これを見て、私はがっかりした。
この男はただ商売ができればよいと思っているのか?
自分でiPadを使って授業をやってみたらよい。
まあ、最低一ヶ月ぐらいはやってみる必要があるだろう。
もっとも、iPadを教科書を使うことによるメリットもある。
だが、ものごとはメリットとデメリットを比べて採用を考えるべきである。
iPadを使うことで紙資源の節約にはなるだろう。編集から発行までの時間も短くなるだろう。
しかし、採用にあたって一番重要な点は何かを忘れてはいけない。
教育的なのかどうかということである。
教育的という言葉は曖昧である。その中身を一言で語ることは難しいが、子どもを育てる時、何を与えるかということはよく考えねばならない。
それは、与えたもので心が育っていくからだ。
近年母乳で育てることが大切だと気づき始めたのと同じである。
子どもにはただ必要な栄養分を含んだミルクを、与えればよいというものではない。
物理的に言ってしまえば、皮膚を通して伝わるという感覚は大切であり、赤ん坊が欲しがるのはただミルクだけではなく、母親に接触を求めているのである。
そこには安心感があるのだろう。また、母親としても愛情を注ぐという気持ちが伝わるのだと思う。
我々が生活していく中で、いろいろな道具を使うが、それはただ機能を満たせばよいというものでもない。
「木のぬくもり」とか言うが、私たちは自分が触れるもの、見えるものに木を求める。
車の内装にも木を使うことで安らぎを感じるわけである。
最近、人の心は鈍感になってきて、いや本当は内面には秘めているのだろうが、感覚や心というものを削いでいる感じがする。
話を元にもどして、子どもには紙の本を与えたいと思うのである。
紙の持つ人に与える印象。紙とのふれ合いは人にとって大切なものと思うのである。
私はスマートフォンもタブレットフォンも持っている。
それでも、手帳をスマートフォンに置き換えようとは思わない。
スマートフォンやタブレットフォンは便利に使っている。
だが、紙の手帳の方が優れているところもあり、電子端末では置き換えられない部分がある。
iPadのようなものを教師が持っていて、それを大型テレビとして情報提示に使うことはいいと思う。
音声や動画を直ちに再生できるということで、便利である。
社会科の時間にGoogle Earthを使って、世界中の国を探したり調べたりすることには役立つだろう。
愛情や質感、人間の感性を大切にするためにも、安易に教科書のiPad化はすべきではないと思うのである。

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