パソコンやビデオプレーヤーで見えると思っていることが問題である。

機器メーカーは、映像を記録する媒体(メモリ)にいかに効率よく記録するかを研究している。
ビデオカメラのメモリに入っているデータは、各社各用の圧縮記録方式をとっているわけで、液晶テレビで見る場合は、圧縮されたデータを元に戻さなければならない。

だから、私が撮影した映像を人に渡す場合は、家に持ち帰ってから、S社のソフトを使って一般のDVDの映像形式などに変換して記録するわけである。

作文が下手で、うまく表現できないので図に表してみる。

早い話が、デジタルの記録は1か0の2進数でしか記録されていない。
この1か0でしかない記録を見ると、桁がずいぶん長くなるので、4桁ずつで区切って、これを16進数で表す。

16sin.jpg


上の図は、我々が日常使っている10進数と、2進数、16進数の関係を示したものである。
実際に記録されたデジタルデータを、読むソフトを使って見ると、1、0の集まりを4桁ずつの16進数に表して見えるようになる。

bin_data.jpg


これが、実際に記録されたものだが、これをコピーして渡しても、もらった人は困るだろう。

ビデオがビデオとして見えるためには、このデータを読み取って解析し、ルールに従って復元するソフトが必要である。このソフトをアプリケーションと言っている。
これらの関係を次の図に示す。

bin_henkan.jpg


とにかく、デジタル機器で扱うデータは2進数(16進数)でしかないということを、一番大切な知識として持っておくことが必要である。

デジタルカメラで撮ったデータを、パソコンに移すと普通は直ちに写真が見える。
これは、業界で標準と定めた"JPG"という方式を解読するアプリケーションを、パソコンが持っているから見えるのである。

長文になったので、本日は、形式不明のデジタルデータだけをもらっても、どうしようもないと言うことだけ確認しておきたい。
もちろん、先刻ご承知の方にはどうでもよい話である。


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