その報告書の中に「黒い毛がありました」とあったら、読んだ人はどう思うだろう?
もちろん、まだシマウマを知らない人が読んだらの話である。
(ここで、シマウマを知らない人はいないというような本論からはずれた反論はしないこと)
シマウマは全身が黒い毛の動物だと思ってしまうかも知れない。
「黒い毛がありました」というのは、確かに事実である。間違ってはいない。
それでは、事実だからよいということになるだろうか?
良いか悪いかということになれば「悪い」という判断になる。
なぜだろう?
それは、ご承知のようにシマウマには白い毛もある。
だから、黒い毛も白い毛もあると報告しなければ、報告者に全体像は伝わらない。
つまり「シマウマには黒い毛があった」というのは、事実こそ伝えているが真実を伝えていない。
報告書を読んだ人に、全体像が伝わらないのは、読む人に読解力がないということがなければ、報告者の能力の問題か、あえて相手に誤解を与えようと報告したのかのどちらかと考えられる。
最近は、マスコミの報道が意図的にある部分だけ報道し、別の部分をあえて報道しないことことで、事実は報道しているのだけれど、視聴者を誤解させるようにしているのではないかという批判をされることもある。真実を伝えていないという批判である。
雑誌に商品の評価を特集する場合がある。最近ではデジタルカメラの評価をよく見るが、本文とともに、この製品の「ここが○、ここが×」とわかりやすく表が載せてある場合もある。さらにレーダーチャートが載せてある場合もある。
これは「公平に評価しよう」との考えからだと察することができる。
もちろん評価者によって、違いは出るかも知れないが、それでもその評価者は「公平に見ていますよ」ということが大切なのである。
「公立学校の現状」と題して報告する場合も同じである。
真実を伝えるには「公立学校のここが○、ここが×」というように報告しなければ、真実は伝わらない。
それを、○の部分だけ、あるいは×の部分しか報告しないのであれば、報告者の能力不足かゴマスリか悪意をもって、公立学校の評価を低下させようと企てたものとと考えられる。
そういう不完全な報告書の批判をしたり、不完全な報告書を引用した場合、マナーがないと批判するのはお門違いというものである。
確かに許可を得ず勝手に引用するということは、著作権に違反するおそれがある。
しかし、その行為が「公共の利益に寄与する」ということであれば、裁判では引用者に有利になる可能性はある。
公立の学校が不当な評価を受け、市民に不安を与えることになれば社会のためにならないと考えられるからだ。
少なくとも、良い教育目指そうとするなら「報告者の能力不足かゴマスリか悪意をもって、公立学校の評価を低下させようと企てた」というものは、教師の資質に欠けると言えるだろう。
その尻馬に乗って、何か学校に不愉快な思い出があるのかも知れないが、そうだそうだとはやし立てるのもおめでたい。
学校と学習塾が対立するような構図は好ましくない。だから、評価をする場合○と×を公平に評価つけるのは塾の評価も同じである。
教師の不祥事はことさら、表だって報道される傾向があるようだが、これは教育公務員特別法があるように、学校の先生は特別に厳しいモラルが要求されるからであり、不祥事自体は人格の問題であり、それは塾でも一般の会社でも同じである。
また、報告の内容で、自ら現場を取材したり体験せずに、他人から聞いた伝聞により、あたかも事実であるかのように報告するのは報告の基本すらわかっていないと言える。
裁判の証拠としても、伝聞は採用されないということは、常識ある社会人なら知っていることである。

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