2011年01月07日

塾だ学校だと言っている場合ではない

kyoiku_design.jpg
「塾講師が教育を語るって?」と題してブログを書いたら、何を勘違いしたしたのか、塾の批判をしていると受け取ったものがいるらしい。
もちろん塾講師全体をさして批判したわけでもない。
文章をきちんと読んで、正しく理解できたら、そんなことが書いてあると思えるわけがない。

「教育は誰が語ってもいい」と書き出し、続いて本論が書いてある。
勘違い氏が特別な部類の人ならまだいいが、もしこれが成人だったらと思うと、正直なところ将来が不安だ。
あのような文を正しく読み取る読解力がなくていいのかという不安だ。少なくとも、まさか、塾講師じゃないだろうな?という願望が残る。

教育を語ることは誰かの特権でない。
しかし、近所の八百屋のおばさんが教育を語りだしたら驚く。もちろん八百屋のおばさんが教育を語っていけないということはないし、むしろ、好ましいことでもある。
「八百屋のおばさんが教育を語るって?」という言い方は「意外性」を言っているのだ。
おばさんが「今の学校ってねえ・・・」と切り出したら心の中で「エッ」と思うかもしれない。
でも、私なら、どんなことを言い出すんだろうと思って興味深く聞く。
おばさんは学校に行っている孫の様子を見て、何かを言いたかったのかも知れない。
問題はその中身だ。

「私たちの頃は教育勅語というものがあってね、お父さんお母さんを大切にって習ったんだけど、今の学校は習わないんですか?」なんて言い出したら、説明しなければならない。もちろん戦後の教育制度のことだ。
「教育勅語を教えてくれなければ納得できない」とか「算数は買い物ができるようにするだけでいい」とか言い出して頑張られたら困る。

実際、あったことなのだけれど、農業をやっているある年寄りは学校を批判して「子どもは毎日農作業に出て、一日の作業を終えたら、その日の作業のことをを話し合う」それだけで教育は成り立つと言うのだ。
そして「先生が偉そうに子どもに何かを言うからいけない。何も言うな」と言うのだ。この人はこの言葉の一点張りで、一切外からの意見を聞くということはなかった。

八百屋のおばさんであれ、農業従事のおじいさんであれ、教育全体から見てバランスのとれた意見を言うなら納得できることであるし、教育従事者ではない外部の人からの意見がむしろ貴重な場合もあるだろう。

「塾講師が教育を語る」のも、何を語るのかということだ。
「教育というのはテストでより高い点をとることだ」と思っているのは明らかに間違いであるし、教育のすべてではない。
教育の目的がひたすらテストで高得点をとることであるなら、高得点が取れない者は不必要な人間なのか?
受験競争のテストは選別のためのテストである。300人受験すれば1番から300番までの順位がつく。
合格定員が100人なら101番から300番までの者は、スーパーに並べるリンゴの選別から漏れたものと同じなのか?

一体、教育とは何のために誰のためにするものなのか?
テスト至上主義ではないことぐらいはわかるだろう。

学校教育はその時代背景と社会環境を考え行うものだ。
高校授業料免除が開始されようとしている。次は高校全入制かも知れない。
受験がなくなれば、今の塾は対応をどうする?
学校の民営化が進んだら、今の学校の教師はどうする?

もし、自分たちの利益を守るためだけに反対運動を起こしたとしたら、本末転倒である。

今の日本の教育はすでに時代遅れの感があるし、学校の隙間を狙って利益を上げている塾は、教育改革が行われたら生き残れるかを考えておくべきである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村
posted by edlwiss at 22:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。