2014年07月11日

自分の顔に責任を持つということ

男は40を過ぎたら自分の顔に責任を持てとは、昔、親から教えてもらった言葉である。
この言葉を戒めとして覚えていたら、男の顔は履歴書という言葉にもぶつかった。

こういうことを話すと、最近は「顔は親の責任ですよ」と言う人がいそうな気がする。
そういうおそれを感じるほど、今日では表面的にしか言葉の意味を捉えられない人が増えた。

軽薄短小という言葉がよく使われたころからすると、今は軽薄短小が珍しくなくなってきたから、あえて使う必要もなくなったのだろう。

男は40を過ぎたら自分の顔に責任を持て男の顔は履歴書は、仕事といえば男が中心で、女は家庭を守ると決まっていたいたような時代に言われたのだと思う。

だから、今日では「男は」ではなく「女も」である。

40を過ぎたら自分の顔に責任を持て

顔は履歴書

sidosya_nouryoku_S.jpgこのように、男女共通で使うべきだろう。

指導者に必要な資質として、右図のように表してきたが、知識技能発想力人間性が渾然一体となって指導者の顔を作るのだろう。

人と会った時、あまりにも顔をじろじろ見るのは、変に思われるだろうから気をつけた方がいいだろうが、顔が商売の俳優やタレントなら差し支えないと思う。

女性なら、アイドルと呼ばれた頃の時代を持っている人がいる。
「娘十六、番茶も出花」
とは、女性は若い時は誰でも美しいとの言葉である。
(私は「十六」と教えてもらったので、ずっと、こう思ってきたが、ネットで調べると「十八」になっている)

若い美しさで売っていた女優も、歳とともにそれだけでは勝負にならなくなってくる。
だから、自然消滅のようになった人もいる。
私が知っている女優では、アイドルで売っていた頃より、歳をとってからの方が魅力的になった人が何人かいる。

もちろん、男優にも歳をとって魅力的な人がたくさんいる(いた)。
最近、映画「ゴジラ」のリメイク版をNHKが放映したが、博士役の志村喬は映画にはなくてはならない名優だった。
笠智衆小津安二郎監督の映画によく出ていた。
三國連太郎木下恵介監督の映画に出演し、多くの映画フアンを魅了した。昨年、他界されたのは惜しい。

教師も、新卒の時は子どもによくもてる。これは「番茶も出花」に通ずるものかも知れない。
若さだけで通用する時期でもある。
もちろん、若さだけでなく、すでに十年以上の教師を上回る実力を備えている人もいる。
だから「若い教師は」なんて見下ろしていると、見下ろしている自分がみっともないということもあり得る。
(そういう意味では、歳でモノを言うのではなく、実力を客観的にみる必要がある)

ここで、また思い出した言葉がある。

少年老い易く学成り難し

気がついたら歳だけとってしまった。と気がついた人はいい。問題は歳をとっても気がついていない人ではないか?

というのは、学問には年齢制限がないと思うからである。

「あの人は、もうあそこまで、下り坂だ」

と皮肉られる言葉に

賞味期限切れ

という言葉がある。

教師も名優のように、strong>知識、技能発想力人間性が渾然一体となって魅力ある指導者の顔になるべきだろう。


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2014年07月10日

指導者に求められる人間性

人間性
人間の人間であるゆえん,すなわち人間の普遍的本性の意であるが,人間らしさという価値的意味をもつ。この言葉自体,多義的であり,西洋ではギリシア,ローマの伝統に基づくかぎり,人間性は野蛮人との区別において,いわゆるギリシア,ローマの古典的教養を体得した「人間的人間」としての卓越性を意味した。 ことバンク


人間性は幅広い意味を持ちます。
人間性が高いとか低いとか言う場合、説明にある「野蛮人」が最も低く、その対極にあるのが人間性の高い人と言えばよいのでしょうか。

sidosyanotikara_s.jpg人間性を表すには、人格、教養、品性、心と言った言葉が浮かんできます。
より人間らしくなるためには、これらのレベルが高くなくてはならないでしょう。

教師の指導力は、知識、技能、発想力とともに、人間性の高さというものが、指導力を高めるのに影響すると思います。
歴史的に名を残した教師は、例外なく人間性が高いものと思います。
これまで、指導力を考えるとき、右図のように、知識、技能、発想力、人間性を表してきましたが、これら4つのバランスが大切と考え、レーダーチャートで表したほうが適切と思いました。

sidosya_nouryoku.jpg


ところで、最近、脱法ハーブによる事故が問題になっていますが、脱法ハーブは覚せい剤よりも影響が強いとのことです。
何に対して強いのかと言うと、脳神経に与えるダメージが強いということです。

このニュースを聞いていて「幻覚症状」が現れるということに注目しました。
幻覚とは「実際に感覚的刺激や対象がないのに、あるように知覚すること」ですが、脱法ハーブは覚せい剤と同じ働きがあるということですから「感覚印象がないにもかかわらず,それが現実に存在しているような知覚を生じる体験」です。これは幻視,幻聴といったことですが、普通の人でもまれにあることです。
脳は非常に高度で複雑な器官ですからミスをすることがあるのかも知れません。

しかし、これが恒常的に起きるとなると、無視できないものになります。
私が変だと思ったことに、ある人が「月が池に映って見える」と言ったので、空を見ましたが、月は出ていなかったということがありました。
その人は「錯覚でした」と言わなかったので、その人には見えていたのでしょう。
これは幻覚ではないかと思います。

私が問題だと思うのは、言語活動(聞く、話す、読む、作文)においても同様なことが起こっていないかとということです。
人は話し合いにおいて、時に「言った。言わない」の争いが起こります。
しかし、話し合いでは録音でもしない限り、証拠がないので、うやむやになります。

ところが、書いたもの(作文)は消えませんから、そう書いてあるかないかは確認できます。
ある人が「○○と書いてあった」と主張した時、書いた本人には覚えがないということもあります。
そういう時、書いた人が「どこに書いてあったか、教えてください」といえば、普通は、その箇所を具体的に指摘するか「書いてあったと思いましたが、私の勘違いでした」との、どちらかの返事があります。

これなら、何の問題もないのですが、問題は書いてないのに、間違っていたと(自分の誤りを)訂正しない人です。
意地を張っているとも考えられますが、そうでないとしたら、本人には書いてあるところが見えていたのかも知れません。
そうだとしたら、これも幻覚ではないでしょうか?

khuzen.jpg精神的な問題で休んでいる教員は、年間5千人ほどいるそうですが、問題の人がみな休んでいるとも言えないでしょう。

指導者の指導能力を云々するとき、これは人間性の範疇に入るかどうかはわかりませんが、教師が子どもとのコミュニケーションに於いて、子どもは言っていないのに、言っていたとか、書いてないのに、書いていたと主張する(決めつける)教師がいるとしたら、問題です。

「教師と子どもとのコミュニケーションは、正常に行われているか」

をチエックすることは、人間性を云々する前に必要なことと思います。

子どもを厳しく指導することはいいですが、理不尽な思いはさせないようにしなければなりません。



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2014年07月10日

発想力を支えるもの

sidosyanotikara_s.jpg指導者の能力を考えるとき、知識、技能、発想力、人間性と考えましたが、本日は発想力について焦点をあてて考えてみたいと思います。

知識というのは、単なる記憶とも考えられますが、いくら知識を増やしたところで、総合的な能力がそんなに上がるとは思えません。

発想力は知識と関係があると思いますが、発想力が高まるのは個々の知識を統合する力が必要だと思います。
発想力は人間の持つ素晴らしい能力だと思いますが、入学試験に発想力を問うものが皆無と言えるのではないでしょうか?

知識量だけで選抜するものだから、入学後、発想を必要とする課題に当たった時、行き詰まりがくるのではないでしょうか?

ロボット開発が盛んになって来ましたが、これも単純作業から知能を有するものと変わりつつあります。
私がハッとしたものに、両手ロボットがあります。
人が荷物を運ぶとき、両手を使いますが、これをロボットで実現しようとした時、これまで使われてきた片手ロボットを2つ使えばよいというものではないということを知りました。

2つの腕が互いに強調しあって動作しなければ、一見簡単に見える、荷物を持つという簡単な動作でもできないということがわかったのです。
人間の脳にあたる、コンピュータが左右独立した別々の働きができる腕を、強調させて動かすわけです。

ここで、ロボットから離れて、人が両手を使って仕事をする作業を見ると、左右の腕は脳神経につながっていて独立した動きをしているとわかります。

例えば、ピアノを弾くという作業です。
習い始めは、左右別々の楽譜を演奏するのは難しいので、片手だけの練習→両手同じ動きの練習→易しい両手別々の動きをする練習という風に練習が進んでいきます。

手の練習をしているのですが、これは脳を鍛えているわけです。
脳が鍛えられて、次第に高度な処理を脳がするようになるわけです。

子どもは脳が柔らかいせいか、上達が早いです。
子どものころ鍛えた人は、年をとっても両手の動きや指の動きが衰えないのは、若い頃に鍛えた時、脳が進化したのでしょう。

■2つ、3つの仕事を同時並行で行う

発想力は単発の知識から生まれるのではなく、2つ以上の知識を同時に融合する能力から生まれるように思います。
だから、長文を読み取る時、個々の文章を単独にしか読めない人は、どうしても発想力が劣るような気がします。

具体的な作業として、少し凝った料理をやってみる(やらせてみる)とわかるのではないでしょうか?
野菜を適度な大きさに切って煮る。と同時に肉や魚の準備をし、フライパンを暖めておく・・・とほぼ同時並行に作業をしながら考えるという調理は、個々の知識を統合して頭を使う訓練に適しているのではないでしょうか?

このように考えると、特に男が中年以降、料理をしないのは頭によくないように思います。

私に時々電話してくる85歳ぐらいの女性がいます。
この人は頭の働きもよく、元気で、老化を感じません。
起床すると、まずピアノに向かってハノン(指の練習に使われれる練習書)を弾くと言います。
合唱団に入って歌っています。
ダンス教室に行っています。
外国語の勉強に行っています。

話をしていると、これまで生きてきた人生の中で、知的好奇心をもとに知識を吸収してきたことがわかります。

年を取るに連れ、その人の生き方で脳の働きが違ってくるように思います。
経験の多さに発想力が加わった年寄りからは、学ぶことがたくさんあります。

名指揮者と呼ばれる人は、70歳後半から80歳〜が多いですが、いつも頭の中でたくさんの情報を一度に処理しているせいか、発想力には抜群のものがあります。

ヘルベルト・ブロムシュテットは現役で最も活躍している指揮者の一人ですが、今年87歳です。



はつらつとした素晴らしい、ブラームスの演奏です。


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2014年07月09日

指導者の基礎知識と基礎技能

指導者として持っていなければならない基礎知識、基礎技能を考えてみた。
私は音楽に携わることが多いので、音楽で考えてみた。

音楽の指導者として、最低限必要な技能は音を聞く力である。
具体的には、音楽の三要素、リズム、メロディー、ハーモニーに準じて考えると、音の高さを判別する力、リズムを判別する力、和音を聞き分ける力が必要である。

音楽を指導する上では、音楽が好きだということは大切だが、気分だけで指導することはできない。
「もっと楽しく」という言い方をする人もいるが、楽しくと言えば楽しくなるものではない。
「楽しさ」というのは、自分の意志で楽しくできるものではないからである。

プロだったら「それでは、お客さんは楽しく感じない」と言われたなら、どうしたら楽しく感じてもらえるかを探らなければならない。
なぜなら、お客さんに楽しくなってもらうのが仕事だからである。

しかし、教育の場での音楽となると違う。
音楽を通じて教育するというのが、目的だからである。

だが、いい演奏というのは聴く側にも楽しいが、演奏する者にとっても楽しい。
だから、プロでもアマチュアでも、いい演奏を目指して励むという点については、同じと言える。

演奏者だけが楽しくても、聴く人にとって楽しいかどうかわからない。
自己満足の世界かも知れない。

以上、どういう状況であろうとも、指導者が音の高さを判別する力、リズムを判別する力、和音を聞き分ける力を持っていないと、パイルや鉄筋がいい加減なビルのようなもので、ちょっと見はよくても、どこか快適性のないものになってしまう。

音楽の指導者は知識として、楽典はもちろん、楽曲のアナリーゼができなければならない。
アナリーゼとは「楽曲分析」と訳されているが、これを支えるのは音楽史などの知識である。

数学の指導者が数学の問題を解けるのは当たり前のようだが、何でも解けるわけではない。
「リーマン予想」は天才数学者たちが相次いで挑戦したが、100年以上経ても解けていない。
どの科目でもそうだが、上には上がある。

では、指導者としてはどの程度担当する科目ができなければいけないかと言うと、昔から「人にモノを教えるには三倍ぐらい知っていなければならない」と言われてきた。
この三倍というのは定量的なものではないが、教える者と教えられる者の差が大きくなければいけないということで「差が大きいほど、教えられる者は伸びる」とも言われる。

ここまでは、指導者の知識や技能に関することだが、指導者の資質を左右するのは、これだけではない。

sidosyanotikara.jpg


ひとことで言えば「発想力」は大切だろう。
これに加えて「人間性」とでも言ったらよいか、人が人である所以のようなものが、指導者に必要だと思う。

発想力と人間性については、別に機会を設けて考えてみたいと思うが、私は先生(教師)は指揮者に似ていると言ってきた。

これは、指揮者になるには技能と知識が必要なことは言うまでもない。
では、技能と知識に長けていたら、指揮者になれるかと言うと、そうでもない。
指導者は、どの分野においても、技能と知識に長けていることが必要だが、それだけでいい指導者になれるかと言ったらそうは言えない。
これは、指揮者になれるかなれないかとそっくりである。

私が、子どもたちに「少年よ大志をいだけ」と言ったところで、何の影響力もない。
ところが、クラーク博士が言うと違うのだ。

クラーク博士とまでいかなくても、指導者たるもの、生徒がいつまでも覚えてくれている言葉を、借り物でなく自然に発することができるようになりたいものだ。

今日は、自分の反省をもとに、指導者の資質について考えてみました。


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2014年07月07日

ラジオで英語学習

NHKのラジオ英語講座を聞くには、録音ができるラジオがいいだろう。
それで、探してみたらPanasonic ラジオレコーダー という製品があった。
4Gのメモリを内蔵していて、SDHCカードの増設もできる。「ゆったりトークモード」という機能があり、早口の会話をゆっくり再生できる。

panasonic.jpg


家に置いて使うラジオとしてはいいと思う。

ネットに繋いだパソコンがあれば、ネットラジオもある。
インターネット経由のラジオは雑音もなく、音質がよくてAMが聞きやすい。
問題のソフトだが、radiko,jpというサイトでラジオを聞くことができる。ここからソフトをダウンロードすれば、ブラウザー経由でなくても聞くことができる。

インターネットラジオも録音したいとなれば、radikaというソフトがあり、予約録音もできるのだが、現在バージョンアップは止まっているようだ。

■スマホを使うと便利

私はこの方法を使っているのだが、非常に便利と感じている。

NHKもらじるらじるというソフトを出していて、スマホ用もある。
残念なことに録音ができない。

スマホでNHKの語学講座が利用できれば、携帯性もあり誠に便利なのだが・・・残念と思っていたのだが、探したら、TuneIn Radioなるソフトがあった。

kouza.jpgこれは、なんと世界中のラジオが聴ける。
もちろん、録音もできる。
無料版と有料版があり、有料版が400円ぐらいだったと思う。毎月400円払うのではなく、一度の購入で済む。

なにしろ、世界中のラジオが聴けるので、音楽の好きな人はあらゆるジャンルの音楽放送を録音して、自分のライブラリーにすることができる。
予約録音もできるので、セットすれば忘れることがない。
注意すべきことは、予約録音をセットしておいて、指定時刻になって突如ラジオが鳴り出して慌てること。
ボリュームを下げておくか、イヤフォンジャックを挿しておくこと。

note03.jpg


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2014年07月06日

子どもにとってよりよいシステムは

高校入試は中学生という年齢を考えると、精神的には重い試験である。
このテストが「人生の分岐点となり、失敗すると先の人生が望み薄」というほどのものとは言えないが、それぐらい重く感じてしまう子どももいるかも知れない。
試験に落ちて、その後それが発奮の材料となり、大成した者もいる。

ところで「子どもにとってよいシステムは」ということを考えた時、今話題になっている絶対評価の内申はよいシステムと言えるだろうか?

このことを追求する時「一体どの方向を見て議論をしているか」と探ってみると、どうも「上を見てモノを言っている」のではないかと思う時がある。
これは、問題が混迷するほど傾向が強くなる。
会社で言えば「上司の顔色を見ながら意見を言っている」ようなものである。

私は、こういうところに人間の弱さを感じる。
文部科学省を意識し、教育委員会を意識し・・・子どもを意識しているか?

子どもにとってよいシステムとは、公平な競争のシステムである。
これを勘違いする人がたまにいて、全員に1位を与える方法などを考える。
そうではなく「公平な競争」が行われる場が必要なのだ。

■上を見るのではなく下を見る

端的に言えば、教師は子どもの方を見てモノを言わなければならない。
それはなぜか?
子どもは最も弱い立場、すなわち権力のない立場にいるからである。

「子どもの方を見て」というのは、子どもを甘やかせという意味ではない。
子どもはやがて大人になる。その時、どういう世の中になるかを想定することである。
「親の心子知らず」と言うように、大人が、子どもにとっていいと思うことをすると、逆に子どもは反発しがちである。
しかし、本当の大人なら、子どもに嫌われることを恐れず、正道を断行すべきである。

「やがて子どもは大人になる」

を忘れないことだ。

■愛国心?

どうも「愛国心」に熱心な人ほど、目が上に行っているように思う。
そして、子どもに「愛国心をもて」と言うと、子どもは愛国心を持つようになると錯覚する。
誠に脳がないと思う。

愛国心は必要だが「持て」と言えば持つものではない。
女性に「オレを好きになれ」と言っても、そうはいかないと同じだ。
教育学を学んできた教育のプロのはずが、なんと素人くさいことかと思う。

愛国心を持つようになるには、国民が「国は大切だ」と実感しなければならない。
何かと理屈をつけて税金を取り立て、私腹を肥やすようなことをやっていて、愛国心が育つわけがない。

たとえ、7割税金を徴収されても、年をとった時、何も不安のない生活が実感できたら、政治のありがたさを実感できるのではないか。
これは、自分で稼ぐようになった息子の給料を「自分の食い扶持と今まで育ててもらった分は払いなさい」と言って取り上げ、いい年になったら「これで自分の家を建てなさい」と通帳を渡してくれる親のようなものだと思う。
(実際、私の親はそういう人だった)

■学校の教師は児童・生徒の代弁者であるべき

児童・生徒は最も弱い立場にあるのだから、教師は児童・生徒がうまく表現できないところを代弁して、政治に反映するようにしなければならない。

めんどう、苦しいから、得だからと言って弱い立場にある児童・生徒にしわ寄せを持っていくようなシステムでは、いつまで経っても愛国心は育たないし、いつまでも「弱いものいじめ」はなくならない。

もしかしたら「上ばかり見て、下を犠牲にする」やり方が、いじめの根源的体質かも知れない。

今日は、抽象的な話になりました。


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2014年07月05日

絶対評価〜幅があれば違いは出る

精密部品の設計図は許容誤差が少ない。
1000分の1のレベルを問題にするものも少なくない。
こういうものは、どこへ注文しても、どこで作ってもできてきた部品は同じとして扱える。

しかし、文部科学省の仕様書はそうではない。
もちろん、文部科学省の仕様書とは学習指導要領のことだ。
その上、学習指導要領は法令ではない。

このことが問題になった事件に、伝習館高校事件がある。
3名の教師が学習指導要領の内容に沿っていないとして、処分を受けた事件である。
最高裁まで争われ、学習指導要領の法的拘束力が問題となった。
学習指導要領の法的位置付け 各教科の単元の構成やその詳細が指示されているが、法令ではない。しかし、学校教育法施行規則に基づいて定められているため、その効力については議論があるが、伝習館高校事件の最高裁判所における判例によると、一部法的拘束力とするには不適切な表現があるものの、全体としては法的拘束力を有すると判断されている。ただし、伝習舘高校は公立高校であり、本判例が学習指導要領が私立学校までをも拘束する趣旨であるかどうかは微妙である。フリー百科事典「ウィキペディア」より

法的拘束力が問題になる省庁は、文部科学省以外にはないのではと思う。
それは歴史的背景と、教育の特殊性にあると思う。

第二次大戦の終わりと同時に、日本ではGHQによる改革が始まったのだが、日本が進めた軍国主義教育には特に強い関心が持たれた。
結果、文部省の支配権は骨抜きになり、教育への単なるサービス機関となった。

こういう経緯があるため、文部科学省は他の省庁と比べると、国のトップの機関としては「弱い」印象を受ける。
特に「国が教育に関して不当に介入する」という懸念には敏感になったと言える。
日本は独立国になったと言えども、未だに米国の反応には神経を使っていて「属国」意識も残っている。

それに加えて、全体主義国家でない限り、教育に国が不当に介入することは、教育そのものの死をもたらす。
こういうことについては、全く無知な人を、しばしばみかけることがあり、呆れたりする。
「お上意識」という言葉があるが、文部科学省がお上であり、教員はお上のお達しをありがたく拝聴し忠実に実行する「ポチ」であることを誇りにしていると思われる人もいる。
なにしろ、お上には弱いのである。でも、お上はいないのである。あの水戸黄門様の時代ではないのである。

文部科学省が「この印籠の紋所が目に入らぬか」ということはないのである。
「主権は国民にある」と憲法で規定してある。
だから、文部科学省と言えども「教育の自由」を犯すことはできないのである。

教育の最高機関として、文部科学省が存在するが、実際に教育活動を行うのは教師(教員)であり、教育活動で最も保証されているのは「教師個人の自由な発想と創意工夫による教育活動」である。

しかし、教師は何をやってもいいということではない。
例えば、工作で(殺傷能力のある)ピストルの作り方を教えるなどと言うことは許されない。
だから、何をするには規範は必要であり「活動にあたっては、健康安全に留意し・・・」などの文言が示されるのは当たり前である。

簡単に言えば、文部省はそのようなことをやっていいるところと言えるのであり「命令に背いたら・・・」というような機関ではない。

「教師個人の自由な発想と創意工夫による教育活動」というのは当然、児童生徒にも反映されるものであり「活動の自由がない学校」は建物が学校に見えても、中身は学校ではないと言える。

これを勘違いしている校長がたまにいて、事細かに校則を定めて立派な教育していると思っている。
それでは、校則ではなく拘束である。

例えば、私が望ましい校則というのは、服装の規定では「派手でないもの」とだけ定める。
あとは生徒が考える。そうすると、いろいろな服装が現れると思うが、人の服装を見て「あれでいいのか」などと批判が起こったりする。

細かく規定していないことを、いいことに、自分では派手と思いながらも派手な服装をしてくる者もいるだろう。
また、自分では派手でないと思っても、他人から派手だと言われる場合もあるだろう。

こういうことが大切だと思うのである。
なぜかと言えば、そうすることで「人により感覚が違うのだ」ということを自然に学ぶからである。
そして、生徒会などで問題を収束していくというのが、本来の生きた教育活動だと思うのである。

■まとめ

いちいち、それぞれの分野について、こうあるべきと解説する余裕もないので、この辺でまとめにしたい。

教育は末端の実践が一番大切であり、その実践は現場の教員と児童・生徒の活動から成っている。
そこには「自由な教育活動」が保証されている。

自由が保証されているということは、1000分の1までを問題にする部品づくりと違って「子どもが口に入れても危険のないような、しかも子どもの自由な発想を育むおもちゃを作ってください」と注文を受けているようなものである。

このように、広く自由度のある活動に於いては、学校、教師、児童・生徒の違いによって、様々な結果が出るのは当然なことと考えられる。

それら、各個性的な活動内において評価されたものが、他の個性的な活動と一緒にされて評価されること自体不合理なことと言える。

これが、本日の「絶対評価〜幅があれば違いは出る」の解説である。


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2014年07月04日

絶対評価の問題を解決するために

別々の集団(母集団)のデータをそのまま内申に使う問題は、すでに絶対評価を実施している学校でも話題になっているようです。

内申を公平にするには、地域の中学校の先生たちが集まって、テストを共通化するしかないと言っている人たちもいます。
しかし。関心、意欲、楽しさなどの言葉が評価の観点で出てくるというのは、生徒の心の中にまで介入することであり、そういうことを推し量ることがいけないとは言わないが、どのくらい的確に評価できるのか疑問である。

数学が好きでない生徒は、数学の時間は楽しくないだろう。
だが、先生に、楽しそうでないと見られたら、評価が下がるので楽しそうに演技をするのだろうか?
好き嫌い、楽しい楽しくないは生徒自身の問題ではなく、先生に原因があるかも知れない。

だいたいそんなことが、絶対評価できるのか?
言葉だけが理想に走り、実際どうやるのかを考えない空論を掲げているように見える。

自動車の教習場で、指導を受けている場合、指導員は技能だけをチエックしていればよいと思うが、そこに「自動車を楽しそうに運転している」とか「自動車に関心が高く、社会に役立てようという気持ちが見られる」などの項目があったらお笑いだ。

自動車学校と公教育の学校を同一視はできないが、そんな「お笑い方向」に進んでいるように見える。
日本の公教育は崩壊していくのではないか?

こういう教育に見切りをつけた親たちは、中身の良い私立や海外へと目を向けるような気がする。

■理想の教育?

教育の目的は、ひとことで言えば「人をつくる」ということになるだろうが、粘土細工で人を作るようなわけにはいかない。

心を育てるには、心を想像して超能力者のようなことをするのではなく、子どもの目の前の大人、すなわち学校では教師が子どもの心を揺さぶる人になることではないか。
そう、心を育てるには教師が努力すべきだろう。

こういうことを順に追っていくと、総理大臣が最も国民から尊敬される人物でなければならないことになる。
「教育改革は総理大臣改革」

■現実問題

そうは言っても、時が経てば子どもも年を取る。

大して参考にならない(おそらく、高校の先生の本音だろう)絶対評価なる内申書を廃止し、大学のようにセンター試験をやって、それを二次選抜の参考にしたらどうか?


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2014年07月03日

絶対ではない絶対評価

「絶対」という言葉がひとり歩きし、評価が絶対評価になっていないのに、絶対評価と認識してしまっているという誤りがある。
これは、少しの数学的思考を持って考えれば、容易にわかることである。

zetteihyouka_machigai.jpg


A、B2つの異なった環境の学校があり、それぞれの学校内に何人かの中学生がいるとする。
まず、一般に言われている絶対評価とは、それぞれA校内の絶対評価、B校内の絶対評価であり、A校B校共通の絶対評価ではあり得ない。
こんなことは、常識人ならすぐにわかることである。

もし、これがわからないという人がいるとしたら、いくつか現実の例を挙げてみるといい。
子どもに説明する場合に役立つかも知れない。

(1)通貨のドルはアメリカ$、オーストラリア$、ニュージーランド$とあるが、同じ$でも価値は同じではない。
それは、通貨のグループが違うからである。

(2)日本のプロ野球は、セ・リーグ、パ・リーグとあるが、選手の記録はそれぞれセ・リーグ記録、パ・リーグ記録である。試合グループが違うから当然である。
世界には野球チームがあるが、みなルールは同じである。
ルールは同じであるが、それぞれの国での選手の記録が、どこでも通用するものではない。
もちろん、それぞれの国での記録としては認められる。

このように、統計の常識から言って、統計を取るグループが違えば、記録は他のグループでは通用しない
もし、絶対という評価がグループを越えて通用するとしたら、図のXとYが同じ評価であった場合、XとYを入れ替えても同じ評価になるはずである。

■人間が評価する限り、誤差はつきもの

野球でのストライク、ボールの判定は横、高さともルールで決まっている。
しかし、個々の試合では、どうしても「審判のクセ」というものがあるので、すべての試合に於いて同じ判定がされたとは言いがたい。
それでも、許されているのは個々の試合内では、審判が公平に判定しているからである。

学校での成績も、同様なことが言える。
特に学校では、それぞれの学校ではその学校の先生が、試験問題を作るわけだから、なおのこと誤差は大きくなるだろう。

■評価の妥当性を検証する場合の混乱

相対評価の場合は、5、4、3、2、1の比率が決まってしまうので、起こらなかった問題が絶対評価に変わったことで大きな混乱を来すことになった。

相対評価の欠点は、比率が決まっているので、優秀者が10人いても5の配分が5人なら、5人しかつけられない。
例えば、10人が満点であっても、5人と決まっているので、何らかの方法で差をつけなければならない。
それが、今回の絶対評価に変わったことで、成績優秀者は優秀者として比率に関係なく10人に5をつけることができるようになった。
これは、生徒側としては幸せなことであるし、やる気も出ることである。

だが、成績(評価)の判定はプロ野球のように厳しく決められているわけではない。
自動車学校の場合は、教習員がいくら甘いと言っても、運転技能のない者を卒業させて公道を走らせるわけにはいかないので、そこは自然に限度というものができる。

ところが、義務教育の中学校にあっては、そういう自然な「しばり」というものもない。
(特に、最近では大学生でも、分数の計算ができない者がいる、と言われているぐらいだから。)

いっそ、中学校で成績をつける場合、分数の計算ができたら「2」、因数分解ができたら「3」、2次方程式が解けたら「4」などと明示的になっていたら、評価の絶対性は高くなると思うのだが、なにしろ義務教育は年数主義だからそうもいかない。

絶対評価に踏み切ったということは、100人中50人が「5」であったとしても構わないということである。
いや、100人が「5」であっても構わないわけである。

そうした時、教育委員会が評価の妥当性を検証すると言っても、具体的に如何なる方法で検証するのだろう?
「5が多すぎる」とか「1がいない」なんてことを言うのだろうか?
もしそうだとしたら、教育委員会は成績をつけられた生徒を、よく知っていなければならない。
つまり、教育委員会はすべての生徒の妥当と思われる成績を知っていなければならない。

そういう根拠なしに「あなたの学校は評価が甘い」などとは言えないはずである。
教育委員会が、そこまで言える強さを持っているなら、最終的な成績は教育委員会がつければいいことになる。

実際には不可能なことであるから、評価した先生が「評価には自信があります」と言えば終わりである。
そう言えない人は、教育委員会のご機嫌を損ねないように気を遣って、調整することになるのだろうか?
第一、優秀な成績者が多すぎるというような圧力をかければかけるほど、絶対評価と言いながらも以前の相対評価に近づくことになる。

このように詰めて行くと、高校入試を意識した中学校の評価は曖昧、いい加減といった印象を免れなくなる。
個々の先生によって、評価の違いが出るのはむしろ当然とも言えるもので、その違いをなくそうとするなら、先生の個性を否定することになる。
先生の個性が否定されて、子どもの個性が尊重されるわけがないと思うのだが。

このように、少し考えただけでも、絶対評価には矛盾が発見される。
だから、高校側が中学校からの内申を重視しなくなるのは当然とも言える。

教育委員会が変な介入をし、評価を動かすようなことがあれば、根拠の開示を迫られ、場合によっては、日本国憲法第14条「法の下の平等」で訴訟を起こされるかもしれない。
(アメリカのように、日本も「訴訟社会」になっていくだろうから、可能性は低くないと思う)

■妥当な絶対評価とは

統計の基本から言って、母集団(グループ)を一つにするしかない。

zettai_tadasiku.jpg


わかりやすく言えば、プロ野球の交流線のようなものである。

そうでなければ、高校側としては各中学校が生徒の順位を資料(内申)として出してくれた方がいいのだろう。
そうすると、以前の相対評価の資料の方がいいことになってしまう。

中学校の先生は、成績に敏感になっている保護者に対して、筋道の立った説明ができないと、不信感を持たれるだろうから、準備に怠りのないようにしておくべきである。


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2014年07月02日

すべての教師は指導力不足である

こうタイトルを書くと、気分を悪くする人がいるかも知れない。
しかし、逆の言い方をすれば、指導力の不足していない教師はいるのか?ということになる。

「指導力不足が気になる人」は、その指導力の不足している教師はどこにいるのか?
どこで見たのか?見たとしたら、どういうところが気になったのか聞いてみたい。

私は今までの人生の中で、他人の指導力を気にしてとやかく言った人に会ったことがない。
ずっと、吹奏楽に携わってきて、何人かで研究会を作り、モデルバンドを使ってそれぞれが、自分の指導を披露するということを長年続けてきた。

あとで反省会を設定して、各自の指導について意見を言い合うということも行ってきた。
その場では、良かったところ良くなかったところ、自分ならこうするということを自由な雰囲気で言い合った。

しかし、誰それが指導不足ということを言った人はいない。
それは気を遣って言わないのではなくて、指導には100点はないからである。
だから、どこまで言っても、指導力のあるという人はいないのである。

mikudasu.jpgまた、自分は指導力があるなんて思っている人もいないだろう。

芸術の追求にゴールがないと同じように、指導力の追求にもゴールはない。

それでも、もし「指導力不足教師」と世間に向かって言う人がいるとしたら、その人は自分の指導力をどう思っているのだろう?
自分以外の教師はみんな指導能力がないと、言いたいのだろうか?

この種の抽象的表現を使う場合は、基準を明確にしなければならない。
例えば100mを10秒で走る人からみたら、15秒で走る人は遅い。
だから、10秒辺りで記録を争っている人たちからみたら、15秒の人は遅いと言える。

つまり、抽象的な表現は、何を基準にしているのかをはっきりしないと、雲をつかむような話になる。
「Sは指導力不足教師」ではなく「Sはオレより指導力不足教師」と言うべきである。

だから、話がボケないように5W1Hが大切だと、私は言いたいのである。


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2014年07月01日

情報を正しく受け取る

私は中学時代から音楽に携わるようになり、音楽そのものに対する関心も強くなりました。
同時に、音楽を聴きたいという気持ちが強くなりましたが、コンサートに行くという機会もお金もありませんでした。
残る手段はラジオや再生装置ですが、これとて買うことはできないので、町の電気屋さんの裏口にある廃品をもらったり、小遣いで買ったりしてラジオを作るようになりました。
これが、今のオーディオの世界に入る入り口だったわけですが、私はいわゆるオーディオマニアではなく、もっぱら音楽そのものを聴きたいというのが主眼でした。

オーディオの好きな人の立場は、大きく3通りにに別れると思います。
1の立場の人は、装置そのものの音を楽しみたいという人。
2の立場の人は、あくまで生の音を再現したいという人。
3の立場の人は、1と2が混じっている人。

私は2の立場です。

今、オーディオは盛んなのかどうかですが、一時の全盛期ほどではありませんが、メーカーは熱心に研究開発をすすめており、とんでもなく高いものも売れています。
これは国民の所得が二極化していることにも関係があるように思います。

街にある家電店では、30万円を超える製品というのは高い方でしょうが、高級オーディオと言われるランクとなると、上は車の道楽のレベルではありません。
車ではフェラーリと言えば高級車であり、持っている人はお金持ちというイメージがあります。

オーディオショーに行った時、スイスのメーカーが出品していましたが、ステレオの左右のアンプがそれぞれ2000万円でした。
これだけでは音は出せないので、コントロールアンプも足すと、アンプだけで5000万円を超します。
スイス製のものは特別高いと思います。

日本のメーカーにもよい製品があり、スイス製と比べたらずいぶん良心的な値段と思いますが、それでもオーディオで有名なパイオニアの高級機種は一式で1800万円ぐらいになります。

日本のメーカーは高級機種は別のブランドを使い、パイオニアの場合はEXCLUSIVEとか、TADという商標がついています。
そのため、日本製なのに海外製品と思っている人もいます。

昔、TRIOというメーカーがありましたが、そこに勤めていた人の何人かで、自分たちの理想とする製品を作りたいとして、アンプの会社を作りました。

これが、創立40年を過ぎたAccuphase(アキュフェーズ)という会社です。
この会社のアンプは、初代社長が「アンプは太い導線でなければならない」と製品の理想を掲げました。
つまり、もとの信号を変化させてはいけない。ちょうど忠実な拡大コピーのようなものを理想としたわけです。
また、長年にわたり初期の性能を維持することも目標にしています。
(ほぼ創立当時の製品でも、修理を受け付けてくれるのには感激します。)

ところが、このアンプ、ある人たちには人気がありません。
「おもしろくない」というのです。

もとの信号に何かを足したり、引いたりしない、つまり、何の色付けもないわけですから、何か変わった音が出てくるというものではありません。
私の家にもAccuphaseのアンプが1台だけありますが、全くと言っていいほど色付けはありません。
私は元の音を忠実に再現したいわけですから、私の目的には合っています。

c-275.jpg


前置きが長くなりましたが、オーディオ装置の、以上の説明を図に表すと次のようになります。

OtonoRekka.jpg


簡単に言えば、CDに入っている信号を増幅(大きくして)スピーカーを鳴らすまでに、いろいろな要素を足す装置と、極力足さない装置があるわけです。

こういうことを、考えていた時、私はふとあることが浮かんできました。

■元の言語情報を歪めてはいけない

私たちの生活の中には様々な情報があります。
それらを、私たちは五感を通して得るわけですが、他人の言うことや書いたものを情報として取り入れる時、目や耳を使います。

目や耳は情報を取り入れるだけで、認識するのは脳です。

脳はオーディオ装置で言えば、アンプのようなもので、脳の情報処理の過程いかんで認識が変わってしまいます。
では、脳の何が情報処理に影響するかと言うと、私は4つの要素が大きく影響すると考えました。
それは、知性理性感情妄想です。

この4つの要素をレーダーチャートで表して、それらの比率の違いで、元の情報を正しく捉えたり歪めたりすると思うのです。
これらのイメージを図に表してみました。

gengoninnsiki.jpg


感情や妄想に支配され、知性や理性が低いと他人の言いたいことを正確に把握できません。
これは、相手が何を言おうと、自分の思いで決めつけたいという人です。

教師は、こういう風ではいけません。
教育のことをあれこれ言うう前に、最も大切なことと思います。
まず、子どもの言いたいこと、書いたことを自分の感情や妄想に支配されず認識することです。

教師たるもの、少なくともこの姿勢が大切であり、出発点であると思います。
自分や自分の周りにいる人を、このようなレーダーチャートで表してみると、欠陥がわかるかも知れません。

人間は基本的にミスをするものと考えます。
そのため、社会はそのミスに対応したシステムを作って対応しています。
自動列車停止装置などは、その例です。

討論会でアナウンサーが司会しているときは、時々「あなたの仰りたいことは○○ということですね」と確認をしています。
私も、この真似をして、特に大切な話の時は「あなたの仰りたいことは○○ということですね」を使っています。

相手の立場に立ったり、正しい情報を得たいならば、是非行うべきことと思います。
逆にそうしたがらない人は、要注意だと思います。


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