2014年08月31日

日中友好

尖閣の問題が報道されるたび、日本、中国の関係は思わしくないと言われる。
中国政府の本音はわからないが、同じアジアの隣国として仲良くしたいと国民は願っているのではないか。

私はしばしば、演奏の企画に招かれそこで新たな知人ができてきた。
最近は、あるパーティで中国の人と知り合った。
それが縁で、昨日は日中の人々の食事会に招かれた。

音楽に国境はないということを再認識した。
話もはずんで、中国の方々は、日本人に対して悪い印象を持っているとは考えられなかった。

日本語の上手な中国女性から、夜来香(イエライシャン)を歌いたいので伴奏をしてほしいとの申し出があった。
それで、次回のパーティで演奏をする約束をした。

私の中国に関する知識は、紙によるものと伝聞でしかない。
以前、パソコンのことで少しお手伝いした中国人がいて、お礼にと自宅に招かれ手作りの餃子をごちそうになったことはあるが、この家庭は日本人の男性と中国人の女性との国際結婚であった。
その後、一緒にカラオケに行ったりもしたが、国民同士は違和感なく仲良くできると思った。

今回も演奏を通じて、交流を深め少しでも国民同士の有効が深まればと思っているが、これを機会にもっと中国を知りたいと思っている。

ところで、◯◯人と言うと、私がイメージを描く根拠がチャイコフスキーの「くるみ割り人形」に出てくる各国の踊り(もちろん「中国の踊り」もある)である。
チャイコフスキー自身は、どのようにしてイメージを持ったのだろう。
(この部分を聞くと、チャイコフスキーはおもしろい人だといつも思う)
チャイコフスキーの「中国の踊り」について、中国人はどのような感想を持つのか、私には興味がある。
いつか聞きたいと思っていたので、今度は聞いてみようと思う。




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2014年08月30日

まだXP使っている?

ウィルスソフト入れておけば大丈夫だろうと言っていた人がいた。
ダメな理由を説明したらやめたようだが、中国ではサポート終了後も使い続ける人が多いと聞いた。
もっとも、これには追加ファイル(パッチ)を配る会社があるからとも聞いた。

ネットに繋がない。
USBメモリなどで外部からのデータを持ち込まない、などの注意をすれば大丈夫だろう。

問題は目に見えない被害がなければよしとする考えだ。
DOSの時代は真っ黒な画面に命令(コマンド)をタイプする操作だったが、アイコン(小さな絵)をマウスでクリックする操作にほとんどの人が慣れてしまった今日では、コンピュータの動作を想像するという思考がなくなってしまったように思う。

コンピュータの動作はほとんどが目には見えていない。
ウィルスの被害も、何年も前は画面がおかしくなるようなすぐにわかるものが多かったが、最近では使用中にも見えないものが増えてきた。

データを覗きに来るもの、盗みとっていくもの、これらは被害に気づきにくいだろう。
動作が遅くなったというので、メンテナンスを始めたら、2000を超えるウィルスに感染したPCがあった。
それでも、使用者は平然と使っていた。

自分だけの被害ならまだいいだろうが、最も気をつけるべきは踏み台にされることだ。
かつて、サイバーポリスによって逮捕された人がいたが、本人は犯罪をした覚えはなかった。
最近のネット犯罪は、他人のPCを中継して間接的に操作するので、知らぬ間に自分のPCが利用される可能性があるのだ。これが踏み台として利用されると言うこと。
踏み台となっているPCが捜査のターゲットになる。
だから、自分には覚えがないのに、突然朝早く警察がやってきて、PCを押収するということがある。
実際、知人の息子のPCが押収されたという事実を、私は知っている。

Windows VISTAからPCが使いにくいという話をよく聞いた。
これはセキュリティが強化されたことが大きく影響している。

わかりやすく言えば、盗難が多いので鍵を増やしたが、鍵が多くて部屋に入りにくいと文句を言っているようなものだ。
家中の鍵を全部なくしてしまえば、出入りはしやすいだろうが、泥棒の出入りもしやすくなる。

正しいPCの使い方に沿っていれば、使いにくいといことはないはずだが、無手勝流で使うから使いにくいのだ。

ウィルスソフトを入れただけでXPは守れない。
有効期限が切れたウィルスソフトもだめだが、二重にウィルスソフトを入れているのも、セキュリティがないのと同じだ。

自分のPCが自分の勝手な考えで、犯罪の発信基地(踏み台)とならないように、気をつけたいものだ。


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2014年08月30日

解明が進む脳のしくみと働き

スポーツの世界では科学的な解析によるトレーニングが進んでいる。
だから、変な精神論で押し切ろうとする指導は時代遅れの感が強い。
スポーツの科学的トレーニングの次に注目されるのが、脳の仕組みと働きにあった指導だろう。

私は脳の自然的成長の頂点は21歳ぐらいと認識していたが、最近の文献によれば30歳ぐらいだという。
そして、脳は死ぬまで成長し続けるという。
大きくは8つの部分に分けれれる脳は、生活習慣による刺激によって、どこが活性化するかという関係も明らかになっている。

「褒められる」ことは脳によい刺激になることから、褒める教育がいいという証明になっている。

自分自身の経験で、コンピュータの勉強をして疲れた場合、その後音楽の勉強をしても疲れるところが違うなと感じていたが、やはり脳の働いている部分が違うのだ。

英語のスピーチを聞き取る能力は、聴力に関する部分の役目だが、この力を向上させるためには、必ずしも英語ばかりを聴く必要はなく、音楽を聴くことでも向上するという。

オーケストラの中の特定の楽器だけを追跡して聞き取るという能力は、音楽に携わる人間には自然に備わっているものだが、これも英語を聞き取る能力に関係あるらしい。

本日の話題のもとは、アタマがみるみるシャープになる! 脳の強化書がきっかけであるが、受け売りを発表するというより、自分の実践の反省に照らしあわせてみようというのが本意である。

他にも脳の働きを解明した文献はたくさんあり、これらを概観してみると、これからの教育はスポーツで必要な部分の筋肉を鍛えるための科学的トレーニングのように、必要な部分の脳を鍛えるための合理的な刺激を考える方法が増える方向になるような気がする。

歳とともに脳の働きに個人差を感じるのは、生活の仕方の個人差が脳に与える違いであるとも言えそうだ。
学生時代に成績のよかった人は要注意とあるが、これは、いつまでも学生時代のやり方に固執する傾向があるからという。
これは「自分は頭がいい」という自負がある人も同じだ。

「頭がいい」というのは、30歳以後からの勝負で、自分は頭がいいと思ってしまっていると、考え方が自分の型に当てはめてしまうパターン化思考のため脳を硬化して、いつの間にかバカになっている可能性があるらしい。
「高学歴なのに何であんなバカなことを」という謎もはっきりしたようである。

とにかく、ヤマカン的指導は時代遅れになりそう。


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2014年08月28日

少なくとも二手三手先を考える

最近、ある会合で、私も常々思っている不安が話題になった。

人々の思考力が低下してきたのではないかと言うことである。
原因は世の中が便利になってきて、便利さを享受する人だけの人が思考力低下に陥っているのではという、これも私と同意見であった。

野外学習でさえ文明の利器を持ち込み、野外学習の目的は何だろうと思ってしまう。
そんなことは考えず、一応行事さえ消化すればいいということだろうか?

考えなくなったという例に、私は自動販売機をよく例に出す。
どのジュースが欲しいか選ぶ→値段を確認→コインを入れる→ボタンを押す→商品を取り出す。
これだけである。

自動販売機の中はかなり複雑なことをやっているが、そこの部分は他人が考えたことである。
世の中は、難しいことは頭のいい人がすべて考えて、考えられない人の思考代行をやっているのである。

サラリーマンとして勤め、10年も経過し、ただ歳を取っただけなのに、後輩ができてくるとそれだけで自分が上になったような気分になる人は危険だと思う。
「若い人たちは・・・」と言うのはいいとしても、それが上から目線が身についた人は危険。
若い人は未熟なのか?

新入社員が未熟に見えることがあるかも知れない。
しかし、それはただ環境に慣れていないだけではないか?
企業は常に危機感を感じているので、それが頭をつかうことに繋がると考えられる。

学校の場合、親方日の丸、毎年同じことの繰り返しで、頭脳は退化しないか。
特に公立学校の管理職は危険である。
もちろんすべての管理職がそうだと言うわけではない。

一番危険な生活は、一日中ほとんど何もしない人。
帰宅すると、デンと座っている。
奥さんがお茶を持ってくる。
食事を持ってくる。
座ったまま、あれこれ指示をする。

こんな生活だっただろうと思われる人。
ある日曜日、奥さんが出かけて夕方帰ってくるまで何も食べなかったという、

便利な世の中と、このような生活が思考低下を加速するのだろうか?

問題はワンポイント思考。
将棋で言えば、王が危ないのに飛車が逃げてしまうようなもの。

私は原発問題についても書いたことがあるが、世の中を治めるために「原発の欲しい人には原発を与える」と言った人がいる。
「原発を与えた後は・・・」は考えないらしい。

「お茶を」と言われたらすぐ要求を受け入れてもいいだろう。
それでも「お茶を飲みたいのだな」と考えるだろうから、思考はワンポイントではない。
いや、もしかしたら、今はそこまで考えない人もいるかも知れない。

ワンポイント(一時思考)だけの人は危ない。
もし、ワンポイントの警察官だったら「ピストルを貸してくれ」と言われて、その後を考えず要求を聞いていたら大変だ。

憂いていても何の解決にもならないから、私は、せめて二手三手先を考えることを推奨したい。

問題行動があったら「しない」としか言えない生活指導をするのではなく「したらどうなる」あるいは「してどうなった」と聞いて、次はどう言うとよいか、どう対策をしたらよいか、さらにその対策の検証まで考える。

決まりを細々と作って終わりではなく、作った決まりによる心理的影響も考える。

人を殺そうとするかも知れない人に、ただ「ナイフを貸してくれ」と言われたから貸したと言う人が増えないことを願う。

何もしない管理職には将棋をさせるのもいいかも知れない。
相手を子どもにすれば、いい教育になるかも知れない。


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2014年08月27日

すばらしいスイス・ロマンド

スイス・ロマンドと言えば、クラシックフアンならすぐにピンとくるオーケストラ、スイス・ロマンド管弦楽団のことである。
このオーケストラが有名になったのは、数学者で創設者のエルネスト・アンセルメが指揮者として君臨し、育て上げたことである。

当時、録音には定評があったロンドン・デッカが担当し、このオーケストラのきらめく音色とアンセルメの明快な指揮で音楽フアン、オーディオフアンを虜にした。
なにしろ、50年以上アンセルメが率いたオーケストラ、彼が亡くなった後、あまり名前を聞かなくなった。
それが、来日し録画放映された。

音は健在だった。
録画放送からも、魅力ある音は十分感じられた。
指揮者は山田和樹、日本人で、優れた指揮ぶりから、これからの演奏活動が楽しみ。

ところで、優秀な音楽家はみな頭がいいという感じを、昔から抱いていた。
というのも「指揮者って必要なの?」とか「楽譜があるからその通り演奏すればいいだろう?」という程度の人はわからないかも知れないが、音楽は単に楽譜を見て音を出しているだけのものではない。

リズムは数学的に正確に読まなくてはならないが、縦の関係、すなわち和音は整数比でできており、その比の関係で協和音であったり不協和音であったりする。

こういうような知識は基礎であり、機械的に楽譜を読み取るのは当たり前で、数学的にきちんと書かれた楽譜に込められた作曲家の意図を読み取らなければならない。
それには時代背景を知ることは必須で、音楽大学の科目には音楽史もある。
楽器の音響学は物理そのものであり、楽譜に書かれているのは、いわゆる「おたまじゃくし」だけではなく、外国語もある。
楽譜に表記する言語はイタリア語が基準になっているが、ドイツ語、英語、フランス語も出てくる。

音楽をやるのに何が必要かと言えば、少し思い出すだけでも、多様な知識を必要とし、音楽という中学校の科目からは想像できないほどの多様な知識が必要である。

ロシア革命当時の大作曲家、ショスタコービチは当時の政治の影響を多分に受けている。
国家には威信というものがあるが、スポーツで金メダルを取るということも国家威信がかかっている。
我が民族は優秀であるということを、世界に誇示したいという意識が当たらくのだろうが、スポーツだけでなく、芸術のレベルの高さも同様である。

ロシアにはボリショイバレーやチャイコフスキーと言った作曲家を誇りにしているし、それだけに、政治は作品を気にしている。
ショスタコービチの時代には、多くの作曲家が体制に合わないとされ処刑された。

キリスト教とバッハ、バロック時代の音楽と宮廷、ナポレオンとベートーヴェンなど、楽譜から読み取るものは非常に多い。
数学者であったアンセルメが指揮者になったことは、そんなに不思議なことではない。

私が言いたいのは、教員の場合、教科の免許状があるせいか、それだけでその科目の専門家という錯覚がありはしないかということである。

そして、その意識が人間を狭いものにしていないか。
国語の先生が数学のことに首を突っ込むようなことは、暗黙のうちにタブーとしており、その壁のようなものが戦国時代の城の城壁や堀のような役目をし、自分の科目もそれで守られているという意識はないか。

そういうことで、定年を迎え社会に放り出されて、果たして専門家として通用するのか?

最近、私が中学校勤務時代にヴァイオリンを弾いていた女の子が、ヨーロッパのオーケストラからコンサートのために帰ってきた。
彼女は期末テストではいつも一番だった。
自宅で宿題をやっているところを、父親に「勉強なんかやらんでもいい」と叱られているのを見たことがある。
吹奏楽部で部長をやっていたS君は、現在、指揮者だが、彼も期末テストは一番だった。
彼も彼女も学習塾は行っていない。

アマチュアオーケストラの日曜日の練習に来ていた、女子高生のFさんは特別に勉強をしていたという様子もなかったが、東大へ進学した。
ピアノが大変上手だったのて、そちらの道へ進むこともできたが、卒業後は政治の道へ進んだ。
東大の野球部は弱いことで有名だが、オーケストラは上手で学生オーケストラとしては、全国一ではないかと思う。

話を戻して、各国の政治のトップにある指導者たちは、国家の威信に関わる活動には敏感で、先に述べたように政策(政治体制)に合わないと考える芸術活動を弾圧する。具体的には死刑である。
だから、その音楽がなぜ体制に合わないのかがわからないようでは、社会の先生と言っても、早い話がたいしたことないということになる。

ということで、音楽は学問を極める上で必須の分野だと思っている。
アインシュタインもヴァイオリンを弾いていて「死とはモーツアルトが聴けなくなることだ」という言葉を残している。
シュバイツアーはオルガンの名手だったことが知られている。

スイス・ロマンドを聴くということは、単なる物理的な音だけでなく、非常に多くのメッセージが込められていることを聴き取らなければならない。




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2014年08月26日

30年以上続いている同窓会

ある小学校に、一緒に勤務したことのある先生同士の同窓会。
私が新卒から6年間勤務した小学校だった。

そのころ、私は正直なところ先生をやるかどうか迷っていた。
しかし、母子家庭だったので、親にいつまでも心配をかけてはいけないと思い、とにかく就職しようとの思いで赴任したのが正直な気持ちだった。

4月1日、勤務地の市役所で説明を聞いた後、採用された者はそれぞれ勤務校の場所を確認し行くことになっていた。
私も地図を出して、場所を確認しようと思っていた時

「お迎えに来ている学校がありますよ」

とのメッセージがあった。

一同「ほうー」という感じで、どこだろうと思っていると、私の学校だった。
教頭が自家用車で迎えに来てくださったのだった。

市役所は市の中心にあるのだが、車は繁華街から次第に離れて、田舎の村の景色に変わっていった。
平屋の木造住宅の立ち並ぶ細い道に入ると、一体どこに学校があるのだろうと思っていると、民家の中に埋もれたように小学校があった。

校門の前まで来ると、テレビドラマで見た大正時代の世界に戻ったような錯覚に陥った。
校舎はすべて木造、廊下を歩くとギシギシと音がした。
「職員室」と書かれた表示もまるでテレビで見た昔の学校だ。

大変なところに来たなあと思いながら、案内されるままに席につくと、職員会が始まった。
早く家に帰りたいという気持ちばかりがよぎって、何の話があったのかよく覚えていない。
先生の数を数えると18人。
数人若い女の先生がいて、あとは中年以降のおじさんおばさんの先生。

私の受け持ちは4年生18人のクラスだった。
教壇に立った時、シーンと緊張の空気。
私がニコッとすると、子どもたちもニコッとして空気が柔らかくなった。
とても人なつっこい感じの子どもたちで、兄弟のいない私には心に感じるものがあった。
この子たちを卒業まで、つまり4、5、6年生と3年間担任をすることになるとは、その時はとても想像はできなかった。

翌年、校長から、新しい校舎を作るので放送室、スタジオ、音楽室の図面を書いてくるようにと言われた。
電気関係、製図は勉強してきたことなので、図面を書くことは何でもなかったが、学校の設備はどんなものかわからなかったが、自分が思う理想を書いて提出した。
後に、この図面の通りに作ってもらえたのには驚いた。

18人の先生たちはみな個性的で、教育熱心だった。
それを校区の保護者たちも理解していて、先生を全面的に信頼していた。

最近の学校は外部からの行事の持ち込みや何かで、教育課程を落ち着いてこなすという空気が乱されがちのようだが、ここでは本当に落ち着いて教育そのものに没頭できたように思う。

地味なおばさん先生も、じっくり教育に取り組んでいて、それが子どもにも徐々に浸透していた。
先生たちは、互いに尊敬しあっていて、決して他人を誹謗中傷するということはなかった。

私が最も嫌いとするところは、自分の経験を話すと、やっかみ、嫉妬といった反応があること。
悪く言われることは、未熟な自分にはあまり気にはならないが、やっかみ、嫉妬の類は何とも耐え難い。

人間がとても小粒に見えるからだ。
私はスケールの小さな人は嫌いだ。

この、やっかみ、嫉妬は昔より増えた感じがして、日本人が次第に小粒になっているのかとさえ感じる。
中でも、教員の中にそういう人がいるのはとても嫌で、先生という感じがしない。
先生というのは心の大きい人で、暖かい感じというのが、私の子どもの頃からのイメージで、そのイメージを壊すような人は先生という看板をつけているだけで、心では先生と認められない。

その上、輪をかけて幻滅するのは、他人のあら探しばかりしている人だ。
ハイエナは死肉を探し回って夜活動すると言われるが、そのようなイメージを抱く。
もっとも、ハイエナが死肉を食するのは、自然界の清掃になるが、嫌味たらたらのあら探しは清掃になるどころか環境を悪くする。

話が逸れたが、目立とうとせず地道な教育活動に専念する小学校を、市や教育委員会も支えていてくれた。
だから、新校舎建設時もほとんどすべての要望をとり入れてくれた。
まだ2年目の私の要望もまじめに聞いてくれたのは驚きだが、他の先生たちが、生意気ととらず「すばらしい」と言って支えてくれたのも、まさに大きな心の表れだったと思う。

その頃の先生たちが、集まって同窓会ができたのも、みな仕事に幸せを感じていたからに他ならない。
一人も「私は遠慮したい」という人がいないのも、みな同じ気持ちだったということを表している。

今思えば奇跡のような時代だったとも言える。

折しも、その時の子どもたち、いや今は社会人であり親である教え子だが、同窓会(同級会)をやりたいと言ってきた。
そして、会場は思いでの思いでの音楽室。
「先生、それで、あの頃の授業をもう一度やってください」
と言ってきた。

私としては、自分が先生というより、自分も同じ子どものような気分で遊んでいたような気がするので、恥ずかしい。

かなり年配の先生が「あんたのクラスの子どもが、一番子どもらしい」と言ってくれたことが、私への何よりものほめことばとして、ずっと持ち続けている。

今日はとりとめもない回想になってしまった。

・・・ みんな、ありがとう ・・・


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2014年08月24日

やはり教育は情熱です

先輩にたいそう音楽の好きな人がいた。
彼は音楽科を卒業し教員になったが、赴任した中学校で15人ほどの生徒を集めて吹奏楽部を作った。
部活であるが、彼にとって音楽を教えるということは、授業の延長でもあった。
部活は授業ではできないことができるという魅力もある。
吹奏楽というアンサンブルを、何年もかけて育てていくということは、部活動でなければできないだろう。

彼はとにかく、できる時間はすべてというぐらい熱心に指導した。
親戚の葬儀があった時、彼は年休をとったが、葬儀が終わると学校にかけつけ指導をした。
吹奏楽部はたいそう上手になったが、ただ上手という言葉だけでは表せない熱気が演奏から伝わってきた。

ただ部活をやっていると言うだけでなく、生徒たちは人生に大きな影響を受けたと思う。
それは、その後の生徒たちの生き方を見てもわかったことだ。
たかが部活動と言う人がいるかも知れない。
だが、先生の寸暇を惜しまないひたむきな情熱によって、中学生時代という難しい時期の勉強や生活指導の問題を中学生たちはたくましく乗り切って行った。

活動と言えばコンクールがすべてではないが、代表となって勝ち抜いて行くと、最後は10月、11月、時には1月の大会ということもある。
代表にならない学校は8月ぐらいで終わってしまうので、こちらの方が勉強時間はたくさんあるのだが、代表校になって勉強時間が少なくなる生徒がよく勉強するというのもおもしろい現象だ。
保護者からも文句が出たということを聞いたことがない。

別の学校でも、熱の入っている先生は、授業が終わるとすぐに練習に向かう。
ところが、ある日、学校を訪れてみると授業が終わった後、先生が職員室で他の先生たちと雑談しているのを見た。
生徒が自分たちで練習をやっていて、しばらくして先生が行くのだ。
こうなると、この学校はだんだん下手になっていく。

スポーツのことはわからないが、音楽の練習では、特に基本が大切なうちは目を話すとすぐ自己流になる。
自己流の練習はやらないほうがマシである。
なぜなら、自己流の悪い癖をつける練習をやることになるからだ。

私がテストの採点が嫌だと言った理由には、こういうところがある。
試験が終わると、直ちに生徒は開放された気分になって伸び伸びと部活に励む。
先生はその間に忙しく採点をしていることになる。
こういう時の練習は、どんどん自己流が進むことになる。
それで、この問題を解決するために、私はマークシートの試験を導入した。

つい、私ごとになって恐縮。

勉強はすべての教科を、あたかも栄養食のようにやるのがいいように見えるが、人間は「心で動く部分」が大きい。
だから、中学生時代のような多感な時に、何でもいいから情熱を注いでくれる先生に合うことは大切なことではないか。


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2014年08月24日

教師が強くならなければならない時

最近はダメと言わなければならない時、ダメと言えないお父さんが増えたような気がします。

あるお父さんが、調子のよくないノートパソコンを持ってみえました。
デスクトップを見ると、ショートカットが雑然と並んでいました。
その様子から、私が「子どもがいじっていますか?」と聞くと「はい」とお父さんは答えました。

このパソコンはお父さんが仕事で使っているものです。
私が、けじめをつけるために、いじってはいけないとはっきり言うべきだと言うと、お父さんは「それが」と言って、できないようでした。

こうして育っていく子どもは、家以外でも触りたいと思うものにはすぐ手を出すのではないかと思います。
子どもは好奇心が強いですから、珍しいものには触りたがります。

触ろうとして手を引っ込める子どもがいます。
誰かが見ていなくてもです。
これは、自分でブレーキをかけているわけです。
こういう子どもは、恐らくきちんと躾されてきた子どもでしょう。

触りたい様子を見て「触っていいよ」というと、喜んで触る子ども、こういうところで家庭の躾を感じます。

これは保護者の範疇の話ですが、教師も当然躾をしなければいけません。
何か実例がないと、楽器を習うことを例に話をしてきましたが、特に始めは基礎・基本が大切ですから、それに沿わない時、教師は強く否定しなければなりません。

「勝手なことをすると、先生は怖い」

と思わせるぐらい、けじめをつけることが大切だと思います。
悪いことは悪いとはっきり言う、これは道徳のようですが、道徳に通じるものがあると思います。

基礎・基本ではあまり多くの要求をせず、シンプルなことをきちんとやるように、子どもには言うべきです。
つい退屈で他のことに手を出そうとする時は我慢させなければなりません。
我慢強さ(忍耐)の心を養うのと同じでしょう。

こういうことをきちんとやらないと、子どもは簡単な曲でも一人で完全に演奏することができなくなります。
誰もがプロになるわけではありませんが、こと楽器の習熟に関しては、プロもアマも区別はありません。

基礎・基本の段階をいいかげんにすると、子どもは次第につまらないと思うようになりやめる方向に行きます。

基礎・基本の段階では、教師は特に強くならなければいけないと思います。


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2014年08月22日

シンプルだから難しい基礎・基本

基礎・基本はシンプルだから易しいと考える人は、初心者だろう。
百戦錬磨の指導者は「シンプルだから難しい基礎・基本」を痛感していることと思う。

tadasiitone.jpg何でも、学ぶことには共通することだと思うので、前回から例に出しているリコーダーを再び取り上げてみる。
初心者には、どのような音の形がいいのか教えるのだが、その際、右のような図を示す。
教師は、Aのような音を出すように学習者に言うのだが、B、C、Dの悪い例も示して、教師は実際に音を出して耳で覚えさせることもする。

A図は実にシンプルで何も難しくない。
だが、このようなシンプルな音を初心者が出すのは難しい。
これは、リコーダーだけでなく、吹いて音を出す管楽器にはすべて共通の基礎・基本である。
例えば、トランペットであれば、A図のように出だしから雑音がなく真っ直ぐな音が出せたら、それだけでプロと言われるぐらいだ。
だから、音大受験者や音大生もこういう音を目標に、常に練習している。

今年、全国から18団体を集めて開催したリコーダーのコンサートでは、小学生2チームが素晴らしい演奏を聴かせてくれた。
音が安定して綺麗に聴こえるのは、基礎・基本がしっかりできているからである。
先生の指導者としての優秀さが伝わってきた。
http://collina-music.com/modules/x_movie/x_movie_view.php?cid=12&lid=27
http://collina-music.com/modules/x_movie/x_movie_view.php?cid=12&lid=22

ボールを真っ直ぐ投げる。
ゴルフボールを真っ直ぐ飛ぶように打つ。

これらも、言っていることはシンプルで、頭で理解することは難しくない。
だが、実現することは難しい。

だから、学習者には何が基本かを伝えた後、それ(基礎・基本)がどうしたら実現できるのか導くのが指導者(教師)の役目である。
導く過程をどのようにして行っているのかが、指導者の関心である。

「基礎・基本が大切」とか教育用語を散りばめて一般論をまくしたてたりするのは、指導経験のない人と私は思っている。

最近の話だが「だれそれの説明はやたらに専門用語が多い」と怒っていた人がいる。
IT(ICT)に関する話だったということだが、素人相手なのに専門用語が多いらしい。
素人相手に、専門用語をたくさん使う人は、使う人自身がよくわかっていないのだと、私は思っている。
専門用語をひけらかすことで、オレは偉いのだと思わせたい人もいるようで、これはかえって嫌味なやつと思われるだけだろう。

基礎・基本を教えるときは、できるだけやさしい言葉を使うようにしよう。


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2014年08月21日

基礎・基本はスタート地点である

基礎や基本に関わる知識は教師から示されるもので、学習時に追究するものではない。
例えば、これから平泳ぎを学ぶという時に、教師と生徒が力を併せて平泳ぎの基礎・基本の知識を追究するということはないし、教師が指示をして追究させるということもない。

教師が意図的に「平泳ぎはどのようにしたらできるか」と生徒に問いかけることはあるだろう。
しかし、指導者である教師が平泳ぎの基礎・基本の知識がなくて生徒に考えさせるということはあり得ない。
そんなことをしていたら、生徒に考えさせることはいいとしても、評価をすることができない。
(ここで評価ができないと言っているのは、成績がつけられないという意味ではない。基礎・基本に照らしあわせて可否を判定することができないという意味である)

まずは、手や足の動きがどのようにするかの説明を教師が行い、実演で示したりする。
そして、基礎・基本となる手足の動きが実現できるように、方法を考えるところが教師の腕の見せどころと言える。
言い換えれば、基礎・基本を実現させるために、教師は指導するのである。
この場合の基礎・基本とは知識を指している。

基礎・基本はこうあるべきという絶対的な自信を教師が持っていることが大切である。
教師自らあるいはゲストによって範を示すことも大切だろう。

基礎・基本と応用では、小学校で習うソプラノリコーダーについて触れたが、これも基礎・基本の知識が間違っている例を見る。

音の高さ(ピッチ)を合わせるためには、管の抜き差しで調節することはできるが、そうやって音合わせをしてはいけない。
同じ楽器を使っているのに音が合わないのは、息の強さが違うからであり、教師が基準の音を出して、その音と合うような強さの息で吹かせるようにしなければならない。
ちょうどいい息の強さの音を習得させることが大切である。

リコーダーは強く吹けば音は高くなるし、弱く吹けば低くなる。
f(フォルテ)のところを強く吹けば、当然、音は高くなって音は外れる。
リコーダーは常に一定の息の強さで吹かなければならないし、その中で強弱を感じさせるように演奏することが基礎・基本である。

これは、指導者たる教師がよく知っていなければならないが、音楽の教師と言えどもリコーダーを知らない人がいるので、そういう人は我流を教えないように、自ら学んでおかなければならない。

先生という肩書があっても「何でも先生」ではないはずである。

何でも口を出したかったら、何でも勉強しておかなければならない。


リコーダーに関心のある方→コリーナミュージック


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2014年08月21日

基礎・基本と応用

基礎・基本は明快です。
それだけに、基礎・基本を論述するときに妄想を展開しても意味がありません。
基礎・基本を論述するときは、当然、実践を経て「確かにそうだ」と確信の持てるものを伝える必要があります。

書籍を読んでも、基礎・基本は明快に書いてあります。
しかし、それらをなんとなく実践するのではなく、なぜそうなのか課題意識を持って実践し確信を持つことが指導者のあり方だと私は思います。
そういう意味で、入門段階の指導は基本に始まり基本に終わると言えます。

と言いながら抽象論を展開しては矛盾しますので、具体的な例をあげます。
(私は具体例を挙げられない人は、指導者としては信用しません。→多分何もやっていない人と思います)

do.jpg小学校でソプラノリコーダーを習いますが、導入段階で間違って教えている場合があります。
右に楽譜で示しますが「ド」の音から学ばせるのは間違いです。
この間違いは、恐らく、始めは「ドレミファソラシド」と練習させるべきと考えるからではないかと思います。
確かに、音楽の基本は音階からなのですが、楽器の練習を同じように考えるべきではないのです。
指を使う管楽器では、いきなりたくさんの指を使う音から始めるのではなく、押さえやすい指使い、少ない指の使い方から始めるべきであって、追究なんて大げさなものではありません。
基本はシンプルです。

■基礎・基本と応用を混在しないこと

ものごとを論じるとき、一番障害になるのは、論じる人の思考構造です。
勝手に言葉の意味を決めたり、持ち込むべきでないものを持ち込んだり、支離滅裂な思考構造です。
いわゆる「おかしい」と噂の立つ人ですが、こういう人を相手にすると収集がつかないので、敬遠するしか方法はないのですが、何かの事情でこういう人が話し合いに入り込むと、時間ばかり過ぎて何の実りもなく疲れが残るだけです。

私はクラリネットを演奏していますが、ベルリン・フィルの主席奏者のカール・ライスター氏とお話ができることがありました。
私はビゼーのカルメンの曲の中で、指使いに困っているところがあったので、聞いてみました。
彼は「A管で吹く」と言いました。
私はなるほどと思いましたが、ビゼーの楽譜では「B♭管」で書いてあったので、私はそれを頑なに守っていたのです。
世界的な奏者が「A管で吹く」と言うので、自信を持ってそうすることができます。

kisoouyou.jpgこういう話は、基礎・基本の話ではありません。
応用編の話です。
あたまのおかしい人は、こういう時、何が何でも自分の主張を守らんがために、基礎・基本の話に応用編を持ち込んだりして研究ではなく、つまらない自分の名誉を守ろうとしているみたいで嫌になります。
子どもを相手にする先生が、一番気をつけなければならないことだと思います。


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2014年08月20日

教育は強制である

「教育は強制である」というと、反感を持つ人がいるかも知れない。
もし、反感を持った人は、何に反感を持ったのか考えてもらいたい。
そこで、私がここで言う教育と、反感を持ったあなたが思っている教育が、同じかどうか考えてもらいたい。

ひとことで言う教育という言葉は、抽象的な言葉で具体的なものを何も指していない。
だから教育という言葉から想像するものは、十人十色と言える。
つまり、私の言う教育とあなたが思う教育が一致しているとは限らないのだ。
なのに「教育は強制である」と言うと、それだけで反論をする人がいる。
これは、魚屋に行って「魚が食べたくて買いに来ました」と言うと「アジよりサンマの方がいいですよ」と言う魚屋のようなものだ。

客は魚を買うという意向を示しているだけで、具体的に買いたい魚の名前を言っていない。
このように相手が何を考えているかわからないはずなのに、相手の考えを決めつけてしまうのだ。

はじめに、このようなことをくどくど言うのは、わからないはずの相手の考えを勝手に決めつける人に出会うことがあるからだ。
しかも、そういう人は教師に多い気がするが、若い教師にはまずいなくて、中年以降に多い。
また、優れた指導をしている人にも「決めつけ」はいないと感じる。
優れた指導をしている人は、研究熱心で謙虚なのは、どこからも学ぼうという意識が強いからだろう。

最もレベルが低いと感じるのは、私が「教育は強制である」と言った瞬間に、オーム返しのように「教育は強制ではない」と返す人である。

■強制とは基礎・基本である

基礎・基本は先生が違っても同じであり、客観的で、具体的であると述べてきた。
強制も基礎・基本においての話しである。

具体例をあげてみよう。
楽器の場合「親指はここを押さえる、人差し指は・・・」と決まっている。
しかし、こう教えても守らない子どももいる。
こういう時、必ず言ったことを守るように厳しく言う。つまり強制である。

これを「子どもを型にはめている」という人がいる。
これは、どうしようもないないバカが言うことだと思うから、以後、話し相手にしないようにする。

昨日はゴルフに行った。
私は基礎・基本ができていないから、スコアはさんざんだが、せめて基礎知識ぐらいは確認しておこうと思った。

今はネットに資料があふれているし、プロによる理想的なスイングも紹介してある。
問題は、如何に素人にわかりやすく説明しているかなのだが「アイアンとウッドのスイングの違いは?」という質問が載っていた。
さすがプロの指導者と思ったのは、説明が明確(曖昧さがない)で、スイングの見本を動画で実演して見せてくれることであった。

実演で見せてくれるというのは、良い指導者の条件の一つだと思う。
体育や音楽などの実技は見本を見せられるが、国語や社会などはと思う人もいるかも知れない。
しかしそういう教科の人も、お手本はある。

例えば書くことに堪能で小説家になった人、史跡調査で優れた論文を書いた人など、そういうことは本人があえて宣伝しなくても、それとなく知られていく。
それが、子どもを指導する時の説得力にもなっている。

優れた指導者は自分でも研究をし、自分を振り返っている。
その中には、苦い経験もあるだろうが、それが指導者の力量を引き上げていると思うのである。
反対に、何もない人は自分の経験がないので、指導時に見せるものがない。

「教育は強制である」は「教育は矯正である」としてもいいだろう。

教師たるもの、基礎・基本においては自信を持って強制できなければいけないと思う。


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2014年08月19日

基礎・基本は具体的で曖昧さがない

現実に先生をしている人は、自分がどういう指導をしたか思い出せるはずです。
それで、自らの実践を思い出してもらえば、すぐわかることなのですが、基礎・基本といえば始めの第一歩は何ののかということです。

■基礎・基本の始めは名前を覚えること

kisokihon.jpg学校の教科に限らず、学習の始めは習うことに関するものの名前を覚えなければなりません。
例えば、動物の勉強するには、動物の名前を覚えなければなりません。
なりませんと言うより、始まらないと言ったほうがよいでしょう。

ネコ、イヌ、ライオンとかいった名前を覚えるのですが、それが先生によって違うということはないわけです。
ここに、曖昧さがないのはもちろん、基礎・基本は客観的で同じ(同じことを習う)と言えるのだと思います。

ネコ、イヌ、ライオンと言ったレベルののものは覚える必要はなく、みんな知っているよと言うぐらい難しさを感じないものでしょうが、それでも人は覚えるので、優秀な脳を持っていると言えます。

ロボットの開発が盛んですが、ロボットに動物の名前を覚えさせるの容易でありません。
動物の単語を記憶させるのは難しくありませんが、名前と現実の動物を結びつかせて覚えさせることは難しいのです。

ネコと言っても、恐らく全く同じネコは二匹いないでしょう。
しかし、たくさんのネコを見た時、幼児でも一匹ごとに違うネコをみな「ネコ」と言います(恐らく)。

こういう思考をするためのプログラミングとセンサーで実現することは、大変難しいことだと思います。
イヌだけ見つけて捕獲するロボットは容易に作れないでしょう。

こういうことを考えると、人間の脳は実に素晴らしいと私は思うのです。
学校ではテストをやり、成績をつけますが、最下位の子どもでも凄い脳を持っていると、私は感じています。

だから、できないと言われる子どもでも、私は優秀と感じて大切にしてきました。
そういう気持ちを持つと、子どもの方も親近感を持ってくれるように思いました。


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2014年08月18日

押し出しが強く上から目線、実践はなし

振り込め詐欺は形を変えてなお盛んなようで、お金のある人は油断ができませんね。
騙されてしまう原因の一つに、詐欺師の演技力が高いと言えるでしょう。

「押し出しが強く上から目線」というのも、こういう人の演技力が高いというか、いや本人は「なりきっている」のかも知れません。
そういう意味では二重人格のような気もします。

知人に「押し出しが強く上から目線」で堂々と生きている人間がいます。
それで、結構犠牲になった者も何人かいます。
犠牲になってしまうのは「オレはすごい」を宣伝するので、結構すごいのだと思ってしまう人がいるのです。

seikakunomiwakekata.jpg
話しっぷりが堂々としていると、信じてしまうようですが、少し教養があれば見破れます。
ということは、騙される方もバカと言いたくなります。

このハッタリ男、普通じゃないと思い、いくつか本をあたってみたら「性格の病気」とありました。
そんなに厚い本でもないので、このブログを読んでくださっている人で、興味が持てた人は読んでおくといいのではと思います。

この人物、自分の実践は皆無と言えるもので、すべて架空です。
「安倍さんの邸宅に招かれた時・・・」なんて平気で言ってしまうぐらいです。

信じた人はすごいと言いますが、本人はそれでも足りないせいか、自分で自分のことを褒めます

「性格の見分け方」の本によると、いつか破綻をきたすとあります。

気持ちが悪いので、私は近づかないようにしています。


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2014年08月17日

基礎、基本には客観性が必要 (2)

昨日は出かける直前だったので、言葉足らずに終わりました。

基礎、基本を間違って教えることは罪です。
知識なら、まだ訂正だけで済みますが(もちろん、訂正できるからいいとういうものではありません)、技能となると一度間違って覚えたら、習得期間が長いほど訂正は困難になります。

例えば、自分の経験になりますが、高校へ吹奏楽の指導に行くと、ホルンとトロンボーンに運指を(トロンボーンはポジション)間違って覚えてくる生徒が多いことに気がつきます。

こういう場合、生徒は直すために非常に苦労します。
間違ったクセを直す努力が、余計に必要になるからです。
だから、ゼロから始めるより悪いことになります。

先生が正しく教えていたら、こういうことはなかったのですが、言葉を変えれば、正しい教えはみな共通性があり客観性があると言えます

自分独特の教え方はいいとしても、伝えることが間違っていてはいけません。

楽器などは、生徒がいろいろな先生に習う場合がありますが、基礎、基本についてはどの先生も同じことを言うはずです。
つまり、客観性があるということで、逆に主観的な教え方をしていないか、時にはふりかえってみる必要があるでしょう。

■テスト

客観テストと呼ばれるテストがあります。
これは何が客観なのでしょう?

客観というのは、指導を考えると、先に述べたように、教え方が正しいのなら、どの先生の教えも同じということになります。
だから、客観テストというのは、採点者により違いが出ないテストということになります。

「基礎、基本は客観的」ということを併せて考えれば、初等教育、中等教育においては特に基礎、基本を大切にするわけですから、テストは客観的であるべきと言えます。

まわりくどい説明になりましたが、基礎、基本のテストで私情が入ることはおかしいし、採点で感傷的になっても仕方がないと言えます。

テストは何よりも公平性が大切ですから、小中学校においては、なおのこと客観性は大切です。

企業の採用試験においては、採用側の企業側の欲しい人材を求めるので、テストには主観が入るのはやむを得ないでしょう。
それでも、一般教養のテストは客観テストでしょう。

■客観テストにも欠点はある

客観テストは文章の記述が少ないということで、主義主張をみることができないという欠点がありますが、主義主張の採点は多分に採点者の主観が入りやすいという欠点もあります。
作品をどう評価するかということも、採点者の主観が入りやすいと言えます。

それで、基礎、基本に関するテストは客観テストを行い、主義主張、作品のテスト(評価)は合議制で行うことで総合的な評価をする場合があります。

マークシートによるテストは、客観テストを行うということで合理性があります。
マークシートと言っても、最近は文章の記述も同時に読み取る方式もありあますから、ただ選択するだけのテストがマークシートの試験ではありません。
(もちろん、文章の解釈を機械で行うことはできません)


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2014年08月16日

基礎、基本には客観性が必要

小中の学習の指針には、基礎・基本という言葉がよく出てきます。

私は楽器を演奏していますが、まともな先生なら、基礎・基本が違うことはないと思っています。
まともな先生というのは、先生自身が基礎・基本を正しく学んできたからです。
そして、なぜそうなのかという理由には物理的な裏付けがあります。

私も一応、指導者という立場がありますので、教えに行くことがありますが。
初心者を教えるとき、姿勢とか構えなど基本を単刀直入に言います。
なぜそうしなければいけないのかと言う理由を、いちいち言いませんが、質問されたり必要と感じた時は理由をきちんと言う必要があります。

学校においても、基礎・基本は先生が違っても同じはずです。
だから、権威的に「こうだ」と何の裏付けもなく児童、生徒に強制することがあってはならないと思います。

ひと通り単元が終わると、確認のためにテストを行いますが、基礎・基本は同じなのですから、先生により出題がに個性はあっていいと思いますが、帰結するところ、つまり答えは同じでなければなりません。

本日のまとめとして、私が言いたいことは、誰が教えても基礎・基本は同じであることから、基礎基本には客観性がなければならないと言うことです。
従って、テストも客観的であるべきです。

このようなことを言うのは、問題を感じた場面があったからで、具体的事例はまたの機会にします。


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2014年08月15日

年寄り臭いとは

時々、電話をかけてくる女性がいる。と言っても若い女性ではない。
特に用があるわけではなく「お茶でも?」という電話である。
この女性、歳を聞いても答えてくれない。
もっとも、女性に歳を聞くのは・・・・となっているので、私が失礼である。

この人の環境から推定すると、どうみても85歳は超えている。
時々、私と話をしたいというのは、私の理屈っぽい話がおもしろいらしい。
私は特に年寄り向けに話をしているつもりはない。

この女性、合唱、バレエに外国語まで勉強している。
一度、この人の頭のCTスキャン画像を見てみたいと思う。

このように、歳をとっているのに「年寄り臭さ」のない人がいると思えば、40代でも「この人老けちゃったな」と感じる人もいる。

駐車していた車に乗り込み、さあ出ようかと思っていた時、左に停めていた人がやってきて「こんな狭くちゃ乗れやへん」と怒った。
自分の方が後から止めたのを忘れたらしい。この人は70ぐらいだった。

年寄り臭いと感じる人の中には、直近のことを忘れる人が多い。
自分から約束を取り付けておいたのに、その日に確認の電話をすると「今日は忙しいんです」と言う。
誰でも、たまにはそういうことがあるかも知れない。
でも、この人は毎回と言えるほどだ。
それに、申し訳ないとは言わないので、完全に記憶からなくなっているらしい。

推論の能力に欠けている人も年寄り臭く感じる。
推論とは将棋で使う「読み」のようなものだ。
プロはずいぶん深くまで読むが、素人でも数手先ぐらいは読む。

だから「この場は飛車を取られても」という手を使うことがある。
さつまいもは収穫時に、一つの芋を掴んで引っ張ると、ズルズルと連結した芋が出てくる。
「年寄り臭い」はこの芋のような思考がない。

例えば、今日の話題である原発の話。
何が問題であるのかわかっていない。
原発の問題を討議するのなら、私の場合ならこのくらいのこと(電気が必要と原発が必要とは違いますね)を頭の中で整理しておいてから参加する。

年寄り臭いと感じる場面は他にもあるが、本日はうまく整理して書けたとは言えないので、今後はすぐメモしておくことにしよう。
体は歳とともに体力がなくなっていくが、脳年齢は体に比べ寿命ははるかに長く、150歳ぐらいと聞く。
そう言えば、日野原重明さんは医師として有名だが、本年103際の現役だと思う。

運動しないと体力が衰えるように、脳も使わないと退化するという。
だから歳とともに個人差が出るのだろう。


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2014年08月15日

地位や立場による責任

人はその人の地位や立場に応じて、責任というものがあります。

先生という立場は、生徒が信じる立場ですから、間違ったことを教えてはいけません。
もし間違ったことを教えて、生徒が試験に失敗したら責任があるわけです。
しかし、意外にその責任の重さを感じていない人もいるようです。

ある子ども音楽コンクールで、審査員の一人が演奏の批評をしました。
演奏は小学校の吹奏楽でしたが、演奏中にクラリネットが「キャー」というミスの音を出していました。
審査員はそのことを取り上げて「キャーというミス音が出るのは、口の締めが足りないから」と言っていました。

これは全くの間違いです。
クラリネットの専門家が、そんな指導をすることは考えられません。
むしろ、締めすぎるなと教えているぐらいです。

審査員は合唱こそ指導していた人ですが、自身はクラリネットの経験もないし、習ったこともないでしょう。
もしきちんとした先生に習ったら、そんなことを言うはずはないと思います。
もっとはっきり言えば、その審査員は知らないのに知ったかぶりをして、誤った知識で助言したのです。

では、なぜそんなことを言ったのでしょうか?
それは、その人の人柄がなせることのように思います。

その助言を聞いた子どもは、その後どうしたかはわかりませんが、もし信じたなら、審査員は罪なことをしたことになります。

「先生」と言っても「何でも先生」ではないのですから、先生の肩書き一つで何でも言えると思わないことが大切でしょう。
自己顕示欲の強い人にあっては、何でも先生になって、上から目線で得意になってモノをいいやすいのかも知れません。

間違いをまじめに聞いて失敗した結果が、ただではすまないこともあります。
アメリカは訴訟社会で、すぐ責任を追求されて賠償に及ぶこともありますが、日本もアメリカのように訴訟社会になりそうですから、先生という立場をよく考えて発言すべきです。

もっとも、あいつはおかしいと言うことで有名になっていると、始めから信用されないので、そういうおそれはないかも知れません。
むしろ「あいつ、今度はどういうおかしいことを言うかな」ということで、有名になって、ブログでも開設すればアクセスが増えるかもしれません。

現に、変人として2チャンネルでスレッドが立っている有名人もいます。

以前紹介しましたが「電線は細いほうが電流の流れが速い」と専門家気取りで説明している人がいましたが、彼はその理由(根拠)として、水道のホースも口をつまんで細くすると、水の勢いが強くなるからと言っていました。
とても物理をまともに学んだとは思えません。

学校の先生はよく「私は◯◯の専門」という言葉を使いますが、専門という言葉に酔うことなく、念には念を入れた方がいいと思います。
私は、経験談で、高校生に「先生の言うことは何でも正しいんですか?」と言われたことがあると言いました。
私は少しも腹は立ちませんでした。それどころか、おもしろい生徒だと思いました。

私も「先生」と言われますが、それに酔って上から目線にならないように気をつけています。
「先生の言うことは何でも正しいんですか?」と言った生徒は、私の態度がどこか傲慢に見えたのかも知れません。

そう言えば、今や世界の大指揮者、小澤征爾氏は実際お会いすると、とても気さくで、誰にでも上からモノを言うということのない人です。
素朴な疑問にも気安く答えていただける人で、尊敬できます。
機会があれば、小中学校の授業にゲストの先生として、来ていただけるといいのではないでしょうか?


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2014年08月14日

スパイスの効いた文章

スパイスと言えば、辛い、刺激的と思っていたんですが、そうばかりではないと知りました。
独特な香り、清涼感などを感じるものもあるようです。

文章もスパイスが程よく効いたと感じさせるようなものがあり、これは作者の人柄を感じさせます。
向田邦子の小説に、いわゆる上流階級を気取った婦人との会話の場面があります。

「あら、私はフランス料理が好きなので、うどんは食べませんの」

と言ったような話をします。
主人公が、話を終わって喫茶店を出ると、もう昼なんだと気がつきます。
そこで、通りの「うどん」と書いてある大衆食堂に入ると、先ほどの婦人とバッタリ会うという場面があります。

向田邦子は日常の庶民生活を、気取らず自然に表現する中で読者をニタッとさせるものがあります。
私はセンスがなくて、向田邦子のよさをうまく表現できませんが、自然な表現のうちにスパイスの効いた文が書けるといいなと思っています。

文章における辛口は批判と言えるようなものでしょう。
しかし批判と誹謗中傷は異なるものですが、
誹謗中傷
根拠のない悪口を言いふらして、他人を傷つけること。
コトバンク

批判
1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。コトバンク

悪く言うということでは、どちらも似ているが、誹謗中傷の場合は悪く言う根拠がないのである。

「車を運転すれば事故を起こす」は根拠を述べているのではない。
なぜなら、車を運転すれば「必ず」事故を起こすとは言えないからである。
根拠とは100%そういう結果になるということでなければならない。

誹謗中傷の目的は「悪く言って」相手にダメージを与えることが目的なので、根拠はどうでもいいのである。
だから「車を運転すると事故を起こすぞ」と言って、相手を不安にさせることが目的と言える。
(本心は、自分には車が買えないという嫉妬が見破られる)

それに対し、批判の場合は悪く言うと言っても「誤り」や「欠点」を指摘するので、指摘が正しい場合は、相手は納得するであろう。
そして「正すべきとして論じる」とは「どうすべきか」という改善をいうので、言われた方としては痛く感じてもためになるので、好感を持つのである。

何か先生に教わろうとして、批判を受けに行く人はいても、誹謗中傷を言われたくて行く人はいないだろう。

批判の「痛いがためになる」のは、辛いが美味しくなるというスパイスのようなもので、批判は文章のスパイスになると言えるだろう。

誹謗中傷の多い人は、心に傷があるのだろう。
それは生育歴の中にあったか、それともそれ以後の人生で深いショックを受ける体験をしたかも知れない。
でないとしたら、生まれつき持っている異常性かも知れない。

私の経験だが、同級生で高校まで同じように進学したのだが、大学受験で失敗してから人が変わってしまったような者がいる。
大学入試に失敗したことが、相当にショックだったらしい。
彼が、皮肉や悪口、つまり誹謗中傷を言うようになったのは、コンプレックスのせいだろう。

そう、誹謗中傷の多い人は、何かコンプレックスを持っているのだろう。

いずれにしても、誹謗中傷は文章のスパイスにならないだけでなく、読む人にとってみれば、散歩の途中で犬の糞を発見したようなもので、臭いにおいの環境を作っているようなものである。

だが、コンプレックスを誹謗中傷で表現するのでなく、傷の内面を正直に表現することで、共感を呼ぶ文章に変えることができる。
そういう文章は著名作家にもある。
例えば、太宰治の「人間失格」は幼少の頃からの自分を題材にし、正直に自分の弱さを書いているところが、共感を呼ぶ。
人間、誰でも弱さを持っているものであり、それを赤裸々に語っているところが人を惹きつけるのだろう。

スパイスを効かせて洒落た文を書くという方向もあるが、コンプレックスを犬の糞にするのではなく、それを題材にして心の内面を正直に語ることで、かえってインパクトのある文章にできるのである。

コンプレックスを犬の糞にするか、ダイヤにするかは書く人の意志次第である。


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2014年08月12日

いい文章とは

akubun.jpg教師は常にいい文章を目指さなければいけないと思う。
それでは、いい文章とはどんな文章だろう。

先日、コンサートに行った。
聴いているうちに、昔聞いた「あいつは汚い棒を振るよ」を思い出した。

指揮棒の振り方には基本がある。
その基本を守っていないのは論外だが、指揮は「一人一派」と言われるように、習った先生のように振る方がいいというわけではないし、先生も個人のスタイルについてどうのこうのは言わない。

演奏の音は、結局、指揮したような音になる。
だから、音楽フアンはいろいろな指揮者の演奏を聴きたがるわけである。

今回の演奏は、何とも重苦しくスカッとしない。
結局、指揮がそういう指揮なのだ。
指揮者の体臭も混じっているような気がした。

文章も、特に文法的に誤りがあるわけではないが、汚い印象、悪臭を感じる文章がある。
私はそういう文章を書かないようにと、努めているつもりであるが、人は「あなた汚いですねえ」とか「あなた臭いですよ」と言ってくれる人はいない。

歳を重ねるごとに、偉そうになるに連れ、人は言ってくれない。
自分で自分の臭いはわからないから、余計に始末が悪い。

人の家を訪問した時、部屋に入った途端、臭うことがある。
それで、私は部屋に消臭器を置くことにした。

会場で隣に酷い悪臭を出す人がいた。
それで、私は自分の口臭や体臭を気にするようになった。

文章も誤植のや文法の間違いはともかく、全体から与える印象が「汚い」では教育的にはよくないだろう。
学校の教師は文章を書くことが多い。
それに、触れているのは児童・生徒であり、影響を与えているわけである。

汚いのが、誤植や文法の問題ではなかったら、人格からくるものかもしれない。

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